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Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

Mh徒然草26:NHKの朝ドラと大河ドラマの相関関係

今日1月4日、日曜、夜8時のNHK大河ドラマでは「花燃ゆ」が始まりました。吉田松陰の妹が主人公のようです。
一方、NHK、朝8時からの朝ドラ「マッサン」は3月で終わり、4月からは「まれ(稀)」が始まるようです、今調べた処なので間違いないでしょう。

NHKのウェブにある「マッサン」の紹介文は次の通りでした。
「札幌オリンピックの“日の丸飛行隊”を支援し、北海道余市の名誉町民となり、 日本のウイスキー誕生を支えた竹鶴政孝とその妻リタがモデルとなる“夫婦の奮闘記”。 国産ウイスキーの黎明期を創出した鳥井信治郎との出会いが物語中盤を彩り、やがて舞台は大阪から北海道へと展開します。」

同じく「まれ(稀)」の紹介文は次の通りです。
「幼いころこの地(mh石川県能登地方のようです)に越してきたヒロイン・希(まれ)の初めての夢は、パティシエ。 世界一のケーキ職人を目指して、都会での厳しい修業に挑みます。
しかし成長した希が選んだのは、能登で小さな店を出すこと。やがて希の店は周囲に笑顔を与え、故郷の「青い鳥」になります。」

で、何が言いたいかというと、ふと、大河ドラマと朝ドラの共通点に気付いた(?)のです。

まず、この原稿を書いて気付いたのですが、2つとも8時にスタートする番組です。

次に、2つとも女性の人生をドラマ化したものが多い!ということです。

朝ドラは、「カーネーション」とか「河童の女房」とか、とにかく圧倒的に女性が主人公です。大河ドラマは、昨年は「軍師官兵衛(?)」でしたが、その前は「八重の桜」でした、今年の「花燃ゆ」と仕立てが同じです。

実は、私は、朝の連ドラも日曜の大河ドラマも、あまりみないんです。理由は自分でもはっきりしないのですが、私の趣味にマッチしない、としか言いようがありません。

しかし、一般論ですが、次のような推定も可能です。
日本は、やっぱり男社会で、男は外に働きに出て女は家を守っているパターンが多い。よって平日の朝8時、男は通勤電車の中でテレビを見る余裕がないし、女は、手間がかかる男を送り出して、家で一息つくころで、テレビでも見ようか、となって朝ドラにチャンネルをあわせることになる。

日曜の夜8時も概略同じような理由がありそうです。日曜は休日で翌日は月曜なので男は出勤だ。休日だから夕飯の支度も早目に終えて、リラックスする体制を作るので、夜8時は女も一仕事終えている。男は、晩酌などして睡魔も襲ってくるし、明日は仕事だ、などと考えると、なんとなく早目に寝る癖がついて、従って8時頃、のんびりとTVを見ている気分は、女と比べると薄い。

つまり、平日の朝8時と、休日の夜8時は、女がTVを落ち着いてみる条件が整っているのです。TV番組を企画するプロデューサーは、視聴率データから、これらの時間帯に女がTVを見る率は高く、男が見る率は低い、と知っているので「ならば女が関心を持つ番組にすれば視聴率をかせげるな!」と悟って、女が主人公の番組をセットすることになります。

ま、以上の見解は、多分、多くの人が気付いていることを、いつものようにダラダラ述べただけだろうな?と思っていますが、私は平日の朝8時は、火曜日を除くと暇でして、朝ドラを見てもいいのですが、気分転換!ということで団地内の敷地を、これまたダラダラと散歩します、昔、聞き馴染んだオールディーズや喜多郎のシルクロードシリーズを聞きながら。

でも、こうして、決められたイベントを決められたタイミングで繰り返すのは、心が安らぐんですねぇ。朝の散歩ももう1年以上続いていますが、これをしないと落ち着かないレベルにまで昇華しています!そして、朝ドラも大河ドラマも、一度見始めると、かならず毎回、見ないと落ち着かない!という状態に落ち込んでいるようですね、我が家の女房殿は!多分、あなたのお宅でも同じでしょう、見始めたら、毎回見る、最初みないことにしたら、以降も興味が湧かず、見ることはない。

習慣というものは恐ろしいもので、大した目的もなく始めたものが、止められなくなる、という性質を持っています。食習慣もそうで、食べたことが無い料理は、いつまでも嫌いだし、一度食べておいしいとでも思えば、茹でたジャガイモとグリーン・ピースさえあれば、幸せにもなれます、塩加減には若干の注文もありますが。

ブログについても同じで、毎週月曜と金曜に投稿する、と決めたら、そうしないと世の中の仕組みが狂ってしまうのではないか、なんとしても続けねば!などという義務感というか切迫感があって、かつ、同じパターで繰り返している内に、要領も学んで、結構、簡単に原稿が作れるようになり、時々、「これは最近作ったものの中では傑作の部類かな?」と思えるものが出来ると、嬉しくなったり・・・朝の連ドラや日曜の大河ドラマとは別の、でもきっと共通するものもある、心の平安を求めて、ブログを作っています。

END OF THE WORLD (by Brenda Lee with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=5m2U0NgsDxE
(完)

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ヒマラヤの高楼の不思議

今回は「ヒマラヤ地方の秘密の塔Secret Towers Of The Himalayas」からヒマラヤの高楼の不思議をご紹介しましょう。

レポーターはフランス人女性フレデリック・ダーラゴンFrederique Darragonです。彼女は中国の四川省/チベット自治区を何度も訪れて塔の調査をしています。勿論、中国語はペラペラです。今回ご紹介するフィルムや、これと同じ題名の本も出版し、得られた利益を成都・四川大学のユニコーン遺産協会に寄付するとともに、塔を世界自然遺産に登録しようと活動中です。

中国では碉楼/望楼と一般的に呼ばれているようです。以下にネットやGoogle-Earthで見つけた、鮮明な映像を挙げておきましょう。
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では、いよいよフィルム「ヒマラヤ地方の秘密の塔Secret Towers Of The Himalayas」の始まりです。
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中国のヒマラヤ地方には、どことも知れないような場所にポツンと立つ高楼が散在している。しかし、その由来を知る人はいない!
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高楼は四川省(しせんしょう)のCHENDU(チェンドゥ成都)からチベット自治区のLHASA(ラサ拉薩)の間、約1千Kmの地域の谷間の町に見つかっている。よく知られているのはQiangチャン, rGyalronジァロン, Miniakミニアック, Kongpoコンポ(工布)の高楼だろう。
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mh:
Qiangというのは羌(きょう:Qiāngチァン)だと思われます。ネット情報「紀元前1世紀の西域諸国」によればタクラマカン砂漠の南東、つまり現在のチベット自治区辺りにあった国で、現在も少数民族の「チャン族」が暮らす一帯です。
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1998年、初めて高楼を見た。その後少なくとも7百の塔を確認している。何度も足を運んで今回の訪問は6回目だ。
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まずは成都の近くの村を訪れてみよう。車が通る道ができたばかりの所もある。雨が降ると土砂崩れや洪水で不通になるのは日常茶飯だ。
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塔が造られた時代、この辺りでは文字は使われていなかった。従って記録がなく、いつ、何のために建てられたのか明確ではない。ある人によると、この塔はかなり前の地震で上の方が崩れたという。
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この塔では木材が見つからなかったのでカーボンデイティングが出来ない。従っていつ頃のものか判らない。
住民の祖先は3千年前ここに住み着いた。9世紀にはチァン(羌)王国が在った。チベットと呼ばれるようになる前の国だ。

村で一番物知りだ、という長老に訊いてみた。
「塔は何のために使われたの?」
「戦(いくさ)のためさ。」
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「敵が攻めてくるのが見えたら、逃げ込んだんだ。そうすりゃぁ身を守るのが楽だからね。」

奥方が言う「山の中腹の塔に行ってみたら?」
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言われるままに訪れてみたが、度重なる地震で塔や建物は崩れ、由来を教えてくれる人も住んでいない。半年後に訪れたら完全に壊れていた、ということも経験している。

村では顔なじみになっていた人達と麻雀を楽しんだ。明日はまた塔を探して旅に出る。
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塔のある村がまたあった。架台の一部に木が使われている。建築当時の木材だ!小片を持ち帰ってカーボンデイティングすれば塔が造られた年代が判る。
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昔、この辺りは何度も外部から軍隊が侵略してきたという。だから、こんなに沢山の塔が造られたのだろうか?
しかし、見張りの塔だとすれば、こんなにも密集して造る必要はないと思うが・・・
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それに石の厚い壁で造られて複雑な外形をしている。何故だろう?
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地震が多い地域なので頑丈にする必要があったからこんな形になった、と言う人もいる。
村はほぼ自給自足している。
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ほとんどの家が農家で、こんな急峻な斜面にも拘わらず色々な種類の食物を栽培している。ここの住民は、少なくとも今は仏教徒ではない。祖先の霊だという木々、朝靄(あさもや)、白い羊、白いサルなどが信仰対象だ。

聞けば、中国の皇帝軍に打ち負かされて以降、お上(かみ)の命令で50ft(15m)より高い塔は造れなくなったらしい。

塔について調べるためには塔のある町に行かねばならないが、これが結構難題だ。住民の関心が少なく、どこの村にどんな塔があるのか、よく知っていないのだ。
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塔に関する地図や映画も作られていないようで、正確な情報は驚くほど少ない。

次の目的地rGyalronジァロンに行くことにした。沢山の塔があることは既に判っている。
途中の村でまた塔に出会った。この2つの塔の高さは50ft(15m)以上ある!
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チベットの伝説によれば美しい女は塔に住んでいたという。それが塔の由来か?
この塔では入口は比較的低い所にあるので入り易い。
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梯子(はしご)階段がプラットフォームのような床を繋いでいる。
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壁は厚く、その分、中の空間は狭い。断面は8つの頂点をもつ星型だ。天井は壊れて草が生えている。
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ビーコン(のろしだい:狼煙台)だという説もある。としたら、塔の近くにまた別の塔を建てる必要はないだろう。高台の塔では入り口は3階建ての建物と同じ高さの位置に造られている!
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入るには長い梯子(はしご)が必要だ。
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高台の下にある塔にも行ってみた。塔の入り口の木枠はカーボンデイティングから50年前のものと判明したが、塔内部の木材は13世紀のものだった。つまり時々修理されていた、ということだ。
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塔が造られた13世紀、人々はどんな暮らしをしていたのだろう?ジンギスカン(成吉思汗)の軍隊も来ていることは判っている、多分、この村にも。
7百年も立ち続けているのだから、時代時代で異なる用途に使われたと考えて好いかも知れない。人々の生活様式も変化してきただろうから。今、住民は漢語を話すが、7世紀前はどんな言葉を使っていたのか・・・
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川に沿って車で移動してゆくと、また塔が現れて来た。星型だ。
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更に車で移動し、今日の目的地rGyalronジァロンに着いた。雨上がりで虹がかかっている。手前の斜面には10個ほどの塔が立っている。
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谷の向うにも5個ほど見えている。
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この一帯には集落はなく、それぞれの家は離れて建てられている。その家の近くに塔が立っている。いずれも急斜面で、中には高さ160ft(48m)の塔もある。

13世紀前、この地には豊かな王国があったという伝説がある。とすると塔は村やその家の富を表し、サイロのように穀物の保管に使われていた可能性もある。しかし、あんな高い所に入り口があるのはどう訳だ!判らない!
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高地だが温暖なこの村は「西の女王の暖かい谷間」と呼ばれ、穀物は豊富に採れる。主な産物はトウモロコシと小麦だ。
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しかし、収穫物は家の倉庫に保管され、塔が使われることはない。
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昔、個々の家が豊かで、一人の王に頼ることなく自分たちで自主防衛しようとして塔を造ったのだろうか??そうだとしても、住居は違う。脆(もろ)くて敵が攻めてきたら直ぐ壊されてしまいそうだ。

この塔には仏教では「風」を示すマークが白く描かれている!宗教目的か?まだ使われているかも!
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しかし、中には何もなかった。最近、誰かが住んでいた形跡もない。木材を使った古い梁のカーボンデイティングから630年前の塔だと判った。丁度その時期、この辺りでは、石組みの建物を強固にするためモルタル(漆喰)が使われ始めていた。この塔にもその特徴が残っている。

住居から離れた場所に立っている塔も多い。となるとサイロや自衛目的で造ったわけでもなさそうだ。
モンゴルが支配する中国(元)と交易し、豊かになることを願って建てられた、という伝承もあるらしい。
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しかし、別の村では、息子の誕生を祝って造られた、という言い伝えがある。生まれた年に基礎が造られ、その後、誕生日ごとに各層を積み上げていったという。
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多分地震が少ないのだろう、多くの塔の断面は星型ではなく正方形だ。所有者がいない塔も多いという。クライミングを楽しむには都合がいい。
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こんな様子だから普段、人は近づかない。木片からは790年前の塔だとわかった。

ある家に招待された。台所に飾られた卍(まんじsvastika スヴァスティカ)の印は仏教で永遠・吉祥を表す。丁度収穫を祝う祭りがあって、広場では踊りが行われていた。11世紀に仏教が親しまれるようになってからずっと続いているという。
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この辺りだけでも昔は260の塔があった。今でも約70が立っている。

更に南国のMiniakミニアックを目指して移動する。山の中腹にはぽつんと塔が立っているが、山裾(やますそ)などには低い四角の塔もある。この塔では左右に塔の高さの半分ほどの建物が隣接している。
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向うの崖の上には三つの塔がある。そのひとつは頂点が13個もある星型だ!塔の途中に見える白い石は幸運のシンボルだ。
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伝承によれば、13個の頂点をもつ華麗な星形のデザインは、チベットの女がBoard of Strings(弦楽器?)で地面に描いたものだ。見ていた王はその姿に魅せられ、膝まずいて結婚を申し出たという。

この辺りの人達はモンゴル来襲で滅(ほろ)んだ国の末裔でヤクの皮のテントに住み、放牧生活をしている。
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彼等の祖先も文字は持っていなかった。そのような人々が、何百年も前、地震でも崩れない塔を建てる技術を持っていたとは不思議だ。

次の村を訪れた。広々とした畑がある。豊かそうだ。塔もあった、丘の上に!
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双子の塔が立っている。造られた時のままのような美しさだ。
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この塔は1880年まで外国人が見ることは無かった。
近くの畑では若い娘が一人で野良仕事をしている。
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元気だ。明るくて幸せそうだ。
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2つの塔は、切り取った石のように平で、モルタルはほとんど使わず組み上げられている。2つとも完全に対称形で寸法も同じだ!カーボンデイティングによると850年前のものだった。
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塔への入口は比較的低い位置にあった。中に入ってみる。
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明かり採りの窓の周りに何か置かれている。これは葬式で使われるものだ。
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粘土で、時には死者の灰も混ぜて造られているらしい。

とすると宗教的な目的で塔が造られたのだろうか?この地方では鳥葬の伝統がある。
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最後には頭蓋骨も粉々に砕いて鳥に与える。何も残らない!魂は鳥と共に天国に上っていくのだ。

近くの修道院を訪れてみた。塔について何か判るかもしれない。
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経典に670年前から鳥葬が行われていたことが記されていたが、塔に関する記事はない。

塔については更に不可思議な事実がある。ここから400マイル(7百km)も離れた、四川省の隣のチベット自治区の町コンポ(Kongpo工布)でも見つかっているのだ!そこは高地にもかかわらず高木があり、サルが生息していて、サルの毛皮でできた服はエレガントだと思われているようだ。
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1935年には200以上の塔があったが今では12しか残っていない。
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そのほとんどが廃墟だ。使われている石は小さくモルタルの量は多い。

窓は小さ過ぎて使うことは出来ない!入口は地面に接しているので出入りは簡単だ。
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星型ではなく、90度の12個の頂点がある。10~14世紀に造られたものだ。
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一連の調査を終えてフランスに帰国し、文献調査もしてみたが、塔に関する有力な情報は見つからない。これまで判ったことを今一度整理してみると、建設は10~14世紀で、場所と人々によって形が異なり、記録は無く、塔の目的を明確に示す証拠は見つかっていない。よって答えは単純ではないと判った。
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ある場所の塔は厚い壁で防衛目的かもしれない、ある場所の塔は倉庫として使われ、富の象徴だったかもしれない、イタリアのサンジェミニアーノでも千年前に富の象徴で造られた塔があることだし・・・

mh:フィルムの最後はこのように結ばれています。
「フレデリック女史の熱意ある調査活動の結果、ヒマラヤの不思議な塔は「世界遺産に登録を検討すべきリスト」に書き加えられることになった。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上がフィルムの内容です。

しかし、1千年~6百年も前に、ヒマラヤ山脈の北東で、1千kmにも渡って広がる一帯の奥深い谷間の斜面に、何のために沢山の塔が造られたのでしょう?

フレデリック女史の結論はこうでした。
「理由は明確ではない。誰もその理由を知っている者はいないし、テキストにも記載されていない。自己防衛のため、穀物保管のため、富の顕示のため、などが想定される。6百年から1千年という長い歴史があるので、造られた目的も時代や場所で様々だったのではなかろうか。」

しかし、この結論では皆さんもスッキリしないでしょう?私は不満です!もっと説得力ある理由があるはずです。

私も出来たら色々調べてみたいのですが、炬燵に当たっていながら出来ることは少なく、あれだけ熱心に現地調査したフレデリック女史ですら明確な理由を見出せなかったのですから、私なんぞに判るわけはないのです!

しかしです、このフィルムを何度か繰り返して見ているうちに閃(ひらめ)いたんですねぇ私は!到達した結論には自信があります!!!

確かに、彼女の言う通り、不思議な塔が造られた理由は場所や時代によって異なるようにも考えられます。しかし、1千年~8百年ほど前に塔が造られ始めたそもそもの切っ掛けは、必ず一つだったはずです。この場所では自己防衛、ここでは穀物保管、などという、気まぐれのようないろいろな理由が、同一時期にあちらこちらで自然発生して塔が立ち始めたなんて、そんな偶然が起きることは決してない、と断言してもよいでしょう。

とすれば、そもそも塔を建てることになった理由は何でしょう?えぇ?いつまでも御託(ごたく)を並べていないで、さっさと言え!ですって???

そういうことであればご紹介しましょう、私の結論を。
「今から1千年~6百年前に塔が建てられることになったそもそもの理由とは、我が尊敬するお釈迦様です!」

そう考えれば、フレデリック女史が投げ掛けていた全ての疑問はジグソーパズルのピースを嵌め込むように、ぴったり収まります。
1) 何故、住民は建てられた理由を知らないのか?
2) 何故、まとめて、時にはバラバラに離れて建てられたのか?
3) 何故、入口が高い所にあって出入りが大変な塔が多いのか?
4) 何故、一人で造れば何十年もかかるはずの塔が沢山あるのか?

これらの不可解な出来事は、強い信仰心をもつ昔の仏教修行僧の行動を考えれば、至極、当然のことだったのです。

ブログ「何故、仏教徒は洞窟を掘って立て籠もり、修行する習性があるのか?」にも通じるのですが、仏教徒は、実はこの塔に籠って生活し修行したのです。塔への出入りが容易である必要はありません。むしろ、外部から隔離された状態で瞑想したり読経したりすることを望んでいました。また、塔を造る作業そのものが仏に近づくための修行でしたから完成に到る必要はありません。自分が積み上げた分が自分が完成した分、とすれば十分でした。時には、別の修行僧がこれを引き継ぎ、さらに高い塔に積み上げることもあったであろうことは容易に推定できます。

このような、黙々と石を積み上げては塔を造り、その作業自体を修行とし、かつ出来た塔を修行の場所とする、という途轍(とてつ)もない熱意、これは執念と置き換えられるかも知れません、が時と共に人が変わり、徐々に薄れていったことも容易に推察できます。また、修行僧は自ら、塔の歴史などを記録することなど考えてもいませんでした。従って、当然、近年になって塔が造られることはないし記録も残っていません。時には一人離れて塔造りもしたでしょうし、師と仰ぐ修行僧の近くで弟子も塔を造り始めたこともあるはずで、塔が分散したり密集したりしているのも当たり前と言えるでしょう。

以上長々と述べた、仏教の修行僧が建てたとする建設理由の説明も、大雑把には次のように言うことが出来ます。
「そもそも、何のために造ったのか常人には判らない、造るのには想像できない程の苦労と長い年月が必要な、しかも時には人里離れた場所に、石の高楼を建てる!などという発想を持ち、かつ実行する人は、仏教の修行僧しか考えられない!」

この高楼が世界遺産に登録されることになれば、人々の関心は高まり、造られた理由も雨後の筍(たけのこ)のように現れ、なかには面白い情報もあるでしょうが、その先鞭(せんべん)としての私の見解は、きっといつか適切に評価され日の目を見るはずだ、と信じてこのブログを終わりにしましょう。

なお、鳥葬については、ショッキングな映像でしたので、詳細は控えめにしておきました。
フィルムは次でお楽しみください。鳥葬は最後の10分程です。これを見ずに終了しても塔を知る上では全く問題ありません。
Secret Towers Of The Himalayas
https://www.youtube.com/watch?v=LAr20-YOFgw

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mh徒然草25:北海道に仏教洞窟がない理由


12月26日公開した「mh徒然草―18:仏教徒と洞窟」で仏教徒は洞窟に籠って修行する傾向があることをご紹介しましたが、日本には岩山に彫った磨崖仏はあっても、仏教徒が生活し修行するために造った洞窟は少ないというか見当たらないようで、特に北海道では仏教徒の修行用の洞窟は勿論、磨崖仏すらないようだ、とお知らせしました。

徒然なるままに、ふと、このことを思い出し、事実はどうか?何故なのか?をいつものようにネットで調べてみて、一定の結論を得ましたのでご紹介したいと思います。

質問
「何故、北海道には仏教徒が自ら掘って、そこで修行した洞窟はないのか?」
解答
「狂信的な仏教徒がいないから」

えぇ?それが答えなの?と面喰うかもしれませんが、考えると至極的確な答えだと判ります。

世界中に散在する仏教徒が籠って修行した洞窟も、それがいつの時代に掘られたものであろうとも、そもそも洞窟を鏨(たがね)と金槌(かなづち)で掘って、そこに籠って仏教を体得しようなんてことを、考えるだけでなく実行する人は狂信的な仏教徒しかいません!仏陀の愛弟子だった舎利弗(シャーリプトラ)や阿難(アーナンダ)は、計り知れない程強く、深く、仏陀を尊敬していたはずですが、彼等ですら洞窟を掘って、そこで修行することはありませんでした。彼らは信心深い仏教徒でしたが、けして狂信的ではなかったのです!

で「狂信的な仏教徒」とはどういう人か?イスラム原理主義者にも共通すると思うのですが、狂信的な人は、神の教えを曲解する傾向があるんですねぇ、多分。極端なまでに厳格に、原典に基づいて考えるというか、神の教えの神髄から離れて、自分の考えは神の教えそのもののはずだ!と考える傾向があります。洞窟に籠る仏教徒も、多分、人間である自分が仏陀に近づくには、仏陀が説いたように、俗世間から完全に隔離される必要がある!と考えたはずです。
しかし考えてもごらんなさい!お釈迦様ですら、洞窟に籠って修行しても悟りを得られないと悟って、菩提樹の下で瞑想して悟りを得たではありませんか!悟りを開いて仏陀となった以降も、お釈迦様はさらに悟るために洞窟に籠る、というようなことはなさりませんでした、雨露をしのぐのに便利だから、その辺にあった大きな洞窟を住家とし、弟子と暮らしたことはあるようですが。

そしてどうも、狂信的な信者というのは、仏教徒に限らずイスラム教徒でもそうだと思うのですが、貧乏な家庭に生まれた人が多いのではないかと思います。食べる物を買うお金もわずかで、従って衣服や住居もみすぼらしく、教育を受けるお金もありません。個人的には教育を受けれるかどうかが、狂信的な信奉者になる可能性をかなり左右していると思います。世界中の子供が少なくとも15歳くらいまで読み書きや世界の出来事、自然現象についての一般的な知識を学ぶ機会が持てたら世の中、かなり平和になるんじゃあないかと思いますが、貧乏だと、教育どころではありません。すると、どうしても神様のような、誰にでも平等に接してくれる絶対的なものに救いを求めるんだと思います、それも狂信的に求めるんですね。

本題にもどると、なぜ、北海道には狂信的な仏教徒がいなかったのか?
実は、北海道に限らず、日本には狂信的な仏教徒はいなかった!というのが私の結論です。仏教を学ぶために唐の長安まで出かけて行った弘法大師空海も、山林に籠った、という話はあるようですが、自ら洞窟を掘ってそこに籠った、という話はないようです。

日本の仏教は、飛鳥や奈良の政権によって広められたもので、宣教師になれる人は、唐に派遣されたエリートでした。彼らが中国から持ち帰った仏教の教えが広まる頃、北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれていました。蝦夷(えぞ)という人々が住む土地、という意味です。

そこには、今でいうアイヌという人々が暮らしていたのです。実は、東北地方の奥州・平泉に中尊寺や毛越寺(もうつうじ)を建立(こんりゅう)した藤原三代といわれる 清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)は本州アイヌの長(おさ)とも呼ばれているようで、血統は奈良からではなく、北海道から流れて来たようです!

この藤原三代を滅ぼしたのが源頼朝(みなもとのよりとも)ですから、東北地方には鎌倉時代以前に既に仏教が広まっていたのです。その仏教は、おそらく征夷大将軍として奈良方面から遠征した都人たちやお付きの者たちが持ち込んだのではないかと思います。
征夷大将軍といえば坂上田村麻呂が有名ですが、彼は二代目で、794年に一代目の大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)の副使(副将軍)でした。

「北海道・仏教」でネット検索したら北大の教授が執筆した本が見つかりました、税込みで10,800円です。
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その目次がネットにも掲載されていましたので、これをみると、
第一章 中世仏教の歴史的前提―古代北奥羽と夷島
  第一節 「蝦夷」の語義の変容  
  第二節 北奥羽の覇者と蝦夷島  
  第三節 古代北奥羽の宗教世界
  (以降第6章までありましたが省略します。)
とありますから、北海道の仏教は藤原氏が住む東北から、海を渡った人々が持ち込んだのが最初でしょう。人々はまず、津軽半島から津軽海峡を越えて松前に住み着きました。
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また江差には北海道で最古とも言われる神社のひとつ姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)があります。社伝によれば建保4年(1216年)の創建で、元々はアイヌが自分たちの神を祀るために造ったという説もあって、その場合、年代は不詳だが蝦夷地で最古の起源をもつ神社ということです。
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調べていくと「モンゴル人はアイヌの宗教をいかがわしいものとしていたようだ」との記事がありました。アイヌはモンゴルによって征服された、ということのようです!

えぇ?アイヌがモンゴルに征服されたってどういうこと???とあなたも驚いたでしょ?

で調べてみたらWiki「モンゴルの樺太侵攻」が見つかりました。
「13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」「北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい。」

つまり、アイヌは樺太にも住んでいたのだが、中国・元の攻撃にあって引き下がり、南からは奈良や京都、新しくは江戸時代、今の東京に置かれていた政府からの侵略を受けて苦境の中にいた、ということになります。

この、北海道の原住民ともいえるアイヌの宗教とはなにか?ネットによれば次の通りです。
<アイヌの宗教>
「アイヌは東アジア古種族の一つで、昔は少なくとも北日本全土にいたと考えられる日本原住民族。今は少数が北海道に住むが、混血化が進んでいる。その宗教は、万物に霊魂を認めるアニミズム(注1)の立場に立つ。どこにでも善神と魔神がいると考えるが、宇宙は天上の神の国、地上の人間の国、地下の死者の国から成ると考え、天上には日神・月神・国造神などが住み、地上には人間と神とが共生し、地下は死者が住む平和な世界と、魔神の暗黒の世界とがある、と考えている。諸神は認めるが、中に最高の統一神のような神は立てない。キツネもクマも魚も鳥もみな神の仮の姿であり、すみかである神の国から地上界(人間界)に来ているのだと解釈し、人間が、これらを殺すと、仮の姿から離れ、魂は神の国へ帰るのだとしている。イオマンテ(熊祭・熊送り)などはそれである。人は死んでも現世の生活が連続されると考えている。叙事詩ユーカラは、神々や英雄についての物語が多い」
(注1)アニミズム【animism】
「動植物のみならず無生物にもそれ自身の霊魂(アニマ)が宿っており,諸現象はその働きによるとする世界観。 E ・ B ・タイラーは,これを宗教の原初的形態と考えた。精霊崇拝。霊魂信仰」

つまり自然界にある諸物・諸現象を「神」と崇(あが)めていたアイヌの「蝦夷地」に入り込んだよそ者が仏教や天照大神などの神道を持ち込んだのですが、これらの宗教を持ち込んだ人達は、宗教を広めるために北海道に住んだのではなく、土地を求めて、魚を求めて、生活を求めて移っていった人達で、狂信的な仏教徒などではありませんでした。その上、住んでみると北海道はとても寒い!!!洞窟を掘ってそこに暮しでもしたら凍え死んでしまいます。

よって最初に提示した質問と解答にもどると
質問
「何故、北海道には仏教徒が自ら掘って、そこで修行した洞窟はないのか?」に「何故、北海道には磨崖仏すらないのか?」も付け加えます。
解答
「狂信的は仏教徒がいないから」という上に「寒すぎて洞窟を掘るどころではなかった!磨崖仏すら彫るような余裕もなかった!」も付け加えておきたいと思います。

最後に、皆さんも聞いたことがある「カムイ」についてのWiki情報をご紹介しておきましょう。
Wiki;カムイ
「カムイ(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合、多神教に分類される。カムイが日本語のカミと共通起源の語彙(ごい)であるとする説もある。日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない(キリスト教の神のような唯一絶対の存在ではない)。日本神道の「八百万(やおよろず)の神」も、アイヌの信仰文化と同様の「アニミズム」の特徴があるという説もある。」
(白戸三平:カムイ外伝より)
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Yesterday Once More with Lyric
https://www.youtube.com/watch?v=RR1v3MZcHDw
お知らせ
古いブログで操作ミスによって消去してしまった写真があるものについては、復活版を作成しました。
ご興味がありましたら、該当ブログの巻頭をご確認下さい。
明日(21日)カンボジアのアンコール・ワットに出発します。何か不思議を見つけてご紹介したいと思いますが・・・どんなんでしょうかねぇ、ご紹介したくなる不思議があれば嬉しいんですが。
(完)

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世紀基地Camp Centuryの不思議

皆さんはCamp Century(キャンプ・センチュリー;世紀基地)という、かつてグリーンランドにあった基地について聞いたことがありますか?
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グリーンランドはデンマーク領で、面積は凡そ2百万平方km。日本国土面積の5.7倍もある世界最大の島です。

次のGoogleEarth衛星写真で海岸線にある黄ピンの町「トゥールThule」から北東200kmの黄ピンがCamp Century世紀基地があった(!?)所です。
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衛星写真をどんどん拡大していくと、最後は地表レベルの映像に切り替わりますが、ホワイトアウトしてしまい、基地の痕跡は全く現れてきません。

かつてCamp Centuryと呼ばれた基地がありました。建設工事は1959年頃にスタートし、1年程度で完成。基地の最盛期は1960~63年でしょう。まずはYoutubeで公開されているCamp Centuryの概要と建設の様子を撮影したフィルムからご紹介しましょう。

その前に中国旅行のアルバム紹介です。
ご興味がありましたらどうぞ。ウイグル自治区の烏魯木斉(ウルムチ)~トルファン~敦煌~嘉峪関~西安の旅です。
http://www.digibook.net/d/e5d4e7dfb1dc083862021c379a74050d/
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「このフィルムはデンマーク領グリーンランドで合衆国陸軍が撮影した研究開発プロジェクトの映像記録である。北大西洋条約機構に貢献するこのプロジェクトを可能にしたデンマークの協力は大いに評価されるべきである。」
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米国陸軍は原子力で機能する極限環境の研究施設をグリーンランドに造った。島の氷の中に埋められた研究都市だ。研究には理想的な極限条件が確保されている。

トゥール(Thule)から150マイル(240km)の場所だ。
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Camp Centuryは万年雪(Icecap)の直ぐ下に造られている。
更に下は6000ft(1800m)の氷の層で、北極点から800マイル(1280km)の距離だ。
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極限で人間が暮らす手段の開発・改善を進める最前線だ。
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(キャンプ・センチュリー物語   /    氷の下の都市)

1959年5月、事前準備も済んで最後の現地調査が始まった。平らな所を建設サイトに決めて目印の旗を立てた。カリブー(Caribooトナカイの一種)も住んでいない所だ。
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キャンプの建設資材は6千トンもある。これらを港から万年雪の氷原の端までトラクターで運ぶ。付近を空から見ると海岸線まで続く氷原や湖のようなものも見える。
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氷原からは大型資材や運搬車を運ぶために特別にあつらえた、鉄鋼製の板橇(板そり)を使う。
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板橇は毎時2マイル(時速3km)で氷原を移動するはずだ。キャンプまでは順調にいって70時間かかる。生後3か月の小犬マックラックも一緒だ。これは軍規違反だから秘密だ。
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いよいよ出発だ。
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飛行機やヘリコプターも運搬に一役買った。
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最初に到着したのは飛行機だ。雪上車に乗った建設作業員も続々と到着し、体制は整った。
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まずは計画内容を関係者で確認する。
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23本のトレンチ(溝)を造り、スチールのアーチをトレンチに被せたら雪で覆う。キャンプの中央には主要通路を造り、その左右に研究施設、住居・娯楽施設、資材保管施設などのトレンチを配置する。電気は原子炉で発電する。
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いよいよ都市造りの開始だ。まずスイス製の除雪車で雪上に正確な寸法で溝を掘っていく。
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木製の板を溝の左右に配置する。これが金属のアーチ天井板の基礎になる。
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天井基礎を据え付けたら更に溝を深く掘っていく。
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次に波状鋼板のアーチ天井を据え付けていく。
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最後にアーチを雪で覆う。するとアーチ天井の強度がUpするのだ。
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勿論、人間が掘って造るトンネルも連絡通路としては有効だ。アーチ天井の下では木材を使って基礎の組立が始まった。その上にプレハブの住居を設置するのだ。
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今は夏だが、氷原は冬の状態と変わらない。
いよいよプレハブ住宅の材料を雪原の倉庫から搬入して組み立て開始だ。
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マニュアルに従ってテキパキ作業してゆく。事前のチェックも済んだ資材で組み立てるので1日で完成する。
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組立が完了したら電気配線工事をして最後に床掃除すれば作業は完了だ!
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当面はディーゼル発電機で造られた電気を使うことになっている。

一つの住居ユニットが完成する都度、図面にチェックを入れる。一つのトレンチに全てのユニットの据え付けが終わったらトレンチの開口部を氷のブロックで塞ぐ。この作業は2日かかる。
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氷ブロックを2mほど組み上げたら木製の緊急脱出口ユニットを置き、隙間を氷ブロックで塞いでからブルドーザーで雪をかけて埋める。
立派な出入り口ができた。内側は、氷原の厳しい気候から隔離され、住宅環境として申し分ない。
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散髪屋も開業した。
椅子の背に貼られた広告:
「ジョーダンのお店:北極万年氷原の上の(最高の)ただ一つの床屋」
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次は動力棟トレンチの工事だ。
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大きなアーチだ。
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氷結によるトラブルを防ぐための断熱材やヒーターユニットがパイプに巻きつけられる。
直径3.5m、深さ36mの井戸からは1日1万ガロン(40立方メートル)の新鮮な水が湧き出てくれる。
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火事は氷の都市には禁物だ。有毒ガスの問題もある。脱出口を準備するのは当初からの計画だ。
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この様な脱出口は16か所に造られた。

娯楽もある。ロデオのようなドラム缶のブランコ。マスコット犬のマックラックも大きくなった。
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建設工事が進行している間も資材はゆっくりだが確実に供給されていた。ライフラインだから重要だ。
ガレージも造られている。エンジンが凍り付いたらトラブルになる。
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丁度この頃、原子力発電設備が船でトゥールの港に到着した。
「運搬型原子力発電所;ニューヨーク州アルコプロダクト社製、合衆国陸軍技術集団向け」
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蒸気コンデンサーや蒸気コンテナを特殊な板橇(いたそり)で運ぶ。温度が低くて金属が脆(もろ)くなっているので取り扱いには注意が必要だ。
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機材で一番重い21トンの蒸気コンテナをトレンチに持ち込む時は、入り口の坂道で滑り出さぬよう、後ろから2台の雪上車で引きながらソロリソロリと運ぶ。
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これらの機材は誤差1/8インチ(3mm)で決められた位置に据え付けなければならない。
据え付けたら配線や配管で各ユニットを連結してゆく。
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いよいよ核燃料棒をドラム缶から保管水槽に移し替える。一本の燃料棒には5gのウラン135が入っている。
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mh:技術者が計算尺を使ってます。懐かしいですねえ、私も学生時代に使いました!竹製で結構いい値段でした。
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余談ですが、Camp Century建設開始時の1959年はまだ電卓は登場していません。
Wiki「電卓」
1960年代に登場した電卓は重量が20-30kgもある大型のものもあったが、その後、演算を行う素子を当初の真空管からトランジスタを経て集積回路へと世代交代させ、また表示装置も蛍光管やニキシー管から液晶パネルに置き換えることで急速にコンパクト化していった。1970年代前半には重量1kg程度で電池駆動も可能な電卓が現れ、1980年代になると太陽電池で駆動可能なカードサイズ大の超小型・超薄型の電卓も現れる。この時期はちょうど半導体産業が発展していく時期とも重なっている。
(Wiki完)

関係者が固唾(かたず)をのんで見守る中、燃料棒を保管水槽から反応炉に注意深く移してゆく。
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原子炉で発電された電気が流れてきた。
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200人が居住する大キャンプが完成した。
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X線装置を備えたクリニックも稼働した。
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小さなチャペルも設けられた。
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数か月分の食糧倉庫も研究施設も整った。
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台所ではチキンやハンバーグが調理されている。
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カフェテリアも盛況だ。
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読書やリラックスの空間も整えられている。
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極地研究所Camp Centuryは稼動を開始した。宇宙や地球の気候などについても新しい事実が見つかるだろう。以上が世紀基地の建築記録、技術者の飽くなき知識探求の物語だ。
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以上でCamp Century紹介フィルムは御終(おしま)いです。

フィルムは合衆国陸軍US Army監修で、陸軍の宣伝用映像そのものという造りになっていて、極地研究施設だ、などと言っていますが、実は冷戦Cold War時代の産物です。

第二次世界大戦で勝利した2つの大国、アメリカとソビエト、は覇権競争を始めていました。50歳以上の方ならご記憶かと思いますが、フルシチョフ大統領がキューバに核弾頭付ミサイルを配備し、ケネディ大統領が海上封鎖して、あわや第三次世界大戦か?というキューバ危機が起きたのは1962年ですから、まさにCamp Cenuryの最盛期です。

アメリカは、それ以前からソビエトを意識していて、最近あまり聞く機会もなくなった「大陸間弾道ミサイルICBM Inter-Continental Ballistic Missile」をソビエトの近くに配備すべく、グリーンランドに基地を造ったのです。正確には、グリーンランドに配備された(配備までは至らなかった?)のは中距離弾道ミサイルです。というのは、グリーンランドはソビエトに近いので、ICBMでなくても事足りたからです。

Camp Centuryは「Code Name(コードネーム):Project Iceworm(氷虫計画)」と呼ばれる極秘計画の一環として造られました。デンマーク政府への説明では「極地条件での建築技術の開発、極地条件での科学実験とそれをサポートする運搬型原子炉の性能向上試験」のための基地、だったようです。

しかし、基地の基礎である厚さ1800mの氷は、当初の予想より速い速度で(氷河のように!)動いていることがわかり、2年以内に重要施設に悪影響が出る可能性が確認され、早々と撤退するはめになりました。建物に使われた機材や運搬型原子炉は解体し、アメリカに持ち帰りました。従ってかつて基地があった跡地には何も残らず、50年経過した現在では、その場所に立って辺(あた)りを注意深く見まわしても、ほかと同じ雪原が続いているだけで、基地の欠片(かけら)すら見つけ出すことは出来ないでしょう。
(完)

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mh徒然草(特番)中国シチズン工場の突然の閉鎖

今日(2月11日)の朝日新聞朝刊の記事をみて驚きました!中国にある従業員1000人の日系の会社が、2月5日の午後、突然従業員に「本日をもって工場は閉鎖し、皆さんを解雇します。」と通達したというのです!!!

えぇ???嘘でしょ??と思って、調べてみましたが、どうも本当のようです。

シチズンが100%出資して創立した会社で、時計の部品を造っていましたがシチズン・グループ全体の効率を上げるために中国のいくつかの会社の編成替えをすることになり、広東省・広州市にある、というより既に会社はないので、あったと言うべきでしょうが、西鉄城(発音はシチチャン)精密有限公司を閉鎖することにしたのです。

中国の今年の春節は大晦日が2月18日で 、連休は2月18日(水曜)から2月24日(火曜)までの7日間が一般的のようです。その2週間前の2月5日を持って工場を閉鎖する、と閉鎖当日に従業員にアナウンスしたんですねぇ!!!従業員がガタガタ文句を言っても2週間後には大半が田舎に帰省して騒ぎが収まるだろう、との腹もあったのではないかと思います。

それにしても、ひどい仕打ちです。日本人のやることではない!きっと社長は中国人に違いない!春節で帰省しても失業中となれば田舎の家族との団欒(だんらん)も気が重いだろうに。一体全体どうなっているのだろう?と思って調べてみると次の通りでした。

まず閉鎖することになった会社の社長ですが、日本人でした!!!彼の決断によって、閉鎖当日まで従業員には知らされなかった、ということになります。もう少し正確に言うと、日本人の社長が「そうしよう、!」と最初に提案したのかは不明です。私としては、決してそんなことはなかっただろう、と思いたいです。恐らく、この社長は、中国人の幹部や中国のお役所に相談したら「当日まで従業員にだまっている方法もあるよ」ってな話を聞いて「ならそうしてみようか」と考えたのではないかと思いたいです。

この辺りについても情報が書かれているBiglobeニュースをご覧ください。
http://news.biglobe.ne.jp/economy/0209/scn_150209_8201058963.html
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中国メディア・羊城晩報は8日、シチズンホールディングスが5日午後に広東省広州市にある同社の生産拠点を閉鎖し、中国との合弁会社である西鉄城精密(広州)有限公司の解散を発表したことを伝え、同合弁会社の従業員全員が突然労働契約の終了通知を受けたことで波紋を呼んでいると報じた。

 記事は、西鉄城精密(広州)有限公司が現地時間5日午後2時30分に突然従業員全員の労働契約の終了を通知したことで「1000人あまりの労働者を茫然とさせた」と紹介。従業員の1人が「4日午前までは通常稼働していたが、5日になって突然閉鎖の通知を受けた」と語ったこと、一部従業員が労働組合代表に掛け合ったところ「何も知らない」との返答が帰ってきたことを伝えた。

 そのうえで、同合弁会社が5日に従業員に対して発表した「解散通知」には、6日で従業員全員の労働契約を終了すること、解散や契約終了、経済補償についての説明会を開催することなどが書かれていたとした。

 記事は、同合弁会社が突然解散を発表した理由について同合弁会社の関連企業が「シチズングループの海外生産体制の見直し、生産力強化と生産効率向上を目的とするもの」と説明するとともに「事前に通知すると従業員の情緒に影響を与え、通常作業ができなくなる可能性があったため」と回答したことを紹介。また、従業員の補償については勤続年数に基づいて計算するとしたことを伝えた。

 同社の解散や契約解除について、同市花都区の人力資源・社会保障局の担当者は「先月時点ですでに当局に報告していた」としたほか、「労働契約の終了と契約の前倒し解除は異なり、契約終了のばあいは経済的補償金を支給すれば問題ない」との見解を示した。

 記事は一方で、労働文化の専門家からは「従業員の利益にかかわる重大事項は労働組合あるいは従業員代表と話し合わなければならず、20人以上の人員削減を実施する場合は1カ月まえに組合もしくは従業員全員に通知する必要がある」とする「労働契約法」の条文から、同社の行動は違法であるとの意見も出ていることを併せて伝えた。(編集担当:今関忠馬)

ヤッフーの朝日新聞ニュースでは次の通りです。
http://www.asahi.com/articles/ASH2B4TW0H2BUHBI01Z.html?ref=yahoo
 時計製造大手シチズングループの中国子会社「西鉄城精密(広州)有限公司」(広東省広州市)が工場閉鎖を決めたことに対し、従業員の抗議が続き、地元で大きく報道されている。会社側は「法律上の問題はない」としているが、1千人超の従業員に閉鎖が知らされたのは、生産ラインを止める当日だった。

工場閉鎖「寝耳に水」 中国のシチズン系、従業員に衝撃

 シチズンホールディングス(東京)によると、「海外生産態勢の効率化と構造改革の一環」を理由として会社解散(清算)を決めた。生産を終了する5日午後に従業員に通知し、6、7日に補償金の額などを説明。8日までに契約終了に同意するよう求めた。

 だが従業員らは「いきなりクビにするようなものだ」と反発し、7日にはデモで抗議した。10日朝の時点で60人弱が同意書にサインしていない。多くが19日の春節(旧正月)を前に帰省するため、不満を抱えてサインした人も多いという。
・・・・・・・・
朝日新聞ニュースによれば5日に閉鎖をアナウンスし、10日の時点では解雇に同意しない従業員は60名ということですから900人程度は解雇を承認した、と言う事だと思います。

それにしても、ひどい闇討ちです。どんな経緯があったか知りませんが、もし日本でシチズンがこんなことをしたなら国民はシチズンを許さないでしょう。日本の法律がどうなっているか知りませんが、仮に合法だとしても、何の前触れも無く、今日で会社は倒産だから明日からは来なくていいよ、なんていう社長は極めて少ないと思います。ましてやシチズンという大会社で、中国工場が閉鎖されてもシチズン(シチズン・ホールディングスなんて洒落た名前をつけてますが)が倒産する訳でもありません。現地の日本人社長はシチズン日本から派遣された人でしょうから、中国の会社が閉鎖されたらシチズン日本に戻るだけなのかも知れません。

問題となった会社の経営は苦しかったのでしょうが、それにしても、もっと好いやり方はあったはずだと思います。

新聞記事では、解雇だと1ヶ月前の通達が必要だが会社閉鎖の場合は解雇目的ではないので、閉鎖の当日に従業員に閉鎖通達しても中国の法律には抵触しないので、当日まで従業員が真面目に落ち着いて働くよう、通達を伏せておいた、ということのようですが、こんな悪知恵を日本人が思いついたとは思いたくありません、多分、中国人のお役人が、日本人社長から相談を受けた時、賄賂かなにかをもらって、彼に悪知恵を吹き込んだのではないかと思いますが・・・どうなんでしょかねぇ????

仮にそうだとしても、最終決定したのは日本人社長で、恐らく日本の親会社シチズン・ホールディングスにも事前に相談して承認を得ていたでしょうから、やっぱ、日本人が最終決断したことだと思います。

このケースを見ると、思いやりとか気配りとか、オリンピック招致で有名になった「おもてなし」などの日本固有ともいえる美徳は薄れ、違法でなければ何をしても好い、という自己本位の人や組織が増えて来たように思われて残念です。昨今のマネーゲームもそうだし、国や国民を無視して、党や自分の立場しか考えない政治家の横行など、日本も荒(すさ)んできました。

みんなが自分のことしか考えないのなら私だって、と思うようになった時、人は人としての道からはずれ、誰からも愛されない人になるのではないかと思います。自分のことを最優先し、他人を忘れて世の中を生き抜こうなんて考えは、まっとうでないばかりではなく、決して良い結果は得られないと私は思います。何故って、人間は一人では生きていけない動物だと思うからです。沢山の友達がいればいるほど、その人は充実した人生を送ることが出来る、と信じています。残念ながら、私は友達を造るのは不得手なのですが、出来るだけ人に優しくしよう、と心がけています、時々は、嫌なことを言ったりしたりする相手に意地悪をしたりすることはありますが、直ぐに反省して(ここが私の好いところです!)、人として何をしたらいけないのか、何をすべきか、に思いを馳せることができる善良な人間になろうと気を付けています(エヘン)!

今回の中国シチズンの解雇騒動については、まだ公開されていない重要な条件や事実があって、それを知ったら、今回の経緯もやむを得なかった、となり、シチズン側にも正当性があったということになれば同じ日本人としても救われますが、もし、違法でない範囲で自己都合優先で決断した、ということなら、今回の決定は最悪の経済的打撃をシチズンに与えることになるでしょう。そうでないと、世の中は救われないような気がします。

追記
今日(2月13日)の朝日新聞朝刊に「全従業員、解雇に同意」の記事が載っていました。昨日、同意を取り付けたとのことです。当初は退職金に1ヶ月分の賃金上乗せを提案していたが、一部の従業員が反発。その後、さらに退職金を上積みすることで従業員1041人全員の同意を得たようで、退職金の総額は明らかにはしていない、とのこと。

ひとまず大きな危機は回避したと言えるでしょうが、やっぱり、対応を間違ったと思います。解雇通達の代わりに「残念だが1ヶ月後に閉鎖せざるを得なくなった。時間が明いた時に休みを取って求職活動をするなりなんなり、準備を始めてもらいたい、申し訳ない」と言えば、従業員の気も休まっただろうし、退職金以外に追加される費用は場合によればゼロで、結局は退職金プラス1ヶ月の賃金で済んでいたかもしれません。
いずれにしても従業員の気持ちを無視していたのは事実で、そんな発想の会社を社会は認めないと思います。同じような振る舞いを中国に限らず、どの国においても二度と行わないよう反省すべきだと思います。
(完)
Celtic Woman - Scarborough Fair [Lyrics]
https://www.youtube.com/watch?v=lm8mhqt_Dag
2013年10月のインド旅行(仏陀の道)のアルバムを下記で公開しました。
http://www.digibook.net/d/6505e39ba01828307ac496b7ac7fc51b/?viewerMode=fullWindow
http://www.digibook.net/d/6505e39ba01828307ac496b7ac7fc51b/?viewerMode=fullWindow

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エル・ドラドEl Doradoの不思議

エル・ドラドEl Doradoの不思議
今回は、アマゾンにあるとされてきた黄金都市「エル・ドラド」についてご紹介しましょう。
前回のブログ「アマゾンの失われた都市」でご紹介した英国王室の考古学者ルーテナント(Lieutenant中尉)パーシー・フォーセットも追い求めていた幻の都市です。
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エル・ドラド伝説の基とされる黄金の儀式を模した装飾品(コロンビア、ボゴタの黄金博物館所蔵)
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何世紀もの間、エル・ドラドは神話だと思われていた。その黄金都市はあるのだろうか?としたらどこに? さあ、エル・ドラドを探して旅をしてみよう!
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5百年前、アンデス山脈の高地で、誰もが思い及ばない黄金都市の神話が語られていた。
スペイン人のコンキスタドール(征服者)はこの都市をエル・ドラドと呼び、何世紀も捜し続けた。
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彼等にはエル・ドラドの存在は神話でなく真実だと思う根拠があった。それまでに、驚くほど沢山の黄金を南アメリカで手にしていたのだ!
「私はジョッシュ。クスコの町に来ている。インカ帝国の首都だ。」
15世紀、インカ帝国は南北3千マイル(4,800Km)に渡る大帝国だった。
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王は太陽の神の子孫だと考えられていた。毎日、光り輝く黄金の飾りを身に着飾っていた。
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この話を漏れ聞いたコンキスタドールにとって、王が所有する黄金を手に入れることが最大の望みとなった。彼等がクスコに攻め入った時、王宮や寺院で沢山の黄金を見つけた!すごい量だ!しかしそれでもまだ不足だったのだ。

彼らはクスコの町で囁かれていた伝説を耳にした。「エル・ドラドというジャングルに隠れた黄金都市がある!」

それは事実だろうか?
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クスコにはどうして組み立てたのか判らない、素晴らしい石の壁が残されている、まだ見つからない黄金もこの壁と同じように、今でもどこかに残っているのだろうか?
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クスコに永年暮らしている歴史家で作家のピーターが教会を案内してくれた。これまで見たことが無い煌(きら)びやかな光景だ!全て黄金で覆われている!
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「コンキスタドールが黄金を教会に寄進して、このように光り輝く姿になったのだ。実は彼らがインカで没収した黄金の20%は税金としてスペイン王に送られたのだが、残りは我が物にし、その一部を教会に寄進したのだ。」

インカにとって黄金は神聖なものだった。皇帝一人だけが所有し、信仰の対象にもなっていた。
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しかしコンキスタドールにとっては黄金の意味は異なる。単なる富の象徴だ!
黄金で造られた品物は接収され、溶かされてコインやインゴット(塊)に変えられた。インカの信仰はキリスト教徒のスペイン人には邪教だった。彼等の信仰に使われた金の飾りなどは消滅されるべきものだったのだ。
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エル・ドラドの物語は、コンキスタドールの間からスペインに広まる中で尾ひれがついて膨らんでいった。そして、多くのスペイン人が黄金を求めて南アメリカにやってくることになった、さながらゴールドラッシュのように!それは、まだ手にしていないものへの憧れ、夢だったのだろうか?

フランシスコ・ピサロに率いられてパナマから南下したコンキスタドールたちは、1526年、インカ帝国の領土に到達し、わずか6年で帝国を征服した。その戦(いくさ)の最中に、エル・ドラド伝説は彼らの間に浸透していった。「インカはジャングルにまだ黄金を隠し持っている!」

この神話とも思える話は、最近の調査結果によれば「単なる神話ではない」と考えられているらしい!20年間、暇さえあればペルーのジャングルの中でエル・ドラドを捜し歩いている探検家グレッグに会うことにした。
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彼は1500年代の中ごろにスペイン人宣教師の一人が書いた手記のコピーを入手していた。
それには「あるインカの男が“クスコの遥か向こうにある黄金都市パイティティPaytitiを訪れたことがある”と述べていた」と記されている!
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これが、スペイン人がエル・ドラドと呼ぶ都市なのではなかろうか?

「インカの人々は自分達がインカレィという偉大な王の子孫だと信じている。インカレィは、クスコの南のチチカカ湖の近くで生まれた。クスコに移り住み、ジャングルの町パイティティでこの世を去った。」
これを聞いたスペイン人は「パイティティが実はエル・ドラドに違いない!」と考え、黄金を求めてジャングル探検を始めた。しかし、これまで発見したという噂はない。

グレッグは「パイティティは実在する!」と信じている。ひょっとすると、それがエル・ドラドだ!
としたらどこをさがしたらいいのか?

「残されたメモから考えると、クスコの北東のジャングルを探せばよい。地図だとここだ!パンティティクイアと呼ばれる一帯だ。クスコから10日の旅だ。」
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「私は1996年に行ってみた。アマゾンのジャングルの中にあるパラトアリと呼ばれる場所だ。ピラミッドがある。自然に出来たものか人工のものか、当時の調査では結論は出せなかった。」
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「そこは、木々が深く生い茂り、蚊や蛭や蛇いて、暑くて湿度も高く、川は入りくんでいて、次から次に障害が現れるので行き着くのはとても大変な場所だ。」
「しかし、行けるところまで行ってみたい!探検に必要なものを手配してもらえるか?」
「勿論!」

本格的な冒険だ!出発までに彼はしなければならない準備が沢山ある。その間にチチカカ湖に行ってみよう。黄金伝説と関係がある所だ。エル・ドラドの本当の物語を求めて人々がスキューバ・ダイビングする世界最高地の湖だ。
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500年前、インカの人々は湖に黄金を捧げていた。なぜそんなにも高価なものを湖に捧げていたのだろう。
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湖底を調べてみよう。標高3900mのこの湖では大気圧は海面の半分だ。スキューバを危険なものにする。水温も9℃で冷たい!しかし、40kgの黄金が2004年に見つかっている。まだ残っているかもしれない!
それにしても冷たい!氷の水バケツに飛び込んだみたいだ。
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体力が消耗してしまわぬよう、ゆっくり水中を移動して黄金の輝きを探し回った。見つからない!
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潜水は25分が限界だ!これなら水中に投げ入れられた黄金を盗むインカの人はいなかっただろう。

翌日、神聖な島を訪れてみた。太陽の神を讃えて人々が集まった神聖な場所がある。プレインカ(インカ帝国前)に造られた祭壇だ。1千年前のものだ。
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この辺りで土器や黄金を湖に捧げた。黄金は太陽の象徴だった。つまり黄金を捧げるのは金銭目的ではなく信仰の現れなのだ。
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しかし、この湖にはもっと重要な意味がある。ここからエル・ドラドの伝説が生まれたのだ。
伝承がある。この一帯を統治していた王は、例祭日になると、金で着飾り、筏(いかだ)に乗って湖で祈りを捧げた。体中に金の粉を塗りつけていた。
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祈りの最後には沐浴し、体に塗った黄金を流し落として神に捧げた。
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スペイン人はこの王をスペイン語で「黄金の人」つまりエル・ドラドと呼んだ。これがコンキスタドールの間で「黄金都市」に化けて彼らに憑(と)りついてしまったのだ。

(mh: Wikiによれば金で飾った王が筏に乗る行事は、チチカカ湖ではなく、ペルーの北、コロンビアの首都ボゴタ近くの小さな湖で行われていたようです。このブログのトップに挙げた写真をもう一度見て下さい。ボゴタの博物館に展示されている、黄金の筏(いかだ)に乗る王の置物です!!しかし、このブログの基になったYoutubeフィルムでは、チチカカ湖でも黄金が見つかっています!現地ガイドがそう言っていますから間違いないでしょう。なにしろ莫大な量の黄金に纏(まつ)わる話ですから、いろいろ異説があるのは仕方ありません。)

再びクスコに戻ってピーターに太陽の寺院を案内してもらった。今では寺院の上にスペイン人が建てた教会が載っている!しかし内部にはインカに造られた他のどの教会よりもインカの特徴が残っている。
インカ時代、この部屋の壁は黄金で飾り上げられていて、棚には黄金の像が置かれていた。
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黄金は太陽の神のもので貨幣のような使い道があるとは考えられていなかった、1532年にスペイン人がやってくるまで!
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そのスペイン人というのはフランシスコ・ピサロに引き連れられた侵略者コンキスタドールだ。ピサロが皇帝を捕えると、「自由の身にしてくれるなら」との条件で皇帝は黄金を提供することを申し出た。
「この部屋を、この線の高さまで黄金で埋めよう、2週間以内に!」
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ピサロは黄金の身代金の支払いが本当に実現できるか疑っていたが、最初の1週間で、インカのあらゆる所から装飾品や、トマトやトウモロコシ、動物の形などをした、黄金の品物が集まってきた。

しかし・・・ピサロは段々不安になってきた!そこで早目にクスコを引き上げることにし、期限を待たずに皇帝を絞め殺してしまったのだ!
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没収した黄金は全て溶かし、金塊やコインにした。

ところが、皇帝が殺される前、多くの黄金は闇に乗じて別の場所に持ち出されていた!という噂があった。
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パイティティと言う場所に!道理でコンキスタドールが見つけられなかったわけだ。

この話をきいたらますますジャングルにあるというパイティティを探しに行きたくなった!以前、ジャングルの中にあるパルトワーリのピラミッドにグレッグと一緒に行ったことがあるメンバーが加わって探検隊が出来上がった。クスコから10日の場所、インカ帝国の果てのその向う、ピラミッドがあるという場所まで行くのだ!

まずはチョキカンチァChoqueconchaまで160kmを車で移動する。
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神聖な谷に沿って進む。素晴らしい眺めだ。山肌には段々畑が広がっている。今もインカ時代から伝わる方法で農業がおこなわれている。
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家畜を連れた女やインカ遺跡も見かけた。
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急斜面を削った道路に入った。落ちたら助からない!無事通り抜けてアンティスヨと呼ばれる所に出た。インカ帝国の果てだった所で、未開の地だ。地図にない場所も多い。
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午後遅くチョキカンチァに着いた。広場にある石壁はインカ帝国の北東の境界だ。ここから向うはフロンティア、未開の地だ。そこにパイティティPaytitiはある!
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チョキカンチァからジャングルまでは山越えだ。徒歩でいく。荷物はリャマが運ぶ。見かけほど力持ちではない。36Kgの荷をわずかな距離しか運べない。何匹も引き連れていき、疲れたら別のリャマに荷を載せ代えて移動するのだ。
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標高9500フィート(2850m)に造られた道だ。インカもローマと似ている!道が帝国じゅうの町を繋いでいたのだ。
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通信士はこの山道を走って情報を運んだ。新鮮な魚も帝国の端(はし)から1日でクスコに届けられていた。300マイル(480km)を1日で走ったのだ!
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山を下り切るとジャングルだ!そこからはボートで移動する。ジャングルでの探検はかなり困難だと覚悟している。暑くて雨も多い。戻らなかった探検家も多い!
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エンジンの音から「ペケペケ」と呼ばれるボートを使う。浅瀬に向いた船として造られた。
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ジャングルの中を17マイル(27km)遡(さかのぼ)るのだ。わずかな距離のようだがジャングルでは距離は意味がない、終わりのない迷路の中で道を切り開きながら進むようなものだ。その上、川にはあちらこちらに支流がある!

「あんたもパイティティと言う名をきいたことがあるか?」
「実は俺も10年間探していたんだ!」
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1911年、ここから数百Km離れた高地でハイラム・ビンガムはマチュピチュを探し当てた。
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今でもインカ遺跡で最も美しいものの一つだ。
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ビンガムの成功は探検家がパイティティを探す動機になったに違いない。

浅くてボートが進まないところは下りて押す。そうこうしているうち毒蛇にかまれた者もいたはずだ。
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やっとボートに戻れた!と思ったら、また浅瀬だ!枝を払いながら進路を確保する。この辺りになると、川は段々と細ってきて小川のようだ。
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この辺りにも探検家たちがパイティティを探して訪れたらしい。グレッグも近くで遺跡を発見しているというが、人跡未踏の地と思われるような秘境だ。

いくつも支流があるが、いずれも浅すぎて「ペキペキ」でも無理だ。ここからはボートを下りて徒歩でいく!
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ピラミッドまでもう少し、というところで雨が降り出した。ジャングルでの雨は覚悟していたが、この雨は容赦がない!歩みは段々遅くなる。滑って足をひねったら・・・毒蛇にかまれてしまったら・・・助けを求めても何Kmも先だ!
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かなり近くまで来ているはずだが・・・奥深いジャングルの中では、数週間探しても、たった数十mはなれた所にあるパイティティに気づかないかも知れない。雨も強くなってきた!もう限界だ!
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もどって飛行機で上空から調査してみよう。
ジャングルは予想していたよりも恐ろしく厄介な所だった!
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空軍が飛行機で郵便配達をしている。原住民はジャングルの奥地にも暮らしているのだ。その飛行機が我々をピラミッドの上空に連れて行ってくれることになった。
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空から見るまで気付かなかったが、ジャングルは数百kmも広がっている!川の支流も次から次に現れる!
すると突然、いままでと異なる光景が飛び込んできた。パートゥワリのピラミッドに違いない!
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大きな山のようなものが並んでいる。自然の山と少し違うようだが本当にピラミッドだろうか?
下りて調べてみたくなった!しかしジャングルの懐(ふところ)にある!とても難しい。
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グレッグは1996年、ここに4日間滞在して調べまわったが調べきれなかったらしい。飛行機できても着陸する場所もない。しかし、またいつか、自分の足で訪れてみたい。

グレッグは言う「このピラミッドは自然に出来たものかも知れない。しかし人工のピラミッドである確率も僅かだが残っている!」
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ひょっとするとパイティティかも知れない!
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何世紀もの間、コンキスタドールの欲望はエル・ドラドを求め続け、探険家もエル・ドラドに引き付けられてきた。しかし現代の探検家にとって、エル・ドラドは黄金を手にする幸運ではなく、「発見できるかもしれない!」というスリルそのものかも知れない、誰もが探し続けてきたエル・ドラドを発見できるという!
(完)
Digging For The Truth - Season 1, Episode 11 - The Search for El Dorado
https://www.youtube.com/watch?v=cMHlr4An8Vk

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mh徒然草24:日本晴(にっぽんばれ)

12月25日(木)、NHKニュース「おはよう日本」でお米の流通革命を紹介していました。これまで農家から地域農協が買い上げたお米は県農協から全中(全国農業協同組合中央会)を経由して吸い上げられ、どこでつくられようが、味や食感がどうであろうが、銘柄だけで単価が決まり、市場に流されていたようです。しかし、福井県の農協がこの方法を変えました。

「日本晴」と名付けられた銘柄のお米を農家から買う時は計器をつかってお米の品質をランク別けし、買い取り価格を決めます。安い物に対して高い物は2倍くらいするようで、農家も来年は高く買ってもらう米を作ろう、と張り合いも出てくるようです。そして、買い取ったお米は自主開発した販売ルートで、主としてお寿司屋さんに卸すらしく、お馴染みの大手すしチェーンが福井の日本晴を契約購入してくれるなど、農家もお寿司屋さんも、メリットを享受しているとのこと。

全中を仲介しない農産物直売は全中から嫌がらせを受けているようで、これに個人が対抗して自主販売を継続するのは、なかなか大変なことでした。今回は、個人ではなく、地域農協が自主販売することにしたのですが、NHKのニュースによれば、県農協も全中も、これを公式に認知したとのことで、はてまた、どんな経緯があったのかしら?と狐につままれたたような気分です。

公表されていない密約、例えば売上の10%を地方・全国農協連合に献上する、などがあるのでは?との疑いもありますが、仮にそうだとしても、全中にとって、かなりの方針変更ではないかと思います。

福井の地域農協が思い切った方針転換をした理由は単純で、現状のままでは、早晩、農家や農協は消滅してしまう!という危機感からだったようです。そしてこの、謀反(むほん)とも言えそうな軌道修正を全中も認めた、という背景には、全中も現状では崩壊を免(まぬが)れないことを察知しているからに違いありません。

今後、農協組織改革が進むのだろうと思いますが、その速度については、まだまだ不透明感があります。太平洋戦争でも、沖縄どころか、帝都さえも爆撃を受けているにもかかわらず、戦争を継続しようとしていたのは軍部トップで、彼等は国民がどうなろうが、国がどうなろうが、自分が最も被害が少ない方法を見つけるまでもがき続けて、取り返しがつかない状況になってから、天皇の敗戦宣言で終戦を認めたのです。天皇の玉音放送は、一部の軍人によって妨害されそうな動きもあったようですから、人間というものは、そこまで落ちぶれることがあるのだなぁ、と改めて生まれ持った業(ごう)のようなものを感じます。

これと同じように、農協組織のトップには恐らく、多くの高齢者がいて、その人達にとっては、自分が退職し、死ぬまでの10~20年だけ農協組織が潰(つぶ)れなければ、後は野となれ山となれだ!という御仁も多いのではないかと思います。このような人達も、若い時は恐らく、日本の農業を改革していこう!という青雲の志(こころざし)を持っていたのではないかと思いますが、やはり長年、おなじ仕事に携わると、誰もが身勝手な価値判断で動きがちなのはお釈迦様も見通していました。そう考えてみると、年をとればとるほど、判断力が幼児化していくのは、誰も同じだと思いますので、みんなに迷惑をかける前に身を引く、という潔(いさぎよ)さがある人は尊敬に値すると思います。

日本の農業は若い担い手が育っていないので、継続し発達させようと思っても、簡単ではありません。だからといって、手をこまねいていたら、衰退はますます加速し、食糧価格はあがり、ホームレスや年金生活者などの弱者から栄養失調で死ぬ人が多くなるでしょう、一人暮らしの老人が餓死した、というニュースもまだ稀(まれ)ですが流れていましたから。

で、ニュースでは福井の地域農協の責任者が「日本晴を中国にも売りたい!」との豊富を語っていました。お米の袋に印刷するマスコットを意匠登録するようです。

毎週1回、通勤している神田にある会社で、私は知的財産関連の仕事をしていますので、中国の特許や意匠、商標についても調査したり、中国に出願したりしたことがあり、「まさか日本晴が既に中国で中国人が出願登録しているなんてことないだろうな?」と思って調べてみました。
まず日本で調べたら「日本晴」という商標は5件が登録済みで、対象商品は紙、石鹸類、味噌類、日本酒、油揚げ等のタンパク質、でした。権利者は、名前から、いずれも日本の会社のようです。

中国で調べたら「日本晴」は登録されていないようでしたが「日本」「日本味王」「緑茶」「青森正直Japan Quality Aomori」などが出願されていて、大半は日本の政府や会社からの出願でしたが、「日本宝心丹」という商標が中国の会社から出願されていました。「日本」とか「青森(りんご)」などの地名を含む商標は、日本から出願されたものも含め、全て拒絶または登録保留されていて権利にはなっていませんでしたから、中国商標局も世界標準に近づいてきたなぁ、と思います。かつて、「松坂牛」とか「信州リンゴ」という商標が中国で中国の会社によって権利化され、日本特許庁と中国商標局の間で大きな問題になったことがありましたが、そのような、あけすけな嫌がらせは、さすがに中国商標局も控えるようになったようです。しかし、昨今の日中関係の悪化を見ていると、「人間とは思えない鬼畜日本人に、思い知らせてやることも必要だ!」などという輩(やから)も現れると、これに付和雷同する輩が続き、中国政府も悪乗りして日本叩きを始める可能性だってないとは言えないので、日本としては正論を持って中国を諭(さと)したり、国際世論を味方につけて中国に心変わりを迫る、といった工夫も必要だと思います。

さてさて、いつものように、とりとめのない展開になってしまいましたが、これで終わりとしましょう、日本の将来が「日本晴れ」になることを祈念して。

なお下段にNHKニュースの情報を載せておきますので興味がありましたらご自身でご確認下さい。
2014年12月25日(木)NHKニュース:おはよう日本;福井発 地域農協の挑戦
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/12/1225.html
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The Sound of Silence - Simon & Garfunkel with lyrics (HQ)
https://www.youtube.com/watch?v=YZGayaTPQ4I
(完)

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アマゾンの失われた都市の不思議

世界の不思議の前にジャーナリスト後藤健二さんの件に触れたいと思います。

後藤健二さんが殺されたようだとのこと。これを聞いた安倍首相は「断固、イスラム国と戦う!」と言っていました。イスラム国の暴挙は非難されるべきです。しかし、安倍首相の対応にも大きな過失があったと思います。月曜日(2月2日)から国会があるとのことで野党は厳しく安倍首相を追及し、必要なら内閣不信任案も提出すべきだと思います。このまま日本の将来を安倍首相にまかせていては不安です。官房長官やその他の閣僚は、安倍首相の顔色だけ伺っていて、自発的に機能していません。太平洋戦争が始まる直前の内閣も、きっとこんな感じだったのではないでしょうか。

後藤健二さんが死亡しているとしたら、そのご冥福と、残されたご家族の今後の踏ん張りを祈念しています。国はご家族のために可能な限りの支援をしてほしいと思います。後藤さんは日本という国に殺されたとも言えます。このようなことを二度と起こさない方法はイスラム国を壊滅する以外にない、と考えている安倍首相や内閣には、殺された人の魂を救うことはできません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回はYoutube「Digging For The Truth - Lost Cities of the Amazon」から、日本人に馴染(なじ)みが薄い、南米アマゾンにあった古代都市のお話をお送りしましょう。
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アマゾンは世界最大の川だ。ヨーロッパと同じ面積のジャングルは「緑の地獄The Green Hell」として知られている。

16世紀の半ば、欧州人は初めてアマゾンに入った。多くはスパニッシュ・コンキスタドール(スペイン人の征服者)だった。フランシスコ・オリアナの命令で、伝説となっている「黄金の町エル・ドラド」を探して・・・
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またある人は古代の都市を探して・・・

エル・ドラドは見つからなかったが、彼等はいくつかの都市を発見した。「見事な住居に人々が暮らしていた。」との記録も残っている。
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以降、アマゾンに入った探検隊も多いが、都市を見つけることはなかった。失われてしまったのか?

一人だけ諦めずに都市を探し続けた男がいた。ルーテナント(Lieutenant中尉)パーシー・フォーセットだ。
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英国王室の考古学グループのリーダーで、彼のレポートはいつも世界に影響を与えていた。
彼のアマゾン・クエスト(探求)は1906年に始まり、その後30年続くことになった。

Mh:Wiki「パーシー・フォーセット」で検索するとインディ・ジョーンズに飛びます!
Wiki:インディアナ・ジョーンズの抜粋
イギリス人考古学者パーシー・フォーセットはブラジル北部の探索に多くの時間を費やした。1925年に失われた都市Zを探しにアマゾン盆地に入って行方不明になった。彼は小説『インディ・ジョーンズ第七の魔力』でジョーンズと会う
(Wiki完)

彼はわずかな探検器具を持ってアマゾンのジャングルに分け入り、原住民に出会っては情報を集めた。原住民から「奇跡の町」の話を聞くたびに、その存在についての確信は深まるばかりだった。
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しかし、彼は探検の途中で突然消息を絶った。1925年のことだ。
彼を最後に見たのはクイクル人だろう。彼等は今でも時々、中尉の話をする。
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フォーセットが探していた都市が全く架空のものではないという証拠が最初に見つかったのはベレンBelenだった。アマゾンが大西洋と出会う場所にある町だ。
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19世紀、マーケットに人の手で造られた古い品物が売り出された。近くのマラジョウ島から届いたものだ。それは古代の文化や都市の存在を暗示すれる品物だった。マラジョウ島は1年の内10か月間、無数にできる川でアクセスが遮断される。飛行機だけが目的地へいく手段だ。
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考古学者デニーゼ・シャーンがその品物が見つかった丘に案内してくれた。カーボンデイティングによれば1500年前のものだ!
「ここよ。人が造った丘なの!」
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どこにでもある普通の小さな丘のようだ。面積は7エーカー(2万8千㎡)で、周囲から36ft(11m)の高台になっている。
丘は季節的な洪水から人々を守るためでもあり、埋葬の場所でもあった。陶器や墓が見つかっていた。
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陶器の破片は今でも見つかる。2~3千人が暮らしていたと考えられている。

もう誰も暮らしていないが、発見された土器から当時の生活の様子が明らかになってきた。
大きな土器だ。2回使ったようだ。最初は死体を煮て、肉を骨から剥(はが)し易くするため。その後は、骨だけを入れて棺桶として使うためだ。
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男性器をイメージする品物は儀式で使う道具だったのだろう。
女性が前を隠すために紐で腰に固定していたビキニもある。
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個人的、実用的、儀式的に使われていた土器類から、アマゾンに在ったという都市のイメージが少し見えてきた気がする。

しかし、このような高度な生活をしていた町はアマゾンのジャングルにも在ったのだろうか?
ジャングルの都市マナウスに行ってみよう。熱帯雨林の中心にある。
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マーケットには周辺からあらゆる商品が集まっている。
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ここからサンパウロ(Sao Paulo)大学の研究員ヘレナ・リマと一緒に川を船で移動した。岸には、昔、人が住んでいたと思われる都市は見当たらない。
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しかし、スペイン人が来た時、この辺りには間違いなく町があった、と彼女は言う。

5時間後、アサトゥーバに上陸した。ここにはテイラー台地と呼ばれる場所がある。第一印象は単なる林のようだが、考古学的な場所だと言う。それには2つの理由がある。第一にこの黒い肥沃な土壌。エコロジカルな活動と直結する土だ。第二に土器の欠片が見つかる。
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当初、自然に形成された台地だと考えらえていたが、人工の台地だと判明した。今でも果物や野菜の栽培がおこなわれている!
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ブラジル原住民の一般的な農耕法は焼き畑農業(Slash & burn)だ。
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土壌がやせてくる数年後にはまた別の土地に移って焼き畑をする。
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昔の人もそうしていたのではないか?と、考古学者はつい最近まで考えていた。しかし焼き畑農業では多くの人が集団で定住することはなく、従って町は生まれない。

ところが、昔からあったというこのテイラー台地は異なる。もっと生産的だ!今でも毎年、野菜や果物が生育することからも明らかだ。
となると「アマゾンの都市」の存在は事実かもしれない!

2.5kmほど離れた所に行ってみた。道路工事をした場所で、ここにも黒い土がある。人工の土壌で出来た台地はずっと続いていたのだ!更には、斜面から土器の破片も見つかる。
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スペイン人が来た時、この台地は既に廃墟だった。病(やまい)かなにかの理由で人々はこの地を離れてしまっていたのだ。しかし、原住民は「ここに都市があった」とスペイン人に語っている。

この肥沃な土壌が炭素を多く含むことは判っているが、具体的にどんな方法で造られたのか、まだ判明していない。

我等が探検家フォーセットは土壌については気付かなかったが、土器は発見していた。彼は探検の旅を続けていた。アルティミター(高度計)と簡単な道具を使って都市遺跡を捜し求めていた!
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フォーセットは「石で出来た都市」がジャングルにあると信じていた。中央アメリカやペルーのピラミッドで代表される種類の遺跡を見つけようとしていたのだ。
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イギリスを発つ前、オーリアーナによって1745年に書かれた、アマゾン奥地の都市が記されたメモを見ていた。彼は確信していた。彼の息子も同じだった。息子は隠されている都市のイメージを絵にした。
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この都市をフォーセットは“ジー(Z)”と名付け、「Z」を見つける最初の男になることを夢見ていた。

この黒い土壌がある一帯は、何人ということは難しいが、とにかく大勢の人々が定住していたに違いない。
土器も見つかっているし・・・もしかすると、ここが「Z」と呼ばれても好い都市だったのかもしれない。
フォーセットが考えていた「Z」のイメージとは異なるが、オーリアーナによれば、アマゾンの岸に沿って町が開けていて、この地もアマゾンの岸の近くにあるのだから。

フォーセットの足跡を追ってマナウスからブラジルの本当の中心カナラナCanaranaまで数千kmを飛行機で移動する。
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そこでフロリダ大学の考古学者マイケル・ペッケンバウアーを拾って、また飛行機でシングー川上流に移動する。
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そこは1925年、フォーセットの調査隊が失われた都市「Z」を探して訪れていた場所だ。
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彼はここに到着するまで「Z」の発見に失敗している。もう58歳だ。最後の旅かも知れない。
「もし成功しなければ、南アメリカの調査は完全に失敗だ。これ以上やることは残っていない。」

探検隊には息子のジャック、ジャックの友人マーリー・リモも加わっていた。リモはこの旅でハリウッドスターになるチャンスが膨らむ!と考えていた。

彼等はミュール(騾馬)と2人のガイドと共にジャングルに踏み入っていた。
マイケルと私はフォーセット達が8日もかけて歩いた場所の上を、たった2,3時間のフライトで移動する。
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1925年、ジャングルの中は低木が生い茂り、歩くのは大変だったに違いない。
「虫に食われながら藪(やぶ)の中を進んだ。マーリー・ルモはジャングルの中をブーツなしで歩いていた、虫に噛(か)まれたのだ。帰るように言ったのだが、旅を続けると頑張っていた。」
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彼等はクイアバから北のシングー川に向かって歩いた。目的地は・・・定かではない。
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我々が乗る飛行機は、フォーセット達が歩いていた一帯にある村を目指した。クイクルという名の村だ。
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大勢が歓迎してくれた。マイケルはクイクルの酋長(しゅうちょう)の養子だ。彼ほどクイクルを知る男は居ない。
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クイクルではフォーセット達がこの辺りを探検していた時と変わらぬ暮らしぶりが続いていた。物資の種類は少ないが、自給自足だ。
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過去に向けて開いている窓のような所だ。たまに例外的に入り込んだ文明もあるが。
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村には300の家族が暮らしている。
アフカカ・クイクルに会った。クイクル村の酋長だ。
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約5百年前からここに村があり、ずっと同じ生活様式を守っているという。

酋長との会見の後、マイケルは村を案内してくれた。
一つの家には平均15~20人が暮らしている。村の出入り口は東西南北4か所で、それぞれの近くにはリーダーが暮らす家が設けられている。
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中央広場は概略250mの幅でフットボール場が2つ入る。この広場を囲むように住居が配置されている。

リーダーの住居には動物の像が置かれている。特別な草マニアックフラワー(?小麦粉?花?)などを保管するサイロもある。
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この村が都市「Z」だった可能性もある。フォーセットはこの地に宿泊しただろうか?

クイクルの男が我々をフィッシングに連れて行ってくれた。昔からある狩猟用水路に昔と同じ造りのトラップを仕掛けて魚を獲る。
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魚は重要なタンパク源だ。時にはバッタも代用食料にしている。

安定した社会を維持するには農業は必要だ。
何百年も耕作地として利用している畑と果樹園もある。
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林の様に見える果樹園の木にはピクゥイーというグアバ(guava桃の一種)の一種の果物が実る。畑も果樹園も、自然と人工の均衡がとれた耕作地だ。

フォーセットはクイクルについて多くを知っていなかったようだが、クイクルが放棄された都市の子孫ではないかとの考えは持っていたようだ。

1925年、デッド・ホース・キャンプと名付けた場所に8日滞在していたフォーセットは、いよいよクイクルのテリトリーに入ってみることに決めた。アラグアイア(Araguaia)川に沿ってシングー(Xingu)川に向かうのだ。
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出発前、フォーセットは息子ジャックと友人のマーリー・ルモの写真を撮った。
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いざ出発!という時、2人の現地人ガイドはこれ以上進むことを拒否した。そこで、フォーセットはガイドなしで行くことを決意し、彼等に写真や記録を渡して、町に戻ったらロサンジェルス・タイムスに送るよう託した。

「アマゾンを旅している。友好的なインディアンにも出会った。今後も旅の情報を送るつもりだ。目的地を探し当てることが出来るか、それは判らない。」

フォーセット達はジャングルに踏み入っていった。そこで消息は途絶えた。
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クイクルで過ごす間に、もっとフォーセットについて知りたいと思った。しかし、その前に、住民の信頼を得ておく必要がある。

マイクと私は男たちだけが集う建物に招待された。祭りの支度が始まったのだ。
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外来客を歓迎する儀式だ。
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クイクルの祖先は、昔、もっと高度な都市で暮らしていたのだろうか、フォーセットが探していたような都市で。

マイケルは、クイクル人が「ノークル」と呼んでいる神聖な場所に私を連れて行ってくれた。
「ここが古代の町があった場所だ!」
「えっ?どうして判る?」
「ここは少し低い。ここから登ったその場所が神聖な場所だった!」
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「ということは、あなたは町の外で私は町の中、ということだな?」

確かに土器の欠片もある。それに辺りには円形の広場のような空間が広がっている。古代都市「ヌクボ」の跡だとマイケルは言う。
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「ここは私が発見し発掘している場所で、パラセイドと呼ばれる木の防御柵が立っていた。」(柵の写真はCGです。)
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都市「ヌクボ」は防御柵で囲まれていた、という証拠をマイケルがこの場所で見つけたのだ。

1マイル(1.6km)に渡って柵が造られていたと思われる。柵で囲まれた町というからには永い間、大勢の人が暮らしていたのだろう。

そこからは広い道が続いている、どこまでも真っ直ぐに!
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フォーセットの考えていた都市は石のピラミッドのような構造物がある都市だった。
しかしマイケルが考えている都市は全く異なる。「ヌクボ」は人口5千の都市だった。同じような都市と広い道路で結ばれていた。
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フォーセットの最後の基地デッド・ホース・キャンプから数マイルの所に失われた都市「Z」は在ったのかも知れない。欧米人がイメージする都市を探していた彼は、それに気付くことは無かった。彼は自分が追い求めていたイメージの古代都市を見つけようとジャングルに踏み込んでいき、ついには消息を絶ってしまった。

しかし、彼は完全に忘れ去られていたわけではない、特にクイクルの人には。
クイクル村の酋長アフカカ・クイクルは言う。
「親父から聞いたが、親父たちがカーネル(中尉)と呼んでいた外国人は、確かにこの地に来ている。」
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「その後、どうなったのかわからない。インディアンに殺された可能性もある。」

カーネル・フォーセットの結末については他にもいろいろな話がある。どこかの酋長になって現地の若い女を妻に持ち、文明に戻ることを放棄したとか、捕えられて斬首されたとか。
フォーセットが使っていたアルティミター(高度計)が英国王室協会に送り返されていることから、彼がこの近くまで到達していたのは間違いない事実だ。
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古代都市「ヌクボ」、その文明を引き継いだと思われる現代の村「クイクル」は存在していた。
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アマゾンの失われた都市とは、きっと、フォーセットが考えていたものではなかったのだろう。

クイクルは都市の特徴の全て、即(すなわ)ち定住性・大勢の住民・多様な食材環境・政治体制、を持っているのだから、失われた都市そのものなのかも知れないのだ。
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アマゾンの過去についての認識を修正する必要がありそうだ。
(完)
次回はアマゾン探検の動機になった「エル・ドラド」の不思議です。お楽しみに
Digging For The Truth - Season 02, Episode 13 - Lost Cities of the Amazon
https://www.youtube.com/watch?v=gtwOXOFf_Yw

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