Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

IAの不思議

IA(ia)の不思議  2014年7月28日  Mystery Hunter

ブログ「英国の長城の不思議」で知ったカレドニア(現スコットランド)、「メソポタミアの不思議」で改めて気付いたメソポタミア、アナトリアという名前の響き!

何というか、とても好いですよね?

カレドニア・・・メソポタミア・・・アナトリア・・・

好い響きです!どう好いの?って問われても答えに詰まるのですが・・・

料理をほめるのに「まろやかで、とろけるようで、コラボレートしながらも夫々の素材の個性が活きていて」などと美辞麗句を並べた挙句が、結局、何を言っているのかさっぱりわからない!というのと一緒で上手く説明できませんが・・・

多分「耳当たりが好い」のですね。発音してみるとコンパクトにまとまっているし、郷愁さえ感じます。その上、聞いただけで地名だな?と察知できて、何のことかわからない言葉と違い、不安なく聞ける言葉です、多分。

で、不思議に思ったのです。

  不思議な質問1:
    「ia」が付いた地名が多いのは何故か?
  不思議な質問2:
    「ia」が付いた地名の響きが心地よいのは何故か?

もう少し「ia」が付いた国名(地名)を挙げてみましょう。
欧州:クロアチア、オーストリア、スロバキア、ルーマニア、エストニア、マケドニア
    ラトビア、リトアニア、ブルガリア、スロベニア、セルビア、イタリア、ギリシア
中近東:サウジアラビア、シリア、アナトリア(トルコ一帯)
アジア:アジア、インディア、カンボジア、インドネシア、マレーシア
アフリカ:チュニジア、アルジェリア、モーリタニア、リベリア、エリトリア、
     エチオピア、ソマリア、ケニア、タンザニア、ザンビア、ナミビア
中南米:コロンビア、ボリビア、パタゴニア(地方)
太平洋州:、オーストラリア、ニューギニア(島)、ミクロネシア(諸島)、
     メラネシア(諸島)、ポリネシア(諸島)

調べてみると今は「ia」がないフランスやドイツも、昔はガッリア(Gallia)、ゲルマニア(Germania)と呼ばれていたようです!
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(Wiki)2世紀初頭のローマ帝国。
緑部分がローマの支配を受けない「大ゲルマニア」(マグナ・ゲルマニア Magna Germania)で、ローマ領となったライン川西部と南部の「小ゲルマニア」と対になる。一般的に地理的名称の「大」・「小」はローマからの距離を意味し、遠い方を大、近いほうを小とする。
(mh)
上の地図で、トルコの場所にASIAと書いてあります。当時、トルコがローマ人にとっては東の端で、アジアと命名したのですが、その東にも土地が大きく広がっていることを知り、トルコは「小アジア」、トルコの東は「大アジア」と呼ばれていました。

そうです!
質問1「何故、「ia」が付いた地名が多いのか?」
の解答は「ローマ帝国の地名を受け継いだから」に違いありません!


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ローマ帝国の公用語はラテン語でした。
ローマ市民にとって、都市ローマ以外は全て地方、つまり「ia」でした。
ゲルマン人の地方はゲルマニア、ブリテン人の地方はブリタ(ン)ニア、と言った具合です。

メソポタミアはギリシャ語で「複数の河の間」、とWikiにありました。また、ギリシャ人はイタリア半島をヒスペリア(日が沈む土地)と呼んでいた事実もあるようです。

従って「ia」はギリシャ語から派生したのかも知れないのですが、ギリシャは帝国を造らなかったため、ギリシャから遠く離れた地名への関心は薄かったと思われますので、〇〇iaはローマ帝国の言葉に基づいた命名だと考えてよいのではないでしょうか。ひょっとするとギリシャ語とラテン語に共通の接尾語だったのかも知れません。
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(ローマ帝国の国旗:月桂樹?オリーブ?)     (ギリシャ国章:月桂樹)

少し面白そうな例をご紹介しましょう。
イタリア:
現在のイタリア南部のラテン語の地名のようです。ギリシャ人がVíteliú「若牛の土地」と呼んでいたとか、Italusという名の王がイタリアに住んでいたという伝説があって、この辺りが語源になったとのこと。

ギリシア:
ラテン語名の Graecia (グラエキア)がポルトガル語で Grécia (グレスィア)となり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされています。

ルーマニア:
黒海の西にあるこの国は日本語では「ルーマニア」ですが、ルーマニア語で はRomânia [romɨˈnia]、近似発音は「ロムニア」、つまり「ローマ人の国」です。ローマ皇帝トラヤヌス(在位98-117年)によりローマ帝国の属国になった歴史があり、現在の国歌にトラヤヌスの名が登場しているようです!

インド:
日本語のインドは三蔵法師がサンスクリット語の"Sindhu"を音写した「印度」が語源のようですが、世界的にはIndia(インディア)と呼ばれます。サンスクリット語とペルシャ語の合成語「インダス」に由来するようですが、インド帝国がパキスタンと分離した後は、インダス川の中流・下流はパキスタン領で、上流だけがインド領です。
ちなみにヒンドゥ教の「ヒンドゥ」も「インダス」と関係あります。

パタゴニア:
ポルトガル人マゼランが率いたスペイン艦隊は1522年、世界一周を成し遂げますが、南米の現アルゼンチンに上陸した時、足(ポルトガル語でパタ)も体格も大きな原住民をマゼランがパタゴンと呼んだので、「パタゴンの国」からパタゴニアになったようです。

しかし、ローマ帝国時代の〇〇iaを国名としない国もあります。

     日本語    国語    古代ローマ語   英語  
     スペイン   España   Hispania    Spain
     ドイツ  Deutschland  Germania   Germany
     イタリア   Italiana     Italia     Italy 
     イギリス   Britain    Britannia    Britain
(イギリスの正式名称United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)
(イタリアの正式名称は「共和国Italiana」、俗称は「Italia」です。)

その理由に関する情報は持ち合わせていませんが「ローマ帝国の属国だった不名誉を払拭し、名実ともに自立したい!」という気持ちからではないでしょうか。
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(イタリア国章:オリーブ(左)とオーク(楢・樫))     (日本国章:十六八重表菊)

さて、厄介なのは不思議な質問2です。

不思議な質問2:「ia」が付いた地名の響きが心地よいのは何故か?

心地よい、つまり、響きが好い、声に出してみてもコンパクトにまとまっていて、聞けば直ぐ地名と判る簡潔な言葉なのですね。

逆に、響きが悪く、ダラダラと長くて、聞いても何を指すのか判りづらい言葉は、聞くと不快になり勝ちです。

「例えば、どんな言葉が、響きが悪いというか、聞いてもなかなかよく理解できないのかと言うとですね、人にもよるのではないかという気もするので、直ぐにパッとは好い例が思いつかないのですけれども・・・」
と聞いているとイラついてくるのでは?

言葉の発展過程では、まず身近な物事から名前が付けられた、と考えるのが自然でしょう。そして、その名は、簡単で、発音しやすく、聞けば直ぐに意味が判り、従って心地よい言葉だったはずです。例えば、花、水、木、など。

そのうち、花だけではどんな花か判らず不便な時が多いので、赤い花、白い花などの形容詞が生まれ、赤い花だけではどの位赤いのか判らないので、とても赤い花、少し赤い花、など副詞が生まれ、とうとうバラとかカーネーションなどの固有名詞が生まれてきて「血のような深い赤味を湛えた小さなカーネーションの花」などという複雑な構文も使われるようになってきたと考えます。

しかし、古い生まれの言葉ほど、人間の感覚に直接的に結びついていたはずで、そのような言葉だけで簡潔に構成された「〇〇ia」は耳に馴染みやすいのです。
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「〇〇iaは〇〇人が住む土地」という命名は、これ以上は単純に出来ない、判り易い命名法です。その上、〇〇iaは、言葉が生まれた頃の、耳に心地よい単語だけの組合せで出来た言葉で、聞けば直ぐ腑に落ち、不安が生じない言葉なのです。

もうこれ以上、くどくどと説明を繰り返す愚は止めて第二の質問の解答を終えましょう!

以上述べたことは全てmhの独断と偏見に基づいたものです。
疑問・異議・補足などがございましたらコメント欄に投稿してご教示頂けると幸いです。

(ご参考)
「ia」でなく「ica」という接尾語もあります。
例えばアフリカ、アメリカ、コルシカ、ジャマイカ、コスタリカ、ドミニカ等。

ウズベキスタンは、ウズベク人の自称民族名 O'zbek(オズベク)と、「~の国」を意味するペルシャ語「 –istan」から造られた造語で、構成は-iaと全く同じです。
アフガニスタン、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、パキスタン等。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回、このブログを投稿したのは、次回の旅行と関係があります。ある旅行社に次の企画がありました。
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(アマルフィ、ポンペイ、ローマ、バチカン、フィレンツェ、シエナ、ピサ、ベローナ、ベネチア、ナポリ)

毎月出発予定日があり、11月は給油代金込みで19万円と最安値でした!しかも、7月10日時点で11月のある出発日は満席(25人)でキャンセル待ち!人気が高いようです。

これまでマイナーな観光地を巡ってきましたが、一度も行ったことが無いメジャーなイタリア、スペイン、トルコには一度位は行っておいてもいいかな?と考えていたところ、家族も「イタリアなら行きたい!」と言うので、11月出発で予約を入れました。出発30日前ならキャンセルしても罰金ゼロです。

さて、次回8月3日から、欧州ひいては世界に影響を及ぼした「ローマ帝国の不思議」を3回に分けてご紹介します。お楽しみに。

(IAの不思議:完)

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メソポタミアの不思議

メソポタミアの不思議   2014年7月23日 Mystery Hunter

「文明や宗教は何故メソポタミアで生まれたのか?」

Youtubeで見つけたフィルムとWiki情報から、その理由をご披露しましょう。

その前に、例によって漢詩を一つ紹介させてください。

上邪(じょうや) 無名氏(むめいし:詠み人知らず)
  上邪     上邪(じょうや)
  我欲与君相知 我は欲す、君と相い知り
  長命無絶衰  長(とこしえ)に絶え衰(おとろ)うること無からしめんと
  山無陵    山に陵(おか)無く
  江水為竭   江水は為(ため)に竭(つ)き
  冬雷震震   冬に雷(いかずち)震震(しんしん)とひびき
  夏雨雪    夏に雪が雨(ふ)り
  天地合    天地(あめつち)の合するとき
  乃敢与君絶  乃(すなわ)ち敢えて君と絶えん
天よ!
わたしがあの人を愛したからには、
この気持ちがいつまでも絶え劣ろうことが無いよう望みます。
高い山に峰が無くなり
その為に大きな川の水が枯れ尽きてしまい
冬に雷がしんしんととどろきわたり
夏というのに雪が降りしきって
ついに天地が崩壊して一つになってしまったときがきてこそ
はじめてやむをえず、わたしはあの人と愛を絶つことになるのです

若い女性が戦場に駆り出される恋人との永遠の愛を誓う歌、とのこと。
こんなに深く強く愛されると「怖い!」と思う男もいるのでは?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まずは、これから紹介するYoutubeのフィルムでも紹介されているZiggurat(ジッグラト)についてのネット情報です。
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煉瓦でつくられた神殿で、イラクやイランで発見されています。高さ90mを超えるものもあったとのこと。大抵、上部は崩壊しているようです。
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イラクに残っているジッグラトです。大きいですねぇ!世界遺産ではありません。
ユーフラテス川流域にあり、19世紀に欧米の考古学者達が発掘を始めました。
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写真の神殿は紀元前2千年頃のものです。周辺には住居跡も見つかりました。
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ジッグラトは神殿で、ピラミッドのような墓とは異なります。
古代のメソポタミア地方では、神や女神に対する信仰が生まれていました。神話も伝わっていて旧約聖書の元になっています。

ジッグラトは、一説によると「バベルの塔」のモデルです。「創世記(Genesis)」という本は、ユダヤ教・キリスト教の聖典で、かつイスラム教の啓典でもある、「聖書(旧約聖書)」、の最初の書で、モーゼが記述したことになっているようですが、その中にバベルの塔の話が出ているようです。また「アレキサンダー大王(前356-323年)がジッグラトを破壊した」との記録も残されているようです。
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    バベルの塔の想像図:ベルギーの画家ブリューゲルの作(1563年)

メソポタミアの象徴チグリス川、ユーフラテス川の源流は「アナトリア」高原です。

聴き慣れない「アナトリア」という言葉は、現トルコ一帯を指す名前で、地理学的にはトルコ半島ではなく、アナトリア(地方)と言わなければいけないようです、知りませんでした!!
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アナトリアという名前の由来は、その響きから、ルーマニア、スロバキア、クロアチア、はてまた南アメリカ南端のパタゴニアなどと関係あるはずです!次回のブログでその不思議を解き明かしたいと考えています。

そのアナトリアの南には「肥沃な三日月地帯」と名付けられた一帯が広がっています。
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解説の字が小さいので読みづらいと思いますが、アメリカの考古学者が付けた名で、「古代に農業が発生した場所」が中近東のこの一帯に集中していたのが由来です。

この「肥沃な三日月地帯」にメソポタミアがあります。Wikiによると「メソポタミア」はギリシャ語 Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、で、意味するところは「複数の河の間」です。

それではYoutube「文明:バベルの庭」の紹介です。

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文明・・・・・・バベルの庭
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“そして川はエデンを流れ出るとその園を水で満たし、そこから4つに分かれた:第一の名はパイソン、第二はジホン、第三はチグリスでアッシリアの東方向に流れ、第四はユーフラテス。そして神はその男をしてエデンの園を着飾り守らせた”
「創世記2:10-15」


数千年前から、南イラクは今と同様40℃を超す熱さだったが、人々は生活していた。
メソポタミアと呼ばれる、2つの川で挟まれた一帯だ。
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19世紀中頃、欧米の考古学者は競って発掘を進めた。
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多くの驚くべき発見があった。
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(mh:バビロン法典が書かれた石の発見。石はルーブル美術館で保管されている。)

メソポタミアは「近代文明の揺り籠」だ。
しかし何故ここで文明が発達したのだろうか?


古代メソポタミアにはシュメール人が暮していた。彼らは文字や車輪を発明した。が4千年前には姿を消してしまったのだ。
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メソポタミアの遺跡は、ギリシャ文明よりも先に生まれたものがあることを考古学者に教えた。シュメール人が生み育てた文明、宗教だ。

彼等の重要な特徴の一つに灌漑がある。チグリス川、ユーフラテス川の水を水路で自在に引いて畑を潤した。また川は農業だけでなく、輸送ルートにも使われた。船を使い、上流からは木や石や青銅(ブロンズ:銅+ニッケル)などの鉱石を運び込み、メソポタミアで収穫された穀物は船で川を下ってペルシャ湾経由でアラビア半島に輸出された。

我々の旅はアナトリア山地から始まる。
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この一帯に水源をもつチグリス川とユーフラテス川は、流域を潤しながら2千キロ流れてペルシャ湾に注ぐ。
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肥えた土壌を運んだが、時に春の洪水が耕作地を荒らした。

5千年前に始まったシュメール人の生活の痕跡は今のバクダッドでも垣間見られる。
バクダッドのバザール。水が振る舞われる。
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素焼きの甕(かめ)から染み出た水が蒸発すると熱を奪う。おかげで甕の中の水は冷やされるのだ。ヨーグルトや柘榴も売られている。シュメール人時代からのものだ。

しかし、今ではシュメール人はどこにも見当らない。
かれらは誰で、どこから来たのか?そしてどこに行ってしまったのか?

アナトリア高原の近く、ユーフラテス川がシリア高原からイラクに流れ込む辺り、で考古学者はヒトツブコムギ(einkorn wheat)を発見した。
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自生している、しかも沢山。
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ここにも3千5百年前、既に人々が住んでいた。
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シュメール人はこの小麦を発見した。食用になる!種を使えば再生できる!保存がきく!手広く栽培すれば大勢の人口を支えることもできる!

それまで動物を捕獲してはその肉を食していた。肉は直ぐ腐るので3日以内には次の獲物を捕獲しなければならない。しかし、これからは保存した小麦を食べればいいのだ!定住し耕作し、管理すれば食料は確保できるのだ。

農業が生まれ、生活様式は大きく変化することになった。
そのうち、それを記録する方法にも気付いた。
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石板:人々は麦を持っている。
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石板:麦の穂、鎌や杵のような農機具、などが描かれている。

穀物はシュメール文化の源になった。
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農業や宗教の様子が彫られた1mの棒(mh:木製のようです)。
健康の女神イナナに収穫した食料を奉納する様子も描かれている。

農業の興隆で人口が増えた。
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上:動物(牛?)が引いている、下が尖った大きな漏斗(写真中央)の、上の口から種を入れ、先端の小さな口から地中に種を植え付けていく。

灌漑はシュメール人の重要な文明だ。おかげで乾燥地を農耕地に変えることができた。
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上:梃子(てこ)を使って水をくみ上げる様子。
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ロバが回す水車で川から水を汲み上げている。昔からの方法だ。
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小麦や大麦は年2回収穫できた。運河に沿って見渡す限り椰子が広がった。
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漁村も出来た。
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今でも昔と同じ構造の建物で暮らしている。
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5千年前のウル(Ur)の町には4万人が暮らしていた。
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農業や文明の発達とともに、村から町、そして都市になっていった。
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“そして誰彼ともなく言うようになった‘レンガを造れ、それをよく火で乾かせ’と。そうして彼らは石のように硬いレンガを、モルタルのような粘土を手に入れた。そして彼らは言った‘町を造れ、天にも届く塔を造れ。” 「創世記11:3-4」

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5千年前、欧州は石器時代だった。しかしここメソポタミアには都市が出来ていたのだ。

煉瓦で塔のような大きな神殿も造られた。
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都市は4千ヘクタールの穀物畑で囲まれていた。
灌漑や輸送で使われる運河は都市を巡るように設けられていた。
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8mの城壁に囲まれた町にはレンガの住宅が造られていた。
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ゴミは道路に残されたりせず、まとめて燃やし処理されていた。
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1926年、墓から見事な箱が見つかった! 当時の様子が玉石で描かれている。
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(mh:Wiki「Standard of Ur(都市ウルの生活ぶり:箱の名称)」によると4千5百年前に造られた木の入れ物。表面には貝殻、大理石、ラピスラズリ、瀝青(天然のタール:接着材)で当時の“戦”(上の写真)と“平和”(下の写真)の様子が描かれている。現物は修復されたもので、英国博物館が保管展示している。)
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ラピスラズリで出来た空を背景に人々が働いている。

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戦車と歩兵達。

現在のバクダッドから250km南、川から離れた砂漠でどうして生活が出来たのか?

まず、ダムによる治水があった。
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発見された石板に当時の様子を表す地図があった。
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寺院(緑の長方形)を囲むように城壁(黄色)があり、ユーフラテス川(左の青)からダムで水を城壁内に引き込んでいた。

また、衛星で確認すると、現在は別々に流れているチグリスとユーフラテスは、当時は一つの川になってシュメール人の町Nippurを流れ、その南で分岐してUruk,Girsu,Urなどの町を潤し、ペルシャ湾に注いでいた。
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(mh:各都市は互いに約70km(徒歩で2,3日の距離)離れていて、独立した都市国家でした。)

都市の夜明け
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人々は涼しい屋上で寝て暑さをしのいだ。
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建物売買契約書によれば一般の家は70平方m弱だった。
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朝の涼しいうちに商いが行われた。
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昼、家では男たちがビールを楽しむこともあった。
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楽器の演奏も喜ばれていた。
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ハープは宝石と貝殻で装飾され、ラピスラズリの眼を持つ牛の飾りも付いていた。
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金や宝玉でできた女王の冠。頂には3つの金でできた花が!
トルコ石やパールも使われていた。

ラピスラズリは3千kmも離れた北パキスタンの石だ。
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魅惑的なこの石は、紀元前3500年には既に取引されていた。シュメール人はシルクロードより3千年も前に、東への交易路を開拓していたのだ!

発掘中に見つかった石柱。
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紀元前12世紀の物だ。ルーブル美術館に保管されている!
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裏面にはハムラビ法典が楔形文字で刻まれている。
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法典では商取引、結婚、遺産相続などについての規則が定められていた。196条「目には目を(en eye for an eye)」もある。モーゼの戒律も繰り返し述べられている。

メソポタミア砂漠には木が無かった。シュメール人はトルコやシリアやレバノンの山岳に旅をし、シーダー(cedar:ヒマラヤスギ)を採取し、川を使って下流の町に運んだ。
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シュメール人が木を採取した一帯は、今も山肌が多く、杉の林は少ない。
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伝説によれば何本かの杉は樹齢4千年だ。

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シュメール人が杉を伐採し持ち出す様子を描いた石板。
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またタールを使い、木の船やレンガ屋根の隙間を埋め、水漏れ対策をしたのもシュメール人だった。
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上:天然のタールの沼から、砂を使って手を保護しながらタールを掴み採る様子。
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船の木と木の隙間をタールで埋める。

NinevehやDeluge(いずれも古代の町の名?)の図書に記されたシュメール人の神話は旧約聖書にも現れている。

例えば神の怒りによる洪水で一握りの動物と人間が生き残る話。ノアの箱舟の元になったと考えられる。
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つまりユダヤ教やキリスト教は、多くをメソポタミアから受け継いだのだ。
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メソポタミアの都市国家はそれぞれ自分たちの神を祀っていた。
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女神もいた。ミロのビーナスの基となったと思われる。
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メソポタミアの宗教を理解するのは難しい。神話、儀式の手順などが記載された経典も見つかっているが信仰の対象などについての記録が少ないのだ。
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ある都市のジッグラト。
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最上階では祭壇に置かれた神の像に神官が貢物を捧げてお祈りしていた。
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このように繁栄してきたシュメール人の都市国家は、紀元前3世紀、勇敢で名を馳せたギルガメシュの王の行為によって葬られることになった。
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ある時、王はフンババという化け物と戦い、首を切り落として意気揚々と町に引き揚げてきた。これに怒った神はシュメール人の都市国家を滅ぼしたのだ。
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“そこで神は彼等を地上の全てから追い散らし、彼らは都市を捨てて消滅していった。”
「創世記11:8」


水が涸れ灌漑も役に立たなくなった。レンガの建物も崩壊し塵と化した。
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しかし、神話は別として、どうして文明が滅びることになったのだろう?

「頽廃(デカダンス)」か?いや、もっと適切な言葉は「硬化」だろう。

紀元前3千年の偉大な発明は新しい時代に合わなくなってきた。昔は自由度が高かった文化や芸術も2千年経過した紀元前1千年には硬直化していたのだ。

しかし、硬直化が直接の原因だとは言い切れない。シュメール文化が衰え出した紀元前1200年は丁度、鉄が発明された時期だ!銅より高温の処理が必要だったが、製造は簡単で、銅より固く、応用範囲が広く、生活に有効な金属だった。ところがメソポタミアには鉱床が無かった!その結果、鉄鉱石を産する場所がメソポタミアより重要な役割を担うことになったのだ。

また、記録によると紀元前300年には重要な穀物だった小麦の生産は40%に減少した、大麦の方は何とか維持されてはいたのだが。

小麦の大幅な減少の原因は畑に見つかった!
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灌漑システムはシュメール人に繁栄をもたらしたが、壊滅も運んできた。
3千年に渡る耕作の結果、地下に溜まっていた塩が表面に出てきたのだ!
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塩は畑を不毛にし、穀物は育たなくなった。今も塩害で不作問題が散発している。

当時、シュメールの農民は解決策を見つけられなかった。

このようにして、聖書に記されているように「バベルの塔と共にシュメール人はチリのように分散してしまった」のだ。洪水で町は流され、砂に埋もれていった。

しかしメソポタミアでシュメール人によって育まれた文明はギリシャやペルシャに引き継がれた、それがメソポタミアのものだと気付かれないまま・・・・・・


以上がYoutubeの粗筋です。

最後に補足として、メソポタミアと他の都市における文明のラフな年代史をmh流に纏めましたのでご確認下さい。
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農業の出現はメソポタミアがエジプト、ギリシャ、ローマよりも数千年、都市についても1千年以上も先行して生まれているようです。

フィルムの実物は次のURLからお楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=MKs5Wvv1-14

次回7月28日は「iaの不思議」です。お楽しみに。
(メソポタミアの不思議:完)

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英国の長城の不思議

英国の長城の不思議    2014年7月18日 Mystery Hunter

   「何故ヘイドリアンと呼ばれるのか?」
   「何故、この辺境の地に長城を造ったのか?」


今回は英国の世界遺産「ヘイドリアンの長城」の不思議です。
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1987年に世界遺産に登録されました。日本での登録は1993年の、法隆寺、姫路城、屋久島、白神山地が最初ですから、その6年前です。

それでは、Youtubeで見つけたフィルムを中心に、Wiki、Googleなどの情報も参照しながら、我々日本人には馴染みが薄い「ヘイドリアンの長城」についてご紹介します。
その過程で、冒頭に挙げた2つの不思議について検討を進めてみましょう。

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(BBC Time Watch: Hadrian’s Wall)
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英国の、イングランドとスコットランドの境界付近に造られた全長74マイル(約120km)、高さ15フィート(4.5m)幅10フィート(3m)の長城です。
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CG復元した長壁の様子です。
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「ヘイドリアン」の命令で造られました。ヘイドリアンとは何者か?いつ造くられたのか?は判明しています。直ぐつまびらかにしますので暫くお待ちください。

ここで2つの不思議な質問を確認しておきましょう。

   質問1:「何故ヘイドリアンと呼ばれるのか?」?????
   質問2:「何故、この辺境の地に長城を造ったのか?」



実はヘイドリアン長城の北約160kmには「アントナイン長城」も造られました。
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アントナイン長城の歴史的な意義や規模はヘイドリアン長城と比べて小さいので詳細な説明は省きますが、不思議な質問と若干関係あるので、後段で少し触れる予定です。

さて、ヘイドリアン長城ですが、ローマ帝国第14代皇帝ヘイドリアンにより造られました。
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着手したのは西暦122年で、10年後に完成しています。ヘイドリアンがこの地を訪問し、自ら建設を指示したのです。

なんだ!質問1「何故ヘイドリアンと呼ばれるのか?」の答えは最初から出ていたのか!

いやぁ、そこは不思議な質問ですから・・・意図は別にあります!
まずは落ち着いて頂き、次にお進みください。

当時、ローマ帝国は、ヨーロッパの大半と、北アフリカ、トルコ、中近東を支配していました。
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ヘイドリアン長城は英国本島(mh注)におけるローマ帝国北限だったのです。

(mh注)
当時、ローマ人は、英国本島の北の現スコットランドを「カレドニア(Caledonia)」、南の現イングランド・ウェールズなどを「ブリタンニア(Britannia)」と呼んでいました。
何となくロマンチックな名前ですね。何故ロマンチックだと感じるのか?その不思議について近々謎解きに挑戦しますが、答えをお持ちの方、気づかれた方は、内密でmhにご教示ください、拍手⇒コメント(公開しない)でお願い致します。

ヘイドリアンの死(138年)後、帝位を継承した第15代皇帝アントナインの命で、ヘイドリアン長城の北160kmに新たな「アンナイン長城」の建設が142年に着手され、2年後には完成しました!!しかし、北方蛮族(ケルト人など)の攻勢で、完成から20年後にはヘイドリアン長城まで撤退する羽目となり、アントナイン長城は壊滅していったのです。

一方、ヘイドリアン長城は、西暦410年頃にローマ軍がブリタンニアから撤退するまでの約300年に渡り、1万のローマ兵によって守備されていたのです。
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上:朝もやの中に浮かぶ長城  下:草原を貫く長城
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長城の途中には17か所の主要な砦が築かれました。
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1マイル(1,6km)毎にゲート(関所)も造られました。
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何故こんな急峻な所にゲートが在ったのかですが、「1マイル毎にゲートを造れ!」というヘイドリアンの命令に忠実に従った結果だろう、とのことです。

ヘイドリアン長城はローマ帝国の歴史を通じ、最も堂々たる境界施設でした。
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爽やかな夏、長城に沿ってトレッキングするのはイギリス人の娯楽の一つです。

410年頃、ローマ帝国の衰退に伴って兵士が撤退してしまうと、3百年以上続いていた長城の石は蛮族によって建築に再利用され、長城の姿は大きく変貌して現在に至っています。

長城の石を使って造られた教会は、戦と宗教が結びついた証で興味深い皮肉です。
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長城に沿った道路沿いの町や村には博物館があり、砦の遺跡から発掘された当時の生活用品、アクセサリー、お祈り用の祭壇などが展示されていて、トレッカー達が訪れては昔を忍ぶ場所になっています。
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長城の警備兵は首都ローマだけでなく帝国内のいろいろな地方から派遣された男達で構成されていました。従って長城は国際交流の場所でもありました。
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フランス製のポット              イタリア・カンペイニアの鍋。

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インド製象牙の戦闘士像。          ドイツまたはエジプト製のガラス容器。

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エミーリア(EMIELIA)と名前が透かし彫りされた金の指輪。指輪を失くしてしまった持ち主はさぞ困惑していたでしょう。

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長城沿いの博物館。
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祭壇です。兵士の住居毎に一つ備え付けられていたのでしょうか。沢山あります。
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ビンドランダの町の近くの、通気性が悪い粘土層に築かれた砦の遺跡からは、鉄、革、木などで造られた当時の生活用具が見つかりました。酸化や腐食が少ないので原型に近いものが多く、ローマ帝国への「生活の窓」として、当時を彷彿させてくれます。
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飾りが付いたブーツ。裏には沢山の鉄の鋲が取り付けられています。
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重くて長距離を歩くには不適切です。多分、儀礼用のブーツだったのでしょう。

レザーのサンダル。底にはメーカーの名が刻印されています。
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高価なサンダルで皆が欲しがるようなものです。でも紐が切れたのでほとんど使わずに捨てられたのでしょう。

よちよち歩きの子供のブーツ。靴底には鉄の鋲も打たれています。
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装飾品や陶器も見つかっています。
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木製のハガキも見つかりました。特殊処理をして赤外線を当てると文字が浮かび上がります。
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ラテン語(mh注)で書かれています。
(mh注)ローマ帝国の公用言語でした。今もバチカン市国の公用語です。

ハガキのレプリカ。木製です。レザーの紐で重ね合わされ、文面は内側に書かれました。
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当時のペン。鉄製のペン先が付いています。
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いずれの品も、洗練されたデザインで、機能も完全だったため、何世紀もの間この形で使われていました。

当時、ローマは文化の最先端をいく都市。一方、ここブリタンニアは僻地でした。言葉や素行は野蛮で、食べ物も粗末な上に寒い処でした。このような辺境にローマ兵士達が暮らすためには工夫が必要でした。

例えば床暖房。床下に暖気を通す空間があります。
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また、ローマ帝国の施設で忘れてはならない浴場。サウナもありました。
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一汗かいた後の憩いの場所(記録に基づいて復元された施設です)。
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それにトイレ。開放的で快適そうです。
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「ヘイドリアン長城の警護をしていたのはローマ帝国全土から集められた兵士でした。彼等はブリタンニアに攻め込み、多くのブリタニア人・ケルト人を虐殺しました。その一方で、ラテン語の読み書きを普及させ、後の英語の基礎を造りました。同時にローマの進んだ生活様式を持ち込み、文化の発展に多大な貢献をしたのです。」
「ローマ人は何だったのか?文化の提供者か?残虐な征服者か?
皆さんのご意見をお知らせください。」

とBBCフィルムは結んでいます。

そうですよね、BBCは英国放送協会ですから、このフィルムも英国民を視聴者として作成編集されてるのは当然でしょう。

以上でBBCフィルムの紹介を終え、不思議な質問について考えてみましょう。

   質問1「何故ヘイドリアンと呼ばれるのか?」???
   質問2「何故、この辺境の地に長城を造ったのか?」


まず質問1ですが、フィルムの英題からも判るように城壁の名は「Hadrian’s Wall」です。
そして、BBCフィルムの中で、ナレーターは「ヘイドリアンズ・ウォール」と発音しています。
つまり「ヘイドリアンの壁(城壁)」と言っているのです。

よって質問1についてはこうなります。
  質問「何故ヘイドリアンと呼ばれるのか?」
  解答「BBCが、英国人が、ヘイドリアンと呼んでいるから!」  

しかし、日本語Wikiの検索枠に「ヘイドリアン長城」と入力しても何も得られません
「このウィキでページ「ヘイドリアン長壁」を新規作成しましょう。」と返ってくるだけです!

そこで英語版Wikiの検索(Search)枠に「Hadrian’s Wall」と入力してみたらページが開きました!勿論英文です。

英文ページ上で「日本語」をクリックして選択してみると出てきました!

     「ハドリアヌスの長城」!

同じ現象がアントナイン長城でも確認できました。
英語版Wikiのアントナイン(Antnine)は日本語では「アントニヌス」です!

Wikiで併記されているラテン語も加えて表にまとめると次の通りです。
     ラテン語    日本語     英語          
     Hadrianus  ハドリアヌス  Hadirian(ヘイドリアン)
     Antoninus  アントニヌス  Antonine(アントナイン)


一体全体、どうしてこんなことになってしまっているのでしょう?

日本語は原典のラテン語アルファベット表記をヘボン式ローマ字読みしたもののようです!
ローマ帝国の公用語がラテン語だったのは間違いないようですから、日本語の読みはローマ帝国民の発音に近いのかもしれません。

しかし、英語表記とラテン語表記とではスペルが異なります。それに、Hadrianは「ヘイドリアン」が普通の英語読みで、ハドリアヌスと読む人はいないでしょう。


・・・・・・・・・どうも英語の表記に問題があるようです。

なぜ英語ではHadrianusを Hadrian、AntoniusをAntonineと表記するのか?????

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言語学について情報や知識欲を持たぬmhは、感性に基づき次のように結論します!
(mhの結論)
「イギリス人は侵略者を快く思っていなかった。よって皇帝の名を、英国流の軽い、若干の侮蔑を含む名で呼ぶことにした。例えば大戦中、アメリカ人が日本人をジャパニーズと呼ばずにジャップと呼んだように。」
「ハドリアヌスは立派な人物の名だが、ヘイドリアンならその辺りにいる男の名だ。」


さて、皆さんならどんな解答を思いつきますか?

ラテン語のローマ人に侵略された蛮族、つまりイギリス原住民、の言葉は様々でしたが、ケルト語が主力言語だったようです。

ケルト文字は縦横の棒の組合せでした。数字の表記のように見えますね。
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       (ケルト文字とアルファベットの対比表)
ローマ人の侵略以降、ラテン語アルファベットを導入し、棒状の不愛想な文字が今の英語アルファベットに変化していったのです。

一方、言葉ですが、ケルト語の主力な方言だった(?)アイルランド語と、英語、ラテン語の比較表がありました。
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この例を見ると、ラテン語とアイルランド語を混ぜ合わせて英語が生まれてきたような感じですね。他の例も見たら、もう少し正確な推察もできるのですが・・・

それでは、不思議な質問2の検討を始めましょう。

   質問2「何故、この辺境の地に長城を造ったのか?」

フィルムの中でBBCナレーターは次のように話していました。
「なぜヘイドリアンは城壁を造ったのか。一つの目的だけではないだろう。」
「フィジカル(物理的)でシンボリック(象徴的)なバリアー(防壁)だった。壁の間で行き来する人を管理するのだ。」
「ある学者は通関の役目をしたと考えている。ある学者は軍事的なバリアーだという。」
「多くの兵士が集まっていて、やることがなければトラブルを起こす。6,7年、石の壁を造る作業で忙しくさせるのがいい、とヘイドリアンは考えたのではなかろうか。」
「どうして造ることになったのか、未だにミステリーだ。」


Wiki(日本語)では次のように短く評論しているだけです。
「領土拡張を続けていたローマ帝国が、拡張政策を続けることを断念した政策転換点としても象徴的な建造物の一つである。」

Wiki(英語)では次の通りです。
長城付近で見つかった建設直前の碑文によると「帝国を確立せよ、との神の啓示があった。」とヘイドリアンが言ったらしいが、事実かどうか疑わしい。
長城を造ることで、帝国の確固たる国土維持の意思を反抗的なエジプトなどの被占領国に示したかったのではなかろうか、との学者の推察もある。
ゲートを通行する物や人に税を課すことも目的だったのではなかろうか、との推察もある。
一旦完成したら、壁面に白い漆喰をぬって見栄えを整え、皇帝の権力を誇示することも計画していたのではないか、という説もある。
(Wiki完)

これらの答えから導かれる結論は、「長城を造るきっかけについての当時の記録は見つかっていない、よって一般的な推察しか提示できない」ということかと思います。

しかし、これで終わるのでは面白くありません。

よって、mhは頭をひねって考えてみました。
で、思いついたのは仏陀の教えに沿う解答です!
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 (青年シッダールタが悟りを得て仏陀になった場所:ブッダガヤの金剛宝座と菩提樹)

ヘイドリアンは感じていたのです。「奢れるものは久しからず、ただ春の夜の夢の如し、猛き人もついには滅びぬ」の心境をひしひしと感じていました。そこで、力尽きて敗走することになる前に、ここぞ!と決めた限界の地に長城を造ることにしたのです。

ヘイドリアンの予感は的確でした!後継者アントナインが領土拡張のために造ったアントナイン長城は10年で放棄され、結局ヘイドリアン長城まで撤退することになったのは、ヘイドリアン長城こそがローマ帝国の北限だった証です。

「世の中のすべての行いには中庸が大切で、やりすぎると好い答えが得られない」というお釈迦様の教えは、まさに真理!としか言いようがありません!
それを悟っていた「ハドリアヌス」は、一角の皇帝であったことは間違いないでしょう。

以上でヘイドリアン長城の2つの不思議の種明かしは終わりです。
皆さんの答えも同じでしたか?面白い答えを見つけられたら是非ご教示ください。

     
本日、ブログ公開後確認したらフィルムが非公開になっていました。
URLを下記に追加しましたので興味がありましたらご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=9_4m5lknX68

7月23日は「メソポタミアの不思議」です。お楽しみに。
(ヘイドリアン長城の不思議:完)

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ウズベキスタンの不思議(後編)

ウズベキスタンの不思議(後編)   2014年7月13日 Mystery Hunter

ウズベキスタンの旅の不思議はまだ残ってました。順不同で一挙にご紹介します。
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<サマルカンド;ティムール廟と青い空>
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ティムール廟入口(上)とティムール帝国(1370-1507年)地図(下)
トルコ、中近東一帯、インドの一部も領土でした。
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黒い御影石の石棺の、中ではなく「床下」に英雄ティムールは眠っています。
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<サマルカンドの高級ショッピング・ストリート>
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ブティックやお土産屋さんが並んでいます。
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<サマルカンドのバザール>
氷砂糖。適当な大きさに欠いて紅茶に入れます。
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バザールで一休みしているおじいさん。右ではパプリカを売っています。
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バザールでショッピング中の美女。いや~、ウズベキスタンは美人が多いです。右の写真の子供達も大人になると、美人になるのでしょうか?そうでない子もいるでしょうが、賢く優しい人になれば、それが一番ですよ。

<サマルカンド:シャーヒズィンダ廟群>
サマルカンド・ブルーで一杯の世界遺産。英雄ティムールの奥方の廟もあります。
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(島根の姉妹:姉の体調はすっかり回復し、妹と一緒にサマルカンド・ブルーを満喫中。)

観光を開始して20分程経った頃でしょうか、韓国のお偉方御一行、総勢30人くらい、と鉢合わせしました。前日から噂は流れていたのですが、いつ、どこに来るのか判らず、状況に合わせて観光することにしてホテルを出たのです。
彼らの観光が終わるまで、我々一般観光客は廟内の広場で20分程待たされました。

台風一過、早速観光を再開です。
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モザイクタイル、マジョリカタイル(絵付けタイル)、テラコッタ(彫刻装飾)、模様絵などの見事な建築群を堪能しました。
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観光の後はバスでレストランに移動して昼食の予定でしたが、韓国御一行の影響で、付近一帯は車の進入禁止!徒歩でホテルに戻ることになりました。
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(ホテルに戻る歩道上で、散歩中の人達と記念撮影です。)

ホテルで1時間ほど待機していましたが、いつ道路封鎖が解けるのか判らず、取り敢えずレギスタン広場を目指そう!と、疲れて休憩を希望する人を残して出発。

封鎖された道路を迂回し、掲揚されたウズベキスタンと韓国の国旗を横目にレギスタン広場に向かいます。
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しかし広場は封鎖されていて誰も入れません。
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道路から広場の写真を撮ったりしていると、突然、封鎖が解除されました!ホテルで待機している仲間も呼び寄せて観光開始です。

モスクや神学校の中にはタイルや絵で装飾された見事な世界が広がっていました。
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(天井装飾。塗料で描かれているようです。)

サマルカンドの観光地一帯の封鎖は4時間程でした。朴大統領でも来たのかな?と思ったら、後でわかったのですが、彼女は数日前に帰国し、残ったお付きの人達の娯楽観光だったようです。有名どころの観光地一帯を4時間も封鎖するとは何と非常識な!と阿部・朴政権になって急に仲が悪くなった韓国を中傷していると、日本の高官たちならこんな野暮なことはしない、という保証はない!との声もあり、「ま、仕方ないか」と思うことにしました。

韓国御一行とはこれで終わり、と思っていたら、午後5時サマルカンド発タシケント行特急のお見合い席で再び交わることになりました!なんという偶然!
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私の隣の席だった札幌のママは、途中ずっと食堂車両に行って楼蘭の美女や大阪のおばさん達とコーヒーを飲んだりしながら時間を潰して気分を変えていたようですが、私は、韓国のお偉いさんの面前で、持参したパソコンで旅行のメモをまとめたりして心を鎮めながら2時間を過ごしました。

若い女性もいましたが、どういう御一行だったんでしょうねぇ。サマルカンドの廟では、肩に担ぐ大型のカメラで御一行を撮影していたので、帰国したら韓国TVで流すんですかねぇ、よく判りませんが。

<緑の都市:タシケント>
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首都タシケントは砂漠に囲まれているのに、パミール高原の雪解け水が流れる川があるのか、緑一杯の都市でした!そういえば、サマルカンドも緑が多かったです!

どうも、ウズベキスタンでは砂漠は田舎だけで、都会では緑が豊富なのです!
都会には緑が少なく、田舎に緑が多い日本とは逆です。

     (写真下:成田空港到着前の景色。海岸線まで緑が続いていました。)
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一体全体、何がどう違ってそうなるのか・・・・・・

緑(豊かな自然)が少ないウズベキスタンでは、緑を求めて人が集まり町ができる。
緑が多い日本では、緑などより刺激(お金、娯楽)を求めて人が集まり町が出来る。
と纏められるのではないかと思いますが・・・・・・どんなものでしょうか?

日本には中近東のように石油や天然ガスなどのエネルギー資源はほとんどありませんが、代わりに海や緑は豊富ですから、自然資源は豊かな国と言えるでしょう。
その日本は、自然資源を破壊して刺激的な都市を拡大しているのです。

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(タシケントのティムール広場。像の左はホテル・ウズベキスタン、右は会議場)

<ウズベキスタンの地理・天文学>
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ウズベキスタン歴史博物館にはアブー・ライハーン・ビールーニー(973-1048年)の肖像画とともに、彼が1030年に纏めた天文学書『マスウード宝典』の抜粋が展示されていました。
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この本の中で、彼は、地球の自転を説きました。また地球の半径を約6,339.6kmと算出しました。現在の観測による数値(赤道面での半径)は6,378kmですから、誤差は1%以下です!
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コペルニクス(1473-1543年)やガリレオ(1564-1642年)より500年も前のことですから驚きです。
(mh:エジプト・アレキサンドリアのエラトステネスは紀元前230年頃、太陽の高度(角度)から地球の半径を算出しています。誤差は15%でしたが算出理論は正しいものでした。)

早くから地球に関してイスラム教徒が学ぶ切っ掛けを造ったのはアッラーです!?

コーランに書かれたアッラーの教えに従うなら、地球上の何処にいようとも、1日5回、メッカに向いてお祈りしなければなりません。大切なメッカの方向を正確に特定する必要性が天文学を発達させたのです。

サマルカンドの写真をご紹介しましょう。
高級ショッピング街。月曜日の昼間の様子です。
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モスクと青い空!
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廟の入り口:ドア(茶色の部分)は木製、その他はテラコッタ(素焼き)に模様を彫り、釉薬で青などの色を焼き付けたタイルです。
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廟の内側が全て白!不思議な空間です。
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サマルカンド駅:広場の噴水には虹がかかりました。
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最後に空の色についてネットから得た解説をご紹介しましょう。
(昼間の空)なぜ青いのか???
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(夕方の空)なぜ赤いのか???
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次回7月18日は「英国の長城の不思議」です。お楽しみに。
(後編:完)

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ウズベキスタンで出会った不思議な人々

ウズベキスタンで出会った不思議な人々  2014年7月8日 Mystery Hunter

今回はツアーメンバーに焦点を当てた「ウズベキスタンで出会った不思議な人々」です。

個人情報保護や肖像権で若干問題ありますが、ご容赦下さい。
お会いしたら必ずやビール、お望みならワイン、で穴埋めさせて頂きます。

まずは全メンバー24人の紹介です。
<一人参加>
  札幌のママ、千歳のマダム、大阪のおばちゃん、倉敷のマダム、楼蘭の美女
  画伯、ガッツ石松、山男、青年、ステテコ(mh)
<二人参加>
  八景の夫婦、富山の夫婦、大阪の夫婦、奈良の夫婦、老姉弟、島根の姉妹
<主催側>
  H交通の美女、トルキン(現地人ガイド)

<6月17日のサプライズ>
サマルカンドのレストランで、主催のH交通からバースデーケーキ、5人の女性から白ワインのボトルを頂きました!ツアーメンバー全員からは盛大な祝福も頂き、感謝・感激。
「来年も誕生日は海外で!」との下賤な考えが頭をよぎりました。
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(サマルカンド郊外の丘の上で)
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(左から奈良の奥方、白い野球帽は大阪の旦那、顔が隠れた縞シャツは奈良の旦那、髭のおじさんを挟んでガイドのトルキン、H交通の美女。美女の向うは髭おじさんの奥方でしょう。)

<ガイドのトルキン>
30±1歳。「サマルカンド国立大学、から道一つ隔てた外語大卒。国立出ではないが決してバカではない!」とは本人の弁。英語を専攻、イギリス留学後、英語教師をしたが給料が冴えないので第二外国語の日本語を活かしてガイドをしているとの事。ハンサムで、3人の子持ち。随所にダジャレを織り混ぜた当意即妙なガイド振りは、なかなかのものでした。

<H交通の美女>
顔も気立ても好いので直ぐ彼氏が出来るでしょう。ウズベキスタンにツアー・コンダクターで来たのは2度目、前はヨーロッパを担当していたとのこと。我々は観光ですが、美女は仕事ですから、気苦労は多いでしょうが、そこはプロですから経験を積んで逞しくなって・・・
ま、私(わたし)的には気立てさえ好ければ全く文句はありません!

<夫婦>
八景(横浜の金沢八景)、富山、大阪、奈良の4組でしたが、いずれの奥方も明るく、エレガント又はユニークなキャラクター。旦那の方は、好い人ばかり。つまり、奥方に押され気味!ってことで、かく言うmhも例外ではありません!

<ブハラ郊外の夏の宮殿>
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昔は水も綺麗で美女たちが沐浴していたと想像します。広い池なので4,50人位は?
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上品なハットを被ったエレガントでしっかり者の奈良の奥方(左)と、これまた上品なハットを被った、驚嘆すべきユーモア感覚を持つ富山の奥方(右)の間で、ガイドのトルキンが指さす先は・・・・白の応接間!
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縦長の、落ち着いた空間でした。

豪華絢爛な書斎(?)もありました。
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島根の姉妹も私同様、高い所が好きなようで、池の脇の展望台に上ってはしゃいでいました。
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話は飛びますが、姉妹というのは、どうも、ある法則に当て嵌まりますね。

「姉妹の、体型・性格・顔形に関する法則」

この法則を簡単に解説すると
    姉は、スリムで、しっかりしていて、きりっ!とした美人
    妹は、ポチャッリで、おっとりしていて、かわいらしい美人

       但し、美人かどうかは観察者によって若干変化する。

この法則が「真」、つまり正しい、ということについては、かなり自信があります!
メンタル(精神的)、フィジカル(体型的)、メディカル(医学的)の3点から証明できるはずで、既に誰かがネットで公開済みか?と思い「姉妹・顔形・体型」で検索してみましたが、「姉妹は似ている」という、味も素っ気もない情報しか見当たりません。
よって私の「姉妹に関する法則(不思議)」は特筆されるべきだと思います。
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          (修理後のモザイクタイル。綺麗な深い青です。)

この法則は疑わしい!と思われる御仁は、ご自身の回りの2組の姉妹を吟味して下さい。少なくとも1組、もしくは2組が法則に適合することを発見されるでしょう。

もし2組で法則の正当性が確認されなかった場合は・・・サンプル数を増やして下さい!
そうすれば、いつか、必ずや・・・・・・・・・

(丘の上の家の傍で織物をしていた女の子。ポッチャリ型ですから妹です、きっと。)
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乾いたステップ(草原)の先には山が・・・青い空が・・・
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<陶器工房にて>
日本のJICA(ジャイカ:国際協力機構)の支援で出来た陶器工房で昼食です。

左から、顔だけ写っている八景の旦那、青シャツのガッツ石松、楼蘭の美女、画伯、山男。
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楼蘭の美女を挟んで話が弾んでいました。ガッツ石松は見かけ通りのキビキビした行動で、メンバー中で唯一の男らしい男。その他は、八景の旦那も、画伯も、山男も、かく言うmhも、女に押され気味な男だったことを、ここでも申し述べておきます。

山男は、いつも岩手から成田空港まで車で出かけてくるようです。確かに車なら、ラフな服装のまま海外に行けるし、手荷物があってもトランクに放り込めば終わりで、快適な移動手段かもしれませんね。が、運転は気を付けて下さい。
「スピードを20%控える!」これがmh流の安全運転術です。

(ウズラ)
食堂の向いのオープンハウスの天井に、布を被せた籠が並んで吊り下げられています。
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中にはウズラが1匹、入っているとのこと。上右の鳥がそうだと思うんですが・・・

     何故?何んのために?

天井から吊るすのは、犬や猫から守るためとのことでしたが、暑く、乾燥したこの一帯では、犬や猫と言えども外を歩き回るのは敬遠しているようで、ほとんど見かけませんでしたから、どうなんでしょう、この理屈は。もしもの場合、ってことは有りえますが・・・
ちなみに、右上の鳥が入った籠は猫でも手が届く椅子の上に放置されていました。

布をかけて一匹づつ隔離しているのは、鳴き声を楽しむためらしいです。
鳴いて呼び合う時が一番好い声を出すとのこと。とすると、籠の鳥はさぞ寂しい思いでいる事でしょう。そんな可哀想なことをするなんて、愛鳥家とは言えませんね!でも食べちゃうよりマシですから許してあげましょう。

<老姉弟>
前列左側のお二人です。
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2ヶ月前には隣国キルギスのイシククル湖に行き、この旅が終わると直ぐにまた旅に出る予定という、とっても元気な、参加者中最年長と思われる姉さんと弟さん。

小さな体ですが、足腰が強く、いつもお土産や飲み物で一杯の重い鞄と袋を持ち、元気に歩いていましたから驚きです!しかし、姉と弟の関係というものは、年齢と関係なく、いつでも同じなのでしょうか。弟は気ままに歩き回り、疲れると勝手に休憩していましたが、姉はいつも、弟が一緒について来ているか気を配っている様子でした。末永くお達者で、お2人で世界を旅できることを祈念しています。

<大阪のおばちゃんと倉敷のマダム>
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お二方とも、いいとこの上品な奥さんのような顔をしていますが、なかなか!
活発で、明るく、さすが関西の女性!と脱帽です。

大阪のおばちゃんは、口調はオットリですがハッキリと自分の意見を述べられます。確定申告はご自身でやられて、節税術にも詳しく、バスの中で手ほどきを受けました。

倉敷のマダムはとても好奇心旺盛!ガイドのトルキンが想定外の質問に言葉が見つからず慌てふためく場面も何度かありました。

で、どちらがおばちゃんで、どちらがマダムかって?ま、ご自身でお決めください。

お二人が不在の日本の家では、旦那はすっかり羽を伸ばしてのんびりゴロゴロ昼寝を楽しんでいるだろうことは容易に推察されますが、賑やかな奥方がいない家で寂しく時間をつぶしていることも想定されます。

<画伯>
観光地で、時間があると直ぐスケッチしていました!
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10分あれば1枚仕上げます。持参した数冊のスケッチブックがバスの中で回覧されてきたので見せてもらいました。私の見る所、好い出来の絵やそうは思えない絵など、まちまちです!が、後日加筆すると全て好い絵になるかも知れません!

私も兵庫県やインドネシアに単身赴任した時、しばしばスケッチで時間を潰しました。スケッチっていいですよね。景色をじっくり観察することになるので、頼りない私の記憶にも焼き付いて残ります。どんな気分で描いていたか、今でも思い出せそう。
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mh作「インドネシア国立博物館」(1997年12月)
沢山の中から一番出来の好い絵を選びましたが・・・・・・小学校高学年レベル?

<H交通の美女と青年>
サマルカンド郊外の丘の上で休憩中、みんなから離れ2人でのんびり景色を見ていました。
この2人に将来、何か起きるか、起きないのか・・・・・・私には全く判りません。
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下:ソ連邦時代の名残のようなトラクターが活躍していました。
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<千歳のマダム>
「旦那は仕事(建築関係)を楽しんでいるから私が一人で海外旅行していても全く問題ないの!」などと言っていましたが、うちの子が心配で!と千歳に残してきた犬(旦那?)のことを考えている様子も見受けられ、写真の後ろ姿はちょっぴり寂しそうです。
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     (左から、青年、島根の姉、千歳のマダム、島根の妹、大阪のおばちゃん)
しかし、ヒヴァの夜、城内のオープンレストランで5、6人の仲間とワインを飲んで楽しそうにはしゃいでいましたから、本人は案外カラッとして一人の旅を満喫していたのではなかろうかと推察します。

<奈良の夫婦/八景の夫婦>
こちらを向いて座っている、手前が奈良、奥が八景です。
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奈良は、旦那は豪放磊落(らいらく)、奥方は冷静柔和。八景は、奥方はシャキシャキ・パワフル、旦那はオットリ・ユッタリ。

で、いずれも奥方主導なのは誰の眼にも明らかでした。この写真でも推察できるでしょう?奥方は泰然自若として食事を楽しまれていますが旦那は奥方に気を使いながら食事している様子です。

八景の奥方は沢山お土産を買ったはずです。お土産屋の売り子と二人で話す時はウズベク語と日本語が行きかい、通じているはずはない話がめでたく纏まってしまうのですから、脇で見ていて恐ろしくなる程に楽しい駆け引きでした!

<富山の夫婦>
一見すると典型的な夫唱婦随のようでしたが、それは隠れ蓑です!
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奥方は、札幌のママ(後述します)に劣らぬユニークなキャラクター!この様にたぐい稀なユーモア溢れる女性になったには、控えめな旦那の功績が大きい!と分析せざるを得ません。富山でもこの調子なら町一番の楽しい夫婦でしょう。

ところで、この二人、飛行機はビジネスだったのです!

帰国時、タシケント空港でチェックインの際に揉めていたので助っ人に割って入ると、受付嬢は「ここではチェックインできない!」と言っています。何を馬鹿なこと言うの?私たち全員、ツアーグループで、既に何人もチェクインを済ましましたよ!と言うと、ビジネスがどうのこうの、と言い返すのです。生意気な!と思って言い返していると、楼蘭の美女がやってきて「このカウンターはエコノミーだけだから、ビジネスの人は奥のカウターに行くよう言っていますよ!」と翻訳してくれました。こちとら、少しカッカしていたのですが、楼蘭の美女のなんと冷静なこと。

日本⇔ウズベキスタンはウズベキスタン航空の直行便で、行きが9時間、帰りは7時間のフライトでした。機内は空いていて、エコノミーでも3座席を独占して横になれたので、文字通りのびのび過ごせました。

そういえば、丁度24時頃、ゴビ砂漠の上辺りを飛んでいたのではないかと思いますが、ふと窓の外を見ると、空には星が、下には雲が見渡す限り広がっていました。
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                    (浮遊感のイメージ)
真夜中なのに、星明りだけで雲もうっすら白みを帯び、雲の海の上を浮遊している不思議な気分です。この浮遊感こそ飛行機の旅の楽しさではないでしょうか。額を窓に押し付けて暫く外をのぞいていました。好きな曲をイヤホンで聞きながら過ごせたらきっと至福の時だったはずです。

そういえば最近、NHK-BSで「人生で一番大切な時間」という番組を見ました。シチリアのアーモンドの花咲く村でホテルを経営しながら夫婦で過ごす時間、雲南省で一面の菜の花に囲まれて暮らす時間、スペイン巡礼の道を数週間かけて足で辿る時間。

大切な人と一緒に過ごす時間が最も大切だという思いはありますが、たまには一人でじっと雲や空や海や砂漠や草原や雪原やお花畑など、とにかく一面に広がり、続いている何か、をただず~と眺めている時間を過ごすのもいいなぁ、と思います。そんな時間を探して旅してみたい気分、皆さんもありますよね?

      ・・・時が止まっている時間を探す旅・・・

<ウズベキスタンの美男美女>
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いずれもブハラの広場で出会いました。集団結婚式かも。
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男は凛々しく、女は美しいウズベキスタンですが、人は見かけで価値が決まるものではない!とだけ言っておきたいと思います。しかし、美人が多い国ですね、うらやましいです!

隣国キルギスの女性は世界一美しい、とずっと昔、物の本で読んだ気がします。よく言われるように、混血は優性遺伝し、美人だけが生まれてくるのでしょうか?美人とは何かを遺伝子が知っているはずはないし、我々も正確公平な判断ができるわけはないので、キルギスが一番、なんて簡単に言えないはずです!でも行って自分の目で確かめたい気もします。

<キジルクム砂漠の自然>
アジア国際銀行の援助で造られた、砂漠の中のA380国際ロード(現代のシルクロード)をバスは東南東に向けて走ります。アスファルトは直ぐ溶けるので、ここではコンクリー製が上等。
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カクサウールという草も生えていますが、一帯は兎に角、砂、砂、砂!

砂漠の真ん中にポツンとあったドライブイン・レストランで昼食を終え、不用心にもビーチサンダルのまま砂漠を散策しました。10分ほど歩くと足の裏が熱くなり、急いで戻ろうとしたら足が砂に埋まって火傷しそうでした。もう少し砂漠の奥に入り込んでいたら、レストランまで戻れずに立ち往生し、ミイラになっていたかも知れません!

キジルクム砂漠の中の遺跡トプラク・カヤで、タマリスクに似たヤンタック(写真;左)が小さなピンクの花を付けていました。
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ヤンタックの根は水を求めて地下20mにも達するらしく、細かく刻んで他の餌に混ぜ家畜に食べさせているとのこと。でも20mも深く伸びている根をどうやって採取するのでしょう?方法を聞きそびれました!
右側の青い実を付けた草の名は・・・不明です。

キジルクム砂漠の南はカラクム砂漠、そこは隣国タジキスタン共和国です。

<クラブ・ブハラの夜は更ける>
夜8時、古都ブハラのホテル近くにある広場の特設会場でクラブ「ブハラ」はオープンしました。大阪の夫婦、札幌のママ、千歳のマダム、大阪のおばちゃん、倉敷のマダム、島根の妹、楼蘭の美女、ガッツ石松、ステテコ(mh)、用心棒のトルキンが集います。

札幌のママが、華麗な接待でクラブ・ブハラを取りしきり、かねてからママに目を付けられていた島根の妹は「チーママ」に、楼蘭の美女は「小雪」に変身して場が盛り上がりました。

今気付いたのですが、ママが付けた小雪という通り名は色白な楼蘭の美女にピッタリです!
さすがママ!!そして1週間以上も反応が遅れる固い頭のmh!

閑話休題。
やがてウォッカにコーラ、そしてメインの水タバコが振る舞われます。
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水タバコは、確かミントとアップルの2種。勿論、オピウム(阿片)などは入っていませんから合法で、違法でも脱法でもありません!

水タバコを回し飲みして話も弾んでいると、広場にウズベキスタンのポップミュージックが流れ出し、突然、ママと大阪の奥方が憑かれた様に踊り出しました!
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残ったメンバーは手拍子で囃し立て、ブハラの夜は楽しく更けていったのです。
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(下:砂漠の中の故城に立つ、札幌のママ。今回のツアーメンバー中、最も特異なキャラクターの一人と言えるでしょう。「日本に戻ったらクラブ・サマルカンドをオープンしたい!」と張り切っていました。連絡頂ければ開店祝いにチーママ、小雪と一緒に押しかけましょう。大阪の奥方は花輪を持って、千歳のマダムは旦那を引き連れて駆けつけるでしょう。)
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<大阪の夫婦>
奥方については既に写真で紹介済みです。具体的には、クラブ・ブハラでママのお相手をして踊っているのがその人。私と同様、ブログに凝っていて、仲間だけでなく子供達とも情報交換しているようで、「日本でも見てね!」と、今回持参した私のパソコンの「お気に入り」にアドレスを追加されられました!そのパソコン、旅行専用で、帰国後はデータをいつものパソコンに移してからは使ってないので、大阪の奥方のブログを検索していません、至急、拝見させて頂きますので暫しのご猶予を。

で、タイプは、と言うと、関東の人間が考えるであろう典型的な大阪のおばちゃん型。つまり、世話付きで明るい!ってことです。クラブ・ブハラの支払いも全て済ませてくれました。
旦那は?というと、やっぱ控えめで、写真にも所々に写っているのですが、コメントしようがない平凡な登場の仕方なので、説明は省かせて頂きました。ご容赦下さい。

あぁ、何度も繰り返しますが、どこの夫婦も、こんなもんなのでしょうか?きっと、ウズベキスタンに来る夫婦だけがそうで、ヨーロッパなど洗練された都市を旅行する夫婦は、文字通り夫唱婦随を実現しているであろう、と望みを繋いでいますが・・・どんなんでしょうかねぇ?

<ウズベキスタンの赤の不思議>
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青の不思議は紹介済みですが、布織物は青が少なく赤が多いことについては、以前ブログでも“ネットで入手した情報”として紹介しました。

この情報は間違いではありません!見ての通り、ブハラの路地を入った、知る人ぞ知る織物専門店の光景を見てもらっても赤づくめです。

それには理由があるはずです。気付いたような感じもしますが、解説し出すとブログが終わらなくなるので、ここは控えて次に進みましょう。

<ブハラの日曜日>
ホテルの近くの、池のある広場で一人静かにティータイム。2000スム(100円)です。
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脇の道路では、無線操縦で動く子供用自動車が盛況でした。
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樹陰では「ウズベキスタンの一休さん」とガイドが説明した知恵者(フッジャ・ナスレッディン)の銅像に子供を載せて記念撮影。入れ替わり立ち代わりでしたから、かなりの有名人です。
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樹陰の向うの、前夜、ディナーショーを楽しんだ元神学校の中庭に入ると、男たちがチェスをしていました。
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男はいつだって遊んでばっかり!などと直ぐ文句は言わないで下さい。その日は日曜日。誰だって羽を伸ばしたくなります。

チェスの基本ルールと駒の動き方は習ったことがあり、私の予測通り、右側の人が敵陣に攻め入ったビショップと自陣のナイトを駆使して一挙に攻め挙げ、「勝負あり」と見た私は、チェックメイトを待たず、静かにその場を立ち去ったのです。

次回7月13日は「ウズベキスタンの不思議(後編)」です。お楽しみに。
(不思議な人々:完)

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ウズベキスタンの不思議な質問;解答篇

ウズベキスタンの不思議な質問:解答篇   2014年7月3日 Mystery Hunter

4月18日ブログ「青天蓋モスクの不思議:ウズベキスタン」では9つの不思議を掲げました。
例えば、天蓋ドームの造り方は?なぜ青なのか?

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                  (サマルカンド)
これらの不思議の大半については、ウズベキスタンに旅立つ前に、ネットで得た情報を基に解き明かしてブログ公開させて頂きました。

また6月3日ブログ「城壁の不思議」では「ヒヴァの城壁内のどこで城主は暮らしていたのか?」を取り上げ、結局、ネットで入手した地図に「パレス(宮殿)」が見つかって「な~んだ!不思議なんかなかったねぇ。」という不祥事もありました。
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            (ヒヴァ内城、東門近くの王宮)
度重なる不祥事への反省と帰国報告を兼ね、ウズベキスタンの不思議について、これから補足・修正をさせて頂きます。

まずは、これまで何の解答もご披露しなかった不思議についてです。

     「イスラム教の前はどんな宗教だったのか?」

現地人ガイドに訊くと「ゾロアスター教?マニ教?ユダヤ教などかも」と自信なさげでした。
「圧倒的な勢力の宗教は無かった!」ということかと思います。

<ゾロアスター教>
拝火教とも呼ばれ、開祖はザラスシュトラでゾロアスターの名は彼の名から生まれたとの噂です。発祥は紀元前10世紀より古く、紀元前6世紀には既にペルシャ(現イラン一帯)で圧倒的な勢力を持っていたようです。
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          (ゾロアスター教のシンボル;守護霊「プラヴァシ」)
イランには今でも信者が多く、長い歴史をもつ寺院で祈りを捧げています。

<マニ教>
紀元前3世紀にペルシャで生まれました。マニを開祖とする経典宗教で、二元論(光と闇、善と悪、精神と物質など)を教えの礎としているようです。

<ユダヤ教>
紀元前10世紀頃に中近東で発祥し、紀元前6世紀には定着しています。唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教です。
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                 (ダビデの星)
<キリスト教>
イエスを機に発生し、新約聖書や旧約聖書を経典としています。イエス生誕の地はベツレヘムとかナザレとか言われていて諸説ありますが、大雑把にくくるとイスラエル、ヨルダン、またはその国境辺りで、これまたペルシャの近くです。イエスが生まれた時は既にユダヤ教が流布していて、少年期のイエスは、その教えを好く理解していたようです。
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 (タシケントのロシア正教会:私が観光した日も信者がお祈りをしに来ていました。)

<イスラム教>
ご承知の通り、預言者ムハンマドが神の啓示を受けた610年頃にアラビアで発祥。ムハンマドが語った内容はコーランに纏められ、今でも教義の原点です。

旧約聖書はユダヤ教とキリスト教の聖典で、イエスはイスラム教の預言者の一人で、エルサレムはユダヤ、キリスト、イスラム3教の聖地、ですから、私のような無神論者にはユダヤ教・キリスト教・イスラム教は「宗派が異なる同じ宗教」にさえ思われます。

ヒヴァの朝5時頃、ホテルを出て内城(イチャン・カラ)を散歩していると、家の前で椅子に座り、無心にコーランを読んでいるおじさんに会いました。
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写真を撮らせてくれました。手に持っている緑の本がコーランです。見せてもらうとウズベク文字でした。原典はアラビア文字で、ウズベキスタンの他のモスクには置いてありました、お祈り中だったので写真は撮れませんでしたが。

さて、以上だらだら恣意的に宗教の発生に関するmhの怪しい考察と情報をご披露しましたが、これらに基づきウズベキスタンの宗教史を総括すると次の通りです。

<my流ウズベキスタンのイスラム史>
ウズベキスタンはメソポタミアと地続きで、距離的にも1千kmと近いので、メソポタミで発祥した文化や宗教が人と共に流れ込んできました。
(5月23日「文明の起源は宗教か?」を参照頂くと同意して頂けると思います。)
          (ギョベクリ・ペテ:紀元前10世紀の宗教遺跡群)
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   (下:神殿と思われる遺跡。同じ形の遺跡が一か所で沢山見つかっています。)
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しかし、メソポタミアから遠く、かつ海で隔てられた所では状況は異なります。

<ドーバー海峡でメソポタミアと隔てられたイギリス>
ローマ軍が侵攻してきた2世紀初頭までは、祖先崇拝、自然崇拝、多神教といった原始的な宗教でした。しかし、ローマ軍がブリテン島から撤退する5世紀には、ローマ帝国の国教キリスト教が定着し始めたのです。
(本件に関係あるブログ「英国の長城の不思議」は近々公開です。おたのしみに!)

<大西洋でメソポタミアと隔てられた中南米>
アステカ文明(メキシコ、15世紀)、マヤ文明(メキシコ・グアテマラ、4世紀頃)、インカ文明(ペルー・ボリビア、13世紀頃)では、祖先崇拝や、太陽、山、川などの自然を崇拝する宗教でした。15世紀の大航海時代以降に欧州人が持ち込んだキリスト教は数十年という短い期間で古い宗教を排斥し、今では中南米全体で他教の追随を許さない勢力を持っています。

<日本海でメソポタミアと隔てられた日本>
六世紀の飛鳥時代に仏教が伝えられました。
しかし、720年に出来上った日本書紀によれば、混沌の中から天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など三柱の神(造化の三神)が生まれ、その後、神々に統括されてきた日本は神の国で、天皇は神の子孫となっているようです。このような神話(下のURLのように神話などではなく事実だと言う首相もいました!)から推察するに、仏教伝来前でかつ日本書紀前は、太陽や、山、川、海などの自然が信仰対象だったでしょう。

そのうち突然、神々が降臨し、神道の基になりました。天照大神は今も日本の重要な神とされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%9B%BD%E7%99%BA%E8%A8%80

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しかし、メソポタミアに地続きで隣接するウズベキスタンでは事情は全く異なったのです。

8世紀頃にイスラム教が流れ込んでくると、他の宗教は次々に排斥され衰退していきます。ウズベキスタン一帯はオスマントルコなどイスラム国家の勢力圏で、歴史的に見てもイスラム教が拡大する下地は十分でした。加えて、イスラム教の教え、つまり「他教(=邪教)排斥」、で旧来の宗教は徐々に駆逐されていったのです。

そのイスラム教も、ウズベキスタンでは驚異的な変革が行われたようです!

次の写真はヒヴァの「金曜モスク」の内部です。
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壁には「ミフラーブ」という、メッカの方向を示す窪みがあり、ここがモスクであったことを示しています。その右側には指導者が説教する階段がありますが、なくてもモスクとしては問題ありません。

世界中のどこのモスクも女性は入れないのは大原則!しかし、このモスクは、今はモスクではなく観光用の遺跡で、中では女性達がお土産を展示販売していました。

このような、世界遺産にもなる綺麗なモスクや神学校などの宗教施設の多くが、宗教用途で利用されず、観光用として公開され、土産品を売るスペースが建物の内外に展開されているのです!

更には、観光地にある礼拝中のモスクでは、男女を問わず異教徒の観光客が入って、お祈りの様子を見学できるのです!土足はだめで、写真撮影・談笑は禁じられているはずですが、入るに当たり特段の注意は何も受けませんでした。
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(サマルカンドのモスク:中では礼拝中でしたが、髭のおじさんが島根の姉妹(後日詳細を報告します)に「中に入ってみるかい?」と手招きしながら声をかけてきました!)

またガイドによれば、異教徒間の結婚も可能です。世間から若干は冷たい目で見られがちですが問題ないとのこと。

少なくとも15年ほど前は、私が単身赴任していたインドネシアでは異教徒との結婚はご法度でした。恐らく、今も、他のイスラム国でも、そうだと思いますので、ウズベキスタンだけが特殊ではないかと思います。
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(サマルカンドのモスク:現在は完全に観光用で、ミフラーブと説教用階段の間には現地で私に親切だった倉敷のマダムと、大阪のおばちゃんが、土足で立っています!)

このようになった原因は定かではありませんが、mhの想像(妄想)する所ではソ連邦時代のロシア統治が影響しています。
恐らく、ロシア正教を信仰するロシア人によって、ウズベキスタン人の宗教観・価値観は徹底的に破壊され変革されたのです。その結果、宗教指導者の数は激減し、勢力も壊滅的に縮小され、教義の解釈も近代的なものに変革させられることになりました。

考えてもみて下さい、異教徒でTシャツ姿の若い観光客の女の子が、礼拝中のモスクの中に招かれるのですよ!!
他の国なら絶対有りえないと思います、例え世俗化が進んだトルコでも。

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(ブハラの元神学校中庭のオープンレストランと土産物店:ここで民族ダンスのディナーショーを楽しみました。)

このように、信者に対して寛容、異教徒に対して寛大なウズベキスタンのイスラム教も、今後どうなるかは予断できません!

イスラム教の指導者やイスラム原理主義者が、アッラーの教えを盾に、異教徒のみならず世俗化したイスラム教徒をも弾圧し、殺戮し、ウズベキスタンを我が物にするシナリオは十分あり得えます。かつて、アフガニスタンのタリバンがそうでした。数ヶ月前にアフリカ・ナイジェリアで起きたボコ・ハラム(西洋の教育は罪の意)の女子大生200人誘拐もそうです。

イスラム教の悪口ばかりになりましたが、キリスト教も似たような過激な時がありました。信者たちはアフリカや中南米の人々にキリスト教を強制した上、金銀、嗜好品、労力(奴隷)を搾取したのですから。また中世には魔女狩りも行われ6万人程が殺されたようです。

神の国で、神の子の天皇を拝した大日本帝国も、欧米の進出に後れを取るまいと朝鮮や支那、太平洋諸国に派兵し、太平洋戦争を仕掛けました。

どうも人間とは「他人を不幸にする正当な理由」を見いだすことに長けた動物のようですね。ある評論家は、「人とは“取扱い注意”の生き物で、扱い方ひとつで善くも悪くも染まる」と言いました。真理だなぁ、と思います。

そこへいくと、我が尊敬すべきお釈迦様は偉いなぁ、とつくづく思います。
あつかましいことは一切しないし、言いもしません。「事の善悪は全て、あなた自身が決めるのですよ、でも、ひとまず私の話も聞いてみますか?」というスタンスです。
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勿論、ご自身のことを、神だなんて決して言いません。
「悟った人」と言われて否定はしなかったようですが。

では次の話題で、「城壁の不思議」の補足です。

ヒヴァ城壁内で最も高い建物が宮殿(城)ではなく、ヒヴァを鳥瞰できる高さ30mほどのミナレットだったのは事実でした。
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(ヒヴァ城西門脇にある夏の宮殿の展望台から南東を撮影しました。左奥に聳えているのが最も高いミナレット。)

高いところに上るのが好きなmhとしては、最高峰のミナレットに上らないわけには行きません。4000スル(200円)を払って暗くて狭い螺旋階段を手探りで最上部の展望階へ。昔はここから、住民にお祈りの開始を大声で知らせたのです。
(mh:モスクとして機能している処では、今でもミナレットから呼びかけやお祈りが流れます、時にはスピーカを使って大音量で!)

一息ついていると子供達が上って来たので記念に写真を撮らせてもらいました。
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ガイドによると、特に地方の人達は、外国人に写真を取られたり、一緒に写真に入ったりするのが好きなようです。田舎では写真を撮るチャンスが少なく、外国人に写真を撮ってもらうと自慢話になるからではないか、とのこと。こんな素朴な国民性は長く続いてほしいものです。

さて、最高峰のミナレットからの風景ですが、南東は住居しか見えません。
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この辺りを早朝歩くと、涼をとるため外で一夜を過ごした人を沢山見かけます。
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(蚊帳の中は妙齢の女性、外はおばさんが寝ています。その右はゴミ焼却用の竈)

で、反対の北西方向を見ると、右奥の青く太いミナレットの右、つまり写真の一番右上隅には夏の宮殿の展望台が黒い長方形の点のようになって見えています。その直ぐ向うには高さ10mの城壁が左右(南北)に走っています。
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眼下のモスクやマドラス(神学校)は全て観光用で、宗教目的で機能している建物は一つも残っていません。

また、いずれの方角にも山はなく、地平線が見えるだけでした。よって、ブログ「城壁の不思議」でお話ししたように、高さ10mの城壁から少し頭を出せば何10kmも見渡せる理屈になるので、高い天守閣(展望台)などは不必要だったのです。

ヒヴァで出会った人達を紹介しておきましょう。
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ルーマニアからきた美女。ミナレットから降りてきたら道の側石に座って休んでいたので少しお話しました。エレガントで、知的で、えーと、英語でなんていうんだったっけ、とその形容詞を思い出そうとしたのですが出てきません!別れて暫くしてから思い出し、頭がスッキリしたところで偶然再会したので「sophisticated(洗練されてますね)!」と言ったら、ニッコリ笑ってくれました。

目抜き通りのお土産さんで、青い目をモチーフにしたお守りを買おうかと思ったら、売り子のきれいな女性が、上品に笑いながら「中国製よ!」と教えてくれました。
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笑顔がきれいな人でしょ!で、後ろに並んでいる飾りはというと・・・
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吊り下がっている台紙に、確かにmade in chinaと小さく書かれています。

ウズベキスタン製はこれだけ!というのでそのボールペンを買ってきました。
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観光地の写真がバネで本体に巻き込まれています。2USドルでしたが、美女と一緒に写真撮影させてもらったのですから安い買い物と言えます。

中国とウズベキスタンは、シルクロードで今でも繋がっていてトラックなどで陸路を伝い中国から物も人も流入してくるのです。首都のタシケントには中国人と韓国人が多く居住していて、彼等はビザなしで出入国できるとのこと。
日本は?というとJICA(ジャイカ:国際協力機構)の職員程度のようです。

朝6時少し前、ヒヴァ城内を歩いていたら賢そうな少年に会いました。「バザールは?」と聞くと、案内してくれました。
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かわいい女の子から小さなりんごを、明るいおばさんからスモモを買いました。
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女の子が持っているビニール袋が3000スム(150円)分のリンゴです。

どこのリンゴも直径5cm程の小さくて青いものばかりでしたが、サマルカンドのバザールのリンゴは1個6000スム(300円)!証拠写真です。
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甘い富士でした!まさか日本からの輸入品ってことないでしょうね???
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バナナも、メロンも、そろそろ季節が終わるスイカも売っていました。さすがシルクロードのオアシス都市、文明の交差路、サマルカンド!

サマルカンド!好い響きですねぇ!とてもエキゾチックです!

次回7月8日は「ウズベキスタンで出会った不思議な人々」です。お楽しみに!

(ウズベキスタンの不思議な質問の解答編:完)

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