Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

聖槍の不思議


前回のブログは「聖遺物の不思議」に変わってしまいましたが、今回こそ「聖槍(せいそう)の不思議」をお送りしましょう。

長いプロローグはもう飽きていると思いますから、今回は単刀直入に、まずは(?)Youtubeフィルム「The Legend Behind The Holy Spear聖槍の裏の伝説」をご紹介致します。
・・・・・・・・・・・・
今から2千年前、単純な武器が超自然的な力を持ち始め、多くの人がそれを所有したいと望んだ。
b1801.png
今日、それは3つ残っている。そのうちの一つは十字架の磔(はりつけ)で使われたのだろうか?
科学はついに答えを用意することができた。
「Legend of the Holy Spear聖槍の伝説」
b1802.png
聖槍の伝説はイエス・キリストの磔から始まる。聖書は我々に、彼の死は慈悲深い程に瞬間的だったと語っている。
b1803.png
それを確かめるため、ローマ兵士は槍(やり)を持ってイエスのそばにいた。槍の一突きはキリスト信仰における決定的瞬間だ。イエスの死の確定であり、彼の復活を可能にした。その槍は傑出したキリスト教の聖遺物になった。
b1804.png
イエスの死に続く数世紀の間、伝説的な噂話が流布され始めていた。コンスタンティン皇帝がローマ帝国にキリスト教を課した時、彼は聖槍を所有していたという。
b1805.png
シャレメインCharlemagne(カール大帝)は、聖槍を身辺に保持しながら、中世の混沌の中からヨーロッパの統一を初めて成し遂げた。
b1806.png
ナポレオンとヒトラーは世界を統治しようとして、聖槍の不可思議な力を切望していた。

今日、3つの聖槍が残されている。それらが複製品か、偽物かは知られていない。一つはアルメニアに、一つはバチカンに、残る一つはヴィエナVienna(ウイーン;オーストリア)にある。これらの一つがイエスの槍の可能性があるのだろうか?
b1807.png
英国教会Chirch of Englandの牧師ピーター・オーエン・ジョーンズは、ずっとそれを知りたいと考えていた。彼は、それらの槍がイエスの磔の時のものかを確認するため、それぞれの槍の歴史を探求する旅に出ようとしている。
b1808.png
ピーター「聖槍は、キリスト教の歴史だけではなく全ての歴史において、他の多くのキリスト教の聖遺物と同じように極めて重要な部分を占めている」
古代の金属や手工芸品の専門家ロバート・フェザーは、年代と出所を確定するため、それぞれの槍を科学的に評価したいと望んでいる。
b1809.png
ロバート「3つの槍について科学的、歴史的な観点で調べると、全てが、歴史的にはかなり初期のもので、イエスの時代に近いという特徴を強く示している。」

我々が最初に訊いた磔の槍はアルメニアARMENIAに現れた。
b1810.png
アルメニア人は聖槍を所有していると主張している。そこでピーターは、まずアルメニアから調査を始めることにした。
ピーター「これはエチミアジン(Echmiadzin)大聖堂で、アルメニアの使徒教会の中心であり魂だ
b1811.png
「そしてそこで、彼らは聖槍を保管している。何故この地に聖槍があるのかについては驚くべき物語がある。」

アルメニアの教会の話によれば、イエスの12使徒の一人が聖槍を持ってアルメニアにやって来た。
ピーター「磔の丁度2年後、使徒タディアスThaddeusがこの地に来た。彼は聖槍を持っていた。異教徒の祈祷師たちは彼の出現にとても驚かされ、彼の首を刎(は)ねてしまった」
殺される前、タディアスは数人の異教徒をキリスト教に改宗していた。彼らは聖槍を、恐らく秘密の洞穴の中で保管した。後に、その場所はゲイハードGeghard修道院になったという。ゲイハードはアルメニア語で槍を意味する。
b1812.png
聖槍は、2百年以上、隠され続けていた。しかし、グレゴリーという名の現地の男がアルメニアで福音を唱えながら異教徒の祈祷師たちに挑戦した。異教徒たちは力を持っていた。グレゴリーは投獄されてしまう。

ノアの箱舟が漂着したと言われるアララト山の陰(かげ)の中に、古代のアルメニアの修道院ホルヴィラップが佇(たたず)んでいる。
b1813.png
ピーターはグレゴリーの物語を追いかけて人里離れたこの寺院を訪れた。
b1814.png
ピーター「グレゴリーは拷問(ごうもん)され、蛇で一杯の穴に投げ込まれた。その穴がここにある。彼は、13年という長い年月、穴に閉じ込められていた。奇跡的にもグレゴリーは蛇で満ちた穴の中で13年を生き延びた」
伝説によれば彼はその後、聖槍を取り戻したという。

ピーター「聖槍を手にした彼は、異教徒の神々を打ち負かし、王たちや、王宮の全ての人々をキリスト教徒に改宗した。そして西暦301年、アルメニアは最初のキリスト教国になった」
b1815.png
そして聖槍はアルメニアの最初の教会Mother Churchのエチミアジン大聖堂の中心に保管されることになった。
エチミアジン大聖堂バロール神父「それは我々の教会にある最も神聖な品物の一つだ。」
この教会は7年に一度、聖槍を取り出しているのだが、ピーターは特別の拝観許可を得た。
b1816.png
この槍が今から2千年前、イエスの脇を突いたのだろうか?

ロバート・フェザーはアルメニアの槍のレプリカを造っていた。彼はそれをローマ時代の武器の専門家マーク・ハッサルに見せた。
マーク「それはイエスの脇を突いた槍じゃあありません」
ロバート「何故ですか?」
マーク「ローマの槍先じゃあないのです。ローマの槍先は全く違う形をしています」
b1817.png
アルメニアの教会は、その槍がローマの武器ではないことは認めたが、十字の穴があけれていて、当時、ユダヤ人の兵士が使っていたものだと言う。

ピーターが次に調べる聖槍はバチカンに保管されている。この槍は2つの決定的な敵イスラム教とキリスト教の間で平和裏に寄贈されたものだ。
バチカンの槍に関するピーターの調査は、ここコンスタンティノープル、現代のイスタンブール、の城壁のそばで始まる。磔から6百年後、エルサレムはペルシャに占領された。その時点で、バチカンの槍の話は2つに分かれている。
b1818.png
ピーター「エルサレムに槍があった当時、先端が折れてしまった。折れた経緯は不明だが、先端だけが東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに運ばれ、周辺を宝石で飾った十字架に取り付けられた」
b1819.png
「そして、ここで終わる。当時、キリスト教会だったアヤソフィアAyasofyaだ」
b1820.png
「その後(Wiki;80年後)、槍の他の部分も、ここで槍先と一緒になった」

槍の2つの部分はその後6百年間、コンスタンティノープルに残っていたが、フランス王ルイLouie9世が槍先だけ買い取った。彼は、このような重要な聖遺物が彼を神と直結し、名誉と権威を強化してくれると信じていた。槍先はパリで保管されていたが、フランス革命の間に消失した。槍の残りの部分は、15世紀にコンスタンティノープルがイスラム教徒によって陥落されるまで、町に留まっていた。
b1821.png
ピーター「西洋世界はキリスト教とイスラム教という、2つの巨大なブロックに分割され、キリストの槍もまた、先端部はキリスト教のパリ、残りの本体部はイスラム教のコンスタンティノープルに残されていた。そして1492年、イスラムのサルタン(皇帝)は、王位継承を狙う弟をイタリアで幽閉してくれることを交換条件に、神聖な槍の本体をローマ教皇に渡した」
b1822.png
それは2つの偉大な、対立する宗教の指導者たちの間で行われた信じられない取引とも言えるだろう。先端が欠け落ちている槍は聖ピーターの聖堂に収められ、目に触れることはほとんどなくなった。バチカンは、槍の真贋(しんがん)についていかなる主張もしていない。
b1823.png
ピーター聖堂ギセッペ神父「もしこの槍が本物なら、キリストの苦しみを理解する必要がある。神のご慈悲はキリストになされた悪行に対する仕返しを望まないだろう」

残念なことに、バチカンはこの槍を公開してくれないし、科学的な試験も許可してくれない。ロバート・フェザーが出来たのは、バチカンの槍として残されていた1900年代の始めに描かれたいくつかの絵を探し出すことだけだった。
b1824.png
彼はそれを武器専門家のマークに見せた。
マーク「この形なら本物の槍の可能性はある」

伝説によればアルメニアとバチカンの槍は、いずれも歴史的に大きな衝撃を与えた。しかし、ロバート・フェザーは磔との関係を見つけ出してはいない。
彼とピーターは、残るもう一つのヴィエナ(ウイーン)の槍を調べることにした。
b1825.png
この槍は信じられない程の評価を得ているのだ。そして詳細な検査の結果、驚くべき秘密が現れる。

ヴィエナのコンシストリセスKunsthistorisches博物館には、立ち入り禁止の財宝保管室がある。
b1826.png
そこがヴィエナの槍が保管されている場所だ。
b1827.png
槍は、ヨーロッパの最も素晴らしい宝石や聖遺物のいくつかを集めたものの中のひとつだ。そこがピーターが次に訪れる場所だ。彼はこの傑出した聖遺物が辿った数奇な旅を調べ上げたいと望んでいる。
ピーター「ヴィエナの槍の物語は、権力、栄光、そして欲望の歴史だ。その評判は驚くべきものだ。例え、この槍に関する伝説の一部だけが真実だとしても、人間の運命を形成する助けとなるはずだ(?)」
他の槍と異なり、この槍は教会の保有物ではない。
b1828.png
博物館は値段をつけようがない程に貴重な聖遺物を調べる機会をロバート・フェザーに与えてくれた。古代の金属に関わっている専門家にとって、これ以上の条件はなかった。そして、彼が発見する事実は、槍の物語を追跡するピーターを、時代を超えた驚くべき旅に送り出す。それは過去2千年を通して強力で恐ろしい人物を含んでいた。
b1829.png
ロバート・フェザーは数年前、既にヴィエナの槍の調査を始めていた。
ロバート「ヴィエナの槍の非破壊検査をしてくれないかという特別な依頼を受けました。槍が博物館から運ばれてくるのを待ちながら、私は徐々に興奮していました。圧倒的な歴史的意味を持つ聖遺物を調べる好機だったんですから。その検査で私が発見したことは、とても驚くべきものでした」
ロバートは槍に、いかなる傷や破損を与えることも許されていなかった。例えば炭素年代測定は計り知れない価値をもつ聖遺物を損傷する恐れがある。しかし、調べる方法は他に沢山ある。その調査で槍の秘密が明らかになるかも知れない。

彼は、寸法と重量の測定から始めた。
ロバート「ヴィエナの槍が一般的なローマ帝国の槍に適用されるパラメータの中にあるか、確認する必要があった」
b1830.png
次に、磁性を調べてみた。磁石は、槍が主に鉄で造られていることを示した。ロバートは更に古代の聖遺物の法医学的検査として“付着物”の採取を試みた。微量の生物的痕跡(mh血痕などです)でも人間のものかどうかを確定できる。
b1831.png
博物館が1970年に槍を洗浄していたので、残念ながら“付着物”は検出できなかった。しかし、洗浄のために槍を分解した時、博物館は一連の部品の写真を撮っていた。
b1832.png
写真は、槍が沢山の異なる部品から出来ていることを示していた。
b1833.png
更に写真は、外側の黄金の鞘(さや)の下に、文字が刻まれた銀の鞘が隠されていたことを示していた。
b1834.png
“ランチア・サンティ・マディチ・サントス・モレシウス”つまり“聖モリスの聖槍Holy Lance”だ。しかし、聖モリスとはどんな人物なのだろう?

湖畔の森林で、ピーターは聖モリスの伝説を掘り出した。それによれば、イエスの磔(はりつけ)の数年後、聖槍は初期のキリスト教徒に引き継がれていき、エジプトに到達していた。そこでモーリシャス又はモリスと呼ばれる、100人のローマ兵士からなる軍の師団長centurionの手に渡った。
b1835.png
彼はキリスト教徒で、キリスト教徒の兵士たちで構成される軍隊の司令官だった。伝承によれば西暦286年、彼は槍を持ってヨーロッパに行った。

ピーター「ローマ皇帝マクシミアンは現在のスイスにあるジュネーヴGeneva湖(mhレマン湖)近くのドールで発生した騒動を鎮めるようモリスと彼の軍団に命令した。しかし、彼がそこに到着した時には、暴力的な破壊に発展していた。モリスは虐殺された仲間のキリスト教徒を見て恐れおののいた。
b1836.png
皇帝マクシミアンは、目的を達成するため、異教徒を生贄にするよう命令したが、モリスと彼の部下たちは戦いへの参加を丁重に断った。
エディンバラ大学ティモシー教授「皇帝や帝国の成功のため、帝国の全ての住民は生贄にされるかもしれなかったが、キリスト教徒がその命令に従わないという事実は、間違いのない罪だった。」
ピーター「激怒した皇帝マクシミアンは軍勢の兵士全員を死刑にした」
b1837.png
「6千人以上が惨殺された。死刑に直面した中での、モリスの揺るぎない信念への献身は中世の騎士たちには騎士道の鑑(かがみ)になった。聖モリスは騎士や兵士の聖なる擁護者patronだった」
b1838.png
銀の鞘に文字を刻んだのが誰であろうと、聖モリスがその槍を携えていたと考えていたのは間違いない。この人物は誰なのだろう?そして何故、銀の鞘が追加されたのだろう?
b1839.png
写真を分析したロバート・フェザーはある部分で槍は2つに分解されていることを発見した。
ロバート「銀の鞘は槍が壊れた後、補強するために追加されている」
ロバートは、ある釘(くぎ)を取り付けようとして大きな穴を槍の刃の中に明けた時に壊れたのだろうと考えている。彼は、その不思議な釘をよく見るため、刃のX線写真を撮った。釘は、変わった形状をしている。何故、この釘が槍の刃の中に組み込まれていたのだろう?誰が、釘を組み込んだのだろう?これらの疑問に対する答えは歴史における最も重要な決断のひとつに繋がっていく。
b1840.png
ヴィエナの槍の伝説を追跡しながら、ピーターは歴史の重要な変換点の中にその答えを見つけた。
聖モリスと軍団が死刑にされた後、槍は世界の運命を形づくった男の手に渡っていた。ローマ皇帝コンスタンティンだ。
b1841.png
コンスタンティンが現れた時、ローマ帝国は政治的にも、宗教的にも、致命的に分割されていた。西の帝国はイタリアから、東の帝国はトルコから統治されていた。
ピーター「コンスタンティンは力強かった。その上、強い野心を持っていた。彼はローマ帝国を再び強国にしたいと望んでいた。そのためには一人の指導者の下で統一される必要がある。その指導者とは彼自身だ」

ピーター「伝説によれば、コンスタンティンの時代、帝国の統治者を決める決定的な戦いの前に、彼は啓示を見たと言う。炎につつまれた十字が太陽の上に出現し、その中の文字が“お前は占領しなければならない”と告げていた。コンスタンテインは自分が見た啓示に感動し、キリストの名の中の最初の2つの文字、XとP、を彼や彼の軍隊の楯に描いた」
b1842.png
ピーター「伝説は、戦いの最中、彼が聖槍を保持していたとも伝えている。コンスタンティンは戦いに勝利し、キリスト教を擁立(ようりつ)する」

ティモシー教授「彼は、キリスト教徒の皇帝となれば殺戮を続けられるとは考えていなかった。そこで、自分の洗礼を遅らせた。というのは当時、洗礼は、それまでに犯した罪を拭い去ってくれるものだと信じられていた。しかし、洗礼後の罪は対象外だ」
b1843.png
ピーター「コンスタンティンは彼の新しい宗教を、分割されていた帝国を統一する手段として見ていた。そこで彼は人類の運命を変える決定をする。キリスト教をローマ帝国の国教にしたのだ」
ピーター「伝説は、この決定をする時、彼は聖槍を持っていたという。この話は真実としては出来過ぎているかも知れない。しかし、もし、戦いに勝利を与えてくれた槍を彼が持っていたとするなら、この重要な決定の瞬間もそれを手にしていたはずだとも言える」
b1844.png
皇帝になると、コンスタンティンは新しいキリスト教徒の帝国の首都を建設した。コンスタンティノープルだ。
b1845.png
コンスタンティンよりも前にキリスト教徒に改宗していた彼の母ヘレンは、キリスト教の聖遺物を求めて、聖地に旅をした。彼女は、聖十字架と、本物の磔用の釘ではないかと彼女が考えた遺物を含む大きな成果を持ち帰った。そして、息子を守るため、その釘を息子の鎧(よろい)の中に取り付けた。
b1846.png
恐らく、彼女は、聖槍にも釘を取り付けたのだろう。

ロバート・フェザーは槍の顕微鏡写真を撮った。拡大してみる釘は更に興味深い。
b1847.png
ロバート「もしそれが釘でないとするなら、ピンと言えるものかもしれない。黄色い十字の印がついた3つの球根状の膨らみを持っている。これらは何を意味するのか?何故、そこにあるのか?誰がその印をつけたのか?」
そのヒントを探そうと、ロバートは、槍のその他の部分に注意を向けることにした。X線写真やその他の古い写真から、彼は、部品を組み立てるとどのようになるかを確認できるようなCGモデルを準備していた。
b1848.png
それは、新たな謎の存在を告げていた。槍の基の部分には二つの刃のように見える羽根が、後で取り付けたかのように組み込まれていた。ローマ時代のものには見えない。
b1849.png
ロバートは、ヴィエナの槍のX線写真をマーク・ハッセルに見せた。
ロバート「このX線写真を見ると、槍の基の部分は槍の中心の形から遠く離れている。だから、この部分を取り外すと・・・」
マーク「元々の品物はローマの槍のように見える。しかし、小さな連結棒crosspieceのようなものがあって、その部分はローマの槍のようではなく、暗黒時代のパレスチナのものかもしれない。」
b1850.png
ロバート「羽根のような2つの刃は、恐らく、短剣の部品で、7~8世紀に追加されたものだ」
槍の様々な部品は中世に追加されたように見える。槍の全ての部分がその当時に造られたのだろうか?マークは槍の頭部はローマ時代のものかもしれないと考えている。キリストの時代のものであるかも知れない。ロバート・フェザーは磔刑との直接的な関連を発見するだろうか?
b1851.png
ヴィエナの槍の物語を再追跡しながら、ピーター・オーウェン・ジョーンズ牧師は、中世に槍が人々の生活を形づくる上で中心的な働きをしていたことを発見する。

西暦476年、ヨーロッパにおけるローマ帝国は崩壊し、ゲルマン民族のものになった。これが中世middle agesの始まりだ。帝国の秩序は混沌と暴力に置き換えられた。そして、恐怖と不確実のこの時期、ヴィエナの槍の多くの部品が追加されたと考えられている。聖槍に関する話は、2百年の間、どこにも現れていなかったが、チャールズ大王(Charles the Greatカール大帝;742~814年)またはシャラメイネ(Charlemagne)と呼ばれるドイツの強力な王とともに世に出現する。
b1852.png
ピータ「シャラメイネは敬虔なキリスト教徒だった。彼は古代ローマの栄光の力を吹き込まれていた。伝説によれば、絶えず紛争を起こしていた近代ヨーロッパの12の国々を統一する際、彼は聖槍を手中にしていた。そして西暦800年、教皇Popeはこの王を広大な領土の皇帝と認め、領土は“神聖ローマ帝国Holy Roman Empire”になった」
b1853.png
シャラメイネは恐らくヨーロッパで最も権力を持つ男だった。彼が、妙な形の翼のような部品を黄金の槍に追加したのだろうか?
b1854.png
それを調べようと、ピーターは槍を追って神聖ローマ帝国の中心ニューレンバーグNuremberg(mhドイツの町)を訪れた。
ピーター「これがニューレンバーグ城だ」
b1855.png
「西暦1500年まで、神聖ローマ帝国の皇帝の居城だった。シャラメイネの時代に書き残された槍に関する記録によれば、コンスタンティンが槍を所有していた可能性は高い。クレモナのループラウドと呼ばれる大僧正が10世紀に書き記した物によれば、シャラメイネの槍は、かつてコンスタンティンが所有していたものだという。恐らくシャラメイネはコンスタンティンが神聖な、強力な力を秘めているこの槍を持っていたという話を聞き知っていて、彼もまた、分散されていたローマ帝国をキリスト教という一つの宗教の下に統一することになったのだ。聖槍を手にしていた彼は、コンスタンティンと同じ仕事を成し遂げようと考えていたのだろう」
b1856.png
キャロライン博士「槍は統治者を支援する神のまたはキリストの印として、それを所有していることでキリストの体に触れているかのような気分を与えるだけでなく、統治の神聖な権利、占領の神聖な権利を与えていたの」
b1857.png
恐らく、この理由から銀の鞘(さや)の説明書きが追加されることになったのだろう。それは、この槍が聖槍であると強調している。ロバート・フェザーは誰が追加したのかを知ろうとして銀の鞘を検査し直している。
b1858.png
ロバート「“クラレス・ドミニカス・アリーカス・ディ・グラシアタシアス・ロマノ・インプラト・オーガスタス;神の守護を受けた第三のローマの皇帝ヘンリーは、神の釘とサンマリノの槍を補強するため、この銀の帯を作るよう命じた”」

ヘンリー三世はシャロメイネの子孫だ。彼は1046年、神聖ローマ帝国の皇帝に就いた。このことが銀の鞘の年代を調べていたロバートを助けてくれることになった。
b1859.png
ロバート「銀の鞘は11世紀のものだ。」

ロバートがヴィエナの槍が磔刑との関連を持っていると信じ始めていた時、中世の別の伝説が、ヨーロッパから遠く離れた場所で影響力を持っていたことを示していた。
b1860.png
それは1097年のことで、最初の十字軍の時期だった。ヨーロッパの、およそ7万人の男女が、聖地をイスラムの占領から解放しようとの呼びかけに応えた。エルサレムに向かう途中、彼らはアンティオーク(mhシリアの町)を包囲した。
b1861.png
ピーター「アンティオークの町はオロンテス川の肥沃な谷にあり、高い丘や城壁で囲まれていた。町は8ヶ月という長期間、包囲に持ちこたえたが、ついに打ち負かされ、十字軍が町を占領した」
城壁内に討ち入ると直ぐ、トルコの大軍勢が到着し、十字軍がいる町を取り囲んだ。事態は急遽、絶望的になった。十字軍は食糧や水に欠乏し、死人が出始めた。その時、ピーター・バーソロメイ(Wiki;ペトルス・バルトロメオ)と言う名の貧しい農夫があるお告げを見た」
聖アンドレイ(アンデレ;十二使徒の一人)が彼の元に現れ、キリストの槍が、アンティオークの聖堂の中にあると告げたという。その聖堂はもう存在していない。しかし、町の上の、山を彫って造られた古代の聖ピーター礼拝堂は今も残っている。
b1862.png
ピーター「十字軍は、憑りつかれた様に必死になって聖堂の床を掘り始めた。そして彼らは、またはピーター・バーソロメイは、それを見つけ出した。神からの伝言に違いない!もう、飢えることはないし、降伏することもない。戦うのだ!」
b1863.png
「十字軍は包囲されていた町から打って出て、数の劣勢にも関わらず、奇跡的にトルコの大軍を打ち破った」
槍に護られた十字軍はアンティオークを発ってエルサレムを目指した。しかし、その後、話は途絶え、槍がどうなってしまったのかは判っていない。

ヴィエナの槍に話を戻すと、槍がどうなったのかに関する次の手掛かりが銀の鞘を覆っている黄金の鞘の中から現れた。この鞘にもラテン語の説明文がある。
b1864.png
“ランチア・アト・クラボス・ドミニ;神の槍と釘”
誰が書いたのだろう?そして何故?

ニューレンバーグ城でピーターは、聖槍の次の検証可能な所有者が、14世紀の強力な統治者だったことを発見していた。
ピーター「1300年代の中頃、チャールズ4世がドイツの王だった。彼は次の神聖ローマ帝国の皇帝になりたいと望んでいた。彼は、力と信託を彼に授(さず)けてくれる何か重要な聖遺物を必要としていた。そこで彼は聖槍を手に入れた」
聖遺物などを保管しておくため、チャールズはチェコのプラハPragueの郊外に難攻不落の砦を建てた。カールシュタイン城と呼ばれている。
b1865.png
城壁の内側に、彼は値のつけようがない芸術品と貴重な石で飾られた美しい礼拝堂を建てた。キリストの槍や、その他の聖遺物は祭壇の後ろの秘密の部屋に保管された。
b1866.png
ピーター「彼は、そのことによって、天国にいる全ての聖人と直接的な繋がりが与えられると信じていた。聖人たちは最後の審判の日に地上に戻って自分たちの聖遺物を返してほしいと要求し、それらを大切にしてくれた人物に好意的であるはずだ」
銀の鞘の上に黄金の鞘を被せたのはチャールズだと信じられている。恐らく、聖人たちに良い印象を与えるためだ。
ロバート「黄金の鞘は間違いなく14世紀のものだ」
b1867.png
いずれの鞘も神の釘について述べている。磔刑で使われた釘なのだろうか?
b1868.png
ピーター牧師は力強い統治者の間で次々に引き継がれてきたヴィエナの槍を数世紀に渡って追跡してきた。彼は、これから、優雅からの恐ろしい転落を追跡することになる。

それは1400年の始めだった。チャールズ四世の一人の子孫が資金が必要となり、聖槍をニューレンバーグ市庁に売却した。当時、力強い聖遺物は中世の、最も高い利益を得られる取引での重要な呼び物になっていた。聖遺物商売だ。
b1869.png
バーミンガム大学サイモン博士「15世紀における聖遺物の最大の利用価値は、布施、特にお金の布施を集めることだった」
ピーター「都市の中心部に、特別にテンプル礼拝堂が造られ、貴人や聖職者たちは、厳粛な様子で自分たちの役柄を演じながら聖遺物を展示した。洗礼者ジョンの歯や、キリストが生まれた馬小屋の桶(おけ)の木材の破片もあった。中でも価値があったのは聖槍だった」
b1870.png
「教会は信仰を利用して多額の利益を得た。その後に起きたことは判るだろう。人々は悪用されることに飽き飽きし、変革の動きが加速するとニューレンバーグの資産は傾き始めた」
槍は凝った造りの銀の箱の中に仕舞われ、その後4百年間、人々から忘れ去られていた。
(mh天井から吊り下げられている箱です)
b1871.png
ロバート・フェザーは、槍の本体に取り付けられている不思議なピンに関して手掛かりとなるものを探していた。彼は槍にX線蛍光銃を当て、金属の組成を分析しようとしている。X線蛍光では鉄の年代を正確に判断することは出来ない。
b1872.png
従ってマーク・ハッセルに槍の先頭部に関する意見を求めなければならなかった。彼によれば、それは恐らく1世紀から4世紀の間のローマ帝国の槍だという。

しかし、ピンは興味深い結果を与えてくれるのだ。
b1873.png

その時、ピーターは聖槍の謎を追って、18世紀の混沌の時代まで来ていた。当時、別の征服者が権力と栄光を手にしたいと望んでいた。
ピーター「1796年、ナポレオン軍はヨーロッパ中で暴れ回っていた。彼がニューレンバーグの近くまでやって来た時、支庁の面々は恐れていた。もし彼が聖槍を手にしたら、彼は無敵になるだろう。槍は、それを持つ者に世界を支配させるだろうといいう闇に隠された約束を秘めていた。そしてもし、この約束を信じるのなら、もっと重要かも知れないことは、別の人々にも、それを信じさせることが出来るかも知れないということだった。それは信じられない程に強い力を与えてくれるに違いない」
b1874.png
ナポレオンを恐れていたニューレンバーグ市庁は槍をヴィエナに隠すことを決めた。ヴィエナの人々は平和が戻れば直ぐ槍を返すと約束した。
b1875.png
ピーター「10年後、ナポレオンはドイツを含むヨーロッパの大半を征服した。これにより、彼は1千年続いた神聖ローマ帝国に終止符を打つことになった。その後に続く混沌と混乱の中で、槍はヴィエナに残されたままになっている」

ロバート・フェザーは強力な拡大顕微鏡を使ってピンの丸み部を調べている。彼は奇妙なことを発見した。丸み部とピン本体との間に“繋ぎ目”があるように見える。
b1876.png
ロバート「高倍率で見ると、丸み部はピン本体から切り離されているようだ。2つの別々の金属が使われているのだ。XRF分析やX線写真からもそれは明らかだ。膨らみは、ある段階で付け足されたのだ。それがいつ頃かを確かめるのは簡単ではない」
ロバートは決定的な試験を試みた。1世紀に作られたローマの釘の金属成分を測定してみた。
b1877.png
それは丸み部の成分と一致するのか?もしそうなら、ヴィエナの槍は磔刑で使われた釘の欠片(かけら)が含まれていることになる。恐らくヘレンがコンスタンティン皇帝のために聖地から持ち帰った釘だ。

一方、ピーターの旅は彼を聖槍の歴史の中で、最も暗い、そして最も最近の章に導いていた。
ナポレオン以来100年以上の間、槍はヴィエナに残されていた。
b1878.png
1933年、アドルフ・ヒトラーが権力を握ると、5年後、彼はオーストリアを併合した。
b1879.png
それはナチス帝国という彼の夢を実現する第一歩だった。Third Reich第三帝国だ!
(mh:Third Reichサード・ライヒ(第三帝国)とは、第一のライヒ(国)の神聖ローマ帝国と、第二のライヒのドイツ帝国(プロイセン王国:1871~1918年)の正統性を受け継ぐ「第三のライヒ(第三帝国)」つまりナチス帝国を指す言葉です」

ヒトラーは、帝国の栄光の過去の宝石や聖遺物を略奪するのに時間を浪費しなかった。キリストの槍は歴史の中で最も悪名高い独裁者の一人の手に落ちることになった。
ピーター「皮肉にもニューレンバーグはナチスの魂の生まれた場所だ。ここがヒトラーが槍を持ち込んだ場所だ」
b1880.png
運命の奇妙な捩じれの中で、ヒトラーは聖槍をニューレンバーグに戻すことになった。そこはかつて4百年間、槍が保管されていた場所だ。

ヒトラーのナチス帝国の夢は短かった。1945年の4月にはロシア軍がベルリンを掌握していた。
ピーター「ドイツが敗れると、ナチスがヨーロッパ中から略奪した価値が高い手工芸品や聖遺物を取り戻そうと、アメリカが動き出した。そして聖槍はここで見つかっている」
b1881.png
アメリカは槍をヴィエナに返却し、今日、ホフブルク宮殿Hofburg Palaceに保管されている。

ロバート・フェザーが1世紀の釘で行ったX線蛍光試験の結果は興味深いものだった。コバルトCoも含んでいた。丸み部の鉄と同じだ!
b1882.png
(mh3つの材料の結果が表になっています。最初のものは鉄ピンIRON PIN本体でCoは-(検出できず)、2番目はROUNDEL丸み部でCoは++(検出)、一番下は1世紀の釘でCoは++です)

このことは、ピン本体にハンマーで叩いて追加されたと思われる丸み部は、1世紀のローマの釘からきたものだと言っているのではないのだろうか?

ヴィエナの槍に取り付けられていたピンの詳細な分析を完了したので、ロバート・フェザーは彼が見つけた驚くべき秘密を明らかにする段階になった。何世紀もの間、裸眼から隠されていた秘密だ。ロバートは槍が磔刑と関係している証拠を見つけたのだろうか?
ロバート「とても驚くべきことに、ここにある何かは、本当に素晴らしいものだ。丸み部の上に魚の形が描かれている。自然に出来た単なる傷ではなく、明らかに意図的に描かれたものだ」
b1883.png
ピーター「魚は秘密の印だ。ローマ帝国が国教としてキリスト教を受け入れる前、キリスト教徒に使われていた秘密の印だ。」
b1884.png
「彼らが印を使ったのはコンスタンティン以前で、当時は彼らに生命の危険があったからだ。キリスト教徒は拷問に晒(さら)されたり、殺されたりする恐れがあった」

この秘密の印の重要性を強調するかのように、魚の隣に2つの奇妙な文字らしきものがあるのをロバートは見つけた。
ロバート「魚の後に彫られているのは、2つのローマ字でI(アイ)とR(アール)だ。」
b1885.png
(mhペン先にI、その右にRらしき文字のようなものが・・・)

「二重外線double outlineを使った文字で歴史上、ローマの書物の中の極めて初期の書式の中で見受けられるものだ。何を意味するのかは憶測でしかないが、“アイエイソス・ラックス”つまり“王イエスJesus the King”から来ているのではないかと私は考える。十字架の上にはINRIという4文字が彫られている」
b1886.png
「アイエイソス・ナゾリーナス・レックス・イウデイオーム、つまり“Jesus of Nazareth King of the Jewsナザレのイエス;ユダヤ人の王”だ。IRはこの短縮形としてしばしば使われていた」

小さな魚と文字は顕微鏡を通してのみ確認することが出来る。キリストの時代、こんなに小さなものを彫ることが出来たのだろうか?
b1887.png
ロンドンのピートゥリー博物館は古代エジプトと重要な関係がある手工芸品を保管している。その中に驚くべきミニチュア絵がある。
b1888.png
ロバート「女神ネブカで、ファラオの守護神だった。私が言いたい事は、虫眼鏡を使うだけでは、見るのは簡単ではない絵だと言うことだ。そしてこれはローマ時代のレンズだ。淡い白色をしているが、造られた当時は透明だった。丸くて虫メガネとして使われていたはずだ。これらはいずれも2千年前のものだ。つまり、当時でも微視的なレベルで見て彫る技術はあったのだ」
b1889.png
これらの発見はロバートを魅惑的な可能性に導いた。
ロバート「誰かが苦労しながら十字架の印をピンの中に埋め込んだ。明らかに何か価値のあることを記(しる)すつもりだったのだ。キリストの磔刑で使われた釘の欠片(かけら)が使われたかどうかは、微かな可能性でしかないが、排除できない可能性だ」
b1890.png
この発見で、ヴィエナの槍に関するロバートの調査はかなり磔刑に近づいたと言えるだろう。キリスト教徒にとって重大な、意味のある成果だ。
b1891.png
ピーター「我々にとって、この仕事の重要な価値は、それが信仰の試金石だということだ。信じるとは何かという知性へ我々を導いてくれる。信念のシステムがどんなに力強いものだったのかを我々に見せてくれる(mh????)」
b1892.png
聖槍は歴史の一部であり、伝説の一部だ。しかし、キリスト教徒は現在、世界のどこにでもいる。彼らは信仰の力強い一部であり、従って、その価値は測ることが出来ない。
b1893.png
The Legend Behind The Holy Spear
https://www.youtube.com/watch?v=R8uPzpNB8hk
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フィルムで紹介された、現存する3つの槍と、アンティオーク(アンティオキア)の礼拝堂で見つかったという槍についてはWiki「聖槍」に解り易く記されていましたので、活用させて頂きましたが、フィルムと全く同じ内容でした。

バチカンに所蔵されている先端が欠けた槍が真の聖槍でないという科学的法医学的(?)根拠はありません。

ヴィエナ(ウイーン)の槍ですが・・・
オーストリアの首都ウィーンは、ドイツ語Wien〈ヴィーン〉、バイエルン・オーストリア語Wean〈ヴェアン〉、フランス語Vienne〈ヴィエンヌ〉、英語Vienna〈ヴィエナ〉なんですね。ややっこしいです!

で~ヴィエナの槍は・・・聖槍なのか?
問題は、組み込まれていた釘ですが・・・
丸み部は1世紀の鉄の可能性があるといってます。ってことは、残りの部分はそうではないってことだと思われます。
で~Wiki聖釘を調べてみると、mhも家族とともに訪れたことがある、イタリアの都市シエーナSienaのサンタ・マリア・デラ・スカラSanta Maria della Scalaに保管されているようですね。
b1894.png
で~その釘ですが~ガラス瓶に仕舞われています。.断面が正方形の“紡錘形”で、いかにも古代の釘という感じです。
b1895.png
フィルムの比較試験で登場した1世紀の釘も、いかにも釘の形をしていましたが、ヴィエナの槍の釘は、洗練されたデザインのピンのようで、どうみたって釘とは思えません。で~途中の丸み部だけが1世紀の鉄のようだって言っているんですが・・・苦しい口実に思えます。聖釘の一部だけを切り取って丸み部を造る合理的な理由は思い付きません!

つまり、バチカンの槍もヴィエナの槍も、造られた年代がキリスト時代のものではないと断言する証拠がないと言っているだけで、キリスト時代のものだと言っているわけではありません。更には、キリスト時代、沢山の釘、沢山の槍、があったでしょうから、聖釘だ!聖槍だ!という証拠が無ければ、1世紀の釘や槍だと思えても聖釘や聖槍であるとは言えないだろうというのがmhの鑑定です。

ま、Youtubeフィルムの製作者も、本物の聖槍だなんて信じていないけれども、楽しい話題を提供しようという善意から物語を創造しただけでしょうから、mhのようないい年配者が、口角に泡を飛ばして非難するっていうのは、いかがなものかとご批判を受けそうですから、聖槍の不思議は、この辺で大団円とさせて頂きましょう。

(完)

スポンサーサイト

PageTop

mh徒然草:豊洲に早期移転しない愚


今日は6月7日です。

築地移転をどうするか、今でも結論に至る見通しはありません。豊洲を売り払う、築地に高層マンションを建てて売却利益で費用補填(ほてん)する等々、代替案は雨後の筍(たけのこ)のように出て、焦点は発散しています。東京都議選は告示6月23日、投開票7月2日ですが、告示前に小池都知事が移転に対する決断をしない場合は、小池氏が責任者の“都民ファーストの会”の躍進は望みが薄いという見方がありますが、しかし決断しないだろうとの見方も提示されています。どんな結論を出そうとも、“都民ファーストの会”や小池氏に対する風当たりが強く、選挙に不利に働くというのです。

この見方は当たっていると思います。小池氏は選挙結果が出る前に築地問題の決断をすることはありません。決断の遅れによる都民や築地関係者の被害などは選挙や自分の面子(めんつ)に比べれば重要じゃあないんです。都民ファーストというお題目は空しく響くばかりです。

ところで、菅官房長官ですが・・・
家計学園問題で、安倍内閣を守るため、なりふり構わず、文科省の内部資料調査を無視、妨害、放棄しています。“内閣トップの意向が働いた”資料が存在する、との前川前事務次官の指摘は正しいだろうと国民の半数以上が思っているのに、これを無視し続けるのは、不都合な資料が存在していて、それが公になれば、安倍首相や自分に大きな被害が及び、この被害と比べれば、調査を拒否し続けて国民に非難される被害の方がずっと小さいと踏んでいるからです。
官房長官のその読みは正しいでしょう。しかし、文科省の役人は、前川氏に言わせれば“あるものを無いとは言えない”という心からの叫びを政府によって封印されているんですから、政府に対する恨みは募るばかりで、一生、忘れないはずです。それを知ってか知らでか、政府は態度を改めません。落ちる所まで落ちた政府は、韓国の朴大統領と同じように、弾劾裁判に値するでしょう。国のトップが私的な目的で国税を使って白を切り続けるとは何をかいわんや。

そんな菅官房長官ですが、つい数日前に小池氏を批判した“決められない都知事”という指摘は正しいと思います。小池都知事は築地の移転問題を自分で決められないんです。オリンピックの費用分担もそうでしたが。

(補足:決められないのは自民党も同じですね。たばこの受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案の今国会への提出は見送られたようです。喫煙者の権利を侵害するとか、飲食店の売り上げが悪化するという理由のようですが、本心は、次の国会議員選挙で不利になると思っているからです。地球温暖化は嘘だ、とトランプ氏は主張してパリ協定の脱退を決めましたが、日本の麻生副総理も、喫煙が健康に悪いというのは嘘だと主張していました。きっと、同じ人種じゃあないかと思いますが、二人を比べれば、麻生氏の方がずっとましだと弁護しておきましょう。で、受動喫煙対策ですが、今度の都議選では小池氏が率いる“都民ファーストの会”は対策推進をマニフェストに加えると思います。日本の対応は遅れ過ぎています。喫煙が健康に悪いのは周知の事実で、都民の多くは賛同すると思います。都議選に立候補する自民党候補も推進に賛同するでしょう。そうしないと選挙に不利ですからね。でも、自民党の国会議員は都議選など、どっちでもいいんです。考えるのは自分のことで国民のことじゃあありません。)

で~小池都知事が築地移転問題を決断できない理由ですが~

豊洲移転を決断すべきだったのに自らの間違いで時期を逸したと思っているからでしょう。でなければ、どうしていいか判らないからですね。そして、それを認めたくないからです。

専門家委員会などが、築地問題の解決案をいくつも提示していますが、そのいずれも、豊洲への早期移転案に優るとはmhには思えません。豊洲早期移転案は、都知事が決断し、築地関係者を納得させれば、その時点で移転を始められます。しかし、それ以外の案は、何もしないで問題を先送りするという案を除けば、豊洲以外への移転であろうが築地の修復であろうが、3,4年はかかるでしょう。この間に発生する費用や、築地関係者の被害は大きく、それは代替案の致命的な欠陥です。

代替案の第二の重要な問題は、どんな代替案であっても、完遂(かんすい)されることはないということです!
何故、完遂されないのか?それは、強い責任感で最後までやりぬく人がいないからです。推進につれて問題は噴出するでしょう。それを解決する能力と、意志を持つ人は極めて少ない上、仮にその資質を持つ人が選ばれても、小池都知事の思惑に振り回されて嫌気が差し、辞任して計画は頓挫するのです。

つまり、豊洲への早期移転を決断しない限り、代替案を完遂する意志や能力を持たない小池都知事がいては築地問題は解消しないのです。

間違いを認めようとしない安倍内閣や小池都知事には救いはありません!そんな彼らは、いつか、必ずや、しっぺ返しを受けるのです。

そういえば、思い出しましたが、道徳の時間にパン屋さんを和菓子屋さんと呼ばせることになったようですね。こんな見当違いなことに気を使う文科省や安倍内閣の愛国思想には呆れました。問題があるとは言え、中国政府の孔子学院に倣(なら)い、道徳には教育勅語じゃあなく、論語を取り入れる方がましでしょう。

我が尊敬する孔子先生は仰いました。
「過(あやま)てば改むるに憚(はばか)ることなかれ」
「思いに邪(よこしま)無し」
この教えは真理で、真理を曲げては救いはありません。

Bee Gees with Celine Dion - Immortality (不死)
https://www.youtube.com/watch?v=bsQq5lZ4CFM
(完)

PageTop

聖遺物の不思議


実は・・・
このブログは「聖槍(せいそう)の不思議」との題で投稿する予定でした。
しかし・・・
プロローグprologueを書き始めると、どんどんと脇道にそれ出して・・・
長~くなってしまい・・・

で~題を「聖遺物の不思議」に替え、プロローグprologueを投稿させて頂くことに致しました!

・・・・・・・・・・・・

「聖槍の不思議」

神聖な槍Holy Spear / Holy Lanceはイエス・キリスト(以下イエス)の脇を刺して死に至らしめた槍(やり)です。この聖槍は、前回のブログでご紹介したコンスタンティンの母ヘレン(以下聖ヘレン)が、エルサレムを訪れた時に探し出したいくつかの聖遺物の一つです。

Wiki「聖遺物」(英語版はRelic)のリストによれば
聖十字架/聖釘/聖槍/聖骸布/聖杯
の5つが挙げられています。お気付きでしょうが、全てイエス関連のものばかり!

まず聖十字架ですが、西暦326年、聖ヘレンがエルサレムに巡礼した時に見つけました。3つ見つかったようですが、その中のひとつに触れた女性の病が癒(いや)されたので、イエスが磔(はりつけ)にされた聖十字架と判ったと言います。持ち帰った十字架は、その後、細かく分割されてしまったらしく、多くの教会が所蔵していると主張しているようですが、“総計すると十字架数十本分に当たり、ゆえにほとんどがまがい物であり、そもそも“イエスが磔にされた十字架”の存在・再発見の真実性まで辿(さかのぼ)り考えることとなる“とWikiにありました。

聖釘(せいてい)は“イエスが磔にされた際に手足に打ちつけられた釘(くぎ)”で、聖十字架に打ち付けられていて、勿論、聖ヘレンがエルサレムから持ち帰ったんです。今も30本ほど残っていて、最も有名な聖釘は、今回のブログに登場します。

聖槍(せいそう)は、フィルムの紹介の時に説明させて頂くとして・・・

聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)は、イエスが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布です。イエスの風貌を写したという布は複数あったといわれていますが、現存するのはトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノの聖骸布」(Shroud of Turin)だけです。サイズは1.1 x 4.4m。
b1701.png
顔の部分の拡大とそのネガは次の通りです。
b1702.png
1988年に行われた炭素年代分析によれば、布は“中世のもの”だったようですが、この辺りをバチカンはどう考えているのか不明です。恐らく、バチカンに所蔵されていない品々の真偽についてはコメントしないという立場なのでしょう。

聖杯(せいはい)についてはブログ「聖杯の不思議」でご紹介済みです。

調べると、他にもイエスの“聖遺物”はあるんですねぇ。
例えば“イエスの血”ですが、前述の聖骸布のシミは“イエスの血”そのもののはずですが、それ以外にもイエスの頭を包んでいた布があるんです。オヴィエドの布Shroud of Oviedoと呼ばれるようです。
b1703.png
大きさは1mx0.6mで、スペインのオヴィエドOviedoにある聖サルバドール大聖堂の重厚な箱に仕舞われていて、年3回、一般公開されているようです。

更には“聖衣Holy Robe”もあります。
b1704.png
多くのカソリック教会が同じような聖衣を所有しているようですが、上の写真はドイツのトリールTrier大聖堂の衣です。

で~我が尊敬するお釈迦様についての聖遺物はというと、英語版Wiki「Relic」には記事があるのですが、日本語版Wiki「聖遺物」にはないんですねぇ。なんででしょうか。
ま、ここで文句を言っていてもしょうがないのでWiki「Relic」から要旨をご紹介すると、骨とか歯ですね、これ以外にはお釈迦様の聖遺物はありません!

パキスタンのペシャワールPeshawarのストゥーパで見つかった骨は、今はミャンマーのマンダレーMandalayに保管されているとのこと。
b1705.png
ネットで見つけたブログ情報によれば、仏教修道院の埃(ほこり)だらけの小さな展示室に仕舞われていて、丁重にお願いすれば、見せてもらえるかもしれないとのこと。ガラス瓶crystal phialに入った小さな骨で、虫眼鏡を貸してもらえるようですからWikiで見つけた上の写真がそうでしょう!蓋(円柱状のもの)をはずした中身が中央にある台で、中心にガラス瓶のようなものが載っています。

仏陀は入滅から数日して火葬され、骨は8人の王が分割して持ち帰り、ストゥーパなどに保管しました。弟子たちが仏陀の教えだけでなく、生涯や遺骨の分割も記録に残していますから、仏舎利(仏陀の骨)が何ヶ所かで大事に保管されることになったのは事実だと思います。

仏陀と比べ、イエスには沢山の聖遺物が残っているわけですが、信憑性は全て“イマイチ”です。鑑定書もないし、勿論、由緒書きも見つかっていないようですからね。

しかし、イエスが実在していたなら、遺骨はどこかに残っているはずです。十字架の上に聖釘で打ち付けられ、血を流して死んだ人物ですから、人並みに骨はあったはずで、“神だったので骨などはない!”ってなことを言い出す人はまさかいないでしょう。

で~聖ヘレンは、その骨を見つけたかというと、どうもそうではないんですねぇ。聖ヘレンがエルサレムに巡礼した西暦326年、彼女は骨を探した、見つけ出した、っていう話は伝わっていないんです。

で~mhが鑑賞したYoutube“Discovery Channel; The Lost Tomb of Jesusイエスの失われた墓”から簡単にご紹介すると・・・

磔にされたイエスは墓に埋められたのですが、伝説によれば、死から3日後、マリー・マグダレンが墓に行くと遺体はなく、弟子たちがイエスの家族の墓に移した後だったといいます。
b1706.png
そして1年後、弟子たちは、イエスの母マリアやマリー・マグダレンやイエスの兄弟などイエスの親族と共に、最後の埋葬をするのです。
最後の埋葬とは、遺体が腐ったところで、骨だけを集め、骨箱(石灰石の箱ossuary)に詰め直す儀式です。
b1707.png
骨箱には“Jesusイエス”と名が刻まれました。
それから1千9百年後の1980年、集団住宅の建設工事中に墓が見つかったのです。
b1708.png
最初に気付いたのは子供達だったようです。
入り口の上には屋根のマークの下に丸い印が・・・
b1709.png
中には10の骨箱がありました。
b1710.png
(mh墓には4m四方ほどの部屋があり、そこに遺体を安置しておきます。1年程したら、関係者が集まり、白骨化した骨を骨箱に詰め、部屋の隅に設けられている穴に保管するようです)

この骨箱は倉庫に保管されていました。しかし、墓が見つかった時期は住宅工事のラッシュ時期だったので、あちらこちらで墓が掘り出され、何百もの骨箱が見つかり、大きな倉庫に保管されることになりました。その中から、Youtubeフィルムのプレゼンテーター;シムカ・ジャコボヴィッチSimcha Jacobovici(赤い服の人物)が、リストを頼りに件(くだん)の骨箱を探します。見つけ出したものを確認すると、イエスとかマリーとかジョセフといった名前が刻まれていました。
b1711.png
で、1980年に見つかった墓はイエスの家系の墓である可能性が高いとの結論を出すのですが、件(くだん)の墓が今どうなっているかというと・・・
b1712.png
コンクリートで蓋をされ、アパート群の間のテラスにあるんですね。
b1713.png
そこには何の掲示板も銘板もありません。ここにイエスの墓があり、残っていた骨箱の一つにイエスの骨が入っていたと考えている人はほとんどいないようですね。というのは、件のイエスが生きていたころ、エルサレムにはイエス、マリア、ジョセフといった名の人間は大勢いたんです。また、見つかった墓の入口の上に刻まれたファサード(建物の正面の飾り)は、特別のものではなかったんですね。どこにでもある、普通の模様だったんです。
そして・・・前回のブログでもご紹介したように、“Discovery Channel; The Lost Tomb of Jesusイエスの墓”で“やらせ取材”が行われていた!と告発するYoutubeも見つかりました。

このような経緯から、シムカ氏がプレゼンテーターを務めたYoutube“イエスの墓”を皆さまにご紹介するのを控えさせていただくことにしたのです。
それをご承知の上で、ご関心がありましたら、次の2つのURLでご確認下さい。
Discovery Channel The Lost Tomb of Jesus
(シムカ氏がイエスの墓だったと主張するフィルム)
http://www.dailymotion.com/video/x2jbdz3
The Jesus Tomb Unmasked | Refuting the Lost Tomb of Jesus
(シムカ氏に反論するrefute)
https://www.youtube.com/watch?v=aIa0PckpZZI

しかし・・・
またまた新しい予告フィルム(2分)が見つかりました。National Geographic ですから少し信頼できそうですが、粗筋は次の通りです。

“この大理石の石板の下は、イエスの最後の休息場所だったと多くの信者が信じている”
b1714.png
“「聖なる岩」は何世紀もの後で初めて取り外され、予想できない新たな発見を提示する”
b1715.png
“墓はエディクルEdiculeの中に仕舞われていて、エルサレムの旧市街にある聖墳墓教会(注)の中心に位置している”
b1716.png
(注:Church of the Holy Sepulchreは聖墳墓教会です。墳墓Sepulchre、つまり、ここがイエスの墓だってことを宣言しているんですねぇ)

で~エディクルというのは、ドームの中に造られた建物です。周辺に観光客が大勢いる、高さ凡そ8m位の構造物です。
b1717.png
墓らしきものを覆っている大理石の板が開けられようとしています。この映像から墓らしきものはエディクルEdiculeの床下にあると思われます。
b1718.png
石板が開いた状態を横から撮影した映像です。
b1719.png
で~石板の下に在ったものは・・・
b1720.png
粘土が平坦に詰められていたようですね。その一部は壊されているように見えます。人骨は見つかりませんでした。瓦礫debris を採集したので、分析することになっています。

“聖なる墓bedが再び蓋をされた後、エディクル改修工事は続けられ、今後何世紀もの間、巡礼者のための神聖な場所として保存されるだろう。”
b1721.png
EXCLUSIVE: A Closer Look Inside Christ's Unsealed Tomb | National Geographic
https://www.youtube.com/watch?v=nkmx_k9wVs0

なるほど。聖墳墓教会があるとなれば、アパート群の中のテラスでコンクリートで蓋をされた場所にお参りする巡礼者がいないのは、やむを得ないでしょう。

で~結局、イエスの遺骨は、今も見つかっていないんです。イエスが神なら遺骨が残っているのは極めて不自然です(人間の体だけを借りた神だったと言うことかも知れませんが)。よって、見つかっていないということは骨など持っていない神であって人間では無かったってことかもしれませんが、となると血が流れたっていうのは矛盾しますから、骨や血がある人間の体をもつ神だったってことだとすれば、肉体が滅んだ後のイエスは、今、どこで、どんな状態で存在しているのか???
???????????????????????????????
(聖遺物の不思議:完)
・・・・・・・・・・・・
真の「聖槍の不思議」は次回ご紹介させて頂きます。
悪しからずご了承ください。
(完)

PageTop

mh徒然草:政治家が腐敗する理由


それは、とりもなおさず、そういう政治家を選んだ国民が腐敗してきたからですね。

それにしても政治家の最近の言動はひどいです。

日本の安倍首相は、瑞穂の國記念小學院や加計学園の獣医学部新設で、首相の意向が働いた国権や国費の私物化でなないかと思われる疑念が指摘されても、名誉棄損で訴えることもせず、釈明や調査は拒否し、内閣府や、首相に牛耳られている自民党も、ひたすら、もみ消しを図っています。前川前文部科学事務次官の内部告発(総理のご意向)があると、政権寄りの読売新聞は前川氏が出会い系バーに行っていたというスキャンダルを流しましたが、これは前川氏を貶(おとし)めて、彼の指摘を無力化しようとする試みとしか思えません。稚拙な、卑劣な手段で、呆れてものも言えません。こんな政府に誰が国政を委託したのか?それは我々、日本国民ですね。反省し、正常に戻さないと、事態は悪化し、日本の将来や民主主義の維持は覚束(おぼつか)なくなっていくばかりです。こんなブログを投稿していると、不特定多数の仲間と図って政府を転覆しようとするテロだと言われ、共謀罪で取り調べられる恐れすら出てきました。

で~馬鹿げた話は安倍首相ばっかりじゃあないんですねぇ。アメリカのトランプ大統領の言動も同じです。トランプ氏を選んだのはアメリカ国民ですから、彼のツケはアメリカ国民が払わなければなりません。今日は6月4日(日曜日)ですが、2日前、ホワイトハウスで地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」からの離脱演説をしました。その内容の低俗さには世界中が唖然とし、呆れ果てたことでしょう。原稿は誰かがチェックしているはずですが、その結果が、あの内容では、さすがのアメリカ国民も落胆したはずです。未曾有を“みぞうゆう”と読んで国民からも失笑をかった麻生副総理ですら“そんな程の国だったんだね、アメリカは!”と、例によって不遜な態度で、公然と扱(こ)き下ろしていました。麻生氏の発言自体は小気味よく、よくぞ言った!と褒めたいところですが、厳密にいえば間違いで、“そんな程度の大統領だったんだね”と言うべきでしょう。しかし、このトランプ氏を大統領に選んだのはアメリカという国ですから、麻生氏の発言が全く間違いというわけじゃあありません。トランプ氏は、ロシア・ゲートで選挙に勝利し、モスクワのホテルに娼婦を呼んで乱痴気騒ぎをしたことをプーチンに知られている、って話は、きっと真実だろうと思います。これらの不都合なスキャンダルを公開されぬよう、プーチンに気を使っているトランプ氏は、ロシアに骨抜きにされ、アメリカの魂をロシアに渡しているも同じです。それにしても、こんな低俗なトランプ氏に勝利できなかったクリントン女史も、どうかと思いますね。どちらにも投票したくない選挙を強いられたアメリカ国民の嘆きは、痛い程に解りますが、日本国民も対岸の火事だと静観していられる状況じゃあありません。

中国の習近平主席、ロシアのプーチン大統領、日本の安倍首相、アメリカのトランプ大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、トルコのエルドラン大統領、北朝鮮の金正恩総書記、などなど、独裁政治を志向する国家リーダが幅を利かせています。

極めて当たり前ではありますが、どこの国の政権も長期化するほど腐ってきます。国家という大きな樹だって腐れば倒れてしまいます。早く手を打たないといけないのに、腐るばかりの政権を国民が支持し続けた結果が現状を創った訳ですから、やっぱ、国民も腐ってきたと見るべきでしょう。その点、アメリカには救いがあります。トランプ大統領はこれまでの政権や政治家の腐ったDNAを持っていません。問題だらけの言動は、国民に新鮮な示唆を与え、反省を促すでしょう。彼は、あと半年もしない内に、大統領の職を放棄するか、韓国のように弾劾裁判で辞任に追いやられ、アメリカは気分一新して新たな一歩を踏み出すでしょうから、日本などのように、ダラダラと腐り続けていく国よりも早く、立ち直れます。よって、今、111円前後をウロウロしている米ドルは、年内のトランプ氏辞任で120円を超すというのがmhの予測です。

アメリカと似ている動きをしたのが東京都でしょうか。近々、行われる都議選では、小池都知事が自民党に脱退届を出し“都民ファーストの会”で選挙に打って出ることになりました。アメリカ・ファーストを標榜(ひょうぼう)するトランプ氏のトバッチリもあるとは思いますが“都民ファースト”も色あせ、変質してきたようで、都議会で自民党都議から“小池ファーストじゃあないの?”と皮肉られています。mhは最初から、そう思っていましたが、非難する自民党都議も、これまで“ブラックボックス”で都政を牛耳ってきたんですから、目糞鼻糞を笑うようなものです。そう考えれば、東京都も流れが変って問題が浮き彫りになり、(解決は進んでいませんが)良かったと言えなくもありません。今回の選挙でどんな人物を選択するか、東京都民は試されようとしています。

腐敗した政治家を選び続け、腐敗に向かって突き進む国民は、笛吹き男に先導され、おぼれ死ぬ運命に向かっていくハーメルンの鼠(ネズミ)に似ています。早く打開策を見出さねばなりません。それには、兎に角(とにかく、であって、ウサギにツノじゃあありません!)流れを変えることでしょう。麻生副総理に笑われちゃうかも知れませんが“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”って格言を一緒に確認したいと思います。

Cliff Richard - The Young Ones (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=-Q5nBoKdAk0
(完)

PageTop

コンスタンティンの不思議


コンスタンティンConstantineとは???

よく使われる男性の名で、世界中には大勢のコンスタンティンを名乗る男がいるはずですが、今回取り上げるのは歴史上で恐らくは最も有名なコンスタンティンです。

で~どんな男か?

こんな男なんですねぇ。
b1601.png
ローマのカピトリーノ美術館の中庭に展示されています。
巨像Colossusの高さは約12mでした。
b1602.png

正式名はガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスGaius Flavius Valerius Constantinus(西暦272年~337年)。ローマ帝国の皇帝です。コンスタンティヌス1世Constantine Iとも、コンスタンティヌス大帝Constantine the Greatとも呼ばれますが、聖コンスタンティンSaint Constantine とも呼ばれているんですね。

今回は、コンスタンティンが聖コンスタンティンSaint Constantineと呼ばれることになった経緯に疑問符を投げかけるYoutubeフィルムを軸に、Wikiやネット情報を織り混ぜて「コンスタンティンの不思議」をお贈り致します。
・・・・・・・・・・・・
コンスタンティンの父はコンスタンティウス・クロルスConstantius Chlorusです。ローマ帝国が4分割され“テトラルキアTetrarchy(西暦293年~323年)”と呼ばれている時代、ガリア(フランス)とブリタニア(イギリス)一帯を統治していました。

テトラルキアにおけるローマ帝国版図です。
b1603.png
黄色の一帯が、コンスタンティンが育った“District of Constantius as Caesarカエサルとしてのコンスタンティウスの領”です。首都Trierトリール(現在のドイツの町)には当時の遺跡が残っています。
b1604.png
“District of Constantius as Caesar”の“Caesarカエサル”ですが、クレオパトラの愛人だった共和制ローマの執政官ユリウス・カエサルJulius Caesar(ジュリアス・シーザー)以来、ローマ帝国における皇帝の称号として一般化され、英語でJunior Emperor、日本語で“副帝”を意味します。

テトラルキア時代、現在のイタリア一帯は“District of Maximian as Augustusオーガスタスとしてのマクシミアンの領”で、ここでのオーガスタスAugustus(アウグストゥス)は、執政官シーザーの後を継いで初代ローマ皇帝となったオーガスタスAugustusに因(ちな)み、“皇帝”の称号として使われています。

つまり、西暦293年に始まったテトラルキアTetrarchyでは、帝国は二人のAugustus(皇帝)と二人のCaesar(副帝)によって4分割され統治されていたのです。この4つを統一しようと動き出したのがコンスタンティンでした。

西暦312年、コンスタンティン軍はアルプスを越えて現イタリア、当時の“マクシミアンの領”に攻め入り、今もローマ市内に残るミルウィウス橋で皇帝マクシミアヌスの息子マクセンティウス皇帝の軍隊と衝突しました。
b1605.png
橋の下を流れるのは有名なテヴェレ川(Tevere)です。橋は何度か修理され、今も健在ですが、通れるのは歩行者だけで、自動車は駄目です。

ラファエロの弟子ジュリオ・ロマーノGiulio Romano が描いたフレスコ画“ミルウィス橋の戦いThe Battle of Milvian Bridge”がヴァチカン美術館のラファエロの間にあります。サイズは2mx5m位でしょう。
b1606.png
白馬に乗るコンスタンティンの頭上では3人の天使がコンスタンティンを守っています!
b1607.png
コンスタンティンの視線の先のテヴェレ川には皇帝マクセンティウスがいます。彼は、この戦いで命を落としました。
b1608.png
ラファエロが描いた“ミルウィス橋の戦い”では聖十字架を抱いた3人の天使が描かれています。
b1609.png
伝説によれば、コンスタンテインは、夢の中でイエスの声を聞いたり、橋に向かって進軍している時、太陽の前に十字架を見たりイエスの声を聞いたりしたようです。

また、ヴァチカン美術館の“コンスタンティンの間Hall of Constantine”には“The Donation of Constantineコンスタンティンの寄贈”という画題のフレスコ画もあります。画家は同じくジュリオ・ロマーノだと言われています。
b1610.png
絵の中のコンスタンティンは時の法王Popeシルベスター1世の前で跪(ひざまず)き、小さな像を法王に寄贈しているようですが、ひょっとするとご褒美に法王から像を寄贈してもらう様子かも知れません。
b1611.png
いずれにしろ、この絵の題は“The Donation of Constantineコンスタンティンの寄贈”で、意味する処は、コンスタンティンが都市ローマと西ローマ帝国の統治権を法王に与えたということです。統治権を与えたというのは捏造(ねつぞう)であり、都市伝説であって事実ではありません。しかし、この絵が暗示することは重要です。コンスタンティンは法王、つまりキリスト教に絶大なる力を与えることを約束したのです。

これで、何故、コンスタンティンが聖コンスタンティンSaint Constantineと呼ばれているかお分かり頂けたことでしょう。理由はこの絵に表現されていたのです。

ミルウィウス橋の戦いで勝利したコンスタンティンは、西暦312年に西ローマ帝国の皇帝になりました。

一方、テトラルキアの残る2つの領ですが、現在のセルビアに首都サーミウムSirmiumを持つ“ガレリウスの領”の皇帝リキニウスは、現在のトルコに首都ニコメディアNicomediaをもつ“ディオクレティアヌスの領”の皇帝マクシミヌス・ダイアを破り、東ローマ帝国の皇帝に収まりました。この時点で東西2つのローマ帝国になったわけです。

その後、2人の皇帝リキニウスとコンスタンティンは対立し、戦を繰り返します。皇帝リキニウスは異教崇拝(paganismペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵が支援し、皇帝コンスタンティンはというと、キリスト教を象徴するラバルム(Labarum)の旗印の下に行軍していたようです。
b1612.png
キリストのギリシア語綴(つづ)りは“Χριστος”で、最初の2文字のXとPをかたどった旗印です。

そして、324年、ハドリアノポリス、ヘレスポントス海峡、クリュソポリスなどの戦いを制したコンスタンティンはリキニウスを処刑し、東西ローマは再統一されました。

で、コンスタンティンは統一後の帝国の首都をどこに置いたかというと・・・
ローマじゃあなかったんですね。もうお気づきだと思いますが、コンスタンティノープルConstantinopleで現在のイスタンブールİstanbulです。
b1613.png
当時Byzantiumビザンチウムと呼ばれていたこの町は、紀元前667年頃に移り住んだ古代ギリシア人が造りました。勿論、上の写真の右のアヤソフィアAyasofyaを建てたのはコンスタンティンの息子コンスタンティン二世で、西暦360年に完成しました。キリスト教会で、写真のようなドーム構造ではありませんでした。左の青いモスクとも呼ばれるスルタンアフメト・モスクは西暦1616年、オスマン帝国の第14代スルタン(皇帝)アフメト1世によって造られたものです。

で~少々長くて恐縮ですが、コンスタンティンとキリスト教との関係をWikiから抜粋しておきましょう。
・・・・・・
Wiki:コンスタンティヌス1世とキリスト教
コンスタンティヌス1世は、初めてのキリスト教徒皇帝として有名である。それ以前のローマ帝国では、ネロ帝(54年 - 68年)のキリスト教徒迫害に始まり、ディオクレティアヌス帝(284年 - 305年)の迫害まで、何度かキリスト教が迫害を受ける時期があった。そんな一部の時期を除くほとんどの間、キリスト教徒であることは黙認されていたが、発覚した場合は改宗を迫られ拒絶した者は処刑された。

5世紀の歴史家ソゾメノスによると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたという。ただし、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もある。コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとした。コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘している。
(キリスト教の持つ組織力に目をつけた???!!!)

伝説によると、コンスタンティヌスが改宗したのは、神の予兆を見たためと伝えられる。伝説では、コンスタンティヌスは、312年のミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に太陽の前に逆十字と、ギリシア文字 Χ と Ρ(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見た。この伝説はラクタンティウスなどいくつかの資料で詳しく伝えられているが、4-5世紀頃の文献に多く現れる神の予兆や魔法などの話のひとつである。ちなみに、この後のローマ軍団兵の盾にはそれを模(かたど)った紋章が描かれたという。
のちに「コンスタンティヌスの寄進状」という文書が偽造され、ヨーロッパ史に影響を及ぼした。

なお、コンスタンティヌス1世を正教会は「亜使徒聖大帝コンスタンティン」として記憶する事は冒頭に述べた通りであるが、日本正教会の宇都宮ハリストス正教会の会堂は「亜使徒聖大帝コンスタンティン及び聖大后エレナ会堂」であり、コンステンティヌス1世と母太后ヘレナを記憶している。
(mh:母太后ヘレナについては後述します。)
・・・・・・
しかし・・・
Saint Constantine聖コンスタンティンとも呼ばれる男が、キリスト教を方便とし、実は異教・邪教(mhキリスト教徒にとっては、キリスト教以外の宗教は全て異教であり邪教です)を信仰していたのではないのか?というのがYoutube 「The Deception of Constantineコンスタンティンの欺瞞(ぎまん)」です。フィルムに登場するプレゼンテーターのシムカ・ジャコボヴィッチSimcha Jacoboviciはイスラエル系カナダ人で、映画監督・製作、フリージャーナリストfreelance journalist、作家ですが、Wikiによれば、多くの賞を受賞していて、なかなか著名人のようです。で~Youtube でシムカ氏の主張を知った素直なmhは、“おぉ!すごい着想だなぁ!”って感心し、皆さんにも是非、ご紹介しようと思い立ったわけですが・・・

Wikiにもあるように、コンスタンティンがキリスト教を方便に使っていたのではないかというシムカ氏の疑念は、既に多くの歴史家も持っていたんですねぇ。その上、シムカ氏がプレゼンテーターで登場する別のYoutube“キリストの墓”(後日、紹介いたします)も見たのですが、これを“やらせ取材”だと告発するYoutubeが見つかりました。で~素直なmhは途端にシムカ氏に欺瞞Deceptionを感じた訳です。

しかし・・・当方にも、次回のブログとの関係という、どちらでもいいじゃあないのって笑われるかもしれない個人的な都合もある上に、コンスタンティンがキリスト教を方便としていたという指摘がシムカ氏に限るものではないということもありますので、ご迷惑かもしれませんが、Youtube 「The Deception of Constantineコンスタンティンの欺瞞(ぎまん)」に沿って、何故、そんな疑念を持たれるようになったのか、ご紹介したいと思います。
・・・・・・・・・・・・
ローマのコロセウムの脇に、コンスタンティン凱旋門the Arch of Constantineがあります。312年のミルウィス橋の闘いでの勝利を祝い、315年に建てられました。
b1614.png
レリーフ(relief浮き彫り)には、川の神タイバー(横たわった男)、風の女神ビクトリー(羽根を持つ立像)、ローマの女神(タイバーの頭の所に立っている像)があり、この3神に囲まれた空白のスペースには、剥がれてしまっているがコンスタンティンの像があったといいます。つまり、彼は“邪教Paganの象徴のパッチワークで囲まれて居る”とシムカ氏は主張します。
b1615.png
更には、門の中央に刻まれている文字に“神聖な導きによりDivinely Inspired”とあり、ここでいう神はキリストではないかも知れないとの疑念を提示します。
b1616.png
何故なら、門に彫られているのはギリシア神話の太陽の神アポロApolloなどで、キリスト教から見れば邪教Paganの神ばかりです。
b1617.png
更には、門の中心が古代の通りStreetの中心から2mほどずれているのは、門が建てられる前から立っていた30mのアポロ像を門の中心に持ってくるためだったと主張します。
b1618.png
門の上にはチャリオットに乗るコンスタンティンの像があったとも言います。
b1619.png
それは太陽の神アポロと重なっていたのです。(シムカ氏の主張)
b1620.png
門には、キリスト教から見たら異教の神々は彫られているのに、キリストを表す物は十字架一つ、彫られていない。コンスタンティンは本当にキリスト教徒だったのか?
(シムカ氏の主張です)

更には、新しい都コンスタンティノープルの広場にアポロ像が載った記念柱を建てたようですね。像の顔はコンスタンティンに似ていたはずだと(シムカ氏は)言います。
b1621.png
コンスタンティンはキリスト教以外の邪教を信仰していた???
b1622.png

ローマのサンタ・プリスカ教会の地下には邪教の神を祀る部屋が残っています。
b1623.png
(mh邪教の寺院の上に、新しい宗教キリスト教の教会が建てらていたということですね。同じことは、よく行われていたようです)

マントを靡(なび)かせているのは太陽神ミスラです。左手には屠(ほふ)った牛の頭を持っています。
b1624.png
右下に横たわっているのはエジプトの神オシリスで、額にあるのは再生のシンボルだといいます。
b1625.png
Wiki:ミトラ教またはミトラス教またはミスラス教(Mithraism)
古代ローマで隆盛した、牡牛を屠(ほふ)る太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。ミトラス教は古代のインド・イランに共通するミスラ神(ミトラ)の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変え、主にローマ帝国治下で紀元前1世紀より5世紀にかけて発展、大きな勢力を持つにいたったと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。

で、ミスラ神の典型的な姿は次の通りです。
b1626.png
ミスラ神が被っている帽子ですが・・・
b1627.png
ブログ「東方の三賢人の不思議」で紹介した三賢人の帽子と同じです。
b1628.png
三賢人が描かれたモザイク画はイタリアのアドリア海に面した都市ラヴェンナRavenna にあるサンタポリナーレ・ヌオボ聖堂Sant'Apollinare NuovoのバシリカBasilica(細長い講堂)に残されています。
b1629.png
で~コンスタンティン凱旋門に飾られている聖人像の帽子も東方の三聖人と同じなんですね。
b1630.png
さて・・・所変わって・・・
コンスタンティン時代、ブリタニア(Britanniaイギリス)の北限ではヘイドリアン(ハドリアヌス)の長城Hadrian's Wall)が北方からの蛮族の侵入を阻んでいたのですが、長城の近くにはローマ帝国軍の駐屯地が造られていました。
b1631.png
幾つかの石に十字架が刻まれています。
b1632.png
ローマ帝国の兵士や家族の中にキリスト教の信者がいたのです。
その一方で、妙な寺院跡も見つかっています。
b1633.png
祀られていたのは・・・ミスラ神です。
b1634.png
で、ミスラ神の冠は・・・
b1635.png
“イエスの冠(光背)と似ている!”ってYoutubeフィルムのプレゼンテ―ターのシムカ氏は言うんですね。
b1636.png
イタリアのラヴェンナRavennaのアーチビショップ礼拝堂Archbishop’s Chapelに一風変わったモザイクがあります。6世紀に作られたもので、キリストだと言うのですが・・・
b1637.png
兵士のように見えます!足元の蛇はミスラ神を暗示しています。
b1638.png
この男は聖コンスタンティンではないのか?
本来なら、こうなっていなければいけないはずなのに・・・
b1639.png

で~Wiki「コンスタンティヌスの凱旋門」によれば・・・
「コンスタンティヌスの時代から遡ること200年前の建築物の装飾が用いられているため、近年、この凱旋門は実は2世紀頃に建設されたものであり、コンスタンティヌスはこれを改変しただけであるとする説も提唱されている。1960年のローマオリンピックでは、マラソン競技のゴール地点に選ばれた」
ともありました。
よってYoutubeフィルムで紹介されていたプレゼンテーター;シムカ氏の指摘は、証拠不足というか、欺瞞に満ちたもので、mhはミスリードされてしまったのかな?と疑い始めています。

少々欺瞞に満ちたYoutubeの情報や、mhが集めたネット情報を散発的にご紹介しましたが、自分で見直しても焦点がぼけていて恐縮しています。

気を取り直して要点を箇条書きで整理すると次の通りです。
1) 紀元前1世紀にローマ帝国が生まれた当時、ローマではミスラ神やアポロ神が崇拝されていた。
2) 古来の神を信仰するローマ人にとって、イエスは邪教を布教しようとする異端児で、ローマ皇帝には目障(めざわ)りだったため、西暦30年頃、エルサレムにあるゴルゴタの丘で磔刑(はりつけけい)にした。
3) しかし、キリスト教は徐々に浸透し、コンスタンティン(西暦272年~337年)の時代には、ローマ人の中にもキリスト教徒が現れていた。
4) ローマ帝国を統一する西暦324年まで、コンスタンティンはアポロ神やミスラ神だけを信仰していた可能性が高いが、彼の軍勢にはキリスト教徒も大勢いたので、キリスト教を迫害せずに受け入れていた。
5) 帝国統一後の西暦326年、バチカンにあったキリストの使徒ペトロの墓所に最初の教会を建てた(Wiki)。
6) コンスタンティンは洗礼を受け、キリスト教に改宗したが、洗礼の時期は不明である。
7) コンスタンテインの母ヘレンも洗礼を受け、キリスト教徒となった(Wiki)。

つまり、彼が、キリスト教を迫害することなく、ローマ帝国統一後にはバチカンに教会も建て、キリスト教の布教を支援したのは事実であり、後のキリスト教徒にSaint Constantineと呼ばれる資格はあるとして好いと思います。

それを「コンスタンティンの欺瞞The Deception of Constantine」と言うのは、誤解というよりも悪意のある曲解と言った方がよいのではないか?

で~今一度、フィルムを落ち着いて見直したら、なんと!正式なタイトルは「キリスト教の秘密Secrets of Christianity」で、副題は「Selling Christianityキリスト教の売り込み」なんですね!
b1640.png
決して「コンスタンティンの欺瞞The Deception of Constantine」ではなかったんです!

ネットで確認すると、今回のブログの発端になったYoutubeは、「Secrets of Christianity」シリーズの“Episode 5 - Selling Christianity”だと判明しました!

番組紹介によれば次の通りです。
「4世紀、ローマ皇帝コンスタンティンは(西洋を)キリスト教に変えたと歴史は語っている。しかし、キリスト教がローマを征服したのか?それとも異教徒のローマがキリスト教を征服したのか?」
(mhやっぱシムカ氏は、フィルムでコンスタンティンが異教徒だったと暗示していたんですね)

「ローマとイスタンブールに残る考古学的事実は、皇帝が駆け引きの才覚the instincts of a marketing geniusを持っていたことを示している。多くの神格を戦略的に組合せながら、コンスタンティンは、例えば誕生日が12月25日のミスラ神など、太陽の神々を合併する手段として、イエス・キリストを“売り込んだ。”軍事力によって、新しい宗教は、本来のイエス・キリストの運動や、その関連で芽生えていた何百もの多様なキリスト教を抑圧した。コンスタンティンの(新しい)キリスト教は、今も世界で最も成功している流れになっている。」

つまり、Youtube 「The Deception of Constantineコンスタンティンの欺瞞(ぎまん)」と誰かが副題をつけたのは、全くの勘違いということではなさそうです。更には、彼が広めることになったキリスト教は、皇帝や法王に都合の良い教えであって、イエス・キリストが望んでいた教えではないかもしれない!って考えも含まれているのですね。

神を尊敬する宗教家が異なる宗教を邪教と呼び、弾圧し、殺戮するのは、なにもイスラム教に限ったことではなく、魔女狩りしかり、中南米でのキリスト教布教もしかりで、キリスト教でも行われていました。自分が正しく、自分と異なる考えや教えは邪(よこしま)だという排他的な考えは、トランプ大統領と同じです。コンスタンティンが聖コンスタンティンと呼ばれるのはキリスト教をローマ帝国の国教に育てたから、これで利益を得たキリスト教徒は聖人として祭ることにしたのですが、コンスタンティンは多くの敵兵を殺しているのです。それでも聖人と呼ぶとは、キリスト教とはなんと恐ろしい宗教なのでしょうか。バチカンのやり方に異を唱えたのがイギリスで生まれたプロテスタントではないかと思います。

取り留めもないブログになってしまい、本当に恐縮しています。そろそろ終わりましょう。

しかし、これだけはお伝えしておかねばなりません!!!

次回のブログは、コンスタンティンの母ヘレンが関係している不思議です。
ヘレンの生い立ちについては諸説あるようですが、キリスト教徒だったのは間違いないようで、聖ヘレンSt. Helenとも呼ばれています。

彼女には多くの伝説・逸話が残っているんですね。
「西暦320年頃、ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔(はりつけ)になった十字架を発見した、とされる。伝説によればヘレナは息子のコンスタンティヌスに依頼されてこの地を訪れ、9月14日に探し出したという。」
「このとき同じ場所でキリストを十字架に打ち付けた聖釘も見つかった。聖釘と十字架の破片はモンツァ(イタリア)の博物館が所蔵している。この十字架をめぐるヘレナの伝説は4世紀末にヨーロッパから起こった。」
「イエスの脇腹を刺した槍を発見。」
「イエス生誕に来訪し救世主として礼拝したという3人の博士(王)の遺骸を発見し、コンスタンティノポリスに運び、ミラノ司教であった聖エウストルギウスに懇願されてこれらを贈与した。」
「聖母マリアがイエスを産み落とす時に使った飼い葉桶のまぐさをローマに持ち帰った。」

次回のブログはヘレンが持ち帰ったものかも知れない「槍」と「聖釘」をご紹介いたします。

The Deception of Constantine
Secrets of Christianity Episode 5 - Selling Christianity
http://www.dailymotion.com/video/x18s8gs_selling-christianity-secrets-of-christianity-decoding-the-ancients-documentary-by-simcha-jacob_shortfilms
(完)

PageTop

mh徒然草:ガラパゴスの日本

昨日の4月20日、福岡で3億8千万円が強奪され、一夜明けた今日、福岡空港から韓国に出国しようとしていた韓国人を含む4人組が7億円を保持していたことがX線検査で確認され、警察に保留されているようです。銀行でお金をおろした29歳の男性は、4人の顔を見て、犯人ではないと言っているようですが・・・

盗まれたのは4億円弱で、持ち出そうとしていたのは7億円というのは奇妙ですが、常識的に推察すれば、昨日強奪された4億円も入っているのではないでしょうか。この辺りはこのブログが公開される5月には明確になっているでしょう。

今回の強奪事件では、たった一人で4億円近くもの大金を引き出し、銀行員も車まで護衛しなかったというのも不可解ですが、mhの関心を引いたのは、卸したお金の用途で、金塊の買い取りだといいます。金塊売買といえば田中貴金属くらいしか知らないmhですが、ネットでも売買可能で電子マネーや銀行間送金で好いはずだと思うのですが・・・韓国への送金なら銀行から怪しまれるから、キャッシュが必要だったということかも知れません。

金塊の買い取りを現金で行う習慣があるのかどうか知りませんが、15年程前なら、不動産売買では現金の慣習がありました。mhは偶然、その取引に関与したのですが、何故、銀行振込じゃあダメなのか?関係者に確認することもなく、昔からのやり方が残っているのだろうと勝手に納得していました。

不動産や金塊の売買は、売り手も買い手も、税法上や刑法上などの、公にしたくない問題を抱えていることがあり“越後屋!お主も悪よのぅ”といった裏取引も時には必要で、そんなことから、あと腐れがないよう、現金を目の前に積んで、取引きする習慣が昔からあって、それが今の時代にも残っているのではないかと、mhは推察しています。今回の福岡での強奪事件については、4億円を銀行口座から現金化した人物が誰か、誰のお金か、は銀行口座から明確ですが、もし、盗まれずに使われていたなら、何に使われ、誰にいくら支払われたのかを追跡するのは、自白がなければ不可能でしょう。愛人に1千万円、タンス預金に1億円、海外に持ち出してマンション購入に1億円、と言う具合に使ったとしても、用途や支払先が簡単に知られる事はありません。しかし、もしこれが全て銀行振込だったら、送金情報は銀行の記録に残り、いつ、誰に、いくら渡ったかは直ぐ判ってしまいます。

このような、日本に昔から伝わる不透明で不可解な慣習の典型例は、元号(年号)と判子(認め印)じゃあないでしょうか。

記憶や暗算がおぼつかないmhは、今年が平成何年なのか、特に新しい年になって数か月の間は、思い出せない時もあります。公的書類や日常生活では西暦だけとし、誕生日も全て、元号はやめて、西暦で通せばよいと思うんですが、そうはなりません。それに反対する勢力が“元号は守るべき日本固有の文化だ!”と声高々に廃止に反対しているからだと思います。

判子はといえば、銀行口座を開くと、判子が必要で、三文判を使うと、それが古くなって使えなくなり、新しい三文判を買ってそれでお金を卸そうとすると、“これは登録印と違います!”などと銀行から言われ、“じゃあどんな登録印だったの?”って当の本人が問合せても“見せられない!”などと言われ、銀行に預けた自分のお金が引き出し辛い世の中になっています。世界中で、登録印がないとお金を卸せないのは日本だけだと思うし、判子の文化は中国のものなのに、今や、これが、日本固有の、守るべき文化となり、いつまで経っても見直される様子はありません。

こうして、日本はガラパゴス化していき、北朝鮮と同じように、極東の、理解不能な国になっていくのです。

FROM A DISTANCE (Lyrics) - BETTE MIDLER
https://www.youtube.com/watch?v=EC3FW_RU-GI
(完)

PageTop

銀のファラオの不思議


前回のブログ「ピラメスの不思議」で、ピエール・モンティ氏Pierre Montetはナイル・デルタの町タニスTanisでとんでもない勘違いをしたが、その時、銀のファラオを発見していたとお伝えしました。

銀のファラオとはどんな人物か?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

勿論、このファラオはラムセスや彼の都ピラメスと全く関係ありません!って言うと思ったでしょ。ところが、全くその逆です。大いに関係あるんですねぇ。

勿論、ピラメスだと勘違いしたモンティが発掘を進めたタニスTanisが、やっぱりピラメスだった、ってことじゃあ決してありません。しかし、銀のファラオはピラメスやラムセス二世と強い関係があるんですね。だから、ピラメスの残骸が見つかった町タニスで発見されることになったんです。

で、銀のファラオとは一体全体、何者なのか?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

これ以上、堂々巡りをしていると読者諸氏から“いいかげんにしろ!”ってお叱(しか)りを受けるでしょうから、さっそくYoutube「The Silver Pharaoh」をご紹介いたしましょう。
・・・・・・・・・・・・
5千年以上の間、墓盗賊たちはエジプトの古代のファラオの墓を略奪していた。20世紀までに考古学者が発掘した全ての王室の墓は盗難に遭っていた。たった一つを除いて!
b1501.png
(mh:1922年にハワード・カーターが王家の谷で見つけたツタンカーメンの墓も盗掘されているのです!宝石の一部などが抜き取られていました。副葬品自体は幸い無事だったのです)

その墓には想像を超える絶品が残されていた。ファラオの棺(ひつぎ)だ。
b1502.png
全て銀で造られ、ツタンカーメンの墓で見つかった宝に匹敵する。しかし、その発見は第二次世界大戦で破壊される恐れがあった。
エジプト学者サリム・クライム「このような素晴らしい発見が、悪い時期に行われたなんで、信じられないわ」
想像を絶するこの発見は解明されないままだった。しかし、今、専門家チームの調査によって銀のファラオは姿を現した。彼はエジプトの歴史の中で最も混乱していた時代を生きていたのだ。

考古学者ピーター・ラカヴェラ博士「当時は内戦があり、国は南北に分断されていた」
専門家チームは、墓と、それを囲む見事な都市を再調査し始めた。
b1503.png
ファラオの遺骨を初めて詳細に調べた結果は驚くべきものだった。
解剖学者フォージ・ガバラ博士「私の調査で、新たな発見があった。言葉に出来ない程、興奮している」
b1504.png
専門家チームは、最初に墓を発見した発掘隊が見つけた遺品からエジプトの歴史の中でも最も不可思議な時代における謎を覆っているベールを取り除くため、素晴らしい宝物が秘めているメッセージを解読しようとしている。それは銀のファラオの時代からのメッセージだ。
b1505.png
1940年2月、アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで流血の火ぶたを切って落した。戦争における最初の残虐な一撃は、直ぐに世界を包み込んでいくだろう。
b1506.png
同じ時期、エジプトはまだ戦場から隔離されていた。ナイルに近い発掘現場では、フランスの考古学者チームが10年以上に渡る発掘作業を続けていた。彼らは戦争が本格化する前に仕事を完了させようと必死だった。
b1507.png
チームを率いていたピエール・モンティ教授は、驚くべき発見を既に公表していた。ほとんどの人が知らない時代のファラオを見つけていたのだ。
b1508.png
彼がここで発見したものは、古代エジプトの歴史を書き変えるだろう。彼は紀元前1千年頃の、エジプトの歴史における最も不可解な時期を解明する手掛かりを探し当てていた。それは短期間ではあるが、古代エジプト3千年の歴史における暗黒時代だった。
b1509.png
エジプトの偉大なピラミッドは、第4王朝と呼ばれる時代、ファラオのクフによって建てられていた。第18、19王朝のツタンカーメンやラムセス大王といった最も知られているファラオは、クフより1千年以上も後の時代にエジプトを統治していた。最後のファラオのクレオパトラは、更に1千年後に統治していた。
b1510.png
ピーター・ラカヴェラ博士はエジプト学者で、膨大なエジプトの歴史を紐解くため、記録資料やヒエログリフなどの証拠を活用している。
ピーター「もし時間軸に沿ってエジプトの歴史を考えるなら、ピラミッドを造った人物たちよりもクレオパトラが我々にとって一番身近な存在だ」

歴史学者たちは、エジプトは少なくとも170人のファラオによって統治されていたと考えている。その数からして、全てのファラオについて確認するのは困難な仕事だ。
b1511.png
70人のファラオの墓は今もって発掘されていない。彼らの墓は、現代の都市ルクソールLuxor、古代のテーベにある王家の谷か、現代のカイロにある古代の首都メンフィスMemphisか、ひょっとするともっと北の、ナイルが支流に分かれて海に向かうナイルデルタなど、ナイルの近くにあるエジプトの古代墓地のどこかにある。
b1512.png
エジプト学者にとって、政治的な混沌や対立があった時代を調べ、その空白を埋める作業は特に難しい。今日では中間期Intermediate Periodと呼ばれる5百年の間、対立する統治者たちは支配を巡って戦っていた。それはエジプトの暗黒の時代だった。
b1513.png
ピーター「中間期には経済の崩壊、内戦があり、帝国は南北に二分され、外敵侵略の恐怖もあった。こうした国内の不和は考古学者たちにとっては都合が悪い。偉大な記念碑は建てられることがないし、歴史的出来事を記録したものや、個人を讃える石像も造られることがなく、人々は生き残ろうと右往左往していた時代で、考古学調査を進める上での手掛かりが少ないのだ」
b1514.png
考古学的証拠の欠乏は、その時代を研究するには、更に多くの調査が必要だということを意味する。しかし、世界でも良く知られている物語の中で手掛かりが見つかることもある。
旧約聖書の中のデイビッドとゴリアテの闘いは、エジプト暗黒時代の紀元前1020年頃だと学者たちは特定している。聖書では、この時代の紀元前950年頃、ファラオが聖なる地イスラエルを侵略したと記している。
ピーター「この壁には旧約聖書でチューシャックと記されているシェションク1世(Sheshonk I)がソロモンの寺院に忍び込み、契約の箱をエジプトに持ち帰ったと書かれている」
b1515.png
聖地におけるエジプトが関係する思わせぶりな物語は、ピエール・モンティの関心を捉(とら)えた。
b1516.png
1928年、彼はナイルデルタのタニスで発掘を開始した。そこは既に別の考古学者たちが発掘を終えていた場所だった。しかし、重要なものがまだ砂の中に埋められているとモンティは考えていた。
b1517.png
彼の感が正しかったことは直ぐに証明された。1930年代を通じ、彼は巨大な寺院の残骸を掘り当てた。石に残されていた記録はエジプトの最高神アムンを祀る寺院だったことを示していた。寺院複合体は煉瓦で造られた重厚な壁で守られていた。
b1518.png
そこには発見されるのを待っている墓があるかもしれない、とモンティは考えた。ハリウッドは、失われた契約の箱がタニスに埋葬されているのではないかとすら想像していた。そして、インディアナ・ジョーンズのように、モンティはナチスNazisの恐怖にも対応しなければならなかった。
b1519.png
モンティがエジプトの砂漠で調査をしている間、ヨーロッパは戦争の瀬戸際にあり、アドルフ・ヒトラーが、いつでも突撃隊を派遣できる状態で威圧していたのだ。
b1520.png
考古学者サリマ・イクラム教授「モンティは、とても沢山の、彫刻された寺院建造用部材とかそういう物を見つけていたけど、世界の注目を浴びる、本当に素晴らしいと言えるものは、まだ見つけていなかったの。そこに持って来て、ヨーロッパでは戦火の足音が迫っていたから、いつも落ち着かなくて、研究に集中できる状態じゃあなかったのね。だから彼は、当時、信じられないほど緊張していたはずよ」
b1521.png
タニスにおけるモンティの発掘が、寺院複合体の全体に関して完了しようとしていた時、発掘チームが泥の煉瓦壁がある場所を掘り当てた。
サリマ「彼らは、寺院の南西の角地のこの場所で発掘していて、巨大な墓地複合体の天井を掘り当てたの。」
b1522.png
「その時、考古学的な偉大なものかもしれないと思ったモンティの心臓は烈しく鼓動していたはずよ」
モンティは直ぐに天井に明けた穴から墓の中に入って行った。暗闇の中で、彼は一連の墓の概要を理解することが出来た。
b1523.png
しかし、心配していた最悪事態が直ぐに確認された。
サリマ「この部屋に入って来た時、モンティは気落ちしたはずよ。何故って、部屋には、あるはずのない穴があって、彼がやって来る前に墓泥棒がここに入り込んでいたのが間違いなかったからよ」
b1524.png
そこは紀元前850年頃の王室の墓だった。
サリマ「壁に残されている記録によれば、この墓はオソルコン2世(Osorkon II)のものよ。彼は第22王朝のファラオだったの。彼の親族も、ここに埋葬されていたの」
b1525.png
「だからここは、重要な場所で、意義のある発見だけれど、とても完璧な王室の墓とは言えない状態だったのよ」
モンティは、まだ荒らされていない墓が見つかるチャンスは少ないと感じていた。
(mhピエール・モンティの実物写真です)
b1526.png
完全な状態のファラオの墓を見つけた考古学者はいなかった。しかし、彼は調査を放棄しなかった。
サリマ「モンティは発掘作業者たちに範囲を広げて発掘するよう指示したの。そしたら見つけていた墓から3mの所で新しい発見があったのよ!」
信じられないことに、彼らは荒らされた墓地複合体の直ぐ隣で第二の墓地複合体を見つけた。
b1527.png
モンティは信じられない気分だった。今度の墓は完全なようだ。
墓泥棒が見過ごしている可能性はあるのだろうか?
サリマ「墓泥棒たちは第一の墓地複合体での盗掘に成功したので、数m離れた所にあった墓を見逃してしまったのよ!多分、彼らはここに大きな墓があるなんて考えてもいなかったのね。でも驚くべきことよ。だって、墓泥棒たちって、地形を把握する能力が強くて、考古学者たちよりもずっと上手に墓を探し出すことができるんだから、その彼らが見落とした墓をモンティが掘り当てるなんて驚きとしか言いようがないわ」
b1528.png
モンティは、誰が埋葬されているか全くわかっていなかった。しかし、前室に入ると、答えが現れて来た。
b1529.png
サリマ「モンティがここに立った時どんなに興奮していたか想像してほしいわ。壁に王室の名前があるのよ。“パン・バーク・パースン・ミューツ”っていうのは“星が、神アムンが愛する町で輝いている”って意味ね。」
b1530.png
「そして彼は、別の王室の名前も見つけたの。それは間違いなく王室の人物の名前よ。“神アムンによって選ばれた偉大な者”ってあるわ。つまり、この場所はファラオの墓ってことよ。状態は完璧だったみたいね。そして、そのファアオの名はギリシャ語でスセネス1世(Psusennes I)として知られているの」
b1531.png
モンティは、スセネス1世についてほとんど知っていなかった。大勢いるファラオの中でも、どんな生活をし、どんなことを成したのか知られていない人物の一人だ。
b1532.png
彼は中間期に生きていた。
b1533.png
エジプトの暗黒時代で、権力は2人の統治者によって二分されていた。スセネスはこの混乱が始まった時代、デルタの都市タニスから北エジプトを統治していた。

しかし、南エジプトの実権や富は、古代の首都テーベにあった。
b1534.png
記念碑的寺院や財宝をもつテーベの統治者が南エジプトを管轄していた。
(mh;中間期には、エジプトはメンフィスMemphis辺りで南北に分割されていて、ナイル上流側はテーベThebesを首都とするアメン大司祭国家Theban High Priests of Amunが、ナイルデルタ一帯はタニスTanisを首都とする第21王朝が、それぞれファラオを設けて併存していました)

北エジプトの王はどんな人物だったのだろう?戦闘王とか重要な王だったなら歴史に名を刻んでいるはずだ。もしスセネスの墓が完璧に残っていたら、モンティの発見はエジプトの物語にぽっかりと空いていた空白を埋めることが出来るかも知れない。
b1535.png
墓室への入口は、大きくて固い花崗岩のブロックで完璧に塞がれていた。ブロックを削り、穴を明ける、忍耐のいる作業が続いた。そして6日後、モンティはやっと墓室に入ることが出来た。そこには彼が期待していた全てがあった!
b1536.png
サリマ「モンティは、墓が千一夜のような素晴らしい富で一杯だったと言っているの。きっと、そうに違いないわ。だって、床には沢山のフィギュリーン(figurine人形)や宝石や、貴金属があったのよ」
b1537.png
モンティは、3千年前に財宝がこの墓に仕舞われて以降、自分がそれらに触る最初の人物だと気付いていた。

モンティが墓に入って直ぐに撮影された写真は彼が見たそのものを示している。
b1538.png
しかし、ミイラやそれを収めた棺(ひつぎ)が見当たらないようだ。それはファラオの墓の典型的な所、墓室を埋め尽くすほどに巨大な石棺の中にあった。石棺には彫刻が施されていて、ヒエログリフで覆われていた。今日、その巨大な蓋は、ここエジプト博物館で展示されている。
b1539.png
巨大な石棺の中には別の石棺があった。これも装飾が施されていた。
b1540.png
モンティたちはファラオの本当の棺(ひつぎ)を見ようと、花崗岩の蓋を注意深く持ち上げた。

この発見がニュースになると、モンティは重要な訪問者を迎えるようにとの連絡を受けた。エジプト王本人だ。
b1541.png
モンティはエジプト王が信じられないような素晴らしい発見を全て見るまで、最も重要な発見であるスセネスの棺を封印したままで残しておくことに同意した。王はモンティの調査行為を完璧に支援していた。王は探検者の服装で発掘サイトを訪れた。
b1542.png
モンティは、王に、3千年前にエジプトの王だった男のサインとも言えるカトゥシュを指し示した。
b1543.png
しかし、エジプト王ファールーク1世は財宝を見たがっていた。彫刻に関心はなかった。王は、他の発掘サイトでしばしば感じたものと全く異なる特異な雰囲気があることに気付いていた。そして彼は失望することはなかった。
b1544.png
棺は人間の形で、よく見つかる黄金ではなく、銀を鍛造して造り上げたものだった。このような棺は、それまで、また、それ以降も見つかってはいない。そこに横たわっていたのは、エジプトの混乱の暗黒時代に生きていた、ほとんど知られていない統治者だ。しかし彼の墓とその絢爛(けんらん)は大きな権力を持つファラオだったことを示していた。
b1545.png
銀の棺の中にあったものは、このファラオが誰だったのかという謎を深めることになった。ミイラが着けていた“死の面Death Mask”は金塊で造られていた。
b1546.png
とりえのない時代の戦士王でもないし、地域の権力者でもなく、巨大な富と権力を持っていた人物のはずだ。
ピーター「黄金や銀だけではなく、沢山のラピスラズリも発見された。全て5千Km離れたアフガニスタンから輸入されていた貴重品だ。」
b1547.png
「だから信じられないほど高価で、信じられないほど価値が高いものだった」
b1548.png
財宝にはパラオのカトゥシュが刻まれていた。星はタニスの町の上空で煌(きら)めいているスセネスを表わしている。
b1549.png
これらの価値は金属の重量だけで単純に決まるものではなく、職人の質も考慮されねばならない。
ピーター「見事に製作され、見事にデザインされた、間違いなく、その素晴らしい美しさを正当に評価できる個人のためのものだ」
b1550.png

見つけた財宝を注意深く調査するため、モンティには数か月が必要だった。しかし、彼はその贅沢な時間を持つことは出来なかった。

彼は人生で最大の発見をした。しかし、時期が最悪だった。彼の母国があるヨーロッパでは、ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫っていた。侵略は数週間のうちに行われる!ナチスの攻撃はいつ起きても不思議でなかった。
モンティは心臓が張り裂けるような決定をすることになった。妻と小さな3人の娘は彼と共にエジプトを訪れ、新たな発見のたびに家族全員で喜び合っていたこともあった。しかし、今、彼らはフランスに戻っている。自分だけ残り続けて仕事を完了すべきか?それとも仕事を止めて家族の元に戻るべきか?
b1551.png
モンティは決断するまでに時間を使うことは無かった。財宝を箱に仕舞い込むと、発掘場所を閉鎖するよう指示した。仕事は停止され、彼はフランスの家族のもとに急いだ。その時、第二次世界大戦は始まったばかりだった。5年間は、エジプトに戻れないだろう。
b1552.png
財宝は直ちにカイロに移され、博物館の倉庫に保管された。それは考古学における重大な瞬間のひとつだった。その時、モンティによるスセネスの発見は世に知られる機会を失ったのだ。
b1553.png
サリマ「ヨーロッパは戦争に突入していて、エジプトでの考古学的な発見に注意を払う人などいなかったの。そのため、今日でも私たちはモンティの素晴らしい発見について、ほとんど知っていないのよ。」
b1554.png
ツタンカーメンが20年早く発見された時、世界中でトップニュースになった。彼のミイラが詳しく調べられた時、そこにはカメラが持ち込まれていた。
b1555.png
それはカイロ大学の解剖学教授ダグラス・デイリーが指導した壮大な出来事だった。
(mhデイリー氏は左から2人目です)

1940年、デイリー教授は別の招待を受けた。北エジプトで見つかった興味深い発見物を調べるよう要請されたのだ。スセネスという名の、よく知られていないファラオの遺体、または少なくとも彼の一部だ。
サリマ「スセネスはナイルデルタに埋葬されていたの。とても湿度が高く、湿った環境の場所よ。他のファラオたちは王家の谷に埋葬されていたけど、そこは砂漠の中にあるの。デルタに埋葬されると、湿っているおかげで、遺体は分解されやすいのよ。だから、デルタに埋められていたミイラを調べるのはとても大変なの」
b1556.png
デイリーは、今日から見ると、かなり簡単な検査をしていた。簡単に、スセネスは老人になって死んだとだけ報告していた。しかし、もっと重要な証拠を見逃していた。
b1557.png
デイリーが検査を終えると、遺骨は再び埋葬されることになった。王室の墓ではなく、大学の古物倉庫の奥深くに!
b1558.png
3千年も墓に入っていたスセネスの遺骨は、更に70年の間、調べられることもなく、公開されることもなく、倉庫に仕舞われ続けていた。しかし、今、デイリー教授の後継者で解剖学者のフォージ・ガバラ博士が、骨の検査を再開した。
ガバラ博士「私は言葉で表現できない程、感激している。この骨の詳細について公表されている資料はない。」

最初に行われた検査の証拠は残っていた。小さな骨はデイリー教授の古いタバコケースの中に仕舞われていた。
b1559.png
柔らかい遺留物は捨てられていたが、スセネスの骨は、彼がどんなファラオだったのかについて多くの情報を提示していた。彼は立つと5フィート半(165cm)近かった。体のつくりは頑強(がんきょう)だった。
b1560.png
デイリーも書き残しているように、スセネスは年を取ってから死んだ。平均寿命が35歳くらいだった時代だったが、彼は多分80歳に近かっただろう。歯の摩耗wear and tearは“ピニオン?”が在ったことを裏付けている。
b1561.png
しかし、ガバラ博士の調査の結果、驚くべき新たな情報が王の背骨の部位である7つの頸椎(けいつい)から現れた。
b1562.png
ガバラ博士「これは私の検査から現れた新たな発見だ。この脊椎(せきつい)は王が生きている時期に壊れ、曲がっていたようだ。デイリー教授は何もコメントしていなかったが私がそれに気付いた。これは“ショウファー・ディフラクション(?運転手回避?)”と呼ばれるものだ。つまりこの王は長く座っているタイプではなかったことを示している。このディフラクションは通常、上肢(じょうし)を使う激しい労働をしていたことを意味する」

スセネスの怪我の原因は今も判っていないし、不透明のままだ。しかし、他のファラオも烈しく働いたり運動したりしていたことが知られている。例えばツタンカーメンはチャリオットに乗って頻繁に狩りに出かけていた。そして、恐らく、その時の事故で足を折っている。トトメス3世(Thutmose III)はエジプトで偉大な戦士王の一人だ。闘いの日々を送っていた。しかし同時に熱心な庭師だ。外地に遠征すると珍しい植物を持ち帰り、王宮の庭に植えていた。

タニスTanisで何がスセネスを忙しくさせていたのかは謎だ。
b1563.png
学者たちは今それを想像しているだろう。スセネスの破壊された脊椎(せきつい)は時間をかけて直っていた。しかし、背骨には慢性的な病の証拠があった。
ガバラ博士「この王は楕円形をしている背骨の靭帯(じんたい)の骨化の過程で、結合組織の病を持っていた(??)。デイリー教授もこれを指摘していたが、原因については無視している」
b1564.png
スセネスの骨を初めて詳細に調べた結果は、彼の生活への洞察(どうさつinsight)を提供してくれた。そして、これまでで初めて、スセネスがどんな外見の男だったかを法医学芸術家が予測することが出来るようになった。
マリッサ「特に面白いのは、彼の頭を見ると、彼の右目の位置が左目と比べると少し高いことよ。眼窩(がんか)も右の方が高いわ。だから左の頬の骨も高いの。これは表情に反映されていたはずだわ」
b1565.png
マリッサ・ドレインは表情特定心理学psychology of facial identificationの学位を取得していて、FBI(連邦捜査局)で法医学的再構築を研究していた。3千年前に死んだ男のスケッチは銀のファラオを甦(よみがえ)らせた。
マリッサ「スセネスよ。ここにいるのが!」
b1566.png
マリッサ「彼は抜きん出て頑強な肉体を持ち、頭は大きくて体はかなり短いの。でも、体を、何か肉体的な運動で使うことにためらいは持っていないのね。更に、彼は沢山の上下の歯を失っているの。だから顎は、しっかり閉じることができて、ピーナッツを砕いているような様子をしているの。強い意志を感じさせる口の形で、何でもお見通しだよっていう感じの顔つきだったと思うわ」
b1567.png
死が近い時期、彼は背骨に極度の痛みを感じていたはずだ。そして歯の膿瘍(のうよう;出来物)が激しかったので、上あごに大きな孔が出来ていた。
ガバラ博士「ここに膿瘍でできた空間がある。感染した上あごには孔があいている」
彼は少なくとも人生のある時期、大きな肉体的苦痛を抱えていた。しかし、彼の死について骨は何かを示しているのだろうか?
ガバラ博士「私が骨を調べた範囲では、死に至る明確な原因は見当たらない。狭心症とかいった病気で死んだのかもしれない。骨は彼がかかっていた病を示しているが、死の理由については語っていない」

医学的な履歴を持っていたのにも拘わらず、スセネスが極めて長寿だったという事実は“とにかく彼は強く生き抜いた男だった”とエジプト学者たちに語りかけている。
サリマ「彼が強靭な体をもち、長く生きたという事実は、間違いなく、統治者としての成功に貢献したはずよ。彼は、46年間というとても長い期間、必死に国を治めていたの。ツタンカーメンはティーンエージャーで死んでしまったわ。だからスセネスのような人物なら、何か偉業を成し遂げていたはずよ」
b1568.png
46年に渡るスセネスの統治は、彼を、エジプトのファラオの中でも最も長いファラオにしている。墓から見つかった財宝や彼の体の遺物は多くの新しい情報を産み出してくれた。しかしなお、エジプト学者たちは、紀元前1千年頃の混乱の時代を理解するのに苦労している。
b1569.png
スセネスのようなファラオたちは王国の南にいた強敵と権力を分け合わねばならなかった。
ピーター「この暗黒時代のエジプトの歴史が、ファラオたちが最も権力を得ていた時代の次に訪れたというのは皮肉と言える」
実は、スセネスを悩ませた混乱は、あらゆるファラオの中で最も権力があったファラオによって2百年も前に既に始められていたのだ。
ピーター「エジプトはラムセス二世、つまりラムセス大王の時代に最高潮に達していた。彼は多くの建造物を造った、エジプトの歴史の中でも最も偉大な建設者だった。それに、彼は百人を超える多くの子供を持っていた」
b1570.png
ラムセスの前のエジプトには2つの拠点があった。テーベThebesとメンフィスMemphisだ。ラムセスの留まるところをしらない野心はナイルデルタに彼自身の全く新しい首都を造らせた。彼はそこをピラメスPi Ramesses“ラムセスの家”と呼んだ。しかし、新しい都市が将来のファラオたちにとって何を意味するのかを彼が見届けることは出来なかった。
b1571.png
ピーター「ナイルデルタは、ラムセスが植民地化して彼の偉大な首都を造るまで、エジプトにとって本当に国境のような場所だった。都市の建設は、あたかも、何かを投げて釣り合いを失うようなものだった。ラムセス大王のように強大な求心力をもつ統治者は体制を堅持できたが、力が弱い統治者ならナイルデルタはエジプトの領土ではなくなっていただろう」

テーベやメンフィスに次ぐ第三の権力拠点を造ることで、ファラオは政治的な抵抗の余地を産み出してしまっていた。そして、事件はテーベで始まった。
b1572.png
ファラオに挑戦できる力を持つただ一人の人物は、カルナック大神殿を管轄するエジプト最高位の祈祷師だった。
ピーター「高位の祈祷師という言葉は誤解を生みやすい。何故なら彼は、単なる宗教家ではなかったからだ。彼は寺院を通じて事業をしていた。重要な政治的なリーダーで、軍隊に命令することすらできた」
祈祷師たちは、死んだファラオの記憶を生き永らえさせるため、予めファラオから十分な報酬を得ていた。
b1572b.png
ピーター「王は寺院よりも国を重視していた。一方、寺院で暮らす祈祷師は、王の魂を維持し、王の建てた記念碑を維持し、王の記憶を生き永らえさせていた。それこそがエジプト王の基礎になるものだったのだ」
サリマ「王は祈祷師たちの歓心を勝ち取るため、彼らに魚釣りや狩りをする権利を与えたの。鉱山で採掘する権利やナイルに沿って交易する権利すらもね。だから彼らは沢山の富を得ていったのよ」
b1573.png
ピーター「彼らは時代と共に、どんどん豊かになり、ついには、なぜ我々が王になってはいけないのかと考えるようになったのだ」

スセネスの統治が始まる少し前の時代、高位の祈祷師たちは権力を求める行動playに出た。
ピーター「この壁には、高位の祈祷師がファラオとほぼ同じ大きさで描かれている」
b1574.png
「他の祈祷師たちは、高位の祈祷師の足元で、背が低く描かれている。それ以前のエジプトでは、相対的な立場を示すため、どの祈祷師もファラオより背が低く描かれていた。しかし、この絵で判るように、高位の祈祷師はファラオと同等の多大な権力を得ていたのだ」

祈祷師たちが彼らの権威を表面に押し出し、エジプトが二分割されると、5世紀続く混沌(こんとん)の中間期が始まった。高位の祈祷師はエジプトの南を手中にし、ファラオは前衛地frontierである北のデルタに追いやられてしまった。北と南のチェック・ポイントはメンフィスに近いナイル上に設定された。
b1575.png
とすれば、スセネスは、どんな手法で北の狭い一帯を王に相応(ふさわ)しい領域に変えていたのだろう?

調査員たちは、その手掛かりを見つけようと、スセネスの墓で見つかった財宝を調べ直すことにした。重要な証拠は、パテラと呼ばれる、小さな、重要とは思えない銀の皿に刻印されていた。
考古学者たちは、直ぐに、星と鳥が描かれたスセネスの御馴染みのサインに気付いた。しかし、このカトゥシュには、更に多くの絵文字が並べられていたのだ!
b1576.png
ヤスミン「パテラに刻まれたカトゥシュの説明は“完璧な神、二つの土地の王、高位の祈祷師アムン、神々の王、アムンに愛されるスセネス”と読めるわ。これが重要なのは、スセネスが北部における高位のアムン神の祈祷師という肩書を持っていたという事実が判るからよ」
b1577.png
彼が権力を持っていたことを理解する鍵はハイログリフの中にあったのだ。スセネスはファラオ以上の男だった。高位の祈祷師でもあったのだ。ついに彼の驚くべき蓄財の秘密は現れた。
ピーター「伝統的に、ファラオは税金から富を獲得していた。エジプト北部では少ない農夫たちが農作物のある割合をファラオの富のために税として収めていた。しかし、神殿の壁画で見たように、高位の祈祷師はファラオよりも豊かだった。そこで、スセネスは2つの収入源を組み合わせることにしたのだ。つまり寺院の富とファラオの伝統的な富の両方を自分のものにした」
しかし、スセネスはどんな方法で、このような確固たる立場を獲得したのだろう?それは、エジプトを統治してきた家族の家系図を見ると、はっきりしてくる。家系図の一番上にいるのは、南の祈祷師が反乱を引き起こした時期の家長だ。高位の祈祷師で、権力を握っていた男パネジェム1世(Pinedjem Iファラオ名)だった。
b1578.png
ピーター「パネジェムは紀元前1070年頃、ここカルナック神殿の高位の祈祷師だった。彼には4人の息子があり、そのうちの3人は高位の祈祷師の地位を継承した。残る1人がスセネスで、彼は北エジプトのタニスに行き、ファラオ(スセネス1世)になった。しかし、彼は、同時に北エジプトにおける神アムンのための高位の祈祷師の肩書も与えられていたのだ」
b1579.png
スセネスは頭が切れる政治家で、家系の団結力を利用することにした。
ピーター「スセネスは、弟がカルナックの高位の祈祷師を継承した時、自分の娘を嫁としてテーベに送ったという記録がある。こうして、エジプトの北と南の関係は強化されていた」
戦略的同盟によって親族の結束を固めることで、スセネスの家系はエジプト全土を手中に収めていた。

これが家長のパネジェム(Pinedjem I)だ。彼のミイラはテーベThebesで見つかった。
b1580.png
スセネスの母ヘンターウェイHenuttawyもテーベで埋葬されていた。
b1581.png
二人のミイラは乾いた砂漠の気候の中で保存されていた。

再びスセネスの石棺に話を戻すと、石棺は、彼の家族がどんなに大きな勢力をもっていたかを示す証拠を調査員たちに提供することになった。スセネスの名前に並んで花崗岩に刻まれていたのは、全く異なった王室の名前だった!
b1582.png
ヤスミン「このカトゥシュには、興味深いことに、ハザペンマートって書いてあるの。第19王朝の王メルエンプタハMerneptahよ!古代エジプトについて知っていなくても、この人物はスセネスじゃあないことは判るはずよ」
b1583.png
メルエンプタハはラムセス大王の息子だ!彼はスセネスが王位に就任した時より凡そ150年前にテーベで埋葬されていた。その墓は開けられ、石棺がタニスに運ばれたのだ!それは家族からスセネスへの贈呈品だった。
b1584.png
ピーター「石棺は、王家の谷から、砂漠を横切って運ばれなければならなかっただろう。そして、ナイルを下って北のデルタまで運ぶため、大きな船に載せられた。統治者たちは間違いなく友好関係をもっていた。でなければ、北と南を分ける国境を船で移動することはできなかったはずだ」
スセネスは、彼の家系が、歴史上で高貴なラムセスの家系の流れを汲んでいると示そうとして、石工に命じて、王家の谷から運んできた石棺に刻まれていたカトゥシュの隣に自分のカトゥシュを刻ませたのだ。
ピーター「メルエンプタハの石棺を使うことによって、彼は自分とラムセス大王を関係づけ、永遠の生命のために、エジプトの偉大な過去の統治者たちとも関係づけたのだ」
b1585.png
銀のファラオの墓を巡る物語は混乱や闘争ではなく、もっと異なる何かによって残されている。政略結婚や重要な同盟関係で繋がっていた彼の家系を通じ、スセネスは、望み通り、富と権力を獲得した。しかし、疑問は残っている。彼はそれをどのように利用したのだろう?

最近の発見は、スセネスが、古代の最も驚くべき業績の一つにおける影の功労者だったことを証明している。石のブロックを一つずつ移して大都市を移設したのだ!
b1586.png
ラムセス二世の伝説の首都ピラメスが在った本当の位置は、考古学における、世界の大きな謎の一つだった。50万人が暮らす都市で、古代世界で最も大きい都市の一つだったが、砂の中に消失していた。
サリマ「その都市は、何十年もの間、エジプト考古学における聖杯だったの。ピラメスを探せ!ってね」

スセネスの墓が発見される前の1930年代に、ピエール・モンティは多くの古代の叙事詩をタニスで掘り当てていた。その時、彼は驚くべき可能性を疑い始めていた。自分は、考古学の聖杯を見つけたのではなかろうか?
サリマ「モンティは失われた都市ピラメスを見つけたと完璧に確信していたの。そこで報告書の中でタニスとピラメスは一つで、同じものだと書いたの。そう考えた理由は、タニスで彼が見つけた石のブロックのどれを見ても、丁度、これと同じようなラムセス二世の名前が見つかったからよ」
b1587.png
「カトゥシュで、ラムセス二世の王名(注)よ。これと同じカトゥシュがタニスのあちらこちらでも見つかったので、モンティは、こここそがピラメスだ!って確信したの」
(注:エジプトのファラオは王名と即位名をもっています。ラムセス二世は王名で、即位名はウセルマアトラー・セテプエンラー。因みに、ツタンカーメン(Tutankhamun)は王名で、即位名はネブケペルウラーです)

モンティや世界中の考古学者たちにとって、この発見は単に王家の墓を掘り当てることなどとは比べ物にならない重要な意義を持っていた。
b1588.png
しかし、モンティは一つの決定的なミスを犯していた。

地上を見る限り、彼の理論は理にかなっていた。なぜならタニスTanisは河岸の都市だったし、古代の記録によれば、都市ピラメスもナイルの河岸にあった。しかし、エジプトのデルタでは、ナイルは、いつも同じ場所を流れているわけではない。多くの支流を持っているが、その流れは時と共に場所を変える。ある場所が泥で埋まると別の場所に水があふれだすからだ。
b1589.png
1970年代、考古学者たちはモンティの発見に疑問を投げかけた。彼らはピラメスが在ったというタニスから20Km離れた小さな場所に注目した。そしてモンティが見逃していた、長年失われていたナイルの支流の証拠を見つけた。
b1590.png
サリマ「彼らは、その場所で発掘を始めたの。そしてラムセスの時代の多くの土器の隠し場所(キャッシュcache)を掘り当てたのよ。そこで地中探査レーダーを持ち込んで、一帯を調べてみることにしたの。すると、地下から巨大な都市が現れたてきたのよ」
b1591.png
都市の基礎、かつてナイルが流れていた場所の痕跡など、ラムセスの失われた都市の幽霊とも言える映像がレーダー走査の結果の中で全て見て取れた。
b1592.png
そこには寺院も、軍施設もあった。

サリマ「彼らはラムセス二世の厩舎(きゅうしゃ)跡も見つけたの。それはとても大規模な厩舎で、何百頭もの馬が飼われていたのに違いないわ。馬の訓練でよく使われたと思われる場所には、沢山の馬の足跡も見つかっているの。間違いなく、ラムセスのものとしか考えられない、信じられない程に大きな複合都市があったのよ」

今日では、都市の痕跡すら地上に見ることはできない。広大な建物群は完全に消えていたのだ。しかし、そんなにも広大な都市が、どうして、こうも完璧に消えてしまうのだろう?
b1593.png
今日、考古学者たちは、ここを流れていたナイルの支流がひどく泥で埋め尽くされ、流れを変えてしまったことを知っている。都市ピラメスは文字通り高く(?high)なり、乾き切ってしまった。生命の維持は不可能になった。記録は、紀元前1047年にスセネスが王に就任した頃、この危機が起きていたことを示している。そこで、彼はピラメスの偉大な記念碑を全て解体し、タニスに移すことにした。スセネスは、首都を建てるほどの力は持っていなかったかも知れないが、都市を救ったのだ。
b1594.png
サリマ「それがどんなに大きな仕事だったか考えてみてよ。アメリカのワシントンDCに在るホワイトハウスやリンカーン記念堂を、記念碑を、バルティモアBaltimoreまでの道のりの半分ほど運ぶのよ」

レーダー走査がなかったら、スセネスの驚くべき業績は現れてこなかったかも知れない。モンティは、結果としては、確かに、ラムセスの伝説的都市の偉大な叙事詩を発見した。
b1595.png
しかしそれは、スセネスが元の場所から移したものだったのだ。
ここで発見された遺物とレーダー走査の結果を照らし合わせた考古学者たちは、ピラメスの寺院が、モンティがタニスで見つけた寺院と同じ形で造られていたことを確認している。
b1595a.png
スセネスは都市の全てを、一つずつpiece by piece移設する力を持っていた。そして、ここタニスから、彼は、ファラオとして、また高位の祈祷師として、信じられない程に強大な権力を行使していた。
サリマ「都市をある場所から別の場所に移せたのは、スセネスが労働力や組織力や優れた官僚組織を持っていたという明確な証拠よ。彼は新しい都市に命を吹き込む機智と熱意を持っていたの」

スセネスの富と、権力と、長期にわたる統治は、彼にファラオが行わねばならない最も重要な決断を計画する贅沢を与えてくれた。死後の世界にどう対応したらよいのか?
墓に持って行くものの選択は重要事項だった。しかし、とエジプト学者たちは不思議がる。何故、彼は棺に銀を選んだのだろう?純銀100Kgが使われている!
b1595b.png
古代エジプト人には、黄金は全く錆びることがないので“神々の肉”として知られていた。神と同じように、永遠の輝きを持っていた。一方、銀は色が淡く、控えめに輝いていることから“神々の骨”と呼ばれていた。古代エジプトには天然の黄金は埋蔵されていたが、銀はほとんどなかった。従って、初期の王朝では、銀は金より貴重だと考えられていた。しかし、スセネスの時代までには、外地との交易ルートを開発し、商人たちは銀を取り扱うようになっていた。紀元前1千年には、銀の価値は金の凡そ半分まで低下していた。しかし、スセネスが最高品を手にする余裕があったのは間違いない。彼の財宝のいくつかはツタンカーメンの財宝と比べても劣らない。
b1595c.png
考古学者で銀細工師のジョン・プリヴィットは何故、スセネスは銀を選んだかという疑問について調べている。
ジョン「銀は比較すると安価だったかもしれない。金ほどには高価ではなかった。しかし、加工は、手間がかかる上に高度な技術を必要とする。銀は金よりも固い金属で、金と比べて展性(てんせい;延びやすい性質)が低いからだ。その都度、加熱して結晶構造を柔らかくしないと加工が困難だ。この加工過程を何度も繰り返すとなると時間や労力や燃料が必要になる。銀の細工は金を細工する場合よりも多くの負担がかかるのだ」
スセネスが高い品質や芸術性を望んでいたのは明確だ。あの世に一緒に持って行くのだから費用は度外視していた。
棺の体の部分は、銀を叩いて延ばした薄い繊細なシートで出来ていたので、墓から出す際に、一部が損傷していた。
b1595d.png
頭の部分では銀はもっと厚い。鼻や口の周りの思わせぶりな痕跡は、鋳型(いがた)を使って鋳造してから叩いて形を整えたことを暗示している。
b1595e.png
エジプト人は古い昔に貴金属の鋳造技術を習得していたことが知られている。鋳造した後の表面は、このような外観を呈している。
b1595f.png
スセネスの細工師たちは、これを叩き、磨きながら彼らのファラオに似せていった。その工程では数百時間の骨の折れる作業が必要だった。

今日、銀の棺はエジプト博物館の偉大な財宝の一つだ。それは、ピエール・モンティの素晴らしい発見を永遠に思い出させてくれるだろう。第二次世界大戦の後で、彼はいくつかの新しい発見をした。
b1595g.png
しかし、それらの中には、銀のファラオほどに眩(まぶ)しいものは一つもない。1966年、ピエール・モンティは死んだ。発掘した都市がピラメスと信じたまま。しかし、スセネスの墓の発見という彼の素晴らしい成果は、考古学における重要な切っ掛けmomentとして残るだろう。スセネスは、ラムセス二世やツタンカーメンのような名声を楽しむことは決してないだろう。しかし、彼の星は天空で輝いている。
b1595h.png
調査員たちはモンティが始めた仕事を引き継いで、エジプトの暗黒時代を考え続けている。

サリマ「スセネスは信じられないほどの男だったのよ。ある場所から別の場所に首都を移し、墓泥棒も横行していた荒廃の時代に素晴らしい墓を自分のために造ったのだから。彼の価値は再評価されるべきだし、わたしたちは、第21王朝の記憶すべきこのファラオにもっと注意を払わなければならないと思うわ」
b1596.png
スセネスは、手が込んだ埋葬地を造るよう指示したことで、不滅への切符を買うことが出来たと信じていたかも知れない。3千年後の今、我々は当時を振り返って、“彼は正にその通りにした”と言うのだ。
b1596a.png
The Powerful Black Pharaoh That Is Called..SILVER ??
https://www.youtube.com/watch?v=9HMK7yih8eE

Wiki: Psusennes Iから得た情報です。
Gold burial mask of King Psusennes I, discovered in 1940 by Pierre Montet
第二次世界大戦が始まった1940年にピエール・モンティが発見したスセネス1世の黄金の埋葬用の面
b1596b.png
Gold and lapis lazuli collar of Psusennes I
スセネス1世の黄金とラピスラズリの首飾り
b1596c.png
カイロ博物館/スセネスでみつけた財宝もご紹介しておきましょう。
金とラピスラズリで作られた腕輪にはスセネスのカトゥシュがあります。
b1596d.png
胸飾りと首飾り;ラピスラズリやその他の玉石が使われています。
いずれにもスセネスのカトゥシュが付いています。
b1596e.png
首飾り
b1596f.png

スセネスの墓に黄金の副葬品が見つかったのは、彼の死後に誰かがこれらの品々を遺体と一緒に埋葬したからですが、その人物は何故、そんなことをしたのか?スセネスに限らず、エジプトのファラオは、いやいや、ファラオに限らず、古今東西、全ての権力者の墓には、庶民から見れば目の玉が飛び出るような金銀財宝・貴石・芸術品などが遺体と共に埋められています。何故、そうなったのかについては、幾つかの理由があると思いますが、根底には、死後も別の世界で生き続けるという思想があるからでしょう。我が尊敬するお釈迦様は、副葬品を所望(しょもう)していませんから、人類の歴史の中で名を残している統治者などとは異質の人物です。お釈迦様すら黄金の副葬品を所望しなかったのですから、mhも死後の世界での生活を配しなくて済むようになったということはありがたいことだと思います。そうでなければ、mhは、今頃、必死に、資産を金の延べ棒に替え、死んだら必ず遺体と一緒に埋葬するよう、頼りない子供達に強く遺言し、子供達が遺言を守ってくれるかどうか、心配しながら死んでいかねばならないのですから、とてもやっていられません!

で~日本人でも、黄金の副葬品を所望しながら死んでいく人って今でもいるんでしょうかね?今上天皇の明仁(あきひと)は従来の伝統を破り、火葬で埋葬してほしいと侍従に伝えているようですから、多分、埋葬品は質素な、愛読書とかそういった全く個人的なものばかりではないかと思いますが、天皇を除く日本国民の中にも、黄金の副葬品を所望している人がいるのか?戦国時代、秀吉や信玄が財宝を密かに地中に隠したっていう都市伝説のような話が伝わっていますが、それが事実としても、彼らの財宝はあの世の生活のためではなく、この世に残る子孫の繁栄を願ったものでしょうから副葬品ではなく埋蔵金と呼ばれています。今も見つかっていないようですから、埋蔵した意味が失われているってことで、冷静に考えれば埋蔵はされていなかったと考えるのが合理的でしょう。

埋蔵して残さねばならない資産を持つ人は、持たない人と比べて余計な心配を抱えていると言えますから、そんな心配をしなくて済むmhは幸せ者です。

(完)

PageTop

mh徒然草: お年寄りの一人暮らし


高齢化や晩婚化が進み、一人暮らしのお年寄りが増えているようですね。団地内で朝、散歩をしていると、徒歩20分の地下鉄の駅の方向に一人で黙々と歩いていく、リュックサックを背負った高齢者によく出会います。mhのように、部屋に閉じ籠(こも)ってブログ作成に追われているより、外に出て、歩いて、いろいろ見て回って、レストランで日替わりの食事を楽しんだり、スーパーで買ったお弁当を公園のベンチで食べたりする方が、肉体的にも精神的にも知的にも良いのは間違いないでしょう。

しかし・・・一人で歩いている姿は、どことなく寂し気です。やっぱ、家族や友人など、You raise me upではありませんが、応援団をもっていないと人間は寂しくていけないなぁと思います。その点、mhは、口うるさいという難点はあるものの、いつも気を使ってくれる女房殿がいますから、幸せ者だと思いますが、時には、この幸せを逃れて、アフリカや中国などに旅をして一人になりたいと思ったりしていますから、一概には言えないのですが・・・やっぱ、一人ではなく、誰かと繋がりながら、助けたり助けられたりして生きる方が幸せだろうと思うのです。

で・・・リュックサックを背負って毎日、一人で、どこかに遠出しているご老人ですが・・・私も、不幸にして女房殿が先立てば、そうなるのでしょうが・・・でも、思うんですが、一人暮らしをしているよりも、老人ホームに入って、同じ境遇の仲間と共同生活をし、時には仲間と外出したり、一人で図書館やダウンタウンに出かけたりして自由な時間を過ごす生活の方が楽しいのではないでしょうか。私なら断然、老人ホームの生活を選ぶと思います。しかし、一人で暮らす人が多いんですねぇ、世の中は。

お釈迦様が仰る通り、因果応報で、それなりの理由があるわけですが、もしそれが、入りたい老人ホームが見つからないということなら、日本の福祉は不十分です。防衛費よりも老人ホームを増やしてほしいと思います。で~老人ホームの加入申し込み状況を調べてみようかとも思ったのですが、ずぼらなmhの重い腰は上がらず、幼稚園や保育園に入るのも大変なんだから、老人ホームはもっと大変じゃあないの?ってな当てずっぽうな推論をもって結論することになってしまいました。

年を取って思うのですが、一人で楽しめる趣味を一つや二つは持っていないと、老後を幸せに暮らすのは難しいでしょう。それがリュックサックを背負って外出することでも好いと思いますが、また繰り返しになるのですが、時には話が出来る相手を持っていないと寂しくていけません。ブログ三昧(ざんまい)のmhとしては、口うるさい女房殿には元気で長生きしてもらい、もし、当方が愚痴をBGMのように聞き流せる心境になれたらしめたものです。

IAN & SYLVIA
Song For Canada Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=GOVWBybPNuk
(歌詞)
How come we can't talk to each other any more?
Why can't you see I'm changing too?
We've got by far too long to end it feeling wronged
And I still share too much with you

Just one great river always flowing to the sea
One single river rolling in eternity
Two nations in the land that lies along its shore
But just one river rolling free.

How come you shut me out as if I wasn't there
What's this new bitterness you've found?
However wronged you were, however strong it hurt
It wasn't me that held you down.

Why can't you understand I'm glad you're standing proud
I know you made it on your own
But in this pride you've earned, I thought you might have
learned
That you don't have to stand alone

Lonely northern rivers come together till you see
One single river rolling in eternity
Two nations in the land that lies along its shore
But just one river, you and me
(完)

PageTop

ピラメスの不思議


ピラメス???

初めて聞いたと思われる方はブログ「ラムセス2世の不思議」を読み直して頂かねばなりませんが、時間がかかりますから、今回はパスして頂いてもよろしいですが・・・
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-187.html

“ピラメスPi Ramesses”は“パイラムセス”とも読まれているようですが、意味するところは“ラムセスの家”で、ラムセス2世(ラムセス大王;紀元前1303 ―同1213)が創った都の名前です!

で~都ピラメスは何処にあったのか?

エジプトと言えばナイルですね。ビクトリア湖から地中海に向けて流れる世界有数の大河です。mhもルクソール(旧テーベ)から上流のアスワンまで4泊5日のクルージングを楽しませて頂きました。一生の思い出の一つです。

で~ナイル中流の都市ルクソールLuxorは、古代はテーベThebesと呼ばれ、ナイル東岸にはカルナック神殿、西岸には王家の谷をもつ、エジプト帝国の偉大な都の一つです。都といえば、ナイルデルタが始まるメンフィスMemphisも有名です。カイロの中心から約20Km南(ナイル上流方向)にありました。
b1401.png
で~エジプト帝国3千年の歴史の中で、最も偉大なファラオと言っても好いラムセス2世の都はというと~
テーベではなく、メンフィスでもなく、ピラメスPi Ramessesなんですね。

で~何処にあったのか?

ナイルデルタで、ナイル川の最も東側の支流の河岸にあったってことは古代の記録から判っていたようです。しかし、長い間、その場所はベールに包まれていました。で、比定されたのは3千年後。つまりつい最近なんですね。タニスTanisという町の南20Kmにありました!
b1402.png
ピラメスが見つかった町の名はカンターQantirといいます。
b1403.png
Google Earthで見つけた上の写真では、ラムセスのカトゥシュ(楕円の中に名を記したもの)が肩に彫られた巨像が横たわっています。ここはタニスTanisです!

えぇ???カンターQantirじゃあないの???

カンターでもピラメスでもパイラムセスでもありません!!!タニスです!

ピラメスPi RamessesがタニスTanisではなく、カンターQantirに在ったと比定されることになった経緯を
Youtube: Lost Cities Of the Ancients ; The Vanished Capital Of The Pharaoh
“古代の失われた都市:ファラオの消えた都”
でご紹介いたしましょう。
・・・・・・・・・・・・
古代エジプトの全ての不思議の中で、ラムセス二世の首都ピラメスは一際目立つ存在の一つだ。
b1404.png
ラムセスは自分の都市造りに、富をふんだんに注ぎ込んだ。しかし、古い昔、その都市全体も、宝物も、地上から消え失せてしまったのだ。
b1405.png
この考古学上の不思議なパズルが3千年後に解き明かされるまで、失われた都市ピラメスは伝説の中に埋もれ続けていた。何故なら、ピラメスが再び出現した時、それは間違った場所にあったのだ!
b1406.png
ラムセス大王はその場所に都を造っていなかった。ラムセスが生きていた時代、そこには町などなかったのだ。

これは、どのようにして都市が失われ、数千年後に全く違う場所に出現することになったのかという、奇妙な物語だ。

エジプト:紀元前1250年
b1407.png
今から3千年以上も昔、エジプトは歴史上に大きな足跡を残した建設の主Master of Builderのファラオによって統治されていた。
b1408.png
ラムセス二世は古代世界で偉大な王だった。60年に渡りエジプトを統治し、百人を超える子供の父親でもあった。彼は帝国全土に寺院や記念碑を建てた。

しかし、彼の心にもっとも強く刻まれたであろう傑作は、自分にちなんだ名前の都市ピラメスPi Ramessesだ。
b1409.png
巨大な砦のような王宮は、訪れる人々が感銘を受けるように設計されていた。都市はラムセスの野心的な創造物の一つだった。古代エジプトと地中海とを結ぶナイルの要衝に造られ、古代世界のハブ港としても繁栄していた。
b1410.png
貴族や職人や奴隷など、30万人の富豪や貧しい人々たちが暮らしていた。商人が遠方からやってきては交易をしていた。都市の中心には、数千人の兵士やチャリオットや騎兵が常駐する巨大な守備軍基地が造られていた。数百のチャリオットと馬が常備され、王はピラメスから軍隊を率いて遠征していた。
b1411.png
ラムセス二世は都市建設の手を弛(ゆる)めることは無かった。毎年、大きな像が町中で造られていた。彼が統治していた間、職人や労働者は帝国中から集められ、新しい像や記念碑の建設に充てられていた。王の権力の中心だったピラメスは、永遠に続く都市に思われた。
b1412.png
しかし、造られてから2百年後、都市の全てが消滅してしまったのだ。以降、数千年間、ピラメスは全く失われたままだった。都市の運命は伝説の中に埋もれ続けていた。ピラメスを発見しようと近代の考古学者たちは競い合った。しかし、そこには考古学上の奇妙な捩(ね)じれが準備されていたのだ。
b1413.png
20世紀が始まるまで、エジプト学者たちは不思議に思い続けてきた。偉大なファラオの全ての都市は発掘されていた。但し、ピラメスを除いて!
アイダン・ドドソン博士「ピラメスは見事な都市で、エジプト学者の全てが見つけたいと望む聖杯のようなものだった」
b1414.png
ラムセスが、彼の都を、伝統的な権威の象徴のカルナック神殿やルクソール神殿があるテーベThebesの近くに造らなかったことは、古代の記録から誰もが知っていた。
b1415.png
彼は大ピラミッドが建てられている現在の首都カイロの近くのメンフィスにも首都を造らなかった。その代り、自分が育った場所、青々としたナイルデルタ、に首都を造ったのだ。
b1416.png
ナイルが分岐し、地中海に注ぎこむ所だ。記録によれば明確だ。彼は、デルタの中の、最も東寄りのナイル支流の河岸に都を建設した。とすれば、ピラメスを探し出すのは簡単だと思うかも知れない。しかし、そう考えるのは間違いだ。
アイダン博士「ピラメスを探す上での問題の一つは、当時、デルタの最も東側を流れていた支流が既に消えてしまっていたことだ」

昔から、デルタを流れるナイルの支流は、しばしばコースを変えていた。ラムセスの時代に最も東を流れていた支流は消え失せ、その位置は簡単には分からない可能性が高かった。支流の位置がわからないまま、デルタの東側で、ピラメスの遺跡を探さねばならない。
b1417.png
しかし、幸運なことに、考古学者たちは、ピラメスがどんな所だったのかを古代の記録から知っていた。
b1418.png
アイダン博士「まず、ピラメスは守備軍基地の都市だった。ラムセス軍がパレスタイン(中近東の古代国家)に遠征する拠点で、大規模の兵士やチャリオットが常備されていたはずだ。更には、多くの像や記念碑も建造されていた」
b1419.png
ラムセスは石から像を彫りだし、磨き上げる労働者や職人や石工の生産ラインを持っていた。ピラメスには数百のファラオ像があった。石像のいくつかは20mの高さだった。
b1420.png
次の特徴だが、ラムセスの名を記(しる)したカトゥシュが都市の重要な記念碑に彫られていたはずだった。カトゥシュは、それが誰のものかを物語るブランドのようなものだ。
アイダン博士「これがラムセスのカトゥシュだ。丸い太陽を頭に載せて椅子に座っている鷲が、太陽神ラーだ」
b1421.png
「椅子の下の右側のマークは“メス”、隣の2つのマークは“スー”と読む。つまり“ラーメススー”となる。上の一番左のマークは偉大な神アムンだ。従って全体で“神ラメス”、“神に愛されているラムセス”となる。」

アイダン博士「ピラメスに大寺院があったことは判っている。特に、アムン神を祀るものだ。ラムセスが暮らしていた町なら寺院がなければならない」
そして、勿論、ラムセス自身が棲む王宮があった。
b1422.png
アイダン博士「ファラオが棲んでいる王宮については、我々は多くの情報をもっている。長い通路と大広間があり、壁は漆喰で塗られていただろう。誰が見てもラムセスの王宮と判る構造物だったはずだ。」

もし、ピラメスと思われる所を見つけたなら、これらの重要な要素がそこで見つかるはずだ。当然のことだが、それらは、ラムセス二世の時代のものでなければならない。これら全てを見つけたなら、ピラメスを探し当てたと言える。

ラムセスの都市がついに発見されることになる物語の始まりは、1920年代に遡(さかのぼ)る。
考古学者たちはファラオの失われた宝物を探してエジプトの大地を訪れていた。どこかでピラメスが発見されるのを待っているはずだった。
b1423.png
彼らは、ラムセスの失われた都市を求めて人里離れたデルタの東側を歩き回っていた。誰も訪れたことがない場所で自分がピラメスを探すのだ!

一人の男がその挑戦を始めようとしていた。ピエール・モンティPierre Montetはフランスで有数の考古学者だった。歴史に名を残す発見をしたいと考えていた彼は、探検隊を編成し、ナイルデルタを訪れた。彼はナイルの奥深くに、それまで十分に調査されたことがない奇妙な場所があるという話を聞き、重要な遺跡かもしれないと考えたのだ。失われていた宝物かも知れない!
b1424.png
モンティの目的地はタニスTanisだ。ナイルデルタの北東で、人里離れた、月の表面のような所だった。
b1425.png
モンティが大地に残されていた遺跡に近づいた時、見事な、失われていた世界を見つけたのではないかという気分は高まった。
モンティ「重要な遺跡のようだな」
b1426.png
しかし、タニスはモンティが期待した以上のものだった。古代のナイルはどこかに消えていたが、残されている遺物は全てラムセスの都ピラメスと整合していた。見た全ての場所で、彼はラムセス大王を示す証拠を見つけることが出来た。
b1427.png
モンティ「カトゥシュには“アムン(神)のラムス”とある!」
b1428.png
これこそが、ピラメスであることを確認する決定的な証拠だった。
モンティが初めて訪れたタニスは、疑いもなくラムセス二世の失われた都市で、それは彼の足元に横たわっていた。
しかし、その場所は、後日、モンティが考えもしなかった理由で有名になる。
b1429.png
タニスに残されていたものは、エジプト学におけるモンティの名を確固たるものにする。1年もしない内に、彼は本格的な発掘を始め、彼の指導のもとで作業は精力的に進められた。雑誌を発行し、遺跡はアムン神を祀る寺院だと公表した。作業が進むにつれ、モンティの名声と評判は世界中に広がった。彼のチームが発掘すればするほど、ラムセスの像やオベリスクが出土した。全ての品物は、ここが間違いなくラムセスの都市であることを示していた。
b1430.png
記録によれば、ラムセスは、彼の統治を通じて、都ピラメスで自分のイメージをもつ巨像を造り続けていた。像を造るための労働力も十分に備えていた。間違いなく100以上の像がピラメス中に建てられていた。従って、モンティが多くの像を見つけ出したのも当然といえる。像の多くは巨大で、そのいくつかは数千トンもあった。長く姿を留められるよう、固い御影石で造られていた。遺跡を発掘すればするほど、モンティはタニスがピラメスだと確信していった。彼は、当時の都の様子さえ思い浮かべることができた。
b1431.png
アイダン博士「ピエール・モンティは当時、偉大なフランス人発掘家だった。遺跡から当時の姿を想像する鋭い能力を持っていた。しかし、タニスには、何か奇妙なものを感じていた」
それは正しい。タニスには何かおかしな点があったのだ。タニスで見つかる石や像が語っていないことだった。モンティはそれに気付くのを拒否していた。
部下「何か妙な感じですね」
モンティ「数千年経(た)っているんだから、少し変でも当然だろう。・・・反論でもあるのかい?」
b1432.png
同僚「そういう訳じゃあないんですが・・・本来ならあるべき欠片が見つかっていないし・・・妙な感じがするんです」
b1433.png
数千年も経過しているのだから像の一部が見つかっていなくても異常という訳ではない。しかし、タニスで見つかる物は、全て、取ってつけたような感じなのだ。最初から在ったという雰囲気が感じられない。それが、この地を奇妙に思わせていた。

すると、新たな発見があった。それは、ピラメスがどこか別の所にあったと感じさせるものだった。
b1434.png
モンティ「見せてみろ」
部下「彼らはこの破片を30Km離れた場所で見つけたと言っています」
b1435.png
モンティ「カトゥシュは間違いなくラムセス二世のものだな。しかし、このタニスにはピラメスを示すカトゥシュが山ほどある。石像やオベリスクだってある。我々がピラメスの上に立っている証拠だ。カルナックと同じように大きい寺院だってあるんだから。さ、発掘の仕事に戻って!」
b1436.png
モンティは、残りの人生の間、ラムセスの偉大な都市ピラメスをタニスで発見したと確信し続けていた。実際の所、彼は発見していたのだ!タニスに残っていた遺物はラムセスの見事な都市のものだったのだ。しかし、彼の発見には妙な捩じれがあった。何故なら、そこはラムセスが町を造った所ではなかったのだ。
b1437.png
モンティがその不思議を知ることはなかった。それは60年後、科学の力によって明らかになる。

ピエール・モンティは1966年に死んだ。その同じ年、オーストラリア人考古学者マンフレッド・ビータックManfred Bietakは、モンティの発見を調べてみようとタニスを訪れた。そして彼はついに、ラムセスの失われた都市に関する秘密を解き明かすことになる。
b1438.png
タニスでビータックが感じたのは奇妙さだった。論理に欠けている!
ビータック「これらは確かにピラメスの遺物だ。しかし、間違った場所で見つかっているんだ」
彼はそれを証明出来る証拠を持っていた。
b1439.png
ビータックは古代のナイルの流れに関心を持っていた。タニスを訪れた時、彼はピラメスの妙な事実に気付いたのだ。彼は、ファラオの時代におけるナイルデルタでの川の様子を地図上で示したいと考えていた。
b1440.png
今日では、デルタには2つの支流がある。
b1441.png
しかし、支流は、何度もコースを変えていたことが判っている。歴史を通じ、ナイルはデルタのあちらこちらに流れを振っていた。昔の支流は水が涸れ、乾ききって、姿を失ってしまっている。ナイルの支流が運んでくる多くの土が河床に堆積すると、海へ続く別のルートを見つけ出そうする水が、流れの方向を変えてしまうのだ。時には、河岸を越えて、全く別の方向に流れ出すこともあった。

古代の水流の跡を調べる唯一の方法は、地上での等高線contourを調べることだった。
b1442.png
古代の河床の位置の兆候は等高線地図の中に残されているはずだ。専門家ならば、今は乾燥しきっていても、昔、川が流れていた場所を探し出すことが出来る。等高線地図を分析することで、ビータックは古代にナイルデルタの東部を流れていた全ての支流を一つの地図上に描き出すことが出来たのだ。過去数千年の間に水が流れていた支流の跡は沢山見つかった。
ビータック「これがその地図だ。古代から現代までの全ての流れのルートが判る」
b1443.png
地図はピラメスを示す証拠の一つになるはずだ。都市がどこになければならないかを示している。古代の記録によればピラメスは最も東を流れる支流の河岸にあった。ビータックの仕事はラムセス大王の時代に最も東を流れていた支流のルートを確定することだった。そのためには、全ての支流がいつの時代のものか年代特定しなければならない。その作業を土器で行うのだ!

古代エジプトでは、都市や居住区はナイルの河岸に造られていた。
b1444.png
デルタにおいてもナイル支流の水の流れは飲料水や生活排水や運送に欠かせなかった。古代の町のように、ピラメスにも人で賑(にぎ)わう通りや居住区があり、そこには何トンものゴミや土器の破片が捨てられ、残されていた。その土器が見つかれば、年代が推定できる。つまり、都市があった時代が判るのだ。古代に流れていた全ての支流の付近で土器を見つけ出せば、どの支流に、いつ頃、水が流れていたのかを言い当てることが出来る。
b1445.png
全ての土器や陶器は、それが造られた時期に応じた特徴を持っている。粘土の種類、製造方法、焼き固めたり釉薬を施したりする手法は、全て固有の時代を指し示す。
ビータック「陶器を調べるだけで、30年から50年の精度で造られた時代が判る」
b1446.png
つまり、支流の地図と彼が持つ陶器の年代に関する知識を組み合わせれば、ビータックは、いつ、どこをナイルの支流が流れていたかを正確に言い当てることが出来た。更に、陶器の量は、どこに最大の居住区があったかも教えてくれる。彼は多大な努力を注入してデルタにおける土器の情報を収集していたのだ。

ピエール・モンティが予想したように、タニティク支流として知られるナイルの支流の一つは、モンティがピラメスを見つけたタニスTanisの近くを流れていた。
b1447.png
問題はビータックがその支流の時代を年代特定した結果だ。支流にそって見つかった土器はピラメスの時代のものではなかった。タニティク支流はラムセス大王の時代、存在していなかったのだ!
ビータック「つまり、タニスはピラメスではあり得ない!」
b1448.png
ビータックが見つけた事実は驚くべきものだった。タニスではラムセス大王の時代の土器は見つからなかった。彼の死から2百年後の土器ばかりだった。ピエール・モンティがタニスで見つけた遺物が全てピラメスの物であったとしても、そこに偉大なファラオが彼の都を建てることなどできなかったのだ!

モンティが発掘を進めていた当時、タニスで多くの土器が見つかっていた。モンティは、見つかった全ての像やオベリスク同様、土器もラムセス二世の時代のものだろうと思っていた。だから土器を詳細に調べなかった。もし調べていたら、モンティはタニスの奇妙な事実に気付いていただろう。ラムセス大王の時代、タニスには偉大な都市は無かったのだ。
b1449.png
ビータック「ここにはラムセスの都市は無かった。しかし、残されていたものは全てラムセスと関係するものだ。だから問題が起きたのだ」

タニスで見つかった記念碑も、建物も、像も、疑いもなくピラメスのもので、ラムセスが造ったものだ。奇妙なパラドックスだ。素晴らしい都市が何故、造られもしなかった場所に出現したのか?最初に造られた場所は、一体全体、どこだと言うのか?
b1450.png
ビータックは興味を持った。モンティが残したパズルを解かねばならないとまで思うようになった。ピラメスの本当の位置を見つけるのだ!地図のおかげで、彼はそれを探し出す手段を持っているといえた。見つかった土器の情報から、一つの川が突出していた。全長100Kmのペルージア支流Pelusischerだ。
b1451.png
この古代の支流に沿って、ラムセス大王の時代の土器が見つかっている。ラムセスの時代、この支流がデルタの最も東で、活発な流れだったのだ。従って、ピラメスは、今は失われているペルージア支流の河岸になければならない。

この時点からビータックはドイツ人考古学者エドガー・プッシュEdgar Puschとチームを組んで都市を探すことにした。
b1452.png
プッシュ「ここがタニス。で、ピラメスではないことは判っている。そして、ここにペルージア支流を見つけている。その流れに沿って、ピラメスの時代の土器を発見している。特にカンターQantirの一帯で見つかった土器の量は多い」
b1453.png
実は、彼らはカンターがピラメスではないかと推定する手掛かりをモンティの調査から得ていたのだ。モンティが発掘調査していた時、彼はカンターで発見された石の欠片を見ていた。そこにはラムセスのカトゥシュが彫られていたが、無視したのだ!

ここがカンターだ。タニスの30Km南の地点だ。ここが失われた都市ピラメスなのだろうか?
b1454.png
プッシュが初めてカンターを訪れた時、そこには見るべきものは何もなかった。像も、オベリスクも、寺院も、見当たらなかった。失われた偉大な首都だったことを示すものは何もなかった。
b1455.png
プッシュ「最初にこの地を訪れた時、ショックを受けた。地上には何も見るべきものが見えなかった。どこから手を付けたらよいかを示すどんな手掛かりも無かった」
カンターはエジプトでも最も肥沃な地帯の一つだ。隅々まで開拓され、古代世界の全ての証拠は地上から消え失せていた。考古学的には焦土と同じ状態だった。
b1456.png
プッシュ「我々がここで発掘を始めた時、何も見つけられないだろうと誰もが言っていた。全てが破壊されていて、何も残っていないと」
b1457.png
しかし、この地のどこかに、ビータックが提案したように、エジプト考古学の聖杯が横たわっているとプッシュは考えていた。ラムセス二世の失われた都市ピラメスが!
b1458.png
彼らは発掘を開始した。どんな小さなヒントすらも見逃さないよう、注意して発掘を進めた。奇跡的にも発掘から3日目、地表から10cmの所でプッシュのチームは興味深い証拠品を見つけた。
b1459.png
これらの削り加工されている奇妙な品々は、カンターが、何処にでもある場所ではなく、彼らが捜しているもの全てを秘めた場所だと暗示する、地中から現れた最初の決定的な証拠だった。しかし、その時は、それらの品物が何なのか誰も判っていなかった。
プッシュ「当時、我々は、これらの欠片(かけら)を“壊れた容器の欠片”とか“壊れた花瓶の欠片”などと呼んでいた」
b1460.png
発掘を続けていくと、次々と不思議な欠片が見つかった。そして遂に、素晴らしい品を発見した。
プッシュ「馬の頭に着ける一式の完璧な形の金具だ」
b1461.png
「青銅を使ってエジプトで造られたもので、実物が見つかったのは初めてだ。完璧な状態なので、昨日、造ったように見える」
その金具を見つけた場所を発掘していくと、別の驚くべき発見があった。
b1462.png
プッシュ「石を組み合わせた奇妙なものを見つけた。2つ並んでいた。オスの馬がこの上に立ち、穴に小便をする場所だと判った。つまり馬のトイレだ。ここに写真があるが、当時の馬と同じ大きさのミュール(muleラバ)を二頭、連れて来たところ、右側のミュールは、まさに、穴に向けて小便をしたんだ」
b1463.png
6列で、各列に10の馬小屋があった跡も見つかった。各馬小屋には複数の小型の馬が飼われていた。厩舎(きゅうしゃ)は460頭の馬の住家だったのだ。そんな大きい厩舎なら軍事施設の一部としか考えられない。馬はファラオの軍隊の重要な必需品だった。
b1464.png
そして厩舎があった時期はラムセス大王が生きていた時期と一致する。

何百もの不思議な品物の発見が続き、いくつかは完全な形で見つかった。それが決定的な重要証拠となった。
b1465.png
プッシュ「これらが何に使われていたものかに我々が気付いたのは偶然だった。例えばこの石の節(ふしnode)はツタンカーメンのチャリオットの馬に固定される側の部品と同じだ」
b1466.png
見つかった何百もの石の節は、ラムセスのチャリオット軍隊で馬とチャリオットを一体化して安定するために使われていた部材だったのだ。馬の数と結び付ければ、意味することはたった一つだ。古代の記録が、ピラメスにはチャリオットの軍勢が駐在していたと言っていたように、発見された規模から考えると、ここは正にラムセス二世の失われた都にふさわしい。
b1467.png
軍の駐屯地を発掘するだけでビータックとプッシュは1年を要した。都市ピラメスは広大だ。この速度で発掘を続けたら数百年かかる。そこで彼らは新しい技術に目を向けた。土を掘り起こさなくても、カンターに眠っているものを知ることが出来る。電子電磁走査器で、時代の先端を行く技術だ。
プッシュ「誰も、それが上手く機能するとは考えていなかった。ま、折角だから、準備してやってみようか。そんな感じだった」
b1468.png
古代の施設の壁や基礎は地中に何らかの痕跡を残している。電子電磁走査器は電磁波を地中に侵入させ、異物を感知する。もしピラメスの基礎がこの平地の下に残っていれば、土を掘ったりしなくても、通りや建物や壁の痕跡を見つけ出す。

当初、地中を走査して調べても何も見つからないのではないだろうかと、誰もが考えていた。しかし、それは間違いだった。
プッシュ「結果を見て、みんなが目を疑った。地中から建物が並ぶ様子が浮かび上がって来たんだ!その日のことは忘れられない」
走査器は地下数cmに建物の痕跡が広がっていたことを示していた。
b1469.png
プッシュ「ここには壁が走っている。通りの跡が見えるし、建物も、沢山並んでいる」
初日の1日だけで、2平方Kmをも調べることができた。この方法の調査としては世界一の速さだっただろう。調査を進めていくと、カンターの野原の下から、数千年を経た後の広大な都市ピラメスの基礎が現れ始めたのだ。
b1470.png
プッシュ「この広い一画で最も興味深いのは、中央辺りにある巨大な構造物だ。4万1千平方mもある!」
b1471.png
「中心にある建物の中には沢山の部屋が連続して並んでいる。柱も全て対照的に配置されている。この構造物の機能は恐らく寺院だろう。」
b1472.png
寺院は古代エジプトでは生活の中心だった。巨大な柱が並ぶ広間や壁や飾り物が人々を威圧していた。
b1473.png
プッシュ「これは西側で走査して調べた結果だが、直線的に伸びている通りに沿って、高級住宅街が広がっている。この一画は壁で囲まれていて、南側にはペルージア支流があった」
b1474.png
そこは豊かな人たちの居住区だった。この一帯のナイル支流に面した部分で、将軍や貴族の名前が彫られた玄関の鴨居(かもい)も見つかっていた。
b1475.png
プッシュ「東側の走査結果を見ると、小さな建物が密集している一画がある。建物を隔てる路地は、直線的でもないし、格子状でもない。身分の低い人や職人が暮らす住居や仕事場があった区画だと思われる」
b1476.png
高級住宅街とは対照的に、小さな住居が密集し、入り組んだ、狭い通りが一帯に広がっていたのだ。
b1477.png
プッシュ「つまり町の西と東で大きな違いがあったんだ」

建物が配置されている面積の規模から、ここがピラメスであることは間違いない。特に、一つの構造物はとても見事なものように思われるのだが、電子電磁走査器では検査できない領域に広がっていた。
b1478.png
現代のカンターはデルタの典型的な町で、小さな家が雑然と集合し、配置されている。その町の周辺での走査結果から考えると、今の町は、ラムセス二世の王宮の上にあるのだ。

過去の記録によれば、ラムセスの偉大な王宮は広大だった。都市の中心にあり、記念碑で装飾され、彼の統治を祝福していた。外周を囲む壁は光り輝くタイルで覆われていた。
b1479.png
電子電磁走査で浮かび上がって来たピラメスは、かつて、偉大な構造物が並ぶ都市だったことが明確になって来た。

ラムセスの偉大な力がどのように及んでいたかは、他の遺跡から垣間見ることができる。
アイダン博士「ラムセスの偉大な寺院はピラメスから失われてしまった。しかし、彼がルクソール寺院に建てた塔門(パイロン)やカルナック神殿や、後年に建てたハーブ寺院を見ると、その当時、支配的な都市だったピラメスがどんな様子だったかが想像できる。
b1480.png
電子電磁走査は、広大な都市の中を走る、建物が何もない場所の様子から、もう一つの秘密を明らかにしていた。空白の場所はナイルに繋(つな)がる多くの運河や湖や水路の場所を示していた。
b1481.png
この事実はピラメスが特徴的な都市だったことを教えてくれるジグソーパズルの最後のピースだった。

町には広大な寺院があった。川の近くには裕福な人たちが暮らすビラがあった。町の周囲では、うねりながら伸びている通路の両側に小さな家が密接して配置されていた。そしてファラオのための王宮もあった。
しかし、ラムセスは都市をデルタに造ることで、従来とは全く異なる都市を造り上げていた。ナイルと繋がる運河や水路が張り巡らされたピラメスは、当時のベニスとも言える都市だったのだ。
b1482.png
しかし、ビータックとプッシュがカンターで本物のピラメスを発見したとすれば、ピエール・モンティがタニスで見つけたのは何だったのだろう?
b1483.png
アイダン博士「カンターで見つかったものがピラメスの跡だと判った時、ならばタニスは何だったのかと不思議に思うのは当然だ。そこにはピラメスから来たとしか考えられない遺物が残っているのだから。それらはタニスで何をしていたというのだろう?偽物なのか?地球外生物がバラまいた物だとでもいうのだろうか?」
ピラメスは見つかった。しかし、同時に2つ存在していたように見える。タニスには建物が残っている。基礎はカンターで見つかる。どうしてこんなことが起きたのだろう?その答えは興味深い。

ラムセス大王は都市の場所を古代ナイルのペルージア支流の河岸に選定した。
b1484.png
都市はピラメスと名付けられ、支流の慈悲を受けて繁栄した。しかし、ラムセス二世の死から150年後のある日、運命は変わったのだ。川底が高くなったペルージア支流は方向を変え、当時のベニスを水のない都市のまま残すことになった。
b1485.png
ビータック「ペルージア支流は、ラムセスの時代、ここを流れていたが、流れが変わり、水はタニティク支流に流れ込んでしまったのだ」
b1486.png
流れていた支流が失われてしまったことはピラメスにとって大惨事を意味した。かつて見事だった大都市は世界から隔離され、放棄されることになったのだ。その代わり、ラムセス大王の死後、後継者が奇妙なことを決断する。
b1487.png
3千年前、古代のエジプト人がピラメスに何をしたのかという謎に対するヒントは、思いもしていなかった場所から現れた。現代のカンターの草原の真ん中に隠されていたのだ。
b1488.png
ラムセスがピラメスで建てた多くの巨像の一つの足だ!それ以外の部分はどこか別のところにある!

タニスTanisでは足が無い巨像が沢山見つかっていた。
b1489.png
それは古代のエジプト人が信じられない行動をとった結果だった。足はカンターQantirに残されていたのだ。彼らは彼らの都市を移したのだ!ナイルの支流がその時に流れていた場所に。
ビータック「ピラメスは放棄され、タニティク支流の河岸に新しい都市が造られた。それがタニスだったのだ」
これが、ピラメスが2つの場所に同時に現れることになった謎を解く唯一の可能性だ。ラムセスの死からおよそ150年後、ピラメスの付近を流れていた川は方向を変え、都市の機能は停止した。意に反して見事な場所を放棄することになった人々は、都市をナイルが流れる場所に移すことにした。ピラメスの建物や像は一つずつ解体されていった。それはかつて建設された偉大な都市を甦(よみがえ)らせようという記念碑的な仕事だった。最大の石像の重量は数千トンもあった。数百人の労働者が木製の橇(そり)を使って一つの石像を運んだ。
b1490.png
像やオベリスクのような記念碑は塊のまま倒され、寺院などの建物は部材に解体されて運ばれた。現実に行われていた作業に関する記録が残されないので、都市の移転にどのくらいの期間が費やされたのか、何人くらいが事故で死んだのかなどは判っていない。
b1491.png
いずれにしても、巨大なジグソーパズルのように、ラムセスの偉大な都市は解体され、新たにデルタの東側を流れる支流の河岸に運ばれ、再組立てされたのだ。
アイダン博士「ピラメスは死に、ピラメスの石を使って、新しい町がデルタの東側に生まれることになった」
ピラメスの全ての像やオベリスクや寺院などの石材を使って造られたタニスは、新しいファラオの故郷に生まれ変わった。
b1492.png
しかし、全ての偉大な都市や文明と同じように、タニスも、ある時期に崩壊し、歴史の中で色あせていった。3千年後に発見されると謎を生み出したが、考古学者たちは、今、やっとその解明を終えることが出来たのだ。
b1493.png
Lost Cities Of the Ancients : The Vanished Capital Of The Pharaoh
https://www.youtube.com/watch?v=CFd0Afs-6YI

次の写真はGoogle EarthでみつけたTanisの遺跡です。
b1494.png
像やオベリスクにはラムセス二世のカトゥシュが彫られた物が多いので、上の写真の像もラムセスかも知れませんが、後述するように、そうではない可能性も若干あるのです!?

英語版Wiki:Pi-Ramessesには次の記事が見つかります。
「ピラメス(ラムセスの家)は、第19王朝のファラオ“ラムセス二世”によって古代のアヴァリスAvarisの近くのカンターQantirに造られた新しい首都だった。セティ一世(mhラムセス二世の父)の夏のパレスとして使われ、ホルエムヘブ(mh第18王朝の最後のファラオ)の下で働いていたラムセス一世(mh第19王朝最初のファラオでセティ一世の父)によってその基礎が造られていた可能性がある」
ピラメスはラムセス二世だけの町じゃあなかったんですね。

で、畑の中で見つかったラムセス像の足の写真もありました。
b1495.png
ネット記事によれば、1970年代にオーストリア人考古学者マンフード・ビータックによってQantieの調査が始まり、1999年までに75,000平方mの電子電磁走査を完了したとありました。
現在も発掘は他のメンバーに引き継がれて進んでいるようで、最近の様子は次の通りです。
b1496.png
カンターQantirで発見されたラッカーで上塗りされた煉瓦にはラムセスのカトゥシュが刻まれています。
b1497.png
カンターQantirがピラメスPi Ramessesだったのは間違いないと考えてよいでしょう。

YahooとGoogleのホームページで、“ピラメス”“パイラムセス”で検索しても、ラムセスの都を示す何の情報もヒットしません。ウィキ「ラムセス」にはラムセス二世の記述がありますが、ピラメスについては全く触れられていません。日本から遠く離れたアフリカの、今から3千年も前の一時期、1百年だけ首都として存在し、その後、直ぐに失われてしまった都市ピラメスに関心を示した日本人は、mhと、このブログの読者だけかもしれません。

で、次回のブログですが・・・
タニスをピラメスと早とちりして面子を失ってしまったピエール・モンティ氏の名誉挽回のお話をお送りしようと思います。
実は、モンティ氏は、タニスを調査していた時に“銀のファラオThe Silver Pharaoh”を発見していたのです!ファラオって言うんですから、王ですね。勿論、ラムセス二世のミイラを発見したわけではありません。彼は大勢の子供達と一緒にテーベThebesの王家の谷The Valley of The Kingsに眠っていましたから。

銀のファラオとはどんな人物か?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

それは次のブログでご紹介致しましょう。
(完)

PageTop

mh徒然草124: 入院してきました。


今日は12月10日(土)。3泊4日の親不知抜歯入院から戻ったところです。初日は午前10時に病院にいき、入院中の生活や手術の流れの説明を受けただけで、入院室のベッドに案内され、本を読んだり、音楽を聞いたり、TVを見たりしてダラダラ過ごしました。

翌朝は朝食も水も禁止で、点滴です!手術室に入ったのは11時35分。点滴の針を介して麻酔薬が注入され、酸素マスクのようなものを付けたことまで覚えていますが、気が付いたら自分の病室のベッドに戻っていたという有様で、1時間半の記憶は全く残っていません。

で~全身麻酔が効いている間は無呼吸なんですね!知りませんでした!実は、全身麻酔の手順を事前に専門医が説明してくれていた時、医師の携帯に電話が入り“呼吸が始まらないんですが”とのこと。マッサージを続けるよう指示したので“心臓マッサージ?全身麻酔に罹る(かか)と“あの世”にいる状態と同じなのか?!”と一瞬ドキリとしました。が、後で美人の薬剤師(千晶さんと言います)が来たので、確認すると、“そんなことはありません!心臓は動いていますよ!”とたしなめられ、理解した次第です。でも、肺呼吸は止まるんですから、それは奇妙な時間と言えるでしょう。

で、以前もお話しましたが、病院には老人が多いです。入院患者の5人に4人は65歳以上ではないでしょうか。
病院に棲み着いているような雰囲気の人もいました。点滴だけで食事を摂らない人も大勢いました。私が入った6人部屋にも、点滴だけで暮らすお年寄りの男性がいて、時々、ベッドを区切るカーテン越しに看護婦との話が聞こえてくるのですが、介護保険に加入していないようで、看護婦が気遣っていました。知人が見舞いに来たのですが、病人の体調がよろしくないようで、話題は少なく、見舞客は“そりゃぁ大変だねぇ”と同情するばかりで、慰めようもないといった空気が伝わってきました。

ベッドで夕食を摂った後、暇つぶしに病院内を散歩していると、80歳くらいの御婦人が、ロビーに設けられた待合室のテーブルで夕食を食べていました。一緒にいた40歳くらいの若者は息子さんだと思いますが、帰宅する前に工事現場から病院に寄った様な服装で“こぼすといけないからお椀は手に持ったほうがいいよ”って言って、その後は母親が食べる様子を暖かく見守っていました。母親の方は、息子から言われるまま、そうだね、っていう感じで一言も話さないのですが、二人を見ていた私の心は温まりました。

カーテン一枚を隔てた、私の直ぐ隣のベッドでは、恐らく40台の男性が、これまた点滴だけで過ごしていましたが、連日、午後6時ころになると若い女性がやってきて、仕事の話をしていました。病人は、職場では信頼されているようですが、若くして入院となると、重篤な病かもしれません。で、この男性、鼾(いびき)がすごいんです。病気と関係があるとしたらと思うと、寝不足のmhも複雑な気分でした。

入院中の患者同士で会話して時を過ごしている様子は全く見かけません。みんな、ポツンと一人で過ごします。入院が長い人は少なく、人の入れ替えが多いことが理由かも知れませんが、ベッド室で、お互いの病気の話をしても楽しくないし、カーテン越しに聞かされる他の入院患者も気が滅入(めい)ってしまうでしょうから、患者同士で会話することはありません。こんな調子で長期間入院していれば、本やTVにも飽きて、結局、寝て過ごすことが多くなります。

落ち込んだ雰囲気から救ってくれるのは、看護婦の訪問です。“体温と血圧を測りましょう”、“気分はどうですか?”、“トイレに行った?”、“オナラ出た?”、“血圧、少し下がったみたいね”などという埒もない内容ばかりですがホッとさせられる瞬間です。

入院された体験があるなら、健康がいかに重要か、お分かり頂けるでしょう。入院なんかするものじゃあありません。楽しいことなんか何もありません。点滴だけで生き延びる人生なんて意味がありません。入院などしなくて済むよう、普段から健康第一で過ごすことが大切だと痛感しました。

しかし、誰しも、不運にも入院し、点滴だけが命の綱になる可能性を持っています。そんな時、生きている喜びを感じるのは看護婦など病院のスタッフとの会話だけかも知れませんが、もし、家族や友人が時々見舞いに来てくれるとしたら、入院生活を耐え凌ぐことが出来るでしょう。家族も友人もなければ、入院中のほとんどの時間は苦痛でしかないと思います。誰も、そんな時間を過ごしたくないでしょうから、元気なうちに家族か、友人を持つようお薦めしておきます。あなたさえその気になれば、家族や友人を持つことなどたやすいはずです。

短い入院生活でしたが、人間は一人では生きていけないことを再認識させられました。ブログでYou raise me upという歌をご紹介しましたが、このYouを持つことが、ひょっとすると人生で一番重要なことじゃあないか、と思いました。

Frank Sinatra: Strangers In the Night
https://www.youtube.com/watch?v=nHuko5BCFzA&list=RD3un5f6qLi_k&index=28

(完)

PageTop