Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草―48:国立競技場の改修はどうしたらいいのか?

今日は6月14日、サンデーモーニング(メインキャスター関口宏氏)の番組で国立競技場の改修を巡る文科省(もんかしょう)と東京都の対立を解説していました。可動式屋根はオリンピックには間に合わない、資金は500億円不足する、一部を仮設スタンドに変更したりすれば数千億円の節減ができると考えていたが、どうもそんなに多額の節減はできないようだ、などなど色々問題が出ています。TVでは、互いに睨(にら)みあう下村文部科学大臣と舛添東京都知事の顔写真の脇にそれぞれの主張の要旨が映し出され、マスコミは、二人の対立をクローズアップして煽り立てていましたが、だったらどうすればいいのかについての責任あるコメントはなく、視聴者には、だからどうなの?どちらがどうすべきなの?について考えるネタも提供されず、二人の対立を第三者として面白おかしく見ているしかない、という感じでした。

個人の好みで言えば、私はこのお二人とも好きではありません。いずれも人を見下した物の言い様をする私が最も嫌うタイプです。文科省が突然、稼動式屋根の遅れ問題に付け加えて500億円の供出を東京都に依頼した、というのは、都知事も言うように随分とひどい話だと思います。だけど文科省は間違いと認めていないようですねぇ、考え直してみるとも言ってません。

また文科省の資金提供依頼を、根拠がないから断る、と自分たちには全く関係ない事のように言う舛添知事も間違いだと思います。だってオリンピックが開かれるのは東京であって、重大な関係があるし、東京都は千載一遇のチャンスでもあります。だからこそオリンピック招致には前知事も首相と共にブラジルまで行って招致演説もしたのです。

ここは関係者同士が冷静に議論し解決策を見つけないと、2020年までにメイン会場が出来上がっていないという不祥事だって起きかねません。韓国の平昌(ピョンチャン)で2018年に予定されている冬季五輪の会場整備資金不足問題では、くちさがない韓国ネチズンは「大嫌いな日本に開催権をゆずったら?」なんて言っているようですが、日本も韓国と同じ無責任国家になりさがってしまうのかしら、と気掛かりです。

国立競技場問題の解決は、能力と責任感と意欲を持つ人が集まって議論するしかないと思います。下村大臣も舛添知事も、問題解決能力、責任感、推進意欲の3つとも持ち合わせていないようです。韓国の冬季五輪だって、何事も他人のせいにばかりする朴大統領では問題が猥雑になってしまい冬季五輪の失敗も十分あり得そうです。日本がその二の舞を演じるとしたら情けない話です。

下村大臣は舛添知事が500億円を黙って出す気が無いのなら出させる法律を作ることも検討しているとのことで、一体全体、この二人のみっともない泥仕合はどこまで際限なく続くのか、あきれてものも言う気がしません。

無責任な二人の言い合いを黙って眺めていてはオリンピックの成功は望めません。もし失敗すれば日本の信用はガタ落ちで、以降はどんな政治的発言も外国からは無視される惨めな国に成り下がってしまいます。この二人のせいで日本をだらしない国にするのは、正義感にもえるmhとしては看過できません!!!ここはお二人には表舞台から退場願い、実務者同士で議論するようにしてほしいと思います。
その結果を大臣や知事が認めなければ国会や都議会で承認を得て進める、というくらいの覚悟でいれば答えは得られるでしょう。
Diana DeGarmo- Don't Cry Out Loud
https://www.youtube.com/watch?v=ArgBLnQAFAE
(完)

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ソロモンの黄金の不思議

ブログ「シバの女王の不思議」に続いて再び、ヘブライ語聖書(注)に現れるソロモンに関する不思議です。彼はイスラエルの王で紀元前971年 頃王位に就き、 紀元前931年頃老衰で80歳くらいで亡くなったとされています。

(注:ヘブライ語聖書。紀元前5世紀頃にバビロンに幽閉されたイスラエル人達によって作られた。言語はヘブライ語。ヤーウェイを神とする一神教の経典で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典の元となっている。キリスト教では西暦1~2世紀に作られた新約聖書に対比して「旧約聖書」とも呼ばれる。)

シバの女王との出会いでも有名です。
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(シバの女王と会談するソロモン:フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂)

ソロモンは、シバの女王からプレゼントされたり自ら集めたりした黄金で巨額な富を築いた、と思わせる記録が残っていて、この黄金や金鉱を探す探検家(山師といった方が正しいかもしれません)が今も後を絶ちません。黄金はどこに眠っているのか?探検家たちは黄金を見つけたのか?それともまだ見つけていないのか?

それではYoutube「DIGGING FOR THE TRUTH - QUEST FOR KING SOLOMON'S GOLD(2004)」(ソロモン王の黄金を探す旅)の始まりです。

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ソロモン王の伝説で知られる金鉱を捜す旅をしよう。
聖書によれば彼の莫大な黄金はオフィアOphirと呼ばれるミステリアスな土地から届いていた。
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3千年の間、投資家、探検家、黄金ハンターたちがオフィアを捜しているが未だに成功していないようだ。
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ソロモンの富は秘密のベールに完全に覆われているから誰も見つけることが出来なのか?それとも、まだ何か重要なヒントが見逃されているのだろうか?

イスラエル、ジンバブエ、エチオピアを訪れ、ソロモンの金鉱だったと言われるオフィアを探してみよう。
まずは世界で最も霊的で神聖な都市エルサレムから調査開始だ。
ソロモン王の王宮が在った場所とされている寺院の丘Temple Mountだ。
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ここに造られていた王宮は黄金で覆われていたと言う。黄金はオフィアOphirと言う名の場所から届けられていたと旧約聖書に書かれている。
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現在、寺院の丘にはソロモン王の王宮を思わせる物は何も残っていない。しかし、聖書によれば、丘の上の王宮や寺院の柱や壁や天井は黄金で輝いていたのだ。
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使われていた釘(くぎ)すらも黄金だったという。
王宮や寺院は紀元前586年、バビロニアのネブカドネザル王によって破壊され焼き尽くされ、残されていた黄金は全てバビロンに持ち去られたと聖書に書かれている。
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何千年もの間、大勢の男達がこの宝を見つけ出そうとしたがいまだに見つかっていない。

しかし、エルサレムにあったと言う莫大な黄金の出処(でどころ)については聖書がかすかなヒントを提示している。オフィアという名の場所だ!
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王はオフィアから多くの金を手にしていた。残りの黄金はミステリアスな女王シバからの贈り物だった。
何世紀もの間、オフィアを求めて、アフリカ大陸のいろいろな場所で探索が行われてきた。
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ドイツ人探検家カール・マウシュKarl Mauch
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1870年、彼はジンバブエで「オフィアだ!」という遺跡を見つけた。
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エチオピアで金鉱を探している探検家もいる。エチオピアはシバの女王の国で、ソロモン王の金鉱の場所でもあったのでは、と考えているのだ。

私はまずイスラエルの南で金鉱の調査を開始した。
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1930年、考古学者がソロモンの富と思われる鉱山を見つけた。
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そこは本当にソロモンの金鉱なのだろうか?
考古学者サリオに現地を案内してもらった。
「今、我々がいるのはインティナ盆地(Basin)だ。この辺りには人間が掘った何百もの採鉱窟がある。」
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「金はそのままの形で地中から見つかるので採取は簡単だ。しかし、我々人類が最初に利用した有効な金属は銅だ。
ところでここで見つかった採鉱窟は、最初はこんな恰好をしていたんだ。」
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「見つけた時は何か判らなかった。しかし、土を除(の)けてみると、こんな風な孔が出てきた。」
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「その孔は37mも続いていたんだ。」

サリオは蜘蛛の巣のように広がる洞穴に案内してくれた。
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洞窟は5千個以上も見つかっている。古代でも大規模に採鉱が行われていた所だろう。
「ここを見てくれ、青いだろう?銅の鉱石だよ。」
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「で、金の鉱石はどこにあるの?」
「ここにはない!!!?」
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「じゃあ、なぜ、ここがソロモンの鉱山だと呼ばれているんだ?」
「聖書に書かれているから、人々はここがソロモン王の鉱山だと呼びたかったんだよ。でも銅はある時期、黄金よりも貴重な金属だったんだ。」
「ソロモンがここで銅を採っていたって可能性はあるかも知れないけど・・・」
「君は誰がここで銅を採取していたか知りたいかい?」
「そりゃあ勿論!」

「これはここで働いていた人達が造った住居や寺院の跡だ。」
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「考古学者の調査結果によれば、掘っていたのはエジプト人だ。ファラオが管轄していたんだよ。」

ソロモン王より4百年も前から採掘がおこなわれていた。ハトシェプスト女王の時代だ。
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結局、地図にある「ソロモンの鉱山」という名は間違いだった!

一から出直しだ。原点の旧約聖書に戻って調べてみよう。
「ソロモン王は紅海に面した海岸にエジオン・ギバァEzion-geberという軍港を持っていた。」
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多くの学者は今のエイラットEilatがその港だと考えている。
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「ソロモンは16トンの金をオフィアからこの港に持ち運んだ」という記録もある!
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今はスキューバダイビングでも有名なリゾートだ。
(mh:上の写真のIsrotelはイスラエルState of Israelに複数のホテルを持つ企業で、エイラットEilatにあるホテルの名はKing Solomonです。海に面したリゾートホテルで最低料金は2万9千円!)
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3年毎に金、銀、象牙、サル、などの宝や土産物を積んだ船がこの港に戻ってきたという。
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3年の往復航海ならソロモンの船は数千Km離れた場所でも往来することが出来ただろう。
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と言うことは、オフィアはアフリカのどこかに在った可能性もある!
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(mh:象牙やサルならやっぱりアフリカでしょう、船が寄港したのは!)
アフリカの南まで帆船で旅をすると6週間くらいかかるらしい。3年もあれば、沢山の珍しい土産物を集めてソロモン王に届けるには十分だ。
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何千年もの間、アフリカの港が中近東と交易していた証拠は沢山見つかっている。
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とすれば、ソロモンの艦隊がアフリカに寄港し、内陸に入っていったことだってあるだろう。
例えば現在はジンバブエと呼ばれる内陸国だ。
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19世紀、一人の男はそれを信じていた。歴史家ポールが教えてくれた。
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「確かに、オフィアはこの辺りだと信じて訪れた男がいる。若いドイツ人カール・マウシュだ。」
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「1871年にやって来た。未開の、外部の人間に友好的でなかった人々が棲む土地に一人で乗り込んできた。そして、彼は実際に黄金を見つけたんだ!確かにジンバブエの人々は金の採取をしていた。」
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アラブ人やスワヒリ人も金の買い取りに訪れていた。
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今でも沢山の金がジンバブエから輸出されている。
エレベータで地下に入っていく。地下8百mまで真っ直ぐ下る。
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昔と違って作業者は岩をダイナマイトで砕いて採取する。
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2003年、12百万ドル以上の金がここで採掘されている。
この岩には金が含まれている。
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岩は地上で粉砕され、含まれていた金が採取される。
鉱山を離れる前には全員が身体検査される。
「私が金塊を隠し持ってないか調べてるよ!」
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「彼は気付かなかったぜ!」(笑い!)
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鉱山から5時間ドライブするとグレート・ジンバブエと呼ばれる場所だ。ポールが待っている。
翌朝、真紅の太陽が不思議な場所グレート・ジンバブエに昇ってきた。
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若きドイツ人カールはジンバブエで沢山の黄金を見つけた。しかしそれは彼が求めていた黄金ではなかった。彼が見つけたかったのはかつてオフィアと呼ばれていた金鉱だ。

1870年、オフィアを探していたカールはジンバブエにやって来た。
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そこで彼は石で造られた遺跡を見つけた。明らかに植民地時代よりも以前に造られたものだった。
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グレート・ジンバブエのキューレター(curator学芸員)エドワード・マタンガが案内してくれた。
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「植民地前にアフリカ南部で造られていた遺跡では最大だ!」
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「ってことは、つまりアフリカ原住民が造ったってことだね?」
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すごく高い壁だ!11mもある。
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石を綺麗に積み上げている。粘土や漆喰などは使われていないようだ。
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石は花崗岩で、近くにいくつかある採石場から持ってきたものだという。
ここは寺院だった。古代の人々には極めて意味がある場所だった。
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しかし14世紀に放棄された。
ここを訪れたドイツ人カールはそんなことは全く知らなかった。
彼はもう6年もソロモンの黄金を産み出したオフィアを探してアフリカを歩き回っていた。1871年にグレート・ジンバブエを見つけた時「ここに違いない!」と確信した。
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カールは他のヨーロッパ人探検家と同様、アフリカ人の能力を見下していた。「黒人がこんなにすばらしい構造物を造れるわけがない。ソロモンの知恵や文明が関与していた場所に違いない!」
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その上、彼はオフィアを探し出そうと必死だった。信じたい気持ちは理解できる。
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しかし、彼がここをオフィアだと信じた根拠はなんだろう?
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彼は建物の梁として使われていた木材に着目したという。少し切り取って香りを嗅(か)いでみた。「ヒマラヤスギ(cedar)だ!ソロモンがエルサレムの王宮を造るのに使った木材と同じだ!」

「で、これが、彼がヒマラヤスギだといった木材らしい!」
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カールの発見と、それがオフィアではないか、との噂は多くのヨーロッパ人を活気立たせた。黄金を求めて人々が押しかけて来た。聖書に書かれていた王国がアフリカの中心に見つかったのだ!
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キリスト教徒の植民地主義者達もやって来た。
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ファクテン・マルクス(?)は金鉱を発見した。
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それがゴールドラッシュの引き金となった。
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ヨーロッパから投機家が大挙してやってきた。
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彼らは遺跡を破壊しては黄金を探した。
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宝物は見つからなかった。
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しかし、遺跡は宝探しのおかげで見る影も無いほど破壊し尽くされてしまった。

60年後、イギリス人のケイム・トンプソン女史によって破壊されていたグレート・ジンバブエの復旧が始まった。
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彼女は根気強かった。
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飛行機で空中から全体の調査もした。
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すると彼女は新たな遺跡を見つけた。古代人の住居跡だ!
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幸運にも侵略者の目から逃れていたものだ。彼女は地上に戻ってからまた発掘を続けた。

調査の結果、グレート・ジンバブエは今もこの地に住んでいるアフリカ原住民が造ったものだと判明した。土器の欠片も見つかった。ここはアフリカの文化・交易センターだったのだ。

カーボンデイティングによればこの地は9世紀~14世紀に造られたものだった。従ってオフィアではない。勿論、エルサレムのソロモンを訪れたシバの女王の国でもなかった!
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しかし、アフリカにはもう一ヵ所、オフィアの候補地がある。北エチオピアに行ってみよう。
エチオピアのアクソンAxumだ。樹立する石碑は王や女王が住んでいた証拠だ。
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アクソンはシバの女王と強い関係がある。伝説によれば彼女はここで生まれた。
これが彼女の王宮の跡らしい。とても好く保存されている。
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彼女がここを統治していたという明確な証拠は見つかっていないが、彼女が暮らしていたと感じさせる何かが残っている所だ。

紀元前1千年頃、シバの女王はこの辺りも統治していたという。ソロモン王の知恵の素晴らしさを伝え聞いた彼女は沢山の宝物を持ってエルサレムの王を訪れた。宝物には黄金も含まれている。エチオピア人は「直ぐ近くにオフィアはあった!」という。アファーAfarと呼ばれる所だ。
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次は首都アジスアベバに行ってみよう。そこには金の装飾品を扱う店が沢山ある。
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これらの金はどこから来ているのだろう?シバの女王が黄金を得た所だろうか?
ところでこの宝石店では金を自分で造りだすという!店の奥にその場所があった。
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この方法で3千年前からエチオピアで金の採取が行われているという。鋳型に流し込んでアクセサリーを造る。
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金はケブラメンゲスという所から買うという。南エチオピアにあるらしい。
160km離れている。飛行機でも行くのはなかなか大変な場所らしい。地図にも載っていない!90分のフライトの後に到着した。
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飛行機を降り、車で暫く移動した。周りには鉱山のような場所や人が住む村は見当たらない。
数時間のドライブの後、やっと集落に到着した。

ここが発掘を行っている人々が暮らす場所だという。
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しかし長い間住む所ではないらしい。採掘が済んでしまうと別の場所に移動するという。
丘を登ると竪穴があった。ここで金を採取しているようだ。ジンバブエと同じだ。
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更に登ると周辺が見渡せる場所に出た。あちらこちらで発掘が行われているのが判る。
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何百人もが働いている。みんな金を探しているのだ。
これが鉱石だ。
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ここで鉱石を砕いて細かな粉にする。
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砕くのには鉄の棒を使う。
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砕いたら水で土を流してやればパンに金が残る。
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これが金だ!
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ここは古代の金採取場ではない。数年で採掘場所の位置は移ってしまうからだ。
しかし、人々は残っていた。もっと正確にいえば、人々が金を採掘する方法はソロモン王やシバの女王の時代と同じだ。
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ここはソロモンの鉱山ではない。しかし、ソロモンの鉱山もこんな様子をしていただろう。
ここで働く人々はシバの女王の国の子孫なのだし。
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ということでフィルム「ソロモン王の黄金を探す旅」は終わりです。
フィルムをご覧になりたい方は次のURLで試してください。
DIGGING FOR THE TRUTH - QUEST FOR KING SOLOMON'S GOLD(2004)
https://www.youtube.com/watch?v=z8BBVL1B6CU

ここで何時もの様におまけ情報です。

ドイツ人地理学者カール・マウシュと「重要な新しい探査」との副題がついた報告書のフロントページです。
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彼が見つけたグレート・ジンバブエの映像です。
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イギリスの作家Hライダー・ハッハガードは「King Solomon’s Minesキング・ソロモンの洞窟」といいう本を書き上げました。これがグレート・ジンバブエの黄金都市説に火をつけました。
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「ソロモン王の洞窟」の本の紹介文:
ソロモン王の時代から、暗黒大陸アフリカの奥地に眠り続けるという莫大な財宝を求めてカーティス卿とアラン・クォーターメンの一行は、一枚の地図をたよりにして出発した。砂漠の焦熱地獄を乗り越えてようやくソロモン街道にたどり着いた一行を待っていたのは……。雄渾な筆致と奔放な想像力で描く不滅の秘境大冒険小説!」
その中には次の一節があるようです。
“そして彼は、聖書に書かれているオフィアだと信じられる場所をどのようにして見つけたのかについて私に語ったのだ。突然、彼が私に「ところでラッド。ムシャクルンベという国の北西にあるシュリマン山脈のことを聞いたことがあるかい?」と聞いてきたので私は「いいや、きいたことはないけど」と答えた。「そうかい、実はそこがソロモンが鉱山を持っていた場所なんだよ。」”
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作家ハッガードは「洞窟の女王」という本も書きました。シバの女王をイメージした冒険ファンタジーです。
「二十年後に開封せよと指定された鉄の箱。その中にあったギリシャ文字の奇々怪々な古文書に誘われて中央アフリカの人跡未踏の地に向かった一行。彼らを待っていたのは不朽の恋に永遠の生命を吹きこまれた女王の支配する神秘境だった。近代英国最大の物語作家ハガードが描く妖しい幻想と戦慄に満ちた大ロマン」
やっぱ、シバの女王はソロモンと一緒に記憶されるべきなのでしょうか。ソロモンが描かれた絵には一緒にシバが描かれたものが多いようですが、次の絵ではシバの女王を出迎えるソロモンの背後に大勢の女性が描かれています。聖書によればソロモンは700人の女房と300人の妾(めかけ)を持っていたとあります。本当なんですかねぇ。いや、本当かも知れませんね、聖書に書かれていたことだし、徳川時代もハーレムのような大奥があったって例もありますから。
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エチオピアのアクソンAxumの写真です。
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エザナ王の石柱。高さ23mに達する。

Wiki:アクスム王国Kingdom of Aksum
紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。

倒れた石碑の前に立つ、大きな一枚岩のモニュメント。
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上のモニュメント群から1.5Km離れた畑の中に現地の人が「シバの女王の宮殿跡」と呼ぶ遺跡があります。
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これでソロモンとシバの女王の一連のお話は締めくくりにしましょう。
(完)

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mh徒然草―47:FIFA会長選~ロヒンギャ族

今日5月31日、FIFAのゼップ・ブラッター会長(79スイス人)が5選されました。1998年から会長職を務め、17年間もトップの座に居座っていましたが、開催地を巡る汚職問題を2日前にアメリカ司法省から指摘され、身内から大勢の逮捕者がでました。にもかかわらず、予定通り会長選に立候補し、欧米のFIFA会員から退任を要求されていたのに、その理由は無いとしていた中での当選でした。

ネットでは次の記事がありました。
記事見出:FIFAブラッター会長、UEFAの反逆行為に「全員許す。しかし、忘れない」
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「現職副会長を含む幹部複数が逮捕された汚職事件を抱える国際サッカー連盟(FIFA)は29日、第65回総会で会長選挙を実施し、現職のゼップ・ブラッター氏が5期連続当選を果たした。

 ブラッター氏は、1回目の投票で133票を集め、新任を目指すヨルダンのアリ・ビン・アル・フセイン王子の73票を大きく上回る得票数を獲得。両名とも過半数に至らなかったため再投票となったが、2回目の投票を前にアリ王子が辞退し、ブラッター氏の再選が決まった。

 アリ王子を支持した欧州サッカー連盟(UEFA)のミシェル・プラティニ会長は、FIFAの大規模な汚職問題が明るみに出たことで、総会の前日にブラッター会長と1対1で会い、会長選から身を引くことを要求した。しかし、ブラッター会長はこれを拒み、自身の指導のもとで組織を立て直すと主張した。

 選挙後、スイスの地元TV局のインタビューに答えたブラッター会長は「私に対する憎悪は一部の人間だけではなく、組織全体からきているようだ」と話し、「全員を許す。しかし、忘れることはないだろう」と反逆したUEFAに意味深なコメントを残した。

 また、汚職事件の一斉捜査に関しては「7名のFIFA幹部の逮捕は、米国警察の指示の下、総会を妨げるために行われたと疑っている」と陰謀説を語り、同会長を批判する評論家に対しては「悪口を言う人間は、悪口を言う性分だ」と強く非難した。」

つまり「私を批判した人を許すよ、私は寛大な男だから。でも、あんたのした私への仕打ちは決して忘れないよ、いつか私は仕返しするつもり」って言ってるんですねぇ。

この言葉には79歳の老醜がストレートに現れています。任期は恐らく4年でしょうから83歳までトップの座に居座ろうっていうのでしょうが、FIFAの汚職は10年以上も前から行われていたといいますから、その時も会長だった人が79歳を過ぎた今、改革できることなんてあるわけがありません!

もしブラッター氏の言うように、今回の汚職事件は、アメリカ司法省のでっち上げだ、というのなら彼の怒りも理解します。しかし、汚職を指摘された副会長が、本当に悪いのはブラッターだ!って言っている記事がありますから、分はアメリカ司法省の判定にありそうです。

それにしても133票(得票率65%)の支持を得ましたから、FIFA関係者の多くはブラッター氏で好!としたわけで、一体どんな思惑から彼を押したのか、世の中、正義だけでは動かないという実例がここにもあったって感じです。

で、今日6月3日にTVニュースを見ていたら「テニスの錦織圭選手がフランス・オープンで接戦の末敗退」に続いて「ブラッター氏は会長職を辞任した」とのこと!本人のコメントがないので、何んで急に態度を変えたのか判りませんが、きな臭いですねぇ。

このブログが公開される7月下旬には、もう忘れ去られているニュースでしょうが、その時には恐らくブラッター氏が汚職に関与していた事実が明らかにされていると推察します。

で、もう一つ気になっていたのはロヒンギャ族の難民船が東南アジアの海上で受け入れ先が決まらないまま漂流していて、人買いの暗躍や、大量虐殺の証拠が見つかったなど、人間とは思えない虐待行為が行われている、というニュースでした。今も午前のワイドショーで取り上げられていて、それによればロヒンギャ族は1千年以上も前からアラビアなどからミャンマーに移住していて、ミャンマー人として扱われていてもいいはずなのに、学校や病院には入れないなどの差別を受け、時には焼き討ちにあって殺されたりしていて、この虐待をしているのが仏教徒だということで、コメンテーターも「仏教徒がそんなことをするなんて!」と私と同じ感想を述べていました。

難民は世界中で起きていますが、政治難民と経済難民があって、ロヒギャン族は経済難民といえるでしょう。アラビアが発祥です。アフリカからは小さな船で地中海を渡ってヨーロッパへ移ろうという難民が沢山いますが、この人達も大半が経済難民です。サウジアラビアは現在、石油のおかげで裕福な国ですが、その南のオマーンやイエメン、さらに紅海を挟んだアフリカのソマリアなどは貧しい国です。そして、北アフリカの地中海に面したアルジェリアやリビアも貧しい国で、これらの国では自国にいても仕事がなく、国の福祉支援もなく、餓死するのを待つだけだということで、危険承知でヨーロッパに脱出を試みます。

こうして密入国者が増えた国では、スラム街が生まれ、強盗殺人や盗みが蔓延し、国の治安が悪化しますから、心を鬼にしてでも経済難民を排除する施策を採らざるを得なくなります。もし受け入れでもしたら、密入国者はネズミ算で増えていき、収集がつかない状況になるでしょう。

経済難民を産み出している国は自国の都合にかまけていて、貧しく、人間とは思えない人たちが国を捨てて逃げていっても何も対応しないし、邪魔な、面倒みなければならない人間が減るので好都合だと思っているのではないかと思います。

自国にも、他国にも受け入れられない経済難民が増えている状況をどう解決するのか、は難しい問題ですが、ピケティ氏の言うように、貧富の格差は拡大する一方だとすれば、放置していれば悪化するばかりです。やはり、自国を捨てる経済難民が生まれる素地を減らす対策を根気強く進めるしかないでしょう。国を捨てるのは貧しい人です。仕事も、その日の食糧すらも、不足しています。自分たちで食糧を確保できる施策を促進する支援をするしかないと思います。砂漠で野菜を作れって言ったってできるわけないよ、ってこともありますが、灌漑すれば可能です。そこまでやらなくても、今は見捨てられている農耕可能な土地もあるはずで、これを有効活用する方法とか、現在の耕地からの収穫量を増やす方法を導入するとか、なにか施策はあると思います。

まずは十分な食料確保が最優先でしょう。でないと、世界の餓死者数は増加の一途となり、それは我々日本人の食糧事情にも影響を与えることになるでしょう。
追伸です!!!
7月20日、ファイルに保存していたこのブログ(7月24日公開)をチェックし、念のためFIFA会長の最近の言動を、とネットで調べたら、少し古い6月24日のニュースですが、会長に居座りたいと駄々をこねているようです!次回の選挙にも出馬するっていうんです!醜いですねぇ。こんな人がまたFIFA会長に選ばれるなら、FIFAの体質は腐り切っていると言えるでしょう。FIFAに代わる協会を作るべきだと思います。
ニュースの抜粋です。
「FIFA(国際サッカー連盟)のゼップ・ブラッター会長が辞任を撤回する発言をした。イギリス紙『BBC』が26日付で報じている。
5月29日にチューリッヒで行われたFIFA会長選で再選を果たしたゼップ・ブラッター会長。再選が決まった4日後の6月2日、ブラッター会長は会見で自らの辞意を表明していたとされていた。しかし、会長本人が辞任を決定していなかった旨を明らかにし、辞任撤回を明言している。」
全文をご覧になりたい方は次のURLでどうぞ。
http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20150627/325806.html

それでは「どうでもなれ!」ではなく「Let it be!そっとしておけ!」をお楽しみください。


Let It Be - The Beatles
https://www.youtube.com/watch?v=0714IbwC3HA
(完)

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カラコルムハイウェイKKHを辿る(後篇)

6月25日(木):カリマバード(フンザのバルチット)⇒ススト
朝、ホテルを出て3,40分、バスで走るとアッタバード湖に到着。
アッタバード湖
2010年1月の地震でフンザ川が堰き止められて出来た湖で、村やKKHが水に沈んだ。
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両舷に船外機を固定したボートで湖の上流の船着場を目指す。
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小雨が舞う中、船はL字形をした全長約23Kmの湖を約50分で移動。KKHを通るトラックは全て湖で荷をボートに移し替えねばならないのでかなり不自由な物流状態だと言える。中国の支援でトンネルを含む全22Kmの道路工事がほぼ終了し、この8月に開通式が予定されているらしい。トンネルは工事区間の6,70%だと思われる。所々でトンネルが切れては繋がっていて1本の長いトンネル、ということではないが、結構長いものもありそうだった。決壊による洪水を回避するため、パキスタン軍が水抜きをして水位は最大時よりも20mくらい低下したが、新KKHが開通したらダムとして発電に使う計画だという。それにしても船の上は寒かった!

船を下りると、これまでとは別のバスが待っていた。移動の途中でカテドラル山という、複数の峰がまとまった大聖堂のような山があったのだが、天候が悪く頂き辺りは雲の中で見えない。

グルミットGulmit村を訪問
以前はポロ、今はクリケットやサッカーのグラウンドの近くには学校があり、丁度昼休みになったのか、体育の時間か、制服を着た男女の学生が広場に出てきたので、英語で埒もない話をしているうちに当方の仲間はどんどん行ってしまったので慌てて追いかけた。
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うねうねとした村の路地を散策してから、絨毯工房に立ち寄る。販売もしていたが、シルクのキッチンマットが4万円というから決して安くはない。ドルか円で、ということだったが、H夫妻が使い道がないからといって余っている中国元で好ければ買ってもいいというと、最初は難色を示していたが2千元で折り合いが付いた。
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ひき続いて民家を見学。左の老婦人は伝統的な衣服を着用している。キッチンの奥にいる黒い服の女性は、旦那、つまり老婦人の息子、の所に嫁にきた人で、色白の美人だった。
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血筋
Gulmit村はフンザ藩主の夏の別荘があった所。藩主の血を引いた経営者が所有するホテル兼レストランで昼食を取った。経営者はバルチット砦に掲げられていた三代前の藩主と瓜二つ!
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パスーPassu氷河
氷河は道路まで到達していた。上流は氷だが道路から1kmほどの範囲では表面に土砂が被っていて、そこに氷河があることには気付かない。
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パスー村散策
豊かな自然に包まれて、せかせかせず長閑に暮らす人。
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学校帰りの子供
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こんな山間の小さな村で暮らす人もいるのだと、忘れかけていた昔馴染みの感傷がふと戻ってきた。羨ましい生活だが、秋にでもなれば雪も降り出し、冬は全く動きも取れず、厳しい暮らしを強いられているに違いない。それでも住めば都なのか、それとも他の選択肢がないのか・・・

なお、GulmitやPassu、この日の宿泊地スストSust、は上部フンザに属し、住民はワヒ族と呼ばれる。

スストSust(標高2850m)
パキスタン国境の町。中国人トラッカーの宿泊地で、KKH沿いには店やホテルが並ぶ。中国語が描かれた看板を掲げているところもあった。
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昔からの村はKKHからそそり立つ崖の上の平地にある。そこにはランド・ポート(コンテナ荷物の通関)もあると言う。行くには監視人もいる建物前のゲートを通り、坂道を1時間ほど登らねばならぬようだったので諦めた。
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(右を行くとカリマバードに戻る。左の坂の上がランド・ポート)

ホテルPTDC Motel Sust
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ホテルの屋根上から、バスで辿る方向を撮影。
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6月26日:ススト⇒中国タシュクルガン(タジク人の町)
手がかじかむ寒さの中、8時50分に出発。天候ははっきりしない。
ホテルから100m中国側に関門があり、右脇の大きな建物(写真の外)で出国手続きした。
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KKHを走って峠を目指す。
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クンジュラブ国立公園入口で2回目のパスポートチェック。顔写真も撮影された。
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カラコルム山脈を登ったところでヤクの群れに遭遇。
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ジプシーもこんな所まで来ているはずはないから野生だろう。霙(みぞれ)も舞っていた。
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標高4561mでバスを停め、車中でスストから持ってきたランチボックス昼食。シャリームさん達が造ってくれたおにぎりを頬張る。気圧は582hPa。
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高度と気温・気圧の関係
標高(高度)が1千m高くなると温度は7℃、気圧は100hPa、酸素濃度は10%、降下する。考えてみれば、気圧と酸素濃度の関係は「ボイルの法則」の通りだ。
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つまり、海上で常温(25℃)、常圧(1気圧1013 hPa)なら、クンジュラブ峠(4733m)の温度はマイナス8℃、気圧は0.5気圧、酸素濃度は半分、だ!

12:30峠に到着。パキスタン出国建物を過ぎて中国入国ゲートを目の前にする場所で記念撮影。パキスタン側の通関はノーチェック。建物には誰かいるのだろうが見かけなかった。
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一方の中国側ゲートは往時の玉門関かとも思われる建物で、そこが国境。近くに大勢がたむろしている。中国人に間違いないだろう。ここを一歩でも中国側に入った瞬間、写真撮影は禁止なので、早目にカメラをしまうよう添乗員から忠告を受ける。バスの外からカメラを見られると面倒なことが起きる可能性があるという。国境近辺の状況や施設の写真を外国で公表されないようにとの思惑だろう。撮影したことが発覚するとカメラは没収、入国拒否もあり、そんな事件がS旅行のツアーでも起きたことがあって、結局パキスタンに戻って帰国せざるを得なかったという。車内に若干の緊張が走る!
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中国入国
12:35
中国入国ゲート(玉門関)を過ぎて入国建物に到着。車内で待たされる!あとから来たパキスタン人の車の方から手続きしている。明らかに嫌がらせ!
13:05
バスを降りて建物に。中のトイレも使わせてもらえないようで、添乗員からは、素行に注意するよう事前に注意をうけていた。X線検査機のコンベア・ベルトの出口側の部屋で検察官に引かれた犬が2匹、うろうろしていた。麻薬チェックだろう。
入国検査室でバッグをひっくり返して検査されていたら、失くしたと思っていたタキシラで購入した古銭がポロッと出てきた。世の中、悪いことばかりじゃない!
13:55
手続きを終えバスに乗り込んだが発車しない!車中で1時間15分も待たされた!!!
15:10
やっと発車してタシュクルガンに向かう。中国人の官吏(軍人ではなさそう)が1人、乗り込んでタシュクルガンまで同行した。途中はトイレストップなし!!

中国入国手続ゾーンのスローガン
中国入国手続きが済んで外に出て、1時間以上もバスの車内待機している時、大きな赤い看板を見た。
   喀什団結、我的責任 喀什穏定 我的責任
   喀什発展 我的責任 喀什繁栄 我的責任
   喀什文明 我的責任 喀什和階 我的責任
意味は字から容易に推察できる。しかし、国は責任をもって喀什を守っているよ、発展させるよ、なんて公言しなければならぬのは、昔からウイグル族の住む土地に乗り込んできて石油や天然ガスなどの資源を搾取している漢民族の後ろめたさをカモフラージュためとしか思えない。

別のスローガンもあった。
   国门似鉄 宾至如歸(カタカナのリとヨを一文字にした“リヨ”)
帰国後ネットや手持ちの中国語辞典でしらべると、宾至は賓至で「頂点」の意味があるらしい。
「リ」と「ヨ」の組合せ字は帰の古い字体の歸の簡体字。帰と同じ意味のようだ。
で・・・意味が判らない!グーグル翻訳しても妙な日本語しか得られない。“国の門(出入国ゲート)は鉄に似て堅固に守備され、出入りする人は、賓客が国に帰ってくるかの如く心が休まる」ように国境を守ろう!”という意味か? 陽関や玉門関の扁額に書かれていそうな言葉だ。

クンジュラブ峠越えでは「眠るな」「写真を撮るな」と添乗員から注意されていたが、眠るのが何故悪いのか聞き損ねた。眠ると浅い呼吸しかできないから、空気が薄い所では高山病にかかり易いということか?

アイベックスとマーモットとヤク
峠の前後ではアイベックス(山羊属)とかマーモット(リス科)が見えるかも、とのことだったが残念ながらアイベックスには出会わなかった。
アイベックス:山羊属。スイスでは絶滅。残っているのは人工的な個体の子孫らしい。
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マーモット:哺乳綱ネズミ目(齧歯目)リス科マーモット属
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翌日のタシュクルガン~カシュガルの車中から、草原にマーモットが何匹かいるのを見たが停車してくれない。なんと気が利かない中国人ガイドと中国人ドライバーだ!

ヤク:ウシ目ウシ科ウシ属
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中国の官吏がバスに同乗
話を戻すと、中国入国手続きを終えて官吏(監察官?)1名が乗り込んだところでバスは出発。30分程走ると写真撮影に許可がでた!これは例外で、1時間、場合に寄ってはタシュクルガンに着くまで、撮影できないことがあるらしい。乗り込んできた官吏は若そうで、車中では一言もしゃべることなく、じっと前を見るか、大半は眠って、タシュクルガンまで同行した。
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パオが見えた!
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時々大きな建物を見た。KKH脇に発電所もあったが、他の大きな建物は工場に間違いないだろう。写真を一つ紹介する。
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KKHの整備工事に必要な材料(ブロック、コンクリート、砂利など)を遠くから運ぶのは効率が悪いので、パキスタンにも近いこの辺りで工事用の砂利の採取や、コンクリートブロックの製造をしているのかもしれない。工員は、工場の近くに造られた寮で暮らせば問題は少ない。しかし・・・人里離れ、なんの娯楽もなくてつまらないだろう!

段々とタシュクルガンが近くなったようだ。
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16:40
峠の入国審査場から約270Kmを走行した後、タシュクルガン(塔什库尔干)の通関に到着。勿論ここは撮影禁止。建物の入り口にバスをつけたが、いつまでも降ろしてくれない。トイレもだめだという。少ししてから「漏れそうだ!」と伝えたら、やっと離れた場所にあるトイレを使えることになった。
17:25
45分待たされた後、やっと建物に入る。荷物検査はX線だけで済んだ。ポリオ対策の白い飴玉のような薬を飲まされたが、官吏が見ていない時にティッシュに吐き出して、後で捨てた。まさか毒物ということはあるまいが、ひょっとすると体に悪いかもしれない。
18:00
通関完了。

感覚的には北京と3時間の差があるから、まだ15時という雰囲気で外はかなり明るい。ここからS旅行がアレンジを委託した現地旅行社がチャーターしたマイクロバス、ガイド(ブランベル女史;花びらの意。子供2人、カシュガル育ち)、ドライバー(アップシュルさん)で移動した。なおパキスタンではS旅行のパキスタン支社のガイド、マイクロバスでイスラマバードからフンザの先のアッタバード湖まで移動し、湖をボートで渡った後は、上部フンザでチャーターしたマイクロバスを使って中国まで来ている。

タシュクルガンはタジク族の町の意で人口5万人。4万人がタジク族、その他はウズベク族、漢族など。漢の時代は蒲犁(ホリ)国として知られ、タクラマカン砂漠からパミール高原を越えて西トルキスタンに至るシルクロード上のオアシス都市のひとつだったようだ。

まずは町中を通っているKKHを走り、石頭城址に向かう。
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石頭城
オリジナルは漢の時代に造られたというから2千1百年も昔だ。大唐西域記(玄奘三蔵が唐の太宗に命じられて提出した旅の報告書を編纂したもの)にも載っているという。綺麗な内城は清の時代に修復されたもので、土と石で組み上げられている。
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城跡からはムスターグ峰(7546m;詳細は後述)が見えた。
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パオが並ぶ草原の向うには「タシュクルガン川」、背景の山は崑崙山脈。
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ところで石頭城址を見た時、どこかで見たことがあるような・・・と思っていたら、思い出した。ウズベキスタンのアヤズ・カラに似ている!
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(撮影;2014年6月)
2つの砦はシルクロードで繋がっているから似ているのも当然かも知れない。
Wiki:アヤズ‐カラ(Ayaz-Kala)
ウズベキスタン西部、カラカルパクスタン共和国にある都城遺跡。キジルクム砂漠の縁に位置する都城の一つで、6世紀から7世紀頃の古代ホラズム王国のものとされる。
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その後、中華レストランで夕食を採りホテルへ。
ホテル:Crown Hotel(皇冠大酒店)
次の写真は翌朝撮影。朝日を受けて輝くのは西側にあるカラコルム山脈。
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6月27日(土):タシュクルガン(塔什库尔干)⇒カシュガル
朝の散歩で、KKHのバスの窓から見た川のそばを走る道路まで行ってみた。すぐそこに見えていたが予想以上に時間がかかる。広々としているので、いつもの距離感は当てにならない。ホテルに戻って川の名を従業員に訊いたが誰も知らない!ガイドのブランベル女史も知らぬという。ロビーで偶然出会った別の観光団体のガイドの男に彼女が訊いて教えてくれた。ディジナップ川だと言う。(後日、カシュガル空港内の本屋で見た地図で確認するとタシュクルガン川とあった!)全長は350Kmでクンジュラブ峠から流れた雪解け水はこの川を流れてタリム川に注ぐらしい。タクラマカン砂漠を東に向けて流れるタリム川(2千Km超)は砂漠の東の果て近くで消失してしまう世界5大内陸河川のひとつ(Wiki)。
次の写真は空港で見た地図の一部をタダ撮りしたものでKKHの中国ルート近辺が判り易い。
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ホテル出発時、同じホテルに宿泊し、カシュガルに戻るというイスラエル人ご一行(22人)の一人と話した。旅の全日程は3週間で、キルギスのビシュケクからカシュガル経由で来たと言う。「エルサレムに是非行ってみたいが、安全か?他に観光名所はあるのか?」と訊くと、笑って、安全だし、死海やその他の素晴らしい遺跡も沢山ある、と即座に応えてきた。必ず行ってみたい!

バスでホテルから川の方向に移動し、朝の石頭城址を眺めた。
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ティジナップ川(タシュクルガン川?)の草原のパオにはタジクの遊牧民が暮し、毎年、5月~10月は山に、11月~4月はこの辺りに下りてくるという。活動範囲には縄張りが決まっているようで、ここより下流のカシュガル方向には移住できないらしい。

タガルマ湿地帯
小一時間走ったところにあるタガルマ湿地Tagharma Viewing Point(塔合曼湿地景観台)で写真撮影!
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乗馬や野草鑑賞も楽しめて避暑地ならよかろうが、一年中暮らすのは大変だろう。

そこから30分ほど走ると西のタジキスタン共和国との出入国検査建物があり、更に走って標高4100mの峠を越え、カラクリ湖に到着。

カラクリ湖(Karakul)
ガイドによると黒い瞳の意味だというがWikiでは黒い湖でタジク語とある。標高3600mで、崑崙山脈の名峰ムスターグ峰(7546m)を背景に写真撮影。
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山の雪の厚みは300mで「雪の父」とも呼ばれるらしい。カラクリ湖に来る途中、この山の雪渓を間近で見ることが出来た。H夫妻から双眼鏡を借りて見てみると、そのスケールの大きさに感銘した。

土産売り
カラクリ湖では大人1人、小さな女の子2人の3人乗りバイクが近寄って来て、お土産用のネックレスなどを見せてくれた。
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ラピスラズリ製のネックレスが100元(2千円)だという。本物なら百倍の1万元(20万円)しても可笑しくない代物だが、「貧しい風体の物売りが、箱にも入らず裸のままで売り歩くネックレスが、高価な宝石でできている訳がない」というA氏の適切なコメントには、確かにねぇ、と感心させられた。元締めもいるに違いない。記念になるから偽物でも好いと考える人は買えば好いが、我が女房殿や嫁にいった娘は、翡翠やラズリに関心が薄いので、まして偽物では意味がない。

直ぐ近くにコングール峰(7718m)も7合目くらいまで姿を見せていたが山頂は全く雲で覆われ、どんな山なのか判らない。帰国後GEで拾った写真をつけておく。氷河で撮影したようだ。
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Wiki:コングール山(コングールさん、Kongur Tagh または Kongur、中国語: 公格尔山)は、中華人民共和国にある山で、標高は7,649m。崑崙山脈の最高峰!標高については7719mとの説もある。

更に移動してブルンコウ砂湖に(布崙口沙湖(Bù lún kǒu shā hú;ダム湖)
湖畔でバスを止めて写真タイム。昔は湖だったが、水が枯れ、湖底に溜まっていた砂が風で山まで吹き上げられた。その後、ダムが造られて湖が出来たので、山から湖畔まで砂丘が続く景観が出来上がったという。この世とは思えない場所だった。GEで見つけた写真を2枚載せておく。
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ブルンコウ砂湖を離れるとKKHは下り坂になり、カシュガルの平原までどんどん高度を下げていく。両側には切り立つ山が迫り、雪渓も見える。崖崩れが多いようで、あちらこちらで道路は寸断され、粗雑に修理された凸凹道や迂回路が多かったが、新しい縦貫道路を建設中で、コンクリートの橋げたや、土を盛り上げて真っ直ぐ引いた道路を造っている場所を頻繁に見た。
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道路の高架化は雪崩やがけ崩れで寸断されないようにとの考えだろうが、橋桁が壊される危険も高いから、かなり強固に造らねばならないだろう。
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寸断・修理の“もぐら叩き”が続く可能性は高いし、10月から4月は積雪でクンジュラブ峠が閉鎖になる上、道路は絶壁を切り開いたところが多くて車はスピードを出せないから・・・
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過酷な自然の中を走るKKHを中国・パキスタンの大動脈とするのは、どう考えても難題だ。そんなことは百も承知で、パキスタンに出張(でば)ってまで道路整備を主導し、重厚長大な事業を短期間で精力的に消化していく中国のパワーを目の当たりにすると、空恐ろしさすら感じる。
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川の向うにはキャラバン・サライ(隊商宿)の跡があった。
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平地に近づいてくると緑の岩肌の山(どんな成分の石か?)が暫く続き・・・
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そのうち赤い山並の「紅山」になってきた!鉄鉱石が採れるという。
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昼食は赤い山のところのレストランだというので、もうそろそろだろう、と思っていたらなかなか終わらない!赤い山々を見ながらゲーズ川に沿って暫くKKHを走り続けた。
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やっとレストランに到着
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ビール1本20元(400円)。銘柄は新疆碑酒Sinkiang(新疆Xīnjiāngじゃあない)!
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ここから喀什(カシ)までは45Km。かなり暖かくなってきた。

KKHの街路樹は胡楊、ポプラ、柳が多い。

カシュガルに到着した。
カシュガル(喀什葛尓):海抜1289m 
カシュガルは喀什と表記されると思っていたら、これではカシュとしか読みようがなく、正確には喀什葛尓(葛には口篇が付かないと駄目のようだがワープロには無い)と表記しないといけないと気付かされた。

ガイドのブランベル女史によればトルコ語で「玉で出来た町」の意。古代には疏勒(そろく)国の国都だったらしい。カシュガル地区の人口400万人、ウイグル族90%、漢族8%。地区の中心カシュガル市は人口40万人で70%がウイグル族、30%は・・・メモし忘れた。

まずはエイティガール・モスクと付近の繁華街の見学
イスラム教徒の多い新疆ウイグル自治区最大のモスク。
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モスクの門の建物を入ると緑が多い中庭にでる。
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奥にある本殿を見学。
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本殿の中のミフラーブ。メッカの方向だ。
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モスクを出て、近くの繁華街を観光した。まずは玉石店の「百玉翔」
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和田(ホータン)の翡翠などが売られていたが、高い!小さな石が2万元(40万円)もする!
モスクに沿て延びているバザールを歩く。
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通りの左右には店が並び、人の通行も多い。
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昔は繁盛していた板金屋の陰は薄くなったという。
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その後はバスで幹線路を移動。
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昔からあったという市場を見学
絨毯、フェイク時計、帽子、香辛料、衣類などの店が所狭しに並んだ規模が大きい市場だった。
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市場の中央口らしき所の写真がGEにあった。
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市場はこのモスクの向う側だが通り抜け出来そうにない。我々が入ったのは恐らく写真の左側の、モスクを回避した処にある入り口だと思う。モスク近辺を撮影したGEの衛星写真を載せておく。
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川を挟んで右側にある赤い蒲鉾屋根の市場を見学後、バスで橋を渡り、反対側にある旧市街へ行き、徒歩で街を見学した。
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瀬戸物街、鍛冶屋街(鍬の街と呼ばれるらしい)などが続いていた。自動車は通らない。
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鍛冶屋街の広場にあるモニュメント。子供たちが楽しそうに遊んでいた。
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夕食は凯斯尔宾馆(キャッスル・レストラン)。
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中は豪華絢爛。トイレを借りるため2階にゆくと、絨毯が敷かれた長い廊下の左右に個室が並んでいた。家族や団体用の個室だろう。1階ではバーもあり楽器演奏もしていた。
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夕食では件のシシカバブーを賞味。旧市街で添乗員が買ったハミウリも出て来た。
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両方とも美味しかったが、ビールが無い!その日がラマダンだからというのではなく、ビールはいつだっておおっぴらには飲めないようで、イスラム教徒には全く同情する。なお当日宿泊したホテルにはロビーのオープン・パブにあるガラス張りのケースに冷えた青島碑酒が並んでいた。

Wiki:ケバブ
中東地域とその周辺地域で供される、肉・魚・野菜などをローストして調理する料理の総称。日本語ではカバブという表記も一般的である。現代トルコ語では語末の子音が無声化して「kebap」と表記される。
串焼きのケバブは、「串」を意味する語を付して、トルコではシシュ・ケバブ、ウイグルではジク・カワープ 、アラビア語圏ではシーシュ・カバーブ、インドではシーク・カバーブ と呼ばれる。キルギスのドンガン語ではチエンチエンロウ(簽簽肉)と意訳して呼んでいる。日本では、インド料理のシークカバブが早くに紹介され、それがトルコ風に訛った「シシカバブー」という名前で親しまれてきた。

ホテル:天縁国際大酒店

6月28日(日):カシュガル⇒ウルムチ⇒北京
飛行場で
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中国地図を本屋でみたら、昨日の移動ルートがはっきり描かれている。元しか受け付けないというので、写真に収めて買うのを止めた。A1サイズの厚めのテカテカ光る紙に書かれていた。軍事用標準及び百姓の参考用と副題が書いてあり、物知りのA氏が「百姓とは農民ではなく、一般人民のこと。中国の姓の種類は百種類ほどなので百姓といっているだけだ」と教えてくれた。

この地図に寄れば、南シナ海の中国国境線はフィリピン、インドネシア、ベトナムの海域にかなり食い込んでいるが、尖閣諸島の部分については国境線が描かれていない!残念ながら、その辺りを写真で撮ることを忘れてと言うより遠慮してしまったのだが、この国境表記の意味するものは何か???古い中国地図では尖閣諸島は中国領土と確定していなかったと見て好いだろう。が、日本領土と認めているわけではない。というのは、尖閣辺りには国境線は描かれていなかったのだ!

機内で
利用する飛行機の到着が遅れたが、搭乗開始は当初予定の離陸時間10:20分より20分前の10時ジャスト。しかし、動き出したのは搭乗開始から70分後だった!隣に座った、医学学会レポートを読んでいた女は、CAが通るたびに何か一言文句を言っていた。多分、離陸の遅れにいらだっていたのだと思う。見るからに横柄で、典型的と言うと中国女性に失礼なので、古典的と言うが、そんな中国女に見えた。

北京に到着。中国南方航空の到着ターミナルから車で15分くらいのホテルへ向かう。
ホテル:Citic Hotel Beijin Airport国都大飯店

6月29日(月):北京⇒成田
朝5:30に朝食。直ちに北京国際空港に。ターミナルは数年前に利用したものと変わっていて、シャトルは使わずチェックインから徒歩で出国手続きができた。免税店で女房殿への形ばかりのお土産として翡翠のブレスレットをVISAで購入。どうせ娘に行くのだと思うが、何も土産がなくては少々気が引ける。500元(1万円)と手頃な値段のものを選ぶことにした。(その写真を載せようかとも思ったが、女房殿が既にどこかにしまった後なので言いだし辛くて写真は諦めた。

機内ではビールは飲まず、大人しく窓の外を見て過ごした。
浮遊感!!!
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フライト情報を移すディスプレイは懐かしいカラーモニターだが、色が安定しない!
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昔、電機会社でお世話になったカラーブラウン管が悪いと考えたくない気持ちもあって、多分、回路基板の電気部品が寿命になったんだろう、などと考えながら何度かモニターの様子をカメラに収めていたら、キャビンアテンダントがやってきて撮影は止めるようにジェスチャーしてきた。時代遅れの設備なので宣伝されると不名誉だと思ったからだろうが、まさか機密事項ということはないだろう。

そのうち富士山が雲の上に見えてきて、間もなくすると成田に到着。チェックイン荷物が無かったので、飛行機内で仲間とお別れの挨拶を済ませ、入国手続き完了したら直ぐに京成線乗り入れの京急で上大岡に向かった。

車中では大分から来たというアルジェリア女性と話して時間を潰した。旅行関係の仕事で別府に5年以上暮らしていると言う。日本語は片言。今回は三田まで行き、そこで多分乗り換えて、アルジェリアの大使館まで行くという。羽田を使わないのは飛行機と電車の料金を含めても成田の方が安かったかららしい。何でそんなことになるのか?距離が遠い国際空港の成田へ行く方が電車賃を含めても羽田に行くより安いなんて,理屈に合わないことが日本には多い!

やっと横浜・港南区の我が団地に着くと、女房殿は、荷物は全て洗濯機かベランダに運んで埃を全て落とすよう指示してきた。家に戻ったことを実感した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山脈
イスラマバード近くのKKHを北上すると左右と前方に大きな山脈が見え出す。
右:ヒマラヤ山脈Himalayan Range:
ヒマーラヤ(हिमालय  himālaya)は、サンスクリット語で、hima(ヒマ「雪」)+ ālaya(ア-ラヤ「すみか」)から「雪の住みか」の意
左:ヒンドゥクシュ山脈The Hindu Kush
名前の由来は不明。ペルシャ語で“インド人殺し”(中央アジアに送られるインド人奴隷がここで大勢死んだ)という説や、1世紀頃のインドのHinduとクシャーナ朝Kushan Empireから生まれた言葉だという説などがある。
前:カラコルム山脈The Karakoram, or Karakorum
トルコ語で「黒い砂利」という意味。
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現地の西遊旅行がくれた絵葉書とアルチット砦の入場券(右上)の写真。
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「カラコルム」についての雑情報
KKHカラコルム・ハイウェイ
中国人ガイドによれば、カシュガル~ラワルピンジの13百Km。パキスタン人ガイドはラワルピンジよりも少し中国側のハリプールだと言う。

Wiki:カラコルム・ハイウェイ (The Karakoram Highway: KKH)
中華人民共和国新疆ウイグル自治区最西部とパキスタンのギルギット・バルティスタン州(旧称:北方地域)を、カラコルム山脈を横断して結ぶ道路である。途中海抜4,693メートル(15,397フィート)のクンジュラブ峠(英語版)を通り、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所を通る道路でもある。1959年着工し開通は1979年。工事で死亡した中国人の墓がパキスタンにもあるという。
中国では中パ友好道路とも言う。

KKHを走るトラック
俗称「デコトラ」は日本語らしく、英語ではジングル・トラックjingle truckとなっている!(jingle:チンチン鳴る)
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モンゴル帝国の首都カラコルム
Wikiを見ると「首都カラコルムKarakorum、カラコルム山脈The Karakoram、カラクム砂漠Karakum Desertを混同しないように!」との注意書きがまずあってから解説が始まる。
カラコルムは、13世紀のモンゴル帝国、14-15世紀には北元の首都(以下省略)。モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市。カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。
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Wiki:北元
1368年に、元(大元)の第14代大ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の元(モンゴル帝国)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん)と呼ぶ。

カラコルム山脈(Karakoramカラコルムさんみゃく)
パキスタン・インド・中国の国境付近に横たわる山脈である。アジアの大きな山塊の一部として広義のヒマラヤ山脈の一部であるが、狭義のヒマラヤ山脈とは独立した山脈である。氷河の多くが瓦礫に覆われている。カラコルムとはトルコ語で「黒い砂利」という意味である。
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カラクム砂漠(Karakum)
中央アジアのトルクメニスタンに存在する砂漠である。テュルク系の言語で「黒い砂」を意味する。
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参考:
*キジル-クム砂漠(英語:Kyzyl-kum)
カザフスタン、ウズベキスタン、それにトルクメニスタンの一部にかけて広がる砂漠。テュルク諸語で「赤い砂」を意味する。
つまりキジルが赤でクムは砂。ということでカラは黒を表すテュルク語と言える。

カラクリ湖The Karakul or Karakuli
喀拉库勒湖(英語: Karakulまたは Karakul Lake)またはカラクル(Karakul=黒い湖の意味)は中国新疆ウイグル自治区クズルス・キルギス自治州にある湖である。南正面の眼前にムスタグ・アタ山(7,546m)、東に遠くコングール山(7,649m)の両雪山が見える。中国・パキスタン公路の途中にあり、海抜3,600メートルで、面積10平方キロメートル。通常カシュガルからの観光が行われている。
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Mt Kongur and Lake Karakul viewed by the Karakoram Highway, Xinjiang, China

(完)

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mh徒然草46:よく判らない韓国

今日は5月15日。熱いです!一昨日から30℃を超える真夏日で、今更ですが異常気象が蔓延(はびこ)ってきたことを再認識しました。地球は加熱される程、不安定度が高くなり、どこかで起きる些細(ささい)な変動が、離れた場所で燃えるような熱気や、凍りつくような寒気をもたらします。農業への影響が心配です。穀物、野菜、果物などは平年並みの気候を想定して品種選定や栽培作業を進めていますから、平年より暑くても寒くても収穫量が減少します。つまり、地球温暖化で異常気象が進めば、かねがねmhが愚痴(ぐち)っている貧富の差の拡大で、値上がりした食糧を十分に買えず、栄養失調で死んでいく人は増えていくでしょう。

念のため、と思って餓死者データをネットで調べてみました。年間2千人です!
どこでか、って聞くんですか?日本です!わが国で毎日5.5人もの人が餓死しているのです!
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WFP(World Food Programme)によれば、世界では8億人がカロリー不足による不健康な生活を送っていて、栄養不足による死亡率は5歳以下の子供で45%。毎年3百万人の子供が死んでいるとのことです。

こうなると食べ放題や飽食番組が幅を利かせている平和ボケした日本は、一肌脱いで貢献する方法を考えないといけないと思いますねぇ、集団的自衛権なんかで貢献するより世界のためになるでしょう。

ところで、最近、日本の戦時中または戦前の反射炉や炭鉱の島などの遺跡が世界歴史遺産に推薦され、日本中で「いいんじゃないの?」ってムードでいたら、韓国国会の外交統一委員会で「日本が植民地時代の施設を世界遺産登録する動きを非難する」ことを決めました。
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これで火が付いたというか、タガが外れたというべきか、今度は韓国国会で安倍首相を名指しで非難する決議案を採択し、合わせて明治以降の日本の産業革命遺産の世界遺産登録を非難する決議も採択されました。
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確か、韓国国会内に日本の産業遺産の世界登録を阻止する組織を作ったっていうニュースもあったと思います。

そして5月13日、今度は北朝鮮の軍人でNo.3の男が数百人の兵士の前で高射砲のようなマシンガンで射殺されたというニュースが韓国の政府機関から流れました。韓国情報によれば、金正恩将軍様に何かと反論し、将軍様が演説されている時に居眠りしていた、って理由で粛清されたとのこと。
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てっきり、そうだと思っていたら、今度は、粛清されたはずの軍人が金正恩と一緒に登場する過去のニュース映像が今も流されていて、粛清されるとその人の姿は過去映像からも消去されるという北朝鮮の過去の例に照らすと、ひょっとするとまだ生きているのではないか、とのニュースが、また韓国から流れてきました。

これら一連の韓国の国会やマスコミの対応は、何ていったらいいのか、やっぱ「いいかげんにしたら?」って言うのが一番適切なコメントではないかと思いますねぇ。

韓国人にもまともな人は多いと思いますが、最近目立つのは軽薄で、低俗で、その上、身勝手な、韓国の政治家やマスコミの言動です。ある韓国人がネットに投稿したコメントで「韓国(自国)はやっぱり三流国で、日本と並んだとか日本を追い抜いた、なんていうのはおこがましい」とありますが、日本人のmhが言うのもなんですが、的を射ていますねぇ。こういう冷静で的確な分析ができる人が韓国人の中にも居てくれるというのは心強いです。

こんな様子を見ていると、韓国の政治家やマスコミの言動をいちいち批評するのは馬鹿らしいから、日本政府もマスコミも彼等の言動を無視していればいいのではないかと思いますねぇ。しかし、そうはせず、いちいち批評したり非難したりしていますから、日本側にも何かやましい、隠された裏があるのかしら、と勘繰(かんぐ)ってしまいます。

何はともあれ、韓国の今の風潮では、物事を正しく見たり考えたりしないまま、ああでもない、こうでもないと不満や愚痴を言い続けるしかないでしょう、彼等の国会やマスコミは日本なんかよりもずっと偏屈ですからね。
良識ある韓国人の方々。ご愁傷様です。

緊急追加報告!!!
昨日6月15日、夜遅くに放映されていたビート武の「TVタックル」を何気なく見ていると、日本が申請している「明治日本の産業革命遺産」について韓国政府や国民から批判がでていることを取り上げ、韓国の批判をおかしい!とする日本側のコメンテーター2,3人と、韓国の主張を支持する在日韓国人(?)の大学教授らしき2人を招いた討論が行われていました。

複数の世界遺産候補の中の一つで軍艦島とも呼ばれる炭鉱の島「端島」
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Wiki端島(はしま)によれば「36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である。」
以降40年前の1974年に閉山するまで石炭の島として日本の産業の発展に貢献してきました。

この炭鉱では日本人に混じって韓国人も大勢働いていたようです。過酷な労働なので給料も高く、日本でTV普及率が10%の時代、この島の普及率は100%だったとか。TVが流行りだした頃には恐らく韓国人労働者はほとんど国に帰るなどして島には残っていなかったのではないかと思います。

で・・・
日本側コメンテーターの一人は、右よりで知られる田母神 俊雄(たもがみ としお)氏で、「日本を妬(ねた)んで反対しているだけ」と韓国側の意見を切り捨てていました。彼の発言態度を見ていると我侭(わがまま)な老人そのもので、とても好きにはなれませんが、こと本件に関する限り、彼のコメントもあながち的外れではないなぁ、などと思って見ていました。

しかし「ところで今回の遺産については18○○年(○○はいつだったか失念しました)から1910年にかけて日本で造られ日本の明治時代の文明開化を実現した歴史遺産として登録を目指しているのですが、この件についてはどう思われますか?」と局側から問題提起がありました。

えぇ???なになに、1910年までだって???
ネットで確認してみましたが、どうもそのようですねぇ。

「ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)は5月4日、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録につき「登録がふさわしい旨」を勧告しました。」
「今回のイコモスの勧告では、顕著な普遍的価値について
一連の産業遺産群が非西洋国家に初めて産業化の波及が成功したことを示していること、
19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、日本は製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業を基盤に急速な産業化を達成したこと、
一連の資産は1853年から1910年のわずか50年あまりの短期間で急速な産業化が達成された幕末、明治前期、明治後期の三つの段階を反映していること、が証明されているとしています。」

しかし、TVで1910年まで、というのを聞いた時、えぇ??て思いましたねぇ。なぜって明治時代は明治天皇が崩御する1912年まで続いています。どうして明治が終わる1912年までとせず「1910年」までの遺産としたのか???

そう!1910年は日韓併合の年です!明治が終わる2年前でした!

Wiki「韓国併合(かんこくへいごう Japan's Annexation of Korea)
1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合、植民地化した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記される。この後、日本による統治は、1945年(昭和20年)9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いた。総督は現役または予備役の陸海軍大将が歴任した。

朝鮮総督府の総督だった陸海軍大将は勿論、日本人です。つまり、1910年から、朝鮮、今の韓国と北朝鮮、は日本が統治し始めたのです。日本が韓国を支配していた時期は遺産査定範囲から除外されているのです!

韓国が併合され日本統治になった以降は、日本の産業発展のためとの歌い文句で、韓国に駐在する日本人のお偉いさんの命令で韓国人は日本に送り込まれ、日本人が嫌う職種を押し付けられ、安い賃金でこき使われたのではないかなぁ、と推察します。

昭和30年頃、山間の田舎町で小学校低学年生だったmhは次のようなはやし歌を知っていました。
「朝鮮人・朝鮮人とば~か(馬鹿)にするな。朝鮮人はか~わいそう、なぜかとい~えば、戦争で負~けて、おうちはペッチャンコ」
貧しい暮らしを強いられていた韓国人を含む在日朝鮮人を下等な人民と見下す歌です。誰が作ったのか知りませんが、つまらぬ日本人がいたものだと呆(あき)れます。私の田舎にも少なくとも1家族の在日朝鮮人が暮らしていました。その家のご主人は毎日リアカーでゴミ集めをしては金属ゴミなどを売って一家の生計を立てていました。当時、日本の社会で日本人と同じようには認められていなかった証拠で、今でも同じ問題は残されていると思います。

一体全体、誰が、明治が終わる1912年から1910年に繰り上げて世界遺産審査を請求するよう画策したのか。定かなことはネットからは読み取れませんでしたが、内閣主導の提案とのことなので、安倍首相の指示か、これを忖度(そんたく)した下村文科相や岸田外相の差し金に違いない、と推察します。

まったく、いやな性格の人ってのは、いつの世にも、どこの国にもいるんですねぇ。ご愁傷さま!なんて韓国民に言っている場合ではありません。日本人こそご愁傷さま!ですねえ。
いや、やっぱり、ご愁傷様は日本人と韓国人でしょう!で中国人も???
際限がなくなってしまうので、ここで打ち切りましょう!!!

緊急追加報告2
昨日(7月5日)の深夜、明治日本の・・・は世界遺産登録されました。韓国と日本の泥仕合に辟易した議長国ドイツや理事国は、2つの国のしがらみを初めて知って、どう思ったか定かではありませんが、「どちらもいい加減にしたら?」って気分だったと思います。

お昼のワイドショーでは韓国と日本が行った意見陳述の一部についての英語表現について取り上げていました。
岸田外務大臣「我が国の発言におけるforced to workは強制労働を意味するものではない。」
確かに、文字通りでは「労働を強いた」であって「強制労働」ではありません。
で、韓国側の陳述には「forced labor」とあって、これは文字通り「強制労働」です。
「forced labor」は一つの名詞としてネットで検索できるらしいんです。Googleで試すと、日本語辞典の「強制労働」という訳しか見つかりませんでした。しかし、出演していた国際弁護士によれば、forced laborの場合は、命に係わる仕事も含まれるがforced to laborだと働くよう強いられるだけなので重みが全く違うといいます。

でも、そのことが日本が韓国に強いたことを考えるうえで、重要な違いだとは、私には思えません。結局、2国間で合意した表現はbrought against will and forced to work(意思に反して連行され仕事を強いられた)で落ち着いたとのことでしたが、・・・

韓国と交渉する人が困っているのは、韓国はmoving goalpostだと言っているようです。サッカーなどのゴールポストの位置が韓国によって恣意的に変えられ、いつまでたっても得点に到らせてくれない、ということで、はっきり言えば「図々しい」ということです。たしかに対馬の仏像の盗難に関する韓国政府や司法の対応や世論を聞いていると、図々しいと言いたくなる時がありますねぇ。

しかし、1910年とした点や、「forced to workが強制労働を意味しない」と開き直る点など、日本の対応も何というか「薄っぺらで性懲りのない狡さ」が垣間見えています。言葉遊びばかりして誠意がない人は、やっぱり、信用できないですねぇ。

結局、日本も韓国も、どっちもどっち、目糞鼻糞で、おかしな国同士ではないかと私は思います。こんな調子で対応しあうのが外交だとしたら、外交とは何と上っ面だけで中身がない、言葉遊びのお付き合いなのでしょう。

"Rhythm of the Rain" - The Cascades
https://www.youtube.com/watch?v=iczdtVWaSHE
(完)

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カラコルムハイウェイKKHを辿る(前篇)

「クンジュラブ峠越え、パミール大横断11日間」の旅 (S旅行社)(前篇)
期間  :2015年6月19日~29日
参加者 :A氏70歳、・・・鎌倉
      K氏75?歳・・・深谷
      N氏68歳・・・西東京
      H夫妻(72歳?)・・・大阪(神戸?)
      mh
添乗員: F氏(31歳、S旅行)・・・?
以上の合計7人で、成田~イスラマバード~カシュガル~成田を移動。

6月19日:成田⇒イスラマバード
9時少し前に横浜の自宅を出発。成田には12時前に到着した。成田発14時のパキスタン航空で北京を中継してイスラマバードへ向かう。飛行機の最終目的地はラホールLahore。成田出発は1時間半ほど遅れた。いつものことのようだ。
今回の旅ではカラコルム・ハイウェイ(KKH)を辿ってイスラマバードからカラコルム山脈のクンジュラブ峠を越え、中国カシュガルに向けて北上する計画だ。旅行ルートを次の衛星写真に黄色いピンで示しておく。
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パキスタンと日本の時差:4時間
イスラマバード:首都。隣接するラワルピンジと合わせて人口320万人。新たに造られた首都で、その前はインダス川河口のカラチが首都だった。
イスラマバードは到着当日の6月19日の昼で41℃と高温で、ジャスミン、ハイビスカス、ブーゲンビリアの季節だった。到着は2時間遅れの23:30。当日イスラムの断食ラマダンが始まった。

ホテル:Hillview
Ramadan Kareemなるカードがロビーにあったが、ラマダン・カレー?日が沈んだら食べる食事がホテルでも準備されているという知らせか?

6月20日:イスラマバード⇒ベシャム
早朝、ホテル周辺を散歩。店の広告は英語ばかり。現地のウルドゥー語の表記少なくて驚いた。
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S旅行社の専用マイクロバスでタキシラ遺跡に向かう。
ガイドはシャリームさん。背が高く知的でハンサム。35歳?高校までフンザで育った。父親はフンザの校長だったらしい。ドライバーはガタールさんで50歳くらい。控えめな人だった。

ホテルを出てShah Faisal Mosqueを外から見学。
アジア最大のモスク。屋内は10万人、屋外を含めると80万人収容できるという。元大統領で女性のベーナズィール・ブットー氏を奉る小さな廟もあった。2007年、ラワルピンジで選挙演説中、イスラム過激派の銃弾と自爆テロで暗殺された。
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モスクを写真に収めたところでグランド・トランク・ロード(グレート・トランク・ロード)GTRを通ってタキシラ博物館へ。GTRはカラコルム・ハイウェイKKHと並ぶパキスタンの重要幹線道路で、次の地図に寄ればインド~パキスタン~アフガニスタンを走る。
Wiki:GTR
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Wikiによると「大幹道( Grand Trunk Road)は、アジアの最古で最長の主要道の1つである。バングラデシュのチッタゴンからインドの西ベンガル州のハウラーを経由して、北インドを横断しパキスタンのラホールを越え、アフガニスタンのカブールに至る。2000年以上前からインド亜大陸の東と西、即ち南アジアと中央アジアを結んでいる道で、アジアンハイウェイと呼ばれる道路網の一部になっている。」

タキシラ博物館(Taxila; Gandhara)
付近一帯に散在する遺跡から移設した仏像、壁面芸術、小形のストゥーパ、古銭、道具、石器土器が展示されていた。館内は撮影禁止だが、ブラブラしている監視員が「写真とってもいいよ」と誘ってくる。これは罠で、うっかり応じると数十USDの罰金を個人的に請求される!との事前情報を添乗員から受けていたので「No, thank you」で対応。
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タキシラの都城址シルカップ:世界遺産
古代都市遺跡。中央通りにはパン屋などが並んでいた所も。ゾロアスター、仏教、バラモン教(ブラフマン教でヒンドゥの一種)などの寺院跡もあった。近寄ってきた男から10ドルでアショーカ王が刻印された古銭を購入。真贋の程は大いに疑問だが、宝くじを買うより夢のある買い物だと思うと楽しい。
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Wiki:シルカップ(タキシラ遺跡群)
タキシラの対岸に位置し、バクトリア人によって建設された。2世紀にクシャーナ朝により、シルスフが建設されるまで首都としての機能を有していた。町を南北に貫くメイン・ストリートの存在、碁盤目状の都市形態であり、家屋は石灰岩のレンガを積み上げた上で、その上を泥や壁土で塗装したものも見受けられる。北に置かれたメイン・ゲートから南に100mのところには仏教寺院が設けられ、さらに、南には双頭の鷲のレリーフを彫りこんだストゥーパが建設されていた。インド、ギリシア、イランの3つの文化の融合を示す象徴である。都市の南部は王宮であり、謁見室やハレムが設けられた。

Wiki解説に出てくるバクトリア、クシャーナ朝などについては後日公開予定のFC2ブログ「Mysterious questions in the world」仮題「ガンダーラの不思議」をご覧下さい。

そこからバスで20分ほど移動して・・・
ジョウリアン僧院址:世界遺産
丘の上にあった。途中、ダムから引いた水が流れる運河を渡る。水浴びしていた。遺跡には綺麗な石組みの壁が残っている。博物館でも見たが、石壁は、古いものほど見事で芸術的だ!
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Wiki:ジョーリヤーン
タキシラ考古遺跡の北東に位置するジョーリヤーン(Jaulian)は、タキシラを一望することができる丘の上にある考古遺跡である。2世紀のクシャーナ朝時代に建設されたジョーリヤーンにもまたストゥーパと僧院が建設された。メイン・ストゥーパの周囲には小ストゥーパ群が展開していると同時に、様々な彫刻群が施されている。メイン・ストゥーパの東側に僧院が広がっていた。僧院の在りし日の姿は中庭を僧坊が囲む形で建設されていた。ジョーリヤーンで発見された瞑想する仏陀の坐像はグレコ・インド様式からグプタ様式への過渡期に作られたものである。

カラコルム・ハイウェイKKHに入る!
グランド・トランク・ロードを離れ、いよいよカラコルム・ハイウェイ(以下KKH)を北上する。中国では「中パ友好道路」とも呼ばれている。インダス川~ギルギット川~フンザ川にそってカラコルム山脈のクンジュラブ峠を越え、カシュガルまで行くのだ!全長は約1,300Km。
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KKHのパキスタン側起点については諸説ある。ガイドのシャリーム氏はハリプールHaripurだと言い、後日一緒に旅をした中国のガイドはラワルピンジRawalpindiだと言った。中国側起点はカシュガルKashgarで問題はないようだ。

ここからKKHだ!
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昼食
湖畔の、KKHから少し入ったホテル兼レストランで休憩。スープ、焼きそば、ライス、お粥、ナン、ゆで卵、などを食べた。日本人に向いた上品(控えめ)な味付けで、どれも美味しかった。湖の大きさは琵琶湖より二回り小さい感じ。帰国後Google Earth(GE)で調べたらKhanpur Lakeのようだ。
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パキスタンの男の服
「ズボンとシャツ」という意味の「シュルワール・カミーズShrwar Qamiz」と呼ばれる。カミーズはシミーズのことらしい。外出用のステテコとすっぽり被るゆるゆるシャツを少し上品にしたようなもの。暑い地方では快適だと思う。次の果物屋の写真にこれを着る人が写っているので参照のこと。

果物屋に立ち寄る。
外国人がめずらしいようで人が集まってきた。楽器を弾く老人もきて、金をせびっている風だったが無視し、500ルピー(600円くらい)で林檎と葡萄を購入。価格は日本の1/2程。平均給料は1万円程度のようだが、この辺りではもっと安いだろうから、店で買わねば入手できない葡萄や大きなリンゴ(この辺りのリンゴは小さいものが多い!)、バナナは彼らにとって高価ではないかと思うが、結構沢山おいてあるから・・・
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以前は欧米から大勢の観光客が訪れたが、ニューヨークの9・11テロや、これに続くイラク戦争などでアメリカとパキスタンの関係が悪化して以来、観光客は極端に減って、今は日本人や中国人が多いという。今回の旅行会社であるS旅行社はパキスタンに関しては日本の最大手だろうとの添乗員の弁。旅行中、日本人旅行客に会わなかったので、誇大宣伝ではなさそうだ。

軍施設で成り立つ町を通過
結構大きくて、見た目では人口3万くらいか?レンガの塀で囲われた軍敷地がKKHに面している処は何箇所も見たが、この町では特に多い。大病院もあって、過去に地震が起きた時、遠くから大勢の怪我人が詰めかけたらしい。

今回パキスタンで見た軍施設は、広い敷地を囲む塀の上に有刺鉄線がコイル状に巻かれて置かれ進入を防いでいるが、塀の向こうには大きな建物が少なく、軍用トラックなどの車両の駐車と、ライフル射撃訓練をしている程度では?と思われるものばかり。とても戦車やミサイルなどがあるようには思えなかった。アフガニスタン国境やインドと紛争になっているカシミールあたりに精鋭部隊が配置されているのだろう。参考に、ギルギットに向かう途中で撮影したKKH沿いの典型的な軍施設の写真を載せておく。
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ビンラディン暗殺の町アボッタバードを通過
2011年5月、アメリカ人の特殊部隊に暗殺された。イスラムの同朋を守れなかったとの負い目から、パキスタン内で事件が公に語られることはなく、彼が殺害された家は潰して公園にする計画が出ているらしい。場所はKKHから百mほど入った所だという。

バタグラム村(町)を通過
厳格なスンニ派の村。通過したのは午後4時頃だったと思うが、道路は買い物をする男達で溢れていた。ラマダン中の夕食では、健康のためか、主食の前に果物を食べる習慣があるようで、これを買い出しするために店が並ぶ通りに出てきているらしい。
女性はラマダンとは関係なく、特にスンニ派の女性なら、いつだって外に出ることは少ないという。勿論、学校に行って勉強することもなく、インターネットなど触ったこともない。こんな女性が着る服は、彼女の希望を聞いた男が店で生地を買い、女性が自分で仕立てるか、仲間の仕立屋に縫製を頼むらしい。

ホテル:PTDC Besham Motel (PTDC; Pakistan Tourism Development Corporation)
あるホテルでみたPTDCの記事によれば、1970年に創立された、政府が99.75%の株を持つ観光促進法人のようなもので、ホテルやモーテルの経営と観光促進活動を行っている。この日のホテルは、添乗員によれば今回の旅で一番「しょぼい」とのことだった。裏庭の手すりの直ぐ下はインダスの川原。庭にマレーシアから来たという夫婦がいたので2ショット写真を撮ってやり、雑談した。自転車に乗ったり飛行機で運んだりしてインドからパキスタンに入った所とのこと。こんな調子でヨーロッパまで行くらしい。目標は世界一周かも知れない。
(ホテルの庭からインダスの下流側を望む)
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6月21日(日):ベシャム⇒チラス
KKHから脇に入る道路の入り口辺りには関門を設けて見張りを立てているところもある。こんな道路の先には村があって、村の女を取られないよう見張るのが目的で始まった監視システムらしい。国中がこんなだとしたら、パキスタンは外国人女性が一人で旅することができる国とは思えない。

警備兵の同行
途中から警備兵が同行することになった。この警備兵はバスを先導する小型車で同行。
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こうして、町や自治体が変わるたびに警備兵が変わり、時には警備兵なしで、ギルギットの近くまで移動を続けることになった。外国人旅行者を守ることが理由だろうが、他にも理由があるなら恐ろしい。

大麻
KKHの随所で路肩に野生の大麻が見うけられた。畑で栽培しているのも見た。香辛料として使うらしい。
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中国に持ち込めば死刑の恐れがある。2013年10月、中国・広州の飛行場で覚醒剤3Kgがスーツケースの二重底と、中身のサンダルの底から見つかったという愛知県稲沢市議は、ネットで確認したら、既に何度か法廷に立ったが結審は先送りされている(本年1月頃の話)。無期懲役か死刑の可能性が高いらしい。
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チラスの岩絵
2~10世紀にかけて褐色の岩の表面に描かれた。シルクロードを辿る旅人がインダスを渡るためにこの辺りで寝泊まりしながら描いた、仏教、ヒンドゥ教、イスラム教関連の絵や文字だ。キャンバスになった褐色の石の種類が判らないが、多分、鉄分を含み、これが酸化して赤みを帯びた表面を、硬い石か銅などの金属で叩いて剥がし、絵を浮き上がらせているのだと思う。
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ダム予定地を通過
インダス対岸の山肌に「Diamer Dasha Dam/Well Come」と白く書かれている!白線は予定水位を示すのだろう。2018年完成予定というから、あと3年しかないが、それらしい工事現場は見なかったので、中国主導で突貫工事が行われるのかも知れない。山肌に白く文様を描くには、その辺りに転がっている石に白いペンキのような塗料を塗り、白い部分が道路から見えるようにして山肌に並べてゆくようだ。この方法でかれたサインは、何度は見かけた。KKHの脇の岩壁にペンキで書いた選挙ポスターのようなものやホテル案内も多かった。
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ホテル:Shangrila Indusview
夕食前、外を眺められる廊下でテーブルを囲み、ツアー仲間の男4人で柿の種などをつまみに、K氏が日本から持ち込んだ焼酎で歓談した。私は成田で買ったアタリメを供出。
(裏庭でインダス下流方向を望む)
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翌朝(6月22日)にホテル・フロントで投函を依頼した絵葉書は、帰国後の7月9日、横浜自宅に配達された!

6月22日(月):チラス⇒カリマバード(フンザのバルチット)
左にヒンドゥクシュ山脈(ペルシャ語:インド殺し)、右にヒマラヤ山脈(サンスクリット語:緑の山)、前にカラコルム山脈(トルコ語:黒い石)を眺めながらKKHを進んでいく。
今日の最初は髭のお爺さんが我々のガードだ。写真撮影を催促されたのでパチリ!
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パスポート・チェック
砂漠の中にあるような渓谷を走り、地方空港もある町ギルギットGilgitの領域に入ろうという所で、KKH脇の砦のような建物で警備兵(国軍?)に通行チェックを受ける。担当の兵は、まず、ガソリン式の発電機を作動してパソコンを起動。そして1人ずつ机の脇の椅子に呼び寄せ、ディスクトップのキーボードを叩いてはパスポート情報を入力し、小型カメラで顔写真もPCに取り込んだ。
次の写真は砦内で撮影したもの。西部劇の“メキシコ砦”のセットみたいな場所だった。
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世界第9峰でパキスタン第2峰のナンガ・パルバットNanga Parbat(8126m)
ガイドによると、パキスタンでは6千m以下は山とはみなされず名が付かない。8千m超の高山は世界に9山で、パキスタンには5山があり、最高峰がK2(8611m)で、これは世界第2峰。K2もNanga Parbatもカラコルム山脈にある。
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カラコルム山脈、カラコルム・ハイウェイなどの「カラコルム」という言葉は、トルクメニスタンのカラクム(砂漠)や、今から訪れるカラクリ(湖)と響きが似ている。モンゴル帝国の首都カラコルムもある。なにか理由があるだろうと思ってWikiで調べるとトルコ語系の「黒い石」を意味する語のようだ。詳しい情報は最終段で紹介する。

インダスではジプシー(遊牧民)が砂金採りをするようでそれらしいテントも見たが、遊牧が主業でこちらは副業らしい。彼等が飼っている羊はイスラム教徒のお祭り時は生贄として高く売れるとのこと。羊が村人の敷地に入り草や野菜を食べるとと、村人と喧嘩になることがあるという。
次の写真では、インダスはガードレールの直下で見えない。中央奥の雪山から流れくる渓流に寄り添うように村がある。灌漑水路で山裾に沿って水を引き、畑や果樹園を営んでいる。
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インダス川との別れ
ここからインダスを離れ、Gilgit川に沿ってKKHを走っていく。
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中央奥から流れてくるのがインダス本流。左側からKKHに沿って流れてくるのが支流のギルギット川だ。
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インダス川はギルギットGilgit川との合流点から少し上流で大きく南東に曲がりヒマラヤ山脈に続いている。水源地はチベットだという。

次のインダスを示す地図にはGilgit川とIndus川の合流点が図の上のほうに現れているが、我々の目的地のカリマバードを流れるフンザHunza川は地図には記載されていない。フンザ川はGilgit川に下流域で合流している。
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次の写真はギルギットの町に向かう途中で撮影した。
やはり、渓流が流れている場所に緑と村とが集中する。ここは紅葉の時期は最も美しいスポットの一つらしい。
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KKH建設の碑
ギルギットの町をかすって通過して直ぐの所に中国とパキスタンの共同作業で造られた舗装路KKHの完成を記念して建てられた碑があった。フンザ川対岸のノームル村の背後の山の陰に、この5月、パキスタン軍ヘリが墜落し、フンザ観光促進のために招待され搭乗していたノルウェー大使などが死亡している。日本大使が載ったヘリは問題なかった。
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建設の碑を過ぎるといよいよフンザの懐カリマバードに近づいていく。
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フンザHunzaとナガールNagar
フンザ川を挟んで隣り合う2つの地域は何かと違いがあるようだ。
          フンザ       ナガール      、
場所    フンザ川の西    フンザ川の東
名の意味   弓と矢        花
人口      5万人       7万人
宗教    イスマイル派     シーア派(の何派?)
      Ismaili Shia Muslims  Shia Muslims.

決定的な違いはイスラムの宗派差による戒律の違いと、観光資源の量だ。観光の村として既に名も知られ、その地位を確立しているフンザには、観光中心のカリマバードKarimabad(バルチットBaltitとも言う)という人口8千の村があり、外国人も泊まるホテルが集中している。

フンザの宗教のイスマイル派はシーア派の一つだが、特に規則が緩い。女性の地位に対する偏見は最高指導者によって取り除かれていて、女性は学校にも行くし、外出もする。よって生徒数は多く学校も多い。しかし、対岸のナガールはシーア派の別の宗派で、女性の行動に制約が多く、ホテルや学校もフンザと比べれば格段に貧弱だ。ナガールの女性はフンザの女性を羨んでいるという。

Wikiには次の表記も見つかる。
「フンザではシーア派イスラムのイスマイル派信者が多く、パキスタン他地域のイスラム教徒と比べると、風習や服装はかなり異なる。」

ここで簡単にイスラム教宗派の解説をしておく。
イスラム宗派
スンニ派:
「預言者ムハンマドの時代からの『慣行』(al-Sunna スンナ)に従う・護持する人々」というほどの意味で、アラビア語ではさらにこれを略して「スンナに従う人」を意味する「スンニー」の語からスンニ派とも呼ばれる。戒律(慣行)を厳格に守り、女性には厳しい。世界のイスラム教徒の70%程度が所属。
シーア派:
シーアはアラビア語で「党派」を意味する普通名詞で、いくつも派生した宗派の一つ。シーア派と呼ぶのは厳密に言うと派・派となり同一語の繰り返しとも言える。20%程度が所属。
 
いずれもコーラン(又はクルアーン。英語ではQuran(Qurʾan)またはKoran)を経典とするが、一般的にシーア派の方が緩やかだと言われている。

フンザの識字率literacy rateは95%以上でパキスタン国内でも最高レベルらしい。午前2時頃にスピーカーから流れてきたイスラムのお祈り「ハザーン」は対岸ナガールのもので、フンザでは規則による縛りが緩いためか控えめだ。

シルクロード
千年以上も前、KKHに沿ってシルクロードがあった。大半は崖崩れで消滅するかKKHに置き換えられてしまったが、今も山肌の所々に残っている。馬に乗って通れる程度の道らしいが、川向うにかすかに見えているだけなので、道幅は正確には判らない。崩れないよう石を組み上げて造った部分もあった。

次の写真には古代のシルクロードが映っている!
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岩肌を手前の河原と平行に走るのは水路で、緑の草がうっすら見受けられる。左端の中央辺りから緩い角度で河原の方向に下る細い筋がシルクロードだ。こんな場所に造るものだから、崖崩れや、時には雪崩にあって寸断されることが多い。今ではKKHに置き換わったので崩壊しても修理されることはないから、これからは徐々に消え去っていくのだろう。

ガイドは「玄奘三蔵やマルコ・ポーロも通った!」というが、三蔵はバーミヤンを通っているはずだと思っていたので、帰国してからネットで確認してみた。

不思議な疑問
  1)玄奘三蔵はKKH沿いの旧道を通ったか?
  2)マルコ・ポーロはKKH沿いの旧道を通ったか?
  3)KKH沿いの旧道は本当にシルクロードか?

玄奘三蔵が辿ったルートについて、Wikiには「隋から唐になって直ぐの629年に中国を出発し、河西回廊をへてヒンドゥクシュ山脈を越え、インドに到り、インドで凡そ10年の仏教修行の後、出発から16年後の645年に、西域南道を通って戻ってきた」とあるがこれだけではルートはよく判らない。彼が記したと言う大唐西域記に書かれた内容からルートを地図に記したものがいくつか見つかった。どれも凡そ同じルートなので、一番判り易いものを紹介すると次の通りである。
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やはり三蔵法師はKKHルートを通っていない!

ではマルコ・ポーロはどうか?
Wiki:マルコ・ポーロMarco Polo(1254年9月15日 - 1324年1月9日)
ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Divisement dou monde)』)を口述した冒険家でもある。(帰国後、兵士として)志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。 数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった。

つまり刑務所内でマルコ・ポーロが話したことを仲間の囚人が本にしたのが「東方見聞録」だったのだ。
で、マルコ・ポーロが辿ったルートは・・・
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別のもう少し詳しい地図もネットにあったが、よく見ると結局は上の地図と同じルート。つまり、マルコ・ポーロもKKHルートを通らなかった!

シルクロードはどうなのか?
シルクロードの地図は山ほど見つかる。時代と共にルートは消滅したり追加・変更されたりしているので、1枚の地図で「これがシルクロードだ!」と言えるようなものはないが、広く知られていると思われる見やすい例を一つ挙げる。

<1世紀頃のシルクロード>
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紀元前の秦の都だった咸陽が前漢(紀元前206年)の時代に長安Chang’anと改名され、長安Chang’anからカシュガルKashgarを通るシルクロードが描かれているが、その先は西に向かい、南、つまりKKHルートは載っていない!

しかし、次の地図が見つかった。これによれば、まさにカシュガルとイスラマバードを結ぶKKHに沿ってシルクロードはあった!、
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KKHに沿った旧道はシルクロードだ!と断言しても好いだろう。

ラカポシ峰Rakaposhi(7788m)を見ながら昼食 
ラカポシから流れ出ている渓流脇のテントで昼食を取った。空気も爽やかで快適だった。
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パキスタンには高い山が多く、名前がつくのは6千mを越える山だけだと言う。因みにラカポシの意味は「隠れている岩」とも言われる。なおWikiでは「この地方の伝説上の人物にちなみ「ラカの物見台」を意味するといわれ、また「雲の首飾り」の意のドゥマニ (Dumani) の名で呼ばれることもあるカラコルム山脈の山」となっていた。

今回、自分で直接確認することが出来なかったパキスタン第一峰のK2(8,611m)もカラコルム山脈の山で、カラコルム山脈測量番号2号からK2と呼ばれるが、Chhogori/Qogir(チベット語;大きい山の意)、Ketu/Kechu(K2の英語音?)、Mount Godwin-Austen(英国探検家の名を冠した)などとも呼ばれ、ヒマラヤ山脈のEverest(8848m) に次いで世界第二とWikiにあった。
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お宝探し
カリマバードに向かう途中でバスを停め、そそり立つ崖から路肩に崩れ落ちた細かな石の中にガーネット探しをした。ダイヤモンドの次に固い物質で、ネックレスや、粒子が細かいものは大量に入手できるので紙やすりに使われる。私が見つけた石を、アショーカ王が刻印された直径2cm足らずの古銭と一緒に写真に収めた。
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H氏は一回り大きい、直径1.5~1.8cm位(2cmはなかった!)のガーネット2個を見つけ、満面の笑顔を見せていた。

Wiki;ガーネット
柘榴石(石榴石、ざくろいし、garnet)はケイ酸塩鉱物(ネソ珪酸塩鉱物)のグループ。宝石としてはガーネット、紅榴石の名前でよばれる。1月の誕生石で石言葉は「真実・友愛・忠実・勝利」など。

当日の目的地カリマバード(フンザにある村)に近づくと色々な山が見えてくる。
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レディー・フィンガー、ウルタ1・2峰、フンザ峰etc. 名がある山は・・・6千m超だけ!
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ホテルに到着 Hunza Embassy Hotel
夕食はラマダンに合わせて少し遅めの7:30から開始となり、時間があったので全員で坂を上った土産物屋通りに出かけた。自由解散後、男4人で更に少し上ってバルチット砦まで散歩。標高が高いので息切れした。
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ホテルに戻り、夕食前にレストランから500mlの缶ビール(10ドル)1個を仕入れ、成田のコンビニで買った焼貝の干物(ホタテの筋!百円だったか?)をツマミにして、テラスで一人で乾杯!夕食時にも一杯。翌朝は少し頭が痛かった。高山病とビール(防腐剤入り?)のダブルパンチ?
因みにこのビールはパキスタン製で、輸入物ではない。
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ホテル・ロビーの右壁には幻の山羊アイベックス!
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6月23日:カリマバード(フンザのバルチット)
御来光
朝4時に起き、ジープで40分程坂道を上って目的の丘に到着。日の出を待つ間にサービスされた暖かいミルクティーとビスケットが美味しかった。雲間から差す日の光で輝くゴールデン・ピーク(7027m)はハリウッド・パラマウント映画の最初のシーンにある山に似ている。
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ツアーメンバー全員で記念撮影。年齢も価値観も似た者同士。旅を楽しくしてくれた仲間だ。
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丘からはフンザ川沿いにアルチット砦が見えた。
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バルチット砦は小さな岩山の頂きにチョコンと載っていた。
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ナガール川上流域探索
朝食後、ジープに分乗してフンザ川に合流しているナガール川に沿って上流を目指した。
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途中、岩山の上に造られた村が見えた。どうしてあんな不便なところに家を造るのか?岩山の下には渓流が流れているのに・・・
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ホパール氷河
氷河の直ぐ脇にある丘の展望台が今回の最終目的地。ずっと奥にある万年雪の山の間から流れ下る氷河の長さは上流側に9Km、下流側にまだ3Km続く。展望台に立つ私の足元にも到達していた。
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氷河の下流方向に広がる絶景!白い連山はフンザの7千m級の山だ。
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丘の直ぐ下のレストランで昼食を取りフンザに戻った。

カリマバード散歩
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水路に沿った歩道の脇には、サクランボや林檎の木を植えた庭を持つ家が多い。
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ホテルでWi-Fiを使い見たニュースに「熱波のためカラチで200人死亡」とあった。その後死亡者数は増え1千人を超えたようだ。電力不足で扇風機も動かず、野党は政府の失策が原因だとして26日に全国デモを打って政府を糾弾する予定ともあった。デモの結果は訊いていないが、我々の旅行には全く影響なかった。

デモと言えば・・・前日、小さな町の中で渋滞に出くわした。車の列が家に隠れて見えなくなった辺りに煙が上っていたが、道路の様子が見渡せないので何が起きているのか判らない。辺りに居た人によれば、デモで道路が封鎖されているとのこと。デモの原因は度忘れしてしまったが、不満分子が路上で何かを燃やしたりして騒いでいたようだ。幸い我がドライバーはこの辺りの生まれで道に詳しく、躊躇せず折り返し、暫くKKHを戻って川向こうの脇道に入った。その後は全くの田舎の山道をどんどん走り、30分ほど後に川を渡ってKKHに戻りると、そこからは先を走る車が全くない快適なドライブが続いた。

フンザはリンゴ、杏子、サクランボ、桃、クルミ、桑の実、ナシ、アーモンド等の果物の木が沢山ある村で、春は花が一斉に咲き競い、さながら桃源郷のようになるという。でも、紅葉と果実が実る秋の方が観光としては最高かもしれないと添乗員の弁。今は初夏だが、十分うつくしい。

アレキサンダー軍の子孫?
フンザには赤毛・金髪、青い目、白い肌の人が多い。
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フンザ:父と娘
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マケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)が小アジア(トルコ)に出征したのが紀元前334年。以降エジプトを攻略してアレクサンドリアを造り、ペルシャからインドに向けて遠征したが「紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入」とWikiにある。
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パキスタンのパンジャブ州はタキシラTaxilaの直ぐ南だから、フンザには紀元前327年頃にはやって来たことになる。その末裔ではなかろうか?

若い兵士とフンザの女の間に生まれたギリシャやマケドニア風の血が今に繋がっている、という説はロマンがあり、事実の可能性も高い。フンザの北西で紀元前3世紀に生まれたバクトリアBactria王国にはギリシャ人の統治者がいたという史実もあるから、やはりギリシャやマケドニアの血が入っていると考えたいが、「血を一滴いれても海は赤くならない」という言葉もあるようで、ギリシャ人の末裔説も完璧ではなく、学者も結論に至っていないという。

草原の椅子
宮本輝の新聞連載小説。1997年12月から1年間『毎日新聞』朝刊に連載され2013年、映画化。
今回のガイドのシャリーム氏も特別出演しているらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=ZKZ2pF9oUNY
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次の風景はインダス川の砂漠地帯のものだろう。
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ホテルのロビーの壁にあったポスターの写真
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 佐藤浩市、西村雅彦、吉瀬美智子;真昼の月の静けさに(テーマ曲);Glay、2013年放映
 「ぼく、すてられちゃった。血の繋がらない子を愛した時、もう一度生き抜くと決めた男二人と女一人」

実は、この映画のロケがフンザで行われ、俳優たちが我々と同じホテルに、しかも私の泊まった303号室には吉瀬美智子が泊まっていたというのだ!これは嘘ではなく、全くの事実です!
 
6月24日(水):カリマバード(フンザのバルチット)

長谷川スクール訪問
朝食後、ホテルから徒歩15分の長谷川学校に出かけた。幼稚園から短大までの一貫教育、自由な校風、でパキスタンでも優良校として知られているとのこと。朝礼は、外出中の校長に代わって苦労人と思われる教頭が指揮して行われていた。
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まずは、教頭のお説教。校長の場合はすごく長いらしいが、教頭は簡単だった。その後、イスラムのお祈りの言葉を全員で短く、そして国歌斉唱。ひき続いて我々ツアー全員が壇上に上がって紹介され、生徒達の歓迎の踊りの後、日本語の「春が来た」を3番まで全員で歌った。続いてS旅行社のF氏が日本語と英語を混ぜて感謝の挨拶。次に私がしゃしゃり出て英語で簡単なお説教をした!!!

その後は校舎で授業の様子を見学。PCが20台ならぶ部屋が2つあり、一つは生徒用、一つは教師用とのことだった。見学後、全員が小銭を寄付金箱に。私は2千ルピーを寄付し、その日のビール2本はおあずけとした。途中で校長が戻って来て校長室で学校の歴史や方針を聞いた。流暢な英語でいろいろしゃべってくれたが、教師というより経営者タイプ。英国留学したとかで、年齢も30代半ばのようで、それまで我々の世話をしてくれた控えめで温厚そうな教頭とのタイプの差は大きい。
教頭の写真
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小学校低学年の教室。英語の教科書で授業が行われていた。
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長谷川学校は登山家の長谷川氏の名を冠している。彼は、ウルタ第2峰を目指していた時に雪崩にあった。住民は彼を慕っていたようで、急いで探しに出かけ、翌日には遺体がみつかったという。墓はバルチット砦の直ぐ脇に流れ下って来る渓流にそって3時間ほど登った山中にあるとのこと。

長谷川氏と奥方が登山のためにフンザに滞在した時、建物が無い場所で勉強している子供達を見て、学校を寄付したいなぁと話していたので、奥方と長谷川氏を慕う篤志家たちが寄贈した資金を元に学校が造られた。

授業で使う言語はパキスタンの主要な国語のウルドゥー語と英語で、多くの異なる言語が今も使われているパキスタンや海外のどこにいっても言葉で不自由しないよう配慮している。長谷川学校についてはA氏のレポートが詳しいのでそのまま引用させてもらう。

【長谷川メモリアルスクール】 
世界的な登山家長谷川恒男氏(アルプス三大北壁の冬期単独登攀の成功は世界初)が、フンザからウルタル峰に登る途中に、青空の下で小学生が勉強している光景を目にし、登頂に成功すれば学校を建てたいと語っていたそうだ。1991年、ウルタル峰で雪崩に巻き込まれて亡くなった時、村人たちの遺体捜索協力の恩返しにと、長谷川氏の未亡人が建てた学校で1998年に開校。また、この周辺はジャパン・チョークと呼ばれ、日本政府が上水道整備に貢献した碑も立っている。お会いした英国留学の経験がある30歳代の校長先生が、将来は理系の大学も作りたいと熱く語っていた。彼の話によると、このスクールは幼稚園、小学校から短大まであり、約1000人強の児童、生徒がいる。教師は50人強、スタッフは10人程度とのこと。男女の構成は60%が女性で男社会のパキスタンでは珍しいそうだ。50人程度が奨学資金で通学しているそうで、この地域では抜群の学校との評判。朝から朝礼を見学し、授業を参観する。さながら孫の参観日のようだ。幼稚園ではカーペットの上に先生がチョークで数字の”2”を書きその上に、園児がトウモロコシの実をその上に並べて数字を学んでいるようだ。小学3年生までは机と椅子がなくカーペットの上に車座になって勉強している。高学年になるとさすがに机と椅子がある。将来の夢を聞いてみると医師やエンジニアになりたいと言う。授業も同じ教室で男女共学。イスラム社会としては稀有なこと。授業料は1200円程度で、サラリーマンの月給が6000円程度のパキスタンではかなり負担が重い。学校の運営は主に寄付に頼っているそうだ。日本人が寄付した図書室やパソコンルームや三菱商事が寄付した教師用補助教材室などがあった。最後にdonation boxに少しばかりの志を入れて学校を後にした。

なおWikiの長谷川氏についての情報は次の通り
長谷川 恒男(はせがわ つねお)
1947年(昭和22年)12月8日 - 1991年(平成3年)10月10日)は、日本の登山家。日本アルパインガイド協会専務理事を務めた。ウータンクラブ主催。アルプス三大北壁の冬期単独登攀の成功は世界初。神奈川県立神奈川工業高等学校卒業。神奈川県愛甲郡愛川町半原出身。1991年 ウルタルII峰(7388m)で雪崩に巻き込まれ星野清隆と共に遭難死。遺体はフンザ渓谷内のベースキャンプ近くに埋葬され、墓地も造営された。

廊下に飾られていた長谷川氏の写真
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THE GREAT BENEFACTOR 偉大な恩人
TSUNEO HASEGAWA 1947-91 長谷川恒夫 1947-91
1947年といえば私の生年だ!

国語と公用語(Wiki)
1988年までに英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2004年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。

その後、バルチット砦を見学
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輿入れの時に花嫁がバルチスタン(小チベット)から3百人を連れてきて砦を修復し、今の建物の姿が出来上った。言われてみればチベットのポタラ宮を思わせる外観だ。1945年、藩主Mir of Hunzaは砦の下の村に住居を移し、砦は無人になって劣化が進んだため、英国人が中心に基金を募って1.5百万ドルを投入し修復された。砦には40~60人が住んでいたらしい。一番下の階は牢屋で、日光が差し込む小さな小窓が高い位置にあり、上の階から見張りが監視していた。

住居空間は2,3階で階段が繋いでいる。次の写真は建物中央辺りの踊場。
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花崗岩をくり抜いた大きな壺や、瓢箪や銅の容器などが飾られていた。
居間には絨毯が敷かれている所が多い。寒かったのだろうか。
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金属の鍋類と、木製のネズミ取り!
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揺り籠が置かれた居間。天窓もある。
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左の壁にはスプーン、右の壁には楽器が飾られた居間
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歴代のイスマイル派指導者と歴代のフンザ藩主の肖像画・肖像写真が掲げられた部屋。
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青い服を着た初代藩主の顔が面白い!後に訪れたグルミットGulmit村のレストラン兼ホテルのオーナーが藩主の家系ということで写真を撮らせてもらったが、よく似ている!!
旅行記後編のGulmitの項で写真を挙げるのでお楽しみに。

左の壁の肖像はイスラム教シーア派の中のイスマイル派の歴代指導者たちで、白い服の、リチャード・ギアのようなハンサムが現在の指導者Highness Prince Karim Aga Khan IV(4世)で、祖父で先代の指導者3世はインドのカラチ(現パキスタン)で暮らしていていたが亡命し、孫の4世は今はフランスのパリで暮らしながら世界中のイスマイル派のリーダとして機能しているらしい。ネットで確認すると、競馬で蓄財する大富豪のようだ!!!
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砦の屋上の、円形屋根の下にあるごろ寝用の縁台で、FC2ブログ「シャングリラの不思議」(1月19日)を思い浮かべながら記念写真を撮ってもらった!
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内部の写真撮影料金は200ルピーだった。

建物を出た処で、ある人物に出くわした!砦のガイド???
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FC2ブログ「シャングリラの不思議」に登場した人に違いない!
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https://www.youtube.com/watch?v=DmPdzt3wcT4

藩主制度は廃止されたが、世が世なら藩主の人物は今もフンザを代表する人で、我々のホテルの直ぐ上にある近代的な王宮風の建物で暮らしている。
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今もいつも暮らしているのかどうかについてはガイドも知らないようだ。しかし、奥方と息子はフンザがお気に召さず、都会に住んでいるのは間違いないという。息子(1977年生まれだから38歳)は父の後釜を狙って2009年のパキスタン国会(?)総選挙に立候補し落選したが、カリマバード村での得票率は高かったという。参考としてバルチット砦の壁に飾ってあった、元藩主の妻で今はカリマバードを捨てて町に住んでいる女性と、選挙に落選した息子の肖像写真を挙げておく。
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バルチット砦見学の後、A氏と二人でアルチット砦に行った。
途中のクリケット場がある通りで出会った女の子たち
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バルチット:上の村     アルチット:下の村
バルチット砦:800年前、 アルチット砦:9百年前

アルチット砦
バルチットのホテルから徒歩40分。アルチット村の中の細い路地を砦に向かって歩いていたら男に呼び止められ、チケットを売る建物に連れ戻された。入場料700ルピー(8百円)を払って券を購入。
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ふと壁を見ると、チャールズ皇太子(ウェールズ公チャールズCharles, Prince of Wales)がアルチット砦を訪れた時の写真が掲げてあった。

砦の敷地までチケット売りが付いてきて、「ガイドが付くが、年寄りの方がいいか、それとも普通の男でよいか」と訊くので「年寄りで」と頼むと、待合の建物があるので、そこで待てという。暫くすると、それらしき年寄りが来たが、もう少し待て、と言ってどこかに行ってしまった。20分ほど待ったが誰も来ないので、坂を上り砦の建物に入る。そこにイスラマバードからの女学大生一行(17人)の観光グループがいて「ガイドは同行していないのか?」と訊いてきたので、事情を話すと、だったら一緒に見学しようとなり、華やいで楽しい時間を過ごさせてもらった。彼女たちは中国から戻る途中らしい。砦はフンザ川から屹立する崖の上に築かれ、ユニークな建物だった。
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砦の山側は直ぐ近くまで住居が密集している。
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出会った美女たちと一緒に記念写真。手すりの上の木の像は幻の山羊アイベックス。
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クリケット
砦見学を終えホテルに戻る途中でクリケット場に入ってみた。男ばかりがプレーしたり、見物したりしていた。後でガイドに訊いたら以前はポロ競技場だったという。
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フンザは世界の三大長寿村(だった)
男の方が長生きで、女は多産で仕事も多く、男より短命だったらしい。長生きの秘訣はきれいな水と空気だろうという。ガイドのシャリームさんの仲間でアリさん(カリマバードからスストまで客の出迎えで同行)は、お爺さんが103歳。106歳の祖先もいたらしい。しかし、最近はだめだと言う。食習慣が変わり、化学物質を含む食品や飽食が理由か?女の方が働き者というのは世界の共通で我が家も例外ではない。

日本人の指導でアプリコットの事業化を目指す
JICAと共同でフンザのアプリコットを事業に育成しようと活動している東京T㈱の社員1人が、2、3ヶ月の滞在予定で同じホテルに泊まっていて、話を聞いた。毎年、今の時期に数か月間だけフンザを訪れていて今回が2度目で、来年も来る予定らしい。パキスタンの町や国外でも売れるアプリコット製品をフンザの現金収入手段に育てることが最終目的で、フンザだけでなく川向うのナガールの女性たちにも、栽培方法、収穫方法、商品化(ドライフルーツ化)方法を指導している。硫黄燻蒸すると綺麗な飴色になり、乾燥の手間も少ないらしいが「オーガニックを好む客が海外には多いし、味も深みがあるんだよ、という考えで指導しているけれど、現実の市場の評判がどうか、が最大の問題で、バイヤーにも来てもらって、品評会をするんだ!」と意気込んでいた。翌日の品評会にはバイヤーが大勢詰めかけ、評判は好かった!と喜んでいた。彼も言っていたが、パキスタンの男は怠けものが多く、アプリコット事業の成否は女にかかっているらしい。
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東京T㈱は東京にある資本金5千万円の会社で、レアメタルの輸入、フィリピンでのココナッツ関連事業をしている(ネット情報)。

(前篇:完)

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mh徒然草45:終戦70周年への対応

数日前の5月8(?)日、モスクワの赤の広場で第二次世界大戦の終戦70周年パレードが行われ、36ヶ国が参加したようです。中国は身長180cm以上の兵士集団を派遣し、プーチン大統領とその脇に控えた習近平主席の前をロシア軍団とともに行進しました。確か、周主席の奥方も主席の隣で観閲していたはずで、ロシアと中国の蜜月ぶりが伺われます。ロシアも中国も独裁体制を敷いている仲間ですから、同類相哀れむ、ということでお互いの後ろめたさをパレードという威勢のいい行事で払拭(ふっしょく)してしまおうと目論んでいるのではないかと思いますが、天知る地知る我知る。そして誰よりも抑圧されている人民が知っていますから、お二方とも退任後はひどいしっぺ返しを受けるでしょう。

で、驚いたのは、ドイツのメルケル首相の対応です!パレードには出席せず、その翌日、モスクワを訪れて、プーチン大統領に「やり過ぎは駄目よ!」と釘を刺してから戦士の墓に詣でて献花したんですねぇ!なんて賢い女だろうって思いました。

メルケル首相がロシアの戦勝記念日に出席しなかったのは、負けたのが悔しいからでは、勿論、ありません。ロシアのウクライナ侵攻への非難を示すためです。同時に、70年前にロシアに仕掛けた戦争の責任は忘れていません、とも表示したのですね。至極、筋が通った振る舞いで感心しました。日本の首相補佐か外交特使でもお願いできるとありがたいですねぇ。

彼女はきっと苦労した人に違いない、と思ってwikiで調べるとやっぱりでした!
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「アンゲラ・ドロテア・メルケル(ドイツ語: Angela Dorothea Merkel, 出生名:アンゲラ・ドロテア・カスナー/Angela Dorothea Kasner, 1954年7月17日 - )は、ドイツの政治家。2000年よりキリスト教民主同盟 (CDU) 党首。第8代ドイツ連邦共和国首相。ドイツ国内において、女性としては初の大政党党首・首相である。」
父は牧師、母はラテン語と英語の教師です。1954年、彼女が生まれて数週間後、一家は父の都合で東ドイツに移住しました。
「学校時代は、付き合いは良いが目立たない生徒であったという。成績は優秀で、中学校時代の全科目の平均評価は1.0(日本でいえば「オール5」)で、特にロシア語と数学に優れていた。1973年にカールマルクス・ライプツィヒ大学(現ライプツィヒ大学)に入学、物理学を専攻する。彼女はこのころポーランドへの長期自転車旅行に出かけている。

在学中の1977年に同じ学部の学生だったウルリッヒ・メルケルと結婚。現在の姓は彼に由来するものである。しかしこの結婚生活は4年で終わった。1978年、優良の成績で学士号を取得、東ベルリンにある科学アカデミーに就職し、理論物理学を研究する。ここで現在の夫ヨアヒム・ザウアーと出会うが、2人が結婚するのはずっと後の1998年である。1986年、博士論文を提出して博士号 (Dr. rer. nat.) を取得。物理学者として分析化学に配置転換となる。同年初めて西ドイツを旅行。これは審査で国家に忠実とみなされた者にのみ許される権利だった。この頃の彼女に政治活動は見られず、SED党員でもなく反政府活動もしていなかった。1989年のベルリンの壁崩壊時、先行きが不安になった科学アカデミーを辞職、「民主主義の出発」の結党メンバーになる」ことで彼女の政界での活動が始まったのです。
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23歳で学生結婚、4年で離婚し、34歳まで東ドイツで暮らしました。44歳で今の旦那と正式に結婚しています、出会いは10年以上も前のようです。
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ドイツやフランスでは籍を入れずに同棲しているカップルが多いようですねぇ。

「世界の同棲率」でYahoo検索すると次のグラフが見つかりました。
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上のグラフを見ると、日本や韓国では20代の結婚率(オレンジ)は低く、いずれの世代でも同棲率(緑)は低くなっていますが、欧米では特に20代で同棲率が高く、40代になっても結婚せずに同棲している人も結構いるようです。
グラフで青(未婚・未同棲)と緑(同棲)の間の白い部分は「離婚中の人」の割合を示していると考えられますから、欧米では100人中15人、日韓なら100人中5人、は離婚中となります。

つまり欧米では離婚中の人が多く、離婚率は高いと言えますから、慌てて結婚せずに同棲で様子をみる傾向が高いとも言えそうです。欧米の結婚感が正しいとすれば、40代で結婚している人の割合が高い日本では、離婚したくても我慢して結婚生活を続けている夫婦が多いってことかも知れません。
とすれば、日本人は我慢強いと言えそうですが、実態は、離婚すると生活が困難になる人が多いからではないかとも思われます。

フランスの結婚について次の記事が見つかりました。
「フランスは、一度正式に結婚すると、離婚ではお互いの同意が有っても複雑な手続きと費用が必要で、簡単ではない(離婚自体が認められたのは1975年)。よってPACS※(Pacte Civil de Solidarité:連帯市民協約若しくは市民連帯契約と訳す)制度もあるので其を選ぶカップルが多い
※正式に籍を入れた夫婦と同等の権利(結婚より規則が緩い)を認め、公証する制度。」

また婚姻率と離婚率では次のデーターもありました。
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婚姻率と離婚率:人口1千人当たりの年間の結婚回数を婚姻率、離婚回数を離婚率という。
日本の場合、人口1千人の町なら1年当たり5回の結婚式と2回の離婚があるってことで、いずれも平均的な値のようです。私の想定よりも離婚の比率が高いのは、嘆くべきか、それとも個人の自由が尊重される傾向が高いということで喜ぶべきことか。多分、後者かと思うんですが・・・

今のご時世、結婚すれば幸せになれるってのは迷信とも言えますが、メルケルさんには是非、幸せな結婚生活を送ってほしいものです。
Only You Lyrics - Only You Song by The Platters
https://www.youtube.com/watch?v=XnIGsApQiLI
(完)

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シバの女王の不思議

皆さんはシバの女王についてどんなことをどのくらいご存知ですか?なになに、全く知らなかったんですか?年配の方も「名前は聞いたことがあるけれど・・・」どこで、いつ頃、生きていて、どんなことをした人かをご存知ない方が多いのではないかと思います。ひょっとしたら伝説の女で実在してはいないと思っていませんか?

彼女をクエスト(quest探求/追跡)するYoutubeフィルムを見ました。ネットで関連情報も調べてみました。それらの内容を一挙に公開しましょう。

いつもは、ネットで収集した関連情報を紹介し、予備知識を持って頂いた上でフィルムの内容をご紹介するのですが、今回は嗜好(しこう)を変え、フィルム紹介からスタートしたいと思います。

その前に不思議な質問です。
「シバの女王は実在したのか?」
「としたら彼女の王国は何処か?」

それではYoutube「The Real Queen of Shebaシバの女王の真相」の始まり始まり~!
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歴史上で最も不可解な女性「シバの女王」を探求する旅を始めよう。
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聖書によれば彼女はソロモン王に会うため駱駝のキャラバンで砂漠を旅してエルサレムを訪れた。
(mh:ソロモン王が死んだのは紀元前931年とされています。と言うことは、彼女は今から3千年ほど前の人ってことです。)
聖書に書かれたこの話に隠されている事実はなんだろう?彼女の痕跡を探して、私(ジョッシュ・バーンスタイン)はアフリカ・エチオピアとアラビア半島南西端・イエメンを訪れるつもりだ。
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(mhフィルム公開は2006年だと思われます。)
シバの女王を巡ってはエキゾチックなラブ・ロマンスがある。ソロモン王との出来事だ。
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美しくて、魅力的で、利発で、統治力があり、その上、比類ない富を所有していたという。

私はジョッシュ・バーンスタイン。私の今回の旅の目的はシバの女王は本当に存在していたのか?としたら、どこから来たのか?を追跡することだ。
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最初に訪れるのは米国ワシントンDCのカソリック大学だ。(mh上の写真の背景がそうです。)
その図書館にとても貴重なテキストが保管されている。
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シバの女王については聖書の中で簡単に触れられている。それによると、伝え聞いたソロモン王の知恵を試すため、金、宝石、スパイスを積んだ駱駝のキャラバンを率いて砂漠を移動した。エルサレムを訪れ、王にプレゼントするためだ。しかし、彼女の国がどこにあるのかは聖書には書かれていない。
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また、スパイスとは「乳香(フランキンセンスfrankincense)」だ、と聖書の第6章には書かれている。
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当時、乳香は銀や金より貴重な香料だった。
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乳香の産地は限られている。従って乳香を辿(たど)れば彼女の国は簡単に判るだろう。
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カソリック大学のダグラス博士は言う「アラビア半島の南側と、紅海を挟んでアフリカ側の一帯が乳香の産地だった。」
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「ということはその辺りにあった国の女王と考えて間違いないのだろうか?」
「多分、間違いない。」

ダグラス博士によるとシバ(mh英語はshebaです。)は場所によって異なる発音をされていた。「スバー」だ。「スバー」は聖書の中でその場所が特定されている。南スーダンとエチオピアの一帯だ!
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Mh:ご聡明な読者には不要な解説ですが、とても重要なことなので、ここで確認させて頂きますと「シバの女王」とは「シバ、時にはスバー、と呼ばれる国の女王」であって、シバという名前の女王ではありません。また、旧約聖書によればソロモン王に面会していますから、今から3千年程前の紀元前10世紀に生きていた女性、ということになります、勿論、実在していたとすれば、の話です。

聖書の中で彼女のことを「アンシェイビーダーン」と呼んでいる章がある。「背が高い」という意味だ。ソロモンと並んでいる絵を見ればシバの背が高いことが確認できる。
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エチオピアにはシバの物語が残っていて国の大切な伝説の一つらしい。

彼女はエチオピア人なのか、それともアラビア半島の南一帯で暮らしていた人か?カソリック大学で聞いた話では、アラビア半島よりエチオピアの方に若干分がありそうだ。まずエチオピアに行ってみよう!
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エチオピア北部の高地の町ラリベラ。
(mh小さな町ですが10km南西に国際空港があります!)
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ラリベラは、ソロモン王と関係のあるシバの国を探求しようとする私には幸先のよいニックネームで呼ばれている。「新エルサレム」!!!
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エチオピアで最も神聖な所と言われている。

町のニックネームとシバが訪れたというエルサレムの関係とは何だろう?町の大通りを歩いてみたがソロモン王の王国の首都エルサレムとは似ても似つかない。

しかし、町には神聖な場所がある。新エルサレムと呼ばれる所以(ゆえん)だ。
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エチオピアには、この町を統治していた女王がソロモン王を訪ねたという言い伝えがあるという。ここが本当にシバの女王が住んでいた伝説の場所の一部なのか?
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地面に掘られた細い道やトンネルを抜けると教会があった。岩山を削って造ったものだ。
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何百年もの間、大勢の巡礼者が訪れている。
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今も、あちらこちらで僧侶や尼僧たちが祈りを捧げている。
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数十のトンネルや通路を通り抜け、最も神聖な場所に向かって進んでいく。
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エチオピアに伝わるシバの女王の物語はこうだ。
“ソロモン王は知恵が優れている”との噂を聞いてエルサレムを訪れた彼女に接見すると、ソロモンはその美しさに魅惑され、彼女の体を求めた。しかし彼女は王の申し出を拒絶する。でも社交辞令から“一晩、お客として宿泊しましょう”ということになった。そこでソロモンは罠を仕掛ける。

“私の部屋に忍び込んで物を取ってはならぬ!”“判りました。”

ソロモンは歓迎夕食会でとても辛い食事を彼女に準備する。
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しかし、飲み物はほとんど勧めなかった。夕食後にベッドに入った彼女は喉が渇いてどうしようもない。

ソロモンは仕上げの罠をセットしていた。喉(のど)が渇いたシバは水を探して王宮の中を歩きまわると、やっと水差しを見つけた。しかし、その水差しは王の部屋のベッドの脇に置かれていたのだ。
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彼女が部屋に忍び込み、水差しにそっと手を伸ばすと王に捕まえられた。
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女王は約束を破ったのだ!
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その夜の出来事で彼女は身ごもった、と伝説は続く。生まれた男の子はエチオピア王国の初代の王メネリック一世になる。帝国は1975年に終焉するまで3千年の間続いた。ということは、エチオピア王室はイスラエル人の血が入った系統だから、聖書によれば神に祝福されるべき国だとも言える。
(mh別の情報によるとシバの女王は6カ月の間、エルサレムに滞在し、最後の夜にソロモンが仕組んだ罠にはまって身ごもることになったとのこと。翌日、エチオピアに戻る時にイスラエル人の召使などを一緒に連れ帰かえったので、エチオピアでユダヤ人の系統が生まれることになった、ということらしいです。)

ラリベラの最も重要な教会!
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十字架の形だ。
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岩山を彫って造られている。
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そこに行くには岩山に掘られた細い道を通る。
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建物を囲む岩壁には穴が掘られている。
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それは墓で、中の遺骨は全てエルサレムからこの地に巡礼に来て居残った人のものだという。
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「つまりシバの女王とエルサレムは深い関係があったってことか!」

ラリベラの教会群が完成したのは7百年前らしい。しかし、シバが統治していたのは紀元前10世紀だ。キリスト教は生まれていない時代だ。
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もっとシバの女王との関係が深い証拠を探す必要がありそうだ。
エチオピアには昔から文明があったようだ。更に北に行ってみよう。スバー王国があった所かも知れない。乳香の産地だという。
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聖書によれば、彼女は、それまで誰も見たことが無い程大量の乳香をエルサレムに持って行った。乳香で知られるエチオピアが彼女の旅の出発点だった可能性は高い。

乳香の生産は高地の村シィレにある大きな建物で行われていた。
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中では大勢が作業していた。
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方法は昔とほとんど変わっていない。
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この辺りでは乳香は主な収入源の一つだ。
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村人の多くが乳香の産業に関与しているという。一家総出で働いている人たちも多いらしい。

乳香はボスウェリアと呼ばれる木から採取される。採取の方法はカエデの木からシロップを採る要領と変わらないが、木に固くへばりついてしまうらしい。木から剥がし取った乳香を建物に持ち込み、へばり付いた木片をきれいに取り除けば完成だ。

製品はアフリカ、中近東などに出荷される。数千年前も出荷されていたという。
「シバの女王はこれを持ってソロモン王を訪れたのか!」
「そうだ!当時は黄金より素晴らしい宝物だったんだから。」
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やっぱり、ここがシバの女王が統治していた場所かもしれない。
ついでにイェハYehaという小さな村に行ってみた。エチオピアの文明の発祥地だという。
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2500~3000年前に出来た小国らしい。シバの女王の頃だ。
そこでサビアン文明とのつながりを調べてみよう。
(mh:サビアンSabaean文明というのは「シバ王国の文明」という英語呼び名のようです。英語版Wikiの抜粋を載せておきますが、紅海を挟んでアラビア半島とアフリカに跨(またが)る地域に住んでいた人々Sabaeanの文明です。)
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古い寺院が残っている。
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中は何もなく、高い壁だけが残されている。その高さから大きな影響力があった所だろうと推察できる。
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シバの女王にふさわしい建物だったのかもしれない。今はキリスト教会に造り変えられている。
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しかし、壁に残るアンテロープの頭の文様は昔からのものだ。
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mh:アンテロープ (antelope) またはレイヨウ(羚羊)はアフリカを中心に棲息しているウシ科の動物で、古くはカモシカとも呼ばれています。ガゼルと似ていますが大型です。
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僧侶が教会に残るもっと重要な手工芸品を見せてくれた。
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何か文字が刻まれている!
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残念ながら、解読できる人はここにはいないという。事実、これらの文字はエチオピア生まれではない。
僧侶はサビアン文字だと言う。南アラビアから来た文字だ。
ワシントンDCのカソリック大学で仕入れた情報通りだ!シバの女王はアフリカのエチオピア辺りかアラビア半島の南の土地と関係があるのだ!
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アラビアからエチオピアに移住したのかも知れない。紅海の向うのイエメンYEMENに行ってみよう!アメリカ政府からは渡航警告を受けた、外国人には危険な場所だ。
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最初の訪問地は首都サナアSanaaだ!
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古くから都だった。
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サナア大学のフセイン博士は言う「サビアン(Sabaean)文明はこの地で生まれたものだ。サナアは王国の首都として数千年前から繁栄していたんだ。エチオピアの町はイエメンを拠点にするサビアン王国の植民地だった、と私は考えている。」
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この町は交易の拠点だった。インドの香辛料、アフリカの金や象牙、中国の絹が取引されていた。
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「交易品はメソポタミアや地中海方面にも運ばれていったんだ。」
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勿論、乳香も重要な商品だった。
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「しかし、サナアは古代サビアン帝国の首都ではない。当時の首都はマリブMaribだ!この山の向う、東に1百マイル(160Km)の所にある。」
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そこは種族間の紛争が絶えない危険な一帯で、私のような部外者が行くのは危険だという。しかし、今を逃したらもうチャンスはない!有能なエスコートを見つけよう!

フセイン博士はサバナの区長を紹介してくれた。区長によると砂漠の民ベドウィンは昔からの伝統を重視するという。「マリブに行くなら、まずジャンビアを手に入れろ!」と勧められた。
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サナアの男なら誰だって身に着けている短剣だ。男のシンボルのようなものだ。
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サビアン時代から使われているらしい。
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ジャンビアを見れば、その持ち主の家系や人間性が判るという。現代では刃は本物でなくても好いらしいが、握り部の形が重要だ。また、古いものほど価値があるらしい。
「どう、かっこ好いかい?」
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もうひとつの伝統も教えてくれた、カートだ。
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木の葉で、口に入れて噛む。
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私もトライした。少し苦いし、とても辛い!
「噛んでいれば気持ちが好くなって、頭は冴え、眠むれなくなるよ。」
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男の80%は毎日午後には噛んでいるという。エスプレッソみたいなものだ。ジャンビアも手に入れたし、カートも体験したから、種族抗争の町に乗り込む準備は整ったと言えそうだ。

翌朝、コーランを読む声に起こされて、埃にまみれた砂漠の道をマリブMaribに向かった。
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山道を登っていく。
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登り切ると草や木が少し残る砂漠道が続いていた。この道には車を狙う盗賊が出没するらしい。ある種族は誘拐して身代金を要求することもあるという。
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途中で、種族闘争に詳しい男を紹介してもらった。彼の名はオアヘという。ここからは彼が私を現地にエスコートしてくれる。
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オアヘの役目は、私が誘拐や暗殺などに合わぬようにすることだ。彼も「念のため」と言ってマシンガンを持ったガードを連れてきていた。一緒にマリブに向かう。
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マシンガンを持った3人のガードと一緒にドライブするのは初めての体験だ!
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途中14ヶ所ものチェックポイントで検閲を受けた。
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やっと目的地が見えて来た。ビルが沢山建っている。
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しかし近づいてみると町は廃墟だと判った。
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オアヘによれば建物は3百年前のものだと言う。
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しかし、もともと、町が造られたのは3千年前だという。シバの女王の時代だ。
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今は数百人が違法居住しているらしい。
(mh:Wikiによれば「マリブの旧市街は20世紀に入って放棄され、その3.5km北に新市街が建設された」とのことです。放棄された理由は不明です。)
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夜、区長と一緒に外出した。
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区長が私のためにアレンジしてくれた、この辺りの種族が集まる歓迎パーティに参加するのだ。
私は、勿論、ジャンビアとフータという伝統的なスカートを身に付けて出かけた。
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挨拶をかわし、区長が私の訪問目的を伝えると、食事が始まった。
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彼等の習慣に従って素手で食べ物を取って口に運ぶ。ベドウィンたちは暖かく歓迎してくれたが、下手をすれば襲い掛かってくることだってある!
「どこかで携帯電話の着信音が聞こえるね!」
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楽しく、少しひやひやものの夕食を終えてから、火を囲んでシバの女王の話をした。
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「アフリカのエチオピアじゃあ彼女の色々な逸話が伝わっていたけど。ここではどうなの?」
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若くて美しいビルキスと言う名の女性がいた!と言う。
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「砂漠の中から現れ、サバ(mnシバ)の王位に就くと、マリブを王国の都とした。コーランにもビルキスの国について記述がある。」

となると残る課題はその痕跡を見つけることだ!
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サバの土地は2つの楽園だったとコーランには書かれているらしい。ここマリブにはダムが造られ、オアシスがあった。その跡はまだ残っていると言う。
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「そこへ行って見たいけど・・・」
「いいだろう。君の持っているジャンビアを許可証と認めよう!」

翌日、ダムの跡だという場所に出かけていくと、考古学者ザイドゥーンが待ってくれていた。
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そこから6百m離れた所には別のダムの跡も見えた!このダムと合わせるとアメリカのフーバーダムの2倍の幅だ!
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(mn上の映像は分かり辛いのでGoogleEarthで見つけた第二のダムの跡をご紹介しておきましょう。上の映像写真と同じアングルです。)
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2つのダムに貯えられた水は下流の渓谷地の灌漑に使われていた。
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2つの運河に供給していた。
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2のダムから流れ出た運河は緑の台地を2つ造った。3万5千から5万人が暮していただろう。
これが2つの楽園と呼ばれたのだという。
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崩壊が進んでいるとは言え見事な遺跡だ。
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地震でかなり崩れてしまったらしい。交易ルートが変わったこともあって首都が衰退していた時期だったので修理する余力が無く、放置されたのだという。
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しかし、シバの女王はダムなんかよりももっと昔に暮らしていたはずだ。一体どこで?
遺跡の塔の壁にはエチオピアで見たものと同じサビアン文字が残されていた!
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ダムの土壁は紀元前7百年のものでシバの女王より数百年後のものだが、それよりも前に治水施設があったという。
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「最初の着工は3千2百年前だ。」
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それが正しいのならシバの女王が旅をしていた時には既にダムのようなものが出来ていて、灌漑は進み、町は繁栄していたと考えられる。とすればこの辺りに彼女が住んでいた王宮があってもおかしくない!

「勿論だ。彼女の王宮はあったよ。直ぐ近くだよ。」

マリブの町には砂に埋もれた遺跡があった。王女の名のマハラム・ビルキスで呼ばれる遺跡だ。「シバの女王の聖域」とも呼ばれている。
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ここで素晴らしい女性に遺跡を案内してもらうことになっている。メリリンだ。アメリカ基金のリーダーで、彼女が編成した発掘隊は10年近く発掘作業を続けている。
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遺跡は37エーカーに渡って広がっているらしい。
(mh:1エーカーは4千平方メートルですから、37エーカーは正方形なら一辺が概略4百mの面積です。)
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アラビアでも最大の寺院遺跡だという。大半はまだ砂に埋まっている。発掘シーズンを過ぎると砂嵐で遺跡は埋まってしまうので砂との戦いの繰り返しらしい。
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メリリンに、なぜ、このような禁断の土地に来たのかを訊いた。
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「弟の夢を完結させてあげたいからよ。でも今は私自身の情熱を捧げる場所になっているわ。」
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1950年代の始め、彼女の弟ウェンドゥ・フィリップスが参加した探検隊によって初めて発掘が始まった。
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遺跡のほとんど全てが砂の下にあった。
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発掘を始めた年、いくつかの手工芸品handicraftが見つかった。
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「弟はいろいろな物を見つけたわ。中でも最も素晴らしいものがあるの。見たい?イエメンの誰もが持っているものよ。」
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「50リアル札に書かれているの。」
「これを弟さんが見つけたのですか!」
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「4フィート(1.2m)の背丈の戦士像よ。」
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「この辺りを統治していた戦士よ。」彼の名はマディカラーだと言われている。
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サビアン時代の傑作と言えるだろう。紀元前6世紀頃のものだ。シバの女王の栄光の文明の証と言える。
戦士は腰にジャンビアを差していた。

しかし不幸にも弟ウェンドゥ・フィリップスは発掘を続けることは出来なかった。種族の争いがあって3ヶ月後には発掘を打ち切らざるを得なかったのだ。
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「石柱だけを残して全てはまた砂の中に埋もれてしまうことになったのよ。」

マリリンと彼女の発掘隊がここに戻ったのはその50年後だった。発掘すると遺跡が次々に出現した!壁石や石柱には飾りなのだろうか、文字が刻まれていた。これまで目にしてきたサビアン文字だ。
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当時の社会や経済、日常生活、宗教儀式、種族の名前などが書かれているという。
この石はまだ下に15mも続いているらしい。
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発掘は始まったばかりだ。
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「シバの女王の名前はまだ見つかっていない。しかし、発掘を続ければ彼女の時代に近づいていく。きっと彼女の名前も出てくるはずだ」と彼等は言っていた。

最近発掘された場所に連れていってくれた。主階段の脇にあるテラスの壁にはアンテロープの飾りが彫られている。
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エチオピアでも見た文様だ!シバの女王はセバ(サビアン)の女王でもあったのか!
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だからエチオピア人は「我々はシバの王国の子孫だ!」と考えていたのだろう。
ここがサビアン帝国の中心だった。シバの女王がここに住んでいたとしたら、彼女の威光は紅海を越えてエチオピアまで及んでいたということなのだろうか。

メリリンと現場の発掘補佐アブドゥは「見せたいものがある」という。
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それは階段の上の壁の下に埋まっていた。砂をかき分けると現れて来た!
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2001年に見つけたらしい。毎年、砂で覆って隠している。
「私の好きな発掘品の一つよ。シバの女王ではないかも知れないけど、きっと彼女に似ているに違いないわ!」
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毎年、発掘のたびに素晴らしい建物跡や手工芸品が見つかっているという。発掘を続ければ、シバの女王の証拠を見つけることが出来る、と彼等は信じている。
「彼女があなたに話しかけているわ。」「私を掘り出して!って言ってるのかな?」
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シバの女王の物語を辿る私の旅は成功だったと言えるだろう。彼女を見つけることは出来なかったが、彼女の文明を見つけることはできた。彼女がアフリカと南アラビアに影響力を持っていたことも確認できた。
多分、もう直ぐ、メリリンはシバの女王の証拠をこの地で見つけるに違いない!
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シバの女王の物語はこれからも大勢の人々の心を魅了し続けるだろう。
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The Real Queen of Sheba (AMAZING ANCIENT HISTORY DOCUMENTARY)
https://www.youtube.com/watch?v=eAIcuDSOx0w

以上で2006年放映のYoutube「シバの女王の真相」は大団円ですが、私の長~いブログはまだ終わりません。
ネット情報を元に、シバの女王の探求は続きます。

まず、確認しておきたいのですが、シバの女王が生きていたとするのは旧約聖書の記録だけです。それにはソロモン王との出来事が記録されていました。
言い換えると、彼女は紀元前10世紀の人のようですが、神話の中の人で、実在していた証拠はまだ見つかっていません。彼女が生きていた時はキリストより千年も前ですから、当然、彼女とキリスト教とは無関係です。エチオピアの遺跡がキリスト教と関連しているのは、古い寺院がキリスト教会に改築されたからというだけのことです。
しかし、エチオピア北部の村イェハYehaに造られ、今は教会となっている古い寺院の壁にアンテロープ(カモシカ)の文様が彫られていて、これがイエメンのマリブで見つかった遺跡の文様と瓜二つであること、エジプトの遺跡に彫られた文字がサビアン文字であること、はシバの女王を媒体としてエジプトとイエメンを関連づけています。

次の写真はマリブで発見されたアンテロープ(カモシカ)の文様が彫られた飾り石です。
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エチオピアとイエメンで見つかったアンテロープの文様と全く同じだと言える位似ていますから、2つの場所の文化的つながりが強かったのは間違いないでしょう。政治的な繋がりもあったかもしれません。
しかし・・・互いを隔絶する紅海があるから・・・
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でもGoogleEarthで調べるとイエメン南西端とアフリカは結構近そうです!!!アフリカ側は、今はジブチ共和国と呼ばれる土地です。紅海に浮かぶイエメンのPerim Island(ぺリム島)とジブチの間にあるバベルメンデブ(Bab el Mendeb)海峡の幅は21Kmですから、伊豆半島と伊豆大島の25Kmよりも近くて、昔でも比較的簡単に行き来できたと思われます。
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ジブチ共和国をWikiで調べると人口密度は20人/平方キロメートルで日本の16分の1ですから、人がまばらに棲んでいる砂漠の国ですが、この住民がどこから来たのか?は現在の民族データから凡そ推定できます。
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陸続きで隣接しているソマリアやエチオピアから来たようですね。
宗教はイスラムが94%ですが、欧州から移り住んでいる人が5%くらいいて、この人達はキリスト教でしょうから6%の国民はキリスト教、となっています。つまり、紅海を挟んだイエメンの影響でイスラム教が多いと考えれば全く矛盾はありません。

しかし、ジブチ共和国よりも内陸のエチオピアは実はキリスト教徒が多いのです!!!
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一体全体、エチオピアのキリスト教はどんなルートで伝わって来たのか???

伝わったのは、勿論、イエスキリストが生まれてからですから、シバの女王からは1千年以上も後のことです。エチオピアの北にあるエジプトでは太陽神などを信仰するファラオが治めていましたし、現在はイスラム教が主体ですから、エチオピアの北からキリスト教が伝わったとは考えづらいところです。東、つまりジブチからってことは可能性は薄いですねぇ、ジブチやその向こうのイエメンがイスラム主体の国だってことを考えると。

なら、エチオピアは何故キリスト教徒がイスラム教徒より多いのか?

フィルムでも紹介されたエチオピアの岩窟教会の写真です。
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建物は鉄柱で支えられた大きな金属屋根で保護されています。傷(いた)みが激しいのか、中に入り切れない信者が雨や直射日光で困らないよう配慮したのか・・・イスラム教徒のような衣服を着た人々ですが、れっきとしたキリスト教徒です!
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岩盤を掘って造られた十字架の形のキリスト教会。
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エチオピアがキリスト教徒の国だってことは・・・アフリカの宗教バランスはどうなっているのかと思ってネットを調べると次の勢力分布図が見つかりました。
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この地図の説明文には、北緯10度でイスラム教とキリスト教が勢力争いをしていて、イスラム教は7世紀(イスラム教が生まれた世紀です)に交易によって、キリスト教は15世紀以降の欧州列強の進出によって、広められた、と書かれていました。

とすればエチオピアのキリスト教も15世紀以降だと考えてもよいでしょう。
欧州列強が進出する前のエチオピアの宗教は日本語版Wikiには何の記述もありませんが、英語版Wikiにはありました!
「エチオピアは3つのエイブラハム系宗教(mh旧約聖書のエイブラハムが関係する宗教、つまりユダヤ教、キリスト教、イスラム教のことです)と長い間、密接な関係を持っている。4世紀には、世界でも最も早く、キリスト教を国教と定めた国の一つとなっていた。今では国教とは認められていないが、それでも多くの信者がいる。一方、イスラム教徒も人口の3分の1程で、影響力は大きい。Negashという町はイスラム教徒が移住し定着したアフリカで最初の場所だ。1980年代まではエチオピア系ユダヤ人もかなり住んでいた。(mh今はイスラエル政府のユダヤ人帰国支援政策に応じてイスラエルに移住してしまった、という意味だと思います。)」

エチオピアが4世紀にはキリスト教国家だったとは!どんな経緯があったのか?誰がどんなルートでキリスト教を伝えたのか?一番可能性が高そうなのは、宣教師の一団がエジプトでの布教を断念し、ナイルを更に遡って・・・と思って地図をみると、ナイル川はエチオピアの東、スーダンを流れていてエチオピアには川を伝ってやってくるルートは無いようです!いやいや、あるかも。ナイルはスーダンの首都ハルツームで2つに分かれています。主流は白ナイルでビクトリア湖から南下していますが、青ナイルはエチオピアからハルツームに流れています。こちらの流れは細いので船でエチオピアに行くのは難しそうですが、エチオピアはシバの女王の息子が創った帝国が3千年も続いていますから、きっと4世紀は白ナイルにまで版図を広げていたに違いありません。

ということで、エチオピアのキリスト教は4世紀以前にナイルを遡ってきたキリスト教徒によって広められ、4世紀にはエチオピア帝国の国教になった、という我田引水で少々無茶苦茶な結論を受け入れていただくことにして、ひとまず区切りをつけておきましょう。そうして頂かないと、いつまでたってもブログが終わりそうにありませんから。

で、次の断片的情報です。
乳香(frankincenseフランキンセンス)はボスウェリアという木(低木が多いようです)の樹液です。焚いて香りを楽しむとか、香水の原料として使われるようです。
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どんな香りかというと、どうやら檜(ひのき)などの森林の様な爽やかな香りらしく、こころを鎮める効能がある、ってことです。そんなものが、何故、黄金と同じ価値があったのか???これだけの情報量では、私の自由奔放で手前勝手な想像力を持ってしても、その理由は思い及びません!!!

フィルムで紹介されていたイエメンの50リアル札のもう少し明瞭な映像を見つけました。
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次は裏です。
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映像が鮮明でないのは、本物の紙幣でも印刷レベルが悪いからではないかと推察します。もし日本の印刷技術を採用する、または日本の造幣局に印刷を発注する、などしていたら、もっとスッキリした絵柄の札になっていたことは請け合いです。調べてみると記念銀貨やバングラディシュの通貨を造っていますが、いずれも紙幣ではなく貨幣です。
バングラディシュの2タカ(約3円)
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印刷の良し悪しは別にして、自国の主要通貨の紙幣くらいは好きな時に好きな量だけ印刷したい、とどの国も思うからでしょう、他国に紙幣の製作を依頼した事例は見当りませんでした。

さて、いよいよ、私の脱線もそろそろ終わりにしないと!皆さんから「付き合い切れない!」とのお小言が聞こえ出してきました。

「Wikiシバの女王」によると次の通りです。
シバの女王(シバのじょおう、ヘブライ語: מלכת שבא‎ Malkat Shva、ゲエズ語: ንግሥተ ሳባ Nigist Saba、アラビア語: ملكة سبأ‎ Malikat Sabaʾ)は、旧約聖書に登場する女王。
で、次の記事があります。
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上の引用例では女王の国はエチオピア説とイエメン説があり、いずれか明確ではない、となっています。

しかし!!!
Wiki「シバ王国」を調べると「Sheba(またはSaba)王国はアラビア半島南部に存在していた!」と断言しているではありませんか!!!
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英語版Wikiでも明言されています!
Modern archaeological studies support the view that the biblical kingdom of Sheba was the ancient Semitic civilization of Saba in Southern Arabia, in Yemen, between 1200 BC until 275 AD with its capital Marib.
「最近の考古学的研究によれば、イエメンの南アラビアのSabaで花開いた古代セミティック文明が旧約聖書に記されたシバ王国に相当するとの見解が支持されている。この文明は紀元前1200年から西暦275年までマリブMaribを首都として栄えた。」

マリブMaribに関する情報を更に続けます。
マリブ旧市街の写真です。
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サウジアラビアの支援で20世紀になってダムが造られ、湖もできました。
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今のダムには建物は見当たりません。灌漑用のようです。
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発見された兵士像。50リアル札にも使われました。
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文字も刻まれたレンガに埋め込まれた女性像。
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円形の大きな建物の跡のようです。
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太陽の神殿。2001年の発掘。「シバの女王」と題した写真も!
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更にネットを調べると決定的な情報が!!!
http://worldnewsdailyreport.com/archaeologists-discover-tomb-of-biblical-queen-of-sheba/
「考古学者達が聖書の「ンシバの女王」の墓を発見!」
(2015年2月6日金曜日)
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記事によればオックスフォード大学の発掘隊がマリブの太陽の神殿の近くにある王族の墓から中年の女性の遺骨を掘り出したとのこと。遺骨の周囲には手工芸品や容器に入った乳香も見つかった、とあります。
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カーボンデイティングなどによれば遺骨は紀元前970年から910年のものだと言いますから、シバの女王の可能性は7,80%あるってことです。
見つかった見事なアクセサリーの数々!!!
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発見された遺骨や装飾品は全て首都サナアの国立博物館で保管されて、詳細な調査が行われるのを待っているとのことです。

この新聞記事が本物で、内容も科学的に裏付けが取れたものだとすれば、シバの女王だと断言してもよいでしょうが、これを裏付けてくれる補足記事がネットではなかなか見つからないので、若干の不信感はぬぐえません。

最後に、有名な「ソロモンの知恵」をご紹介しておきましょう。
旧約聖書の列王記に次のような記述があります。
ソロモンが王になると神が夢の中に現れて「何を欲しいか、願え!」と言いました。
ソロモンは神に祝福された国イスラエルの王ですから、約束通り、神がソロモン王をサポートしてやるよ、ってことだったわけですね。
でソロモンは言います。「善悪を判断して、あなたの民を裁く力を与えて下さい。」神は「お前の願いは私の心にもかなった!」となって、神から知恵を授かりました。
(長寿や富や敵の命をほしいなんて言ったとしたら、それは神の御心にそわなかったのだが、とのコメント付きです。別の情報によれば、この時、ソロモンは動物や草木の言葉も理解できるようになったとあります。英雄の神格化の最たるものですね。)
ある日、2人の遊女が王の意見を求めます。
「私たちは二人とも、新たな子供を授かったばかりです。子供と一緒に寝ていたら、一人の子供が死んでしまい、生き残っていた子供を巡って、どちらの子供か喧嘩になっています。知恵者のソロモン王にお裁き頂きたいのです。」
するとソロモンはこう言いました。「剣で子供を2つに割(さ)いて、各々に与えよう。」
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片方の女は言いました「そんなことをするのなら、この子は、あの女におやりください。殺さないでください。」
もう一人の女は言いました「どちらのものにもしないで、断ち切ってください。」
で、ソロモンがどちらの女を本当の母親としたかは誰でもお解りでしょう。
この話が遠くシバ王国に住む女王にも伝わり、接見してみたいと考えた女王は黄金や乳香などを持ってエルサレムを訪れ、王の知恵を試す質問をすると見事に答えたので女王は感銘を受けた、というところまでが旧約聖書で書かれているようです。

しかし、子供を剣で割く話は出来過ぎですねぇ。日本の名奉行大岡越前守の大岡裁きと呼ばれる逸話も同じ構図つまり2人の母親による子供の取り合い、があり、中国でも、インドでも似た話が伝わっているようです。年代的には旧約聖書のソロモン王の話が古いので、これが大岡裁きや中国などの逸話(いつわ)の出所かと思われますが、ブログ「デービットとソロモンの不思議」でもご紹介したように、メソポタミアのウルUrの町に幽閉されたイスラエル人が書いた話ですから、創作の可能性が高いと思いますねぇ。そもそも子供を巡る取り合いで王に裁きを求めるっていうのは現実には起こりそうにない出来事です。どんな結果になろうが、悪いとされた方は打ち首、獄門が想定されますから、そこまで嘘をつき続けることは誰もしないでしょう。

で、もしシバの女王が黒人系だったら、っていう絵がYoutubeフィルムに出てきましたのでご参考に載せておきます。ソロモンの触手が伸びたとは思えない出来栄えですが、これは書いた人が悪いのであって、黒人でもすご~い美人は大勢いますからね。
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(完)

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mh徒然草44:セウォル号引き揚げは実現するか?

突然で恐縮ですが、6月19~29日にかけてパキスタンから中国のカシュガルを繋ぐカラコルム・ハイウェイ(KKH)を辿る旅に行ってきました。
写真集が完成したので関心がありましたらご覧ください。
3つに分けていますが夫々の写真枚数は50枚以下で、BGMと共にスライドショーで出現する「デジブック」です。所要時間は各10分。携帯電話では開かないかもしれません。
また少々BGMの音量が大きいかも知れませんのでボリュームは少し下げてお楽しみください。
パキスタン~中国ー1:
http://www.digibook.net/d/f595a973b1db2030f4861cb11a64054f/
パキスタン~中国ー2:
http://www.digibook.net/d/8485e93f80192a3cf06294b7ec7d441b/
パキスタン~中国ー3:
http://www.digibook.net/d/1ec5c5f3805b007874c71c27e46f451d/

さて、それでは本題です。
「セオル号引き揚げは実現するか?」

年前の2014年4月16日、325人の高校生を含む乗客476人が乗ったセウォル号が沈没しました。結局304人が亡くなり、今も9人の遺体は見つかっていません。沈んだ船の中かも知れませんが、既に海に流され、どことも判らぬ海底で眠っているのかもしれません。

沈没から1年たった1周忌の式典に出席しようとした政府関係者は遺族の反対にあって、式場には入れませんでした。朴大統領も式典会場に行きましたが、大統領の出席を好しとしない遺族の意向で、焼香所が一時閉鎖され、焼香も献花もできなかったようです。

その辺りを伝えた韓国の記事の抜粋をご紹介しましょう。
【ソウル聯合ニュース】4月16日、朴槿恵(パク・クネ)大統領が事故海域に近い南西部の珍島・彭木港を訪れた。同地の訪問は、昨年5月に犠牲者を追悼し遺族を見舞うために訪れて以来、約11カ月ぶり。大統領は当初、現地で犠牲者の遺族と会う予定だったが、遺族らが大統領の到着前に焼香所を一時閉鎖して港を離れたため、面会はかなわなかった。遺族らは真相究明をめぐる政府の姿勢に反発しており、政府が船体の引き揚げを決めないことにも抗議してきた。大統領は黒いスーツを身に着け、同日正午ごろ彭木港に到着。海洋水産部長官らの案内を受けて港に設けられた焼香所に向かったが、閉鎖されていたため献花も焼香もできなかった。大統領は、焼香所の横に設けられた行方不明者9人の家族の宿泊所を見て回った後、300メートルほど離れた防波堤に移動。長さ200メートルほどの防波堤に掲げられた事故に関する横断幕などを読みながら歩き、中ほどで立ち止まり国民に向けたメッセージを読み上げた。メッセージで大統領は、犠牲者を追悼するとともに、政府の検討チームが先ごろ船体の引き揚げは技術的に可能だと発表したことに触れ、「必要な手続きを迅速に進め、できるだけ早く船体の引き揚げに取り掛かりたい」と述べた。

私は朴大統領の「セウォル号の引き揚げを出来るだけ早く進める」という発表映像をTVで見ましたが、本当に進める覚悟があるのかしら、と思いましたね。献花もできなかった大統領は確か当日の午後には、予めの予定に従って南米に旅立っていましたし・・・

今日は5月11日で、朴大統領の引き揚げ表明から1ヶ月にならんとしていますが、一体この事業は進んでいるのかしら?と思ってネットでニュースをチェックしたところ、次の記事がありました。
記事入力 : 2015/05/07
セウォル号引き揚げでタスクフォース構成 今月中旬に入札公告
【世宗聯合ニュース】韓国海洋水産部は7日、昨年4月に南西部の珍島沖で沈没した旅客船セウォル号の引き揚げに向け、タスクフォースを立ち上げたと発表した。海洋水産部や国民安全処、海軍などに所属する16人からなる。
これから本格的に引き揚げ準備が始まる。海洋水産部は「セウォル号引き揚げ推進課」も発足させる予定だ。5月半ばには引き揚げ事業者を決める国際入札を公告、7月初めまでに事業者を選定する。現場調査を経て、9月中に海上での作業に着手する計画だ。
引き揚げ関連予算については総額1283億ウォン(約140億円)と見積もっている。今月中に企画財政部と予算確保に関する協議を終える予定だ。

いろいろ調べていると、セウォル号のオーナーの資産約400億円を政府が差し押さえていること、遺族への補償金はまだ支払われていないこと(見舞金は支払ったのではないかと思いますが不透明です)、補償金を税金で賄(まかな)う話もあるようで「筋違いだ!」と納税者から不満が出ていること、も判りました。

補償金や見舞金については東日本大震災での東電や政府の対応の遅さもありますので韓国の不手際だけを批判することは憚(はばか)られますが、沈没船の引き揚げについては私は懐疑的ですねぇ。

まず、引き揚げ作業が結局は行われないのではないかという気がします。
また、仮に作業が行われても、船は回収されないのではないかと思います。

一体全体、船の回収は大統領が言い出さねば決まらぬことなのか?大統領は何故、1年間も放置していた船の回収の公表を1周忌まで待っていたのか?

朴大統領の引き揚げに対する熱意は低いと思います。誰かが引き揚げなんか止めた方が好い、って言いだしてくれないかと心密かに思っていると思います。でも「引き揚げを中止する!」なんて言ったら、遺族ばかりか国民全体からの突き上げがあるのは大統領だって判っていると思いますから、今は本当に困っているんじゃあないかと思いますねぇ。

引き揚げた船はどうするんですかねぇ。沈没原因調して、遺骨が残っていないか調べて、その後はまた海に沈めるんでしょうが、そのために100億円を使うんだったら、遺族の見舞金にまわした方がよっぽどいいと思いますが、大統領のメッセージ映像を見る限り、この辺りの検討が済んだうえでの引き揚げ決定だとは思えませんでした。

結局、朴大統領には引き揚げに対する考えがなく、世論の流れに合わせているだけではないかと思います。こうした態度を韓国の国民も見ていて、もう諦めているようなネット記事が多くなりました。

朴大統領は悪い人ではないと思います。でも大統領としては不適当でしょう。よい参謀や補佐が居てくれたらよかったのですが、残念ながら、見つからなかったようです。前任の李明博(イ・ミョンバク)氏は現代建設の会長からソウル市長を経て2008年2月に大統領に就任しました。当時はビジネスマン体験を活かした効率的運営で韓国経済の改革が期待されていたのですが、任期5年の間で目立った成果もなく、竹島(韓国名:独島)でのパーフォーマンスを最後に退任しました。

こういう経緯を見ていると、韓国では、だれが大統領をやっても国民が幸せになることはない、という極めて深刻な状況にあるように思われます。その原因は、恐らく、韓国民が日本国民と比べたら格段に利己主義者だからではないかと思います。大統領といえども国民に負担を強いる政策は決断できません。よって国益は軽視されます。こんな状況が続いていて、経済不振や政治的な劣性は全て外国、特に日本、の身勝手な行動によって引き起こされている、という発想しか持てない体質になってしまったようです。

韓国人の呟(つぶや)きがネットに載っていました「はやく中国か日本に占領してもらいたいよ。」韓国の閉塞(へいそく)状態はいよいよもって深刻です。日本も同じ状況に陥らないためには国民も国会議員も与えられた責任を全(まっと)うする覚悟が必要だと思います。問題解決を他人や他国に任せたり押し付けたりしてはいけません!
(完)
The Beatles - The Fool On The Hill
https://www.youtube.com/watch?v=UNfS9Ywb2Cc

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