Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草ー11:国会議員数

民主党政権の末期、当時の首相野田佳彦氏と現在の自民党政権の首相で当時は自民党総裁の安倍晋三氏が国会で党首討論(?)をしていました。

記憶が怪しいmhですが、次のようなやりとりだったと思います。
野田「解散選挙ですか!いいですよ、やりましょう!その前に約束して下さい。議員の数は減らしましょう。これはやりましょうよ!それを約束してくれるのなら選挙だってなんだっていいですよ、やりましょう!」
安倍(声が少し上ずって)「いいんですね?本当ですね?解散選挙をやるんですね?約束ですよ!」
つまり、安倍氏は衆議院選挙をするという口約束を、国会のTV中継の最中に、当時の野田首相から引き出したのですね。興奮したのも判らないではありません。

念のため「Wiki民主党」で調べると次の記事がありました。
「報道各社による世論調査において内閣支持率が軒並み低迷し、求心力を失っていた野田は、日本維新の会などのいわゆる「第三極」の選挙準備が整う前に解散・総選挙を行うのが得策と判断。11月に入ると自民・公明両党の求めに応じる形で、年内に解散・総選挙を行う意向が明らかとなった。野田は、衆議院議員定数の削減や環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) 交渉参加推進などを党公約として選挙戦に打って出る構えを見せたが、党内では今選挙を行えば惨敗必至との声が根強く、解散に反対する意見が続出。幹事長の輿石は「党内の総意」として早期解散に反対する意見を取りまとめた。しかし11月14日、国家基本政策委員会合同審査会における党首討論で自民党総裁の安倍と対峙した野田は、「(衆議院議員定数削減法案への賛同の)御決断をいただくならば、私は今週末の16日に解散をしてもいいと思っております」と発言。これを受けて自民・公明両党も野田の提案を受け入れ、事実上16日の衆議院解散が決定した。
この電撃的な解散決定を受けて、早期解散に反対していた党内から離党届を提出する議員が続出した。」
(Wiki完)
その後の選挙では、口先だけで大した政策の実現もできずに国民の信頼を喪失していた民主党は惨敗し、反動で自民党が圧倒的な勝利を得ることになりました。
しかし、あの討論で話題になった議員数の削減は一体どうなっているでしょうか。完全に忘れ去られているではありませんか!選挙公約になかった集団的自衛権などは一生懸命議論していますが!

私は政策について的確に判断できる情報を持ち合わせていません。勿論、能力的にも不十分だと思っています。従って、日本のことを真剣に考えてくれる議員に政策を任せるのが好い、と思っています。しかし、議員の中には、自分のことしか考えない人が多く、政策能力についても私の方がまだましだと思える人も大勢います。つまり、議員の数が多すぎて、不要な、むしろ居ない方が好い人まで議員になっているのです。会社でも国会でも同じですが、能力のない人は、何かしているような仕草をしたがります。その仕草でどれだけ他の人が迷惑しているか、無駄な時間とお金が浪費されているか、気付いていません。まあ、それに気づく能力があるのなら、そんなことはしないでしょうから、手持無沙汰で面子を保てなくなって、何かした振りをしたがるのです。そんな人達の手当は、切手代、研修旅行費用、身内の助手や事務所の必要経費などを含めれば一人当たり数千万円/年もかかっているのですから、税金を払って国会を空転させているようなものです。

あの時、野田首相は議員数の削減を安倍総裁の口から引き出したかったようでしたが、安倍氏がこれに対してどう言ったか、記憶に残っていないということは、議員数の削減に明確に合意しなかったのかもしれません。しかし、政権を取ったら検討する、といった程度のことは言ったのではないかと思います。

野田首相が自らの進退を賭して「議員数をへらしましょうよ!選挙をやりましょうよ!」と言った時、私は次のように思ったことを覚えています。
「議員数削減を決めてまずは身を清め、その後で消費税やら何やら、国民にも意見するくらいでないといけないはずなのに、民主党の公約の一つだったはずなのに、なぜ土壇場まで放置していたのだろうか。野田首相はドジョウだと言っていたが、ドジョウにも馬鹿にされる嘘つきではなかったのか。選挙の直前になって、それまで何もしてこなかった議員数削減を持ち出して、国民の気を引いて選挙を乗り切ろうと考えているご都合主義者ではないのか!仮に次の選挙で民主党が勝っても、また議員削減を放棄するに違いない!」

今日(10月1日)もTVで国会中継が流れています。安倍首相の施政方針演説に対する各党の質問です。しかし、その中には議員数削減は、まだ出ていません。調べると、9月29日の臨時国会で行われた安倍首相の所信方針演説の全文が9月30日付け朝日新聞の第5面にありました。やはり議員削減については一言も触れられていません!

兵庫県の県議だった野々村氏はTVで涙を流して切手代や連日の出張費の釈明をした後「これらの費用は全体から見れば大した額ではないんです!」と言っていました。「国会議員の数や費用を減らしたって、1000兆円の国の借金と比べればゴミみたいなもので価値なんてないんですよ!」と主張する議員には私は国会にいてほしくはありません!選挙では誰に投票しても大差はないかもしれませんが、私は「議員数削減を進める!」と公約してくれる人や党を選ぶことに決めています。前回の選挙では確かマニフェストに議員削減を含めていたので「みんなの党」に投票した記憶があります。皆さんも、次回の選挙では、他の政策なんかに目を奪われず、「議員数削減」一点に着目して候補者を絞り込むようお勧めします。
(完)

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ペトラの不思議


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写真(上)エル・カズネ( Al Khazneh;The Treasury;宝物殿)

今回はヨルダンの世界遺産「ペトラ」です。
ネタはインディ・ジョーンズ張りのYoutube: digging for the truthから入手しました。

見られた方が多いのではないかと思いますが、ハリウッド映画インディ・ジョーンズのシリーズ第3作「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦:Indiana Jones and the Last Crusade」の舞台にもなりました。
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監督スティーブン・スティルバーグ、製作ジョージ・ルーカスの黄金コンビによる1989年のファンタシー・アドベンチャーで、インディ・ジョーンズをハリソン・フォードHarrison Ford、その父のヘンリー・ジョーンズをショーン・コネリーSean Conneryが演じました。私も見ましたが、文字通り痛快娯楽冒険映画でした。

ショーン・コネリーはイアン・フレミング原作「007」の初代ボンド役で世界にデビューしました。ドクター・ノウ1962年、ロシアより愛をこめて63年、ゴールドフィンガー 64年 、サンダーボール作戦 65年 、007は二度死ぬ67年 、ダイヤモンドは永遠に71年、でボンド役を演じていますが、男の魅力一杯の俳優です。1930年スコットランド・エジンバラ生まれで現在84歳。今年9月のスコットランド独立選挙では独立を強く主張する有名人の一人でした。

閑話休題。ペトラ、ギリシャ語で「岩」、と名付けられた町は、北は死海、南はアカバ湾にはさまれた位置にあります。
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アジア・ヨーロッパ・北アフリカの交叉路で、交易で栄えました。
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ペトラと聞くと誰もが直ぐ思い浮かべるのは、シーク(Siq)と呼ばれる幅数メートルの渓谷を行くと、岸壁の間から突然現れるエル・カズネ(エジプト語で宝物殿の意)でしょう。
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観光客と同じように、東側の町El-Gi(エル・ジ)からシーク(渓谷)に入りましょう。
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細い渓谷です。
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映画インディ・ジョーンズで主役の2人は馬で駆け抜けていましたが、観光用の乗り物は駱駝です。
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行く手の左側に妙な岩が残っています。
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駱駝をつれたキャラバン像が彫られていたようです。
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更に進んでいくと・・・
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両側に聳える絶壁の隙間(すきま)から・・・エル・カズネが・・・
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目の前に出現します!
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宝物(エル・カズネ)と言う名のこの建築物の2階中央の頂上にチョコンと載った壷の中には宝物が隠されている!と伝え聞いた盗賊は壷を割って宝を取り出そうと銃で撃ちました。その銃痕が今も残っています。
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全て岩山を掘り込んで造られました。
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中は空洞です。
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壁画も無く、宝物が見つかったという記録もありません。
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2階のテラスの彫刻。像が彫られていますが、何かは判りません。
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寺か神殿ではないかと思われていたのですが、GPR(Ground-Penetrating-Radar地面貫通レーダ;電磁波で地中の異物の有無を探る)で付近を調べたら、地下に空間が見つかりました。
エル・カズネの前の小広場。ネットで覆われ、観光客は立ち入り禁止です。
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そこに地下に続く階段が見つかったのです。
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階段に続くエル・カズネの真下の地下室には2千年前の器や人形(神?)の像がありました。
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隣の部屋には13人の遺骨が・・・
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調査の結果、ナバテア王国のロイヤルファミリーの骨だと判りました。エル・カズネは儀式のために造られた霊廟(mausoleum)だったのです。

エル・カズネを過ぎて更に渓谷を西に行くと円形劇場があります。
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そこから1百メートル渓谷を進んでいくと2つの山地に挟まれた平地に出ます。
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南北に伸びる、幅1km程の渓谷には多くの遺跡が残っています。昔、この渓谷も交易ルートだったと思われます。
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最近の調査結果から、ペトラ遺跡は墓、寺、ビザンチン時代の教会などだったことが判ってきました。神やエジプトのファラオのためのものではなかったのです。

ペトラには3万6千人のナバテア人が住んでいました。
(Wiki:ナバテア王国)
紀元前2世紀前半頃にペトラを中心に栄えたナバテア人の王国。紀元前168年に建国されたが紀元前63年にローマの属国となり、106年にアラビア属州に併合という形で滅亡した。
(Wiki完)

50万平方km(日本の1.3倍)の王国でした。ペトラが首都でした。
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ペトラ建設は紀元前100年から西暦100年の、約2百年に渡って行われました。
ペトラを訪れる商人たちも含めると40万人の大都市でした。

最大の問題は水の確保です。
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降水量15cm/年の地域の町がどんな方法で水を確保していたのか?
岩山に降った雨は、岩壁を伝(つた)って下に流れます。これを岩壁の裾(すそ)に沿って掘った水路で集めました。
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水路は岩をくり貫いて掘られた貯水井戸に続いていました。
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この井戸の直径は3.5m、深さは4.5m。凡そ40立方メートルの水が蓄えられます。これは平均サイズで、ペトラ周辺には大小合計で200以上もの井戸が見つかっています。10万人が1年間に必要とする水を蓄えておくことができました。汲み上げにはロープに結びつけた羊の袋を使いました。

しかし、井戸に溜めた雨水だけでは不十分でした。別に水源を見つけていたのです。

東に3km離れた所にバディ・モウサ(Wadi Mousaモーゼの谷)と呼ばれる町があります。
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旧約聖書で、モーゼが岩を手で叩くと水が湧き出たと言われる所のようです。
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(旧約聖書:・・この岩から水を取り出す?モーゼは彼の片手を上げ、そして・・・2度・・。すると水が出てきて・・・は飲んだ、彼らの家畜たちも飲んだ。)

今でも水が湧き出ている泉が岩穴の中に見つかっています。昔は沢山ありました。
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これらの泉は金持ちが自らの資金で掘り当てたもので、公共のものではありません。ナバテア人は料金を取って泉の水を売っていたようです。

溢(あふ)れ出た水は乾燥していた台地を潤し、野菜や果物を育てました。
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アラビアのローレンスが活躍した、ペトラ南のサウジ砂漠からもキャラバンが来て、香辛料や香(こう;インセンスincense)が取引されていました。
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取引には硬貨が使われていました。今もペトラで見つかっています。
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ナバテアの王は、取引に課税して多くの富を得、ペトラの建設を進めたのです。

そして、メソポタミア、エジプト、ローマ、ギリシャなどの文明が交わったペトラ独特の建造物が生まれることになりました。
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ナバテア王国は古くはシリア、エジプト、そして西暦1世紀にはローマ帝国によって統治された歴史をもっています。
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ローマの影響は大寺院にも現れていました。
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寺院の床下には直径20cmくらいの石の玉が沢山埋められて残っていました。
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カタパルトのようなもので敵の軍勢に打ち込むための石だと思われますが、使われずに残っているところをみると、ローマ帝国統治への移行は平和裏に行われたようです。

ローマ帝国は王国に税金を課したものの自治権は与えたので、ペトラは商業都市として栄え続けることになったのです。
ローマン・スタイルの円形劇場が残っています。シーク(渓谷)にある劇場より小型です。
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繁栄を続けたペトラに転機がやってきます。5世紀になってビザンチン帝国(東ローマ帝国)の統治になると商取引の中心はペトラの北の町ボストラに移ってしまったのです。
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これがペトラやナバテア文明に最後の打撃を与えることになります。

ペトラに残っているビザンチン・スタイルの教会から重要な発見がありました。
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7世紀初頭、大きな地震で教会の建物が破壊されたのですが、その時、瓦礫で埋められた貴重な品物がヨルダンの首都アンマンのアメリカ歴史センター(!)に保管されています。地震で倒れた家具などの下から見つかった、火事で焼け焦げたパピルスの書類です。
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丸められた状態で焼け焦げたパピルスの紙を、糊で出来た薄い膜の上に慎重に広げて貼ってゆくと文字が浮かび上がります。
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6世紀頃の裕福な家系の歴史、税金、遺言などの記事がギリシャ文字で書かれています。

ペトラには当時でもまだ裕福な人達が暮らしていたのですが、地震はペトラの崩壊を決定づけました。つまり、地震と交易ルートの変更による富の縮小がペトラを葬(ほうむ)ることになったのです。

住民だったナバテア人は財産を持って町を去りました。そして7世紀末、ペトラは放棄され、19世紀始めにスイス人探検家が発見するまで、西洋社会から全く忘れられていたのです。
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Youtubeのフィルムは下記でお楽しみ下さい。

Petra one of the most Mysterious Archaeological Sites on Earth
https://www.youtube.com/watch?v=JXcF2AAkGVo

(完)

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mh徒然草ー10:真の価値とは?

中国のネット通販大手「アリババ」が9月19日、ニューヨークで株を上場し、トヨタやサムソン電子よりも市場株価総額が大きかった、というニュースがありました。アリババは中国の通販大手で、取り扱わない品物はないと言われる程なんでも扱うようです。調べたら、中国軍の戦車もネット販売しています。何故か2台纏(まと)めて発注する必要があるようです。さすがに値段はネットでは非公開で、問い合わせないと判りません。

アリババ株を持っていたソフトバンクの孫正義社長は、今回の上場で数兆円の含み益を得たようですが「株は手放さない!」とのこと。もっと成長、つまり株価の上昇、が見込まれるからでしょうか。

4,5年前の情報ですが「大学生の就職希望先第一位は東京三菱UFJ銀行」というニュースがありました。ネットで調べると2014年は文系が住友商事、三菱商事、伊藤忠商事、で東京三菱UFJは4位。理系では日立製作所、東芝、が1,2位で3位は三菱商事、以下JR東日本や商社、通信会社が並んでいました。
http://www.diamond-lead.co.jp/ranking14/

さすがに理系ではメーカー、つまり生活に必要な「物」を創造するというか製造する企業が1,2位にきましたが、これを除けば、学生の人気は商社か金融か通信などのサービス業に集中しています。

アリババもソフトバンクも、「物」は創造せずに情報やサービスを取り扱う会社で、私が大学を卒業した44年前なら、特に理系の学生には関心が薄かった就職先ジャンルです、勿論、当時はアリババもソフトバンクも、インターネット環境すら世の中に存在していませんでしたが。

だからという訳ではない、と思うのですが、昨今の学生が情報やサービス関連の仕事を好み、「物」を造る仕事への関心が低いのは、とても残念です。

情報やサービスを取り扱う仕事によって産み出すことができるものは現金だけです。実体のない情報や、それ自身では価値がない現金への関心が、生活に直接的に結びつく衣服や電化製品や自動車や家や食料への関心より高いのです。

確かに、お金は便利なものですから、何が無くともお金が欲しい!と望む人が多いのは自然かもしれません。しかし、その希望を叶えるために若者が望む仕事が、「物」造りではなく、情報とサービス、というのは、繰り返しますが、残念です。

情報やサービスは、「物」を効率よく造る手助けをしてくれますが、それだけでは何も造ることはできません。お金を得ることは出来ますが、得たお金はどこかから寄せ集めてきたお金で自分たちが創造したお金ではありません。お金は造幣局しか作れないのですから。

情報やサービスにうつつを抜かしていると、そのうち「物」不足の時代を迎えることになるでしょう。これに備えて物造りを検討するのが一番よいと思いますが、年を取ってそれが難しいmhは衣食を節制して対抗しています。
おかげで、気のせいか、腰回りがスッキリし、身のこなしも好くなりました!

今気付いたので追加しますが、老人介護はサービス業ですが、大学生が希望する職業ではありません。最大の理由は少ない報酬です。家族を養うのも困難な上に仕事はキツイ、とのレポート番組をTVで見たことがあります。きつい仕事で給料が少ないなんて、何か間違っていますよね。このサービスを受ける人つまり介護を求める老人が、大した内容もないサービスだからお金を沢山出したくない!と駄々をこねているから給料が安く設定されているんでしょうか?いや、きっとそうではなくて、老人の多くが十分な蓄えがないので支払ができない、または支払われたお金の一部しか介護士に配分されていない、のいずれかでしょう。北欧では税率は高いのですが、老後の福祉は完璧で、大学では卒業までの学費や食費も国費で賄(まかな)われているようです。日本では消費税がUPしても道路や建物に使われて福祉にはまわらないし、1千兆円を超える国の借金が減ることもありません。このまま、また消費税をUPするのは反対です!一体全体、どうなるんでしょうかねぇ、この国の将来は。
(完)

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テオティワカンの不思議

今回はYoutubeからテオティワカンの不思議(Teotihuacan City of the Gods)をご紹介しましょう。
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西半球最大の文化センターだった。何世紀か繁栄して突然崩壊した。
記録は何も残っていない。遺跡とアートがあるだけだ。
誰が造ったのか?何が起きたのか?
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テオティワカンには今も3つの大きなピラミッドが残っている。
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最盛期の西暦450年、小さい物を含めて200ものピラミッドがあった。本格的に建築が始まったのは西暦80年頃だ。
50平方kmの古代の大都市では15万の人々が高度に設計された住居で暮らしていた。
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その都市が西暦550年頃に突然崩壊したのだ。何の記録も残っていない。
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都市はメキシコシティ北東40kmに在った。文化も人種もマヤ(Maya)とは異なる。子孫と思われるアステカ人(Aztecs)も存在に気づいていなかった。
(mh注)
マヤ(Maya)文明は、メキシコ南東部のユカタン半島一帯、グァテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心に、紀元前5世紀頃からスペイン人の侵略で消滅する16世紀まで続きました。一時期テオティワカンに侵略され、文化面で影響を受けています。
アステカ(Azteca)文明は、1428年頃からスペイン人の侵略で消滅する1521年までの1百年間、現メキシコシティを中心に栄えました。

中米の歴史を語る時、メソアメリカ、プレコロンビアンという言葉が現れます。

メソアメリカ(Mesoamerica)はアメリカの中央(メソ)という意味でメキシコ、グァテマラ近辺を指す言葉です。文明発祥の地メソポタミア(Mesopotamia)は「川の間」という意味で、メソアメリカ同様ギリシャ語が語源です。

プレコロンビアン(Pre-Columbian)は‘コロンブス以前の’という意味です。1492年、コロンブスがアメリカを見つけるまでアメリカ大陸は西洋人には未知の土地でした。しかしコロンブスの発見(最初の航海ではキューバなどカリブ諸島に上陸して現地人の殺戮(さつりく)と、金(きん)の窃盗(せっとう)をして帰国しただけのようです)以降、南北のアメリカ大陸、中央アメリカ、カリブ諸島、は次々と西洋人に侵略され、アステカ文明も、マヤ文明も、インカ文明も破壊され消滅してしまいました。侵略者・破壊者には、コロンブス以前のアメリカは野蛮な土地で、彼らの侵略のおかげで文明も文化も始まった、という独善的視点があって、だから歴史をコロンブス前と後に分けることになったのでしょう。
(mh完)

アステカ人はテオティワカンがあるメキシコ盆地で文明を築いた。恐らくテオティワカン人の末裔(まつえい)だろう。
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彼等が初めて廃墟の都市を発見したのは都市滅亡の7百年後だ。
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彼等はその都市をテオティワカン「神々が生まれた場所」と名付けた。今日、メキシコで最も多くの観光客が訪れる場所だ。しかし、テオティワカンについて知られていることは少ない。

誰が造ったのか?何故滅びたのか?

博物館では戦士の墓跡を見ることが出来る。
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戦士の頭蓋骨を囲むように配置された顎(あご)のレプリカの数は、何人の部下を持っていたかを示している。テオティワカンは神殿の町、平和な都市と考えられていたが、戦士の骨はそれを見直す契機となった。

両手を後ろ手に、そして両足も縛(しば)られた骨も沢山見つかっている。
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恐らく生き埋めにされたのだ。彼らは何者なのか?

歯に含まれる放射性酸素の分析からテオティワカンと関係ない場所で育った人達であることが判った。グァテマラか、テオティワカンの西3百kmのミチュアカンの出身だ。検出された水の成分が似ている。
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また骨に含まれる放射性酸素から、死ぬ数年前からこの地に住んでいたことが判明した。
テオティワカンに連れてこられて数年間兵士として働き、生贄(いけにえ)にされたに違いない。テオティワカンはこの地域一帯では支配的な都市だったから各地から人を集めることが出来たのだ。自らを犠牲にして得ようとするどんな価値がテオティワカンにあったのだろうか?

テオティワカンは特殊な場所だった。神殿のために人が集められ、生贄になったのだ。
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生贄になれば神の加護が与えられ、名誉と子孫の保護が約束されていたに違いない。

この一帯では紀元前4百年頃から人が住んでいた痕跡が見つかっている。しかし都市建設が始まったのは西暦80年だ。建設当初から、この地をメソアメリカの中心にしようという意図があったことは都市のレイアウトから判る。上空から気球で見てみよう。

中央を通る大通りは「死者の大通り」で、通りを挟んで神殿跡が並んでいる。
突き当りにあるのは「月のピラミッド」だ。
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さらに大きなピラミッドが大通り中央辺りの東側にある。
「太陽のピラミッド」と名付けられている。
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ピラミッドや大通りの名、テオティワカンという名も、都市を見つけたアステカ人が付けたもので、原住民が何と呼んでいたのかは記録がなく、全く判ってはいない。
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死者の大通りの南端近くには「羽根が生(は)えた蛇の寺院」と呼ばれるピラミッド跡がある。
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通りと周辺に並んだピラミッドや寺院跡から、この地が信仰を目的とした特別な都市だったと考えて好い。

以下、Google Earthの情報です。
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遺跡の中央を貫く2kmの死者の大通りの一番手前の右に羽根が生えた蛇のピラミッド、その奥に太陽のピラミッド、通りの突き当りに月のピラミッドがあります。

死者の通りは、北、下の写真で右側、に対し約15°東側に傾いていますが、その理由は不明(ミステリー)です。なんだって理由があるはずだ、とお釈迦様ではありませんが、フィルムでも言っていました。Wikiによると、当時は地磁気の北極が地軸の北極から15度ずれていたため、という説もあるようですが、この大通りの延長上に神の山があったとする説の方が正しそうだとのことです。
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北端(右側)が月のピラミッド、中央東に太陽のピラミッド、そして南端の東には羽根が生えた蛇のピラミッド跡(他の2つと比べ崩壊が激しい)です。

死者の大通りの両側には寺院跡が並んでいます。

死者の大通りの最北端にある月のピラミッドを南からみた写真です。
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上の写真の撮影位置でカメラを180度南に振ったのが下の写真です。
太陽のピラミッドが死者の大通りの左側に見えています。
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次は北端の月のピラミッドから死者の大通りを見通した写真です。
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大通りから東に入った太陽のピラミッド。
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角度を変えてみた太陽のピラミッド。
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実はこのピラミッドはブログ「世界の七不思議」で紹介したエジプト・ギザの大ピラミッドに次ぐ世界で三番目の大きさだと言われています。
で、世界最大のピラミッドはというと・・・
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Great Pyramid of Cholula:「チョルラの大ピラミッド」
テオティワカンから90km南東にあります。羽根が生えた蛇を祀る寺院だったようで、3世紀頃から建てられ始めました。Wikiでは面積は400mx400mとなっていますが、次のGoogle Earth 3Dではそんなに大きいようには見えません。
ピラミッドの頂きに立つ建物はスペイン統治時に作られた教会(Church of Our Lady of Remedies)です。
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さてテオティワカンの写真に戻ると、次は太陽のピラミッドから更に南に行った場所でカメラを北側に向けて死者の大通りを見た写真。
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この写真でも判るように、ピラミッドや建物や道の敷石は、石の隙間に白い漆喰(しっくい)が擦(す)りこまれています。この漆喰は石灰石で、実はこの漆喰を使う建築法がテオティワカンの滅亡に繋(つな)がったと考えられています。その理由は後で紹介します。

さらに南に下って、死者の大通りの真ん中で北を見た写真。
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次は南端東側の、羽根が生えた蛇のピラミッドの正面写真。祭壇の向こうがそうです。
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蛇のピラミッドの祭壇から北を見た写真です。手前にはピラミッド前の広場を囲む階段状の遺跡の一部が見えています。
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「羽根が生えた蛇」のイメージをネットで見つけたのでをご紹介しましょう。
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左の絵は羽根の生えた蛇が人を飲み込む様子を、右の絵は恐らく擬人化された羽根の生えた蛇が、何かを殺そうと追いかけている様子を描いているようです。崇拝されていたのか、恐れられていたのか?きっと、恐れられながらも崇拝されていたのではないかと想像しますが・・・

さて、以降は少し話を端折(はしょ)って、手早く進めていきましょう。

太陽のピラミッドに昔から掘られていた長さ1百メートルの孔に、科学者はミュオン検知器を設置しました。(muonミュー粒子;解説は省略しますが小さくて石をも通過します。)
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ピラミッドに空洞があると、突き抜けてくるミュオンの量が増えます。
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今後数年かけてテータを蓄積し、空洞がどこかにないか、探そうとしているのです。
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テオティワカンから数十km離れた所に坑道があります。
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中には黒曜石(こくようせきObsidian)の鉱床があり、今でも採掘されています。
黒曜石は火山性ガラスで、当時はナイフや矢尻などの刃物として重宝がられていました。この石を売り歩いてテオティワカンの富を確保していたのです。テオティワカンの黒曜石は遠くグァテマラでも発見されています。
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住居の壁には祈祷師の絵が描かれていました。羽根が生えた蛇の祈祷師です。
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生贄(いけにえ)になっても再生することを住人が信じていたことを示唆している、と写真の学者は言っていました。
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学校だったと思われる遺跡の壁にはいろいろな遊びの様子が描かれています。
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寺院だったと思われる遺跡の壁に腰でボールを打ち合っている様子が描かれていました。
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今もメキシコ北部にはこのゲーム「ウラマ」を楽しむ人達がいます。
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4,5人のグループ対抗の無邪気なゲームのように見えますが、当時は名誉をかけた試合でした。勝者が生贄になれるのです!!

ピラミッド、石畳の通り、住居など、石組みの建造物には石灰の漆喰(しっくい)が沢山使われていました。
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漆喰を造るには石灰石を8時間800度で加熱する必要がありました。そこで都市周辺の松林の木が伐採(ばっさい)され、燃料として使われました。
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毎年、上塗りしていました。
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そして恐らく、周辺の全ての林は消滅してしまったのだと思われます。

墓の跡からは貝殻などから造られた小さな装飾品が見つかります。
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当時、この辺りでは貴重なものでした。古い墓からはよく見つかります。しかし、新しい墓を調べると、裕福な家庭の墓にしかありません。貧富の差が出始めたことが、こんな些細な装飾品からも推定できます。

実は大きな問題が起きていたのです。
テオティワカン晩年の死者の歯を調べると「成長中断」が確認されました。
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遺跡からは町が故意に燃やされたと考えられる痕跡が見つかりました。
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焼け跡は寺院や支配者の住宅に限られています。残った炭のカーボン・デイティング(炭素年代測定)から、1500年前にテオティワカンが消滅した時期の炭だと判明しました。

生贄となることで繁栄が保証されていた都市テオティワカン。しかし周辺の森林や畑が機能しなくなり、犠牲の代償として約束していた物が与えられなくなってしまったのです。食料すら満足いく状態ではありませんでした。
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住民の反乱が起きました。
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文明は混乱の中で崩壊していったのです。
(補足)
メキシコシティがある場所はメキシコ盆地またはメキシコ谷と呼ばれ、昔はテスココ胡(スペイン語Lago de Texcoco)と言う名の大きな湖がありました。
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上の地図の右上の矢印がテオティワカン、中央左の矢印は、湖の島で現在のメキシコシティの中心部を示し、二点間の距離は約40kmです。
この大きな湖はスペイン人侵攻後に始まった灌漑で消滅し、メキシコの首都に生まれ変わりました。

Google Earthを見ると、上の二つの矢印の中間あたりに妙な図形が・・・
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調べると名前はスペイン語でEl Caracol。英語でThe Snail、つまりカタツムリです。
渦の直径は2.5km。実は塩田で、塩水を乾燥して作った塩を、渦巻き状の道路を通るトラックで回収していたようです。多分、塩田会社の所有地だと思います。敷地内は更地(さらち)で住居はありません。緑色の場所は沼地です。

テオティワカン紹介フィルム(45分)は次のURLでお楽しみください。


テオティワカンの写真集です。(7分)


(完)

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mh徒然草ー9:靖国参拝

(本ブログはタイミング優先の緊急特番です。)

今日(10月14日)、いつものようにYahooニュースを見ていたら、靖国神社参拝に関するニュースがでていました。
「公明党幹部は14日、高市早苗総務相が靖国神社の秋季例大祭に合わせて参拝する意向を表明したことに対し、「日中の微妙な時期だから、安倍晋三首相の考えていることを実現できるような形に配慮すべきだ」と述べた。11月に北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議での日中首脳会談の実現に向けて配慮すべきだとの考えを示したものだ。 高市総務相は14日朝の記者会見で、今月17日から始まる靖国神社の秋の例大祭にあわせて靖国神社を参拝する考えを明らかにした。」
で高市総務相のニュースを探すと映像が見つかりました。
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高市総務相「毎年、春も夏も秋も、そしてまた折に触れ、一人の日本人として、ご英霊に感謝と尊崇の念をささげてまいりました。時間の合うタイミングで参拝させていただきたいと願っています」と言ったようです。

「本件について菅官房長官は「個人としての行為であれば問題ない」との考えを示した。また、安倍首相や菅長官自身が秋の例大祭の期間中に靖国神社を参拝するかについては「言わないことになっている」と述べるにとどまった。」とYahooニュースは結んでいました。

公明党の武市総務相発言に対するコメントをみると、参拝してもしなくてもどちらでも好きにすればいいというのが党の方針だけれど、今はタイミングが悪いから止めておくべきだ、と言っているのですね。自民党べったり!の党になってきたなぁ、と思います。恐らく、心情的には武市総務相に同調しているのではないでしょうか。
 
また、赤い襟巻?ストールって言うんですかね、で登院した松島みどり法相のコメントも見つかりました。
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「松島みどり法相は(9月)26日、日本外国特派員協会で記者会見し、「法務大臣でいる間は靖国神社に参拝しない」と話した。同協会に所属する特派員の「靖国神社へ参拝する予定はあるか」との質問に答えた。松島法相はこの日、日本の観光立国に向けた入国管理や再犯防止の取り組みなどの法務省の施策を説明した後、同協会の会員らから質問を受けた。「靖国神社へ参拝する予定はあるか」と問われたのに対し、「靖国神社にはお参りしたこともある」と前置きした上で、「法務大臣としての職責をまっとうする間、政府の一員である間はお参りするつもりはない」と明言。さらに「これまでもそうだが、国会議員がグループで(靖国神社に)行くのは私の感覚にそぐわない。一日本人として戦没者の霊を慰めたい、敬いたいという気持ち。私の心の中の問題だ」と話した。

安倍首相がどうするか、本人の直接の発言はニュースには見当たりませんでした。映像ニュースによれば、下記の通りで「見送る」ようですが・・・・・・
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安倍首相の信条は武市総務相と同じで「参拝」のはずです。かつて、参拝していましたし、その時も「英霊に感謝するのが何故悪いのか!」と主張していましたから。

では何故、安倍首相は今回、参拝を見送るのか?信条を曲げたのか?変えたのか?本人に聞いてみないと判りませんが、これまでの首相の言動から推察するに信条は変わっていないと思います。よって便宜的に参拝を見送ることにしただけなのです。その便宜とはなにか?これ以上、中韓の反論を受けたくない、ということでしょう。しかしこれは単なる便宜ですから、そんなもので一国の首相が信条を曲げて参拝を見送る、というのは情けない話です。堂々と参拝すればいいではないですか!

しかし、参拝しない!としたのですから、当然ですが理由があるのですね。お釈迦様も仰(おっしゃ)るように、因果応報、原因があっての結果ですから。
参拝したら、「よくやった!偉い!」と言ってくれる外国の政府はひとつもなく、逆に非難は山ほど浴びるでしょう。中韓だけでなく、米国もかねがね、安倍首相の言動には「困ったものだ!」と思っています。今回の参拝見送りという便宜は、中韓もさることながら米国の思惑に配慮したからだという気がします。

安倍首相の「侵略戦争という定義はない」という日中戦争・太平洋戦争に関する見解や、戦勝国によって日本の軍関係者などが裁かれた極東裁判は「世界的にも不当なものである」という意見(が、首相の口から又は自書の中で、あったと記憶してますが)は、侵略を受けたと考えている中韓や極東裁判を取りし切った米国から非難されているはずです。これに懲(こ)りたのか、首相としての立場を考えると自分の信条で押し通すことは日本のためにならない、と殊勝にも悟ったのかどうか判りませんが、今回の靖国参拝は見送ることにしたのでしょう。

私は、靖国参拝見送り、という首相の判断は正しいと思います。

しかし、安倍首相も、問題を起こすのが得意な人を商務相や法相に選んでいますねぇ。世間では「お友達内閣」などと嘲笑しているようです、首相はその評価には不満でしょうが。

菅官房長官も昔からの自民党の考えを述べているだけなのでしょう、「大臣として参拝するというなら良いか悪いか考えてみるけれど、個人としての行為だろうから参拝しようがしまいがどちらでも良い」と今回も言っているんですね。個人として、というのも判らない言い分です。総務相が参拝する時は総務相の役職を返上して参拝するっていうことでしょうか?としたら安倍首相も首相の役職を一時返上し、個人として靖国に参拝すればいいではないですか!

騒ぎを起こすことを最優先するマスコミも「公人として参拝したのか?個人又は私人として参拝したのか?」などという、ただ火をつけることだけを目的とした、訳のわからない時代遅れの質問を、問題を起こしそうな議員にターゲットを絞って問い質すようなことは、そろそろ終りにした方が好い時期だと思いますが、どうするでしょうかねぇ今回は。

国会議員が参拝する以上、普通に考えれば、公人として参拝するに決まっています。何故なら、議員が参拝すると日本に影響を与える国際問題を引き起こすからです。私mhは個人であり私人ですから、参拝したって米国や中韓は何の反応も示しません。しかし議員が参拝すれば個人(私人)として参拝した!では通らないことは、これまで国会議員の参拝の都度、なにが起きて来たか振り返れば判ります。そんなことは気にしていないんでしょうね、武市総務相も菅官房長官も。
国際的な批判を判った上で参拝しているとしたら「個人として!」などと誤魔化さず「国会議員として参拝しました」と言って、国内外で起きる問題の責任は一身に受け、それに対する反論や対応方針を国民にきちんと示すべきだと思います。

さて、いつものように、だらだらと際限もない愚痴の垂れ流しの様相を示し始めてきたので、この辺りで打ち切りましょう。しかし、結局、武市総務相は、公言した通り参拝するのでしょうか?安倍首相はどうするのでしょうか?ASEM(Asia-Europe Meetingアジア欧州会合;16・17日)でイタリアに行くようですから、時期をずらして参拝するつもりなのでしょうか?

終戦、正しくは開戦時に決まっていた敗戦、から70年を経(へ)ようとしている今でも靖国神社問題を引きずっている日本の政界は、まだ戦後を脱していないと言えるでしょう。
(完)

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イースター島の不思議

西洋文明によって発見されたのが復活祭(イースター)の日だったのでイースター島と名付けられた絶海の孤島の物語です。
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復活祭(イースター)は、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭です。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」ですが、宗派で異なり(!)3月22日~5月8日の間の日曜日に行われています。

イースター島は、南太平洋のポリネシア諸島と南アメリカの間にあり、南アメリカ大陸からは凡そ3600km離れています。一番近い無人島(東側)まで400kmもあるため「世界一孤立した有人島」とも言われています。
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島は少し傾いた二等辺三角形をしています。
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南西端から東端まで(三角形の最も長い辺)の距離は凡そ20km。北側の高地が海抜500mで最も高く、そこから島全体が見渡せそうです。
南西端近くに飛行場がありチリ・サンチャゴからは5時間のフライトです。

1723年4月5日の復活祭の日、2つの世界が出会いました。外の文明から隔離されていた島にオランダ船がやってきたのです!
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上陸して何百もの石像(モアイ)を見たオランダ人は驚愕しました。
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その後、いろいろな出来事を経て、今日では、イースター島には4千人が暮らしています。しかし、大半はチリから、残りは他の場所からの移住者で、祖先が島民の人は一人もいません!
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つまり、この島の記憶を持つ人は誰も残っていないのです!

従って、多くの疑問が解けないまま今日に到りました。
この島に来たのは誰か?
どんな方法でたどり着いたのか?
なぜモアイが造られたのか?
モアイにはどんな意味があるのか?
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そして
何故、島民に最後の時が来たのか?この文明を破壊する何が起きたのか?

やせ細った木製の人形「モアイ・カバカラ」が語るものは何か?
大きな嘴(くちばし)と目を持つ鳥人間が岩に彫られている理由とは?
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科学者や歴史学者たちの努力によって、これらの疑問が解かれようとしています。

まず、誰が島民なのか?どこから来たのか?ですが、南アメリカから渡った人々だと考えていた冒険家が1950年代に原始的な船で島に渡り、「証明できた!」と宣言しました。
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しかしそれは単なる意見で、反対側のポリネシアから来たと考える人も多かったのです。

決着を付けたのは、島で見つかった古い頭蓋骨のDNA分析です。
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島民はポリネシア人の子孫である!との結論が下されました。
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ポリネシア人は海の民でした。何百キロも航海する技術を持っていました。島から島に船で移動した彼等は今では300もの島に定着しています。

カーボン・デイティング(炭素年代測定)から、ポリネシア人が島に来たのは西暦700年だったことが判明しました。その後1723年にオランダ人がやってくるまで1千年の間、外界から隔離されていたのです。

島に住み着いたポリネシア人は直ぐに繁栄していきました。沢山の住居の跡が残っています。
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農業や漁業も盛んでした。一時は1万2千人の人口になったと思われます。現在の3倍もの島民が暮らしていたのです。

そして、島を有名にした石像が生まれることになりました。
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この石像を見た人達は、その後300年間、悩まされることになりました。
どんな方法で造られたのか?どのようにして石切り場から島を横切って運ばれたのか?なぜ造られたのか?石象は何を意味するのか?

これらの疑問も解き明かされる時がきたようです。
ラノ・ララクと呼ばれる石切り場で、製造方法に関するヒントが見つかりました。
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300以上もの像が残っています、いろいろな製作段階の姿・形で。

硬い石で岩盤を叩いて石像を彫り出したのです。1体を彫るのには何年もかかったはずです。
掘り終えた次の仕事は運搬です。
石切り場に大きな穴が見つかりました。
像を引き起こして丘を下(おろ)すための丸太をこの穴に立てたのではないか?
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穴の縁(ふち)の一部はロープでこすられたように滑らかです。

掘り出された石像は丘や谷を越えて運ばれました。
どのように運ばれたのか、当時の道具だけを使った試みも行われました。
像を直立して運んだと主張する研究者もいます。「伝説によれば彼らは歩いたのだから。」
直立して運ぶのは不安定なので倒して運んだはずだと主張する人もいます。
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方法はどうであれ、丘や谷を越えて、時には10マイル(16km)の距離を、石像は運ばれたのです、80トンを越える石像も!
石像を運ぶ作業では椰子の丸太は必ず使われたでしょう。

最大の疑問は、何のために造られたのか?ではないでしょうか。
モアイは何を表しているのでしょう?
宇宙人が魂を入れたのだ、と主張する人もいました。
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現地系の考古学者は古代の言葉から謎解きに挑みました。
モアイの意味は「先祖が生きていた時の顔」だというのですが、死者の顔のように見えます。
ある時、倒れたモアイの近くに、妙な形の石の欠片を沢山見つけました。
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彼はそれがモアイの眼だ!と気付きました。眼を入れると死者が甦って生者になります!
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モアイが見ているのは島民ではありません。彼等の頭のずっと上を、彼等の未来を見つめているのです。
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モアイは祖先崇拝のために造られたに違いありません。海を背に建つ石像は神と島民の間を取り持ち、子孫を守っていたのです。

しかしある時、良くない間違いが起きて、大半のモアイは引き倒されてしまうのです。台(現地語でアフ)の上に据えられていた像は全て倒されました。
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(mh:本社が香川県にあるタダノ(資本金130億円)というクレーン車メーカがクレーンや技術を無償提供し、1992年から倒れた像を起こすプロジェクトが進んでいます。)

石切り場の像は放棄されました。カーボン・デイティングによると像の倒壊や放棄は16世紀に起きています。西洋との接触の1世紀前です。

どうやら、島民は何らかの理由で彼らの神を見捨てたのです!
インカ伝説のような変化が起きたのでしょうか?
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恐怖の時代とか、カニバリズム(人の肉を食べたり神に捧(ささ)げたりする行為)といった恐ろしい、不吉な事件が!

考古学者が石器を見つけました。槍(やり)の穂先です。
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石切り場が放棄された時期のものでした。何かの理由で島民は武器を造り始めたのです。

その頃の人骨を6百個ほど調べると傷がある頭蓋骨が沢山みつかりました。
争(あらそ)いがあったのです!
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しかし、こんな小さな島の中で、どんな理由で争うことになったのか?
イースター島の食物習慣に詳しい学者がヒントを見つけました。島では見られない沢山の種類の鳥の骨です。
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最初にポリネシア人が来た時、島は鳥の楽園だったのです。食物も豊富だったはずです。
しかし、1600年代までには、石切り場は放棄され、時を同じくして全ての鳥もいなくなったのです。食糧が無くなったからに違いありません!魚の骨も見当たらなくなりました。

食べるものが無くなり、島民は、木製の、痩せ細った人形のようになってしまったのです。
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飢餓でカニバリズム(人の肉を食べること)や、食料を巡る争いが起きました。そして多くの人が殺され、モアイも破壊されることになったのです。

しかし何故、食糧の欠乏が起きたのか?人口の増加が原因なのか?

実は、欧米人が初めて島に来た時、彼等は木が無いことに気付いていました、他の島には沢山あるのに!木もないのにどうして像を移動できたのか?どうしてカヌーを造れたのか?
科学者は島にある沼の底からあるものを見つけました。
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沼の底の上層の泥から丸い、草の花粉を見つけました。島の大半が草原ですから当然でしょう。しかし、下層からは細長い、ヤシの花粉が見つかったのです!
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やはり昔はヤシで島全体が覆(おお)われていたのです。
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ヤシの花粉が無くなった時期は石切り場が放棄され、争いが起きた時期に一致しました。

これらの発見が暗示する結論は驚くべきものでした。
モアイがヤシの木を絶滅させたのです!

造られる像は段々と大きくなる傾向にありました。造りかけの18mで400トンものアモイもあります。
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掘り出したり、運搬したりするために使われるヤシの量は増え続け、ヤシの林は減少していったのです。そしてとうとう、ヤシが絶滅する時を迎えることになったのです。

小さな島です。最後のヤシの木を切り倒す時、他にはヤシが残っていないことに島民も気付いていたはずです。しかし、強迫観念にとり憑(つ)かれ、狂信的になっていた島民は、モアイのために最後のヤシさえ切り倒してしまったのです!
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結果は絶望的なものでした。雨のたびに土壌が流れ去り、作物の収穫量が減少してしましました。カヌーを造れないので漁業も出来ません。カヌーが無ければ島から逃げ出すことすらできないのです!

住民は自(みずか)らが造った地獄の罠(わな)に嵌(はま)ってしまったのです。食料を巡る争いが起き、その結果、神と崇(あが)めてきた祖先の像、モアイ、を引き倒す行動に走ることにもなりました。

住民が自ら生んだエコロジカル・デザスター(生態学的悲劇)でした!
イースター島は太平洋に浮かぶ孤立した島です、丁度地球が宇宙で孤立しているように。
その地球では、我々は資源を消費し続けています。異常気象も起き易くなりました。水や食料の危機が来るかもしれません。
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島の歴史は地球の将来に対するエコロジカルな警告だと言えるでしょう。

しかし、何かまだ、しっくりしないものが残っています。
1722年に初めて島を訪れたオランダ人が記(しる)した航海記を調べた人がいます。
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記録には「島にはポテトやコーンがあった。島民は平和に健康的に暮していた」とありました!何かが島民を絶滅から引き戻していたのです。

海からそそり立つ絶壁を背にした火口近くの岩から、大きな目と嘴(くちばし)をもつ像が彫られた石が沢山みつかりました。
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鳥人間です。モアイの崩壊が島民の悲劇の始まりとしたら、この場所は悲劇からの脱出が試みられた場所だったのです。

島民は、争いの元になったモアイへの信仰を断ち切り、空を自由に飛ぶ鳥を信仰対象にしていたのです。
権力者に指名された若者達が、崖を下り、海に浮かぶ岩まで泳いで鳥の玉子を取って持ち帰る競走が毎年行われていました。優勝者にはバードマンの称号が与えられていました。
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殺し合うことも無く平穏な生活を取り戻していたのです!
だからオランダ人が初めて島を訪れた時、島は平和で、食糧も豊富だったのです。最大の危機は終わっていたのです。

としたら、この島民を破滅してしまったものは何か?それは異なる文明との出会いでした!

1722年の感謝祭の日、オランダ人が上陸して数分の後、多くの島民が銃殺されました。しかしそれはトラブルの始まりでしかありませんでした。
その後、島民の生活は大きく変えられていきます。次々に船がやってきました。
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彼等は武器より恐ろしいものを持ち込みました。病(セパリス?)です。
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多くの島民は理由も知らず死んでいきました。

1862年、最後の打撃(ブロー)が訪れます。ペルーからの奴隷商人です。人口の1/3に相当する1千5百人の島民をペルーに連れていき鉱山で重労働に従事させました。
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極悪の作業環境の中、ほとんどの島民労働者が1年の内に死んでしまいました。
生き残った15人が島に戻された時、彼らは、恐ろしい物を持ち帰ります。天然痘です!
後に「大量死」と呼ばれた悲劇で、埋めきれない死体が散在することになりました。
そして数年後、全ての文明は島から消滅してしまったのです。

いろいろな出来事がありました。環境を浪費しつくした島民の物語と言えるかも知れません。しかし、もし西洋との出会いがなければ、島民が、島の文明が消滅することは無かったでしょう。
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以上がYoutube「Horizon - The Mystery Of Easter Island」の内容です。
関心がございましたら次のURLでフィルムをお楽しみください。
https://www.youtube.com/watch?v=P-bVu_FiJ50


モアイの移動方法をコミカルにまとめた映像がありますので興味があればご覧ください。
4分程度で、本命は一番最後に紹介する案だと暗示してますが、どんなもんでしょうかねぇ。


(イースター島の不思議;完)

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mh徒然草ー8:アメイジング・グレイスの旅

9月18日、NHK-BSアーカイブスで「アメイジング・グレイスの旅路」が放映されていました。2時間物で、偶然チャンネルを合わせた私は後半の1時間しか見ることができなかったのですが、感動しました。

ゴスペル(讃美歌)としてアメリカの黒人の間で流行し始めたことになっていましたが、以前Youtubeで見た映画からイギリスが発祥地では?と思ったので、ネットで確認すると次の通りでした。
(Wikiアメイジング・グレイス要約)
作詞者は英国人のジョン・ニュートン (John Newton,1725–1807)。奴隷貿易で利益を得たが22歳の時に嵐に会い、生まれて初めて必死に神に祈り、生還できたのを機に考えが変わった。暫く奴隷貿易を続けていたが30歳で船を下りて牧師の道を歩き始め、1772年、この詩を作った。
作曲者は不詳。アイルランドかスコットランドの民謡を掛け合わせて作られたとしたり、19世紀に南部アメリカで作られたとするなど、諸説がある。

よく歌われる歌詞は次の通り。原作は4番が異なり、5、6番もある。
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(mh:4番の最後の句のThenは間違いでThanか?)
(Wiki完)

見逃した番組の前半で曲誕生の経緯(いきさつ)が紹介されていたかも知れません。

番組後半の内容は次のようなものでした。
この曲、というよりも歌詞付きの曲、つまり歌、はアメリカの特に黒人の間で広く親しまれました。時にはジャズ調で演奏されて歌われました。アフリカ系アメリカ人の公民権運動指導者キング牧師(1968年、凶弾により死亡。享年39歳)の、非暴力主義を貫いた黒人の人権獲得運動では活動の象徴にもなりました。
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また、政府が白人たちの物欲を満たすために立法化したインディアンのチェロキー族立退き令によって家や土地を追われたチェロキーの人々が、ミシシッピー川を越えて1600kmを辿(たど)ることになった「涙の旅路Trail of Tears」は、この歌抜きでは語れないようです。
次のURLでチェロキーの歌詞による歌と「涙の旅路」の概要(同じページに記載されています)をご確認下さい。
歌の意味は全く分からないと思いますが、きっと心打たれるはずです。
http://matome.naver.jp/odai/2136671191811118001

お風呂で歌う持ち歌のアメイジング・グレイスに人種差別で苦しんだ人たちの悲惨な歴史がしみ込んでいたとは知りませんでした。私が知っていた白人が歌うアメイジング・グレイスは、神が自分を慈悲深く見ていてくれることに感謝する気持ちだけが表現された、ゴスペルというより単なるポピュラーソング、フォークソングでしかないような気すらしてきました、それはそれなりに感動的な歌ではあるのですが。

アイルランド女性ボーカルグループのセルティックウーマン(Celtic Woman;ケルト人の女)でご紹介しましょう。収録場所はダブリンの郊外ではないかと思いますが、スコットランドかもしれません。


アメリカでは今も人種差別で苦しむ人が大勢います。勿論、日本人が差別を受けることもあります、有色人種というだけの理由で。そんな日本にも、白人に対する劣等感の反動か、黒人のみならず、中国人や韓国人、南国の有色人種を差別する人が大勢います。そういう人達の中にもアメイジング・グレイスを聞いて感動する人は多いのだろうなぁ、と思うと、人間とは身勝手な生き物なんだなぁ、とつくづく感じます。
(完)

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世界の七不思議7:ギザの大ピラミッド

いよいよ世界の七不思議の最終回、エジプト・ギザの大ピラミッドです。
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上:Google Earth3D映像
下:航空写真
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カイロの街並みを見下ろすギザ台地(Giza Plateau)。ナイルデルタ平原から凡そ40mの高台でサハラの最東端です。
そこに3つ並んだ大きなピラミッドの一つ(上の写真で左端)が七不思議に選ばれました。

Wiki:ギザの大ピラミッド(Great Pyramid of Giza)
ピラミッド建築の頂点とされる「クフ王のピラミッド」でエジプトのギザに建設された。世界の七不思議で唯一現存する建造物である。エジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2540年頃に20年以上かけて建築されたと考えられている。完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。
(Wiki完)
クフ王のピラミッドの横にはカフラー王のピラミッド(高さ136m)、メンカウラー王のピラミッド(同65m)が並んでいます。カフラー王のピラミッドはエジプトのピラミッドの中で最も新しいものです。在位は前2558―2532年ですから完成は前2500年頃ではないのでしょうか。

エジプトのピラミッドがどの辺りに造られているか、Google Earthで調べてみました。
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ナイル扇状地の要(かなめ)の位置にクフ王のピラミッド(ピン番号:p1)があり、ピラミッドの最北端です。そこからナイル川にそって上流を調べたら、結局p23まで見つかりました。
全てナイル西岸の高台にあり、東岸には見つかりませんでした。
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ギザから800km遡ったところにアスワン・ダムが建設され、ナセル湖が生まれましたが、その湖畔には、湖底に沈む前に移設されたアブシンベル神殿があります。
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上:アブシンベル大神殿
下:アブシンベル小神殿
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この辺りにはピラミッドは全く見つかっていないのですが、白い御影石の切り出し場があって、採掘された石はナイル川を船で800km運ばれて七不思議のクフ王のピラミッドの表面に化粧石(Casing-Stoneケーシング・ストーン)として張り付けられています。今ではほんの一部だけしか残っていませんが。

ここで久しぶりの不思議な質問です。
  1)ピラミッドがナイル川下流の一部に集中しているのは何故か?
  2)ピラミッドがナイル川西岸にしか造られなかったのは何故か?


答えはブログの最後で検討することにし、ピラミッドに関する情報をさらにご紹介してゆきましょう。

まず、ナイル川の最も下流にはギザのピラミッド群(p1~p3)があり、そこから10kmほど川を遡ったところからピラミッド群(p4~p20)が分布しています。
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さらにp20から凡そ40km上流にp21,p22、そこから20km上流にp23が見つかりました。
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上流側から順に、特徴のあるピラミッドを紹介してゆきましょう。
下の写真はP23:Lahunのピラミッド。正方形の一辺は70mくらいです。
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P22:Mediumのピラミッド。一辺が90mくらい。
P21:マスタバと呼ばれる長方形をした台形の墳墓のようです。
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P22のピラミッドは典型的なステップ・ピラミッドで階段状です。
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P19:一辺120mの‘八平面’ピラミッド。白く化粧されています。
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P18:一辺200m。4つの面の中央には縦に走る線が見えます。
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よって八面ピラミッドとも思われますが、この線は意図して造られたのか、それとも他の原因で自然に形成されたのか、結論は出ていません。
実はギザの大ピラミッドも‘八面ピラミッド’のようです。詳細は後で説明します。

P10:Djoserのピラミッド。一辺が約140mのステップ・ピラミッドです。
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500mほど離れた場所にBoat-Pit(ボート・ピット)が2つ見えます。
ピットは長40mx幅4mx深2m程度。詳細はクフのピラミッドで説明します。
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さて、いよいよギザの3つのピラミッドです。
中央のカフラー王のピラミッドp2から東(写真で右方向)に延びる‘アベニュー’の先にはスフィンクスs1があります。
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ピラミッドの4つの面は正確に東西南北に向いています。これは他のピラミッドでも共通しているようです。

七不思議のクフ王のピラミッドp1を上空から見ると、右側、つまり東側の辺の近くに黒いシミのようなものが見えます。昔のままの基礎の石が残っている場所で、この上下と右側にボートピットがあり、更にはピラミッドの南側の辺の近くに、船の形をした施設が見受けられます。
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これはSolar Boat Museum(太陽の船博物館)と呼ばれる建物です。
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建物の中には「太陽の船」が展示されています。
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太陽の船博物館から数m離れたボートピットに解体して保管されていた649ピースの部材を組み立てて復元しました。また直ぐ隣では1987年に早稲田大学のエジプト学研究所(吉村作治教授)が発見した「クフ王第二の船」の発掘が進んでいて、そのピット内には解体保管された船の部材が600ピース以上あることも確認されています。2016年には作業を完了し、船を復元したら現在の太陽の船博物館の第一の船と入れ替え、第一の船はカイロの博物館に移設されることになっています。

結局、ボートピットは5つ見つかっていて、南側の2つには船の部品が解体してきちんと保管されていましたが、西の3つは空だったのです。
(Wiki:クフ王の船)
クフ王の船は何のために造られていたかはわかっていない。太陽の神ラーの下(もと)で復活する王を運ぶ儀式の船に似ていたため「太陽の船」と呼ばれている。しかし、実際は水で使用されたと見られる跡があった。現在の研究では、クフ王が死んだ際、メンフィスからギザまで王の防腐処置を施した死体を運ぶために使用されたか、クフ王自身が巡礼地を訪問するのに「巡礼の旅船」として使用したのではないかとされている。また、クフ王が来世で使用するために埋められたのではないかという説もある。
(wiki完)
ボートピットは、既に紹介したようにピラミッドp10の近くにも2つあります。
ネットを調べてみたら「葬儀ボート」なる題のレポートが見つかりました。これによれば、他のピラミッドやマスタバ(長方形墳墓)からも見つかっていて、多くは2つのようです。
ギザのSenebの墓で見つかったという壁画も掲載されていました。
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手漕ぎボートと帆のボートで、昼用と夜用ではないか、というのです。クフ王の第一の船は手漕ぎボートのようですから発掘中の第二の船は帆のボートかも知れません。

クフ王の大ピラミッドの西面の最下段の一部に白い御影石の化粧石(Casing Stone:ケーシング・ストーン)が残っています。
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実は大ピラミッドは、全面が化粧石で覆われた白亜の塔でした。しかし、ピラミッドへの関心が薄れてきた時期、人々が化粧石を自宅の建材用に持ち去り、残った化粧石も滑落して破損してほとんど失われてしまったのです。
(クフの隣のカフラー王のピラミッドでは頂上付近に化粧石が残っていることは例えばこのブログのトップの写真からも判ります。下側の化粧石は住民に持ち去られた、と早稲田の吉村教授が9月2日のTV番組で説明していました。)

ピラミッドp18でもご紹介しましたが、大ピラミッドは‘八面’ピラミッドではないのか?と言われています。年二回、春分と秋分の日の数秒間、太陽の光に照らされたピラミッドを見ると、4つの面が実は8つあるように、裸眼でもハッキリ見えるのです!
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大ピラミッドは所謂(いわゆる)八面ピラミッドと言えそうですが「最初から八面で造られた」という見方には異論の方が多いようです。

八面にする説得力ある理由がないこと、八面で造る技術や手間が当時、十分備えられていたとは考えられないこと、一部に残っている化粧石から、少なくとも表面は八面ではなく四面だったと考えられること、などが異論の主な根拠のようです。地震などで化粧石が大挙して滑落したことで四面から八面に変化したのでは?という意見もあるようですが、これも科学的な裏づけは無いとのこと。
つまり、八面になっている理由は判っていないのです。

ピラミッドの造り方も判っていません!昔から提唱されてきた代表的な方法を示す絵をいくつかご紹介しましょう。
まずは、木製のレバーを使った案。
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巨大なスロープを使った案。
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外面に設けたスパイラルのスロープを使った案。
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いずれも、説得力に乏しく、現実的ではないと考えられています。

最近、フランス人建築家が内部スパイラル・スロープ案を提唱し、日本でも既にTVでフィルムが紹介されました。簡単にご披露しておきましょう。

フィルムの一画面です。
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案の提唱者ピエールがクフ王のピラミッドを指しながらなにか言っています。
ピラミッドの斜面の中央及び上方を注意深く見てください。白い2本の線のようなものに気づきませんか?

7%の傾きをもった線が表面に見えるのです。
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このスパイラルな線はピラミッドの上方まで繋がっていました。
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この線に沿って内部トンネルがあり、そこを通って石が運び上げられた、とピエールは主張しています。

1986年、フランスの考古学者達がピラミッド調査した時、ピラミッド中心の玄室(げんしつ)に測定器を持ち込んで‘重力’測定をしました。奇妙な結果が得られたのですが、その時は意味が判らず今まで放置されていました。

実は、スパイラル状のSub-Gravity Line(サブ・グラビティ・ライン)が見つかっていたのです。
簡単に言うと「スパイラル状の空間がピラミッド内部にある」となります。

それがピエールの内部スパイラル案と一致するのです!
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ピエールの案が正しいのなら、ピラミッドを調べればスパイラルの内部トンネルが見つかるはずです。

しかし、許可を得ずにピラミッドに登って調査することは遺跡の保護、事故防止の観点から禁止されています。実は、それらしい痕跡は確認できたのですが、仮説を確実に裏付けるまでには到っていません。更なる調査が待たれるところです。

既に日本のTVで紹介された、ピエールの仮説を特集したフィルムのURLを下記に挙げておきますので興味がある方はご覧下さい。55分です。
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http://www.youtube.com/watch?v=t9C3rob_cTA
The Secret of The Great Pyramid: Khufu Revealed (Ancient Egypt History Documentary)

なお、エジプト博物館の一角に大きな糸杉製ソリ(Cedar Sled)が展示されています。
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このソリがピラミッドの建材の大きなブロック石を運ぶのに使われたことは多くの考古学者も既に知っているところです。
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その他にも、大ピラミッドの不思議を紹介するフィルムがYouTubeで見つかっていますが、宇宙人が造ったとしか考えられない!という「事実」を羅列したフィルムもあったりしてとりとめが無く、信憑性に欠けるものばかりなので、この辺りで打ち切りましょう。

さて、いよいよ不思議な質問の解答を検討してみましょう。
  1)ピラミッドがナイル川下流の一部に集中しているのは何故か?
  2)ピラミッドがナイル川西岸にしか造られなかったのは何故か?


残念ながら、私も現時点では説得力ある解答を持ち合わせていません。ひょっとすると皆さんの中には、これらの質問に答えることができる方がいらっしゃるのではないでしょうか。

しかし、何の謎解きもしないのではミステリー・ハンターの名が泣きます。そこで、頓珍漢な空論と非難されることを恐れずに私の仮説を紹介しましょう。

まず、公平を期すため、質問で挙げた記述は正しい、と認めることにしましょう。つまり、ピラミッドはナイル下流に集中していて、西岸に造られている、ということは間違いない!と認めることにします。

で、「何故、そうなっているのか?」

ピラミッドを造る目的、造るための条件、から検討すれば解答が見えてくるのです。
ピラミッドの目的:
  1)偉大な王だったことを後世まで知らしめたい!
  2)生まれ変わるまで肉体(ミイラ)を確実に保管しておきたい!
という二つの主な目的が考えられます。

どのピラミッドも盗掘されていて、第二の目的は残念ながら達成されていないピラミッドばかりでしたから、王といえども生まれ変わることは大変なようです。また、第二の目的のために、ナイル川下流の西岸に造らねばならぬ理由はなさそうです。

よって、第一の目的、つまり多くの人にいつまでも尊敬されるようなモニュメントを残したい、という観点に注意して検討すればよいことになります。

造るための条件ですが、出来るだけ短期間に少ない費用で効率よく造りたい、という希望というか必要性があったはずです。そのためには次の2点が重要です。
  1)労力の確保が容易なこと。
  2)材料の確保が容易なこと。

つまり、偉大さを見せつけるピラミッド(墓)にしたい、そのためには耐久性のある、大きくて目立つ墓をつくりたいが、費用も時間も制約あるから、なるべく効率よく造りたい、と考えていたはずです。

その観点でナイル川下流の西岸は最適でした。

1)ナイル・デルタの要(かなめ)の場所はナイルの恩恵を受けた肥沃な平野の要でもあって、従って食物は豊富で人も多く住んでいる。だから、大勢の建築作業者を集め易(やす)い。
2)ナイル川西岸の台地は、ナイル川平野の町に近く、台地に立つピラミッドは町の住民なら誰もが毎日でも見ることができる。人民はピラミッドを見ては我を崇めるであろう。
3)西岸台地には建材となる岩石(石灰石)の岩盤が多く、ピラミッドの直ぐ近くで大半の建材を確保することが出来る。その上、ナイル川が台地の直ぐ下を流れているので、上流から石材を船で運べば、建築現場の近くで荷下しすることが出来て便利であろう。
(石材採掘場(Quarries:オレンジ色の場所)が近くに見つかっています)
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近くには運河と港も整えられていたようです。(上の図の右側の→の部分)

これでナイル・デルタの要の近くの台地ギザがピラミッドに適した場所だとわかっていただけたと思います。

しかし、なぜナイルの東岸ではないのか?

実は、西岸は台地になっていますが、東岸は緩やかな斜面から徐々に急斜面になり山岳を形成しています。Google Earthでこれを確認することが出来ます。

従って、もしナイル川の東岸で、かつナイル川の氾濫の影響がない位置にピラミッドを建てると、川からかなり離れた場所になり、ナイル沿岸の町から遠くなって住民から忘れられがちで、その上、ナイル川で運搬された石材をピラミッドまで運ぶ手間も大きくなるから建設も大変だ!となってしまうのです。

更には、これは結構重要な要素だと思うのですが、ナイル・デルタで暮らす住民からピラミッドがどう見えるのか、という観点で考えてみると、朝、ふと西の方向を見ると、直ぐ近くの台地でピラミッドに朝日が当たって輝いているではありませんか。もし東岸にピラミッドがあったなら、住民にはピラミッドの黒い影しか見えず、それが背景の山の陰に溶け込んで、結局どこにあるのか判らないはずです。

夕方になると、西岸のピラミッドは夕焼けの空の中に黒くクッキリと浮き上がって見えますが、東岸のピラミッドは弱い光の中で、背景の山の中にボンヤリ紛れ込んで目立たないのです。

西岸と東岸における朝夕のピラミッドの見え方についての以上の説明を図で示すと次のようになります。
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どうです?西岸のピラミッドの方が、朝も夕も際立って見えますよね?

(完)

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mh徒然草-7:物価高はなにをもたらすか?

秋の漢詩をご紹介しましょう。

秋夜寄丘二十二員外      秋夜 丘二十二員外に寄す  韋応物
 憶君屬秋夜   君を憶(おも)ふは 秋夜に属し
 散歩詠涼天   散歩して 涼天に詠(えい)ず
 山空松子落   山空(むな)しうして 松子(しょうし)落つ
 幽人應未眠   幽人 応(まさ)に未だ眠(ねむ)らず

隠棲(いんせい)の友人への想いのこもった詩です。
 君を想うのは この静かな秋の夜のこと
 庭を歩き回っては 涼しい空に詩を吟じているよ
 君は人気のない山の中 松かさの落ちる音を聞いているか
 ひっそりと暮らす君は きっとまだ眠っていないだろうね

題の「丘二十二員外」は、作者の友人である丘丹、彼は早くに官職を辞して、臨平山に隠棲したそうです。韋応物は遠く友人を思うのですが、結句の「応未眠」と推測したのには、「君はきっと(僕と同じように)起きているはずだ」という強い信頼があり、ほのぼのとしたものを感じます。
転句の「山空松子落」は、王維の「鹿柴」の詩の前半、「空山不見人  但聞人語響」と同じ手法で、微かな音を配することで静かさを強調する効果が出ています。

この韋応物の送った詩に対して丘丹が唱和した詩が次のものだそうです。
 韋使君の秋夜寄せらるるに和す(mh:読み下し文しかありません。)
   露滴りて 梧葉(ごよう:和名では青桐)鳴り
   秋風 桂花(けいか)発(ひら)く
   中に仙を学ぶ侶(ともがら)有り
   簫(しょうの笛)を吹いて 山月を弄(ろう)す

以上はネットからのコピーです。()内のルビはmhの推定。ネット辞典で調べないと読みが判然としない字もあって、漢詩を読み下すのも大変ですが、字を見ていると作者の思いが伝わってきますから、日本の文化と中国の漢字の関係はなかなか奥深いものがあります。
・韋応物(いおうぶつ)は唐代の詩人。
・丘二十二員外は丘丹(きゅうたん)が自らに付けた綽名(あだな)のようです。
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最近(9月17日の記事です)、野菜の値段が高いですねぇ。
異常気象で不作なのが主因だと思いますが・・・

一方、マネーゲームの煽(あお)りで円安が進み、私の持つ外貨ファンドの市場価値は増えてありがたいのですが、原油価格が上って(ドル建て国際価格は下がっているが円安で輸入価格は上っている!)電気料金・漁船操業費・運送輸送費がUpして、輸入比率が高いバターや小麦粉の価格がUpしてパン価格も上って海産物の価格も上って・・・

その上、消費税も上りましたから、mhの感覚でいうと、生活必需品や食品、外食の出費は昨年と比べて10%位の出費超過になっているのではないでしょうか。

で収入は、というと年金生活者のmhの場合、数%目減りしていますから、外貨ファンドからの配当がなければ海外旅行など出来る状態ではありません。

物価が10%上がれば、貯金、つまり蓄えの価値、は10%目減りするのですから事は重大です!次に消費税が8%から10%になる時には物価と消費税の合計で5~10%UPする可能性もありそうなので、蓄えの価値はまたまた10%低下してしまいます。つまり2年間で1百万円の貯金の価値が80万円に下がってしまう、ということです。

9月17日、TVでエコノミストが「円安で大企業が1.4兆円プラス、中小企業は0.9兆円マイナス。従って国全体では0.5兆円のプラスです。」と言っていましたが、いくら大企業がプラスでそこで働く人の給料が5%位上ったとしても、物価高や貯金価値の目減りを考えるとプラスになった人が多いとはとても思えません。中小企業に勤める人はもっと大変です。給料は上がらず、会社の景気も悪くなってボーナスは減り、その上、貯金の価値も減ってしまっているのですから。

しかし、物価高でガッポリ儲(もう)ける人もいます。貯金がマネーゲームに流れだし、仲介する銀行や証券会社は手数料収入が増えてガッポリです。消費税Up、購入資材価格Upを製品の売価Upに結び付けられる大手はガッポリです。売価Upしたらお宅の部品は買ってやらないよ!などと大手に言われる中小企業は電気代、材料費、運送費などの製造コストが増えても売価据え置きでゲッソリです。

こうして円安を機に日本人の貧富の差は拡大していくのではないか?とmhの愚痴と邪推は際限がありません。

さて、次回のmh徒然草は、是非、明るい話題を見つけてお届けしましょう。

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