Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草53:軽飛行機の墜落

7月26日、東京・調布市の住宅街に小型飛行機が墜落し、3人が死亡した事故については、皆さんもご存知でしょう。事故から1週間以上を過ぎた今日(8月4日)、落下は十分な浮力が得られなかったためだろうとの結論になっています。飛行機と乗客、荷物、燃料の全てを含む重量が浮遊可能な重量の2トンを超えていた可能性があるようです。空気抵抗を減らそうと車輪の格納も通常よりも早めに行われていたとの話もありました。恐らく、離陸しようと滑走路を走行していたけれど思うように速度が上がらず、だったら離陸を諦めればよかったのに、フラップなどを操作して無理やりに離陸し、空気抵抗を減らすために車輪を格納しても、いつまでも加速が出来ず、徐々に落下して住宅に墜落してしまった、ということのようです。

単純に考えれば、離陸前の速度が速い程、離陸後の飛行に有利ですから、十分な滑走をとってから離陸すべきだと思いますが、今回はこの逆で、早目に離陸したようですねぇ。長い距離を走って、もし離陸できなかったら、滑走路の端のフェンスに突っ込んでしまうので、早目の離陸を選んだとすれば、この時点で判断ミスがあったことになります。いつもほどの加速が得られないなら、離陸を中止するという判断があってしかるべきでした。また今日付けのネット新聞には次の記事がありました。

「小型機墜落:滑走路160m不足 マニュアル明示」
毎日新聞 2015年07月31日 09時45分
 東京都調布10+件市の住宅街に小型飛行機が墜落し8人が死傷した事故で、この小型機が離陸可能な最大重量で離陸する場合、当時の気象条件では約960メートルの滑走距離が必要とされていることが分かった。メーカーが出している操縦マニュアルで明示されていた。小型機は上限に近い重量で飛行したとみられるが、調布飛行場の滑走路は全長約800メートルしかなかった。同飛行場での離陸が極めて危険だったことがうかがえる。

きっと、亡くなった機長も、滑走路の途中で、離陸を諦めるか、早目に機体を浮遊させ空気抵抗を下げて浮力を得るか、の2者択一で悩んだのではないかと思いますが、結果から見れば、選択を間違えたことは明らかです。離陸を諦め、その結果フェンスに突っ込んだとしても住宅に落下するより被害は少なかったのです。

このように、ギリギリの時点での二者択一は、誰もが経験する試練だと思いますが、その時、どう対処すればいいのでしょう。それこそケースbyケースですが、今回の墜落事故を例に取れば、明らかに離陸を諦めるべきだったのです。判断に悩む余地などなかったはずで結論は決まっていたんです、離陸は止めるべきだった!!!

しかし、そうしなかったのは、離陸すべきか離陸を中止すべきかの明確な判断基準が定められていなかったか、基準を失念または無視していた、のいずれかでしょう。

今回の事故を教訓とするなら、二者択一のいろいろなケースを想定し、事前にシミュレーションしておくことが効果的だと言えるでしょう。飛行機が離陸すべきか離陸を諦めるべきかの判断は、飛行機にとっては重要な事であり、当然、何らかの判断基準があって、機長は誰でも想定訓練をしていたと思います。とすると、今回の事故機の機長は、これを失念するか軽視し、結果として無視したのだと思います。

安全に関する基準や規則を決めていても、忘れたり無視したりするなら、事故で怪我をしても死亡しても文句を言える筋合いではありませんが、今回は関係のない住民を巻き添えにしていますから機長の責任は重大です。

こう考えてくると、少なくとも安全に関する基準は明確に定めて置き、これを守ることが必要だと言う結論になります。赤信号は渡らない、という規則は立派で、これを守る人は立派です。私の場合は、赤でも道路上に走っている車が見えなければ渡ることも出来る、を準規則としていますが、近くに子供が入る時は、そんなはしたないことはせず青になるまでじっと待つことを規則としていますし、青でも、車が来ている時は気を付けながら渡る、というのも規則にしていますから、信号のある道路を渡るか渡らないかは極めて明白です。

しかし、規則を決めていないケースだって出てくるんですねぇ、集団的自衛権ではないですが。今もNHKで放映している参議院の特別委員会で安倍首相や中谷防衛大臣が元社会党首の福島女史の質問に答えていて「他国に対する武力攻撃でも我が国に対する攻撃と判断できる場合は」などと言っていますが、どんなケースがあるのか、その時にならないと判らないし、それが武力で守らねばならぬほど重大な攻撃かも、それこそケースbyケースで判らないんですねえ。従って議論がかみ合いません。

このような際限がない想定外事項に対処する時は、安全サイドを選ぶというのが後悔を最小にする基本だと思います。信号を渡るか渡らないか、悩んだら渡らない方を選ぶのです。しかし今回の集団的自衛権は悩んだら攻撃する、って方を選ぼうとしているのではないかと邪推したくなります。違憲ではないと自民党は主張しているし、集団的自衛権に関しては礒崎陽輔首相補佐官が「法的安定性は関係ない」つまり「憲法は無視しても好い」と述べたばかりだし・・・

何度も言いましたが、訳の分からない不確定性の時代に暮らしていると、やはり自分の身は自分で守ることが重要です。訳の分からない国会に全てを委ねる訳には行きません。議員になっても自分のことしか考えない人、困っている人を助けようとしない人、には投票しないようにしましょう。ってなことを言い出すと、投票したい人がいなくなっちゃう恐れもありますから、困ったものですねえ。やっぱ、議員数削減が集団的自衛権より優先されるべき課題だと思います!
The Mamas & The Papas - California Dreamin' Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=aQ53_yJ7tKw
(完)

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ナイル・クルーズの不思議

エジプトに行ってきました!!!
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今回はクルーズ船「プリンセスサラー号」に4泊、最後の1泊はカイロのホテル、あとは飛行機内での睡眠2回という8日間の旅でした。クルーズの体験は初めてですが、感激しました。憧れのナイルをクルーズですからね。
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文字通りの動くホテル。ナイルなので海と違って波はなく、揺れは少なく、寝ている間に次の観光スポットの近くまで移動してくれます。桟橋についたら馬車か徒歩で遺跡に出かけ、船に戻れば昼食、夕食、そして勿論、朝食も楽しめます。荷物は4日間、自分のキャビンに置きっぱなしですから、バスや電車や飛行機で荷物を運びながら移動して観光する旅行とは全く異なり、格段に快適でした。ということで今回のブログではナイル・クルージングを中心にご報告しましょう。

成田からナイル中流の町ルクソールLuxorに飛んで、到着したらすぐにカルナック神殿を見学。その後でクルーザーにチェックインして昼食。午後はルクソール神殿を見学し船に戻って夕食を摂った後は船内のホールでベリー・ダンス・ショーの観賞です!
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Wiki:ベリーダンス(Belly dance、あるいはbellydance)
中東およびその他のアラブ文化圏で発展したダンス・スタイルを指す言葉であり、これらを呼称するために造語された西洋の呼称である。(mh:bellyは英語で「腹(はら)」の意)

ネットで見つけた上の写真のように、アラビアン・ナイト調の、艶(なま)めかしい半裸の女性が音楽に合わせて腰を振りながら踊るんだろうなぁって期待していたのですが・・・エジプトのベリー・ダンスは私のような俗物の妄想からは大分異なっていました!後であげるDigibookでご確認下さい。

出発前のブログで「アスワンダムの下流から上流に、どんな手段で移動するのか?」調べてご報告することをお約束していましたので、まずはそれを果たしておきたいと思います。

つぎの写真は旅行会社が出発1週間前程に送付してくれた「最終旅行日程表」です。
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4日目は「プリンセスサラー号」で泊まり、その翌日の日程ですが・・・
5日目は都市名「アスワン」、時刻「08:00」、交通機関「船」、スケジュール「~アブ・シンベルへ向けて出港~(300Km)」とあります。
途中でアスワンハイダム見学して、都市名「アブ・シンベル」、時刻「11:00」、交通機関「バス」、スケジュール「着後、【世界遺産】《アブ・シンベル神殿観光》・・・」

どう読んでも「プリンセスサラー号でアスワンからアブ・シンベル神殿に向かう」としか取れない内容(?)です。勿論「300Kmを船で3時間(8時~11時)っていうのは怪しいなぁ」と、さすがのmhも気付いてはいました。結局、どのようにダムを下流から上流に抜けるかは現地で確認するしかないということで確認してきたのですが・・・

その前にご参考として3日目、クソールを出航して夜に通過したエスナの水門Esna Lock Gateについてご紹介しておきましょう。ルクソールからナイル沿いに約40Km上流にあります。
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水門はナイル両岸を結ぶ道路として利用されていて、船が通過するのは西側(写真で左側)に設けられた橋の下です。通路は2本。上りと下りで使い分けているのかも知れません。

方式はパナマと同じ閘門(Lock Gate)で、夕食を摂っていたら「エスナの水門に来ましたよ!」というので慌てて食事を切り上げ、最上階の甲板(デッキ)に登ると、既に船首には人が集まっていました。

次の写真は船首が丁度、橋の下を通過しようとしているところで、下流側の扉(左側に白い服を着た監視人が何かに腰かけて見ています)に差し掛かったところです。
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ネットで確認すると、ナイルクルーズ船の大きさは統一されていて、2つの扉の間に2隻が長手方向に並んで入る寸法になっているようです。

下流側の扉を通過し終えた頃、慌てて船首から船尾に走って船の後方の様子を撮影しました。
橋の手前側の扉が閉じていくのが判ります。
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下流の扉が閉じ終わるや否や慌てて船首に戻ると、わずかに開いた上流の扉の隙間から水が流れ込み始めていました。
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上の写真で通路側壁の濡れた部分の高さは水面から4m程度ですから、ゲートの上流と下流の水位差は5~6mだと思われます。

扉が完全に開き終えるまで船は待機しています。
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扉が開いたら通路を抜け出して水門を通過し終えました。
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ご参考にGoogleEarthで見つけた写真を載せておきます。
No.1
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No.2
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No.3
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で~、アスワンダムはどんな方法で通過したのか???

皆さまも既にお気づきかも知れません。アスワンダムは船では通れませんでした!!!やっぱりねって感じです。我がプリンセスサラー号はアスワン・ロー・ダムの下流で、アスワン市街が広がるナイル東岸に停泊します。翌朝、バスに乗り込んでナイル東岸の町中を5分程移動したらアスワン・ロー・ダムの道路を通ってナイルを渡り、今度はナイル西岸を5分程移動して上流側のアスワン・ハイ・ダムを見学。その後、砂漠の中の道路を移動して約300Km上流のアブ・シンベル神殿に向かったのです、勿論バスで!

エジプトの遺跡については既にブログで紹介したYoutube情報以上のものは余りありませんでした。ということで今回は現地で買ったお土産をご披露しておきます。

エジプト綿のTシャツ。私の苗字のカルトゥーシュCartouche入りです。
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カルトゥーシュとはヒエログリフで書かれた人名を縄の環で囲んだもの。最初の黄色いエジプト十字はアンクと呼ばれる「生命」を表す単なるおまじないで、その下の赤い鳥から私の苗字が始まります。
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最後の2つ、つまり「手」と「鷲」はDとAで「田」だと判ります。
模様は刺繍ですから洗濯しても、色は薄くなることはあっても模様が取れてしまうことはありません。値段はカルトゥーシュ付きで20ドル。来年まで着るチャンスはありませんが、なかなか好いお土産だと思います。

次は駱駝の香水瓶とラムセスの石像です。
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香水瓶の中の黄色いものはサハラの砂でアブ・シンベル神殿に向かう途中の砂漠で採りました。このお土産の価値を理解できる者は現地で砂を採取し、現地の香水ショップで瓶を買った私だけでしょう。他の人に話しても「ふぅん、そうなの」って程度の反応でしょうし、事実、我が女房殿は「あっ、そう」と言っただけです。

ラムセス立像は片足を前に出して歩き出そうとしていますので生きている姿を示しています。この姿ではなく、左右の手を胸の前で十字に重ね、両足を並べて立っている像も沢山見かけますが、こちらは死んでいる人を表します。像のお土産はアブ・シンベル神殿近くのお土産屋で買いました。高さ20cmほどで、石で出来ています。60USDだっていうので20USDでどうか、と言うと直ぐにOKと言ってきました。恐らく適正価格は5USD(600円)程度だと思いますが、我々10人のツアーが訪れた時、アブ・シンベル神殿には他の観光客はゼロでした!つまり、アブ・シンベル神殿全体が我がグループの貸し切りだったってことです。アスワンまでクルーズで来ても、そこから片道3時間をかけて砂漠を移動してアブ・シンベル神殿を訪れる観光客は意外に少なく、特に今は、エジプトの治安が悪いという印象があって観光客は全体的に4分の1程度に減ってしまっているようで、お土産屋さんの多くは店を閉めていました。それで、ついつい買ってしまったというのが実態です。

次はネフェルティティの胸像(30USD)と銀製のネックレス(130USD/2個)。
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ネックレスは金Goldかダイヤでないと我が女房殿のお気に召さないのですが、金のネックレスは高価な上に色彩的な魅力が少ないものばかりだったので、娘とお揃いのお土産として買うならこんなところが妥当だろう、と思って買いました。装身具は気に入ったものを自分のために買うのが一番だと思うので、お土産としては不適当だったのですが、がさばらないし、安っぽくもないので、こちらの誠意は伝わり易いですから、あげても使わないかも知れないけれど、取り敢えず買っていくという選択も悪くはないでしょう。

次はギザで撮った唯一の集合写真。右端の緑のシャツの人は手を胸でクロスしていますが、このスタイルが古代エジプトの死者を表します。mhはっていうと死者の隣の老人です。
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左から4番目の女性がメンバーで一番若く、40代前半でしょうか。整形外科医で、国境なき医師団の医師として今年、イエメンに3ヶ月ほど行ったと言っていました。その時はソマリアから小さな船で大きく揺れながら40時間かけて紅海を渡ったとのこと。国境なき医師団は、全くのボランティアのようですね。通常は病院などで勤務する医師で、事があれば、そしてその時に数か月の休暇が取れるなら、医師として現地に行く契約を結んでいるようですが、現地に派遣されている間は病院からの給料はゼロです!!!国境なき医師団からは移動費用や現地駐在実費しか支給されないので月収1百万円程x出張月数のお金が入らないってことで、それでも身の危険が高い紛争地に出かけていく医師の気高い精神には頭が下がります。私は毎年合計3~5万円を、その時の気分で、国境なき医師団、ユニセフ、国連難民高等弁務官事務所に寄付させて頂いていますが、噂では寄付金の数10%が団体の管理費や人件費に使われてしまい、本当に困っている人に渡る金額の率では国境なき医師団が一番高いようですから、これを機に、来年からは寄付金を若干増やし、全て国境なき医師団に集中寄付しようと決意した次第です。

最後に4泊したクルーザー「プリンセスサラー号」関連の写真をデジブックでご紹介しましょう。無料会員なので11月23日には消去されてしまいますが、悪しからず。エジプトは治安も段々と回復してきました。皆さまも是非エジプトを訪れてナイル・クルーズと5千年の史跡を堪能されることをお勧めします。

デジブック
http://www.digibook.net/d/6d04e157b18f3ee07a4a1411766dc559/
(完)

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mh徒然草58:セオル号の引き揚げ業者確定

8月4日付けThe Maritime Executiveのネット版によると「Chinese Company Picked to Salvage Sewol中国の会社がセオル号回収作業を受注した」とのこと。

会社はShanghai Salvage Co.で、受注額はUSD73百万(≒88億円)。作業は来年に始まり7月までには船を解体作業場に曳航(えいこう)し終える計画です。2週間後の8月19日の記事によれば、回収業者は「はしけ」とタグボートを沈没領域に派遣し、潜水夫が海に潜って調査を始めたようで、流石に中国の会社というか、やることが素早くて感心されられました。日本も見習うべき行動力だと思います。

これで、中国の会社が回収に失敗するか、不測のイザコザで中国の会社と韓国政府の契約が破棄されるかしなければ、以前にお知らせしたmhの預言「セオル号引き揚げは実施されないであろう」が的外れとなります。世の中は複雑で、的確な予測は難しいなぁと改めて認識しました。

沈没したのは昨年の4月16日。もし来年4月に引き揚げられたら2年ぶりに姿を見せることになります。乗員・乗客476人で、生存者172人、死者295人、行方不明者9人でした。引き上げ目的は行方不明者の遺体回収(腐乱し、魚の餌になって骨しか残っていないと思います)と沈没原因の究明だと思いますが、海に沈んで2年経過している訳ですから、不明の9人全ての遺体が船中で見つかる確率は低いし、沈没原因を確定できる新事実の発見も困難で、その上、今更原因が明らかになっても次の事故を抑制する力としては弱すぎると思いますから、回収費用の88億円は効果的な使い方とは思えません。もし5人の遺骨が見つかり、残る4人は見つからなかったら、どうなるのでしょう。子供の遺体が見つかった親が「政府はよくやってくれた」と褒めてくれることは想定できませんし、子供の遺体が見つからなかった親は、調査続行を政府に要求するでしょう。mhとしては、慰霊塔を建て、亡くなった300人余の人々を追悼する場を準備する(念のため調べたら、2年後完成で計画されたようです。着工は来年)か、88億円は遺族に見舞金として渡す方が好かったと思います。死者、不明者の合計が約300人ですから、一人当たり3千万円を渡せます。引き上げ費用に88億円を使うということは、韓国政府は見舞金は既に十分支払ったから問題ないと考えているか、面子を重視したか、のいずれかでしょう。

見舞金をネットで調べてみました。古い記事しか見つからないのですが、事故1年後の4月2日付けニュースで「遺族は補償プランを拒否」とありました!
「政府は死亡した生徒一人当たり38万USD(4千6百万円)の見舞金を提案したが拒否された。政府試算では寄付金や保険金も加えれば受取総額は75万USD(9千万円)になるとのこと。遺族の一人は“事故から1年後になって金の話を持ち出してくるようないい加減な政府関係者は殺してやりたい”と言っている。」
http://www.dailymail.co.uk/wires/ap/article-3022646/S-Korean-ferry-victims-relatives-reject-compensation-plan.html
この記事以降、今日(9月8日)までの日付での見舞金ニュースは見当たらないので、遺族には未だに見舞金も保険も寄付金も分配されていない可能性がありますが、さすがにそんな馬鹿なことにはなっていなくて、手付の見舞金の例えば5百万円程度は渡っているのではないかと思います。

セオル号回収業者は入札で選ばれたのだと思います。中国の会社より少ない金額で回収できる業者は世界には恐らくないでしょうから、それで良いと思いますが、9月3日に北京で開かれた抗日戦勝70周年記念日の様子を伝えるTV映像では、習近平書記長が左右にロシアのプーチン大統領、韓国の朴大統領、国連の藩事務総長、江沢民元書記長を並べたひな壇で壮大な軍事パレードを観閲し、自らも紅旗という中国産の黒塗り大型高級車から上半身を出して天安門前の長安街(10車線の主要道路)をパレードしていて、いよいよ中国は日本や東南アジア諸国との臨戦態勢を整え、韓国や北朝鮮の中国編入に手を付け出すのかしら、との危惧を感じました。軍隊が幅を利かし、共産党が居座る中国に頼る気持ちが韓国政府にあるなら韓国国民の気持ちは複雑でしょう。日本嫌いを見せつける行為だとしたら軽率だと思います。もっと上手いやり方はいくつもあるはずですから。

藩事務総長が参加したのは、日本国民を嫌う韓国国民へのアピールで、次期大統領選への足掛かりを作ろうとしているのではないか、との見方もあるようです。たんなる推測でしょうが、中立を重視すべき国連の代表が、分からずやの日本を懲らしめるためとしても、中国軍のパレードを讃える様子はどう見ても異常で、藩氏の国連事務総長としての資質を疑うのは日本政府だけではないでしょう。

ソビエト連邦解体後に独立した諸国がロシアに復帰しないのは、昔の生活はこりごりだと考えているからだと思います。少々頼りないアメリカですが、こちらには言論の自由がありますから、今のプーチン大統領独裁のロシアや共産党独裁の中国よりもましです。韓国人が安倍首相を好きになれないのは理解しますが、だからといって日本を目の敵にするだけでは韓国にとって良くないことは明白です。

しかし、翻(ひるがえ)って我が国の地勢を見てみれば、大陸から隔離されて国境問題や他国からの干渉は少なく、海の幸は豊富で、水に不自由しない島国で、地続きの国境を持つ韓国や中国と比べたら良いことずくめです。だからといって平和ボケして世界に目を向けずにいると、必ず付けがまわってきますから、中国や韓国とも仲良く付き合う方法を早く見つけねばいけないことは間違いありません。

The Closer You Get
https://www.youtube.com/watch?v=dKLItnEBUr8&list=RDdKLItnEBUr8
(完)

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エジプトの失われた都市

今回はBBC Learning Channelから「Egypt’s Lost Cityエジプトの失われた都市」をお送りしましょう。

極東の島国で暮らす仏陀崇拝者mhが、ブログの題を「ネフェルティティNefertitiの秘密」とか「ツタンカーメンの秘密」にしようかと悩む程、今回のフィルム「エジプトの失われた都市」はミステリーだらけです!エジプト考古学者には疑問を挟む余地がない常識なのでしょうが「えぇ?そんな話があったの?!それって本当なの??」ってなくらいに不思議な事件が、あのツタンカーメンの一族に起きていたのです!

思えば、その前触れはブログ「王家の谷の不思議」に現れていました!鉄格子の扉が開いているのがツタンカーメンの墓の入口です。
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真鍮の銘板には「TOMB OF TUT ANKH AMONツツ・アンク・アモンの墓」とあります。その奥で列なす観光客はラムセス6世の墓を見学しようとする人達で、片やツタンカーメンの墓の扉の向うには観光客は一人も写っていません!ツタンカーメンの墓で見つかった宝物は、他のどの墓の宝物も足元に及ばないのですが、どの墓よりも小さく、壁の装飾も貧弱で、黄金がカイロ博物館に持ち去られた今となっては関心が薄れているのです!!!

どんなにつまらない墓であろうと、ブログでツタンカーメンの情報を調べ上げたmhとしては10月の旅行で必ず見たいスポットでしたが、それが叶わぬ事態になりました。本日8月15日に旅行社から届いたメールに「予定していたツタンカーメンの墓の見学は、エアコンの修理で不可能になり、代わりに彼の墓の発見者ハワード・カーターの家を見学することにしたので了承してほしい」とあります!!!真に残念ですが、お釈迦様も仰るように、ならぬものはならぬ(?)ということで、涙を呑むほかありません。

緊急追記(10月16日)
今日、午後22時20分に成田発カラール航空で中東のドーハ経由ルクソールに出かけます。横浜はあいにくの小雨ですが、移動には問題ありません。ところで、お聞きかと思いますが、カイロ博物館の呼び物、ツタンカーメンの黄金のマスク、は今回は公開されていない見込みです。マスクに付いていた髭が、博物館の作業員のミスで落下し、接着剤で付け直して誤魔化していたのですが過剰な接着剤が髭にこびり付いてこれを修理するためのようです。代わりにミイラ展示室(有料)を無料で公開してくれるようですが、残念です。ブログ「ツタンカーメンの呪い」は事実だったのか!!!としたら今回、ツタンカーメンの墓を見ることができなくなったのも含めて、ラッキー!と言わねばなりません。ミイラ展示室ではラムセス2世とお会いしてくるつもりです。
なお、今回のブログのヒーローでもあるネフェルティティですが、彼女の墓かもしれない小さな部屋が王家の谷のツタンカーメンの墓で見つかったようです。地中レーダーにひっかかったようですね。ネフェルティティの墓かどうかは全く推定でしかありませんが、彼女はツタンカーメンの女房で、ファラオにもなり、実はツタンカーメンの実母の可能性もあるようで、全く神秘な女性です。
(追記完了)

ところで、ツタンカーメンの墓が、こんな結果、つまり、あんなにも有名なツタンカーメンの墓が、観光客の関心は少なく、みすぼらしいのは、お釈迦様も仰るように因果応報で、原因はあるのです。彼の名もそれを暗示しています。ツタンカーメンの名は当初「tut-ankh-atenツツ・アンク・アテン」(アテンの現世の姿)でした。これが「tut-ankh-amonツツ・アンク・アモン」(アモンの現世の姿)に変わったのは父アケナーテン(アメンホテプ4世)が死んだ後です!

ツタンカーメンの父アケナーテンAkhenatenとはどんな男だったのか?
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父アケナーテンAkhenatenが死んだ後、息子ツタンカーメンの改名は誰の意思で何故行われたのか?
アテンatenとは?アモンamonとの違いとは?

さらに、父王アケナーテンにはミステリーに富んだ王妃がいました!妃(きさき)は5人ですが、筆頭が「ネフェルティティNefertiti」で、古代エジプト三大美女の一人と言われています。
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mh:古代エジプト三大美女は「クレオパトラ」「ネフェルティティ」「ネフェルタリ(ラムセス2世の正妃)」と言われているようです。話は変わりますが、世界三大美女と言えば「クレオパトラ、楊貴妃、小野小町」のようですが、小野小町を挙げるのは日本人だけで、外国では代わりに「ヘレネ(ギリシャ神話の女神)」を挙げるようです。しかし、どんな根拠で誰がこの3人を選んだのか。はなはだ怪しい美人番付であることは賢明な読者なら既にお気付きでしょう。そうです、世界三大美女などと言ってはしゃぐのは日本人だけです。多分、古代エジプト三大美女を唱え出したのも日本人で、このような、証拠も、根拠も、埒すらも無いことを話題に上げて騒ぐ国民は日本人しかいない!と思って間違いないでしょう。

で、恐らく日本人が選んだエジプト三大美女、世界三大美女ですが、これらの美女に共通する条件は何だと思いますか???綺麗だった、というのは概ね正解だとは思いますが、もっと明確で定量的(!)で、誰もが納得する事実があります。

不思議な質問「エジプト三大美女、世界三大美女」に共通する美女の条件とは?
mhが気付いた答えはブログの最後でご披露いたしましょう。

ところで既出のネフェルティティの胸像ですが、ドイツの博物館の所蔵品で、ベルリンの壁崩壊直後にベルリンを訪れたmhは、直接お会いしていました!当時は古代エジプトに関心はなく、知識も持ち合わせていなかったので、仕事の合間にぶらっと入った宮殿のような造りの博物館で偶然お会いして「綺麗な像だなぁ」ってな位の感想しかなく、たった今までお会いしたことすら忘れていました!彼女の左目は、瞳(ひとみ)が描かれずに真っ白です。あまり完璧だと不自然だから欠陥を一つ残した、といった思わせぶりな理由ではないようです。この点も含め、彼女の不思議についても今回のブログでご紹介していますのでご確認下さい。

いつものように長~い前置きはやっと終わり、いよいよ「エジプトの失われた都市」の始まりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カイロの数百マイル南で発見された町・・・(1マイル≒1.6Km)
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その町から少し離れた崖の、王家の墓に描かれた壁画・・・
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この町は、かつて、偉大なエジプト帝国の首都アケターテンAkhetatenだった。今はアマーナAmernaと呼ばれている。
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何が起きたのか?なぜ、ほとんど全てのものが失われてしまったのか?
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前世紀(19世紀)、ナイルの中流、カイロやルクソールから数百マイルはなれたアマーナAmarnaの砂漠で古代都市の跡が発見された。不思議な都市だった。
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都市の大半は今もこの砂の下に埋まっている。
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この都市が何だったのかは、都市の東の岩壁に残された墓が教えてくれる。
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墓の壁には他の遺跡で見られないレリーフがある。写実的な人物の姿だ。服装から明らかに王ファラオだ。
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しかし、王の顔も、王妃の顔も、削り取られている。
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彼らの名前すら消されている。
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しかし、壁に彫られている太陽のデザインはどこかでみたことがある。そう、ツタンカーメンの墓で見つかった黄金の玉座の背もたれにあった太陽の形と同じだ!
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玉座に刻まれたツタンカーメンは裸で、体の表現もリアリスティックだ。古代エジプトでは見られなかった表現手法だ。
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アマーナで見つかった3人の像も類似性がある!ツタンカーメンと両親かも知れない!
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ミステリーに包まれた王と王妃の像はアマーナの墓だけに残されている。
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これが王アケナーテンだ!
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そしてこれが妻のネフェルティティだ。世界でも最も美しい女性の一人だ。その上、パワフルだった。
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レリーフの彼女は、棍棒で敵の頭を撃ち割ろうとしている!
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男のファラオ(王)だけがすることだ。彼女は普通の女王ではなかった。権力を持っていたのだ。

アケナーテンとネフェルティティは紀元前14世紀の中頃、二人でエジプトを支配していた。
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それはツタンカーメンが王位に就く20年前に始まったことだった。二人は重大なことをなした。しかし、存在していなかったかの如き扱いを受けている!

ルクソールから60マイル北のアビドスAbydosに残るセティ1世Seti Iの寺院
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(mh:セティ1世は在位が紀元前1294年 ~紀元前1279年で、アケナーテンから約50年後のファラオです。)

寺院の壁には歴代の王のリストがある。しかし、本来ここにあるはずのアケナーテンやネフェルティティの名は痕跡すら見当たらない!
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実は、2人を歴史から消し去るキャンペーンが行われていたのだ!
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ネフェルティティの顔も削り取られている。
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アケナーテンがしようとしていたことは人々にとって恐怖に満ちたものだったからだ。
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それは2人が信仰していた神と関係がある!
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アケナーテンもネフェルティティもテーベ(現ルクソール)で暮らしていた。南のスーダンから北のシリアまでを版図とした彼等のエジプト帝国は偉大な力を持っていた。
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首都テーベには帝国の歴史でも重要なカルナック神殿がある。
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バチカンより広い敷地と、バチカンより3千年以上も古い歴史を持つ寺院だ。
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人民を代表して、王は祈祷師と共に神に祈りを捧げていた。

エジプトの宗教はPolytheism(多神教)で、沢山の神々がいた。中でも重要な神アムンAmunは豊穣と創造の神だ。2枚の羽根の冠を付けている。
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mh:アムンはAmun, Amun-Ra, Amun-Re, Amon,Amenなどと表記されます。英語版Wikiによれば「King of the gods and god of the wind神々の王で風の神」で、普通、2枚の羽根または2本の羊の角を頭に付けて描かれます。

アムンの像を載せ、船でナイルを渡る御幸は、昔から重要な年中行事だった。
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しかし、紀元前1353年頃にアケナーテンが王に就くと、アムン崇拝は打ち切られた。
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彼はアムン神を放棄し、異なる神を敬うことにしたのだ!
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アテン神Aten、丸い太陽Sun Discだ!数千年前、ピラミッドが造られた時代に敬われていた神でもある。
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ルクソールのカルナック神殿にはアムンAmunを祀る建物がある。そこで跪(ひざまづ)いてアムンを讃える王の姿もレリーフに残されている。しかし、このアムン信仰は、太陽神アテンAtenを崇拝するアカナーテンにとっては遺棄すべきものだった!

実は、彼の父アメンヘテプ3世もアテンAtenに傾斜していた。証拠が残っている。ナイルを挟み、首都テーベの街並みとは反対の西岸にあるアメンヘテプ3世の巨像だ。
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数キロ離れた石切り場で採取された特殊な石で造られている。当時、この像は金色に塗られて光り輝いていた。それは、あたかも自分が太陽の息子だと示しているようだった。テーベの住民は朝の光を受けてナイル対岸で輝く王の像をみて一日を始めていたのだ。
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治世5年目、アケナーテンは首都テーベを見捨てることを決意する。「アムンを讃えるカルナック神殿の町を、アテンを敬う我が町とすることは出来ない!」
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彼は、アテン神に相応(ふさわ)しい神聖な都市を新たに造ることにし、テーベThebesで船に乗ると、ナイルを下り、メンフィスMemphisとテーベThebesの真ん中あたり、テーベから270Kmの岸部に降り立った。今ならAmarnaアマーナと呼ばれる地だ。
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住民は今もナイル西岸に広がる肥沃な平地で暮らしている。
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東岸は砂漠で、その更に東には、ナイルに沿って砂漠を挟むように岩壁が走っている。
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こんなところにエジプトの首都を建てようなどと誰も夢にも思わない所だ。しかし、まさにこの地にアカナーテンは新しい首都を造ったのだ!テーベから新たな町アケターテンAkhetaten(今のアマーナ)への遷都に人々は驚いたに違いない。

アケナーテンは新天地アマーナの岩壁にアテンのシンボルを刻んだ。「この地こそ太陽神アテンにふさわしい!」
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このシンボルの下には経典Textも刻まれている。「王はここにアテンが生まれた場所を見いだした!金銀で装飾された馬車に乗る王がこの地を栄えさせるであろう。」
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何故、アケナーテンは、ここがアテンの生まれた所だと信じたのだろう?元々この地には何もなかった。神と繋がるものなど何も無かったはずだ。なぜ!

彼はあることに気付き、確信を持ったのに違いない!

エジプト人は太陽が地平線から昇る場所を「アヘ」と呼んでいた。丸い太陽Sun Diskが昇る2つの峰の間だ。
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アマーナの平地の東には岩壁がそそり立っている。その岩壁に昇る太陽をアケナーテンは見たに違いない!
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彼は新しい町を「アケターテンAkhetaten太陽が昇る地平線」と名付けた。今のアマーナAmarnaだ。

数千年間、砂に埋もれていた町アケターテンでは、今発掘が進んでいる。
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中心にはアテン神殿があった。
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神殿に隣接してパレス(宮殿)が造られた。
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アケターテンは永い間放置されていた。しかし現在、近くでは大勢の人が暮らしている。
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神殿やパレスは廃墟と化したが、川向うを中心に、今も昔の通り庶民生活が続いているというのは皮肉だ。
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中世にアラブから移った人もいるが多くは昔からの土着民だ。当時の生活の様子はアケナーテン寺院の壁のレリーフに残っている。
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人々は賃金の代わりにパンやビールを受け取っていた。
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ナイルは今も人々の生活を支えているが、古都にも水はあった。大きな共同井戸の跡が残っている。
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ここは彫刻家トトメスの家の跡だ。とても広い!
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今世紀(20世紀です)初め、まさにこの部屋で考古学者がネフェルティティの胸像を見つけた。
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それはアケナーテンが生んだ芸術の集大成と言えるものだった。
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像は3千年以上も砂の中で眠っていた。左眼が完成していない。はめ込まれていた石英が落剥したと考えられているが、付近で見つかっていないので、本当のところはわからない。

これは王宮の跡だ。当時、壁は全て壁画で覆(おお)われていた。今、復元作業が進んでいる。
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壁画で飾られた王宮の部屋は、外部と隔離する中庭に続いていた。
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しかし、最も保存状態が好いのは王宮や町から離れた所に造られた墓の内部だろう。
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執政官アイだ。王妃ネフェルティティの父で、ツタンカーメンの死後、王位を継ぐ男だ!
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ハイライトは宗教経典だろう。アケナーテンが太陽神アテンに傾倒していた証(あかし)だ。
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驚くべきは、その内容だ。
O living sun disk,thou art beautiful,great,glittering…
生命のある太陽よ(mh太陽は日食時以外は丸いのでDiskディスクと形容されたのでしょう)!
汝は美しく、偉大で、輝き・・・
When thy movements fade,the land is in darkness…
汝が空を渡って彼方に沈む時、大地は暗闇と化し・・・
every lion is out of his den
全てのライオンは自らの巣穴を出でる。

これがヘブライ聖書(旧約聖書)に似ている!ヘブライ聖書の「詩篇The book of Psalmsプサルム」に次のような詩がある。
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O load my God, thou art very great,thou art clothed with honour and majesty.
我が神よ!汝はとても偉大だ、汝は名誉と威厳を身にまとっている。
thou makest darkness,and it is night;…
汝が闇を造り、そして夜となる
The young lions roar after their prey
若きライオンたちは祈りを捧(ささ)げた後、咆哮(ほうこう)をあげる。

(mh唯一神として太陽をイメージするのは、日本でも天照大神(あまてらすおおみかみ)の例がありますから驚くべき類似とは言えませんが、「ライオン」となると、ヘブライ聖書が讃える唯一神「ヤハウェイYahweh」と「アテン神Aten」に少なからぬ繋がりがあると考えても間違いないでしょう!)

しかしアテン神はもっと驚くべきものだった。
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O so God, with no other except him、Ra created the earth according to thy heart,while thou art one.
(英語は少々怪しいです)
神よ、この神以外には神は無い。ラー(太陽神です)は汝一人の思いでこの台地を創造した。
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まさに歴史上初めての唯一神、ただ一人の本当の神、の出現だ!ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれる前に、ただ一つの神を敬うことにしたのだ。アケナーテンはこれらの宗教の魁(さきがけ)だったと言えよう。
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彼の仕事はまだ始まったばかりだった。儀礼的な崇拝を信仰にまで高めねばならない!

アテン神はこの寺院に祀(まつ)られていた。
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そこでは、古来のしきたりに従い、アケナーテンと祈祷師だけでアテンを讃える儀式を取り進めていた。
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しかし、アケナーテンは、住民も共にアテンを崇拝させることを思いつく。
ナイル東岸にある寺院・王宮の形を拡大すると、ナイルを挟む町全体の形と同じだ!住民は寺院の中で神に護られて暮らすことになるのだ!
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アケナーテンの思いとは別に、町の跡から発掘された品々からは、人々が昔の伝統的な宗教に拘(こだわ)っていたことが窺(うかが)える。カバの姿をした豊潤の神だ!
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住民は多神教Polytheismに関心があり、アテン神はどうでもよかった。
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アケナーテンは人々の間で更なる論議を巻き起こす改革を進めた。歴代の王は神と人を繋ぐだけだったが、彼は、王の存在を格上げしたのだ。

次のレリーフでは、王が、王妃や子供とともにバルコニーに出て、贈り物を信者に分け与えている。
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同じ構図の複数のレリーフから、カラーで判り易いコピーが造られている。バルコニーの下で王からの贈り物を受けるのは大神官アイで、彼はネフェルティティの父だ。
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最近の発掘で北の王宮から小さな金箔が見つかった。1920年の発掘開始以来、初めての黄金だ。
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像に貼られていたものだろう、日の光で輝いていたはずだ。金箔が貼られた像となればアケナーテンだ。
アテン寺院の入口には2つの像が立っていた。
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中央の入口は西を向き、本殿は東側に配置されていた。その向うには南北に連なる岩壁が見えていた。
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となると崇拝の対象だったものは何か?
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アケナーテンは他の王たちと同様に生存中に墓を造った。寺院や宮殿の東に連なる岩壁の間の谷にある。
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何故、神殿やパレスから遠いこの地に造ったのだろう?
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墓が20世紀初頭に発見された時、中はほとんど空だったが、持ち出せないものは残っていた。壁に彫られたレリーフだ。そこにアケナーテンの宗教観や芸術観が見て取れる。
この崩壊している王と王妃のレリーフは等身大で、その上、肉体的だ。
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従来のレリーフには見られない写実的な手法だ。
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次のレリーフもそうだ。人間の体を見た通り表現している。
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王や王妃のヌードを見た古代エジプト人はショックを受けただろう。

古代の寺院のレリーフでは王と神が並んだものが多い。王が神に捧げものをする様子や、死の旅立ちをする王が神の手に寄って導かれる様子の絵だ。しかし、アケナーテンの寺院のレリーフでは違う。彼自身が中心にいる!
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王と王妃が娘の死を悼んで悲しんでいる様子。
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アケナーテンが母親と夕食を楽しんでいる様子。
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アケナーテンとネフェルティティが愛情の籠った眼差しで見つめ合っている!
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「お前たちに幸せをもたらす者は神ではない。私だ!」と人々に示しているのではなかろうか。
どの王も、アケナーテンほど神の存在に近づいたことはなかった。
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そうはいっても、太陽はアケナーテンより高い場所で輝いている。

アケナーテンの野望は死後の世界にも表れている。それまでの王は沈む太陽とともに死の世界に旅立った。墓は都市の西、太陽が沈む方向に造られていた。そこで神の力を授かった王の魂は、東から昇る太陽とともに復活するのだ。
(mh;ブログ「ギザの大ピラミッドの不思議」でピラミッドはナイルの西に造られていることを指摘し、その理由は、西日で輝く墓を町の住民に見せるため、としたのですが、太陽と共に死の国に旅立っていったことを比喩するものでもあったことをここで付け加えさせていただきます。ご了承下さい。)
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しかしアケナーテンの場合は違っていた。墓は東にある、あの岩壁の下に造られていた!
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太陽が昇る地平線に!
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なぜだろう?

ヒントは墓のリリーフにある。
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太陽の光線は町の隅々まで照らしている!
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墓の位置が示す所は明確だ。太陽が生まれる場所、そこが王の墓なのだ!
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アケナーテンの魂も太陽とともに甦(よみがえ)るのだ!

この、神をも恐れぬ異端の発想は、昔からの信仰を忘れられない人々には忌(いま)わしい蛮行だった。アケナーテンは以降、異端者というよりも犯罪者と見なされていく。

古代エジプトの信仰に従えば、神々が町を訪れ、人々に信仰を促し、見返りとして平穏を与えていた。しかしアケナーテンは違った。自らが黄金の馬車に乗り、王だけが通る道を駆けて寺院を巡ったのだ!
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彼自身が神そのものだと人々に示すためだった。この御幸には王妃も馬車で同行した。
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記録によれば、馬車によるアケナーテンの寺巡りは大勢のお供を伴う重大行事だった。

彼の行動を人々がどう見ていたのかを伝える記録はない。しかし、妙なレリーフが町の跡の壁に残っている。馬車を駆けているのは王ではなくて猿だ!
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王就任から10年、アケナーテンの行為はエスカレートする。寺院にある古代からの神アムンの顔は叩き潰されている。
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カルナック神殿のオベリスクに書かれた神の名も消されている。
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犯罪とも言えるこの行為は帝国中で進められた。革命はいつもそうだ。コミュニズム(共産主義)、ナチズムでも、まず新しいアイデアで人々を洗脳する。アケナーテンも唯一神アテンを人々の頭に叩きこもうと、古い神の抹殺を進めていたのだ。

17年の統治後、30代の後半だったアケナーテンは全ての記録から消された。彼が眠っていたはずの王族の墓が空になっていた理由は誰も知ってはいない。彼は暗殺されたという噂がある。いや、自然死だという噂もある。

王の暗殺は珍しいことではない。アケナーテンの死もその可能性は排除できないと考える専門家は多い。
暗殺だとすると、一般的に王位を継いだ者が暗殺に関与している可能性が高いが、誰が彼の後を継いだのか、実は不透明なのだ!
スメンクカーラーSmenkhKaRaだと言う考古学者がいる。彼は、アケナーテンの弟か、息子だったと言う。しかし、そんな男は存在していなかったと言う考古学者も多い。別の人間が王位を継いだと言うのだ!
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最近の調査で、ネフェルティティが極めて強い政治力を発揮していたことが判ってきた。アケナーテンは共同統治者として彼女を指名していた。アケナーテンが死ぬと、彼女がスメンクカーラーと名を変え、王位を継承した可能性がある!

しかし、仮に彼女が統治していたとしても、その期間は短かった。スメンクカーラーは直ぐに死んでしまうのだ。
次の王は誰だったのか?
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少年王ツタンカーメンだ!アケナーテンの息子だったことはほぼ間違いないが、ミステリーに満ちた少年王だ。9歳で王となり、18歳で亡くなっている。
75年前に王家の谷で発見された彼の墓には、莫大な埋葬品があった。(mh発見は1922年ですから、このフィルムは1997年製と言えます)
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彼の死はあまりに早すぎる。暗殺の可能性を全く否定することはできないだろう。

少年王ツタンカーメンは極めて微妙な時期に王になった。父の宗教観を引き継ぐのか、それとも以前の宗教に戻るのか。歴史はツタンカーメンの時代に古代エジプトの宗教への回帰が始まったことを示している。
王家の谷で見つかった少年王の玉座。
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ひじ掛けには彼の名を記すカトゥシュがある。
右のひじ掛けには「ツツ・タンク・アテンTut-ankh-aten現世のアテン神の姿」とある。太陽神のイメージだ。
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左のひじ掛けには「ツツ・アンク・アムンTut-ankh-amun現世のアムン神の姿」とある。新たな名だ!
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ツタンカーメンは若かった。ネフェルティティの父で大司祭のアイが、ツタンカーメンを使って古い宗教に回帰させたと考えられる。大司祭アイは王アケナーテンの信頼を得ていた。バルコニーに立つ王から贈り物を受けるレリーフも残っていた位だ。
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事実、若干18歳でツタンカーメンが死ぬと、アイ自身が王位を継いでいる!次の壁画で、手を交錯し、死の世界に旅立つツタンカーメンの前で、アイは次期の王位を継承している!
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ツタンカーメンの黄金の輝きは父アケナーテン譲りかも知れない。
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アケナーテンが死ぬと、都は少しずつ崩壊を始め、ついには忘れ去られてしまうのだ。
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1907年、ある探検家が墓の跡で躓(つまず)いた。アケナーテンの都があったアマーナではなく、ルクソール近くの王家の谷でのことだ。
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王家の谷の墓KV52。壊れた家具などと共に棺も見つかった。
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棺はカイロ博物館に移されている。ツタンカーメンの墓の近くの墓穴なので彼と関係がありそうだ。マスクは引き剥がされている。
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名前も削り取られている。誰の棺だろう?
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中にはミイラ化した遺体があった。DNAテストは現在のところ許可されていない。X線写真を見るとツタンカーメンの頭蓋骨(左)との強い類似性が確認された。
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一等親の関係、つまり、父、息子、兄弟、の関係がありそうだ。
頭蓋骨を調べた結果では35歳から40歳で死んだ男のようだ。アケナーテンではないか?
ツタンカーメンが死んだ時、父アケナーテンの遺体もアマーナの墓から王家の谷に移された可能性がある。紀元前1336年頃、アケナーテンは死んだ。元の墓が無視され辱められてしまったので遺体を移したのかもしれない。

いずれにしてもアケナーテンは忘れ去られていたのだ。
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彼が築こうとした新たな宗教は砂漠の砂となって消え失せてしまったかのようだ。
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しかし彼の「唯一人の神」という宗教観は残った!ヘブライ聖書に出現するモーゼは、虐げられていたユダヤ人を引き連れてエジプトを脱出し、唯一神ヤハウェに約束された土地イスラエルに向かう。アケナーテンが造った神聖な町で育まれた夢「唯一人の神」は、モーゼ崇拝からユダヤ教、キリスト教に受け継がれ、新たな信仰を産むことになるのだ。
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以上でYoutubeフィルムの紹介は終わりです。

さて、ブログの初めで皆様に投げ掛けた不思議な質問ですが・・・
「エジプト三大美女、世界三大美女に共通する美女の条件とは?」

mh回答:死亡時の年齢は40歳以下でした!
Wikiによれば、クレオパトラ:39歳、楊貴妃:37歳、ネフェルティティ:40歳です。
小野小町は生没年不詳ですが、町というのは役職名で、小さい町ということから下っ端でまだ若いと考えて良いでしょう。恐らく40歳以下で死んだのです。でなければ小野小町ではなく小野大町の贈り名が付いたはずです。
また、エジプト三大美女のネフェルタリは、90歳で死んだ夫ラムセス2世より43年早く亡くなっていることから40歳以前に死んだと考えてよいでしょう。夫との歳の差が7歳というのは古代エジプトでは少ない方で、20歳くらいの差があっても当時の慣例から全く不思議ではありません。
よって、もし貴女(あなた)が美女という贈り名を後世に残したいと望むなら、40歳になる前に男たちの前から身を隠すか、あの世とやらへ旅立たねばなりません。なに?もう50歳を過ぎたんですか!なら諦めて頂くしか仕様がありませんねぇ。

ドイツ博物館のネフェルティティ像をじっくり見たい方は次のURLをお試しください。
https://www.khanacademy.org/humanities/ancient-art-civilizations/egypt-art/new-kingdom/v/thutmose-bust-of-nefertiti-c-1340-bce

BBC Learning Channel Egypt’s Lost City
https://www.youtube.com/watch?v=VsdCZ4wPE6g
(完)

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mh徒然草―56:軍事政権のエスカレート

今日、8月18日、終戦記念日を過ぎたばかりですが、世界ではきな臭い出来事が多くなりました。

中国・天津で倉庫爆発があり、約百人の消防士を含む114人(18日付朝日新聞)の死亡が確認されていますが、共産党政府の報道規制で、爆発原因や爆発物は12日の爆発から1週間経過した今も判らずじまいです。李克強(リー・コーチャン)首相が現地入りしたとのことですが、共産党政権への不満や、不都合な情報がリークするので、指導者が現地で早目にその芽を摘んでおこうっていう、自分本位の現地視察だろうと邪推しています。やっぱり共産党政権は信用なりません。中国国民の不満は蓄積していく一方です。

そして昨日17日、タイの首都バンコクの商業地区で爆発があり12人が死亡と、8日付朝日トップ記事にありました。今流れているNHKニュースでは死亡者数は22人で日本人も含まれているとのことです!朝日新聞によると、居座っている軍事政権への不満か、タクシン派と反タクシン派の政治対立か、最南部のイスラム教徒の分離独立運動が引き金になっているのではという見方が多いようですが、爆弾テロを仕掛ける勢力がいるというのは考えにくい、というのが一般的な見方と、記事は結んでいました。

同じく18日の朝日新聞記事には、黒い旗をはためかせたIS戦闘員の集団がロシア製カラシニコフ銃を携(たずさ)えてシリアの世界遺産パルミラ遺跡を占領し、捕虜の男3人の首を切ってモスクに並べ、逃げ出すことが出来た住民は恐怖で震えが止まらなかったと述懐しています。

さららには今朝のTVニュースによれば、エジプトのカイロでは、最近散発しているテロ対策のため、政府見解と異なる報道をすると300~800万円の罰金を科す法案に軍事政権の大統領が署名し、これからは報道の自由が奪われる、との危機感からジャーナリストたちが反対しているようですが、決まった法案が廃案になるとはとても思えません。

どこの軍事政権でも最優先事項は自分たちを守ることです。従って軍備の増強、他国への威圧はエスカレートしていきます。軍事政権の蛮行を止める者は軍事力に無力な国民ではなく、他国の軍事力しかないでしょう。従って、軍事政権を希望しないとしたら、軍備増強を抑制しなければいけないと思います。ところが、今、世界はこの逆で、日本も軍事費を増やしています。この傾向が続く限り、紛争やテロが増えていくことは間違いないでしょう。

どうしたら、世界の人々が幸せに暮らせるようになるのか?お釈迦様が悟られた様に、欲を捨てることが出来なければ心の平穏は訪れることが無いと思います。自分のことばかりを考えて他人を軽視したり、働かずに、株や投資でお金を増やすことに終始する人が多くなると、最後は、きれいごとなんか言ってられないよ、となって手っ取り早く武力で願望を満たす手段に走ることになるのは歴史が証明してきました。際限のない欲を持ち続ける限り、世界の軍事化は必定で、これをよしとしないのなら、欲の抑制を自らにも課さねばなりません。

軍事政権のトップに立っても、寝首を掻かれないよう、部下に配慮したり、いつも周りに目配りしていなければいけないでしょうから、ストレスが溜まって食事も喉を通らないのではないかと思いますが、北朝鮮の金正恩を見ていると、親子三代の血統なのか、血色は好く、体重が増えすぎて歩くのも大変になってきましたから、ストレスなんか感じていないんでしょうか?それともストレスを紛らわそうとしてガツガツと食べるので太ってしまったのか。いずれにしても長生きできそうな感じはしません。

皆さんの中に、肥満が気になる方がいたら、軍事政権の台頭を気にする前に、肥満退治をすることをお薦めします。毎月何十万円ものお金を支払ってZIRAPと契約しなくても、食事量を20%減らせばOKです。今の体重を維持していたカロリーが20%減るってことは、体重が今よりも減るってことで、これは間違いない真理です。私のお腹もおかげで、見られるほどの適度な状態になりました。

思いつくままに作文した結果、軍事政権と肥満の相関が証明されたところで、今回のブログを終わりたいと思います。

Mr. Postman - The Marvelettes with lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=szBF_N1lcSo
(完)

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王家の谷の不思議

昔、ナイル中流の町ルクソールLuxorはテーベThebesと呼ばれ、エジプト帝国の首都で宗教、経済、政治の中心でした。「王家の谷The Valley of the Kings」と呼ばれるファラオたちが眠る集団墓地は対岸の砂漠にあります。
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近くには、谷を見下ろすように聳(そび)える「Al Qurn(角)」、愛称「ピラミッド山Pyramid Mountain」があります。Al Qurn(ピラミッド山)は標高420m。次の写真の撮影場所は標高160m程度ですから、山の高さは260mになります。
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「王家の谷」の北東上空から南西を望むと次のGoogle Earth映像が得られます。
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中央の黄色ピンが「東の谷East Valley」の中心で、その奥の黄色ピンがピラミッド型の山Al Qurnです。左(ナイル)側の崖の下には黄色ピンの「Hatshepsut Templeハトシェプスト葬祭殿」があります。中央の「東の谷」の右、つまり西側には、白い道がうねりながら手前からAl Qurnに続いています。実はこちらは「西の谷West Valley」と呼ばれ、5つの墓が見つかっています。観光客に公開されているのはアメンヘテプ3世の墓だけですが、ツタンカーメン死後、彼の妻アンケセナーメンと結婚して王位を継いだアイAyの墓もあります。

しかし何といっても「王家の谷」といえば「東の谷」でしょう。墓は60程見つかっています。
the East Valley of the Kings
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1922年、探検家ハワード・カーターが発見したツタンカーメンの墓KV62は、上の図の「中央広場」にあります。若干22歳で死んだ王の墓はみすぼらしい程に小さく、壁の装飾は他と比べたら無いに等しいと言っても好いでしょう。棺も小ぶりでした。
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しかし、黄金のマスクや装飾品、豪華な家具など、見つかった貴重な副葬品は、カイロ博物館の主要な展示物です。その量は抜きんでていて、他のどの墓の副葬品も比類できるレベルではありません!業績のほとんどは側近の指導によるもので、若く、実権を持たぬ王の墓で、なぜ莫大な副葬品が見つかったのか?お釈迦様も仰るように、因果応報、原因があるからこその結果なのです!
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その理由を明確に記したものは見つかっていないので推定の域にありますが、ほぼ間違いないでしょう。彼の父アクエンアテン(アメンホテプ4世)との“関係”です。アクエンアテンは巨大な権力を持つ王でした。昔からの信仰を禁じ、唯一神アテン(Aten太陽の神)だけを崇めるよう神官たちに命令していました。

次の写真が唯一神アテンのシンボルです。
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アクエンアテンが死んで、後を継いだ少年王ツタンカーメンは、重臣や神官に諭(さと)されながら、昔の宗教、つまり多神教に回帰していきます。そしてツタンカーメンが死ぬ(暗殺かも知れません)と、重臣たちはこの親子の存在を抹殺しました!ツタンカーメンの黄金の副葬品の多くは父アクエンアテンのものです。ツタンカーメンの死後、重臣や神官は王名表を操作して親子の名を抹殺し、父王が強要した邪教、唯一神で太陽神のアテン、が二度と日の目を見ることのないよう、親子が使っていたすべての物を息子のミイラと共に小さな墓穴に埋めてしまったのです。次の写真はツタンカーメンの墓のCGです。たった十数段の階段の先に小さな部屋が4つあるだけの墓でした。
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アクエンアテンとその息子ツタンカーメンの存在が確認されたのは近代になって考古学的調査が進んでからです。

昔、王(ファラオ)の墓はマスタバと呼ばれる台形をしていました。
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それが段々と豪華になり、ピラミッドが生まれました。
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しかし、今から3千5百年程前にピラミッドの建設は終息し、第18王朝のアメンヘテプ2世Amenhotep II(在位紀元前1551―1524)、ハトシェプストの父トトメス1世Thutmose I(同1524-1518)の代から、凡そ450年の間、全ての王はテーベ近くの「王家の谷」に埋葬され続けたのです!

その理由は、ピラミッドのほとんど全てで盗掘が横行し、死後の平穏が損なわれていたからで、盗掘を避けるためだったようです。ピラミッド建設の資材や労力の負担が大きかったことも理由かも知れません。結局、首都テーベ近くの、監視が容易で、人里離れた不毛の谷に墓を集中することにしたのです。

墓を守る見張りも常駐させました。その住居跡が谷を見下ろす尾根に残っています。
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尾根の数か所で見張れば谷全体を監視でき、不審者はすぐ発見できます。

谷の近くにはデル・エル・メディナDeir el Medinaと呼ばれる町が在りました。ピラミッド山Al Qurnの、王家の谷と反対側の山裾です。
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この町は、ツタンカーメンの墓の発掘が行われていた1922年、別の発掘隊によって発見されました。出土した土器や石灰岩の欠片には住民の生活が事細かく記されていて、王家の谷の管理や墓穴工事や内部の装飾などに携(たずさ)わる人々の町だったことが判りました。
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この町の住民は、王家の谷のどこに、どんな副葬品があるか、熟知していました。生活が苦しくなると、墓の盗掘に加わったようです。逮捕されると、盗みに使った手ということで、棒で叩き潰されたり、切り取られたり、時には斬首(ざんしゅ)されていたようです。

墓穴の奥には玄室があって、数10トンもある石棺sarcophagusが安置されました。
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中に収められる遺体には死後の幸運を願うお守りがリネンの包帯と共に巻き付けられていました。
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(上の銀のお守りは「アンク (Ankh):エジプト十字」で「生命」の意です)

死後の世界で何が必要になるかは前もっては判りません。そこで、思いつくもの全てが副葬品として埋葬されました。黄金、娯楽品、寝具、装飾品、さらには目覚めた時に空腹を満たす食糧、ビール、ワインも。身の回りの世話をしてくれる召使の人形シャプティも箱に詰めて埋葬されました。
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こうして紀元前1500年頃から450年間、全ての王は王家の谷に埋葬され、墓は70基ほど見つかっていますが、複数の遺体が埋葬された墓もあり、結局、数百のミイラが眠っていたようです。

しかし、第20王朝最後のラムセス11世Ramesses XI(~紀元前1070年)が王家の谷に埋葬され、エジプトが第三中間期と呼ばれる衰退期に入ると、王家の墓はパタッと使われなくなりました。力を蓄えていた宗教集団の司祭が実権を握り始めたのです!司祭たちは、王家の谷に埋葬されていたミイラを可能な限り見つけ出し、谷の外に新たに掘った穴に集団埋葬しました。盗掘で安らかな永眠が妨げられないようにとの配慮からのようですが本当の理由は不明です。以降、司祭が王になったり(!)、地中海沿岸では「海の民Sea People」に多くの町が襲われたり、リビアやヌビア(スーダン)の部族長が国王になったりして、エジプトは混沌とし、王家の谷は忘れ去られてしまいました。

これで盗掘が一段落した訳ではありませんでした。紀元前670年にはアッシリア人が、その後、ギリシャ人やローマ人がエジプトを侵略し、彼等の中には王家の谷を訪れ、墓穴に入って残っていた宝物を持ち出したり、記念に、と言って壁面に落書きしたりする者も多かっのです。こうして王家の谷の墓は荒(すさ)んでいきました。
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しかし、侵入者による墓の損傷は、自然の猛威と比べれば僅かなものでした。数百年ごとに降る大雨で、水や土砂が谷底に押し寄せ、多くの墓が水や瓦礫で埋まっていきました。
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こうして暫くの間、墓の中の王の霊はまた静かに眠ることができたのですが、隠れた遺跡を見つけ出す者はいつの世にもいるのです。遺跡を見つける者だからといって学者タイプとは限りません。イタリアのサーカス団で強力(ごうりき)役のジョバンニ・ボルゾーニは1816年にエジプトを訪れました。
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彼には若干の水力学の知識がありました。持ち前の感と水力学の技術を活かし、王家の谷で探索を始めます。そして1817年10月16日、ある墓の中に入ったのです!
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それは、王家の谷の中でも最高の墓と言えるでしょう。入り口から玄室まで100mも通路が続くもので、壁の装飾も見事でした。
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セティ1世Seti Iの墓でした。彼は王国を建て直し、絶大な権力を持った王です。
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玄室の天井は、高さ6mで天空の様子が描かれていました。
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墓に在った黄金の小さな置物やお守り、石像などをイタリアに持ち帰った彼は、自分の発見を自慢しました。

彼が持ち帰った宝物を見せてもらったり、自慢話を聞いたりした人々は、我も我もとエジプトを訪れ、宝探しを始めます。
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おかげで墓は荒らされ放題!見事な壁画も傷つき、豪華な埋葬品や石像は盗まれてしまいました。これに怒(いか)ったエジプト政府は、1858年、部外者の発掘禁止令を制定し、以降は政府の管理下で発掘が行われるようになったのです。

以降、特記すべきは、何んと言ってもツタンカーメンの墓の発掘でしょう。1922年でした。次の写真には彼の墓が写っているのですが・・・
中央正面はラムセス6世の墓の入口。で、ツタンカーメンの墓は、手前の、広場にある囲いの下です。
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彼の墓を入口側から見ると次の通りです。
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奥で列をなす観光客はラムセス6世の墓に入ろうという人達で、ツタンカーメンの墓を見学する人達は手前の、階段の下にいる人達です。人数はラムセスの墓の見学者と比べたらわずかなものです。既に説明させて頂きましたが、ツタンカーメンの墓は規模が小さく、内部の装飾も少なく、黄金を持ち去られた今となっては見る価値が低いというか見るべきものが少ないのです。

それに引き換え、ラムセス6世の墓は絢爛豪華です。内部を見てみましょう!入り口から真っ直ぐ、少し下りながら伸びる通路の真ん中あたりで撮影されたGoogleEarth写真です。
まずは奥の玄室に向かう通路
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その場所の天井
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入口側通路
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左側の壁
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右側の壁
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ツタンカーメンの墓の発見で、王家の谷での大発見は打ち止めだろうと思われていましたが、70年後、新たな大発見がありました。1979年からレーザー・カメラを使った調査が始まりました。
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カメラを使うと3次元で墓穴のディメンションや、壁・天井の壁画を取り込むことができました。この作業はエジプト政府が考古学者ケント・ウィークEgyptologist Dr. Kent R. Weeksの指導の下で進めた「テーベ地図作成プロジェクト(Theban Mapping Project)」と呼ばれるものです。
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主な目的は王家の谷に掘られた全ての墓の正確な地図を作ることでした。
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古い墓穴では通路が左右に折れ曲がったものもありますが、新しいものは大体、入り口から玄室に向かって真っ直ぐ下る通路が掘られています。
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山の上から撮影した次の写真の中央右側の広場にツタンカーメンの墓KV62が見えているのですが、その20mくらい奥(北側)にはアブシンベル神殿を造ったラムセス2世の墓KV7があり、観光通路を挟んでKV5と番号が付けられた墓がありました。
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KV5の通路は瓦礫で埋まり、内部調査は困難を極めたのですが、地中貫通レーダーで調べたら空洞が見つかりました。
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1995年、側壁で隠されていた通路に入ると一番奥にラムセス2世が立っていたのです!
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通路の両側には沢山の部屋と、更なる通路もありました!
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それはあたかも地下に埋められた大きな宇宙船のようでした。
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ツタンカーメンの墓と比べるとKV5の規模が判ります。
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結局、新たに見つかった部屋数は130余で、更に見つかりそうです。ラムセス2世の像があることから、一族の墓にするつもりだったようで、男や女の棺も見つかっています。ラムセス2世自身は90歳まで生きたのですが、合計で50人程いた息子の多くが彼より早く死にました。娘たち、さらには孫たちを考えると、玄室は200くらい造っておかねばと考えたようです。

2006年、このKV5の入口から数mのところに竪穴が見つかりました。発見したのは別の考古学者です。竪穴に続く横穴に、7つの棺と沢山の甕(かめ)がありました。
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「王家の谷には、まだミステリーが隠れている」とYoutubeは結んでいます。
Youtube: Secrets Of The Valley Of The Kings
https://www.youtube.com/watch?v=BqaJrSWwXmA
(完)

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mh徒然草―55: 定期の方が損?

(特番の関係で公開日を変更しました。)

8月13日のことです。ネット新聞に次の記事がありました。
見出し:天神の駐輪場、定期の方が損、福岡市「料金見直さない」
「福岡市天神駅の市営天神自転車駐車場料金は1日50円。30日使っても月当たり1500円で済むのに定期にすると1900円で、利用者から「どうなってるの?」という問合せが出始めた。」

出始めた、っていうのは・・・この料金システムは4年前から続いてたんですが、「定期が割高だ!」って利用者が騒ぎ出したのがつい最近ってことです。

記事によると、4年前の2011年末、駅前の不法駐輪を減らそうと、福岡市は実験的に料金を安くしたのですが、その時、定期料金の見直しを怠ったんですって。駐輪場利用者は、発券機に10円玉5個か、50円玉か100円玉を入れてお釣りを受け取るかしてから駐輪券を入手し、恐らく入り口にいる管理人に券を渡してから駐輪するのですが、通勤で頻繁に使う人は「これでは不便だから定期に換えて見せるだけで済むようにしたいのに、定期料金の方が高いなんて、おかしいじゃん!なんとかしてよ!」って言っているようです。定期の金額を毎日使う50円x30日=1500円よりも安くしてほしいってことだと思います。

しかし、市は「定期は市内共通で、天神駅の駐輪場だけ安くするわけにはいかないので、利用者には説明して理解してもらう」との考えです!!!

以上のニュースは次のURLでご確認頂けます。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/188370

念のため福岡市の駐輪料金をネットで確認すると、「一日1回:自転車は100円、原付は150円、その他;回数券、定期券あり(1,3,6ヶ月)」となっていました。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/doro-gesuido/rosei/hp/parking.html
定期料金を確認したらニュースの通り通勤者向けは1900円/月でした。「定期券で買っておくととってもおトクです。」との謳(うた)い文句入りの料金表がありました。
http://www.chari-angels.com/info/info_2.shtml
私の住む横浜市の市営駐輪場料金は福岡市とほぼ同じです。実験的に料金を50円にしたことがないので、定期料金の方が割安です。
http://www.yokohama-ankyo.or.jp/bicycle/info.html

皆さんは、天神駐輪場の料金システムはどうあるべきだと思いますか?
*市の結論通り、料金の改定はしない。
*料金の改定をする。

料金を改定する場合は、1回の料金を50円から元の100円に戻すか、定期料金を1900円から、例えば1400円に下げるかなど、どの金額をどう改定するか、とか、それを天神町だけで留めるのか、それとも市全体に適用するか、など少し頭を使わないといけません。

で、お役人は、結局、頭を使わない方法を選んだんですねぇ、ニュースによれば。つまり「現状のままとし見直さない」のが福岡市のお役人の結論です!

お役人は、面倒な事はしたくもないし考えるのすら嫌なんですねぇ。市民の不便や不満はほっぽらかしです。ま、福岡市に限らず、我が横浜市も、いやいや日本全国のお役人も、同じ傾向が強いです、皆さんも先刻お気付きでしょうけれど。

私はこう思います。どう考えても、今の料金システムは問題があります。よって、料金を改定し、矛盾を解消し、利用者も市も折り合いを付けて市政の財税確保、市民の利便の確保、を図らねばなりません。

福岡市の財政については情報もないので判りませんが、恐らく、他の大都市同様、借金経営でしょう。本来なら税金Upかお役人の給料カットが必要な状態のはずです。そこにもってきて、天神駐輪場だけ1回の利用料金を50円に据え置くのは市の財政を圧迫するし、天神町以外の駐輪場利用客から見れば不公平です。この際、市全体で、1回50円、定期は1300円、とでも見直すと自転車利用者はみんな喜ぶのでそうしたい気分もあるかもしれませんが、ここは心を鬼にして、50円の実験は終了し、元の100円に戻すべきでしょう。それが筋というものだし、それで文句を言う利用者は自分のことしか考えない人でしょうから無視しておけばよいと思います。

しかし、こんなことも決めないお役人では市民の生活や財産を守ることは期待できませんねぇ。福岡市の市民の皆様、ご愁傷さまです!

9月4日追記:
TV朝日「モーニングバード」で料金システムについて報道がありました。天神町では不正駐輪は大幅に減っているようです。定期利用者は激減し40人になったようですが、定期を使い続ける人によると、市内の他の駐輪場も定期で利用できるメリットがあるからのようです。従って天神町の定期料金を安い方向に見直すと、みんな天神町で定期購入することになり、他の駐輪場の定期料金と整合しなくなるため、天神町だけ見直すのは矛盾があると言ってました。なお、天神町の駐輪料金の見直しや市の対応をどうしたらよいのか、については番組ではコメントはありませんでした。福岡市に気兼ねしてるんでしょう、多分。大阪では子供たちが書いた「ここに駐輪しないで下さい」というお願いの絵のタイル(?)を路上に張り付けたところ、不正駐輪は60%減ったとのことで、スマートな方法だと思います。

10月7日追記
福岡市の道路管理課が天神駐輪場の料金は据え置くと公表した記事を見つけました。
見出し「天神駐輪場は、これからもずっと24 時間営業・利用料金50 円です!!」
「天神地区の放置自転車対策として,平成23年10月より天神駐輪場の24時間営業や,自転車の一時利用料金を50円にする社会実験を実施しておりますが,駐輪場の利用向上や放置自転車の削減に一定の効果があったため、平成25年4月1日より、本格実施いたします。」
福岡市・道路管理課の料金据え置き宣言は次のURLでご確認下さい。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/38202/1/tenjinntyurinjyohonkakujissi.pdf

放置自転車が8%減少したので、今後も続けるとの決意表明です!勿論、天神駐輪場だけで、他には拡大展開していないと思いますよ。結局、天神周辺の住民はゴネドクです。料金は半分にしても8%しか改善していないのに「成果が出たから、天神だけ半分料金を継続する」なんて発想のお役所に公平で的確な運営を期待できるとは思えませんねぇ。福岡市民のみなまさ、ご愁傷さまです。

Rita Coolidge - I'd Rather Leave While I'm In Love
https://www.youtube.com/watch?v=iV8XnQGX_GA

(完)

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スフィンクスの不思議

ギザのピラミッドはブログ「世界の七不思議:ギザの大ピラミッド」(2014-10-06)でご紹介しました。今回は、ギザではピラミッドの守護神と考えられているスフィンクスです。
次のスフィンクスはカイロ博物館収蔵品で、王女ヘテフェレス2世(クフの娘)と考えられています。
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後に触れる仮説と関係ある像ですが、ここでは仮説の詳細は伏せ、重要な問いを投げ掛けておきましょう!
「ライオンの体に載った女の顔は最初から彫られていたのか?それとも後で彫られたのか?」

ギリシャ神話の「スフィンクス」は女と決まっているようですね。広く知られる謎々Riddleがあります。旅人が通るとスフィンクスが「朝は4本足、昼は2本足、夕は3本足のものは何か?」と謎を掛け、答えられない旅人は首を絞められて殺されます。このスフィンクスを懲(こ)らしめたのがオイディプスOedipusで「それは人間だ!何故なら、子供の時は手と足の4本でハイハイし、成人になれば2本の足で立ち、年を取ると杖をついて3本で歩くから」と答えると、スフィンクスは山から身を投げて死ぬのです。実は、答えには、別にいくつかあるのですが、どれも哲学的というか捻(ひね)り過ぎと言うか、要はmhのような凡人には理解しがたいものなので、ここでお教えしても「そうなの?それでぇ?」と言う間の抜けた反応しか頂けないと思いますから(?)省略しておきます。なお、オイディプスは神話の中の人物で、その点はスフィンクスも同じです。

エジプトでスフィンクスの像が初めて造られた時、何と呼ばれていたかについては記録がありません。後世に造られた「夢の碑文Dream Stele」では「ホル・エム・アケトHor-em-akhet (地平線のホルス;隼の神)」と呼ばれています。その碑については、おいおい解説させて頂きます。ってことで、スフィンクスについては謎だらけですねぇ!

体は動物で顔は人間で、時には翼も持つスフィンクスですが、初めて出現したのは今から1万年以上も前の紀元前9千5百年頃で、トルコのコルティク・テペKortik Tepeで発掘された土器に描かれていました。
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ひょっとするとこれか?という別の写真もありましたので念のため載せておきますが、紀元前9千年にこんな高度な芸術品を造っていたとは思えませんから、違う時代の違う場所で造られたスフィンクスだと思います。
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他のスフィンクスの例をご紹介しておきましょう。
アッシリアの神ラマススLamassu:紀元前721年。シカゴ大学所蔵
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古代ギリシャの聖地デルフィDelphiのスフィンクス。女です。
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ペルシャ帝国の首都の一つスサSusaのダレイオス大王Dareios Iのスフィンクス:紀元前480年
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ハトシェプスト葬祭殿のハトシェプストのスフィンクス:カイロ博物館所蔵
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今回取り上げるスフィンクスは勿論「エジプト・ギザの大スフィンクス」です!
次の写真は今から約160年前の1858年に撮影されました。かなり砂に埋まっています!後方はクフの大ピラミッドです。
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Wikiによれば「一枚岩から彫り出された世界最大の像。いつ造られたか判っていないが、頭はカフラー王Khafra(在位:紀元前2520年~2494年)のものではないか、と信じられている」とあります。カフラーだと言う根拠はスフィンクスの後ろに彼のピラミッドがあり、スフィンクスの脇を通る道Causewayが彼のピラミッドに続いていることと、前述の「夢の碑文Dream Stele」(実はスフィンクスの2本の前足の間に建っています!)に「Khaf」と(勿論ヒエログリフで)記されているからです。別に見つかっているカフラー像の顔と似ていると考える人もいるようです。スフィンクスとピラミッドの位置関係は次の地図でご確認下さい。
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その他の有力な説は、スフィンクスはカフラーではなく、彼の父クフKhufuではないかというものです。どちらであろうが、また、この二人でなくたって、私たちの暮しには何の影響もないのですが、実は、今回のブログは「ピラミッドは誰が建てたのか?誰の顔か?」を解き明かそうというものでして、これから長々と続く解説は寛容と忍耐を持ってご覧戴かねばなりません!ご容赦下さい。

ネット上には、スフィンクスに関するYoutubeは沢山ありますが、1時間以内で、手っ取り早く解説してくれる次の2つをチェックしてみました。いずれも50分程度で、テーマは「誰がスフィンクスを造ったのか?」でした。もしご関心があれば、このブログを読み終えてからご確認下さい。
Riddle Of The Sphinx(スフィンクスの謎々)
https://www.youtube.com/watch?v=JSrnWXmQ_bw
Sphinx - Mystery In Stone
https://www.youtube.com/watch?v=vFk7f84WTNM

mhの結論を言うと、確固たる証拠もないまま、わずかな手掛かりから2人の考古学者が異なる持論を主張しているだけで、さて、どうしたものか・・・と悩んでいたら、Smithsonian.Com(スミソニアン博物館は関係ないようです)で公開されているビデオが見つかりました。異なる学者が、テーマ別に、美しい映像で、かつ判り易く解説してくれるもので、今回はこれに従ってご紹介させて頂きます。
4部作です。
1)The Pharaoh Who Found the Sphinx
スフィンクスを見つけたファラオ
2)This Wasn't Supposed to be a Sphinx
実はスフィンクスじゃなかった(!!??)
3)Whose Face is on the Sphinx?
スフィンクスは誰の顔か?
4)Who Built the Great Sphinx?
誰がスフィンクスを建てたのか?

1) The Pharaoh Who Found the Sphinx
世界最大の動物像のスフィンクス。
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最近、近くで石の塀(へいwall)が見つかった。
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調べてみると実はとても長い塀だった!
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スフィンクスと、その前の2つの寺院を取り囲んでいたのだ!
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スフィンクスをピラミッドの守護神だと考えている人は多い。しかし、見つかった塀が「スフィンクスと神殿の複合体Temple Complex」を全て取り囲んでいるということは・・・守護神自身が祀(まつ)られているかのようだ!!!誰が守護神で、それは何故か?

スフィンクスの2本の前足の間に「夢の碑文Dream Stele」と呼ばれる石碑が建っている。
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碑文のカルトゥーシュ(注)によれば建てたのはトトメス4世だ。
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(カルトゥーシュ (cartouche):ヒエログリフで描かれたファラオの名を囲む長円です)

トトメス4世(紀元前1419年 - 1386年)は、ギザの大ピラミッドをつくったクフ王から1千年も後のファラオだ。
「夢の碑文」上方の左右にトトメス4世が、中央に2匹のスフィンクスが彫られている。
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右側ではトトメスがスフィンクスに香を献上している。
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左側では水瓶(みずがめ)で水を献上している。
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いずれもスフィンクスは跪(ひざまづ)いてトトメスの献上品を受け取っている。

碑文によるとこうだ。トトメスが偶然この地を通るとスフィンクスは砂に埋まっていた。見えていたのは頭だけだ。近くで昼寝をすると夢にスフィンクスが現れた。「私を砂から掘り出してくれたら王にしてあげよう。」トトメスは王位継承の予定はなかったが、兄が死んでスフィンクスの予言通りになったのだ。

もしトトメスが見つけなければスフィンクスは今も砂の中で眠ったままだったかも知れない。

2)This Wasn't Supposed to be a Sphinx
ギザのスフィンクスではライオンの体に人間の頭が載っているが、アンバランスだ!体に比べて頭が異常に小さい!
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腕の長さと比べても頭が小さすぎる!
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そこで、こんな仮説が成り立つ。
「スフィンクスは永い間、頭だけ砂の上に出して埋まっていた(mh:これは事実です)。従って頭だけ風化が進んでぼろぼろになっていた(mh:合理的な帰結です)。そこで頭を削り直して今の顔ができた!(mh:この部分は仮説)」

仮説が正しいとしたら、初めはどんな顔だったのだろう?きっと、体と同じライオンだったに違いない!
古代、ライオンは神聖で偉大な動物と見なされていた。
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ライオンは力があり、権力を持つ王に相応しいシンボルだ。王が愛用する器具にもライオンの像は使われていた。
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アブシンベル神殿を建てたラムセス2世も、ペットのライオンを戦いに連れていった。
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ピラミッドが出現する数十年前からライオンのレリーフも造られている。
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多くのライオン像と同様、このライオンもメスだ。髭が無い!このプロファイルをスフィンクスに重ねるとこうだ!
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ギザのスフィンクスは当初はライオンだったのだ。スフィンクスではなかった!頭の風化がひどく、修理する時に人間の顔を持つスフィンクスに生まれ変わったのだ!
これは決して荒唐無稽(こうとうむけい)な思い付きではない!カイロ博物館に展示されているエジプト最古のスフィンクス像を見ると判る。ライオンだった頭を加工して女性の顔にしたと考えて良いだろう。ギザでも同じことが行われたのだ。
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3) Whose Face is on the Sphinx?
スフィンクスはピラミッドを訪れる人を待ち構えているようだ。スフィンクスの後ろに控えるのはカフラーのピラミッドだ。
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この光景はギザの北東の町カイロから訪れる人が最初に目にするものだ。しかし、昔は違っていた!

クフ王(在位紀元前2589年~紀元前2566年)の時代の首都は、ギザの南東約20Kmのメンフィスだ。この町から王の墓を訪れると、次のシーンが目に飛び込んできたはずだ。スフィンクスの後ろにクフのピラミッドがある!
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顔を横から見ることが当時の人々の視覚に重要な影響を与えていたことは壁画を見れば判る。エジプトではプロファイル(横顔)が好まれていたのだ!
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メンフィスから王の墓を訪れた人々は、スフィンクスがクフを守護していたと考えたはずだ!

古代エジプトでは方角は重要だった。ギザのピラミッドも正確に東西南北に面して造られている。ギザの大スフィンクスも真東を向いて座っている。しかし、スフィンクスの脇を通ってカフレーの遺体をピラミッドに運んだ道Causewayは真東に向かず、スフィンクスの方向に傾いている!
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理由はこうだ!カフレーのピラミッド建設よりも前にスフィンクスは既にそこにあった!だからスフィンクスに向けた道Causewayを造った。つまり、スフィンクスを造ったのはカフレーではない!

カイロ博物館(エジプト考古学博物館)にはクフ王の像が展示されている。
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顔の幅は広く、目は窪み、耳は前に倒れている。スフィンクスにとても似ている!
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カフレーの顔だとすると、カフレーがいつも付けていた髭がないのは不自然だ!
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一方、クフは、どの像にも髭がない!スフィンクスはカフレーではなくクフで間違いない!

そうは言っても大きな疑念は残っている。カイロ博物館のクフ像は高さが7.5cmだ!!!
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顔の類似性を検証するには不十分と言われる所以だ。

参考:スフィンクス前の2つの寺院
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“カフラーの谷寺院”(左) とスフィンクス寺院(右)

mh:ギザのスフィンクスの髭ですが、実は見つかっています!前足の間に落ちていました!
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しかし、考古学者達の意見によれば間違いなくオリジナルの髭ではありません!髭の編み方が格子状で、スフィンクスが造られた当時の水平の編み方と異なります。顎(あご)にも髭が付いていた痕跡はありません。従って、見つかった髭は、後で付けられたもので、それが崩れて足の間に落ちていた、というのが考古学者の見解です。
この髭は大英博物館に保管されています。紀元前14世紀に造られたようです。昔の髭の編み方については既出のハトシェプストのスフィンクス写真でご確認下さい。

4)Who Built the Great Sphinx?
スフィンクスはクフかカフラーが建てたようだと広く考えられている。二人ともギザにピラミッドも建てている。しかし、本当だろうか?

クフ王にはカフラーより年長の息子がいた。ジェデフレーDjedefreだ。
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考古学者たちは長い間ジェデフレーをスフィンクスの建設者候補リストから除外していた。というのは、彼は王家から追放されていたと考えられていたからだ。
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噂によれば、自分が王位を継ごうと兄カワフレーを殺害し、それがために一族から追い出されていた。そんな男がスフィンクスを建てるわけがない!
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しかし、ギザで見つかった新たな証拠がジェデフレーの悪い噂を吹き消したのだ!
クフのピラミッドの裾(すそ)で見つかった「太陽の船」。クフが死後の旅で困らないように造られ、埋葬されていたものだ。
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船を造ったのはクフ王自身だと思われていた。生前も使っていて、死後も使うつもりで解体し、ピラミッドの近くのピットに埋葬して保管したと見られていた。
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船に乗って太陽は天を回り、夜の次には必ず朝が巡ってこなければならない。だから船は死後の世界でも大切な乗り物だった。
「太陽の船」の部材は解体され、クフのピラミッドのそばに掘られたピットに整然と保管されていた。
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(mh既出の「太陽の船博物館」はこのピットから数mの場所に造られています)
そのピットの壁に、2ヶ所、ジェデフレーの名が残されていたのだ!
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ジェデフレーは王位に就いていた。だから父クフの葬儀で重要な役を務めたのだ!彼が父クフを讃えてスフィンクスを建てた可能性が高い。
(以上がVideoの紹介です)

ジェデフレーはWiki「ファラオの一覧」にファラオとして記載されています。
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彼のピラミッドも見つかっています。
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Wiki:ジェデフレーのピラミッド跡はギザから北7.5キロのアブ・ロアシュにある。
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構造はクフのピラミッドと異なり、エジプト第3王朝のピラミッドのように先に玄室をつくり、その上に建築する手法をとっている。ピラミッド自体はメンカウラー王のものとほぼ同じ大きさであったことが判明し、高台に建てたことで全体的な高さとしてはクフ王のものより高いピラミッドであったようだ。花崗岩で底辺部を覆った大変美しいピラミッドだったと推測されている。

<カイロ博物館(エジプト考古学博物館Egyptian Museum)の秘宝>
クフの坐像(高さ7.5 cm)
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ツタンカーメンの黄金の玉座
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ツタンカーメンの黄金のマスク(金とラピスラズリ)
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展示室
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博物館の外観
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ブログで紹介したSmithsonian.ComのVideoは次のURLでお楽しみ頂けます。それぞれ15分足らずです。
1)The Pharaoh Who Found the Sphinx
http://www.smithsonianmag.com/videos/category/3play_1/the-pharaoh-who-found-the-sphinx/
2)This Wasn't Supposed to be a Sphinx
http://www.smithsonianmag.com/videos/category/history/this-wasnt-supposed-to-be-a-sphinx/
3)Whose Face is on the Sphinx?
http://www.smithsonianmag.com/videos/category/history/whose-face-is-on-the-sphinx/
4)Who Built the Great Sphinx?
http://www.smithsonianmag.com/videos/category/3play_1/who-built-the-great-sphinx/
(完)

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mh徒然草60(特番) 沖縄の悲しい歴史

今日9月21日、ネット新聞記事を見ていたら、「伊丹空港から韓国へ、チャーター便出発」の記事がありました。

「兵庫県などの国際交流事業のため、韓国へ向かう国際チャーター便が20日、伊丹空港を飛び立ちました。今回の国際チャーター便は、日韓国交正常化50周年にあたって、兵庫県が友好関係にある韓国のキョンサン南道と交流を深めるために用意されたものです。井戸敏三知事や伊丹市の藤原保幸市長ら、約140人が乗り込みましたが、思惑は他にもあります。」に続いて「伊丹空港に対する利用規制を見直していただければ、ありがたい(伊丹市 藤原保幸 市長)」とありました。
つまり、伊丹空港の利用者減で収入が減って困っているので、飛行機離着陸枠を広げて沢山の飛行機が来るようにしてほしい、ということのようです。
http://www.mbs.jp/news/kansai/20150921/00000009.shtml

たった一回きりのチャーター便を立てて、知事や市長や、恐らく、お付きの公務員が、未確認ですが多分公費で韓国旅行・・・こんなことで利用枠見直しの役に立つんですかねぇ。はなはだ疑問です。利用枠見直しが実現しなければ、税金が公務員の団体旅行に使われた市民は踏んだり蹴ったりです。やっぱ、地方自治体の発想は貧弱だと思います。プレミアム商品券の乱発も酷いと思ってます。

確か、伊丹空港については、昔、危険なので便数や飛行時間帯を制限してほしいと自治体が要請していたはずで、流れが逆転しています!全く同じことは、成田や羽田の空港でも起きています。発着枠の取り合いです。飛行機の便数を増やしたいのなら、沖縄の普天間飛行場の機能を分けてもらえばよいのに、その話は出ていませんから、みんな随分身勝手なんだなぁと思います。

沖縄では、仲井真前知事が認めた「普天間基地の辺野古移転」を翁長新知事は撤回しようとしています。この撤回を公約して翁長氏は知事選に勝利したのですから、それが沖縄県民の過半数の望みでしょう。しかし「辺野古反対派を殴った男、傷害容疑で逮捕」という事件も3日前に起きています。
「沖縄県警名護署は20日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先の名護市辺野古で反対運動をしていた男性を殴ったとして、同県西原町の土木作業員の男(40)を傷害容疑で、他の2人を器物損壊容疑で逮捕した。」
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150921-OYT1T50046.html

県民の中には、基地がらみの工事や、土地の売却・賃貸などで利益を得る人がいて、そういう人はどちらかと言えば移転推進に賛成しているようです。

しかし、移転撤回を公約して当選させてもらった翁長知事としては、公約を果たすべく必死に行動する義務があります。かねがねブログでもmhの考えを披露させて頂きましたが、どう考えても、沖縄の基地負担は「本土」と比べて異常で、いかなる手段を採ろうとも、負担軽減を図るべきだと思います。

しかし、関連記事を調べていると、次の記事も見つかりました。
「翁長知事はなぜ「那覇軍港の浦添移設」を容認・推進するのか」
記事の投稿者は、翁長知事が「軍港の移設を容認または推進している」ことに反対しています。辺野古移設や普天間基地継続使用も反対、つまり沖縄の米軍基地の拡大には反対の立場の人で、全方向で基地縮小をすすめるべきだ、との論調です。その立場から、軍港移設と拡大を認めている翁長知事はダブルスタンダードだと非難しています。
http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/0e8adc4a20fdf88303e7d40bf68f16c8

この軍港の移設に関しては、桜井よしこ女史の対談記事でも取り上げられていました。
「浦添の軍港移設だけは認める翁長沖縄県知事の論理矛盾」
『週刊ダイヤモンド』2015年9月5日号
櫻井女史のオフィシャルサイトなら、どんなコメントか見るまでもなく内容は推察できると思いますが、要点は翁長知事のダブルスタンダードの非難です。こんな人の主張が正しいわけはない、といった論調です。
http://yoshiko-sakurai.jp/2015/09/05/6116

伊丹空港、成田空港、羽田空港でもそうですが、昔は空港の縮小を要求していた人々でも、一旦、経済的な恩恵を受けると、手のひらを返して経済効果の復活、拡大を願望しています。沖縄の米軍基地は、基地そのものから落ちるお金や、基地を置かせてもらっているという負い目で政府が支給する手厚い補助金による経済効果は甚大です。沖縄県民は「本土」の税金の恩恵にどっぷり浸り、感覚が麻痺しつつあります。そんなこともあって、飛行機は落ちる可能性が高いから困るけれど、安全な船は沖縄駐留を続け、お金を落としてほしいと翁長知事は考えて、軍港賛成、基地反対を唱えているかのようです。勿論、お金はいらないから基地を失くせ、と考える人もいるでしょう。しかし、一旦、他人のお金で好い目を見ると、それを捨てるのは難しくなります。75年前に日本政府が始めた戦争で沖縄では大勢の人が死に、それでも日本政府の支援に頼らざるを得なかった、それ以外に選択肢がなかった沖縄県民は、自立する手足をもがれ、今も、心の痛手を引きずっているようです。もし翁長知事が、飛行場は危険だから減らし、その分、軍港を拡張してお金を落としてほしいと考えているなら、辛い歴史を体験した沖縄県民の悲哀が成せる間違った判断だと思います。

政府の支援がなくても、やっていける自然の恵みが沖縄にはあるし、本土や外国との漁業や経済の交流だって可能だと思います。政府が恵んでくれる支援金を忘れ、自立する決意がなければ、辺野古移転の撤回は不可能でしょう。逆に、その決意さえあれば、撤回は可能だと思います。日本政府が撤回を認めなくても米国が、日本国民が、沖縄の米軍基地削減を支援するはずです。日本政府の支援金を減らされても基地縮小を進めることが沖縄県民の総意となるか?見届けたいと思います。

なお、ご参考ですが、辺野古は名護市にあり、稲嶺市長も移転反対の立場ですから、国が移設を強行するなら県と市の意向を排除して強制執行することになり、大きな傷が残ることになります。また、辺野古移設が実現すれば普天間が返還されることは日米で合意済みです。

昨日の9月22日、ジュネーヴの国連人権理事会で翁長知事が2分間のスピーチをしました。その全文が見つかりました。
「沖縄県の翁長雄志知事が、ジュネーヴで行われた国際連合人権理事会(United Nations Human Rights Counci, UNHRC)の第30回定期会合に出席して、政府が進める普天間基地の辺野古移設を進める政府を厳しく非難しました(9月22日)。」
http://hi-hyou.com/archives/3337
知事は、辺野古への移設反対を主張していましたが、普天間については一言も触れていません。昨日のTVニュースステーションでは会議に出席していた日本政府側の女性が「危険な場所にある普天間飛行場の閉鎖のためにも辺野古移転は進められるべきだというのが日本政府の考えです」と翁長氏の発言をフォロー(反論)していました!

実は初めて「Yahoo知恵袋」で辺野古移設と普天間閉鎖についてどんな関係があるのか公開質問したところ1,2時間の内に5件の回答を戴きました。基地と経済との関係を切り離せられない人々が沖縄県民にも少なからずいて、それが問題の解決を難しくしていることを再確認しました。

翁長知事のダブルスタンダードを糾弾し、翁長知事を切り捨てようとする桜井女史は、沖縄の苦悩を理解していないと思います。厳しい状況にいる翁長知事には同情します。しかし、辺野古移転を公約して県民に選ばれた以上、これを実現すべく最善を尽くすのが義務だと思います。合わせて普天間飛行場や那覇軍港の浦添移設についても県民の意向に沿って進めないと、辺野古問題も解消しないでしょう。

日本の国防の在り方は見直されるべきだという安倍首相の考えは正しいと思いますが、どう見直すかが問題で、沖縄の負担過剰については、まず改善されるべきだろうというのはmhの立場です。しかし、国会議員数削減を公約した自民党や民主党も、実行を放置していますから、全く信用なりません!次の選挙ではそんな人には投票しないようにしましょう。公約を無視しても当選させるようなら、選挙民はその政治家からなめられてしまいますよ。

Jackie Wilson (Your Love Keeps Lifting Me) Higher and Higher lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=GcwqCmEi9Jc
(完)

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