Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ウズベキスタンとロシアの不思議

ウズベキスタンとロシアの不思議  2014年6月28日 Mystery Hunter

ウズベキスタンのツアー旅行を無事に終え、20日帰国しました。現地では私を含め、ツアーメンバーの半分程の人が食当たりを体験しましたが、後日報告するように、「青の世界」の感動は全員が等しく体験してきました。

同行して頂いたメンバー、添乗員、現地ガイドは、とても素敵な、面白い人物ばかりで、旅の楽しさが倍増しました!こちらについても、ウズベキスタンで出会った不思議な人々(仮題)として報告させて頂く予定です。
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 (サマルカンド:レギスタン広場。観光客が誰も写っていない理由は後日ご披露します!)

現地での最終日、首都サマルカンドで国立歴史博物館を見学しました。
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                (入口:展示フロアーは2階と3階でした。)

紀元前に日干しレンガの城が造られ、青銅器も使われていて、日本より早い時代から文明があったというのは、ウズベキスタンが古代文明発祥地のメソポタミアに近いことを考えると当たり前か、と気付きましたが、日本を発つまでは、経済の発展が日本から遅れているように、文化の歴史も日本より浅いだろう、と高をくくっていたのです。
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                  (紀元前にあった城壁の復元図)
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(アヤズ・カラ:赤い(?)城の意。6,7世紀のもの。キジルクム砂漠の中にポツンと聳えていました。遥かパミール高原に端を発したアムダリア(川)が遠方に見えるような見えないような!)

南側、アフガニスタンとの国境近くでは1~3世紀に造られたストゥーパ(仏舎利塔)が見つかり、中からガンダーラ美術の影響を受け継いだ綺麗な仏像が出てきました!
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(発掘された本物です。貴重な国宝に違いありません!!!)

ウズベキスタンは1800年代に帝政ロシアに征服され、以降は1991年のソ連崩壊を機にウズベキスタン共和国として独立するまで、ソ連の統治下にありました。その頃を紹介する展示スペースにはセピア色の新聞記事や写真(下段に掲載)が掲示されていました。

話が変わるのですが、サマルカンドの南にある世界遺産の町シャフリサブスを訪れました。バスで片道約2時間、英雄ティムールの夏の宮殿があった場所です。
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       (博物館の壁一面に描かれた馬に乗るティムールと当時の人々)

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建設当時は高さ70mにもなるアーチが付いていたのですが、ティムール王朝(帝国)を滅ぼした王が王朝の始祖である英雄ティムールの偉業を辱めるために破壊したとのこと。

昼食後、サマルカンドへの帰り道でトイレ休憩しました。下左の写真で、子供達の後ろの丘に登る階段の途中に3人写っている隣がトイレです、私は青空トイレで済ませましたが。
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そうそう、ウズベキスタンでは、上左の写真の左側の子や、上右の写真のサマルカンド近くのオアシスにある紙工房で見た子のように、髪の毛を短く切った女の子が多いのです!大人になると長く美しい髪になれる!と言う理由のようですが、医学的に正しいのでしょうか?散髪代が安いというのが理由かと思うのですが・・・

で、話を戻すと、トイレに続く階段を登り切ると、木陰でお茶やナンをサービスしてくれる質素なお店があり、隣の工房で造った絨毯やマットなどの素朴な織物が売られていました。

一休みしていると、髭のおじさんがやって来て、頼まれもしないのに、賞状と勲章をテーブルに広げて説明を始めました。
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現地人ガイド(詳細は後日ブログで紹介します)の通訳によれば、国営農場や工場で働く労働者を確保するため、子供をたくさん産んでくれる人に連邦が勲章や賞状を出していて、名誉にも自分がもらうことになった、とのこと。
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勲章は3人目、5人目、7人目、10人目は金の勲章(左側の青いケース入り)で、結局11人の子供を造ったようです。今、おじさんは70歳で奥さんは68歳。一緒にいた女性ツアーメンバーから「表彰状はおじいちゃんでなく、おばあちゃんにあげないといけないでしょ!」と文句が飛びました。おじさんは笑っていました、勿論、意味は通じていません。

賞状の左下側には1987年10月29日とあり、ソ連邦の国璽が押されています。
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中央の地球儀図を取り囲む麦の穂を束ねるように何重にも巻かれたリボンには、ソ連邦に組み込まれていた国々の名が記されています。こんなにきれいなソ連邦国璽を見たのは初めて!と若いガイドは感激していました。

当時、車は、購入希望者数に対して供給数が少なく入手困難でしたが、表彰を受けた人は優先的に扱ってもらえたとのこと。でも91年のソ連崩壊で、その恩恵に与れなかったようです。

おじさんが説明している脇の方で、一生懸命、織物をしている女の子がいました。
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髪の毛が風で顔にかかってしまっていますが、かわいい子でしょ!
隣の女の子も、負けずにかわいいですが・・・・・・・・・・・・

さて、話を歴史博物館のソ連統治下の展示資料に戻すと、当時はウズベキスタン人にとってかなり悲惨だったようです。写真や新聞記事には、コルフォーズ・ソフォーズで運河や耕作地の開拓に駆り出されて働く人、広い畑で綿花を摘み取る人など、働く人々の姿が映し出されていました。収穫した綿花はソ連に持ち出され、統治に反論する人はシベリアの刑務所に送られたり殺されたりしていたようで、人々の苦しみは写真にも滲んでいるように感じられました。
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バスの中で、ガイドが伝統楽器による民族音楽などを紹介してくれました。多くはモスクでの礼拝時のBGMかと思われる代物でしたが、中に「百万本の薔薇」という曲がありました。昔、聞いたことがあるような旋律です。

ホテルに戻り、今回の旅のため購入し持参したパソコンをネットに繋ぐと見つかりました!

1983年頃のロシア曲のようです。ウズベキスタンでも大流行しました。
まずは下のURLでお聞きください、映像を見ながら。
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https://www.youtube.com/watch?v=zDjotWBFi4Y

ロシア語ですが、ソ連統治下で多くのウズベキスタン人はロシア語を学び(学ばされた?)この歌詞を理解していました。ガイドの話では、独立し20年以上たった今も、ロシア語を話せる人が30%以上いるだろうとのこと。ロシア語を第一言語にしている人も14%もいる(Wiki)ようです。

とても好い曲なので、覚えてお風呂で歌うレパートリーに加えようと、口笛を吹いたり口ずさんだりして歩いていると、すれ違ったおばさん達から「あなた、その曲知っているの!!?」と何度か訊かれました、勿論、ウズベク語で訊かれるので意味はサッパリ判りません。しかし、おばさんの、驚いたような、うれしいような顔を見れば私だって直ぐ気づきます!

この曲は加藤登紀子が歌ったので知っている人も多いかも知れません。恐らく、ロシア語の歌詞を日本語に翻訳したのだと思います、ロシア語の歌で「百万(ミリオンмиллион)」という言葉が何度も出てきますから。
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https://www.youtube.com/watch?v=IOFJWp4TCgA

しかし、元はバルト三国の一つ、ラトビアの歌で、原曲の日本語版が見つかりました。
「マーラが与えた人生」です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IOFJWp4TCgA

歌詞の主題は次の通りです。
「マーラは娘に命を、尊い命を与えたけれど、たった一つ上げ忘れた、幸せを上げ忘れた。」

好い曲なのでロシアにも流行らせようと歌詞を見たら、ラトビアを支配しているロシア人には後ろめたいものだったので、「マーラが与えた人生」を「百万本の薔薇」にすり替えたに違いありません。

娘に幸せをあげることが出来なかった母親の辛さは、画家の恋になりましたが、メロディーに込められた悲しみの気持ちは隠しようが無かったので、百万本もの薔薇をテーマに組み入れて美しく仕上げたものの、失恋の歌にせざるを得なかったのだと思います。

ロシア語の「百万本の薔薇」はソ連統治下のウズベキスタンでも流行りました。

好い曲ですが、哀愁に満ちたこの曲が、ソ連邦に組み込まれた小国の間に広まったのは、考えてみると当然と言えます。この曲を聞くのを忌み嫌った人がいたとすれば、スターリンやレーニンなど、ソ連邦の指導者や側近だったに違いありません。

ゴルバチョフ大統領の決断で進められたペレストロイカ(再建)やグラスノスチ(情報公開)による民主化の流れは、とうとう1991年のソ連邦の解体を引き出すことになりました。その結果、ウスべク・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、カザフ・ソビエト社会主義共和国など、不本意にもソ連邦に組み込まれていた弱国が一挙に独立することになり、ウズベキスタン共和国、ラトビア共和国、カザフスタン共和国、などが生まれたのです。
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(Wiki)ミハイル・ゴルバチョフ
1931年生。1990年ノーベル平和賞受賞。1991年大統領から失脚、エリツィンが引き継いだ。1999年、最愛の妻ライサを白血病で失い悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。西側諸国からは絶大な支持を得たが、ロシア国内では「“偉大で強い”古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。(Wiki完)

皇室が権力を継承するアラブ諸国や、共産党が国家運営を独占し続ける中国、金一族が国家を私物化し続ける北朝鮮、宗教指導者が政治を操るイスラム諸国、などなど、詰まる所は自分や一族、その仲間など、一部の人達が国政を握り続けている国では、いつの日か国民の不満が爆発し、国は混乱し、多くの人が悲惨な結末をたどることは歴史が証明済みです。そんな事態に到る前に、多くの人の支持が得られる体制に変える決断が指導者には求められています。

(補足)「嘆きの母」像
タシケントの独立広場に「嘆きの母」の像があります。1999年に造られました。似た像はサマルカンドなど他の多くの都市にもあります。
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第二次世界大戦にソ連邦兵士として駆り出され、生きて戻ることが無かった息子を忍んで悲しみにくれているのです。

ウズベキスタンは若者の派兵に加えて650百万ルーブルのお金、53kgの金銀、2百万足の軍靴、防寒着などの供出や、ソ連邦からの数万人の避難民受け入れを強いられたようです。

毎年、戦勝記念日の5月9日(ドイツ降伏の翌日)には多くの人が独立広場に集まり、帰らなかった兵士達の冥福を祈るとのことです。

以上でウズベキスタンとロシアの不思議は終ります。
次回7月3日もウズベキスタン旅行に関する報告をさせて頂く予定です。おたのしみに。

(ウズベキスタンとロシアの不思議:完)

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並木道の不思議

世界の並木道の不思議     2014年6月23日 Mystery Hunter

お風呂に入ると、湯船につかり一曲歌います。吉田拓郎の「旅の宿」を4番まで2回か、「アメイジング・グレイス」を2番まで2回か、「蘇州夜曲」を3番まで2回。2回というのは湯船につかっている時間を計るためで、2回繰り返すと凡そ5分です。

その後で体と髪を洗い、また湯船につかったら1番だけ歌って、お風呂を出ると「合計10分」、というのが私流のお風呂の入り方。
こんな私ですから、海外旅行中は湯船につかることはなく、いつもシャワーで済ませます。

つい先日まで「アメイジング・グレイス」で押し通していたのですが、なんの拍子か、突然「鈴懸(すずかけ)の径(みち)」が口をついて出てきたのです!で、この処、毎日、「鈴懸の径」を2コーラス、間には口笛の間奏をいれて歌いながら湯船につかっています。

 友と語らん、鈴懸の径、通いなれたる学び舎の街、
 やさしの小鈴、葉影に鳴れば、夢は還るよ鈴懸の径

 (歌詞は上記が全てで2番はありません。)

ネットで調べると歌手だった灰田勝彦兄弟が通った立教大学の鈴懸並木を謳った曲で、戦時中に流行したようです。当時、人々は、どんな思いでこの曲を聞いたのでしょうか。

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曲も詞もレトロスペクティヴ(retrospective)ですが名曲です!特に私や年配の方にとっては。
次のURLで是非お試しください。歌詞付きですので一緒にどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=yXnH4xA3Yio

鈴懸というと、実は私がいつも使うバス停の名が「すずかけ通」です!
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(写真:バススタンドと鈴懸の木、葉)
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そして、「すずかけ通」から5分も歩けば「ゆりのき通」というバス停が!
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(写真:バススタンドと“ゆりのき”の木と葉)
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また、この2つのバス停の間を縦断する道路には銀杏並木もあります。
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つまり、私の団地の一帯に「鈴懸」「ゆりのき」「銀杏」の3つの並木道があるのです。

何のために並木道が造られたのだろうか?
不思議だなぁ・・・と思いました。


これが今回の不思議な質問です!
埒もない質問ですが、掘り下げてみると何か意味があるのかも!と思って調査開始。

鈴懸の並木道でまず思い浮かんだのは上海の街並木です。
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ここ3年ほど行っていないのですが、枝を道の上にまで広げた鈴懸の木が印象的な街です。
鈴懸の別名はプラタナスです。ハイカラな名前ですねぇ。

導入されたのは1902年でフランスの租界が整備される時だったようです。「フランス(法国)」から導入した「桐に似た木」から上海では「法桐」と呼ばれていますが、正式な中国語では「梧桐」です。

また、鈴懸、楡、菩提樹、マロニエは世界の四大街路樹と言われているようです。
(何故、三大街路樹とか、五大街路樹とならないのでしょうかねぇ?不思議です!)

菩提樹と聞くと、仏陀の足跡をたどりながらインドを車で旅した時、田舎道の街路樹の中に見つけたことを思い出します。その時は「仏陀の木」との思いで見ていたのですが、街路樹としても有名だったとは知りませんでした。
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日本で並木道として有名なものと言えば・・・
鈴懸並木、銀杏並木、桜並木、杉並木、アカシヤ並木、白樺並木、ポプラ並木、と言ったところでしょうか。

桜並木なら、大阪城近くを流れる大川沿いの並木が日本一の規模では?と思います。
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私が歩いた川岸に4列、対岸に2列の桜が、恐らく1km以上続いていたでしょう。桜並木の通り抜けで有名な大阪造幣局もありました、私が訪れた時は入門できませんでしたが。

杉並木といえば日光でしょうか?
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Wiki
日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢-日光間16.52キロメートル、小倉-今市間13.17キロメートル、大桑-今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道である。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。

徳川家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことが始まり。
(Wiki完)

銀杏並木というと明治神宮外苑の並木道が有名です。
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ポプラ並木というと北大の校内の並木道でしょうか。
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300m足らずの並木道で、2004年の台風で半数近くが倒壊し、何本かはクレーンなどで立て直したものの今では銀杏並木の方が有名だとのネット情報もありました。

白樺並木で検索すると帯広が見つかりました。畑の中の全長1.3kmの直線道路です。
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アカシア並木というと札幌市街の通りが有名なようですが、きれいに撮れた並木道の写真は残念ながら見つかりませんでしたので花の様子を撮った写真を載せましょう。
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正確には「ニセアカシア」という、興醒めの名の木のようです。本物のアカシアは南方の木で日本ではめったに見かけないとのこと。西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」では、作詞家は札幌の並木をイメージしたのかもしれませんが、ニセアカシアではどうもねぇ。

マロニエの並木道は地方都市にはあるようですが、いずれも規模が小さいようです。
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花と葉は、栃の木と似ているようです。

「マロニエの並木道」というレトロの歌があって松島詩子という歌手が歌っています。
https://www.youtube.com/watch?v=7gRHyI2_J-0
歌詞では銀座の裏道に「マロニエの並木道」があるのですが、実際は無かったようです。

マロニエの並木で有名なのはパリ・シャンゼリゼ通りらしいです!
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これなら有名だと言われるのも頷けます。

以下に海外の並木道の写真を挙げます。
中国のポプラ並木の風景です。
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中国の銀杏並木
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中国の並木道ですが、何という種類の木か不明です。
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中国のプラタナス並木。さすが大陸の大国家、大木が延々と並んでいます!
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並木道は英語ではAvenue(アベニュー)となっています。

「アベニュー」というのは「大きな家や建物に繋がっている道」の意で、いわばウェルカム・ロード(歓迎道路)として樹木が直線的に植えられたものらしいです。

でもニューヨークの5th Avenue(五番街)には街路樹は無かったと思ったけど・・・と思ってGoogle Earthで確認すると、並木もあるようですね。
          (下:五番街からエンパイアステートビルディングを望む。)
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しかし次の写真の、エンパイアステートビルディング(青信号の奥)がある交差点辺りでは街路樹は見えるような、見えないような・・・・・・
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大都会の、道幅が狭くて車の通行が多い通りに大きな街路樹があるといろいろ問題が多いのでしょうね、ポツンポツンと低木があるだけで並木道と呼べる代物ではありません!

「人生の並木道」という歌があります。やっぱりレトロの歌ですが。

<人生の並木路(みち)>
作詞:佐藤惣之助  作曲:古賀政男  歌手:ディック・ミネ
  泣くな妹よ妹よ泣くな、泣けば幼い二人して、故郷を捨てた甲斐がない
  遠い淋しい日暮れの道で、泣いて叱った兄さんの、涙の声を忘れたか
  雪も降れ降れ夜路の果ても、やがて輝くあけぼのに我が世の春はきっと来る
  生きて行こうよ希望に燃えて、愛の口笛高らかに、この人生の並木路
https://www.youtube.com/watch?v=ILnGJ2XVAo0
この詞の中では、並木路(道)は「晴れ舞台に繋がる道」をイメージしているようです。

Avenue(アベニュー)は確かに「宮殿やモニュメントに繋がる道」が元の意味なのでしょう。
スフィンクスからピラミッドに続く道もアベニューです。街路樹は少なくとも今はありません。
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       (正面のカフラー王のピラミッドに続くアベニュー。)

ロンドン・バッキンガム宮殿に続く並木道です。木の名前は不明。
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で、不思議な質問に戻ると

何のために並木の道は造られたのか?

アベニューの語源が示すように
「モニュメントとか宮殿とか大きな広場などの晴れの舞台に繋がる道を際立たせる」
ことだったのかも知れません。

でも
「道をたどる人に緑陰を、癒しを与える」
ことも目的だったはずだと思います。

仏陀の道を辿った旅では、見渡す限りの畑や平原が多かったことを思い出します。
また、中国では、ゴビ砂漠の中を、地平線上の、道が吸い込まれるように消えてゆく「点」を目指してバスで走り続けました。

仏陀は菩提樹の木陰で休憩しながら道を説いたことでしょう。

砂漠を行くキャラバンは遠くにポプラ並木を見て思ったはずです。
 「もう直ぐだぞ!癒しの木陰は!オアシスは!人が住む街は!」

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       (上:NHK Silk Roadクチャ(庫車)にて)

(並木道の不思議:完)
次回6月28日はウズベキスタン旅行の報告を予定しています。お楽しみに。

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Googleの不思議


お知らせ:
このブログに張り付けておいた写真は手違いで消去してしまいました。
保管しておいたpdfから再生したブログはライブドアのブログに張り付けておきましたので
もしご関心がございましたら、つぎのURLでご確認下さい。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/preview/edit/5c0d32380fa0c75b3c42a8d3e2cfe34a
なおライブドアブログのホームページURLは下記です。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/

Googleの不思議    2014年6月18日  Mystery Hunter

今回も巻頭から漢詩です!

將進酒  「將に酒を進めんとす」:李白
  君不見黄河之水天上來 君見ずや 黄河の水天上より來り
  奔流到海不復回      奔流して海に到り復(ま)た回(かへ)らざるを
  君不見高堂明鏡悲白髮 君見ずや 高堂の明鏡白髮を悲しみ
  朝如青絲暮成雪      朝には青絲の如くも暮には雪と成るを
  人生得意須盡歡      人生 意を得なば須(すべか)らく歡を盡くすべし
  莫使金樽空對月      金樽をして空しく月に對せしむる莫かれ
  天生我材必有用      天の我が材を生ずるや必ず用有り
  千金散盡還復來      千金は散じ盡くすも還(ま)た復(ま)た來らん
  烹羊宰牛且爲樂      羊を烹(に)牛を宰して且らく樂しみを爲さん
  會須一飲三百杯      會(かな)らず須らく一飲三百杯なるべし

(mh)
黄河の水は天から流れ下って海に到り、戻ることはない。
高堂の高貴な人も鏡を見ては白髪になったことを悲しむ。
朝には青い絹のようなつややかな髪も夕には雪のように白くなるのだ。
だから、何か好いことがあったらその時こそ楽しめ!
美酒をいたずらに月にさらしておくだけでは駄目だ!
生まれてきたからには必ずや世に役立てる時が来る。
大金は、使い尽くしたとしても、また巡ってくるものだ。
羊や牛の肉を肴にして心ゆくまで飲め!
その時は誰でも必ず300杯飲まないといけない!

私の女房殿に李白さんから上記の通り直接申し伝えてほしいものです。
この瞬間、私はウズベキスタンで、敬愛する李白さんの提言を忠実に実行しているはずです!!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<Googleの不思議>

少し古くなりますが、5月16日、金曜日の朝のことです。好い天気で、いつものように日課の散歩を終え、9時を少し過ぎた頃でしょうか、愛用のDynabookを立ち上げてネットにアクセスしました。すると次のようなページが開いたのです!
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何か面白い絵が描かれているなぁ、と時々気付いてはいたのですが、その日の絵には、ファイル番号に相当する欄にコメントがありました。ポインターの位置によって現れたり消えたりするコメントです。上の図の右上です。

          「マリア ガエターナ アニェージ生誕296周年」

次のルーチン、つまり家の中の電気掃除機かけ作業、まで1時間以上あったので、この女性は何者か?と、いつものようにWikipediaで調べてみました。
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Wiki日本語版の情報は少なかったので英語版に進んでゆくと次のことが判りました。

Wiki要約(mh)
マリア・ガエターナ・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi)
1718年5月16日―1899年1月9日、イタリアの女性数学者、哲学者。綺麗な人だったようです。富豪の家に生まれました。教育熱心な父親の影響を受けて勉強家で、語学と数学に秀でていました。30歳の時、著書「Instituzioni analitiche ad uso della gioventù italiana,」がミラノで発刊されました。スイス人数学者オイラーの数式を中心とする微積分に関する教本でしたが、女性の数学者が書いた本ということもあって有名になり、フランス語や英語にも翻訳されました。
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イタリア語タイトルをグーグル翻訳すると英語「Institutions analytical use of Italian youth」、日本語「イタリアの若者の教育機関の分析を使用する」(??)で、イタリアの若者向け数学教本とでも言い換えられるのでしょうか。

フランス人とイタリア人の数学者が取り扱った曲線についても論じていて、この曲線のニックネーム「versiera」が言葉遊びで化けて、彼女の名が付いた"Witch of Agnesi"「アニェージの魔女」と呼ばれるようになりました。
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おぉ!ちょっと見て下さい。アーネシ(アニェージ)の曲線は、本ブログのTopに掲載したGoogleの絵の中に紛れているではないですか!
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この曲線は、下に挙げるように、円と直線から出来る長方形の一つの角の点Pが、直線の向きの変化につれて描く軌跡です。
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              (1)                           (2)
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              (3)                           (4)
で、この曲線の意味するところですが・・・・
光やX線の分散スペクトルや、共振回路で散乱する力の量、の近似を表していることが20世紀末から21世紀にかけて判明した!とのことです!

が、何のことやら私にはさっぱり・・・・・・
もし関心がありましたら下記のURLで日本語Wiki、詳細はこの英語版、をご覧ください。
頁の中段部では動画も見れます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%81%AE%E6%9B%B2%E7%B7%9A

さて、話を5月16日生まれのマリアに戻すと、時の教皇ベネディクト14世に認められ、32歳でボローニャ大学の教授となります。30代の半ばから神学に関心を示すようになり、その後はホスピスや貧しい人のための施設を造るなど、40年以上に渡って社会奉仕に専念し続け、80歳の半ばで、修道女として他界しました。偉大な女性ですねぇ。

マリアは欧州の大学史で二番目の女性教授だったようです。
では最初の女性教授は?と調べたらラウラ・バッシLaura Bassiという人でした。
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Wiki
ラウラ・バッシ(Laura Bassi, 1711年10月31日 - 1778年2月20日)はイタリアの女性物理学者。ヨーロッパの大学で初めて教授となった女性である。

ボローニャで法律家の娘として生まれた。1731年にボローニャ大学の教授に任命された。1738年に結婚し12人の子供を生んだが、1776年に65歳で物理学の教授に復帰した。
・・・以上が日本語版Wikiのラウラ・バッシ全文です!少ないですね!

英語版ではもっと長い解説があり、次の肖像画も見つかります。こちらも美人ですねぇ。
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イタリア語のWikiを見ると更に次の肖像画も見つかりました!
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英語版によると彼女の名が付いた道路と高校がボローニャにあるとのことでGoogle-Earthで調べると見つかりました!
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ボローニャの「ラウラ・バッシ通り」です。郊外の住宅街のようです。

ラウラ・バッシ高校の場所は地図では特定できませんでしたが、交換留学生を募集している記事がGoogleでみつかりました!
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ボローニャ(Bologna)市の学校交流(School Exchange)の記事です!数校が交換留学生の募集投稿をしています!
こんな洒落たというか進んだことを普段からしているんですねぇ、欧州では!

で彼女の名の学校の記事は下記でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
The high school Laura Bassi in Bologna
ボローニャのラウラ・バッシ高校
is looking for an institute of Malta in order to achieve an exchange of 8 days on March/April 2014.
2014年3/4月の8日間、マルタの学校との交流を募集しています。
Desired Programme:
希望コース
frequency of some classes; visit of the host city; two trips lasting one day in places of historical, artistic and naturalistic interest.
クラスの頻度・ホスト都市訪問:歴史・芸術・自然などに溢れた場所を丸一日訪れる旅を2回。

Programme offered:
当地でのプログラム
activities of socialization in school and frequency of some classes, guided tour of Bologna, excursion to Venice (one day), excursion to Florence (one day), laboratory gourmet (preparation and tasting of tortellini), or visit to some museum in Bologna, final dinner.
学校での社会活動とクラス参加、ガイドによるボローニャ市内見学、ベニスへの遠足(日帰り)、フローレンスへの遠足(日帰り)、グルメ工場(トルテッリーニの試作と試食)、又はボローニャ博物館見学、お別れ晩餐会

Language: English
言語:英語
Students: 25
生徒数:25人
Age: 15/17
年齢:15歳~17歳
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、募集対象として選ばれているマルタを調べてみました。
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イタリア・シチリア島の海岸から南に約100kmの地中海上の島国です。

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面積316平方kmで日本で一番小さな香川県(1877平方km)の1/6。人口41万人で日本で一番少ない島根県(58万人)の7/10。
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       (上:マルタ共和国。写真の青い正方形の一辺の距離は約30km。)
英国連邦加盟国で、よって(?)国語は英語とマルタ語です。

歴史を見ると、3千年前、レバノンからフェニキア人が来て支配していましたが、その後、カルタゴ、ローマの支配を受け、870年にアラブ人、1172年にノルマン人、1479年にスペイン人、1530年にマルタ騎士団に支配され、さらに1790年代にエジプト遠征途上のナポレオン・ボナパルト軍によって占領され、ナポレオン失墜後はイギリスの支配下に入って今に至っている、という大変な歴史を体験した国です!
それはひとえに、地中海貿易の要所に位置しているためで、時の権力者達にとって重要拠点と見なされていたからに違いありません。
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首都バレッタは今でもまさに要塞港の様相を残していてマルタの歴史そのものです。

で、マルタ島には1917年6月11日に大破した駆逐艦「榊」の59人の戦死や傷病による戦死者の「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」があるとのこと。

何で?と思って「駆逐艦 榊(さかき)」を調べてみました。
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第一次世界大戦で連合国に組した日本は、地中海戦線に「榊」などの軍艦を派遣していたのです。
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「榊」はエーゲ海を運航中、クレタ島の北で機雷に触れ大破します。
以前、ブログで紹介したアンティキセラ島の近くです!!
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同行中の駆逐艦「松」が「榊」の死者を同盟国イギリスが管理するマルタに運び埋葬しました。

墓は首都バレッタの、入江を見下ろすKalkataの丘にあります。
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一辺150mの正方形の「海軍墓地」。入り口の裏側の壁に貼られた日本海軍銘板の上にはドイツ軍の銘板もあるので、国籍を問わずマルタ近海で亡くなった軍人を祀っているようです。
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死ねば、国籍は問わず丁重に祀る精神は当然とはいえ、称賛に値します。日本に外国の軍人墓地があると聞いたことがありません。戦争中に日本で死んだ外国の軍人がいるとは思えなかったのですが、考えてみれば沖縄や硫黄島も日本ですから、そこでは大勢の米国軍人が死んだはずです。損傷が大きく、米国に持ち帰ることができない遺体もあったでしょう。とすれば、米国軍人の墓があっても不思議ではないと思いますが・・・どうなんでしょうか。

ということで、これまで長々と紹介してきた情報は、すべてGoogleのdoodle(落書き)から端を発したものですが、最近のものを調べたら次の通りでした。
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山ほどありますので以下は省略します。
関心がありましたら次のURLでお楽しみください。
http://www.google.com/doodles/

Googleという言葉も調べてみたらLarry Pageと Sergey Brin という2人がカリフォルニアのスタンフォード大学の学生の時に始めた事業で、名前をGoogol(1の後に0が100個続く数字)とすべき所をミスでGoogleとしたのが由来とのこと。

こうして次から次へネット上を渡り歩くのをネットサーフィン(Internet surfing)といいますが、今ではサーフィンだけでもネットサーフィンを意味するようですね、英語では!!

で突然思い出したのが「風が吹くと桶屋が・・・」という諺。

Wiki:風が吹けば桶屋が儲かる(由来)
江戸時代の浮世草子『世間学者気質(かたぎ)』巻三(無跡散人著、明和5年、1768年)が初出である。ただしここでは、「桶」のかわりに「箱」であり、「風が吹けば箱屋が儲かる」などの成句の形では書かれていない。また、『東海道中膝栗毛』二編下(享和3年、1803年)に現れるのも有名で、ここでも「箱」になっている。

今日の大風で土ほこりが立ちて人の目の中へ入れば、世間にめくらが大ぶん出来る。そこで三味線がよふうれる。そうすると猫の皮がたんといるによって世界中の猫が大分へる。そふなれば鼠があばれ出すによって、おのづから箱の類をかぢりおる。爰(ここ)で箱屋をしたらば大分よかりそふなものじゃと思案は仕だしても、是(これ)も元手がなふては埒(らち)明(あか)ず— 無跡散人『世間学者気質』より、慣用句辞典より転記

つまり、
大風で土ぼこりが立つ
土ぼこりが目に入って、盲人が増える
盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
ネコが減ればネズミが増える
ネズミは桶をかじる
桶の需要が増え桶屋が儲かる

これを「英語では次のように言う」とありました。
It's an ill wind that blows nobody any good.
誰のためにもならない風は吹かない、との訳が添えられています。

直訳では、誰にも好い物を運んでこなければ悪い風と言える、となります。これで風が吹けば桶屋が・・・と同じ意味なんですかねぇ。だとしても日本の諺ほどの深みはないですね。

さて、次回6月23日は「並木道の不思議」(自動投稿)です。お楽しみに。
(Googleの不思議:完)

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青タイルの不思議

青タイルの不思議:ウズベキスタン      2014年6月13日 Mystery Hunter

まずは例によって漢詩を一つ。

勧酒(酒を勧む) 于武陵(うぶりょう) 
  勸君金屈卮  君に勧む金屈卮(きんくつし)
  滿酌不須辭  満酌 辞するを須(もち)いざれ
  花發多風雨  花(はな)発(ひら)いて風雨多し
  人生足別離  人(ひと)生きて 別離足(み)つ


君に勧めよう、この黄金に輝く杯で、なみなみと注がれた酒を、どうか辞退などしないで飲み干してくれたまえ。花が開く時期こそが風雨の多い時期でもある。人として生きる以上、別離は避けがたいものなのだ。
井伏鱒二の名和訳“ハナニアラシノタトエモアルゾ。「サヨナラ」ダケガ人生ダ。”の元になった漢詩です。
でも、漢詩の本意は、人生でも別れでもなく、題にあるように酒を勧めることでした!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では気分を入れ替えて「青タイルの不思議」です。

モスクの青のドームは、レンガで造られたドームの表面に、薄くて青いタイルを漆喰や粘土などで張り付けて造られています。
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またモスクの壁面や天井の装飾は、大抵の場合、青を含む彩色タイルが、これまたレンガに張り付けられていることがほとんどです。
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この、装飾や耐候性向上を目的とした彩色タイルには、大別するとモザイクタイルと絵付けタイルの2種類があります。
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どうです?モザイクタイルと絵付けタイルの違いに気づかれましたか?

まず絵付けタイルですが、製造工場の写真があります。
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長方形、または多分こちらの方が多いと思いますが正方形、の粘土を焼いて造った素焼きタイルの板を床に敷き並べ、いろいろな釉薬を使って絵を描きます(絵付け)。これを炉に入れて1000℃前後の高温で焼けば出来上がりです。

釉薬の成分は金属化合物です。
  鉄・・・赤、茶、黄、褐色、黒
  銅・・・緑、水色、赤
  クロム・・・緑、紫、ピンク、黒
  コバルト・・・青
  ニッケル・・・青、緑
  アンチモン・・・黄
  錫・・・白
  マンガン・・・紫、褐色、ピンク
コバルトを含む鉱石は、中央アジアでは比較的多く見つかります。これを粉にし、灰汁に溶かせば青の釉薬の出来上がりです。

次にモザイクタイルですが、モザイクとは何かを確認しておきましょう。
Wiki:
モザイク(英語:mosaic)は、小片を寄せあわせ埋め込んで、絵(図像)や模様を表す装飾美術の手法。石、陶磁器(タイル)、有色無色のガラス、貝殻、木などが使用され、建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾のために施される。この装飾方法は古くから世界的に見られ、宗教画や幾何学模様など様々なものが描かれており、歴史上、カテドラルの内部空間やモスクの外壁などの装飾手法として特に有名である.
(Wiki完)

ウズベキスタン・サマルカンドにあるモスクの、劣化が進んだモザイク壁面です。
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花の形をした白タイル、花芯の丸い形の青タイル、花の周りに配置される花びらの形をした青タイル、花びらと花びらの間を走る筋のような形をした青タイルなど、何種類かの形状と色をした小片が漆喰などでレンガの壁に貼り付けられて模様を形成していましたが、漆喰の劣化で、小片が取れて下地が見える部分が見受けられます。

モザイクタイルの壁では、同じパターンが繰り返す幾何学模様が圧倒的に多くなっています。少ない種類の小片タイルを沢山造っておけば広い壁面に同じパターンを繰り返して広い面積に模様を展開できるからです。一つのパターンで使われる小片の種類は、普通は10種程度でしょうか。

2つのタイルの特徴は次の通りでしょう。
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<絵付けタイル>
複雑なカラフルな文様の壁画でも容易に造ることが出来ます。
例えば正方形のタイルを敷き並べ、いろいろな色の釉薬で絵を描いて炉で焼けばタイルは完成です。あとは壁に順序通り張り付けていけば壁画の出来上がりです。

<モザイクタイル>
いろいろな形の土の板を素焼きして小片タイルを沢山造り、小片の種類毎にその小片固有の色の釉薬を塗り、炉で焼き上げます。出来上がった、形や色が異なる彩色小片タイルを、図柄に合わせ漆喰で壁に張り付けます。
絵付けタイルと比べると、彩色小片タイルの製作に何倍もの手間がかかります。また壁に貼り付ける作業も、大きな正方形タイルを張り付ける絵付けタイルの場合と比べ、何倍もの時間が必要です。

印度・タージ・マハルの修復を紹介した「BBC地球伝説」では、ドームのタイル修理だけではなく、大理石の壁画の修復作業も紹介されていました。
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必要な小片を準備しておきます。大理石だと思いますが、彩色タイルの小片や貝殻などもあるかもしれません。

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小片を埋め込む部分の窪みを台座の大理石に掘り込みます。

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小片を嵌め込んでみます。しっくりしないようです。

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窪みの形や深さを修正します。

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今度はピッタリ嵌りこみました!

タージ・マハルの壁面模様は大理石ですが、小片を組み合わせて図柄を造る点でモザイクタイルの壁面の造り方と同じです。

各小片の色は単色で、表面に塗布される釉薬の膜厚は薄く平坦に仕上がるので、均質な単色の彩色小片タイルが仕上がります。従って、これらの小片を組み合わせた幾何学模様はスッキリしているというか、評論家ではないので適切な言葉が思い浮かばないのですが、メリハリが効いた絵になるのです。

一方、絵付けタイルでは、一般的に絵筆を使い、異なる色の釉薬をタイルに塗って絵を描くため、筆圧のバラツキで釉薬の厚さが変化したり、色と色の境目で異なる釉薬が混じり合って変色したり、筆で塗られた釉薬とそうでない領域との境目で表面に段差が出来たりするため、特に色が切り替わる境目が汚く、かつ、絵付け後に焼き上げたタイル表面の釉薬が平坦ではないので、光の反射にムラが出来て、仕上がった模様や絵は均質感に欠け、粗雑な印象になります。

これを改善すべく製造方法も進歩してきたようで、新しい絵付けタイルの壁画にはモザイクタイルの壁画と遜色ないものもあるようです。
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恐らく、均質なモノトーンのタイルを焼き上げ、その上に釉薬1種類で絵を描き、焼き上げ、また別の釉薬で絵を描き、また焼き上げ、という、一色毎の炉入れ工法が採用されているのではないかと推察します。

次回6月18日は「Googleの不思議」(自動投稿)です。お楽しみに。

(完)
P.S.校了したのはウズベキスタン出発前の5月28日です!新情報が見つかりましたら旅行後、報告いたします。

既にいろいろな情報をゲットしたので、ウズベキスタンに行く必要もなくなったのでは?と心配する向きもあるかもしれませんが、そんな上っ面だけで本当の良さは味わえるものではありません。旅とは、普段と異なる空間で、普段と異なる空気や人に触れながら、普段と異なる時間を過ごすことだと思います。ウズベキスタンの好さを感じるにはウズベキスタンに行くしかありません。

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青の不思議(続々篇)

青の不思議(続続編)  2014年6月8日  Mystery Hunter

いよいよ3日後、ウズベキスタンに向けて出発です!

「青天蓋モスクの不思議な質問」の答えは、現地調査を待たずして答えが出尽くした感もありますが、それは軽薄な思い上がりというもので、現実が予測と異なるのは日常茶飯事です、特に私の場合!

旅先で、どれだけ「青天蓋モスクの不思議」に迫れるか、全く予断を許しませんが、力の限り調査してきましょう。地産ビールを味わいながら情報分析と推敲を重ねるのです!

で、今回は、ネットで入手した「青」に関する情報の続編、青のシリーズとしては続々篇となります、をご紹介したいと思います。

   第一回(5月8日) なぜ青か?
   第二回(5月28日)青の不思議(続編)
   第三回(今回)   青(続々篇)


その前に例によって、漢詩をひとつ!

独坐敬亭山  李白 (独り敬亭山に坐す)
  衆鳥高飛尽  衆鳥(しゅうちょう)高く飛んで尽き
  孤雲独去閑  孤雲 独り去って閑(しず)かなり
  相看両不厭  相ひ看て 両(ふた)つながら厭(いと)はざるは
  只有敬亭山  只だ敬亭山有るのみ

数多くいた鳥たちも高く飛び去っていなくなり、ぽっかりと浮かんでいた雲も消え去って静けさが辺りを包む、互いに見詰め合って飽きないのは、この敬亭山があるのみだ
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  岩に座って敬亭山を仰ぎ見ている李白。山は青い空を背景に聳えています。

下は現在の敬亭山です。
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アンテナが建てられているのは残念です。アンテナは別にしても、取りたてて観るべき程の山とは思えませんが、我が李白先生が友としたのですから何か好い処があるのでしょう。
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<青について>

ミッシェル・パストゥローというフランス人の紋章学の権威が書いた本が発売されていました。
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2005年、筑摩書房発刊で定価¥4,644。買ってみようと思ってネットで探したのですが、丸善や紀伊国屋書店では在庫がなく注文も受け付けないとのこと。絶版の様です!
で見つかったのはamazon.co.jpのオークション(?)の中古品で「¥10,723より」でした。少々お高いので、今回はパスすることにしました。

本の解説がありました。関心あるところを抜粋すると次の通りです。

「ギリシア・ローマの人々(mh注1)にとって、青は不快な野蛮の色だったが、現代では最も好まれる色となっている。フランスの紋章学の鬼才が、古代社会から現代に至る青の「逆転の歴史」を西洋史のエピソードと共に鮮烈に描き出す。」

「青という色は自然界にポピュラーに存在していたにもかかわらず、使いこなすには時間がかかったようだ。後期旧石器時代の壁画は、赤、黒、茶色などで描かれ、青や緑の色彩はない。」

「古代ローマでも青色はあまり評価されず肯定的にとらえられない色であり続け、中世初期に到っても象徴性を持たなかった。」

「12世紀以後、青は急速に流行の色、貴族の色に変貌していったという。聖母マリアの青い衣がアトリビュート(mh注2)として描かれはじめるのもこのころで、教会のステンドグラスに深みのある青が多く使われはじめるのもこのころかららしい。中世末期になると青は気高い高貴な色として君臨する。」


(mh注1)ギリシャ・ローマ:欧米人の概念では、ギリシャとローマが文化の源!他国の人は野蛮人ですから絵画などへの関心は持ち合わせていなかった、と暗示しています。差別的ですが、事実かも。
(mh注2)アトリビュート:《特性・属性の意》絵画や彫刻などで、神あるいは人物の役目・資格などを表すシンボル。例えば、王の冠と笏(しゃく)。

纏めると
「青は自然界でごく普通に見受けられる色だったにも拘わらず、人々の関心は薄く、否定的だった。が、12世紀頃から高貴な色として急速に認知されるようになった。」
となります。

古代では不快な色とされていたようですが、何故でしょう?

底が知れぬ深さを秘めた青空に対する恐怖とか畏敬の念からでしょうか?ウズベキスタンのオアシスの街ヒヴァの夜明けの城壁の空のような!
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5月28日「青の不思議:続編」でご紹介したように、ラピスラズリを使った絵具が流行るまで、くすんだ青しかなかったようですから関心は薄かったと思います。
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        (上:9世紀のイコンで「第七全地公会」の様子を描いたもの)

その青が広く世間に認められる切っ掛けについての説得力ある情報はネットでは見つかりませんでした。

漠然とした情報の中で最も信憑性が高いのは、ラピスラズリ登場説でしょう。この石を使った絵を見て、青の素晴らしさに目覚めた、ということで間違いない!と思います。

そもそも、洞窟絵画などが現れる数万年前よりも更に昔、人類史が始まった時から、人は空と海の青を見ながら暮らしてきました。青を受け入れる感性は遺伝的に持っているはずです。

また、鮮烈で、印象的で、いつも身近にある色、それは青の他には思いつきません。強いて言えば砂漠の砂の色でしょうが、そんな場所には我々の祖先が好んで住んでいたとは思えません。また緑の草原も圏外です。草原はやがて花でピンクや黄色のモザイクになり、ついには枯れて大地の色に吸収されてゆきます。雪原の白も夏は消え失せて留まることはありません。

やはり空と水の「青」は人間の根源的な色だと思います。

それほど我々に身近な色だったのに、表現する好い絵具が無かったために長く忘れ去られていて、ラピスラズリの絵具の出現を機に、内に隠されていた感性が一気に目を覚ました!と推察します。

インターネットで「青」を探していたら、他の写真と一緒に、私がブログ用に作った資料が見つかりました!ラピスラズリとトルコ石の写真です。
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    ラピスラズリ:Lapis(石)Lazuli(群青の空)
    ターコイズブルー:Turquoise(トルコ石)Blue(青)

2つとも青の代表格です。
上の写真では、トルコ石はラピスラズリと比べると緑色です。が、ラピスラズリを掌で隠すと、青く見えてくるから不思議です!

実はウズベキスタンの古都サマルカンドの青天蓋モスクの多くも、青と緑が混じり合った不思議な色をしています。
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青タイル用の釉薬にはコバルト、ニッケルなどの化合物が使われます。これを土の成分と混ぜ合わせて素焼きした土の板に塗り、1000℃位の温度で焼けば出来上がりです。コバルトは中近東で多く産出されていたようで、青タイルの量産には好都合だったこともウズベキスタンに青天蓋モスクが多い理由でしょう。
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          (上:アフガニスタンの青いモスク)
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           (上:イランのイマーム・モスク)

自然界の青と言うと、身近なところで紫陽花が思い浮かびます。
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ラピスラズリのような鮮やかな青の紫陽花ですねぇ!
我が団地からバスと電車で乗り継いで1時間程の鎌倉の明月院は、この花で有名です。

青いチューリップもあるようです!
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サントリーと新潟県は、2012年、青百合を共同開発しました!
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実は、サントリーは同じ技術で2004年、青薔薇を開発していたのです!
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どうです、信じられないでしょ!

そう、信じてはいけません!

実は白バラを青い塗料で着色したものです!
知りませんでした!!このような青薔薇が市販されていたとは。

で、サントリーが開発した青薔薇ですが・・・・・・勿論塗料は使いません!
遺伝子組み換えで造られました。Applause(拍手!)と呼ばれているようです。
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海外でも賞を取ったとか。

「これは青ではなだろう!」というブーイングが聞こえてくるようです。
確かに、紫とかラベンダーと言うほうが適当かと・・・

サントリーの名誉のため、別の写真を紹介しましょう。
これなら青と言えるかも。何の手心も加えてはいません、あなたの錯覚を除けば。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E3%81%84%E3%83%90%E3%83%A9_(%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%BA)

青といえば、やっぱブルージーンズでしょうか。
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生地はデニムです。

Wiki:デニム(denim)
10番手以上のタテ糸をインディゴによって染色し、ヨコ糸を未晒し糸(染色加工をしていない糸)で綾織りにした、素材が綿の厚地織布。生地の裏側に白いヨコ糸が多く出るのが特徴。

で、インディゴとは何かというとこれ。
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ラピスラズリのように見えなくもありませんが、石ではありません。
主にインドアイという草から造った染料液の沈殿物です。
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左:インドアイ                 右:藍(徳島県で栽培)

<青は藍より出でて藍より青し>
「藍」とは、染料に使う藍草のことで、藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色となる。その関係を弟子と師匠にあてはめ、弟子が師匠の学識や技術を越える、という意のことわざ。荀子の言葉で、学問や努力により持って生まれた資質を越えることができるということ。
「青は藍より出でて、藍より青し。氷は水これをなして、水より寒し」に基づく。
   青、取之於藍、而青於藍、
    氷、水為之、而寒於水。
(以上ネット辞書より引用)
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             (上:明るい青の布)

女房殿のお供をして先日、ショッピングに行きました。ダイエーや専門店のあるモールを見て廻るのですが、女性用の衣装を売るお店が多いですねぇ。で、どんな青があるか、注意していましたが、ラピスラズリやトルコ石のような「輝く青」の服は見当たりません。

「青は絵具だけでなく、布の染料としても難しい色なのかなぁ」なんて思っていると、高島屋デパートのショーケースに鮮やかな青の布で出来たバッグが展示されていました。値札が良く見えなかったので値段は判りませんが、きっと数万円です!オラン・ウータンのような縫い包み人形が手提げにぶら下がっていました。ブランド品でしょう。

古代の青ではエジプシャン・ブルーが有名です。エジプトが発祥地だと思います。
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顔料(材料)は主にアズライト(藍銅鉱)とマラカイト(孔雀石)です。
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  上:アズライト(藍銅鉱)   下:マラカイト(孔雀石)
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でもツタンカーメン(紀元前1342年頃 - 1324年頃)のデスマスクに使われているのは・・・・・

11kgの黄金と、「ラピスラズリ」です!!!
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この一件で「ラピスラズリによって青の文化が生まれたと言って過言ではない!」と強く確信するに至りました!

以上で青の不思議シリーズは一先ず終了とさせて頂きます。

次回6月13日は「青タイルの不思議」(予約自動投稿)です。お楽しみに。
13日はウズベキスタンのヒヴァ辺りを不思議を求めて彷徨っているはずです。

(完)

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城壁の不思議

城壁の不思議 2014年6月3日   Mystery Hunter

11日に出発するウズベキスタン旅行で訪問するKhiva(ヒヴァ)の町をGoogle-Earthで調べると、Khiva-Castle(ヒヴァ城)と呼ばれるイチャン・カラ地区が見つかります。10世紀頃に造られたようです。

高さ約10mの城壁で囲まれています。
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面白い形をした墓が城壁に寄り添う場所もあります。
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夜明けの城壁。吸い込まれそうな空ですねぇ!
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で、ヒヴァ城(イチャン・カラ)の全貌がどうかというと・・・・・・
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城壁で囲まれた東西約400m、南北約700mの長方形の、砂漠の中の町でした。
(拡大の都合で、北を右側にしています。)

Google-Earth-3Dでは、城壁、モスク、ミナレット(塔)、中庭のある正方形の建物、が3D化していますが、その他はのっぺりしていて多分、住居です。Wikiによると約250戸あります。
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最も高い建物は、中央左側のミナレットで間違いなさそうです。

そのミナレットから撮影した城壁内の様子です。
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青天蓋モスクの手前にはドームや蒲鉾状の屋根をもつ墓も見えます。
 
僧侶たちの住居だったのでしょうか?青タイルの建物が広場を囲んでいます。
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恐らく木製だと思うのですが、彫刻が施されたエキゾチックな形状の柱が樹立している建物もあります。
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平らな屋根の平屋の中で、屋根(レンガ?)を支えているようです。
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平屋の外の側面の所々で木の棒が突き出ています。天井の棒(梁)の一部だと思います。

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手前から墓、平屋、ミナレットが並んでいます。彫刻のある柱が樹立するのはこの平屋です。

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手持無沙汰な様子で椅子に座っている男は何をしているのでしょうか?右後方は墓地の入り口ではないかと思うのですが・・・中を隠すような妙なものが入口の前に立っています。
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男が座っている椅子の向うの長椅子の前には、動物の縫い包みがいくつか並べられているようです。商いをしているのかもしれません。椅子も売り物かも。

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それにしても見事な城壁です。

これらの写真を見ているうち、ふと不思議な質問が浮かびました。

「10世紀に建てられたというヒヴァ城の城壁の中には、住居も沢山あって平民が暮らしていたようだが、城主は何処で暮らしていたのだろうか?」

ミナレットを除けば、背が高い、城らしい建物は見当たりません。

日本で城壁といえば城でしょう。城主は城壁内の建物で暮し、本丸で会議や執務をし、本丸最上階の天守閣に登っては城壁の外に広がる街を睥睨していたのです。

例えば世界遺産の姫路城がそうです。
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中国の城は少し違っています。例えば北京の故宮。
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東西に走る長安街通りの南には天安門広場があり、東は国立博物館、南は毛主席記念館、西は人民大会堂が囲んでいます。長安街の北には天安門があって、この門を通って北に5百m歩くと紫禁城の入り口「午門」に到着です。
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門を入る(入場料を払います)と、南北961m、東西753mの、城壁で囲まれた紫禁城(現;故宮博物館)です。

紫禁城の最も大きくて高い建物は太和殿でしょう。中には玉座があります。
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しかし驚くほど高い建物ではありません。紫禁城から北京の街を見ようと思うなら、恐らく城壁に登らないと駄目でしょう。その城壁にしても大して高いものではありません。
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上の3D映像でも判りますが、手前の天安門広場を囲む建物の方が、奥の紫禁城よりも高いのではないか?と思えるほどです。

唐時代の都長安、現西安のGoogle映像です。中央の黄色のピンが鐘楼です。
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シルクロードの出発点は西門(安定門)です。鐘楼から西に延びる西大街の西端にあります。
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上の写真は城壁の内側から西門を撮影したものです。
ローマは、中央のトンネル「安定門」の、ズ~~~~~と先です。

西安に残っている長安時代の建物で最も高いものは鐘楼です。
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1300年前の唐の時代は長安で最も高い建物だったでしょう。鼓楼と共に長安の街中に時刻を知らせる建物だったのですから。しかし、今は、周りのホテルに埋もれています。

玄宗皇帝や楊貴妃は城壁内の一画の未央宮(びおうきゅう)で暮らしていました。
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   (上は復元図で、今では何の痕跡も残っていないようです。)
しかしこの建物も高層建築のようではありません。

ここで今一度、不思議な質問を確認しましょう。

「10世紀に建てられたというヒヴァ城の城壁の中には、住居も沢山あって平民が暮らしていたようだが、城主は何処で暮らしていたのだろうか?」

日本では、城壁に囲まれた敷地内に城があり、城主が居住し、天守閣という高い建物から城外を睥睨していました。平民は城壁の外で暮らしていたのはご承知の通りです。

中国では、平民は、古い都長安では城壁の内、新しい都北京では城壁の外、で暮らしていたという違いがありますが、いずれの場合でも、城主は城内で暮していました。しかし、広い平野の中にあるくせに、城壁内には高層建築は有りません。城壁の外の出来事には関心が薄かったのでしょうか?

いずれにしろ、日本と中国の城では、高い城が城壁内にあったかどうかの差はあるものの、城壁内に城または宮殿があって城主または皇帝が居住していたのです。

ではヒヴァ城ではどこに城または宮殿があって、城主が暮らしていたのか???

もう少し世界の城壁を見てみましょう。去年10月に訪れたインド・アグラの城はどうか?
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堀と城壁で囲まれた大きな城です。
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城壁は10数mの高さでしたが、城内の広い敷地には高い建物はありませんでした。
2階建てのハーレムを池越しに臨む平屋の大理石の御殿がありました。
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その中央には玉座もありました。
城壁の中で暮らしていたのは城主と召使たちで、平民は城壁の外で生活していたのです。

中東サウジアラビアの首都リヤドにある「マスマク城」です。
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(ネットより)この城は、現在のサウジアラビアの王家「サウド家」が、1902年にライバルの「ラシド家」からリヤド(現首都)を奪還するために拠点となった砦です。
(mh城壁のようなものはGoogleでは見当たりませんでした。写真の城の壁が文字通り城壁ということだったのかもしれません。)

サウド家はリヤド奪還を経て他の地域も制圧し、1932年にサウジアラビア王国が成立しました。ちなみにサウジアラビアとは「サウド家のアラビア」という意味です。
今でも王族が絶大な力を持ち、政界のトップは王族の者しか就くことが許されていないそうです。
(mh:サウジアラビア王国の初代国王はアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードで、現国王に至るまで、その子や、異母兄弟の子など、身内で実権が伴った王位を継承しています。)

サウジの現在の王宮です。
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これまで6人で国王を継承し続け、王族も多いので、王宮という名の建物は数十あるようです。

20世紀に造られた王宮ですから、城壁はなく、その代わり、砂漠の街リャドには少ない緑地が建物を囲み、噴水やプールや池は建物の中にまでも造られているようです。

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上はサウジの別の宮殿のようです。

ドイツの有名なノイシュヴァンシュタイン城。
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3D映像で判るように山の上に建てられています。
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城壁と呼べるものは僅かで、建物の壁と山の斜面が城壁のようなものです。ここで暮らしていたのは城主と僅かな召使たちだけでした。

実はこの城は、戦に備えて造られた城ではありません!
ルートヴィヒ王の趣味のためだけに建設された、実用には不向きな城なのです。建設費はプロイセン王国によるドイツ統一を支持した見返りにビスマルクから送られた資金が使われました。

ドイツ・ライン川沿いの城は川を見下ろす小山の頂きに建っているものがほとんどです。
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城主は近辺の領土を統括していたようで、城内には城主とその家族と召使だけが暮し、平民はライン川沿いの町や村で暮らしていました。
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現在では、ホテルやレストランになっている城も多いようです。

フランスのChateau de Chambord(シャトー・デ・シャンボール)。世界遺産です。
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前に堀はありますが城壁はありません。
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スペインのアルハンブラ宮殿
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丘の上に建てられ、城壁に囲まれた広い敷地がありますが、平民は暮らしていないようです。
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イギリス王室の居城ウィンザー城。今はロンドンにあるバッキンガム宮殿の方が多用されていて、こちらは避暑用のようで、普段は観光客に公開されています。
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城壁で囲まれた敷地内には城主と召使が住んでいました。
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城壁内で一番高い建物は門の近くに聳える6階建ての塔のようです。丘の上にある城の塔ですから衛兵が詰めてさえいれば見通しは好さそうです。
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実は私は30年ほど前、ウィンザー城を訪れる幸運に恵まれました。閲兵交代式や城内も見てまわりましたが、所々に立ち入り禁止の場所がありました。王族が休暇を過ごす所だったのだと思います。

イギリス・コーンウィ城は世界遺産です。城壁はありません。
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恐らく城主が暮らしていたと思います。
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以上、いろいろな城のパターンをご紹介しましたが、さて、本題に戻って・・・・・不思議な問題の答えはどうなるのでしょうか?

不思議な質問
「10世紀に建てられたというヒヴァ城の城壁の中には、住居も沢山あって平民が暮らしていたようだが、城主は何処で暮らしていたのだろうか?」

考えられる答えは次の4通りです。
1. 城主は城内にも城外にもいなかった。定期的に協議し代表が選ばれていた。
2. 城主は城内の一番大きな平屋に住んでいた。平屋が王宮だった。
3. 城主は城内のモスクにいた。つまり城主とはイスラム教の指導者のトップだった。
4. 実は、上の3つと全く異なる正解があるのだ。


mh:イスラム教の指導者
イスラム教には、キリスト教の牧師のような「聖職者」は存在しません。アッラーの前には全てのイスラム教徒は平等であるという考え方に基づいているためのようです。

但し、「ウラマー」と言う宗教「指導者」は存在します。これが結構、権力があるのです!
例えばイラン。実質的な国家元首はイスラム教「指導者」のホメイニー「師」でした。1989年に死亡するとその当日、やはり指導者のハーメネイー師が国家元首に格上げされました。大統領もいるのですが、単なる行政府の長であって元首の指導者が辞任せよと言えば辞めねばなりません。昔、卑弥呼と呼ばれる預言者がリーダの国もありましたが、今でもこんな政治システムが残っている国があるんですねぇ。

しかし、わが日本には選挙ってものがあって、選ばれた議員の中から首相が任命され、国家元首の天皇は追認するだけで、辞任させる権限など持っていませんから、民主主義だ!と言えるでしょうが、実態は、キングメーカなる綽名の古株が牛耳ったりしていて、結構ドロドロした、魑魅魍魎の伏魔殿だ!と威勢のいい女性が言っていましたので、どの国も実態は五十歩百歩のようです。

あまり宗教や政治を批判すると身に危険が起きかねないので打ち切りますが、話を戻し「城壁の不思議」の正解はなんでしょうか?

私は、恐らく「2と3」ではないか?と思います。

アフリカ・サハラ砂漠からシナイ半島、アラビア半島、中央アジアにかけてベドウィンと呼ばれる民が暮らしていました。
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アラビアのローレンスの映画を見た方は「ああ、オマーシャリフが演じた、あの砂漠の流浪の民のことねぇ!」と思い出されたことでしょう。
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農耕地帯で暮らせなくなった余剰の民は、砂漠を目指して進出し、ベドウィンと呼ばれるようになりました。2千年程前のことです。
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ベドウィンの流れを汲む流民は中央アジアにも流れてきて、時には略奪をしたのでしょう。細々と農牧業を営んでいたヒヴァの人々は自己防衛の必要に迫られました。そこで城壁を造り、その中で暮らすことにしたのです。その時、リーダ、言わば城主、は農民の中でも腕っ節の強い若者達から選ばれたはずです。選ばれたリーダが住む家は、争いで権力を獲得した者が住む城のような高層建築にはなりません。他のメンバーと議論するスペースを持つ大きめの平屋で十分だったのです。

城壁を造り、会議が出来る大きな平屋を造ると、当時流行し始めたイスラム教のお寺も城内に造り、城内で生活しながら、毎日5回のアッラーへのお祈りもかかすことは無かったのでしょう。

そのうち、イスラム教が生活の中で重要な比重を占めてくると、イスラム教の有力な指導者が城内のあらゆることに関与し方針を決めるようになり、実質的な城主になっていったと考えられます。

ということで、城壁ができた10世紀は実力者のリーダが城主の役目を果たし、城内の平屋で暮らしていたが、12世紀頃には、城内のモスクで活動するイスラム教の有力な指導者が城主の役目を継承してきた、というのが正解ではないか???と推察します。

この推察の根拠が薄弱なことは、本人が一番よく感じていますので、ヒヴァを訪問した時に現地人に聞いてみましょう。誰が造ったのか知っている人がいたら、どこに城主が住んでいたのかも、直ぐに明らかになるでしょう。知っている人は見つからないかもしれません。その時は他に情報源を見つけて真実に迫るのです!

さて次回6月8日は「青の不思議(続々篇)」です。お楽しみに。

(城壁の不思議:完)

実は、以上で完了していたはずなんですが、大きな勘違いをしていたことが判明しました。
切っ掛けは、偶然目にしたヒヴァの地図です!
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Palace(王宮)が2つありました!それに24か所のMadrassah(マドラサ:イスラム教学校)も!王宮もマドラサもほぼ矩形で広い中庭があります!

下は地図で左(西)側のパレス1。「ヒヴァ王の夏の住居兼ハーレム」です。
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パレス1の別の中庭の一画にはモスクもあります。
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中央には窪みが、右側には階段があります。典型的なモスクの内部構造です。
中央の窪みはミフラーブと呼ばれる重要な場所です。
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Wiki;モスク(抜粋)
内部には、イスラム教の教義に従い、神や天使や預言者・聖者の(偶)像は置かれることも描かれることもない。装飾はもっぱら幾何学模様のようなものだけである。マッカ(メッカ)の方角(この方角をキブラ( قبلة‎ qibla)という)に向けて、壁にミフラーブ( محراب‎ miḥrāb)と呼ばれる窪みがある。これは、コーランの規程に従ってメッカの方向に対して行わる礼拝の方向をモスクに集う人々に指し示すためのもので、礼拝の場であるモスクに必須の設備である。その向かって右隣にはイマームが集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇がある。付属設備としては、礼拝の前に体を清めるための泉などが見られ、礼拝への呼びかけに用いるミナレット(マナーラ)を有する場合も多い。
(Wiki完)

夏の王宮の屋根から南を見ると、モスク越しに太い煙突のようなミナレットと沢山の窓のようなものが設けられた矩形の建物が見えます。マドラサとよばれるイスラム教学校です。
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下はマドラサの中庭から太い煙突状のミナレットを望む風景。
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上の写真の反対方向でしょう。木の陰が写っています。
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上の写真の説明文をGoogle翻訳にかけるとハンガリーで、英語ならKhiva, the hotel - old caravanserai(ヒヴァ、ホテル・・古い時代の隊商宿)となっています。学校と隊商宿が兼用だったのですね?

次の写真は地図で右(東)側のパレス2。外壁は城壁のようで窓は高い場所だけに設けられているようです。
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城壁の内側は中庭がある青の広場です!ここもハーレムか??井戸もあります!
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下は地図のMosque(モスク)3:Jammi(Djami)Mosqueの内部でした。
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平らな屋根の矩形の大きな建物です。女性が写っています。モスクなら女人禁制のはずなので、今はモスクではないのでしょう。

城壁内に沢山のマドラサ(宗教学校)があるのには驚きました。別の町からもイスラム教指導者を目指す若者が集まっていたのではないかと推察します。

どうも締りのないブログになってしまい恐縮ですが、これで打ち切りにさせて頂きます。
ヒヴァ紹介ブログ、とご理解戴き、不思議が無かった点についてはご容赦下さい。

必ずは現地で、本当の不思議を見つけて戻り穴埋めしたいと考えています。

なお、世界の城を高さという観点で見ると、周辺に山や丘などがあって見晴らしが悪い日本、ドイツ、イギリスの城では出来るだけ早く敵の侵入を発見できるよう、展望台のような、高い建物が多く、逆に何十キロメートルも先まで平野や砂漠が広がった中国(北京、西安)、サウジアラビア(リャド)、ウズベキスタン(ヒヴァ)では、10m程度の高さの城壁さえあれば視界としては十分だったので、天守閣のような展望をもつ建物は無用だったと思ったりするのです、大した思い付きではありませんが。

(完)

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