Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草-15:訳が分からない

昨日(11月6日)、韓国で開かれたアジア大会でカメラを盗んだとされる富田選手が「私はやってません!」という記者会見をやりました!

現地では日本選手団から除名されたはずで、帰国後、空港での記者会見でも「申し訳ありませんでした」と本人が言っている映像が映っていましたが、どうしてまた、やってない会見をやることになったんでしょうか?今日もワイドショーで取り上げられていましたが、訳が分からない、という意見が大勢を占めていました。

2つの可能性が考えられます。
1)やったのだけれど、今になってやっていない気になり、自己弁護したくなった。
2)実はやっていなかった。

しかしいずれにしても富田選手の対応には問題あります。やったなら、既に弁解し損害賠償もして示談になっているのだから、蒸し返さず、今後同じことを繰り返さないよう心を入れ替えればよいのだから、やってない会見をすることは馬鹿げています。しかし、やっていなかったのなら、何故、簡単にやりましたと認めたのか?その後、申し訳ありませんでした、なんて記者会見で言ったのか?やっていた、いないのいずれにしても、富田選手の対応は理解できません。

JOC日本オリンピック委員会は、富田選手のやっていない会見を受け「とても驚いている!しかしこれまで通り、2年間の競技参加資格剥奪の方針は変えない。」とコメントしていました。防犯カメラに映った映像に富田選手がカメラを袋に入れてしまい直すところが映っていて、この写真を協会は持っているようですね。

富田選手は韓国で裁判を起こすことも考えているようですが、費用が1千万円はかかるので、結局、裁判には持ち込めず、富田選手の名誉回復のチャンスはないまま、富田選手に対する不信感だけが残ることになるのではないか、とワイドショーのプレゼンテイターが言っていました。恐らくその通りでしょう。

それにしてもJOCは、現地で、この事件の真相について親身になって富田氏と協議するとか、富田氏と警察の間に入って状況を出来るだけ正確に把握すべきだったと思います。経緯を聞いていると、現地の警察と富田氏に対応を任せきりだったような気がしてなりません。みっともない事件なので関与したくない、という気持ちが働いていた可能性があります。
「だって君、現地では盗んだ、て言ったでしょ?なんで今さら盗んでないなんていうの?」と言うだけでは、我々一般人と同じではないですか!JOCが親身になって現地で事件に関与し、富田氏のフォローをしていたなら、本人も納得できる結果になっていたでしょうから、今回のような訳の分からぬことは起きなかったでしょう。

最近、殺人事件が多くなってきた気がしますが、犯人にも当然のことながら親がいます。その親は「子供が自白したのだから殺(や)ったのだと思います、すみませんでした。」と言うかも知れません。しかし、裁判で子供が自白を翻(ひるがえ)したら「子供が殺(や)っていない、って今更いっても理解できません」とは言わないでしょう。「子供が殺(や)っていない、って言うんだから殺(や)っていないと信じています!」くらいは言うでしょう。

JOCは選手に、親は子供に、もっと関(かか)わるべきだと思います。そうすれば選手や子供の名誉を守れるはずです。重要なのは、どこまで関わるべきかではなく、どう関わるべきか、ではないでしょうか。

とか何とか、判ったような偉そうな御託(ごたく)を述べましたが、自分は問題ない、なんて言える状態にはありません。でも、いつだって子供に対する愛情を忘れなければ、きっとよい結論に到(いた)ると信じています。今回の事件でも、JOCは富田選手の将来についてもっと真剣に考えてやるべきだ、と思います。今からでも遅くはないでしょう。
(完)

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インダス文明の不思議


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今回はYoutube「文明;川の征服者」をご紹介しましょう。
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「ある日、日の出の頃、サラスヴァティ川で朝の沐浴を済ませた聖人ヴィヤーサは座って瞑想を始めた。彼は千年の草(fibre of the millennium)の中に、ある異変を見つけた。美徳を失ったがために全ての生命が直ぐに滅びるであろうことを予感した。(バガヴァタム:ヒンドゥ教のヴィシュヌ神を讃(たた)える経典)」

(Wiki:インダス文明)
長い歴史をもつが、統合期は紀元前2600年 - 紀元前1900年とされている。
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(Wiki:世界四大文明)
人類の文明史の歴史観のひとつ。歴史上、4つの大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。
ここで、四大文明とはメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす。メソアメリカ文明、アンデス文明などのアメリカ大陸の文明は含まれていない(これらを含めて六大文明ということもある)。
欧米では「肥沃な三日月地帯」(Fertile Crescent)や前述の六大文明などといった人類の古代文明の発祥の地を「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)などと呼ぶ。
(Wiki完)

1920年、考古学者M.S.ゲイツはインダス文明(Indus Valley civilization)の鍵となったハラッパーの遺跡を感慨深げに見守っていた。
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しかし、時を同じくして、数百km南西では、インダス川を望む高台でアービー・ベナジー教授が巨大な遺跡を発掘していたのだ。モヘンジョダロだ!
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ヨーロッパの学者達はモヘンジョダロの発見に驚愕した!それまでアーリア人(注参照)の文明を過小評価していたのだ。以降、千以上もの遺跡が発掘されることになった。
(注)アーリア人:インド北西部に出自をもち中央アジアにも広がっていた民族

5千年前、ヒマラヤから南に流れ出た大河インダスの流域には文明が開けていた。
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2百年程前、考古学者はこの文明の存在に気づいていた。笛や大理石のおもちゃのようなものを見つけていたのだ。
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ここで、フランス人考古学者が何か解説しています。
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「メソポタミア・・・モヘンジョダロ・・・」。しかし、フランス語で、字幕スーパーもなく、何を仰(おっしゃ)っているのか全く分かりません!
次の遺跡の解説もしていたようです。直径4メートルくらい。住居跡でしょうか???
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モヘンジョダロはパキスタンの南部、インダス河岸に造られた町だった。
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紀元前2千年、古代ペルシャ(現イラン)の国境方面から来た侵略者によって統治されていた。
今は砂漠だが、当時この辺りで最大の都市で、1平方kmに4万人が暮らしていた!!

町は区画整理された碁盤目状で、大通りは幅9m以上ある。
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完璧な水管理システムがあった。80もの公共トイレもあった。
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どの住居にもタイルの風呂場と井戸があった。ゴミ捨て場も排水溝も整備されていた。
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最も注目すべきは町の高台にある水浴場だ。
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廻りには回廊と泉が設けられていたのだ。

フランスの2倍の面積のインダス流域には千以上の遺跡が散在している。
そのひとつにドーラビーラ遺跡がある。
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インダス河口から2百km東、今は砂漠化が進み塩田化した海に浮かぶ島にその遺跡はある。
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基礎は焼き煉瓦、その上の建物は日干し煉瓦を使ったインダスの建築方法だ。
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記念碑的な石壁も見つかった、高さ15mもある!
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町の大工は有能で、ヒマラヤ糸杉を建物の柱などに使って隙間をピッタリと埋めていた。
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水は町通りの清掃に使われた。側溝に集められた水は穴から城壁の外に排出されていた。
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周辺をレンガで覆われた城壁の上の高台に町は造られていた。
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高台では今も発掘が行われている。
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1989年に発見されて以来、発掘が続いた。地面を掘り進むと深さ8mで泥土に突き当たる。
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考古学者は町の外の城壁の周囲で深い堀のような跡を見つけた。
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幅25m、深さ7mもある。町の防御システムの一部だったのだろうか?それとも住居の跡なのだろうか?

発掘を続けた考古学者によって5千年前の都市ドーラビーラの全貌が明らかになってきた。
発掘していた堀は貯水池の一部だった。そこには昔、水が溜められていたのだ。
(CGです)
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町を取り囲むようにして16の貯水池があった、と考古学者は考えている。
町の中央には砦があった。
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48haに2万人が暮らしていた。
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郊外では大麦や小麦を耕作していた。海も比較的近くにあった。
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しかし、どんな方法でこれらの貯水池を水で満たしていたのだろう?
ドーラビーラ遺跡の近くには今も小さな集落があるが、住民は水の確保に苦労しているのだ。汚い共同井戸が数個しかない。
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5千年前の人々が貯水池を使って水の管理をしていたとは驚きだ。

毎年、モンスーンの時期になると洪水になり、インダス川流域は水の絨毯(じゅうたん)で覆(おお)われる。洪水は嫌われ者という訳でもない。農業に大切な土壌を運んでくるのだ。
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人々は住居などの施設を少し高い場所に造り洪水をやり過ごしている。
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5千年前、インダスの人々はどんな方法で水を手懐(てなず)けていたのだろうか?

考古学者はドーラビーラの近くで石の構造物を見つけた!ダムの跡だ!
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水の流れを変え、貯水池に導いていた。沢山の池は上から段々と水を蓄えていったのだ。
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池の底から30mの高台に造られていた町は水で囲まれていった。貯水池の水は灌漑に使われ周辺の畑を一年中潤(うるお)していた。
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ドーラビーラの町は水の中に浮かんでいたのだ!

町の最も高台にある砦には雨水をためる工夫が施されていた。
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しかし、人々が雨水と川の水をどのように区別して使い分けていたかは謎のままだ。
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水は重要な穀物の実りをもたらし、命をつなぎ、土地を清めてくれる大切なものだった。

砦の中央に神聖な場所がある。1つの井戸と2つの槽。
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井戸は直径4m、深さ20m。縁(ふち)には水を汲み上げたロープの跡が残る踏石がある。
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最も神聖な水は地下からくみ上げていたのだ。その水で2つの槽を満たした。
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槽の水に入って身を清めた人々は神秘の力を得えて純化されたのだ。

ドーラビーラは今では人も訪れない遺跡となって静かに眠っている。

ところで、インダス川から離れた砂漠から沢山の遺跡が見つかっているのは何故だろうか?
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考古学者はインドの民謡から答えのヒントを得た。
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昔、ハッガーと呼ばれた川がこの砂漠を流れていた。今は消え失せているが痕跡は在る。
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ダムや水路の跡が沢山発見されている。
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しかし、4千年前の大きな地震で川は流れを変えた。インダス川と平行して流れていたハッガー川は上流で方向を東に向け、ガンジス川に流れ込んでしまったのだ!

数年前、ハッガー川があった場所の地下数メートルから水が見つかった!昔の川はまた畑を潤しつつある。
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昔のハッガー川流域で、人々は再び生活を取り戻し始めているのだ!
もう一度、言おう。「水は文明の母だ!」

昔、ハッガー川流域では小麦や綿や胡椒が栽培されていた。
水牛も、羊や山羊も飼われていた。村もあちらこちらに在った。
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道具や武器も造られた。青銅の鋳造技術も習得していた。
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木工細工に優れていた。芸術家は象牙や玉石を加工して装飾品を造った。
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セラミック(下右:独楽(こま)と球)や、陶器の壷(下右)も造った。
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インダス文明でよく知られているセラミックのシール。
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契約書などを封印するために使われていた。商取引を通じ契約の概念を育(はぐく)んでいたのだ。
円柱状のシールもあった、メソポタミアのシールと同じだ!
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2千以上のシールが見つかっている。
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シールの動物の絵の上に記号が描かれている!絵文字だろう!
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凡そ4百の記号が見つかった。
ここでまた例のフランス人が何やらフランス語で・・・
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1999年、ドーラビーラで画期的な発見があった。発掘は慎重に進められた。
集まった人々は息を呑んで見つめていた。
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4千年前、木の板に石灰のような材料で描かれていた記号のようだ。ドーラビーラの北門に掲げられていた看板が真下に落ちたまま残っていた、と考えられる。
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町の名前なのか?統治者の名か?方角を示す記号なのか?
インダス記号のロゼッタストーン(注参照)は見つかっていない。従って記号の意味はまだ解読できていない。

今回発見された9つの文字は記号の秘密を解き明かしてくれるのだろうか?
インダス記号を解析できるようになるまで我々は彼らの文明を正確に理解することはできないだろう。
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(注:Wiki:ロゼッタストーン)
ロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石、仏: Pierre de Rosette, 英: Rosetta Stone)は、エジプトのロゼッタで1799年に発見された石碑である。大英博物館で保管・展示されている。
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縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。暗色の花崗閃緑岩でできた石柱で、プトレマイオス5世のため紀元前196年にメンフィスで出された勅令が刻まれている。この碑文は三つの文字、すなわち古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)、民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で記述されている。細かい違いはあるが本質的に同一の文章が三つの書記法で著されたと推測され、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって解読された。これによってロゼッタ・ストーンはエジプトのヒエログリフを理解する鍵となり、他のエジプト語の文書が続々と翻訳されることになった。
(注:完)

4千年前、インダスでは銅やスズなどの鉱物が不足していた。これを得ようと、当初は海岸線に沿って陸路を西に辿(たど)り、交易していた。

今も使われている船。底が浅く、インダス川でも往来できる。
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デザインは4千年前とほとんど同じだ。
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人々は物流ルートを陸路から水路に代えていった。沢山の荷物を簡単に運べて便利だ。

輝かしいオデッセイ(Odyssey:ギリシャ詩人ホメロスの長編叙事詩)が始まった。
世界発見の旅だ!
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ハラッパーから始まって、モヘンジョダロを経由しペルシャ湾を航海した。
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インダス川流域からユーフラテス川河口までは3千5百kmの旅だ。
現在のアブダビ。UAEの首都でペルシャ湾入り口にある。ここで初めてインダスの民が現地人とコンタクトした。言葉が違うはずなのに、当時どんな手段で意思疎通(いしそつう)していたのだろうか?
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ここでまたフランス人が出てきます!
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オウウンナ(??)島にある貴族の墓。
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そこからカーネリアン(注参照)の装飾品が出て来た。インダス流域の特徴をもつ陶器も見つけた。
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(Wiki:カーネリアン(carnelian))
鉱物の一種で、玉髄(カルセドニー)の中で赤色や橙色をしており、網目模様がないもの。紅玉髄(べにぎょくずい)ともいう。ちなみに、網目模様があるものを瑪瑙(めのう)と呼ぶ。インダス文明(ドーラビーラ)は、この鉱物を材料とするビーズを加工して繁栄をきわめたことで知られる。
(Wiki完)
ペルシャ湾の懐の砂漠には何千もの墓地がある。695平方kmに広がっている!
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この墓からインダス文明の記号を解き明かすテキストを探し出そうとしている考古学者がいる。
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「エジプトのヒエログリフをロゼッタ・ストーンで解読したように、いつかインダスの記号を解読するテキストを発見したい。そして、この地でメソポタミア文明とインダス文明がどのように交錯していたのかを明らかにしていきたい。」

どんな文明も消滅していくことを歴史は教えてくれている。インダスも例外ではなかった。
紀元前1千8百年以降、メソポタミアの遺跡からはインダスを示すものは消えてしまった。インダス流域の都市は住民が減少し、建物や灌漑施設も修理されずに放棄されるようになった。

この凋落(ちょうらく)はどう説明つくのだろう?中央アジアから侵略者が来たと考える人がいる。
洪水で、地震で破壊された、と言う人もいる。

どんな惨事がこの素晴らしい都市を破壊したというのだろう?
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人々はどこに行ってしまったのだろう。

我々には語るべき根拠がない。インダス文明を引き継いだものはないのだろうか?
ここでまたフランス人の登場です!!!
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しかし、全てが消滅してしまった訳ではない。残っている部分もある!
ロードビーラから数十キロのインドの村アダラージ。そこに階段井戸がある。
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階段を下りてゆくと最下層に掘られた井戸に到達する。上は吹き抜けだ。
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天国と現世の2つを繋ぐ場所だ。訪れた人は水の表面を見つめている。
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この井戸の水は最も神聖で純粋だと言われている。
水を汲み、手に付けて体をこすると清められるのだ。

水に対する信仰の名残はインダス川と並ぶ大河ガンジスで見ることが出来る。
ヒンドゥ教の聖地ベナレス。町を流れるガンジス川で沐浴をする。
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この人々の顔には、インダス川流域で暮らし、帝国を築き、水を管理してきた人達の面影を見ることが出来る。
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(完)
ヒンドゥ教の「ヒンドゥ」は「インダス」が語源です。
フィルムは次のURLでお楽しみ下さい。
2006 - The Indus Valley Civilisation (The Masters of the Riv
https://www.youtube.com/watch?v=dnsatmxY7Kc

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mh徒然草ー14:東日本大震災の爪痕

10月26日、白石蔵王の鎌先温泉で開かれた卒業から44年ぶりの同窓会に参加しました。その後に送られてきた集合写真を見ると、お爺さんばかりが笑顔で写っています。記憶力の乏しいmhは、今でも参加者の名前がなかなか思い出せません。でも、相手の顔をじっと見つめていると、昔の面影が今のお爺さんの顔に重なって浮かび上がってきます。飲んで騒いで楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

翌日は仙台の高台にある母校を訪れました。我が機械工学科の建物は健在でしたが、キャンパスには紅葉した大樹が並び、建物も木々の間から顔を少し出しているだけ。落ち葉の道を行きかう学生もスカーフを被ったイスラム系の女性、インド系の男性など国際色豊かで、40年の歳月をしみじみと感じました。
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母校に行く前に、東日本大震災で津波被害を受けた閖上(ゆりあげ)地区に寄って、慰霊碑に参拝しました。碑は9mの高さで、津波の高さに合わせたとのことです。亡くなられた960名ほどの方々の名前が記された碑というか看板のようなものも併設されていました。
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高さ8mほどの小山に移設された閖上湊(みなと)神社に上ると付近一帯が全て見渡せます。
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以前は辺りを埋め尽くしていた街並みは消え失せ、瓦礫を撤去した後の荒地が広がっていました。地面から少し覗いているコンクリートの塀の跡を除けば、まるで草原のようで、わずかに咲いていた秋桜が亡くなられた人々の魂を慰めているように思われました。
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あの震災の日、私は横浜の団地の10階の部屋で炬燵に当たってテレビを見ていました。突然の大きな揺れがきて1分以上続き、箪笥は壁から30cmも飛び出すし、仏壇は転げ落ちるし、立っていることもできず、だからといって外に出ても10階だから何ともならないし、観念して、とりあえず身の回りだけ気を付けながら揺れが収まるのを待っていました。
大きな揺れが去り、後片付けをしていると、テレビがニュースを流し出しました。多分ヘリコプターだと思いますが、被災地の上から震災の様子をレポートしていました。そのうち、平野を津波が覆い出すシーンが映し出されました。車が飲み込まれ、家が流され、畑は水で押しつぶされていました。この瞬間、閖上地区の多くの人々が亡くなられたのだと思います。

ネットで調べると地震発生から1時間後に福島原発を高さ14mの津波が襲ったとのことでした。仙台の近くの閖上地区も大体同じころに津波が来たのではないかと思います。最大の揺れから1時間、なぜ人々が津波から逃れることができなかったのか?
いろいろな理由が考えられますが、最大の理由は、あんな大きな津波がくるとは考えなかった、ということではないでしょうか。実は近々、イタリアを旅行する予定ですが、その時訪れるポンペイについてブログ記事を纏めた時、1万人のポンペイ市民が犠牲になった理由も似ているのです。つまり前日、大きな噴火があったのにも関わらず、逃げ出すことをしなかったのです。

噴火や地震を予知するのは今でも技術的に困難でしょう。しかし、噴火や地震がどこでどの規模で起きたら、いつ頃、どんなことがどこで起きるのか?はかなり正確に想定できるはずです。それを直ちに関係者に通報するシステムができていたら閖上地区の悲劇は起こりませんでした。

1995年1月、阪神・神戸大震災が起きました。揺れで倒れた建物の下敷きになって亡くなった人もいましたが、その後の火災で焼死した人の数の方が多かったと記憶しています。揺れについてはこの地震で学習済みでした。しかし、津波については、記憶が少なく、薄く、従って軽んじていた、と言わざるを得ないでしょう。

耐震改造や津波防護壁の強化などは費用や日常の利便性から簡単ではありません。
しかし、地震が起きたら、揺れが収まるまで身を守り、その後すぐに火の始末を確認したら、後は、どこで何が起きたのか、ここに津波が来るのはいつ頃か、を考えれば地震で死ぬ確率はかなり抑えられます。慌てて階段から足を踏み外して大怪我をしないよう、冷静に迅速に行動することが必要です。従って、行動基準を単純化して間違いなく実行できるものにしておくべきでしょう。

幸いなことに、我が家は高台にあるビルの10階ですから、津波の危険は全くありません。火の始末は、最近、ガスメータが地震対応になっていて、ある程度の揺れがくるとガスの供給を自動的に遮断してくれますので、火事の問題もまず心配する必要はないでしょう。つまり、地震では倒れてくる箪笥の下敷きにならぬよう気を付けていればよいのです。もし建物が倒れるような地震だとしても、慌てて外にでても10階から振り落とされたりするだけですから、中でじっと耐え忍ぶことに専念すればよいのです。

皆さんの家では大きな地震がきたら、何をどうするか決めていますか?金目の物をどうするか、はこの際、頭の中から外しておくべきだと思います。まずは身を守ること、火災を起こさないこと、津波に合わぬこと、この3点に絞って、対応策を事前に決めておき、その時がきたら、まよわずに行動すれば、大抵なんとかなると思います。地震の時は、どうしてもうろたえて、何をしたらよいか考える力も失せている可能性もありますから、「身を守れ!津波の心配はその次だ!」とでも書いた紙を壁に貼り付けておくだけでも効果的なオマジナイになるかも知れません。

しかし、どんなに準備しようが、事故で死んでしまうこともあります。その最も有効な備えは、毎日、楽しい人生を過ごすことではないでしょうか。そう考えるようになってから、私はお金を貯めることよりも、楽しく使うことに頭を切り替えました。そうは言っても、貧乏根性は抜け切れていませんから、詰まらぬことにけちけちして生きていますが、心意気は大きく持とう!と自分に言い聞かせながら暮らすように心掛けています。

最後に、東日本大震災で亡くなられた2万人のご冥福をお祈りし、難を逃れたとは言え今も自宅に戻れない方々が早く心の安寧を得られんことをお祈り致します。
(完)

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アンコールの不思議

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Google-Earth-3D 上:アンコール・ワット 下:アンコール・トム
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アンコール:サンスクリット語で王都
ワット:クメール語で寺院
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Wiki:アンコール遺跡
アンコール遺跡群は現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝の首都の跡である。この地には、9世紀頃から数々の建設が開始された。この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスーリヤヴァルマン2世(1113-1145年)とジャヤーヴァルマン7世(1181-1218年)といわれる。スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされる。
しかし、ジャヤーヴァルマン7世が崩御した後のアンコールはアユタヤ朝の進入を度々受けその存在を侵され始め、その後ポニャー・ヤット王にはついにアンコールを放棄するに至った。
mh:
アンコール・ワットはトンレ・サップ湖畔の北10kmの仏教寺院ですが、建設当初はヒンドゥ寺院でした。隣には仏教寺院アンコール・トムがあります。
カンボジアの首都プノンペンはアンコール・ワットの南東230kmです。
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トンレ・サップ湖は国際河川のメコン川に繋がっています。中国チベットに端を発し、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナムを流れる大河ですが、季節で水量が変化し、その影響でトンレ・サップ湖の面積も大きく変わるのです。
Wiki:トンレ・サップ湖(の面積変化)
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1年のほとんどの期間、水深は1mに留まり(このためプノンペンとシェムリアップを結ぶ定期船が暗礁に乗り上げかける場面がよくある)、面積は2700平方kmしかない。しかし夏季のモンスーンの時期には湖からプノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレ・サップ川が逆流する。そのため周囲の土地と森を水浸しながら面積は1万6000平方km(最小面積時の7倍)まで拡大して深度も9mに達する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

どのようにしてアンコールの遺跡は造られたのか?なぜ放棄されたのか?
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その秘密を探(さぐ)る旅に出よう!
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8百年以上前に繁栄したクメール王国。800~1432年にかけて一帯を統治した。
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アンコールは一時期、王国の首都だった。多くの寺院が造られ、突然、放棄された!
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このようなマスターピースはどのようにして造られ、なぜ放棄されたのか?

アンコール・ワットは世界で最大の宗教的モニュメントだろう。
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回廊と階段が高さの異なる多くのテラスを繋(つな)いでいる。
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急な階段だ。僧侶だけが使っていた。
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高さは63mでノートルダム寺院とほぼ同じだ。エジプト・ギザの大ピラミッドと同じ量の石材を使って造られている。
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建設期間は32年だった、信じられない速さだ!欧米の同じ規模の教会なら10倍の年月がかかっているだろう。
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5万人が建設工事に従事していた。
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回廊の壁には8百mに渡りレリーフが彫られている。デザインの発祥地はインドだ。ヒンドゥ教の絵物語が彫られているのだ、字が読めない人でも判るように。
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最後の審判の絵だ!中央の男が死者を裁いている!
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行き先の地獄は32種類も用意されている!
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インドの商人が交易で訪れ、芸術、建築技術、宗教なども伝えたので、ヒンドゥ教は一時期盛隆を迎えた。その時に造られたのだ。

レリーフは、雨や寒暖差で劣化してきたので修理プロジェクトが進んでいる。
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アンコール・ワットの北32kmには建設資材の石切り場だったクーラン山がある。
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ここの石は、アンコール遺跡一帯に数百もある寺院の建材として使われた。
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200平方kmのアンコール考古学パーク内に点在する約70の寺院のひとつに、寺院の建設方法を示すレリーフがある。
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石に丸い穴を明ける。そこに棒を差し込んでロープで吊るし上げる。
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これを別の石の上に載せ、水をかけながら吊るした石を動かして接触面を研磨する。
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もう5分経った。石の面がどうなっているか調べてみよう。
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平でツルツルだ!
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寺院に穴の明いた石が沢山あるのはこのためだったのだ!
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何故、研磨してまで石同士を密着させる必要があったのか?それは彼ら独特の寺院の建設方法にある。石のブロックを積み上げて建物を造ってから表面に彫刻を施していったのだ。
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石のつなぎ目では彫像に切れ目が残る。この切れ目を目立たないようにするために石同士を密着させる必要があったのだ。
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鼻の直ぐ下で上下の石が重なっている!
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2つの石の接触面が密着していなければ、鼻の先の形は崩れ、こんなに綺麗に仕上がらない!

アンコール・ワットはヒンドゥ教の宇宙観のミニチュア版だった。
塔は神々の故郷メイル―山(アブー山?)を表していた。周りの掘は広大な宇宙の海だ。
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しかし、なにかの間違いでこの町は15世紀に放置されてしまった。1860年、フランス人が偶然に発見するまでの400年間、ジャングルに覆われていたのだ!
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このミステリアスな遺跡の発見はヨーロッパ中を騒然とさせた!

現地で調査をしているオーストラリアの考古学者に会った。彼が持っているNASA撮影の地図によると、この一帯には沢山の運河が造られていたことがわかる。
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アンコール・ワット、アンコール・トムの近くには大きな貯水池も残っている。
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空から見るとよくわかる。アンコール・ワットはクメール人が造った神聖世界の一部で、偉大な作業の成果はアンコール・ワットよりも水システムの整備だった。この貯水池は長さ8km、幅2kmもある。
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雨期は水を溜め、乾季には放出していた。貯水量は5千万立方メートル(注参照)。信じられない規模だ!
(注:東京ドームは124万立方メートルなので、その40倍です。そう言われても、どの位の体積か、イメージが湧かないと思いますが・・・)
この水が農業を、経済を、生活を支えていた。
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貯水池に水を運びこむ運河だ。真っ直ぐ北に延びている!
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NASAの衛星情報からも複雑な水管理システムがクーラン山の南2800平方kmに展開していたことが判っている。
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1百万人が暮らすための水管理システムだった。数百の寺院もその中に造られていた。

第二次世界大戦後に結党されたクメール・ルージュ(赤色ルージュ)。これを率いたポル・ポトによる大量虐殺の時代がやっと終わって平穏が訪れると、人々は神聖な場所に戻ってきた。
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ここはカンボジアのガンジス川と呼ばれ、訪れた人は心と体を洗い清める。

一帯の川の底にはヒンドゥ教の象徴リンガのシンボルが掘られている。乾季で水が少ない時に川底の岩に彫刻したのだ。
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ここを流れて神の力を得た水が下流のアンコール一帯を潤(うるお)した。

バイヨン(注参照)はアンコール・ワットの後で造られた仏教寺院だ。2番目に大きい寺だ。
(Wiki:バイヨン (Bayon) )
カンボジアのアンコール遺跡を形成するヒンドゥ・仏教混交の寺院跡。アンコール・トムの中央付近にある。バイヨンの呼び方で広く知られているが、クメール語の発音ではバヨンの方が近い。バは「美しい」という意味で、ヨンは「塔」の意味を持つ。
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14世紀に完成した。
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200もの巨大な顔が壁面に彫られていることで有名だ。
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ここのレリーフは人々の生活の様子を表している。
例えばこれはマーケットで商売している様子だ。女が魚を売っている。
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左下では喧嘩をしている。左側がクメールで右は中国だ。
右下は女が子供を産もうとしている様子だ。
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左下は闘犬の様子で、右下は寺院を建設している様子。
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13世紀、ある中国人がやってきた。彼は外交官というよりスパイだった。
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目的はクメール王国の軍隊の調査だ。
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今、カンボジアではキックボクシングが盛んだ。元はクメール王国の軍隊が訓練のために行っていた格闘技ボーケトアだ。カンボジア最高峰の師匠は今もプノンペンの仏教僧院で若者を指導している。
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膝、肘、足、腕などすべてを使う究極の格闘技だ。

しかし強力な軍隊をもってしても王国を守ることは出来なかった!
なぜクメール王国は失墜したのか?
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15世紀、アンコールの文明は崩壊した。都市はジャングルの中に放棄された。
北部モラディ人の侵入や、王に対抗する権力者との間に起きた紛争が原因だと考える人もいる。が、最大の原因は水システムの瓦解(がかい)だろう。
クメール王国は広々とした水田と森に囲まれた豊かな国だった。
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しかし、都市が巨大化するにつれて水システムも複雑化し、管理の限界を超えてしまった。システムに綻(ほころ)びが生じ農業問題や経済の弱体化が生まれた。大きな貯水池も機能しなくなり、洪水も頻発するようになった。
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水田は荒廃し飢饉が起きた。

当時の運河から水を汲み上げている大きな水車がある。そこからカヌーで少し下流に行ってみよう。
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ここで船を下りて10mの崖を登ると面白いものがある。
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昔の橋だ!つまり今立っている所が運河の底だったということだ!
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アンコールは拡大し過ぎていた。それに追い討ちをかけるように水管理システムの瓦解による洪水や飢饉も起き始めた。1431年に北から敵の攻撃を受け、その翌年、王はアンコールを放棄して、南のプノンペンと呼ばれる町に遷都したのだ。

その結果アンコールはジャングルの中に埋もれてしまうことになった、600年もの間!
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ジャングルの木はゆっくり絡みつくように寺院を包んでいった。
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しかし、寺院が全く忘れ去られていたわけではなかった。王国には捨てられたこの地を守り続けていたグループがあった。仏教徒の集団だ!
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徐々に僧侶も増え、アンコール一帯は巡礼地に生まれ変わって今日に至ったのだ。
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(完)
カンボジアの国旗にはアンコール・ワットが描かれています。建物が描かれた国旗は世界でもこれだけのようです。
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Youtubeのフィルムは下記でお楽しみ下さい。
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https://www.youtube.com/watch?v=SUMCTbR7hcY
Angkor Wat: Digging for the Truth (History Documentary)


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mh徒然草ー13:縁起担ぎ

10月22日、TVの朝のバラエティで市川海老蔵の結婚式でのお返しの祝儀袋や引き出物を締める、注連縄(しめなわ)ではないですねぇ、水引(みずひき)というようですが、その紅白の水引の紐の縛り方が紹介されていました。簡単な方法でしたが少し変わっていて、決してほどけない!とのこと。結んだ縁がほどけませんように!と縁起を担いだのでしょうが、結べるのならば解(ほど)けると思うのですが・・・どうなんでしょう。

ネットで調べると海老蔵氏の結婚式は4年前でしたから、そんな昔の水引が今日、TVで取り上げられたということは、よほど斬新な結び方だったのでしょうかね。海老蔵氏はまだ離婚していないようですから、縁起を担いだ甲斐があった例と言えるでしょう。

縁起をネット辞書で調べると次の通りでした。
①事の吉凶の前兆。きざし。前ぶれ。「-がよい」
②社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。また,それを記した文献。「石山寺-」
③事物の起源や由来。
④〘仏〙因縁によってあらゆるものが生ずること。
[句]縁起でもない・縁起を祝う・縁起をかつぐ

Wiki「水引」で判ったことをご紹介しましょう。

まず起源(縁起とも言えますね!)ですが、次の通りです。
「室町時代(1336–1573)の日明貿易において明からの輸入品の箱全てに赤と白の縄が縛り付けられていた。この縄は明側が輸出用の品を他と区別するために使用していたに過ぎなかったが、日本側がこの縄を贈答に使用する習慣と誤解し、以後の日本で贈答品に赤と白の紐をかけるようになった。」
つまり日本で自発的に生まれた習慣ではなかったんですねぇ。

使用する紐は1本ですが、長さ方向の丁度真ん中で色が違うのが普通です。よく見かけるのは半分が赤で半分が白の紐。祝い事で使われます。白と黒に分けられた紐は仏事用です。紐の色には、赤、白、黒、以外に、金、銀、紅(黒に近い玉虫色の赤で皇室専用)があるとのこと。しかし、途中で色が変わる紐を使って結ぶ風習は、世界広しと言えども日本だけではないでしょうか。

結び方は千変万化(せんぺんばんか)ですが基本は花結び、結び切り、あわじ結び、の3つです。
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しかし、縁起担ぎの代表は、やっぱり、神社の参拝ではないでしょうか。以前にブログで取り上げた靖国神社の参拝は、御神体が軍人ですから縁起担ぎとは異質ですが、普通の人なら何のためらいも無い初詣(はつもうで)や、七五三のお宮参りなんかは、善(よ)いことが有ってほしいという願いからの参拝です。

勿論、参拝してお願いすれば叶う、というものでもないのは誰もが先刻承知で、「結び切り」の水引を使った結婚式でも離婚だってありえることも先刻承知です。そうはいっても、善いことがあってほしいし、せっかく結ばれた二人なのだからできれば別れることがないように、と願うのですね、ダメ元で。

所詮、縁起を担いだところでどうなる訳でもないのですが、水引の種類も神社の御神体も、いろいろな思いが込められて千差万別(せんさばんべつ)です。

日本人の、縁起に対する拘(こだわ)りは、水引や神社参拝を文化と呼べる領域に高めた!と思います。効率や経済性だけで物事を決めず、どちらでもいいようなことにも拘(こだわ)ることは、時には必要だ、というよい例と言えるでしょう。でも、拘りすぎると問題を起こすこともありますから、程度を弁(わきま)えることは勿論、必要です。我が敬愛するお釈迦様も仰っています「何事も中庸(ちゅうよう)を持って好(よし)とせよ!」と。あれ?この言葉は我が尊敬する孔子先生が仰っていたのかな?どちらにしても、正論です。
(完)

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ナスカ地上絵の不思議


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ペルーの首都リマの南東3百kmの砂漠に描かれた地上絵(geoglyphジオグリフ)の物語です。
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アンデス山脈の麓(ふもと)の標高450m、太平洋から45kmの砂漠。
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上のGoogle Earthで、黄ピンgeoglyph(ジオグリフ)を中心とした砂漠に地上絵は分布しています。
地中から見つかった、線を描くために打ち込んだ木の杭(くい)の一部のカーボン・デイティングや付近で出土している土器の欠片の分析から、地上絵が描かれたのは紀元前200年から紀元後800年で、ナスカ文化時代と呼ばれています。

ピンgeoglyphから南へ約10kmの、アンデスから流れ出る小さな川の傍(かたわ)らにピンpyramid(現在も発掘中。聖地?)、その東にピンaqueduct(アクイダクト;ウイグルや中央アジアではカレーズと呼ばれる地下水路)、cemetary(セメタリー;墓場)が発見されています。
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それではYoutube「Digging For The Truth - Secrets of the Nazca Lines」とWiki情報を織り交ぜて「ナスカ地上絵の不思議」をお送りしましょう。

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1920年、飛行機で上空を飛んだ人は地上に不思議なものを見て驚いた!
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沢山の直線が砂漠に描かれている!

これらの線画は後年、地上絵(geoglyph)と呼ばれることになった。
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誰が描いたのか?何故?
焼けるように暑くてほとんど雨が降らぬ砂漠の中に!
(Wiki:ナスカ地上絵)
1939年6月22日、動植物の地上絵が考古学者のポール・コソック博士により発見される。その後、ドイツの数学者マリア・ライヒェは終生この地に暮し、彼女を中心に地上絵の解明作業と保護が進むことになった。あまりにも巨大な絵が多く、上空からでないとほとんどの地上絵の全体像の把握が難しい。このような巨大な地上絵を何故描いたのかが大きな謎の一つとなっている。
(Wiki完)
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ナスカ・ラインを見る出発点の町ナスカ(mh注参照)はスーパーマーケットとネットカフェで大賑わいだ。
(mh:ナスカ地上絵の南東にある町でリマから飛行機の便があります。町にはAqueduct(地下水路)が残っています。)
26年間で合計1万2千時間もナスカ上空を飛んだベテラン・パイロットが操縦する超軽飛行機に乗って空の旅に出よう。
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2人乗りだ。過去に2回ほど墜落したが、大きな怪我はしなかった、と自慢している!
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ラインが見え出した、絵も!
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何百ものラインが砂漠を横切って描かれている。16kmの長さの直線ラインもいくつかある。
フットボール場サイズに描かれた鳥の絵!
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サルの絵もある、少し見辛いけれど。こちらは蜘蛛(クモ)の絵だ!
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鯨だ!砂漠を横切るように泳いでいる。山の斜面には人間のような像も描かれている!
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何と呼んだらよいか判らない絵も多い。
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山の上に花のような絵を見つけた。パイロットは知らない絵だという!信じられないことだが、私が最初の発見者らしい!
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パイロットは「これまで324個の絵を見つけたが、これで325個になった!」と慶んでくれた。

しかし古代の人は、空からしか判らないような直線や絵をどんな目的で描いたのだろう?

それを考える時、ドイツ人考古学者マリア・ライキを忘れることは出来ない。彼女は人生の大半をこの絵の調査に捧げたのだ。1998年に亡くなるまで60年間も!
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彼女は確信していた「自分は絵が描かれた目的を知っている!」と。
彼女が死ぬ時も一緒にいて調査していたアンナに現場を案内してもらった。
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地面には火山性の石が転がっている。鉄分が含まれている。2千年前、糸で直線を出し、地表の石を脇に移して地面に直線を描いていった。
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考古学者達の見積りでは、数人のグループなら48時間あれば鳥の絵を描くことも出来る。
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しかし2千年たった今でも線が消えずに残っているのは何故だろう?

鉄分を含む石が・・・地面の温度が・・・とフィルムで解説していましたが、英語の解説でややこしかったのでWikiの解説を挙げておきます。これもなかなか理解困難かとは思いますが・・・
「ナスカの地上絵が立地する場所は、ペルー南海岸地方の北から南へ走る丘陵と東方のアンデス山脈の麓との間にあるパンパ=コロラダ、パンパ=インヘニオと呼ばれる細長い盆地である。長い年月の間に、西方や東方の比較的高い場所からの水の流れが浸食した土砂を盆地に運び続けた。このような土砂は細かくて明るい色、黄白色をしている。この土の上に時々大洪水によって多量の石を含んだ土砂が運ばれる。細かい土は、南風によって吹き飛ばされ、比較的大粒の礫や岩石が残される。岩石は早朝は露に濡れるが、日中は焼け付くような砂漠の太陽に照らされることを繰り返すうちに、表層の岩石はやがて酸化して暗赤褐色になる。岩石が日中の太陽で熱をもつので、その熱の放射で地表に対して暖かい空気層をつくり出し、南風による表面の浸食を防ぎ、雨もほとんど降らない気候環境から雨による浸食もほとんどない状況をつくり出した。」

「ナスカの地上絵は、このような盆地の暗赤褐色の岩を特定の場所だけ幅1m~2m、深さ20~30cm程度取り除き、深層の酸化していない明るい色の岩石を露出させることによって「描かれて」いる。規模によってはもっと広く深い「線」で構成されている。地上絵の線は最初に線の中心から外側へ暗赤褐色の岩、砂、砂利を積み上げる、それから線の中心部分に少し残った暗赤褐色の砂や砂利も取り除いて明瞭になるようにしたと推察される。」

1920年に小型トラックが方向転換した軌跡もまだ残っている!
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さて、ドイツ人考古学者マリアによると地上絵の目的はこうだ。
「全てのラインは星、太陽、月に関係している。動物などの絵は気まぐれ、慰めで描かれた。」
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直線は冬至や夏至などの太陽の出入りの場所を指しているというのだ。
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としたらナスカの人々は偉大な天文学者達だったことになる。しかし、彼女の説に合致するナスカの直線は30%に過ぎない。

また、絵が気まぐれだとすれば、星空のどこにでも何だって描けてしまう!
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他に理由があるに違いない!それを知るにはナスカの人々の暮しぶりを知らねばならないはずだ。
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絵の場所から南に行くとナスカの墓場がある。7~9世紀のミイラや骸骨が見つかっている。
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遺体には何年もの間、生きているかの如く物が捧(ささ)げられ敬(うやま)われてきた。
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しかし、何世紀も経過するうちに墓場の存在は忘れ去られてしまったのだ。砂漠だったので遺体は自然に乾燥し、ミイラ化して残ることになった。人骨は砂漠に散乱している。
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ナスカの埋葬場は驚くべきものだった!この砂漠は神秘に満ちている。

砂漠に描かれたにもかかわらず、海の生物の絵が多いのにも驚く。
鯨や魚やクリケット・バード。
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40km離れた太平洋の浜辺に行くと昔の方法で漁業をしている人達がいる。
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昔ならアシカ(海驢sea lion)の皮で作った浮き輪に長い網(あみ)を載せ、海に泳ぎ出て網のループを作り、最後にロープの両端を巻き上げて魚を獲る。
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時には鯨も捕(つか)まえただろう。嘴(くちばし)の大きな鳥も飛んでいる。
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魚、鯨、海鳥の絵はナスカと海との繋がりを示すものだ。
猿は?きっとアマゾン流域の人々との繋がりを示すものだろう。
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ナスカは乾燥した砂漠だ。そこに暮らす人々の重要な関心事は生活に欠かせない水だったに違いない。
確かに地中には帯水層があったのだ。
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スパイラル状にほられた穴に入ってみよう。水が流れる水路がある!
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地下の水路は帯水層まで繋がっているのだ!
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この水路は今も周辺の灌漑などに使われている。

砂漠には何本かの川やオアシスもあるが帯水層の水もアンデス山脈から供給されているので決して干上がることはない。ナスカに描かれたラインはこれらの水源の場所や方向を指し示しているというのだ。
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2千年も前に水道システムの知識があったとは驚きだ。確かに、地質学者の調査で直線ラインは地下の水源と関係があることが判った。しかし、そうはいっても天体説同様30%のラインについて水との関係が説明できるだけで、ラインの全てには当て嵌(は)まらない。

同じような地上絵があるという北アメリカの砂漠に行ってみよう。ナスカと異なるのは、その絵を描いた人達の子孫が残っていることだ。カリフォルニア州ブライス(Blythe)の近く、モハベという砂漠だ。
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ナスカの地形と似ている。規模は小さいが、確かに動物や人間の地上絵がある。
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これを描いたケッツアンの子孫だという考古学者に訊(き)いた。
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「善と悪の象徴を描いた宗教的な意味を持つ絵だ。人々は知恵や啓示を得るために描いた。儀式の場所にもなった。」という。ナスカもそうだったのだろうか?

伝説によると、手を広げてコロラド川の氾濫を4回止めて人命を救った、という男を奉(まつ)ったという地上絵もある。
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ペルーに戻り、リマの考古学博物館を訪れてみた。ナスカのコレクションがある。
蜘蛛が描かれた陶器だ。地上絵の蜘蛛と似ている!
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儀式で使われた陶器もあった。犠牲者の首も描かれている!
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山の斜面に描かれていた人間の絵を思わせる。

不思議はますます深まった。ナスカ消滅から5百年後にこの地を治めたインカの人々にも首切りの習慣はあった。その習慣は千年以上も前のナスカ時代に既に始まっていたのだ。

沢山の頭蓋骨も見つかっている。こちらの頭蓋骨は扁平だ。子供の時から頭に何かを巻きつけて矯正していたのだ。紐(ひも)が付いた頭蓋骨もある。吊るして飾られていたに違いない。
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殺戮(ざんさつ)というより儀式的な理由で殺されたのだろう。

ナスカのカウアチに戻った。ナスカ絵から2,3kmの場所だ。発掘が続いている。
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ここはナスカの宗教センターだった。人々が巡礼で訪れた場所、ナスカ人のメッカだった。40ものピラミッドがまだ砂の中に埋まっているという。
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ナスカの線のいくつかもこの地を指している。

ナスカに描かれている渦巻きパターンは巻貝を表し、山の神を呼ぶ時に使われていたという。
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今では多くの考古学者はこう考えている。
「ナスカのラインは儀式で人々が列を作って歩いたところだ。描かれた動物は自然を司(つかさど)ると信じられていた動物だ。」
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ナスカの台地は祭壇として造られたのだろう。大きく絵を描いたのは天の神々にも見てほしかったからだ。人々はラインにそって踊りながら、神に捧げものをした。しかし、その時に人身御供を捧げていた様子は地上絵付近ではみつかってはいない。
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ナスカにはまだ多くの不思議が残っている。
(完)
興味がある方は、次のYoutubeでフィルムをお楽しみ下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=ONM14WcJp-o
Digging For The Truth - Season 1, Episode 10 - Secrets of the Nazca Lines

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mh徒然草ー12:漢詩

唐の詩人、岑参(しんじん)が、守護のため西域に派遣される友の顏眞卿(がんしんけい)を長安で送る時に作ったとされる、有名な漢詩をご紹介しましょう。

胡笳歌送顏眞卿使赴河隴 
胡笳(こか)の歌:顏眞卿(がんしんけい)が使いして河隴(かろう)に赴(おもむ)くを送る
        
君不聞胡笳聲最悲  君聞かずや胡笳(こか)の声、最(もっと)も悲しきを
紫髯緑眼胡人吹   紫髯緑眼(しぜんりょくがん)の胡人(こじん)吹く
吹之一曲猶未了   之を吹いて一曲猶(なお)未(いま)だ了(おわ)らざるに
愁殺樓蘭征戍兒   愁殺(しゅうさつ)す楼蘭征戍(ろうらんせいじゅ)の児(じ)
涼秋八月蕭關道   涼秋八月、蕭関(しょうかん)の道
北風吹斷天山草   北風吹断(すいだん)す天山(てんざん)の草
崑崙山南月欲斜   崑崙山(こんろんさん)の南、月斜(なな)めならんと欲し  
胡人向月吹胡笳   胡人、月に向かいて胡笳を吹く
胡笳怨兮將送君   胡笳の怨(うら)み、将(まさ)に君を送らんとす
秦山遙望隴山雲   秦山(しんざん)遥かに望む隴山(ろうざん)の雲
邊城夜夜多愁夢   辺城夜夜(へんじょうやや)愁夢(しゅうむ)多し
向月胡笳誰喜聞   月に向かいて胡笳、誰か聞くを喜ばん

*「顔眞卿」(がんしんけい):王羲之(おうぎし)と肩を並べる有名な書道家。進士(科挙)試験に合格した官僚で武芸にも秀でた多才な人物として有名
*「岑参」(しんじん):盛唐の詩人(715~770)
*楼蘭:タクラマカン砂漠の中にあった小国。遺跡は砂の中に眠っている。
*胡人:唐時代、ウイグル族などタクラマカン砂漠及びその西方に住む民に漢人が付けた呼び名。
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君は胡笳のあの悲しい音色を聞いただろうか。
あれは紫の髭、青い眼の胡人が吹いているのだ。
笛が未だ一曲終わらないうちにも、桜蘭の守備に赴く若い兵士達の心をひどく悲しませる。
涼風が吹く八月、君が赴く蕭關(しょうかん)の道には、天山の草をちぎるほどの北風が吹いているだろう。
そのはるかかなたの崑崙山の南には月が斜めに落ちかかっているだろう。
胡人はその月に向かって胡笳を吹くというのだ。
その胡笳の怨みのこもった音色でもって、今、君を送ろうとしている。
ここ秦の山脈(やまなみ)のはるか向こうに君が赴く隴山(ろうざん)があり、そこには雲がかかっているのが眺まれる。
辺境の町で君が見る夢はきっと郷愁に満ち溢れたものとなろう。
そんな夜、月に向かって吹く胡笳の音色など誰が喜んで聞くだろうか。

しかし、いい詩ですねぇ。「君は胡笳のあの悲しい音色を聞いただろうか」で始まる読み下し文を読んでいるだけで、異国の情景が浮かんできます。秋の夜にはピッタリの詩でしょう。
岑参は、まだ訪れたこともない西域の山や、その山にかかる月だけでなく、友が味わうであろう旅愁と孤独にも思いを馳せてこの叙情詩を作ったのですから、その詩的想像力には驚かされます。
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タクラマカン砂漠を挟んで、北と南には山脈と、シルクロードがありました。崑崙山脈は砂漠の南に横たう山脈で、その麓(ふもと)には雪解け水をたたえるオアシスを辿(たど)る西域南道と言う名のシルクロードがあります。砂漠の北には天山山脈があって、その南側の、タクラマカン砂漠に沿ったオアシスを辿るシルクロードは天山南路です。いずれのシルクロードも是非一度、辿(たど)ってみたい道です。

そういえば、ウズベキスタン旅行で泊まったブハラのホテルで3人の日本人男性グループに会いました。彼らは、シルクロードを西安からローマまで辿る旅をしているとのこと。今回は確か3回目で、ウズベキスタンからカザフスタンに行くとのこと。勿論、使うのはバスだと思いますよ、飛行機ではなく。数週間の旅を何回か繰り返して、ローマまでたどり着こうっていうんです、すごいですねぇ。

顔真卿(がんしんけい:709-784)について中国・百度(バイドゥ)で調べると沢山の書が見つかりました。
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しかしこれらは大半が模写で、真筆は少なく、その一つは台湾故宮博物館の次の作品です。
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王羲之(おうぎし:303-361)の百度情報は次の通りでした。
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下の写真は、台湾故宮博物館に所蔵されている「快雪時晴帖」という冊子の最初の部分で一番右が表紙です。以降、左側に各ページが並んだ、いわゆる折り畳み式の本です。
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この冊子は唯一の真筆と考えられていて多分、清の乾隆帝が「神乎技矣」(ほとんど神の技(わざ)のようだ)との感想を追記して大切に保管していたのですが、どうやら模写らしく、結局、王羲之の真筆は現存していないと言われています。

書道については素養がなく、TVの「なんでも鑑定団」でもそうですが、王羲之の真筆を見たとしても、豚に真珠、猫に小判、何とも言いようがありません。どうすれば鋭い観察眼を持てるのか?
好きになるのが一番だとは思うのですが、ガラクタの骨董品をお宝だと信じて大枚をはたいて買う人も多いようですから、一流の鑑定士になるのは大変です。

ところで、台湾故宮博物館に展示されている宝物は蒋介石総統が中国から持ち出したものでしょうから、中国としては返してほしい、となりますが、蒋介石は1949年に毛沢東率いる共産党軍に敗れて台湾に逃げ出す前から中国の国家元首だったのですから、非はむしろ中国共産党に在り!との考えなのでしょうね。

胡笳(こか)にはいろいろなタイプがあるようです。
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雅楽で使われる笙(しょう)や篳篥(ひちりき)の笛に似た胡笳もあるようです。
なりが大きいのは大胡笳で小さいのは小胡笳と呼ばれて区別され、音は大胡笳は尺八みたいで低音、小胡笳はピッコロみたいで高音です。
胡笳の演奏は次のURLでお楽しみください。長いので途中で視聴を打ち切ってもいいかも。
ちなみに映像の最初に出てくる嘉峪関(かよくかん)は明代の万里の長城の最西端です。昨年6月訪れました!


(完)

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ポンペイの不思議


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なぜ、多くの人がこの脅威に巻き込まれてしまったのか?
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(mh:火山灰に埋もれた人や動物は灰の層の中で風化し、そこに空洞が出来上がりました。地表からその空洞を見つけ出し、小さな孔を明けて石膏を流し込み、固まってから周りの灰を取り除くと石膏像が残ります。こうして造られた像がポンペイ遺跡で展示されています。)

ベスビオ山。最も悪名高い火山だ。過去2千年間に30回も爆発している。
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今は静かだ。しかし西暦78年、2日間、大爆発を繰り返してポンペイを葬(ほうむ)った。5千~2万人が3m以上積もった灰に埋まって死んでいったのだ。
なぜ彼らは町に留(どど)まっていたのか?危険だと判っていたはずなのに!
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(上:ナポリからナポリ湾越しにベスビオ山の噴火を描いた想像図)

彼等は、なぜ噴火を過小評価していたのか?
死んだ彼らの顔が驚きに満ちているのはなぜなのか?

3万5千年前の話だが、現在のナポリを中心に超大火山の爆発があった。
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この爆発で大きなカルデラが生まれた。
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ナポリ湾の一部、そして都市ナポリもカルデラに含まれている。

ナポリの地下には溶岩層がある。この店に入ってみよう。
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地下への入り口があるのだ。いくつかある入り口の一つだ。
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1平方kmの「トゥフォー」と呼ばれている空間に出た。
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住民はここで採取した岩石で地上に家を造ったのだ。石は柔らかくて加工しやすかった。適度な弾性もあって火山振動にも強いと考えられていた。

水路も溶岩層を掘って造られた、ハンマーとチゼル(鏨;たがね)だけで。
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噴火が一段落した後の今から2千年前、この地にナポリの町を造った人々は火山の本当の恐ろしさを体験したことが無い。だから溶岩の上でも構(かま)わずに家を建てたのに違いない。
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勿論、今でも噴火の危険は残っている。

約4百年前の1631年、噴火で4~18千人のナポリ住民が死んでいる。従って今では噴火の怖さを十分知っているはずだ。しかしポンペイの住民はどうだったのだろうか?

ナポリ市街から西8kmのフレグレアン・フィールド(Phlegrean-Field)。
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蒸気が出ている!超大火山はまだ生きていた!
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ポンペイの住民もこの超大火山については知っていたに違いない。
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ここでは小さな噴火が頻繁に起きている。
一方、ベスビオ山では稀(まれ)に、しかし大きな噴火が起きているのだ。

今も活発な火山活動があるストロンボリ島に行ってみよう。
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島に行く途中、島から1.6kmの岩礁に登ってみた。
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ストロンボリ島の山からは噴煙が昇っている。
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約3百年前、島は危険な状態にあった。今では大きな心配はないとされている。
海面から9百m突き出しているが、火山体積の75%は海面下にある。島には観光客も多い。火山の上で生活しているにしては驚くほど平和だ。
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しかし山の頂(いただき)では10分毎に小さな噴火が繰り返されている。
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2002年には大きな噴火があった。
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溶岩は海へ流れ落ちた。10mの津波も起きた。
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その時も「美しい!」といって島民は飛び跳ねて喜んでいた。慣れっこなのだ。
多分ローマ人もそんな感覚でいたのだろう。夜、山に登ると溶岩を噴き出しているのを今でも見ることが出来る。
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2千年前、丁度ナポリを訪れていた提督は、ベスビオ山の噴火をナポリ湾越しに見ることになった。「これは大事件だ!」彼は一緒にいた姪にこの出来事を記録するよう指示するとともに、直ちに数隻の船を準備し、何が起きているのか、もっと間近で見ることにした。
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ポンペイは昼時だったが、急に噴煙の暗闇が襲ってきて人々は混乱したに違いない。
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提督の船団はポンペイ近くまで行った。しかし港に入るのは危険だと悟り、迂回してスタビアエ(Stabiae)に上陸した。
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その夜は、姪や友人と一緒にディナーを楽しんだ。翌日の早朝、今度は大きな噴火が来た!命からがら船に逃れた彼の姪は、1年後に噴火の記録を公表したのだ。
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しかし、何故、こんな危険を冒(おか)したのだろう?
ポンペイの住民も提督も、大噴火を予想していなかったのだ!
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(ナポリ湾越しに見るベスビオ山。頂の白いものは雲です。)

何故、ベスビオ山は大噴火の予兆を出さなかったのか?広島の(原子爆弾の)3千倍ものエネルギーだったのだ。そんな大噴火には予兆が有るのが普通だ。彼らは気付かなかったのだろうか?

ポンペイの町に入ってみよう。ローマ・スタイルの円形劇場だ。
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通りのゲートからはベスビオ火山がのぞいて見える。
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寺院の跡。
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石畳の通り。
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当時、凡そ3千戸の住居が在った。1万人以上、いや2万人位は暮らしていただろう。
建物に火山性の岩が使われている。
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つまり以前にも大きな噴火があったことを人々は知っていたのだ。
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17年前も大きな噴火があり、破損した水路や寺院の修復が進んでいた!
そんな経験をしたばかりなのに、どうして大勢の人が死ぬことになったのだろう?地震と火山噴火の関係を理解していなかったのだろうか?

観光客に非公開のパン屋の跡。店の入り口に騾馬(らば)が眠っている。
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恐らく、その日も、この石臼の周りをこうして回りながらパン粉を轢(ひ)いていたのだろう。
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この石臼はモルタルを塗って修理している最中のものだ。
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恐らく、ベスビオ山は1週間くらい噴火を続けていたのだ。最初の地震で破損した石臼を修理していたのに違いない。しかし、まだパン焼き仕事を続けるつもりでいたのだ。
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これらの石膏像は1860年に作られた。死の瞬間までポンペイに残っていた人々だ。
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考古学上興味深い場所に行ってみよう。ここも観光客に非公開の場所だ。
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10年前に発掘された。細かな噴石が積もっている。12時間は降り続いたはずだ。
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その噴石の上に人が横たわって死んでいるのだ!
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噴火で噴石が降り続いた後、最後のブローが起きた。時速160kmで火砕流が襲ってきたのだ!前日の大噴火でもポンペイを去らずにいた人々は、この火砕流で焼け死んだ。

火砕流については20世紀になるまで誰も気付いていなかった。1980年に噴火した米国ワシントン州のセントヘレナ山が最終的なヒントを与えてくれた。
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ベスビオ山では現在、最新技術を導入して火山の挙動調査を行っている。
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2秒毎に地中の大気の圧力や温度、振動を複数箇所で測定し、分析・監視している。
噴火を予知出来ないか研究しているのだ。
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全くの余談で恐縮ですが、魅力的な地質学者ですねぇ。イタリア人はみんな情熱的で魅力的かも。
で、彼女も言っていましたが、噴火の発生時期をピンポイント(指摘)するのはまだ不可能だとのことです。研究、頑張ってください!

さて、次は、ナポリに戻り、ベスビオ山の麓(ふもと)の町サン・セバスチアーノに行って見ましょう。大戦中の1944年にベスビオ山の噴火で被害を受けた町です。
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世界大戦の最中だったが、噴火の様子は映像に残された。
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ポンペイの惨事では噴石と火砕流だったが、今回は溶岩が襲ってきた!
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人々の目の前で溶岩はビルを、通りを押し潰(つぶ)していった。避難するのには十分な時間を持っていたが、それでも26人が死んだ。

しかし、新たに出来た厚い溶岩層の上にまた家を建てて暮らしている!
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それでは、核心の場所、ベスビオ山のクレーターの中へ入ってみよう!
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専門家と一緒だが、かなり危険な旅なのは間違いない!とても興奮している!
深さは300m。中に入るのが噴火を理解する最善の方法だ。
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午前中にはクレーターの中から脱出しなければならない。午後は熱で石が膨張して噴火し易いのだ。
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斜面を見ると、噴石と溶岩が交互に層を造っている。
左下の写真の石は噴石、右下の岩の層は溶岩流が固まった層だ。
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一番上の溶岩層が1944年の噴火のものだ。
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目の前に聳(そび)える断層は全て1906年から1944年のものだ。
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数百万トンの岩石が40年足らずで積もって出来た!
最上層の噴石と溶岩は最後の爆発時のもので1631年以降で最大だ。そして1944年以降、噴火は起きていない。

次に大きな噴火が起きるとどうなるのだろう?周辺の住民数は2千年前と比べれば格段に増えている。3百万人が脅威に晒(さら)されることになるのだ。

Digging For The Truth - Season 1, Episode 03 - Pompeii Secrets Revealed
https://www.youtube.com/watch?v=Ahwge3EkW_g(完)

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