Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

MH徒然草ー2:食物連鎖と命

Wikiによると「食物連鎖(しょくもつれんさ: food chain)とは、生物群集内での生物の捕食(食べる) ・被食(食べられる)という点に着目し、それぞれの生物群集における生物種間の関係を表す概念」です。
そこでは、自分が生き延びるためだけの理由で、食べる側は食べられる側の命を搾取します。

この食物連鎖の頂点にいるのは人間ではなく、例えば熊なのかもしれません。山歩きをしていてクマに襲われ、人は命を落とすこともあります。
しかし、いつからか、人間は熊を食物連鎖の下位に据え付けることになりました、熊を殺す武器を発明したのです。
熊も、人を襲うことはあっても、食べてしまう意欲は、永年の人間からの抑圧で霧散してしまったかのようです。

今では人間は食物連鎖の頂点に君臨し、沢山の生物の命を搾取しながら寿命も徐々に延ばしています。

今日は8月4日。夏の終わりはまだ先ですが、朝、団地内の遊歩道を散歩していると、沢山の蝉が道の上で見つかります。じっとしていて、大半は死んでいますが、よく見ると腹や足が動いているものや、つまもうとすると慌てて羽ばたくものも結構います。

生きている蝉も、死んだ蝉も、食物連鎖という非情な宿命の中で、他の動物に食べられてしまうことが多いようです。カラスや、昔はあまり見かけなかった外来種と思われる鳥が、遊歩道の上で蝉を突いて食べている姿をよくみかけました。また、蟻にとっては、蝉は恰好な食料のようです。

道でじっとしている蝉は、生きているものなら命を全うできる機会が増えるよう、歩道脇の叢(くさむら)に移してやります。そんな気持ちもあるくせに、牛、豚、鳥、魚などの肉を食べることには特段の抵抗は有りません。もし抵抗を感じるようになると、極端なケースでは拒食症になってしまい、自分の命すら脅かされることにもなりかねません。

「命をいただくことに感謝しながら食べましょう」といいつつ命を搾取する人間は偽善者と言えるでしょうが、食物連鎖という自然の節理を排除したら健全な体力は維持できないでしょう。ならば、殺してしまってから、まずいとか、もうお腹がいっぱいだから、などと言って食べないより、殺してしまったものは最後まで食べきる気持ちでいれば、一生のうちに殺すことになる命の数は少なくて済むはずです。

命とは何か?を深く考えるつもりはありません。でも、不思議なものだなぁ、と思います。
(完)
月曜:世界の不思議
金曜:mh徒然草
を投稿します。  Mystery Hunter

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世界の七不思議1:バビロンの空中庭園

世界の七不思議(1):バビロンの空中庭園  2014年8月25日 Mystery Hunter

バビロンの空中庭園は伝説ではなかったのか?
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(古代世界の七不思議)
Mystery Hunterを騙(かた)る以上、世界の七不思議の謎解きをやらなければ!と思いながらも避けてきたのは、みなさんに関心を持って頂けそうな情報は集まらないのではないか?との危惧があったからです。

しかし、そんな弱腰では臆病者と呼ばれながら残る人生を送ることにもなりかねない!との思いから、意を決してチャレンジすることにしました。

まず世界の七不思議をWikiで調べると次の通りでした。

<古典古代における世界の七不思議>
古代ギリシャ・古代ローマ時代における7つの注目すべき建造物のこと。
1.ギザの大ピラミッド
2.バビロンの空中庭園
3.エフェソスのアルテミス神殿
4.オリンピアのゼウス像
5.ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
6.ロドス島の巨像
7.アレクサンドリアの大灯台
これらは下の地図の赤字で示された場所にあった、と言われています。
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アレキサンダー大王(前356 - 前323)の東征で拡大したマケドニア(アレクサンドロス)帝国を旅したギリシャ人が、旅先で初めて見た建造物から、死ぬまでに一度は見ておくべきと選んだ7つを「世界の七不思議」と名付けました。紀元前2世紀のことです。

ところで、何故、5とか、6、8、10などではなく7としたのでしょう?決めた人がいない今では、何を言おうが戯言(たわごと)にしか聞こえないのではないかという気もします。

しかし、1週間が7日であることが関係しているはずです。
1週間が7日に確定し、人々の生活が「7」のサイクルで繰り返すようになって7は重みを増していきました。その結果、七不思議が生まれ、ラッキーセブン、七福神などの縁起物も出始めたと考えられます。

では、いつ頃、どんな理由で1週間を7日に定めることになったのでしょう?
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聖書「創世記(Genesis)」によると、神は初日に「光あれ」と言い、混沌と闇の中に光を当てて昼と夜を造りました。第二日には空と水、第三日には海と陸地と植物、第四日には太陽や星、第五日には魚類と鳥類、第六日には獣と人間を創造し、第七日は安息日としました。

ということは、聖書が生まれた時、7が意味を持ちだしたのか?

いいえ、そうではありません!
ブログ「メソポタミアの不思議」で紹介しましたが、「創世記」はシュメール人の伝説を取り入れて創作されたものです。

そうです、1週間を7日としたのはシュメール人です!しかも、第7日は休日としていました!イエスが生まれるずっと前のことです。農業を営んでいたシュメール人には太陽と月の挙動を知ることはとても重要でした!太陽の動きから1年365日を、月の満ち欠け(新月⇒半月⇒満月⇒半月⇒新月)から1カ月4週間を決めたのです。そうすると1年は凡そ12ヶ月、1週間は凡そ7日、で構成されることになります。こうして7は生活サイクルの最少単位の意味を持ち始めたのです。

今回は、古代世界の七不思議のひとつ、メソポタミアにあったとされる「バビロンの空中庭園」についてYoutubeやWikiを中心にご紹介します。
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バビロンの空中庭園(The Hanging Garden of Babylon)

紀元前6世紀頃には、メソポタミアの中流、現バクダッドの南100kmのバビロンにあったと、古代ギリシャの記録(テキスト)に残されています。地名(バビロン)、造った王の名(ネブカドネザル)、庭を贈られた王妃の名(アミュテイス)、庭の概要、植えられている植物の名前などが記録に残されているようです。
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上の絵は、これらの伝説を基に18世紀に描かれた絵で、手前が空中庭園、奥にはバベルの塔が描かれています。

空中庭園というと、反重力で空中に浮遊している庭、というイメージですが、古代のギリシャ人も、これを信じるほど迷信深くありません。あたかも空中に浮いているかのようで、そんじょそこらにはない庭園!ということで不思議とされたのです。

しかし、バビロンの空中庭園については大きな不審がありました。物の本には、前6百年頃、バビロニアのネブカドネザル王によって造られたと記されているのですが、バビロンの近郊の発掘調査では、その証拠らしきものが一欠けらも見つかっていないのです。

単なる伝説であって、実在していなかったのではないのか、という考古学者も多くなっていた時、その存在を信じさせる説が出てきました。

提唱者は英国オックスフォード大学のステファニー・ダレー博士です。
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彼女の本が発売されました。
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彼女が想像するバビロンの空中庭園の挿絵。
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彼女によると、庭園を造った王、造られた場所は、伝説と異なるのです。だから大勢の人が探しても今まで見つかるわけはなかった、というのです。

私がYoutubeで見つけたフィルムは、彼女のイラク旅行(2013年9月頃?)と彼女の主張を紹介したものです。どうも信憑性が高そうに感じられたので、このフィルムを中心に、彼女の説をご紹介しましょう。

彼女によると、空中庭園があった場所は、バクダッドから北に370kmほどのNineveh(ニネベ)と呼ばれていた町で、造ったのはアッシリアの王Sennacherib(セナケリブ:任期前704-681)です。
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彼女は取材クルーと共に現地に飛びました。
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Google Earthの写真をいくつか紹介します。
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バクダッドの北370kmのモースルMosulという町に、ニネベNineveh(黄色のピン)という古代都市がありました。

そこには一辺が約2kmの城壁で囲まれた城跡があり、その片隅にセナケリブ王が住む王宮が建っていました。
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王宮付近の拡大写真です。
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小さな長方形のトタン屋根で保護された場所が、発掘が進んでいる王宮の一部です。ここもYoutubeの映像に出てきます。空中庭園はトタン屋根のすぐ右側の、蛇行している川を見下ろす丘に在ったのではないか、とステファニーは主張しています。

下の写真は北の城壁に造られた門の一つで、人面獣像(?)も据えられています。
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下の写真は王宮の発掘場所から600mの位置の西門です。
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バビロンというと、バクダッドから約100km南にあったとされていますが、バビロンを占領したセナケリブ王が、ニネベの町を新バビロンと呼んでいたことから、後年、ニネべを訪れて庭園を見たギリシャの旅行者が「バビロンの空中庭園」としてアテネに伝えたに違いない、とステファニーは考えています。

ロンドンの博物館にニネベの王宮の壁画レリーフが展示されていました。
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上方に木が茂る庭園があります。

そこから2本の小川が、途中で支流を造りながら斜めに流れ下っています。
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中央には垂直に太い帯のようなものが描かれていますが、これは下から上に水を汲み上げている通路だと彼女は言うのです!

実は大英博物館に、ニネベで発見された八角形の小さな石柱、彼女はこれをプリズムと呼んでいます、が保管されていました。
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このプリズムの表面には、楔形文字でメソポタミアの歴史情報が記されていました。
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しかし、解読が困難だったので十分な分析は行われてきませんでした。
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ステファニーはプリズムの記事を精査したのです。
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そこにはセナケリブ王の名や、彼が造った庭園のことが記されていました。
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王は庭園を「すべての人々の不思議」と呼んでいました。
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アマナス山脈(南トルコの山々のようです)とか、木の名前も記されていました。
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上の肖像画はセナケリブ王としてフィルムで紹介されたものです。

ところで、2700年も前の人の肖像画って、どんな情報に基づいて誰がいつ頃描いたもので、どのくらい本人に似ているのでしょうかねぇ?恐らく、細かいことには目を瞑り、当時の服装や、背が高いかどうか、といった人物の極大雑把な情報だけで、人物像を空想して描くのだと思いますが、皆さんはどう思いますか?

日本にも古い肖像画、例えば聖徳太子図、が伝わっていますが、聖徳太子は実在していなかった、との説もあるようです。2700年前、セナケリブが生存していた時に実物と似せて造られた石像か肖像画が、その人の名前入りで残っていたというなら別ですが、単に逸話に基づいて描かれた肖像画だとしたら似ている保証は何もない、と疑い深いmhは思うのです。

閑話休題。
更に、ニネベの王宮で発掘されたレリーフには、空中庭園らしき図を浮彫したものがあったのです。実物は紛失していますが、レプリカ本が1853年に発行されていました。
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そこには魚が泳ぐ池のような水溜まりと木が植えられた庭が描かれていました。
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柱で支えられた小さな塔のような図も描かれていました。
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高い場所には屋根のついた庭があり木が植えられているようです!
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ステファニーは、プリズムに刻まれた楔形文字の解読と、空中庭園のレリーフから、Nineveh(ニネベ)にあるセナケリブ王の宮殿にバビロンの空中庭園があった!と考え、これを本にして公表したのです。

しかし証拠が不十分です。そこで現地を訪問して調査することになりました。

TV局の撮影クルーと共にロンドンからイラクに飛びました。2013年秋のことです。
飛行場はバクダッドを避け、北の空港を使いました。空港から車で砂漠を移動します。
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Erbil(アルビール)の町はあちこちで反政府軍による暴動が起きていました。
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まず、ニネベの王宮の北東50kmのKhinisキニスに向かいました。1967年に訪れたことがある場所です。そこに水源の跡があるのです。
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キニス渓谷の、後年掘られた洞窟がある岸壁にはセナケリブの像が刻まれています。
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セナケリブの像
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渓谷を流れる川辺に大きな石が見えます。
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この石で流れを支流に呼び入れていた形跡が見つかっていたのです。
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水路も見つかりました。
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しかし、これらの水源施設がどのようにニネベと結びついていたのか、前回の調査の時には判っていなかったのです。
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彼女はアルビールの町に戻りました。
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町で、イラクに滞在してセナケリブの遺跡調査をしている米国ハーバード大学の人類学者に会いました。
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彼は米国のスパイ衛星が撮影した地形写真などの情報を持っていました。
衛星写真から、古代の川や道、建物などの地形情報がはっきりと読み取れました。

セナケリブの王宮の衛星写真です。城壁や大通などの位置が確認できます。
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キニスからニネベに流れる運河の跡が確認できました。
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運河の水源近辺の衛星写真。
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北西から南東に流れる川を横切る水道橋の跡が確認されました。
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Jerwanと呼ばれる場所でした。
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ステファニーは訪れてみることにしました。
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アーチの土台が残っていました。
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そこにはセナケリブの名が楔形文字で記されていました。
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   07551.png50

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アーチの土台の形はセナケリブの王宮のレリーフに描かれていたものと同じです!
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残る仕事は庭園の場所を確定する作業です。
1904年に作られたセナケリブ王宮の図面。
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空中庭園は、王宮の裏庭にあり、ギリシャの旅行家の記録によれば123m四方の庭園でギリシャの円形劇場のようだったとのことから上の写真の右側の〇の辺りではないか、と彼女は予測しました。

空中庭園には、1日当たり300トンの水が、あるヤシの形をした装置を使って組み上げられていたとの記事がありました。現地の人に確認すると、そのヤシの幹は変わっていて、ネジの螺旋のような溝があるのです。
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ヤシの形の装置というのはアルキメデスのスクリューではないのか?
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アルキメデスが生まれる4百年前にセナケリブはスクリューポンプを使っていた!と彼女は想定しています。
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アルビールの町では、彼女が訪問中も本屋で爆弾が破裂し47人の死傷者がでました。ニネベの城は軍の管理下にあって外国人は近寄ることすらできません。
そこで現地人2人に頼んでカメラで撮影してもらうことにしたのです。
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セナケリブ王宮発掘場所です。トタン屋根で保護されています。
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トタン屋根の区画の入り口に守護神の人面獣像のようなものがあります。
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中には、木のレリーフがありました。ロンドンにあったものと同じ絵柄です。
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いよいよ王宮の裏庭の撮影です。
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そこには何の痕跡も見つかりませんでした。
しかし、町を見渡せる高台になっていました。
「Wonder for all people」(万人の驚嘆)とセナケリブが記録にも残した空中庭園からは町が手に取るように見えたのです。
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水は、遥か離れた山地から運河で城壁内に運ばれました。(CG)
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水道橋からは水が滝になって流れ落ちて池を造っていました。
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池の水はヤシ・ネジのポンプによって組み上げられていました。
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イラクでは今も紛争が続いていて、遺跡の調査が出来ないばかりでなく、遺跡の保護もおざなりな状態です。ステファニーは自らの足と眼で王宮跡地を調査することはできませんでしたが、空中庭園と思われる場所の最も近くで取材することができ、楽しい時を過ごせた、と語っています。セナケリブが言う「万人の不思議」である庭園がニネベの宮廷の裏庭にあり、それがバビロンの空中庭園であったことについては、みなさんも同意して頂けるのではないでしょうか。

ステファニーにメールして「ブログで紹介させてもらう」と伝えたら「完成したら見せて!」と連絡がありました。このブログの英語版を送付しておきました。

なお、最近確認したら、残念ながら、ブログの元になったフィルムは消去されていました。その一部が残っていたので下記に貼り付けておきます。放送時間3分。

https://www.youtube.com/watch?v=F6vVxbAJAog
タイトル:Who Built The Hanging Gardens of Babylon? | Secrets of The Dead | PBS

(バビロンの空中庭園:完)
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MH徒然草ー1:イスラム教と紛争

パレスチナ自治区ガザでは、イスラエル軍とハマスの間のロケット弾の打ち合いやイスラエル地上部隊の作戦が展開しています。今は停戦中で少し落ち着きを取り戻していますが。

シリアではアサド大統領の退陣を要求する反体制派と大統領派の内戦が続いています。

イラクでは政府軍と反政府組織の間で内戦が続いています。イスラム国などという如何(いかが)わしい名前のゲリラ組織も現れ、ゾロアスター教徒などを殺戮(さつりく)しています。

連日、多くの人が死んでいくこれらの紛争には少なからずイスラム教徒が関与しています。イスラム教徒と他教徒の間の紛争、イスラム教徒と軍事・独裁政権の内戦、イスラム教シーア派とスンニ派の内紛、などです。

イスラム教徒は主に砂漠地帯またはその近くの土地で生活しています。野菜、果物、穀物などは不足しがちです。草原が少なく、家畜の数も少ないのではないかと思います。
猫の額のようなオアシスに水を求めて人が集まって暮らしているのですが、そんな所に工場などが建てられるわけはなく、現金収入手段はほとんどありません。食料は不足し日用品の購入もままならないとなれば、神に救いを求める気持ち、言い換えると宗教への思い入れ、は余人では測(はか)り知れません。

そんなところに、近年、石油という思いもしなかった富が地下から噴き出したのです。青天の霹靂とも言える石油資源を巡り、権力を世襲し続けている国王や、政権を操(あやつ)るイスラム教の指導者たちの思惑に、利益目当ての外資が絡んで、様相は混沌としてきました。

貧困、排他的宗教、そこに投げ込まれた皮肉とも言える富(石油)、が三つ巴(ともえ)になって紛争が勃発しているのです。

イスラム教が他の宗教を否定することを止めれば世界の紛争は半減するのでしょうが、それでは神の教えに反するのですから、他の宗教、つまり邪教、を全て撲滅するまで、イスラム教徒は闘争を続けるかも知れません。その結果、もし世界中をイスラム一色に出来た時、彼らを待っているものは何でしょうか?平穏な暮しなどではなく、自己破壊に違いありません。イラクでシーア派とスンニ派が内部抗争(殺し合いです!)しているのがその証拠です。

しかし、貧困が解消されたなら、イスラム教徒と言えど、好んで邪教の撲滅に走ることはないでしょうから、紛争は減少するはずです。としたら、彼等の貧困を減らす施策で、私たちが出来ることは何でしょう?何をやっても無駄な努力に感じられます。

だからと言って何もしない、というのは好くないと思います。そこで思いつくのは、例えばユニセフや国境なき医師団など、イスラム貧困層の支援活動もしている団体への寄付です。インターネットで簡単に寄付ができますので、心と資金に余裕が生まれたら是非ご検討下さい。

最後に、ふと思い出した宮沢賢治の有名な詩をあげて終りたいと思います。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
・・・御釈迦さんみたいな人になりたい!って言ってるんですねぇ。
(完)
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サハラの不思議

サハラの不思議   8月18日(月) Mystery Hunter

サハラはいつ、どのように生まれたのか?

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面積が日本の10倍以上ある、広大な砂漠。
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東西約5300km、南北約2200km
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サハラはアラビア語で「砂漠」を意味する。
英語では「The Sahara」で、一般的にはThe Sahara desert(サハラ砂漠)とは呼ばない。


サハラ北東端のカイロ近郊にあるギザのピラミッド。
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その石の40%からは海の生物の化石が見つかる。
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ラテン語で小さな硬貨という名の貝の化石。4千万年前のものだ!
サハラで採取された石だ。サハラがかつて海だった証拠だ!

エジプトには化石の谷「ワディ・エル・ヒタン」がある。世界で最も化石が見つかる場所だ。
鯨の骨もある!
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3千6百万年前に絶滅した鯨だ。
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マングローブの根も見つかる。かつては浅瀬だったのだ。
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浅瀬で子供を育てれば大きな外敵が少なく食料も豊富で生き残る確率が高い。
そこに劇的な変化が起きた。だから海の動物の子供の化石が多い!

アフリカ大陸の中南部にはマングローブや湿地帯、熱帯雨林が広がっている。
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しかし、サハラでは水はほとんど見つからない。

太古の時代、サハラはアジアと大西洋を繋ぐ海の底にあった。
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テシスと名付けられた海だ。そこに陸地が出現してサハラが出来たのだ。
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問題はいつ陸地が出現したのかだ。

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アフリカ大陸プレートはマグマの動きでヨーロッパ大陸の方向に動いている。
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ある時、テシスの海底が褶曲して陸地が出現した。
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水が閉じ込められ湖が出来た処もあった。
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2つのヒント:海の生物の化石と鯨の骨

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サハラが出現したのはいつなのかを、どうしたら正確に知ることが出来るのだろう?
誰も予想していなかった所からヒントが得られた。
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サハラはデザート・ベルトに位置している。北回帰線の一帯だ。
ここでは、強い風と澄んだ空気が乾燥を加速した結果、サハラ、中近東、ゴビ、さらにはアメリカの南西部で砂漠が生まれることになった。
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エジプトとスーダンの国境に広がる白砂漠
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風化の程度から1百万年以上は経過したと見られている。
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風は砂を運ぶ。細かな砂塵を巻き上げる。
砂丘は5階建てもの高さになり、風で形を変えながら毎年15mの速度で動いていく。
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細かな砂塵は大西洋まで飛んで海底に堆積していった。
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1995年,アフリカ西海岸近くで海底のボーリングが始まった。
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表面は砂の層だが、掘り進むと砂粒がない地層に行きつく。
3百万年前の地層だ。
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ということは、サハラの形成は3百万年前に始まったと考えて好い!
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新たな2つの証拠からサハラ形成時期が明確になった!
ヤーダンYardangから1百万年以上前、海底地層から3百万年前が導かれた。

新たな証拠は宇宙からも見つかった。
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1981年、地下5mまで探査可能なレーダでサハラを調査した。
すると古代の川が見つかった。
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3百万年前にサハラは出現した。しかし、水の回廊は残っていたのだ!
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その痕跡はリビアの砂漠で確認できた。
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幾つか形成されていた「メガレイク」(巨大な湖)の跡だ。
淡水で生息する貝の化石も見つかった。炭素年代測定で9万年前のものと判った。
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気象変動で乾燥が進んで砂漠になったのは間違いない。火山の噴火、隕石衝突などで太陽光が遮断されたことが原因の可能性もゼロではないが、その兆候を示す証拠は見つかっていない。

とすれば、考えられる原因は地球の公転軌道や地軸のウネリだ。
雨季と乾季は2万年周期で繰り返す。(mh:詳細は最後の段で紹介します。)
雨季なら草原に、乾季なら砂漠に変化する。
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メガレイクの跡には貝の化石以外に動物の骨も見つかった。
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水を飲みに来たのだ。
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その動物を襲う動物もいた。人間だ。
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9万年前。人類はアフリカから世界に拡散していった。どのルートを採ったのかは明確ではないが、死の土地サハラを通って移動したと考えるのは無理があった。南を迂回したのだろうとの見方が主力だった。
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しかしメガレイクを伝い地中海に出て、海岸沿いに拡散した可能性も出てきた。
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メガレイクがあった辺りのオアシスにはシクリッドという淡水魚が見つかる。
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この淡水魚はサハラの遥か南、熱帯雨林の向う側のタンガニーカ湖にもいる!
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   (タンガニーカ湖:ナイル上流のビクトリア湖(丸型)の南西の細長い湖)
サハラを泳いで来たのだ!水で繋がっていたのだ!
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新たな2つの証拠:
メガレイク跡の淡水に生息する貝の化石、淡水魚シクリッドがオアシスに棲息する不思議。

9万年前に淡水はあった。砂漠を横切る水の回廊もあった。
が、これが突然消滅する気候変動は本当に起きたのだろうか?

エジプトの学者が驚くべき発見をした。

その切掛けとなったのはリビアの砂漠で見つけた石のサークルだ。
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住居だったに違いない。いつ頃のものか?
近くにビーズのようなものが見つかった。明らかに人間が造ったものだ。
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ダチョウの玉子の殻で出来ていた。ブレスレットかネックレスに使われたのだろう。
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炭素年代法によると7千年前のものだった。
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メガレイクの湖底がこの辺りにあった時、多くの動物や人間が住んでいたのだろう。
動物と人間の形跡は複数の場所で見つかった。
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象、カバ、ガゼルの骨も見つかった。
ある洞窟の壁で、人が水泳している絵も見つかった!
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メガレイクがあった湖畔には墓も見つかった。
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10~6千年前の遺骨だ。

改めて大西洋の海底でボーリング採取した土壌を調べると、ある時期を境に土壌の色が突然変化していることが判った!
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1インチが2千年だから、色の変化は2百年程度の間に起きたことになる。短期間で気候が大きく変化した証拠だ!

居住跡近くの洞窟。
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山羊の糞も見つかった。
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人の手形も洞穴の壁に描かれている。
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雨を願う絵も見つかっている。人が暮らしていたのだ。しかし、急速な砂漠化で住居を捨てて移動していったのに違いない。
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新たな2つの証拠:
ダチョウの玉子の殻から出来たビーズ:7千年前には人が家畜と一緒に暮らしていた。
大西洋海底の土壌の質の突然の変化:2百年という短期間に気候は大きく変化した。

サハラの地中には原油が眠っている。20世紀になって発掘が盛んになった。
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そのボーリング中に水脈が見つかった。
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水温は65℃。水源が深いので水は地熱で加熱されているのだ。
ポンプで汲み揚げて人工のオアシスが出来た。
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地中のサンドストーンという砂岩に閉じ込められて眠っていた水だ。

水が自然に湧いて出るオアシスもある。
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衛星の地下探索レーダで広大な地下水源が見つかった。
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ボーリングして水を汲み上げれば砂漠を緑地化できるかも知れない。しかし、数百万年かけて蓄えられた水も数百年で枯渇するだろう。

サハラは死んでしまったのか?
いや、ダイナミックに変化しているのだ!
緑の草原が広がる時はやってくる、地軸が戻ってサハラが雨季になる1万5千年後に!


以上がフィルムの概要です。

(mh補足)
ミランコビッチ・サイクル:
地球の気象変動に関してセルビアの地球物理学者ミランコビッチ(1879-1958)が唱えた周期論で、最近になり広く認められるようになった。
「日射量の変動は、約2万年、約4万年、約10万年という3つの周期で起きる。原因は、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動、地球の公転軌道の離心率の周期的変化、だ。」

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地球の自転軸の傾きの変化:
22.1度から24.5度の間を変化する。現在の値は23.4度。周期は4万1000年

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地球の自転軸の歳差運動:
地球の自転軸はコマの首振り運動と同じ挙動を示す。周期は約2万5800年

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地球の公転軌道の離心率:
図は、判り易くするため実際の軌道より極端に楕円化し、離心率も大きくしている。
離心率変化の周期は9万5000年

詳細はフィルム(英語)でお楽しみください。


(サハラの不思議:完)

重要なお知らせ:
5日毎に投稿してきたブログを、今後は次のように変更させて頂きます。

月曜日:不思議記事の公開(朝6時)・・・世界のミステリーを投稿します。
金曜日:Mystery Hunter徒然草(朝6時)・・・気の向くままに思いついたことを投稿します。


これからもよろしくお願い致します。
(完)

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ローマ帝国の不思議(3):ローマ帝国の興亡

ローマ帝国の不思議(3):ローマ帝国の興亡  2014年8月13日 Mystery Hunter

いよいよ「ローマ帝国の不思議」の最終回です。

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


                  (ローマ軍旗)
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(Wiki:SPQR)
ラテン語「Senatus Populusque Romanus」の略語で、「元老院とローマの人民(市民)」、すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。
また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭にも使われた。
(Wiki完)

「心はローマ皇帝の子孫!」と自称したナポレオン。イタリアに近いコルシカ島生まれです。
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月桂樹の王冠を被った絵を描かせました。まだローマが世界を統治しているかのように。
ナポレオンは言います「ローマを語ることは世界を語ることだ!」。

しかし、彼が侵攻した時、ローマは既にゴーストタウンと化していました。最盛期の1/10の規模に凋落していたのです。

2千年前、世界で最も偉大な都市だったローマ!
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沢山のタンカーが物資をローマに運び込んでいました。(CG)
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19世紀に蒸気船が現れるまで世界最大の船でした。

西暦100年、1つの通貨と1つのパスポートでイギリスからシリアまで旅行できる大帝国になっていました。
帝国は50万を越す精鋭なローマ軍で守られていたのです。
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ナポレオンのローマ侵攻の20年前、アメリカ議会でジョージ・ワシントンが言いました。
「国家の設立に当ってはローマ建国の歴史を思わざるを得ない。」
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前例のない出来事を成し遂げねばならぬ時期、ローマ帝国を作り上げて行った先人達に思いを馳せ、自らを鼓舞したのです。
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母オオカミと双子の兄弟
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(Wiki: Romulus and Remus(ロムルスとレムスの伝説))
王女から生まれた双子を王はタイバー川に捨てた。しかし母オオカミが拾い、授乳して育て、後に羊飼いの夫婦に養育されて成人になると、彼等を捨てた王を誅殺した。その後どこに町を造るかで諍いになり、兄ロムルスは弟レムスを殺してしまう。ロムルスは理想としていた場所に町を築き、自らの名をつけて「ローマ」と呼んだ。時は前753年。これをもって王政ローマの起源とされる。
(wiki完)

ローマは町として成長し、多くのエトラスカンも移り住むようになりました。やがて市民の怒りが歴史を変える日を迎えます。エトラスカンの王子が、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、ある夜、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしたのです。
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親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白したルクレーティアは、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。

これを伝え聞いたローマ市民は怒り、エトラスカンなら誰でも殺しました。この騒動を機に王政ローマが終焉し、共和制ローマ、つまり王を廃し、代表者達が政権を運営する国家、が生まれたのは前509年のことです。

2執政官と2議会とを置き、投票のルールを導入しました。
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共和制ローマの国旗
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     「Senatus Populusque Romanus」「元老院とローマの人民(市民)」

共和制ローマの末期には、有名なガイウス・ユリウス・カエサル(前100 -前44)が終身独裁官(ディクタトル)になっています。軍人でもあり、文筆家でもあって「賽は投げられた」(Alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか 」(Et tu, Brute?)などの言葉が残っています。

          カエサル統治下の共和政ローマ (前44年)
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前27年、元老院議員のアウグストゥスが、ドサクサに紛れライバルを排除して初代皇帝に就任し、共和制ローマから帝政ローマ、つまりローマ帝国となりました。

ローマ建国の経緯についてはギリシャ人の記述によるところが大きいようですが、前17年に完成した、ローマ人歴史家リウィウスの「ローマ建国史」(全142巻)は有名です。
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木枠で保護された薄いワックスのシートにペン代わりの木の棒で文字が刻まれ、今でも40巻ほど残っているようです。ロムルスとレムスの兄弟で始まった王政ローマ、その後の共和制ローマから帝政ローマ誕生に至る歴史が、伝説と共に記録されています。

帝政ローマは強力な軍隊を武器に、帝国を拡大していきました。
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ヘイドリアン(ハドリアヌス)が皇帝の時、領土は最大になりました。
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      (西暦117年ハドリアヌス皇帝時のローマ帝国版図)

西暦395年、皇帝テオドシウスが死去すると2人の息子がローマ帝国を2分し、それぞれの皇帝に収まりました。東西ローマ帝国の始まりです。
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東西に分かれて80年ほど後の476年、西ローマ帝国で蛮族の反乱があり、皇帝が殺害されて西ローマ帝国は滅亡しました。親戚の東ローマ帝国は、西ローマ帝国の奪回を進め、都市ローマを含むイタリア半島をひとまず東ローマ帝国に編入するのです。
               (東ローマ帝国の国旗と国章)
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(550年の東ローマ帝国。緑色の部分がユスティニアヌス1世によって奪還された領地)

しかし・・・・・・
(Wiki:西ローマ帝国)
これでローマ帝国が救われたかのように思われたが、蛮族の影響は、すでに経済的にも文化的にも、ローマのかつての属州に深すぎる損害を与えていた。これらの土地は、保持するにはひどく経費がかさんだ上に、これらの地域における蛮族の侵入と人口増加は、帝国を一つにまとめていたローマの文化やアイデンティティを破壊、もしくは大きく損なっていたのである。さらに、ユスティニアヌスによる長年にわたった征服戦争はイタリアを荒廃させてしまった。一説には東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、人口はわずか500人ほどしか残っていなかったという。6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。このため、ユスティニアヌスによる「ローマ皇帝の支配」は、旧西ローマ帝国領でローマという理念を信じていた人々を幻滅させる結果に終わった。 言わばこの時、SPQRの消滅をもって、西ローマ帝国は完全に終焉したのである。

東ローマ帝国も、やがて衰退の時を迎えます。
(Wiki:第4回十字軍)
第4回十字軍(1202年 - 1204年)は、ローマ教皇インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として編成された。結果的にキリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブル)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍とも呼ばれる。
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東ローマ帝国を一旦滅亡させたために、十字軍の当初の目的とは逆にこの地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。

その後、コンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国は復活するのですが、モンゴル来襲も続いて帝国の勢力は急速に弱体化していきます。

そして・・・・・・・・
(Wiki:東ローマ帝国の滅亡)
1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバン(英語版)が開発したオスマン帝国の新兵器『ウルバン砲』による砲撃に曝される中、東ローマ側は守備兵7千で2ヶ月近くにわたって圧倒的に不利な状況下で抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の血統は途絶えることになる。

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(Wiki:ウルバン砲)
オスマン帝国が1453年のコンスタンティノーブル攻略戦で使用した大砲。「ウルバンの巨砲」とも呼ばれる。名前は開発者である15世紀のハンガリー人、ウルバン(英語版)にちなむ。ウルバンは当初東ローマ帝国側に大砲を売り込んだが、拒絶された(しかも牢獄に送られた)ためにオスマン帝国に与したと言われている。
使用時は2つを繋いだ。長さは8mで500kgの弾丸を発射できた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上をもって「ローマ帝国の不思議(1)(2)(3)」のローマ帝国興亡史は大団円です!!!

広い領土を永年統治したローマですから、出来事も多く、全貌を知ることは容易ではありませんが、私のブログ(これも長々としたものではありましたが)で、比較的簡単に帝国の興亡をご理解頂けたのではないかと思います。なに?ほとんど忘れてしまったのですか?

でも、凡その流れが頭に残っていれば、冒頭で提示させて頂いた不思議な問題を考えてみることはできるでしょう。

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


ローマ帝国ですが、狭義には、前27年、SPQR(Senatus Populusque Romanus:元老院とローマ人民)の精神がドサクサに紛れて葬り去られ、アウグストゥスが初代皇帝に就任したことをもって帝国の発祥とします。
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しかし、広義には、エトラスカンだった双子の兄弟の仲違いから前753年にローマという町が誕生したことをもってローマ帝国の発祥とするようです。都市ローマが帝国に与えた影響があまりに大きいので「ローマ帝国の歴史は都市ローマの歴史」というイメージが強いからでしょう。

第二の質問「何故、ギリシャ帝国が生まれなかったのか?」に対する、万人が理解でき納得するであろう解答を準備することは容易ではありません。しかし、mhは独断的と非難をされようとも、次のように推察します。

ギリシャの文明は個人の尊厳を重視するものでした。
(Wiki:民主主義)
古代ギリシアにその起源を見ることができる。デモクラシーの語源は古典ギリシア語の「デモクラティア」で、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイは直接民主制の発祥地と言われている。
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写真(上):Pnyx(プニュクス)
世界初の民主的立法府、すなわちアテネの民会が会議を開催した場所。石段を登ったところが演説者の演台。写真中央奥に見えるのはアクロポリスの丘に聳えるパルテノン神殿。

このような思想の人々の間では、帝国主義的な発想、つまり他の国に覇権して土地や資産や労力を略奪し搾取する政策、は主流になりませんでした。ポリス(都市国家)はいくつか出来たものの、これを統一してギリシャという国を造らなかったことがその表れです。

しかし、ローマは違いました。他を統治して栄華を享受するエトラスカンの血統を受け継ぎ、デカダンス(頽廃)におぼれた時もありましたが、持ち前の組織力で世界最強の軍隊を編成し、領土の拡大を進めました。人民、土地、富の管理にも長けていました。2千年も前なのにセンサス(国勢調査)が実施されていたという記録もあります。税と兵の徴収には有効でした。

このような覇権主義のローマ帝国に対し、自由主義のギリシャ都市国家は太刀打ちできず、前148年にマケドニアの属州になり、2年後の前146年には、とうとうローマの属国になってしまったのです。

しかし、ギリシャの文化が全て失われたわけではありません。例えばローマ帝国の公式言語はラテン語ですが、帝国が東西に別れた後の東ローマ帝国では、ギリシャ語が公用語として使われたようです。ギリシャ文明が優れていたからに違いありません。
東ローマ帝国滅亡後、ギリシャの都市国家はオスマントルコの属国に編入されますが、1821年から10年続いたギリシャ独立戦争に勝利し、1832年、晴れて独立国家「ギリシャ」として世界に登場したのです。

一方、イタリアは、西ローマ帝国崩壊後、複数の王国に分かれていましたが、1861年に統一されてイタリア王国となりました。首都はイタリア北部の都市トリノでしたが、1870年にローマが首都となり、今日に到っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上を持って「ローマ帝国の不思議」の完結とさせて頂きます。
長々とお付き合い頂きありがとうございました。

なお今回のブログでは次の2つのYoutubeフィルムから情報を得ました。
興味がありましたらご覧ください。いずれも50分程度です。
https://www.youtube.com/watch?v=Z7NlfhaOSh4
https://www.youtube.com/watch?v=h61BZ-O9Wuo

次回は8月18日「サハラの不思議」です。お楽しみに。
(ローマ帝国の不思議:完)


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ローマ帝国の不思議(2)エトラスカン文明とローマ

ローマ帝国の不思議(2):エトラスカン文明とローマ  2014年8月8日 Mystery Hunter

ギリシャ文明の発祥とほぼ時を同じくして、イタリア半島ではエトラスカン文明(Etruscan Civilization)が生まれました。
エトルリアという地方を中心としたエトラスカン(エトルリア人)の文明です。
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(Wiki:エトルリア)
紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシャ語ではティレニア (Τυρρηνία Tyrrhenia)。
(Wiki:エトルリア人)
イタリア半島中部の先住民族。インド・ヨーロッパ語族に属さないエトルリア語を使用していた。エトルリア文化を築いたが、徐々に古代ローマ人と同化し消滅した。
(Wiki完)

ギリシャ人がヒスペリア(日が沈む土地)と呼んだイタリア半島。コロニーを求めて出向くと既に文明がありました!タスカニーという名の土地には城壁の町もありました。貿易も行われていました。彼らの名はエトラスカン(エトルリア人)。記録されたものは残っていません。

タスカニーの肥えた丘に暮らしていました。
しかし、彼らの本当の富は地中にありました。鉄、銅の鉱床です。
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金属の像も造っていました。テラコッタも見つかっています。
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当時のギリシャ人には信じられない男女同権の文化でした!
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官能的な喜びを公然と表現していました。・・・デカダンス・・・頽廃・・・
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イタリア・ぺルギア市のボルミス家のエトラスカン地下埋葬室の3D映像
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前530年の騎馬用戦車(人が乗れる本物です!) 
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戦車の側面拡大写真 。木製の車輪は銅板で被覆されています。
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アレッゾで見つかったキメラのブロンズ像。高さ80cm、前400年のものです。
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キメラ:ギリシャ神話の怪獣。ライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ。
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エトラスカンの棺:ルーブル美術館所蔵

<都市ローマ>
(古代ローマのCG)
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地下鉄工事現場からは、今でも遺跡が見つかります。
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マラリアが流行る湿地帯でした。本格的な都市建設は前600年に始まりました。
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約20kmの下水道はタイバー川(Tiber)に排出されていました。
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この下水網システムがなければ町の発展も無かったでしょう。
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最初の皇帝アウグストゥス
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彼も執務していた部屋。

彼が皇帝の時期、ローマの人口は膨れ、タイバー川の水は汚染が進んで飲料水として使えなくなりました!
そこで、水を引き込もうと、水道橋を造ったのです。
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全長120km。
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傾斜は正確に1/400。
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上水路の完成で市民の水が確保されることになりました。


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この一帯はローマの心臓部でした。
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柱の列が並ぶスペース。
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アウグストゥスの会議場(フォーラム)でした。
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大理石で造られていました。石は300km北の町カララで切り出されました。
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今も採取が続いています。
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フォーラムの床には、アフリカから運ばれた黄色の大理石と、トルコから運ばれた白い大理石が格子に敷き詰められました。
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地方から訪れた人にローマの権威を誇示するためでした。
こうしてローマは大理石の町、最先端の都市に変貌していったのです。

そうは言っても都市ローマの住民の大半は貧乏で、木造家屋に暮らしていたため火事が頻発しました。皇帝ネロの時代です。
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火事のたび、その瓦礫を砕き、石灰や砂と混ぜてモルタルで再利用してレンガの街並みに変えていきました。

火山の砂を加えると強固な建築材を造れることに気付きました!コンクリートの誕生です。
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木型を使えば、どんな形でも造ることが出来ました。
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木型でアーチを造る図(CG)
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今もコンクリート・アーチの遺跡が残っています。

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ローマのパンテオン神殿。西暦125に皇帝ヘイドリアンが造りました!
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ブログで紹介した、英国の長城を造った皇帝です。
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パンテオンでの観光客のお目当ては大きなドームです。
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上にいくほど軽いコンクリートが使われています!

しかし、ドームの外部にも見るべきものがあります。
16本の柱で支えられた入口。
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柱は長さ12mで重量80トン。大理石の塊から削り出され、継ぎ目はありません!
エジプトで造られ、アレクサンドリアからローマまで地中海を船で運ばれました。

設計では柱の長さは13.5m(45フィート)でした。しかし、大きくて重く、輸送船が地中海で沈む事故が多かったので、建設途中で12m(40フィート)に短縮されました。
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その結果、建物の入り口の屋根は1.5m低くなりました。
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次回のブログ「ローマ帝国の不思議(3)」は8月13日です。お楽しみに。
(ローマ帝国の不思議(2):完)


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ローマ帝国の不思議(1)

ローマ帝国の不思議(1):ローマ帝国とギリシャ  2014年8月3日 Mystery Hunter

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


今となっては記憶は定かではないのですが、大学の工学部の受験では社会は1科目のみ選択で、何を選んだのか?世界史でないことは間違いないと思いますが、と言って、日本史について詳しいわけでもなく、結局は、社会と、古典を含む国語は捨て、数学と物理で得点を稼ぎ、英語(と化学?)は平均点で、何とか希望の大学に滑り込みました。昭和41年のことです。
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       (S41年NHK朝の連ドラ: お花はん。視聴率50%以上)
なんの因果か、昨年6月から、4ヶ月に一回の海外旅行を決意し、12月からはMysterious Questions in the Worldなる大仰なタイトルでMystery Hunterを騙ってブログも始め、世界の歴史や宗教、民族、文化などについて調べることが多くなり、旅行先で見たり聞いたりしたこと、ネットで調べたことをブログで皆さんにご紹介するようになって、今回が51回目です!

文明の発祥についても何度か紹介させて頂きましたが、mhの結論は「メソポタミアの不思議」で暗示させて頂いたように次の通りです。
「3千5百年前、シュメール人により育まれたメソポタミア文明は、ギリシャやローマの台頭に多大な影響を与えた。メソポタミア文明なくして、ギリシャ文明やローマ帝国は生まれなかった。」
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          (メソポタミアの古代都市ウルのジッグラト遺跡)

そこで、今回は、メソポタミア文明を継承したギリシャ文明とローマ帝国について皆さんにご紹介したいと思います。ブログ作成で集めた情報は、11月に組み込んだイタリア旅行を更に楽しくしてくれるものと期待しています。

ギリシャ文明とローマ帝国については皆さんもご存知でしょう。しかし、冒頭に挙げた2つの不思議な質問に直ぐ答えられる方は少ないのではないでしょうか?

     ローマ帝国はどのように発祥したのか?
     ギリシャ帝国は何故、生まれなかったのか?


以下は、これまで大した知識を持たなかったmhがYoutubeやネットで調べた情報の総集編です。楽しく読んで頂けたら幸いです。


調べると、ローマという町の起源に関する伝説が見つかりました。
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 (She-wolf suckles Romulus and Remus:母オオカミがロムルスとレムスに授乳する。)

(Wiki:ローマ)
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。2人は町をどこに築くかで口論となり、兄のロムルスが弟レムスを殺して7代続く王政ローマの初代の王となった。また「ロムルス」が「ローマ」という名の元にもなったとされる
(Wiki完)
ローマが生まれた頃、ギリシャではポリス(都市国家)が生まれました。紀元前776年には、記録に残る最初のオリュンピア祭が開かれ、古代オリンピックはこの大会をもって第1回とするのが通例です。
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     (ペロポネソス半島のオリンピア遺跡:バルカン半島と地続きです。)

ソクラテスは紀元前469年頃ギリシャ・アテナイ(アテネ)で生まれ、プラトン、アリストテレスなどに継承されて花開いたギリシャ哲学の祖となりました。

ピタゴラスは紀元前582年、アナトリア(トルコ)に近いサモス島で生まれました。
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ピタゴラスの定理などで知られる古代ギリシアの数学者、哲学者で、彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与え、「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれたとのことです。(Wiki)

ピタゴラスの定理は「直角三角形の斜辺の長さの2乗は他の辺の2乗を足した値と等しい」というもので、証明の方法は数百通りあるとのことです!
そのひとつ、レオナルド・ダ・ヴィンチの証明を紹介しましょう。
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    (橙色のついた部分を90度回転し、緑色の部分は裏返して橙色に重ねる。)

イタリアやギリシャで町や都市が生まれた紀元前10~8世紀頃には、地中海沿岸に第三の勢力もありました。
フェニキアです!
現在のシリア・レバノン・イスラエルに拠点をもち、地中海沿岸を船で移動して交易していました。
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                   (フェニキア人の交易路)
(Wiki:フェニキアより)
フェニキア人は、エジプトやバビロニア(メソポタミア南部)などの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島(スペイン)まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。
(Wiki完)

記録によると、ギリシャ人も乗せたフェニキアの船が地中海を西に移動してイタリア半島に到達した時、そこには「自分たちと異なる、しかし洗練された文化が既に花開いていた」とあります。

その文化とはエトラスカン文明(Etruscan Civilization)です。エトルリアという地方を中心としたエトラスカン(エトルリア人)の文明です。
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(Wiki:エトルリア、ラテン語: Etruria)
紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあったエトラスカンの都市国家群。ギリシャ語ではティレニア (Τυρρηνία Tyrrhenia)。

白状しますと、mhにとって「エトルリア文明(Etruscan Civilization)」は初耳の文明です!そこでYoutubeでローマ帝国に関するフィルムを探し、2本を観てみました。1本は都市ローマの建設に焦点を当てたもの。もう一つはローマ帝国の興亡を取り扱ったものですが、こちらの方はエピソード1だけ観賞しました。実は、エピソードがいくつあるのか分からないのです!エピソード7はブログ「英国の長城の不思議」で紹介したヘイドリアン長城でしたから、ローマ帝国滅亡はエピソード10とか12とかかもしれません。一つのエピソードが50分ですから、8時間以上見ないと帝国の興亡を全て見ることが出来ないのです!

それは取りも直さず、ローマ帝国が、1千年以上に渡って地中海沿岸、ヨーロッパ諸国に覇権した歴史上、最も寿命が長い大帝国で、50分のフィルムなどに纏められる代物ではない!ということでしょう。そうなると、忍耐力に欠け、気が短いmhにはとても手が付けられません。恐らく、このブログをご覧の方も「8時間のフィルムではねぇ、紹介してもらってもねぇ」と敬遠されるのではないかと思います。

そこで、今回は、手っ取り早く理解したい人を対象に、mhが「ローマ帝国の不思議」と題してご紹介したいと思います。
手っ取り早く、といっても、やはり1回のブログで紹介するには無理があるので、3回に分けたいと思います。

   第一回(今回):ローマ帝国とギリシャ
   第二回:エトラスカン文明とローマ
   第三回:ローマ帝国の興亡


ローマ帝国は王政ローマ(前753年-前509年)、共和制ローマ(前509-前27)を経てローマ帝国(前27-1453年)となりました。
(mh:以降、紀元前○○年は前○○年とします。)

もう一方の雄、ギリシャはどうだったのでしょう?

既にご紹介したようにピタゴラスやソクラテスなどが活躍していたのは前550~前400年頃です。この時期も、相変わらず都市国家が乱立した状態でした。
(Wiki;ギリシャ)
前1200年のカタストロフ(大惨事)によるミケーネ文明の崩壊以降、しばらく暗黒時代と呼ばれる文化的には不毛の時代が続いたが、紀元前8世紀ころに古代ギリシア文明が急速に開花し ポリス(都市国家)が成立するようになった。ポリスは大小さまざまあるが、1500から2500平方キロメートルの領土を持ち、市民と呼ばれる自由民男子とその家族数万から10万人と、奴隷など数万から10万人の人口を抱えているものが一般的であった。諸ポリスは、古代マケドニアによる覇権が確立する紀元前338年まで統一されることはなく、分立した。

そこに現れたのがマケドニア王のアレキサンダーです。
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       (アレキサンダー大王胸像:ヘレニズム時代の作。大英博物館所蔵)
(Wiki:アレキサンダー大王)
アレクサンドロス3世(前356-前323)、通称アレクサンドロス大王、英語風の読みでアレキサンダー大王。

マケドニア王の子として生まれ、アリストテレスに師事した。東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。

アレキサンダーの東征
ギリシャの都市国家を含むマケドニア連合軍を編成し、前334年、へレスポントからアジアに侵攻しました。
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へレスポントはエーゲ海とマルマラ海の間のダーダネルス海峡(上の地図の黄色い部分)に面した町です。有名なボスポラス海峡はイスタンブールの近く、マルマラ海と黒海の間で、上の地図では赤い場所です。

へレスポントを越えた時、アレキサンダーの軍勢は48,100人の歩兵、6,100人の騎馬兵、38,000の船員を載せた120艘の船、で構成されていました。この中にはギリシャ人の軍隊も含まれていました。
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          (アレキサンダーの遠征ルート)
アレキサンダーは連戦連勝を重ね、多くの国を併合して広大な領土を獲得しました。ギリシャと古代オリエントが融合したヘレニズム文化も生まれました。

インドに侵攻した処で永年の遠征で疲れていた兵士が帰国を強く要望したため、メソポタミアのバビロンに引き返します。
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そのバビロンで蜂に刺されて、ある夜の祝宴中に倒れ、10日間高熱に浮かされた後「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言して、前323年6月10日、満32歳で没しました。

アレキサンダーの死後、弱体化したマケドニアを共和制ローマが攻め、何度か仕掛けたマケドニア戦争の末に、前148年、マケドニアを完全にローマの属州にします。ひき続いて前146のコリントスの戦いでローマ軍はギリシャとその同盟軍を打ち破り、ギリシャはローマの属州に組み込まれました。その後、ローマ帝国が亡ぶ1453年まで16百年の間、ギリシャは歴史の表舞台から退くことになったのです。

次回「ローマ帝国の不思議(2)」は8月8日です。お楽しみに。
(ローマ帝国の不思議(1):完)

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