Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アッシリアの不思議


先先々週のブログ“ソロモンの黄金の謎”にひき続いて、先々週はソロモンの父ディビッド(ダビデ)に敵対したとヘブライ聖書で非難されたフィリスティンをご紹介するブログ“フィリスティンPhilistinesの不思議”を公開させて頂き、更に先週は、ディビッドもソロモンも、はたまたフィリスティン(パレスチナ)も、バビロンに幽閉された古代イスラエル人(古代ユダヤ人)が郷愁に駆られてヘブライ聖書の中ででっち上げた絵空事であって、フィリスティンは実はフェニキアンPhoenicianをモデルに造り上げられた民族である!という無神論者mhの無責任な理論を、ブログ“フェニキアンの不思議”でご紹介させて頂いたのはご承知の通りです。もう忘れてしまわれた方も多いと思いますが、今、先先々週や先々週や先週のブログを見直して頂いても、また忘れてしまうと思いますので、これらは気にせず、以下にお進みください。

で~フェニキアン(フェニキア人)ですが、現在のレバノンLebanonに点在していた都市国家を基点に地中海を自在に航行して交易し、地中海の島や沿岸に植民地都市を造りながら富を蓄えていきました。紀元前814年頃、現在のチュニジアTunisiaに造った交易都市国家カーセッジ(Carthageカルタゴ)は、地中海貿易における一大拠点になったのですが、共和制ローマとの第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)に敗れてローマの管理下に置かれ、町に暮らしていたフェニキアンは殺されるか、奴隷として他の場所に連れていかれ、以降、カーセッジはフェニキアンの都市ではなくなってしまったのです。

一方、レバノンにあったフェニキアンの都市はというと、カーセッジが繁栄し始めた紀元前9世紀から紀元前8世紀にかけ、メソポタミアに生まれていたアッシリアAssyriaの攻撃を受け、政治的な独立を失い、カーセッジよりも5世紀以上も前に衰退してしまっていたのです。

今回のブログでは、レバノンにあったフェニキアン諸都市を消滅させ、更にはメソポタミアMesopotamiaのバビロンBabylonをも葬り去ったという、日本人には馴染みが薄い戦闘国家アッシリアについて、エルサレム攻略を中心にYoutube フィルムでご紹介致しましょう。

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Ancient Warriors 古代の戦士たち
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どんな軍隊も彼らほど遠くまで出兵したことはない。彼らはペルシャ湾から地中海まで広がる帝国を打ち建てた。偉大な都市バビロンを略奪し、イスラエル民族を奴隷とした。エジプトのファラオさえも彼らに貢物(みつぎもの)を差し出した。
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彼らの軍隊はそれまでの歴史の中で最強だった。彼らの戦士たちは最も偉大だった。そして彼らの戦(いくさ)は最も無慈悲だった。
The Assyrians; Masters of War アッシリア人;戦の達人
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紀元前655年9月、アッシリア軍は南イラクの基地を出発した。
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攻撃目標はペルシャ湾岸の王国エラムElamだ。
(mh赤く塗られた地域がエラムです)
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エラム軍も彼らの都市を出て、敵と彼らを隔(へだ)てていた川を渡り、戦陣を張った。夜が明けると、何千もの馬や兵士を集めた嵐のようなアッシリアンが目に飛び込んで来た。
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アッシリアの馬戦車chariotが攻撃を仕掛け、戦いの火ぶたは切って落とされた。
その日の夕方、川は動物と人間の血で赤くなって流れていた。血はエラム人のものだった。勝利の戦いの最中、アッシリアンは力強く、そして冷淡だった。
“私は敵の喉元を羊(ひつじ)のように切り裂(さ)いた。私は糸を切るように、彼らの貴重な命を切り捨てた。嵐の中の洪水のように、私は川を敵の屍で満たした”
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“私の踊るように跳ねる馬は、血と汚物の流れに飛び込んでいった。私は平原を彼らの死体で草のように埋め尽くした”

犠牲者の中にはエラムの王がいた。
“エラム王トゥメンは助かろうと思って逃げ出し、傷ついた。王が載る台車の車軸が折れ、それが彼の体を押しつぶしたのだ。絶望の中で王は息子に言った。弓を使え!”
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トゥメンの息子は父を助けようとしたが駄目だった。王は捕えられ、斬首(ざんしゅ)された。彼の首は勝利のトロフィーとしてアッシリアの王の元に届けられた。
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彼は首を刀で切り裂き、唾(つば)を吐きかけると、勝利の祝宴の最中、誰の眼からも見えるよう、木に吊り下げた。
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トゥメンに従っていた者も同じだった。何人かは死体の骨を叩き潰され、他の者たちは生きたまま、皮を剥(は)がれた。
アッシリアの王が首都ニネバNinevehに戻ると、王の職人artisanたちは王の軍隊を、勝利を、永遠のものにした。
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王宮の部屋という部屋で、彼らは王の虐殺を褒(ほ)め称(たた)えた。針山の上では、無残に刺殺された男たちの眼は飛び出し、首は切り取られていた。他国から訪れる大使たちにとって、壁に描かれている絵が意味することは明確だった。
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偉大なアッシリアンの軍隊は貧しい地域から生まれ出た。神聖な都市アッシャーAshurを取り囲む小さな集合体だ。
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都市の名から彼らはアッシリアンと呼ばれるようになった。後年にイラク北部と呼ばれる、雨が多い地帯に位置していたアッシリアは、チグリス川の肥沃な河岸で、土地の恩恵を受けて拡大し、王国となっていった。
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しかし、これらの土地は余りに豊かに耕されていて、誰もが手に入れたい場所だったので、農夫たちは片手に耕作用の鋤(すき)を、もう一方の手には刀剣を持っていたと言い伝えられている。

紀元前1000年、長い間、他の王の家臣だったアッシリアンは、よそ者にこき使われることに飽き、神のお告げを受けたアッシリアの王は戦いを仕掛けた。
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“神々の父アッシャーは私に敵を殺害する力を授けてくれた。我々は人民を増やし、アッシリアの地の境界を拡大するのだ”

アッシリアは領土を拡大し始めた。しかし、季節の変わり目には、帝国は疲れ果てていた。収穫の秋になると兵士たちは彼らの耕作地に戻って来てきたが、徐々に反抗心が芽生えていた。
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紀元前745年、新たな王が就任し、歴史を変えた。ティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III)は突出した軍隊を持つことでアッシリアをこれまでで最強の国にすることを誓った。
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これまでの腕力に勢い付けられ、何千もの若者が兵士として登録された。王ティグラトは、武器や、彼ら兵士が戦闘に必要な全ての方法に関する手順書を作り上げた。
“基地を適切に整備し、馬や騾馬(らばmule)やチャリオットなどの戦用具や戦利品を管理すること!”
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鉄器は軍隊の要(かなめ)だった。各々の兵士には円錐状の鉄兜(てつかぶと)と、青銅片をつなぎ合わせた胸当てと、頑丈な皮の靴bootsが支給されていた。
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背の高い男は鉄製の鉾先(ほこさき)が付いた槍手として戦った。敵との接近戦になると、彼らは短剣を使った。ある兵士たちは射手(しゃしゅ)になり弓を射た。
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ある兵士たちは全く武器を持っていなかった。彼らの役目は、味方の戦士たちを守ることで、皮に青銅とか藤のような木が張られた長さ1.2mの楯(たて)を使い、射手を守った。
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新年を祝う祭りでは、王は兵士たちが臨戦態勢にあるか観閲(かんえつ)した。武具や武器を王から与えられていたアッシリアの戦士たちは、世界がそれまで見た中で、最も職業的な軍隊だった。
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十分な軍備を整えたアッシリアンだが、更に補強したがった。彼らが欲したのは戦車用の馬、武器用の鉄、攻城(こうじょう)兵器用の木材だ。戦で重要なこれらの道具を獲得するため、アッシリアンは、遠くまで出兵しては戦利品を持ち帰った。
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“黄金、銀、錫(すず)、銅、見事に織られたリネンの布、大小の猿、象牙、黒檀。私はこれらを貢物(みつぎもの)として彼らから受け取り、彼らは私の足元に跪(ひざまず)いた”
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どこで平和が維持され、どこでそれが破壊されているかを、王はニネバの王宮から知ることが出来た。通信使たちは狼煙台(のろしだい)をつないで合図を送って来たり、粘土板に記録した書簡で知らせて来たりした。
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紀元前701年、アッシリアの王センナケリブSennacheribは、問題が起きているとの連絡をユダヤ人の地域から受け取った。その地域の王が貢物を差し出すのを拒絶したというのだ。センナケリブは激怒した。彼は、ユダヤの何万倍もの強力な軍隊を派遣し、彼に忠誠な地方から援軍を集めて兵力を増加していった。
“地区の責任者と騎兵の馬を直ちに招集せよ。出陣に遅れた者は、その場で捕らえられるであろう”
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アッシリア軍が出兵する前には、祈祷師たちは牛や山羊を生贄として、兵士たちは勝利を願って祈りを、戦(いくさ)の女神イシュタルIshtarに捧げていた。
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(mh次の写真はネットで見つけた女神イシュタルです)
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“神々の中の最高の女神よ。戦の最中には兵士を奮い立たせよ。そして嵐に、悪魔の風に立ち向かわせよ”
ユダヤ遠征では、途中でアッシリア軍に立ち向かう敵はほとんどなく、快調に進軍を続けた。彼らは戦で捕虜にした敵兵に整備させた道を進んだので、平地なら1日当たり32Kmの距離を稼ぐことが出来た。
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王は馬に乗って騎兵や馬戦車と共に先頭を進み、歩兵はその後を進軍した。
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そして彼らの後方には物資を供給する荷車の長い列が続いていた。職人は荷車の上で武器を造り続けていた。川など、自然の障害物を乗り越える時、アッシリアンの創造性は新たな高みに到達していた。川では荷車は大きな船で運ばれ、馬はその後を泳いで渡った。
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兵士たちは、楯や武器を背中に縛り付け、動物の皮を空気で膨らました浮きに乗って渡河した。
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当時、農耕地を遠く離れて、このような大軍が遠征することは無かった。しかし、アッシリアの王は帝国中で穀物を育てていたので、彼の軍勢は食糧供給地から500Km離れた場所まで遠征することが出来たのだ。おかげでアッシリアの王は、権力を広く遠方まで及ぼすことができた。このような供給源がなければ、アッシリア軍にとって最重要だった馬の群れに餌を与えて活動的に保つことは不可能だった。馬は敵に最も恐れられていた馬戦車に不可欠だ。
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エジプト人のように、アッシリアンもバビロニアの不器用な4輪台車を改良した2輪の馬戦車を数珠繋(じゅずつな)ぎのように連続して突撃させて敵の最前線を破壊し、馬戦車から矢や槍を浴びせていた。そして、この混乱の中に、側面で待機していた騎兵が突入していった。逃げようとする敵兵は轢き殺され、残っていた敵兵は射手や槍手によって払い除(の)けられた。
しかし、アッシリアンは馬を射ることは避けた。
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馬は彼等にはとても重要だったので、王は指揮官たちに、主に北イランから馬を掴まえてくるように指示していたくらいだった。
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馬の供給数が増えてくると、アッシリアンは馬戦車と同じくらいに価値がある新しい武器を開発した。騎兵horsemanだ。当初の騎兵は、2頭の馬が引く2人乗りの馬戦車兵を簡素化した兵力のようなものだった。馬戦車では一人が楯を持ちながら馬を操作し、もう一人が弓や槍を使った。
しかし、騎兵は直ぐ、単独で活躍するようになった。素早く動く機動力を持ち、武器の威力も発揮できた。
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このようなアッシリア軍を迎え撃つユダヤ人の王ヘゼキアHezekiahは、戦いでのリスクを冒(おか)さなかった。彼は首都エルサレムJerusalemの城壁の内側に退却してしまったのだ。ユダヤ人の土地全てで、住民たちは町の城壁の中に逃げ込んでいた。町の狭い通りは両側に聳える厚さ6mもの壁の影で覆われていた。
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間違いなく訪れる籠城に耐えるため、ヘゼキア王は地下水路を掘ってエルサレムに水を引き込んでいた。

アッシリアンは、軍を派遣できない場所に恐怖を送り込んだ。
エルサレムでは、アッシリアの高級士官が城壁に歩み寄り、王や彼の士官たちに外交的な言語で話しかけるのではなく、壁の上の守備兵たちに彼らの母国語のヘブライ語で話しかけた。
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“私は今、城壁の上の人々に語り掛けている。あなたたちは、排泄物を食べ、尿を飲まなければならなくなるだろう。ヘゼキア王はあなたたちを助けることは出来ないだろうし、神の加護に頼るような説得もしないだろう。従って、アッシリアの皇帝はあなたがたに降伏するよう命令する”

彼が、この脅し文句を語りかけている最中にも、悲運はエルサレムの50Km南の町レイキッシュLachishで進行していた。
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エジプトとの交易路に造られたレイキッシュは豊かで、同時に強固な町だった。
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(丘の上の城塞はCGです)

急斜面の上に造られた高い城壁の後ろにいる守備兵たちは籠城作戦に自信を持っていた。同じように、攻略に自信を持っていたアッシリア軍は、自軍の、防衛塔もある楕円形の壁の後ろに集まって攻城装置を組立て始めた。
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攻城装置の中に隠れている木製の壁は、敵の壁を打ち破る突き棒を操作する兵士たちを守っている。兵士たちは突き棒を使って城壁の最も弱い部分を突き破るのだ。
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レイキッシュの弱点は城門だった。そこに接近するため、アッシリアンはまず、木材で覆われた土塁を築かなければならなかった。それを越えながら攻城装置はゆっくり前進していった。セナカリブ王は軍の体制を整えていた。投石兵は軍の後方に、そして背の高い楯で守られた射手をその後ろに配置した。攻撃の最前線には槍を持ち、壁に襲い掛かる兵士たちがいた。全軍は一体となって攻城装置の後ろで身を護(まも)りながら前進を始めた。攻城装置自体は火矢には脆(もろ)かったので、皮の布で保護されていた。巨大な柄杓(ひしゃく)を持った兵は敵地に届くと発火する火種(ひだね)を城壁の内側に向けて振り掛けていた。攻城装置の下では、工作兵たちが鉄や青銅の工具を使い、城壁を破壊し始めていた。
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装置の上では、他の兵士たちが城壁の上まで届く梯子(はしご)を取り付けていた。これほど完璧な攻城技術をもつ軍勢はどこにもなかった。このような猛攻撃に耐えることは不可能だった。

ついに、城壁に突撃の穴が開けられると女神イシュタルに守護されたアッシリア軍は攻め入った。
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“私の顔は緑にならない(?)。私の足は疲れない。私の強さは戦いでは失敗しない”
女神イシュタルは真実を語った。しかし、大虐殺は何も語ることはなかった。
謀反の首謀者たちは都市の外で杭(くい)に突き刺されて晒(さら)された。
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垂れ下がった彼らの死体は、対抗し続けているユダヤ人に対する警告だった。

セナカリブ王は兵士たちに短剣、弓、家具、ゴブレット(盃さかずき)を報奨として与えた。しかし、誰もが勝利に酔いしれたわけではない。レイキッシュの戦いでは、勝利の女神イシュタルに目をかけてもらえなかった1500人のアッシリアンが巨大な墓場に敵兵と共に埋葬された。
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一方、セナケリブ王は損失以上の収穫を上げ、それを数えていた。
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“20万の男女の大人や子供。そして馬、騾馬、駱駝、牛、に羊となると、その数は計り知れない”
他の戦いと同じように、ユダヤにおいても、アッシリアンは打ち負かした者たちの気力を完璧なまでに打ちのめしていた。数万人のユダヤ人を縛り上げ、アッシリアに連れて行った。
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ヘブライ聖書の記録によれば、紀元前721年には、シュメリアの3万の住民はこうして追放され、イスラエルの失われた民族になる。
“ユダヤのヘゼキア王は私に従わなかったので、彼の6つの強力な都市はその周辺の多数の小さな集落ともども、私が持ち運んでいった城壁を打ち破る突き棒と攻城装置を使って平らげた”
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ユダヤ征服の50年後、アッシリアの領土は最大に広がっていた。紀元前675年、アッシリア軍は1千6百Km以上を進軍し、エジプトを占領した。
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アッシリアはその歴史の中で栄光の頂点にあった。都市には商人、職人、芸術家、学者が溢れ、文明は最盛期を迎えていた。
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しかし、アッシリアンは手を広げ過ぎていた。帝国は今や中東全体に拡大していた。アッシリアンは帝国の住民を管理するのではなく、彼らを恐れさせていた。占領された人々の恨みは膨らんで、苦難の時を強いられていた。

紀元前612年、アッシリアの最も強力な敵軍たちは連携し、アッシリアの首都ニネバに向けて進軍し始めた。
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偉大な都市は挟み撃ちされ、1千年以上も続いた社会は崩壊し、帝国は消滅した。その上、アッシリアはもう一つの攻撃を受けることになった。国の犠牲者の一人だっただろう預言者ネイムによって書き残された碑文がある。
“あなたがたの崩壊の知らせを聞いた全ての人たちは、手を叩いて喜んだ。あなたたちの際限のない冷徹(れいてつ)な仕打ちを逃れたものは誰もいなかったのだから”
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The Assyrians Masters of War
https://www.youtube.com/watch?v=vpKxRJDmnQI
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2014年7月のブログ「メソポタミアの不思議」ではシュメリア人についてご紹介しました。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-57.html
近東、中東には、シュメール人Sumerian、フィリスティンPhilistines、フェニキア人Phoenician、アッシリア人Assyrianなど、いろいろな民族が次々と、時には時代も地域もオーバーラップしながら、出現しては消えていきました。が、人々が全く消え失せてしまうということはなく、当時の人骨に残る遺伝子と、現代人の血液中の遺伝子を調べると、その繋がりは判ると言われていて、現在のチェニスにも、カーセッジで暮らしていたフェニキア人の遺伝子を持つ人が若干ですが暮らしているというYoutubeも見ました。

で~今回ご紹介したアッシリアですが~
Wikiによれば次の通りです。
「アッシリア(Assyria)はメソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国(前2500年 – 前605年)。首都は、初期はアッシュールで、後にニネヴェに遷都した。南側にバビロニアと隣接する。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。アッシリアの偉業は、ペルシャ帝国に受け継がれてその属州となった」

最初の都アッシャーAssur/Ashurは、その後の都ニネバNineveh(現モスルMosul) の南100Kmのチグリス川西岸にありました。砂漠には遺跡が残っています。
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西の城壁の主門の跡
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チグリスを見下ろす大地に残るジグラット跡
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都ニネバNinevehについては「世界の七不思議1:バビロンの空中庭園」の中でご紹介していますので、ご関心が在りましたら次のURLでご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-63.html?

エルサレム攻撃といえば、紀元前597年頃、新バビロン王国のネブカドネザルは、エルサレムを陥落し、後にヘブライ聖書を作り上げることになるユダヤ人をエルサレムからバビロンに幽閉しました。
今回ご紹介したアッシリアの王センナケリブSennacheribは、紀元前701年頃、エルサレムと、その南のレイキッシュを包囲し、レイキッシュは陥落させたのですが、エルサレムは放置して国に戻ってしまったようです。陥落に至らなかった理由については記録が無く、判らないとWikiにありました。

アッシリア軍は、町を攻略すると、住民を奴隷として連れ帰っていますが、これは彼らの有名な捕囚政策の一環だといいます。Wiki;アッシリアに次の記事があります。
「アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年 - 紀元前727年)の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた」

つまり、メソポタミア北部のアッシリアには肥沃な土地があったが、これを耕す農夫や、耕地を守る兵士が不足していたので、よその国の住民を捕虜として連れ戻る“強制移住”が行われていたんです。
しかし、何故、そんなことまでして農地を耕さねばならないのか。自分たちが耕せる分だけ耕せば十分な食料は得られるのだからそれでいいではないか、ってmhなんかは思うんですが・・・

お釈迦様が仰るように因果応報で、捕虜を連れ戻って来たからには理由ってものがあるんですね。

開拓時代のアメリカは、アフリカ大陸から大勢の奴隷を連れてきて、北アメリカの南部や西部を中心に綿やトウモロコシの畑で家畜のように酷使していました。広い土地を持っている人たちが奴隷を使ってまでして自分たちの富を蓄えたのはアッシリアに限ったことじゃあなかったんです。
“人間の欲というものは古代も現代も変わらない”という真理を確認したところで終わりとさせて頂きましょう。
(完)

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mh徒然草:新しい銅像が出現!


(8月14日)
慰安婦像(少女像)に続いて、新しい銅像が韓国に現れました。

【徴用工像の設置、市民団体強行 韓国政府黙認との見方も】
韓国のソウルと仁川(インチョン)で12日、日本統治時代に朝鮮半島から労務動員された「徴用工」の像の除幕式があった。徴用工像の設置は初めて。歴史認識問題で日本に厳しい姿勢を示す文在寅(ムンジェイン)政権の登場もあり、韓国ではこうした動きが活発化。慰安婦問題を象徴する「少女像」に続き、日韓関係を緊張させそうだ。
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 12日午後、ソウル中心部の竜山駅前広場で市民団体が徴用工像の除幕式を開いた。韓国国土交通省は、国有地への設置は国有財産法に違反するとし、認めない立場だったが、市民団体側は強行した。同省は「法に沿った手続きを取る」とするが、市民団体との衝突を避けて政府が黙認するのではとの見方も出ている。
 同日夕には、日本の軍需工場が多数存在した仁川の富平公園内でも徴用工父娘像の除幕式があった。市民からの寄付金7500万ウォン(約715万円)で制作した。
 日本統治からの解放を祝う「光復節」の15日には、ソウルの日本大使館そばで市民団体が記者会見し、少女像の横に徴用工像を設置する立場を改めて強調する予定。10月には、済州島の日本総領事館前に徴用工像を設置する動きがある。
 日本は戦時中の労働力不足などを補うため、1939年に労務動員計画を閣議決定。39~45年に約70万人を朝鮮半島から動員したとされる。日本政府は65年の日韓国交正常化にあたり、植民地支配下での徴用や徴兵などの個人補償は韓国側に任せ、経済協力の形で「清算」に代えた。韓国政府は、徴用工問題については日本政府と同様「解決済み」との立場だ。
http://www.asahi.com/articles/ASK8D3GVJK8DUHBI00C.html

一昨日(8月11日)公開のmh徒然草で韓国の文大統領の告げ口外交はおかしい!と非難したばかりですが、また日韓の間に新たな問題が持ち込まれようとしています。

新聞記事にもあるように、日本は、慰安婦問題も徴用工問題も、政府間で決着しているという立場なんですが、私にはその補償金が回っていない!って不満を持っている韓国人が、韓国政府の後押しを受けて、銅像を造り、日本に補償せよと訴えているのか?それとも単に、日本を辱めようとはしゃぎたてる集団があるだけなのか?

恐らく両者だと思いますが、それを黙認している韓国政府には呆れてしまいました。責任を放棄していると言えるでしょう。問題があるのなら、きちんと日本政府に物申すか、問題は解決しているという立場なら、友好国日本を不必要に咎(とが)めないよう指導すべきだと思うんですが、なんの対応もしないんですね。むしろ、火に油を注ごうとしているようです。つまり、韓国政府は日本を友好国と考えていないということでしょう。

韓国は北朝鮮との友好を深めようと考えていて、重要な隣国のはずの中国や日本との友好は優先事項じゃあないんですねぇ。そんな片手落ちの外交が韓国のためになるとはとても思えません。結局、韓国は当面、三流国から脱することは出来ないんじゃあないかと思います。

このような屈折した国民性を持つことになった原因は何んだろうかと不思議に思います。日本が沈没するまで、日韓併合を忘れられないのなら、気の毒な国民だと思います。

このブログを作成している最中に仰天のニュースがありました!
【少女像、ソウル路線バスの座席に 市が設置認める】
ソウル市内を循環する151番バスの座席に14日、慰安婦問題を象徴する少女像のプラスチック製レプリカが設置された。朴元淳(パクウォンスン)市長も同日朝、バスに乗って視察した。14日は終日、日本大使館そばなどで慰安婦問題を巡る日韓両政府の姿勢を批判したり、徴用工問題で損害賠償を求めたりする記者会見や集会などが予定されている。
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詳細は次のURLでご確認下さい。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170814-00000017-asahi-int

見識ある韓国人は、恐らく、これらの反日対応に批判的だと思います。第三国の国民の大半は、異常でエキセントリックeccentricな行為だと思うでしょう。しかし、これらの異常行動を是正するどころか、むしろ加速しようというのが韓国政府の立場だとすれば、新しい韓国大統領府は、家計学園問題を起こした日本政府より、そして、暴言でアメリカばかりか日本やヨーロッパも混乱させているトランプ政権並みに無能だと言っても良いでしょう。

そのトバッチリを一番受けるのは、日本ではなく韓国民です。韓国民には同情いたしますが、トランプ大統領の影響を受けているアメリカ国民よりも若干はましだと思いますので、腐らずに耐え忍んでほしいと思います。日本国民も韓国やアメリカの国民に同情できる状況じゃあありませんが、この二国よりはましでしょうから、なんとなく、日本っていい国だなあって思えたりして、不思議な気分です。

Lesley Gore- "It's My Party" (Original Version- 1963)
https://www.youtube.com/watch?v=_PXIui8sa2U

(完)

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