Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アッシリアの不思議


先先々週のブログ“ソロモンの黄金の謎”にひき続いて、先々週はソロモンの父ディビッド(ダビデ)に敵対したとヘブライ聖書で非難されたフィリスティンをご紹介するブログ“フィリスティンPhilistinesの不思議”を公開させて頂き、更に先週は、ディビッドもソロモンも、はたまたフィリスティン(パレスチナ)も、バビロンに幽閉された古代イスラエル人(古代ユダヤ人)が郷愁に駆られてヘブライ聖書の中ででっち上げた絵空事であって、フィリスティンは実はフェニキアンPhoenicianをモデルに造り上げられた民族である!という無神論者mhの無責任な理論を、ブログ“フェニキアンの不思議”でご紹介させて頂いたのはご承知の通りです。もう忘れてしまわれた方も多いと思いますが、今、先先々週や先々週や先週のブログを見直して頂いても、また忘れてしまうと思いますので、これらは気にせず、以下にお進みください。

で~フェニキアン(フェニキア人)ですが、現在のレバノンLebanonに点在していた都市国家を基点に地中海を自在に航行して交易し、地中海の島や沿岸に植民地都市を造りながら富を蓄えていきました。紀元前814年頃、現在のチュニジアTunisiaに造った交易都市国家カーセッジ(Carthageカルタゴ)は、地中海貿易における一大拠点になったのですが、共和制ローマとの第三次ポエニ戦争 (紀元前149年 - 紀元前146年)に敗れてローマの管理下に置かれ、町に暮らしていたフェニキアンは殺されるか、奴隷として他の場所に連れていかれ、以降、カーセッジはフェニキアンの都市ではなくなってしまったのです。

一方、レバノンにあったフェニキアンの都市はというと、カーセッジが繁栄し始めた紀元前9世紀から紀元前8世紀にかけ、メソポタミアに生まれていたアッシリアAssyriaの攻撃を受け、政治的な独立を失い、カーセッジよりも5世紀以上も前に衰退してしまっていたのです。

今回のブログでは、レバノンにあったフェニキアン諸都市を消滅させ、更にはメソポタミアMesopotamiaのバビロンBabylonをも葬り去ったという、日本人には馴染みが薄い戦闘国家アッシリアについて、エルサレム攻略を中心にYoutube フィルムでご紹介致しましょう。

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Ancient Warriors 古代の戦士たち
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どんな軍隊も彼らほど遠くまで出兵したことはない。彼らはペルシャ湾から地中海まで広がる帝国を打ち建てた。偉大な都市バビロンを略奪し、イスラエル民族を奴隷とした。エジプトのファラオさえも彼らに貢物(みつぎもの)を差し出した。
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彼らの軍隊はそれまでの歴史の中で最強だった。彼らの戦士たちは最も偉大だった。そして彼らの戦(いくさ)は最も無慈悲だった。
The Assyrians; Masters of War アッシリア人;戦の達人
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紀元前655年9月、アッシリア軍は南イラクの基地を出発した。
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攻撃目標はペルシャ湾岸の王国エラムElamだ。
(mh赤く塗られた地域がエラムです)
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エラム軍も彼らの都市を出て、敵と彼らを隔(へだ)てていた川を渡り、戦陣を張った。夜が明けると、何千もの馬や兵士を集めた嵐のようなアッシリアンが目に飛び込んで来た。
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アッシリアの馬戦車chariotが攻撃を仕掛け、戦いの火ぶたは切って落とされた。
その日の夕方、川は動物と人間の血で赤くなって流れていた。血はエラム人のものだった。勝利の戦いの最中、アッシリアンは力強く、そして冷淡だった。
“私は敵の喉元を羊(ひつじ)のように切り裂(さ)いた。私は糸を切るように、彼らの貴重な命を切り捨てた。嵐の中の洪水のように、私は川を敵の屍で満たした”
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“私の踊るように跳ねる馬は、血と汚物の流れに飛び込んでいった。私は平原を彼らの死体で草のように埋め尽くした”

犠牲者の中にはエラムの王がいた。
“エラム王トゥメンは助かろうと思って逃げ出し、傷ついた。王が載る台車の車軸が折れ、それが彼の体を押しつぶしたのだ。絶望の中で王は息子に言った。弓を使え!”
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トゥメンの息子は父を助けようとしたが駄目だった。王は捕えられ、斬首(ざんしゅ)された。彼の首は勝利のトロフィーとしてアッシリアの王の元に届けられた。
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彼は首を刀で切り裂き、唾(つば)を吐きかけると、勝利の祝宴の最中、誰の眼からも見えるよう、木に吊り下げた。
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トゥメンに従っていた者も同じだった。何人かは死体の骨を叩き潰され、他の者たちは生きたまま、皮を剥(は)がれた。
アッシリアの王が首都ニネバNinevehに戻ると、王の職人artisanたちは王の軍隊を、勝利を、永遠のものにした。
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王宮の部屋という部屋で、彼らは王の虐殺を褒(ほ)め称(たた)えた。針山の上では、無残に刺殺された男たちの眼は飛び出し、首は切り取られていた。他国から訪れる大使たちにとって、壁に描かれている絵が意味することは明確だった。
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偉大なアッシリアンの軍隊は貧しい地域から生まれ出た。神聖な都市アッシャーAshurを取り囲む小さな集合体だ。
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都市の名から彼らはアッシリアンと呼ばれるようになった。後年にイラク北部と呼ばれる、雨が多い地帯に位置していたアッシリアは、チグリス川の肥沃な河岸で、土地の恩恵を受けて拡大し、王国となっていった。
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しかし、これらの土地は余りに豊かに耕されていて、誰もが手に入れたい場所だったので、農夫たちは片手に耕作用の鋤(すき)を、もう一方の手には刀剣を持っていたと言い伝えられている。

紀元前1000年、長い間、他の王の家臣だったアッシリアンは、よそ者にこき使われることに飽き、神のお告げを受けたアッシリアの王は戦いを仕掛けた。
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“神々の父アッシャーは私に敵を殺害する力を授けてくれた。我々は人民を増やし、アッシリアの地の境界を拡大するのだ”

アッシリアは領土を拡大し始めた。しかし、季節の変わり目には、帝国は疲れ果てていた。収穫の秋になると兵士たちは彼らの耕作地に戻って来てきたが、徐々に反抗心が芽生えていた。
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紀元前745年、新たな王が就任し、歴史を変えた。ティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III)は突出した軍隊を持つことでアッシリアをこれまでで最強の国にすることを誓った。
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これまでの腕力に勢い付けられ、何千もの若者が兵士として登録された。王ティグラトは、武器や、彼ら兵士が戦闘に必要な全ての方法に関する手順書を作り上げた。
“基地を適切に整備し、馬や騾馬(らばmule)やチャリオットなどの戦用具や戦利品を管理すること!”
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鉄器は軍隊の要(かなめ)だった。各々の兵士には円錐状の鉄兜(てつかぶと)と、青銅片をつなぎ合わせた胸当てと、頑丈な皮の靴bootsが支給されていた。
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背の高い男は鉄製の鉾先(ほこさき)が付いた槍手として戦った。敵との接近戦になると、彼らは短剣を使った。ある兵士たちは射手(しゃしゅ)になり弓を射た。
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ある兵士たちは全く武器を持っていなかった。彼らの役目は、味方の戦士たちを守ることで、皮に青銅とか藤のような木が張られた長さ1.2mの楯(たて)を使い、射手を守った。
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新年を祝う祭りでは、王は兵士たちが臨戦態勢にあるか観閲(かんえつ)した。武具や武器を王から与えられていたアッシリアの戦士たちは、世界がそれまで見た中で、最も職業的な軍隊だった。
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十分な軍備を整えたアッシリアンだが、更に補強したがった。彼らが欲したのは戦車用の馬、武器用の鉄、攻城(こうじょう)兵器用の木材だ。戦で重要なこれらの道具を獲得するため、アッシリアンは、遠くまで出兵しては戦利品を持ち帰った。
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“黄金、銀、錫(すず)、銅、見事に織られたリネンの布、大小の猿、象牙、黒檀。私はこれらを貢物(みつぎもの)として彼らから受け取り、彼らは私の足元に跪(ひざまず)いた”
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どこで平和が維持され、どこでそれが破壊されているかを、王はニネバの王宮から知ることが出来た。通信使たちは狼煙台(のろしだい)をつないで合図を送って来たり、粘土板に記録した書簡で知らせて来たりした。
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紀元前701年、アッシリアの王センナケリブSennacheribは、問題が起きているとの連絡をユダヤ人の地域から受け取った。その地域の王が貢物を差し出すのを拒絶したというのだ。センナケリブは激怒した。彼は、ユダヤの何万倍もの強力な軍隊を派遣し、彼に忠誠な地方から援軍を集めて兵力を増加していった。
“地区の責任者と騎兵の馬を直ちに招集せよ。出陣に遅れた者は、その場で捕らえられるであろう”
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アッシリア軍が出兵する前には、祈祷師たちは牛や山羊を生贄として、兵士たちは勝利を願って祈りを、戦(いくさ)の女神イシュタルIshtarに捧げていた。
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(mh次の写真はネットで見つけた女神イシュタルです)
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“神々の中の最高の女神よ。戦の最中には兵士を奮い立たせよ。そして嵐に、悪魔の風に立ち向かわせよ”
ユダヤ遠征では、途中でアッシリア軍に立ち向かう敵はほとんどなく、快調に進軍を続けた。彼らは戦で捕虜にした敵兵に整備させた道を進んだので、平地なら1日当たり32Kmの距離を稼ぐことが出来た。
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王は馬に乗って騎兵や馬戦車と共に先頭を進み、歩兵はその後を進軍した。
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そして彼らの後方には物資を供給する荷車の長い列が続いていた。職人は荷車の上で武器を造り続けていた。川など、自然の障害物を乗り越える時、アッシリアンの創造性は新たな高みに到達していた。川では荷車は大きな船で運ばれ、馬はその後を泳いで渡った。
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兵士たちは、楯や武器を背中に縛り付け、動物の皮を空気で膨らました浮きに乗って渡河した。
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当時、農耕地を遠く離れて、このような大軍が遠征することは無かった。しかし、アッシリアの王は帝国中で穀物を育てていたので、彼の軍勢は食糧供給地から500Km離れた場所まで遠征することが出来たのだ。おかげでアッシリアの王は、権力を広く遠方まで及ぼすことができた。このような供給源がなければ、アッシリア軍にとって最重要だった馬の群れに餌を与えて活動的に保つことは不可能だった。馬は敵に最も恐れられていた馬戦車に不可欠だ。
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エジプト人のように、アッシリアンもバビロニアの不器用な4輪台車を改良した2輪の馬戦車を数珠繋(じゅずつな)ぎのように連続して突撃させて敵の最前線を破壊し、馬戦車から矢や槍を浴びせていた。そして、この混乱の中に、側面で待機していた騎兵が突入していった。逃げようとする敵兵は轢き殺され、残っていた敵兵は射手や槍手によって払い除(の)けられた。
しかし、アッシリアンは馬を射ることは避けた。
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馬は彼等にはとても重要だったので、王は指揮官たちに、主に北イランから馬を掴まえてくるように指示していたくらいだった。
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馬の供給数が増えてくると、アッシリアンは馬戦車と同じくらいに価値がある新しい武器を開発した。騎兵horsemanだ。当初の騎兵は、2頭の馬が引く2人乗りの馬戦車兵を簡素化した兵力のようなものだった。馬戦車では一人が楯を持ちながら馬を操作し、もう一人が弓や槍を使った。
しかし、騎兵は直ぐ、単独で活躍するようになった。素早く動く機動力を持ち、武器の威力も発揮できた。
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このようなアッシリア軍を迎え撃つユダヤ人の王ヘゼキアHezekiahは、戦いでのリスクを冒(おか)さなかった。彼は首都エルサレムJerusalemの城壁の内側に退却してしまったのだ。ユダヤ人の土地全てで、住民たちは町の城壁の中に逃げ込んでいた。町の狭い通りは両側に聳える厚さ6mもの壁の影で覆われていた。
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間違いなく訪れる籠城に耐えるため、ヘゼキア王は地下水路を掘ってエルサレムに水を引き込んでいた。

アッシリアンは、軍を派遣できない場所に恐怖を送り込んだ。
エルサレムでは、アッシリアの高級士官が城壁に歩み寄り、王や彼の士官たちに外交的な言語で話しかけるのではなく、壁の上の守備兵たちに彼らの母国語のヘブライ語で話しかけた。
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“私は今、城壁の上の人々に語り掛けている。あなたたちは、排泄物を食べ、尿を飲まなければならなくなるだろう。ヘゼキア王はあなたたちを助けることは出来ないだろうし、神の加護に頼るような説得もしないだろう。従って、アッシリアの皇帝はあなたがたに降伏するよう命令する”

彼が、この脅し文句を語りかけている最中にも、悲運はエルサレムの50Km南の町レイキッシュLachishで進行していた。
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エジプトとの交易路に造られたレイキッシュは豊かで、同時に強固な町だった。
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(丘の上の城塞はCGです)

急斜面の上に造られた高い城壁の後ろにいる守備兵たちは籠城作戦に自信を持っていた。同じように、攻略に自信を持っていたアッシリア軍は、自軍の、防衛塔もある楕円形の壁の後ろに集まって攻城装置を組立て始めた。
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攻城装置の中に隠れている木製の壁は、敵の壁を打ち破る突き棒を操作する兵士たちを守っている。兵士たちは突き棒を使って城壁の最も弱い部分を突き破るのだ。
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レイキッシュの弱点は城門だった。そこに接近するため、アッシリアンはまず、木材で覆われた土塁を築かなければならなかった。それを越えながら攻城装置はゆっくり前進していった。セナカリブ王は軍の体制を整えていた。投石兵は軍の後方に、そして背の高い楯で守られた射手をその後ろに配置した。攻撃の最前線には槍を持ち、壁に襲い掛かる兵士たちがいた。全軍は一体となって攻城装置の後ろで身を護(まも)りながら前進を始めた。攻城装置自体は火矢には脆(もろ)かったので、皮の布で保護されていた。巨大な柄杓(ひしゃく)を持った兵は敵地に届くと発火する火種(ひだね)を城壁の内側に向けて振り掛けていた。攻城装置の下では、工作兵たちが鉄や青銅の工具を使い、城壁を破壊し始めていた。
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装置の上では、他の兵士たちが城壁の上まで届く梯子(はしご)を取り付けていた。これほど完璧な攻城技術をもつ軍勢はどこにもなかった。このような猛攻撃に耐えることは不可能だった。

ついに、城壁に突撃の穴が開けられると女神イシュタルに守護されたアッシリア軍は攻め入った。
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“私の顔は緑にならない(?)。私の足は疲れない。私の強さは戦いでは失敗しない”
女神イシュタルは真実を語った。しかし、大虐殺は何も語ることはなかった。
謀反の首謀者たちは都市の外で杭(くい)に突き刺されて晒(さら)された。
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垂れ下がった彼らの死体は、対抗し続けているユダヤ人に対する警告だった。

セナカリブ王は兵士たちに短剣、弓、家具、ゴブレット(盃さかずき)を報奨として与えた。しかし、誰もが勝利に酔いしれたわけではない。レイキッシュの戦いでは、勝利の女神イシュタルに目をかけてもらえなかった1500人のアッシリアンが巨大な墓場に敵兵と共に埋葬された。
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一方、セナケリブ王は損失以上の収穫を上げ、それを数えていた。
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“20万の男女の大人や子供。そして馬、騾馬、駱駝、牛、に羊となると、その数は計り知れない”
他の戦いと同じように、ユダヤにおいても、アッシリアンは打ち負かした者たちの気力を完璧なまでに打ちのめしていた。数万人のユダヤ人を縛り上げ、アッシリアに連れて行った。
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ヘブライ聖書の記録によれば、紀元前721年には、シュメリアの3万の住民はこうして追放され、イスラエルの失われた民族になる。
“ユダヤのヘゼキア王は私に従わなかったので、彼の6つの強力な都市はその周辺の多数の小さな集落ともども、私が持ち運んでいった城壁を打ち破る突き棒と攻城装置を使って平らげた”
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ユダヤ征服の50年後、アッシリアの領土は最大に広がっていた。紀元前675年、アッシリア軍は1千6百Km以上を進軍し、エジプトを占領した。
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アッシリアはその歴史の中で栄光の頂点にあった。都市には商人、職人、芸術家、学者が溢れ、文明は最盛期を迎えていた。
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しかし、アッシリアンは手を広げ過ぎていた。帝国は今や中東全体に拡大していた。アッシリアンは帝国の住民を管理するのではなく、彼らを恐れさせていた。占領された人々の恨みは膨らんで、苦難の時を強いられていた。

紀元前612年、アッシリアの最も強力な敵軍たちは連携し、アッシリアの首都ニネバに向けて進軍し始めた。
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偉大な都市は挟み撃ちされ、1千年以上も続いた社会は崩壊し、帝国は消滅した。その上、アッシリアはもう一つの攻撃を受けることになった。国の犠牲者の一人だっただろう預言者ネイムによって書き残された碑文がある。
“あなたがたの崩壊の知らせを聞いた全ての人たちは、手を叩いて喜んだ。あなたたちの際限のない冷徹(れいてつ)な仕打ちを逃れたものは誰もいなかったのだから”
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The Assyrians Masters of War
https://www.youtube.com/watch?v=vpKxRJDmnQI
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2014年7月のブログ「メソポタミアの不思議」ではシュメリア人についてご紹介しました。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-57.html
近東、中東には、シュメール人Sumerian、フィリスティンPhilistines、フェニキア人Phoenician、アッシリア人Assyrianなど、いろいろな民族が次々と、時には時代も地域もオーバーラップしながら、出現しては消えていきました。が、人々が全く消え失せてしまうということはなく、当時の人骨に残る遺伝子と、現代人の血液中の遺伝子を調べると、その繋がりは判ると言われていて、現在のチェニスにも、カーセッジで暮らしていたフェニキア人の遺伝子を持つ人が若干ですが暮らしているというYoutubeも見ました。

で~今回ご紹介したアッシリアですが~
Wikiによれば次の通りです。
「アッシリア(Assyria)はメソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国(前2500年 – 前605年)。首都は、初期はアッシュールで、後にニネヴェに遷都した。南側にバビロニアと隣接する。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。アッシリアの偉業は、ペルシャ帝国に受け継がれてその属州となった」

最初の都アッシャーAssur/Ashurは、その後の都ニネバNineveh(現モスルMosul) の南100Kmのチグリス川西岸にありました。砂漠には遺跡が残っています。
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西の城壁の主門の跡
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チグリスを見下ろす大地に残るジグラット跡
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都ニネバNinevehについては「世界の七不思議1:バビロンの空中庭園」の中でご紹介していますので、ご関心が在りましたら次のURLでご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-63.html?

エルサレム攻撃といえば、紀元前597年頃、新バビロン王国のネブカドネザルは、エルサレムを陥落し、後にヘブライ聖書を作り上げることになるユダヤ人をエルサレムからバビロンに幽閉しました。
今回ご紹介したアッシリアの王センナケリブSennacheribは、紀元前701年頃、エルサレムと、その南のレイキッシュを包囲し、レイキッシュは陥落させたのですが、エルサレムは放置して国に戻ってしまったようです。陥落に至らなかった理由については記録が無く、判らないとWikiにありました。

アッシリア軍は、町を攻略すると、住民を奴隷として連れ帰っていますが、これは彼らの有名な捕囚政策の一環だといいます。Wiki;アッシリアに次の記事があります。
「アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年 - 紀元前727年)の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた」

つまり、メソポタミア北部のアッシリアには肥沃な土地があったが、これを耕す農夫や、耕地を守る兵士が不足していたので、よその国の住民を捕虜として連れ戻る“強制移住”が行われていたんです。
しかし、何故、そんなことまでして農地を耕さねばならないのか。自分たちが耕せる分だけ耕せば十分な食料は得られるのだからそれでいいではないか、ってmhなんかは思うんですが・・・

お釈迦様が仰るように因果応報で、捕虜を連れ戻って来たからには理由ってものがあるんですね。

開拓時代のアメリカは、アフリカ大陸から大勢の奴隷を連れてきて、北アメリカの南部や西部を中心に綿やトウモロコシの畑で家畜のように酷使していました。広い土地を持っている人たちが奴隷を使ってまでして自分たちの富を蓄えたのはアッシリアに限ったことじゃあなかったんです。
“人間の欲というものは古代も現代も変わらない”という真理を確認したところで終わりとさせて頂きましょう。
(完)

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mh徒然草:新しい銅像が出現!


(8月14日)
慰安婦像(少女像)に続いて、新しい銅像が韓国に現れました。

【徴用工像の設置、市民団体強行 韓国政府黙認との見方も】
韓国のソウルと仁川(インチョン)で12日、日本統治時代に朝鮮半島から労務動員された「徴用工」の像の除幕式があった。徴用工像の設置は初めて。歴史認識問題で日本に厳しい姿勢を示す文在寅(ムンジェイン)政権の登場もあり、韓国ではこうした動きが活発化。慰安婦問題を象徴する「少女像」に続き、日韓関係を緊張させそうだ。
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 12日午後、ソウル中心部の竜山駅前広場で市民団体が徴用工像の除幕式を開いた。韓国国土交通省は、国有地への設置は国有財産法に違反するとし、認めない立場だったが、市民団体側は強行した。同省は「法に沿った手続きを取る」とするが、市民団体との衝突を避けて政府が黙認するのではとの見方も出ている。
 同日夕には、日本の軍需工場が多数存在した仁川の富平公園内でも徴用工父娘像の除幕式があった。市民からの寄付金7500万ウォン(約715万円)で制作した。
 日本統治からの解放を祝う「光復節」の15日には、ソウルの日本大使館そばで市民団体が記者会見し、少女像の横に徴用工像を設置する立場を改めて強調する予定。10月には、済州島の日本総領事館前に徴用工像を設置する動きがある。
 日本は戦時中の労働力不足などを補うため、1939年に労務動員計画を閣議決定。39~45年に約70万人を朝鮮半島から動員したとされる。日本政府は65年の日韓国交正常化にあたり、植民地支配下での徴用や徴兵などの個人補償は韓国側に任せ、経済協力の形で「清算」に代えた。韓国政府は、徴用工問題については日本政府と同様「解決済み」との立場だ。
http://www.asahi.com/articles/ASK8D3GVJK8DUHBI00C.html

一昨日(8月11日)公開のmh徒然草で韓国の文大統領の告げ口外交はおかしい!と非難したばかりですが、また日韓の間に新たな問題が持ち込まれようとしています。

新聞記事にもあるように、日本は、慰安婦問題も徴用工問題も、政府間で決着しているという立場なんですが、私にはその補償金が回っていない!って不満を持っている韓国人が、韓国政府の後押しを受けて、銅像を造り、日本に補償せよと訴えているのか?それとも単に、日本を辱めようとはしゃぎたてる集団があるだけなのか?

恐らく両者だと思いますが、それを黙認している韓国政府には呆れてしまいました。責任を放棄していると言えるでしょう。問題があるのなら、きちんと日本政府に物申すか、問題は解決しているという立場なら、友好国日本を不必要に咎(とが)めないよう指導すべきだと思うんですが、なんの対応もしないんですね。むしろ、火に油を注ごうとしているようです。つまり、韓国政府は日本を友好国と考えていないということでしょう。

韓国は北朝鮮との友好を深めようと考えていて、重要な隣国のはずの中国や日本との友好は優先事項じゃあないんですねぇ。そんな片手落ちの外交が韓国のためになるとはとても思えません。結局、韓国は当面、三流国から脱することは出来ないんじゃあないかと思います。

このような屈折した国民性を持つことになった原因は何んだろうかと不思議に思います。日本が沈没するまで、日韓併合を忘れられないのなら、気の毒な国民だと思います。

このブログを作成している最中に仰天のニュースがありました!
【少女像、ソウル路線バスの座席に 市が設置認める】
ソウル市内を循環する151番バスの座席に14日、慰安婦問題を象徴する少女像のプラスチック製レプリカが設置された。朴元淳(パクウォンスン)市長も同日朝、バスに乗って視察した。14日は終日、日本大使館そばなどで慰安婦問題を巡る日韓両政府の姿勢を批判したり、徴用工問題で損害賠償を求めたりする記者会見や集会などが予定されている。
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詳細は次のURLでご確認下さい。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170814-00000017-asahi-int

見識ある韓国人は、恐らく、これらの反日対応に批判的だと思います。第三国の国民の大半は、異常でエキセントリックeccentricな行為だと思うでしょう。しかし、これらの異常行動を是正するどころか、むしろ加速しようというのが韓国政府の立場だとすれば、新しい韓国大統領府は、家計学園問題を起こした日本政府より、そして、暴言でアメリカばかりか日本やヨーロッパも混乱させているトランプ政権並みに無能だと言っても良いでしょう。

そのトバッチリを一番受けるのは、日本ではなく韓国民です。韓国民には同情いたしますが、トランプ大統領の影響を受けているアメリカ国民よりも若干はましだと思いますので、腐らずに耐え忍んでほしいと思います。日本国民も韓国やアメリカの国民に同情できる状況じゃあありませんが、この二国よりはましでしょうから、なんとなく、日本っていい国だなあって思えたりして、不思議な気分です。

Lesley Gore- "It's My Party" (Original Version- 1963)
https://www.youtube.com/watch?v=_PXIui8sa2U

(完)

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フェニキアンの不思議


Wiki:フェニキア人/Phoenicianフェニキアン
フェニキアンはエジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。

フェニキア文字(フェニキアもじ)は、古代地中海世界において現在のシリア一帯を中心に活動していた海洋商業民族であるフェニキア人によって北セム系言語であるフェニキア語を書くために使用されていた文字。紀元前1050年頃生まれた。フェニキア文字の前身は、原カナン文字Proto-Canaanite alphabetであると推測されている。
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フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(子音文字)である。すなわち、子音を表現する文字のみから構成される文字体系である。この特徴はフェニキア文字から生まれたヘブライ文字やアラビア文字にも受け継がれた。 ギリシャ文字がフェニキア文字を元とすることから、フェニキア文字はアルファベットのルーツとされる。

それでは、Youtube「Sailing with the Phoeniciansフェニキアンとの帆船の旅」をご紹介いたしましょう。
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地中海・・・紀元前5世紀。
フェニキアンによって創造された巨大な商業網を語り伝える数百の考古学的な場所が地中海沿岸に散らばって残っている。
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その地方の文明や文化と全く無関係の品々がしばしば発見されている。ギリシャでエジプトのお守りamulet、エジプトでギリシャの花瓶などだ。
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そしてある種の体系化された方法によって、膨大な商品がある国から別の国へ、さらに別の国へと、運ばれ交易されていた。背の高い頭飾りを被り、恐ろしい船、航海術、交易、そして荒波を乗り切る蛮勇を持ち合わせたフェニキアンが取り仕切っていたのだ。
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彼らはこの交易で名を歴史に残した。どのようにしてフェニキアンが多様な文明や文化をもたらし、それらを織り上げて、文句をつけようがない海の支配者masterになったのか、調べてみよう。

Secrets of Archaeology 考古学の秘密
Sailing with the Phoenicians フェニキアンとの船旅
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フェニキアンは現代のレバノンから生まれ出た。彼らは組織化された都市国家だった。最も重要な都市はタイアーTyreだ。そこには華麗なローマ式建築物遺跡が今も残っている。
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フェニキアンにとって富を増やす最も簡単な方法は、他の人々と接触することだった。そして、新しい土地や文化に続いている最も早い道は地中海だった。
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彼らは直ぐに、卓越した船乗りや俊敏な交易人になった。彼らが一番だった。彼らは人々が手に入れたがる製品、買い取ってほしい製品を見抜く方法を学び、紀元前2千年期には、それらを運んで帆船で移動し、交易し始めた。
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この交易を補強するため、彼らは港を造り、植民地を開拓し、倉庫を造り、エジプト、ギリシャ、マグナ・グレイシアMagna Graecia、そして北アフリカのカーセッジCarthageなど、近在している国々と往来する移動ルート網を確立していった。更に彼らはサルディーニャSardinia、スペインの地中海及び大西洋岸、更に遠く南の海岸にそってセネガル、北はイングランドやアイルランドまでも出かけた。
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何百もの植民地や何千もの船を持つ交易網で、植民地や船は、きっと見事に機能し合っていたに違いない。何年もの間学者たちは、倉庫を組織化し、多様な製品を取引きするため、フェニキアンがどのようにして、そんなにも古い時代にお互いに連絡し合うことが出来たのかを思い描いていた。
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そのように大きな組織を統括する技術について考古学者たちが気付いたのは、紀元前13世紀に遡る、フェニキアンの王アヒラムのこの石棺の発見だった。
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石棺には最も古代のアルファベット記述の例が彫られていた。それは文字であり、ハイログリフ(絵文字)ではなかった。
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フェニキアンはアルファベットを最初に創造した民族だ。彼らの偉大な交易網を打ち建てるためには不可欠な要素だ。この発明がどんなに素晴らしい物だったのかは、次の比較から思い描くことが出来る。
右側にはエジプトの2つのヒエログリフ表記が、左側にはフェニキアンのアルファベットの2つの文字MとHがある。
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これらの文字を組み合わせることで、読み手はハイログリフや絵文字で代用される概念を翻訳する必要が無かった。読み手が持っていたのは常に同じで、誰が読んでも同じ意味を持つ特定記号だけだ。

フェニキアンの船団の指揮官は多くの技術を持っていなければならなかった。彼らは海や外地に関する専門的な知識だけではなく、何を売り、何を買うか、といった取引の手法についても知っていなければならなかった。
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彼らの貴重な交易品の一つは、レバノンの神話ともいえる杉(mhレバノン杉)だ。頑丈な荷物船や軍船を造るのには優れた木材だ。
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木材はレバノンにあるフェニキアンの都市の後ろに控えていた山地の中のベイルバックで購入することが出来た。ヘレニズム時代には、都市ベイルバックはヘリオポリス“太陽の町”と言う名で知られていた。
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この地における、これらのスワステイカ(swastika卍まんじ)や柱の色の違いなどの証拠の意味を調べることで、考古学者は、都市を支配していた壮大な寺院が町の名前にもなった太陽神に捧げられていたことを発見した。
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しかし、柱は何故、異なる色で塗られていたのだろうか?柱がある基点に関係していることが判った時、その謎は解けた。
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暗い色に塗られた柱は西に面していた。一方、明るい色の柱は東に面していた。それらは生命と死、日の出と日の入り、を表わしていると思われる。
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西暦60年、太陽神の神殿は直径が1.8m、高さ18mの柱を54本持つ、全ての神聖な場所の中で最も重要な構造物だった。
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杉材の幹を台車に載せた交易人は、彼らの船が待つ海岸に戻った。ヘブライ聖書の“エゼキエルの書Book of Ezekiel”(mhバビロン捕囚時代のユダヤ人預言者)ではレバノンにあるフェニキアンの都市ビブロスByblosは古代における最大の軍港だったと述べられている。
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優れた船を使っても、海を横切るのは簡単な仕事ではなかった。このことが、地中海全域で神の加護を願う理由の一つだった。金箔で覆われた、これらの貴重な青銅製の像は奇妙な頭飾りを付けている。リーバイ(?)と呼ばれ、フェニキアンに典型的なものだ。
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これらの像はビブロスで沢山見つかっている。奉納品で神の加護を受けるために使われた。フェニキアンの宗教におき、最も重要な礼拝場所の一つで、ビブロスの“オベリスク寺院”で見つかった。
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ビブロスやその他のフェニキアンの都市では、沢山のフェニキアンの貨物船の残骸が見つかっている。
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典型的な船は長さ20mで、大量の貴重な杉や、ミューレックスという名で知られる染料で赤紫に染められた贅沢な織物を運ぶには十分な大きさだった。フェニキアンは自分たちの名前をこの織物に因んで名付けていた。フォイニックス、フェニシアン(フェニキアン)はギリシャ語のフォインつまり“赤”から来ている。
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この貴重な積荷は全ての港で交換されていただろう。しかし、船団の賢い指揮官たちは、その重さと同じ金の価値を持つ“クオロスkurose”を交換品として要求したかも知れない。クオロスは、調和とバランスが取れた男性の体をした、代表的な像だ。
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古代に造られた、これらの多くの像はコモロスComoros(?)の近くのローデス島Rhodesで見つかった。近くで行われた発掘でフィカロラ(?)として知られる、これらの祝賀用の花瓶などが見つかっている。
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ローデス島における、芸術と工芸の極みともいえるこれらの品物は、ローデス島が交易路における重要なハブ(車輪の中心)だったという事実で説明が付くかもしれない。
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長い船旅を、島から島への短い旅で繋なぐ時、ローデス島は必ず通過しなければならない島だった。
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ここに残っているのは干上がった造船所で、何千年もの間、完璧に保存されていた昔の植民地の跡だ。
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ここでギリシャ人たちは織物や船用の杉を交換品として提供された。
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その見返りとしてフェニキアンにはギリシャ中から送られてきた美しく装飾された土器や製品が与えられた。その中には、このような美しいギリシャ像やマグナ・グレイシアで造られた青銅の像も含まれていた。
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これらの中には遠く離れた植民地で暮らすフェニキアンの富豪が注文したものもあったかも知れない。この青銅のエフィーベ(男の名?)やマフィアの若者のような像は、古代フェニキアンのシシリー島の植民地マフィアにおける発掘で見つかった。像は地中海におけるフェニキアンの貿易レベルを証明している。
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驚くべき文化交流とも言える交易だ。

花瓶、像、宝石などを満載した船は西への旅を続けた。船はジブラルタルのイスミスで“ヘラクレスの柱”(ジブラルタル海峡のスペイン側に建てられていた柱)を過ぎ、アフリカの大西洋岸に沿ってモロッコからセネガル、ギニアまで南下した。
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当時、フェニキアンだけが大西洋に冒険旅行する勇気を持っていた。古代の人々はヘラクレスの柱よりも遠出することを恐れていたのだ。何故なら、彼らは、その向うは世界の果てだと信じていたからだ。
何がフェニキアンをそんなに遠くまで行かせていたのだろうか?ギリシャ人歴史家ヘロドトスはそれを彼の書物に書き残していた。“黄金”だ!

フェニキアンは商品を船から降ろし、砂浜に並べると、また船に戻って、狼煙(のろし)を上げた。
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原住民は狼煙を見ると、浜に出てきて、交換用の黄金を商品の脇に並べ、引き下がった。フェニキアンは船から下りて、黄金を確認し、もし黄金の量が賞品の交換に十分だと見積もったら、黄金を持って去っていった。そうでない場合は、船に戻り、彼らが満足する黄金が提供されるまで待ち続けた。
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アフリカ人は東方の派手な製品に魅かれ、現地で豊富に採れる黄色い金属には無関心だった。おかげで、この取引はフェニキアンには大きな儲け(バーゲン)だった。高価な土器や宝石類を残し、代りに黄金を摘んで戻るのだ。
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そして今度は、船は北に向けて航行した。イギリスやアイルランドにおける発掘によれば、フェニキアンはこの遠隔地まで到達していた。多くの発掘品は土器と宝石類の交換があったことを示している。北の人々は錫(すず)を提供した。
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フェニキアンやギリシャ人が青銅やその他の合金を製造するために大量に必要だった金属だ。アイルランドはフェニキアンが到達した最北の土地だ。そこで商品を交換すると、船乗りたちは戻っていった。この船旅はいつも危険が伴うものだった。
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勇敢な船長は、北大西洋の嵐の中で、岸に衝突したりしないよう、前方をよく見ようと自分の体を船首に縛り付け、船や積み荷を守った。船長は、船首から船員たちに指示を出していたのだ。もし幸運にも嵐をやり過ごせたら、南のフェニキアンの植民地カディースCadizに向かった。そこで鉄を買い、代金として黄金を支払った。そして彼らはマイヨーカMajorcaに向けて船旅をし、そこから豊かな植民地サルディーニャSardiniaに向かった。
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そこで、考古学者は黄金鉱山を掘り当てた。
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但し、在ったのは黄金を含む地層ではなく、大量の黄金の装飾品だ。現在はカリアリCagliariの考古学博物館に展示されている。
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サルディーニャには金鉱層は全くないので、貴金属はフェニキアンの船でアフリカから運ばれて来たとしか考えられない。サルディーニャ島の植民地では、フェニキアンは自分たちで黄金を溶かして小さな型に流し込み、更に見事な形に仕上げていた。
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サルディーニャはフェニキアンの手工芸品の、特にガラスに関する最大の生産地だった。
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彼らは油や香水用の小瓶、首飾り、特徴のあるお守りなどを造った。
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何世紀もの間、ガラスを発明したのはフェニキアンだと考えられていた。いまでは、科学は、この考えを支持してはいないものの、彼らは間違いなく、ガラス製造分野では比類のない名人masterだ。
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何年もの間、考古学者はこのような、ニヤニヤと笑っているマスクに表された曖昧な笑顔の理由を考えている。
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考古学者はある種の像の長い腕の理由についても知っていない。
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何年か調べて、彼らはその答えを見つけたようだ。マスクは墓から悪霊を追い払うために使われた。腕の長い像については、フェニキアンの医療の、もっと難解な面と関係している。人形は病からの早期の回復を祈願するために神に捧げられたのだ。治してほしい痛みがある場所を手が触って示している。病人が何を治してほしのか、神に思い出させようとしているかのようだ。

石壁と海。
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この組み合わせは、フェニキアンの市場とか交易所だったのではなかろうかと思わせる。サルディーニャのセロスの考古学的な一画には大きな古代建築が残っていないものの、古代の都市設計に関して雄弁に語ってくれる。
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ここでフェニキアンは鉄や鉛、彼らが持っていた錫や黄金の一部を貴重な宝石類と交換していただろう。当時、セロスは宝石類の巨大な生産地の一つだった。ここに残るフェニキアンの遺跡の間に、ニュラゲイ(?)と呼ばれる、全く異質な円形の構造物がある。フェニキアンに打ち負かされたペライトと呼ばれるサルディーニャの古代住民の典型的な建物だ。
これは凡そ3千年前の彼らの村の様子だ。
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ニュラゲイの文明はとても古く、紀元前2千年紀まで遡る。彼らの居住区はとてもコンパクトで、狭い道路はうねっていて、敵の侵略から守り易くなっていた。古代サルディーニャの人々の家は砦のような塔、食物倉庫、作業場、そして居住棟の組合せだった。様々な構造物を特定する特徴はなかったが、重要な建物には中心に炉があり、火を囲んで家族が生産的な活動を行う、ニュラゲイという場所があった。
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しかし、ニュラゲイという言葉は何を意味しているのだろうか?彼らの住居の構造から生まれた言葉のようだ。古代の現地語でニュラはマウンド(盛地)を意味していた。ニュラゲイの壁の造りは居住棟のものより厚い。
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大きな石を、モルタルを使わず、上まで積み上げて造っていた。高いニュラゲイは20mもあった。見てくれは実際、マウンド(盛地)のようだったのだ。

フェニキアンの港には、このノーラのように、全てに共通するものがある。
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それらの近くには必ず岬があるのだ。
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岬の両岸に船を係留することができ、広い船の修理場としても使える。フェニキアンが求めていた唯一の事は、直ぐ上陸し、一仕事したら、再び船で直ぐに出港出来るということだった。

これはノーラのフェニキアンの中心地にあった建物の基礎だ。
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ローマ帝国の占領で、彼らが快適に暮らせるよう改造される時に取り壊されてしまったが、フェニキアンもローマ人の風呂好きな性格を持っていた。ノーラの風呂は贅沢なモザイクで装飾されている。
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西暦2世紀に造られた劇場も見事な造りだ。サルディーニャでも最も魅力的な遺跡の一つになっている。
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このスパルタ式の5世紀のフェニキアンの港からは、船団は多くの玉石や貴重な品々で重くなり、喫水を下げて出港しただろう。

最も大きな考古学上の謎の一つは、最も強力なフェニキアンの植民地で、地中海の女王とも言われるカーセッジ(カルタゴ)の港に関するものだ。
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エジプトのアレクサンドリア生まれのギリシャ人歴史家アピオンは、港には2つの船着き場があったと書き残している。長方形の商業用船着き場と、円形の、中心には島がある軍事用船着き場だ。
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それに相当する場所は見つかっていなかったが、19世紀になり、作家リネー・シャトー・ブリヨン(?)が、ラクレーメの湾の近くの、2つの潟(かたlagoon)の形がその記述にとても似ていることに気付いた。そして彼は、ここがカーセッジだと気付いた。
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この発見は大論争を巻き起こした。論争は1974年の発掘調査で決着した。円形の島を発掘したイギリス人の調査隊は、シャトー・ブリヨンの理論を裏付ける証拠を見つけたのだ。
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船が忙しく行きかうカーセッジ港はローマ帝国以前では最も大きく、近代的だった。
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軍船は商業用船着き場を通り抜け、細い水路を通って軍事用船着き場に向かった。
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商船は、軍事用船着き場へ入ることを禁じられていた。軍事用船着き場に入って行った船は、トゥライリンで3段の櫓(ろ)が並んでいた。しかし、カーセッジには近代の軍船にも並ぶようなクアドラリン(4段の櫓の船)やトゥインクリン(2段の櫓の船?)もあった。
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全ての軍船は地中海におけるカーセッジの支配やフェニキアンの交易路を守る戦いから戻ると、この船着き場に係留された。船着き場は円形で、中心には“海兵隊員の島”として知られる島があった。島と、外側で囲んでいる陸地には停泊場があった。海兵隊員の島で最も高い場所にはパビリオン(監視棟)があり、そこから艦船の最高指揮官は軍令を発していた。
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旗を持った喇叭手(ラッパしゅ)や、先ぶれ(herald)は港の中の船の行動を統制していた。もし喇叭手が左に曲がるよう喇叭で知らせると、停留する余裕があることを告げていた。船が移動する水の幅は90mで、海兵隊員の島の直径と同じだった。中心の島には30の、外周には140の舫(もやい)場があった。係留場のいくつかは2隻の船を舫うことができたので、港には一度で200捜の船を停泊させることが出来た。

カーセッジの軍用船着き場は、海が荒れて外洋に乗り出すのは危険な冬になると、常に船で一杯だった。従って、この時期は、戦いを控える傾向があった。船の修復作業に適した時期でもあった。トライリンは島の、板が横に貼られた、僅かに傾斜した陸に引き上げられていた。
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板は斜面の上で船を移動しやすくするとともに、船を斜面に保持するために使われていた。その入り口部には円柱が設けられていて玄関のような印象を与えていたので、軍用船着き場の外観は優美とも言える様相だった。また、船も特別な美的処理が行われていた。典型的なフェニキアンの船には船首に目が描かれていた。敵を恐れさせるためだったと考えられている。軍船は貨物船と異なり、素早く移動できるよう、櫓(ろ)と櫓の漕ぎ手を乗せていた。
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優れた船乗りだったフェニキアンは船造りでも卓越した技術を持っていた。彼らは船を量産し、船が沈められると、短期間で交替の船を作り上げていた。船の全ての部品には異なる文字が書かれていて、短時間で組み立てることが出来た。こうして、彼らは船団を短期間で造ることができた。
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しかし、カーセッジで商売が忙しい所は、バーサと言う、カーセッジの集団墓地だった。ここで大きな取引が行われていた。
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サルディーニャから送られてきた宝石やガラス製品の販売や取引が行われていたようだ。これらの商品はカーセッジで需要が大きかった。故郷の近東Near Eastに戻る船はナイルを遡って広大な謎に満ちたファラオの王国を訪れていた。
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エジプト人はカルト信仰だったが、王家は金銀や玉石などを欲しがっていたのだ。フェニキアンは宝石をエジプト人だけが織り方を知っている、リネンと交換した。リネンはフェニキアンの船の丈夫な帆(ほ)を作るためには欠かせなかった。彼らはペルシャの宮廷で強い需要があった、めったにない、異国情緒のある商品も入手していた。例えば猿、そして鰐(わに)だ。

こうして商業の船旅を完結させてタイアーTyreの町に戻ると、彼らは、異国情緒のある動物はペルシャ人に、リネンは自分たちの仲間に売った。
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彼らの手元には黄金、銀、そして彼らが杉を買うために払った以上の多くのお金が残った。
彼らの古代の車輪とも言える船旅や取引を通じて、フェニキアンは当時知られていた世界の多くとの関係を形成し、多様な人々と、異なる文化が提供する最善のものを分かち合うことが出来た。フェニキアンが地中海の商売の達人だったことについては議論の余地はない。
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Secrets of Archaeology: Sailing with the Phoenicians
https://www.youtube.com/watch?v=YctseaBS-wE
・・・・・・・・・・・・
<mhの仮説>
紀元前587年または586年、ネブカドネザルよって滅ぼされたエルサレムからバビロンに捕囚されたイスラエル人が編集して完成させたヘブライ聖書(旧約聖書)ば、紀元前8世紀頃に書かれた『詩編』(しへん英語: Psalm)が最も古い書物だと記しています。つまり、紀元前8世紀にはヘブライ語やヘブライ文字があったということですが、紀元前10世紀に生きていたイスラエル王ディビッド、ソロモン、はたまた、ディビッドが打ち破ったというフィリスティンが記録に現れるのは、ヘブライ聖書が初めてです。このことからmhは、デイビッド、ソロモン、フィリスティンは、故郷エルサレムを追われたイスラエル人の郷愁や愛国心が生み出した絵空事だ!と結論いたします。前々回、前回のブログでもご披露したように、ヘブライ聖書以前の、エジプト、ヒッタイト、バビロン、はたまた古代イスラエルの遺跡から見つかる記述の中に、ディビッドやソロモンやフィリスティンが出現していないんですから。彼らが実在していなかったと考えれば、辻褄(つじつま)が合います。

で~ディビッドやイスラエルに対立していたと旧約聖書に記されたフィリスティンは、今回ご紹介したフェニキア人だ!とmhは結論いたします。
その根拠を箇条書きすれば次の通りです。
1) フェニキアンはフィリスティン同様、都市国家でしかなかった。
2) フェニキアンの都市国家はフィリスティン同様、近東Near Eastにあった。
3) フェニキアンの近東にあった都市国家は、エルサレムがネブカドネザルに侵略された時は、フィリスティン同様、既に崩壊し、存在していない。
4) フェニキアンはフィリスティン同様、セム族Semiteではなかった。
フェニキアンはギリシャ方面から地中海を伝って近東にやってきた人々の集団であって、セム族じゃあないんですね。
前回のブログ「フィリスティンの不思議」から作家ザンガーの言葉を引用すると「フィリステインはセム族(注)ではなかった。聖書で“フィリスティン”と言う時はいつも、割礼を受けていない人を指している」
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「つまり、聖書を作成した人々とは違っていたということだ。彼らはセム族じゃあなかったんだ。全てのセム族は割礼を受けていたんだから」
(セム族:西アジアやアフリカに分布し“セム語”を話す。中近東人で代表的にはアラビア人)
5) フェニキアンとフィリスティンは語呂(ごろ)が似ている!
6) 以上から、ディビッドやソロモンがいたとされる紀元前10世紀にあったとされる都市国家に暮らしていたフィリスティンはフェニキアンをイメージしてでっち上げられた民族と言える。
ついでに言えば、くどくて申し訳ありませんが、紀元前11世紀には生まれていたと言われるフェニキア文字で記述された記録の中にディビッド、ソロモン、フィリスティンが出現していないことも、彼らがバビロンに捕囚されたイスラエル人によって捏造(ねつぞう)された人たちだというmhの仮説を裏付けている。

ヘブライ聖書に書かれている物語の多くは逸話や伝説です。しかし、事実を曲解したり誇張したりして作った話であって、全て事実ではない、ということではないとmhは思います。事実を参考にした方が、物語は作り易いですからね。

で~フィリスティンの都市国家は、元々が架空の民族ですから現存しているわけはなく、かつ、フィリスティンのモデルとなったフェニキアンの都市国家は崩壊している訳ですが~
ここで次の命題が生まれます。
命題:都市国家は崩壊する。

これが事実であることは歴史が証明しています。
古代ギリシャにはアテネやスパルタなどの都市国家がありましたが、現在はギリシャという国家です。イタリアもかつては、ミラノ、トリノ、ベネチア、ピサ、フィレンツェなどの都市国家でした。日本だって、戦国時代には、武将が乱立した都市国家の様相を示していました。

で~今では、これら都市国家は全て崩壊し、都市国家を集合した国家の体系をなしているんですが~
何故、そうなってしまったのか?
今後は国家すら崩壊し、世界は一つになるのか?

これらの疑問を解く鍵は、言語じゃあないでしょうか。同じ言語を使う人々がいくつもの都市で独立しているのは生活効率が悪いんですね。で、都市国家は同一言語の人々の集団、つまり国家に変わってきたのです。
そう考えると、世界が一つの国家になるためには、世界中の日常会話が同じ言語で行われる必要がありますが、それを希望しないのは現在の国家の統治者たちでしょう。自分たちの立場が失われるわけですから。よって、当分、世界が一つの国家になることはないとの結論が導かれます。
(完)

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mh徒然草:今年は蝉の外れ年?


今日は8月13日。ずっと気にしていたのですが、mh徒然草の投稿ストックが9月1日で切れちゃうんですね。で、このブログは9月8日公開ってことですが・・・
もう一方の月曜公開の“世界の不思議”は来年1月16日分まで原稿は完成しています!因みに、1月2日(月)は年賀ブログとして“非凡之旅”をお贈りする予定です。9日はニュートンの不思議、16日は最後の晩餐の不思議です。

それにしても、今日は蒸し暑い一日になりました!
アイスクリームのストックが切れたので、いつものスーパーに買い出しに出かけたのですが、軽い運動も兼ねて、と思い、団地の10階から階段を使いました。帰りは、アイスを抱えているので、少しでも早く冷凍庫に入れなきゃあってことで、エレベーターを使う算段でしたから、行きでは階段を使ったんですね。

すると、どこから舞い込んだのか、階段スペースで蝉の死骸を3つ見ました。そうか、そろそろ、蝉は泡沫(うたかた)の世をおさらばして天国に行く時期か、と思ったんですが・・・
考えてみると、今年は、蝉の鳴き声が例年に比べて控えめな気がしたんです。みなさんの住んでいるところではどうでしょうか。 “そう言われてみると、我が家の周りでも蝉をあんまり見かけなかったなあ”って思われる方が多いのではないでしょうか。間違いなく多いはずだ!と断言いたします、データー証拠はありませんが。

スーパーの西瓜(すいか)は今日も中玉の八分の一切れが399円もしています。
西瓜の不作と蝉の外れ年は重なっているんじゃあないか???つまり、逆も真なりで、西瓜が豊作な年は蝉も多いんじゃあないか?って思ったんですね。

で~来年はどうなるかって予測ですが・・・
西瓜の出来高は低いと思います!ってことは蝉も少ないってことですね。

この予測にはれっきとした根拠があります!地球温暖化による気象異常です。冷夏か猛暑か判りませんが、とにかく、地球温暖化によって、気象は例年と異なることが多いんです。来年の夏は平年よりも大幅に暑いか寒いかのどちらかになる確率が高く、どちらであろうが西瓜や蝉は戸惑ってしまうんです。

地球温暖化で、気象は平年から大幅に変動し、その結果、野菜や果物の収穫は減っていきます。それにつれて蝉や蝉を食料にしていた動物も減っていきます。団栗(どんぐり)も減って、鹿や熊は人間居住地に出没するようになりました。今や負の食物連鎖が始まっているのです!

6500万年前、この地球は第五大量絶滅期を迎えました。隕石の衝突で気象や自然環境が乱れ、アンモナイトや恐竜などが絶滅したのです。そして今は第六大量絶滅期Sixth Mass Extinctionの真っ最中だって科学者たちは言っています。その因果応報は?

隕石などではなく、人間だと言います。人間が撒(ま)き散らしている温室ガスの増加による地球温暖化です。西瓜という植物も、蝉という動物も、人間の成せる業によって、絶滅に向かっているのです。値段の高沸で話題に上る鮪や、秋刀魚、スルメイカもそうですね。人間の生存活動によって多くの動植物が絶滅に向かっているんです!

青い地球は人類だけのものではありません。他の動植物との共存がなければ、我々の生活も成り立たなくなることに思いを馳せ、地球にやさしい毎日を過ごすことが大切です。そのためにあなたが出来ることはなんでしょう?

地球に貢献できることなんて、私みたいな平凡な人間に出来ることなんかないよって思うのは間違いです!簡単に出来て、直ぐに、あなたにも恩恵をもたらすことがあります!
それは、毎日の食事量を10~20%減らすことです!地球にやさしいばかりでなく、健康的で、お財布にもやさしい、一石三鳥の対策です。mhは既に試していて、その効果を体感しています。是非、お試しください。

Little Peggy March I Will Follow Him
https://www.youtube.com/watch?v=jylY522Xx1k

(完)

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フィリスティンの不思議


今週は、先週のブログ「ソロモンの黄金の謎」にも登場しているフィリスティンの不思議を、Youtube「The Philistines」を使ってご紹介いたしましょう。

Wikiペリシテ人
フィリスティン、あるいはフィリスティア人(英語:Philistines)とは、古代カナン南部の地中海沿岸地域周辺に入植した民族群である。アシュドド、アシュケロン、エクロン、ガザ、ガトの5つの自治都市に定着して五市連合を形成していた。古代イスラエルの主要な敵として知られ、聖書の『士師記Book of Judges』や『サムエル記Books of Samuel』で頻繁に登場する。特に、士師サムソンの物語や、戦士ゴリアテと戦ったダビデの物語などが有名である。
また、パレスチナ(Palestine)は「ペリシテ人の土地」という意味だが、実際には、現在のパレスチナ人はアラブ民族であり、ペリシテ人と直接関係があるかは分かっていない。

で~“カナン”とは“約束の地”です。
Wikiカナン
あるいはカナアン(英語:Canaanケイナン)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。

また士師記は英語でBook of Judges、つまり“ジャッジ/判事”の書です。判事となる人物には時々、神が乗り移って、人間を導いたり裁いたりするんですね。で~判事って呼ばれるわけですが、聖書には何人ものジャッジが登場するようで、皆さんも名前を聞いたことがあるはずのサムソン、ゴリアテも判事だったんです。この2人は後程、Youtubeの中でも現れます。

で~これからご紹介するYoutubeフィルムですが、mhの翻訳を読んで頂くと、直ぐに気付くことがあるはずです。
それは・・・
巻末でご紹介いたしましょう。まずは、フィルム内容をご確認下さい。
・・・・・・・・・・・・
Act 1: A Savage People? 第一幕:野蛮な人々か?
“ヨシュア”、“ジャッジ;士師”、“サムエル”などの聖書の物語によれば、2世紀以上に渡って何度も行われたという争いの雄叫びの中で、フィリスティンはイスラエルの人々の敵役(かたきやく)だ。
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既に大昔になってしまったものの、戦士としての彼らの遺産は、今も聖地に憑(と)りつくように残っている。
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イスラエルの元々の名前パレスティン(パレスチナ)は、フィリスティンの土地を意味する。紀元前5世紀にこの地を訪れたギリシャ人歴史家ヘロドトスによって、最初に、この一帯を指す言葉として使われた。
近東Near Eastの南の海岸に沿った平地で暮らしていた彼らの文明はアシュケロンAshkelon、エクロンEkron、ガザGaza、アシュドドAshdod、そしてガスGathという5つの重要な都市を拠点としていた。
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この一帯に、旧約聖書の出エジプト記Exodusで描かれた事件よりも前から、長い間、住み着いていたというフィリスティンは、恐らくユダヤ人たちが約束の地に行く邪魔をしていた。
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“出エジプト記”『ファラオが人々の出国を認めた時、フィリスティンの土地を通る方が約束の地には近道だったが、神は人々を別の道に導いた。神は言った“もし彼らが争いに巻き込まれれば、彼らは心変わりをして、エジプトに戻ってしまうかもしれない”』

神は、フィリスティンと対立するより、自然が過酷で40年も彷徨(さまよ)うことになる、長い迂回路をイスラエル人に採用させた、と聖書は我々に告げている。
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イスラエル人たちが彼らの新たな土地に定住した後、フィリスティンは、その地域の運命に影響を及ぼす役割を演じ始める。神は不思議にも、神聖な契約を繰り返して破ったイスラエル人たちを罰するためにフィリスティンを使う。
“ジャッジ(士師記)”『イスラエル人たちは、神から見ると悪魔の業をし続けた。そこで神は彼らをフィリスティンの権力に屈しさせた』
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作家ウォルター・ザンガー「聖書の予言の何ヶ所かで、これらの敵(フィリスティン)を神の道具と見ていた。罪を犯したイスラエル人たちを懲(こ)らしめる神の杖だったんだ。このことがその後の予言における重要なテーマになっている」
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フィリスティンはイスラエル人の存在における災いの種になるだろう。彼らはユダヤ人の最初の偉大な2人の王の命に影響を与え続けるだろう。
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しかし、いざこざ好きに思える仇(かたき)のフィリスティンとは誰なんだろう?どんな人たちなら、こんなにも恐れられる敵になり得るのだろう?
最近まで、彼らに関して知られている、ほとんど全ての事は、古代イスラエル人たちが書き記した聖書だけが頼りだった。

ここはエルサレムから32Km南の、初期のフィリスティンの町エクロンの遺跡だ。ここで科学と考古学が、かつて恐れられていた人々に対する考えを変えている。
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ヘブライ大学トゥルード・ドーサン博士「ここが現時点では、緻密(ちみつ)に計画された工業地帯における、城塞で囲まれた都市の全貌を見ることが出来るたった一つの場所なの。古代においては、ここの住民は、今でも通用する近代的なエコロジー(生態学)にとても気を使っていたようなの。古い時代だったことを考えるととても奇妙なことよ。人々は工業のことだけを考えていたんじゃあなかったのよ。都市の中心ではエリートが暮らしていて、寺院などの行政府の建物があるの」
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今日、フィリスティンという言葉は“繊細さや文化が欠如している人物”を指す軽蔑的な単語でもある。しかし、エクロンなどの場所で見つかった財宝は、これらの見方に反する古代の敵の、新たな内面を見せている。
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作家ザンガー「実際、エルサレムにあるイスラエル博物館で展示されているものの中で、私がこれまでに見た最も美しいものはフィリスティンの品物だ」
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「土器、像、女神goddess、神、宝石、手工芸品などはいずれも、私が思うには、古代イスラエルの土地では並ぶことがない、完成された美に到達していた」
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フィリスティンがパレスチナで彼らの文明を発展させていた時、北アメリカのネバダの住民は鴨(かも)を捕えるための原始的な囮(おとり)を使っていた。
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中国では、王が未来を予言するため、神託の骨に質問が刻まれていた。メキシコでは、陶器の人形が、社会的地位を示すため死人と共に埋葬されていた。

閑話休題。世界のその他の地域では新しい金属が初めて溶融され、道具として叩き上げられていた。それは鉄だ。鉄がフィリスティンの軍事力の鍵だったのだろうか?
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“サムエル第一”『イスラエルの土地のどこにも、鉄器の鍛冶工はいなかった。フィリスティンは、ヘブライ人Hebrewは剣や槍を造っていたのだろうか?と言っていた』
作家ザンガー「つまり、当時の知恵によれば、フィリスティンの技術的な優位性の秘密は彼らが鉄を使っていて、その一方で他の誰もがまだ銅と錫(すず)で出来た青銅を使っていた、と言っている。もしそれが事実なら全ては明確だ。鉄の剣は青銅の楯(たて)を切り裂けるのだから。唯一の問題は、考古学がこれを支持していないことだ」

ドーサン博士「鉄が紀元前12世紀に現れた時、その量はわずかだったのよ。当初は宝石のような貴重品だったの。象牙の握り部を持つ、美しい造りのナイフなど、主に特殊な製品にだけ使われていたの」
考古学者たちは、フィリスティンが軍隊の全てに行き渡らせるほどに十分な量の鉄を持っていたかどうか、証拠を探し続けている。これは未解決の問題だが、歴史から消されている人々に関する、ある一つの典型的な謎だろう。
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しかし、彼らはどこからやって来たのだろう?そして彼らは何故、地中海に沿った過酷な平地にやって来たのだろう?
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何か大きな災いに追われていたのだろうか?謎の失われた土地アトランティスといった、歴史的に最も伝説的な文明の一つと関係を持っているような災害と、フィリスティンは関係があるのだろうか?

全能のmightyフィリスティンに関する調査の中で、我々は議論の余地がない事実に出会う。これらの謎の人々が誰であれ、彼らの文化は彼らの名が付いた土地(パレスチナ)で生まれたものではない!事実、彼らは遠方からきた外部の人たちなのだ。
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作家ザンガー「彼らはセム族(注)ではなかった。聖書で“フィリスティン”と言う時はいつも、割礼を受けていない人を指している」
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「つまり、聖書を作成した人々とは違っていたということだ。フィリスティンはセム族じゃあなかったんだ。全てのセム族は割礼を受けていたんだから」
(セム族Semite:西アジアやアフリカに分布し“セム語”を話す。中近東人で代表的にはアラビア人)

フィリスティンはどこから来たのだろう?彼らの偉大な寺院や王宮は消滅しているが、土器類の小さな欠片(かけら)は生き残っている。それは遠い過去からやってきた物言わぬ語り部messengerで、物語を語って聞かせてくれる。
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ドーサン博士「私たちが初めて土器を見つけた時、それはとても繊細で美しくて、私たちがマイソニアンやギリシャやキプロスで知っている装飾様式だったの。それを調べてみたら、どうも輸入されたもののようだったの」
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しかし、検査した結果、土器の破片は外地の土壌で造られたものではなかった。発見されたエクロンの土で造られたものだったのだ。皮肉にも、他所から持ち込まれた土器ではなく、それを造ったのがよそ者だったということだ。彼らは遠く、エーゲ海のギリシャの島々から彼らの文化を持ち込んで来た。
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何が、フィリスティンに生まれ故郷を離れる危険を冒して、新しい土地を求めて出発させることになったのだろう?
作家ザンガー「失われたアトランティス王国を立ち上げていたのかも知れない島サントリーニを吹き飛ばした巨大な火山が、全ての文明を吹き飛ばしてしまった」
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「その火山が島々での生活の崩壊の始まりだったんだ。島々は北の、現在のブルガリアからギリシャ本土にやって来た侵略者たちによって荒廃させられた」

自然災害と侵略で追い出されたフィリスティンは、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で南と東に逃げ初め、何世代の間、彷徨(さまよ)い続けることになった。
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そして紀元前12世紀の初め頃、遠いエジプトの海岸に到着した。これは古代エジプトの首都テーベにある荘厳(そうごん)なメヂネット・ハブー寺院だ。
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その装飾された壁に侵入してきた外敵を打ち負かした証拠が刻まれている。
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エジプト・テーベの壁の記述『河口に入って来た者たちは網に捕えられた鳥のようだった。陸続きにやって来た者たちは倒され、殺された』
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勃発した侵入はフィリスタィンが押し寄せたものだが、彼らは、エジプト人たちによって、パレスチナと呼ばれて知られることになる土地に押し戻されている。しかし、そこにはケイナンナイト(Canaaniteカナン人)として知られる人々が既に住んでいた。エクロンにおける、ある劇的な発見は、フィリスタインがやって来たことを示す野蛮な衝撃の証拠のようなものを提供している。
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バルチモア・ヘブライ大学考古学教授バーッリー・M・ギトゥレン「フィリスティンがこの場所にやって来た時、我々が第一サイトと呼んで発掘作業をしている場所の北東の角で、彼らは小さな、恐らく4から6ヘクタールの定住地を見つけた。そこは後に紀元前1200年頃、火災によって徹底的に破壊されている。我々は火災の痕跡を、その定住地一帯で見つけている。これらのことから考えさせられるのは、定住地はフィリスティンによる大火災で破壊され、その大火災の上にフィリスティンの居住区が造られたという事実だ。もし、やったのがフィリスティンでないというなら、誰がやったのか、我々には判らない」
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考古学的な証拠は紀元前1200年頃、フィリスティンがエクロンに到達していたことを示している。しかし奇妙なのは、彼らが来たのはもっと前だと聖書が話していることだ。エイブラハムの時代で、少なくとも5百年以上前だと言っている。
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ルトガーズ大学准教授ロバート「私にとってフィリスティンに関する最大の謎は、聖書の記述内容だ。フィリスティンと呼ばれる人々の初期の集団が、ヘブライ人の家長のエイブラハムやイサクと接触していると言っているんだ!」
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(mh:全くの蛇足ですが・・・ロバート氏は誰かに似ていると思いませんか?そうです、キッシンジャー補佐官です!彼もイスラエル人だったはずです)

何人かの学者は、これらのフィリスティンに関する初期の参考記述は、後日の記載で創造された作り話fictionだと考えている。しかし、多くの学者は、同じくフィリスティンと呼ばれていた、異なる人々の集団が本当にいたと考えている。この疑問は未だに解決されていない。

もう一つの悩ましい謎もある。どこかに消えてしまっている都市だ。
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ジティン教授「5つの主要な都市の特定は、1百年以上もの間、イスラエル国における考古学のパズルのようなものだった。しかし、我々はアシュケロン、エクロン、ガザ、そしてアシュドドという4つの都市については、ある程度の発掘も進んでいて、既に特定していると言っても好い、と私は思う。しかし、都市ガスについては依然として謎だ」
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ガスは巨人ゴリアテ(Goliathゴライアス)が住んでいた町だ。フィリスティンの有名な巨人戦士だ。しかし、彼の住んでいた都市は全く見つかっていない。
フィリスティンについて我々がはっきり知っている一つの事は、彼らがイスラエルの宿敵だったということだ。しかし彼らをそうしたのは何なのだろうか?
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これを考えるには、込み入ったいくつもの断片が、2つの国を、どのようにして悪質な戦いに発展させ、ロマンティックにも永遠に変えてしまうことになったのか、詳細に考えねばならなくなる。

イスラエル人がエジプトを出国して約束の土地に定住してから何年か後、彼らの近くでフィリスティンが暮らしている。しかし、当時、彼らは敵だったのだろうか?恐らくそうだろう。

ある一つの物語が手掛かりを含んでいるかも知れない。それはイスラエル人の王者サムソンの物語だ。
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“ジャッジ”『ある日、サムソンがシムラにいた時、彼はあるフィリスティンの娘に気付いた。家に戻ると、彼は父と母に、彼女と結婚したいと伝えた』
作家ザンガー「“ジャッジ”の中の記録は、フィリスティンが土地を管轄していて、彼らは支配的で、人々を抑圧してさえいたと言っている。にもかかわらず、フィリスティンとイスラエルという2つの集団の間には、交易や商売、異なる社会の間の結婚の証拠もあるのだ」
サムソンは、名前が判っていないフィリスティンの女と結婚した。結婚披露宴で、彼は招待客たちに謎々(なぞなぞ)を出し、答えられたら、褒美(ほうび)としてその人たち全員に2着の上着を与えると言った。
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招待客たちは競い合ってその謎々を解こうとし始め、やがて答えを見つけた。サムソンは怒った。というのは、彼の妻が招待客たちに密かに答えを教えていたのだ。約束した褒美に必要な上着を探すため、サムソンは近くの町に行き、30人のフィリスティンを殺して彼らの服を剥ぎ取った。
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この事件が争いに火を点け、フィリスティンとイスラエル人の間の更に大きな争いの伏線になった。
この事件にもかかわらず、フィリスティンの女に対する、サムソンの説明のつかない惚れ込みは続いた。
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ロヨラ・メリーマウント大学准教授ダニエル「彼は特によそ者の女性、つまりフィリスティンの女性に魅かれていたようだ。この物語には隠れた副題が流れている。それは、イスラエル人なら非イスラエル人と結婚すべきではないというものだ。つまりサムソンの物語の目的の一つは、彼の弱点が、よそ者の女性、特によそ者の敵の女性に魅惑されることによって引き出されていたことを示すことにある。異なったグループの人と結婚しないという考えは、聖書の中で貫かれている自分たちの独自性identityと節操integrityを守る、ということだ。それは初期の聖書だけではなく、その後の時代の聖書にも続いている考えだ」

“ジャッジ”『その後、彼はサーリック谷の女と恋に落ちた。女の名はディライラという』
そしてサムソンは再びフィリスティンの女に裏切られる。今回は、致命的なものだった。ディライラは彼の偉大な肉体の強靭(きょうじん)の秘密について教えてくれるよう、彼を説得する。誘導された彼は、もし自分の髪の毛が切り取られたら強靭は消えてしまうだろうと教えてしまう。
“ジャッジ”『女は彼の髪の毛を7回、カミソリで剃(そ)り落した』
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『フィリスティンは彼を捕え、両眼をくり抜き、彼をガザに連行した。しかし、彼の髪は再び、生(は)え始めた』
サムソンは、フィリスタィンの邪神を讃える饗宴で招待客を楽しませるために悲惨なまでに引き回されていた。
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絶望の中で、彼は最後の力を出せるよう神に祈った。
“ジャッジ”『サムソンは建物を支えていた2つの中央の柱に近づくと、体を預け、片方の柱に右手を、もう片方の柱に左手を当て、そして“私をフィリスティンと共に殺してくれ”と言うと、彼の全力を使って柱を力いっぱい押した。建物とその中の全ての人々は床の上に崩れ落ちた』
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近年の考古学により、今日のテルアビブの郊外で見つかったテルカシールという場所は、この奇想天外な物語に信憑性を与えてくれる。
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この遺跡は例外的なほどに良い状態で残されていたフィリスティンの寺院で、サムソンが破壊した寺院と、恐らくとても似ている。中央には建物を支えていた2本の主柱がある。
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準教授ロバート「もし、サムソンがこれら2本の柱の間に立ち、体を預けて両手で柱を押している姿を想像してみると、柱は倒れるだろうし、建物は崩壊して中にいる人々の上に崩れ落ちてくるだろうと思われる」

聖書の中では、イスラエル人に直接出会ってない時のフィリスティンが述べられることはない(mhフィリスティンが現れる時はいつでも、イスラエル人との関係がある場面だけだ、という意味ですね、判り辛いですが)。おかげで、フィリスティンについては、ほとんど判っていない。しかし、サムソンの事件の直ぐ後の紀元前1050年頃のある時期、フィリスティンは突然、聖書の中に再び出現する。
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“サムエル第一”『当時、フィリスティンはイスラエルに対して戦いを始めようと集まっていた。彼らは軍隊を引き連れ、戦線は敷かれた』
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準教授ダニエル「何がフィリスティンとイスラエル人の間の闘いの大きな引き金になったのかは謎だ。一つの理由としては同じ領土を巡る争いではないかと思う。しかしその一部は、もっと大きな世界的な帝国のエジプトが様々な集団の間で不穏を扇動して自分たちの優位性を引き出そうと考えたからかも知れない。エジプトは、この一帯を統括したいと望んでいた。従って、フィリスティンまたはイスラエルの政策に介入できれば、間違いなく、自分たちにとって有利に働くと考えたはずだ」
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フィリスティンはイスラエルの領地に侵攻し、聖書にも記載されている大きな戦いの切っ掛けを作ることになる無慈悲な攻撃を開始した。

作家ザンガー「エブネゼルEbenezerの戦いは聖書の初期の記述の中で、とてつもなく大きく取り上げられている瞬間の一つだ」
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「フィリスティンは奇襲攻撃をかけた。イスラエル人は混乱して逃げ出した。戦いがイスラエルにとって不利に進むと、何か無敵の兵器が必要だと言って、シャイロン(?)から“契約の箱Ark of the Load”を持ち込むことにした」
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契約の箱は、モーゼズによって、十戒(じっかい)が刻まれた重要な石板をシナイ山から運ぶ役目を演じている。それは国宝で、全てのイスラエル人にとって最も神聖な品物で、巨大な、ほとんど不可思議とも言える力が注ぎ込まれていると信じられていた。戦いは最初、フィリスティンが威圧し、直ぐにイスラエル軍に総攻撃をかけてきた。
“サムエル第一”『彼らは戦い、イスラエル軍は敗走し、みんな勝手に逃げ出した。大勢が惨殺された。3万人のイスラエル軍と契約の箱はフィリスティンに没収された』
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作家ザンガー「イスラエルにとって、3万人の捕虜というのは大きな不幸だが、契約の箱を没収されたのは大惨事だった」
しかし、その大惨事は占領したフィリスティンにとっても同じほどに大きなものだったのだ!
作家ザンガー「彼らは契約の箱を適正に取り扱えなかったんだ。彼らには、箱がもつ魔力が大き過ぎ、手に負えなかった。彼らは、箱を彼らの寺院に置いてみたが、翌朝いってみると、彼らの神の像が破壊されていた。倒され、床の上に転がっていた」
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「契約の箱の魔力は、彼らの神の像が持っている魔力を打ち破ってしまったのだ」

契約の箱を持っているとフィリスティンの上に騒動や疫病がやってくる!そこで、箱の魔力を消滅させようと、別の町に移した。それでも彼らはその効力の影響を受け続けた。彼らは、神聖な箱を手元に置き続けられないことを悟った。
“サムエル第一”『箱がフィリスティンの領土内に7ヶ月の間あった時、フィリスティンは彼らの祈祷師や神官たちに、契約の箱をどうすればいいのかと問いながら助けを求めていた。どんな方法で箱を、元あった場所に返したらよいのか教えてほしいと』

フィリスティンは、これまで装具harnessを取り付けられたことがない牛が牽(ひ)く台車に箱を載せた。
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訓練されていない動物に不可思議に任せて牽かせながら、神は動物たちを導いていた。
作家ザンガー「聖書の中の説明によれば、牛は低い声で唸(うな)りながらとぼとぼと歩き続け、右に行くでもなく、かといって左に行くでもなく、道をふらつきながらユダヤ(ジュディアJudea)の地に戻っていった」
箱が戻って来たのはこの場所だ。
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かつて都市デスシュメッシュと呼ばれていた所だ。遺跡は今もなお3千年前と同じように肥沃な耕作地に囲まれながら、エルサレムの西約32Kmに横たわっている。
“サムエル第一”『デスシュメッシュの住民たちは谷間に集まって小麦の収穫をしていた。彼らがふと目を上げてみると、契約の箱が見えた。彼らは喜びながら、箱の所に走っていった』

フィリスティンが再びイスラエルに戦を仕掛ける前の20年が過ぎ去った。今回の攻撃は、ユダヤ人が信仰を確認する祈りを捧げるために集まるミズパMizpahと呼ばれる町で行われた。
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この戦いでは神自身が介入した。
“サムエル第一”『そして神は、その日、フィリスティンに対抗して大音響の雷鳴を立て、彼らをとても混乱させたので、彼らはイスラエル人たちの前で敗走した』

戦いに勝利したイスラエル人たちは、指導者に関する重要な見直しを行うことにした。預言者やジャッジ(士師)の命令に従うのではなく、王の指示に従うことにしたのだ。
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準教授ダニエル「彼らが王を立てることにした主な理由の一つは、聖書の記述によれば“我々は我々のために戦ってくれる王を望む”というものだ。“そうすれば我々は他の国のようになれる”と考えていた。これが暗に示しているのは、そうすることで彼らがフィリスティンのようになれる、ということだ」
つまり、皮肉にも、イスラエルの人々は連携して王国を創り上げ、彼らが軽蔑していた敵フィリスティンのようになろうとしていたのだ。
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そして、ソウルと言う名の男がイスラエルの最初の王になる。彼は人々を、英雄的な勝利に、徹底的な敵の撲滅に、そして究極的には今日まで続く運命へ導くことになる。
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“サムエル第一”『“だから、土地中に響き渡るように角笛を吹け!”と神は全てのイスラエルに指示した。ソウルはフィリスティンの支配者を撃ち殺した。実際、イスラエル人はフィリスティンにとって不愉快な人々になった』
ソウル王はフィリスティンをイスラエル領土から追い出そうとして彼らに対する新たな戦争を仕掛けた。しかし、彼は大きな勝利を勝ち取ることは出来なかった。フィリスティンがイスラエルよりも優れた鉄の武器を使っていたからかも知れない。仮にそうであったとしても、彼らの軍事力は、他の重要な要素に頼ったものだった。
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ロバート准教授「フィリスティンはおよそ2世紀に渡り、その一帯における支配的な軍事勢力だった。彼らの兵士の戦闘技能は、僅かに残っている考古学的な記録においても知られている。彼らは、他の偉大な勢力も持っていた、いくつかの武器を使っていたが、彼らの成功の鍵は戦術だったに違いない。現実の戦いの中で実用的だった軍事的な戦術と戦略だ」
聖書はフィリスティンの戦術についてほとんど語っていない。しかし、彼らは戦いで勝利を収めると誇らしげで満足気になり、新たな脅威でイスラエルを苦しめた。その脅威とは、これまで見たこともないような巨大な塔のような戦士だ。
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“サムエル第一”『そして彼らはフィリスティンの兵卒たちから一人の男を先頭に立て、前進を始めた。ガスGathから来た兵士で名はゴライアス(ゴリアテ)だ。』
最初、イスラエル人の誰も、巨人に挑戦しようと立ち上がらなかった。しかし、その時、若者が現れた。彼が持っていたのはスリングショットだけだ。
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彼の名前はディビッド(ダビデ)という。
”サムエル第一“『フィリスティンの巨人がディビッドを見つめ、眺めた時、彼はディビッドを馬鹿にした。何故なら、ディビッドはまだ若者だったからだ。“お前は、私を鞭(むち)を持って追い回す犬だとでも思っているのか?”と彼は言った』
ディビッドは剛力の巨人を、頭を狙った一発の石だけで打倒し、自分を国家的英雄だと宣言した。
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しかし、フィリスティン軍全体はほとんど無傷のままだった。彼らは、今まで通り、恐ろしい敵だった。

彼らを失墜に導く運命的な転機は、ソウル王が突然、人々の間で英雄になったディビッドを妬(ねた)んだことから始まった。
“サムエル第一”『ソウルは槍でディビッドを突き殺そうとした。しかし、彼はソウルの槍を躱(かわ)した。槍は壁に打ち込まれ、ディビッドは逃げ出した。』
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(右で槍を放とうとしているのがソウル王で、左で竪琴を持っているのがディビッドです)

ディビッドと、彼に忠実な600人は逃げ、ユダヤの荒々しい自然の中に身を隠した。ソウル王は執拗(しつよう)にディビッドを探し出して殺そうとした。しかし、機転が利く若きイスラエル人の英雄は、思いもつかない場所の中に隠れ家を見出した。敵フィリスティンの軍隊基地だ。
“サムエル第一”『ディビッドは自分自身に言った“ソウルに捕えられるかも知れない日が来るより、フィリスティンの中に逃げ込む方がましだ”』
作家ザンガー「彼はある時点で、フィリスティンの都市の中の軍隊基地の中に身を投げることにしたんだ。フィリスティンの王は彼を手元に置くことを喜んだ。何故なら、偉大な戦士を手元に持っていれば、その上、その戦士が敵の中でも有名な男なら、大きな名誉になる。しかし、ディビッドは上手く立ち回ったので、痛めつけられるようなことは全くなかった。イスラエル人たちから見ると、王の意向でそうしているように思えたんだ。しかし、彼が上手く立ち回った方法というのは、フィリスティンの田舎の村を攻撃し、全ての男や女、そして子供達を殺すことだった!」
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「王がディビッドの仕業かと考えても、ディビッドが攻撃したと告げる生き残りはいなかったので、王は謀反が起きたか?と思った。とても手荒い仕業といえる」

ソウル王はフィリスティンに対して執拗な戦いを続けていたが、恐ろしい運命に出会おうとしていた。最後の瞬間はここ、ギルボア山で訪れた。
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”サムエル第一“『フィリスティンはイスラエルと戦い、傷ついたイスラエルの男たちが彼らの前を山から転げ落ちるように敗走し始めると、フィリスティンはソウルと彼の息子たちを捕えた』
ソウルは、生きたまま引き立てられるより、自分の剣の上に倒れ込んで自決することを選んだ。勝利を祝って、フィリスティンは彼の死体を切り裂き、晒(さら)し物にした。
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今や、ソウルの軍隊は大崩れし、王国は分解しようとしていた。ソウルの死により、フィリスティンは無意識の内に究極の敗北に続く道を進み始めた。

ソウルがいない今となっては、反逆者だったディビッドの身の危険は去り、彼は人々の下に戻った。彼は、今もって英雄だったので、イスラエルの新しい王になった。
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“サムエル第二”『ディビッドがイスラエルの、油をかけられた(mh高貴な、って意味です)王になったと聞いたフィリスティンは、彼を捕えようと攻め入った』
エルサレムの直ぐ近くのラファイー平原で行われた壮絶な戦いで、ディビッドはフィリスティン軍の最初の攻撃を退けた。しかし、敵は体制を建て直すと、再び攻撃してきた。若き王ディビッドは神の助言を伺(うかが)うと、神はそれに応えた。
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“サムエル第二”『“直ちに反撃するな。彼らの後ろに回り込み、林の間か奇襲しろ。林の上で進軍してくる足音を聞いたら、攻撃を始めろ。これは神が戦いの方法を準備していて、彼らを打ち負かしてやるということだ。”そこでディビッドは神が指示した通りにし、そして、ギブインからガザまで、全ての道でフィリスティンを打ち負かした』
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このたった一回の軍事行動で、ディビッドはフィリスティンの統治を完璧に粉砕したため、彼らが再びイスラエルの恐怖になることはなかった。勝利は重要な意義があるものだった。
しかし、聖書の歴史には、今日でも最も不可解な一つが残っている。
作家ザンガー「我々はディビッドがどのように成し遂げたのかを知りたいと望んでいるのだが、我々は未だに、それを知っていない。ディビッドとフィリスティンの戦に関する聖書の説明には、彼が何をし、どのようにし、何故したのか、といったことが完全に欠如している。我々は、ディビッドがどのようにしてフィリスティンの国を占領したのかについて全く知っていないのだ。しかし、我々は彼が占領したことを知っている。ディビッド王になった後、フィリスティンはイスラエルを脅かす勢力として存在することをやめてしまったのだ」
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この謎に対する答えはディビッドがソウル王から逃れフィリスティン軍の中に隠れ留まっていたことにあるのかも知れない。
準教授ロバート「当時、彼がフィリスティン軍の中に逃亡していた時、彼はフィリスティンの軍事戦術、技術、武器、そして兵站(へいたん;軍隊を支援する物資の流れ)などを十分に学び、後年、それを実践で役立て、敵の戦術や戦略で敵を打ち負かしたのだと私には思える」

ディビッド軍は賃金を貰って彼のために戦ってくれるフィリスティン軍の傭兵を抱えていたのかも知れない。
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準教授ダニエル「ディビッドの勝利では、外部からの多くの兵士が関与していたと疑う余地がある。外部の兵士にはフィリスティンも含まれている。傭兵を使わなければディビッドの勝利はなかった。彼の勝利によって、傭兵たちは見返りを得ることになっていたはずだ。同時に、ディビッドの神(mhヤハウェです)に対する不道徳な信仰も示していたと思うけどね」
ディビッド王はフィリスティンの軍勢を打ち破ったが、フィリスティンの文明は何世紀もの間、どこかで続いていたようだ。そして、突然、全く不可解にも消失してしまった。おかげで、その謎は今も解明されていない。
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この奇妙な謎enigmaを調べていくと、フィリスティンは永遠に消えてしまったのに、何故、ユダヤ人は現在まで耐え忍んで生き残ることになったのかが関心事になる。
フィリスティンの奇妙な消失に対する手掛かりを求めて、ここエクロンやその他の場所で調査をしている考古学者たちはフィリスティンの時代の劇的な一連の出来事を、地層を一層ずつ掘り起こすように明らかにしている。
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ドーサン博士「私たちは、都市遺跡の下にフィリスティンの都市を見つけ出しているの。紀元前12世紀の初めに建てられた都市で、フィリスティンの王宮や寺院が在った、エリートたちの一画が見つかっているの。建設は紀元前12世紀に始まって、紀元前7世紀にこの場所で終わっているの。つまり私たちは、フィリスティンが住み始めた時から、消滅した時まで、エリートたちが暮らしていた一画を調査しているのよ」

紀元前7世紀の初め、つまりフィリスティンがディビッドに敗れてから3百年後、新しい敵が現れた。アッシリアン(アッシリア人)だ。彼らによる神聖な土地(イスラエル)の占領はエクロンで暮らしていたフィリスティンに影響を与えた。
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当時、フィリスティンはオリーブ油を生産していた。それは古代世界における重要な商品だった。アッシリアンは、それを破壊するのではなく、フィリスティンを支援して儲(もう)けが多い商業に育てていた。
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アルブライト研究所考古学教授セイモール・ジティン「紀元前7世紀の初め頃、この偉大な帝国の政府は、オリーブ油の生産を一ヵ所に集中することに決めたようだ。そして巨大な資金や資材を投入した」
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エクロンはアッシリアンの統治の下で繁栄したが、それが続いたのはたった1世紀だけだ。そして紀元前6百年頃、土地は侵略してきた別の巨大な勢力バビロニアン(バビロン人)に乗っ取られた。
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“セファニヤ第二”『ガザは放棄され、アシュケロンは廃墟に化した。アシュドドに人が住まなくなり、エクロンは根絶した。私はフィリスティンの土地を全て破壊するだろう』
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これらはバビロニアンによる破壊の残骸だ。
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驚くべきことに、瓦礫の中から人骨が見つかっていない。バビロニアンに対抗するより、フィリスティンは自分たちで町を破壊し、逃げ出すことを選んだのだろうと学者たちは考えている。
ロバート准教授「それは極めて悲惨な破壊行為だった。守ってくれない都市を破壊しなければならない理由はないはずだ。しかし、そのことで、バビロニアンは、攻撃目的の一つだったオリーブ油の巨大な商業生産センターを失うことになった。もしそうでなかったなら、バビロニアンの帝国主義は、創造的なものではなく、破壊的な性格を持っていたということだろう」
バビロニアンの侵略はイスラエル人が住む近在の都市をも破壊していた。しかし、ユダヤ人は、その後に続く世紀を生き残り、フィリスティンは消えていった。多くの学者は、自分たちの文化特性を保存しようというユダヤ人の情熱がその理由ではないかと考えている。
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准教授ダニエル「イスラエルの場合、古代イスラエル人とそれに続いて生まれたユダヤ教を考えてみると、これらの人々は自分たちの信仰や文化や伝統の特質をとても強く維持している例だと言える。そうなった理由の一つには、それらが神から与えられたもので、とても重要なものだと、彼らが信じていたことがあるのだろう」
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侵略され、彼らの町から追放されたフィリスティンは、周辺の民族に同化してしまったのかも知れない。彼らの伝統は単に彼らを取り巻いていた社会の文化の一つとして吸収されているだけかも知れない。
逆説的ではあるが、彼らの消滅に対する別の手掛かりは“証拠の完璧な欠落”で提供されている。
作家ザンガー「現代の、技術的に進歩し、有能で、組織された、全ての手段を持つ文明をもってしても、フィリスティンが書き残した記録を見つけ出せていない。記述した証拠なしで、どうして文明があったと言えるだろう?記録の手段を持たずして、どうして文明を機能的に生かすことが出来ると言えるだろう?とにかく、今まで、誰も、何も、発見していないし、フィリスティンが書き残したと思われるものを解読したこともないのは間違いない」
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考古学者は、記述に関係する興味深い工芸品を発掘してはいたのだ。しかし、現時点ではこれらの土器の破片に記された原始的な印が記述なのか、それとも単なる装飾なのかについて、全く同意が得られていない。
ドーサン博士「たった一つだけ、見つかったものがあるの。それは円筒シールで、サインの代わりに使うものよ」
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「とても美しく掘られているサインで文字であることに間違いないわ。サインの一つなのは確実よ。でも、見つかっているのはこれだけで、古代ギリシャ語の専門家にも見てもらったの。彼が言うには、もっと沢山見つけてもらわないと何とも言えないって言うのね。これについては私たちは不満をもっているわ」

もしフィリスティンが記述の能力を持っていたとすれば、生活様式とか宗教的な信仰といった彼らの歴史を記録に残しただろうか?
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それは我々には判らない。今日も、エクロンでは、謎のフィリスティンを追跡する作業が続けられている。
彼らとは逆に、イスラエル人は自分たちの歴史を年代記に残した。
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彼らは、闘争や占領について聖書と呼ばれる本の中に記録したので、将来の世代は彼らが残した遺産を調べることが出来るだろう。フィリスティンは、そういった本を持ってはいなかった。恐らく、これが、ユダヤ人は何世紀も生き残り、彼らの古代の強敵フィリスティンが忘却の中に引きさがってしまった理由だろう。
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The Philistines
https://www.youtube.com/watch?v=T6rem2GUidk
・・・・・・・・・・・・
さて・・・
フィリスティンの不思議ですが・・・
ブログを読んだ皆さんが感じられたと思いますが・・・
彼らは存在していたのか、それともしていなかったのか?
これが最大の不思議(謎)なんですね。

フィリスティンは、ディビッドやソロモンと同様、旧約聖書で初めて出現する人々というか民族なんですね。聖書以前のヒエログリフや楔型文字で書かれた粘土板の記録には登場していないし、彼らが暮らしていたという“パレスチナ”の地中からも、彼らが自ら記録した粘土板が見つかっていないという事実は、ディビットやソロモンについても同じです。

ということで、既存の宗教に深い疑いを持っているmhは、バビロンに幽閉された古代イスラエル人が、ディビッドやソロモンをでっち上げる序(ついで)に、フィリスティンもでっち上げたと結論致します。

しかしです。古代パレスチナの地中から粘土板は見つかっていないものの、都市遺跡は沢山見つかっているんですねぇ!よく知られていない人は住んでいたんですね。彼らが、後年、ヘブライ聖書の中でフィリスティンと呼ばれることになった人たちじゃあないか、ってYoutubeフィルムで言っているんですが・・・

Youtubeによれば、フィリスティンはギリシャ方面から移ってきた人たちじゃあないかって言っています。とすれば、ブログ“エーゲ海の黙示録の不思議”でご紹介した“海の民”じゃあないでしょうか。彼らはエーゲ海を中心に、ギリシャ、アナトリア(トルコ)、エジプトを荒しまわった海賊のような人々でしたから、いろいろな国からの落ちこぼれで構成され、言語もまちまちで、従って文化は育たず、文字を使って記録を残すこともなかったと考えることが出来ます。

しかし・・・
火のないところに煙は立たないっていいますから・・・
バビロンに幽閉され、ヘブライ聖書の中で、ディビッド、ソロモンをでっち上げたイスラエル人がフィリスティンと呼んだ民族は、実は存在していたんじゃあないかと思います。mhが思うに、彼らはフィリスティンという名ではなかったんですが、聖書の記述者が勝手にフィリスティンって呼んだんですね。作り話ですから正確でなくたって問題は無かったわけで、大して調べもせずにフィリスティンと名付けましたが、実は別の名をもっていたんですね、mhの仮説によれば。

次回のブログではmhがフィリスティンだと考えている人々をご紹介いたしましょう。彼らの正式な名前は何か?それは次回のブログでご確認下さい。“海の民”ではない、とだけ、お伝えしておきましょう。
(完)

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mh徒然草:報道の自由の潮流に逆らう国


今日は7月14日。

ネット新聞に次の記事が掲載されていました。

「あなたはしっかり生きろ」劉暁波氏、妻に最期の言葉
朝日新聞デジタル;瀋陽=平賀拓哉;2017年7月14日
【ノーベル平和賞受賞者で13日に死去した中国の人権活動家、劉暁波(リウシアオポー)氏(61)が妻の劉霞(リウシア)氏(56)に最後に伝えたのは、「あなたはしっかり生きなさい」という言葉だった。
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 入院先だった遼寧省瀋陽市の中国医科大学付属第一病院が同日深夜開いた記者会見で明らかにした。
 同病院と遼寧省監獄管理局によると、劉氏は今年5月末、服役していた同省内の刑務所で腹部に異常が見つかり、精密検査の結果肝臓がんと判明。6月に同病院に入院したが、劉氏のがんは末期で手術もできず、病状は悪化。今月13日午後5時35分に死去した。
 同病院によると、劉氏は死去する際、妻の劉霞氏に「あなたはしっかり生きなさい」と言い残したという。息を引き取る時は劉霞氏や家族らにみとられ、安らかな表情だったとしている。
 劉霞氏は劉氏が入院していた計36日間、毎日夫に付き添い、医師から病状の説明も聞いていたという。
 劉霞氏は劉氏と出国してドイツか米国で治療することを希望していたが、病院側によると、劉氏が息を引き取った後、医療チームの一人一人と握手をして感謝の言葉を述べたという】
http://www.asahi.com/articles/ASK7G0VNNK7FUHBI038.html?ref=yahoo

“劉暁波”をWiki検索してみました。
【1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、劉は他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍が天安門広場に突入する寸前、4人は侯徳健を推選し、学生たちに逃げ道を残すように軍と交渉し「四君子」と呼ばれた。事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他のリーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。
2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された。以後は外国要人訪中や人民代表大会会期中は自由を失い、電話・インターネットによる交信が遮断された。
2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり遼寧省錦州市の錦州監獄で服役した。
2010年にノーベル平和賞を受賞し、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。なお、投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー、1991年に受賞したアウンサンスーチー(ただし、監獄ではなく自宅軟禁)以来、3人目である。
2017年5月末に末期の肝臓がんと診断され、家族らが仮出所を申請し認められたため6月末に仮出所した。その後は中国医科大付属第一医院(中国語版)に入院し闘病生活を送り、国際社会からは劉を国外に移送し治療すべきとの声が高まり、ドイツやアメリカも受け入れを表明したが医療チームは容態を理由に拒否。7月10日、劉が危篤状態に陥ったと報道され、日本時間の7月13日午後6時35分、妻・劉霞など家族に看取られながら、肝臓がんによる多臓器不全のため死去。61歳没。最期の言葉は、妻にかけた「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だったと伝えられている】

昨日の劉暁波氏の最後の言葉が翌日の今日にはWikiに反映していたとは驚きです!彼の名前は中国ネットでは検索不能のようですが、香港では、1週間ほど前に彼の写真を掲げ、海外での癌治療を認めるよう要求するデモがあり、更に、今日14日、彼の死を悼む献花が行われています。
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一昔の中国なら、劉氏に関する情報が国内や、ましてや海外に流れるなど考えられないことで、報道規制が今も大きく残っている中国とは言え“報道の自由の潮流に逆らう国”ではなく、“報道の自由の潮流に乗った国”と言えるのではないでしょうか。

1996年、北京拘置所の中で、劉暁波氏は次のように述べたと言います。
【私は中国の政治の進歩は止められないと堅く信じているし、将来の自由な中国の誕生にも楽観的な期待が満ちあふれている。自由へと向かう人間の欲求はどんな力でも止められないのだから、中国は人権を至上とする法治国家になるだろう。こうした進歩が本件の審理にも表れ、合議制法廷の公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決が下ると期待している】
“報道の自由の潮流に乗った国”の中国で、劉氏の夢がいつか必ず実現することを祈念しつつ悼の意を捧げたいと思います。

翻って、アメリカや日本に目を移すと、トランプ大統領の、呆れてものが言えない醜く理不尽なマスコミ批判や、安倍内閣による共謀罪や自民党内の言論統制など、これまで自由を標榜してきた国が“報道の自由の潮流に逆らう国”に方向を変えています。このままでは、日本やアメリカの立場は中国と逆転する恐れすらあります。取り返しがつかなくなる前に、流れを変えねばなりません。

Melody Fair by The Bee Gees - Music Video
https://www.youtube.com/watch?v=w6DIa0roL74
(完)

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ソロモンの黄金の謎


ソロモン王・・・ディビッド(ダビデ)の息子
最初の偉大なイスラエル王国の統治者・・・
エルサレムで最初に寺院を造った男・・・
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聖書によれば、ソロモンは最も賢かっただけではなく、全ての王たちの中で最も金持ちだった。しかし、その富はどこからきていたのだろう?神話は金や銅の素晴らしい採掘坑について語っている。とすれば、それらは何処にあったのだろう?
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考古学者たちはソロモンの証拠を求めて調査してきたが、何も見つけていない。
「これまでの所、聖書を除けばソロモンに関する証拠は何もない」

最近、ヨルダンの砂漠で、岩盤に掘られた深さ30mの竪穴や、坑夫や古代の精錬の跡が見つかっている。
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「ここには工業的なレベルで行われていた金属製造の跡が重なるようにして残っている」
これがソロモン王の採掘坑なのだろうか?そこで見つかった骨はソロモン王のために働いていた坑夫なのだろうか?
ソロモンの時代からの新たな発見物が、古代都市や初期のヘブライ語の記述の最初の証拠が、ついに、偉大な聖書の中の王の真実の世界に手掛かりを与えてくれようとしている。
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NOVA・ナショナルジオグラフィック特別番組“ソロモン王の採掘坑を探して”がこれからで始まる。
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・・・・・
以上が予告編trailerで、これからご紹介するのが本編ですが・・・
内容の割りには長いフィルムだと思います。同じ説明が念を押して繰り替えされ、少々興ざめするかも知れません。
ということで、時間とご関心が少ない方は、巻末のmhコメントに移動して頂いても、mhとしては不平を言える立場にはありません。

それでは・・・時間とご関心のある方。以下にお進みください。
・・・・・・・・・・・・
Quest for Solomon’s Mines“ソロモン王の採掘坑を探して”
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ソロモン・・・聖書の中では、華麗なイスラエル王国の、賢い統治者だ。古代の近東Near Eastの星だ。
聖書“ソロモンに敬意を表すべく、世界中から彼に会いに来た人々は、神が彼の心に仕込んだ知恵に聞き入った”
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闘士で父親のディビッド王が創った王国は、ソロモンの下で新たな勢力と、新たな繁栄の高みに到達した。
聖書『ソロモン王は、知恵と富に関して、地上の全ての王たちを凌(しの)いでいた。彼らはソロモンに金銀製品や、服や、武器や、調味料などの貢物(みつぎもの)を持って来た』
巨大な富に加え、ソロモンは偉大な建築者だったと聖書は伝えている。エルサレムでは、有名なソロモン寺院を建造した。
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新たに統一されたイスラエル王国の精神的な中心とも言える契約の箱Ark of the Covenantを保管する建物だった。
3千年後の今も、彼は聖地エルサレムの偉大な3つの信仰の中で言い伝えられている。
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ユダヤ人はソロモンを愛している。彼が最初の寺院を造ったからだ。キリスト教徒にとっては、彼は旧約聖書の中で最も賢い王だ。イスラム教徒もまた、彼が自分たちの宗教で偉大な預言者スレイマン(アラビア語でソロモン)だと主張している。しかし、ソロモンや彼の偉大な王国についての決定的、考古学的証拠は何も見つかっていない。彼の王宮や寺院の痕跡も、彼の膨大な富の源も。彼が生きていた紀元前10世紀は謎のままだ。
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テルアビブ大学フィンケイ・ステイン「我々が知っていることはある。しかし、それはパズルのようなもので、その多くは暗闇の中にある。勿論、手掛かりを与えてくれるものもある」
多くの学者たちは、ソロモンが本当に偉大な王だったのか疑っている。
カリフォルニア大学トマス・レヴィー「考古学者や聖書学者たちはディビッドとソロモンが華麗な王だったのか、それとも単なる部族長だったのか、今も論争を続けている」
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もし、彼らが偉大な王だったとするなら、彼らはどこで富を手に入れていたのだろう?
今、これまでで初めての挑発的なprovocative発見が、この質問に答える手助けをしてくれるかも知れない。古代の採掘坑が見つかったのだ。そこに掘られている竪穴はヨルダンの砂の下深く続いていた。更には遺体も見つかった。坑夫たちなのだろうか?彼らの主人は誰だったのだろうか?

ソロモン王の採掘坑については聖書では触れられていない。
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しかし、何世紀もの間、伝説の材料になり、19世紀の冒険物語で人々に持て囃(はや)され、3つよりも少なくない(h;4本以上の!)ハリウッド映画になった。
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これらがソロモン王の本当の採掘坑なのだろうか?聖書に記されていた富の源なのだろうか?
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新しい発見は、聖書の中の歴史的説明のいくつかに対する信憑性を提供し、古代世界に関する我々のイメージを書き変え、ソロモンの時代に全く新しい光を投げかけている。

ソロモンの世界に関する我々の探索は、イスラエルではなく、ずっと東に離れた所から始まる。
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ペトラ・・・今から2千年以上も前、ヨルダンの高地に造られた古代の交易中心だった。ペトラ周辺の山地には、エドムEdomと呼ばれる古代王国の遺跡が残っている。10年以上に渡り、考古学者トム(トマス)レヴィーはエドム王国の発展過程を調べ続けている。
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旧約聖書の創世記Genesisによれば、エドム人で、ジャコブJacobの弟のエサウEsauが古代イスラエルに先立って、ある王国を創造した。エドム人たちの痕跡はペトラの上の、山の頂きや丘陵に張り付くようにして残っている。
レヴィーはエドム王国に隠れている富の源を知りたいと望んでいる。彼の調査は、丘陵から、死海の谷間の焼け付くような砂漠盆地に彼を導いてきた。彼が捜していた手掛かりを見つけたのは、古代イスラエルとエドムの間の、人が住んでいない土地だった。ワディ・フェイナンと呼ばれる一帯に、
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謎を秘めた様子の、黒い岩で覆われた谷間があった。黒い岩は固形化したスラグslag、つまり金属精錬で産まれる廃棄物だ。
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その小山が沢山残っている!近くには、岩を掘りぬいた多くの竪穴が、丘の地下深くを走るトンネルに続いていた。そして、そこかしこで印象的な青緑色の岩が見つかった。
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天然銅の見間違うことがない証拠だ。スラグ、採掘坑、銅。これらから判ることは、この場所が古代の銅鉱山で精錬場だったということだ。恐らく、エドム王国に隠れていた富の源だろう。

レヴィー「多くの学者たちはエドム王国を活性化していたのは、そこを通る交易路だろうと考えていた。しかし、私は金属生産や鉱石採取が鍵となる要素だったのではないかと考えている」
地元の人たちはそこをキルベット・エン・ナハスと呼んでいる。
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レヴィー「アラビア語で“銅の遺物”だ。周りを見れば、一帯が黒い、工業的なスラグの小山で覆われていることが判る」
トム・レヴィーは、このサイトで10年ほど発掘を続けている。彼は古代の精錬工たちがどのように銅鉱石から純銅を取り出し、その溶融過程で産まれたスラグを廃棄していたかを見せてくれた。スラグの層は古代の銅製造が数百年続いていたという驚くべき事実の記録でもある。
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レヴィー「本当に興奮している。見てくれ。私の目の前に、まるでこの地における金属生産の歴史が書かれた本のページのように、何層もの工業規模の金属生産の跡があるんだ」

トム・レヴィーは、金属生産がエドムだけではなく古代イスラエルの発展に重要な役割を演じたと考えている。儀式や装飾のため、武器や道具として使われた金属は、単純な農業社会を王国に変えた。
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古代の人々は青い石から不思議な新しい物質が造れることを発見した。加熱されると、その物質は柔らかくなり、展性も生まれる。錫(すず)を混ぜ、冷やしてから磨けば、不可思議な光沢を持つ(mh青銅です)。石器時代はこの瞬間に終わり、金属の時代が始まったのだ。
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トムの生徒エレズ・ベン・ヨセフは、どのようにして、これらの銅生産技術が初めて発達を遂げたのかを探し出そうとしてきた。今それを再現しようとしている。
ベン「見ればわかるように、まずは地中に穴を掘る。ここにあるのが銅鉱石だ。それを細かく砕いたら、銅が沢山ある欠片を選び出す。作業は見かけほどには簡単じゃあない」
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古代の精錬作業者たちは炭火の温度を1200℃以上に高める方法を必要としていた。銅が鉱石から分離する温度だ。それを得るのに、彼らは、火吹き筒を使っていた。
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ベン「3人で吹き続けるんだ」

ベンと彼の友人たちが2時間吹き続けると、溶融の兆しが表れた
ベン「青い炎がみえるだろ?溶融過程が始まったことを示す良い兆候だ」
火床から坩堝(るつぼ)を取り出すと、彼らはその底に銅の雫(しずく)が無いか探した。
ベン「あった!これだよ。こんなものができるんだ」
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友達「ここにもある。」
ベン「小さいけれど、金属だよ。銅の色をしている」
とても小さな塊(かたまり)を得るにしては作業が大変だ。しかし、何千年もの間、人々はこの方法で銅を精錬していたのだ。

製造が困難なのが、銅が儀式用品や装飾品に限定されて使われていた理由だろう。しかし、トム・レヴィーがキルベット・エン・ナハスで見つけたのは、このような小さな集団の少量生産ではなかった。
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何年もの発掘の結果、サンディエゴのカリフォルニア大学からやってきた彼の調査隊は、大量生産の痕跡を見つけ出した。銅製造工場とも言えるだろう。その場所はとても広いので、理解し易い風景を入手しようと考えた彼らは、ヘリウム風船にカメラを付けて空に上げた。
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空中から撮影した写真は、古代工場の様子を明確に見せてくれた。城壁や門のような砦もある。それに、管理棟のような建物、塔、そして寺院も。この場所は広大だった。
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巨大な壁や建物、スラグの小山は10ha(ヘクタール=100㎡)に及んでいた。
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1千人もの作業者が、昼夜を問わず働き、銅の溶融炉の稼働を維持し続けていた。
エレズ・ベン・ヨセフはこれらの精錬所の一つを発掘している。
ベン「銅の精錬技術の様子を一歩ずつ明確にしていくことが、私たちの宝物のようなものだ」
今、ベンが掘り出そうとしているのは精錬者の仕事の最終部で、羽口(はぐち)と呼ばれる火吹き筒の“吹き出し部”だ。
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そこから製錬炉の中に向け“ふいご;ベロー”から空気が送り込まれる。
ベン「ふいごの筒に付けられたノズルだ。この一帯で綺麗な形で残っている羽口の一つだ」
ふいごの火吹き筒が偉大な発見とは思えないだろう。しかし、ベンにとっては、大規模な精錬を可能にした技術革新の決定的な証拠だ。
ベン「この羽口は掘り出すつもりだ。こちらから掘った方がいいかも。壊さないよう気を付けてやってくれよ」
「やったな。とてもいい羽口だよ。ここにノズルの跡が見える」
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「でも全体はスラグで覆われているんだ。これが取り付けられているのは炉でも最も温度が高い場所なんだ。よく見ればスラグの中に小さな結晶が出来ている。本物の銅だ」

スラグの下面には、焼き粘土の層で慎重に作られたノズルが残っている。
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この工程はノズルが炉の1200℃に耐えるために必要だった。新型の軸状の精錬炉は、炉内に安定的に空気を送り込む足踏みふいごで加熱されていた。
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ベン「紀元前第二千年紀の間、このような見事な軸状の炉が導入され、ここでの銅生産工程は想像以上に効率的だったんだ」
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昼夜を問わず働き続ける人がいれば、銅は工業的規模で生産が可能で、事実、生産されていたのだ。

環境学者のジョン・グラッタンは古代の汚染を探している。汚染の程度で、この地における銅生産の規模が判るのだ。
グラッタン「私は、この測定器で、環境の中における金属量を測定し、どの場所が汚染されているかを地図化している」
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「ここで見つけた小さなサンプルでは、1百万中(parts per million;ppm)7千個くらいの銅が検出されている。安全な場所での土に含まれている銅の7千倍ほどだ。銅の質が悪くなかったなら、下の方のデータを見ると・・・極端に高い、危険な位のレベルの鉛lead、亜鉛zinc、砒素arsenicが検出されているんだ。この狭い場所限定のデータとしてね」
最先端state-of-the-artのX線蛍光装置を使って、ジョン・グラッタンは、キルベット・エン・ナハスにおける古代の銅精錬の規模を強く裏付ける証拠を見つけた。工業レベルで生産されるようになると、銅は、もはや装飾品ではなかった。道具、武器、そして建物などで決定的に重要な普及品になっていたのだ。
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貴重な金属に対する需要は爆発的に増え、死海の谷間を力強い工業拠点に変えていった。
ジョン「我々は最も初期の産業革命をここで見つけたんだ。我々が見つけたのは近代世界の誕生だ」

しかし、この産業革命を推し進めるために、人々は、必要とする何トンもの銅のための鉱石をどのようにして獲得していたのだろうか?
キルベット・エン・ナハスを囲む、銅が多く含まれた丘では、15以上の採掘坑が見つかっている。
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発掘隊の副隊長でヨルダン人考古学者のムハンマド・ナジャールは、その一つを調査している。
ナジャール「竪穴は今から3千年前のものであることが判っている」
多くの竪穴は地下深くの銅鉱石層に到達するため、30m以上の深さがある。近代の登山道具を使っても、下りるのには危険が伴う。
ナジャール「穴の上り下りは楽じゃあない。恐らく、古代の坑夫たちは、竪穴の底の広場で何カ月も暮らし続けていただろう」
ナジャールもレヴィーも、坑夫たちは奴隷だっただろうと考えている。
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レヴィー「賃金を貰ったとしても、誰もがしたがる仕事ではない。工業生産レベルで採掘するには、何らかの強制労働制度が存在していたはずだ」
地下深くの閉所恐怖症を引き起こしそうなトンネルの中に閉じ込められ、坑夫たちはキルベット・エン・ナハスの製錬炉で使うための、銅を含んだ岩を叩き割っていた。

地上では、数珠繋ぎされた駱駝が銅鉱石を精錬場に運ぼうと待ち構えていた。
レヴィー「OK!じゃあ、みんなで鉱石を受け取りにいこう」
銅鉱石供給体制を理解しようと考えたトム・レヴィーは駱駝隊を編成した。
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レヴィー「私の後ろにある採掘場で採った鉱石を、友人の遊牧民たちの駱駝を使って実際に運んで、それがどういうことなのか、これから実験しようとしているんだ」
一匹の駱駝なら凡そ150Kgの鉱石を運べることは判った。しかし、ここで採れる鉱石は平均で10%の銅を含んでいただけで、残りの90%は役に立たない岩だ。ということは、純銅15Kgのためには、駱駝一匹に鉱石を目一杯、積まなければならない。
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このことは、今から3千年前、このような駱駝隊が水無川(ワジ)の砂漠の道を毎日通っていたことを意味する。全ての駱駝が、最も広大な銅精錬場所で、死海の谷間にあるキルベット・エン・ナハスを目指していた。

スラグの小山の面積規模は、ここが銅精錬で使われていた期間に5千トンの銅が生産されたことを示している。
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この地域の全てに供給しても余る量だ。古代イスラエル全域から得られた銅物質の放射能分析の結果は、銅がワディ・フェイナン地域で採れたものだということを示していた。

金属学者アミハイ・マザール「現在のイスラエルでは、紀元前12世紀末及び11世紀に見つかった銅物質の金属学的研究の結果、銅の出所はワディ・フェイナンだと証明されている」
恐らく、この銅はソロモンが彼の寺院を建てたエルサレムにも到達していた。
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レヴィー「聖書によれば、寺院は数トンの銅を含む貴金属を必要としていたようだ。そして、エルサレムにとって最も身近にある銅の出所場所は、ここから3日の駱駝の旅の距離にあるワディ・フェイナンだ」
聖書『そして神の声がソロモンに語り掛け“お前がこの家を建てるなら、そして、もしお前が私の全ての戒律を守るなら、私は私の子供イスラエル人と共に住み、私の民たちのことを見捨てないだろう”と言った。そこでソロモンは、その寺院を建てた』
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寺院の外室に、彼は念入りに彫刻された像と巨大な何本もの柱を配置した。そして聖書によれば、それらは輝く銅で覆(おお)われていた。
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聖書『聖域である内室に、彼は神との契約の箱を置いた。そして彼は、その箱を純金で覆った』

もしソロモンの寺院と彼が暮らしていた王宮が存在していたのなら、それらは多くの銅を必要としたはずだ。
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とするなら、死海の谷間にあった、急増する銅工業を管轄していたのは誰だろう?確かなことが一つある。それは進歩した社会だったはずだということだ。
マザール「銅生産には多くの異なった活動が含まれていた。鉱石を採掘し、それを溶融し、配送する。そのためには管理力も必要だ。これらを可能に出来たのは高度な社会だけだったはずだ」
レヴィー「精錬場は古代王国のような高度なものによって管理されていなければならなかった。とすれば、どんな王国だったのか?という疑問が生まれてくる」
キルベット・エン・ナハスは3つの王国の間の、人が住んでいない土地にあった。
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その3つのいずれも、銅生産を手掛けることは出来ただろう。西には古代イスラエルが、東にはエドムが、そして南東の遠くには、地域での偉大な権力だったエジプトがあった。

レヴィー「私が向うで座っていると、同僚のナジャール博士が手を激しく振って、何かを見つけた!って言ったんだ。それはエジプト製のスカラベ(カブト虫の飾り)だった!」
(mh掌(てのひら)に1cmほどのスカレベが載っています)
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スカレベは、一時、エジプトがこの地で何か重要なことをしていたと示している。更には、近くにエジプト寺院もんこっている。
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これらの証拠に基づけば、ソロモンに先立つ数世紀の間、エジプト人が死海の谷間における銅工業を管理していたのは明らかだろう。
ベン「ここにエジプト人たちがいたのは間違いない。紀元前13世紀には、彼らは既に採掘坑を稼働させ、管理していた」

そして紀元前12世紀になると、不可解な出来事が古代の近東Near Eastを動揺させた。そこにあった全ての偉大な文明が崩壊したのだ!
ナジャール「紀元前12世紀頃、銅器時代の全ての政治的な組織体が崩壊した。最初に北でヒッタイトが、西ではマイセニアンが、そしてついにはエジプト帝国が崩壊し、大きな空白の時期が生まれた」
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(mhブログ「エーゲ海の黙示録の不思議」でご紹介しました。海の民Sea Peopleです!)

この政治的な空白の時期に、新しい勢力が現れた。
フィンケルステイン「基本的に“真空”と言える時期だった。この崩壊が大きな帝国を壊滅させ、何か新しいものに道を譲ったのだ」
キルベット・エン・ナハスの一帯では、その何か新しいものは、古代イスラエルでありエドム王国だった。
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トマス・レヴィーは、これら2つの王国だけが銅の採掘坑を管理することができた候補だと考えている。採掘坑に近いエドムの方が可能性は高いだろう。
精錬場の近くにおける新たな発見は、それを確かなものにしてくれるかも知れない。見つかったのは古代の埋葬地だ。
レヴィー「ここにあるのは円形の墓場で、真ん中にあるのは側面には石を貼り、上は蓋の石で蔽(おお)った水槽cist墓だ。日が暮れるまでに、蓋石を取り除(の)けたいと思っている」
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レヴィー「やっと真実が判明する瞬間がやってきた。石を除けてみよう。中には風で運ばれた堆積物がある。この墓は堆積物で一杯のようだ」

彼らは失望しているようだ。この墓を明けたのは彼らが最初ではなかったのだ。
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レヴィー「どうも、昔、墓は荒らされたようだ。蓋石を持ち上げて、美しい原始的な墓を見たいと望んでいたけど、それは次の機会までお預けだ。考古学には忍耐が付き物だからね」

しかし、直ぐ、いいニュースが飛び込んだ。初めて、骨が見つかったのだ!
レヴィー「どうも頭蓋骨みたいだ。あちこちで無くなった骨があるようだ。多分、原始的な骸骨だろう。とても素晴らしい発見だ」

レヴィーの発掘チームは、3千年の間、蔽(おお)っていた砂を注意深く取り除き、骸骨を掘り出す作業を開始した。そして、とうとう、完全な形の骸骨が現れた。
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レヴィー「完璧な形で残っている骸骨だ。前かがみで、胎児のような姿勢をしている」
この人物は採掘坑と関係があるのだろうか?もしそうなら、歯と骨は銅精錬の兆候を暗示する銅や鉛を含んでいるだろう。骸骨から採取した試料を叩き潰して溶媒に溶かし、質量分析計で化学組成を分析した。その結果を、銅革命が起きる前の骸骨の結果と比較する。
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分析官「埋葬地で見つかった遺物は先史時代の骨に対して4倍の銅と鉛を含んでいる」
レヴィー「この結果は我々が見つけた人物が実際の精錬活動に関与していたことを意味しているだろう」
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仮にこの人物が銅関連の労働者の一人だったとしても、墓には、彼の民族性を示すものが見つからなかった。しかし、埋葬地から出土した手工芸品や、その近くで見つかった土器類は、その答えを準備していた。
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ここに埋葬されていたのは、この土地一帯の人々だった。
ナジャール「我々はここで見つかった陶器や、その他の発見物を分析している。ここに残っているのはエドム人(エドマイト)のものだ」
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キルベット・エン・ナハスの労働者たちが恐らくエドム人だろうという発見は、採掘坑複合体の年代確定に関する仮説を裏付けているように思える。

レヴィー「今の学者たちが賛同しているように、紀元前7世紀頃のものじゃあないかと思っている」
この紀元前7世紀という年代は、ここで何が行われていたかに関するレヴィーの最初の理解にとって決定的だった。
彼はエジプトが、この近辺の偉大な帝国と共に、紀元前12世紀に崩壊してしまっていたことを知っている。聖書の中で記述された内容に沿った王の時系列年代によれば、ソロモンのイスラエルは紀元前10世紀に繁栄した。エドム王国の勃興(ぼっこう)は伝統的な考えによれば紀元前7世紀だ。つまり、キルベット・エン・ナハスで見つかった証拠はエドムを指し示していて、精錬複合体が紀元前7世紀のものだというのは辻褄(つじつま)が合っている。
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その年代の確認を手助けしてもらおうと考えたトム・レヴィーは、オックスフォード大学から放射性炭素分析の専門家トム・ハイマンを連れて来た。彼らは見張り台とスラグの小山で年代分析に使える小枝、炭の欠片、坑夫が吐き出した棗椰子(なつめやし)の種など、有機物の資料を探し出した。

ハイマン「正確な年代を確実に調べるには、時代的に連続している資料を採取する必要がある」
レヴィー「つまり、ここに堆積している地層の全てから試料が必要だってことだね?」
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試料の連続性は年表chronologyの作成を可能にしてくれる。全ての年代は一貫している必要がある。そうでないと、その連続性が疑われることになる。

トム・ハイマンは見つけ出した試料をオックスフォード大学の研究室に持ち帰った。放射性炭素年代測定を近代の統計的分析と結びつけると、誤差30年の正確度で年代を割り出せる。結果は本当に驚くべきものだった!
ハイマン「先行試験結果がこれだ。この画面を見る限り、現時点で明らかことは、試料が全て紀元前10、11世紀に合致しているということだ」
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つまり、採掘坑は紀元前7世紀ではなく、それより3,4世紀も以前に運営されていたことになる!

ハイマン「この結果から、高い信頼性で、この場所が紀元前11、10世紀には稼働していたと言っていいだろう。それについては疑問の余地は全くない」
この年代測定結果は調査隊に変化球を投げて来た。広く受け入れられている考古学的年表に従えば、紀元前11,10世紀には、この採掘坑を統括出来ただろうエドム人の王国は存在していなかった。このことは、知っていたよりも古いエドム王国があったという証拠なのだろうか?もしそうだとすれば、ディビッド王のエドム征伐という聖書の記述に信憑性を与えてくれることになる。
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レヴィー「聖書はディビッドがエドムを征服し、この一帯で、例えばキルベット・エン・ナハスの砦のような、確固たる統治を確立したと記している」
聖書『彼はエドム全域に守備隊を駐在させた。そして全てのエドム人はディビッドの部下になった』

レヴィー「我々がキルベット・エン・ナハスで見つけた砦は古代イスラエルで見つかった他の砦と似ている」
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それは、ディビッドがエドムに侵入し、そこの銅を手中に収めたということなのだろうか?もしそうだとすれば、ソロモンは、これらの採掘坑を継承したはずだ。
しかし、ディビッドとソロモンの王国は死海の谷間の銅工業を統治できるほど十分に発達していたのだろうか?
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ソロモンの王国に関する聖書の記述は、王国がその当時、力を備えていたと言っている。死海の谷間を管理する上で問題はなかったのかも知れない。
聖書『そして、ソロモンはユーフラテスからフィリスタイン(Philistines注)の土地に到るまで、そしてエジプトとの国境に到るまでの全ての王国を統治した』
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(注:フィリスタインは上の地図でピンクの部分です。日本語Wikiによるとペリシテ人、あるいはフィリスティア人の国となります。ややこしいですねぇ)
しかし、この20年間に関していえば、考古学者たちは、その物語に疑いを投げかけている。考古学者たちは、数十年以上、紀元前10世紀のディビッドとソロモンの偉大な王国の証拠を捜し求めているが、ほとんど何も見つかっていなかったのだ!2,3の手掛かりはある。紀元前9世紀に刻まれた記述によれば、アラム人(古代オリエントの遊牧民)の王が“ディビッドの家”との戦いに勝利したとある。
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ディビッドがいたという証拠と見ることが出来るが、必ずしも偉大な王国があったことを示してはいない。

エルサレムに見つかる遺跡にディビッドの都市のものだと言われているものもあるが、今もって決定的な年代は確認されていない。何人かの考古学者たちは、もっと新しいものだと考えている。
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同じような不透明さは聖書に記されたソロモンの王国にも付きまとっている。

ディビッドとソロモンが存在していたことを疑う人はいない。彼らがキルベット・エン・ナハスのような銅工業を指導できる偉大な王だったという証拠がないだけだ。ある人たちは彼らは部族長に毛が生えた程度でしかなかったのではないかと考えている。
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もし、その考えが正しければ、聖書はなぜ、ソロモンを華麗な王国の統治者だと書くことになったのだろうか?それは恐らく、ソロモンの物語が世代を継いで口頭で伝えられたからだろう。その過程で物語が紡(つむ)ぎ上げられていったのだ。
『ソロモン王は大勢の外国の女たちと結婚した。その中にはファラオの娘もいた。彼は700人の王妃と300人の愛人を持っていた』
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ナジャール「ソロモンに関する聖書などの古書を読むと、王国の大きさや、その繁栄、エルサレムに保管された金銀財宝などについての記述が、極端に誇張されていることは間違いない。ソロモンが1千人の妻を持っていたという記述は、当時、およそ1千人の人々がエルサレムに住んでいたという意味ではないかと私は思っている。つまり1千人の妻を持つことは、とても難しいはずだからね」

結局、ディビッドとソロモンは偉大な王だったのだろうか?それとも部族長だったのだろうか?この議論は40年もの間、熱く続いている。しかし、驚くべき新たな発掘場所における発見が、その問題をついに解決する助けになるかも知れない。
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キルベット・キヤファKhirbet Qeiyafaと呼ばれる、古代イスラエルとフィリスタインの土地の境の、若いディビッド王がフィリスタインの巨人ゴリアテを打ち破ったと聖書が言う正にその場所で、考古学者ヨシ・ガルフィンケルは砦のように造られた古代の居住区の発掘を続けている。そこに残っている重厚な壁は建築作業が高度に組織化されていた証拠だ。
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ガルフィンケル「ここにあるのがキルベット・キヤファの町の城壁だ。試算によれば20万トンの石がこの町を城塞化するために必要だった」
これは決して部族の陣地ではない。この重厚な城塞化は高地の部族などよりずっと発達した政治的な組織の印に思われる。
他にも気になる証拠は、水差しのような土器の握り部に残されている親指の跡だ。
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しばしば、国家調達の紋章として使われる印だった可能性がある。
ガルフィンケル「ここに、とても見事な跡が見受けられる。陶器職人が陶器を焼き釜に入れる前に、親指の跡を付けたものだ。この印は、この容器が個人用のものではなく、王室調達品だと示すために付けられたんだ」

更なる証拠は、ここが初期のイスラエル人の都市だったことを示していた。居住区のゴミの山の中で見つかった動物の骨の中で、ガルフィンケルと彼の調査チームは興味深い欠落(けつらく)に気付いたのだ。
ガルフィンケル「動物の骨がある。これはその歯と下顎(したあご)の骨の一部だ。多分、羊か山羊だろう。この遺跡で見つかるのは、羊、山羊、それに牛の骨だけだ。で、豚の骨は見つかってはいない」
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フィリスタインの居住区では豚の骨が一杯見つかっている。とすれば、キヤファでは、既にイスラエル人の豚に対するタブー(taboo禁則)が広まっていたという印なのだろうか?ガルフィンケルと彼の発掘チームは、この場所で見つかった有機物の遺物を年代測定していて、興奮は高まっていた。
ガルフィンケル「炭素年代測定によれば、この場所は紀元前11世紀から紀元前10世紀の初期のものだ。つまり、まさにディビッド王の時代のものなんだ」
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もしキヤファがイスラエルの都市だったのなら、これまで発見された中で最も古い都市になる。他の発見は、そこがイスラエルの領土だということを、もっと劇的な方法で暗示している。その発見は、夏休みの間、ここで発掘の作業していた10代の男によってなされた。
オデド・ヤイル「それを見つけた時、また土器の一部が出て来た、と思っただけだった。私と、友達のサンヨは土器の欠片を山ほど掘り当てていたんだ。しかし、その中にこれがあったんだ。上に何かが書かれていた。オストラコンと呼ばれる土器の欠片だったんだ」
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オストラコンとは、塗料で表面に書き物がされている土器のだ。
ガルフィンケル「そのオストラコンは綺麗な幾何学的な形をしていた。とても奇妙だった。何故なら土器の破片は通常、もっと小さくて、そのうえ、幾何学的な形をしていない。その日の午後、土器の欠片を洗っていたら、表面に何かが書かれていることに気付いたんだ。で次に気になったのは、何語で書かれているかってことだった」
オストラコンの上の色彩は薄れていて、判読はほとんど不可能だった。

ガルフィンケルがそれを解読するには、書いてある文字が明確に読めなければならない。そこで、そのオストラコンをカリフォルニア州サンタ・バーバラのグレッグ・ベアマンに送った。彼は独特な映像技術を使うことができる。
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ベアマン「土器やパピルスといった物の上に描かれたものが良く見えないのは、何かが描かれている素地が何らかの変色を起こしているからだ。例えば色が暗くなっている。すると暗い文字を暗い素地の上で見ていることになり、人間の眼で判読するのは難しい。真夜中に黒猫を探しているようなものだ」

光波長分析システムは、何百もの異なる波長を使ってオストラコンの表面の映像を取り込み、描かれているものと素地の間のコントラスト(対照)が最大になる場所を見つける手法だ。
ベアマン「これは365ナノメートルの波長で撮った例だ。全く何も見てとれない。何も描かれていないかのように見える」
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「つまり、この波長では、土器とインクは基本的に同じ量の光を反射しているので、何かを見つけ出だすことはない。波長を長くしていき、青の領域の、例えば500ナノメートルにすると、描かれているものが見え始める」

多くの異なる波長で撮影された映像を組み合わせ、処理することで、ベアマンは記述の明確な映像を得ることが出来た。
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オストラコンのレプリカ(複製)はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のビル・シュニードウィンドに送られた。
シュニードウィンド「これが、我々が入手した最も重要な初期のアルファベット記述のサンプルだ」
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「我々がこの時代の記述について語る時は、3文字、4文字、または5文字しかない場合が多い。しかし、この例では5行もあったんだ!」
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文字はカナン語Canaanite(注)だった。最初のアルファベット式記述法で、ヘブライ語や英語など他の多くのアルファベットを産み出す元になった文字だ。
(mh:英語Canaanはカナン、あるいはカナアンで、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えるとした“契約の土地”のこと)

しかし、記述が何を言っているのか解読するのは難解だった。エルサレムでヨシ・ガルフィンケルと一緒に仕事をしている古代記述の専門家たちには、文字がでたらめに描かれているように思えた。上下が逆のような文字もある。正しい向きで描かれているのも、横に寝ているのもある。
古代記述の専門家「Aは“アレフ”と読まれ、英語のAと同じだが、それが正常な姿勢と、上下が逆なもの、横になったもの、の3種類の姿勢で描かれているんだ」
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文字の一つ一つを言葉としてまとめる作業に四苦八苦しながら、専門家たちは興奮が収まる様子もなく、議論を続けている。
古代記述の専門家「これは間違いなくヘブライ語だ!“アリタシュ;それをするな!”」
彼らは別のヘブライ語も見つけ出した。“エヴェン;崇拝”だ。それに“ショファー;判定”、“ネカーマ;報復”、そして“メレク;王”
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記述はカナン文字だが、言葉はヘブライ語だ!
シュニードウィンド「つまり、ヘブライ語の記述だったと言う訳ではないのだが、ヘブライ語に変換できるものだったということだ」

このことは、見つかったオストラコンが、体系化する過程の中でヘブライ語の記述が生まれる様子を示す、歴史的なもので、記憶されるべき証拠の極みだと言えることを示している。
古代記述の専門家「ここにあるオストラコンは、これまで発見された中でも最も古いヘブライ語の記述だと言える」
しかし、他の誰もが知りたがっているのは、何を言っているのか?ということだ。

この質問に答えるのは容易ではない。シュニードウィンド「ヘブライ語は母音を使わずに記述されていた。不十分な、母音がない記述のことを想像してほしい。一つの単語を読むだけでも沢山の方法があるんだ。その言葉は名詞かも知れないし、動詞かも知れない。多くの人が混乱するんじゃあないだろうか」
古代記述の専門家ハガイ・ミスガヴは慎重だ。
ミスガヴ「このオストラコンに書かれているのは、記述であって、名前のリストではないと言えるかも知れない。ここには文章が書かれているのだろう。恐らく司法だとか道徳といったものに関する文章だ」
キルベット・キヤファで見つかったオストラコンの記述の本当の意味は、解読されないかも知れないが、その重要性は否定できない。つまり、これはソロモンの世紀におき、砦のような都市で、記述がヘブライ語の極めて初期の手法で書写(しょしゃ)されていたことを示しているのだ。
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キルベット・キヤファでの発見は長年続けられているソロモン王に関する論争の解決を示している。オストラコンに描かれたヘブライ語の記述のように、ソロモンのイスラエル王国は体系化の初期段階にあったのだ。小さな王国が、さらに大きな王国になろうと足掻(あが)いていたのだ。

このことは我々が確かだと考えている、紀元前10世紀の、いくつかの事実の一つと整合する。聖書は、ソロモンの死から5年間後、エジプト軍が侵攻してきて、ソロモンの王国は破壊されたと記している。
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聖書『レホボアン王になって5年目、エジプト王シーシャックがエルサレムに対抗しようと1千2百のチャリオット(馬戦車)、6万の騎兵、そして数えきれない数の歩兵をエジプトから引き連れ、進軍してきた』
多くの学者が、聖書に書かれているシーシャックによるイスラエル侵攻が、古代エジプトの都市テーベに残る巨大なレリーフの中で裏付けられている主張している。
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繋がれた捕虜たちや城壁の絵を含んだレリーフはシーシャックが荒しまわった場所を表わしている。
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アミハイ・マザール「この攻撃はエルサレムの直ぐ北の高原地方を横切るように意図されていたものだったことを我々はしっている」
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「シーシャックよりも前に、そこまで侵攻したファラオはいない。先人のファラオたちは、いつでも海岸線に沿って侵攻していただけだ。このことはシーシャックが強くエルサレム一帯まで進軍したがっていたことを意味する。恐らく、ソロモン王国がこの地区におけるエジプトの利益を脅(おびや)かしていたのだろう」

もし、そうだとすれば、シーシャックの攻撃はソロモンの王国は力を付けていたという、説得力ある証拠の最後の断片だ。もし古代イスラエルが部族長の土地だったなら、シーシャックが手を煩(わずら)わせてまで侵攻する必要があっただろうか?
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恐らく、これは勃興(ぼっこう)した王国を平定するため、古代の近東Near Eastへ向かった“祈祷師の進軍”だ。そしてキルベット・エン・ナハスにおけるシーシャックの目的の一つが、死海の谷間での銅生産だった証拠だろう。

スラグの小山の断面の中に、トマス・レヴィーは、毎年、規則正しく積み重ねられたスラグの層を見つけている。しかし、スラグ層は、ある所で見られなくなる!
レヴィー「ここで見られるのは、紀元前10世紀末における金属生産活動の打ち切りだ」
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薄い層は精錬場での作業の終息を示していた。レヴィーは生産の打ち切りがシーシャックが侵攻した時期に対応していると考えている。学者たちは、シーシャックの遠征の詳細について論争しているものの、ある一つの件については全員が同意している。
テルアビブ大学フィンケルステイン「当時の銅供給について調べることは、決定的に重要だ。これを管理するか専売化する者は誰であろうと権力を得ることが出来たはずだ」
そうだとすれば、これらがソロモン王の採掘坑だったのだろうか?
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レヴィー「キルベット・エン・ナハスにおける発掘で、我々はついに聖書に登場する人物や、彼らがエドム人か、それともディビッドやソロモンのような初期のイスラエル王だったのか、に関する説明を見つけたのではないかと期待している。しかし、それは期待ってことだけどね」
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恐らく、異なる王国が権力を握るにつれて採掘坑の管理者は入れ替わっていったのだろう。誰が採掘坑を管理していたとしても、ワディ・フェイナンから送られてくる銅が、辺り一帯で取引され、エルサレムに到達していただろうことを我々は知っている。
アミハイ・マザール「ある日、エルサレムに在った寺院で使われていた銅製品を見つけるかも知れないと思っている。その銅はキルベット・エン・ナハスから送られてきたものだと判るはずだ」
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一つ確実なことがある。キルベット・エン・ナハスとキルベット・キヤファにおける発見は謎の紀元前10世紀、つまりソロモンの世紀に対する我々のイメージを変化させたということだ。それは、壁で囲まれた都市や、書記たちや、繁栄する銅工業を管轄する能力をもつ王国が生まれ来る時代だった。ついに、ソロモン王のイスラエルとエドムという謎の王国は、その時代を変革したものの長い間忘れ去られていた金属革命と共に、陰の中から現れ始めている。
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History Documentary Unknown Secret of King Solomon Stories
https://www.youtube.com/watch?v=YfpMLXPkkY8
・・・・・・・・・・・・
Youtubeフィルムでも再三、触れられているように、ディビッド(ダビデ)とその息子ソロモンが名前と共に初めて歴史に現れるのはヘブライ聖書の中です。二人が生きていたのは紀元前10世紀ですか、その1千年以上も前には、エジプトでヒエログリフが、メソポタミアでは楔形文字が使われていて、粘土板(タブレット)などに歴史を刻んで残しています。従って、エジプトとメソポタイアの間にあったイスラエル王国で、ディビッドやソロモンが文字を使っていなかったということは考え辛く、恐らく楔形文字が使われていたんじゃあないかとmhは思うのです。

しかし・・・当時の出来事や王の名が楔形文字などで記された粘土板は、古代イスラエルで見つかっていないんですねぇ。これが『ソロモン王がいたのかどうか、イスラエルの大地は語っていない』とフィルムでも言っていた所以(ゆえん)です。

紀元前10世紀、辺り一帯に権力を及ぼし、誰もが羨(うらや)む富も、1千人もの妻も手中にしていたソロモンの王国が文字を持っていなかった???
とても信じられません!!!
よって、気が短くて単純なmhは、ソロモンの王国など無かった、彼は、バビロンに幽閉されたイスラエル人の妄想が産んだ、伝説や神話の中の人物だ!と結論します。

ソロモンの名声がシバの女王を呼び寄せたってことですが、これもほら話でしょう。ソロモンがそんなに賢い男で、名声がアラビア半島の先端かアフリカ大陸のエチオピアに在ったと言われる、これまた謎の王国シバまで届いているというのに、ソロモンの王国に文字が無かった???エルサレムで、当時に文字が刻まれたタブレットが見つかっていない???何度も繰り返して言わせて頂きますが、とてもあり得ません。しかし、ソロモンの王国などはなかった、と考えれば腑に落ちます。

更には、メソポタミアやエジプトに、ソロモンの名が記された記録が残っていないということも、ソロモンと呼ばれる人物は実在していなかったというmhの理論を支持していると言えるでしょう。

しかし・・・マルコ・ポーロも中国の記録には登場していないようですから、どうなんでしょうかねぇ。
マルコ・ポーロもソロモンも、実在していた人物だと考える方が浪漫(ロマン)がありますから、世の中、真実だけを述べるのは、無粋(ぶすい)に過ぎるのかも知れません。“真実なら口に出して良いということではない”という深い教訓に思いを馳せたところで、ソロモン談義は打ち切らせて頂きましょう。

実は、次回も、謎の民族の話を予定しています。聖書は謎だらけですね。その謎を解明しようと考古学者たちが努力しているっていうんですから、何んと言って慰めればよいのか、言葉が見つかりませんが、考古学者たちの思いはmhなどとは別の所にあって、結構、楽しんでいるのではないかと思います。ご愁傷様というより、羨ましいって言った方が当たっているでしょう。
(完)

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mh徒然草:老人が多くなりました。


同じ内容の記事を何度も、つい最近も、投稿したように思いますが、もう忘れてしまっているのですから、いかんとも致し方なく、今回も埒もない戯言(たわごと/ざれごと)にお付き合い頂かねばなりません。

今日は7月11日の火曜日。いつものスーパーの卵売り出し日で、女房殿と二人、10個入り卵を119円x2個ゲットしてきました。毎週火曜日の卵売り出し日には開店10時から、入り口に人が群がっていることは、たしか、以前もお話ししたという記憶が、この時点になって沸々と甦ってきました。平日の午前中、スーパーに買い出しにくる人たちに老人が多いのは、お釈迦様が仰るように因果応報(?)です。若い人の多くは、mhの年金を確保すべく、この暑いのに汗水流して会社や工事現場などで働いてくれているのですから。

で、バナナ売り場にいくと、今回は男性のお年寄りが二人、山と積まれたバナナを全て、指先で固さ確認していましたから、バナナが腐る指跡を付けるのは女性のお年寄りばかりじゃあないことを改めてご報告させて頂きます。スイカ売り場ではお年寄りの男性が、8分の1程に切って並べられたものから一番大きそうなものを選んでいるんですが・・・20個ほど並んだ棚の前で、一個ずつ、比較しては交換するんですが・・・スイカ同志をぶつけて、形を崩したりしていました。悩んだ挙句、1つを籠に入れたのですが、“この調子だと、また直ぐに戻って来て、別のスイカに交換するかもしれないなぁ”って感じました。

スーパーのレジで清算待ちする人は、今日は5箇所のレジとも2,3名でしたが、いずれもお年寄りばかりで、レジの清算係の女性と会話を楽しみながら、小銭を数えながらの清算ですから、時間がかかるのはいつも通りですし、スーパーの前の信号を斜めに渡ったり、赤信号なのに横断したりするお年寄りも再確認いたしました。

で~mhはって言いますと・・・
赤信号を渡るのは止めることに致しました。急いで帰っても、ブログを作るか、ミステリー小説を読むか、昼寝をするだけですから、1分を惜しむ必要は全くないし、他の人や幼い子供の目の前で、赤信号を平然と横断するのは、さすがにはしたないというか、見苦しいなあ、と還暦を迎えて、やっと悟った次第です。

で、お伝えした気もするんですが、はっきりしないので念のため今回もお伝えしておきますと、自動車の免許証はこの2月、女房殿と一緒に返納して身分証明書代わりの運転経歴証明書に替え、今後は運転しないことにいたしました。赤信号の横断もやめたことで、mhが交通事故で死亡する確率は大幅に低下したことになります。

話は飛びますが~
横浜市の老人福祉の一環の、市営地下鉄・市内を走行する全バスの乗車パスをゲットしました。乗り放題で、費用は年間7千円ほどです。で~女房殿が徒歩で地下鉄の駅そばのストレッチ・ジムに出かけた後、mhは市バスで反対方向のJR駅に向かいました。駅近(えきちか)のドン・キホーテで週末のビールのつまみ用のスルメと、女房殿の毎朝のヨーグルト用の干し葡萄を買うと、女房殿が通っているジムの近くまで市バスで戻り、待ち合わせ場所のレストラン“サイゼリア”に。4,5組が空席待ちをしていましたが、予約リストに“大人2名・禁煙席”と記入し、10分ほどして席に着くと、いつものランチメニューを予約して、女房殿がやってくるまで、ドリンクバーの飲み放題の飲み物をガボガボ飲みまくっていましたが・・・

7月の11日の平日、午後1時近くで、外気温は30℃を越えた猛暑ですが・・・
バスも、レストランも、お年寄りが多いです。レストランでは、外回りの仕事をしている雰囲気の若い女性が昼食を摂っている姿を見受けましたが、バスでは乗客の90%、そしてこのレストランでは客の80%が老人です。で~食べ終わって清算しようとレジに行くと、お年寄りの客4人が揉(も)めていました。

お年寄り6人程で来ていてボックス席2ヶ所を占めて食事をしていたようですが、請求書2枚で、6人ほどが、自分が食べた分だけ個々にお金を払っていたんですね。で~レジで対応していたのは、これまた65歳くらいの女性ウエートレスで、この店の常連のmhが見かけたことがない新人です。

で、なんの勘違いか手違いがあったのか、清算機に入力し直そうっていうんですが・・・
うまくいかず、その上、大勢が口出しするものですから、不慣れなお年寄りの女性ウエーターは“混沌”として手の打ちようがないって様子でした。

mhの後ろにも清算待ちの客が並び出したのに気付いた若いウエィターが来てくれ、mhが清算を終えたのは2,3分経ってからです。レジで2分以上待つっていうのは、やってみれば判りますが、なかなか忍耐がいるんですね。で~mhはっていいますと、にこやかな顔をしながら、黙って、じっと佇(たたず)んで、待っていましたから、段々と人間が出来て来たなあって思ったりします。

これまた何度も申し上げさせていただきましたが、年を取ると、頭の回転は遅くなり、これに反比例して、自己主張は強くなり、そのくせ動作は緩慢で、お構いなしにルールを破るなど、他の人から見れば醜(みにく)い人間になってしまうんですね。頭や体が思うに任せないようになれば、それだけで他人に迷惑をかけることになる訳ですが、他人の主張に耳をかさず、自分の考えに固執し、他人に迷惑をかけることを平気で行うとなると、嫌われるのは当然と言えます。しかし、そういうお年寄りはというと“人から嫌われたってど~ってことない!”って考えている人が多いですから、手の施しようがありません!他人の立場や都合や意見を尊重し、愛される老人にならねば、と自分を戒(いまし)めていますが、成人用肺炎球菌予防接種の案内が届いても、女房殿が必ず接種を受けるよう強く勧めても、“病院に行って悪い病気を貰う確率の方が高い!”と言い張ってグズグズと接種を延ばしているmhは、やはり醜い老人の領域に足を踏み入れてしまったのでしょうか。

この原稿を校了しようとしていた7月12日、ネットに次の記事がありました。
【高松市の家具インテリア店の上りエスカレーターで10日、車いすの妻(79)と付き添いの夫(81)=いずれも同市=が転落し、後方にいた別の女性が巻き込まれて死亡したと香川県警が11日、発表した。妻はあばら骨を折るなどの重傷、夫は左腕に軽傷。県警が事故の詳しい状況を調べている。事故は10日午前10時40分ごろ発生。夫が車いすの妻を2階から3階に向かうエスカレーターに乗せていたところ、降り口付近の段差でバランスを崩し転倒した。夫婦の後方にいた渡辺清美さん(76)=同市=が巻き込まれ、エスカレーターの中段付近まで転落。全身を強打し、同日夜、搬送先の病院で死亡が確認された】

車いすの79歳と81歳の老夫婦は、今後、贖罪(しょくざい)の人生を送ることになりますが、亡くなられた夫人やその家族の悲劇も思うと、何んとも言い様がない、悲しく、やりきれない出来事です。これを他山の石とし、自分のミスで他人を傷つけたり殺したりしないよう、また他人のミスによる事故に巻き込まれないよう、気を付けねばならないと再確認しました。

神々の詩(歌詞は縄文語らしいです。既に投稿済みか?)
https://www.youtube.com/watch?v=_qtfW6ihnPE
(完)

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アレキサンダーの墓


Wiki:アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日)
通称アレクサンドロス大王(Alexander the Great)は、アルゲアス朝マケドニアMacedonia王国のバシレウス(ギリシャ語で“王”)である。また、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシァにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシァ語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。その他にはイスカンダルなどと呼ばれている。
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いろいろな呼び方があるってことは、偉人の証(あかし)でしょうが、イスカンダルと呼ばれるのは何故か?
お釈迦様が仰るように因果応報で、Wikiに次の説明があります。
「イスカンダルIskandar はアレクサンドロス大王を指すアラビア語・ペルシア語の人名である。もともとは Aliskandar であったが、語頭のal-が定冠詞と勘違いされal-iskandarと呼ばれるようになった。ただし、現在でもアラビア語では定冠詞をつけて al-Iskandar と言うのが普通である。kとsが入れ替わった理由は不明である」
つまり、kとsが入れ替わる前は“Aliksandarアリクサンダル”だったんですね。
蛇足ですが、イスカンダルと言う名をどこかで聞いたような、と思われる方は、アニメ『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』で耳にしたかも知れません。アニメに登場する架空の惑星、及び、同惑星に栄えた文明や国家の呼び名として使われています。

で~アレキサンダーがどんな男だったのかは、mhブログ「アレキサンダー大王の不思議」でご紹介済みです。ご関心とお時間がありましたら次のURLでご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-176.html

今回は“アレキサンダーの墓”を探求questするYoutubeを紹介します。
御参考としてお伝えしておきますと“バビロンで死んだアレキサンダーの遺体は部下のペルディッカスが王都ペラ(マケドニア)へ移送途中、同僚のプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたとされているが、その墓は未だに発見されていない”とWikiにあります。
・・・・・・・・・・・・
エジプト・・・
答えられていない疑問の土地・・・
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見つかっていない財宝・・・
1世紀を越えて捜し求められている謎は、今、解かれようとしている。新しい世代の専門家や考古学者たちが、アレキサンダーの墓を探して動き出したのだ。
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全能の戦士は、全能の帝国の中心に埋葬された。それから2千年、新しい調査や新しい発想によって、アレキサンダーの失われた墓は、ついに発見されるのだろうか?
Egypt Unwrapped:エジプトの謎を暴く!
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歴史によれば、アレキサンダーがエジプトにいたのはたった6ヶ月だ。しかし、この6ヶ月は、その後の何世紀にも及ぶ歴史を塗り変える出来事の連続だった。今日、多くの考古学者たちがアレキサンダーの足跡を辿(たど)っている。彼は、訪れた場所の全てを永遠に変えてしまっていたのだ。
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考古学庁責任者ザヒ・ハワス「アレキサンダーの足跡はとても重要だ。エジプトのどんな場所においても、彼の足跡の一つ一つは、全て何らかの意味を持っていた」
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アレキサンダーはエジプトの様々な場所を訪れていた。彼がやってくる数世紀も前には既に存在していたルクソールLuxorのカルナック神殿から、砂漠の真ん中にある神聖な場所まで。そして、古代のファラオが眠る場所から、今も彼の名前で呼ばれている近代都市アレクサンドリアまで。
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我々はアレキサンダーの遺体がここサッカラに一時、眠っていたことを知っている。
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その後、遺体はエジプトの中を旅している。死から22世紀を過ぎた今、彼の最後の場所、彼が眠っている墓、を特定することは出来るのだろうか?
考古学者・作家ニック・サウンダー「彼の墓を探そうとした時、何から手を付ければよいのか?どの場所から調べたらよいのか?我々はその地図を持っていない。あるのは伝説や寓話や宣伝文句だけだ」
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我々がアレキサンダーについて知っていることは、全て神話というベールで包まれている。
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しかし、いくつかの明確なこともある。彼はファラオとなったが、エジプト人ではない。マケドニア王国の金髪のギリシャ人だ。そして紀元前332年にエジプトを訪れた時、彼は偉大な国家が力を失っていることに気付いた。エジプトはペルシャ軍に占領され、その管轄下にあったのだ。アレキサンダーが他国軍を国外に追い出してエジプトを解放すると、人々に歓待された。ペルシャ統治を生き延び、権力を握っていた祈祷師たちは、直ぐに彼に対する支持を表明した。
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エジプト古物博物館長ロバート・スティーヴン・ビアンキ博士「アレキサンダーがエジプトに軍勢を率いて来た時、エジプト人は将来を不安視していた。しかし、彼は自らのエジプト統治を受け入れる引き換えに、当時の権力者だった祈祷師たちが勢力を維持することを認めたのだ」
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(mh:ビアンキ氏が館長を務める博物館があるのは東京です!)
ビアンキ博士は20年もの間、アレキサンダーと彼の墓の追跡を続けている。彼によれば、その作業はエジプトでこれまで建てられた中で最も巨大な寺院複合体の壁画から始まるという。
カルナック神殿は上エジプトのルクソールの、ナイル河岸に建てられている。アレキサンダーがカルナックに来た時、そこは宗教的、政治的な中心だった。
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何世代にも渡り、ファラオたちは神殿を拡張し続けていた。その一つ一つは権力と、神への敬意と、威信の現れだ。
ビアンキ博士「彼がカルナック神殿を訪れた時、神殿は既に2千年の歴史を持っていた。ツタンカーメン、アメンホテプ三世、ラムセス大王、など、エジプトの歴史における主要なファラオは、神殿に自らの印を彫り残している。古代エジプトの歴史を語る上で極めて重要な遺跡だ」
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ビアンキ博士は、アレキサンダーがこの寺院の歴史の中でどのように画策したかを示してくれるという。それは、寺院複合体の中の小さな寺院の建物の壁に彫られたヒエログリフだ。アレキサンダーは、彼の名前をファラオとして記していた!
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(mh楕円の中にヒエログリフで書かれているのは必ず王の名です。カトゥシュと呼ばれる表記法です)
その直ぐ近くには、彼よりも以前のファラオの名が記されている。
ビアンキ博士「ヒエログリフや、王や神を象徴するホルス、牛、フクロウなどが彫られていて・・・その後にトトメス三世のカトゥシュがある。
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アレキサンダーはこの寺院を改修し、自分の名前を壁に残したのだ。それは全能の先人トトメス三世に対するアレキサンダーの敬意を表すためだった。
ビアンキ博士「偉大な戦士への尊敬の念を示すとともに、アレキサンダーのエジプト統治が、代々続いていたファラオの統治を正当に引き継いだものだと誇示するためでもあったんだ」
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当時、あるファラオが別のファラオの記念碑を乗っ取り、先人のファラオの名を消し去ることは稀(まれ)ではなかった。しかし、この寺院では、ファラオで、かつ有能な将軍でもあったトトメス三世との関係を強めたいと望んで、アレキサンダーは自分の名を彫ることにした、とビアンキ博士は信じている。
ビアンキ博士「トトメス三世は偉大な戦士だった。そこでアレキサンダーは自分とトトメスとを融合させていたんだ。トトメス三世を彼の精神的な祖先だと感じていたのだろう」
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アレキサンダーはこの壁画の中で、自分がエジプトの王であると主張している。彼はエジプト人に受け入れられるよう自分を変えていった。まず、ギリシャ人の王だった彼は、エジプトの合法的なファラオになった。
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すると、エジプトを統治しようという野心が、彼を掻(か)き立てる。彼は軍勢を引き連れ、危険が待ち構えるエジプトの奥地に向かった。

アンドリア・ケイはアレキサンダーの足跡を辿ってナイル西部の砂漠を移動している。
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世界でも最も人を寄せ付けない場所の一つだ。アレキサンダーは無意識の内に、死後、自分の体がどうなるか確かめようとしていたのだ。彼の未来とエジプトの未来と結びつけようとしていた。彼は、自分が死ねば、部下たちはここに墓を建ててくれるだろうと確信していた。

エジプト学者アンドリア・ケイ「どちらを向いても何百Kmも先まで砂丘が続いているわ。ここで目的地の方向を正しく示すのは至難の業よ」
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エジプトの西部砂漠はナイル河岸からリビア国境まで640Kmに渡って広がっている。
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紀元前4世紀、アレキサンダーが部下を連れて沙漠を横切った時の厳しさは想像を絶するものだっただろう。
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彼が砂漠に踏み込む数年前、砂嵐が数千人のペルシャ軍を破壊していた。砂漠での危険と厳しさは膨大だったはずだ。ここでは雨が降ることは無い。それでも、アレキサンダーは砂漠を旅したのだ。
ザヒ・ハワス「兵士たちは喉の渇きを訴え、死ぬ者も出始めた。すると雨が降って、兵士たちはそれを飲んで生き延びることが出来た。道に迷うと、どこからともなく蛇が現れて道案内をしてくれた」
この種の物語は、アレキサンダー生存中も人々の間で囁(ささや)かれていた。しかし、彼が探し求めていたものはもっと神秘的な立場だ。
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ケイ「彼は何日も馬に揺られて砂漠を進んでいったの。GPSなんかない時代だから、感だけを頼りに320Kmも移動していったのよ」
アレキサンダーは砂漠の中のオアシスの町シーワSiwaを目指していた。エジプトでも、最も隔離されている居住区だ。シーワは、当時も今のようにオアシスの町だった。広大な砂漠の中に浮かぶ、自然の泉で満たされた島のような所で、アレキサンダーの時代も神聖な場所だとされていた。エジプトで最も強力な神アムンが生まれた場所だ。
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エジプトの伝統によれば、アムンは羊だ。同時にファラオたちの父でもあった。エジプトにおけるアレキサンダーの遺産に関する専門家のアンドリア・ケイは、アレキサンダーが何を考えてこの場所に来たかを明確に知っている。
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彼は人間と神との間の存在になろうとしていたのだ。既にアレキサンダーはファラオになり、エジプトの町は彼の前で跪(ひざまず)いていた。次はアムン神の謁見(えっけん)を受ける時だ。
“神託の寺院”の跡は今も残っている。
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アレキサンダーは常に親衛隊と共に行動していた。時には、隊の規模は小さいこともあったが。しかし、アムン神の寺院がある丘の麓に着くと、親衛隊をそこに残して、彼は一人で丘に登っていった。
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ケイ「寺院はとても涼しく、静寂な、洗練された、厳かな場所だったの」
伝統に従って、アレキサンダーは一人で神聖な部屋に入った。
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ここが紀元前331年のある日、彼が立っていた場所だ。
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ケイ「まさにこの位置で、彼は神の言葉を聞いたのよ。神の像があったはずよ。カルナックでも見た羊の顔をしていたと思うわ。祈祷師は、この通路の裏側に隠れていたの。そしてアレキサンダーが神と話しをするのを聞くことが出来たの」

人間と神の像との話し合いがどんなものであったにしろ、アレキサンダーは彼が知りたかったことを聞き出していた。その瞬間、彼はマケドニアの王フィリップ二世の息子ではなくなった。新たな父を持ったのだ。
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ビアンキ博士「彼はアムンの息子になったと主張した。自分は神の加護を得た人間で、帝国を統治する合法的な地位を与えられた男なのだと」
3千年以上もの間、エジプトのファラオはエジプト人だった。しかし、今、ギリシャ人が玉座に着いた。新しい体制が、新しい時代が始まったのだ。

アレキサンダーは6ヶ月後にエジプトを離れ、再び戻ることはなかった。そして8年後、数百Km離れたバビロンで謎の死を遂げた。
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しかし、エジプトとの繋がりが失われることはなかった。彼の遺体はエジプトに運び戻された。彼の命のない体を手にする者は、エジプトを統治する権利を獲得できる。
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今日なら、彼を再び発見しさえすれば、考古学の中でも最高の栄誉を獲得できるのだ。

アレキサンダーはエジプト全域を手中にした。ファラオになり、エジプトの神の中の神アムンの息子だと宣言した。エジプトと自分とを強固に結びつけ、死んだ後でさえエジプトを統治することになった。
ビアンキ博士「彼の遺体を所有する者が、エジプトを所有し、権力を所有するという伝統があった」

アレキサンダーの遺体は今、どこにあるのだろうか?それは考古学でも最大の関心を呼び起こすことになった。多くの学者が、その謎を解きたいと考えている。ニック・サウンダー博士もその一人だ。彼は20年もの間、アレキサンダーの墓を探し続けている。
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墓を見つけるには、アレキサンダーの遺体をエジプトに持ち帰った男から手掛けなければならないと彼は考えている。
サウンダー博士「彼の遺体は一種の道具だった。後継者の将軍たちには象徴的な武器として使われた。かれの遺体を手にすることが権力を手にすることだった。彼の遺体を使えば正当な後継者になれたんだ」
アレキサンダーは後継者を指名していた。将軍ペルディカスだ。
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彼は遺体を埋葬する役目を言い渡されていた。彼がミイラ化した遺体をどのように使おうとしていたのかについては記録が残っていない。恐らく彼は、マケドニアにあるアレキサンダーの父の墓の近くにアレキサンダーの墓を造ろうとしていたのだろう。しかし、その機会を得ることは出来なかったのだ。
別の将軍プトレマイ(プトレマイオス)は、アレキサンダーの遺体が象徴的な価値を持っていると考えていた。彼はペルディカスから遺体を盗むと、エジプトに持ち帰ってしまった。
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サウンダー「プトレマイは一か八かで、ミイラ化されていた遺体を盗んでエジプトに逃げた。彼はエジプトの正当な王位継承権を手に入れようとしたのだ。遺体を巡ってペルディカスとプトレマイはナイル河岸で壮絶に戦い、プトレマイはペルディカスを打ち破った」
闘いに勝利したプトレマイは3百年続く王朝をエジプトに打ち建てた。
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王朝の基礎となったのは、アレキサンダーの遺体だった。プトレマイは最初、エジプトの中心、エジプトの首都だった町に遺体を運んで埋葬した。
サウンダー「彼が、エジプトの宇宙の中心とも言えるメンフィスにアレキサンダーの遺体を持ち込んだのは間違いない。アレキサンダーにはメンフィス以上に相応(ふさわ)しい場所はなかったんだ」
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そこは2千年以上も人々が暮らし続けていた所だ。この地には、かつて寺院や王宮が溢(あふ)れていた。
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紀元前4世紀のメンフィスはエジプトの政治の中心で、同時に、埋葬地としても重要な場所だった。何世紀もの間、エジプト人たちは、この砂漠に遺体を埋葬していた。そこはサッカラSaqqaraの大墓地として知られている。プトレマイはサッカラにアレキサンダーの遺体を運び込んだとサウンダーは考えている。
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サウンダー「王の生と死の基本がここにある。東には生者の町で首都のメンフィスが控えている。そして太陽が沈む西には砂漠が広がる死者の国がある」
サウンダーが歩いている道はサッカラの大墓地に進む行列通りだ。
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その先の行き止まりにはエジプトで最も古いピラミッドがある。階段ピラミッドだ。
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エジプトの古代に続くことを暗示するかのような配置と言える。だからプトロメイがこの地にアレキサンダーを埋葬しようとした、とサウンダーは考えている。アレキサンダーなら、昔、エジプトのファラオが埋葬されていた場所に埋められたはずだ。
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サウンダー「それはプトロマイの計算だったんだ。アレキサンダーの遺体の埋葬を国家行事にし、プトロマイがアレキサンダーの後継者で、従ってエジプトの正統な統治者であるということ、それに、エジプトの古代から伝わる信仰や伝統を守る男であるということ、を示したんだ」

プトレマイがアレキサンダーの遺体をこの地に運んだという証拠はあるのだろうか?調べれば調べる程、この地とエジプトの新しい王朝との関係を見つけることが出来るとニック・サウンダーは主張する。
サッカラでは、死者の道は岩に刻まれ、迷路のように折れ曲がるトンネルに続いている。
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そこは、アレキサンダーやプトロマイより1千年以上も前に造られた墓で、ファラオだけではなく動物のミイラも収められていた。
ここは牛の墓だ。生存中は崇(あが)められ、死後はミイラ化されて埋葬されていた。トンネルに収められている花崗岩の棺は60トン以上もある。
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当時、プトロメイの子孫たちは、セラぺスという、旧来とは異なる、自分たちの神を敬っていた。彼らの都市アレクサンドリアを守るための神だと考えられている。サウンダーはアレキサンダーの魂との関係もあったのではないかと考えている。彼らはここに来てアレキサンダーを敬っていたという。
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サウンダー「アレキサンダーがアムン神を自分の守護神だと示したのは政治的にも宗教的にも賢いやり方だと思う。このことによって、彼はエジプトにおける古代からの神、特にミイラ化された牛と自分とを関係づけた。彼は、この地にもやって来ていた。神に接見し、そのことで政治的な影響力も獲得していたのだ」
論理的には、この場所こそがアレキサンダーの墓だったとの結論が導かれる。しかし、他に何か証拠はないのだろうか?

死者の道から数mに明確な手掛かりを見ることが出来る。半円形に並べられた像は19世紀にフランス人考古学者マリアッテによって発見された。
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重要な点は、これらの像がこの場所にふさわしくないということだ。像は大きく破損しているが、明らかに言えることが一つあった。像はギリシャ式だったのだ!
サウンダー「像を詳細に調べたマリアッテは奇妙なことに気付いた。像はギリシャ人哲学者たちだったのだ。エジプトで採れた石灰石で出来ていた。何故、このようなものが造られたのだろう?像は何を表わしているのだろう?」
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マリアッテは像がギリシャの重要な人物を表わしていることに気付いていたが、これらの疑問に答えを見つけ出そうとはしなかった。これらの像がこの場所とどんな関係を持っているかが判ったのは、つい最近のことだ。ギリシャとエジプトの文明の融合を表わすだけのものではなかった。像の人物一人一人はアレキサンダーとの強い繋がりを持っていたのだ。

ホーマー(Homerホメロス)は“イーリアス”と“オデュッセイア”の著者だ。アレキサンダーはホメロスが書いた書の中の戦士に憧(あこが)れていた。ピンダーはギリシャの偉大な詩人の一人だ。彼の言葉はアレキサンダーの祖先達を称賛していた。プラトンは西洋における哲学の巨人だ。彼はアレキサンダーの教師を務めていたアリストテレスの師匠でもあった。
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サウンダーは、これらの像を寄進したのはプトロメイだと確信している。
サウンダー「プトロメイがこれらの像の製作を指示した理由の一つは、像の人物たちが、アレキサンダーが知っている世界と強い繋がりを持っていたからだろう。像はギリシャの哲学や文学の指導的な人物ばかりだ。アレキサンダーの墓に奉納するには最適だ」
サウンダーはアレキサンダーがサッカラに埋葬されたと確信している。
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しかし、話はこれで終わりではない。証拠によれば、ここで見つかった彼の墓は空だった。広く信じられている、古代ギリシャのホセイニアスの記録によれば、アレキサンダーの遺体は、プトロマイによる埋葬から30年後、北に、アレキサンダーが創った町に運ばれたと言う。エジプトで新たに繁栄しはじめた都市アレクサンドリアだ!
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ローマの皇帝たちも訪れたというアレキサンダーの墓は、この町にあるのだろうか?
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アレキサンダーは彼の王国の30もの都市に自分の名前を付けていた。彼の墓を追跡しているニック・サウンダーは、その中でも最も偉大な都市アレクサンドリアを訪れた。
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しかし、この都市を造ったのはアレキサンダーではない。後継者のプトロマイだ。エジプトにおけるギリシャ都市として造られた。戦術、経済、文化。全てが新しい王国の創造に注がれた。
紀元前280年、プトロマイの息子はアレキサンダーの遺体を南のメンフィスからアレクサンドリアに移した。そのことで、彼は、アレクサンドリアを古代で最も有名な都市にしたのだ。
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サウンダー「当時なら、誰でもアレキサンダーの墓がどこに在るかを知っていた。そこは、長い間、旅人を惹きつける場所になっていた。アレキサンダーの光り輝く墓を訪れるのだ!と。今日でも多くの人々が、彼の亡霊の魔術に触れようと思い、または彼の墓を求めて、アレクサンドリアにやってくる」
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1世紀に渡って、墓探しTomb Hunterは引きも切らずにアレクサンドリアに押し寄せている。彼らは“アレキサンダー馬鹿fools of Alexander”と呼ばれている。
サウンダー「彼らはみんな、アレキサンダーが何処に眠っているか知っていると考えてやってくる。しかし不幸なことに、その墓は、彼らの手が届くところにはない。それが“アレキサンダー馬鹿”の結末だ」

古代の記録によれば、西暦3世紀まで、世界が知っている最も偉大な人物のようになりたいと強く望んだローマ帝国の後継者たちが墓を訪れていた。
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サウンダー「みんながアレクサンドリアを訪れて、アレキサンダーの墓に参拝したいと望んでいた。偉大なギリシャ人のアレキサンダーの後継者だと標榜(ひょうぼう)する人たちは、スーパー・ヒーローを見たがっていたのだ」

しかし、西暦5世紀末、西ローマ帝国が崩壊すると混乱と暗黒の時代が続き、アレキサンダーの墓は消えてしまったのだ。今日のアレクサンドリアは、墓があった当時の面影をほとんど残していない。
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何世紀にも渡る再建築で、古代の町は人通りの多い道路のずっと地下深くに押し込まれてしまった。現在、町の人口は4百万で、墓が失われて1千6百年も経過している。伝説は、半分は事実かも知れないが半分が虚偽で、結局は曖昧(あいまい)だ。
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ザヒ・ハワス博士はアレクサンドリアのナビ・ダニエル・モスク(El Nabi Daniel Mosque)にやってきた。1百年以上の間、墓探したちで賑(にぎ)わっている場所だ。
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1850年頃、シュリジーという名のギリシャ人通訳がモスクの中で驚くべきものを見つけた。
ザヒ・ハワス「彼は地下への通路を見つけると下りていった」
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「そして、彼にはアレキサンダー大王を埋葬していたように見えた場所を発見した。彼が現実に見たのはアーチ状の天井と棺を置くように造られていた部屋だ」
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シュリジーの話は広く信じられ、1958年まで、そここそがアレキサンダー大王の墓だと考えられていた。
ザヒ・ハワス「考古学者たちは長年調べてみたが、アレキサンダーの墓だと示す証拠は何も見つからなかった。しかし、アレキサンダーの墓だと思えたら、どんな場所でも調べてみることは大切なことだと思う」

そうは言うものの、もし、アレキサンダーの墓を探し当てたとして、どうすればそれに気付くと言うのだろう?
考古学者たちは、かつてマケドニアの古代の首都アイガイ、現在はギリシャの町ヴェルギナVerginaに残る王家の墓を調べることで、アレキサンダーの墓の様子を思い浮かべることが出来るという。
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アレキサンダーの先人たちが埋葬されていたその墓は、2千年以上も人の眼から隠されていた。
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入り口はギリシャの寺院と似ている。
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入り口の上のフレスコ画はマケドニアでは典型的だった狩猟風景を描いている。墓室には鎧(よろい)や宝石、マケドニアの紋章が付いた黄金の棺などの財宝が収められていた。
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考古学者たちは、財宝はアレキサンダーの叔父など、彼の家系のものではないかと考えている。埋葬されていた人物が誰であれ、アレキサンダー家系の貴人だったのは間違いない。描かれている狩りする若者はアレキサンダー自身の可能性もあるという。
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とすれば、アレキサンダーは、彼が創設した町アレクサンドリアの地面の下に隠れている、マケドニア風の墓に埋葬されているのだろうか?
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今でも、古代アレクサンドリアの断片を垣間見ることは可能だ。アレキサンダーの遺産の一部で、世界でも最も広大な地下空間の一つが残っているのだ。
サウンダー「ここは町の地下に残されている貯水システムだ」
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この貯水施設には年2回、洪水で溢れたナイルの水が引きこまれて蓄えられ、町の繁栄を支えていた。建築技術には目を見張るものがある。この空間に入ることは古代世界との接触そのものだ。しかし、ここにある何物も、アレキサンダーの埋葬についての手掛かりを与えてくれはしない。
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サウンダー「地下の構造物はアレキサンダーの時代に近づけてくれるが、アレキサンダーの墓を探すには地上に残されているものを手掛かりとするしかない。地上を調査し、当時の都市の様子を把握し、どの様な意図で町が構成され、アレキサンダーの墓はどこに造られたかを推察するしかない」
アレキサンダーの墓について我々が知っていることがある。数世紀の間、その墓は謎からはかけ離れた物だったということだ。それは旅人を引き寄せる名所だった。多くのギリシャ人が巡礼で墓を訪れる文化すらあった。墓は都市の一部で生活の一部だった。
考古学者エドワード・ルイスは当時の典型的な寺院複合体を訪れている。彼は、アレクサンドリアの初期、墓が持っていただろうエジプトとギリシャの文化をあわせ持つ側面をこの遺跡の中に見出している。
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そしてそのことが、生活する上でどんなに重要だったのかについても気付いている。
ルイス「いろいろな点で、この複合体は祝宴のために造られているように思われる。食べ物を持って家族で訪れるなど、ピクニックのようなことが行われていたはずだ」
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エジプトとギリシャの双方の建築を融合したファサード(前面飾り)は、アレキサンダーの墓がどのような様子だったかについての手掛かりを与えているかも知れない。
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エジプト風のスフィンクスはギリシャ風石柱Doric columnの前に座っている。ギリシャの町ヴェルギナの墓を思わせるマケドニア風の騎手のレリーフが描かれている。
ルイス「最盛期は、もっとカラフルだった。墓の隣に真っ赤なレリーフが描かれていて、恐らく赤以外の色も使われていたと思う」
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「その構造や装飾は、アレキサンダーの墓の様子を表わしていると考えている」
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勿論、この墓はアレキサンダーのものとするには余りに質素だ。規模や造られている場所から、身分の高い家族のものだろう。

古代の情報によれば、アレキサンダーの墓はスーマSumaにあると言う。壁で囲まれた一画だ。これまでの分析によると、その規模は広大だ。
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若い墓探しTomb Hunterのアンドリューズ・チャグは、この10年間、我々も持っているアレキサンダーの墓に関する情報の断片をつなぎ合わせている。
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チャグ「私はこれまで判っている色々な情報を集めてジグソーパズルのようにつなぎ合わせ、どこから、どう考えるべきかを検討し続けてきた。古代都市の中で、何が何処に配置されていたのか?それらはどんな外観をしていたのだろうか?って」
チャグの調査はここアレクサンドリアの最も古いアウシャット・ネクロポリス(墓場)で再開した。
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紀元前3世紀からのもので、1893年に考古学者ジョアナ・ディスによって初めて発見され、話題になった場所だ。チャグを惹きつけたのは、そこが明らかにギリシャの影響を受けていると思われたことだった。これを根拠に、彼は、拡大解釈を進め、アレキサンダーだけではなく、クレオパトラの墓も、見つけた!と主張した。
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しかし、この主張は懐疑的だとする人々によって直ぐ、猛烈に批判されることになった。
チャグ「場所が不適当だとか、外観が高貴な人物のものとは思えない、といった非難がカイロの新聞に掲載された」

しかし、このネクロポリス(集団墓地)は、調べるべき一つの手掛かりを持っているかも知れない。これらの柱はかなり崩壊が進んでいるが、チャグは、アレキサンダーの墓と関係がある何かを語りかけていると考えている。
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チャグ「これは葬儀用のモニュメントのようで、私が特に関心を持っているのは、その形が古典的なモウゾレアム(mausoleum霊廟)に似ているということだ。我々が知っているモウゾレアムは高くて、長方形で、階段ピラミッド状の屋根を持つ建物だ」
アレクサンドリアの初期の住民は、古典的なギリシャ形式の墓を造っていた。従って、アレキサンダーがどこに埋葬されているのかを知りたければ、初期の形式のモウゾレアムを探さなければならない、とチャグは考えている。モウゾレアムとして広く知られているのは、世界七不思議の一つの霊廟だ。
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高さは42mで、大理石を削って造られていて、石像が飾り付けられ、ピラミッド型の屋根があった。アレキサンダー三世の時代の建物だ。
チャグ「世界には沢山のピラミッド型の古代のモウゾレアムがあるが、多くは世界の七不思議の一つに挙げられているハリカルナッソス(mhトルコの地中海岸の町)の“マウソロス霊廟;モウゾレアム”をモデルにしているように思える」
現代の墓探したちTomb Huntersは都市の中心にある墓の形式について、強い考えを持っている。新しい考え方が出始め、いよいよ最後の段階が近づいているのかも知れない。彼らは、ついにアレキサンダーの墓の位置を特定できるのだろうか?
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サウンダー博士は町の外観から、古代の風情が残っている一つの場所に関心を持っている。そこはジグソーパズルの決定的なピースかもしれない。
サウンダー「そこにはX印のような目印がついている訳ではない。町全体は当時からは全く変わってしまったんだから。しかし、唯一残っているものがある。地理的な特徴で、それはあの半島だ」
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「半島の位置は2千年前から変わっていない。この半島が、墓をどこで探せばいいかについての手掛かりをずっと我々に与えてくれているんだ」
“王宮内宮”と呼ばれるロキーエス(?)半島はかつてファラオの住居があった場所だ。
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現在でもプトロマイ時代の都市のレイアウトを決定するために活用出来る。王宮があった半島には、今は頑丈な石柱が立っている。その近くに彼らの権力の源だったアレキサンダーの墓があったのだろうか?
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サウンダー「ここは当時、地中海世界で最も力強い王国の中心だったところだ。大理石で造られた王宮は金銀で装飾され、石像が並んでいた。そこでは王家の貴人や召使いたちが贅(ぜい)を尽くして暮らしていた」
サウンダーは、その王宮から、もっと大きな公共で公式的な建物に続く道を歩いている。今日、この一帯は、アレクサンドリアで最も有名な建物の歴史を引き継ぐ最新の構造物がある場所だ。アレクサンドリアの図書館だ。
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そこでサウンダーは、墓の特定の助けになるかも知れない、この地区に関する古代の記述を見つけようとしている。
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古代地理学者ストゥラボStraboの記述:“人々がソーマSomaと呼ぶ場所は王宮施設内の一部だった。高い壁で囲まれ、中には様々な場所があって、王やアレキサンダーの埋葬地もそこにあった”
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多くの学者は、ギリシャ人地理学者ストラボの情報が最も信頼できると考えている。彼の証言は彼自身が目撃した内容だった。
サウンダー「彼は、このアレクサンドリアを紀元前24年に訪れている。今我々がいるこの図書館の周辺を歩いて調べまわり、その際にアレキサンダーの墓を初めて間近に見て、それを記録に残している」
ストラボの記述に沿ってサウンダーは現在のアレクサンドリアのマザリータMazaritaという名の交差点にやってきた。
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彼は、ここにアレキサンダーの墓があったと考えている。もし彼が正しければ、ここは6百年間、大勢の巡礼者が訪れていた場所だ。
サウンダー「今は昔の面影が全く残していない場所を見るのは奇妙な感覚だ。通りにはワインや食料や肉などを売る人たちが大声を張り上げ、大勢の通行人が通っている。しかし、当時なら壁に囲まれていて、アレキサンダーやプトロマイ王室の墓など、大理石で造られた大きな霊廟が配置されていた場所なんだ」
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サウンダーは、ここに墓が造られたのは、極めて当然だと考えている。
サウンダー「ここが権力の中心地だ。従って、アレキサンダーがいなければならない」
しかし、問題なのは地理学者ストラボの記述だけが唯一の手掛かりだということだった。墓に関する他の人たちの記録を見ると、その位置については記述が曖昧だ。
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記述“プトロマイはアレクサンドリアの中心地に記念碑的な建物を建てた。そして彼はそこに祖先とその母と、そしてマケドニア人の王アレキサンダーも共に埋葬した”
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アンドリューズ・チャグは10年を費やして、古代の情報源を調査した。それらを全てつなぎ合わせれば、墓に辿(たど)り着くことが出来ると確信している。
チャグ「私が思うに、同じ時期に起きていた些細な事の全てを見つけ出し、それらの関係を調べることが重要だ」
彼は情報の中の重要な鍵は、アレキサンダーの墓が町の中心で、道路が交差する場所の近くにあったことだと考えている。古代のアレクサンドリアの地図は残されていない。しかし、全くないわけではない。19世紀、町が近代化する前に作られた地図がある。
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これを現在の地図に重ねてみると、どこを探せばよいか判るとチャグは主張している。

チャグ「私は、町のこの辺りが一番可能性が高いと思っている。道路が交差していた地点だ。古代の地図には、一帯の詳細が書かれている」
しかし問題があった。チャグが指摘する交差点はストラボが示した地区から400mずれていることだ。
チャグ「アレキサンダーの墓もあったという、壁で囲まれたソーマSomaはとても華麗で、広大だったはずだ。従って、王宮にも接し、更には交差点をも含んでいたんだろう」
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チャグの理論によればアレキサンダーの墓地複合体は王宮地区と町の中心の交差点の間で広大な一画を占めていたはずだという。どんな墓であろうと、大帝国を打ち建てた男の墓なら広すぎるということはないだろう。チャグはこの考えに基づいて町を調べ直してみた。

これはかつて町を囲んでいた城壁の一部で、町の北西部に残っている。
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アレキサンダーの墓が失われて1百年後に建てられたものだと学者たちは考えている。チャグは、この遺跡が最初に造られた城壁の一部だと言う。“アレキサンダーのソーマSoma”の城壁だと言うのだ。
チャグ「城壁はみすぼらしい石灰岩を沢山積み重ねて造られている。石の縁には切り欠きの跡が残されているが、それはプトロマイ時代の石壁の形式だ。私には、この壁が“アレキサンダーのソーマSoma”の物理的な証拠の一部だとしか考えられない」
もしチャグが正しければ、この壁はアレキサンダーの墓を囲むソーマの壁を想定する起点として使える。
チャグ「壁は南に6百m、西に8百m伸びていた」
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[広大な囲いの中のどこかに、見事なモウゾレアム霊廟が建てられていて、その地下に古代において最も魅力的だった王の墓室があった」
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チャグの理論は事実を整合させた見事な着想だと言える。ストラボが残した古代の情報と、チャグが指摘する墓の位置との差は彼の理論でうまく解消されている。欠けているのは、パズルを解き終えるために必要な確固たる考古学的証拠だ。今のアレクサンドリアで、そういった考古学的な証拠類を見つけ出すことは至難の業だ。
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更には、この考えと矛盾する理論もある。ザヒ・ハワス博士は、チャグが墓があったという場所から1百mほど離れたラテン墓地と呼ばれる場所に来ている。
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1905年、ここで4つの巨大なアラバスター(石膏と方解石からなる白い鉱物)が見つかった。今は元の墓になるよう再組立てされている。
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古代エジプトの伝統によれば、アラバスターはアムン神の石だ。ハワス博士は、アラバスターを使ってアレキサンダーの墓を造ったのかも知れないと考えている。

ザヒ・ハワス「アレキサンダー大王はアムン神の息子だった。とすれば、アラバスターで造られた建物の中で、アムン神に護られていなければならないだろう。墓室の中の壁の表面はとても滑らかだ」
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「高貴な人のためには典型的な手法だ。高僧や王以外には、このような贅沢な建物を造る余裕はなかっただろう」
外装の仕上げは粗いままだ。ザヒ・ハワス博士は、アレキサンダーの先人たちの墓の近くの地中に埋めて造られた墓だったからではないかと考えている。
ザヒ・ハワス「墓の造りに着目すれば、墓は地中にあったので外装は未完成だが、正面は完全にマケドニア風だと言える」
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この墓と、アレキサンダーの家系のために創られたと多くの人々が信じているマケドニアの墓とは、驚くほど似ている。
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建物の前面飾り(ファサード)はいずれも寺院の様相だ。ここがマケドニア人の王アレキサンダーが永眠していた場所なのだろうか?墓は多くの巡礼者たちが訪れ、ローマ帝国の皇帝も表敬する処だった。ハワス博士にとって、この階段は最後の頼りとも言える証拠だ。
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ザヒ・ハワス「この階段が人々を墓に導いていたのかも知れない。階段を下りていくと墓室への入口が待ち構えている。人々はそこで捧げ物をしていただろう。私は、この墓の位置と造りから、偉大な人物、例えばアレキサンダー大王、の墓だった可能性はあると思う」
ここは失われたファラオ、アレキサンダー、の墓かも知れない。2千年前、墓は人工の丘で埋められていたのかも知れない。墓室への入口は、マケドニアの騎士の絵が施されていた。
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そこを入って中に進んでいくと、第二の部屋があり、そこに歴史上で最も尊敬されている王の棺が置かれていたのかも知れない。

他の人たちは、この墓について別の見方をしている。
ニック・サウンダー「重厚で、独特の造りで、謎めいている建物だ。しかし、アレキサンダーの墓ではない」
サンダーの反応は他の多くの学者たちと同じものだ。
サウンダー「アラバスターの建物は高貴なギリシャ生まれのマケドニア人のためのものだったという考えは正しいと思う。見事なモニュメントだったはずだ。しかし、この墓がアレキサンダーのものだったという考えは、どうみても精査に耐えられるものではない」
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またもや問題は墓がある場所だった。墓の場所は町の中心だと言えるだろうか?それに規模も問題だ。アレキサンダーに相応(ふさわ)しい広大な墓といえるだろうか?
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近年の発掘によっても新たな証拠は見つかっていない。確固たる証拠に欠けていては、どんな墓でもアレキサンダーの墓だと言えることになってしまう。

アレキサンダーとアレクサンドリアの繋がりは名前以上のものであることを我々は知っている。アレキサンダーは町を創設した。しかし、町が生まれ始めたのを見た訳ではない。彼は、当時、世界で最も影響力を持つ町にまで繁栄したのを見ることはなかった。そして、彼の墓は、22世紀に及ぶ歴史の下の何処かに隠されてしまったのだ。
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最後に一つの捩じれtwistがある。最新の理論によれば、仮に墓を見つけても、そこも空(から)で遺体はないと言う。宗教上の激動で、遺体はアレクサンドリアから持ち出されてしまったはずだと言うのだ。アレキサンダーは最後の旅をしたのだろうか?西部砂漠の、黄金のミイラの谷と呼ばれる場所に移され、埋められたのだろうか?
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古代の記録によれば、4百年以上の間、アレキサンダー大王は彼が創設した偉大な大都市アレクサンドリアに造られた偉大な墓に保管され人々に公開されていたという。しかし西暦4世紀の終わりに始まった一連の宗教変革がエジプトを鳴動させた。最初にキリスト教、その後にイスラム教が影響を与えることになった。アレキサンダーへの信仰は、地下に押しやられ、彼の偉大な墓は忘れ去られ、破壊されることになった。とすれば、失われた彼の遺体はどうなったのだろう?
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サウンダー「一つの可能性として、彼の遺体は、グレコローマン(ギリシャ・ローマ)式の密かな信仰となって西ローマ帝国の流れを汲む限られた人々の間で守られていたという考えがある」
多くの学者たちはアレキサンダーの墓は空にされ、遺体は安全な場所に移されたと信じるようになっている。ザヒ・ハワス博士はその痕跡を追って、アレクサンドリアから320Km離れたバハリヤという名のオアシスを訪れた。
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1996年、ここで彼の調査隊のメンバーの一人が引き連れていた驢馬が、地中に埋まっていた、エジプト考古学の中でも最も驚くべき発見物の一つに躓(つまず)いた。
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直ちに発掘を進めてみると、辺り一帯が埋葬地だったことが判明した。墓のいくつかは豪華で、今では“黄金のミイラの谷”と言う名で知られている。
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エジプト人には馴染(なじ)みが薄いオアシスで、エジプトの伝統とは異なる埋葬が行われていたようだ。何かに引き付けられ、大勢の人が埋葬される場所になっていた。
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ザヒ・ハワス「ローマ人がいる。ギリシャ人もいる。ベドウィン(砂漠の遊牧民)もいる。エジプト人もいる。みんな丁寧に埋葬されている。この黄金の墓地に、みんな一緒に眠っているんだ」
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サウンダー「何千人もの異教徒の遺体を隠すには極めて適当な場所だと言えるだろう」
人里から遠く離れた砂漠の中に眠っているのはどんな人々だったのだろう?その答えは、この寺院の中にあるのかも知れない。
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この一帯で最も古い建物で、外観はとても慎(つつ)ましやかだが、内壁には古代の偉大な戦士が描かれている。神でファラオでもあると主張していたアレキサンダーだ!
ザヒ・ハワス「この人物がアレキサンダー大王だ。立った状態で、手には捧げ物のようなものを持っている。彼の前にはアムン神が立っている」
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アレキサンダーはアムン神が自分の父だと主張していた。寺院は大墓地necropolisの中心にある。エジプトの都市からは遠く離れたこの地で、アレキサンダーを神とする異教が護られていたのだ!
ザヒ・ハワス「黄金のミイラの谷がある場所が重要だ。それは寺院のすぐ前に広がっている。ここを訪れた人は、寺院に参拝し、捧げ物をした。建物のそばには、捧げ物が入っていた土器の残骸の山が残っている。この場所の様子から、アレキサンダーを敬う異教が長い間続いていたことが判る」
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ここバハリヤが17世紀の終わり頃まで祈りをささげる所だったことを示す証拠はある。今から4百年前も、人々はここでアレキサンダーを神として敬っていた可能性はあるのだろうか?
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サウンダー「エジプト人がキリスト教徒になった時、砂漠の中のバハリヤは無視されていた。そこで、アレキサンダーを神と慕う人々が、バハリヤの寺院に集まり、儀式を行っていたのではないだろうか。このことは、初期のギリシャ人キリスト教徒がアレキサンダー大王と不可思議な関係を持っていたことを暗示している」
我々は、まだ発掘されていない多くのミイラがバハリヤの砂の下で眠っていることを知っている。その数は恐らく数千を超えるだろう。アレキサンダーの遺体も埋葬されていると考えることも可能だろう。
ザヒ・ハワス「現時点で明らかなことは、ここに埋葬されている人々はアレキサンダーの近くで眠りたいと思っていたということだ」
アレキサンダーの墓は見つからないかも知れない。しかし、明らかになったことは、彼の埋葬地は一つではなかったということだ。それは、多くの肩書を持ち、多くの業績を成し遂げ、絶大な力を持っていた偉大な男に相応しいことかも知れない。
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我々は彼が最初にメンフィスに埋葬されたことを知っている。恐らくサッカラのネクロポリスだ。その後、彼は北のアレクサンドリアに造られた墓に移されたことは明らかだ。彼が眠っていたのは古代都市の中心地だった。そして、偉大な帝国が崩壊した後も、彼に対する信仰は生き残っていて、遺体は崇拝の対象として密かに守られていた可能性はある。彼の遺体が見つかるまで、人々はそれを探し続けるだろう。
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ビアンキ「歴史を変えた男を探し出せたとしたら、こんなに素晴らしいことはないだろう。彼が世界で行ったことは、見事という言葉では表すことが出来ない」
恐らく墓探しTomb Hunterたちは、その栄光を掴(つか)む寸前まできているのだろう。墓が見つかるまで、彼らの探索は休むことなく続けられるに違いない。死から23世紀たった今も、アレキサンダー大王は抗しがたい力を及ぼし続けている。
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サウンダー「彼は、人間の魂の、何か特別なものを代表している。それは例えば時代を超えた欲望であり、永遠の命かも知れない。それが我々を惹きつけ、彼を探し続けさせているのだ」
National Geographic Egypt Unwrapped 5of8 Alexander the Greats Lost Tomb
https://www.youtube.com/watch?v=hnznjmITg7w
・・・・・・・・・・・・
“黄金のミイラの谷”と呼ばれるネクロポリス(埋葬地)にアレキサンダーの遺体は移されていたのでしょうか?
バハリヤ・オアシスは地中海岸の町アレクサンドリアの南300Km,ナイルからは200Kmの砂漠の中のオアシスです。
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駱駝で旅をすれば、時速8Kmx10時間/日として、ナイルまたはアレクサンドリアから3~4日の旅でしょうか。ミイラ化された遺体を黄金の棺に入れて、運べない距離ではなさそうです。とりあえず、そこまで行けば、水は入手できますから生命の危険も低いでしょう。
で~バハリヤにあるアレキサンダー寺院の現在の様子ですが・・・
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確かに、控えめで、ここがアレキサンダー神を祀る総本山だったとは考え辛いですねぇ。手前には祈祷師たちが暮らしていたかもしれない部屋がいくつか見受けられますから、ギリシャ人やローマ人が、サハラの奥深くまで遺体を移動して埋葬していたとすれば、総本山の寺院といえども、こんなものだったのかも知れません。見つかった黄金のミイラを見ると、高貴な、裕福なギリシャ人が埋葬されていたのは恐らく間違いないでしょう。

しかし・・・だからと言って、アレキサンダーの遺体がバハリヤに在る、または在った、とは言えないでしょう。Wikiには、639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによってエジプトは征服されたとあります。この時、アレクサンドリアの墓にあったアレキサンダーの遺体はイスラム教徒によって廃棄された可能性が高いと思いますね。
それにしても、ムハンマドが死んだのは西暦632年ですから、イスラム教はあっと言う間に拡散したんですねぇ。そして、そこに根付いていた宗教を破壊していったと考えると、トランプ大統領でなくても、否定的な立場になる気持ちは判ります。しかし、キリスト教徒もアメリカ大陸でインディアンやアステカ人、インカ人を殺戮していますから、アレクサンドリアの墓にあったミイラを破壊したのは、キリスト教徒かも知れません。

しかし、神さまって恐ろしいなあと思います。mhは無神論者ですが、キリスト教であれ、イスラム教であれ、文句を言うつもりはありません。しかし、それを押し付けられるのは御免被ります。やっぱ、神を信じるのは、程ほどであるべきでしょう。
(完)

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mh徒然草:老後を楽しく暮らすには


(7月1日作成)
ブログ“mh徒然草”に載せる音楽を探していたら、ディズニーの漫画映画“Up”の画面とともにWestlifeが歌う“My Love”がありました。mhも3年ほど前、Youtube英語版で“Up”を観賞させて頂きました。
物語の粗筋は、幼馴染で冒険好きのカールCarlとエリーEllieの二人は結婚して愛情あふれる生活を送るが、老いて最愛のエリーが亡くなると、一人寂しく暮らしていたカールは決断し、風船で吊り上げられた家に乗ってラッセルRussellという名の少年と南アメリカのパラダイス滝(エンジェル滝)に飛び、幼い時にエリーと追い求めていた冒険談に登場する男に出会うと、波乱に富んだ体験をするっていうものです。

このブログの末尾に歌と映画のURLを載せておきます。映画は、音声や映像に問題があるものばかりなので、いくつかURLを載せておきました。ご関心がありましたらお試しください。

で~
本題に戻って~
老後を楽しく暮らすには、ってことですが~

映画“Up”でもそうですが、夫婦で楽しく暮らせればそれは一つの幸せの在り方だと思います。しかし、必ずどちらかが先立つんですね。先立った方は、それで終わるからいいんですが、残る方は、一人で残りの人生を楽しむ方法を見つけておかなければなりません。

子供がいれば、老後も一人ってことはないのかも知れませんが・・・Upのカールとエリーの間に出来た子は生きて生まれることはなかったんで、エリーは落ち込みました。が~カールが慰め、気を取り直して二人で楽しく暮らしていたのです。で~子供は子供の生活があるわけですから、やっぱ、老後は長生きした方が一人で暮らすと思っていた方がよいでしょう。

てことは・・・
老後でも一人で楽しめることを見つけておくのが老後を楽しく暮らす要点ってことになりますが・・・
世の中はそんなに単純じゃあありません!

歳を取ると、気が短くなり、自分勝手になり、忘れっぽくなって、夫婦で暮らしていても、諍(いさか)いとか、口喧嘩(くちげんか)が多くなり、映画“Up”のカールとエリーのように、仲睦まじく暮らす夫婦は少ないですね。これは残念ながら間違いないと思います。幸い仲睦まじく暮らせても、どちらかが先立ち、片方が残されます。

女房と一緒にいる時はじっと耐え凌ぎ、女房が死んだら一人で楽しもう、ってな考えでいても、女房の方が先立つとは限りません。従って、老後を楽しく暮らす方法となると、夫婦が楽しく暮らす方法、及び、一人残されても楽しく暮らす方法、の2つを考えておかなきゃあいけないことになります。

で~まずは、夫婦が楽しく暮らす方法ですが~
重要な事がいろいろありますが、物覚えが悪いmhは、一点主義です。自分の考えを捨てて相手に合わせる。これが最善だと断言できます。それ以外は、結局、最後は口論になっちゃうんですね。

世の中の人間を、自分の考えを主張し相手を従わせる人間と、自分の考えは主張せずに相手に従う人間の2つに分けて考えてみましょう。勿論、その他のケースとして、自分の考えを主張しても相手に従う人間、自分の考えは主張せずに相手を従わせる人間、もありますが、このタイプの人間は、今回の検討対象から外しても結論は変わらないので省略します。

で、自分の考えを主張して相手を従わせる人間は、もし連れ合いがいつも従ってくれなら問題ありませんが、そうじゃあない場合も必ず発生し、その時は言い争いになるんですね。しかし、従う人間なら、絶対に問題は起きません。意見が違ったら、相手に従えば済むんですから。つまり、はた目からは頼りなくても、従う人間になった方が幸せになれるってことです。

次に、一人でも老後を楽しく暮らす方法ですが~
健康は重要です。しかし、いつかは病気になるでしょうから、その時でも幸せに暮らせる方法が必要になります。で、はたと行き詰ってしまいました。実は別の答えを準備していたんですが、それより優れた方法に、今、気付いたんで、はたと行き詰ったってわけです。
その優れた方法とは何か、って言いますと・・・“今は楽しいなぁ!”って思うことですね。病気の時だって、今は楽しいなぁって思えばいいんです。生きていることだけで楽しいって思えれば、それが究極の答えだと言えるでしょう。で、これはお釈迦様の教えそのものじゃあないかって気がするんです。恰好よく言えば、“あらゆる欲を捨てる”ってことですね。

しかし・・・“言うは易く行うは難し!”
で~欲は捨てるよう努めるとしても、捨てられない時はどうしたら良いのか?

この場合の対応策は、ケースバイケースで、事態によって異なるんですね。で、どんな事態にも役立つことはっていいますと・・・
事態に応じて最善の策を考える力、つまり頭脳、を鍛えておくことだと思います。

老後を楽しく暮らす要点を纏めるとこうです。
1)他人の言う事に従う。
2)欲は捨てる。
3)頭脳を鍛える。
この3つのうちの一つでも習得したら、あなたは人生の達人として、健(すこ)やかな時も病める時も、一人の時も複数の時も、楽しい老後を過ごせるでしょう。

Westlife - My Love (With Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=WHyzxVlOI98&index=31&list=RDlX0ws6y7p5g
Up(Adventures with Carl and Russell)
映像・音声が綺麗な部分のみ2件
https://www.youtube.com/watch?v=wTDP-A--BhE
https://www.youtube.com/watch?v=9yjAFMNkCDo
映画全体3件
https://www.youtube.com/watch?v=5EaNDOEIpxw
https://www.youtube.com/watch?v=u3uSIl1-v8E
https://www.youtube.com/watch?v=iOz7xU0CyC0
(完)

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