Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

マヤを殺したのは誰だ!

今回は「Who killed Maya?マヤを殺したのは誰だ!」をお送りしましょう。
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上のピラミッドは、マヤにいくつか在った都市国家の一つ、チェチェン・イツア Chichen Itzaに造られた寺院で、ククルカン寺院とも呼ばれています。最下段の正方形の一辺の長さは55.3m。四方に設けられている91段の石段を登った最上段は高さ24mで、そこには本殿があります。石段の合計は4方向x91段+1段(最上段の本殿に入るための1段)=365段となり1年の日数365日と同じです。本殿の高さは6mでピラミッド全高は30mです。

このククルカン寺院は、春分と秋分の午後、石段の側面に寺院を下る蛇が浮かび出ることで有名です。
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蛇といえば英語ではsnakeスネイクだと思っていましたが、serpentサーペントという語もあるんですねぇ。マヤのピラミッドに現れる大蛇はsnakeよりserpentが適切なようです。

そもそもククルカンKukulkanという言葉はマヤの神「羽の生えた蛇」の呼び名です。この神はアステカ文明Aztecでも継承され、ケツァルコアトルQuetzalcoatlと呼ばれました。
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以前のブログ「マヤの不思議」(1月5日)で、大袈裟にいえばマヤの死生観についてご紹介しましたが、その時、マヤ文明の消滅過程についても調べてご紹介したいと考えていました。そこで、Youtubeを漁(あさ)って「Who killed Maya?マヤを殺したのは誰だ!」というフィルムを見つけ、3回ほど見たのですが、内容が浅い感じがしたので、別のフィルム「The Red Queen - A Mayan Mystery赤い女王―マヤの不思議」もチェックしてみました。タイトルは面白そうですが、内容はマヤの都市国家の家系図を追跡するもので私の関心からはかけ離れていたので「さて、どうしたものか・・・」と思案の挙句、ここは一番(なんだかDeNA中畑監督みたいで心許ない限りですが本日5月25日時点ではセリーグのトップを驀進中です!)mhなりの「マヤ滅亡史」を集大成してご紹介した方が好いだろう、と決断するに至った次第です。

これまでも何度も書きましたが、南北アメリカで生まれた文明を最後に葬ったのはヨーロッパからやって来た白人です。彼らがアメリカ大陸に来る前も、いろいろな原因で文明や都市が生まれては崩壊してきたのですが、コロンブス後にヨーロッパからやって来た白人が最後のとどめを刺したのは隠しようがない事実だ、と私は今回も改めて実感しましたねぇ。

wikiで確認するとマヤ文明の興亡は次の通りです。
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マヤ文明の黎明(れいめい)は紀元前3千年だったんですねぇ。古いですねぇ!エジプトに統一王朝が初めて出来たのが紀元前3150年頃(wiki)ですから、丁度同じ頃に生まれたってことです。ご承知のようにマヤ文明はユカタン半島一帯で興(お)きましたが、マヤは帝国として統一された歴史はなく、多くの都市国家の集合体でした。都市国家の一つ、ティカルTikalには上の写真のティカル2号神殿があります。これは紀元前3千年に造られたのではなく、恐らく古典期後期(西暦6~9百年)の作だと推察します。

次もTikal遺跡です。
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マヤ文明は西暦15百年代に侵略して来たスペイン人によって最終的に壊滅された、と言える位、徹底的に衰退してしまうのですが、それ以前でも2回、衰退しているんですねぇ、既に挙げたWiki「1.歴史」にそう書かれています!

最初の衰退は西暦250年頃の「先古典期マヤ文明の衰退」ですが、英語版wikiを見ろ!って指示がありましたので、さっそく見てみました。
「多くの古代都市は放棄された。その理由は現在もまだ定かでない。」
つまり理由は判らないのですが、都市から住民が居なくなっちゃったっていうんですねぇ。次の写真は、その時に放棄された都市エルミラドール(El Miradorスペイン語:展望台)遺跡の一つです。
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西暦250年というと日本では卑弥呼(ひみこ、生年不明 ―248年頃)が死んだ2年後くらいです。卑弥呼の時代、マヤには既に綺麗なレリーフが彫られた石造りの建造物があったってことです。

それから650年くらいした西暦900年頃、2回目の衰退が起きました。
次のピラミッドは当時の有力な都市カラクムルCalakmul に造られていた寺院跡です。
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この時の衰退の理由についてwikiは次のように説明しています。
「9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。」

その後、マヤの人々はジャングルの中というより海岸の近くに町を造くり暮らすようになります。
後古典期(西暦900―1524年):
「後古典期には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返した。」

次の写真は後古典期の都市国家のひとつマヤパンMayapan遺跡です。
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以上の解説で登場した都市国家の位置を地図に示してみました。地図の最も左、現メキシコ・シティ近くにある「テオティフワカンteotihuacan(紀元前2世紀~6世紀に繁栄、7世紀には急速に衰退)」はマヤ文明には含まれないのが一般的です。マヤ地区からは8百Kmほど離れているのでマヤとの関連が薄いからなのでしょうが、ピラミッドや宗教には類似性があります。詳しくはブログ「テオティワカンの不思議(10月20日)」をご確認下さい。
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西暦1521年、メキシコ湾岸から内陸に侵攻してきたスパニッシュ・コンキスタドールの攻撃でアステカ帝国の首都テノチティトラン(現メキシコ・シティ)が陥落しました。するとコンキスタドールは次の目標のグアテマラ、つまりマヤ文明が発達した地域、に向け騎兵180人、歩兵300人、大砲4門、それに捕虜にしたアステカ軍隊を引き連れて南下を始めます。

アステカ帝国陥落から25年後の1546年、細々と続いていたマヤの都市国家群はたった1つを除いてスペイン人の手に落ちました。

パレンケPalenqueのピラミッドです。
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スパニッシュ・コンキスタドールが来た時、ここは既に廃墟でした。
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西暦1697年、最後まで残っていたマヤの都市ノジュペテンNojpetenが陥落します。これでマヤで栄えた都市国家は全て息の根を絶たれてしまったのです。このノジュペテンは、ペテン・イツァ湖に浮かぶ美しい島にありました。
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今はグアテマラの町フローレス島(Flores:スペイン語で花の意)です。

以上、Wiki情報を中心にマヤの衰退・滅亡を駆け足で辿りました。見事に栄えた都市国家群のマヤ文明ですが、実は西暦900年前頃の衰退が切っ掛けで急速に崩壊してしまい、スパニッシュ・コンキスタドールが攻め入った時は既に崩壊していたというのが真実のようです。

このような変遷を辿(たど)ったマヤ文明の研究者にとって最大の興味は、西暦900年頃のユカタン半島全体に渡る都市国家の衰退原因を見つけることのようですが、ドイツ人考古学者ニコライNikolai Grubeの活動を収録したフィルムがYoutube「Who killed Maya?」でした。

ということで、少々大雑把になるかもしれませんが、そのフィルムの内容をご紹介しましょう。
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パワフルな文明が中央アメリカに生まれ、数千年の繁栄の後、突然、消滅した。このアポカリプス(注)の引き金になったものは何だろうか?
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注:アポカリプス(apocalypse黙示録)
新約聖書の最後の一書。西暦95年ごろ、ローマの迫害下にある小アジア(mhアナトリアとも呼ばれる、トルコ一帯です)の諸教会のキリスト教徒に激励と警告を与えるために書かれた文書で、この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的表現で描かれている。ヨハネ黙示録とも呼ばれる。

今、一人の男が、新しい証拠に行き当った!とうとう、誰がマヤを滅亡させた(殺した)のかを知ることになるのだろうか?
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マヤについてはピラミッド、マヤ文字、生贄の儀式などがよく知られている。
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ニコライはマヤ文字の解読に貢献した学者の一人だ。
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ニコライはマヤに残された書物を調べた結果、レディ・シックス・スカイ(Lady Six Sky王女シックスカイ)がマヤの崩壊を引き起こしたのではないかと考えている。

レディ・シックス・スカイはジャングルに囲まれたマヤの都市で生まれた。
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ヨーロッパが暗黒時代に在った時、マヤでは芸術、数学、天文学、高度な文字による文化が繁栄していた。しかし、彼等が造ったもの全てが2百年で失われてしまう。
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9世紀までに、実質的な文明は崩壊し、人々はどこかに消えてしまったのだ!どんな間違いがあったというのだろう?
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レディ・シックス・スカイの追跡をしていたニコライは興味深いものを見つけた。
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彼はマヤ文字の解読に携わった者の一人で、文字には精通している。
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昔、マヤには多くの本があった。しかし、1500年代の始めにやってきたスペイン人が、悪魔の本と決めつけて全て燃やし煙と化してしまった。幸いスペイン人の目を免(まぬが)れた4冊の本と石碑に彫られた文字がマヤの歴史を伝えるテキストだ。
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テキストによれば、マヤの人々はガリレオなどよりもずっと昔に太陽系について理解していた。
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文明が産まれ始めた頃には既に権力者が現れていた。
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2つの大きな都市国家がマヤ全体に影響を及ぼしていた。カラクムルとティカルだ。
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富と権力をコントロールしていた。この2つの都市国家が均衡していればマヤ全体は平穏だった。

ドス・ピラスはレディ・シックス・スカイが生まれた王国だ。マヤ衰退の物語が始まった所だ!
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2002年、嵐がドス・ピラスに隠れていた碑文をさらけ出した。
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更に見つかった石段には重大な記録が描かれていた。
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マヤのアポカリプス(黙示録)が描かれていたのだ。
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プリンセス・ドスピラス・・・どんな女性だったのか?何をしたのだろう?

プリンセス・ドスピラスは7世紀の後期に生まれた。成長し、ドス・ピラスの近くのナランホゥNaranjoという都市国家でリーダーになる。そこに彼女は記念碑を残した、彼女の力を誇示するものだ!驚くべきは、彼女はその時まだ20歳になっていなかったということだ。しかし類(たぐい)稀な統率力と政治力を持っていた。彼女の野心を引きとめることが出来るものは無かっただろう。

彼女がナランホゥに嫁いだ時、都市はティカルの攻撃で疲弊していたが、彼女が建て直した。彼女は生まれ故郷ドス・ピラスに軍隊を派遣して併合し、偉大な帝国ティカルにも手を伸ばす。
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そしてそこに、最も特徴的な石碑が残っている。
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ティカルのジャソウ・チャンカ・ウィール王が永年の宿敵カラクムルを695年に滅ぼした、と書かれている。
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その石にはナシュトゥーンという耳慣れない都市の名も刻まれていた。
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ナシュトゥーンとティカルは何らかの関係があるに違いない。しかし、どこにある都市国家なのだろう?
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ティカルの最も高いピラミッドから町の外を眺めてもジャングルが広がっているだけだ。
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1920年、ここから60kmのジャングルで遺跡が発見された。既に100年たつが、調査は進んでいない。遺跡はナシュトゥーンNaashtun(遠い石の意)と名付けられている。
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ナシュトゥーンは2つの超大国カラクムとティカルの間に造られた。小さな町だが、恐らく政治的な意味は大きかったに違いない。

ニコライはナシュトゥーンを目指すことにした。全日程は5日。驢馬(ろば)と徒歩でジャングルを分け入って進んでいくのだ。何かが見つかる保証は何もない。
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普通、ピラミッドは365段の石段があり最上段の寺院で儀式が行われていた。急な石段は神聖な場所を示すだけのものではなかった。生贄の儀式にも使われていたのだ。
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多くの発見は人間の生贄儀式が行われていたことを示している。
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死体は階段から転げ落とされていた。天国への階段は、突然の死をもたらす階段でもあった。
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中央アメリカに生まれたマヤ文明の信仰の中心には人間の生贄があった。平和な日常生活の中に恐ろしい儀式が組み込まれていたのだ。
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出発から2日目、やっと遺跡らしきものを見つけた。こんなところに都市があったなんてとても信じられない!
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展望台のような所がある。
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マヤでは星の観測が重要だった。特に重要なのは金星だ。戦いの行方を決める星だった。
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mh:なぜ金星か???恐らく次の理由です。
「地球から見ると、(1)明け方と夕方にのみ観測でき、(2)太陽、月についで明るく見える星である。明け方に見えるのが「明けの明星」、夕方に見えるのが「宵の明星」という。」

しかし、レディ・シックス・スカイは星占いのような慣習に拘(こだわ)る男たちの戦術とは無関係だった。伝統的な戦術や王位への固執は彼女の関心事ではなかった。

しかし彼女は権力を得る、王になった息子を使って!!!

ニコライの調査は足踏みしていた。ジャングルでは樹木や雨のおかげで調査は思うように捗(はかど)らない。
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GPSで位置確認が出来るので、昔と比べれば、かなり効率的であることは間違いない。
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石碑が見つかった!ナシュトゥーン・・・。他の文字は読み取れない。夜、もう一度来なければいけない!
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暗闇の中で懐中電灯の光を斜めから当てると、石に刻まれた文様や文字は見やすいのだ!
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751年・・・見たことも無い王国の紋章・・・
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最後の5日目、思いもしていなかった発見があった。
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これはナシュトゥーンの王の名に違いない!
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ナシュトゥーンはここに在ったのだ!王国は、どんな力を持っていたのだろう?
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マヤの人は、地下にシバウバという神聖な場所があると信じていた。ピラミッドを都市の中心に造ることが伝統だった。ナシュトゥーンという名は「悪い都市」という意味を持っているのではないか?とニコライは疑っている。

レディ・シックス・スカイが生まれた時、マヤは既に全盛期heydayを迎えていた。ジャングルにあるこの地も、開拓され、開墾され、大勢の人々が暮らす都市になっていた。
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1万人ほど暮らしていただろう。その人たちが飢饉(ききん)で食糧不足に陥り都市を捨てたとすれば、それは極めて重大な飢饉だったはずだ。
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しかし、そんな飢饉があったとは考えづらい。
マヤは多様な自然に囲まれている。
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ジオロジー(地理学)でも・・・
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エコロジー(生態学)でも・・・
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どこかの地方で雨が少なく飢饉が起きたとしても他の場所では雨が降って豊作だったに違いない。マヤの人々が都市を捨てたのは、飢饉などではなく、政治システムに大きな変化が起きたからではないだろうか?

マヤでは王が重要な役割を果たした。神と人々を繋ぐのが王の役目だった。
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地下の魂から蒼穹(そうきゅう)の星の神まで、王が仲介して取り仕切っていた。
そして王は最も強力な手段で意思を表現した、戦いだ!
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殺し合いは尊厳な行為だった。儀式に必要な生贄を確保するための誘拐はスポーツのようなものだった。戦いは2つの偉大な都市ティカルとカラクムルの間で数世紀に渡って繰り返されていたのだろう。

しかし、レディ・シックス・スカイはこれらの男のゲームには加わらなかった。彼女にとって過去の統治手法は何の意味も無かった。息子のスカイバーナーが国家都市ナランホゥの王位に就くと、町の繁栄と拡大を優先した。
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息子が王の時代、彼女は12の戦いを仕掛けている。カラクムルと同盟を組んでティカルを攻撃した。
695年、彼女は敵の王を捕えて虐殺する。ティカルはカラクムルに仕返しの反撃に出た。彼女によって2つのスーパー・パワーが殺戮(さつりく)競走を始めたのだ。

ナランホゥは2つの王国の間に位置して政治的な価値を高めていった。しかし、一旦始まった殺戮ゲームはマヤの都市国家全体にドミノ倒しのように拡散していき、マヤの滅亡を引き起こすことになる。彼女が死ぬと、ナランホゥ自体も争いに巻き込まれて消滅したた。相次ぐ戦で将来を担う子供達も殺されていった。

9世紀までに、スーパー・パワーは消滅してしまった。わずかに残った弱小国家は細々と生き延びることになったが、実質的には、マヤ文明はこの時点で歴史から消し去られてしまった。都市が壊滅すると飢えが襲ってきた。農業が崩壊し交易も行われず、灌漑されていた耕地も荒れ果てて作物は採れなくなっていた。

マヤ文明は何度も危機を乗り切ってきたはずだ。しかし今回、どうして乗り切ることができずに崩壊してしまったのだろうか?飢饉、土地の劣化、人口の増加、森林の崩壊なども原因の一つだろう。しかし、今回は、インフラストラクチャーが崩壊したのだ。政治システムも灌漑システムも崩壊してしまった。そしてジャングルの中で暮らすことはもうできなくなったのだ。

741年、レディ・シックス・スカイは死んだ。その後1百年で彼女の王国は消滅したが彼女が偉大なリーダーだったことは間違いない。男たちが取り仕切っていた世を生き抜き、力を蓄え、周りの国を攻撃して滅ぼし、時には同盟を組み、政治的にも活躍した。彼女は男達が綿々と築いてきた古い秩序を破壊したのだ。彼女の死後、マヤを支えていた宗教、神と交信する王、そしてその王が管轄する王国、といった従来のシステムが崩壊していく。この経緯は石碑の中にも記録され残されている。
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しかし、まだ他にも秘密は隠されているかも知れない。
今も3百万人のマヤの子孫が中央アメリカで暮らしている。1千年以上前の争いを逃れた人々の子孫だ。
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彼等の言葉は昔とよく似ているので考古学者ニコライが石碑の絵文字を解読するのに役に立つ。
彼らは今も神に祈りを捧げている。
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2百年間に渡って行われた戦いが2千年をかけて築き上げたマヤ文明を崩壊してしまった。それはレディ・シックス・スカイが触媒となって起きたものだが、もし彼女がいなければ、他の人間が彼女の代わりをしていただろう。
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mh:マヤの歴史には特記すべき3人の女性がいるようですが、中でもレディ・シックス・ガイLady Six Skyは権力や戦と関係が強い女性でした。石碑の一つで、将軍として描かれている彼女は捕虜の上に立っています。
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以上で「Who killed Maya?マヤを殺したのは誰だ!」のフィルム紹介を終え、引き続いて次のフィルム「The Red Queen, a mayan mystery赤い女王;マヤの不思議」のエッセンスだけご紹介します。
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パランケで1994年に見つかった赤い遺骨。寺院で見つかった最初で最後の女性の遺骨だった。
(mh赤いのは死体に装飾用顔料が塗られていたからです。性別は骨の大きさのバランスから推察しています。勿論、一緒に埋葬された装飾品も判断根拠でしょう。)
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翡翠(ひすい)の面を被っていた。ポランケの赤い女王と言う名が付けられた。
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王パカオの墓の隣の小さな寺院。
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その地下に彼女が眠る石棺があった。
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パカオの妻が赤の女王か?

以降、遺骨や歯を分析して、これらに含まれるカルシウム、残っていたバクテリア、細胞中のミトコンドリアなどの分析や、カーボンデイティング手法、石碑に残された王や王国の名前、年代などを整理した結果から、あーでもない、こーでもない、と赤の女王のクエスト(探求)を進めて、最後は消去法で答えを出します。
「ソク・ブー・ハウが消去法で残されたただ一人の赤い女王の候補だ。パカオ大王の妻だ。」
以上で「赤い女王」は完結です。

さてさて、いつものように、取り留めの無い、何の紹介なのか訳がわからないブログになってしまいました。強引にまとめましょう。

マヤ文明が西暦900年頃に崩壊を始めた理由は、考古学者ニコライによれば、レディ・シックス・ガイが火をつけた「仁義なき戦い」で都市国家が潰(つぶ)し合いを始めたからでした。これを生贄の習慣が後押しします。安定した生活を続けるには神のご機嫌を伺い続けねばならず、そのためには隣の都市国家から生贄となる人間を調達しなければいけないということで、誘拐ごっこの連鎖が続き、互いに疲弊し切ってしまった、ってシナリオです。短く言えば「人間の狂気の連鎖」でしょうか、たしかに可能性はありますねぇ。お金や名誉や権力に飽(あ)くことがない人間の煩悩(ぼんのう)は捨てがたくてかつ救いがたく、手の施しようはありません。そのことに早々と気付いたお釈迦様に倣(なら)って世捨て人になればいいのかも知れませんが、それが出来ない凡人としては、巻き込まれないよう細心の注意を払いつつ、ほどほどの願いを追い求めて生きていくしかないのでしょうか。

てことで、さて、次の海外旅行はどこに行ってみようか?いろいろ調べるのもささやかな幸せというものです。
(完)

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mh徒然草43:モンテカルロ法と孔子さま

世の中のことは判らないことばっかりですねぇ。例えば株価や為替。明日は上がるのか、下がるのか。円高か、円安か。朝の散歩で歩く距離を延ばそうか、縮めようか。今度の選挙では与党に投票しようか、それとも野党がいいのか。中国との関係は加速しようか、それとも遅らせておこうか。

このように、どちらを選んだら好いか悩むケースは誰にも頻繁に起きているでしょう。そういう場合、皆さんはどんな方法で方針を決めていますか?

どちらかを選ぶ時は、どちらの方が好ましい結果になるかを予測し、好ましい結果が得られると思う方を選択するのが常道です。

しかし、どちらが好いか判らなくて悩む場合が多いんですねぇ、それが人生というものです。判らない原因の一つは、調査が不十分で、情報量が少なくて不確実で、よって判断の仕様がない、というものです。だったら正確な情報を集めればいいではないか、となりますが、それには時間も資金も必要で、調べている内に時機を逸したり、更にはいくら調べても判らない場合も多々あります。

例えば明日は円安になるのか円高になるのか?情報を全て入手し正しく分析すれば、かならず言い当てることは出来るはずですが、現在、100%の信頼性でこれを言い当てることができる人は誰もいないでしょう。しかし、お釈迦様も仰っているように、因果応報ですから、円高になるとしたらその原因があるはずで、その原因というか兆候は、既に起きている訳ですから、これを知れば正しく予測できる理屈です。

しかし、お釈迦様の教えを否定するつもりは全くないのですが、判らないことは多いですねぇ、世の中は。で、そういう時はどう振る舞うのが合理的か???そんな旨い方法なんてあるの?

あるんですねぇ、それが!!!それはモンテカルロ法です。これは孔子さまの教えにもあるんです!!!

その方法を伝授差し上げましょう。
まず、モンテカルロ法ですが、wikiでは次の通りです。
「モンテカルロ法 とはシミュレーションや数値計算を、乱数を用いて行う手法の総称。元々は、中性子が物質中を動き回る様子を探るためにスタニスワフ・ウラムが考案しジョン・フォン・ノイマンにより命名された手法。カジノで有名な国家モナコ公国の4つの地区(カルティ)の1つであるモンテカルロから名付けられた。ランダム法とも呼ばれる。」

判り易くいうと、右に行くべきか左に行くべきか判らない時は、どちらでもいいから、まず行って、それから決めろ、ってことです。例えば右に行くんです。で、結果が好かったら更に右に行く。もし悪かったのなら左に方向転換して行ってみて、その結果が変更前と比べて好ければ更にその傾向を、悪ければ元の方向に戻るっていう試行錯誤方法です。

具体例で解説しましょう。
√3(ルート3)は、1.732050807568877・・・という無理数(分子・分母ともに整数である分数として表すことのできない実数)ですが、モンテカルロ法を使えば簡単な計算で求められます。
まず、√3=2としてみます。2の二乗は4となり、3と比べると大き過ぎます。つまり2より小さな数字が√3である、と判ります。
としたら2よりも小さな数字としてみるのですが、いくつにするかでは一つのルールを決めて置きます。「その前の数と今の数の中間の数にする」とします。今回の例ではその前の数は0としておき、今の数は2ですから次の数は0と2の中間の数ということになります。で、(0+2)÷2=1ですから1にしてみるんです。1の二乗は1ですから3よりも小さ過ぎます。そこで次は、その前の値の2と、今回の値の1の半分の値、つまり(2+1)÷2=1.5とします。1.5の二乗は2.25ですから3よりも小さい。そこで、次は1・5と2の間の数字、つまり1.75にする。二乗すると3.0625だから3より大き過ぎる。なら1.5と1.75の間の数字、つまり1.625にしてみる。
こうして、何度か計算すると√3の値にどんどん近づいていきます。計算機を使えば、あっという間に20桁くらいは直ぐに求められるでしょう。パソコンのExcelソフトの計算機能を使っても簡単に求めることが可能です。

モンテカルロ法は、何かをしてみて、好い結果だったら更にやってみる、もしやり過ぎたら反対の方向に戻ってやってみる、とも言い換えられます。これがまさに孔子さまの教えと同じなんですねぇ。
「中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至れるかな」
(中庸、つまり偏らないこと、が最善である。)
この教えは、同じく孔子さまの「過則勿憚改」(過(あやま)てば則(すなわち)改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ)に通じるところがあります。つまり、間違ったと判ったらぐずぐずしていないで直ぐに改めろ!ってことです。

以上、いつものように締りのない結末を迎えることになりましたが、どう対応していいか判らない事象には、やり過ぎないようにまず何かを少しやってみて、結果が好ければ更にやり、悪ければ、逆の方向に戻ってやってみるって方法が極めて現実的、実践的だとご理解戴けたことではないでしょうか。

モンテカルロ法と孔子さまの「中庸」「過則勿憚改」の教えは人生のあらゆる場面で有効だと私は思います。ギャンブルや投資の結果を左右するのは運と人間の力の双方であり、運は確率で、人間の力は孔子さまの有り難い真理の教えで対応すればよかった、という訳です。この教えを守り、ギャンブルや投資、マネーゲームは、深みに嵌(はま)らず、中庸を旨(むね)とするようお勧めします。
(完)
Rita Coolidge - All Time High
https://www.youtube.com/watch?v=jnoViygYv68

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オークニーの寺院の不思議

今回はイギリスのオークニー諸島Orkney Islandsで2002年頃に発見されたNess of Brodgarネス・オブ・ブロッガーと呼ばれる寺院遺跡を巡る物語です。本格的な発掘の開始は2003年でした。
なおness(ネス)は岬のことでNess of Brodgarは「ブロッガー岬」となります。

オークニー諸島は北海に浮かぶ英国の島で北緯58度に位置しています。
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緯度でいけば樺太の最北端より北ですが、北上してきたメキシコ湾流Gulf Streamがノルウェイ海流Norwagianと呼ばれて島の近くを流れるので、樺太最北端よりも温暖だと思いますが、北海道なんかよりは寒いでしょう。
世界の主な海流(赤は暖流、青は寒流)
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イギリスを訪れる日本人旅行客は大勢いますが、スコットランドまで足を延ばして例えばエジンバラを訪れる人は少ないでしょうし、ましてやメイン・ランドを離れオークニー諸島に行く日本人は稀(まれ)だと思います。きっとTVの撮影クルーくらいではないでしょうか。イギリスに永年駐在している日本人もめったに行かない場所だと思いますよ、交通の便が悪いでしょうから。

このオークニー諸島で一番大きいメインランド島には新石器時代(今から1万年前から4千年前くらいの期間で石器や土器が使われていた時代)の遺跡群があり、次の4つは1999年に世界歴史遺産になりました。
1. Maeshoweメイズ・ハウ:古墳です。
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正面の入口を入ると石室があります。
石室の天井の写真がGoogle-Earthに見つかりました。金色に輝くのは撮影照明の照り返しで、金箔が貼られているわけではありません。
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2. Stones of Stenness ストーンズ・オブ・ステネス:ストーン・サークルだったのでしょう。
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3. Ring of Brodgarリング・オブ・ブロッガー :ストーン・サークルです。
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4. Skara Brae スカラ・ブレイ:住居跡のようです。
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居住空間を繋(つな)ぐ狭い通路も、恐らく石、または木の天井で覆われていたのではないかと推察します、冬は寒くて外は歩けない程だったでしょうからね。
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GoogleEarthオークニー諸島の衛星写真
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世界遺産に指定済みの4つの遺跡と、今回のブログの主題Ness of Brodgarブロッガー岬の配置図です。
スカラ・ブレイは海岸線に造られた住居遺跡ですが、その他の遺跡は島の内部の湖の近くに固まっています。
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今回のブログのテーマ「オークニーの寺院:Ness of Brodgarネス・オブ・ブロッガー」はブロッガー岬にあり、2つのストーン・サークル(ストーンズ・オブ・ステネスとリング・オブ・ブロッガー)の間に伸びた岬にあります。発見は2002年頃でこの辺りでは最新の発見です。
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オークニー諸島の遺跡群が造られたのは新石器時代末期で今から5千年ほど前です。
日本における新石器時代の遺跡といえば青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)でしょう。
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三内丸山遺跡からは石器や土器が見つかりました。住居の痕跡も見つかったはずですが、当時、日本の建築物は木造だったので、柱の基礎や僅かな敷石しか残っていなかったと思います。Wikiでは縄文時代(今から16千年~3千年前(紀元前10世紀))中期の遺跡となっていますが、別の資料には「今から約5500年~4000年前の縄文時代の集落跡」とありましたから、今回ご紹介するオークニー諸島の遺跡の方が5百年ほど古い勘定になります。

ストーン・サークルは欧州、主に英国、に沢山残る遺跡です。いくつかご紹介しましょう。
Merry Maidens Stone Circle(England)
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Boscawen Un Stone Circle(England)
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そして勿論、ストーン・ヘンジはストーン・サークルの代表格です。詳しくはブログ「ストーンヘンジの不思議」(2014年4月3日公開)をご覧下さい。

ネス・オブ・ブロッガーをGoogleで検索したら「ness of brodgar trustネス・オブ・ブロッガー基金」の活動HPが見つかりました。これによれば、毎年、夏の7、8月だけ発掘が行われていて、ネットなどで申し込めば誰でも参加できるようです。発掘は2003年以降、今も続いていて、主にボランティアが作業しているのです!流石に文化の先進国イギリスらしい活動スタイルです。で、今年の発掘は7月6日(月)から8月28日(金)までとのこと。
発掘していない時期のサイトの様子は・・・
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タイヤで埋め尽くされています!雨や雪で現場が荒れてしまわぬよう保護しているのでしょう。

2012年に撮影された、ボランティア希望者向けサイト紹介フィルムがありました。映像時間は12分。音楽と映像だけですが十分、遺跡を堪能できます。まずはご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=YtijUd8aU2k https://www.youtube.com/watch?v=YtijUd8aU2k

さて、ボランティア向けフィルムを見終えたところで、いよいよYoutube「Prehistoric Europe - Britain's 5,000 years old temple in Orkney前史ヨーロッパ:英国オークニーにある年齢5千年の古い寺院」の始まりです。
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5千年以上も昔の新石器時代、英国メイン・ランドの北、オークニー諸島に一つの町が栄えていた。
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住民は見事なモニュメント(記念碑)を造り上げていた。
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ストーンズ・オブ・ステネス。現存する世界最古のストーン・サークルだ。
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そしてそこから北に丁度1マイル(1.6km)にもストーン・サークルを造っていた。世界最大のストーン・サークルの一つ、リング・オブ・ブロッガーだ。
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直径は100m以上ある。
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「今も残っている石は21個だが当時は60個が立っていた。」
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周囲には溝が掘られている。
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溝を掘るだけでも100人で半年かかっただろう。
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ここから10km北西の海岸には遺跡スカラ・ブレイがある。5千年前の新石器時代の農耕者たちの住居群だ。
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今立っている所は住居の中だ。中央に囲炉裏がある。私の右後の長方形の場所にはベッドがあったと思われている。
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ほかにも遺跡がある。メイズ・ハウだ。ここには死んでから使うベッドがあった。
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羨道墳(せんどうふんPassage grave)という形式の古墳で、中央の玄室に向かって、天井がない、または天井が低くて狭い通路(羨道(せんどう、えんどう))がつくられている墓だ。
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内部の石組は生きた人々が暮らしていたスカラ・ブレイと同じ構造だが、壁に造られたベッドは深い、深~い眠りに就く人が使ったものだ。
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しかし、今、発掘が進んでいる遺跡は、これらの遺跡よりも興味深い!2つの湖に挟(はさ)まれたブロッガー岬にある。
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5千年前の石垣や石の建物の跡が見つかっている。
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発掘は始まったばかりで、沢山の遺跡はまだ地中に眠っている。
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2008年から、考古学者は表面の土壌を注意深く剥がし、発掘を本格化した。
作業を指導するのはニックだ。
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「先史時代の、地中海よりも北に残る遺跡の中ではとても興味深いものだ。ひょっとするとストーン・ヘンジより重要な価値があるのでは、と期待している!」

ネス・オブ・ブロッガーに対抗できる英国の記念碑はストーン・ヘンジだけだろう。
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ここオークニーからは600マイル(約1千Km)南にある。
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長い間、ストーン・ヘンジは新石器時代における文明の中心的な存在だった。

しかしオークニー諸島での今回の発見は全てを覆すかも知れない。
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ネス・オブ・ブロッガーの近くには他の遺跡もある。
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墓があったメイズ・ハウから延びる道はストーンズ・オブ・ステネスとリング・オブ・ブロッガーを繋(つな)いでいて、2つのストーン・サークルの間にネス・オブ・ブロッガーがあるのだ!
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そしてネス・オブ・ブロッガーには未発掘の多くの遺跡が眠っていることが判っている!
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農業を営んでいた人々が、こんなに大規模な建築物を造る仕事を始めたのはなぜだろう?
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建物は何のために使われたというのだろう?

石の壁が見つかっている。
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見つかったのはほんの一部で、実はもっとずっと大きい!
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石やレンガは磁性体を含んでいる。地面に隠れていても検知できる。場所が判れば地図が出来上がる。幅12ft(3.6m)で総重量1万トンの採掘岩で造られた壁が建物群を守るように取り囲んでいた!
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「多分、周辺を壁で囲まれた寺院の集合体Complex of Templesではないかと思う!」

石壁の高さは3mもあった。外から中を覗き見ることは出来なかった。
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多分、この辺りでは中心的な寺院群だったはずだ。しかし、いつ頃造られたのだろうか?イギリスに残る他の宗教的な遺跡とどんな関係を持っているのだろう?

発掘サイトで見つかったチャコール(炭)のカーボン・デイティングで紀元前3千年と判明した。住民の村スカラ・ブレイ、死者の墓メイズ・ハウ、近くの2つのストーン・サークル、が造られた時代だ!
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ストーン・ヘンジは英国で最も有名なストーン・サークルだが、使われている石の総重量はネス・オブ・ブロッガーの石壁の3分の1に過ぎない。
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しかも造られたのは5百年遅い。
ストーン・ヘンジを訪れ、遺跡に詳しいマイクに訊いてみた。「ストーン・ヘンジはネス・オブ・ブロッガーやその近くのストーン・サークルと関係あるのだろうか?」
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「答えるのは難しい質問だ。この近くで見つかっている土器類は北でも見つかるが、英国全体でも見つかっている。多くの人は、文明は南から北に伝わったと考えている。しかし、北から伝わったものもあるはずで、どちらからどちらに伝わったのかを決めつけるのは不可能だ。」
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しかし、オークニーの寺院遺跡の調査が進めば、宗教や信仰の発展の歴史はもっと明確になるかもしれない。

ネス・オブ・ブロッガー(寺院遺跡)を挟むようにストーン・サークルが造られている。サークル内の広いオープン・スペース構造は儀式の舞台のようだ。
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2つのストーン・サークルの間に造られた、石垣に囲まれた寺院遺跡は何のためのもので、どのように使われていたのだろうか?
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サイトに立って見ているだけでは全体が把握し辛い。50ft(15m)上空に昇ってみよう。
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下には全く異なる風景が広がっていた。
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14の建物跡があることが判っているが、うち3つは特徴的だ。
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構造物1番には入り口が3か所ある。
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それに囲炉裏(いろり)が3つある。2つは建物の中央に、1つは入口に造られている。
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これらの囲炉裏は儀式用で、入り口のものは建物に入る人の身を清めるためのものだろう。

構造物8番。
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細長い建物だ。入り口は一つしかない。構造物1番と同じように囲炉裏が3つある。
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石の板(スラブ)で仕切られた「床の間(alcove)」のような区画が設けられている。近くの墓メイズ・ハウの構造に似ている。
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考古学者コリン(マンチェスター大学)は言う。「寺院だろう。神聖な場所に入る時は普通、入り口は一つだ。」
(mh:神聖な場所では入り口が1つ、という指摘は鋭いですねぇ!確かに日本でも神社の神殿は入口は一つで、表から裏に通り抜け出来る構造のものはないでしょう。しかし、落ち着いて考えてみれば、団地の我が家も玄関は1つだし、古い住居跡、例えば古墳群の家、も入り口は一つがほとんどですから、入り口の数だけで寺院かどうかは決めきれません。しかし参考になるレトリック(修辞法)ですねぇ、まず結論を端的に言い、続けて理由を言うって方法は!)

そして構造物12番
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ここも入り口は一つだがとても狭い!入場者を制約していたのだろうか?しかし、一旦入ってしまうと、そこには空間が広がっている。
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これら3つの構造物を見ると、神聖な場所として設けられたと考えて間違いないだろう。
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新石器時代、この地には固い石を使って組み上げられた構造物群があったのだ。
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現在の都市文化は新石器時代に産まれたと言えるだろう。エジンバラのスコットランド国立博物館を訪れてみた。
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石器時代に使われていた道具が保存されている。
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これらは武器として使われたのだろう。木の棒の先に取り付け、斧(おの)のように振って敵や動物を殴るために使われたものだろう。しかし、王笏(おうしゃくscepter:権威を示す杖のような飾り道具)だったかも知れない。つまり儀式で使われていた道具の可能性もある。

この棍棒のヘッドのような石が構造物8番で4つ見つかった。その他の場所からは今のところ見つかっていない。
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石は全て壊れていた。

「これらのことからネス・オブ・ブロッガーはどんな場所だったと考えますか?」
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「私(女性の研究者)が思うには、死者とこの世の間を取り持ちながら権力を発揮した人々が寺院として使っていた所だわ。」

5千年前、オークニー諸島は技術、生活、宗教の中心地だった。
今は最果ての地としか思えないが、当時は不思議な魅力に満ちていたのだ。
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寺院群はエジプトのピラミッドより、ストーン・ヘンジよりも古い!

構造物8には他と異なる特徴があった。
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顔料といえば顔に模様を描くための絵具だが、ここでは石に模様を描くために使われていた。
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新石器時代の建物で、顔料で絵が描かれている遺跡はここだけだ。小さな土器も見つかった。顔料を溶くためのものだったのかもしれない。
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顔料の材料は恐らく海岸でも見つかる鉄分を含んだ石だ。その石で岩を擦(こす)ると岩の表面が茶色になる。
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他にも鉱物を含んだ石がある。砕いて粉にすれば、異なる色の顔料も作ることが出来る。

ここで見つかった芸術は絵画だけではなかった。粘土の人形もある。
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ブロッガー・ボーイというニックネームが付けられた。
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とても小さいが、英国で見つかった新石器時代の人形はこれ一つだけだ!貴重な品物だ。

この寺院は特殊な場所に造られている。片側は淡水湖、反対側は海に繋がっている塩水湖だ。
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南にマエズ・ホウとストーンズ・オブ・ステネスが、北にはリング・オブ・ブロッガーが、そしてその間に、この寺院群があるのだ。

考古学者はこの配置に大きな関心を持っている。この寺院遺跡に匹敵する英国の遺跡はストーン・ヘンジだが、孤立した遺跡ではなく、近くにある別の遺跡ダーリントン・ウォールズと関係があるのだ。考古学者は「儀式的な地理配置」と呼んでいる。
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ストーン・ヘンジとダーリントン・ウォールズは川で結ばれた、前者が死者の、後者は生者の場所だと考えられている。

(mh:ダーリントン・ウォールズという町にはウッド・ヘンジWoodhengeがあります。ストーン・ヘンジStonehengeからの距離は3Kmです。)
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ウッド・ヘンジの写真です。直径40mの円の中に杭が立っています。
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その北のダーリントン・ウォールズは直径600mとも言われています。風化が進んで輪郭はぼやけてきました。
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「儀式的な地理配置」を最初に提唱した考古学者マイクに訊いてみた。
「ストーン・ヘンジには60もの遺体が埋葬されていた。しかしダーリントン・ウォールズには遺体はない。そこは生者の住む場所で、あったのは沢山の住居跡だ。」
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彼の「死者の町と生者の町」という発想はオークニーの遺跡にも当てはまる。
寺院遺跡ネス・オブ・ブロッガーの南にストーンズ・オブ・ステネスがある。
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そこから北に移動していく。
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すると寺院群ネス・オブ・ブロッガーが見えてくる。
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更に北に移動していく。
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リング・オブ・ブロッガーが見え始めた。死者の土地だ!
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寺院群ネス・オブ・ブロッガーは生者と死者の境界ではないだろうか?
南のストーンズ・オブ・ステネスから歩いて岬に向かうとネス・オブ・ブロッガーだ。巨大な壁に囲まれた敷地内に入っていく。
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そこには寺院群がある!最後の儀式の場所で祖先の霊が宿る所だ。
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異なる建物は異なる儀式をしていたのだろう。
火が燃える囲炉裏の入り口を入って身を清める。
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そして中で神や祖先と交信する。
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これらの場所は紀元前3千年に造られた。
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そして1千年の間続いていた。
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しかし、その後、構造物1番、8番、12番は破壊されてしまう。信仰の形態が変化したからだと考えられている。そして、新たに構造物10番が造られた。
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25m四方の大きな建物だ。建物の壁の厚さは5mもある!
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2つの大きな石が立っていた。
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恐らく数Kmはなれた所からも建物の屋根が見えただろう。
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構造物10番は寺院群で最後に造られた大きな建物だが狭い入口が一つあるだけで、人が団体で出入りするような所ではなかった。
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この建物の近くで6百もの動物の骨が見つかった。
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骨に残された切り傷から食糧に使われた動物のものだと判った。1匹の牛は2百人の食糧になる。6百匹となるとすごい量の食糧だ!骨は重なって発見された。恐らく、何かの大きな出来事があり、そのために一度に大量の動物が処分されたのだ!

考えてほしい。6百匹の家畜が一度に処分され1万人が食した。それは通常の儀式などではなかったはずだ!寺院群の最後の日を記念するパーティだったのではないだろうか。その時をもって、昔から大切に守られてきた宗教が終焉(しゅうえん)したのに違いない!

そして全ての寺院は解体されてしまった。それは古い時代が終わり、新しい時代の始まりを意味する出来事だった。宗教が変わったのかも知れないし、政治や統治者が変わったのかも知れない。石器時代から青銅器時代へ変化する時代に、ここに造られた古い寺院群の解体が行われたのだ。

例えばこの斧。以前なら石だったものが青銅になった。
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石が金属に代わると、二度と石器に戻ることは無かった。新しい社会、新しい経済、新しい宗教に変化していった。その時、オークニー諸島は取り残されてしまったのかも知れない。

その後1千年以上に渡り、オークニー諸島で新たな構造物が造られることは無かった。
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1千年以上も続いた寺院群を解体することになったのは大きな変わり目だった。
新石器時代といえば、これまではストーン・サークル遺跡が代表的なものだった。しかしネス・オブ・ブロッガーの寺院群は当時の信仰の形態について新たな側面を見せてくれた。
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この地には生者と死者を結び付けていた宗教があり、農業で生活の糧を得て、祖先を敬いながら生きる人々がいた。魅力溢れる生活が新石器時代に生まれていたのだ。
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以上でYoutubeフィルムの紹介は終わりました。

しかし、不思議な質問は残っています。
「5千年も前に、樺太よりも北の北緯59度のオークニー諸島なんぞに、何故、寺院群を造る能力を持つ人々が棲みついたんでしょうか?」
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更に北のフェロー諸島には1600年前にスカンジナビア半島の住民が、更に北のアイスランドになると、13百年前にケルト人が住んだ形跡がカーボン・デイティングで確認されているとのことですから、オークニーに5千年も前から人が棲みついていたことは奇異に思われます。メキシコ湾流の成れの果ての暖流が近くまで遡ってきていたとはいえ、きっと寒くてたまらなかったと思うんです。なぜ、もっと南の、もっと暖かい土地で暮らさなかったんでしょう?

このブログを作成している今は4月28日です。3日前の25日、ネパールで大地震があり、4千人が亡くなりました。ネパールの首都カトマンズーに人が棲みついたのは1900年ほど前のようです。ヒマラヤ山脈の南に広がる山地の中にすっぽりとできた、標高1300mの盆地で、周りは山ばかり。地震で壊れた住居の多くは山の斜面に造られた、粗末なものが多いようでした。

カトマンズーにしてもオークニー諸島にしても、凡そ暮らすには不自由な場所に人が棲み着くことになったについては、お釈迦様が仰ったように原因があるんですねぇ。因果応報、何事にも原因があって結果があるんです。

で、その原因とは何か?恐らく、外敵から逃れるためだったのでしょう。
ネパールの場合、今から3万年前の旧石器時代に人が住んでいた証拠となる木製の道具が見つかってカーボン・デイティングで年代確認されたって言ってます(wiki)が、その人だって、寒くて、呼吸するのも困難で、食物も魚も採取し辛いカトマンズーなどを好んで選んでやってきたなんてことは、とても考えられません。

仲間はずれにされたか、隣の部落の乱暴者たちに追い立てられ、親しい人たちで助け合いながら這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で逃げ出し、敵が攻め込む気すら起きない不毛の地を選んで棲みついたのに間違いありません!ま、全て想像ですが。

オークニー諸島では寺院閉鎖の打ち上げパーティで沢山の牛肉が振舞われたようですが、牛はどうしてやって来たのか?やっぱ、人間が連れて行ったんでしょう。牛の場合は他の牛から追い立てられ、海を渡って隣の島に移住するってことは考えられませんからね。沖縄なんかでは引き潮になると牛が歩いて隣の島まで行けるってこともあるようですが。

牛を連れて逃げた人たちが行ける行ける島、となると、古代なら筏(いかだ)くらいの船でも渡れる近くの島でしょう。英国本土のグレート・ブリテン島から9km、島を伝えば最大でも5Kmのオークニー諸島なら、5千年前でも牛を引き連れて集団で落ち延びることは可能です。

落ち延びた先で積年の恨みを晴らすために生まれたのが北海を中心とした海賊でした!西暦790年頃、スカンジナビアからイギリスに海賊がやってくるようになりましたが、彼等の祖先は実は、イギリスを追われてオークニー諸島に逃げ延び、その後、航海術を体得してから大挙してスカンジナビア半島に移住し、千年をかけて力を蓄えてから復讐に及んだ、ということが考えられます、全くの空想ですが。

さてさて、いつまでも馬鹿な話を続けていると皆さんからいいかげんにしろ!ってお叱りを受けそうですから、この辺りでお開きとします。次回の不思議をお楽しみに。
(完)

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mh徒然草42:r>gとお釈迦様

今日は4月29日、2006年まで「みどりの日」でしたが「昭和の日」になり、みどりの日は5月4日に移りました。何はともあれ祝日が増えたってことで、どちらかと言えば働き過ぎの日本人が大っぴらに休める日が増えるのは人生を楽しむチャンスが増えるってことだと思いますので、ご同慶の至りです。

で、新聞を見ると自民党の小渕優子衆議の元秘書で群馬県中之条町の前町長折田氏と小渕議員の資金管理団体の未来産業研究会が、収支報告に1億円を意図的に記載しなかったことで在宅起訴された、とありました。小渕議員は「政治的、道義的責任を痛感している」とコメントしたとのこと。

かねがね、ブログの中で政治家の世襲傾向や国民不在の自己都合主義について愚痴ってきましたが、多額の政治資金を脱税したり悪用したり私物化したりする政治家が多い中にあって、小渕優子議員の今回の事件はどんな構図なんでしょうかねぇ。かわいい顔つきで態度や発言は清廉・潔白っていう様子ですから、今回の不祥事は小渕優子議員の父親だった元総理小渕恵三氏が作った政治資金運用組織が、元親分の娘の優子氏(姫と呼ばれていたようです!)のために1億円の政治資金を隠したってことで、優子氏は知らなかったのかも知れませんが、ってことは優子議員にとって1億円は「はした金」で関心もなかったってことでしょう?そうでないと言うのなら、優子氏の意向で資金隠しが行われていたということでしょうが・・・その可能性もゼロではありませんねぇ。

政治家、言い換えると国のリーダー、は日本だけでなく、世界中で我が物放題に振る舞っているのではないかと思います。米国がテロ支援国家に指定し経済封鎖していたキューバ共和国は近々、米国と国交を回復するようですが、国のリーダー(国家評議会議長)のラウル・カストロ氏は前議長のフィデル・カストロ氏の弟です。安倍首相は岸信介氏や佐藤栄作氏など首相経験を持つ家系の生まれだし、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)は金日成(キムイルソン)の孫にして金正日(キムジョンイル)の子供だし、エジプトやミャンマーやタイやラオスなんかでは軍事政権がリーダーとして居座っています。アラブ諸国やブルネイなどでは王族が国家リーダーを継承し続けて選挙すら行われません。韓国の朴 槿惠(パク・クネ)大統領も故朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の子供だし、ロシアのプーチン大統領は退任後、一呼吸おいてから再度、大統領になっているし・・・

で、今回のブログの主題「r>gとお釈迦様」と、ダラダラ書き連ねた「国家リーダーの居座り性向」の関係はなにかってことですが・・・

r>gはフランスの経済学者トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」で有名になった不等式です。
rは資本収益率、gは経済成長率で、経済成長率gより資本収益率rは大きいという公式です。言い換えると「貧富の格差は広がっていく」という指摘です。

ピケティ氏の理論は今年の1月に日本でも話題になり、皆さんもTVや本でご承知かと思います。彼が示した不等式は、世界各国の何十年、何百年にも渡る経済データーをrとgに着目して整理した結果から得られた結論です。

彼が行った代表的なデーター整理は次の通りです。国民を所得額の大きい順に並べ、上位1%の人の所得合計が国民所得合計の何%になるか、を国別、時代別にグラフ化してみたのです。
国民の所得上位1%が国民所得の90%を握る国は、所得上位1%が国民所得の10%を握る国と比べれば貧富の差が大きいということはご理解頂けるでしょう。

所得上位1%の人が牛耳っている国民所得の率(%)が年々大きくなっているとしたら貧富の差が拡大している、つまりr>gです。で、ピケティ氏が調べた結果、どうも、どの国でもr>gが成り立つ、つまり、どの国でも貧富の差は拡大しているってことです。

ネットで調べたら、ひょっとすると日本は例外で、格差は拡大していないのでは?との記事がありました。その主張の根拠は次のデーターです。
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青い線はアメリカで、赤が日本です。
アメリカを見ると、第二次大戦後、右肩上がりで、2010年頃になると、国民の1%が所有する所得は国民総所得の20%近くあります。つまり国民1%の人の平均年収は、残る99%の国民の平均年収の約25倍ある、ということです((20÷1)÷(80÷99)=25)。
で日本は、というと10%で横ばいです。1%の人が10%の所得、ってことは平均的高額所得者の所得は平均的低額所得者の11倍となります。

日本が横ばいか?はデーターの信憑性が不明なので何とも言えませんが、今後も横ばいか?という問いかけに対しては、私は断固として「No!」と主張しますねぇ。つまりピケティ氏の指摘通り、日本でも所得格差は拡大していくしかないと思います、残念ながら。

所得で格差が拡大する原因の一つが教育です。お金持ちほど教育環境は充実していて、貧しければ学校すら行けないから読み書きや簡単な計算すらできない、となれば、貧しい人は誰でもできる肉体労働をするしかありません。誰でもできる仕事っていうことになると給料はどうしても低いんですね。すると、その人の子供は、また不十分な教育環境しか準備してもらえないことになって、肉体労働にしかつけなくなり、所得は低く、ってことが繰り返されると低所得者の家系はいつまでたってもそこを脱出できない、って構図です。

勿論、そうでないこともあるでしょう。低所得者からも素晴らしい頭脳の人が現れて、素晴らしい成果を上げ、よって莫大な所得を得るってことだって事実あります。しかし、それは例外で、平均的に見れば、ピケティ氏の指摘「r>g」は正しいと思います。何故なら、それこそが我が尊敬すべきお釈迦様の指摘したところだと思うからです。

人間は欲望を捨て去ることがなかなか出来ません。欲望を満たすと、更に次の欲望が生まれ、どんどんと膨らんでいきます。一度リーダーのうまみを味わうと忘れることが出来ずに更に次を求めます。そして掴んだ権力は出来れば永遠に保持し続けたいと願うのです。

しかしそれは駄目なんですねぇ。誰も寿命ってものがあって、永遠に生きることは出来ません。権力のトップに立つのは早くて50歳くらいでしょう。キューバのカストロ前議長(89歳)ですらたった32年間トップの座に居座っただけです。諸行無常、盛者必衰、時は移りリーダーの家系もいつかは落ちぶれてしまうのです。

そんな世の中に暮らしていては心の平穏は得られない!ってことでお釈迦様は欲を捨てて出家したのですが、出家する度胸や能力がない我々凡人はどうしたらよいのか?リーダーなんかに立候補しない、って考えもあります。リーダーになっても成功報酬を求めない、ってやり方もあります。お金持ちにならなくても家族や友達と楽しく暮らす方法を見つければ、お金ばっかり追求する政治家なんかより幸せに暮らせることは請け合っても好いです。

「足るを知る」とはお釈迦様か孔子先生のお言葉ではなかろうかと思いますが、今、健康に生きていることに満足し、不幸にして病床にいても家族や仲間がいてくれることを幸せだと思うことができれば、貧富の差なんて気にすることは全くありません。

とかなんとか、偉そうな戯言(たわごと)を並べてみたものの、6月のパミール高原大縦断旅行が定員8人のところ6人集まっただけだが決行する、とS旅行社から連絡あり、さてお小遣いをどこから捻出するか、と算段し始めたところで「やっぱ、お金はもう少しあっても邪魔にはならないかな?」と思い始めています。(このブログは6月19日公開予定でパミール高原横断に旅立つ日です!)

Peter, Paul and Mary - Blowing in the Wind
https://www.youtube.com/watch?v=Ld6fAO4idaI
(完)

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ツタンカーメンの呪い

エジプトの王(ファラオ)ツタンカーメンの墓はナイル中流の「王家の谷The Kings’ Valley」にあります。下のGoogle Earthでナイルに刺された黄色のピンの位置です。
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王家の谷はナイル西岸の砂漠に、東岸は今も残る古代都市ルクソールLuxorです。
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王家の谷の近辺の衛星写真です。一番西(左側)のピンはピラミッド・マウンテン、その北東に王家の谷、その南東にはハトシェプスト女王寺院があります。
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下の写真はGoogle Earthで見つけました。道路の奥には王家の谷。その奥に聳(そび)える三角の山がピラミッド・マウンテンです。
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王家の谷から山一つ隔てた世界遺産ハトシェプスト女王寺院。
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王家の谷とハトシェプスト女王寺院の間にある小高い山の上から全方向撮影したGoogle Earthの連続写真を見てみましょう。
北を12時方向とすると、次の写真は2時方向。遠くに見えるのはナイルです。ハトシェプスト女王寺院へのアクセス道路が見えていますが、寺院は手前の山の陰で見えません。
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次の写真は1時方向。左奥の舗装された道路は王家の谷へ続く道です。
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次は11時方向。中央辺りが王家の谷の中心です。
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次は10時方向。左奥に聳えるのがピラミッド・マウンテンです。
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一方、ナイル東岸のルクソールには、これまた世界遺産のカルナック神殿があります。
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見事な石柱群です!
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ファラオの大きな石像があります。
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ファラオというと立派な髭をもつ像がほとんどですが、実生活では髭は綺麗に剃(そ)られていて、像になる場合だけ付けられていた、というネット情報がありました。理由は"信仰"の一語に尽きるとのこと。「死後の世界で死者たちを裁く役目のオシリス神は残存する美術品の数々に姿を見せているが、その立派な髭は独特で人工的な感じだ。」
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ファラオ像では、これを真似た、というんです。
別の情報も調べて見ましょう。
ある女性のブロガーの記事によると「あれはファラオのお言葉、ご意思を示している」とのこと。
別の記事によれば、髭は王としての威厳を示すためのもので「堂々たるあごひげを生やしている必要があったことから、ツタンカーメンのような若者は、つけひげを着用した。女性ファラオだったハトシェプストも、わざわざつけひげを利用していた。ファラオの像にも、たいていあごひげが描かれている」。
つまり、普段から髭を生やしていたファラオもいたし、髭をはやしていないファラオは威厳を示す儀式などでは付け髭をした、ということのようです。

これまで多くの遺跡に関するブログをご紹介し、その中でもご指摘させて頂きましたが、リーダーは神か、もしくは神と人民を取り持つ神官が多いんです。リーダーっていう人達は、どうしても神の力をバックに持ちたがるんですねぇ。日本の天皇もそうで、神の子孫です。卑弥呼も霊媒者です。イスラム国家のイランもアッラーに仕えるイスラム教指導者が実質的な国家元首です。
つまるところ、リーダーはその正当性を神から与えられたことにしないと収まりが付かないってことではないかと思います。その点、共産主義は神を否定し、国民の意志でリーダーが選ばれるのですから民主的(!?)に見えますが、選ばれた人や党員は、いずれ権力に固執しますから、落ち着く先はみんな同じで、権力の私物化や世襲化は世界の至る所で繰り返され継続されることになります。

話が大分、本題から反(そ)れてしまいました。それでは、いよいよYoutubeフィルム「World of Mysteries – Tutankhamun」の始まりです。
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3千年の間、ツタンカーメンの墓はエジプトの砂漠の砂の下に隠されていた、考古学者が彼の眠りを覚まして恐ろしい呪いの連鎖を引き起こすまで・・・
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呪いは100年も続いている。
「Tutankhamun Curse of the Boy Kingツタンカーメン;少年王の呪い」
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3千年前にエジプトの王が突然死んだ時、その死を巡るミステリーが、あることが切っ掛けとなって科学者の関心を引くことになった。
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1922年、彼の墓が発掘された。その時、彼の呪いが始まったのだ!!!
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エジプトの砂漠・・・アメリカ・テキサス州の2倍の面積がある。
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その砂漠を滔々(とうとう)と流れるナイル。エジプトの命の源となる川だ。
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エジプトは神秘に満ちている。見事なモニュメントも一杯ある。
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偉大な過去を今も見せつけるような寺院・・・
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今から3千年前、エジプトは世界で最も進んだ文明を築き上げていた。
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化学、天文学、文字(ヒエログリフ)、高度な宗教・・・
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そのエジプトで、成功と勝利、恐怖と悲劇をもたらす物語が始まる。
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考古学者がエジプトの砂漠の丘でツタンカーメンの墓を発見した時、彼は素晴らしい宝物も見つけた!
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しかし、その宝物はほんの手始めでしかなかったのだ!!!

ロンドンの西60Kmのハイクリア城。
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女王の守護貴族フォード・クナーベンの居城だ。現城主のクナーベンは8代目になる。
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第5代クナーベン、つまり彼の祖祖父ジョージ・ハーバット・クナーベン。
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ツタンカーメンの墓の発見はこの男のおかげだった。

「祖祖父ジョージは偉大な探検家だった。」
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「競馬、写真、スポーツカー、など広い分野に関心を持っていた。」
(mh:私に言わせれば単なる娯楽や趣味でしかありません。それにしても、羨ましいです!!!)
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1903年ジョージ・クナーベンはエジプトを訪れた。
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当時、エジプトはミステリーで満ち溢(あふ)れていた。
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クナーベンは趣味のカメラで写真を撮りまくった。
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これらの写真は今もクナーベン家に伝わるアルバムに残されている。
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クナーベンは言った「ピラミッドを見るとエジプト人は超能力を持っていたのではないかと思わざるを得ない。」
エジプトが秘めた多くのミステリーとモニュメントはクナーベンを陶酔させていた。そして、そのエジプトでクナーベンは考古学者ハウァード・カーターに出会う。
(下の写真:左;ジョージ・クナーベン、右;ハウァード・カーター)
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カーターは野心家で行動力があり「エジプトで王の墓を見つけて名を成したい!」と考えていた。発掘隊を編成し、3千5百年前に造られたという王家の谷の発掘を進めていた。
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ヨーロッパの探検家たちが150年程前に王家の谷にやって来た時、大半の墓は既に墓荒らしが盗掘済みだった。しかし探検家カーターは素晴らしい墓が一つ残されているはずだ、と確信していた。

詳しく調べるには資金が必要だ!
そこで彼はイギリスのクナーベン城を訪れ、城主に資金提供を依頼した。
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クナーベンは関心を示した。カーターの情熱はとうとうクナーベンから資金援助を引き出すことに成功する。

「3千5百年前の宝物を見つけるのだ。ひょっとすると寝ている悪魔を目覚めさせてしまうかも知れないけれど」
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1907年、王家の谷でささやかだが発見があった。
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KB54と名づけられた場所を発掘していた作業者が、墓の存在を暗示する土器や飾りを見つけた。
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それには「ツタンカーメン」という名が書かれていた!
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この出来事は彼らが墓を見つける12年前のことで、その後、暫くの間、はかばかしい発見は無かった。
1921年、クナーベンは発掘の打ち切りを決めた。これを伝え聞いたカーターはエジプトからイギリスに戻り「もう少し作業を続ければきっと何か発見できる!」とクナーベンを説得した。
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「わかった、もう1年の資金は提供しよう。」

この決断が成果を生み出すことになる。
1922年11月1日、カーター探検隊で働いていた少年が階段を見つけた。
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10年余の作業で最も意味のある出来事だった。何が見つかるのだろうか?カーターは夢を膨らませた。

次の日、カーターは地下に繋がる階段を確認した。
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階段の下には壁があった。
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壁の向うに宝があるに違いない!

イギリスにいたクナーベンは「急いでエジプトに来るように」というカーターからの電報を受け取ると、直ぐに出発することを決めた。

出発の前夜、クナーベンは交霊会を開いた。
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そこで霊媒師は「墓の中には危険が潜んでいる!」と告げる。しかし、クナーベンは忠告を無視してエジプトに向かった。

彼が現場に着くと、直ちに壁の破壊作業が開始された。すると通路が現れた。
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通路の奥には、また壁がある。その壁を見て身の毛がよだった!「ツタンカーメン」とスタンプが押されている!
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この向うに十年以上捜し求めて来た宝物があるに違いない!!!

カーターは壁をハンマーで叩いて穴を明けた。3千5百年の間、闇で覆われていた空間に外の空気が流れ込んだ瞬間だった。
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カーターが灯の付いた蝋燭(ろうそく)を中に入れると吹き消されるように消えてしまった。
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もう一度、火をつけ、中に入れて照らしてみた。僅かな灯に反射するものがある!
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宝物だ!!!
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それも沢山ある!!!
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そこはこの墓の第一の部屋で、黄泉の国で王が必要とする品々が保管されていた所だった。
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(mh:いずれも当時の現場写真です。)
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壁を破壊した丁度その時、カーターがエジプトの家で鳥かごにいれて飼っていたカナリアが、侵入してきた蛇に殺されてしまった!
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それは恐ろしい出来事の前兆だった。

エジプトの王は蛇の飾りがついた兜(かぶと:ヘルメット)を被る。蛇は敵の目に毒を吐きつけて退散させると言われていた。
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カナリアが蛇に殺されたのはツタンカーメンが最初の犠牲者を要求したからなのか?

新聞はこぞって、この事件を取り上げた。墓には「王の眠りを乱すものは死をもって償(つぐな)わねばならない!」と書かれたタブレット(石板)があった!と言う記事も出た、そのタブレットが何処にあったのかは、実は誰も知っていない。いずれにしても新聞は「エジプトの墓には墓を守る不思議な力が蓄えられている!」と書き立てた。

カーターとクナーベンは第一の部屋で多くの宝物を見つけたが棺は無かった。どこかに隠し部屋があるに間違いない!
(CG:中央に第一の部屋、そこから右下隅に延びるのが外部に繋がる通路)
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棺を見つける前に、カーターとクナーベンは、まず宝物を運び出さねばならなかった。
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ツタンカーメンの宝の発見は1920年代で最大の大衆的ニュースになった。
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次から次に運び出された宝はカイロに運ばれた。
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カーターは有頂天だった。夢が現実になったのだ!
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クナーベンは自分のアルバムに保管する写真の撮影に忙しかった。
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第一の部屋の宝を持ち出し終えた処でツタンカーメンの棺の探索を再開した。
彼は必ず近くで眠っている!しかしどこで???

長椅子の下に小さな穴を見つけていた。玄室への入り口か???
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しかし、穴の向こうの第二の部屋は単なる倉庫だった。めぼしい物は何も無い。
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彼等は次に、第一の部屋の右壁に注目した。2つの兵士像が守るように立っている!
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3千年の眠りについている王の玄室を隠した壁かも知れない!
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今度は成功した。壁の向こうの第三の部屋には光り輝く黄金があった!
・・・が、棺は無い。
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しかし、とうとう、彼らは棺の部屋を探し当てる。
第三の部屋の壁を壊すと第四の部屋が見つかったのだ。棺が置かれた玄室だった!
(玄室は下のCGで一番右上隅の部屋です。)
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玄室には更に貴重な宝物があった!
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屏風で囲われた祭壇だ。屏風は3つ折りで、300ポンド(150Kg)の純金で出来ていた。
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その屏風を開けると・・・ツタンカーメンのミイラが現れた!
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見事な黄金のマスクを被っている!
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しかしカーターがミイラに直接対面する前、クナーベンは死んでしまうのだ!

棺発見から10日後、クナーベンは蚊に顔を刺された。誰も気にもしなかった。しかし数日で健康状態が悪化し、クナーベンは王家の谷の町ルクソールからナイルを1千Km下ったカイロのホテルに戻ることにした。熱が高く、血液中毒(blood poisoning)に罹(かか)ったらしい。1923年4月5日の夕方、足を引きずりながら、やっとホテルに到着した。
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その7時間後、クナーベンは死亡する!

奇妙な出来事はこれで終わりではなかった。ナーベンが死んだ時、カイロ中が停電した!
同じ頃、イギリスではクナーベンのペット犬がひと鳴きした後で死んでしまった!

2年後、カーターがミイラの詳細調査をした時、彼はミイラの頬に傷を見つけた。クナーベンが蚊に刺された、丁度同じ位置にある!
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忌(いま)まわしい事件はクナーベンの死で終わりにはならなかった!
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発掘に直接かかわった22人が、元気だったのにも関わらず死んでいった。それはツタンカーメンの呪いなのか?それとも単なる偶然か?

探検隊のリーダー格だったアーサー・メイスは肺炎で死亡した。
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棺桶の蓋を開けた放射線科医は突然倒れて死亡した。原因は不明だ。
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カーターの同僚で墓の発掘に立ち会ったアーサー・キャレンダーは肺炎で死亡した。
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アメリカ人ビジネスマンのジョージ・デイグーは墓に入って24時間後、高熱で死亡した。
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クナーベンの妻カルテス・アルミーナも虫に噛(か)まれて死亡した。
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弟のオブリー・ハーバートは血液中毒で死亡した。
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クナーベンの秘書だったリチャード・ベッソルはロンドンのクラブで不自然死をし遂げた。

ラトゥルの父、ロード・ウェスパリーは呪いに楯突く言葉を吐きながら、城の屋上から飛び降りて自殺した。
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「ウェストバリー卿とファラオの呪い:考古学者の息子の死を嘆いて;自殺の前に書かれた遺書“私はこれ以上、恐怖に耐えられない!”」

ツタンカーメンの呪いの物語は数年の間、世界中で囁(ささや)かれ続けた。
しかし、現在では「ミイラの復讐」とは異なる問題があったのではないかと専門家たちは信じている。
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(ハリウッド映画より;3千年も死んでいるのに、生きている!)

1922年にクナーベンとカーターが墓を暴(あば)いて王の眠りを妨げたから呪いを受けたのだ、というのが大衆の意見だった。それを題材に映画も作られた。

「この棺を開けた者は全て永遠の罪を受けるであろう!」
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「ファラオの呪い」という概念は大衆の心の中に植え付けられてしまった!
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永遠の眠りについている王の墓を暴くのはタブーで、それを犯した者は罰せられる、という話は大衆には受け入れやすかった。マスコミも、一連の出来事を単に宝の発見の話だけで終わらせたくなかった。もっと扇情的な話題を求めていた。だから呪いの話は尾ひれがついて語られることになったのではなかろうか。

「墓の発掘から1週間後にクナーベン卿が死亡したが、その時に物語が始まったのだ!」
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「爆発的に広がるツタンカーメンの呪い:ミイラを包んだ包帯を取り外す作業に立ち会い、今も生きている人たち全員の現状」
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「マリー・コレリ女史は、病床のクナーベン卿の蚊に刺された場所より、ファラオの手相に着目した。 “ミイラを追い求めたことで不幸が起きないよう希望している”と書いた手紙をクナーベン卿に送っていた、と彼女はニューヨーク・ワールド紙に投稿した。」

こんなことがあったりしたものだからミイラの呪いの話は更に膨らんでいった。
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ハリウッドは映画を作って呪いの話を更に掻き立てた。お蔭でクナーベンの名誉は傷つけられただろう。
「タブーを破ったのだから罰せられても当然だ!」

真実はどうであれ、呪いの話でエジプト観光客が減ることは無かった。
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観光客はナイル・クルーズで平穏な時間を楽しみ、古代遺跡を訪れて好奇心を満足させた。
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ツタンカーメンを巡るミステリーはエジプトを訪れる絶好の動機にもなった。
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死者の谷はエジプトロジストと呼ばれる考古学者達が必ず訪れるメッカになった。
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考古学者たちは呪いを見つけに来るのではない、古代のエジプトの様子をもっと知ろうとして訪れるのだ。

イギリス人科学者ドドゥソンもその一人だ。
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彼は呪いには関心はない。ツタンカーメンの生活と、多くの考古学者が関心を持っている、王が死に至った理由、を知りたいと考えていた。
彼はルクソールから調査を開始した。テーベと呼ばれていた首都だ。恐らく世界で最も有名な町だった。
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ルクソールはナイルを挟んで王家の墓の対岸にある。
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ツタンカーメンの時代でも、ナイルはエジプトで最も重要な役割を果たしていた。ツタンカーメンの死後に行われた儀式でも重要な役割を果たしたことをドドゥソンは知っている。
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彼はルクソールにあるカルナック神殿でツタンカーメンを知るために重要なヒントを見つけた。この神殿は200エーカー(注)もあり、今でもエジプト最大の寺院だ。
(注:1エーカーは約4千平方メートルですから200エーカーとなると1辺が900mの正方形の面積と同じです!)

かつてエジプトの王はここを歩いた、169本の石柱があったホールだ。
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今は年間数百万人の観光客たちの関心を惹き付けている遺跡だ。
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彼は、若きツタンカーメンがどんな男だったのか、なぜ彼は死んだのかを確かめようとしている。
数百年の間、ツタンカーメンについてはこの像でしか知られていなかった。
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彼の名と彼の生きていた時代については知られていたが、どんな人間関係を持つ男か、何歳で死んだのか、などについては誰も知らなかった。しかし彼の墓の発見は多くの疑問を解き明かしてくれた。最も重要な情報を持っていたのは彼の遺体だろう。特に科学者にとっては重要な情報源だった。

「エジプト人は“死ぬと体は現世に残り、精神は来世を生き続ける”と信じていた。だから体は永遠に保存され続けねばならないと考えた。これを成し遂げるため、特殊な儀式を考案した。王が死ぬと死体はナイルを横切ってルクソールの対岸に運ばれた。それは生の世界から死の世界へ、日がいずる現世から日が沈む来世への旅立ちだった。」
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対岸で死体にミイラ処理が施された。

対岸にある町。この町全体がネクロポリス(necropolis)つまり死者の都市だった。今でも1万以上の死体が埋められている。
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ミイラ処理ではまず、全ての内臓を除去する。
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脳みそは鼻から取り出す。
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細い金属の棒を鼻から頭蓋骨の中に差し込んで明けた穴から脳みそを取り出し、最後に水で洗い流していた。
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その後、体全体を塩漬けして脱水する。
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最後に体全体をリネン(注)で包む。
(注:リネン;フラックス(亜麻)という草の茎から作る麻)
ツタンカーメンもこうしてミイラ処理され、3千年の眠りについた。

ツタンカーメンは殺されたのかを調べるために科学者ドドゥソンは彼の墓を訪れた。出来れば、誰が、何が、彼を殺したのかも知りたかった。(mh:棺は今でも昔からの場所に残されているようです。)
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ドドゥソンは、墓がほかの王たちのものより小さいことに気付いた。恐らく、王の死が突然だったからに違いない。
しかし、もっと重要だったのは王が20歳に到る前に死んでいることだ。
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1960年まで、何故死んだのかを示すものは見つかっていなかった。
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1968年、発見後初めて、遺体(ミイラ)を詳しく調べることになった。リネンの布が取り払われた。
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ツタンカーメン王の頭は体から取り外された。
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そしてX線で調べられた。
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科学者は妙なものに気付いた。後頭部にできた小さな傷だ。何かが強く当たって出来たものだ。
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彼は殺されたのではないだろうか?としたら、誰が、何のために殺したのか?
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3人の候補者がいた。一人目は神官のアイだ。ツタンカーメンの後に王位に就いた。
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二人目の候補者ホルエムヘブ将軍はアイの後をついで王位についた。
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もう一人の候補者はツタンカーメンの妻、アンケセナーメンだ。
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なんと言っても最有力候補はアイだ。ツタンカーメンが王だった時、彼は軍隊のリーダーだった。彼はツタンカーメンの死後、なんの血縁もないのに王位につく。墓の壁に描かれていた絵はアイがこの後ろめたさを隠そうとしていることを暗示している。ミイラになり、白いリネンの布に包(くる)まったツタンカーメンがアイに王位を譲る様子を示す絵だ。
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こんな様子を描いた絵はエジプトの長い歴史の中でもこれだけだ!アイは、自分が王位についたことの正当性を示したかったのに違いない!
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アイは殺人の動機を持っているように思える。アイに殺された可能性は高い!

しかし、他にもツタンカーメンの死を説明することもできる。滑って転んだり、狩りなどで怪我をしたり、戦いで怪我をしたりして死んだのかもしれないのだ。

どんな原因で死んだにしろ、ツタンカーメンは膨大な量の宝物とともに埋葬された。そのこと自体が呪いを産み出すことになったとも言える。
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旅行者にとってエジプトはアフリカの中でも最も人気の場所だ。彼等の重要な滞在地は言うまでも無く首都カイロだ。
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人口1千7百万人。世界でも最大の都市の一つで人口密度も最も高い。
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30年前、人に溢れて喧騒なこの町が一連の事故死に襲われた。人々はツタンカーメンの呪いではないかと口にした。

1922年に墓で発見された宝物はカイロのエジプト博物館に移されていた。
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博物館の展示物は3分の1がツタンカーメンに関するものだ。
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それらは、かつて、狭い墓の中に詰め込まれ何千年もの間、保管されていた。
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そしてこれが、世界で最も価値があるものの一つだ。何百万人もの人がこれを見て感嘆する。
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黄金のマスクだ。道具を使ってツタンカーメンの頭から取り除かれたものだ。
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今はカイロの博物館に戻されている。しかし1970年、世界旅行に出たことがあるのだ。

ツタンカーメンの呪いがまた始まるのではないか、と人々は噂し出した。博物館の骨董品責任者は、ツタンカーメンの宝はエジプトに置いておかねばならない、と信じていた。会議を終え博物館の前の道路を横切ろうとした時、彼は車に跳ねられて即死してしまう。

1972年、後任のガムエル・メツレズ博士はカイロから英国に宝を運び出す手はずを整えた。そして次の日の夜、心臓発作で死亡した。
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ロンドンに宝を運ぶ飛行機の操縦士や機関士の3人は、家が火事にあったり、事故で片足が不自由になったり、心臓発作で死亡したりした。
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今、ツタンカーメンの黄金のマスクはエジプト博物館で展示されていて、ツタンカーメンの呪いについても心ゆくまで調べられる状態になっている。
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サリマ博士は言う「ツタンカーメンの墓は黄金で一杯だったので大勢の関心を引いたのよ。」
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「宝の発見以降、エジプトを初めて訪れる欧米人も多くなって、その人たちの中には、エジプト人は古代からの知恵の積み重ねのおかげで信じられないような不思議な能力を持っているって思う人が多かったの。」
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もしそれが真実ならミイラの呪いだってエジプト人なら引き起こせたに違いない。
確かに、昔のテキストの中には、墓を荒らした者の所に特別な鳥や動物がやってきて呪い殺してしまう物語が描かれているものもある。
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この類(たぐい)の話は、それを信じる人々に対しては効果的だが、そうでない人には全く効力がない!

彼女は“これまでの色々な事件は単なる偶然で、不思議な力が引き起こしたものではない”という。
「クナーベンが死んだ夜に停電になったというけど、カイロの停電は当時なら頻繁に起きていたの。今もしょっちゅう起きてるわ。ペットだって、今まで一緒だった主人が外国に行ってしまうと、死んでしまったのではないかと落胆して、体調を崩して死んでしまうことだってあるはずだわ。」

発見から50年後、宝はアメリカに運び出された。
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この時も呪いの話は世間を騒がせた。次のような出来事もあった。
アメリカのある人からエジプトにミイラの欠片(かけら)が送られてきた。“昔、爺さんがエジプトを訪れた時にミイラの小さな骨を買って持ち帰った。でも、その呪いで自分が死ぬのでは、と心配になったので、骨はエジプトに返したい”とのことだった!

不思議な出来事は最近ツタンカーメンの墓を訪れた人にも起きている。
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ツタンカーメンのミイラは当時の様に復元された黄金の棺の中で眠っている。
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1992年、歴史家クリストファーは、人々の間で話題だった少年王ツタンカーメンのTV番組撮影で6週間、エジプトに滞在していた。
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クリストファーは言う「私はツタンカーメンの墓の中で解説を始めたんだ。」
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「その際中に全ての光が突然消えて完全な暗闇になってしまった!」
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「出口がどこかもはっきり覚えていない墓の中の暗闇にいると誰だって冷や汗ものだよ。幸い、その時は何事も起きなかったけどね。」

「その後、撮影メンバー全員と一緒にカイロのホテルの26階の自分の部屋に戻ってから、外に行こうとエレベータ(英国人ですからリフトと言います!)に乗ったら、下がり始めて直ぐに“ドウィーン”と妙な音がして下降速度を速め、そのうちガタガタッと音をたてて止まってしまったんだ。ボーイがドアを道具でこじ開けてくれたので助かったけど、本心を話すと、びくびくだったね、背中にツタンカーメンがいて私を刺すのではないかと思ったよ。」

しかし、墓を暴(あば)いた後に起きた多くの死については、他の説明もあるはずだ。
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「他にも理由があるよ」という専門家がいる。ミイラの保存作業や調査をしているナズリ博士だ。
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「私は呪いなんて信じていないね。奇妙な事件も全て呪い以外の理由で説明はつくよ。」
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ナズリ博士はこれまでに何百ものミイラの調査を手掛けて来た。数えきれないほど墓にも入っている。
今は3千年前のラムゼイ二世のミイラの保存作業をしている。
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これまで27体の王のミイラを手掛けた、一つの注目すべき例外を除いて。
「我々はツタンカーメンのミイラをこの研究室に連れてきたことはない。それは今でも、昔からあった場所に保管されている。」
「これまでの経験によれば、長い間、墓の中の狭い空間に閉じ込められていると酸素が使い果たされ、微生物がミイラの中で冬眠している可能性がある。しかし、墓に風穴があけられた瞬間、状況は一変する。流れ込んだ大気中の酸素はバクテリアなどの微生物を活性化する。そして墓を初めて開けた時に立ち会っている人々の中でも体力に欠けた人を攻撃する。恐らく、これが、墓の発掘に立ち会った人々の特に年配者が病気になる確率が高い理由だ。私たちはミイラと共に30年以上仕事をしているけれど、メンバーの中では誰も問題は出ていないよ。」

バクテリア以外で致命的な事故を引き起こすものはないのだろうか?
歴史学者クリストファーは言う「ミイラを造る過程でウラニウムを多く含む物質が使われていたようだ。有る種の岩は沢山のウランを含んでいる。王家の谷にもウランがあった。いくつかの墓で強い放射能が確認されたこともある。」
「ある科学者は、古代のエジプト人がミイラ処理でも放射性物質を使ったのではないかと、その証拠探しをしたことがある。TV番組で、カイロ大学でガイガーカウンターを使ってミイラの体を調べたものがあるんだ。」
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「体のある場所で、カウンターが急にバズバズッて音を立てたんだよ!でも私は、墓の発掘に立ち会った人たちが放射能で病気になったとは信じていないがね。」

今でも少年王ツタンカーメンとその呪いはミステリーに覆(おお)われている。ミイラの呪いの話にはもうあきあきしたよ、と人々は笑い飛ばすだろうが、いざその時になると少し気になる時だってある。
旅行者が王家の谷に入るのをやめた、という事は起きてはない。しかし、そこには今もミステリーが残されているかも知れないのだ。
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以上でYoutubeフィルムは終わりです。

World of Mysteries – Tutankhamun
https://www.youtube.com/watch?v=gG9nXFy0pPU
(Copy Right: Pioneer Productions 2002)

今回紹介したフィルムは2002年に作成されたようですが、当時でもツタンカーメンの呪いは作り話だとの見方が主力でした。しかし、マスコミやハリウッド映画界では、話題性がある少年王の墓の発見と、それにまつわる関係者の死を、ミステリーのベールで包んで歓心を引こうと、ことさら大袈裟に騒ぎ立てたというのが実情でしょう。その後の冷静な調査によれば、墓を掘り出した時に立ち会った人達は亡くなるまで平均で24年も生きているようです。
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ネットには次の情報もみつかりました。
「Christine el-Mahdyによると、ファラオ(王)の墓に踏み入った人は、命を吹き返したミイラに攻撃される、という話は1世紀にエジプトにいたアラブ人が言い始めたことだ。」
「小説家Marie Correlliは、クナーベンが死ぬ前に新聞社に宛てた手紙で次の様に述べている。
“永年、特別に厳粛に保存されていたエジプトの王の墓に踏み入り、彼の所有物である宝物を盗み出すと、何らかの危険が及ぶであろうと考えざるを得ない。私が持っている、極めて珍しい本【ピラミッドに関するエジプトの歴史】これはアラビア語のテキストだ、によれば、封印された墓に最初に侵入したものは悲惨な罰を与えられるという。その本によれば、気付かないうちに健康を害してしまう秘密の毒が箱(棺?)に入っているという。だから私は「クナーベン卿を苦しめているのは蚊が刺したからなの?」と訊いたのよ。”クナーベン卿が死んだ時、彼女の指摘は正しかったことが明らかになった!」
「シャーロック・ホームズを産み出した推理小説家Sir Arthur Conan Doyleは「クナーベンはファラオの呪いで殺されたと確信している」と述べたので、マスコミはこぞって、それが事実の如きに騒ぎ立てた。」

「しかし、誰もが呪いを信じたわけではない。「King Solomon’s Minesソロモン王の黄金」の作者Sir Henry Rider Haggardは呪いという人々の考えに対し「それは危険な見方だ、世に蔓延(はびこ)っている迷信を増長させてしまう」と言っている。」

「墓を整理している時に、マスコミを遠ざけていたいとクナーベン卿が考えていたのは誰もが知る事実だ。唯一「Times」社にだけ、墓に入って撮影することを許可していた。このことは他のジャーナリスト、特にThe Daily Mailで最も著名なWeigallを怒らせた。彼は「墓は呪われている」との記事を発表した。ある新聞社は「墓の入り口には次の予言がヒエログリフ文字で彫られている!」と発表した。
「この神聖な墓に入った者には直ちに死の翼が訪れるであろう。」
しかし、ツタンカーメンの墓でそのような事実は見つかっていない!」
(完

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mh徒然草41:AIIBへの対応は?

今日は4月20日。TVワイドショーではAIIBアジア・インフラ投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank:AIIB)が話題になっています。AIIBは中国主導の国際銀行で、フランス、イギリス、ドイツは設立に賛同して仲間に加わることを表明していますが、米国、カナダ、日本は態度を保留しています。日本の経済界は、加わらなければ日本企業が東南アジアなどでビジネスチャンスを失うことになる、と懸念しているとのこと。

あるコメンテーターは「銀行の設立目的に“中国による、中国のための”って書いてある」と言ってましたが、本当なんですかねぇ?念のため、ネットで確認してみましたが、具体的に決まっていることは少なく、設立目的すら明文化されていないようです。恐らく“中国による、中国のための”は事実ではなく中傷ではないでしょうか。

しかし、先進7ヶ国会議で「不透明なAIIBへの参加は慎重にしよう(参加を見送ろう)」と決めたにもかかわらず、イギリス、フランス、ドイツが参加を表明したことで、アメリカや日本は浮足立っている感があります。欧州の先進3カ国が参加を決めたのは、中国国内での3ヶ国の利益を確保するには中国に従う姿勢を示す必要がある、と考えたからではないか、と言われています。つまり、もしAIIBに参加しなければ、今後、その国から中国への設備投資は制約する、または拒絶する、という嫌がらせを受ける恐れあり、と考え、大きな消費市場の中国から締め出されるのは困るから、ここは中国の顔を立てておこう、という考えのようです。

日本の経済界も中国市場での嫌がらせを避けるためAIIBへの参加を暗に支持しているようですが、日本政府もマスコミも心配しているように、中国がAIIBの投資決定権を握って、投資方針や投資事業への参加企業の決定で中国の考えや企業を最優先する可能性は無視できないし、AIIDがお金を貸し付けても、それを使った事業で採算割れすれば、貸付金が焦げ付いて、返してもらえなくなる恐れがあって、それを回避する経営能力が中国には蓄積されていないから、AIIDに日本が投資するのは危険だ、という見方も的を射ているように思います、これまでの中国のやり方を見ていると。

はっきり言えば、中国のように信用できない国が指導権を持つ銀行には投資できないよ、ってことですが、さすがに国際的関係を考えると、そんなことはおくびにも出せません。
(mh“おくび”って何か確認したら“げっぷ”っていう意味でした!)
ということで面と向かって非難することをせず、信用ならないとか、中国に偏った投資になるのではないだろうかとか、運営が不透明だとか、まだ始まってもいないし運営綱領すら決まっていないうちからAIIBをこき下ろすような中傷を無責任に言いまくっているマスコミや政府のやり方っていうのは、どうも男らしくなくて、卑怯(ひきょう)で、好きになれません。

そんなにグズグズ言ってるのなら、入らなくていいよ!って中国から言われるはめに陥(おちい)るのは自明の理ですが、日本に言わせれば、もともと参加するつもりなんかないんだよ!ってことになるのでしょう。だったら、グジュグジュ言う必要はなく、静観していれば好いではないですか!!!日本政府や日本のマスコミの、こういった態度は、私みたいに単純な男には全く理解できません。

中国が他国の繁栄を優先することは考えられないと思います。数日前、たまたまラオスの開発事業の特集をTVで見ました。中国国境に近いラオスの小さな村に中国の援助でカジノの町が造られ、一時は大勢の中国人観光客(ギャンブラー)もやって来て、ミニ・ラスベガス(規模はアメリカの千分の1以下でしょう)が出来上がったが、今は閑古鳥が鳴いていて、建物は荒れ放題という有様でした。更には、ラオスを流れるメコン川でのダム建設、ラオスの首都ヴィエンチャンの近の一大リゾート建設、といった大型プロジェクトが進行中で、工事は中国人が指揮し、作業者も中国人が多く、中国の田舎で中国人が一大建築事業を進めているような印象を持ちました。工事サイトの近くで暮らすラオス人にインタビューしていましたが、彼等は、何の恩恵も受けていないし、生活が脅かされるだけでは、と心配していました。

ラオスに対する日本人の関心は薄いと思いますので、念のため政治体制を確認しておきましょう。
wikiラオス;政治
憲法の前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党独裁制(一党制)が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。

つまり共産党の軍事政権が実権を握っているのです。中国よりも非民主的な国家で、アジアでは最貧国の一つになっています。2011年度一人当たりGDPランキングでは、日本17位(46千ドル)、中国90位(5千ドル)、でラオスは143位(1千ドル)です。
因みに1位から5位は次の通りでした。1位 ルクセンブルク(115千ドル)、2位 カタール(98千ドル)、3位 ノルウェー(97千ドル)、4位 スイス(83千ドル)、5位 オーストラリア(66千ドル)

で、言いたいことは何かというと、中国がラオスで建築を進めている、カジノの町、ダム、リゾートの建設費用は、推定ですが、中国がラオスに貸し付け、中国の企業に工事を発注し、完成したものはラオスが使って、そこから生まれた利益の一部で中国に返そう、っていう計画だと思います。しかし、カジノは中国国境近くのジャングルというか高地に突然生まれた町で、今では住民は極くわずか。ダムは発電で利益が出るでしょうが、電気以外の効果、例えば耕作地の拡大、がなければ電気代だけで建設費用を返還するのはとても無理でしょう。リゾート地に至っては、ラオスの中流階級が買える売価になるとは思えず、ひょっとすると軍部トップが住む天国のようなタウンになるのではないかと思いますが、その場合は住宅費は国費で、つまり税金で、賄われるでしょうから、ラオス国民の負担ばかりが増えていくのです。
そしてとうとう、中国は、借金の肩代わりとして、ラオスの国土を中国化していくことになるかも知れません。考えると、ラオス国民にとっては自国の共産党軍事政権より中国の共産党非軍事政権の傘下に入る方が幸せかもしれませんから、一概にラオスの中国化が悪いとは言えませんが、こういった出来事がAIIBによって加速する可能性は高いと見た方がよいでしょう。

それを、日本のマスコミが言うように、AIIBに参加して内部から監視すべきだ、という考えは子供じみていると思います。中国の力はもっと大きく、AIIBでの出資比率も断トツに多いでしょうから、日本が脇から口出ししたって動じるとは思えません。
このような中国の独善的行動は事前に予想されているにも拘わらず、中国周辺各国はAIIDへの参加を決めています。彼等は、いろいろリスクはあるが、とにかくAIIDから自国に投資を引き出したいと考えているのです。

日本は、中国と比べれば口先だけでお金は出さない国になっています。そこへいくと、カジノだって何だって、当の政府が望めば屁理屈を並べずに直ぐお金を出してくれる中国は、日本なんかよりもずっと友好的に見えるに違いありません。

こうして、世界の経済は、良きにつけ悪しきにつけ、中国を中心に動いていきます。そんな動きに対する我が国の方針は何か?それは日本自らが考えて実行することであって、中国がどうだ、こうだ、と批判し非難する態度は不甲斐ない上にみっともない!と私は思うのです。

Rita Coolidge - All Time High
https://www.youtube.com/watch?v=jnoViygYv68
(完)

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アステカ文明の不思議

メキシコ・シティ。2千5百万人が暮らす世界でも最大の都市の一つだ。
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しかし、かつては未開の地だった。周りを山脈や火山に囲まれた湖や湿地帯が広がっていた。
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14世紀になるとメシカと呼ばれる人々が住み着いた。彼等の名前からメキシコという名が生まれた。
しかし、メシカよりもアステカの方が聞き慣れているだろう。中央アメリカで最大の帝国を築き上げた人々だ。
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彼等は、それまでなかったような強力な帝国を打ち建てたが、僅(わず)か200年で地上から去ってしまった。しかし遺跡や、独特な宗教的社会を記述した記録は残された。
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mh:アステカ文明ではピクトグラム(Pictogram絵文字)が使われていたようです。この文字で書かれた経典(テキスト)のようなものは沢山あったのですが、征服者スパニッシュ・コンキスタドールやスペインからやって来たキリスト教宣教師達によってほとんどの本は燃やされてしまいました、邪教だということで。残った本は、たったの数冊です。
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暗黒で塗りつぶされた面もある社会だった。恐怖とともに暮らしていたのだ。
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世界のどの歴史にも現れたことがない程の大規模な生贄の儀式が行われていた!それはアステカ文明の最大の特徴とも言えるだろう。
人の生贄という恐ろしい行為が、どうして文明化した社会で行われ続けていたのだろう?
アステカ人とはどういう人々だったのだろう。

「血と花Blood and Flowers:アステカの探求」
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1519年スパニッシュ・コンキスタドール(征服者)はメキシコ湾岸に到着した。アステカの話を漏れ聞き、宝物を盗もうとやってきたのだ。
初めてアステカ帝国の都テノチティトランを見た時、彼等はその美しさに打たれ、夢ではないかと疑った。そしてこの地を「アメリカのベニス」と呼んだ。
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当時、アステカの首都テノチティトランは湖の中の島に在った。日曜日はこのように人々が船で乗り出して楽しい時間を過ごしていたに違いない。
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人口20万人のテノチティトランは世界で最大の都市の一つだっただろう。現在の首都メキシコ・シティはこの都市の上に建てられている。
メキシコ・シティは、5百年前のように今も花で満ちている。
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花は儀式で使われていた。その儀式は、さすがのスペイン人をも震え上がらせる。
「我々は生贄のため神殿の階段を引きずられながら登っていく男をみた!」
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「祈祷師は男を石の台の上に仰向けに寝かせ、ナイフで心臓を抉(えぐ)り出した!」
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「心臓は彼等の神の偶像に捧げられ、心臓を切り取られた体は階段からけ落とされた!」
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これらの記録を解析した専門家は言う。
「アステカで行われていた生贄はエイリアンの行為そのものだ。つまり我々と同じ人間がしたことだとは思えない!そうなった経緯(いきさつ)は推定するしかないのだが、その行為自体が政権の儀式芸術と考えられていたのだろう。」

なぜ、このように残虐な儀式が行われるようになったのか?そのヒントは、アステカ人がこの地に来た時に発見したものにある。

実は、彼等は北方のインディアンだった。南に旅をしていた。
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そして湖に浮かぶ島にやってきた。
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すると、そこで鷲が蛇を銜(くわ)えてサボテンの上にとまるのを見た。伝説によれば、それは預言通りだったのだ。
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そこで、その場所を都とすることに決めた。
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mh:この逸話はメキシコの国旗に残されています。サボテンの上の鷲は蛇をくわえています。
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島から50km北でアステカ人はテオティワカンに出会った。
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彼らが見たのは偉大な幽霊都市だった!彼らより千年以上も昔から暮らしていた人々はどこかに消え失せ、誰も住んでいなかった!

しかし、テオティワカンに残されていた建築物はアステカ人に思想を植え付けた。
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彼らはピラミッドに彫刻されていた神を自分たちの神として受け入れた。雨の神と、羽が生えた蛇の神だ。しかし、羽が生えた蛇の神は、アステカ人に悲しみの歴史をもたらすことになる。
(mh:テオティワカンや羽が生えた蛇は10月20日のブログを参照ください。)
いずれにしても、アステカ人はこの都市に魅かれた。自分たちの祖先の都市だと考えた。
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アステカ人によれば、太陽の4つの状態を経て世界は造られたという。
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その4つ時代のシンボルが描かれた「太陽の石」。直径3.6mで厚さ1.2m、重量は24トンもある。
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1790年、メキシコ・シティの中央広場の地中で見つかった。
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中央に太陽の顔がある。
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その口には生贄用のナイフが刺されていた!
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伝説によれば、4つの時代は数万年続いた後に破壊され消滅している。
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第四の時代が終わると世界は暗黒で覆われてしまった。
そこで神々はテオティワカンの神殿に集い、火を焚いて新しい太陽を創り出す。
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太陽に命を与え、空を移動して世界を隅々まで照らすよう願った神は、自らを生贄として火の中に飛び込み、心臓を切り出して太陽に捧げた。その時に流れ出た血はアステカ文明の夜明けとなる第5の太陽を創り出した。
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つまり犠牲や生贄は太陽が毎日のぼるための補償だと信じていたのだ。
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犠牲や生贄の風習はアステカ文明で有名になっている出来事だが、実はそれ以前にアメリカで生まれたテオティワカン、マヤ、ト-テックスなどでも行われていた。
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太陽は沈むと二度と現れない。だから太陽を宥(なだ)めておく必要がある、とアステカ人は考えていた。宥める方法の一つが犠牲や生贄だ。

敵対する部族に囲まれていたアステカだが、自然に恵まれ、肥沃な環境の中で力を蓄えていった。
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500年前もアステカ人が暮らす土地からは偉大な山がはっきり見えていた。
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メキシコ・シティから50km離れた場所にアステカ人の信仰を産んだ場所がある。寺院のモデルも見つかっている。
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祈りとともに、花、食べ物、人間の血などが捧げられていた場所だと考えられている。
血が流れる溝と小さな溜まり場が彫られた石もある。
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これらの遺跡はみんな偉大な山の方向を向いて造られている。

アステカ人は湖や湿地を灌漑し、塩水が溜まっていた場所には新鮮な水を引いて耕地を広げていった。チナンパス(浮いている庭)と呼ばれる、メキシコ・シティ周辺の畑は、アステカ人が初めて開拓したものだ。
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今でも昔から行われていた方法で農作業をしている。
水路の底に溜まった肥沃な土壌を掬(すく)い取る。
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それを台地に撒(ま)いて耕地とし、作物を造る。
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こうして造られた肥沃な耕地チナンパスは当時の都テノチティトランに住む人々にとって「パンの籠(Bread Basket)」だった。
しかし、雨が少なければ収穫は落ちる。そんなことが起きないよう雨乞いの儀式を捧げるため、ミニチュア寺院を造って、神への忠誠を表した。寺院は「雲(雨)を造る山」と首都テノチティトランを結ぶ直線状上に配置されている。

アステカ人が「翡翠(ひすい)の様に貴重なもの」と呼んだ首都テノチティトランは湖の中の島にあった。
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そこに、彼らは偉大な寺院テンプロマヨールを造った。
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この寺院には、雨の神と戦いの神が祀られていた。
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そこで生贄にされ心臓をえぐられた死体は階段の下にある石に向けて蹴(け)落された。
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石は直径3.3mで、「太陽の神の軍人」によってバラバラに切り裂かれた「月の神」が彫られていた。
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石は、偉大なピラミッド「テンプロマヨール」で1978年に見つかった。
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この発見の後で偉大な寺院の発掘は開始されている。
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階段は狭くて急勾配だ!これなら死体も途中で止まらず一気に転げ落ちただろう。
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アステカの首都テノチティトランは発達を続け、市場は人と物で溢れていった。
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同じ場所で今でも人々は日常用品や食料の全てを手に入れることができる。
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どんなものが寺院に捧げられていたのかを知ろうと、1990年、科学者たちは、偉大な寺院の土壌を採取して分析を始めた。驚くべき結果も見つかっている。

50種類を超える植物が検出された。小麦粉や種子が重要な食材だった。135種類もの豆類も捧げられていたことが判った。
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動物や植物などで出来た飾りも見つかっている。
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雨と水の神。
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翡翠(ひすい)のビーズは水滴を表している。
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蛇の頭・・・
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アフリカのエジプトに造られた寺院が、身内や関係者だけが集まって祈りを捧げる、いわば内側に向いた寺院のシンボルだとすれば、メキシコの寺院は劇場のような存在で、自然や日常の生活の様子を人々に見せる、外側に向けられた寺院のシンボルだと言えよう。
その、劇場とも言える寺院に展示されていた石の像。リークエと言う名の地中の神だ!
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高さ2.4mで、重さは12トンもある!

「途方も無い石の塊だ!何を使おうが貫くことは出来ない!男でも女でもない!原始的な芸術品とも言える。現代人から見ればエイリアンだ。人間とは全くことなる怪物だ。しかし、自身の存在を強烈に主張している!“お前たちと私とは違うのだ。それを忘れるな!”と言っているのが聞こえるようだ。」

血の流れた跡を象徴する2匹の蛇(serpent)が首に巻かれている。
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この像が持つイメージはアステカ人の生と死の概念を理解する鍵だ、とある考古学者は主張する。
肉体は血が無ければ活動できない。つまり血は神から与えられたものなのだ。
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彼等は儀式の中で血をどのように扱っていたのだろうか。偉大な寺院のそばで見つかった建物がそれを語ってくれる。
ここは鷲の戦士の寺院だと考えられている遺跡だ。
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ここで像が見つかっている。頭に鷲の面を載せ、統治者と同じ服をまとっている。
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更に中に進んでいくと2つの恐ろしい像が並んで立っていた。
死を司る神と神聖な場所を守護する神だ。
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ここでどんな儀式が行われていたのか?考古学者と科学者が共同で調査している。
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床の漆喰(しっくい)を採取し、含まれている物質を検出する。
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香が炊かれていたようだ。儀式の前に室内の大気を純化するためだろう。
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科学者は血の痕跡を見つけた。大量の血が流されていたのだ。
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絵画はかつてサボテン(?)の花があった場所を示している。
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その棘(とげ)で自らの舌や耳を突いては血を流し、神に捧げていた!
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使われたと思われる棘が見つかっている。
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このような自己犠牲や生贄はアステカでは一般的に行われていた。
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このレリーフは戦士がサボテンの花に向かって進んでいる様子を示している。生贄の儀式を行おうとしているのだ。
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多分、アステカの指導者も自らの血を捧げるためにやってきただろう。
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流された血の跡は「死の神」の周りに沢山見つかった。
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記録に残されていたように、きっと大量の血を死の神に掛け流して捧げていたのだろう。
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この儀式は、一人の指導者の死と、後任の指導者の就任を記念して行われていたと考古学者たちは考えている。人間界における生と死のサイクルが永遠に続くことを確認する儀式だった。

こうした儀式が神に認められたのだろうか、北からメキシコの地に移住してたった150年で、アステカはメキシコ湾から太平洋まで広がる帝国を築くことができた。その60年後にスペイン人がやって来た時にはガテマラにも拡大していた。
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アステカ帝国は征服した土地の住民には宝物を差し出すよう要求した。
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翡翠、トルコ石などの宝物が偉大な寺院の近くで見つかっている。
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アステカはビラミッド型の階層社会だった。頂点には軍隊を統率するリーダーが君臨していた。
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統治下の人々から多くの生贄(いけにえ)を召し上げ、神に捧(ささ)げていた。その一方で、アステカ部族からも生贄や犠牲者を捧げていた。つまり、アステカ人にとって、生贄や犠牲は名誉だったのだ。
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しかし、アステカに敵対する部族には、受け入れがたい、致命的なものだったはずだ。
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血は土地にしみ込んで土地を潤し、花を育て、命を育み、そして季節は巡る、というサイクルを信じていたアステカ人は、生贄の儀式という習慣を見る限り、野蛮で非情な人々だったという非難は当てはまるだろう。
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そうは言っても、この時代には、スペインやイギリスなど世界のあちらこちらで、異端者とか政敵とかいう理由から打ち首やさらし首にされた人は多い。アステカ人だけが特別だったというのではなく、彼らにも他の国の人々とおなじ人間的な面があったのは間違いない。つまり、アステカの血と花で飾られた歴史は、アステカ人が奇異な種族だったからというのではなく、人間の複雑な精神面の一つの現れだったと考えるべきだろう。
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アステカ人の優しい心情は彼等の芸術に現れている。「この世に生まれたのは生きるためではない。静かに眠り、夢を見るためだ」という美しい詩も残されている。
そして彼等は花を愛していた。「春になると草は緑になり、花は開く。すると我々の心も花のように開き、そしていつかは死んでいく。」
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詩は音楽であり、喜びであった。このように詩を愛し、花を愛(め)でる一方で、肉体的な犠牲や生贄を捧げ続けた。彼らにとって、生と死は常に一体だった。血の儀式はアステカを支える柱だった。
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1450年、それまで4年続いた飢饉は最悪な状態を迎えていた。
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アステカ人が残した記録によれば数千人が病や飢えで死んでいった。恐らく、神はもっと多くの生贄を要求していたに違いない。

偉大な寺院の近く、今はマーケットがある場所のそばで、考古学者は恐ろしいものを発掘した。飢饉のあった年に起きた出来事の跡だ。
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寺院の下の段をおりた場所に子供の遺骨40体を見つけた。
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骨は神への捧げ物と一緒に見つかった。
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偉大な寺院でも同じ時期に捧げられた子供の犠牲者の骨が沢山見つかっている。子供を生贄にするのはアステカ人にとって珍しいことではないが、この数の多さは異常だ。犠牲者は全て2~6歳だった。
科学者たちは、これらの子供たちが選ばれた理由を知るために骨のDNA分析をしている。彼等の性別や健康状態についても判るだろう。
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いずれにしても飢饉をなんとか乗り切った人々は、感謝のためテスコシンゴの丘に寺院を造った。
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水の神とその女神に捧げられた寺院だ。このことはアステカ人の記録にも残されていた。
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水を現実の世界に導く理想的な世界のモデルをこの地で造り上げたのだ。
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祈祷師は寺院を巡るように造られた水路に沿った道を歩きながら祈りを捧げた。
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アステカ人は園芸にも優れた能力を持っていた。新種の植物を育てた。ハーブや麻酔などの植物の開発でも有名だ。
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しかし、彼等の癒(いや)しの能力や努力も、次にやって来た災難には無力だった。
スペイン人がやって来る1519年の数年前、オーメンズ(?敵対する部族です)の度重なる侵略を受けた。
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その時、偉大な寺院は火災にあった。そして、落ち着くまもなくスパニッシュ・コンキスタドール(征服者)が来たのだ。
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彼等はアステカ人にとってエイリアンのように理解しがたいものだった。アステカが亡んだのは、この、全く異質な人種に対する恐れが原因だったのではなかろうか。しかも、スペイン人がアステカにやってきたのは、太陽が沈んで消滅する時、つまりアステカ人が信じていた時代の変わり目の時でもあった。更に、預言によれば、その暗黒を終わらせ平和と正義をもたらす者は白い肌をもった人だった!そんなこともあって当初、アステカ人はスペイン人を歓迎した。
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(mh:しかし、そんなに都合の良い時期に都合よくスペイン人が、神に招かれて(?)メキシコに来たんですかねぇ?宝物を分捕りに来たんでしょ?どうも、南北アメリカに進出した欧州の征服者の都合よい理屈に聞こえて仕方ありません。神様っていうのは、誰かさんの都合の良いことばかり、言ったり、したりしているようで、そういう神様は好きになれませんねぇ、私は。)

スペイン人のリーダーはアステカ人の第一印象を次の様にスペイン国王に伝えている。
「ここの人々は調和がとれ組織的でスペイン人のようだ。信仰深く、文化的で、そのうえ友好的だ。」
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しかし、アステカに敵対する原住民の間には、1487年に8万人の人が生贄として捧げられた恨みが残っていた。そこに持ってきて、スペイン人は、もともと、アステカ帝国を占領するためだけに来たのではない、富を得るために来たのだ!そこで、アステカに敵対していた数十万の原住民と、たった数百人のスパニッシュ・コンキスタドールは連合してアステカ人の殺戮(さつりく)を開始した!
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つまりアステカ帝国の占領はスペイン人による占領であるとともにインディアンたちによる占領でもあった。(mh:これも欧州人の一方的な見方だと思いますねぇ。)

こうして、アステカは滅ぼされてしまった。スペイン人占領者はアステカの寺院を解体し、その材料を使ってキリスト教会を造った。
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偉大な寺院跡には、メキシコ・シティの中心である大聖堂(カシードラルcathedral)が造られた。
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スペイン語はこの地の主力言語になっていった。

スペイン人はアステカ人に労働を強いた。多くのアステカ人が処刑されることもあった。
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その結果、占領から100年で90%のメキシコの土着民は消滅してしまう。
最強の殺戮者は流行り病だ。天然痘(smallpox)などの外来病によって抵抗力が無かったアメリカの土着民の多くが死んでいった。
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新しくできた国家は原住民に厳(きび)しい体制を敷いた。おかげでアステカ人は辛い生活を送るはめになった。
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こうして消滅してしまったアステカ帝国から新しい世代が生まれることになった。メスチーソだ。
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メスチーソはヨーロッパ人とインディアン(原住民)の混血で生まれた人種だ。今のメキシコの大半を占めている。
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アステカとスペインの文明の融合は宗教にも表れている。
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「キリスト教のシンボルであるイエスキリストは十字架の上で自分を犠牲にした。これはアステカ人が自らを犠牲にして神に血を捧げた考えと共通する。」
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文明と信仰は融合しながら変貌し、新しい文明を造る時代が始まった。
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メキシコは新たな国家として発展を続けているが、その裏にはいろいろな問題を抱えている。
アステカ文明の発達と滅亡は、先例や警告となってメキシコの発展に役立つことになるだろう。
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以上がBBC英国放送協会の教育チャンネル(BBC Learning)で放送されたフィルムですが、文中でもコメントしたように、スペインの肩を持ちすぎている番組ではないかと思います。「スペイン人がアステカを破壊しなければ今のメキシコはない」というのはレトリックとしては成立しますが、そもそもスペイン人は黄金などの宝物を略奪するためにアメリカに渡り、略奪だけでは飽き足らずに原住民を殺害し尽くしたのですから、非難されるべきで、称賛されるのはどう考えても納得いきません。
スペイン人が来なくてもアステカ人自らが変革し成長して独自の文化や文明を築いていたであろうことは間違いありません。

このフィルムを作成したBBC英国放送協会のあるイギリスも、スペインに負けず劣らず、アフリカや中近東、アジアにまで侵略し、富と労力と資源を搾取した歴史がありますから、スペインを非難すると自国の汚点をさらけ出すことになります。それでは、視聴者の英国民の気分を害する番組になるので、自分たちに都合のいいレトリックで歴史をベールに包んで番組制作したのだと思います。

頼まれもしないのに、他国に攻め入り、他国の人々を殺戮し、他国の富や資源を奪う行為は、キリスト教徒の国によって行われましたが、神道のわが日本も彼等を手本に中国や東南アジアに進出した実績があります。共産主義のロシアや中国も周辺の弱小国を取り込んでは搾取した歴史がありますし、今も続けています。アステカ人も他の部族を滅ぼしたり生贄として殺戮したりしたのですから、スペイン人に滅ぼされたのは因果応報と言えますが、このような理不尽な事件は、人間の愚かさを考えると、今後も世界のあちらこちらで起こる可能性がありますから、どうしたもんでしょうねぇ。
なんとかするには、国際交流を広め、深め、お互いを理解する以外に道はないのではないかと思います。とすればmhのブログや海外旅行は世界平和の礎(いしずえ)になる重要なイベントです。今後も、体力と資金が続く限り、ブログと世界旅行を続けよう、と改めて決意した次第です。
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(完)

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mh徒然草40:感銘する俳句は?

私の知人に「おそまつ屋」の号で俳句を楽しんでいる人がいますが、俳句と言えば何て言ったって松尾芭蕉でしょう。芭蕉が俳句を世に出したのでは?と思ってネットで松尾芭蕉を検索すると次の通りでした。

Wiki松尾芭蕉:
「寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)。蕉風と呼ばれる、芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。」

で、辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んでから遺書をしたため、弟子たちに見守られながら亡くなったようです。享年50歳でした。

因(ちな)みに、10月12日の命日は桃青忌(別号が桃青だから付いた)、翁忌、時雨忌(時雨を使った俳句が好きだった)、芭蕉忌とも呼ばれています。

Wikiのこの解説から考えると、俳句のようなものは芭蕉以前から嗜(たしな)まれていたようです。
でWiki「俳句」で確認してみました。
「俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされる。十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。自由律俳句もあるので、音数での俳句の定義はできない。また、無季俳句もある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。」
「俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌(連歌は“れんか”ではなく“れんが”と読みます!)、略して俳諧、から生まれた近代文芸である。室町時代に流行した連歌(れんが)の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧であったが17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高め、なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。」

つまり足利将軍家によって統治された室町時代(1336~1573)の連歌が松尾芭蕉によって俳句という新たな芸術の域に昇華したということですから、やっぱり芭蕉が俳句を確立した、と言っても大きな間違いではなさそうです。

で、俳句を産み出すことになった連歌とは何かというと、wiki「連歌は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。」とのことで、例えば短連歌では、ある人が上の句の五七五を読んだら次の人は下の句の七七を読んで一つの和歌にするようです。長連歌になると、五七五、七七、五七五、七七と繋(つな)いでいって、およそ百句をもって一作品とするとのことでした。

俳句では五・七・五で一句とし、この中に季語を含むことが原則です。俳句に疎(うと)いmhが最初に覚え、今も覚えている句は、誰もが知る次の句です。
古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと)
しかし、今だもって、この俳句のどこが好いのか判りません! 「静寂な庭にある古池で、誰が脅(おど)したわけでもないのに、カエルが気まぐれに水に飛び込んだ。その音は小さかったけれど、私の耳にまで響いてきた。感動したなあ!(?)」ってことでしょうが、だからどうだって言うんでしょうかねぇ。埒もない現象をそのまま言葉にしただけで、いい俳句だなぁ、なんてとても思えません、私の場合は。

しかし、昨日(4月11日)、朝日新聞の土曜版beにあった種田山頭火の俳句を見た時は感動しました!俳句とともに山頭火の生涯が簡単に紹介されていました。

その記事によれば1882年(明治15年)に山口県の今の防府(ほうふ)市の大地主の家に生まれました。種田山頭火は本名のようです。東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業後、防府市で種田酒造場を開業しましたが、上手くいかず、店を売却します。その後、俳句に関心を持つようになり同人誌なども発行しています。結婚して子供もできましたが、家を捨てて僧になり1925年(43歳)に放浪の旅に出ます。1939年、58歳で世を去りました。放浪を始めてから亡くなるまでの14年間、一度も家には帰っていないようです。一度、子供を養いながら頑張っている妻の店の前に前触れもなく訪れたことはあるようですが。

山頭火が好んだ俳句は五・七・五の定型詩ではなく、語数や季語に囚(とら)われない自由律俳句でした。私が知った山頭火の最初の俳句は「ほととぎす、明日はあの山、越えていこ」です。福山雅治がTVコマーシャルの中でこの俳句を詠んでいるのを聞き、なんだ~?これは?と思って調べたのが山頭火を知る切っ掛けでした。

今も「ほととぎす」の句の好さは感じられずにいますが、朝日新聞beの巻頭にあった句を見た時は本当に感動しました!!!

「分け入っても分け入っても青い山」

この歌が詠まれた場所がどこかははっきりしていないとのことですが、放浪の旅を続けていた山頭火が一人で山中を歩いていた時に感じた気持ちを詠んだ歌であるのは間違いありません。
この歌をくちずさむと、無粋な私でも山中を歩いている気分に浸(ひた)ることが出来て「いや~、見事な(自由律)俳句だなぁ」と感嘆せざるを得ません。

それ以外にも山頭火の俳句は沢山あります。
*あるけばかつこういそげばかつこう
*へうへうとして水を味ふ
*うしろすがたのしぐれてゆくか
*どうしようもない私が歩いている
*生まれた家はあとかたもないほうたる
*音はしぐれか
*酔うてこほろぎと寝ていたよ
*鴉啼いてわたしも一人
*笠にとんぼをとまらせてあるく
*けふもいちにち風を歩いてきた
*まつすぐな道でさみしい
*すべつてころんで山がひつそり
*また見ることもない山が遠ざかる
*ほろほろほろびゆくわたくしの秋
*おちついて死ねそうな草萌ゆる
*濁れる水の流れつつ澄む

記事beによると「近代の俳人では出世頭(しゅっせがしら)だが、この半世紀の間、山頭火の名を知る人は少なかった」と言いますから、私が知らなかったのもむべなるかな。
山頭火の孫にあたる女性を探し出してbeが取材を申し込んだら「山頭火の孫だと言う事は学校でも職場でもずっと隠してきた。そっとしておいてほしい」と断られたとのこと。「CMで有名タレントが句を詠み、名前を冠したラーメン店が全国展開。今やほとんどの中高の教科書に句が載る。なのに遺族は屈託を抱えているようだった」とbeのコメントにありました。

私には、山頭火の歌の大半は、その好さが理解できません。だから言う訳ではありませんが、僅か十七文字前後の俳句だけを見て、その歌が含む意味を理解することは容易ではないと思います。詠み人の境遇や、その時の環境、心情を知らなければ句の好さが判らない場合が大半ではないでしょうか。

しかし、どういうわけか、「分け入っても分け入っても青い山」は私の心に響いたんですねぇ。お釈迦様が仰るように因果応報ですから、きっと共感できる何かが私の心の中にあったということでしょう。そして、それは、私だけでなく、他の多くの人の心の中にもあって、山頭火のこの句に感銘を受ける人が多いということだと思います。山頭火と、この歌に感銘する人の心に通じ合うものは何でしょうか?それは多分、木々で覆われた奥深い山道を一人黙々と歩み続ける山頭火の姿が、長く(短いのかも知れませんが)、たいした取り柄もない人生を、ひたすら生き抜いてきた自らの姿に重なるからではないかと思います。

つまり、この句は読み手を作者の気分に引き込む魔力があると言えます。忘れられない一句となりそうです。

The Beatles - The Long And Winding Road
https://www.youtube.com/watch?v=Xqu9qhBHWNs
(完)

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チャチャポヤの不思議

今回は南米ペルーにあった古代都市チャチャポヤを巡るお話です。天空の城マチュピチュから北西に約1千Km離れたアンデス山中にありました。
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もう少し正確に言うと、アンデス山脈のアマゾン側斜面に造られた都市です。チャチャポヤの代表的な遺跡「クエラップ砦Kuelap Fortress」は、西に急斜面を、東に緩斜面をもち、麓(ふもと)の渓谷からは1千mの山の頂きに造られています。海抜は3千mですからかなりの高地なのは間違いありませんが、4千mを超えるアンデス山脈と比べれば低地とも言えます。
Google-Earth 3D
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砦の大きさは幅140m、長さ600mでしょうか。
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高さ18mの石垣で囲まれ、入口は4箇所あります。
次の写真は緩斜面側の入口から南半分の様子です。
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次の写真は北方向の様子です。
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円錐形をした入口は、入ってゆくにつれて狭くなり、最後は人一人が通れる幅になります。そして石段を登ると沢山の建物遺跡が広がる場所に到ります。
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上の写真には屋根の付いた建物が一つありますが、観光用に復元されたものだと思います。

このKuelap遺跡に行くのは、なかなか大変なようです。ペルーの首都リマから飛行機、そこからは車で14時間程、最後には徒歩で山の上まで登らねばなりません。リマから車でいくこともあるようですが、早朝に出発しても翌日の夜遅く到着するという強行軍でしょう。山岳部の道路事情は悪いと予想されますので、大袈裟に言えば命がけのドライブでしょうが、見事な遺跡で一度は訪れてみたい所です。

昔、この辺りに住んでいた人々が何と呼ばれていたかについては記録がありませんが、インカ帝国時代に付けられた「チャチャポヤ」という呼び名が今も使われているようです。チャチャポヤの人々、つまりチャチャポヤス、の暮らしと文明が今回ご紹介するYoutubeフィルムのテーマです。
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ペルー北部で千年以上も昔に生まれ、5百年以上も栄えていた神秘の文明がある。チャチャポヤ文明だ。住民は「雲海の人々People of the Clouds」とも呼ばれている。
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チャチャポヤ人(チャチャポヤス)とはどんな人達だったのか?どんな文明を築き、なぜ滅んでしまったのか?
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(南アメリカの失われた王国/雲海の人々)
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西暦900年、アンデスの山の頂にチャチャポヤスと呼ばれる人々が住んでいた。
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彼等の文明について知られていることは少ない。
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高い山の、崩れやすい崖に造られた墓。
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洞窟で見つかった多くのミイラ。
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そして南アメリカで最も興味深い遺跡の一つ、クエラップKuelap。
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1千年以上もの昔、なぜ、高度な文明がこんなにも人里離れた高地で花開くことになったのだろう?
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調査はペルーの首都リマの図書館から始まる。
スパニッシュ・コンキスタドール(スペイン人征服者)が残したチャチャポヤについての記録がある。
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山間(やまあい)に暮らす風変わりな人々だという。
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集落にリーダーがいた形跡はないらしい。不思議な社会だ。
チャチャポヤ文化を調査している女性考古学者と図書館で会って話を聴いた。
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「これまでに発見された遺跡は全体の5%程度です。チャチャポヤに関する資料はあまりに少なく、研究者の数も多くはありません。理由は単純です。調査するにはあまりに人里離れているんです。ペルーに住む学者だって、行くとなると何十時間も車で移動しなければならないんです!」

チャチャポヤはペルーの北部、アンデス山脈の東側にある。
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リマから飛行機で、そこから14時間もドライブしてチャチャポヤ地域に入った。こんな所に文明が開けていたとは驚きだ!
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1万4千年前、人類はアラスカからアメリカ大陸に移り住んでいった。その後、数千年をかけて南アメリカにも到達し繁栄していった。
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その南アメリカでチャチャポヤ文明が現れたのは今から1千1百年前の西暦900年頃だ。
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考古学者たちはアマゾン側の低地から徐々に高地に移り住んだのではないかと考えている。
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斜面に住居を造った。円形をしたものが多い。
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人口は50万人強だったと思われている。
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西にはアンデス山脈が南北に連なり、東には熱帯のジャングルに覆われたアマゾン盆地が広がっている。
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近くを流れるウトクバンバ川。アマゾン川に合流し、数千Km離れた大西洋に注いでいる。
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川はアマゾンとアンデスを結ぶハイウェイだ。ジャングルを行けば数週間かかる旅も川を使えば数日で済む。
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熱帯のジャングルで採れる豊富な量と種類の果物、ハーブ、薬、動物などがアンデスの高地で栽培された農作物などと交易され、文化が築き上げられていったのだろう。
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つまり、チャチャポヤは理想的な交易場所だったわけだ。
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チャチャポヤで作られた品物は経時劣化し易いものが多いが、中には当時のまま残っているものもある。この飾り帽子ではオウムの羽根が使われている。恐らくアマゾンのものだろう。
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動物の毛皮。ミイラ化されて保存されている。
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動物のようなものが彫られた棒。
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こうした製品はアマゾン盆地とアンデス山中の間を行き来して取引きされていた。

アンデス山脈が太平洋岸とアマゾン盆地の交流にとって大きな障害だったの間違いないだろう。しかし、アンデスを流れる川は、山岳を削り、渓谷を形成して低地を提供した。そこはアンデスに掘られたトンネルのようなものだ。川を使えば太平洋岸とアマゾン盆地を結ぶことができた。
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都市チャチャポヤスのある場所はアンデスとアマゾンの丁度中間だ。
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標高2300mにあるチャチャポヤスは今も北部アンデスの主要な町だ。
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ここにはチャチャポヤ文明が産んだ製品が大切に保存されている。
これはリャマの形をした土器だ。
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リャマは食肉にもなったが、南アメリカに馬がない前コロンブス時代、人や荷物の運搬に重要な動物だった。

これは太平洋のエクアドル近辺でよく見つかる貝だ。
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兵士の墓から見つかった。孔が明いている。笛のような楽器だったのではないだろうか。

小さな木の実だ。アマゾンのものに違いない。溝を加工し、紐で腕に巻き付けて腕飾りにしていたようだ。
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チャチャポヤスのマーケットは物で溢れている。昔も同じだっただろう。
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物の交流はいつも情報の交流を伴う。つまり知識が生まれる源だ。
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織物も盛んだ。昔の織物で今も残るものは少ないが技術は変わっていない。
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絵柄は動物が多い。しかし、何を意味しているのかはよく判っていない。
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恐らく低地と高地を結び付けた文明とか信仰などで使われたシンボルのようなものだろう。
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これはキープーと呼ばれる、紐を使ったコード(記号)だ。
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キープーは、インカの言葉で「結び目」を意味する。
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まだ解読できていないコード(記号)だが、驚くべき仕組みになっている。
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当時ですら限られたキープー管理者だけが解読でき、利用していたと考えられている。
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西洋のアルファベットはたった24文字だが、キープーは複雑だ。主紐には長さが異なるいくつもの副紐が結び付けられていて、その間隔はまちまちだ。更には副紐に、このコード(記号)の語源となったキープー、つまり結び目、が様々な形で、かつ様々な間隔で作られている。
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発見された当初は数字の羅列ではないかと思われていた。しかし今では言葉が秘められていると考えられている。キープーは3次元の暗号システムだ。神話や伝説がコード化されているかも知れない。

チャチャポヤス、つまりチャチャポヤの人々、は飲料水や交易手段を提供してくれる川に依存して暮らしていた。にもかかわらず川から離れた山地や崖で暮らしていたのは何故だろう?
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山の斜面では農業をしていた。主要な作物はジャガイモだ。また、斜面の高度に応じて作物の種類は異なっていたようだ。
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山の頂(いただき)には主に宗教的な建物が、中腹には住民の住居が造られたと考えられている。
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今でも屋根の付いた丸い建物が住居や倉庫として使われている。
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秘境の墓場があるという。車はいけない所なので馬に乗り換える。
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目指すはラピタカと呼ばれる所だ。
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侵入者や宝探しなどの目が届かない所にある大きな岩山。
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崖の中腹に「雲海の人」の墓場がある!死者のチャチャポヤだ。
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崖は上から下まで300mある!近代の技術や道具をもってしても、そこへ行くには勇気が必要だ。
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何世紀もの昔、人々はこの崖に死者を弔(とむら)っていた。
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くずれ易い石灰岩の崖だ。恐らく下から登って死者を運び上げたのだろう。

崖の中腹にある洞窟。
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一族の墓だったのだろうか、中には複数の骨があった。
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一体、どんな方法でチャチャポヤの人はここまで登ってきたのだろう???
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崖に木の梁(はり)が飛び出ている所もある。
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高度な建築技術が使われていたようだ。でも、こんな場所にどうして・・・
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他(ほか)にも驚くべき墓場が見つかっていた。ある時、強風で巨木が倒れると洞窟の入り口が現れた。中に200以上ものミイラが眠っていたのだ!
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見つかったミイラは細心の注意を払い保管されている。

子供のミイラもあった。
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一体ずつナイロンの網で作られた保存袋に入れて保管され、調査が行われている。
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布の袋に入ったミイラもあるが、いずれも体や手足が縛られている。
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女性の考古学者と一緒に袋を開いてミイラを調べてみよう。
事前に行われたX線検査で、このミイラは成人で、結核で死んだことが判っている。
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大きな耳飾りを付けている。木製のようだ。
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手を紐でしっかり結び、それを更に顔に結び付けている。袋に入れて持ち運びし易くするためだったと思われている。

チャチャポヤの人々は、ミイラにしてもらい、安心して永遠の眠りについたのだろう。
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「でも何故、彼らはミイラにして死体を残したのですか?」
「だって、それ以外には死者の記憶を残す方法が無かったからよ。先祖を身近に感じ、先祖に見守られながら生活するためだったのよ。」

チャチャポヤの葬儀文化の特徴はミイラだけではない。
サルコファガス・ガイ(sarcophagus石棺guy男)だ。
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粘土で造った人形の棺桶だ。(mh「ペルーのモアイ」とも呼ばれるようです。)
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中には人骨が入っている。
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誰が造ったのか、調査は進んでいない。
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まるで幽霊のように風景の中に溶け込んで一体化している。
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今も自然に守られながら残っている。
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殺人蜂の巣になっているものもあるので近づくのは危険だ。
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山の斜面にはテラスも造られている。目的ははっきりしていない。「我々がここに居るぞ」と誇示するためではないかと考える学者もいる。
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チャチャポヤ遺跡から階級社会の存在を示す形跡は一切(いっさい)見つかっていない。ピラミッドのような墓や金銀財宝が埋葬された墓などは見当らないのだ。全ての人々は、平等で対等に暮らしていたようだ。
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600年の間、この斜面で、文化を育(はぐく)み、階級社会を造らず、祖先を敬(うやま)い、平穏に生きてきた人々。
彼らはチャチャポヤの中心に傑作を造った。クエラップだ!
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高さ19mの石垣。完成まで百年以上かかっただろう。
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最大の石は3トンもある。手作業で造ったなんて信じられない!
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山の頂に造られた要塞のようだ。なぜ、何百万もの石を山の上まで運んでまでして造ったのだろうか?
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入口は4つある。入るにつれて狭くなり、最後は1人しか通過できない構造だ。
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外敵が来ても一人ずつしか入れないから戦いに有利だ。
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そこを抜けるとひらけた場所に出る。
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そこには丸い形の建物の跡がある。
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地中に埋まっているものも含めると400くらいあるらしい。
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クエラップの建設は西暦400年頃に始まったという。完成したのはマチュピチュ遺跡より5百年以上も前だ!
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用途とその構造はとても興味深い。一見、防御を目的とした場所のようだ。
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案内してくれた考古学者は言う「大きさ、城壁、管理された門などから砦だろうと考えている人が多い。しかし、注意深く見ると、ある方向からの攻撃には無防備だ。その上、城壁のところどころに、不思議な彫り物がある。」
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「砦よりもっと意味がある場所だったのではないだろうか。」
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「例えば信仰の場所だ。沢山の遺骨も見つかっている。」
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アンデス山中でひっそりと平和に暮らしていたチャチャポヤスを恐怖が襲うことになった。新しく生まれてきたインカ帝国だ。
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ローマがヨーロッパを征服したように、インカ帝国はエクアドルからアルゼンチンまで南アメリカの西海岸で勢力を拡大していた。
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1470年頃、とうとうチャチャポヤにも手を伸ばしてきた。インカ帝国に張り巡らされていた道路はチャチャポヤに到達した。
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チャチャポヤの繁栄の源だったアマゾンや太平洋との交易ルートはインカ帝国が引き継いだ。チャチャポヤは帝国に2回の反乱を行ったがいずれも征圧された。
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反乱の代償は高かった。多くのチャチャポヤスが戦(いくさ)で殺され、多くの生き残りは追放された。遠くエクアドルや、チチカカ湖まで追いやられた人々もいる。
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結局、チャチャポヤに残ることができた人は、ほんの一握りだった。クエラップでも男や女、大人や子供の200近くの遺骨が見つかっている。それは恐らくインカ軍の大量虐殺によるものだろう。クエラップに居たチャチャポヤスは、こうして消滅することになった。
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インカはチャチャポヤを勢力下に置くことになったが、新たな征服者がこの地にやってくる。スパニッシュ・コンキスタドール(スペイン人征服者)だ。スペイン人は生き残っていたチャチャポヤスたちに「共にインカを攻めよう」と持ち掛けた。

結局、インカ帝国による統治は1535年に終息するが、皮肉なことに、ヨーロッパ人との出会いはチャチャポヤ文明を完全に葬(ほうむ)ることになる。スペイン人が持ち込んだ天然痘や疱瘡などの病(やまい)で、ほそぼそと生き残っていたチャチャポヤスの90%はスペイン人の到来から2百年で死に絶えてしまったのだ。
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そうして「雲海の人の王国」には雲だけが残ることになった。
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しかし、この広い山岳地帯には、チャチャポヤスの痕跡がまだ沢山隠れている。ヨーロッパ人が侵略してくる千年以上も昔に南アメリカで開けた素晴らしい文明の証拠は今も残されているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・
以上がYoutube情報です。

ところで、フィルムによれば、統治者のものらしき大きな墓や統治者なら持っていたと思われる金銀財宝が見つかっていないことから、チャチャポヤの社会は統治者がいなくて、みんな平等で楽しく暮らしていたと結論付けていますが、皆さんも、そう思いますか?

記録が残っていれば白黒の決着が付けられるのですが・・・

記録といえば文字か絵物語が必要でしょう。中南米ではマヤの絵文字が使われていました。紀元前3世紀頃に生まれたようで、最近、解読できるようになりました。
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マヤ文字は物や意味を表す表意文字と、一つの文字が一つの音(おん)を表す音節文字の2種類で構成されているようですが、ルールを知らなければ、見たって表意文字か音節文字かは判りません。

マヤの絵文字は唯一の例外で、その他の文字が南北アメリカで産まれ、使われていたという証拠は見つかっていないようです。つまり、中南米ではスパニッシュ・コンキスタドール、北米ではイタリア人、イギリス人、フランス人などが持ち込んだ、スペイン語、イタリア語、英語、フランス語が使われだす前の南北アメリカ大陸では、マヤを除けば文字は無かったので、住民がどんな生活をしていたのかを知るのはなかなか大変なのです。ナスカ地上絵やマチュピチュなどが、いつ頃、何のために造られたのか、科学的な調査が進むまで、なかなか判りませんでした。今でも判らないことは沢山残されています。

で、話をチャチャポヤに戻すと、チャチャポヤではリーダーが存在しない、誰もが平等な生活が千年もの間、続いていた、というのは本当でしょうか?そうだとしたら、それこそがユートピア(理想郷)とも言えるでしょう。しかし、ユートピアという言葉は1516年、イギリスの法律家トマス・モアがラテン語で書いた長編小説「ユートピア」で始めて現れた、ギリシャ語からの造語で、「どこにもない場所」との意味だということですから、現存したチャチャポヤにリーダーが存在していなかったなんていうことがある訳ない!っていうのがmhの見立てです。

人々を統率していたリーダーは必ず居たと思いますねぇ。
どんなリーダーだったか?可能性が高いのは、宗教、呪術と言ったほうが好いかも知れません、のリーダーかシャーマンなどの超能力者でしょう!日本だったら卑弥呼ですね。ひょっとするとチャチャポヤでも女のリーダーだったかもしれませんが、古今東西、女のリーダーが子々孫々に渡って町や国を統括していたという歴史はないようですから、やっぱ男のリーダーでしょう。

その男が天空の砦「クエラップ」に暮らしていたのだと思います。クエラップに沢山残る丸い建物跡は、寺院もあるでしょうが、大半は住居と妾(めかけ)の棲家(すみか)だと考えると、これまで世界のあちらこちらに伝わる事実と付合して極めて合理的です(?)。

最後になりますが、「チャチャポヤ」という言葉の由来をお知らせしておきましょう。英語版wikiによると次の通りです。「この都市を占拠したインカ帝国が付けた名前で「アイマラ語を話す、森に住む人」という意味の言葉。チャチャポヤの住民が自分達をどう呼んでいたのかは不明。」
因みにアイマラ語はペルーやボリビアの一部で使われていた方言です。

Youtubeフィルムをご覧になりたい方は次のURLでどうぞ。
Lost Kingdoms of South America (2013) Ep1 People of the Clouds
https://www.youtube.com/watch?v=GvGf0JIat0s
(完)

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