Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アブシンベル神殿の不思議

ブログの題は「ナセル湖の出現で埋没する運命となった寺院群の救済運動;アブシンベル神殿、アマダ神殿、カラブシャ神殿、等」とした方が正確なのですが、お役所や裁判所の書類名のような長たらしさで皆さんに敬遠されるといけませんから、Youtubeフィルム「Monster Moves: Abu Simbel temples:モンスターの移動:アブシンベル神殿s(s:神殿は1つではありません!)」を参考に「アブシンベル神殿の不思議」とさせて頂きました。

次の写真はGoogle Earthでみつけたもので、右が小神殿(The Small Temple)、左が大神殿(The Great Temple)です。英語ではTempleの後に「アブシンベルに在るat Abu Simbel」を付け、The Great Temple at Abu Simbelなどと呼びます。いずれも紀元前13世紀にラムセス2世Ramesses IIによって建てられました。
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次の写真は60年前のものです。寺院の場所は今(上の写真)と全く違うんです!!!
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今回のブログのもう一つの主役のナセル湖Lake Nasser、脇役のカラブシャ寺院The Temple of Kalabsha (also Temple of Mandulis)、アマダ寺院The Temple of Amada、イシス寺院Isis Templeの位置関係をGoogle Earthでご紹介しておきましょう。
地図は都合で右側を北(ナイル下流、地中海側)としています。
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アスワンダム付近拡大図
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アスワン・ハイ・ダムで生まれた大きな貯水池のナセル湖は、最大長550Km、最大幅35Km,最大水深180mです。ソ連の支援を受け、1958年に着工、1970年に完成しました。つまり、45年前の話が今回のブログのテーマです。なお、ハイダムの約10Km下流にあるアスワン・ロー・ダムはイギリスの援助で1902年に完成しています。

ナセル湖によって18の歴史的な寺社・教会が水没する運命と決まりましたが、ユネスコなどの支援により、アブシンベル神殿を含むいくつかの遺跡は移設され、難を逃れました。この遺跡保護活動が世界遺産の魁(さきがけ)になりました。

今回は、寺院がどのように水没を逃れたのか、Youtubeフィルムからご紹介します。
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ラムセス2世(注)が統治していた時代に造られた神殿・・・
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(注:ラムセス2世(Ramesses IIラムセス大王):紀元前1314頃―紀元前1224年、古代エジプト第19王朝ファラオ)

神殿の入口は注意深く、ある方向に向けられていた。
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1年に2回、2月22日と10月22日、太陽の光は神殿の一番奥の神聖な場所に差し込んで神々を照らすのだ。その瞬間に立ち会おうと多くの観光客が押し寄せる。
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しかし、1960年、この現象は見ることが出来なくなった。数千年の繁栄の歴史はナイルのおかげだ。しかし、そのナイルによって、寺院は大きく変貌しようとしていたのだ。
長さ4kmのダムで大きな貯水池Reservoirを造り、水力発電によってエジプトの更なる繁栄をもたらそうという計画が動き出したのだ。ダムは灌漑や洪水対策でも期待されていた。

貯水池ができると20もの遺跡が水没する。人類の重要な資産をなんとかして守らなければならない!
最も規模が大きな遺跡はアブシンベル神殿だった。
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神殿入口の像は高さ33mだ。
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入り口を入ると通路が岩山の奥に続いている。
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壁や天井はヒエログリフで装飾されている。最も奥の神聖な場所Holy of Holiesにはラムセス2世と、彼が崇拝する神々の像の合計4体が並んで座っている。
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1年に2回、通路から差し込む日光が一番左の「地下の神」を除く、太陽の神・ラムセス2世・月の神、の3体を照らす。
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これらの条件を確保しながら寺院を移設するのは難題だ。そこでエジプト政府は国連に支援を要請した。
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50カ国の技術者たちが救済方法の検討を始めた。
一つの案は水に沈んだ状態で透明のカプセルで寺院を保護するものだった。
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見学客は水上の展望台や、水中エレベータで寺院を観賞する。
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しかし水で岩が脆化し、将来、崩壊が起きる危険がある!

結局、寺院を水のない場所に移すしかないとの結論になった。
水面上昇は60mと見積もられていた。そこで、油圧ジャッキで現在の神殿の状態を保ったまま、65m持ち上げる案が提示された。
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何度かに分けてジャッキで段階的に持ち上げるのだ。しかし工事途中で崩壊するリスクは大きい!
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25万トンを持ち上げる作業も大変だ!

ジャッキの代わりに水の浮力で浮かぶ大きな筏に寺院を載せて他の場所に移す案も出た。
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しかし、寺院が完全に浮きあがる状態になるまでの6年間、波などで筏が変則的に揺れ、寺院が損傷する可能性があった。

いろいろ検討した結果、技術者たちは最も現実的な答えに行き着いた。寺院を幾つもの小さなブロックに切断し、搬送し、今より65m高くて、川から200m後退した場所に組み立て直すのだ。この案は考古学者達を脅かした。つぎはぎだらけの惨めな姿になるのではないか、切断で像やヒエログリフが大きなダメージを受けるのではないか。
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しかし、この案で進めることが最終決定された。移設後も、寺院が岩山に覆われた姿を確保することも実施条件に加えられた。

1964年始め、スウェーデン、イタリア、フランス、ドイツ、エジプトを中心に2千人の国際的な技術集団が寺院の解体に着手した。
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最大の課題の一つは、地上20mにある重量30トンのラムセス2世の頭を切断し再組立てする方法だった。
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技術者たちは重量が実物の1/3のモデルを造って解体方法を確認した。
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作業の様子を現代の専門家に再現してもらおう。
これは今回デモ用に造ったラムセス2世の頭部のモデルで、当時のモデルと同じ大きさだ。
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これを切断し、持ち上げて移動し、再組立てする、という3つの工程にトライする。使う道具や技術は1960年当時のものだ。
当時の検討結果によれば、神殿をすべて同一寸法のグリッド状に切断すると問題が大きかった。
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例えば目や喉の部分を切断すると、後で切断部が目立ち、切断時に石が欠ける可能性も高い。
そこで、損傷を最小限にすることを重視して、異なる寸法のブロックに切断することになった。
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外部にある像だけでなく、内部の床や天井、ヒエログリフなどがある壁も切って移さなければならない。
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結局5千か所で切断し、1050個のブロックにすることになった。
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寺院移設後も、山全体が再現されている必要もあった。
(次の写真で、丘の頂上あたりには人間が立っています!)
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あと6ヶ月で水は足元までやって来る。少しでも工期を延ばせるよう、水の防御柵を建てた。これで40日位は稼げる。
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寺院内部の移設では天井の上の岩を取り除く必要があった、でないと岩山の中に造られている回廊や部屋の天井、壁などを切り取ることができない!
33万トンの岩山の岩をダイナマイトで取り除いたら寺院の天井や壁に損傷が出る。そこで、スティール・ワイヤーやチェーン・ソーを使って岩をスライスしていくことになった。
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寺院の上の岩山を削り取るのには500人x7ヶ月の工数がかかった。
像の切断では岩が欠けないよう、切断箇所に特殊な包帯(バンデッジ)を接着固定することにした。
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現代のチームが当時と同じ方法で作業をする。まず、切断位置に包帯を巻く。
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切断ではチェーン・ソーを使わない。切断幅が大きくなる上に切断振動で岩が欠けやすいからだ。代わりにハンド・ソーを使う。鋸(のこぎり:ソー)の厚みは8mmだ。
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鋸で切断する時は、最初の切り込みを正しく入れることが肝心だ。最初が上手くいけば、後は力仕事で決着がつく。
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実際のアブシンベル神殿で行われた切断長さは合計で10Kmだ。9ヶ月を要した。
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現代のチームも苦労していた。鋸の刃がすり減ると切断速度が落ちる。定期的に歯を研ぐ必要があった。
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これは今のアブシンベル神殿だ。勿論、移設後のものだ。
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「私は40年前、ここで切断作業の監督をしていた。ここだ、切断の跡が微かに残っている。」
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「当時、天井だってハンド・ソーで切断していたんだ。レリーフやヒエログリフがある天井や壁は特に注意深く作業する必要があった。」
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「どこを切ればもっとも損傷が少ないかにも、配慮しなければならなかった。」
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「結局、切断後のブロックの数は千を超えた。一番大きなブロックは30トンだった。」

アブシンベル神殿と同じように移設が必要な寺院はあと18もあった。
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カラブシャKalabsha寺院もその一つだ。共和制ローマの支配下だった紀元前30年頃に完成した。ブロックを組み上げて造られた寺院なので移設は易しそうだったが、問題は、ナイル川の氾濫で1年のうち9ヶ月も水に浸かっていたため石が脆(もろ)くなっていたことだ。普通の方法では難しかった。
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この寺院の移設ではドイツ人が活躍した。
彼等は水が寺院の周りに溢(あふ)れて来るのを待って、ボートで接近し、寺院の上の部分から、少しずつ解体した。
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解体したブロックは50Km離れた島に運び、そこで組み立て直したのだ。
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5万を超えるブロックの解体・移設・現地組み立ては大変な作業だった。
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しかし、結果は大成功だった。現在、カラブシャ寺院はアスワン・ハイ・ダムの近くの島に在る。
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アブシンベル神殿の切断作業は信じられないほど過酷な作業だっただろう。我が現代のチームは交替しながら作業しているが、そろそろ夕方だというのに1mくらいしか切断出来ていない。
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切断が進むと顔が前に倒れ落ちる心配がでてきた。支えを取付けてから作業を再開する。
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12時間後、やっと切断し終えた!
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神殿の切断には500人x9ヶ月かかっている。作業に連れて効率は上がったはずだが、それにしても大事業だったことが判った。しかし、事業はまだ終わっていない。次のチャレンジは切断済みのブロックを移動し、組み立て直すことだ。

アブシンベル神殿から80km離れた所ではフランス人技術者がアマダ寺院の移設に取り組んでいた。
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内装がとても美しく、分解して運ぶのは不適当だった。
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そこで支持材部材を寺院の周囲に取り付け、高張力鋼バンで全体を縛って補強した。
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その後、下にコンクリートのビームを差し込み、持ち上げたら車輪ユニットを下にセットする。
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そして線路に載せ、後ろからジャッキで押して移動した。
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(mh:確か、この方法は日本でも明治時代の建物を移設する方法として使われ、その状況がTVで実況されていたのを見た記憶があります。いつ頃の話か全く覚えがありませんが、30年程前でしょうか。)
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2.5Kmを移動し、25m高い所まで移すのに3ヶ月かかった。
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次の写真は現在の様子です。
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寺院の内部のレリーフ
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アブシンベル神殿では最後の切断段階だった。特に難しいのは複雑な形状をしたラムセス像の顔のブロックの移取り外しだ。クレーンから垂らしたストラップ(紐)をブロックに懸けて吊り上げるとストラップが当たる所で岩が欠ける危険があった。
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技術者はこれを避ける好い方法を見つけた。2本のスチールを顔のブロックに埋め込み、このスチールをクレーンで引き上げるのだ。
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現代のチームもおなじ方法でやってみた。上手くいく!
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1965年10月10日、現地では最初のブロック取り外し作業が始まっていた。
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取り外しを終えたブロックはトラックに載せられ、注意深く運ばれた。
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この作業は何千回も繰り返された。
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保管サイトは坂道を800m走った所だった。最終移転先は保管サイトの近くで、元の場所からは約200m離れていた。
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保管サイトでは各ブロックはクレーンで操作され、整然と配置された。
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どこから切り出したブロックか判るよう、各ブロックには番号が付けられた。
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1966年4月、最後まで残っていた巨像の足が運びだされた。
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その4ヶ月後、ナイルの水は元の寺院の跡を覆い尽くした。
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一先ず安心できる状態になった。しかし、まだ仕事は残っている。新しいサイトでの組立だ。
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ナセル湖で沈む寺院の救済で最後になったのはフィラエ島の寺院だった。
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既に水に消えようとしていた。
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女神アイセスIsisを祀った神殿だ。(下は現在の様子です)
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Wiki:イシス (Isisアイセス) は、ナイル川デルタ地帯のブシリス北方のペル・ヘベットの女神で、豊かなナイルの土壌を表す豊饒の女神。フィラエ神殿は、エジプト南部、アスワン近郊のヌビア遺跡で女神イシスを祀っている。アスワン・ロー・ダムの建設(1902年)で、既に半水没状態だったが上流のアスワン・ハイ・ダムの建設を機にユネスコにより1980年、フィラエ島からアギルキア島に移築、保存されることとなった。現在はアギルキア島をフィラエ島と呼んでいる。
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この寺院を救済するため、技術者たちはまず寺院を保護塀で囲んだ。
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そして塀の中の水を抜いてから解体したのだ。
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しかし、保護塀は主殿の解体だけに適用され、主殿から離れた場所の遺跡は水の中に沈んだままだった。その遺跡の中には島に入る入口の「ローマ門」もあった。
これが移設後の門だ。
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現地で解体する時は既に水没していた。
下の写真はGoogle Earthから見つけたものです。
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水没した遺跡は泥で覆われていた。そこで高圧空気で泥を吹き飛ばし、仕上げは真空クリーナーで泥を吸い取って取り除いた。作業中は水が濁り、目は役に立たず、10本の指が目の役目をした。
水中でハンマーとチゼルで遺跡を0.5トン以下の重さのブロックに分解した。
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そのブロックに浮き袋を付けて水面まで浮かび上がらせた。
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浮き上がってきたブロックをクレーンで船に移した。
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450個のブロックを切り出し、船に積んで運び出す作業には6ヶ月かかった。

1966年1月、新しいサイトでアブシンベル神殿の復元組立が始まった。
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組立と並行して技術者は寺院を収容する山の手配を始めた。
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寺院の上に山を積み上げるのは厳しいチャレンジだ。
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岩の重量で組み立てた寺院のブロックの位置がずれたり、倒れたり、破損したりする危険がある!
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これを回避するため、寺院全体を巨大なコンクリート・ビームのドームで覆うことにした。
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大きなドームは300もの連結部材で補強された。
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ドームが完成すると、その上に岩を積んで、以前と同じような岩山の外観を創り上げた。
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ラムセスの顔のブロックを頭に固着する方法は素晴らしいものだった。セメントを接着剤に使うと、経時劣化して顔が剥がれる恐れが高い。
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そこで、まず、L字形のカウンター・ウエイト用コンクリートブロックをスチール棒で顔のブロックにがっちりと固定した。
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頭には、L字形のブロックがピッタリはまる溝を加工しておく。
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そしてクレーンで吊り上げた顔のブロックを注意深く溝に嵌めていく。
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クレーン作業には神経を使った。ブロックを壊さないようにしながら元の位置にピッタリ嵌め込まねばならない。次の写真が実際の作業の様子だ。
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このような細心の注意が必要な作業が1年7ヶ月続き、組立は完了した。
仕上げは切断部などを漆喰で隠して目立たなくすることだった。
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解体に着手して4年半後の1968年10月31日、計画より20ヶ月も早く作業は完成した。
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誰もが願ったように、アブシンベル神殿は以前の輝きを取り戻した。
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それはまるで昔からそこにあったかのような出来栄えだった。ラムセス2世も満足しているだろう。
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2月、太陽の光が寺院内に差し込んできた。
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光りは3千年前と同じように通路の一番奥の3つの像を照らした。
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これから先、何世紀もの間、この奇蹟は起き続けるだろう。
Monster Moves: Abu Simbel temples
https://www.youtube.com/watch?v=2SxLufRZr4c
(完)

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mh徒然草61(特番)日露外相会談の記者会見は何だ?

昨日の9月22日の夜、TVニュースステーションのトップに突然割り込んだニュースはロシアで行われた日露外相会談後の記者会見でした。速報だったので、キャスターの古館一郎も「驚きました」とコメントを挟んだだけで、直ぐに予定していたニュースに切り替わってしまいましたが、見ていた私も驚きました。一体、どうなっているのか???

ネット記事が見つかりました。
見出しは「日ロ外相会談、「領土問題」認識に隔たり」です。
会談後の記者会見で北方領土問題について問われた岸田外相は「突っ込んだ議論がなされた」と答え、ラヴロフ外相は「対話の題目にすら上がらなかった」と答えました!!!
更に、日本の集団的自衛権を盛り込んだ安保法案成立について岸田外相が「地域と国際社会の平和と安定に積極的に貢献していくためのものだ」と言うと、ラヴロフ外相は訊かれてもいないのに「大事な問題なので私も一言、言いたい」と前置きし「緊張緩和には役立たない。」と切り捨てました。
この辺りの様子は次のURLで動画で見て頂くのが一番でしょう。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2594950.html

ロシアはプーチン独裁体制とも言える状況で、メドベージェフ首相も恐らくプーチンの指示で北方領土を何度か訪れ、領土返還意思がないことを示していましたから、今回の岸田外相訪問でどんな進展が期待できるのかしら、と不思議に思っていました。全く期待できないけれど、プーチン・安倍会談をセットするためには訪問して協議しないと進まないし、まずは挨拶しておこう、ってな軽~い気持ちで訪問したのではないかと思わざるを得ませんね。その席で首脳会談の日程だけ討議すれば好かったのでしょうが、北方領土返還に対する日本の主張をしたんでしょう。しかし先方は、何度同じことを言われても、今は議論するつもりはないよ、と切り離したのだと思います。それをしつこく、何度も繰り返したんだと思います。岸田外相は記者会見の後で日本人記者に取り囲まれ、「4時間(2時間か?)も北方領土の話をした。ラヴロフ外相のコメントは不適切だ」と話していますが、先方が聞く耳を持たないのに、一方的に何時間も繰り返したって、先方にとっては議論と言えないわけで、今回の二人の全く異なるようなコメントが出て来たのではないかと思います。

それにしても、あの記者会見の様子を見ていると、日本外交の不甲斐なさと無能力が如実に現れています。日本では、集団的自衛権を数の力で押し切り、実力を見せつけたつもりでいても、そのやり方や、内容をロシアが全く評価していないことくらい日本政府だって察知していたはずです。北方領土問題も解決があるとしたらプーチン大統領のご機嫌次第だと言う事位は判っているはずなのに、なんで岸田外相が、決定権を持たないラヴロフ外相と4(2?)時間も議論のような無策な行為をしたのか?自分が解決できると思っていたのか?

岸田外相に対してはmhの評価は最低です。言動からは熱意が全く感じられません。多分、ないんだと思います。安倍首相に言われたからそうしている、っといったスタンスで自分の主張なんて持っていないと思います。そんなスタンスの人が、元々、一筋縄ではいかぬロシアと北方領土問題で交渉出来る訳がありません。それを判っていない安倍首相も考えが甘いと思います。日本なら政治家一家の血筋をひけらかして威張れるのかもしれませんが、それは日本だけのことであって、外国には通じないことを理解しておくべきでしょう。“裸の王様”のような政府は、そのうち頼りの米国からも相手にされなくなると思います。

米国といえば、こんな米国政府の論評も見つかりました。
「ロ大統領訪日で慎重対応を=米」
「なんで外相会談をこの時期にやったのか理解できない」という、日本政府に批判的なコメントです。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2015092300089
危なっかしくて、とにかく米国の承認なしに何もするな!と釘を刺しているようなコメントです。きっと安倍政権は米国にすら信頼されていないと思います。日本国民としては「情けない」の一言しかありませんが、お釈迦様も仰るように、事実は事実として受け止めねば、次の展望は開かれません。自暴自棄になって米国に宣戦布告するなら75年前の過ちの繰り返しです。反省して、顔を洗って出直してほしいと思いますが、できるのかなぁ。

The Browns "The Three Bells" with lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=ojzBi-dDPTk
(完)

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ハトシェプストHatshepsutの不思議

10月16日からエジプトです!今回の旅の主な訪問先は次の通りです。
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ルクソールに飛んでカルナック神殿、王家の谷、ハトシェプスト葬祭殿などを見学した後、船でナイル川をアブシンベル神殿まで遡り、アスワンに戻ってダムを見学してからカイロに飛び、ツタンカーメンの秘宝の展示で知られるカイロ博物館(エジプト考古学博物館)、ギザのピラミッド・スフィンクスを見学して日本に戻る旅です。憧れのナイル・クルーズではボートに4泊します!
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全く知らなかったのですが、アスワン・ダムって2つあるんです!ルクソールから150Km上流のアスワン・ロー・ダム(1902年完成)と、その5Km上流のアスワン・ハイ・ダム(1970年完成)。ハイ・ダムで巨大なナセル湖が生まれました。ダムから150km上流の湖畔にはアブシンベル神殿があります。
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ルクソールLuxor(昔のテーベThebes)からアブシンベル神殿までナイル川クルーズですから2つのダムを船で通過するはずですが、どんな方法で通過するのか?パナマ運河式(閘門式)?スエズ運河式ってことはありませんね、ダムを挟んで水位に差があるわけですから。それともクレーンか?まさかトレーラーで陸路?それとも船を乗り換える?
この目で、デジカメで、真実を記録してご報告致しましょう。夜間通過とすると見逃す恐れもありますが、その場合は資料をかき集めてでも解説させて頂きます。

今は8月9日で出発まで2ヶ月余り前ですが、気が早いmhはエジプトで訪れる場所についての情報を集め始めています。今までの分を取りまとめて、世界の不思議と称し、今回から5回連続で皆様にお届けします。構想整理中の「王家の谷」を除くと、3つのブログ原稿は完了していまして、ま、我ながら仕事(遊び?)が手早いなぁ!と感心するというか、少々あきれてもいます。
1)ハトシェプストの不思議(9月21日公開予定)
2)アブシンベル神殿の不思議(9月28日)
3)スフィンクスの不思議(10月5日)
4)王家の谷の不思議(10月12日)
5)エジプトの失われた都市(10月19日)
帰国したら、後日談もご紹介しましょう。

で、今回は第一弾「ハトシェプストの不思議」です。
(ハトシェプスト葬祭殿の写真:GoogleEarth)
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ハトシェプストの取り巻きの人物を順にご紹介しましょう。

Wiki:トトメス1世(Thutmose、在位:紀元前1524年頃 - 1518年頃)
古代エジプト第18王朝の第3代ファラオ(王)でハトシェプストの実父。先代のファラオ・アメンホテプ1世の子ではなかったが、優秀な軍人で、シリア、ヌビアへの遠征軍を指揮して信頼を勝ち得、アメンホテプ1世の王女イアフメス(ハトシェプストの実母)と結婚したことで王の実子たちを差し置いて後継者と定められた。 その後、アメンホテプ1世の絶大な信頼を受けて共同統治者として実績を積み、各方面に遠征して領土を拡大し第18王朝の最初の絶頂期を現出させた。

Wiki:トトメス2世(在位:紀元前1518年 頃- 1504年頃)
古代エジプト第18王朝の第4代ファラオ(王)でハトシェプストの夫。トトメス1世の下位の王妃の子であったが、政治的手腕に優れ、正妃の第一王女であった異母姉ハトシェプストと結婚して王位を継承した。即位後はハトシェプストの野心を見抜き、王位簒奪(mhさんだつ)を警戒して側室イシスとの間の子トトメス3世を後継者に指名しハトシェプストを牽制するが、病弱だったためトトメス3世の成長を待たずに亡くなり、ハトシェプストの専横(mh!!!)を許すことになる。

で、いよいよWiki:ハトシェプスト女王(Hatshepsut)です。
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古代エジプト第18王朝5代目のファラオ!!!在位は、紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃。父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフゥルウラー。詳細はYoutube解説をご覧ください。
(ハトシェプスト葬祭殿のGE写真より)
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Wiki:トトメス3世
古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1425年頃)。
父はトトメス2世、母はイシス。父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握することになる。治世の前半は、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごしたと伝わる。この時期の経験から高い軍事的能力を身につけ、ハトシェプストの退位後となる治世の後半はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。ことにメギド(イスラエルの丘)の戦いでの大勝で名高い。その積極的な外征と軍事的偉業から「エジプトのナポレオン」と呼ばれることも多い。
実権を掌握してからはハトシェプストの存在を抹殺しており、ハトシェプストの名前や肖像を軒並み削り取った。これには「恨みによるもの」とした説と「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」とした説がある。

つまり、ハトシェプストは女だから王位を継承する権利はなかったのに王位に就いたということのようですねぇ!王は戦上手(いくさじょうず)でないと国を守ることが出来ないということだと思ますが、女は戦に不向きという理由で男だけが王位継承の権利を与えられていたのでしょう、推察ですが。日本でも今は女の天皇は認められていませんから、天皇家に女しか生まれなければ、その旦那が天皇になり、以降、女系の家族から天皇が続いていくことになります。ま、私には全く関係ないので、どう継承されても好いのですが、天皇という名を引き継ぐなら、それなりの品位を持つ人になってほしいし、家系が途絶えたら、新たな天皇を無理にひねり出す必要もないと思います。

Wikiには「ファラオの一覧」があります。これによれば、紀元前1570年から前1293年まで約3百年続いた第18王朝には14人のファラオがいて、ハトシェプストはその一人です。ツタンカーメンもハトシェプストより後の第18王朝のファラオです。第18王朝最後のファラオのホルエムヘブHoremhebには息子がいなかったので、信頼していた部下の宰相にファラオの地位を譲り、以降、新しい家系でファラオが続くことになって第19王朝が始まります。王位を譲られた男こそラムセス1世Ramesses Iで、エジプト旅行ブログ第二弾の「アブシンベル神殿」を造ったラムセス2世の祖父になります。

Wiki:ハトシェプスト女王葬祭殿
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「エジプト・ルクソールのナイル西岸にある古代エジプトのファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。ハトシェプストの側近で建築家センムトSenenmutが設計した。後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。」
(mh葬祭殿はジェサ・ジェサルDjeser-Djeseru、つまり聖地の中の聖地 "the Holy of Holies"、とも呼ばれるようです。)
「手前にメンチュヘテプ2世の王墓があり、葬祭殿と合わせてデル・エル・バハリ(Deir el-Bahri。アラビア語で「北の修道院」の意味。後にコプト正教会の教会として使われていたため)とも呼ばれている。1997年11月、ルクソール事件の現場となり外国人58人を含む62人が亡くなる事件が発生し、その中には多くの日本人新婚旅行者も含まれた。」

実は、この葬祭殿を設計した男センムトはハトシェプストの生涯に、いや死後の世界においてさえ、大きく関係している男です、噂話の領域ですが。その辺りもこれからご披露するYoutubeフィルムで解説されていますのでご確認下さい。
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ハトシェプストの物語はナイル中流の町テーベ(現ルクソール)の対岸から始まる。テーベは政政治・経済そして宗教に関してもエジプトの中心だった。

170年前、若きフランス人シャンポリオンは、ルクソールのナイル対岸にあった、この寺院を訪れた。
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ロゼッタ・ストーンを解析し、エジプト古代文字ヒエログリフを初めて解明した男だ。彼は、この寺院の回廊でミステリーに気付く。

壁に2人の王の絵が描かれていた。一人はトトメス3世だ。考古学者なら誰でも知っている人物だ。ナイル川に沿って点在する他の寺院にも描かれている。
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しかし、もう一人の王は聞いたことが無い名前だ。ヒエログリフでは「ハトシェプスト王」となっている。
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他の王の前で跪(ひざまづ)き、神の祝福を受けている、とても奇妙な構図のレリーフだ。

ここにシャンポリオンが書いた報告書がある。
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「髭を付けている。ミニスカートを穿いている。いずれもエジプト王の典型的な姿だ。しかし、この王の行為は女性動詞で記されている!!!」

シャンポリオンは理解できなかった。これはどういうことだ?
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ハトシェプストは男装しているが女王だったのに違いない!彼女の父親は寺院の背後に聳える崖の向うの「王家の谷」に埋葬されている。ツタンカーメンやラムセス大王も眠る所だ。
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ハトシェプストに関する記録を調べたら父親はトトメス1世であることが判った。

彼女が生まれる数千年前から、ファラオは砂漠の中のピラミッドに埋葬されるのが一般的だった。
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しかし、ほとんど全てのピラミッドでは盗掘が行われていた。
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エジプトは長い間、世情不安と混乱の中にあった。それが今、やっと秩序を回復しつつあった。
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ハトシェプストの父親トトメス1世は自分の遺体や宝物を安全に匿(かくま)う場所を必要としていた。そこで、誰もが棲まない荒廃した谷を埋葬場所に定めた。
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その場所は以降のファラオが墓とし、後年、「王家の谷」として知られるようになる。
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トトメスは野心家で、王になるとヌビア(ナイルの上流で今のスーダン)に侵攻を開始した。ナイルを遡る彼の軍船は何度も激流を乗り越えねばならず、その都度、多くの船が沈んでしまった。
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しかし、彼は苦難を乗り越え、ヌビアの奥深くまで攻め込んだ。今まで、どの王も成し遂げられなかった遠征だった。
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彼はヌビア人の町を征服し支配下におくことになった。
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トトメスには5人の子供がいた。しかし生き残ったのはハトシェプストだけだ。
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彼女だけが血のつながりを持つ子だった。しかし、女は王になれるのか?古代エジプトで王を決める規則は複雑で王室以外の者は知りえない極秘事項だ。
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当時、王宮は多くの小部屋で構成されていた。大勢が一緒に生活していた。
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王は複数の妻を持っていた。正妻、つまり王妃、が一人。その下には複数の后(きさきminor wife)が、さらに多くの妾(めかけconcubine)もいた。彼女らの誰もが、いつか自分の息子が王になる日を夢見ていたのだ。

ハトシェプストは沢山の人々と共にこの宮殿で暮らしていた。彼女は賢かった。もし男だったら何の問題もなく父の後を継いで王になっていただろう。

ハトシェプストが12歳の時、父トトメス1世は死んだ。彼女だけが正統な後継ぎだったがエジプトは国王を必要としていた。そこで彼女は父の后の息子、つまり異母兄弟、と結婚する。彼女の夫がトトメス2世だ。20歳の夫が国王に、12歳の妻ハトシェプストは女王になった。

トトメス2世は体が小さくて脆弱で、病にかかり勝ちだった。そして40代で死んでしまう。
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彼はトトメス1世とは全く異なる目立たない王だった。出兵して他国を征服することも無く、寺院を建てることもなかった。

ハトシェプストはトトメス2世との間に子供を一人もうけていた。娘ネファルレイだ。
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トトメス2世が死ぬと、ハトシェプストは自由の身になる。32歳だった。エジプトの女王だった。そこで彼女はエジプトの女王がそれまで成さなかった事業を始める。自らの葬祭殿の建設だ。死後も崇拝を受けるためだ。
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崖を背景にして直線的な建物を配置した。建物を見たエジプトの人々は見事さに息を飲んだに違いない。古代エジプトでも最も美しい建物の一つだった。
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それまでファラオは戦に明けくれていた。この建物は混乱が収まり安定期に入ったばかりのエジプトから初めて現れた、洗練されたモニュメントと言えるだろう。
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高い芸術性と寺院の神秘性を兼ね備えていた。
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ハトシェプストの輝かしい人生を具現化したものだった。
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20年間、彼女はトトメス2世の下で、控えめな王妃として振る舞ってきた。しかし夫亡き今、父から受け継いだ力を発揮する時を迎えたのだ。この寺院がその表れだ。
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エジプトの石工はファラオの像を沢山残しているが、ハトシェプストの像はそれまでの女性のファラオの像とは異なる。彼女は少しやせていて、若く、活き活きした表情を呈している。
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テーベの南200kmのこの石切り場では歴代の王たちがオベリスクを切り出していた。切り出されずに放棄されたものもある。これはかなり大きい!
(mh奥に見える白い点が人間です。)
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岩盤から切り取るために彫られた溝をみても、作業に多くの時間がかかったことが容易に想像できる。
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ハトシェプストの2つのオベリスクは、7ヶ月で完成した。これをテーベのカルナック神殿に運んだ時の記録が残されている。
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夫々が350トンで30mを越える2本のオベリスクは今も垂直に立っている。
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エジプト人がオベリスクを立てた手法に関する記録は残っていないが、斜面を持つ花崗岩Graniteに載せてから、ロープを懸けて引き起こしたのではないかと考えられている。
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直立しているオベリスクを支持する部材はない。つまり、平な基礎の石の上に柱の石が置かれているだけだ。当時の建築技師の作業精度が高い証拠だ。
彼女のオベリスクの下側には次のように書かれている。
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「父トトメス1世と神アムーンAmonのために2本の偉大なオベリスクを奉納する。」
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石切り場に残っていた1千トンを超えるオベリスクも彼女の手によるものだった。通常の10倍の代物だ!しかし彫り進んでみたら岩に瑕(きず)が見つかったので放棄されたのだろう。
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葬祭殿やオベリスクなどの建築事業を進めるためには、助けてくれる男が必要だった。その男こそがセンムトSenenmutだ。
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ハトシェプストは、娘の家庭教師センムトを彼女の事業の総監督に格上げした。センムトに全幅の信頼を置いていたのだ。センムトは彼女の期待に応えた。その結果、彼はとうとう最高指揮官に昇格する。

彼は60Km南のナイルの岩壁の上に寺院も造っている。鰐(わに)の神に捧げられた寺院だ。
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トトメス2世が死亡した時、ハトシェプストの義理の息子で次期ファラオの権利を持つトプモーセスは幼かった。だからハトシェスプトが女王として統治しても反発は少なかった。しかし、トプモーセスもそろそろ大人だ。彼女が権力の座から降りる時期だった。

考えてみよう。彼女は既に7年間、国を統治していた。素晴らしい体験だった。彼女は掴んだ権力を維持し続けたいと望んでいた。しかし、それには問題がある。義理の息子トプモーセスが結婚したら彼の妻が王妃で、自分は叔母でしかなくなる。彼女の王位は消滅するだろう。どうしたらいいのだろうか?

彼女はエジプト史上、先例がない行動をとる。それまでは先王の后(きさき)として次期の王に指名されていた子供が成長するまで間接的に統治していただけだ。しかし彼女は「これからは私が王だ!」と宣言したのだ!儀式では偽の髭(ひげ)をつけ、王であることを顕示した。
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しかし、実務では女であることを隠さなかった。ハトシェスプトと言う名前も「高貴な女」という意味だ。彼女は先代の王と第一王妃の子供で、王家の血を引き継ぐ唯一正当な子供だった。彼女が統治している時でもエジプトは安定し、繁栄していた。問題は無いはずだ!しかし、義理の息子トプモーセスは彼女を王と認めていたのだろうか?
あらゆる記録は、ティーンエイジヤーのトプモーセスは「幸福と言うよりも絶頂状態にいた」ことを示している!
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彼は軍を指揮することに関心が強く、他国に侵攻して勝利を収めては自分が置かれた地位を楽しんでいたのだ。シリアに攻め込んでヒッタイトとも戦った。

シリアは商業や宗教の要所の場所だ。時代が変わり、エジプトの権威が失われた1世紀以降にはローマがシリアを引き継ぎ、さらに後年には十字軍が大きな要塞を建て、聖地へのルートと貿易を管轄する場所としていた。
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神権政治が行われ、軍や食料、武器弾薬が砦に保管されていた。
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トプモーセスは軍事力によって交易すら管理できることを知っていたのだ。トプモーセスがシリアなど、エジプト周辺に睨みを利かせていたので、ハトシェプストはエジプトでファラオの地位を維持し続けることが出来たといえるだろう。

そこで彼女はパントの統治に乗り出した。ワディハママットと呼ばれる砂漠地帯を150Km行く。
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紅海に出ると、船で900Km南まで旅をした。
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ハントは今のスーダンで、エチオピアとの国境近くにあった。
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土着民が暮らしていた。
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ハトシェプストはハントへの旅行に関する記録を寺院の壁に残した。
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旅はエジプトの歴史で初めての南方遠征となった。
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乳香や水銀などを持ち帰った。
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このような大規模な遠征は繁栄している国だからこそ出来たことだ。これこそがハトシェプストのエジプトだった。

彼女の治世で繁栄していた時代、センムトより大きな恩恵を受けた男はいないだろう。
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ハトシェプストが王になると、彼は彼女の葬祭殿近くの丘に自分の墓を造ることを認められた。
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墓に続く洞窟の壁にセンムトは自分の名を残している。
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そこには彼がハトシェプストの全ての事業の最高責任者だったことが記されている。
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墓の中の通路の片隅に洞窟がある。その奥に彼の遺体は埋葬されていた。
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彼がどんなに大きな権力を持っていたかは、破壊され散乱していた破片を集めて復元した石棺を見れば判る。
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表面には高貴な人物として彼の名が記されている。
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多くの証拠を見る限り、ハトシェプストとセンムトは愛人同士だったことが暗示されている。ハンムトが一生、独身だったこともこの推察を裏付けている。古代エジプトではとても考えられない関係だった。
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もしそうだとしたら二人の関係は秘密にしておかねばならなかった。何故なら片方は女王で片方は実務最高責任者だからだ。しかし、二人が恋人同士だった、もっと確かな証拠はあるのだろうか?

葬祭殿のあるデル・エル・バハリで石工が壁にいたずら書きを残していた。男女がセックスしている!
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女は鬘(かつら)を被っているようだ。ファラオの鬘だ!二人の関係に関する疑念は石工だけのものではなかった。多くの人が2人の仲を疑っていたのだ。

更に別の証拠もある。ハトシェプスト葬祭殿の壁画にはハンムトが何十回も現れてくる!全てハトシェプストを敬う姿勢で描かれている。彼以外には、こんなに頻繁に現れる人物はいない。彼とハトシェプストの関係が特別だったことは間違いない。
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一方、ハトシェプストは彼を全く必要としていなかったと見る少数意見もある。ハンムトは王家の血筋からは全くかけ離れた男だから、と言うのだ。
二人の関係はどんなものだったのだろうか。今もミステリーの一つだ。

アスワンの近くの岩山。
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ここにセンムトが遠征から帰国する途中で描いたものがある。
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ヌビアにハトシェプスト軍が現れたというのは珍しいことだった。だから記録が残されたのだ。探していた絵が見つからないが、しかし、この絵にはハトシェプストが建てた2本のオベリスクが描かれている。ヌビアの指揮官は捕らえられ彼女の前に引き出された、との記載もある。
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ハトシェプスト統治時代の後期、センムトはハトシェプスト葬祭殿近くに埋葬される許可を得ていた。これは王家と関係がない一般的な人物に対しては異常な計らいだった。しかし、ハンムトは一般的な男ではない。女王の愛人だったとしたら至極当然の計らいだ。
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センムトの墓には特徴があった。壁に描かれたハンムトの頬に深いシワがあるのだ。
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センムトが最後に埋葬された部屋だ。
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「死者の書the book of the dead」も引用されている。
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ハンムトの墓の入り口はハトシェプスト葬祭殿から百m以上離れている。しかし玄室は葬祭殿の真下まで掘られた通路の先にあった!
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そして葬祭殿の背後の岩山の向うにある「王家の谷」からは別の孔が葬祭殿の方向に向けて掘られていた。ハトシェプストの玄室だ!
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死後の世界でも永遠に寄り添って過ごそうと考えたのではなかろうか。

ハンムトが死んで数年後、ハトシェプストは後を追うように死んでいる。王家の谷に掘って造られた彼女の墓も普通ではなかった。今、彼女の墓に掘られた洞窟を下に向かって進んでいるところだ。どこまでも下っている!
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この洞窟は探検家カーターによって1903年に発見された。彼がツタンカーメンの墓を発掘する20年前だ。洞窟はとても深く、水も溜まっていて、王家の谷の墓の発掘でも最も苦労が多かった一つだろう。
2ヶ月の洞窟内の通路確保作業の後でカーターは作業を中断した。暑くて、暗くて、蝋燭の灯ではとても作業が出来なくなっていたのだ。そこで当時では進歩的だった電燈を持ち込んで発掘を再開した。しかし、いつまで掘ってもトンネルは続いている!

玄室とするに適当な石灰岩limestoneの層に行き当らなかったから掘り続けたのかも知れない。しかし、とうとうカーターは2つの見事な石棺が置かれた玄室に辿り着く。
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石棺の外面に彫られたヒエログリフで、一つはハトシェプスト、もう一つは彼女の父のものだと判った。
彼女は父の墓から父の棺を自分の墓に移していたのだ!死後の世界でも強い男が近くに居てくれることを望んだのだ。
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ハトシェプストの死後、やっとトトメス3世はファラオに就任した。彼は偉大なヒーローだった。彼が統治した33年間に17回の遠征をした。シリアやチグリス・ユーフラテス川にも出かけている。彼が自由に遠征出来たのもハトシェプストが軍隊を確保し育成していたからだ。
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トトメス3世は寺院やモニュメントの建設には関心がなかった。ハトシェスプトがファラオの時、彼は戦いに没頭し、それで満足していた。ルクソールのカルナック神殿に残された「赤い石の礼拝堂Red Stone Chapel」には二人の関係は双方にメリットがあったことを暗示している。
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解体された壁の一部にはハトシェプストとトトメス3世が並んで描かれていた。
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これを見る限り2人は共存共栄の統治者に見える。実際、彼等は敵同士ではなかった。しかしトトメス3世が王として統治を始めて20年後、心変わりしたかのように、赤い石の礼拝堂は解体されてしまったのだ。
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更には、ハトシェプストの名前があらゆるモニュメントから消し去られてしまった。
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歴史が塗り変えられたのだ。ハトシェプストは存在していなかったかのように歴史から消し去られたのだ。
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エジプトにとって女の王は伝統ではない。女の王を戴かないのが仕来りだ。それが神の指示にも合致するのだ!
しかし歴史は、片方だけに味方することはなかった。
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1870年、一人の偉大な探検家が隠されていた事実を見つけた。一つの墓から1ダースを越えるミイラが出て来たのだ!
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古代エジプトでは王家の谷の墓も安全ではなかった。そこでミイラは一つの玄室に集められていたのだ。
(この経緯は第四弾「王家の谷の不思議」で触れる予定です。)
見つかったミイラはエジプト政府によってカイロ博物館に移された。
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その中にはトトメス1世、2世、3世、ラムセス1世のミイラもあった。
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誰のものか判明していないミイラの中にハトシェプストやセンムトのミイラがあるかも知れない。
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これはハトシェプストかも知れないミイラだ!
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そしてこれがセンムトのミイラかも知れない。頬に独特の深いシワがある!
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2人は今エジプト考古学博物館で静かに眠っている。彼らが望んだように、二人でより添って。
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ハトシェプストの22年の統治は十分な成果を上げることが出来た。貿易も盛んになった。記念碑も建造し、軍事行動でも成果を上げた。しかし、トトメス3世が王位について20年後、彼は何故かハトシェプストの記録を歴史から消し去ろうとした。
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確かに、彼女が王の地位にいたとすると神の命令に従わなかったことになる。ファラオは、戦士で、政治家で、外交官で、なによりも男でなければならない。女のファラオの存在は消しておかねばならなかっただろう。
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彼女が犯した罪は、女が王になったということだけだ。エジプトで最も高いオベリスクはハトシェプストがカルナック神殿に建てている。
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最も美しい寺院はハトシェプストが建てた葬祭殿だ。
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The Great Egyptians - Hatshepsut: The Queen Who Would Be King
https://www.youtube.com/watch?v=L01bDlX5pTA
(完)

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mh徒然草―59(特番):理不尽なこと

9月11日の朝、久しぶりに団地内遊歩道を散歩していると、夏の名残の日差しは戻り、雨上がりの道が爽やかで、両脇の緑も映えています。萩も薄紫の花を付け始め、薄(すすき)の穂もちらほらと見えて、そっと秋が忍び寄ってきた気配がしました。喜多郎の曲を聞きながら、猫背を矯正しようと空を見上げて手を大きく振って散歩していると、なんだか幸せな気分になります。エジプト旅行まであと一カ月とすこし。旅行残金の振り込み請求がまだ届いていないので、まさか、カイロで起きたテロの影響でツアーがキャンセルされたってことはないだろうな?もしキャンセルなら、エチオピアかモナコ、それとも久しぶりに中国に行ってみるかな、などと思いを巡らすのも悪い気分ではありません。

しかし、前日の9月10日、台風18号の雨雲が栃木県辺りに長時間居座り、鬼怒川が氾濫して、TVは1日中このニュースでもちきりでした。決壊した堤防から流れ出る水は家や車を飲み込んで、行方不明者が25人いると、今もTVで伝えています。沢山の家が流されたり、床上浸水したり、田畑やビニールハウスも水浸しの様子を見ると、水が引いてからも、大変な生活が待っている人々が多いことに驚かされますが、横浜の丘にある団地ビル10階の住人mhに直接関係することは今のところ何もありません。そのうち、野菜や米の値段が上って、年金生活者のmhにもじわじわと影響が及ぶのかしら、などと、つまらぬ心配をしているうちに、時は過ぎ、また元の何の変哲もない生活が戻って来ます。

TVで鬼怒川の堤防決壊のニュースを見ながら、大変だねぇ、明日は我が身かもねえ、などと言っている人と、堤防決壊で人的、物的被害を実際に被(こうむ)り、これから何をどうしていいのか考えられないほど落胆している人の差は歴然としています。この理不尽な差がなぜ生れたかを考える時、運命の不思議を思わざるを得ません。

友人のFacebookから借用しました。日本のTVではモザイクがかかっていた映像です。
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1週間ほど前、ギリシャに流れ着いた子供です。この子は、何故、寂しく、悲しく、短い人生を終えねばならなかったのか。シリアにいたらISに殺されるか内戦で家や仕事を失うだけなので、家族全員で死を賭して脱出することを選択した結末です。無事に目的地に行きつけたとしても、温かく受け入れてもらえる保証はありません。日本なら難民認定基準に適合しないので入国は拒否されます。せめてドイツなど、難民受け入れ国に資金支援くらいしてやればいいのに、国会は集団的自衛権の関連法案を通すの、通さないのに明け暮れて、そんなことはお構いなしです。

TVで、これらのニュースを見て、気の毒だねぇ、何とかならないのかしら、などと思っているだけでは、悲惨な運命に晒されている人には何の役にも立ちませんので、エジプト旅行のお小遣いから、わずかですが1万円を国境なき医師団に寄付させて頂きました。皆さんもご検討下さい。

Dusty Springfield ~ You Don't Have To Say You Love Me (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=6IXr5dZ9iAk
(完)

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アレキサンダー大王の不思議

今回は都市国家ギリシャを統一して東方遠征に乗り出したアレクサンドロス3世Alexander the Greatについてご紹介しましょう。
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「栄光の快進撃を実現し、戦士で、王で、歴史に燦然と輝く伝説の男、アレキサンダー大王!14歳でマサドニアンMacedonian(注)戦士に、18歳で一軍の将に、20歳で王になった男。22歳になった紀元前334年、戦いに飢えた4万の戦士たちを指揮して東方遠征を始め、2千年を過ぎた今日にも残る様々な伝説を創り、しかもいまだに歴史学者の間に論争を巻き起こしているアレクサンドロス3世!」

(注)マサドニアン:「マセドニア Macedonia または Macedonマセドンと呼ばれた古代国家の」という形容詞。日本語ではマケドニアと呼ばれる古代国家です。ややっこしいですねぇ。

「冷酷な母から生まれ・・・(見辛いですが蛇を抱いてます!)
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優れた哲学者に師事し・・・
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凶暴な戦を好む父の背を見て育ち・・・
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若干32歳でペルシャ帝国、エジプト帝国、さらにはインドの一部まで手中に収めた男!」

との物々しい鳴り物入りで始まる2時間15分のYoutubeフィルムを含め、3本見ました。一番面白そうなフィルムのストーリーにそって彼の逸話や偉業をご紹介ようと思ったのですが、どれも一長一短で、その上CG(Computer Graphics)が多く、これを皆さんにご披露するのもなんだろう(?)と思いまして、今回はmhのオリジナル・ストーリーでご紹介させて頂くことにしました。勿論、史実や遺跡など「事実」「歴史」「真実」を出来る限り採用し、個人的な推定は排除するつもりです。どんな仕上がりになるのか・・・楽しみです。
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Wikiアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王):
父:ピリッポス(フィリップ)2世 、母:オリュンピアス。出生紀元前356年7月20日マセドニアの町ペラ Pellaで生まれ、紀元前323年6月10日(満32歳、正確には33歳の1ヶ月前)メソポタミア流域の古代都市バビロン で亡くなりました。

大王以外の別号としては「コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主」「エジプトのファラオ(!)」「 ペルシャのシャーハンシャー (大王の中の大王という意味でしょう)」でもありました。

配偶者:ロクサネ、スタテイラ、パリュサティス(の3人)。
子供:アレクサンドロス4世、ヘラクレス(非合法の息子)
息子のアレクサンドロス4世は王妃ロクサネの嫡子で、アルゲアス朝最後のマケドニア王です。「紀元前323年~紀元前309年(享年14歳)」で「在位同じ」とありますから、父アレクサンドロス3世がバビロンで死んだ年に生まれ、直ぐに即位した、形だけの王と言えるでしょう。
もう一人の息子ヘラクレスはペルシャ遠征中にバルシネという女との間に生まれた、いわゆる妾の子です。バルシネの最初の夫はロドスのメルトン(傭兵)で、ある時はアレクサンドロス3世の敵、またある時は配下でもありました。

父フィリップ2世が暗殺された紀元前336年、アレキサンダーは20歳で王になりました。東方遠征の2年前でした。当時のマセドニア王国(マケドニア、Macedon)の版図です。首都Pellaは「MACEDON」の直ぐ下に記されています。彼が生まれた町でもあります。
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Wiki:マケドニア(マセドニア;王国)
「紀元前7世紀にギリシャ人によって建国された歴史上の国家である。現在のギリシャ共和国西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と・・・(省略)にまたがる地域にあった。(つまり上の地図のピンクの領域です。)北西ギリシャ方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。」
<マケドニアの国章>
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Wikiで「マケドニア」と入力すると古代のマケドニア王国に繋がりますが、ご承知のように、今日、ギリシャの北にマケドニアという国があります。
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正式には「マケドニア共和国」で、古代はマケドニアと呼ばれた地域の北西部に位置しています。
マケドニア共和国の国旗は古代マケドニアの国章を引き継いでいます。つまり「太陽」です。
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アレキサンダー大王の父フィリップ2世は軍人として優れた能力を持ち、都市国家ギリシャの統一に向けた戦で成果を上げていました。彼の軍隊が使った槍「サリッサ」は当時の槍の2~3倍の長さで、独特の戦術で使われて威力を発揮しました。勿論、息子のアレクサンドロス3世も東方遠征でこの槍を戦いの最前線で利用し、連戦連勝、破竹の勢いで侵攻していったのです。
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Wiki:サリッサsarissa or sarisa
その頃のギリシャで使われていた槍が2.1- 2.7m程度だったのに対し、サリッサはおよそ4.0- 6.4mと倍以上の長で、敵兵より長いリーチを取れた。その上、後ろの兵士の槍もより多く突き出すことができるという優れたものであった。穂先の反対側の先端には石突きが付いているが、これは、構えるときに安定を保つためのものであると同時に、槍が折れた際に武器として使用する予備的装備でもあった。
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ところでアレキサンダー大王、即ちアレクサンドロス3世、の息子のアレクサンドロス4世は、父が死んだ年に生まれ、形だけとは言え王に即位しましたが、3世がいるなら2世だっているのでは?と思って調べたら、やっぱりいました。

Wiki:フィリップ2世Philip II of Macedon (382–336 BC )
「ピリッポス(!)2世(アレクサンダーの父)は、アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウスである(在位紀元前359年 - 紀元前336年)。フィリッポス2世とも表記される。アミュンタス3世の子で、アレクサンドロス2世(ここに3世の前の2世が出てきました!)、ペルディッカス3世の弟で・・・以下省略」
「フィリップ2世は、ギリシャの弱小国だったマケドニアに国政改革を施し、当時先進国だったギリシャ南部の諸ポリスにも張り合える強国に成長させた。カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、コリントス同盟の盟主となってギリシャの覇権を握った。」
ギリシャを統合したカイロネイアの戦いで、アレクサンドロス3世は父の配下の将として戦果を挙げています。

一方、母親のオリュンピアスは、フィリップ2世の4番目の妻でした。狂乱的な蛇崇拝のディオニューソス信仰の熱烈な信者で、1世紀の伝記作家プルタルコスは、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆しています(Wiki)。それでブログ冒頭で紹介した彼女の映像に蛇serpentが出ていたんです!

フィリップ2世には、踊り子ピリンナとの間に生まれた庶子アイダリオス(フィリップ3世)がいました。アレクサンドロス3世の兄でもありました。しかしアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、アイダリオスの力を恐れ、毒を盛ったんですねぇ。一命は取り留めたもののアリダイオスは知的障害者になり、事実上王位継承の資格を喪失します。

実は父フィリップ2世の死についても疑問があるようです。ギリシャを統一したフィリップ2世は、ペルシャ遠征に向かう前に開催した戦勝祈願の宴席で、彼の男妾に刺され、死んでしまいます。刺した男妾は、アレクサンドロス3世の手下によって、その場で取り押さえられ、殺されてしまいました。本当に男妾がフィリップを刺したのか?なぜ刺したのか?といった肝心な事は闇に葬られてしまい、ひょっとするとフィリップ2世の暗殺は息子アレクサンドロス3世が仕組んだのではないか、という噂も残っているのです。

アレクサンドロス3世は父の配慮でアテネから招かれたアリストテレスを師とし、弁論術、文学、科学、医学、哲学などを学びました。アリストテレスは哲学者プラトンの弟子です。
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アレクサンドロス3世が東方遠征に出かけた翌年、アリストテレスは古巣のアテネに戻っています。

アレクサンドロス帝国/マケドニア王国(帝国)
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この図は過去のブログで何度か登場していますが、アレクサンドロス3世が紀元前334~323年の、たったの12年の遠征で獲得した領土です!マケドニア、ペルシャ帝国、エジプト帝国、インド西部を版図としました!

それではアレクサンドロス3世の東方遠征の足取りと出来事を、順を追って辿ってみましょう。
<紀元前334年(22歳)>
ダーダネルス海峡(古名:へレスポイントHellespoint)を渡る!いよいよ東方遠征の開始です。
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北の黒海側にはボスポラス海峡(現イスタンブールの海峡)がありますが、南のルートを採ったんですね。小アジア(トルコ)を地中海に沿って南下する思惑だったようです。
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百艘のトライリーン(3段オールの戦艦)に分乗して海峡を渡りました。この時、小アジアを統治していたペルシャ帝国の軍勢は手を出しませんでした。

その後、南のトロイに寄ったとの話もあるようですが、いずれにしても東方に移動し、グラニコス川で初めてペルシャ軍と対峙します。戦いはマケドニア軍が仕掛けました!先陣を切ったのはアレクサンドロス3世が指揮する右翼です。
戦力と損害は次の通りです。マケドニア軍の大勝と言えるでしょう。
      マケドニア軍    ペルシャ軍
戦力   重装歩兵10,000   軽装歩兵20,000
      軽装歩兵10,000   ギリシャ人傭兵5,000
      騎兵5,000       騎兵10,000
損害   戦死者115 – 350    歩兵3,000
      負傷者1,150 - 1,380   騎兵1,000
      ないし3,500 - 4,200   捕虜2,000

その後エフェソスのアルテミス神殿を訪れ神殿の修理を命じています。実はアレクサンドロス3世が生まれた日、御神体のアルテミスがお祝いのためにマケドニアに出かけて留守の最中、神殿は火災で燃え落ちました!ブログ「世界の七不思議:アルテミス神殿」でも解説していますのでご確認ください。

ひき続いてハリカルナッソスを訪れました。こちらもブログ「世界の七不思議:ハリカルナッソスのマウソロス霊廟」をご覧ください。

<紀元前333年>
ハリカルナッソスでの作戦を完了するとゴーディオン(トルコ共和国首都アンカラ)に向かいました。マケドニア軍の強さを伝え聞いていたゴーディオンのペルシャ軍守備隊は簡単に降伏し恭順を示します。
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マケドニア軍は南下を開始し、イッソスIssosを征圧しました。負傷兵を置いて更に南下すると、これを見たダリオス3世Darius IIIが率いるペルシャの精鋭軍が北からイソスに回り込み、残っていた負傷兵の手を切り取ってしまいます。二度と武器を持てぬようにとの意図からです。

これを知ったマケドニア軍は直ぐにイソスに戻り、ピナルス川The Pinarusを挟んで両軍が布陣を張ることになりました。
赤はペルシャ軍、青はマケドニア軍を表しています。
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紀元前333年10月、ペルシァ軍の騎兵が川を渡ってマケドニアの将パルメニオンの部隊に襲い掛かり、火ぶたは切って落とされました。
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パルメニオンが数で優勢なペルシァ軍の攻勢に耐えていると、アレキサンダーはすかさず精鋭歩兵部隊を率いて川を渡り、敵の中央部隊を包囲しながら攻撃しました。アレキサンダー自身に攻撃されたダリウスは慌てふためいて戦場から逃走します。アレキサンダーは休むことなく、敵右翼の背後にまわりこみ、これも攻撃しました。ペルシァ軍は5万もの死者を出した上に王が逃走したので、とうとう全面退却を始めます。しかし、マケドニア騎兵は夜になるまで追撃し、ばらばらに敗走するペルシァ軍を掃討してしまうのです。

イソスの戦いの様子を描いたモザイク画がイタリアのナポリ国立考古学博物館に保管されています。左には馬に乗るアレクサンダー、右にはシャリオット(馬戦車)に載るダリウスが描かれています。
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この絵は「ファウンの家House of the Faun」と呼ばれるイタリア・ポンペイの大富豪の家にありました。
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実は昨年11月、ポンペイを訪れた時に私も上の写真の風景の中に立ったのです!子供の像が立つ、噴水だったと思われる場所の直ぐ向うに柱で囲まれた敷石の小さな広場が見えますよね?その敷石はモザイク画で、そこには次の男がいたのです!
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それを見た時、私は直観しましたねぇ「アレキサンダー大王だ!」勿論、写真に収めたのですが、イタリア旅行のブログでもご紹介したように、カメラがバスの中に置いていた鞄もろとも盗まれてしまい、証拠は残っていませんが、もしあなたもポンペイに行ったとすれば、この庭園に寄ってモザイク画のアレキサンダーに対面したでしょうから、私が嘘をついていないことは納得して戴けるでしょう!!!

いやな思い出がぶり返して妬(や)けになったという訳ではないのですが、ここで不思議な質問です。
<不思議な質問1>
「学校の歴史の教科書にも載っている、あの有名なアレキサンダー大王のモザイク画と同じものが、何故、イタリアのナポリで見つかるのか?」
本来ならマケドニアとか、アテネとか、アレクサンドリアとか、アレキサンダーゆかりの地で見つかるべきでしょう?一体全体、何故、イタリアのナポリなのか???

私の持ち合わせている、かなり自信がある答えを、ここでご披露すると皆さんの楽しみを奪ってしまうでしょうから、後ほどお教えしましょう。

さて、ダリウスは無事逃げ出すことが出来たのですが、戦線の後方のテントに居た彼の母・妻・2人の娘はマケドニア軍に捕らえられて捕虜になってしまいました。後日、ダリウスは彼女らを取り戻そうと和睦を申し出ます。
「既にマケドニア軍が占領した国土に加えて莫大な黄金の身代金を渡すので親族を返してほしい。」
アレキサンダーは拒絶します。「負けた者が条件をつけて和睦を申し出るのは筋違いというものだ。今は私がアジアの王なのだ!」

ここで続けて、妬けのやんぱち、不思議な質問です!
<不思議な質問2>
「捕えられたダリウスの母、妻、娘たちは、その後、どうなったか?」

こんな質問、いくら考えたって何の情報もないあなたに答えられるわけはありませんねえ。調べればすぐに判ることです。私が調べておきましたからブログの最後でお教えしましょう。ロマンチックでその上ドラマチックとも言えますが、作り話の定番とも言えそうな結末を迎えます。

<紀元前332~331年>
イソスIssosの戦いに勝利したマケドニア軍は地中海沿岸を南下し、タイロス Tyros 、ガザGazaを経由してサハラ砂漠にあるアモニン寺院(Amonin Temppelli:シワSiwaの町にあります)を訪れ、アレクサンドリアAleksandria(Alexandria)を創り、いよいよ、ダリウスが待つメソポタミアのガウガメラGaugamelaに向かいます。
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タイアー(Tyre,タイロスTyros)の戦い:紀元前332年
紀元前2500年、フェニキア人の都市として成立したタイアーは植民都市カルタゴを建設した有力都市でした。紀元前585年、新バビロニア王ネブカドネザル2世の遠征軍に包囲され13年間にわたり抵抗した後、服属すると、ペルシャによるバビロニア併合に伴いペルシャの支配下に入りました。そこに紀元前332年、アレキサンダーの東征軍が攻め込んできたのです。
町は直ぐに占領されてしまいますが、沖合1kmの、町と同じ名の、要塞化されたタイアー島に立て籠もって抗戦しました。十分な海軍力を持たなかったマケドニア軍は、島に物資が送り込まれないよう、敵船が寄港する港を封鎖してから陸と島を結ぶ突堤(!)を造り始めます。
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島の城壁内からの敵の攻撃を避けながら、やっとの思いで突堤を完成させると、強力な射出装置で城壁の一ヵ所に突破口を造り、そこから城内に侵入して敵を一網打尽にします。突堤の建設を含めて7ヶ月に渡った戦いのタイアー側戦死者は8,000人で、陥落後さらに2,000人が殺害され、3万人のタイアー市民が奴隷として囚われたといわれています。後にアレキサンダーの許しを得てタイアーは再建されるのですが、政治的にも経済的にも弱体化し、かつての繁栄が戻ることは有りませんでした。

アモニン寺院(Amonin Temppelli:シワSiwaの町にあります)
エジプトに入ったアレキサンダーはペルシャに統治されて不満が溜まっていたエジプト人に解放者として歓迎され、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を貰います。
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ルクソール(Luxor)のTemple of Amenhotep IIIに残るファラオのアレキサンダー「メリアムン・セテプエンラー」

その後、彼はサハラ砂漠にあるオアシス都市シワSiwaを訪れるのです。次のGoogoe Earthで判るように、泉とよぶより湖と呼んだほうが適当と思われるオアシスの町です。
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そこにエジプトでも由緒のあるアモン神殿があるのです。
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一人で神殿に入ったアレキサンダーに神の神託(オラクルoracle)が下ります。
「お前はアモンの息子だ!」
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彼は本当に神の声を聞いたのか?それは彼が知るだけで他の誰にも判りません。真偽は別にして、彼からこの話を聞いた家臣たちは、事があれば彼を「ゼウス・アモン(Zeus-Ammon:いずれも宇宙や太陽を司る神)の息子」と呼ぶようになり、死後に造られたコインの肖像には、アモン神のように、頭に羊の角(つの)2本が描かれたのです。
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またここで不思議な質問です。
<不思議な質問―3>
「アレキサンダーはシワSiwaの神殿で神の神託を本当に受けたのだろうか?」

都市アレクサンドリアの設立:
紀元前332年、ラコティスRhacotisという名の町をアレクサンドリアと改名し、マケドニアの建築家ディノクラティス(Dinocrates)をプロジェクト・リーダーにして都市の建設に着手しました。
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今では地中海の真珠と呼ばれる人口450万人の大都市ですが、古代でも地中海で、いや世界でも一番輝いていた都市と言えるでしょう。ブログ「世界の七不思議:フェロス灯台」で紹介した灯台が造られた交易港でもあり、当時、世界一の蔵書量を誇る図書館には地中海沿岸だけでなくアジアからも知識や哲学を探求する著名な研究者たちが訪れていたのです。

ガウガメラGaugamelaの戦い
紀元前331年、エジプトからペルシャに戻った4万7千のマケドニア軍は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダリオス3世指揮下のペルシァ軍を破ります。戦いで敗れたダリウスは腹心の部下たちと逃亡する途中で部下のベッソスに殺害されました。ベッソスはペルシャ王位を継承しますが、同僚スピタメネス(バクトリアの豪族出身者)の裏切りで暗殺されます。スピタメネスはベッソスの遺体をアレキサンダーに献上して一旦は降伏します。その後、反旗を翻すのですが、仲間に暗殺されてしまいました。ダリウスの怨みとアレキサンダーの怒りが、心無い男たちに相応(ふさわ)しい結末を準備したとも言えるでしょう。
アレキサンダーが若いので敵将が侮(あなど)り、彼を騙(だま)そうと、つまらぬ画策を弄したのかな?とも思います。

<紀元前331-323年(8年間)>
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ペルセポリス焼失:
ダリウス亡き後のペルシャ帝国を制覇するのは赤子の手を捻(ひね)るようなものでした。
またここで脱線ですが「赤子の手を捻る」という譬(たと)えは随分残酷なので、故事でもあるのかな?と思ってネットで調べてみたのですが、「抵抗する力のない者を相手にする。きわめて容易なことのたとえ。」としか見つかりません!mhの見立てでは使われ始めたきっかけは、弱い者いじめをする人を諌(いさ)めるためだったのではないかと思います。「あなたねぇ、赤子の手を捻るようなことをしちゃ駄目だよ!」ってな具合です。それが深い配慮も無く、極めて容易な事の譬えとして乱用され出した、と考えます。

で話をペルセポリスの焼失に戻しますと、当初、アレキサンダーは宮殿を焼き払うつもりはなかったようです。大した抵抗を受けず、ペルセポリスをやすやすと陥落すると、宮殿内の宝物を持ち去りました。部下たちにも報奨をあげなければいけませんからね。一仕事を終えて宮殿内で宴会をしていた時、酔っ払った部下の一人が勢いで「ペルシャを完全に粉砕しよう!宮殿は燃やしてしまおう!」と騒ぎ出し、「それもよかろう」となって火が点けられたようです。なんとも運命のめぐり合わせが悪かったとしか言いようがありません。
(ペルセポリスのパノラマ写真)
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バクトリア王国制覇
ペルセポリスを陥落したアレキサンダーは北に向けて軍を移動し、カスピ海近くまで北上すると東に移動し、バクトリアに入りました。そしてこの地に彼の名を冠する町Alexandriaが沢山生まれることになりました。次の進軍ルート図にも5つのAlexandriaが現れています。
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勿論、最も有名なAlexandriaはエジプトに残された町であることは論を待ちません。

アレキサンダーに征服されたバクトリアは、アレキサンダー亡き後のマケドニア帝国の崩壊を経て、紀元前250年頃、ギリシャ人が統治するグレコ・バクトリア王国Greco-Bactrian Kingdomになります。以降、この王国で仏教が繁栄したことについてはブログ「ガンダーラの不思議」でご紹介しました。しかし、この王国を治めていたギリシャ人の絶対数が少ないことや、周囲の遊牧民族からの度々の攻撃などによって、王国は西暦150年頃には自然消滅します。その後は北方遊牧民のクシャーナ朝Kushan Empireに飲み込まれていきました。

アレキサンダーの死
インド征圧に乗り出したマケドニア軍ですが、遠征を始めて既に10年、インドのハイファシス川Hyphasis River に到達したところで,部下たちはこれ以上の東征はできないと言い出します。アレキサンダーは、インド全体、更には中国も手中にして世界制覇を目指していたようですが、一人で戦いを続けることはできません。已む無くマケドニアに戻ることに合意しました。

インダス川河口からは陸と海上の2つに軍勢を分けて西に移動し、ひとまずバビロンに落ち着きました。
ここからはWikiを引用します。
「アレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシャ、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシャ人を積極的に登用するなど、ペルシャ人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシャ帝国の後継者を宣し、ペルシャ王の王衣を身にまといペルシャ風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。」
「バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日に死去した。」
彼の死については毒殺説もあるようですが、根拠が薄く、重視されていないようです。
なお彼の最後の遺言は部下の質問「大王亡き後は、この帝国はいかにいたしたらよろしいでしょうか」に対して行われたもので「最も強い者に与える」と答えたようです。そんなこともあって、権力闘争が続くことになり、マケドニア帝国は短期間で歴史から消え去ることになりました。

アレキサンダーの墓はどこにあるのか?
考古学者の間では大きなミステリーで、未だに結論が出ていません。信頼できる史実が少ないことが原因ですが、ネットやYoutubeの情報に限れば次の通りです。
1) バビロン:死んで直ぐに埋葬された。
2) マケドニア:遺体は戻され、バルカン半島の生まれ故郷のどこかに埋められた。古代のロイヤルファミリーの墓が見つかっています。アレキサンダーの石棺はまだ見つかっていません。
3) エジプト・アレクサンドリア:考古学者の間では最も支持されている説です。生まれ故郷のマケドニアに向けて運ばれていた遺体は、エジプトを統治していたギリシャ人によって、シリア辺りで行先をエジプトに変更させられました。ナイル下流の町メンフィスの寺院に埋葬され、数十年ほどしてから、当時のエジプト帝国の首都でアレキサンダーが愛した町アレクサンドリアに埋め直されたといいます。信憑性は別にして、この辺りの経緯を記した資料も残っているようです。
ブログ「クレオパトラの不思議」でもご紹介しましたが、ギリシャ人が統治していたアレクサンドリアの町の地下には水の確保を目的とした地下室や、埋葬目的の寺院が沢山ありました。
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アレキサンダーの遺体も、その後のクレオパトラの遺体も、地下の寺院で眠っている、と言うのです。
4) エジプト・シワSiwa:アレキサンダーが太陽神の息子だとの神託を受けた町で神として埋葬されたという考えでしょう。
5)エジプト・バハリヤ・オアシスBahariya oasis
アレクサンドリアの南約320kmの砂漠の中の村です。
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1996年、オアシスの村バハリヤで、驢馬(ろば)が何かに躓(つまず)きました。掘ってみると幾つもの黄金の棺桶が出土したのです。
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以降「黄金のミイラの谷」と呼ばれているようです。
あのDr.ザヒ・ハワスZahi Hawassによれば、近くの古いアモン神殿の壁にファラオ「アレキサンダー」のレリーフがあるので、彼の墓もあるのではないだろうか、とのことです。
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しかし、アレキサンダー大王たるものの遺体が他のギリシャ人と一緒の部屋や穴の中に眠っているというのは考え辛いのか、剛腕で名を馳せているザヒ博士も、流石に「ここに間違いない!」とは仰っていません。

アレクサンドロス3世、またはアレキサンダー、またはアレキサンダー大王、の生涯を駆け足で辿るブログは彼の墓に関するお話しの終了をもって完結となりますが、もう一つ残っている疑問がありました。

皆さんは次の大理石の胸像は誰だと思いますか?
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そう、勿論、アレキサンダー大王ですよね?しかし、何故、これが彼の胸像だと言われているのか?胸像のどこかに彼の名が記されているとでもいうのか?定かではありませんが、恐らく彼の名は記されていないと思います。もし記されていたら、その印の写真証拠などが解説付きで現れていて、記憶力が悪いmhも覚えているはずです。

名前が記されてもいないのに、この像がアレキサンダー大王のものだと言われる所以(ゆえん)はなにか?そもそも、この胸像は何処で見つかり、今はどこにあるのか?

どうですか?皆さんは判りますか???

実は、胸像が見つかったのはエジプト・アレクサンドリアです。造られたのは紀元前2-1世紀。大英博物館British Museumが所有しています。像の特徴からヘレニズム時代Hellenistic eraのものに間違いないようです。

Wiki:ヘレニズム(Hellenism)
ギリシャ人(ヘレネス)の祖、ヘレーン(女神)に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシャの文化が融合した「ギリシャ風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス3世(大王)(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。

大英博物館Websiteの解説によると次の通りです。
「征服王の若さあふれるイメージ:記録資料(場合に寄れば資料と呼べない物かも知れない)によればアレキサンダーは、彫刻家リシッポスLysipposや画家アペレスApellesなど、有名な芸術家にだけ、自分の姿の像や絵の製作を許していた。代表的なポーズと言えるものは発見されてはいないが、貴石やコインに描かれた肖像を含め、多くの素材で彼の姿が表現されている。これらの肖像は全て、彼の死後、かなりの年月を経過してから製作されたもので、いずれも凡そ似た雰囲気を持っているものの、その様相は様々である。アレキサンダーの肖像は、いずれの場合でも、髭(ひげ)を綺麗に剃った顔で表されている。彼以前のギリシャ人は髭を付けていたことから見ると革命的な変化と言える。この、高貴な人物でも髭を付けないというファッションは、ローマ皇帝ヘイドリアンHadrianまで、凡そ5百年の間、ヘレニズム時代の全ての王やローマ皇帝の間で流行した。頭に布のバンドを巻き、それを最も重要な冠としたのはアレキサンダーからであり、これはヘレニズム時代の王の象徴となった。英雄として表現されるアレキサンダーの古い時代の肖像は、大英博物館の胸像のように死後かなりの時間が経過してから造られたことから、更に成熟した男として現されている。そして時代が新しいものほど若く、しかし恐らく神々しい特徴を持っている。髪は長く、少し前屈みで少し目を上に向けている力強い姿は、記録に残されている記述に一致する。
写真の像は、紀元前331年にアレキサンダーによって造られた町アレクサンドリアで見つかったものだ。この町には彼の墓がある(と断言していました!!!)。アレクサンドリアは永く続いたヘレニズム王朝の一つプトレマイオス朝の首都だった。プトレマイオス1世(紀元前305-282)の時代から、アレキサンダーは神として、また王朝の創始者として崇拝されていた。」

さて、それでは最後になりますが不思議な質問とmhの回答をご確認下さい。

<不思議な質問1>
「教科書にも載っている有名なアレキサンダー大王のモザイク画は、何故、イタリアのナポリで見つかっているのか?」

mh回答:
実はオリジナルの絵はマケドニアに残っていたのです。このマケドニアはローマ共和国(ローマ帝国になる前のローマ)の属国になったんですねぇ、アレキサンダー亡き後で!
紀元前215年に始まった第一次マケドニア戦争、その後の第二次、第三次、第四次マケドニア戦争を経て、紀元前148年、マケドニアはローマ共和国の完全なる属州になりました。その後、ローマ人にも崇拝されていたマケドニアンの大王アレクサンドロス3世に関する資料はローマに持ち出されてしまったのでしょう、これはmhの推察です。持ち出された資料の中には絵画や、ひょっとするとモザイク画もあったのです。モザイク画は綺麗に復元され、ローマの執政官たちのリゾートだったナポリ及びその近くのポンペイで復元されて残された、というのがmhの到達した結論です。

<不思議な質問2>
「捕えられたダリウスの母、妻、娘たちは、その後、どうなったのか?」

mh回答:
丁重に保護されていました。次の絵は画家セバスチアーノ・リッチSebastiano Ricciが歴史書に残された逸話をもとに描いたもので、戦場に残されていたペルシャ側のテントにいるダリウスの家族と面会する場面です。同僚の将軍ヘファイスティオンHephaestionと二人で訪れたアレクサンドロス3は、伏せて慈悲を乞うダリウスの母シスガンビスSisygambis、アレキサンダーを頼るような眼で見つめるダリウスの妻スタテイラ1世Stateira I、その後ろに控える2人のダリウスの娘スタテイラ2世Stateira IIとドライプテイスDrypteisたちに、丁重な挨拶をしています。
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伏せて黄色いガウンを着ているダリウスの母シスガンビスは自分の近くに立つ将軍ヘファイスティオンがアレキサンダーだと勘違いして、彼に向かい、命乞いをしています。直ぐにアレキサンダーは隣に立つ男だと気付き、狼狽しました。するとアレキサンダーは彼女に言ったのです「母上殿、あなたは間違ってはいませんよ。この男もアレキサンダーです。」

その後、この家族はアレキサンダーと共に旅を続けます。ゴーガメラGaugamelaの戦いでは、軍の後方の移動式の家に居ました。息子のダリアス軍の騎馬兵がマケドニア軍を攻め、近くまでやって来ても、ダリアスの母シスガンビスは慶びませんでした。彼女はイソスの戦いで家族を捨てて逃げた息子を許していなかったのです。ゴーガメラの戦いの後でダリアスが殺されると、アレキサンダーは葬儀のために彼の遺体を母親の元まで送り届けました。葬儀の席で、彼女は言いました「私はたった一人、息子を持っている。その息子とはアレキサンダーで、ペルシャの全ての王です。」
アレキサンダーが死んだのを聞いた彼女は部屋に閉じこもり、なにも食べませんでした。悲しみと断食の中でアレキサンダーの死後4日目に亡くなったとのことです。ダリアスの妻は紀元前332年、出産の時に亡くなりました。父親はダリアスではないだろうとのこと。娘の一人スタテイラStateira IIはアレキサンダーの妻になり、もう一人の娘ドライプテイスDrypteisは彼の盟友ヘファイスティオンの妻になりました。

<不思議な質問3>
「アレキサンダーはシワSiwaの神殿で神の神託を本当に受けたのだろうか?」

mh回答:
無神論者のmhですが「彼は神託を受けたに違いない!」と結論します。この理由を正確にお伝えするとしたら、数時間を割(さ)いてその根拠をご披露しなければなりません。それでは皆さんもお困りでしょうから今回は、そして恐らく今後も、これについて触れることは控えたいと思います。えぇ?それじゃあ不思議な質問の答えにはならないでしょう!って仰るんですか?そこまで仰るのなら、理由の一端をご披露しましょう。
「そもそも神とは何か?」これが回答に到る最大のポイントです。この質問に答えられるのなら、その存在、つまり神はいるのか?という質問についての答えは簡単に得られます。私は無神論者ですが「神は存在する!」と言い切る自信がありますから(???)、アレキサンダーが神託を受けたと言うのなら、それは事実であろう、と結論するのです。
(完)

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mh徒然草―54: 日本の漁業

今日8月5日、NHK朝7時のニュースによれば今年のサンマは昨年に続いて不漁とのこと。漁獲量はめっきり落ちて、15年程前の2百分の1(!)くらいのグラフが映し出されていました。サンマは庶民の高嶺の花の魚になりつつあるようです。

日本のサンマ漁獲量激減の理由は明確です。日本は小型船で近海のサンマを狙いますが、中国、韓国、台湾は、公海で操業します。台湾では高雄が主な母港のようですが、そこで20社を束ねる社長をNHK記者がインタビューしていました。全長70m位の漁船が完成し、内部を見ると冷凍室です。台湾にはこのサイズの漁船は90隻以上あるようです。公海での操業方法ですが、船を使い分けています。網(あみ)などを使って魚を獲る漁獲専門船は公海上に半年ほど滞留し、漁獲だけ行います。一方、搬送専門の冷凍船は、漁獲専門船を巡って魚を自船に移し替え、台湾に持ち帰ります。こうして、沢山の船が遠い漁場で半年間も駐留したまま操業に専念するので漁獲量は上がります。移動は少ないから燃料の無駄もありません。一方、獲(と)った魚は大型冷凍船が回収して持ち帰りますから新鮮です。その結果、台湾ではサンマ1匹が40円くらいの安さとのこと。このようにして回遊魚のサンマのほとんどが公海上で効率よく大量に捕獲られてしまい、日本近海に来る魚の数が激減しているのが日本のサンマ漁の衰退原因だといいます。

日本のサンマ魚漁船は小型船ばかりでサイズは台湾の漁船の50分の1程度です。取った魚は直ぐに港に持ち帰らねばならないし、遠くまで出かけると燃料費が嵩(かさ)むから商売にならないということで、近海でしか操業しないんですねぇ。

日本の漁業を守ろうと、政府は、太平洋を囲む各国と北太平洋漁業協定を結び、資源保護を根拠に各国の漁獲量を規制しようと働きかけているようですが、いつ、どんな方向の決着が得られるか、見通しは全く立っていないようです。仮に資源保護となれば、近海での漁業はできなくなる可能性すらあります、国別に漁獲量を決めるっていうのなら日本の取り分も今より増える可能性はありますが。

日本の漁業は後継者がいないこともあると思うんですが、漁業に投資できる人や資金が少なく、結局、衰退していくしかないと思います。鮪(マグロ)も、下北半島の大間のマグロでないとねぇ、などと拘(こだわ)る人も多いようですが、大海を回遊しているうちに中国や台湾、韓国に先取りされて大間のマグロ漁獲高も減り、国産(?)マグロはどんどん高価になって、庶民は「中国産だけど仕方ないか」などと愚痴をこぼしながら、それでもあまり安くない輸入の冷凍マグロを買って食べることになります。

TPP環太平洋連携協定Trans-Pacific Partnershipは各国の利害が対立して譲らず、共同会見も開けぬまま会合が終了しました。米(こめ)はどうするか、秋刀魚やマグロはどうするか、など自国の都合だけで決まらないことが明らかになりつつあります。世界の中で日本の立ち位置をどのようにしたらよいか、日本の農業や漁業をどうするかを、農業や漁業の苦労を体験したことがない人の集団である国会や官庁に任せておくと、農民や漁民は飼い殺しで、補助金を恵んでもらって暮らしているうちに後継者は育たないまま衰退してしまうと思います。ならばTPPの理想である「関税ゼロ」を目指し、それでもやっていける農業や漁業を育成することを考えるべきだと思いますが、それには自由競争が前提ですから、ああしちゃだめ、こうしなけりゃだめ、など手かせ足かせの規制が多い日本では、とてもやっていけないよ、ってことになり、なんとも仕様がありません。

安くておいしい魚や、果物や、野菜を食べながら少ない年金で暮らしてゆくなら、やっぱ、日本脱出以外の解はなさそうです。

NHKニュース記事のオンライン版は次のURLでご確認下さい。
「サンマに異変 「公海」で何が…」
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/08/0805.html

Elvis Presley - My Way (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=PP8HO9TGkbw
(完)

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古代ギリシャの不思議

今回は「帝国を技術する:ギリシャ」(Engineering an empire; Greece)をお送りします。
ハリウッド映画「ロボコップ」で主役を演じたPeter Wellerピーター・ウェラーがプレゼンテイターのYoutube Film第二弾です。
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古代ギリシャ。西洋文明発祥の地。
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1千年以上もの間、パワフルでカリスマ的な人々が過去に類がない斬新なアイデアで自然を管理し、新たな技術を創造し、新たな文化を開花させた。巨大な石を組み上げて造られた建造物は神の仕業としか思えない出来栄えだった。これらの技術や文化は何人かのリーダーの指導力の結果として生まれ、帝国としての格調を持つレベルに昇華されたものだ。しかし、ギリシャが生んだ、この輝かしい文化と創造性もギリシャ人同士の戦いの中に埋没し、黄金時代は終末を迎えてしまう。その歴史を辿ってみよう。

紀元前480年9月、1.6Km程の狭い海峡の海は静かな朝を迎えていた。しかし、直ぐ歴史的な戦いが繰り広げられることになる。海は血で染まるのだ。
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都市国家の集合体だったギリシャは偉大なペルシャ帝国から直ぐ手が届く所にあった。
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当時、ペルシャは多民族多文化国家で、過去の歴史を見ても世界最大の帝国だった。
ペルシャの壮大な軍勢は今まさに水平線の彼方から攻め上ろうとしていた。15万の軍勢と700隻の軍船がギリシャを帝国の一部に組み込むべく攻めて来たのだ。

迎え撃つはギリシャ都市国家の同盟軍だ。
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ギリシャでは、何年も前から一人の男が軍勢を統括し、ペルシャ軍を迎え撃つ準備をしていた。彼の名はテミストクレス。
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(テミストクレス:紀元前525年頃~460年頃)
アテナイ(アテネの古い名称)の政治家で軍人でもあった。アテナイのエポニュモス・ アルコン(執政官)を務め、アテナイをギリシャ随一の海軍国に育て、ペルシャ戦争で勝利を導いた。
(1955年から使われていた旧100ドラクマ紙幣に肖像がありました。)

私はピーター・ウェラー。今、ギリシャの海岸にいる。この沖で世界の超大国ペルシャと都市国家ギリシャの海戦が行われた。ギリシャ軍のリーダーだったテミストクレスは、ギリシャ都市国家群の勢力を一つにまとめ、ペルシャを迎え撃つ体制を整えていた。ギリシャが持つ戦艦トライリーンの戦闘能力は抜きん出ていた。
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文化も信仰も言語も同じ都市国家の集まりだったギリシャは、互いに切磋琢磨して高い技術や戦闘力を持っていたのだ。しかし弱点もあった。己の都市国家の利益に終始する傾向があったのだ。
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そんなギリシャを取りまとめることが出来たのはテミストクレスだけだった。
彼はいつもアウトサイダーだった。
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しかし、彼はそれを武器としていた。都市国家間の利害の調整に奔走するようなことはしなかった。ギリシャとしての戦力を強化することだけに特化していた。

10年前、ギリシャのある都市国家がペルシャの小軍団に侵略されたことがあった。マラトンの戦いだ。しかし、この時はギリシャ連合軍が勝利を収めていた。
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テミストクレスはこの経験を今回のサラミスの戦いでも活かそうと考えていた。

Wiki:マラトンの戦い(英語:Battle of Marathon)
紀元前490年9月12日(諸説あり)に、ギリシァのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシャ王国の遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い。

ペルシャは陸の戦いは得意だが海戦が苦手なことを彼は知っていた。ペルシャの宗教でも海水は悪魔だと見なされていた。

テミストクレスは200隻のトライリーン(trireme三段櫂船(さんだんかいせん))を建造し、訓練も積み、世界最強ともいえる海軍力を整えていた。全長39mで先端はブロンズ(青銅)で覆われ、高速で敵船に体当たりして沈めるのがこの船の戦法だった。
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62人が上段、中段と下段には夫々54人の漕ぎ手がいた。
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ご参考:実物大の復元船です。
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最下段のオール部は海面から50cmしかなかった。
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8~9ノット(秒速4~4.5m)という、当時では驚くべき速度でミサイルのように突撃した。漕ぎ手は好く訓練され、効率よく船を操(あやつ)っていた。ペルシャ迎撃の準備は数年という短期間で成し遂げられていたのだ。
(1ノット :1時間に1海里進む速さ。1海里(国際海里)=1852メートル。)

紀元前480年春、ペルシャの大軍はギリシャに向けて出発した。
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テミストクレスは、ペルシャ船団はギリシャの2倍との情報を入手していた。ずる賢い戦術家で作戦にも長けていた彼は、狭い海峡を戦場にする策を建てた。
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サラミス海峡だ。
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狭い所なら攻撃を集中できるので少ない船で敵を打ち破ることが出来る!
Google Earthのサラミス海峡情報です。
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彼は外交官や商人などから情報を集め、ペルシャが風の中での戦いを好むことを知っていた。間者を派遣して「ギリシャ軍はバラバラだ!」との噂を流すと、ペルシャ軍は直ぐにこの餌に食い付いた。早朝、奇襲しようとペルシャ艦隊が風に乗って海峡に進んでくると、そこには整然と並んだギリシャ艦隊が待ち構えていたのだ。
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3万4千の軍勢と200隻のギリシャ艦隊は、ペルシャ軍の艦船が入り込む隙間もない隊列で進んできた。ペルシャ軍は完全に罠にはまってしまったのだ。
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たった1日の海戦でペルシャ軍は惨敗を喫する。ペルシャが失った船は200隻。一方のギリシャは40隻だった。ペルシャ兵は溺れ死ぬか、近くの浜で待ち構えていたギリシャ兵に刺殺された。
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この戦いの後、テミストクレスはヒーロとして讃えられた。しかし彼の野心と欲望は敵を造ることになった。アテナイの毎年の集会ではオストラシズムと呼ばれる不人気投票が行われていた。もっとも破壊的で危険な政治家を選出するのだ。選ばれると10年間、追放される。
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Wiki:陶片追放(とうへんついほう、ギリシャ語: オストラキスモス)
古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。英語オストラシズム(Ostracism)という名称でも知られる。広義には集落や集団からの追放を指し、日本の村八分と近いものと解釈される。
オストラシズムに実際に使われた陶片。
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「ネオクレスの子テミストクレス」を意味するギリシャ語が刻まれている。

彼は政敵に嵌(はめ)られたのだ!追放された彼は二度とアテネを見ることは無かった。

Wikiによる後日談:テミストクレスはペルシャ戦争での功労を以って、必要以上に名誉と権力を欲したことから信用を失い、陶片追放によってアテナイを追われた。その後アルゴスに赴いたが、政敵によって反逆罪の罪に問われたのと、スパルタの将軍パウサニアスの反乱に加担したとの嫌疑をかけられたため、ケルキュラに落ち延び、エピロス、マケドニアを経由して最終的にペルシャに亡命した。ここで国王に謁見するが、会ったのはクセルクセス1世とするものとアルタクセルクセス1世とするものがある。その際、テミストクレスはサラミスの海戦直後に恩を売ったことを持ち出し、ペルシャ王から友好的に迎えられた。その後彼は一年間の暇乞いをしてペルシャの言葉と慣習を学び、その後あらためて小アジアのマグネシアを与えられた。彼はペルシャ王からアテナイ遠征のための艦隊を率いるよう命じられたが、祖国に弓を引くのを好しとせず、毒を飲んで自殺した。

紀元前1300年頃、古代ギリシャ語を話す人々がギリシャの主要な土地を支配していた。彼等はマイソニアン(Mycenaeanミケーネ人)と呼ばれる。
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彼等の戦や砦はギリシャの偉大な文明の一角を形成した。
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首都マイシーネイ(Mycenaeミケーネ)には150年を要して建造された砦があった。
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リーダーはアガメムノンと呼ばれる男だ。吟遊詩人ホメロス(英語Homer)の2つの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』Iliad and the Odysseyに記されている人物だ。
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この2つの叙事詩はギリシャ人にとっては聖書のようなものだった。本には、どのように生きるか、宗教とは、人間とは何か、が書かれていた。「ヘレンの誘拐」「アガメムノンによる10年間のトロイ戦争」、「トロイに侵入し破壊するための大きな木馬」という物語も記録されていた。
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アガメムノンがトロイ戦争で挙げた成果は英雄的とも言えるものだ。
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しかし帰国すると女房に殺害された。
(mh:女房の恋人に殺された、と3月20日公開のブログ「アトランティスはエーゲ海にあった?」で紹介しています。やっぱ将軍を女房が刺殺するってのは無理がありますから、愛人の男が!だと思います。指図は女房がしてますから、主犯ってことでよいかとは思いますが。)
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「トロイ戦争の物語は、最初は戯言(ざれごと)だと思われていた。しかしホメロスはやはり歴史家だった。物語は事実だったのだ。」
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ここがマイシーネイだ。首都だった。ホメロスが記録に残したアガメムノン王が統治していた所だ。
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マイシーネイの砦で最初に目につくのは城壁だ。マイシーニアンの高度な技術を示す、とても印象的な構造物と言える。
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10トンもの重さの石を組み上げて造られた城壁も残っている。石と石は全く隙間無く積み上げられている。
砦の中にライオン門と呼ばれる門がある。マイシーネイ砦の主門だった。
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基礎のアーチ状の石に載った2匹のライオン。頭は無くなっているが、昔は門の外に向けられていた。この門を入る人はマイソニアンのパワーを感じていたことだろう。
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ライオン像が収まっている円錐状の石組みはコーベル・アーチcorbel arch(または片持ち梁式曲線)という。
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横に、水平に積み上げられた石が倒れてしまわないよう、カウンターウェイトを載せて曲線を維持するのだ。
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マイソニアンの革新的な技術で、世界でも初めての建築様式だった。
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彼等はこの構造を建物内部にも取り込んだ。コーベル・ドームだ。
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用途は一つしかなかった。墓だ。
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マイソニアンには直線的な構造物が多い。従って、リーダーたちがあの世で暮らす家に円形の建物が採用されたのには特別の意味があったのだ。ドームはソロスと呼ばれていた。マイソニアンの技術の結晶だった。
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墓は砦の外の丘の斜面にいくつも造られている。

「これが墓に入っていくためのトレンチ(溝)だ。両側には見事に積み上げられた高い石壁がある。」
円錐状の建物内の石壁は研磨されて光り輝いていた。

3200年前、訪問者は見事に装飾されたトレンチを歩いてドームに向かった。入り口の両側にはジグザグ模様の柱が立っていた。
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両側の石壁の石は75cmの厚さがある。
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円錐ドームは33層の石のリングを積み上げて造られていた。完成後、壁は磨かれ、輝きを放っていた。
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石組みが終わると、外部は土で埋められ、土の圧力でドーム形状を維持した。
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完成した建物は半円状の丘のように見えた。
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コーベル・ドームの模式図です。
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Google Earthで調べると、コーベル・ドームの墓はマイソニアンの砦の外に複数個見つかります。
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天井が崩落し、大きな円形の窪みになったものもあります。
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しかし、この文明は紀元前1100年頃、突然、姿を消してしまう。新たな民族、例えばメソポタミアの騎馬民族、が攻めて来たという見方もあるが真相は謎のままだ。いずれにしてもマイシーネイの崩壊でギリシャ文明は消滅し、その後4百年以上の間、暗黒時代dark ageが続くことになった。

紀元前8世紀になると独立都市国家が出現し繁栄を極めた。都市はそれぞれの個性を築き上げ、経済的、軍事的、技術的な名声を競い合っていた。
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特にサモス島にはギリシャの技術の粋が残されている。山を動かし、市民のために水を引いたのだ。
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マイソニアン文明が消滅してから4百年後、スパルタ、アテネ、コリンズ、シーベスなど、百を超える都市国家がギリシャに出現していた。
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民主主義が生まれる前の古代ギリシャでは、これらの都市国家はタイラントと呼ばれる一人の統治者によって導かれていた。
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紀元前540年頃、ポリュクラテスという名のタイラントが東エーゲ海の島サモスにやってきた。
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ペルシャとエジプトという2つの大国の間で、どちらにも従属せずにギリシャ独自の地位を確保するには、小アジア(当時はペルシャが統治)に近いサモス島にギリシャの力を結集しておくことが重要だと、彼は考えていたのだ。
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ポリュクラテスは100隻の戦艦トライリーンを建造し、サモス近くの海域の覇権を確保した。以降、サモスはギリシャの栄光と権力を維持する重要な島となった。ひき続いて島に防御要塞を築いた。生活に必須の飲み水も確保しておかねばならない。そのための泉はあったのだが高さ270mの「カストロの丘」で町と隔たれていた。
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都市と泉をどのような水道橋で結ぶのか?丘を迂回して水道橋を造る案は選択肢には成り得ない。敵に破壊されてしまえばそれまでだからだ。
そこで技術者ユプリノスを呼び寄せて検討させた。彼はカストロの丘を貫通する水路を造る案を持ち出す!
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トンネルの建設は時間がかかりそうだ。防衛上、まずい!そこで工期短縮を図るため、丘の両側から掘り進めることにした。これには数学的、技術的な問題が伴っていた。少しでも方向や高さに差が出れば、2つのトンネルは途中で出会うこと無くすれ違う。それに、トンネルは水を運ぶ水路なのだから、適度な傾斜が必要だ。
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ユプリノスは自信を持っていた。彼の方針で、トンネルは丘の両側から、同じ高さで水平に掘り進められた。当時、高度な計測技術が無い中で、丘の中央で2つのトンネルを出会わせるのは難しかったはずだ。
ユプリノスはまず、丘の周囲を垂直な直線に沿って計測し、掘り進むべき方向、つまり直角三角形の斜辺の方向を算出した。
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1.8mx1.8mの主トンネルを貫通させ、その後、勾配をもつ水路(AQUEDUCT)に仕上げることにした。トンンネル内の工事は死と背中合わせの危険を伴った。
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しかし、若干の補正が必要だったものの、両側から掘り進んでいた工夫は、ユプリノスが見込んでいた通り、丘の中央で出会うことになった!
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その差は60cmしかなかった。トンネルの全長1050mに対し、誤差は1/8%以下だ。

この驚くべき技術が遂行された瞬間はギリシャの栄光の時だったのかもしれない。しかしポリュクラテスの政治的な運命は、それほど輝かしいものではなかった。
小アジアの海岸の近くの国を治めていたペルシャのリーダーは、彼がいる限りペルシャにとっては不都合が多い、ということで、彼を捕え、磔(はりつけ)にした。紀元前800~500年に出現した大勢のタイラントの中の一人でしかなかったのだが、ポリュクラテスは、過去にない卓越した統治力を発揮した。しかし、大勢の人民を一人のタイラントが統治する時代は変わろうとしていたのだ。

そんな中で、アテネは世界の歴史を変えようと歩み始めていた。これを推し進めていたリーダーがペリクレスだった。
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今も残っている、誰もが知る彼の功績がある。技術の粋を集めてアクロポリスの丘に建てられた寺院、パルテノンだ。世界の最高峰にある傑作の一つだろう。
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紀元前480年、テミストクレスがサラミス海峡でペルシャ軍を打ち破っていた。彼はアテネを助けただけではなく、それよりも25年前に生まれたばかりの民主主義を育てることに貢献したのだ。アテネでは一人の統治者(タイラント)による国家体制は終息し、豊かで軍事力も商業力も技術力も発想力も優れた国家になっていた。なかでも優れたリーダーがデモクラット(民主主義者)で卓越した知識者だったペリクレスだ。彼は芸術を奨励すると同時に軍事の充実にも注力した。
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彼はアテネの上流階級の出身だった。家系の力を背景に、リーダーに必要な政治的、軍事的な力を身に着けていった。
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若くしてストラティカルという政治や軍事のリーダー10人の一人に選ばれた。しかし彼は直ぐにアテネで最も権力と影響力をもつ政治家になる。
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彼は典型的な政治家で、自分が行う全ての行為には確信を持っていた。そしてそれが確実に遂行されるよう力を振るった。紀元前461年、彼はアテネのリーダーに選ばれた。テミストクレスが建造したトライリーン船団のおかげで、アテネは、地中海の東領域で他の追随をゆるさぬ軍事力を発揮した。
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ペルシャの力を排除した歴史があるにもかかわらず、周辺には侵略を図ろうとする蛮族が多かった。そこで紀元前478年、エーゲ海の都市国家と共に、相互協力防衛ラインを設立した。
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デロス同盟と呼ばれる、古代エーゲ海のNATOのような軍事同盟だった。

Wiki:デロス同盟(デロスどうめいDelian League)
アケメネス朝ペルシャの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイを中心として結成されたポリス間の軍事同盟。アテナイを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。(黄色が同盟国)
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「紀元前450年、アテネは議論の余地がない程に抜きん出たデロス同盟のリーダーとなり、獲得した富を町の巨大なプロジェクトに注入した。」
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当時、女神アシーナはギリシャ、特にアテネで崇拝された知力の神だった。
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Wiki:アテーナー(アシーナ)
日本語では主に長母音を省略してアテナ、アテネと呼び、表記される場合が多い。英語ではAthenaアシーナと呼ばれる。
知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシャ神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと並んでアプロディーテーの神力を及ぼさないギリシャ神話の三大処女神として著名である。
女神の崇拝の中心はアテナイであるが、起源的には、ギリシャ民族がペロポネソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシャの地に固有の女神だが、ヘレーネス(古代ギリシャ人)達は、この神をギリシャの征服と共に自分たちの神に組み込んだのである。

ギリシャにはアシーナを祀る多くの寺院があった。ペリクレスはこれらを遥かに凌ぐ壮大な寺院を造ることにした。パルテノンだ!
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ペリクレスはアクロポリスの丘にあった古く寂(さび)れたアシーナ寺院を基礎から造り変え、そこにパルテノン神殿を築いた。
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工事は数千人の工夫と、多くの技術者を要した。3千万ドラクマという、それまで類のない資金を投入した。今なら数十億ドル(数千億円)だ。
(mh:東京国立競技場の建て替えが話題になっていますが、そのお金があればパルテノン神殿が造れることになります。どっちの方が世界的な価値が高いかは、誰にも明白です。)
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この巨大な建物の工事は紀元前447年に始まった。フットボール競技場の2/3の長さだった。
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外側の寸法は長さ66mx幅30m。16Km離れたクオーリー山(石切り山?)から石材を切り出す仕事から始まった。
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3万トンの大理石が必要だった。これらの石を丘まで運ぶのは寺院建設に必要な労力の半分でしかない。
重さ10トン以上の石をどんな方法で積み上げるのか、技術者はその答えを準備しなければならなかった。しかし、答えは事前に出ていたのだ。
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紀元前447年7月、寺院の組立が始まった。完成した寺院はアテネこそが文化的にも政治的にも経済的にも最も優れた、民主主義を産み出した、最強の軍事力を備えた都市だということを証明するものだった。「アテネが世界のリーダーなのだ!」これを知らしめることがペリクレスの狙いとするところだった。
6つの柱と13の6角形の柱を各辺に持つそれまでの寺院とは異なり、8x17の八角形の柱を基本としていた。
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それは従来と比べて奇妙な印象を与える寺院だと言えるだろう。大きな寺院を建てようとしたら、柱の大きさや高さを大きくしてスケールアップすればそれで十分だ。柱の本数を変える必要はない。しかしパルテノンは違っていたのだ!

柱は11個の円柱を積み上げて造られた。その各々は微妙な曲線を描いていた。
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各々の円柱の端面には4つの同心円と、中央に一辺が10~15cmで深さ8~10cmの正方形の溝が掘られ、溝にはまり込む木製のプラグと金属製のピンが準備された。これらを使う事で円柱の複数の円柱の中心を完全に一致させて積み上げることができた。
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1本の柱に必要な11個の円柱は63~119トンの重量があった。これらを積み上げるため、円柱に4つのボス(boss)と呼ばれる突起が加工された。このボスにロープを懸(か)け、クレーンのような機械で吊り上げた。10トンの石はその百分の1の力(100Kg)で持ち上げることが出来た。
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建物にはモルタルのような隙間を埋める材料は使用されなかった。それを実現するには石同志が隙間なく密接しなければならない。そこで2つの長方形の大理石の石を強固に繋ぐため、両端がT型の金属ロッドが使われた。
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組み上げが終わると円柱のボスは綺麗に削り取られ、磨きがかけられた。

「パルテノンには直線はない」という言葉がある。それは人間の幻覚効果を狙ったものだった。床、柱、柱の上の三角形の梁、これら全ては直線とは言えない形で造られている。
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まずは基礎を見てみよう。よくみれば、水平ではない。中央部で少し膨らんだ流線型だ。
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また柱の各々には20の溝が掘られ中央方向に少し傾いていて、その上、内側にも傾いて立っている。
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この建築方法はインテイサスと呼ばれる。
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もし柱や床が完全に水平か垂直に造られていたなら下から見上げた建物は上が広がって見えるという不安定感を見る人に与えただろう。それを補正するため、柱は全て内側に傾けて建てられたのだ。
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パルテノン建設の主な目的は女神アテーナーの像を収容することだった。
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建物を造る費用とほぼ同等の費用が、女神像を造るために使われた。像の高さは10~11mで、大理石と黄金が使われた。その他にも100を超える実物大の人や動物の像が収められていた。壁には多くのレリーフが彫られていた。
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4年に一度、アテーナーを祝福する行事が行われていた。
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レリーフや像は塗料で鮮やかに装飾されていた。

パルテノンは単なる寺院ではなくアテネの栄光を象徴する建物だった。しかし国力を投入したこのプロジェクトを誰もが称賛していたわけではない。単なる個人的栄光を誇示するだけのものだという意見もあった。寺院に資材をつぎ込むのは馬鹿げているとの意見もあった。かのプラトンもこの寺院は好きではなかった。
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ペリクレスがアテネの支配力を強化すればするほど、彼の政敵は彼の行動に疑いの目を向けるようになった。やがて彼等はペリクレスの同僚を攻撃の材料にした。優雅で知的な女性アスペイジアだ。

アスペイジアはペリクレスの指揮下にあるアテネの議員団のメンバーだった。メンバーはタイラントと比べたら格下だ。しかし彼女は違った。
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ペリクレスは彼女をパートナーとして取り扱った。それで彼女は影響力を増すことになった。2人は誰もが知るカップルになり、あるスキャンダルによれば、公の場でキスしあう2人を見た人がいるという。それは古代アテネでは考えられないことだった。

建築からほぼ15年後の紀元前432年までに、パルテノン神殿は完成を見た。それはペリクレスが望んでいた通りの立派な建物だった。アテネの権力を象徴するものだった。しかし皮肉にも、寺院の完成と共にアテネの栄光は揺らぎ始める。永年の宿敵スパルタが頭角を現し始めてきたのだ。
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紀元前431年、スパルタはアテネに向けて出陣した。
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2年の間、アテネはスパルタと対等に戦っていた。しかし、見えない敵が現れる。
繁栄と共に外部から多くの人間がアテネに出入りするようになっていたためだろう、伝染病が流行して大勢の死んでしまったのだ。ペリクレスは60歳にならんとしていた。幸い伝染病からは逃れたが、伝染病と戦いの2つの重荷の中で紀元前429年に亡くなった。ペロポネソス戦争として知られるアテネとスパルタの血にまみれた残虐な戦いは更に25年続き、紀元前404年、アテネは崩壊した。

「ペリクレス時代の終焉はアテネの支配的な立場の終焉だった。それはギリシャ文明の終焉ともなっていく。」
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「皮肉なことに、この戦いの後のアテネを支配した2人の男はアテネの人間ではない。この2人は世界にも名を知られる男達だ。一人はマサドニアのフィリップ二世だ。もう一人は、彼の息子で、ナポレオンやジュリアスシーザをも凌ぐ帝国を築いた男、たった33年で世界を変えた男、自らを神だと宣言した男、すなわちアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)だ。」
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以上でフィルムの紹介は終わりです。
Greece: Engineering an Empire
https://www.youtube.com/watch?v=5d2-BmEa_YI

かの偉大な、世界における近代文明の魁(さきがけ)と言えるギリシャの興亡は、数人の英雄にスポットを当てながら、たった44分のフィルムで紹介されてしまいました。偉大なギリシャの5百年を45分で解説する、大雑把で中身が無いブログだったとのお叱りが聞こえてきそうです。

全くご指摘の通りで、今回はふれられなかった歴史や偉大な人物、文化、建物、神話などが山ほどありますので、必ずや近いうちにご紹介させて頂くつもりですが、ギリシャが歴史で名を馳せたのは、フィルムで紹介された紀元前5世紀頃までとも言えます。その後はアレキサンダー大王のマケドニア(これはギリシャの都市国家の一つだったのですが)に編入され、東ローマ帝国に統治され、オスマントルコの支配下に入るという歴史を経てから、やっと1830年になって、英国、フランス、ロシアの力を得てギリシャ王国として独立するまでの約1900年間、「ギリシャ」は完全に消えてしまっていたのです!

最後に古代ギリシャの都市国家名が記された地図を載せます。アルカディア、コリンス、・・・小アジア(トルコ)のエーゲ海に面した土地にもギリシャの影響が及んでいたのです。
01696.png
(紀元前750-490年のロドス同盟と同盟以外の都市国家を示す地図)
(完)

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mh徒然草―特番(57):オリンピック・エンブレム

(10月2日投稿予定だった「ブログmh徒然草57」を緊急公開させて頂きます。)
オリンピック中央会場の国立競技場の建設スケジュール、仕様、費用やオリンピック・エンブレムの盗作問題で「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」が関与する不祥事が続いています。

委員会会長の元総理森 喜朗(もり よしろう)氏は78歳でmhよりも一回り先輩です。森氏に対するmhの評価は既に何度か、このブログでもご披露していますのでご承知かと思いますが、極めて否定的です!オリンピックの企画の責任者なんかやらせて大丈夫かしら、問題を起こすんじゃあないかしら、と心配していました。彼が不祥事や資金運用ミスをしたら、尻拭いさせられるのは我々国民ですからねぇ。

そんな中、昨日9月1日、遅きに失した感もありますが、佐野氏のオリンピック・エンブレムの白紙撤回が確定しました。その翌日の今日9月2日、森氏とエンブレムに関する記事を拾ってみると次の通りです。

まず、組織委員会の設立に関するネット記事です。
「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会を設立!」
2014.01.27
*組織委員会設立に際し、東京オリンピック・パラリンピック調整会議を開催し、設立時評議員、同理事、同監事を選任。続いて設立時理事会において、代表理事(会長)に森喜朗元内閣総理大臣・公益財団法人日本体育協会名誉会長を選定。その後、第1回評議員会、第1回理事会を開催し、組織委員会事務局を統括する事務総長に武藤敏郎株式会社大和総研理事長、および副事務総長に布村幸彦元文部科学省スポーツ・青少年局長を選任しました。
http://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=4819

で、森氏が会長になったについては、上の公益財団法事日本オリンピック委員会ニュースでは「理事会で選定された」となっていますが、実はそうではありません!理事会の約2週間前には内定していた、いわゆる「出来レース」だったんですねぇ!
「20年東京五輪:組織委会長に森喜朗氏」
毎日新聞2014年01月14日
*2020年東京五輪・パラリンピックを運営する組織委員会会長に、森喜朗元首相(76)の就任が14日、正式決定した。五輪担当相の下村博文・文部科学相と、東京都の秋山俊行副知事、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長が東京都内で森氏に要請し、森氏が受諾した。
http://mainichi.jp/sports/news/20140115k0000m050092000c.html
下村文科相らが森氏に会長就任を要請したのは1月14日で理事会で選定されたのは、その2週間後の1月27日のようです。ま、日本の慣習を考えると至極、ありきたりの流れです。


で、佐野氏のエンブレムは他のデザインの盗用では?との疑念が、かなり確実視されるようになった段階での8月28日、組織委員会の「問題はない!」との見解と、選定経過が載ったニュースが流れました。
「原案は違ったもの」「発想、思想、造形からすべて違う」…劇場ロゴとの類似性を否定、組織委が選考経過を説明
2015.8.28
*2020年東京五輪のエンブレムがベルギーの劇場ロゴと似ていると指摘されている問題で、大会組織委は28日、改めて選考経過を説明した。他の商標との類似を避けるため、原案を修正した上で発表されたとし「発想は全く違う」との認識を示し、類似性を否定した。
*エンブレムは昨年11月、104点の応募作品の中から投票で4点まで絞り込んで、最後は審査委員8人の議論を経て、佐野研二郎氏の原案に決定したという。審査の過程では、デザイナーの名前は一切伏せられていたとしている。
http://www.sankei.com/sports/news/150828/spo1508280037-n1.html
つまり、森会長が就任してから10ヶ月後、エンブレムの選考が行われ、佐野氏のデザインが内定したのです。

しかし、佐野氏の作品には盗作と思われるものが多く、オリンピック・エンブレムについてもかなり類似した商標が日本特許庁にも登録されていたりして、東京オリンピック委員会も観念し、エンブレムの修正を発表したのが昨日。
森氏に駆け寄る記者のTVニュースがありました。
「森会長「何が残念なんだよ」エンブレム問題」
日本テレビ系(NNN) 9月1日(火)20時15分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20150901-00000096-nnn-soci
*アートディレクターの佐野研二郎氏がデザインした2020年東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムについて、大会組織委員会が1日、正式に使用中止を決めた。この問題について、東京五輪組織委員会の森喜朗会長は、記者からの「残念な結果になりましたが」の質問に対し、「何が残念なんだよ」と不機嫌な様子で話した。
森氏の反応は、上のURLの動画で見て頂く方が好いでしょう。

公開前に念のためと思い、上のURLをチェックしたら画像が見れなくなっています!理由は不明です、大勢がアクセスしてパンクしているかも、とのコメントがありましたが、まさか、中国みたいに「検閲を受けて消された」ってことはないですよね。

今日9月2日には、森氏の責任論も出ているというか、出てきそうだ、とのニュースもありました。
「森会長に責任論浮上!競技場に続きエンブレムも白紙撤回の事態に」
(スポーツ報知 9月2日(水)7時3分配信)
*自民党幹部や政府関係者によると、同党幹部や五輪関係者らが、佐野氏の“盗用”疑惑が浮上して以降、エンブレムを差し替えるよう組織委に再三にわたって警告していた。
*五輪関係団体幹部らは、独自にデザインアートに詳しい識者から意見を聴取。「今後のエンブレム使用は厳しい」との判断に傾き、組織委にも水面下で使用をやめるよう説得をしてきた。だが、森氏と近い関係にある武藤氏らが「1回決めたものを撤回すると、国際的な信用問題になる」と聞く耳を持たず、事態は悪化した。
*森氏は五輪・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の総工費膨張問題でも、全面見直しに向けた「最大の障壁だった」(自民党幹部)。自身が関与してきたラグビーW杯日本大会も運営や事務手続き上の不手際から、南アフリカなどから返上論が出ている。「新国立とエンブレム問題のダブルパンチ。組織の一新が必要だ」との声が強まっている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150902-00000002-sph-soci

で~、これからmhの愚痴をご披露しようと思っているところですが、実は、それを代弁しているような批評がネットで見つかりました。
「絶望的ポンコツチームの東京オリンピック組織委員会は即刻、解体せよ」
livedoorニュース2015年09月01日 16:17
*森喜朗氏を筆頭とする東京オリンピック組織委員会の解体を提案したい。もはや、組織として問題外のレベルである。そして、もはや日本の表舞台に二度と登場しないことを約束していただきたい。これ以上恥の上塗りは勘弁だ。切に願う。
この本文はもっと長く、興味がありましたら次のURLからご確認下さい。
http://blogos.com/article/131418/

かねがね、ネットに流れる個人的な見解については、偏ったものが多いので、娯楽としてみる程度にしていますが、今回のエンブレム問題については、組織委員会の対応に批判的なものが多く、やっぱりねぇ、と思っています。

国立競技場問題にしてもエンブレム問題にしても、森会長が直接「これにしろ」と指示したとは思えませんが、2つとも重要な問題ですから、会長の耳に入れる前に決めた、ということは無いでしょう。そんなことをしていたなら森氏はTVの前で「あいつが俺を無視してやったことで、心底、気分を害している!」ってなことを言っているはずですが、それがありませんからね。事前に打診され、「よろしくね」で済ませるタイプでもなさそうですから必ず持論か自分の好みを伝えたはずで、「やっぱ、こうしたい」とか「この方針でやってほしい」などと言っているのではないかと思います。例えばエンブレム問題では、「専門家は大丈夫だって言ってるんだろう?だったらマスコミが騒いでいるのは無視して、突っ走れ!」ってなことを言ったのではないかと思います、邪推かも知れませんが。国立競技場の費用問題でも3千6百億円(?)では高いので2千5百億円くらい(?)に見直せないかとの意見に対して、「たった1千億円くらい、どうして出せないんだ!」と怒っていましたから、今回のエンブレム問題でも、彼がどんなことを言ったのだろうか、ということはいくらでも邪推できそうです。国立競技場の見直しは森氏が決断する前に安倍首相が決めてましたし、今回のエンブレムの白紙撤回もひょっとすると安倍首相が決めたのかも知れません。森氏が一旦言い出したら、安倍首相以外には止められないという話もありました、安倍首相が森氏を選んだんだし、止めさせることができるのは安倍首相しかいないようですからねぇ。

森会長が居座っているオリンピック委員会では恐らく革新的な、国民の希望を忖度(そんたく)した運営は不可能ではないかと思います。何故なら、凡そ国民の声を聞く姿勢も聞いて判断する能力も持ち合わせていないのですから。問題は、こんな人を委員長に推薦したのは誰か、ということになります。下村文科相がキーパーソンのようですが、その親分の安倍首相が関係していない訳はありませんし、安倍氏が決めたと考えて間違いないでしょう。森氏や安倍首相、下村文科相は靖国神社参拝議員ですから、やっぱ、お仲間なんですねぇ。

間違うのは仕方ないですよ、人間だから!というのは相田みつお氏だったか・・・お釈迦様も仰られたのではないかと思います。しかし、間違いを認めずに開き直って居座るっていうのは一国の総理がやることですかねぇ?それが政治の世界でのし上がる必要条件となっているんですかねぇ?孔子様の「間違えば改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」という教えは聞いたことも無いんですかねぇ?

こんな様子を見ていると、かねがねお伝えしているように、やっぱ日本脱出を急がねばならないぞ、と改めて思う次第です。また円を外貨に切り替えておかねば!今度はインドネシア・ルピーを買い増ししようかしら。

The three bells (Little Jimmy Brown)
https://www.youtube.com/watch?v=ojzBi-dDPTk
(完)

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