Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

カーセッジCarthageの不思議

今回はYoutube で見つけたEngineering an EmpireシリーズからCarthageをお贈りしましょう。
番組のプレゼンテイターはピーター・ウェラーPeter Wellerです。どこかで見た顔でしょ?
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Wikiによると1947年6月24日生れ。mhの7日後輩です!
肩書きにはシラキュース大学って書かれていますが、大学の教授???
まさか~!!!
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そう、ハリウッド映画のヒット・シリーズ「RoboCopロボコップ」の主人公です!
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2006年、59歳の誕生日に、長年のガールフレンドで女優のシェリー・ストゥSherri Stoweと結婚しました。
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で、Youtubeフイルムに現れる彼の肩書が何故「シラキュース大学」かですが・・・57歳の2004年、論文「ローマとルネッサンス」で米国ニューヨーク州シラキュース大学の修士号を取得し、2007年まで古代史を教えた、とWikiにありますから、ご紹介するフィルムの撮影時期がこの頃だったのではないかと思います。

ところでブログの題にある「カーセッジCarthage」って何???

実は英語のCarthageは日本語で「カルタゴ」。つまり、チュニジア共和国Republic of Tunisiaの首都チュニスTunisにあった古代の都市です。ブーツ形をしたイタリアのつま先にある石がシシリー島。その石が蹴られると飛んでいく先、北アフリカの地中海岸にある都市がチュニスです。
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古代都市国家カーセッジは現チュニスの中心から約15km北東、海を臨む丘に造られました。
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町の直ぐ南には、当時は地中海最大の港があり、軍艦や商船など多くの船が出入りしていました。港は独特な形で造られていました。面影は今も残っています。
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カーセッジ(カルタゴ)は紀元前8世紀後半以前に建国が終わっていますが、更に数百年以上前に出来ていたとの伝説もあるようです。紀元前149年に始まった戦争で都市が全焼し壊滅するまで5百年以上に渡り地中海の雄として君臨していました。

ご紹介するフィルムは、この町の建立から滅亡までを駆け足で辿(たど)ります。
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Youtube: Engineering an Empire(帝国の設立)
Carthage(カーセッジ/カルタゴ)
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カーセッジがあったのはチュニジアの北の端だ。今は2百万人が暮らすチュニスにあった。
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紀元前4世紀、カーセッジはその巨大な海軍力で地中海を席巻していた。しかし、国の起源は地中海の東海岸にあったフェニキアPhoeniciaの都市タイアTyreから始まる。
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タイアには王女ダイドーDidoがいた。
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マター王の美しい娘だった。夫は野心的なフェニキア人だったが彼女の弟ピグメリアンに殺される。弟は己の実権を確実にすべく王女ダイドーの命も狙った。
弟の手から逃れるため彼女は同志と共に船で地中海を移動して、遊牧民が暮らす北アフリカの岬に到達した。今のチュニジアだ。
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そこで彼女は一匹の牛の皮で囲える土地を買う契約を現地の王と結んだ。契約が終わると、彼女は一匹の牛の皮を細くて長い紐に切り開き、その紐で囲った広い土地を自分のものとした。
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彼女は賢いだけでなく狡(ずる)い女だったとも言える。こうして土壌が肥えた実りの土地にカータダッシ、つまり新しい都市が造られることになった。
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そこは海を臨み、川もあり、城塞都市を造るのには最適な場所だった。
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商取引も盛んに行われるようになり、カーセッジは繁栄していった。
伝説によれば、土地を分譲した王アラバスは、美しく賢いダイドーに魅せられ、結婚を申し込んだ。
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しかし、彼女は弟に殺された夫を愛し続けていたので、自ら用意した火葬用の火に身を投げて焼身自殺する。
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彼女の灰から、偉大な帝国カーセッジは生まれた。狭く囲まれた町から、海に向けて踏み出していった。住民は開拓者でもあり現実主義者でもあった。新しい考えを取り入れる広い心があり、たゆまない改革を進めていった。

町は商業都市として急速に発展を遂げる。
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その後の2百年で、北アフリカの地中海沿岸だけでなく、コルシカCorsicaやイビーザIbizaなどの地中海の島々を勢力圏に加えていった。紀元前640年、地中海最大の帝国だっただろう。
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紀元前7世紀末には、貿易ネットワークを拡大し、巨大な富を築き上げていた。町の人口は30万人に増大し、当時最大の都市の一つだった。
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狭い土地に多くの人が住む、今のニューヨークのような町だった。地中海沿岸全域に影響を及ぼす力を持つ都市国家に成長していた。

町には一攫千金を夢見る人々が引き付けられるように集まってきた。
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大勢の人が暮らせる町の建設事業が推し進められた。頑丈な建材が使われ、狭い土地の中で建物は上に向かって伸びていった。
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そして6階建てのアパートも造られた。
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成功したければカーセッジに行け、と人々が集まってきた。

建材用の花崗岩はチェニス湾のエルハアリアと呼ばれる所で切り出した。
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無尽蔵の花崗岩があった。花崗岩は加工や組み立て工事が容易だ。
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岩にチゼル(たがね)で小さな穴を点線状に幾つも明け、木の棒の先を打込んで水をかけて膨潤させ、割れ目をつけて切り出していた。
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こうして採掘した建材などでダイナミックな町を造り上げていった。
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人々が町に住み続けるには、いつでも水が使える必要がある。カーセッジでもこの対策が行われていた。
中の水が染み出さないよう2重構造の水槽が沢山造られた。
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全戸はパイプや側溝で水槽に連結され、水槽に蓄えられた雨水が供給できるようにしていた。
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下水道やパイプを使った上水道も造られていた。いずれも当時、他に類を見ない革新的なシステムで、それこそがカーセッジの完成度の高さを示すものだった。
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紀元前6世紀には見事な寺院や眩(まばゆ)いばかりの宮殿、多層階の建物が造られた都市国家になっていた。
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しかし、カーセッジの発展に逆行するように、カーセッジの従兄とも言える都市タイアは紀元前574年、バビロニア人によって滅ぼされ、カーセッジは一人で残されることになる。
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カーセッジの船団はアフリカの海岸線を渡り歩きながら海を制覇し、帝国を拡大していった。紀元前520年、60隻の戦艦団はハーキュリーの柱に到達した。ジブラルタル海峡と呼ばれる場所だ。
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偉大なナビゲータ(水先案内人)と呼ばれたハンノ提督が海軍を指揮していた。
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地中海全体を管轄することでカーセッジの権威を高めようとしていたのだ。彼は後のバスコ・ダ・ガマやクリストファー・コロンブスの先駆けだったと言ってもいいだろう。

彼は交易で拡大を図るのではなく、地中海沿岸に多くの町を確保してはカーセッジの人間を送り込んで統治する手法を採った。
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紀元前600年には、コルシカ、サーディニア、バレリック諸島がカーセッジの勢力下におかれていた。
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カーセッジの町の港は「技術の大理石」とも言える卓越した施設で、カーセッジの頂点と言えるだろう。
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記録が不十分だが歴史は古く、ハンノの時代(紀元前6世紀)に造られたと思われている。
最盛期は紀元前2世紀だろう。
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港はカーセッジの一部でもあり、心臓でもあり、呼吸に必要な肺でもあり、全てでもあった。軍事と商業を司っていた。

金属の鎖で開閉される幅21mの入り口が設けられていた。そこを入ると2つに区切られた船着場があった。
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第一の船着場は貿易人や商人の船のためのもので、停泊する船と町との間の荷物の搬送が容易なように直線状のアーケードが入り口から奥まで左右に設けられていた。
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第二の円形の船着場は軍事目的だ。連続した30の舫(もや)い場が対照的に配置されていた。
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更に140の補助的な舫い場が放射状に配置され、合計220隻の船が停泊できた。
最近発掘された、船の修理用の長い陸揚げ場は当時の港の栄光を偲(しの)ばせる。
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ここに軍港があった!その面影はほとんど残っていない。
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「港の中央にあった円形の舫い場が造られていた場所は、向うの島だ。高い建物の上ではトランペットが船の出入りを告げる大きな音を出していた。そこからは全ての船の出入りが監視出来た。」

2世紀の間、カーセッジは地中海を統治した。ここを訪れる船は海から港の建物を見て、これがカーセッジか、と感嘆したという。
しかし、地中海をはさんだ北では強力なライバルが軍事力を備えつつあった。ローマだ。
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2つの巨大パワー、カーセッジとローマは、その間にある地中海の宝石と呼ばれるシシリー島を巡って対立を起した。この美しい島シシリーは、軍事的、商業的に重要な位置にあった。シシリーを管理できれば、地中海の重要な地位と富を手にできる!ローマにとってシシリー島は自分の喉に向けられた槍の矛先だ。「そこからカーセッジを追い出しておかねばならぬ!」

ローマとカーセッジはシシリー争奪戦の体制を整えた。紀元前3世紀、共和制ローマがシシリーに侵攻した。
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シシリーはカーセッジに助けを求めた。カーセッジは直ちに軍を派遣する。「道を明けろ!ここは我々の島だ!」
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2つの軍の出会いは以降、何度か行われた戦いの幕開けとなった。ローマがカーセッジをピュニカPunicaと呼んでいたのでピューニック・ウォー(Punic Warポエニ戦争)と名付けられることになる。
紀元前264年、第一次ピューニック・ウォー(ポエニ戦争)は始まった。
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17年たっても勝敗は決着せず対立が続いていた。
カーセッジ軍はカリスマ的指導者ハミルカー・バルカが海軍提督として戦いを指揮していた。戦いの全てを把握し理解し作戦を実行していた。
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紀元前247~242年、彼は大軍と共に勝利を確信しながらシシリーに攻め込んでいた。彼はローマ軍を圧倒するに十分なトライリーン(trireme三段櫂船(さんだんかいせん))という名の強力な軍艦を持っていたのだ。トライリーンはギリシャで発明された軍艦だが、カーセッジは船の漕ぎ手のスペースを改造し巨大にしていた。
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オールは左右で3段に分かれていた。
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この船の主な戦術は、敵船の側舷に突っ込んで沈めることだった。そのため、ブロンズ製の槍のような舳先(へさき)があり、高速で移動することができた。
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標準のトライリーンは長さ66m、幅3~5m、船員は420人だった。
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全てを含めると、トライリーンの規模は100トン以上だった。

普通、船同士の戦いでは、敵の船に体当たりしたら兵士が敵の船に乗り移り、刀や槍で戦う方法が取られていた。しかしトライリーンは高速で敵の船に体当たりしたら直ぐ敵船から離れ、また敵船に突進し直して船ごと沈めてしまう戦法を採っていた。1隻沈めたら、直ちに別の敵船めがけて突進して行った。船の殺し屋ともいえる戦艦だったのだ。
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勝れた技術をもつ天才的なカーセッジの船大工は、効率よくトライリーンの建造を進めていた。予め船の各部品を作業場で作り、ドックに持ち込んで船に組み上げた。
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こうして短期間で船を造ることが出来たので、1隻沈んでも、直ぐに次の船が水平線から現れるという具合だった。

ローマ軍は次々にやって来るトライリーンで痛めつけられて劣性だった。しかし、座礁したトライリーンを解体して持ち帰り、製造方法を盗んだ。ローマがカーセッジのトライリーンと同じコピー船を造り始めるとローマとカーセッジの破壊力は対等になった。
紀元前241年3月10日、2つの艦隊がシシリーの西海岸近くのアーゲイテス島で出くわして歴史的な戦いが始まった。

カーセッジは船の数では優っていた。しかし彼等の船はシシリー島で戦っているハミルカー軍の兵糧や他の支援物資を積んでいたのだ。重く、動きが遅いカーセッジの船は次々にローマの船によって沈められ、勝利はローマにもたらされることになった。
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カーセッジにとっては戦術的な悲劇だった。3万人が捕虜になり、支援の兵士や物資が届けられなかったハミルカー軍は降伏を強いられ、カーセッジに戻るはめになった。その結果、地中海覇権の針は明らかにカーセッジからローマの側に振れていった。勝利したローマはシシリー島だけでなく、カーセッジが統治していたシシリーとアフリカの間の島々、コルシカ島、サーディニア島、を獲得した。
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ローマはカーセッジに更なる打撃を与えるため多額の貢物も要求した。

戦いは一段落したが、カーセッジはまだ諦めてはいなかった。紀元前237年にハミルカー・バルカをスペインに送った。彼の軍は9年を費やし原住民を打ち破り、エブロ川Ebroまでをカーセッジ帝国の一部として取り込んだ。
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紀元前228年、ハミルカー・バルカは野蛮な原住民との戦いで戦死した。しかし、彼の死でカーセッジの覇権が途絶えることはなかった。

9歳の息子は父のスペインでの戦いを見て育った。生前、父は息子にローマへの憎しみを永遠に忘れず、ローマを滅ぼすことを約束させていた。
この息子こそ偉大な将軍ハンニバルだ!
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父の仇(かたき)をとることに心を燃やしたハンニバルは共和制ローマを縮み上がらせることになる。

紀元前211年、共和制ローマの北の国境の外でハンニバルは兵を挙げた。以降、ローマは、機敏で、残忍で、聡明な敵の将軍ハンニバルに脅かされた。ローマの悪夢の始まりだった。
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ハンニバルがローマ帝国に攻め入ることが出来たのは魔法を使ったのではなく、天才的な戦術によるものだ。ある学者は言う「私が知る限り、彼は偉大な将軍の一人などと呼べる人物ではない。歴史上で最も偉大な将軍だと断言できる。」
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彼の知恵は父から受け継がれたローマへの怨みから生まれた。
紀元前221年、26歳の時、長年の怨みを晴らす力を手に入れる。カーセッジの将軍に就任したのだ。

彼は世界でも類を見ない戦いを開始する。ローマが制海権を握る地中海は彼にとって検討の対象外だった。陸路を進軍しアルプスを越えてローマに攻め込む戦術を立てた。圧倒的な数の兵士を有するローマに少ない兵士で勝利するためには、ローマ帝国の心臓部まで味方の兵を減らすことなく移動し、敵の胸元で戦いを挑むのだ。

紀元前218年、9万人の兵士、12千の馬、アフリカで捕えて連れて来た37匹のアフリカ象と共にスペインの領土を出発した。象は数世紀も前から戦争に活用されていた。しかし地中海の北で育ったローマ兵は象を見たことが無く、対抗戦略を持ち合わせていない。だからハンニバルは象を連れていったのだ。
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10月までに6百マイルを走破し、フランスのローム川で敵に相対することになった。対岸には敵兵がハンニバルたちを待ち受けていた。
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ローム川は一年中で一番水が少ない時でも川幅は100m、水量が多い時には200mもあった。
敵に打ち勝つには、まず川を打ち負かさねばならない。

彼は部下に命じて木を伐採させ、ロープで繋ぎあわせて長さ60m幅15mの筏をいくつも造り、1頭から2頭の象を一つの筏にのせて渡河(とか)を開始した。象がかもしだす気迫(psycheサイキ)で敵兵を威嚇したのだ。
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象たちが対岸に到着すると敵はパニックに陥って退却してしまった。この戦いに要した日数はたった9日だ。ハンニバルの戦術が卓越していた証拠といえる。

ハンニバルは進軍を続けアルプスの麓に到達した。
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冬はそこまで来ていた。兵たちは飢え、疲れていた。山に登るにつれて新たな苦難に立ち向かわねばならなくなった。アルプスは正に巨大な壁だった。
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ハンニバルはそれを越えるのではなく、その中を通り抜ける戦術を採った。
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この戦術はローマ人を驚かした。誰だって軍勢がアルプスを越え、象までも引き連れて攻め込んでくることなど想定していなかったのだ。
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ローマ帝国の歴史家ジビーの記録によれば、ハンニバルは、文字通り山を動かしたのだ!崖の割れ目に木を詰めて燃やし、炎で岩を加熱して膨張させてから加熱したビネガー(酢)を流し込んだ。岩は溶け、簡単に破壊できるようになったので、そこに道を造った。
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「これが事実だとしたら、そして私はそれ以外には方法は無かったのではないかと考えているが、ハンニバルは何と天才的な将軍だったんだろうか!」
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雪のアルプスを越えたハンニバル軍にとって緑の平地が広がるイタリアはまるで自分たちを歓待してくれているように思えただろう。

紀元前216年8月2日、ハンニバル軍は北イタリアでバロー将軍が率いるローマ軍に出会った。
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夜が明けると、ハンニバルは5万の軍勢を率いて戦場にでた。9万のローマ軍はハンニバル軍を殲滅しようと全勢力をハンニバル軍の中央に向けて襲い掛かった。
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これは致命的な失敗だった。ハンニバルは隠していた歩兵団を使い、後ろから襲い掛かった。完全に包囲され、ローマ軍は立ち往生した。
3500人はかろうじて逃げ延びた。1万人が捕えられ、7万人が戦場で死んでしまったのだ。
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第一次世界大戦の戦場で起きたような大惨事だった。ローマ軍は悲惨な敗北を喫したのだ。
しかし、ハンニバルは、この大勝利を効果的に生かすことができなかった。
彼は13年を使ってローマを少しずつ包囲していったが、ローマは粘り強かった。新たな武器を使ってハンニバル軍に対抗した。
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紀元前204年、ローマは反撃に出た。将軍スキピオが散り散りになっていた兵を集めてハンニバルが留守にしているスペインに攻め入り、留守を守っていたカーセッジ軍を打ち破った。そして、休む間もなく矛先をアフリカのカーセッジの本拠地に向け、攻撃を始めた。イタリアにいたハンニバルは自国を守るために呼び戻された。戦場でハンニバルとスキピオは出会い、話し合うことになった。
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何が話されたかは記録がないので判らない。紀元前202年にもザーマの戦いでこの2人は出会っている。
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ハンニバルは打ち負かされ、捕えられ、カーセッジからトロイに送られ、幽閉された。
彼は父の仇を打つことが出来ないまま、トロイで自殺して一生を終えた。それは第二次ピューニック・ウォーの終焉だった。

戦いに負けたカーセッジには更に多くの貢物が課され、スペインや地中海の島々は没収された。以降、ローマの許可なくしていかなる戦いもしてはならない、と約束させられた。
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紀元前150年、シーザーの祖祖父でもあり執政官でもあったマーカス・ポーシアス・ケイトーはローマ帝国の拡大を進めていた。ケイトーは元老院で演説を行うときに常に、全く関係無い話題であっても、「ともあれ、私は、カルタゴは滅ぼされるべきだと思う」と末尾に付け加えた。彼の頭の中にはたった一つしかなかった、カーセッジだ!
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カーセッジはシシリーに近く、独立都市で存在し続けるとローマにも悪い影響を与える、と固く信じていた。「完璧に消滅しておかねばならぬ。」

かつての同盟国だったニューミディアNumidiaがカーセッジの領土を取り込んで新たな国家としてカーセッジの後方に生まれていた。
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「カーセッジはニューミディア軍に対抗する必要が出ていたが、ローマの許可なくしてはいかなる戦いも出来ないことになっていた。」
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ローマは調査団をカーセッジに派遣した。その一人がケイトーだった。ケイトーはカーセッジが戦いの後、復興を遂げ繁栄し始めているのを見た。ローマに帰ると指導者たちに進言した。
「私は何度だって言う。カーセッジは破壊しておかねばならないのだ!」

結局、ローマは大軍団をカーセッジに送り、こう告げた。
「お前たちは町を完全に放棄して明け渡さねばならない!」
しかし、カーセッジはこの指示を拒絶し、戦いを選んだ。その結果、第三次ピューニック・ウォーが始まることになった。

ローマには大きな問題があった。カーセッジは世界で最も強固な城壁で囲まれた難攻不落の城塞都市だったのだ!城壁の基礎の一部は今も残っている。
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紀元前149年、この強固な城壁は都市の最後の希望だった。
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都市の守備は3つの城壁で成っていた。カーセッジの住民が最も信頼を寄せていた防御システムだ。全長は37Kmだった。一番内側の城壁は大きな石で組み上げられ、町を取り囲んでいた。高さは13m、幅9mで最も強固な城壁だった。
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その外側には石で組み上げられた城壁が、一番外側の海寄りには、掘った土を盛り上げた壁があった。

一番内側の最強の城壁には15の塔が180mの間隔で配置され、監視兵が常駐して監視に当たっていた。
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城壁の中には通路があり、兵士が往来していた。
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2万の兵士と300頭の象もいた。
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世界で最善と言えないにしても、当時の地中海の5大都市では最高の防御体制が整備されていた。
ローマ兵に対抗するカーセッジの指揮官はハスドルーバルだった。
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市民も防衛に協力した。カタパルト(投石器)用のロープを造るため女性は髪を切って供出した。
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牢獄にいた男たちは兵士として使った。年を取り引退していた刀鍛冶(かなたかじ)も若者に交じって武器の製作を手伝った。2ヶ月の共同作業で6千の楯、8千の刀、3万の槍、1200隻の船、6万のカタパルト・ミサイルを造った!

彼らの集結された努力にもかかわらず、ローマ軍の規模はこれを圧倒していた。
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都市は完全に孤立していた。崩壊の運命に面していたのだ。城壁の周囲はローマ軍とその同盟軍で完全に埋まっていた。カーセッジに味方するものはなく、たった一人残されて戦うことになったのだ。
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堅固な城壁がローマの侵入を跳ね除けてくれることをひたすら願っていた。

カーセッジはローマの攻撃を3年間、跳ね除けた。ローマ軍が砦の壁から侵入してくる最後の時でも砦の上まで到達するのに7日かかった。
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都市の中の街路のあちらこちらで戦いが始まった。
狙撃兵が最後まで抵抗を続けた。彼等にてこずったローマ軍は町全体を焼き尽くす。
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勇敢にも残って戦い続けていた数千のカーセッジ人は焼き殺された。都市の人口は50万から5万になった。生き残った人は奴隷として売られ、以降、故郷に戻ることは無かった。
Wiki:第三次ポエニ戦争
「紀元前149年から紀元前146年。大カトの主張が通り小スキピオをしてカルタゴを滅亡させた。ローマ軍は住民のほとんどを殺すか奴隷にした。さらにローマ人のカルタゴへの敵意は凄まじく土地を塩で埋め尽くし、不毛の土地にしようと試みたとされる。」

紀元前146年、大火でカーセッジは完全に破壊したが、その後、また復活する。この復活はローマ人が行ったものだ。円形劇場も造られている。
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3世紀には商業都市として新たな町が生まれた。
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「ローマによって滅ぼされたカーセッジにいると、ダイドーや、ハンニバルや、大勢のカーセッジ市民たちの声が今も遺跡の中から聞こえてくるようだ。」
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Engineering an Empire: CARTHAGE
https://www.youtube.com/watch?v=HetYXwtCCho

最後にWikiの逸話を2つ。

「第二次ポエニ戦争でローマを裏切りハンニバル側についたシチリア島のシラクサでは防衛にアルキメデスも参加しており、彼の発明した兵器はマルケッルスらローマ軍に損害を与えた。シラクサ陥落に際してはマルケッルスはアルキメデスは殺すなとの命令を出していたが、彼とは知らなかった配下の兵によって殺されている。アルキメデスは殺される直前まで地面の上に図形を描いて計算をしていたが、1人のローマ兵がこれを踏むと、「わしの図形を踏むな」と叫び、その兵士に殺されてしまった。このとき彼は円周率の計算をしている最中だったといわれる。」

Wiki:ハンニバル・バルカHannibal Barca(紀元前247 - 183年)
カルタゴ(カーセッジ)の将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカは「雷光」という意味である。
第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高い。
(完)

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mh徒然草―52: 命名法

今日は7月ですが、もう30日ですから夏も酣(たけなわ)。暑いです!時刻は午前9時15分なのに室内気温は33℃!まるで地獄のような暑さですが、何度にすれば気が済むというのか!天気の神様は容赦してくれません。地球の温暖化は主として地下資源を浪費した結果だと考えて間違いないと思いますから、我々人類が起こしたことで、天罰が下っていると言えます。この天罰はまだまだ続きそうです。人口は有史以来、増え続けていて、地下資源も使い続けていて、文字通り未曾有(みぞうう:未だかつて有ったことが無い)の事態が続いているのですから、地球から未曾有の仕打ちを受け続けるのは必定です。

誰もがみんな、地球に優しくしないといけないのに、私は好きにやる、っていう人間の持って生まれた利己主義から、とにかく行きつく所まで行かないと収まらないかも知れません、残念ですが。

そうだ、今日はこんな話題ではなかったんですが、とにかく何度も繰り返して恐縮ですが、朝から暑いものだから頭もおかしくなっていて、物の順序を間違えてしまいました。

今朝も8時頃から、団地内の遊歩道を30分ばかり散歩しました。緑が多く、季節の花も咲き、自動車も通らず、静かで、とても気に入っていますが、今年も蝉が泣き喚(わめ)く時期になり、既に、歩道には、いろいろな種類の蝉の死骸が転がっています。昨年もブログで書きましたが、まだ息が有る蝉はトングでつまんで脇の草むらに移しますが、既に体半分をアリに食い尽くされ、頭だけ残った蝉もいます。茶色の斑の羽根で「ジージー」鳴くのはアブラゼミ、透明な羽根で「ツクツクボーシ」と鳴くのはツクツクボウシ。この2つを知っていれば、およそ8割の蝉は言い当てられます。その他には、夕方、涼しくなると「カナカナカナカナ」と鳴くヒグラシってところが関東一円の蝉の御三家というところでしょうか。

羽根が油紙のようなアブラゼミ、ツクツクボーシとなくからツクツクボウシ(つくつく法師)、日暮れ時に鳴く「日を暮れさせるもの」つまりヒグラシなどなど、蝉の命名は至極ありきたりで単純です。そういえば、6月に辿ったカラコルムハイウェイでは、ヒマラヤ山脈、ヒンドゥクシュ山脈、カラコルム山脈という世界の屋根が待ち構えていましたが、聞くと、サンスクリット語で、hima(雪)、 ālaya(すみか)から「雪の住みか」のヒマラヤ、奴隷として連れてこられたインド人が大勢死んだ所というのでペルシャ語「インド人殺し」のヒンドゥクシュ山脈、見た通りのトルコ語「黒い砂利」のカラコルム山脈など、こちらの命名もありきたりで、重みとか深みが感じられません。まるで子供が命名したようです。

何故、奥行きが深い、人を感心させるような名前がつかないのか、ふと疑問に思いましたが、実は、今は得心しています!2年半駐在したインドネシアでは、花の名前は黄色い花、赤い花、小さな青い花、といった命名が多かったことを思い出します。ヨーロッパではマーガレット(和名モクシュンギク木春菊)という花もありますが、マルガリータ・デイジーmarguerite daisyと呼ばれ、マーガレットにはギリシャ語で「真珠」の意味があると言います。

こうしてみると、蝉の名ばかりではなく、山も、花も、およそ自然界のすべての物も、随分と単純と言うより、誰もが感じた通りの印象をそのまま名前にするのが世界中で昔から行われている命名法なんですねぇ。すこし捻(ひね)ったものに虞美人草(ぐびじんそう)と呼ばれる花があります。これはケシの別名で、中国の武将項羽の愛人だった虞という美人が死んだ所に咲いたということで名付けられたようですが、中国ウェブサイト「百度」で調べてみると中国ではあまり虞美人草とは言わないようで、ひょっとすると日本人による命名かもしれません。中国で虞美人草と言えば夏目漱石の小説だと思われるようです。

ということで、話は尻切れトンボのように結末を迎えるのですが、物の名前というものは、見た通り、感じた通り、耳に聞こえた通り、頭に浮かんだ通り、に命名され、名前を見たり聞いたりするだけで直ぐにどんなものか判るのが、どうも一番のようです。それを子供っぽいなどと考えていたmhの発想こそが子供っぽくて貧弱だったと、痛く反省している次第です。

せみの図鑑については次のURLをご覧ください。名前をクリックすると写真も見れます。
http://homepage2.nifty.com/saisho/zukan/nini/index.html

The Carpenters - Superstar
https://www.youtube.com/watch?v=pqmkgfT0RIY
(完)

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ラァジャ・ラァジャの不思議


何の不思議かですって?
題にある通り「ラァジャ・ラァジャRaja Rajaの不思議です!!!」
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9世紀~13世紀、南インドではタミル系ヒンドゥ王朝(ヒンドゥ教が国教の王朝)のチョーラ朝(Chola Dynasty)の時代でした。何人かいた王の中で最も知られるのが今回の主人公ラァジャ・ラァジャ・チョーラ1世Raja Raja Chola Iです。ラァジャ・ラァジャは「王の中の王King of Kings」の意です。西暦985年に38歳で即位し、58歳で亡くなる1年前の1014年まで国王として君臨していました。彼の時代、海峡を隔てたスリランカ北部も併合され、王朝の版図は最大になりました。
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彼の時代の首都はタンジャーヴールThanjavurですが、どんな理由か、お釈迦様ではありませんが因果応報で理由はきっとあるのですが、9世紀~13世紀のチョーラ朝黄金期に遷都は4回行われています。

ラァジャ・ラァジャ大王は、祖先同様、敬虔なヒンドゥ教徒で、特にシヴァ神を崇めていました。
ここでヒンドゥ教についてWiki情報で簡単におさらいしておきましょう。
発祥については定かではないようです。「インダス文明(紀元前2,300年 - 1,800年)のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐(けっかふざ:ヨガのように足を組んだ座り方)した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる、直立した男性性器を示す絵が見られる。しかしインダス文明の文字は解読できていないので、後代との明確な関係は不明である。」

ヒンドゥ教は多神教ですが次の3神が有名です。
ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

これらの三神は実は元々は同じ神(三神一体:トリムルティ)だと考えるのが今では一般的のようですが、人気者はシヴァでしょう。次の三神の写真ではシヴァだけが結跏趺坐(けっかふざ)しています。
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“「ヒンドゥ」という言葉はペルシア(現在のイラン)の側からインダス河対岸一帯を指した地域名「ヒンド (Hind)」の形容詞形”ですが、実態は失われ、ヒンドゥクシュ山脈(Hindu Kush:ヒンドゥの人々を殺す、の意)とか「ヒンドゥスタン (Hindustan:インド亜大陸)」などで残るだけです。しかし「インダスIndus」も「インド」という国名も、元を辿れば「ヒンドゥ」から派生した言葉でしょう。

結局、ヒンドゥクシュ山脈やヒマラヤ山脈に水源を持つインダス川Indus River、及びインダス川に沿って流れていた、伝説の川サラスヴァティSarasvati River流域で生まれたインダス文明によって育まれた宗教、それがヒンドゥ教Hinduismだと考えて良いと思います。

ラァジャ・ラァジャはタミル人でした。普通、○○人とは○○語を話す人を指し、仮にXX国で暮らしていても○○語を日常言語とする人は○○人だと言えるでしょう。タミル人の彼は勿論タミル語を話していました!

タミル語Tamilですが、最古のタミル語は紀元前3世紀に造られた碑文に残されています。どんな言葉か解説しだすと際限がなくなるので、どんな文字なのか、数字を例にご紹介しておきましょう。
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楔形文字なんかより味わい深くて芸術的ですねぇ。

タミル語は現在も南インドの主力言語ですが、インドの公用語はヒンディー語Hindiだけだと憲法で決められています。どんな文字かというと・・・
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ヒンディーHindiはインド北部や中部を中心に5億人が日常的に使っていますが、残る7億人が使う言葉は千差万別のようで、結局、30の異なる言語と2千の方言があるといいます。さすが亜大陸と呼ばれるにふさわしい多民族国家というか多言語国家です。

インド憲法では公用語ヒンディー以外に22の言語が公的に使える言語として指定されています。タミル語も有力な指定言語で、南インドのタミル・ナードゥ州を中心にインドで6千万人、スリランカでも3百万人が使っています。
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南インドとスリランカのタミル語話者の分布(1961年)

かつてはチョーラ朝の領土だったインド南西のケーララ州KERALAの公用語はマラヤーラム語ですが、昔の名残か、タミル語とかなり類似しているとのことでした。

インド連邦には州・連邦首都圏(デリー)・連邦直轄領があり、各々の地域で公用語が設定されています。
地域が定める公用語は、英語とその他の1つの言語で、例えば英語とヒンディー語、英語とタミル語などです。従って英語はインド共和国全体の公用語とも言えますが、国の公用語は既に述べたようにヒンディー語だけで、英語は征服者の言葉だった訳ですから公用語という名誉ある地位からはずされたのです。しかし、インドのような多言語国家で、かつ交通や物流の発達した現代、多くの人が理解し、国際的な地位も高い英語は無視できないんですねぇ、至極当然です!で、英語は準公用語と呼ばれ、以前のような公用語に復帰することは叶いませんでしたが、それなりの名誉回復はなされました。今では、インドの全ての大学で使われる言語は英語です。これはインドの工業、情報産業の発達に大きく貢献しています。

さてさて、いつものように長い前置きになりましたが、それではいよいよYoutubeフィルム「The Lost Temples of Indiaインドの失われていた寺院群」をご紹介しましょう。

そうそう、前置きの最後になりますが、ラァジャ・ラァジャのチョーラ朝に関係する有名なヒンドゥ寺院の位置をプロットした地図を上げて起きますのでざっとご覧下さい。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1838年、一人のイギリス人探検家が南インドを探検していた。
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ジャングルの中に分け入った彼は美しい寺院を発見した。
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近くでよく見た彼は赤面した。寺院は赤裸々な性描写のレリーフで覆われていたのだ!
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寺院は、今も多くの欧米人が敬遠する、「失われた寺院」になった。
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世界の多くの人々が知っているインドの寺院タージマハル。
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美しく高貴な姿、大理石の輝き・・・世界で最も美しい建物の一つだろう。
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16世紀の中旬、フランスでベルサイユが造られた頃、イスラム寺院として王チャージ・ハーンが妻モン・タージ・マハルのために造った。妻は14人目の子供を産んで亡くなるとき、何処にもない程美しい墓を造ってほしいと夫に頼んだ。夫はその約束を守った。01814.png
何百人もの奥方の中で王はタージ・マハルを最も愛していた。
2人の棺が並ぶ主室。
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玉石を集め、花の形にして棺、床、壁などの大理石に埋め込んだ。
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ラピス(瑠璃)、アンバー(琥珀)、ジャスパー(碧玉)、アメジスト(紫水晶)・・・
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完成した白亜の建物は長い庭の奥に聳えている。
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インドと聞くと、人々はまずタージマハルを思い浮かべる。しかし・・・
インドには沢山の古い秘密が南インドのジャングルに隠されている。今では忘れ去られているが、人類の歴史の不可思議ともいえる何千もの寺院があるのだ!
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ここは南インド。伝統的な信仰と文化が残る地域だ。ヤシの森も広がっている。
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2,3Kmもいくと、高くそびえる寺院がある。
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1千年前、一人の偉大な王が人類史上で最も大きな宝ともいえる寺院をここに建てた。
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今も建設は続いている。ギザのピラミッドよりも多くの石材が使われている。
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ラァジャ・ラァジャ寺院は今もラージャー(larger:より大きく)になっているのだ!

寺院はタージマハルを200以上収容する面積がある。
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ラァジャ・ラァジャは何故こんなに大きな寺院を造ったのだろうか?ヨーロッパで大きな教会を造ったり、エジプトでピラミッドを造ったりした時と同じ理由、つまり信仰の力に動かされたのだ。
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神を崇拝していた。
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大勢の人々が暮らしている村。
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毎日、日の出とともに16歳の少女は家の前の庭に模様を描き始める。
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幸運を呼び込むため、色が付いた米粉で描くカラムと呼ばれる絵だ。毎朝、女が玄関の前の庭に描くのが習わしだ。
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カラムは人や家畜が歩けば直ぐに崩れてしまう。だから、毎日、庭を掃いて綺麗にしてからカラムを描く。使われている米粉は蟻や昆虫の餌になる。ヒンドゥ教では全ての生物は神聖な命を授かっていると考えられている。

この寺では何百もの祈祷師が祈りを捧げている。リンガ(リンガム)が御神体だ。毎日、ミルクをかけて洗い清めている。
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リンガや裸の像や多くの顔をもつ神を崇拝する信仰は西洋人には理解しがたい。
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お祭りには、輿(こし)に乗った多くの神々が寺の庭を練り歩く。
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その日の終わりになると、神の衣装は新しいものに交換され、安息所で一休みする。
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神々は見返りとして村を守り、病を直し、収穫を保証し、人々に永遠の命を約束する。
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どの宗教でも高い身分の支援者が必要だ。特に多くの寺院を必要とするヒンドゥ教徒には絶対だった。だからラァジャ・ラァジャのような王を支援者に持てたのは幸運だった。タンジョーァの町の偉大な寺院はその始まりだった。
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完成時、塔の高さは、当時の最大の建物の10倍だった。
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大きいだけでなく世界でも最も固い石の一つ花崗岩graniteで造られている。
ラァジャ・ラァジャの形跡(パーソナリティ)は寺院の至る所に捺印されている。南インドで最も成功した王だから、最も美しい寺院を建てる必要があったのだ。
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寺院の最も高い塔の中には、高さ3.6m、直径1.5mのリンガが奉られている。
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リンガはヒンドゥ教で最もパワフルな神シヴァのシンボルだ。
毎日、祈祷師はリンガをミルクで洗い花や布で飾り付ける。
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リンガは王の力と豊穣のために造られた。最高の王ラァジャ・ラァジャが造るリンガはインドでも最大でなければならなかった。

つい最近まで、王がどんな姿だったのかは全く知られていなかった。しかし考古学者は注目すべき発見をした。彼等は最も重要は寺の中で細い通路を見つけた。
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数百年もの間、通路の入り口は壁で覆われていたので気付かなかったのだ。
通路や小さな空間の壁には絵が描かれていた。
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シヴァや取り巻きの神々、若い女たち・・・
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ダンスする女たち。
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とりわけ重要なのは王の絵だ。彼が崇拝するグル(教祖)と一緒に描かれている。
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王はグルの後ろに立ち、尊敬の眼差しでグルを見つめている。精神的な指導者のグルは寺院の建設を進めるよう王を諭(さと)したのだろう。
こんなにも大きな寺院を建てるには莫大な資金が必要だった。その資金を最も簡単に得る方法は、いつの時代もどこの国でもそうだったのだが、弱い国からまきあげることだ。
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ラァジャ・ラァジャを助けたのはインドのユニークな兵器、象だった!
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王の命令を受けた男たちはジャングルで多くの象を捕獲した。
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1960年、丘の麓で昔と同じ方法で象の捕獲が行われている。
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ラァジャ・ラァジャの時代、捕獲された象の中で、元気な象は戦や建設作業に、そうでない象は農業に使われた。力の強い象は6千頭の馬に匹敵すると言われていた。
戦に慣らすために、象同士で争わせて訓練した。戦場では鼻で敵を倒した。
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象はとても頭が良い。訓練すれば複雑な作業も鼻を手の様に使ってこなしてくれる。

ラァジャ・ラァジャ寺院の建設で使われたは数十万トンの花崗岩は80km離れた石切り場から運ばれたものだ。千年前、どんな方法で切り出した石を運んだのだろうか?

コラクルと呼ばれるボートだ。作り方や形は今も昔のままだ。
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ボートの材料は曲げやすい木と動物の皮だ。このコラクルでは精々1トンの石しか運べない。タンジョーァで使われている多くの石には十分だっただろう。

寺院の塔の先端のキャップ・ストーンは40トンの花崗岩2つで造られている。
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1千年前の1010年、40トンもの石を数100ft(30m以上)もある建物の先端にどのようにして運び上げたのだろう。
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それは長い間、歴史家を悩ませたミステリーだった。ミステリーを解くヒントを与えてくれたのは現在のタンジョーァの王子だ。
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彼は、代々語り伝えられてきた話を教えてくれた。

寺から離れた場所に残るランプramp(スロープ)の跡だ。
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傾斜角6度で1.6km離れた寺院に向いている!
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65mの高さにあるキャップ・ストーンに向いている!

多くのヒンドゥ寺院は日の出に向けて東に面している。
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従って東側には小さな寺院が造られ、一番西に一番高い寺院が造られる。その高い寺院の西側に、今回見つけたランプの跡があるのだ。
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どんな方法で40トンの石を寺院の上まで運び上げたのか?象だ!

25トンの石で試してみよう。実際と同じ40トンでないのは、トラックの最大積載重量が25トンだからだ。3日かけて320Km離れた石切り場から運んできた。
傾斜が6度の坂道に並べた丸太の上に石を載せ、後ろからは象2頭が頭で石を押し、前では1頭が石に架けられたロープを鼻で引く。
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動いた!石を動かし終えると、象は石の後ろの丸太を前に運んで並べる作業もしてくれる!きっとこうして昔も石を運んだのだろう。
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では石を切り出すにはどうしていたのか?1千年前、固くて有名な花崗岩を、原始的な道具だけで、どのようにして切り出していたのか?
郊外のある町の主な産業は花崗岩を使った彫刻だ。
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神ハヌマンを彫るのには、現代の優れた鋼の鏨(たがね)を使っても10人で6ヶ月かかる。
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9世紀、石を彫刻するために使われた鉄は柔らかく、直ぐ使い物にならなくなっていただろう。
複雑で大きな石の加工なら何十年もかかったはずだ。

ここに彫られている模様は宇宙創造の物語を表現している。
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片足で立ち、手を空に向けて祈る猫。その右下ではネズミも同じスタイルで祈りを捧げている。
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しかし、インド人なら誰でも知っている。祈りを捧げている猫は、その後、祈りを捧げていたネズミを食い殺すのだ。彫像は摂理(せつり)の罠(わな)を説いている。

千年以上も昔に石切り場から花崗岩を切り出した手法は、石切り場に残された石を見れば判る。
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花崗岩に鉄の鏨(たがね;チズル)で小さな浅い孔を明け、固い木を打ち込んでから水をかけた。
木は湿気で膨らみ、石に亀裂を作った。
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このようにしてラァジャ・ラァジャは沢山の石を切り出し、寺院の建設を進めていった。
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エジプトのギザのピラミッドを造るのと同じくらい沢山の石を切り出して寺院を建て続ける狂乱ともいえる熱意を産んだもの、それは宗教、つまり信仰だ!
その信仰は殺戮を禁止していた。しかし、ラァジャ・ラァジャは王として近隣諸国と戦をしなければならなかった。彼は数万人の敵兵の死について責任があった。
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彼はリインカーネーション(reincarnation輪廻転生)を強く信じていた。
来世の幸福のためには現世で神に貢献しておかねばならない。だから秘密の通路の壁に描かれた絵が示すように、グルを尊敬していたのだ。グルは王の命運を握っていた!
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グルは告げたに違いない。「来世にもっと幸せになりたければもっと沢山の寺院を造れ!」こう告げるグルを敬う姿勢を示すため、自分がグルの後ろに立つ絵を描かせたのだ。

寺を造る仕事は大事業で費用もかかった。そして、出来上がった寺の維持も数千人が必要だった。
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今、この寺で、一人の男が働いている。彼の仕事は寺の広い花壇で花を摘むことだ。それが彼の家に代々伝わる仕事だ。
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彼は58歳だが独身だ。結婚できない決まりなのだ。花壇で仕事をしている時は口を利かない。これも昔からの仕来りだ。
毎日、夜明け前に起きて花壇に出かけ、花を摘んでは花飾りを造る。花飾りには市販の紐は使えない。自分でバナナの木の皮を剥き、乾かして造った紐を使う。
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花飾りを造る部屋は決められていて、彼しか入ることは出来ない。ここで彼は20人の神々のために20組の花飾りを作る。
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毎日5回、花飾りを入れた籠を担ぎ、人々が行きかう通りを歩いて寺院に向かう。
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町では50万の人が寺院と共に暮らしている。が、彼は寺を維持する、特別な数百人の一人だ。ラァジャ・ラァジャの時代、彼の給料を含め、寺に関する費用は全て王が負担した。
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寺の本殿に着くと、彼は持ってきた花飾りを祈祷師に渡す。祈祷師はそれを御神体にかけて飾り上げる。
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こうしてインドの多くの神々は大切に世話をしてもらっているのだ。

ラァジャ・ラァジャの時代、タンジョーァの寺院は最高の寺院だった。寺院の管理には数百人が必要だった。寺院のランプを灯す油を確保するため、4千頭の牛、7千頭の羊、30頭の水牛が必要だったとの記録が残っている。きっと寺院の内部は眩(まばゆ)い程に明るかったに違いない。
ラァジャ・ラァジャは数百の寺院を造ったのだから、カルマ(mh業(ごう)の意で、輪廻転生を決める人間の行為を指す)を正しく維持するために莫大な費用をつぎ込んでいたことになる。
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ラァジャ・ラァジャによって高められた文明によって繁栄した商人たちは、彼等の神、芸術、建築技術を季節風と共に船で東南アジアに運んでいった。
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その結果、数千km離れたカンボジアのジャングルにアンコール・ワットが造られることになった。カンボジアの神ではなくインドの神を崇拝するための寺院だ。
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ここにも女性が踊るレリーフが沢山残っている。
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商人たちは宗教だけでなく、インドの最高の宗教芸術をカンボジアに持ち込んだのだ。
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南インドに残るこのブロンズ像は、ラァジャ・ラァジャのために造られた。美と技術が結びついて完成した結果だ。ヨーロッパは暗黒時代で人々が苦しんでいる時だった。
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これは踊りの神様だ。シヴァ神であってラァジャではない。
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踊っている神は、創造のドラムを叩いて踊りながら、無知の部屋を破壊する火の輪の中で指を上に向け「恐れなくても好い」と告げている。
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タンジャーラの近くでは今も昔と同じ方法でブロンズ像を造っている。まずワックス(蝋ロウ)で形を造る。
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これを粘土で包み込む。
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そうしたら火でゆっくり加熱し、粘土を乾かしながら中のワックスを溶かして抜き取る。これで鋳型が完成する。
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鋳型に銅、真鍮、錫、金、銀を混ぜて溶かして流し込む。温度は1000℃以上だ。
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冷えたら鋳型を壊せば像が出来上がる。
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ラァジャ・ラァジャの時代の像が美しい光沢を持っているのは含まれている金が多いからだ。しかし今は金の量は減っているという。
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3匹の悪魔を踏みつけているシヴァの姿はラァジャ・ラァジャが好んだものだったという。
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踊りのない寺院はチアリーダーがいないフットボール・チームのようなものだ。
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踊りは祈りを捧げるためのものだった。これなしでは神は人々や寺院を守ってはくれない。
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寺院を飾るレリーフに多くの踊り子が現れるのはそのためだ。
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しかし、どんな栄光も永遠に続くことはない。北から攻め込んだイスラム教徒の軍によって彼の王国は終焉を迎えることになる。
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南インドの全てのヒンドゥ寺院は悲惨な運命を辿ることになった。イスラム教徒は王や金持ちを襲うだけではなかった。ヒンドゥ教に関する全てのイメージを嫌った。像や絵は破壊された。壊すのが大変な像では顔だけを破壊(deface)した。
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このイスラムの波はヒンドゥ教をインドから消し去ることを狙っていた。しかし、特に彼等に狙われたのは金やダイヤモンドが使われていたブロンズ像だ。高く売りさばくことが出来たのだ。
イスラム教徒に奪われたり壊されたりしないよう、ある時、ヒンドゥの神像は集められ、秘密の部屋に隠された。見つかったのは1985年だ。20世紀における考古学上の最大の発見の一つだろう。
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部屋には近くの寺院から集められた青銅や石の像が隠されていた。数百年後に見つかったということもあって、どこの寺院の像か判らないので、今もこの場所で祈りを捧げられている。
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侵入してきたイスラム教徒たちは宗教を壊しはしなかった。壊したのは建物や像だ。貴金属や宝石を盗むためだったのだ。
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イスラム教徒が去ると、南インドでは以前に増してヒンドゥ教が深く信仰された。
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火星の表面とも見間違えそうに荒廃し、世間から忘れ去られていた南インドのこの地には、過去には間違いなく繁栄していた町が残っている。
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ラァジャ・ラァジャが築いた黄金時代に、彼が考えた以上に素晴らしい出来栄えで仕上がった町だ。
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ラァジャ・ラァジャ寺院がジャングルの中に飲み込まれてから百年後に現れたリジナグラと呼ばれるミステリアスで神聖なこの町は「勝利の都市」と呼ばれていた。
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完成したのは1350年で、その30年後には当時のロンドンやパリの50倍の人口を抱える大都市になっていた。
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ラァジャ・ラァジャの王朝の混沌とした文化の中で、最高の芸術と建築技術で造られた寺院と言えるだろう。
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王は狩りが好きだったようだ。
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多くの寺院で見られる踊り子のレリーフもある。
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顎鬚(あごひげ)をはやした2人のポルトガル商人が王に謁見している!
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外国商人は町や面会した王の生活などについて記録に残している。それによると、王は商人が王の戦士たちが毎朝おこなう日課を見ることを許可していた。
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戦士たちは、1パイントのオイルを飲み、さらに多くの油を肌に塗りこんでからレスリングで筋肉を鍛えていた。リジナグラの人々は今も伝統的なレスリングを楽しんでいる。現代のルールでは、相手を3秒以上持ち上げれば勝ちだ。
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しかし、古代はそんな生易しいものではなく、極めて残酷なものだった。ポルトガル人は、歯を折り、目が飛び出て、話すことも出来ない状態の男を同僚がリングから運び出すのを見ていた。
朝のトレーニングが終わると王は馬で偉大な都市を、片側から反対側まで駆けた。
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南インドの全ては王の手中にあった。アラブやポルトガルとの交易で町は繁栄していた。通りは広くて美しく、商人や役人たちの豪華な家が並んでいた。
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彼等の家はダイヤモンドや宝石で溢れていた。
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夕方には家畜や野菜、オレンジやグレープなどの果物を売る市が立ち、それらは通りの向うの宮殿まで続いていた。
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暑さの夏は、近くの川やプールで水浴びをした。
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皇女から農家の女まで、女たちは毎日、神への祈りを捧げながら沐浴した。
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これをみたヨーロッパ人が年1回風呂に入るよりも毎日入った方が好さそうだ、と考えるようになったという。
女王や女中たちが沐浴するプールには見事に整備された水道橋で水が引き込まれていた。
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勝利の町の壁や床には何十もの遊び(ゲーム)の絵が残っている。
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チェスがインドで発明されたのは驚くべきことではない。インドのチェスはチャタランガと呼ばれる。
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リジナグラの王も楽しんでいた。戦場での作戦を磨くには最適の遊びだった。
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象の駒は現代の城(ルーク)の駒に相当する。最も強く、どの方向にも動けた。しかし、一番弱い歩兵の駒よりも弱い!戦場で象が歩兵の槍で倒されたことを示している。
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チャタランガは、実際の戦いと同じように、王が負けを宣言するまで、1日、時には1週間も続くゲームだった。

この見事な町も完成してから2百年後、イスラム教徒の軍団に侵略され破壊されてしまった。
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イスラム教徒との戦いは単に領土を巡る戦(いくさ)ではなく、イスラムの神アッラーとヒンドゥの数百の神のどちらが優れているかを決める戦だった。ヒンドゥの将軍たちが打ち負かされて戦は終った。
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兵士は武器を捨て投降した。王は首をはねられた。
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都市は引き裂かれ、壊滅した。そして今でも放棄されたままだ。
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かつてポルトガルの商人にローマよりも大きいと讃えられていた偉大な町は、ポンペイと同じゴーストタウンになってしまった。

しかし、この町よりも南の地方で復興が始まった。寺院はラァジャ・ラァジャの時代より大きくなっていた。
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しかし、南インドの、信じられないほど見事な寺院を訪れる旅行客インドを訪れる旅行客の10分の1以下だ。
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多くの旅行客は北インドや西インドに行ってしまう。
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この寺院の主殿の屋根は金で覆われていて、今も最初に造られたままの高さだ。
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しかし、その他の寺院は増築され、どんどん高くなっていった。
寺院の増築で、ゴウプリーズと呼ばれる装飾された門が造られた。
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この門は、空に高く突きあげ、千を超える像で飾られている。
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いつも塗装補修が行われていて、当時と同じカラフルな外観を保つ門はこの世のものとは思えない。その高さはクレムリンやアメリカの上院議事堂やイギリスの議事堂と比較しても劣ることはない。ベルサイユ宮殿やローマの聖ピーター寺院よりも沢山の部屋がある。

寺院では今もラァジャ・ラァジャの時代と同じように祈りが捧げられている。
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世界の多くの人ばかりでなく、インドの多くの人々にとってさえ、この地は失われ忘れ去られた世界と言えるかも知れない。
何故、ラァジャ・ラァジャの遺産や寺院が世界の多くの人から無視され忘れ去られようとしているのだろう?
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1838年2月に起きたことが原因の一つに違いない!
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イギリスの探検家キャプテン・ブルックによって発見された。そこは「何百年も放置されていたカジュラファだ」と案内の男は語った。遺跡は木々で隠されていた。
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トラブルは探検家ブルックが寺院に近づいて彫られたレリーフを見た時に起きた。
「遠くから見ると、美しく、見事に彫刻が施されている建物だと思った。しかし、近寄ってよく見ると、いくつかの像は極端に下品だった!ヒンドゥ教の寺院についてはこれ以上調べる必要はない!」
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寺院の壁は沢山の男と女のグループ・セックスのレリーフで覆われていた。
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西洋のキリスト教徒が宗教施設で目にするものから全くかけ離れていた。
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ヒンドゥ教徒の考えは異なっていた。ヒンドゥの神々の一人は愛の神だ。寺院にセクシャルな彫り物があっても全く問題ない。

しかし、結局、インドのこれらの寺院は西洋人の眼からは完全に閉ざされることになってしまった。イギリスがインドを征服した時、イギリス人はインド人のことを、野蛮で、西洋人より劣り、奴隷にしてもよい人種だと考えた。インド人の宗教はインドを征服したイギリス人には過激で異端だったのだ。以降、南インドの寺院や宗教が語られることは無かった。旅行者には無視され、学者達も調査をしなかった。そのために、寺院は、ジャングルの中の失われた世界に戻っていってしまったのだ。
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インドを訪れるヨーロッパ人の多くはヒンドゥ教を奇妙な、非文明的な宗教だと思っているだろう。しかし、北インドにある、イスラム教徒が建てた建築物には感銘したり、唯一神アッラーの思想に共感を示したりする。
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イスラムの世界には、大勢の神はいない。裸の像などはないし、リンガを崇める説教者もいない。白く輝く大理石の建物があるだけだ。これこそがヨーロッパ人が想像していた不思議な東洋の姿だった。
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だから北インドには大勢の旅行客が訪れるが、南インドのヒンドゥ寺院に行く人は少ない。
ラァジャ・ラァジャの偉大な功績もヨーロッパ人には無視され続けている。
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しかし、南インドでは今でも数千年前からの伝統に従った祈りが、ラァジャ・ラァジャが建てた寺院で続いているのだ。
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ソロモン王の寺院や、北京の紫禁城の灯は完全に消えてしまった。しかし、インドのラァジャ・ラァジャ寺院では、今も絶えることなく灯がともされ、祈りが捧げられている。
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毎日、夜明けになると祈祷師は神を讃える神秘の言葉を奏上して祈りを捧げる。ラァジャ・ラァジャの命により岩に彫られた神の眼を覚まそうとしているのだ。
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The Lost Temples of India
https://www.youtube.com/watch?v=OYlO16Uy4Zw

以下に、ネットで見つけた南インドの見事な寺院の写真を載せておきますのでお楽しみ下さい。

カルナータカ・ハンピの寺院Virupaksha Temple世界遺産
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古代都市リジナグラ:15世紀の市場通り
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Sangameshvara temple ,Pattadakal
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Kapaleeshwar Temple, Chennai
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Arunachaleswar Temple,Thiruvannamalai
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Temple, mahabalipurham
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Gangaikonda Cholapuram
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Sarath.Wijayathilaka
スリランカSri Lanka. Polonnaruwa. Royal Palace
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KANCHI KAMAKSHI AMMAN TEMPLE, KANCHI
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Meenkashi Temple, Madurai世界遺産
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Airavateswarar Temple Darasuram. Kumbakonam
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Murugan Temple, Tiruchendur
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Giant Temple Door
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brihadheeswara temple, thanjavur
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(完)

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mh徒然草―51: 憲法の法的効力

今日7月16日、集団的自衛権を可能にする安保法案が衆議院を通過する予定です。自民の単独採決だろうと思いこんでいましたが、公明党も共同提案していたはずですから、単独という汚名は免れることになりますが、本件は内閣主導で、その他の自民党国会議員は党紀で自由な発言を封じられていますから、安倍首相や彼に盲目的に従う菅官房長官をはじめとする内閣や、右よりで固められた党役員によって身動きできない、なさけない状態です。集団自殺をするとの逸話で有名なレミング(ねずみの一種)というかハメルンの笛吹き男ならぬ安倍首相に踊らされて水に飛び込んでいくネズミと自民党議員の姿が重なるように見えるのはmhだけの錯覚なのでしょうか。
日本が神の意向に従って始めた太平洋戦争もこうした雰囲気の中で決定されたのではないかと思います。元をただせば、国民の側にも大きな責任があります。次回の選挙で自民党に投票するのはもう止めた方が好いでしょう、でないと、戦争を仕掛ける国になりかねません。

私は国の防衛体制は見直しが必要だと思っています。その根拠は中国の暴走リスクです。何度もブログで言わせて頂きましたが、凡そ軍隊というものは戦力が高まるほど、それを使う確率が高まり、最後には中国と国境を接する日本、フィリピン、ベトナム、インドなどのとの間で紛争や戦争を起こすことになると思います。経済バブルと同じで、軍備の拡張は戦争という方法で弾けるまで増幅していくというのがmhの見立てです。これに備えることが必要なのは論を待たないでしょう。武器を放棄し、戦いには応じない、純粋平和主義を掲げていると、結局は中国に飲み込まれ、将来は中国に搾取される属国になると思います。これを避ける外交努力は重要ですが、軍人は外交などという捕えどころのない手段は無視するのが一般的ですから、軍備を膨張する中国には役に立つことはすくなく、従って外交以外の手段を準備する必要があると考えます。防衛軍備の増強もその手段でしょうし、中国が軍備を減らさざるを得ないよう、経済的な打撃を与えるのも好いかもしれません。中国の脅威を感じているフィリピンやベトナムと同盟を組むのも好いかもしれません。兎に角、何らかの対策を講じる必要があると思います。

でも、今の安倍首相が行おうとする法改正には反対です。というのは、中国の軍備に対してどんな対策を採るのか、議論が十分行われたうえでの結論だとは思えないからです。太平洋戦争は侵略戦争ではないと断言する安倍首相が、日本の軍備の在り方やその使い方を決めるとしたら、こんなに恐ろしいことはない、というのがmhの思いです。

今回の国会の法改正では、ほとんどの憲法学者が憲法違反だと言っています。法案化されても、その取り消しを求める訴訟が行われるのは間違いなさそうでが、今朝のワイドショーによると、裁判所は結論を出さないだろうと言っていました。その根拠は先例の砂川事件だといいます。

Wiki:砂川事件(すながわじけん)
「砂川闘争をめぐる一連の事件である。特に、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。
また、砂川事件の最高裁判決は、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の行使において統治行為論の要素を取り入れたものとして注目されている。」
とありました。今の東京都立川市にある立川基地の利用について住民が起こした事件についての判決のようですが、これだけを読んでも最高裁の結論がどんなものだったのか、不明瞭です。

裁判の経過についてのWikiを見てみましょう。
第一審
「東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。」

つまり基地の拡大に反対した住民を訴えていた国側が敗訴したんですねぇ。

しかし、国が上告した最高裁では次の結論が出ました。
最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)
「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」。

つまり軍備の拡大が違憲かどうかについて最高裁は判断しない、としたんです!

えぇ???ってことは、時の政府が何を決めようが、しようが、司法はこれを裁かない、ってことか???

残念ながらどうもそんな感じですねぇ。国政選挙における一票の格差については違憲という結論が出ているいるにもかかわらず、国会は永い間これを無視し、是正していません。それを大半の国民は「困ったもんだなあ、でも仕方ないか。」という程度にしか受け取っていません。

この、日本人の曖昧さが、安倍政権の暴挙を産み出したのです。あと半年もすれば、国民の大半は今回の法改正については忘れてしまい、次の選挙では「なんだかんだ言っても、やっぱ自民党でないとねぇ。他の政党にまかせたって、どうなるんだか判らないから」ってな調子で現政権迎合の投票をする人が多いのではなかろうかと思います。高齢化も進んでいきますから、変化を望まない人が多くなっていくでしょう。国の負債がどんどん増えていっても、返却するのは孫子の代で、その時は私は死んでるんだから今さえ好ければそれでいいよ、ってな感じです。

こんな老人の暴言や暴挙を許したくなければ若者は選挙で投票して意思表示しなければいけませんが、どうなろうが、自分だけ好ければ、という発想は年寄りよりも若者の方が強くなっていますから・・・一体全体、日本はどうなってしまうんでしょうかねぇ。
こんな日本に見切りを付けているmhは、今日も郵貯の定期預金(金利0.035%!)を解約してニュージーランド・ドル建て債券を買いました。この先、日本円は当てにできませんからね。
The Locomotion-Little Eva
https://www.youtube.com/watch?v=wv8k5IqVquU
(完)

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ヘロド大王の不思議

今回は英語でヘロド・ザ・グレートHerod the Great、日本語ではヘロデ大王として知られる男が残した、偉業というより異業と言うべき遺跡についてのYoutubeフィルムの紹介です。

彼が生きていた時に、彼が生きていた場所で使われていたかも知れないヘブライ語では הוֹרְדוֹס‎, Hordos, 当時の有力な言語ギリシャ語では Ἡρῴδης, Hērōdēsで、 ギリシャ語をローマ字読みするとヘロデスですから、なんで日本語ではヘロデに落ち着いたんでしょうかねぇ。特に名前の発音は、現実に発音された通りであるべきだと思いますから、恐らく昔に近い発音記号に従うのがよろしいかと思います。とすればヘロデスが最も正しそうで、英語のヘロドや日本語のヘロデは間違いだと思いますが、英語のフィルムを翻訳して原稿を作った都合上、英語読み音表記のヘロドで通させて頂きます。ご了承下さい。
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ヘロド:紀元前74年~後04年(キリストより少し早い生まれです)
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ヘロド・ザ・グレートHerod the Great
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聖地イスラエルの荒涼とした砂漠・・・
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2千年前にヘロド王が出現した時、この一帯はジュディアJudeaと呼ばれていた。
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彼は死海の近くのマサダMasadaの岩山に砦を造ることを決めた。
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その砦の跡は今も残っている。
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麓(ふもと)から450mの台地の上に建てられた。
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昔なら大変な思いをして登ったのだろうが、今はゴンドラが使える。
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台地は岩でできた山だ。
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崩れやすい崖の上に造られていたのだ。
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崖の崩落を防ぐための杭を何本も埋め込んで砦を造った!
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砦は宮殿でもあり逃避の場所でもあった!
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何故なら、ヘロドの立場はとても安全とは言い難いものだったからだ。
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彼は王位を継承したのではない。昔からこの地を治めていたユダヤ人の家系でもなかった。無慈悲な仕業(しわざ)と政治的な陰謀で王位を獲得したのだ。
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彼は古代の超大国ローマ帝国の支援を受けていた。それは大きな支えだった。しかし、ジュディアのユダヤ人エリート階級から彼に向けられる眼差しは冷たく、怒りに満ちていた。
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だから、王位に居る間も、取り巻きの忠誠心には極めて猜疑的だった。家族に対しても心を開かなかった。
こんな彼にとって、マサダは自分の命を守る最後の砦だった。クーデターから身を守る準備を怠ることはできない!
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岩山の上のマサダには水や食料はない。燃料や日蔭となる場所すらなかった。しかし、重要な物はあった。砦を築くための石材だ。ここが採石場だ。
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宮殿は城というより要塞だった。
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彼はこの要塞に風呂をつくって娯楽の場所としていた。
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床を温める暖房施設も整っていた。
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部屋の中の温度は完全に制御されていた。
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しかし稼動するには燃料や水が必要だ。どうして手に入れていたのだろう。
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水路を造っていたのだ。
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水路のあった所には名残の草が生えている。
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水は遠くの山から水路を流れてマサダまで運ばれてきた。
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そして砦の近くの竪穴に蓄えられた。その量は4万立方メートルだ。竪穴から山頂の砦までは人が運び上げた。
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この砦で見るべきは空中宮殿と呼ばれる場所だろう。
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山頂より少し低い場所がテラスとして整備された。
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そのテラスに空中庭園と呼ばれる宮殿が建てられた。
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屋根も設けられた、リラックスできる宮殿だった。そこから下界の風景を楽しむことが出来た。
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ヘロドは人が棲むにはふさわしくない岩山をオアシスに変える建築技術を獲得していたのだ。
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彼はこの聖地を独裁者として統治していた。
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暗殺や陰謀の噂に満ちた王だった。誰も彼を信用していなかった。それに気付いていたので岩山で暮らして身を守っていたのだ。

彼は領地の中に11の砦を造っていた。その一つのヘロディアムHerodium。
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火山地帯の一角にある。丘に登る道の途中には人の手が掛けられた形跡はない。
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しかし海抜738mの丘を登り切ると、そこには大きな宮殿の跡が広がっている。
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ヘロディアムだ。直径は195mもある。
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下の平地から別のルートで斜面を登ってみた。
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この辺りの岩を見ると何かの作業が行われたようだ。
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しかしどんな方法でこんな急斜面で・・・
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実はヘロドは、砦をこの辺りで最も高い所にするため、向うに見えるあの丘を削り、その土や岩をこの丘に盛り上げていたのだ!
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彼は砦をこの辺りで最も威圧的な所にしたかったのだ!
斜面は上に行くほど急になる。この辺りは45度だ。
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周りの平地から120mも突き出た丘からは、24Km離れた町エルサレムが見えていた!
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しかしエルサレムからは砦にいる彼を見ることは出来ない!
丘には2重の円形の壁で囲われた砦が造られていた。
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周囲には4つの塔が造られていた。なかでも東の塔は最も高かった。
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これが東の塔の跡だ。
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見晴らしがよいだけでなく、砂漠の中でも涼しい空間を与えてくれた。ヘロドも好んだ場所だろう。
今、門は瓦礫で塞がっている。昔、この門を入ると宮殿があった。
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そこには庭や風呂の跡も見つかっている。涼しい部屋、暖かい部屋、バスルーム、サウナ、トルコ風呂もあった。
中でもここは建築上、最も素晴らしい所だろう。
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その理由は上を見れば判る。
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世界で最初に造られた岩のドームだ!中央の眼窓(oculus)からは光が差し込んでいた。円形天井の内面はフレスコ画で埋め尽くされていた。建築家としてのヘロドの野心の象徴とも言える建造物だろう。
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全ての岩には圧縮力が全方向均一に加わる構造だ。
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恐らく内部を土で埋めながら石を積み上げていったと思われる。
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水の確保のために長くて深いトンネルも掘っていた。
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丘の下の平地には38エーカー(15万平方メートル)の娯楽施設が造られていた。砦の守護にあたる兵士達の楽園だった。
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オリンピック水泳競技プールの2倍以上の面積をもつプールには水道橋で水を運んだ。
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砂漠の中で、ここはオアシスでもありヘロドの理想郷でもあっただろう。

ヘロドの野心はこれで終りではない。地中海での交易で大きな富を得ようとしていた。栄光のローマと対抗できる全く新しい港を地中海沿岸に造り始めた。紀元前28年のことだ。
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その港はシーゼリアCaesareaと呼ばれる。今の海岸線から4百m沖合まで港は延びていた。当時の波除けブロックの一部が今も残っている。
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港には2つの高い塔が造られていた。その一つは灯台だった。

ローマ人は火山で生まれた石灰石の粉を水で土と混ぜるとコンクリートが造れることに気付いていた。考古学者はシーゼリアの水中に木の枠が埋められていることを発見した。この枠の中にコンクリートを流し込み、水中に建物の基礎となるケーソンを造っていたのだ。
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陸地には競技場も造っていた。
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ここがその跡だ。
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チャリオット・レース(馬車の戦車の競走)が行われていた。
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ここにチャリオットが並び、一斉にスタートした。
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競技場を囲むスタンドには8千人の観客が陣取ってレースを楽しんでいた。
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ローマ帝国時代、ヘロドは素晴らしい建造物をこの地に造っていたのだ。
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円形劇場も造っていた。ジュディアで最初のものだ。
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ヘドロは彼のパトロンでローマ帝国のリーダーだったシーザーの名前から港をシーゼリアと名付け、シーザーの歓心を引こうとしていたのだ。それは効果があった。ローマの庇護を受け、シーゼリアの統治を勝手気ままに行うことができた。彼に歯向かうものはいなかった。

そしていよいよ彼は神聖な国家イスラエルの首都エルサレムの再建に着手する。
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彼は非情で残酷な王だったが民衆の心をつかむ方法を知っていた。彼等には食糧と娯楽を提供した。もっとも重要だったのは水だ。シローンの水槽として知られる大きなプールをエルサレムに造った。聖書では知られていたが実際に発見されたのは最近のことだ。
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デイビッドの国が造られたという神聖な丘。
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毎年10万人以上の巡礼者が訪れていた。
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そこに造られたプールの大きさは50mx100mもあった。サッカー競技場の広さだ。プールの目的は飲料水の確保だが、時には沐浴の儀式にも使われた。水は420m離れたギアンの泉から運ばれてきた。
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(mh:上の写真の中央には人が写っています。)
彼が造った地下水道には今も水が流れている。
これが彼の時代のシローンの水槽の想像図だ。
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このプールで沐浴すると盲目の人が見えるようになったという伝説がある。ヘロドが造った地下水道はエルサレムの町中を走り回っていた。
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水道橋で水を運ぶのに山を迂回せずトンネルを通すことも行われてはいたが、トンネル工事の方が楽だったからということではない。2千年も昔に岩山にトンネルを通す作業は労力だけではなく技術も必要だった。ヘロドはその技術を獲得していたのだ。
彼の技術者たちはエルサレムの水供給システムの高度化を実現していた。ソロモン王の水源からベツレヘムを経由してエルサレムまで水道橋を整備した。
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その水道橋の一部が今も残っている。
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石膏を使い、水が地面にしみ込まない工夫が施されている。
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水が安定して流れるよう54ft/9マイル(千分の1)の勾配が付いている。

彼が造った最も素晴らしい水道橋はシーゼリアに水を供給する水道橋だろう。
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およそ5マイル(8Km)離れた水源から水を引いた。水源の近くの側溝は石の覆(おお)いがあって水が埃で汚れないよう工夫している。
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水道橋は海まで続いていた。
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ローマ帝国の支援を受けて王になったヘドロはローマへの気遣いを怠らなかった。同時に民衆への心配りも示した。
彼は、ユダヤ人たちの心のふるさとだったエルサレムの神殿の再建に着手する。
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破壊し尽くされていた神殿跡地に神殿の丘を造り、その上に神殿を建てたのだ。
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丘は石壁で囲われた。
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この場所は西壁と呼ばれる。
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ヘドロによって造られた壁だがユダヤ人にとってはソロモン王が初めて造った神殿と同じ価値があった。
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今、我々がこの場所で見ることが出来るのはヘロドの遺産のほんの一部だけだ。
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寺院の丘の全貌は、少し離れたアルロス山からでないと判らない!
ヘドロが造った寺院の丘の中央には今は黄金のモスクが建てられている。
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ヘロドはエルサレムの丘に、寺院の丘と呼ばれる場所を造るため、過去に例のない建築方法を採用した。
まず石壁を造って丘を拡大した。
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東の壁の高さは30mで10階建てビルと同じだ。
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壁のコーナーを良く見ると、大きな石と少し小さな石が千鳥(交互)に組み合わされて重ねられている。強度を保つためだ。

更に注目すべきは丘の基礎構造だ。大きなアーチ型のボルト(空間構造物)を敷き詰めた。
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ここは西壁の内側の面だ。保存状態はとても好い。2千年前の建設当時の傷跡もそのまま残っている。
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使われているのは石灰岩だ。13.2mの長さの石もある!厚みは3.3mだ。4.8mの奥行きがあることは判っているので、体積に比重2・4をかけると・・・重量は550トンもある!

ヘロドは、寺院の丘の建設だけでなく、第二の壁も造って面積を倍増し、そこに自分の王宮も造った、ユダヤ人たちの住居から最も離れた場所に!
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つまりユダヤ人側に寺院の丘を、そしてローマに近い側に彼の王宮を造ったのだ。
ここが彼の王宮のあったところだ。まるで砦だ。
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堀も造った。
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ヘドロの狂気は高い3つの塔に現れている。
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塔が向いているのは外ではない、壁の内側だ!彼はローマではなく彼の人民であるはずのユダヤ人を恐れ、監視していたのだ!
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ユダヤ人は南の階段から城壁内に入った。この階段にもヘロドの工夫が盛り込まれた。
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石段の幅が異なる!30cmの段と60cmの段を交互に造った。
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この石段を登る時、人々は意識しなければならなかった。これからヘロドの町に、寺院の丘に入っていくのだということを。
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寺院は千年も前にソロモン王が最初に建造していた。
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その跡地にヘロドが新たな寺院を造ったのだ。
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彼の寺院は寺院の丘で最も重要な建物となった。

王ヘロドは無慈悲で思い込みが激しく、激情的だった。自分の身を守るため身内すら殺害した。
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しかし、その男は歴史に残るモニュメントを次々に造っていったのだ。
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2007年春、ヘロディアムで発掘中の考古学者が豪華に装飾された墓を発見した。
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何の記録も見つかってはいないので誰の墓か判らないが、その豪華さからヘロド王の最後の休息所ではないかと考えられている。
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もしそうだとしたら、これは古代の偉大な建築家の墓だと言えるだろう。調査は今も続いている。

Youtube : King Herods Magnificent Temple 「ヘロド王の華麗な寺院」
https://www.youtube.com/watch?v=dBnhwY1sXCc
<関連遺跡の位置>
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Herodionヘロディオン
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Wiki:ヘロデ(ヘブライ語: הורדוס‎、英語: Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)
共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治したユダヤ人の王(在位:紀元前37年 - 紀元前4年)である。イスラエルレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破って、エドム人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる。
紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウス派に味方したがオクタウィアヌス派に敗北を喫した。戦後、ヘロデはオクタウィアヌスへ帰順した。ヘロデはローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤であることを熟知していたのである。

王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺することであった。
紀元前37年、最後のハスモン王アンティゴノスをローマ人によって処刑させた。
紀元前36年頃、妻マリアムネ1世の弟アリストブロス3世を暗殺。
紀元前29年、妻マリアムネ1世を処刑。
紀元前28年、彼女の母であるアレクサンドラを処刑。
紀元前7年、ヘロデとマリアムネ1世との間に生まれた自分の二人の王子アリストブロス4世とアレクサンドロスを処刑。

また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院の指導的なレビ族の祭司たちを迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、宗教的な問題のみを裁くようになる。

なお、ヘロデがハスモン朝を母系で血を引く二人の息子を処刑した時期は、キリスト教の歴史認識において、新たな王(救世主)の誕生を恐れたヘロデ大王が二歳以下の幼児を虐殺(幼児虐殺)させた時期に相当する。キリスト教の教典である新約聖書のマタイによる福音書には、イエスと両親がエジプトに避難したという記事がある。しかし、この点については否定的な裏付けしか無く、歴史的事実とは認められない。

ただし、ハスモン朝の血を引く者が根絶やしになったわけではない。ヘロデによって処刑されたアリストブロス4世とヘロデの姪ベロニカの間の息子、即ちヘロデの孫アグリッパ1世(紀元前10年‐紀元後44年)が在った。そしてその息子アグリッパ2世(紀元後27年頃‐100年?)も在る。ヘロデの曾孫アグリッパ2世は、第1次ユダヤ戦争の際、ローマ帝国と同盟してヘロデが造営したエルサレム神殿を破壊したことが知られている。

ヘロデは都市計画において業績を残した。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた計画都市である。それだけでなくヘレニズム君主としてパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになった。
(完)

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mh徒然草―50: 何に投資すると好いか?

今日は7月13日、ギリシャの財政再建策に対するEU加盟国の支援がどうなるのか、先週までの1ヶ月で30%も下降した中国株価は中国政府の強引な施策で数%の上昇を取り戻したが、今後はどうなるのか、その影響で日本経済はどうなるのか、という話題がTVのニュースやワイドショーでは持ち切りです。これは、経済がグローバル化し、世界の片隅で起きる事象が直ちに世界中に伝播するようになったことの現れです。

ギリシャの経済が他力本願で当てにならないことや、中国の株価がバブルで支えられていていつ破裂してもおかしくないことは誰もが知る事実で、何も今更ガタガタ騒がなくたって、という気がしますが、マネーゲームを商売にする経済人などが、騒ぎを起こして一儲けしようと企んでいることも考えられますから個人投資家は注意が必要だと思います。

以前もお話ししましたが、株価が上昇したり下降したりする、つまり株の売りや買いが行われるってことは、売り買いを仲介する証券会社にとって利益となります。彼等には売買のたびに手数料が入り、この手数料は株価が上ろうが下がろうが、とにかく売買金額の大きさで決まりますから、証券会社としては売り買いを加速する方向で顧客に提案します、今が買い時ですよ、今売って利益確保したほうがいいですよ、ってな具合です。当然、株価が乱高下した方が売り買いも多いでしょうから、証券会社の利益は膨らむことになります。

中国では退職金も株に投資し、それだけでは投資金額が不十分だということで借金までして株にのめり込む人も多いようですが、彼等を金の亡者だと冷たく非難出来るほど日本人が金にきれいだということは、勿論、絶対、ありません。猫も杓子も株価や為替の動きに一喜一憂しています。

しかし、そうまでしてお金を稼いで一体何に使おうというのでしょう?稼いだお金を使うのなら世のためになるでしょうからまだしも、使わずに再投資して更にお金を稼ごうという人の方が多いのではないかと思います。結局、稼いでも稼いでも、使う事は無く、そのうち、大きな損失を出せば、勿論、お金を使うチャンスも無くなります。

お釈迦様も仰ったように、人はいつかあの世とやらへ行かねばなりません。死ねば稼いだお金は子や孫に引き継がれていくのでしょうが、西郷隆盛が自身の詩で述べたように「児孫(じそん)のために美田を買わず」という言葉もあります。やはりお金は有効に使うのが好いと思います。

そもそも財産としてお金を残すにしても、円で残していても30年後、円安で紙くずになっている可能性もあります。ならばドルで、ということで外貨にしていても、ドルが破綻していることだってあり得ます。凡そ経済なんて浮き沈みですから、当てになりません。ならば金塊にして持つのはどうか?残念ながら、我が家には何十年も前に爺さんが買って箪笥にしまっていた100grの金しかありませんが、1Kgの金塊(1グラム5千円としたら5百万円相当)を幾つも持っている人も多いのではないかと思います。昔、ユダヤ人は、世界のどこででも換金できる資産として現金は金やダイヤモンドに換えて身に着けていたという話がありますから、金や宝石は現金よりも頼りになる資産かもしれません。

しかし、それだって、死んでしまえば意味がありません。よって、死ぬまでに、有効に使うことをお薦めしているわけですが、ならば何に使うと好いか?それが肝心です!

我が女房殿は和服に傾斜投資しています。しかし、団地の狭い部屋の箪笥には既にかなりの和服が溜まり、買ってもしまう場所がないので、和服に関心が薄い娘に払い下げては新たな和服を買うという始末でしたが、流石に最近は、それが馬鹿らしいことに気付いたようで少し収まっています。しかし、次に何を仕出かすのか、動きが掴めず、不気味です。

私の方は既に決まっていまして、足腰が立たずに人のお世話になることを想定して、老人ホームの入居費と生活費、それに子供達への若干の遺産金、を差し引いた残りは自分のために使いたいと思っています。何に使うか?金塊や不動産に投資したら使ったことにはなりません。旅行で使うつもりです。旅行をすると、一人でゆっくり過ごす貴重な時間がとれるし、感銘を受ける景色や人に出会えるし、足腰の鍛錬になるし、事前に目的地に関していろいろ調べ、新たな歴史や事実を現地で学ぶことでボケ防止にも効果があります。体と頭さえしっかりしていれば、俺おれ詐欺にもひっかかり辛いし、自分の足で歩いて区役所に行き、生活保護の申請書を提出することだって出来ますから、万一資産が無くなってしまっても衣食住で困ることはありません。

I Will Always Love You
https://www.youtube.com/watch?v=H9nPf7w7pDI
ホイットニー・エリザベス・ヒューストン:享年48歳、2012年カリフォルニア州ビバリーヒルズのホテルの浴槽で斃れていました。コカインによる心臓発作が原因のようです。
映画The Bodyguard (1992)でも歌われていました。主演Kevin Costner(フランク役)、Whitney Houston(レイチェル役)。映画は次のURLで楽しめるかもしれません。
(当初張り付けていたURLでは消去されていたので、新しく見つけたURLに変更しました。(8・14mh)
https://www.youtube.com/watch?v=IqlFX4KDACE
(完)

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エジプト王朝設立の不思議

エジプト帝国は今から5千年前に誕生した、世界で最初の大帝国です。この帝国を産み出した男は、上(南)エジプトと下(北)エジプトに大別される当時のエジプトに40以上もあった「セパアト」と呼ばれる行政地区を統一して、始皇帝、つまり最初のファラオになりました。

(上とか下とか言うのはナイル(川)の上流、つまり南側と、下流、つまり北側、の2つにエジプトの文化圏が分かれていた時代があったことから生まれた区別方法です。エジプトといえば「全能の川Mighty Riverナイル」抜きでは考えられません!
で、全くの余談ですが、10月16日、H交通社のツアーで、ルクソール中心に船4泊、カイロ1泊の旅を予約しました。一人旅用の企画で募集人員20人。催行が確定しましたので事前調査を開始しました。

さて、話を本題に戻しますと、あなたが日本人なら、秦の始皇帝(諱(いみな)つまり真の名は“政”)は知っているとは思いますが、エジプトの始皇帝の名前は恐らく知らないでしょう。知っているとしたら、あなたは物知りだと太鼓判を押します。

その男はナルメルまたはナーマー(Narmer)と言います。紀元前31世紀の古代エジプトのファラオで、セルケト(「さそり王」)の後継者で、エジプト第1王朝の創始者であると考えられています。

エジプトでは蛇(コブラ)や蠍(さそり)は重要な神様の一つと考えられていますが、もう一つ有名な、動物の姿をした神様がいます。隼(はやぶさ)の姿の神ホルスhorusです。
です。
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また余談ですが、10月のエジプト旅行では、このホルス神殿を訪れます!
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Wiki:ホルス(horus)
「エジプト神話に登場する天空と太陽の神。エジプトの神々の中で最も古く、最も偉大で、最も多様化した神の一つである。」
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「ラーの息子で天空神・隼の神であるホルスと、ゲブとヌトの息子あるいはオシリスとイシスの息子のホルスという同名の神が二柱存在し、やがて習合されたものだとされている。これ以外にも様々な神との習合が見られる。通常は隼の頭を持ち太陽と月の両目を持つ男性として表現される。時代とともに、その姿は隼から人間の姿をとるようになる。有名なシンボルである「ウジャトの目」とは、ホルスの目のことである。
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「ラーは太陽神であり、古代エジプト人は太陽の昇り沈みとともにラー自体も変形すると考えた。日の出のときはタマオシコガネの姿のケプリとして現れ、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界(夜)を旅するとされている。これは太陽の動きを神格化したものであるとされている。」
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ラーの頭の上にある太陽の冠にはコブラが巻きついています。ラーが昼間に変身するスカラベ(scarab)はフンコロガシともカブトムシとも呼ばれる昆虫です。
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エジプトの神々には蠍(さそり)、蛇など、古代の人々を毒で殺した動物や、その動物を食べる隼のように強い動物、そして勿論、日常の生活に大きな影響を与える太陽、などが現れてきます。太陽といえば、およそどの古代信仰にも出現していて、伊勢神宮の内宮といわれる皇大神宮のご神体も、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)です。

さてさて、長い前置きはこれくらいにして、それではエジプト初のファラオのナーマー(Narmer日本ではナルメル)の物語「Planet Egypt - Episode 1: Birth of the Empireプラネット・エジプト第1話:帝国の誕生」の始まりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代エジプト・・・戦争や平和を繰り返しながら3千年間続いた偉大な王国
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先進的な数学や技術、素晴らしい建造物などを創り出し、その遺産は今も残っている。
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ナイル沿岸に暮らす農民たちの国はどのようにして偉大な帝国に変貌していったのか?考古学者たちがその秘密を解き明かそうとしている。

5千年前のタブレットは重要な物語を語ってくれる。
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それによれば戦いがエジプト帝国の始まりだ。が、それは事実だろうか?
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謎に満ちたナーマー。恐らくエジプトの最初のファラオだった男の物語がこれから始まる。
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紀元前3千年のエジプトは「ゼロ帝国」の時代だった。漁夫、農夫、猟師たちは毎日、ささやかな平和を求めて暮らしていた。
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上下(南北)2つに分かれていた王国を統治するファラオがまだ現れていなかった時代、ナーマー王は上流エジプトを統治していた。

ある日、伝令は下流エジプトの王からの回答を持ち帰ってきた。
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その答えによってエジプトを平和裏に統一できるか、それとも戦が始まるのかが決まる。

ナーマー王は権力を拡大したいと考えていた。
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エジプトは当時、上(南)エジプトと下(北)エジプトに2分され、ゼロ帝国Dynasty Zeroと呼ばれる時代だった。
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上流エジプトの王ナーマーは、エジプトの原点とも言える下流のナイル・デルタには手を出しかねていた。

この時代のエジプトについては、最近になるまで知られていることは少なかった。
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当時、ナーマー王は上流エジプトを統治していた、恐らく、なんの武力闘争もなく平和裏に。
そこに伝令が情報を持ち帰ったのだ。ナイル・デルタの人々は統一ではなく独立を望んでいた!
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伝令が伝えたニュースは、全エジプトを統治し、地中海一帯にも権力を及ぼしたいと望んでいたナーマーの野心にそぐわなかった。下流エジプトのやつらは独立した今の状態の継続を望んでいたのだ!

しかし、彼等の決断もナーマーの野心を打ち砕くことはできなかった。
「戦だ!それしかない!南から北の地中海まで広がる国家を築くのだ!」
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5千年も過ぎた今、確実な証拠は少なく、作り話のような記録も多いこともあって、当時、何が起きたのか正確に知ることは難しい。しかし、ナーマーは、槍と石の棍棒(クラブclub;上の写真でナーマーが手にしている、木の棒の先に石が付いたものです。)で敵を粉砕し、統一したエジプト王国を造る行動に着手した!少なくとも「ナーマーのパレット」と呼ばれる石の碑文を信用するのなら!
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パレットは当時の様子を伝える重要な証拠だ。
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パレットに描かれているナーマーは、敵の男の頭を掴み、石の棍棒で殴り殺そうとしている。男の頭上には上エジプトのシンボルのパピルスが生えた土地に置かれた「頭」があり、その頭の鼻にはロープが懸けられている!
暴力が行われたのは間違いない!
その上、2つの夫々の王国で王が被(かぶ)っていた異なる王冠をナーマーは被っている!

ナーマーが武力を使って2つの王国を統一した証拠ではないのか?

ナーマーは彼の下に集まってきた兵士達に下流エジプトが提案を拒否したことを告げた。
「我々の提案を断ったやつらには、それにふさわしい仕打ちを与えねばならぬ!」
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一方、ナーマーが暴力を武器に統一に動き出したというのは間違いで、何十年、または何世代かをかけて徐々に2つのエジプトが統一されて一つの王国になったと考える考古学者も多い。

エジプトの統合は平和裏に進んだのか?それとも武力闘争で実現したのか?
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それを知ることはその後にやって来る、統一後のエジプト帝国3千年の歴史を理解する上で極めて重要だ。、その答えを見つけようと、学者達はエジプト中で調査を始めていた。

ナイル・デルタは毎年洪水で洗い流されてしまうので、5千年前の遺跡は少ない。
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しかし、ナイル上流にはゼロ帝国時代を知る上で重要なカギが隠されている。例えばアバイドスAbydosと呼ばれる政治的な場所だ。砂漠の中にあり、谷とナイルで挟まれている。
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この神聖な場所で、エジプト王国で初めてのファラオの墓が見つかった!
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エジプト王国がどのように形成されていったのか判るかもしれない。
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建物の跡からは土器の欠片しか出てこないが、これはその中でも素晴らしい発見の一つだろう。世界でも最も初期の記録に違いない。
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このようなチップは数十個以上見つかっている。

近くには、初代ファラオの墓よりも古い墓も沢山見つかった。6千年程前のものもある。
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これがナーマーの墓の場所だ。初めてエジプト帝国を造った王のものにしてはささやかだ。溝を掘って周りを脆いレンガの壁で囲っただけのもので、風化を避けるため調査の後に砂で埋められている。
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これは1981年の発掘時の写真だ。
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遺体を納めた部屋と、装飾品を収めた部屋の2つがあった。(これはCGです)
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その後数百年で墓の規模は急速に大きくなった。
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統治者の力が増して神のような存在となり、多くの労働者と数十年の歳月を使ってピラミッドが造られるようになったのだ。
このような事業が可能になったのも、一人の男が王国の統一を成し遂げたからだ。
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しかし、もしナーマーがエジプトを統一したのなら、何故、彼の墓の規模はこんなにも小さいのだろう?ナーマーが統一したというのは作り話なのだろうか?
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手がかりとなる記録はナーマーのパレットしかない。パレットに記されているように彼の蛮行は実際に行われたのだろうか、それとも行われていなかったのか?
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後世のファラオには自分が戦の勝利者だという嘘の誇張を記録に残す男も多い。多くの寺院の壁画にもそれが残されている。
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ナーマーもそうだったのだろうか?だからパレットにあんな記録を残したのだろうか?

アバイドスの250km南のヒエラコンポリス。ここにはエジプト王国の始まりに関する秘密が残されている。
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この都市は王国の創立に重要な役割を果たしている。
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5百年の間、ここが南エジプトで最大の都市だった。ナーマーの重要な拠点だったのだ。
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19世紀、考古学者はこの町の遺跡でナーマーのパレットを発見した。調査は今も続いている。どのような都市だったのかをよく知ろうとしている。
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古代エジプト人は土を焼いて、このような壁を造っていた。
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当時、町には土の家が並んでいた。10万人が暮らしていた。太い木の柱が何本も立っていた跡が見つかっている。町を管轄する大きな寺院の跡だろう。
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当時、世界でも最も大きな都市の一つだったはずだ。

考古学者はビール醸造所やパン屋の跡も見つけている。
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しかしもっと重要なものが郊外に見つかった。上流階級の墓で200以上もある。
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人間に並んで動物も埋葬されていた。動物を飼うのが権力の象徴だったからではないかと言う人もいるが、正確な理由は判っていない。
ヒエラコンポリスはナイル川に沿って5kmに渡り広がる町で、商業と交易で栄えていた。
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血なまぐさい町ではなかった。ということはナーマーの仕掛けた争いというのは、実は無かったのではないかと暗示しているが、それを証明するものは無い。
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理解を深めるには「古代のエジプト人がどこからやって来たのか」を知る必要があるだろう。
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サハラ砂漠の中・・・クリフ・ケビル台地で旅行者が数年前に偶然あるものを発見した。
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大きな岩の表面に何か絵が描かれている!これは手のようだ。
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9千年前の先史時代の絵としては、世界でも最も広い面積に描かれた絵だろう。踊りを踊っている絵もある。
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動物の絵もある。
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遊んでいる子供達や、キリンや、アンテロープ(カモシカ)の絵・・・

誰が、どうして、こんなところに住んでいたのだろう?
人骨など、人が住んでいた形跡も残っていた。
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洞窟の周りを調べたら驚くべき発見があった。堆積層だ!
かつてここが湖底だった証拠だ。
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9千年前、ここに緑があったのだ!水もあった!(CGです。)
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サバンナ気候だった。人々は快適に暮らしていだだろう。草原にはキリンもアンテロープも象もいただろう。しかし、雨は突然、途切れ、サバンナは砂漠に変化していったのだ。

人々は雨や水を求めて山地やオアシスに移り住み、最後はナイルの近くに落ち着くことになった。
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ナイル沿岸に暮らす人々によって古代のモニュメント群が建設され、世界でも最も長い間繁栄した文明が創られていった。
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この文明の切っ掛けはナーマーのエジプト統一だ。勿論、ナーマーのパレットが確かな事実を示しているという条件付きだが。

ナーマーの軍勢はいよいよ戦の準備が整った。
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剛健な兵士たちで十分な訓練も積んでいた。指導者で最もパワフルな戦士でもあったナーマーはついに命を下す。「出陣だ!」
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ナーマーは軍隊だけではなく、他の全ても掌握していた。商業、税金、宗教、毎年の収穫量・・・
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リーダーの彼は毎年かならず家族と共に支配下の地域を見回っていた。
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しかし、全ての権力を掌握するナーマーでも制御できないものがあった。彼よりパワフルなもの、全能なるナイルだ!この川の水が彼の国の富を左右していたのだ。
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ゼロ帝国の時代からエレファンティーン島はナイルの南のはずれにあった。ナイルの源と考えられ、多くの巡礼が訪れていた。そこにはエジプトで最も古い寺院があった。
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祀(まつ)られていたのはナイルの水量を決める女神サーテクトだ。
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「エレファンティーン島から湧き出る冷水を産み出す神」と呼ばれていた。
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実際のナイルの源が見つかるのは19世紀になってからだ。
その一つはエチオピアの山脈にある。流れ出た水は青ナイルになる。
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青ナイルはナイル全水量の60%を占めている。
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スーダンのカートゥーン(Khartoumハルツーム)で白ナイルと合流する。
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湿地帯にはパピルスや蓮が繁っている。
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毎年、夏になるとエチオピアに降る雨がナイルを膨らませ、水位は2~8mも上昇して辺り一面を水で覆う。水は川を流れくだり、最後には洪水となってナイル・デルタを飲み込んでしまう。
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その時はナイル・デルタの大半が浅い湖のようになる。
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低地に家を造ると全てを失ってしまう。生き残るには洪水をどう活用するか学ぶ必要があった。
古代エジプト人の子孫はナイルの水量を測定する方法を見つけていた。ナイロメーター(ナイル計)だ。
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ナイルに繋がるトンネルを持つ施設の壁には目盛が刻まれている。水位でその年の収穫を予測していたのだ。
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古代エジプト人にとってナイルの水量は重要な関心事だった。水量を決めるのは神だ。水量で神から受け取るものが祝福か呪いなのかが決まる。水量が適切なら収穫は多い。少なければ旱魃(かんばつ)で多ければ洪水だ。だから、当時の王にとって、ナイルの水の予測と管理は生命線だった。王ナーマーにとっては、水量が適正であるよう神に祈ることは重要な行為だった。

ナイルの水は2つの重要なものを提供した。
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全ての生物の生存に必要な水と、滋養に富んだ土砂だ。これらはエジプトに文明を育むことになる重要な贈り物だった。水と泥のおかげで農作物の収穫が可能だった。そして、泥は建設の材料ともなった、泥の煉瓦だ。
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ナイルの湿地ではパピルスが成長した。パピルスは世界でも最も古い紙の材料になり、これがエジプトの年代記や日常の手紙、それに「死者の本」にも使われた。
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ナイルの水を使い、いろいろな灌漑方法が生まれた。
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エジプト人には3つの季節しかなかった、洪水・植え付け・収穫だ。それが全てだった。
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2百50万ヘクタールの耕地で農業が行われていた。王は毎年、灌漑用運河に出て、植え付けの儀式をするのが習わしだった。
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水量が減ると貯水池に貯めておいた水を使った。
土が肥えたナイル周辺は小麦の成長が速かった。多分世界で最も速かっただろう。ゼロの王国の時代、数百万人の食糧は確保できていたはずだ。
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古代の絵には牛を使う農作業の絵が多い。エジプトは農業に大きく依存していたのだ。
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穀物は通貨と同じように取り扱われた。重要な輸出品でもあった。共同作業で収穫効率を上げ、余剰穀物は保存し旱魃(かんばつ)に備えた。

ナイルは移動や輸送手段としても重要な役割を果たした。
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食物の輸送や人の移動を可能にした。王ナーマーもナイルを移動し、彼の王国の全ての町に行くことが出来た。
南に移動する時は風を使ってナイルを遡(さかのぼ)った。風に乗れば時速4kmで移動できた。北に戻る時は水の流れに乗って移動した。
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30日あればナイル・デルタからナイルのずっと上流まで移動することができた。

多くの船が墓から見つかっている。どんなに重要だったのかが判る。
誰もが船を持っていた。農夫や漁夫は移動や漁業の時にパピルスで造った小さなボートを使っていた。
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船旅用の船はしっかり造られていた。パピルスを纏(まと)めて縛(しば)って船体とした。波を切れるように舳先(へさき)は曲げられていた。簡単な屋根とオールも付属していた。
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最初の木製のボートもパピルスのボートに似せて造られていた。
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木の板はパピルスの紐でがっちり縛られていた。重い荷物を運ぶことも出来た。
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必要があれば解体し、陸上を持ち運んだ。船はエジプトを統一する手段としても重要だった。こうした船の製造はゼロの王国の時代に既に始まっていた。

5千年前、ナイル流域では人々が平和に暮らしていた。
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しかし、ナーマーのパレットには恐ろしい様子が描かれていたのだ。手を縛られ、首を切られた男たち。首は足の間に置かれている!
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平和と殺戮(さつりく)・・・
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どちらが真実なのか?どうして対立する2つが起きていたのか?考古学者達はこの2つをどう解釈しているのか?

ナーマーのパレットはヒエラコンポリスのホルスを祀る寺院で見つかっている。
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考古学者は、ナーマーがパレットを寺院の神体ホルスに献納したのではないかと考えている。もしかするとエジプトの統一を祈願して献納したのではなかろうか?つまり、ナーマーの殺戮は実は行われていなくて、統一の意思を高めるためにパレットには残虐な絵を描かせただけなのではなかろうか?

カイロの博物館でナーマーのパレットを詳しく調査している学者がいる。
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パレットに記録されていることは事実か?それとも単なる権力のシンボルとして描かれただけなのか?
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調べるにつれ、戦(いくさ)は実際に起きていたという結論になってきた。
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ナーマーがパピルスの人々を打ち負かした年が記録された粘土板の欠片が、ヒエラコンポリスで調査していた学者によって発見された!王朝の始めの年、とある。
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(上の土器の破片の写真に並ふ絵の内、左の絵は鯰とチゼル(鏨たがね)で「ナーマー」、中央の絵はパピルスを被った人間、右の絵は鯰とチゼル(つまりナーマー)が入った箱の上に止まっている隼を示しています。)

この小さな粘土板はエジプトの歴史を書き換えた!ナーマーがエジプトを統一したのは間違いない!
「戦いに勝ってナーマーの王国の最初の年が始まった」と記録されている!
しかし、戦いで行われた殺戮については触れぬままミステリーとしておく訳にはいかないだろう。
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南エジプトで更なる事実が見つかった。岩絵だ。
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今では痛みが激しいが、昔の写真が残っている。
白い王冠を被り、犬を連れた王と兵士・・・
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それに、手を縛られている人々・・・
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これらの様子からナーマーを描いた絵だろうと思われる。ナーマーが、王国の中心から離れた砂漠の中でさえも権力を持っていたことを記したものだろう。このような絵が別の場所でもいくつか見つかっている。

ナーマーが力でエジプトを統一したのは間違いないだろう。
北の下流エジプトがナーマーの支配を拒絶して戦は始まったのだ。
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ナーマーの南エジプトが繁栄するためには、北の地中海や中近東との交易ルートの確保が必須だった。
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ナーマーは北に向けて進軍を開始した。
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ナーマーのパレットは史実を描いていたのだ!そしてこの戦いの結果、エジプトは統一された。
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戦いは記録に残るものの中で最大のものだったろう。

ナイル・デルタのどこかで戦いは始まった。
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ナーマーは北の公国(Principality)を打ち負かした、慈悲のない戦いで!
彼が儀式で使った棍棒のヘッドには勝利のパレードが描かれている。
ナーマーはパピルスの国を象徴する王冠を被って輿(こし)に乗っている。後ろには数人の家臣が続いている。
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12万人の捕虜、百万を超える山羊、40万の牛・・・
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ナーマーは、手首を縛られ、斬首されて並ぶ敵兵の遺体を検分している。
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敵の戦意は完全に消失していただろう。
こうしてナーマーはエジプトを統一した。パレットの片面のナーマーは上流エジプトの王冠を被っている。
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しかし、その裏面では下流エジプトの王冠を被っている。
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彼以降のファラオは、統一の象徴として2つの王冠を重ねて被ることを慣習とした。
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全く新しい歴史がナーマーから始まったのだ。
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帝国は生まれた!以降、31の王朝が続くことになった。
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ついに南のロータス(蓮)と北のパピルスが結びついたのだ。その後の王の重要な役目は統一の維持と国境の防御になっていった。
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こうしてエジプトは世界で最初の帝国になった。
統一前は北に22、南に20の統治国があった。それがナーマーによって統一されたのだ。
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ナーマーが死んだ時、エジプト全体が喪に服した。
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アバイドスの町でナーマーは最後の旅に出た。ゼロ帝国時代から死は永遠の生命への入り口だった。
ミイラ化は重要だったが、当時はまだ技術が完成していなかった。
埋葬は以後の例と比べて簡単だった。しかし、彼の死は新しい時代の始まりになった。
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アバイドスの埋葬場所の近くで新たな建築が始まった。
統一国家の最初のアクロポリス(首都)だ。
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以降の王は統一に力を注ぐ必要はなくなり、その力を新たな目的に使うことになった。
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その一つは墓の建設だ。後継の王たちは地下や地上に大きな墓を造った。
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そしてピラミッドが生まれることになった。
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統一後のエジプト王国の栄光と権力の象徴だった。ピラミッドは訪れる人々の目に眩しく映(は)えていただろう、今もそうであるように。
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エジプトの統一は人々の生活や文明の繁栄をもたらした。ナーマーによってエジプトが開花したのだ。
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上エジプトに22、下エジプトに20の勢力がナイル沿いに点在していた。これらが全て一つにまとまった。
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文明が産まれ繁栄した。ファラオの時代は彼によって始まったのだ。
Planet Egypt - Episode 1: Birth of the Empire (History Documentary)
https://www.youtube.com/watch?v=wJdB8ZEo40I
以上でYoutubeの紹介は終わりますが、補足情報をお知らせしましょう。

ナーマーのパレット:
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Wiki:Narmer Palette
ヒエラコンポリスHierakonpolisで見つかった。紀元前31世紀のもので最も古いヒエログリフが使われている。上エジプトと下エジプトがナーマーによって統一されたことが記されていると考えられている。
片面で、王は上(南)エジプトの“球根形”の王冠を、その裏面では下(北)エジプトの平坦な王冠を被って描かれている。

Narmerのヒエログリフ:
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「鯰(なまず)とチゼル(鏨たがね)はナーマーと発音する」と別のYoutubeフィルムで紹介されていました。

ヒエラコンポリスで見つかったファルコン像:ナーマーの時代より古い!
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墓の跡から見つかった陶器のマスク
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顔を永遠に守るために遺体にかぶせたのだろう。
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王の墓で見つかった勺杖(しゃくじょう):昔は金で塗られていたかもしれない。
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(完)

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mh徒然草―49: 中国富裕層の移民

今日(7月11日)のモーニングショーTV番組でカナダのバンクーバー近くの町で中国人問題が起きているということで現状のレポートがありました。市民の45%が中国人で、中国語しか通じないスーパーやお店が並んだ一角があり、学校でも英語と中国語で授業が行われていました。朝になると大勢の中国人が町の中心広場に集まって太極拳をしています。

この状態にもともとから住んでいる白人系住民は不満を持っています。中国人の多くは英語を喋らず、かつ中国人同士で社会をつくって地元の人達との交流に加わることが少なく、仲間として迎えるには違和感があるというのです。

カナダに移住する中国人は、カナダ政府が決めた移住制度に適合する人です。現時点では1.6億円の財産に加えて8千万円をカナダに投資していることが移住を認める条件です。この条件は他の外国人に対しても同じで、現在6万5千人が申込みを終え、ウェイティグ・リストに名が記載されていますが、その3/4が中国人です。

しかし、中国系の移民が急増して元の住民との間でトラブルが起きている状態から、カナダ政府は移住条件の見直しを行う計画だとのことで、大勢の申込済み中国人が北京の中心にあるパーク・ハイアット北京61階の移民コンサルタント業者のオフィスに押しかけ、予約通り移住させるか、損害賠償するよう掛け合っていました。

移住できずにいる中国人の一人は次のように言っています。「我々は十分なお金があるので、どこで暮らしても問題はない。でもカナダの自由がほしい。」

中国人の貧富の差は想像以上で、お金持ちの多くは共産党員または役人または国有企業との関係で成金になった人達だと思います。このような、他の人達の犠牲を足掛かりに得たお金で海外移住してしまおうという人が大勢いる中国と言う国は、小さな島に暮らす小国日本の国民には理解できない不思議な国ですが、何度もブログで紹介させて頂いたように、欧米諸国では問題が出ることも承知の上で外国人の移民を受け入れています。移民は問題も持ち込みますが、国の経済を活性化し文化を多様化してくれるというメリットもあります。そして何よりも自国を捨ててでも他国に移りたいと希望している人々を救うことになっているのは間違いありません。

子供の数が減少し、老齢化して衰退していく日本でも好いから行って働きたい、と思ってくれる人で、働く体力と知力があり、日本語の学校に子供を行かせることに同意し、当座の暮しを支えるだけの資金(1千万円もあれば十分でしょう)がある人は受け入れてもいいのではないかと思います。それすら行わない日本という国は、お金も体力も知力も持ち合わせていない経済難民でも人道的立場から受け入れている欧米諸国から見れば、心が狭い、極東の小さな島国の利己主義国家という評判と扱いしか得られないでしょうし、国際貢献などが欧米並みに出来る訳がありません。

カナダの中国人移民についてのニュースは次のURLにありましたので、ご興味があれば英語勉強ということでご覧ください。
http://www.theglobeandmail.com/news/world/rich-chinese-angry-over-cancellation-of-canadian-immigrant-program/article17269390/
El condor pasa
https://www.youtube.com/watch?v=CNbltoivskc

(完)

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ガンダーラの不思議

今回はYoutubeフィルム「ガンダーラ;仏教の夜明けGANDHARA, THE RENAISSANCE OF BUDDHISM」をご紹介しましょう。

実は、このブログ情報は5月初旬に収集したもので、原稿の作成開始、つまりこの瞬間、は6月2日です。6月19日から「パミール高原大横断旅行」に出発しますが、このブログで取り上げられているバクトリアやガンダーラも関係がある旅なのです!
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6月の旅はパキスタンの首都イスラマバードに飛んだら、後は車でインダス川流域を遡ってフンザHunzaを経由し、中国のカシュガル(喀什)まで8日間、前後の飛行機移動3日を含めると11日の旅で、今回のブログで取り上げられている地域の東側を掠(かす)めてヒンドゥクシュ山脈の麓を移動し、カラコルム山脈を越えるのです!!!いやぁ、心は既に現地に飛んでいて、今回はどんな不思議に出会えるのかと、期待に胸を膨らませています。

で、今回のブログに出てくる重要な国「バクトリアBactria」について詳しい情報をお教えしましょう。
「バクトリア(Bactria)はヒンドゥクシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域(地方)の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。」
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上の地図でも判るように、古代にバクトリアと呼ばれた地域はパミール高原とヒンドゥクシュ山脈の間の盆地にあったんですねぇ。昨年訪れたウズベキスタンのサマルカンドSamarkandも、砂漠を流れていた川アムダリアAmu Darya(Oxus)も地図に出ています!懐かしいです。

Wikiによれば、ペルシャ文明に大きな影響を与えたゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、バクトリアの人だという伝説があるとのこと。この点については諸説あり、まだ定かではないようですが、少なくともペルシャのアケメネス朝時代、バクトリアの首都バクトラ(どこにあったか特定困難)がゾロアスター教の中心地の一つであったことは明らかだとのことです。伝説によれば、開祖ザラスシュトラはアレクサンドロスの侵入より258年前の人で、70歳で死んだといわれているので、紀元前6世紀ごろの人物となり、ペルシャではアケメネス朝の初期にあたります。

上の地図に戻って、地図の北(上)側と南(下)側をよく見ると緑の文字で「Alexandriaアレクサンドリア」なる地名があるではありませんか!これは勿論、マケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロスAlexander the Great)の遠征で造られた町です。

次の地図はアレクサンドロス帝国の最大版図(はんと)です。アレキサンダー大王の遠征は紀元前334年に始まり、紀元前323年、32歳(正確には32歳と11ヶ月)でバビロンで死ぬまでの12年間。たったの12年でこんなに広大な帝国を獲得したのです!
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アレキサンダー大王の遠征は、その約2百年前の紀元前5百年頃にインドで生まれ、彼の遠征の後にバクトリアに伝えられた仏教に大きな影響を与えることになりました。恐らく、アレキサンダー大王なくして、日本の今日の仏教はなかったと言えるでしょう!!!?

「アレキサンダー大王の遠征と日本仏教の関係とは?」

それはこのブログで紹介されています!
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「ガンダーラ;仏教の夜明けGANDHARA, THE RENAISSANCE OF BUDDHISM」

今日、10億人以上の男女が自分たちを仏教徒だと認めている。
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2千5百年前にインドで生まれた仏陀の言葉は、当初は僅かな僧侶の間だけで語り伝えられていた。
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その3百年後、バクトリアで仏教はギリシャの文化と融合した。
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以降、仏教は精神的、文化的な基礎となり人々の間に広められていく。
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(mh:タイトルはフランス語で「ガンダーラ;仏教の起こり」。日本とフランスの共同制作のようです。)

紀元前6世紀のある日の夕方、菩提樹の下で瞑想していた釈迦牟尼、正確には聖人、は突然、何が全ての物事の源なのかに気付いて仏陀となった。仏陀、つまり悟った人The enlightened Manだ。
宗教というよりは現実的な哲学とも言える彼の教えは、弟子達によってインド、ヒマラヤ地方に広められていった。
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弟子達は、質素な服を纏(まと)い、民衆の慈悲(施し)を受け、仏陀と共に暮らしながら彼の教えを学んだ。仏陀の死後、弟子達によって伝えられた教えを学ぶ修行僧達は、人里離れた場所で暮らしながら多くの時間を瞑想して過ごした。
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瞑想は森羅万象の神髄を理解するためだ。こうして彼の教えはインドやスリランカに広がっていった。

西インド、ボンベイ近くのアジャンターは古い仏教遺跡の一つだ。誰もが目を見張るであろうモニュメントが全長5百mに渡って半円状に残されている。
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大勢の修行僧が岩肌に洞窟を掘って修行場としていたのは1千年以上も昔のことだ。
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中でも最も古い洞窟のフラスコ壁画は2千年以上も前の紀元前2百年に遡(さかのぼ)る。表面の汚れを慎重に取り除くと人の顔やカーラチャクラ(時輪)が現れる。カーラチャクラは仏陀の像が造られる前の仏教のシンボルの一つだった。
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(mh:カーラチャクラKalachakraは正確には「時輪(Kala時間Chakra輪)」で、インド仏教・後期密教の最後の経典のこと、とWikiにありました。詳細情報はブログの最後に載せておきます。)

次の図では人がカールチャクラに手を伸ばしている。
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昔、仏陀を表す時は、仏陀の姿を描かず、蓮、馬に乗った人影、木(菩提樹?)などで表現していた。カールチャクラもその一つだ。しかし、紀元前2世紀になると仏陀の姿が描かれるようになった。
近くの洞窟には仏像が岩に掘られている。
(mh:ブログの最後に「平山郁夫 絵画集:仏教伝来」(5分)を挙げます。BGM付です。馬に乗る人も現れます。しかし、好い絵ですねえ。心が和(なご)みます。お楽しみに。)
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これらの仏像はカールチャクラの絵が描かれた時代より3百年後のものだ。人々が、もっと具象化された信仰対象を望むようになったから現れた!仏陀像の出現は仏教の歴史の中でも劇的な変化であり、革命とも言えるだろう。
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釈迦が亡くなると8人の弟子は遺骨を分けて持ち帰り、ストゥーパを建てて保管した。それでインドには8ヶ所の聖地が生まれることになった。
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その後2百年をかけて、弟子達は布施(ふせ)を受けながら旅をして、インド大陸全体に仏陀の教えを広めていった。
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その次の数世紀で、仏教はパキスタンやアフガニスタンにも伝わることになった。そこにはガンダーラGandharaがあった。
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ガンダーラは、マケドニアのアレキサンダー大王の遠征後、その軍隊の子孫たちが現地人の王国を植民地化して暮らした地域だ。ギリシャ人やエジプト人を祖先にもつ人も多かった。このガンダーラでギリシャの思想や芸術と仏教の融合が起きた。ギリシャ人が統治したガンダーラの町アイ・ハヌムAi-Khanoum。
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バクトリア帝国の主要都市だった。当時この地には新しい文化が生まれていた。地中海生まれの技術を現地人の好みに合わせて造り変えた文化だ。
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グレコ・バクトリアン・アート(語義:古代ギリシャとバクトリアの芸術)は建物や彫像や絵画に現れ始めていた。帝国はギリシャ系の支配者によって平和裏に統治されていた。最も有名な支配者はマナンダーだ。紀元前2世紀、バクトリア帝国の王だった。
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この地に仏教徒が宣教のために訪れた時、バクトリアの王マナンダーは宣教師の一人ナガシーナという聖人に質問している。
「どうしたら苦悩から逃れることができるのか?死を克服する悟りはどうすれば得られるのか?」
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王と宣教師による300を超える問答は中国語に翻訳され、数百年の間、仏教の教えの基本を知る教材になった。
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2人で行われたこの一対一の面談は、仏教とギリシャ哲学の偉大な出会いとも言えるだろう。
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ノルウェーの“科学と文学”アカデミー(Academy of Science and Literature)に当時の経典が保管されている。
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数年前、アフガニスタンのバーミヤン洞窟で見つかったものだ。バーミヤンはガンダーラの西の果ての町だ。見つかった経典は椰子(やし)の葉などに書かれ、仏陀や弟子達の生活や教えが記されていた。
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インドの言語の「コロストフィー」で書かれていて、紀元後2世紀頃のものもある。
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世界中の学者が集まって解読が行われている。脆(もろ)くて壊れ易いのでデジタル・カメラでコンピュータに取り込み、モニター上で切り貼りしながら元の状態に復元しようとしている。
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「ガンダーラでは沢山の仏像は見つかったが、文字で書かれた「仏陀の教えそのものを伝える資料」はほとんど見つかっていなかった。今回、バーミヤンで、断片的な資料だとはいえ1万点以上もの古い記録が発見されたのは驚くべきことだ。仏教が栄えていた時代の生の資料を21世紀の我々が今まさに目にしている!この発見はきっと大きな成果を生むことになるだろう。」

翻訳を進めている教授リチャード・ソロモンは2つの特別な言葉を見つけた。
「6つ」の「徳(完成)」だ。6つの徳は次の諸行によって生きていても体得することが出来る。
道徳morality, 忍耐patience、謙虚humility、粘り強さtenacity、瞑想meditation、6つ目は、この宇宙の下(もと)で自己とは何かを直感することintuit of understanding oneself under the universe。
最初の4つは仏教が生まれた時からあった概念だ。最後の2つは後に生まれ、成就fulfilment と覚醒enlightenmentのためのものだ。

導いてくれる僧侶がいなくても、一人深く瞑想しさえすれば、誰だって悟りを得ることが出来る。これがマハヤーナ仏教(大乗仏教:大きな乗り物、内的な体験)の基本となっている。
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大乗仏教のこの教えは仏教に変革を起こすことになった。
そして6世紀には中国では禅が生まれ、朝鮮や日本に伝えられた。
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仏教への関心が人々の間で高まると、新たな必要性が生まれて来た。それはここにも記されていた。
「私は仏陀を見たい!」「私は仏陀の声を聴きたい!」
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人々のこの要望への対応がバクトリア王国の渓谷ガンダーラで始まった!
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アレキサンダー大王の後継者たちによって統治された王国グレコ・バクトリア。その中の町ハッダHaddaはアフガニスタンの現在の首都カブールKaboulの東に位置している。
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ここで10もの仏教寺院、1万5千もの仏像が発見され、急に脚光を浴びるようになった。ガンダーラが仏教の聖地だった証拠と言えるだろう。
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しかし、不幸にも多くの仏像は写真でしか見ることが出来ない。バーミヤンの大仏と同様にタリバンの犠牲になってしまったのだ。
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これらの像は紀元前100年頃のものだ。
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グレコ・ブディスト(古代ギリシャと仏教の融合)の仏像が現れ始めた所だ。
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タージー教授はここでの調査の責任者だ。
(mh:タージー教授!懐かしい人の再登場です!彼はアフガニスタン人ですがタリバンの暴力を逃れてフランスに移住し、タリバンが政権を去った今、年1回(?)、故郷に戻って遺跡調査をしています。ブログ「バーミヤンの不思議」(12月22日)でご紹介しました。)
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「仏像の脇にはギリシャの神や英雄が控えている。」
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「典型的なアイオニアン(注)だ。」
(注:イオニアIonia:エーゲ海に面した、アナトリア半島(現・トルコ)南西部に古代に存在した地方のこと)

「笛を捧げようとしている女神はヘレニズム・スタイルで現されている。」
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ギリシャ神話のヘラクレス(注)を連想させる像・・・
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(注)ヘラクレス
ギリシャ神話の半神半人の英雄。ギリシャ神話の主神で全知全能のゼウス(!)が他人の女房に産ませた子で、ギリシャ神話に登場する多くの英雄たちの中でも最大最強の存在です!

仏陀の左の男・・・
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タージー教授は言う「アレキサンダー大王に違いない!」
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「アレキサンダー大王だと言われる像の顔と瓜二つだ!」

ギリシャ神話の神々と仏陀の出会いは新たな芸術を生み出すことになった。グレコ・ブディスト・アート(Greco-Buddhist Art)だ。
バクトリアの都市遺跡アイ・ハヌムで発掘を続けているベルナード教授がフランス語で何か言ってます。
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ヘレニズム・・・その他はチンプンカンプンで全くわかりません。
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画像から推定すると、ギリシャ像の着物のヒダの形が仏陀像の服にも採用されていると言ってる???
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仏教とヘレニズムの出会いは仏教信者が望んでいた仏陀の像を生み出した。だから生まれたばかりの仏陀像はどれもギリシャ神話の若き英雄アポローン(注)の雰囲気を漂わせている。
(注)アポローン:オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子
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紀元前145年、ガンダーラがあったバクトリア帝国は、北のインド系遊牧民の国クーシャン帝国(Kouchanクシャーナ朝)に統治されることになった。
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しかし、野蛮で残虐な騎馬民族の彼等は、どういうわけかバクトリアに伝わるグレコ・ブディスト形式の芸術を破壊することはなかった。おかげでガンダーラ方式の仏教寺院はバーミヤン、ハダー、ラニガットなどに残ることになった。
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多くの寺院や修道院が続々と造られていった。
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ここラニガットでは1900年前、この辺りで最大の寺院が造られた。
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15m以上の高さの建物だった。
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多くの仏像も見つかっている。クーシャンの時代も、仏陀の顔はアポローンと同じだ。
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日本からも考古学者がきていて、ガンダーラと日本仏教の関係を調べている。
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グレコ・ブディストに加えて、2,3世紀に造られたと考えられている像を見つけた。
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像は等身大で、ベルトやハート形の垂れ飾りを身に着けている。
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クーシャンの王か貴族の像の可能性が高い。仏教が拡大するためには不可欠だったクーシャンの支持が有ったことが、この辺りにも感じられる。
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クーシャン王国(mh日本ではクシャーナ朝と呼ばれます)はカニシカ1世の時(2世紀半ば)に全盛期を迎えた。

遊牧民を先祖にもつクーシャンは他国へ侵攻する時ばかりではなく、普段の生活の中でも馬を駆けていた。クーシャンの時代から続く勇壮な競技ブシュカシでは1つの毛皮を馬に乗った男たちが取り合う。
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幼い時から勇ましく育てられ、成長すると手ごわい兵士になった。馬を見事に乗りこなしながら弓を射る彼等はクーシャン帝国の勢力を拡大していった。
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彼等は、雪を頂くヒンドゥクシュ山脈を越える危険な遠征も成し遂げて南に進出していった。
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そうしてカブールやガンダーラ、更にはインドの北部一帯も征服した。

クーシャン帝国は4世紀の間続いた。それまで戦いに明け暮れていた中央アジアには平和が訪れた。
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紀元後1世紀、中国の漢は3つの帝国が世界にあることを確認している。自分自身の漢帝国、ローマ帝国、そして中央アジアに位置し、地中海と中国を結ぶクーシャン帝国だ。
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クーシャンは征服した土地の文化や宗教を取り入れ、人々はそれまでの遊牧とは全く異なる生活を送るようになった、着ていた服を除いて。
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カニシカ王が着ていた典型的な中央アジア・スタイルの服とレザーのブーツ。
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服の裾には3つの手法で王のタイトルが刻印されている。
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南インド;偉大な王、ペルシャ;王の中の王、中国;天国の息子、
これはクーシャン帝国とこれら3つの地域との強い関係を示していると言えよう。
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クーシャンがバクトリアにやって来た時、彼等は仏教と同時にゾロアスター教も発見することになった。紀元前9世紀頃にザラスシュトラ(ゾロアスター/ツァラトストラ)によって生まれた宗教だ。
ゾロアスター教は世界で初めての一神教だった。ユニークな、そのうえ心優しい神「アフラ・マズダー」の存在を説いた。
(Wiki:アフラ・マズダー (Ahura Mazdā):
ゾロアスター教の最高神。宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。)
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生きとし生ける物全てへの愛と純粋な思想や行為を説いた。動物の生贄を禁じていた。火を純粋の象徴として敬っていた。
新婚の2人は火の間を歩いて穢(けが)れを取り除く。ゾロアスターの教えに沿ったものだ。
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ゾロアスター教と仏教の共存にギリシャ文明が加わって新たな様式が創り出された。
アポローンの顔をした仏陀の肩から立ち上る炎・・・
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コインに刻印されたカニシカ王の肩からも炎が・・・
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タージー教授がまたフランス語で何か言っています!
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歴史学者エドワードはクーシャンが仏教を重視したのは安定した統治を長く続けるためだったと考えている。
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今度はロシア語で何か言っていますが・・・
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クーシャンは紅海・アラビア海ルートで地中海一帯やエジプトと交易し、ヒンドゥクシュ山脈を越えタクラマカン砂漠にそったシルクロードを使って中国と交易していた。
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インド国境に近いパキスタンのラホール博物館には沢山のコインが保管されている。
クーシャンの統治で政情が安定していた証拠だとも言える。
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ローマのコインをモデルにして同じ重さで造られたので交易には都合が好かった。
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今度は女性がウルドゥー語(パキスタンの国語)で何か喋(しゃべ)ってます。何を仰っているかは別にして、なかなかエキゾチックで魅力的ですねぇ。
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カニシカ王の政治的な賢さはコインの裏側にも現れている。表は王自身の姿だが、裏には統治していた多くの民族の神が刻印されているのだ。

これはシバ神が刻印されたコイン。シバはインド・ヒンドゥ教の神だ。
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マイトラ像のコインもあった。イランの人々が信仰する太陽の神だ。
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そしてアネモス。ギリシャの「風を司る神」だ。
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このように幾つもの宗教が崇拝されていた中で、仏教はクーシャンの最大宗教として繁栄し中央アジアにも広がりを見せていた。
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アムダリア(アム川)の北、ウズベキスタンとアフガニスタンの国境近くのダルバディンテペ。昔、テルメズと呼ばれていた地域だ。バクトリアとサマルカンドを結んでいた。
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そこでロシアの考古学者がクーシャンの家や墓の発掘をしていると多くの金塊や宝石が出て来た。
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ブレスレット、ネックレス・・・
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ウズベクの考古学者は特に墓で見つかったコインに着目している。
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「コインを口に入れたギリシャの埋葬習慣と同じだ!クーシャンの人がどのように死を考えていたのか解き明かしてくれるかも知れない。」
彼は多分ウズベク語(ロシア語か?)で何か喋っています。
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仏陀の教えはクーシャンを経由して中国に伝えられ中国語に翻訳された。
「宝物を死後まで持ち続けても意味はない。布施とするのが6つの徳よりもずっと優れた行為(功徳くどく)といえよう。」
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死への畏敬はクーシャンの人々に布施の習慣を植え付けた。布施をした人たちの像はガンダーラの仏教聖地で沢山見つかっている。
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ストゥーパにも布施をした人の像が刻まれるようになった。
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死後に幸福を獲得するという考えはクーシャンの人々の関心事になっていた。最近ガンダーラで見つかった経典にもはっきりと書かれている。
「父や母、そして全ての家族の幸せを望んでいる。現世でも、そして来世でも。」
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仏教は布施を強要していないが、クーシャンの人々は死後の幸福が現世の布施で決まると信じた。そしてこの伝統は人々の間に広まっていった。
その証拠が見つかっている。ラネガットのストゥーパの隣で見つかった、小さな丸い溝が幾つも加工された石。
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布施のコインを受け取るためのものだ。(mh:一種のお賽銭箱ですね。)
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ストゥーパは釈迦の骨を埋めた8つの聖地のものに似せて造られた。
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発掘を進める考古学者は予期していなかった妙な構成に驚いた。大きなストゥーパを囲んで小さなストゥーパが沢山造られている!
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結局40もの小さなストゥーパがあった。一ヵ所に纏(まと)めて造るにしては多すぎる!
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調査するとその形成過程が徐々に判ってきた。
まず、最初のストゥーパが聖地の中心に一つ造られた。
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その周りに大きさが異なるストゥーパが次々に建てられていった。
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最後に最初のストゥーパに手が加えられ・・・
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15mの高さのストゥーパが完成した。
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こうしてラニガット寺院の規模は拡大していったのだ。

仏教を持ち込んだ先人たちの熱意によってバクトリアには寺院、ストゥーパ、仏像が造られていった。
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しかし仏教の繁栄はクーシャンの人々やその文化スタイルによって支えられ変貌していく。
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ガンダーラの中心都市だったパキスタンのペシャワール。
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カニシカ王の帝国はこの町を冬の首都とした。シルクロードはここから中国に繋がっていた。
伝説は言う。「かつて王は世界最大のストゥーパを小さな丘の上に建てた。」
最近、遺骨が入っていたとされる骨壺が見つかった。
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カニシカ王の像が刻まれている。西暦425年に漢に征服されるまでの4百年間における仏教とクーシャンの強い繋がりを示す証(あかし)だ。
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仏教は、山脈を越え、砂漠を越え、中国そして日本に伝えられていく。
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1世紀、仏僧は中国で仏教を広め始めた。当時は駱駝のキャラバンだけが旅をする方法だった。
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記録によれば中国西域の旅は厳しかった。漢は旅を安全に行えるようハンシャン(天山?)山脈まで500kmごとに砦を造った。
2世紀になると大勢の仏教徒が中国まで旅をするようになり、仏教は儒教、道教に次いで中国第三の哲学になった。3つの哲学は互いに影響し合い、少しずつ変化を遂げていく。
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カラコルム・ハイウェイ(mh:私も6月末に通ります!)
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今でもブンジャブと中国の接点だ。キャラバンは昔も急な坂道を上り、4千mを超えるこの峠をインダス渓谷に沿って頻繁に往来していた。
道路の脇の岩に絵が描かれている。
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ストゥーパや仏陀の像が描かれた岩絵が多い。
僧侶や巡礼や職人たちが通ったことが判る。
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彼等によって仏教は中国に運ばれた。
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そしてとうとう、仏教は海を渡り、日本に伝えられた。
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奈良・東大寺。春の到来を祝う祭りだ。
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神聖な炎が点けられた。不純と慾を燃やし尽くす火だ。
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ゾロアスター教と仏教の出会いの名残、精神と文化の融合のユニークな証・・・
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仏教は2千年以上前にインドで生まれ、ギリシャ思想と接触した。それは最も美しい東洋と西洋の出会いだったと言えるだろう。
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以上でYoutubeフィルムの紹介は終わりです。
フィルムを楽しみたい方は次のURLからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=G3bsxanBi_c

最後にいくつか補足情報です。

東大寺の「お松明」「お水取り」
3月1日 - 14日 修二会は11人の練行衆と呼ばれる僧侶が精進潔斎して合宿生活を送り、二月堂の本尊十一面観音に罪を懺悔し、国家安泰、万民豊楽等を願うもの。内陣の中では過去帳読誦、走りの行法、韃靼の行法などの行事が行われる。二月堂の上でたいまつを振り回す「お松明」は3月1日以降連日行われる。若狭井から水を汲み本尊に備える「お水取り」は3月12日深夜(13日未明)に行われる。2007年の修二会は1255回目になる。

Takht Bhaiタクト・バイ遺跡(仏教修道院跡);パキスタン
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クーシャン帝国(クシャーナ朝)最大版図
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仏教の広がり(解説図)
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日本への仏教伝来
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mh:上の年表は読み辛いと思いますのでWikiの抜粋を挙げておきます。
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。

小乗仏教と大乗仏教
まずは小乗仏教の解説です。
「上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、小乗仏教)は、仏教の分類のひとつ。上座仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、とも呼ばれる。釈迦生前の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、戒律に従わず、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。
戒律の変更については、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していた(mh御釈迦様は寛大だったんですねぇ)が、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について弟子達の間で意見が分かれた。また、その他幾つかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。」
そして大乗仏教が生まれてきます。
「戒律遵守に関する考え方の問題を収拾するために会議(結集、第二結集)が持たれ、議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)との決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部(現在の大乗仏教を含む)が発生した。大衆部と、戒律遵守の上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律遵守を支持したグループが現在の上座部仏教(小乗仏教)に相当する。
その後、部派仏教の時代、上座部からさらに分派した説一切有部が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部で、大乗仏教側は説一切有部を「自己の修行により自己一人のみが救われる小乗仏教」と呼んだとされる(mh:ってことは、大乗仏教が戒律に厳しい仏教を小乗仏教と揶揄したようです)。大乗仏教は北インドから東アジアに広がった。」

法輪
「輪」とは古代インドの投擲武器であるチャクラムのことである。人々が僧侶から説かれた仏教の教義を信じることによって自らの煩悩が打ち消されるさまを、その破邪の面を特に強調して、転輪聖王の7種の宝具の1つであるチャクラムに譬(たと)えた表現である。

そこから、仏教では教義(法輪)を他人に伝えること(転)を転法輪と言うようになり、特に釈迦がサールナート(仙人堕処)鹿野苑(施鹿林)で元の修行仲間5人に最初に教義を説いた出来事を初転法輪と言う。

法輪は仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用された。また、中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されている。

チャクラム(チャクラ)は古代インドで用いられた投擲武器の一種。日本では戦輪、飛輪や、円月輪とも呼ばれ忍者が使用した。真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられており、その直径は12-30cm程。投擲武器としては珍しく斬ることを目的としている。
投げ方は二通りあり、円盤の中央に指をいれて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法がある。
ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌも右腕にこの円盤をもつとされている。
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卍(まんじ)
ヒンドゥー教や仏教で用いられる、吉祥の印である。現代の日本では仏教を象徴する記号としてよく知られる。同様の記号は世界各地にあり、西洋では太陽十字からも発生した
サンスクリット語ではスヴァスティカまたはシュリーヴァトサと呼ばれ、英語の swastika もこのサンスクリット語に由来する。日本語の「まんじ」は漢字「卍」の訓読みとされているが、由来は漢語「卍字」または「万字」の音読みである。

左卍と右卍(卐)があり、現代の日本では左卍が多く用いられている。漢字では卐は卍の異体字である。

かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。日本、中国等の芸術において卍はしばしば繰り返すパターンの一部として見られる。日本では、寺院の象徴として地図記号にも使用され、家紋の図案にも取り入れられている。まれに忍者を表す場合にも使われる。
最も古い卍は、新石器時代のインドで見られる。一方、ドイツのハインリッヒ・シュリーマンはトロイの遺跡の中で卍を発見し、卍を古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボルと見なした。

ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の胸の旋毛(つむじ)、仏教では釈迦の胸の瑞相が由来で、左旋回の卍は和の元といわれ、右旋回の卐は、力の元といわれる。

グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)
ヒンドゥクシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシャ人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシャ人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリア王国とする。
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アイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のタハール州にあったギリシャ人による古代都市で、アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディア(ギリシャ語版、英語版Eucratidia) の可能性もある。"Ai-Khanoum" という名称はウズベク語で「月の婦人」の意。位置はアフガニスタン北西部のクンドゥーズ州内であり、オクサス(Oxus、現在のアムダリヤ(川))とコクチャ川(英語版)が合流する地点にあり、インド亜大陸の玄関口にあたる。
アイ・ハヌムは約2世紀に渡り東洋におけるヘレニズム文化の中心地だったが、エウクラティデス1世の死後間もない紀元前145年ごろ遊牧民月氏の侵入によって壊滅した。
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(上:Ai-Khanoumアイ・ハヌム(ギリシャ遺跡);パキスタン北部)
以上で長い付録解説は終わりです。最後に平山郁夫の絵画フィルム「仏教伝来」をお楽しみください。映像時間は約5分。きっと気に入ってくれると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=2Oba_TPcmz0
(完)

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