Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ペルセポリスの不思議

今回はペルシャ帝国で最も偉大だった都市ペルセポリスについてご紹介しましょう。
イランの世界遺産の一つです。
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五芒星の公園は最近のもので今回のブログとは関係ありません。
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それではYoutube「蘇(よみがえ)ったペルセポリス」Persepolis Recreated(製作2004年)を軸に, Wiki, Google-Earthの情報も追加してお送りします。
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最盛期には「太陽の下で最も豊かな都」と呼ばれたペルシャ帝国の首都ペルセポリス。造られたのは今から25百年前だ。
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アレキサンダー大王率いるマケドニア軍に焼き尽くされ、その後の地震や大きな寒暖差による風化で昔の面影が消えてしまった都は、今では古代の遺跡となって静かに時を刻んでいる。
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しかし今、考古学的発見を基に作られたCG技術で蘇ろうとしている。
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アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年 – 同330年)は古代の重要な文明の一つだ。
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アレキサンダー大王誕生より2世紀前、ペルシャは歴史上でも最も広大な帝国だった。
ペルシャ人はインド・ヨーロッパ系民族だ。イラン台地に移り住んだ。
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紀元前550年、大王サイラス(Cyrus:キュロス2世)は世界でも類を見たことがないユニークな帝国を打ち建てた。異なる民族、文化、宗教にも寛大な国家、アケメネス朝ペルシャ帝国だ。
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バビロン(現イラク、ユーフラテス下流にあった古代の都市)では奴隷を解放し、その経典に救世主と記された。
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ギリシャ人旅行家は「賢く寛大な王」と記録に残した。

首都ペルセポリスから40km北東のパサルガーデにはサイラスの墓と庭園跡がある。
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サイラスは庭園をこよなく愛したことで有名だ。
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彼の庭園は「パラダイサ」、つまり生命が光を浴びて空中を舞う所(Life flies with the essence of light)と呼ばれた。
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これが「パラダイス(楽園)」の語源だ。

サイラスの後、大王ダリアスが引き継ぐとアケメネス朝ペルシャ帝国は最盛期を迎えた。
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帝国の版図はインド、リビア、東ヨーロッパ、ロシアまで広がった。
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28の国家が「王の中の王」にかしずいた。ペルセポリスのレリーフにもこれが窺(うかが)える。
玉座に座る大王を、下の28人の貴人が支えている。
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帝国は巨大だった。そのため首都は4つ設けられていた。
バビロン、スーサ、エクバターナ。
そして最も美しいパールサ(Persiaペルシャ)。リシャ人がペルセポリスと呼んだ都だ。
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(下はCGで当時を再現したもの)
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アレキサンダー大王が歴史記録家を引き連れて来た時、この都は「太陽の下で最も豊かな都市」だった。
紀元前580年に竣工された。大きな石で組み上げられた高さ14mのプラットフォーム。
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その上の2万5千平方m(500mx500m)の台地に王宮は造られていた。
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ペルシャ帝国の手がかりは壁や柱に刻まれたレリーフの随所に残されている。
階段の側壁のレリーフには、最も素晴らしい贈り物を王に捧げるために都を訪れた多くの民族が描かれている。
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新年の祝賀でペルセポリスにやってきたのだ。ラピスラズリの器、動物・・・
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綿の布を献上しにバビロンから来た貴人だ。
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リビアからは家畜を連れてやってきた。
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幸運にも同じ図案のレリーフや献上品の実物が各地に残っているのでそうだと判る。
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ペルセポリスで見つかった財宝の多くは大英博物館に、残りはロシアの美術館などで展示されている。
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カラフルな絨毯はペルシャの特産品だ。ペルセポリスの王宮にも使われていた。
現代でもイランの重要な特産品で、5千㎡の世界最大の絨毯も作られている。
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勿論、バザールに行けばレギュラーサイズの絨毯も沢山売られている。田舎では全くの手織りで絨毯が織られている。
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新年のシンボルは牛に襲い掛かるライオンだった。各国から祝賀で貴人が訪れて来た。
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王は手に花を持って貴人を迎えた。
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各国の貴人が一人の王に忠誠を尽くすことを示す場所、それがペルセポリスだった。

訪れた貴人は、まず最初に高さ14mのテラスに向き合い、階段を登る。
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2匹の牛が待ち構える入口を入る時「ペルシャ帝国の心臓部に入っていく!」と感じていた。
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各地からの代表者はこの部屋に集まった。
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大きな扉を出て次の建物に移動する。
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次に待っているのは「100の柱の広間」と呼ばれる建物だ。
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そこを抜けるとアカダマと呼ばれる「謁見の間」の建物が待ち構えていた。
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訪問者は入口の、高さ20mの柱の大きさに強烈な印象を受ける。心臓の動悸は高まっていく。
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巨大なドアが開くと王が待つ部屋だ。天井までの高さは18mだ。
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床には色彩豊富なカーペットが敷き詰められ、天井は豪華な装飾で満ちていた。
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そして一番奥の玉座に王がいた。
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アカダマの建物を彩っていた壁の一部が今でも残っている。
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柱の上で天井の梁を支えるのは2つの頭をもつライオンだ。
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ダリアスの命(めい)に従うものは祝福を受け繁栄を享受することが出来た。

ダリアスはナイルから紅海へ続く運河を造った。
「我は命じた。エジプトを流れるナイルという川からパールサ(ペルシャ)の海につながる運河を造れと!」I gave a order to dig this canal from the river by named Nile which flows in Egypt to the sea which goes from Persia.
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ペルセポリスとエーゲ海に面した町サーディスSardisを繋(つな)ぐ2600kmのハイウエイも造った。「王の道」と呼ばれたこの道は、旅人、商人、軍隊の移動だけでなく、郵便の走りとなった通信道路としても使われた。
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郵便士は途中の駅で馬を乗り換えて走り繋いだので、短期間で書類を届けることができた。
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標準化された重量計量システムが導入されていた。硬貨も使われていた。
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しかし彼らの最大の創作成果は帝国そのものだろう。
帝国はあらゆる民族と文化を寛容した。単に認めるだけでなく、その繁栄を促しもした。
ゾロアスター教が今も発祥の地ペルシャに残っているのは寛容な精神が続いている証だ。エジプトやバビロニアでも彼らの文化と宗教を認めた。奴隷の解放もおこなった。
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歴史上初めて人間が造った国際的な自由思想の国家だったのだ。
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レリーフにもそれが現されている。各国の貴人が互いに肩に手を置いたり手を握ったりして談笑している。
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貴人たちは手に手に、新年を祝う花や丸い林檎や玉子などを持って集まっていた。
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しかし紀元前330年、進軍してきたアレキサンダー大王は、建物に放火して町を破壊し尽くしたのだ。跡地から布の燃えカスが見つかっている。
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セラミックのタブレットも沢山見つかった。楔形文字で当時の様子が記されている。
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「彫刻をした大工は23グラムの銀の褒美を手にした。」
「女の監督に男の作業者の2倍の報酬を与えた。」
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これらの記録はペルセポリスの労働者が奴隷ではなかった証(あかし)だ。技術や成果に応じて適切な報奨を与えていたのだ。
滑車も見つかった。建築工事で使われたのだろう。
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ダリアスの王宮も見事な建物だった。
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ハビーシと呼ばれた王の個人的な王宮も素晴らしかった。権威の象徴でもあった。実はここにアレキサンダー大王は放火した!だから他の建物よりも完全に破壊されている。床すら炭になるほどだ。
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ハビーシの南には女王のパレスがあった。1930年、一部が再建され、今はペルセポリス博物館として遺品などを展示している。
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ペルセポリスで最も大きい建物は「100の柱の広間」だ。
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ここがその中央通路だ。黒塗りの大理石の柱が並んでいた。
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2つの牛の頭の枕で天井を支える100本の柱の広間は4600㎡の広さだった。
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帝国を支える軍隊の指揮官100人が一堂に会し、中央通路の左右に50人づつ整列して王への忠誠を誓った。広間の入り口の左右の柱にそのレリーフが残っている。
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ペルセポリスは帝国の重要な儀式が行われる場所だったのだ。
大王サイラスは言っている「私は、この地に、適切で、安全で、壮麗な王宮を創造しよう。」
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しかしペルセポリスの栄光は2世紀しか続かなかった。
紀元前330年、アレキサンダー大王とマケドニアの軍隊がやってきた。アレキサンダーはペルセポリスの意味を、重大さをよく知っていた。
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彼等がペルセポリスに来た時、他の町は既に陥落し、国の防衛能力は喪失していた。それでも彼らは町を焼き尽くし王宮を破壊したのだ。

こうして、最も豊かな都市は完全に消滅してしまうことになったのだ。
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(完)
Persepolis Recreated (English)
https://www.youtube.com/watch?v=aYlzEU8-GpM

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mh徒然草ー18:仏教徒と洞窟

1月13日ブログ公開で校了した「ムスタン王国」の記事を書いていて、ふと思いました。
「ヒマラヤ奥地のムスタン王国では、アクセス困難な岩壁の洞穴で仏教徒が修行している。仏教徒って何故、不便な洞窟で修行するのだろうか?」
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仏教徒が修行した洞窟例をいくつかご紹介しておきましょう。

2013年6月に訪れた中国・甘粛省の莫高窟(ばっこうくつ)。敦煌の町からバスで20分くらい離れた川の岩壁に掘られた洞穴群です。多くの仏教徒が洞窟に住み着いて修行しました。
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中国・山西省の雲崗(うんこう)石窟も同じです。
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インドのアジャンター石窟(世界遺産)
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アジャンター石窟に彫られた涅槃仏です。
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12月22日にブログ公開したバーミヤン石窟(世界遺産)
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この大仏はイスラム原理主義のタリバン政府に爆破されてしまいました。今はイスラム国家のアフガニスタンにも昔は熱心な仏教徒がいて洞窟で修行をしたのです。

日本については仏教徒が住み着いて修行した洞窟をネットで見つけることはできませんでしたが、磨崖仏(まがいぶつ)なら全国津々浦々で見受けられます、北海道にはなさそうですが・・・
下の写真は九州・臼杵(うすき)の磨崖仏です。
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この辺りで最初の疑問「仏教徒はなぜ人里離れた洞窟に籠って修行するのか?」を考えてみましょう。

まず思いついた理由を忘れないうちに羅列してみると凡そ次の通りです。
1) 若きシッダールタ(釈迦)も洞窟で修行したのでそれを見習う。
2) 仏教徒はイスラムやヒンドゥの迫害を受けたので彼等から逃避する所が必要だった。
3) 仏教の修行は耐乏が基本のひとつなので石窟での住居が適当である。

ゴータマ・シッダールタは、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想して覚醒し仏陀となるのですが、その直前は7km離れた前正覚山の洞窟に籠って苦行をしています。次の写真は前正覚山の洞窟に祀られている釈迦像です。私も2013年10月に訪れました。苦行をしても悟りを得ることは出来ない!と判ったので洞窟を出て菩提樹の下に行って、悟りを得るまでここを離れない!と決心して瞑想した結果、悟りを得た、という経緯があります。
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しかし、仏教徒はお釈迦様を崇拝しているので、お釈迦様と同じような修行をしたい!と願望しているはずですから、洞窟を見つけるか、自ら洞窟を造って、そこで修行しを始めたであろうことは十分考えられます。

人里離れた場所になる理由としては、人里近くは一般的に洞窟を掘るのに都合がよい岩壁が少ない、といった自然条件も考えられますが、洞窟を掘るには数か月は必要でしょうし、近くに非仏教徒の住民が多いと「何を馬鹿なことをしているんだ!」など非難中傷を受けながら掘削作業をしたり修行したりすることになり、対応するのも煩(わずら)わしいから、これを避けて山奥などを選んだ、ということも考えられます。

しかし、もう少し必然的な理由として、仏教徒は仏像を自らの手で彫る習性がある!という事実も挙げられると思います。

キリスト教徒やイスラム教徒が岩山にキリスト像やアッラーの神(そもそもイスラム教のアッラー(神)がどんな姿をしているか、それらしいイメージを持つ人は世界広しと言えども一人もいないでしょうけれど)を彫る、ということは聞いたことがありません。世界の主だった宗教の中では、仏教徒だけが、自らの手で、時間をかけて、崇拝する仏陀や阿弥陀などの像を岩や木に彫っていた、と考えられるでしょう。そして恐らく、仏像などを彫る作業そのものが修行の一つとみなされていた、と思われます。

仏像を彫っている時、仏教徒は、一心に仏の御姿(みすがた)だけを思い描いて作業するでしょうから、心は平安そのものだったと推察します。そして特に岩肌に仏像を彫る時は、何か月も何年もかかることが多く、結局、彫刻作業場所の近くに自分の住家となる洞窟も造ってしまうことになっても不思議はありません。このことから仏教徒は洞窟に住むことが多く、その中またはその近くには仏像が彫られていることが多い、という仮説はそれなりの意味がありそうです。

しかし、仏教徒が人里離れた場所に造った洞窟に住み着く本当の理由は「洞窟で一人で暮らすのが瞑想に最適だ」と考えているからではないのでしょうか。

仏教には「禅」という修行方法があります。この方法を直接、お釈迦様が弟子に伝授したかどうかは知識が無くて断定できません。恐らく、禅をせよ!とはお釈迦様は仰っていないと思います。
しかし「よく考えよ!深く考えよ!」というのはお釈迦様の重要な教えではないか?と思います。そして、考えるためには瞑想する必要があることが多いのです。

キリスト教やイスラム教には聖書やコーランと呼ばれるテキストがあって、こういう時はどうしろ、こんなことはしてはならない、などと細かな指示が書かれているので、テキストを読んで覚えることが信者の重要な行為です。しかし仏教では経典を読むことよりも、瞑想する、つまり考えることが重視されている、と私は思います。

仏教にも経典があって、例えばチベット仏教では一日中、経典を音読する修行もあるようです。日本でも修行僧の重要な修行の一つに読経があるはずです。問答という修行方法もあります。2人で互いに質問したり答えたりするもので、チベットでは問答競走で勝ち上がることは高僧になる条件でもあるようです。日本にも問答による修行もあって「説破(せっぱ)!」などと声をかけては質問したり答えたりするようですが、問答で出題される問題とその答えは、ひょっとすると既に経典などのテキストに記されていて、要はどれだけ記憶しているか、が重要なのかも知れません、勿論、応用力も要求されてはいると思いますが。

しかし、戻りますが、仏教の神髄は、テキストを読むことでも覚えることでもなく、考えることにある、と私は思います。

1月15日のブログ「インドの不思議な質問・答え」に記した「仏教の教えの纏(まと)め」を再度ご披露させてください。

「仏教ではなく‘仏陀の教え’と言うべきだと思いますが、それは次の5点に集約できると思います。
1)諸行無常
   すべてのものは変化する。同じ状態にとどまることはない。
   50億年後は地球さえ消滅します。膨張した太陽に吸収されてしまうのです。
2)中庸尊重
   どちらにも偏らない。
   どちらが好いか、予断は不可能なことばかりです。
   また、偏り過ぎは取り返しがつかない事態を起こしがちです。
3)自力本願
   目標は自分の努力で達成せよ。
   「あまり私(仏陀)を当てにするな!私は神ではない。」
4)因果応報
   原因があるから結果が生まれる。
   良い結果は、それなりの原因があってこそ得られるのです。
5)善行奨励
   ほかの人々が幸せになる行為(善い行い)をせよ。
   それが己の幸せ(好い結果)につながるのです。」

これが正しいとしても、「諸行無常、中庸尊重、自力本願、因果応報、善行奨励」をお経のように繰り返して唱えても人生における問題を解決する答えは得られません。馬鹿か?と思われるのが落ちです。お釈迦様は、世の中の本質とは何か、を説き、本質を理解して対処せよ、と教えているだけで、具体的な問題にどう対応するかは、その都度、自分で考えろ!と教えています。

従って
「仏教徒はなぜ人里離れた洞窟に籠って修行するのか?」
の答えは
「静かに深く考えることが釈迦の教えの神髄だからだ。」
となります。

かなり独善的な結論ですが、、真実だ!と信じられる節もあると自画自賛しています。
さて、皆さんならどう考えられますか?

(追記)改めて、昔読んだ文庫本、中村元訳「ブッダのことば」を紐解くと、仏陀の教えとして私がまとめた上の五箇条は当たらずとも遠からず、というか、かなり遠い、ということを実感しました。まだ読み返したばかりだから、数十ページしか見てないのですが、仏陀が直接言ったのは「全ての生あるものは死滅し、全ての形あるものは壊れる」「優れていると思う教義や結論も、それが優れていると思った時に、ほかの教義や結論について忘れ去る、つまり偏重、こだわりが始まる。偏重しこだわることは真実を見る目を失わせる。」ということのようです。勿論、ほかにも沢山のことをおっしゃってます。

しかし、上の2つに限れば、諸行無常、つまり全てのことはいつも同じではいられない、という言葉や、中庸尊重、つまり偏らない、という言葉と全くかけ離れているというわけでもなさそうですから、まあ、五箇条のまとめもそれなりに意味があるということにしておきたいと思います。

また、仏教徒が洞窟にこもり勝ちな理由についても、関係ありそうな文が見つかったのですが、どこに書かれていたか、探し出せないので、俗世間から離れ、欲望を捨て、というのは私の独断ですが、「犀(さい)の角のように進め!」という教えが、何度も繰り返して書かれていたことをご紹介しておきたいと思います。しかし、俗世間を全く捨てるということは、人の世話にならず、人と交わらず、一人で暮らす、ということで、どう考えても、自然ではないので、お釈迦様ではなく、後の人が創作した教えではないかな?と疑っています。尊敬するお釈迦様ですら、弟子たちと一緒に暮らしたではありませんか。人間は一人では生きていけないというのは疑うべきもない事実でしょう(?)から、問題は、他人とどう関わるか、ではないでしょうか。(完)

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バーミヤンの不思議

今回はナショナルジオグラフィックのYoutubeフィルム「アフガニスタンの失われた宝」をご紹介しましょう。

バーミヤンはヒンドォウクシ山脈の中の渓谷にある小さな町です。
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首都カブールから西北西約130kmの山間に位置しています。
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フィルムの内容紹介の前に、アフガニスタン(以下アフガン)大使館の資料からバーミヤンの概要をご紹介しておきましょう。

「バーミヤンとは「光り輝く土地」のことである。高低を異にして畳々と連なる山並みは、それぞれに色彩を違えて美しい。北に 4000 メートルを悠に越えるヒンドゥークシュの巨大な山並みを背負い、南に5143 メートルのシャー・フォーラーディーを主峰とするコー・エ・バーバーの鋭い山稜を有し、これらの高山が東西に相並んで走る山襞のあわいに生まれたのがバーミヤンの谷である。 厳しい自然の変化と共に人間がこの谷で織り成した多様な歴史の混然とした融合が、可視なるものとして現に存在しているバーミヤンは、今も訪れる人びとの魂をゆさぶる。」
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「バーミヤンには時代を少しずつ異にする仏教の石窟寺院がある。文化的遺産の核をなすのは、主谷の摩崖に刻まれた東、西2体の大仏立像と1000にも及ぶ石窟と、それを飾る多彩な壁画であった。ガンダーラ文化の衰滅の後、アフガニスタンのほぼ中央部に再び咲いたバーミヤンの仏教文化は文明の十字路の名にふさわしく複合的で独自のものである。」 

「バーミヤンでいつ頃から仏教が始まったかは明らかではないが、紀元後2世紀から4世紀に渉って多くの佛寺が造営されていた。バーミヤンに関するもっとも正確な情報を最初に記録したのは630 年頃バーミヤンの王に迎えられ、この地を訪れた中国の求法僧玄奘(Hiuen Tsang =Xuan Zang) である。彼は15 日間の滞在後、『大唐西域記』(Da Tang Xiyu ji, ed.in 646 )にこの時の状況を書きしるした。玄奘によれば、王城の東北の山の隅に高さ140-150 尺の立仏の石像があった。(現在の55 メートルの西大仏のことである。)そしてこの大仏の東に「先王が建てた伽藍」があった。(おそらくバーミヤン最大の座仏洞の前、地上に建てられた伽藍であろう。)さらにこの伽藍の東に高さ百尺余の立仏があったと記録されている。(現在の38 メートルの東大仏のことである)。その地には伽藍が数十ヶ所にあったと伝えているから、この時すでに今日みる石窟の半分は造営されていたと思われる。」
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(三蔵法師が辿った道筋:アフガン=阿富汗、カブール=喀布尓)

「バーミヤンにイスラムの文化が深く導入されるようになるのは、ガズニー朝( 998-1030 年)のスルタン・マフムード(Sultan Mahmud) が権力を握った後のことであった。1221 年、モンゴルの大軍がバーミヤンに攻め入り、シャル・イ・バーミヤンを落城させ、仏教遺跡を傷つけて去ったのち、シャル・イ・バーミヤンはシャル・イ・ゴルゴラと呼ばれ、廃城となった。人煙は絶え、バーミヤンは忽然と歴史の闇の中に沈んだのである。」

「久しく沈黙を守ってきたバーミヤンが、再び歴史の舞台に登場するとき、不吉にもそれは砲撃の音と共であった。 1647 年、バルフよりカブールへと退却の途中、ムガール朝の皇帝アウラグゼーブは、腹いせに大仏に向かって砲弾を撃ち込んだのである。西大仏の左右の足の破壊はこの砲撃によっておこなわれたのである。」

「20 世紀中頃、アフガニスタンにおける考古調査が、国際的に広く門戸が開かれ、それぞれ視点を異にしたバーミヤン遺跡の国際的な調査・研究が大きな高まりを見せようとしていたとき、不幸にも戦争がまたもやバーミヤンにさらなる禍をもたらすことになったのである。戦火の中にあるアフガニスタンからの大量の流出品は、国内の異常な事態を告知するものであった。」

「2000 年夏、国際的な非難の声が高まるにつれて、逆にタリバン政権は態度を硬化させ、ついに2001 年2月26 日、タリバンの指導者は「この国にあるすべての偶像を破壊することが決定された」という声明を発表した。そしてその歴史的価値、その文化的意味からしてもかけがいのない貴重さを無視し、大量の爆薬を使用して蛮行におよんだのである。
 大仏の爆破は、東西の大仏だけではなかった。バーミヤンのもうひとつの渓谷、カクラクの山肌に刻まれた高さ 6.7 mの立仏も、バーミヤンの第二の座仏も、また、爆破されていた。バーミヤンの不幸は、大仏の爆破だけにとどまっていなかった。2002 年秋、日本・ユネスコ合同調査団は、シルクロード上にあってインドや中国西域の壁画と深い繋がりをもった華麗なバーミヤン壁画も、その80 %を失ってしまったことを認めないわけにはいかなかった。壁画は実に、意図的に消し去られていた。」
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上:西の大仏(爆破前後)
下:東の大仏(爆破前後)
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「バーミヤンはかつて世界に燦然とした光を放った大仏やその周辺の壁画を失ったが、残された多くの石窟は、なお美しい壁画を有し、その多用な構造によって、宗教文化とその建築の歴史にとっても、いぜんとしてかけがえのない重要性を有している。バーミヤンが今日まで生きてきた歴史は、イスラムの聖蹟も含めて、人間の精神が偉大な文化を生み出すことの意味を深く教えるものとして、宗教や国の違いを超えて心開らいて受け取られるべきものであろう。」
(資料提供 : アフガニスタン文化研究所所長・和光大学名誉教授 前田耕作氏)

では「アフガニスタンの失われた宝」の始まりです。
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2003年、アフガン系アメリカ人のタディアはカブール空港に降り立った。彼女はアメリカでアフガン発掘を支援する基金を立ち上げている。
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13歳の時、父と共にフランスに亡命して以来、初めて踏む祖国の土だ。40年以上、親しく家族の付き合いをしている友人が出迎えてくれた。
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彼女の目的地はバーミヤン渓谷だ。父サマイヤラ・タージーが遺跡を発掘している。父とは1年以上会っていない。
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そこは想像していたより遠い場所だった。内戦の爪痕がそこここに残されていた。
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渓谷の道に入った。もうすぐバーミヤンだ。
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バーミヤンに着いて父の元気な姿を見ると、タディアはまた涙を流してしまった。これから2週間、父の作業を手伝うことにしている。
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ここでYoutubeでは紹介していなかったタージー氏のWiki情報をご披露しておきましょう。
(Wiki: Zemaryalai Tarziゼマリャライ・タージー)
1939年カブールで生まれフランスで考古学を学んだ。カブールの考古学協会の責任者としてアフガンの遺跡保護を進めていたが、1979年、タリバン政権によりフランスに追放され、Strasbourg大学で東洋考古学の教授を務めた。現在はフランス主導のバーミヤン発掘調査団の責任者である。
(Wiki完)
2人が再会したバーミヤンは世界で最も美しい谷だ。高さ120mの岸壁が5km続いている。ヒンドゥクシィ山脈の中の小さな町で、最盛期には数百の洞窟と5千人を越す僧侶が修行していた。
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(左(西)に55mの大仏、右(東)に38mの大仏が立っていた洞窟が見えます。)
バーミヤンは仏教が西に広がる時のルートだった。
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2つの大仏があることから大仏の谷(Valley of the Gods)とも呼ばれていた。
しかし、2001年3月、タリバン政府によって仏像は爆破された。
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タージー「その時、私は丁度自宅でスリッパを穿きながらTVを見ていた。突然流されてきた大仏爆破のニュース映像を見て思わずスリッパをTVに投げつけた。見たくなかった。私は泣き叫んだ!」
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「この出来事は世界中の人々の心に大きな衝撃の記憶として残り続けていくだろう。」
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「将来、アフガン国民は、タリバンが何をしたのか理解するだろう。野蛮な男たちが世界の遺産を破壊してしまったのだ。」
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戦(いくさ)がタージーをアフガンから追い出してしまった。しかし、彼は世界の誰よりもバーミヤンの大仏を知っている。1970年には修復で訪れていたのだ。
タージーはタリバンが知らないことを知っていた。破壊された2つの大仏以外にもうひとつ、第三の大仏があるかも知れないのだ!バーミヤンの涅槃仏と呼ばれている。古代の書物に記録されている。長さは300mだ。
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エッフェル塔の高さを超える。タージーは今、それを見つけようとしているのだ。
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タリバンの爆破で大仏を失って以来、バーミヤンとアフガンの人々はその穴埋めの方法を探している。
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もし涅槃仏を見つけることが出来れば祖国への大きなプレゼントになる。
しかし1千年以上前の話だ。本当に残っているのか?どこにあるのか?

過去を探してカブールの繁華街を歩いているもう一人の偉大な考古学者がいる。ロシア人のビクター・サリアディーディ博士だ。
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「最後にここに来たのは20年以上前だった。飛行場からここまで、いろいろ見て回ったが、変わってしまった。馴染みのあるものが見当たらない。とても悲しい。」
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博士がカブールに招待された理由は、昔、彼が発見してアフガン政府に引き渡した後で見失われていた宝物が戻ってくるかもしれないからだ。「バクトリアン・ゴールド」と呼ばれている宝のコレクションだ。
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2千年前に造られた金の宝物だ。1980年には、どこかに消えてしまった。溶かされてしまったとか、オサマビンラディンに献上された、とかいう噂があった。しかし大統領宮殿に隠されているようだと判ったのだ。明日、その検証に立ち会うことになっている。

その宝はアフガンの北部、ティラテペという丘で見つかった。
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1978年、彼はソビエト・アフガン共同発掘隊を指揮していた。ある日、地面に輝くものを見つけた。
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5人の女性と1人の男性の墓が次々に見つかり、金の飾りや置物や王冠が出て来た。
恐らく、2千年前のキリスト時代の王室の人々の墓だ。
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アレキサンダーの庇護やシルクロードの交易で繁栄した人々だ。発見した宝はアフガニスタン政府に全て渡したのだが、その後の混乱で、どこに行ったのか判らなくなっていたのだ。

1979年、ソ連邦がアフガンに侵入した。10年間の争いがあった。
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アフガン政府軍にゲリラも加わった反撃でソ連軍を撤退させることは出来たが、その後、国内の治安は急速に崩壊してゆくことになった。

1993年、ロケット弾が国立博物館を爆破した。バクトリアン・ゴールドを保管していた場所の一つだ。
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そして状況は更に悪くなろうとしていた。
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1996、タリバンが実権を握り、ソ連寄りだったモハメッド・マジブラ大統領は公開処刑された。
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カクサールはかってタリバンの内政大臣だった。
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彼は言う「タリバンは厳しいイスラムの教えを強制した。崩壊の法律だ。」
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「物を盗んだといっては手を切断し、人を殺したといっては処刑した。」
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特に女性への厳しい罰則はカクサールを困惑させた。
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偶像や生き物の崇拝はコーランで禁じられている。だからバーミヤン大仏は破壊されたのだ。
破壊行為は加速し、国立博物館や大統領官邸にあった多くの芸術品も破壊されていった。
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50年に渡るアフガンの記録フィルムも燃やされて煙になってしまった。
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ついには特定の民族の抹殺をも始めだした。
「ハザーラ人は人間でない、彼らをこの世から葬(ほうむ)るのだ!」

バーミヤンの住民はハザーラ人だった。
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フセインはタリバンがバーミヤンで人々を殺戮するのを目撃した。
「ある場所では200人が殺された。別の場所でも200人が埋められた!」
タリバンは2~3千人を殺した。その中には彼の子供2人も含まれている!

「彼らは家にやってきた。私は捉えられ、他の数人と一緒にバーミヤン大仏に連れていかれた。ロープで上から吊るされ、大仏に爆薬を仕込む穴を明ける作業をさせられたのだ。そしてあの爆発が起きた!」
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「ここに来てあの空洞を見ると“あの時、私の命は終わった”といつも思う。私が死んだら、大仏が建っていたこの場所に埋葬してほしい、神に祈っている。」
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タージーは娘と一緒に発掘作業を続けていた。
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彼は玄奘の言葉を頼りとしていた。仏陀の神聖な経典を求めて7世紀に中国からインドに旅をし、632年バーミヤンに立ち寄っていた。
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玄奘は記録に残している。
「ここの人々には驚かされる。友人を大切にし、信じられないほど信仰心が高い。」
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「150尺の仏陀が岩壁に彫られている。金色の姿が光り輝いている。」
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しかし、玄奘によれば、ほかにも仏陀があった!
「町の東の修道院に仏陀があった。長さが千尺(300m)の涅槃(ニバーナ/ニルヴァーナ)の仏だ。」
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もし玄奘の言う事が正しいのなら、千年以上も見失われている修道院を探せばよい。そこに涅槃仏があるのだ。
「玄奘は2つの大仏の間の東側で修道院をみた」と記載している。東側にある小さい大仏の近くということになる。
「私は大きな仏像の西にある王宮の町から東へ2~3里を歩いた。そして千尺の涅槃仏に到達した。」出発点の王宮の町は何処にあったのかは明らかになっている。
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問題は当時の1里がどのくらいの距離だったのか?だ。1/3マイル(500m)か?4/10マイル(640m)か?
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1エーカー(4千平方m)の場所を探さねばならない!
タージーは、これまで2箇所で試験発掘をしたがだめだった。発掘を初めて2年目、やっと建物の跡を見つけた。
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「これが玄奘のいう修道院か?」それを示す確実な痕跡はまだ発見できていない。
「しかしここを見てくれ。4つの壁が重なっている。モニュメント的な重いものを支えていたに違いない。位置からして涅槃仏の足あたりの場所だ!」
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「事実はどうなのかまだ判らないが、とても重要な発見だと思う。興奮している。これまで沢山の仏像の断片を見つけている。合計すれば、きっとコロッサス(巨大な石像)くらいの重量になるだろう。」
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タージーの気分は高揚していた。きっと東の修道院の跡だ!
しかし、仮にそうだとしても1400年も前の涅槃仏は形を留(とど)めているのだろうか?今年、彼に残された発掘期間は1週間しかない。フランスの大学に戻ってレポートを纏めなければならないのだ。

アフガン人のモハメッド・アサヒは医者でかつ有名な画家だ。彼の耳に、タリバンの次の破壊対象がは国立美術館の絵画だ!との噂が伝わってきた。人や動物などの生き物が描かれた絵を破壊し始めていたのだ。アサヒは国の大切な絵画を守ろうと決心した。発覚すればタリバンに殺されるかもしれない。
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アサヒはタリバンに破壊されそうな絵を美術館の空き部屋に持ち込んだ。そこはアサヒの仕事場になった。彼は生き物が描かれた部分に絵具で別の絵を重ねて生き物を隠していった。
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これは効果があった。タリバン宗教警察は気付かなかった!
タリバンが去り平和が戻ってから、水を含ませたスポンジで上塗りした絵具を除去してやると、オリジナルの絵が現れた。
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80枚の絵画が守られることになり、今はギャラリーに展示されている。
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タリバンは闘鶏、踊り、凧上げなどの娯楽や遊びも禁止した。しかし今は復活している。
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アフガンの人々は結局、昔からの伝統を忘れてはいなかったのだ。

いよいよロシアから招待されたサリアディーディ博士の出番がやってきた。今日の午後、大統領宮殿で20年以上昔に彼が見た宝物の調査に立ち会うのだ。彼だけが、それが本物か証言できる。
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金庫は出てきたが鍵が見つからない。そこで扉を切り開くことになった。繊細な宝物だ。もし中に残っているなら熱でダメージを受けるかもしれない!
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扉が開いて最初の品物が姿を現した。髪飾りだ。本物だ。問題なさそうだ!
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1978年の冬、サリアディーディが初めて発見した宝だ。次々に金庫から宝物が取り出された。
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「25年前の友達に出会った気分だ。」

2千年前の、恐らく25~30歳の王女のものだったと思われる。
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あまり知られていない古い寺院に密(ひそ)かに埋葬され、墓石などの印も付けられなかった。それで誰の眼にもとまらず今日ままで残っていたのだろう。

バーミヤンの王室は、ローマの戦士たちの後ろ盾を受けながらシルクロードの交易の富を蓄え、偉大なオアシス都市を造っていったのだ。
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ナディアとタージーはバーミヤンで西暦5百年頃の仏陀の像を掃除していた。
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紀元前3世紀のアレキサンダー大王の遠征後、この地でアレキサンダー軍の子孫と仏陀の教えが出会った。
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ギリシャ文明の影響を受けたヘレニズム文化が生まれ、初めはストゥーパ、足跡、菩提樹などでシンボル化されていた仏陀が、人間の姿になって残されることになった。
髪の雰囲気、高い鼻、小さな口、はギリシャ風だ。仏陀の顔はアポロンに似ている。
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これらの仏陀像は今年の博士の発見の主な物だ。そろそろ帰国しなければならない。
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しかし、涅槃仏については何の発見もないままだ。

娘がアメリカの家に帰る日になった。
「今年は涅槃仏を見つけられないかも知れないが、父が落胆してないのは嬉しいことだ。」
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年老いたタージーはバーミヤンに残った。すると、驚くべき物が見つかった。
発掘場所から赤く塗られた土が出現したのだ。2平方mくらいある。
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「ひょっとすると涅槃仏の足の部分かもしれない!」
発掘を続けるべきか、予定通りフランスに帰り、今年のレポートをまとめるべきか。
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「これは素晴らしい発見だ。しかし今年の発掘作業の終わりの時期に見つかったというのは残念だ。
修道院と思われる遺跡の西の端(はし)で見つかったので足の可能性がある。」
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仏教の言い伝えによれば、涅槃の仏陀の頭は東で足は西だったのだから。

アフガン・シネマ館では昔失われていたフィルムが上演されていた。見ているのはこの記録の保存に成功した面々だ。全てが破壊された今となっては昔のフィルムは貴重な記録だ。
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タリバンがこの映画記録館にきてフィルムを焼くよう指示した時、我々は狼狽えた、どうしよう!
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タリバンは言った。「少しでもフィルムが残っていたら、我々はここにいる全員を捉え、フィルムと一緒に燃してしまうぞ!」

「しかし我々は一計を講じた。フィルムは提出し、ネガを隠すのだ。
タリバンはフィルムを燃やした、我々の目の前で。大切な友が目の前で殺されるかのようだった。」
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しかし、ネガがあれば再生できることを彼等は知っていなかった。

「どこにネガを隠したらよいのか?答えは単純だった。建物の一番奥の部屋に詰め込めるだけのネガを詰め込んでからドアを漆喰で埋めて隠した。この部屋だ。タリバン警察は何度も来たが、この前は通り過ぎた。」
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タリバンが権力から失墜した後でネガからアーカイブが再生された。
ネガを隠し続けたヒーローたちが集まってくれた。
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「文化が無い国は歴史が無い国とも言える。だから我々は文化を守ったのだ。みんな、タリバン時代のIDカードを持っている。この時、文化を守ったことを記憶しておくために。」

大統領宮殿でも文化が再生しようとしていた。6つの金庫から見つかった宝物をカタログと照合していった。
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これは王女の冠だ、この像は王女の胸の上に置かれていた。
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像はギリシャ風でもあるが南インドの雰囲気もある。アフガンはシルクロードで運ばれた文化の融合点だったのだ。

宝物の確認を終えたサリアディーディ博士はもう疑いを持っていなかった。
「今日は私にとって素晴らしい日になった。1978年に私が発掘したバクトリアン・ゴールドに再会できたのだから。」
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彼の素晴らしい貢献は失われていなかった!

バーミヤンではサージー博士はサイトを埋めるよう指示していた。
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「仏陀は数m下に眠っているかもしれない。発掘を続けられないのは残念だが、急いで進めて貴重な遺跡を破壊してしまう訳にはいかない。300mの仏陀を見つけたいという私の夢は来年実現する可能性もあるのだから。」

タリバン政権が消えてアフガンの瓦解は止まり、将来に向けた復興が始まっている。
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破損した石像の修復や絵画の展示施設の建設も進んでいる。
カブール大学では芸術家を目指す女性も技術の習得に励んでいる。
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明日への希望をみんなで繋なごうとしている。
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(完)
後日談です。
2008年9月付けのネット記事によれば、タージー博士はこのフィルムが撮影された2003年以降も発掘を続け、涅槃仏を発見しました。長さは18mで、その写真が掲載されていないことから、恐らく、形はかなり崩れているのではないかと思います。博士は「今後も300mの涅槃仏の発見を目指す!」とのことです。
一方、BBCネット記事によれば18mの発見を次のように報じています。
「アフガンのインディージョーンズが失われていたバーミヤン像を発見」
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インディージョーンズというのはタージー博士のことで、上の写真にも写っています。ひょっとしてこの写真に写っているのが涅槃仏かも!

三蔵玄奘が記した大唐西域記の涅槃仏に関する記事情報を中国ウェブで見つけたのでご紹介します。
意味は漢字からご自身で推察下さい。中国語は、英語と同じSVOC構造で、漢字ですから、単語の意味は何となく理解できるのではないかと思います。
<第三尊大佛之謎>
《大唐西域记》关于睡佛,迄今有力的文献考证是公元7世纪中国唐朝和尚玄奘西行时的游记。记述梵衍那国(注1)一段中提及“城东二三里伽蓝中有佛入涅盘卧像,长千余尺”,应为长300余米的卧佛形象。
游记表明,睡佛就在两尊立佛之间(注2),长为900英尺,是180英尺的最大立佛的5倍。其躺卧的位置,稍微偏向小立佛所在的一端

中国唐代高僧玄奘从西域来印度取经时,曾经在巴米扬(注3)逗留过一段时间。他在《大唐西域记》卷一《梵衍那国》里写道:“……伽蓝数十所,僧徒数千人,宗学小乘说出世部。王城东北山阿有立佛石像,高百四五十尺,金色光耀,宝饰焕烂。东有伽蓝,此国先王之所建也。伽蓝东有石释迎佛立像,高百余尺,分身别铸,总合成立。”
注1:梵衍那国 サンスクリット語でラーマヤーナの国、つまりインドです。
注2:睡佛就在两尊立佛之间 眠り仏は二つの尊い立ち仏の間に在った。
注3:巴米扬 バーミヤン
NatGeo: Lost Treasures of Afghanistan

https://www.youtube.com/watch?v=Qi1N9JYEKJg

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mh徒然草ー17:ソウルの天皇誕生日パーティ

12月5日、徒然なるままにネット新聞を見ていると記事一覧表に次の見出しがありました。

・・・・・・韓国紙「波紋起きる」に日本側抗議・・・・・・

日本側というのは、どうも政府とか大使館などの国政関係者かな?という雰囲気があります。
つまり日本国政関係者又は関係部門が、韓国の新聞の「波紋おきる」という記事に抗議した、という記事ではないか?と推察されました。

韓国新聞社は何が理由で波紋が起きるとし、日本の国政担当者は、何故これに対して反論したのか???

考えても答えは見つからない、ということでタイトルをクリックすると次の記事が現れました。
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上の文字が読みづらいかもしれないのでmh流に翻訳すると次の通りです。
*12月4日付け東亜日報は、韓国駐在の日本大使が主催する天皇誕生日祝賀会がソウルで開かれることに関し、「もし予定通り開催されるなら波紋が起きるだろう」とのコメント記事を掲載した。
*東亜によれば、これまでも同祝賀会に出席した韓国国会議員や、花輪を送った韓国企業が、韓国人の感情を害した、という理由で物議を醸し出している、とのこと。
*日本大使館側は「この記事が行事開催の障害になっている!」と東亜に抗議した。
*東亜は「今後、読者に誤解を与えないよう注意する」との見解を示した。

mhの感覚で言わせてもらうと、東亜日報の「ソウルで日本の天皇の誕生パーティを開き、これに韓国人または韓国企業が参加したり賛同したりすれば不慮の事故が起きる可能性がある」という指摘は、過去の歴史や昨今の日韓関係を見ていれば、間違っていないのではないか、と思います。その上、この記事は既に韓国内に流れてしまっています。

日本大使館の抗議についても「次回は、もう少し配慮します」という新聞社の回答があっただけで、次回、どう配慮するのかは不透明だし、記事を見てしまった韓国人読者には大使館の苦情がどんなものだったのか、これに対し新聞社がどう回答したのか、その概要すら知らされないままでしょうから、結局、実質的には意味のない、苦情と回答の応酬で終わってしまっていると思います。

確かに、昨今の韓国側の日本批判は、病的、偏執的、一方的で、自分が得するのなら、どんな理屈を付けてでも他人を非難する、というのは韓国の気質なのだろうか?と疑問を感じる人も多いでしょう、かく言う私もその一人です。

1910年の日韓併合の歴史もあって、当時の日本人の行為に対して韓国人が怨みを持つのは判らないではありません。
しかし、今生きている日本人の99%以上は日韓併合時には生まれてもいなかったのですから、今更我々に文句を言われても困る!というのが当方の本音です。日本のために苦労させられた父母や祖父母をもつ韓国人が簡単には収まらないのも仕方ないことかと思いますが、勿論、合理的な判断をする韓国人もいるわけで、その中には天皇誕生日をソウルでやることに、いちいち目くじらを立てない人も多いと思います。

しかし、ソウルで開かれる天皇誕生日のパーティは誰のためのものでしょうか?天皇のため?
とすれば、韓国人を招待する、ってことは、韓国人にも天皇誕生日を慶んでほしい!っていうことでしょ?それはいくらなんでも図に乗りすぎです!ずうずうしいにも程がある、と口さがない韓国マスコミに叩かれても仕方ありません。

現在の日韓関係を配慮すれば、韓国での天皇誕生日は見送ってもいいだろうし、実施するにしても韓国人を招待して祝ってもらう必要はないと考えるのは私一人ではないでしょう!

今上天皇(現在の天皇)が、ソウルでも私の誕生日パーティを開いてほしい、と希望を述べたとは思えません。もし今上天皇にパーティを開きたいのですが、と聞けば「開くべきか開くべきではないのかコメントできません。」と仰られるか、もしくは、というよりも多分「・・・」でしょう、つまり、その問合せは黙殺されるに違いありません。

私はこう思います。
もしパーティ招待状が届けば、韓国人の99%は「いやなものが届いたなぁ」と感じるはずだ。ましてや、喜んで行きたい、毎年参加したい、と思う韓国人は0%だろう。そんな嫌な思いまでさせて参加してもらう必要はない。天皇も望んでは居まい。
このパーティは韓国にいる日本人のために開催されるのだ。日本の関係者の考えはこうだろう。「政府関係者が天皇誕生日を祝わないのは国のメンツに関わる重要な不祥事だから、否が応でも実施しなければならない。韓国側の感情は国際的には異常なのだから、そんなものに気を使って毎年開いてきたパーティを中止することなどできない。」

更にこうも思います。
開催に拘(こだわ)る日本関係者は日本のことしか考えていない。韓国人の感情にもう少し配慮すべきだ。その結果、仮に中止としても日本にとって何の不利益もない、むしろ、日韓友好で経済も好転するなど利益面すら考えられる。

日本は共和国ではなく君主国と言えます。君主は勿論、天皇です。かつて天皇は日清戦争、日露戦争、太平洋戦争の実施を最終的に決済してきました。神の子である天皇が決めたことが間違いであるはずはなく、戦争すら正しいものにされてきました。しかし、太平洋戦争に敗れ、天皇は米国の配慮で死罪を免れたものの、実質的な君主の権利は剥奪され、国会がそれを担うことになりました。

それでも、今も天皇が君主であることは事実です。よって日本は君主国です。そうではない、との見方もあるようですが、としたら、「天皇は君主でも国王でもない」と憲法で明確に規定するか、天皇の称号を失くすのが筋というものでしょう。
が、いろいろな理屈をつけて、結局は天皇という称号を残し、この天皇が君主かどうかも曖昧(あいまい)にしている日本という国は、外国人が君主国と呼んだとしても、そうではない!と否定することはできません。

今回のニュースを極端に考えると、韓国で天皇誕生パーティを実施したい日本大使館関係者は、天皇が君主であることを韓国人にも知らしめたいと考えている気がします。その意識の中には、日本の方が韓国よりも政治・経済だけでなく国の成り立ちからも優れているんだぞ、と誇示する心が透(す)けて見える感じです。

「実るほど首を垂れる稲穂かな」
この言葉は、何が本当に素晴らしいのか、たった13文字で明確に表現しています。他の格言同様、私の如き凡人には理解できても実行は容易ではありませんが、心意気くらいは稲穂に近づくよう言い聞かせながら生きたいものです。

補足ですが、少しネットで調べたら次の通りでした。
太平洋戦争で負けてから米国の意向を受けながら出来上がった現憲法によれば、日本は一般的には象徴天皇制ですが、政府に言わせると、明治時代と同様の立憲君主制のようです。
Wiki「立憲君主制」で該当国を調べたら英国連邦が多いのですが、日本も立憲君主国の一つとなっています!つまり政府の見方が日本の常識だ!ということのようです。

ということで、どうも実態がわからないのですが、何はともあれ天皇という皇族が国のトップにあげられている点で、最近になって特に関係が悪化している中国や韓国という隣国と日本は異なる国であることは間違いありません。しかし、過去には、中国や韓国にも君主(皇帝、国王)がいたのです!今は存在していませんが!とすれば、日本だけが変わっていない!という見方もできそうです。
(完)

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エジプト第一中間期の不思議

お釈迦様ではありませんが、何事も栄枯盛衰、諸行無常が摂理というものでしょう。
エジプト文明も例外ではありませんでした。

Wikiによると「エジプト文明」の栄枯盛衰は次の通りです。
エジプト原始王朝時代(紀元前4200年頃-紀元前3150年)
エジプト初期王朝時代(紀元前3150年-紀元前2686年)
エジプト古王国(紀元前2686年-紀元前2181年)
エジプト第1中間期(紀元前2181年-紀元前2040年)
エジプト中王国(紀元前2040年-紀元前1663年)
エジプト第2中間期(紀元前1663年-紀元前1570年)
エジプト新王国(紀元前1570年-紀元前1070年)
エジプト第3中間期(紀元前1069年-紀元前525年)
エジプト末期王朝(紀元前525年-紀元前332年)
プトレマイオス朝(紀元前332年-紀元前30年)

よく見ると「中間期」、言い換えると停滞期、が3回起きています。
ギザで3つのピラミッドが造られたのはエジプト古王国Old Kingdom、その直後の第1中間期First Intermediate Period of Egypt、これが今回のテーマです。

「何がエジプト第1中間期をもたらしたのか?」

Wiki「エジプト第1中間期:2181BC~2040BC」
紀元前2181年、ファラオの権威が失墜して古王国が崩壊し経済も荒廃した。食料不足や施政の混乱で飢饉や内紛がエスカレートし、各地で豪族が乱立した。彼らは独特の文化や経済を生み出し、王室限定とされてきた生活様式を我が物顔に取り入れては墓や宮殿を造り始めたりもした。
やがて豪族たちの間で権力闘争が起き、テーベを首都とする上流エジプト(Upper Egypt)とメンフィスを首都とする下流エジプト(Lower Egypt)に二極化する。しかし紀元前2055年頃、上流エジプトは下流エジプトを打ち破り中王国Middle Kingdomが成立した。
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それではYoutubeからBBC「古代の啓示:ナイル流域の滅亡」Ancient Apocalypse Death on the Nileをご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
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5千年前、エジプトには華麗な文明が在った。その偉大な遺産はギザの大ピラミッドとスフィンクスだろう。
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ピラミッドは、永遠に生きるため、ファラオがミイラ化されて保管された墓だ。
ファラオはエジプトを統治し古王国は繁栄を極めていた。他に例がない見事な文明が1千年以上も発達し続けていた。
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しかし今から4千2百年前、古王国は突然、崩壊してしまうのだ!
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ファラオの権力は瓦解し、政府は統治力を失って、エジプトは1百年以上続く暗黒時代に突入した。
この突然の変化はエジプト研究に携(たずさ)わる考古学者にとってミステリーだった。
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ロンドン大学ヘクリ・ハサン教授は、30年間、このミステリーを解き明かそうと調査を進めてきた。
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(mh:このハサン教授の調査活動に焦点を当てたBBCドキュメンタリーなので、以降も彼が頻繁に登場します。よって今後は単にハサンとさせて頂きます。)

「なぜ、その時、急激な変化が起きたのか?素晴らしい建造物を残していた最中(さなか)で!」
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王室が分裂し、豪族たちの間で政治的な争いが始まったから、という説が支配的だった。

しかしハサンはこの説に懐疑的だった。その思いは1971年に芽生えた。
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砂漠の中で発見された小さな豪族の墓は驚くべき物語を秘めている。
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地方の豪族で古王国が崩壊した直後の時代を生きた男、アンカティフィの墓だ。
彼が語った物語は神聖文字ヒエログリフで墓に残されていた。
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ハサン「この墓はエジプトで最も注目すべき墓だと思う。4千年前に起きた飢饉とサファリング(生贄:いけにえ)について描かれたヒエログリフが残っているのだ!」
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ヒエログリフにはさらに驚くべき表記があった。
「エジプト中に飢饉が蔓延したため、誰もが子供達を殺して食べた!」
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無視することが出来ない記録だ!!!

アンカティフィの記述はエジプト考古学者達を騒然とさせた。
エジプト人の権威ガバーラ氏は言う。「その記述は事実ではないと思う。エジプト人なら、よく口にする誇大表現だ。そんな酷(ひど)い事がエジプトで起きたわけがない!」
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しかし、ハサンは考えている。「十分信頼できる記述だと思う。調査を進めれば裏付けが得られるはずだ。」

ハサンの努力にもかかわらず、数年の間、有力な事実は見つからなかった。

1996年、考古学上の証拠が初めて現われた。ナイルデルタの北部で古代の町が見つかり、そこから生贄の事実を示すと思われる跡も見つかった。旅行用ガイドブックにはこの遺跡は紹介されていない。
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発見したドナルド教授は驚愕した。不自然に放置されたと思われる9千を超える遺体があったのだ!
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ほとんどが貧しい人々の遺体で、古王国が滅びた時代に死んでいる!
ドナルド教授「このような出来事はこの場所だけでなく、エジプト全土で起きていたのではないかと私は思う。そして、この出来事こそが古王国の崩壊を指しているのだ。」

アンカティフィの記述にある壮絶な飢饉(ききん)は事実だったのだ。何か啓示的な自然現象が起きたのに違いない!
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長い間エジプトを統治し続けた最大のものはナイルだろう。古代のエジプト人は、万感の思いを込めて「神からの贈り物」と呼んでいた。ナイルを深く愛していたのだ。
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その思いは今のエジプト人も同じだ。
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ナイルが無ければエジプトは存在しなかった。上流に降る雨は毎年、洪水となって肥沃な土壌を下流に運んだ。土壌が積もると麦や野菜の植え付けを始めることが出来た。
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ナイルは今日もカイロの街を穏やかに流れている。しかし時には荒れ狂う川にもなる。
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エジプト人の考古学権威は言う。「ナイルはエジプトを育んできた。いつも信頼できる川だ。私は、神を信じるようにそのことを信じている。」
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しかしハサンは思う、「ナイルがいつもエジプトの良い友だったとは限らない!」
いくつかのそれらしい出来事も起きている。

ハサンは、アラブがエジプトを占領していた7世紀に出来た建物を訪れた。カイロにある。
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毎年、ナイルの洪水の水位をこの柱で確認していた。
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1千年以上に渡る記録が残っていた。これによれば洪水のレベルはいつも同じだったわけではない。岸を1mしか超えない年が1792年にも起きていた。その時、人々は飢え、暴動が起き、政治は動揺し、これに乗じたナポレオンはエジプトを易々(やすやす)と占領することが出来た。
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しかし、それでも暗黒時代を引き起こす程ではなかった。
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何かもっと大きな出来事があったはずだ。
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エジプト誕生にとって重要なもう一つの場所、サハラを調べてみることにした。
調査には妻で学者のハーラも同行した。
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人が住んでいた痕跡のある場所に炭が残っていた。
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研究所にもどって調べてみると昔からこの地に生えていた固有の木の炭だと判った。
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7千年前、この辺りはサバンナで草地だったが、木も茂り、人間が暮らすことは出来た。しかし時が経ち、砂がサバンナを覆い尽くして砂漠に変えてしまったのだ。
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「草原は砂で覆われ、荒れ果てていった。やがてそこに人々は住めなくなった」と書かれた記録も残っている。砂漠化の進行が4200年前の暗黒時代の原因なのだろうか?

ハサンは言う「違う!砂漠化などという速度が遅い変化ではなく、もっと急激にやってきたものが原因だったはずだ。」

新たな情報はエジプトではなく、イスラエルからやって来た!ミラ博士は鍾乳石を研究対象にしている。
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鍾乳石が成長する過程では石の中に雨水が閉じ込められていく。鍾乳石から採った小さなサンプルに閉じ込められた雨水の中の酸素の重さを質量計で調べるのだ。雨水が少ないと重い酸素が、多いと軽い酸素が多くなる。
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ミラは数千年に渡る鍾乳石サンプルの分析を行ってきた。

データを見ると、4200年前、特異な傾向が起きていた、雨量が少なかったのだ。
ミラ「通常より20%以上少なかった。過去5千年で最も著しい減少で、大きな環境異変を起こすのに十分な変化だ。」
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エジプトとイスラエルは離れてはいるが、この発見は意義がありそうだ。急速な気候変化はハサンが想定していたものだったからだ。
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さらに気候変化を示す新たな証拠が突然現れた(came out of the blue)、アイスランドの氷の中から!

ジェラルド博士は世界の気候変化を調査していた。彼の関心はアイスランドの氷に含まれている黒い灰だ!
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この氷の中にアイスランドの火山の灰が残っている。アイスランドの氷河に降った灰だ。
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氷河の氷は海に流れ出て溶けていく。氷は海水温が高いとアイスランドに近い場所で溶け、低いと南のほうまで流れてゆき、そこで溶ける。溶けた氷の中にあった灰はそこの海底に沈殿する。
いろいろな場所で海底をボーリングしてどの年代の地層にどのくらいの灰の量があるのか、過去1万年前まで遡って分析した。
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すると、普通なら到達していない南の方で灰が見つかるケースが1500年の周期で繰り返していたことがわかった。気候が周期的に変化していたのだ!4200年前もそうだった、氷は溶けずに遠く南の方まで到達していた。地球は冷えていたのだ!
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この“ミニ氷河期”でエジプトも影響を受けたはずだ。それが大飢饉を起こしたのかもしれない。
単なる偶然だ、とも言えるのかもしれないが・・・

ジェラルド博士の発見は地理学者メノコゥに大きな示唆を与えた。
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彼は地中の花粉を調査していたが、明確な気候の変化を確認した。

世界中のいたるところで急激な花粉量の変化が起きていたのだ、それも4200年前に!
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寒く、乾燥した気候が続いて農作物の収穫は激減しただろう。
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この変化は対応の仕様がないものだった。そして恐らく世界中で最も人間の生贄を必要とした所がエジプトだったのに違いない。

1999年、ナイルデルタで見つかった遺跡の寺院の壁の脇で18人の人骨が発見された。道に放置されていたのだ。
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ドナルド教授「大量殺戮があったのか、と思う程だった。年とった老人の下に年取った夫人、その下に子供の骨が重なっていた。みんないろいろなポーズをしていた。」
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「直ぐ近くに2人、その隣では豚を挟んで1組の男女の遺骨も見つかった!ここで何が起きたのかは判らない。しかし彼らは殺害されていたのだ。しかも遺体は埋葬されずに放置されていた!それを誰も気にもしなかったのだ。」

イスラエルの鍾乳石やアイスランドの氷、世界の花粉などの分析結果から、急速な気象変化がエジプトの暗黒時代を誘発した、という予感が強まった。しかし、エジプトで気象変化が起きたという証拠はまだ見つかっていない。

ハサンはエジプトの農耕地帯で、大飢饉を引き起こすに十分な、数十年以上に渡るナイル川の異変がなかったか、調べてみることにした。古王国時代、ナイル川に直結していたカルーン湖を調べてみよう!
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ナイルが氾濫すると湖は拡大した。湖のサイズを確認できれば洪水のサイズも判る。

ハサンは湖の周辺や中央で何箇所もボーリングをしてみた。
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そして驚くべき事実を見つけた。「見つからない!古王国時代の堆積物がない!」
湖が無かったのか?いや、そんなことはない!もっと昔からこの地に湖があったことは記録から間違いない。

ハサンは気付いた。
「4200年前、湖は完全に干上がってしまったに違いない。積もっていた古王国時代の堆積物は乾燥して、風で持ち去られてしまったのだ!」

何十年もの間、激減したナイルの水は湖を潤すことは無かった。この湖が干上がったのは1度だけだ、それが4200年前に起きたのだ。
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エジプトの歴史の中で起きた最も過酷な気候異常は畑を荒地に変えてしまった。これが大飢饉の原因だ。そしてこの場面がアンカティフィの墓のヒエログリフで鮮明に記録されていたのだ。
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「エジプトで広範囲に渡って飢饉が起き、誰もが子供を殺して食べた!」

驚くべき記述だ!絶望していた人々はカニバリズム(人肉の嗜食(ししよく))に走ったのだ。
何年も続く飢饉で人心を失った人々にとっては自然の結果だったのかもしれない。

その後の紀元前12百年に起きた飢饉の記録がある。
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「人々は何でも食べた。草も、家畜も、犬も。時には子供も、火で焼いて料理して食べた。」

もしこれがたった数年の飢饉で起きたことだとすれば、4200年前の大飢饉では想像を絶する状態だっただろう。古王国の崩壊は世界の偉大な文明の、ある種の醜い終焉(しゅうえん)だったのだ。
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(完)
Ancient Apocalypse Death on the Nile
https://www.youtube.com/watch?v=1ObRocl7YME


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mh徒然草ー16:お祭り

今日(11月15日)NHKの朝のTVニュースを見ていると浅草の酉(とり)の市が始まっているようですね。

ネットで調べたら次の通りです。
今年は一の酉が11月10日で二の酉は12日後の22日。干支(えと)、つまり十二支、と関係ありそうです。浅草で酉の市が開かれるのは鷲(おおとり)神社で、ご神体は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。武運長久、開運、商売繁盛を祈念して熊手を買うのが習わしです。

天日鷲命は天照大神(アマテラスオオミカミ)が隠れていた天の岩戸を開いた天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)の子、日本武尊は第12代景行天皇の子で、いずれも記紀(古事記、日本書紀)に記された神様というか人間というか、実在していたなら4世紀かそれ以前の人達とのことでした。

長野県の御柱祭(オンバシラサイ)は6年毎(現地ではどういう理由か“7年目”と言うようです)に行われますが、普通、お祭りは、酉の市に限らず、毎年1回、決められた時期に決められた場所で開催されます。慣例に従って執り進められますから、祭りそのものは何百年もの間、同じことが繰り返されていて、何の新鮮味もありません。しかし、毎年、大勢の人が集まるのはどうしてなのでしょうか?他に行くところが無いのでしょうか?

私は1年程前から年3回はどこか海外に行くことに決め、ウイグル、インド、南米、ウズベキスタン、(イタリア:11月25日に行きます)に行ってきました。さて次はエジプト?ヨルダン?カンボジア?などと既にブログに記事投稿したミステリー・スポットを物色していますが、一度訪れたスポットにもう一度行くことは考えていません。例えばマチュピチュは素晴らしい場所で何度訪れても好いのでしょうが、それよりもまだ行ったことが無いスポットの方が新鮮な体験ができて楽しめるだろう、と考えているからです

しかしお祭りは楽しいですね、何度行っても。身近な場所で開催されることが多く、海外旅行などと違って、参加するのに何十万円もかかることはありません。大抵の場合は足代、つまり電車代やバス代だけで済みます。徒歩で行ける場所ならロハです。
でも祭りの人気の最大の理由は、毎年、違う雰囲気で人に出会えるからではないでしょうか。例えば、去年は一人で行ったが、今年は友達と行く、となると祭りの印象はガラッと変わります。今年も一人だとしても、懐(ふところ)が温かいと去年よりも大きな熊手を買って帰ろうかな、となって酉の市の親父さんとの駆け引きにも盛り上がりが増します。

つまり、お祭りは、毎回、例年と同じスタイルで行われても、そこに集まる人は去年と同じではないんですね。仮に全く同じメンバーが集まったとしても、みんな1歳、年齢を重ねていますから全く同じ顔ということはありません、色っぽくなったり、老けてしまったり、羽振りが良くなったり、悪くなったり。

お祭りを楽しむ、ということは人との出会いを楽しむことだと思います。去年は見かけなかった人、去年も見かけたが去年と同じではない人。そして何よりも、自分自身が去年の自分とは同じではないのですから、楽しみ方も変わって、そこが新鮮なのだと思います。

しかし、お祭りを楽しむには、そこに行って仲間に加わるのに勝(まさ)ることはないでしょう。そのためには、足腰を丈夫にしておかないといけませんね。いつか行けなくなる時も来るわけですが、それまでは、楽しめるものはみんな楽しむよう、健康第一にお過ごしください。

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トレビの泉の近くのアイスクリーム屋の謎

11月25日~12月3日、イタリア旅行をしてきました。最初は楽しく、ナポリ・ポンペイ・アマルフィ⇒ローマ⇒シエーナ⇒フィレンツェ⇒ピサと回ったのですが、ピサからミラノへの移動の最中、バスに残していたバックが盗難にあい、デジカメが無くなってしまいました!バックには、その他にも重要な物が入っていたのですが詳細をご披露するのは控えます。とても大きなロスで気落ちしていますが、自分の不注意を嘆いても惨(みじ)めになるだけなので、早く忘れたいのです。

で、そうそう、今回のブログでの肝心な点をお知らせしましょう。
まず、先週のブログでも紹介したピサの斜塔です。
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上の写真は我が女房殿が彼女のカメラで撮影したもので、私の意図が明確に反映されていないのが残念ですが、よく見れば判るように、傾きを抑制するための8百トンの錘(おもり)は全て取り除かれていて何の痕跡もありませんでした。塔への入場もOKで、最上の鐘楼階にも観光客が見受けられましたが、チケットを買っても30分毎に40人しか入場できず、数時間待ちが予測されたことから、残念ですが登頂は断念しました。

前回のブログでもご紹介した、第2,3階の、腹巻のような補強バンドや、塔を横から支える直径5cmのスチールワイヤーなども見当たらず、塔は静かに傾いたままの自然な姿(?)で佇(たたず)んでいました。

塔の中の螺旋階段は296段で、登り用と下り用の2つがあって、同じく塔の中のギャラリーのようなスペースには、多分、塔の歴史などの写真が展示されているようです。

以上で前回のブログのフォローを終え、今回のテーマ「トレビの泉の近くのアイスクリーム屋の謎」に移りましょう。

まずはトレビの泉を写真でご紹介しましょう。
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こんな大きな、沢山の水を湛(たた)えた泉なのですが、私が訪れた日は、曇り時々雨という生憎(あいにく)の空模様の上、泉全体が保守中で、周辺は工事用柵で囲まれ、写真正面の建物は鉄柱と作業梯子と金属ネットで覆われていて、どんな彫像があるのかすら分からない状態でした。プールは完全に水を抜かれていて、写真の右側から左側にプールの上を横断する作業通路のようなものが鉄柱で組んで架けられていて、私も行列に加わって、この通路を歩いて水のないトレビの泉の上を歩いてみたのですが、ネットや金網で造られた構造物の中を歩いたような映像記憶しか残っていません。例えると、包帯で顔全体をぐるぐる巻きされ、目しか見えない美人を見たような感じです。

イタリアでは、町のあちらこちらで噴水を見かけました。噴水はいずれも広場や王宮などにあるのですが、以前、ローマ帝国の不思議のブログでもご紹介したように、水道橋で遠くから引き込んだ綺麗な水が噴き出す噴水は富と権力の象徴だったので、その名残から、噴水を重要な場所に造る習慣が生まれたのではないかと感じました。恐らく、昔は、住民の各戸には水道などはなく、広場などの噴水や共同水飲み場に行っては飲料水を汲むのが日課だったのではないかと思います。

で、このトレビの泉のある広場から10メートル位の直ぐ近くにアイスクリーム屋があるんです。
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上の写真はGoogle-Earthでやっと見つけた、泉側から撮った路地の写真で、丁度、半ズボンの男の人が歩いているところに、そのアイスクリーム屋があります。
店の上に描かれた看板を拡大すると次の通りです。
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右側は「BAR」、左側は「GELATERIA」です。

まず右のBARですが、これは英語でBarつまり、バー、です。アルコールなどを飲みながら友人と話をする所。英語では「バー」と発音し、アクセント(強勢部)は「バ」に置かれます。

しかしイタリア語では「バール」と発音し、アクセントは「ル」に置かれています。
イタリアのBar「バール」はコーヒーなども飲める、日本なら喫茶店といったところのようで、街のあちらこちらにありました。イタリアには公衆トイレが少ないので、用を足したいとなったら「バール」に入り、3、4ユーロ(5,6百円)でコーヒーを頼んでから店内のトイレに行く、というのが日本人観光客へのお薦めコースのようです。

「BAR」の隣の「GELATERIA」は「アイスクリーム屋」というイタリア語です。
泉に繋がる路地にある、このアイスクリーム屋、これが今回の不思議です!

実は、私たちがトレビの泉を訪れた時、この通りも人であふれていました。また、このお店の前には高さ1.5mくらいの、コーンに入ったアイスクリームの看板代わりのスタンドも立っていて、誰でも直ぐに「アイス屋だな!」と気付きます。ガイドさんによれば、このお店でアイスを買って食べる、というのが観光客のお決まりコースらしいのです。

このお店でアイスクリームを頼むと次のチョイスを聞かれるようです。
1) サイズ:大/中/小。値段は夫々、6,4、3ユーロ。
2) 容器:カップ/コーン
3) 種類:忘れましたが、バニラ/ミント、とかいった具合

で種類の一つは「中田スペシャル」と呼ばれているようです。言わずと知れたサッカー選手の中田英寿氏(現在37歳)の中田です。ネットで調べたら、彼は1998年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍金470万ドルで移り、当時、イタリアで最も有名な日本人だったようです。

で、何故、ある種類のアイスクリームに「中田スペシャル」という名が付けられたのか?ですが、白いアイスの地に、赤い、多分ストロベリージャムのようなもの、が添えられていて日本の国旗のように見える、という他愛(たあい)ない理由です。つまり中田選手は日本の象徴みたいな存在だったわけです。

ところで、今回の旅行では、まずスペイン階段に行きましたが、ローマに住み着いてしまったベテラン日本人女性ガイドさん曰(いわ)く「ここにはアイスクリーム屋が無いので、次に行くトレビの泉のアイスクリーム屋で食べて下さい」とのこと!スペイン階段とトレビの泉は約7百メートル離れていて徒歩なら10分の距離です。
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スペイン階段と言えば、彼(か)のラブロマンス「ローマの休日」(1953年)で日本人のみならず世界中で有名です。
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主演の2人は、言わずと知れた当時の世界的美男と美女、グレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンです。
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ここで今回の不思議な質問です。
「何故、スペイン階段のアイスクリームとトレビの泉近くのアイスクリーム屋が結びつけられているのか?」

仮にオードリーがトレビの泉のアイスクリーム屋でアイスを買って、通りのお店を覗(のぞ)きながら10~20分かけて歩いてスペイン階段に行ったとしたら、アイスは既に食べ終わっているか、溶けてしまっているはずです!!

どんな因果関係があるんでしょうか??????

映画におけるスペイン階段のアイスのシーンと、トレビの泉のアイスクリーム屋との関係を説明する一つの理屈は次の通りです。
「トレビの泉でアイスを買うシーンがあった。よってトレビの泉のアイスクリーム屋も有名だ。しかし、オードリーがアイスを食べたのはスペイン階段に間違いない。トレビの泉でアイスを食べた、という話は聞いた記憶がない。つまり、映画撮影の都合で、スペイン階段の近くでロケする際、もう一度、階段の近くの店でスタッフがアイスを買い、オードリーに持たせ、トレビで買ったアイスがそのまま溶けずに、食べられずに、スペイン階段で再出現した感じで映画化されたのだ。シナリオではトレビの店でアイスを買うのだが、次のロケ場所のスペイン階段で食べることになっているので、スペイン階段で撮影する直前にアイスを入手する必要がある。見ている観客は、トレビのアイスが何故、溶けずに残っていたのか?なんていう重箱の隅を突(つつ)くような疑問や発想はしないだろう(かくいうmystery hunterを除けば!)。」

さて、あなたは不思議な質問の答えは何だと思いますか?
質問「何故、スペイン階段のアイスクリームとトレビの泉近くのアイスクリーム屋が結びつけられているのか?」

その答えについてイタリア旅行中に情報を得たり考えたりしたのですが、先(ま)ずは映画で確認しないことには、と思い、帰国後、「ローマの休日」のトレイラーを見ました。

映画のストーリーではこうです。

映画の最初の場面では、アン王女のオードリーは長い髪をしていたのですが、ホテルを一人で抜け出した次の日、トレビの泉の近くの床屋さんのショウウインドウに張られていたショートカットの写真をみて、自分も!とその床屋に入ります。
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やってもらうと、ショートカットがよく似合ったんですねぇ!「モデルみたいだ!今夜、一緒にダンスパーティにどうです?」と床屋の親父(おやじ)に誘われたりしているその最中、相手役の新聞記者ジョウ(グレゴリー)は、王女のスクープ写真を撮ろうとして、トレビの泉の近くで、観光で来ていた子供のカメラを借りようとしていたんですね。
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「不審な奴!」と生徒に同行していた先生に追い払われ、結局、カメラを借りることはできません。

髪を切ってもらったアーニャ(アン王女)はブラブラ散歩しながらスペイン広場に行き、スペイン階段の直ぐ下でアイスクリームを買うんです、アイスクリーム・スタンドで!
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お釣りを受け取り、台車で花を売っている男から1本の花を、こちらはタダで貰ってから、スペイン階段を登り、中段あたりでアイスを食べていると、トレビの泉からずっと彼女の後を付けて来たジョウが「あれ、奇遇ですね、アーニャさんではないですか!」と言って偶然再会したような感じで話しかけてきます。
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上のシーンでもアーニャが左手にアイスクリームコーンを持っているのが判ります。

つまり、映画(トレイラーですが)で確認した内容によれば、スペイン階段でオードリーが食べているアイスはスペイン階段の直ぐ下にあったアイスクリーム・スタンドで買ったものです!

では何故、今回、旅行ガイドはトレビの泉のアイスを、これみよがしに紹介したのか??

実は、映画「ローマの休日」のおかげで、スペイン階段でアイスを食べることが観光客の流行になり、やってくる大勢の人達が、猫も杓子(しゃくし)もアイスを食べるものだから、階段のあちこちにアイスが溶けて落ち、それに滑って転んでけがをしたり、そこら中にアイスコーンやカップがゴミとなって散らかってしまうという問題が多発したので、ローマ市はスペイン階段付近でのアイスの販売を禁止したのです!広場だけではなく、近くの通りでもアイスを売ってはならない!としたのです。

そうなると今まで商売していたアイス屋さんは失業です!そこで「代わりに」ということでスペイン階段から遠くない有名な観光地トレビの泉の直ぐ近くでのアイス販売を認めた、というのが経緯のようです。

この話をガイドから訊けば「それならトレビの泉でアイスを食べてみておこうか」なんて考える人もいるかも知れませんが、この話を全く知らなければ、スペイン階段の近くにアイス屋はないのですから、そこでは食べず、トレビの泉の近くで偶然見かけたアイス屋でアイスを食べてみる、なんてことを考える人はいないと思うんです、真夏の暑い昼下がりでもなければ。

なにもそうまでしてアイスを食べることはないのに・・・と私なんかは思うんですが、映画のシーンから有名になる場所や品物の例は多く、例えば韓国ドラマ「冬のソナタ」が撮影された場所には日本の女性が大勢駆けつけているという話や、台湾TVドラマが撮影された潮来(いたこ)の観光地に台湾からの団体客が来てはドラマで出て来た橋の上だか袂(たもと)辺りで、ドラマの一場面をポーズして写真に収めることがトレンドだ、といった話を聞きましたので、こういう人達はどこにでもいるんですねぇ。

さてさて、今回のイタリア旅行で皆さんにお話しして楽しんでもらえそうなネタは少なく、どうも世界の不思議を探して旅するmystery hunterには場違いな旅だったのですが、我が女房殿と息子と、女房殿の妹のご希望を伺って、ならばたまには家族サービスを、とH交通社のイタリア・ツアーに参加したというのが実情です。だからというわけではないのですが、デジカメ+α(こちらの方が10倍以上も重要だったのです!)を盗まれるなどという失態を演じることになってしまい、苦(にが)い思い出も出来てしまうことになりました。

さて、次回の旅は、エジプト、ペトラ、アンコールワット、チベット、ネパール、といった我が家族なら全く関心を示さない場所を訪れて不思議を見つけようと思っていますのでお楽しみに。
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(完)
追記:Roman Holidayの映画全編を見終えました。追加映像をご参考に下記にあげておきましょう。
夜、ベンチで寝ていた女アーニャがアン王女だと新聞記事で気付いたジョウ・ブラドリー(グレゴリー)は友人のカメラマンにスクープ写真を撮るよう指示します。Barの前のオープンレストランでライター型カメラで密かに写真を撮るシーンです。
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スクーターでローマの町を案内するシーン。
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真実の口で手を咬みきられたまねをするジョウ。
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ダンスパーティでアン王女を見つけたシークレットサービスが彼女を取り戻そうとしたので、逃れようとしてアン王女がギターでシークレットサービスの男を殴るシーン。カメラマンが特撮します。
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アン王女が自分の意思でジョウから離れて、王室調達のホテルに戻ると言ったので、ジョウが車で彼女をホテルに送り返す場面。
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アン王女が開いた最後のプレスコンファレンス。新聞記者たちの前で質問に答えていきます。
最前列の右側(王女から見ると左側)にジョンとカメラマンの友人も陣取っています。
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コンファレンスでの質疑応答が終わると、アンは新聞記者たちと最後の握手をしたい、と言って、最前列に並んでいた記者たちと別れの挨拶をします。最後の握手はジョンとするのです。
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映画は次のURLで見られるかもしれません。興味がありましたら試してみて下さい。
http://www.dailymotion.com/video/xpdq3i_%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E4%BC%91%E6%97%A5-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E5%AD%97%E5%B9%95-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%91-3_shortfilmshttp://www.dailymotion.com/video/xpdq3i_%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E4%BC%91%E6%97%A5-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E5%AD%97%E5%B9%95-%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%91-3_shortfilms

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mh徒然草特番:衆議院選挙

今日は11月17日、オーストラリアから安倍首相がもうすぐ羽田にもどってきて、明日18日には衆議院解散を明確にする、とマスコミでは確定事実の如きニュースを流しています。

首相は、11月9日~17日にかけて、北京でAPEC、ミャンマーでASEAN,オーストラリアでG20に出席していますが、現地での記者会見では「私は解散については考えていません」と再三言い続けていました。しかし、国内では、自民党の重鎮が年内解散を想定している動きをしていて、私など真面目に物事を捉える人間には、首相が外遊している間に残留組だけで勝手に解散を内定してしまったかの如きで、首相も身内から馬鹿にされ、あなどられているのかしら、と不思議に思っていたら、あるニュースによると、安倍首相は9日に北京に立つ前に、解散について自民党の主だった面々に検討を指示していたとのこと!
自民党の鳩山邦夫議員が「今、この時期に解散を決めることが出来る政治家は、腹が据わった本物の政治家だ!」と解散を支持する発言をしていましたが、政治家っていうのは腹芸で物事を動かす人物なんですかねぇ。そういう人は偉大な政治家ではなく、政界慣れした政治屋で、考えていることは国や国民の将来ではなく自分の金儲けと安泰だけでしょう。

TVニュースショーでは、今回の解散には大義がないとか、消費税UPができないから信を問うというのはおかしいとか、後日の解散では自民党の被害が大きいので、ぼろが出る前に解散選挙してしまおうとしているとか、いろいろな意見や見方がでていますが、解散となれば政治屋のご都合解散と言えるでしょう。

選挙には7,8百億円の税金が充当されるようですが、選挙で国が、経済が好くなれば大した金額ではない、という理屈も出ていて、以前のブログでご紹介した前兵庫県議の野々村氏の発言を思い出しました、数百万円の切手代は県の予算全体から見れば大したものではないんです!ていうやつです。

この原稿を書いている17日13時では、まだ安倍首相は羽田には到着していないようで、首相の口から解散宣言が出た、ということは聞いていませんから、選挙が年内に行われるかどうかわかりませんが、もし実施となれば、好いチャンスです。議員数削減を実施してくれる人や党に投票しましょう。口先だけで議論もしてこなかった自民党や、選挙がささやかれだしてから議員数削減はどうなったのか!と自民党を責めている民社党に投票しても議員数削減は行ってこなかったし、今後も行われないと考えてよいでしょうから、別の政党で、かつ議員数削減を政策にあげているところを選んで投票するようにしましょう。
自分のことしか考えないような政治屋には投票しないようにしましょう。概して年寄りで当選回数の多い人は政治屋が多いですから候補からはずすのが好いと思います。

寒い時に選挙をやれば投票率は低いので保守に有利だ、という思惑も働いて12月中に選挙をやろうとしている、ってなことを評論家が言っていましたが、もしこれが自民党の考えでもあるとしたら、一体全体、何を考えて政治をやっていこうっていうんでしょうかね、あきれて何もいう気がしません。さっさと日本に見切りをつけ、貯金を外貨に切り替えるしか対抗策が無い、というのも癪ですが、まあ重要な戦術だと思いますので、皆さんもご検討下さい!

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ピサの斜塔の不思議

ピサの斜塔はローマの北北西約260kmにあるピサ市のドゥオモ(Duomo町を代表する教会堂)に付属する鐘楼です。
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上のGoogle-Earth 3Dは東方向からドゥオモ広場を鳥瞰したものですが、鐘楼が南側に傾いていることが判ります。鐘楼の向うは聖堂、その奥の円形の建物は洗礼堂(Baptistry)です。

それではYoutube「On the Inside The Leaning Tower of Pisa」(現場報告:ピサの斜塔)
から斜塔の歴史、倒壊を回避するために採られてきた対策の経緯などをご紹介しましょう。
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ピサの町は斜塔で活気がある。
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斜塔を支えるトリック写真は観光客に人気だ。確かに塔は誰かの助けを必要としている。
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19世紀以降、傾きを止める試みがなされてきた。しかし、大きな改善が進まぬ中、イタリア政府は悲劇を避けようと入場を禁止した。ここ10年以上、観光客は中に入ることは出来ないままだ。

特別の許可を得て、中空のパイプのような塔の、厚い壁の中に造られた大理石の螺旋階段を登っていく。
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階段を登り切ると屋上の鐘部屋に出る。斜塔が鐘楼と呼ばれる所以(ゆえん)だ。
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しかし今、観光客は屋上に来ることはない。階段を登ることもない。塔は危険な状態にある。南側に傾いて倒壊・崩壊の危険があるのだ。
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傾斜が進まないよう830トンの錘(おもり)が北側に追加されている。最も危険と考えられている2階部の円筒壁の破壊を防ごうと、金属バンドで腹巻のように締め上げて補強している。
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加えて長さ100mのワイヤーで塔を北側から引いて支えている。傾きを矯正することはさすがに無理だが、万一の時に被害を軽減してくれる可能性がある。
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恒久的な対策を検討するため、国際的専門家で構成された委員会が発足した。
委員長は言う「簡単な仕事ではない。しかし委員全員で知恵を絞っている。」
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「1.5mだけ傾きを改善するのが目標だ。これが実現できれば、転倒や崩壊の危険は完全に解消するはずだ。観光客は恐らく気付かないだろう。誰も真っ直ぐ立っているピサの斜塔を期待してはいない。」

1990年までに塔は5.5°傾いた。塔の先端は垂直から17ft(5m)ずれていた。
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「こんなに傾いて、倒れたり破壊したりしないのは神秘だ!」

「円筒状のコンクリート壁の南側では大きな圧力がかかっていて壁が壊れる可能性がある。特に2階の南側の壁が危ない。」
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つまり斜塔の危険は2つあったのだ、傾いて倒壊する危険と、2階の南側の壁が圧力に耐えられずに崩壊してゆく危険だ。特に1990年はこれらの危険が高かった時だった。

実は建物が崩壊する予兆は建築当初から現れていた。
12世紀に建設が計画された時、この場所はラグーン(沼地)だった。近くにはアノ、アウザと呼ばれる2つの川があり、土壌は水を多く含んで柔らかだった。
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しかし、それがどのくらい建物に影響するのかは把握していなかった。

ピサは今でこそ人口10万の学生の町だが、11世紀は軍事力を誇る都市国家だった。海軍はシシリアに侵攻し勝利を収めた。しかしピサの人々は組し易いとのことから、他の多くの都市国家もピサと同盟を結ぶことになった。
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ピサの住民はこの軍事成果を称えてモニュメントを造ることにした。ピアタ・ディ・モラクリ(Square of miracle)、つまり“奇蹟の広場”だ。
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広場には素晴らしい大聖堂が、その隣には洗礼堂が造られた。裕福な市民が洗礼を受けて信者になり、祈りをささげる場所が広場に集められたのだ。
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そして鐘楼、今は斜塔と通り名がついた塔、が造られることになった。
塔の建設は1173年に始まった。しかし建設の開始時期から塔は傾き始めていた!傾きは北向きで今日とは逆の方向だ!
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こんなことはよくあることだ、ということで北側の床や柱を南側より少し高くして補正していった。

しかし政権の混乱や戦(いくさ)などで3階が完成した時点で工事は中断した。再開は100年後の13世紀だ。その時点では18cm北に倒れていただけだった。しかし、建設が進むと、今度は南に倒れ始めたのだ!それで今度は南側の柱を北より高くして補正しながら建設を進めた。
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結局、塔は真っ直ぐではなくバナナのように曲がりながら建てられていったのだ。
1278年、棟の建設はまた中止され、82年後、最上階の鐘部屋の建設が始まって、1370年に塔は完成をみた。
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その時、塔の傾斜は加速していた。そこで鐘部屋だけでも垂直にしようと修正した。具体的には、北側に4段の階段を、南側には6段の階段を床部に挿入し、南北で85cmの高さの差を付けたのだ。
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さらに、南への傾きを抑えたい、という気分から、北側には南側より大きくて重い鐘を取り付けることにした。
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入口の脇の壁には軍艦のレリーフも彫刻され、やっと鐘の音が塔から流れることになった。
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その後も数百年以上の間、なんとかして斜塔を垂直にしようと試みたが無駄だった。

1590年、ガリレオが大小の鉄球を使った重力実験をすると斜塔は有名になった。
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しかし、そうこうするうちに建物は少しずつ地中に沈んでいた。
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19世紀には凡そ3mも沈んでいて、一階の床面は地中に完全に隠れていたのだ。

1838年、イタリアの建築家が1階の床を埋めていた土壌を取り除くと水が溢れ出した!
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そして突然、塔は0.3m以上傾いたのだ!
何故その時、倒れなかったのか?これも不思議の一つだ。その後70年は何の対策も行われなかった。

1902年、ベネチアの聖マルコ寺院の塔が突然崩壊した。1千年も立っていたのに。
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驚いた政府はピサの斜塔の修復を真面目に検討し始めたが、なかなか手が付けられなかった。
1932年、ムッソリーニが権力を握ると塔への関心が強まった。技術者たちによる傾きの調査や対策の検討が開始された。塔内の中空の空間には測定器も設置された。
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ムッソリーニの技術者たちは「地下の水が基礎を弱めている」と結論し、基礎の土壌をコンクリートで固めようとした。そこで基礎部に361個の穴を明け80トンのコンクリートを注入していった。するとバランスが崩れ傾きは3.5インチ(8cm)悪化した!
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塔は更に危険になったが修理の時間はなかった、第二次世界大戦が始まったのだ。
枢軸国だったドイツ・イタリアは連合国に押され、イタリアには米軍が進駐してきた。
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ドイツ軍は次々に塔を破壊していた。米兵を狙撃する見張り台として使うためだ。
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しかしピサの斜塔だけは破壊から免れていた。
当時、ピサに進駐したアメリカ兵は本を出版した。
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「斜塔内にドイツ兵がいることには気付いていた!しかし1時間待つことにした。何の反撃も無かった。そこで塔への攻撃は止めた。」米軍は塔を無傷で守ることに決めたのだ。
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結局、小さな柱が一つ壊されただけの斜塔は、終戦後、観光客のお目当てとなった。
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しかし、斜塔は少しずつ傾きを増していて、1980年代の終わりには17ft(5m)になっていた。
その頃、イタリアの町ペディア近くで塔が崩壊して2人が亡くなる事故が起きた、傾いてもいなかったのに。
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1990年、とうとうイタリアの最も有名な塔は閉鎖された。歴史上はじめての出来事だ。
土産店の主人は言う「その日、私は泣いたよ。人が入れない塔を見ても悲しいだけだ。」
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1990年、政府は改善案を世界から集めることにした。提案は沢山届いた。
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1992年、塔内にセンサーを取り付け、ひび割れが拡大したら検知して警報するコンピュータ監視システムが稼働を開始した。

次に、歪が最も大きい二階部をプラスチックで被覆したスチールワイヤーで締め上げて補強した。
更には6百トンの錘(おもり)を基礎の北側に載せた。
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その結果、傾きは1インチ(2.5cm)改善した。長い歴史で改善が確認されたのは初めてだ。ひとまず安心できる。

すると「錘は見苦しい!早く取り除いてほしい!」とのクレームが出て来た。そこで本格的な対策を急ぐことにした。北側の基礎部で長さ15mのコンクリート製パイル(杭)を地中に打ち込み、南側への傾斜を食い止める案だ。
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しかし、基礎の土壌には水が多い。工事中に吹き出してくるかもしれない。そこでまず地中にパイプを打ち込んで液体窒素を流し込み、水を凍らせ土壌を固めてからパイル(杭)を打ち込むことにした。
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9月7日、冷却が始まった。2日の間は変化が無かった。
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が、突然1/16インチ(1.6mm)傾いた!1年分の傾きに相当する!凍った土壌が膨張してコンクリートの基礎を押し下げた結果、塔が浮く形になったのだ。
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慌てて冷却を止めると塔は元に戻った。念のため230トンの錘を追加した。

結局、委員会の5年間の努力にもかかわらず何の改善も得られなかった。そして塔は閉鎖された。
レストランのオーナは言う。「斜塔が閉鎖されて観光客は20%減った。せっかく来てくれても写真を撮って、お土産を買って、直ぐに帰ってしまう。レストランで休む時間なんてないんだ。商売あがったりだよ!」
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斜塔への入場禁止はピサの人々を落胆させた。彼らは観光に依存し、観光は塔に依存していたのだ。

1998年新しい試みが行われることになった。土壌除去案だ。基礎の下の北側の土壌を抜き取ろうと言うのだ。メキシコシティのメトロポリタン大聖堂では成功している。
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上手くいけば0.5度、つまり16インチ(40cm)改善するはずだ。
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多くの人は懐疑的だった。「もし傾きが増したらどうなるんだ!」

1998年、懸案の工事が始まった。念のためケーブルで塔をサポートすることにした。
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長さ340ft(100m)のケーブルだ。直径は2インチ(5cm)もある。

そして1999年2月、土壌の引抜きが開始された。
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12本のパイプが30度の傾きでセットされた。そのパイプをガイドに、土壌を取り出すスクリュー・ドリルを斜塔の基礎まで斜めに挿入していくのだ。
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ドリルは少しずつ土壌を引き抜いていった。工事開始から5か月後、塔は0.5インチ(13cm)北に傾きを戻した。とうとう塔を安定する方法を見つけたのだ!

しかし、この場に来て工事資金が底をついた!改善方法は見つかったが中断せざるを得なくなった。

多くの観光客がピサを訪れているが、塔が倒壊する危険がどのくらいあったのか、塔の維持のために何がされてきたかを知る人は少ない。
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町では誰もが工事の早期再開を望んでいる。
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(完)

https://www.youtube.com/watch?v=3gTq4WggLp0
On the Inside The Leaning Tower of Pisa
フィルムの撮影・編集は不透明ですが恐らく14年前の2000年でしょう。
(補足)
Youtube
ネットで2013年10月28日付けニュースを見つけました。
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「25百万ポンド(45億円)を注入したプロジェクトで塔の傾斜は2.5cm(!)減少」
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多分、今回は、下の図にあるように離れた場所に井戸を掘り、土壌から染み出て溜まった水を除去して斜塔の下の土壌中の水分を少なく保つ対策をしたのだと思います。
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この結果かどうか判りませんが、斜塔への入場が再開されているようです!

私も11月29日にピサを訪れる予定です。新たなミステリーが見つかればご報告しましょう。

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