Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

エデンの園の不思議

不思議な質問:エデンの園は実在していたか?とすれば何処に?

エデンの園The Garden of Edenは旧約聖書(ヘブライ聖書)で現れる楽園(パラダイスparadise)です。

旧約聖書が生まれた経緯については5月18日公開「デイビットとソロモンの王国???」でご紹介しましたが、仏教徒の読者諸氏は、その時理解しても、今は記憶に残っていないのではないかと思いますので、簡単に、いや、いつものようにダラダラと長くなるかも知れませんが、おさらいしておきましょう。
Wiki:旧約聖書
キリスト教及びユダヤ教の正典。一部はイスラム教聖典「クルアーン(コーランQuran)」にもなっています。これを書いたのは、神が与えてくれた土地「イスラエル」からバビロンに捕囚されたイスラエル人(ユダヤ人)でした。

Wiki:バビロン捕囚(バビロンほしゅう)
新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちが、バビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され、移住させられた事件を指す。バビロン幽囚、バビロンの幽囚ともいう。
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紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。
エホヤキムの息子エホヤキンが王国を嗣いだが、ネブカドネザル王は謀反を恐れ、エホヤキンや王族をはじめとしてエルサレム市内の若者や職人たちのすべてをバビロンに連行させた。その数は10,832人に達したという。エホヤキン王の叔父ゼデキヤが王位を継承したが、紀元前586年、エルサレムは破壊され、ゼデキヤ王以下ユダヤ人たちはバビロンへ連行された。

つまり紀元前6世紀、新バビロニアの王ネブカドネザルの軍によってイスラエル(注)の首都エルサレムは焼き尽くされ、住民1万3千人ほどが捕虜としてメソポタミアの南部にある町バビロンに連行され、イスラエルは世界から消滅したのですが、捕虜たちはエルサレムを偲び、身に降りかかった悲惨な運命を嘆き、反省をこめて後にヘブライ聖書と呼ばれる叙事詩を書き上げたのです。
(注)イスラエル
古代イスラエルは、ソロモンの死(前931年)の後、部族間の抗争で北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。以降、エルサレムJerusalemは正しくはユダ王国の首都だったのです。
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ヘブライ聖書は、勿論、ヘブライ語で書かれた書物(巻物)す。
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文字は音を表す記号、所謂(いわゆる)表音文字で、漢字のような有意文字ではありません。形は楔形文字(cuneiform)に似ています。
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楔形文字はメソポタミアに住んでいたシュメール人が紀元前3千年頃に使い始め、中近東やアナトリア(トルコ、古代ヒッタイト帝国)にも広まった文字ですから古代イスラエル人(ユダヤ人)が使ったヘブライ文字が楔形文字に似ているのも頷(うなず)けます。イスラエルは紀元前6世紀に消滅し、古代ヘブライ語も使われなくなったのですが、19世紀後半、世界各地からユダヤ人がパレスチナの地に戻り始めると、共通言語として、祖先が使っていた古代ヘブライ語に近い現代ヘブライ語が生まれました。
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現代ヘブライ語は1948年に建国されたイスラエル国State of Israelの公用語となり、もう一つの公用語アラビア語とともに国内で使われています。

で、古代ヘブライ語で書かれた旧約聖書、正式にはヘブライ聖書、を構成する数十冊の書物の中で、律法(トーラー)とも呼ばれる「モーセ五書」は次の5つから構成されています。
1.創世記Genesis(ヘブライ語の原題は「初めに」の意)
2.出エジプト記Exodus(同「名」の意)
3.レビ記:Leviticus(同「神は呼ばれた」の意)
4.民数記Nunbers(同「荒れ野に」の意)
5.申命記Deuteronomy(同「言葉」の意)

2番目の「出エジプト記」はブログ「エチオピアの不思議」でも触れましたが、紀元前13世紀(ラムセス2世が統治していた)エジプトで虐待されていたユダヤ人2百万人をモーセが率いて、神が定めた土地イスラエルに向けて脱出する壮大な物語です。

で、1番目の「創世記」は、文字通りこの世の始まり、つまり、太陽や地球などの天空、地球の自然、昼と夜、人類などがどのように生まれたのかを記したものです。全ては神の思い付きで創られ、わが国最古の歴史書ともいえる日本書紀とも同じ展開です。

Wikiによれば、創世記は次の構成になっています。
1. 天地創造と原初の人類
天地創造 1章
アダムとエバ、失楽園 2章 - 3章
カインとアベル 4章
ノアの方舟 5章 - 11章
バベルの塔 11章
2. 太祖たちの物語
アブラハムの生涯 12章 - 25章
ソドムとゴモラの滅亡 18章 - 19章
イサクをささげようとするアブラハム 22章
イサクの生涯 26章 - 27章
イスラエルと呼ばれたヤコブの生涯 27章 - 36章
3. ヨセフの物語
夢見るヨセフ 37章 - 38章
エジプトでのヨセフ 38章 - 41章
ヨセフと兄弟たち 42章 - 45章
その後のヨセフ 46章 - 50章

で、天地創造によれば神は次の手順でいろいろ創りました。
1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
7日目 神は休んだ。

人間は、魚や鳥より後に創られたんですねぇ!まずアダムAdamが創られました。
次の絵はバチカン宮殿システィーナ礼拝堂の「アダム創造」でミケランジェロの作とされています。唯一神のヤハウェがアダムを創った瞬間でしょう。
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で~、何からアダムを創ったかっていうと、塵(ちりdust (ヘブライ語 adamah))からだって言うんですから驚きです!

エバ(Eveイブ)はって言うと、アダムの肋骨(ろっこつ)から創ったっていうんですから、またまた驚きです。2人は神が準備した「エデンの園」と呼ばれる楽園で暮らし始めました。そこで蛇の誘惑に負け、神の命令に逆らって禁断の実(善悪を知る木の果実)を食べ、エデンの園から追放された結果、人間がドドッと増えてきますが洪水で多くの人々は死んでしまいます。その後の経緯は未確認ですが、人々が再び増え出し、平穏に暮し始めると、徐々に神への畏敬の念が薄れ始め、これに怒った神はまた、洪水を起して人々を抹殺するのですが、今度は箱舟に乗った敬虔なノアの一家だけが生き残り、水が引くと、生き延びた子孫から人類がドドッと増えて今の我々がある、という、それはそれは壮大な物語に展開していくのが「創世記」です。

話がここまで膨らんでくると、最初の質問「エデンの園は実在していたか?とすれば何処に?」の答えを探す努力は空(むな)しく馬鹿らしく思われる方が、特に我が日本の仏教信者の方には多いと思いますが、外国にはエデンの園を真面目に探している人もいるようで、そこら辺りがどうなっているのか、Youtubeを中心にご紹介いたしましょう。

その前に、最初に挙げた不思議な質問:エデンの園は実在していたか?とすれば何処に?についてmhの答えをご披露しておきます。

エデンの園はありました!このブログを読んで頂ければ、あなたも信じてくれるでしょう。「エデン」と呼ばれていた可能性すらあります。あった所はペルシャ湾で、今は海の底です。実は、かのコロンブスは南アメリカでエデンの園を見つけたとの記録を残しています。黒海とカスピ海の間のアルメニア、チグリス・ユーフラテス川の間のメソポタミア、アラビア半島のバーレーン、も宗教学者や考古学者によって候補とされています。北アメリカにあったと言う人もいるようです。しかし、今回ご紹介するフィルムを見る限り、そして何よりも科学的根拠に基づく限り、ペルシャ湾説が最有力候補と考えても好いでしょう、mhの依怙贔屓(えこひいき)かも知れませんが。

その辺りを次のYoutubeから、ご自身でご確認下さい。
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エデンの園はどこにあったのか?について古来、色々な考えが提示されていた。中には、旧約聖書の物語のほとんどは作り話だから、何処にあったか考えるのは馬鹿げている、という冷めた見方もある。
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しかし、どんな話にも、その基になった出来事や事実があるものだ。それは現実に起きていたのか?作り話か?としたら何を根拠に造られたのか?

このフィルムは一人の男がエデンの園を探す物語だ。ミズリー州立大学で中東の歴史を研究している考古学者ジュリス・ザリンJuris Zarins教授は、学生たちと共にエデンの園の調査を進めていた。
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1987年、ある有名な雑誌がザリンの野心的な見解を掲載した。
「Has the Garden of Eden been located at last?」
エデンの園の位置はついに特定された?
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「学際的(学問領域が複数に渡る)調査によって、考古学者ザリンZarinsは園を見つけ、その場所を特定できたと信じている!」

世間は彼の見解に懐疑的だった。多くの人はエデンの園は全くの絵空事だと思っていた。しかし、ザリンは他の人の意見には関心がなかった。エデンの園の探求は、彼にとって知識を追求する旅の一つでしかなかった。人間社会の根源を知るためにもエデンの園について知りたいと思っていたのだ。彼の考えが理解されるまでには時間が必要だった。

エデンの園についての情報の源はたった一つ、旧約聖書だ。何故、このような話が旧約聖書に書かれたのか?何を根拠に書かれたのか?

Missouri State Universityミズリー州立大学。ザリンの仕事場だ。
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この環境が、彼の信念の追求を可能にしてくれた。ビジネスマンだったら、エデンの園の探求などにはまり込んでいる資金や時間の余裕はない。

荒涼としたアラビアの砂漠・・・
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ギリシャ、エジプトなどと違い、考古学上の未開の地だ。
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ザリン教授は、そのアラビアである程度の名声を得ていた。彼は、アラビア半島で、聖書やイスラム教の聖典コーランThe Quranに記録されている乳香の道を探していた。

新約聖書の中には、生まれたばかりのイエスを祝福するため、土産物の黄金、乳香、没薬(gold, frankincense, myrrh)を持って旅をした「東方の三博士(Magis, Three Wise Men, Three Kings)」が登場する。
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昔、アラビアの乳香は有名だった。これを各地に運ぶ「乳香の道」も通っていた。
(下は乳香が取れるボスウェリア属植物の写真です)
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ザリンは4年間も調査を続けた。そして、とうとう、ある遺跡を見つけた。ウバールUbarだ。
「失われた都市UBARを求めて:1991年12月9日」
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mh:話が脇道にそれますが、上の記事で右上の人物Owen女史は、ザリン教授の研究助手でした。今回紹介するYoutebeフィルムに何度か現れては、思い出話やザリン教授の仕事ぶりなどを紹介してくれるのですが、話し好きで、話し上手で、フィルムの進行には欠かせないユニークなキャラクターの持ち主だと見ました。
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「東方の三博士」は千一夜物語にも現れてくる。
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イスラム聖書クルアーンによれば、イラム(注)という町が神によって破壊された。緑あふれる町だったと記録されている。そんな町が砂漠に在るとは誰も考えていなかった。ザリンの調査によれば、乳香はこの地を通って8千年間、交易されていた。勿論、イエスの生まれた聖なる地にも運ばれていたはずだ。

乳香と共に運ばれた物もあったはずだ。例えばストーリー(物語)だ。聖書にも記された可能性は高い。

mh:ウバール遺跡は中東オマーンOmanのドファールDhofarで見つかりました。
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ザリン教授たちは、ウバールUbarが伝説の都市イラムIramだと考えています。
Wiki:円柱のイラム (英語: Iram of the pillars)
イスラム聖典クルアーンに登場する伝説の都市の名称。「アード族のシャッダード王が天国の都市を地表に再現しようと、砂漠の中に何百年もの長い年月をかけて、数多くの宝石を使い豪華絢爛な住居や宮殿などから出来ている都市を造ったが、預言者フードの警告を無視したために神アッラーフによって王たちは滅ぼされ、都市は廃墟になった。」

ザリン教授の次の研究対象はエデンEdenだった。旧約聖書に現れてくる。
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ザリンは考えていた。「エデンの園の話は、ヘブライ聖書を作った人々が考え出したオリジナルの話ではない。きっと基になる話があったはずだ。その話はどこから来ているのだろう?」

エデンは実在するのか?としたらどこにあるのか?彼の調査が始まった。

最初のヒントはEdenという言葉だ。語感から考えると、ヘブライ語ではなく、シュメール語を翻訳した疑いがある。ヘブライ聖書を作成した人は、Edenという言葉をどこで最初に訊いたのだろう?

チグリス川とユーフラテス川は、アナトリア(トルコ半島)に水源をもつ大河だ。昔から変わらずに水を湛えて流れ、合流してからペルシャ湾に注いでいる。
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この2つの川の流域は、古代ギリシャ語で「河の間」を意味するメソポタミアMesopotamiaと呼ばれる地域で、古代の文明を創り上げたシュメール人Sumerianが暮らしていた。
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(下は「ウルのスタンダードStandard of Ur」と呼ばれる箱の表面の一部です。)
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mh:ウルのスタンダード
大英博物館の有名な謎の「箱」。メソポタミアの古代都市ウルで、王家の墓から見つかった。紀元前2500 年頃のもので 高さ21.6cm 幅49.5cm 奥行4.5cm。貝、ラピスラズリ、赤色石灰岩、ビチューメン(瀝青)などで当時の様子が描かれているため、発見者により「スタンダード(標準)」の名が付いたが、用途は不明。楽器、寄付金箱、などの説もある。実物が東京の国立博物館にやってきたので私も見ています!

紀元前5千5百年には既に農耕が行われていた。農耕社会を形成し、川を使って交易もしていた。
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紀元前3500年、2つの川チグリス・ユーフラテスの下流域にはウルクUrukやウルUrなどの都市国家も生まれていた。実は、彼らシュメール人がEdenという言葉を使っていたのだ。「領域の外にある耕作されていない土地」を意味する言葉だった。
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言い換えると「人間によって管理されていない土地」だ。とすれば、エデンの園はメソポタミアか、その近くにあったと考えるのが自然だ。
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聖書の多くの物語はメソポタミアから生まれたものが多い。バベルの塔もそうだ。

旧約聖書に現れるエイブラハムも、メソポタミアのウルUrの生まれだ。神に導かれて約束の地カナン(パレスチナ)を目指してウルから旅に出ている。
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エデンはメソポタミアにあったと考えても良いのではないか?ザリンは1980年代に調査を開始した。

調査のスタートとなったのは聖書「創世記Genesis」そのものだ。
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エデンの園はEdenの東側にあった。そこは緑が豊富で、暮らしやすい土地だったはずだ。最初の人間アダムAdamとエバEve(イブ)も暮らしていた。
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あらゆる種類の植物が生い茂っていた。その中に「生命の樹」と「善と悪の知恵の樹」もあった。しかし、蛇の誘惑に負け、神に禁じられていた知恵の木の実(禁断の果実)を食べてしまう。
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次いで生命の樹の実をも食べてしまったので、神は彼等が永遠に生きることを恐れ、エデンの園から追放(失楽園)し、Edenを洪水で満たしてしまう。
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Edenの位置について、ヘブライ聖書は思わせぶりなヒントを提供してくれている。Edenには4つの川が流れ込んでいたという。川の名はチグリスTigris、ユーフラテスEuphrates、ピーションPishon、ギーホンGihonだ。
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チグリス川とユーフラテス川はヘブライ聖書が作られた紀元前6世紀頃にも流れていた大河だ。しかし、残る2つ、ピーション川Pishonとギーホン川Gihonがどこにあるのかは特定できていない。旧約聖書には「ピーションPishonはハビラHavilahを、ギーホンGihonはクシュCushを流れていた」との記述がある。クシュとエチオピアの関係も記述されていた。
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Pishon川とGihon川の位置の特定は、昔から人々を悩ませていた。
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ピーションPishonはガンジス川だ、という人もいる。インドの聖なる河だ。
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そしてギーホンGihonはナイルだと考える聖書研究者も多い。
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確かに、クシュCushはナイル中流の、スーダンとエジプトの国境一帯のヌビアと呼ばれる地域だ。
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しかし、ナイルがピーションPishonやチグリス・ユーフラテス川と合流すると考えることには問題がありすぎる。
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こんな矛盾がある旧約聖書を信じるとすれば、エデンの園はどんな所でも好いということになってしまう。
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そこで、自分が望む場所をEdenと呼ぶ人が現れ出した。
ミズリー川のジャクソンJackson郡にあったと主張する男もいた。
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コロンブスはベネズエラ(南米)のオリノコ川の近くでエデンを発見したと主張した。
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極東Far Eastの中国にあったと言う人もいる。
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ザリンの調査は行き詰ってしまった。そこで彼は聖書を離れ、もっとアカデミックな分野から調査してみることに決めた。歴史だ。

Edenという言葉は世界でも最初に生まれたメソポタミア文明から来ていることを知っていた。シュメール語だ。
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そしてスーマ(Sumerシュメール)という地域がチグリス・ユーフラテス川の流域にあったことも判っている。
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シュメール人は世界初ともいえる楔形文字を発明した。
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商取引や納税の内容が楔形文字で記録されたタブレット(粘土板)も見つかっている。
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世界で初めて物語を発明し、それを記録に残したのは彼等だろう。
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シュメール人が楔形文字でタブレットに記録して残した物語「ギルガメシュ叙事詩」が見つかっている。その中には旧約聖書のエデンの園の話に酷似した物語も含まれているのだ。
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ギルガメッシュは紀元前2千6百年頃、ウルックUrukの王だった。3分の2は神で3分の1が人間だ。
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神とすれば不滅だ。死ぬことは無い。その不滅の秘密が何か?に彼は関心を持った。そして色々な魔物に会って「不滅ではない人間たちがどのように生まれて来たのか?」と聞きまくった。
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人間の男は粘土から創られた、と魔物はギルガメッシュに答えた。女は男から創られ、人々は病のない穏やかな土地で暮らしていたと言う。
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旧約聖書のエデンの話と瓜二つだ。アダムAdamも土から創られている。

大きな違いは2人が暮らしていた場所の名前だ。シュメール人はEdenと呼ばずディルモンDilmunと呼んでいた。
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人々はディルモンDilmunで病や食料などの心配をすることなく、楽しく暮らしていた。エデンとディルモンの類似性はこれだけに留まらない。ディルモンDilmunもエデンEden同様、洪水によって滅ぼされるのだ!
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一握りの人間を除いて、人々は死に絶える。
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生き残る人物の名は旧約聖書ではノアだが、ギルガメシュ叙事詩ではウツネピシュティンだ。
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ウツネピシュティンは王ギルガメッシュに永遠の命の秘密を教える。水の中に生えている、ある草を食べればよい。その草はディルモンにあるという。ギルガメッシュは壮大な旅をしてディルモンに着くと、その草を見つけて食べようとした。
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その瞬間、悲劇が起きた。蛇が現れ、その草を横取りしてしまうのだ。
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人類が永遠の命を得るチャンスは失われてしまった。似た運命はアダムとエバにも起きている。
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エデンの話はギルガメシュ叙事詩をヘブライ風に翻訳したに過ぎない。ヘブライ人はシュメール人の話を脚色して旧約聖書に潜り込ませたのだ!
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しかし、ギルガメシュ叙事詩には、エデンの園の場所について記されていない。また行き詰ってしまったようだ。

そうは言っても、一つの手掛かりは残った。シュメール人は楽園のことをディルモンDilmunと呼んでいた。Edenを見つけることが出来なくてもディルモンDilmunを見つけることは出来るかも知れない。

この事実に気付いたのはザリン教授が初めてではない。何人かの学者はEdenとDilmunが何らかの関係を持っているはずだと指摘していた。しかしザリンはDilmunが単に叙事詩の中の場所ではなく、現実に在った場所だと考えた。そして1970年代に、その場所を発見したと発表したのだ。
「過去を探して:考古学・人類学の教授ザリン博士はSMS(ミズリー州立大学の正式名称)で最も秘密に富んだ・・・」
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ディルモンDilmunは今のバーレーン辺りの古代の地名だった。
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しかし、今は砂漠が広がるだけで楽園と呼ぶには程遠い場所だ。
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なぜシュメール人はここをパラダイスだと考えたのだろう。
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そこはペルシャ湾の西海岸に面している。シュメール人も船でやってきて交易したはずだ。そして彼等は、この地をDilmunと呼んでいた!
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シュメール人がディルモンDilmunに行く主な手段は船だった。ディルモンからスーマに戻ると、彼等はディルモンDilmunの素晴らしさを語って聞かせた。
「昔から船乗りは自分の町のことは話さないんだ。いつだって遠くの町の話をしたがるんだよ。」
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「Dilmunは美しい所だ。楽園だ!」とシュメール人は考えたに違いない。
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そして、ディルモンDilmunでシュメール人の先祖となる人間も創造されたと考えた。
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しかしザリンが見つけたDilmunが楽園とほど遠い砂漠なのは何故だろう。本当にこの一帯が楽園だったのだろうか?

ザリンは古い話からエデンを探すのを諦め、ハードサイエンス(mh理論に裏付けされた科学という意味だと思います)に戻って検討を再開した。チグリス・ユーフラテス川を含む4つの川の下流域がEdenだ。従ってアラビアのどこかにあるはずだ。Pishon川とGihon川を見つけられなければ、答えは見つからない!

行き詰っていたとき、答えが下りて来た、天から!
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NASAが人工衛星ランドサットを打ち上げた。衛星からは膨大な情報が送られてきた。1980年代なら革命的な変化だった。情報は今なら誰でもネットで入手できるが、当時はそうはいかなかった。しかし幸運なことにザリンにはNASAに友人がいた。そこで、友人から衛星の画像情報を入手した。
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ザリンは自分が見つけたディルモンDilmun(バーレーン)を宇宙から見た映像を初めて見ることになった。
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それは全く、新しい局面を提供してくれた。地上で見渡すだけでは気付かないことが見通せたのだ。映像を調べていると、驚くべき発見があった。川の跡が見つかったのだ!正確には乾燥し切った川が、蛇のようにアラビアの砂漠の東側を流れていた!
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これが三番目の川Pishonに違いない!砂に埋もれていて、地上では決して見つけることが出来ない川だ。
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この川が流れていた当時、ディルモンDilmunは水の豊かな土地だったに違いない。川も流れ、岸には沢山の植物もあっただろう。動物も人間も暮らしていたはずだ。
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しかし問題がある。ピーション川Pishonがチグリス・ユーフラテス川と合流した辺り一帯は砂漠で、エデンと思われる場所がない。それに、第4のギーホン川Gihonはどこにあるのか?
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また行き詰ったが、見方を変えたら答えが見つかった。川がどこを流れていたのかだけではなく、いつ流れていたのかが重要だ!ピーション川が流れていたのは最後の氷河期だ。従って紀元前5,6千年に遡って考えればいい。
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氷河期の末期、ペルシャ湾は無かった!海面は今より500m低かったのだ。とすればチグリス・ユーフラテス川とピーション川Pishonが合流した川は、さらに数百Km流れて海に達していたはずだ!
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今から8千年前、モンスーン(季節風)の影響で特にアラビアの南部は雨も多かった。
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雑多な動植物に満ちていた。だからシュメール人はそこで人間が発生したと考えたのだ。つまり、そこはパラダイス(楽園)だったと考えた。

たしかにディルモンDilmunがあった辺りはEdenのような所だったと考えて良いだろうが、本当のEdenとしたらギーホン川Gihonはどこにあったのだろう?

聖書によればギーホンGihonはクシュと呼ばれる土地を流れている。学者達は、クシュがあったのは東アフリカだと考えている。しかしザリンはイランのザグロス山脈のことではないか、と考えた。そこにはカルーンと呼ばれる川が流れている。この川がギーホンだとすれば聖書の通りだ。Edenは4つの川が合流した川の下流にあった。今はペルシャ湾の海底だ。
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エデンの園を探索するザリン教授の調査は結論を見つけた。彼はとうとう古代のパズルを解くことに成功したのだ。

しかし、これで完全に終わった訳ではない。エデンの園の場所を特定するのが彼の最終目的ではなかった。聖書に記述されたことが事実なのか、それは一体、何を伝えたかったのかを確認したかった。
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人間がどのように創造されたのかではなく、人間社会がどのように形成されてきたのかを伝えたかったのではないのだろうか?豊富に実った果物を食べて暮らしていたという話は、農耕が始まったことを暗示しているのではないのだろうか。
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ディルモンDilmun一帯は緑だった。いろいろな種類の動物も暮らす楽園だった。
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しかし、最後の氷河期が終わると、海の水位は上昇し、エデンは海の底に沈んでしまったのだ。
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人々は北に移動していった。そして新たな土地メソポタミアで農耕を始めた。植物を食べたければ食物を育てなければならなかったのだ。
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1987年、ザリンの研究はスミソニアン誌に発表された。
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驚くべきことは、彼の見解が信心深いキリスト教徒から排斥されなかったことだ。むしろ歓迎されたと言っていい。彼はエデンの園の物語を絵空事で終わりとせず、公衆の関心事にしてくれたのだ。
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彼は、エデンの園の物語は真実かもしれないと考えた。それは、人類社会がどのように生まれたのかを解き明かすものだったのだ。
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Hunt for the garden of eden
https://www.youtube.com/watch?v=J11B6xFLYnAhttps://www.youtube.com/watch?v=J11B6xFLYnA

補足情報です。
シュメール人:礼拝者の像(紀元前2750 - 2600年)
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楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板
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Wikiギルガメシュ叙事詩
実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュをめぐる物語。主人公のギルガメシュは、紀元前2600年ごろ、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王であるが、後に伝説化して物語の主人公にされたと考えられる。最古の写本は、紀元前二千年紀初頭に作成されたシュメール語版ギルガメシュ諸伝承の写本。シュメール語版の編纂は紀元前三千年紀に遡る可能性が極めて高い。

エルサレム
紀元前30世紀頃、カナンと呼ばれていた土地において古代セム系民族がオフェルの丘に集落を築いたのが起源とされている。紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によって都と定められた。3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)が建設されたが、ソロモンの死から数年後の紀元前930年ごろに王国は北のイスラエル、南のユダに分裂、エルサレムはユダ王国の都となった。
その後、エルサレムは300年以上ユダ王国の都として存続したものの、王国は紀元前597年に新バビロニア王国の支配下に入り、新バビロニア王ネブカドネザル2世によってエルサレムの住民約3000人がバビロンへと連行された。ついで紀元前586年7月11日、ユダ王国は完全に滅ぼされ、エルサレムの神殿ならびに都市も破壊され、住民はすべてバビロンへと連行された。バビロン捕囚である。
(完)

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mh徒然草64:スーパーのバナナ売り場のお婆さん

旅行計画とブログの作成に追われているmhですが、それ以外の時間は暇ですから、女房殿と一緒にほぼ毎日、外出し、少なくとも2日に1回はスーパーマーケットを訪れます。バナナは毎日2~3本を消費するので、スーパーに行くと必ずバナナコーナーに行くのですが、そこには大抵、お婆さんがいて、バナナを手に取って選んでいます。指で押さえて硬(かた)さを確認しているんですね。傷(いた)んでいない、どちらかと言えば硬いものを選んでいるのではないかと思います。積まれたバナナのほとんど全てを手に取って、指圧確認し、結局バナナは買わずに立ち去ってしまうお婆さんや、バスケットに入れ、一旦は立ち去るのですが、戻って来て、バナナを返し、別のバナナを選び直したり、時には返したら直ぐ立ち去ってしまうんです。本当に、そういうお婆さんは多いんですねぇ。

命題「バナナを買うお婆さんは、必ずバナナを指圧確認する!」の真偽やいかん!

日ごろからスーパーでバナナを買うことが多いお方は「真」であると体感されていると思います。判断が出来ないお方は、バナナ売り場で5分間、観察して頂ければ納得して戴けるでしょう。

でぇ、何故そんなことになるのか???何事も理由を明確にしないと気が済まないmhは考えてみたんです。

最大の理由は2つです。
1)特に平日、スーパーに買い物に来る人はお婆さんが圧倒的に多い。
若い男女は平日、スーパーでバナナを買う頻度は微小です。時には幼稚園にも行っていない小さな子供を連れて買い物に来る若い母親もいたりしますが、子供を連れて買い物をするのは結構疲れるんですね。従って、こういう女性は、ご亭主と一緒の時の買い物が圧倒的に多いので、平日にはめったに買い物しないんです。また、お爺さんは、大抵の場合、長寿命のお婆さんと一緒に暮らしていて、食糧の買い出しはお婆さんに一任している人が多いので、お爺さんが単独でバナナ売り場に現れるケースは少ないんですね。

2)お婆さんは利己主義者が圧倒的に多い。
買い物に来るお婆さんは、もしお爺さんが先に逝っていれば子供と別居して一人暮しの人が多いのですが、特段の仕事も無いので時間はたっぷりありますから、食材の選択には細心の注意を払います。勿論、バナナ選びは慎重です。とにかく、山と積まれたバナナの中で量(本数x大きさ)が一番多くて、見かけが一番良くて、腐っている程度が最も少ないバナナを、時間を惜しまずに選びます。一番、を選ぼうと思うと、全てのバナナを指圧確認しないといけないんですねぇ。お婆さんが一人暮しではない場合も同じです。自宅で同居している家族のために買って持ち帰るバナナはコスト・パーフォーマンスが最良のものでなければいけません。よって全てのバナナを手に取って指圧確認します。バナナのある部分が、がっちりへこむ程押して確認しますから、そこは早く腐ってしまうのですが、自分が買うのは、自分が押してへこんだスポット1ヶ所だけですから、全て押して一番硬いものを選ぶと、他のバナナにはお婆さんの指跡が残ることになるんですが、そんなことはお構いなしで、兎に角、他の人に指圧確認されて指跡が沢山ついているものの中から最高のバナナを選びます。

1)については皆さんも文句なく同意して戴けるでしょう。
しかし2)は正しいと言えないだろう?と思われるとしたら、お釈迦様の教えを思い出して頂かなければなりません。お婆さんは利己主義者が多いのです。自己中です。他の人のことは考えません。それはお爺さんだっておなじだろうと仰るんですか?いやぁ、実は全くその通りです。人間はお釈迦様ではありませんから、欲ってものがあるんですねぇ誰にでも。特に、老人は人生に残された時間が少なくなっていますから、他の人のことなんか考える余裕がない人が多いんです。よって、バナナ売り場に来ているお爺さんも要注意ですが、お爺さんがバナナ売り場に来る頻度はお婆さんと比べるととても少ないんですね。既に述べたように平均寿命が短いことや、買い物はお婆さんに任せてしまうこともあって利己主義者の爺さんがバナナ売り場に来る頻度はお婆さんと比べたら極端にすくないんです。

我が家ではバナナを買うのはお爺さんことmhの役目です。スーパーに女房殿と出かけると、女房殿が野菜などを覗(のぞ)いている間に私はバナナ売り場に駆けつけます。そして、まず、目視で1つの房(ふさ)についているバナナの本数を確認します。同じ値段なら本数の多いバナナのセットを選ぶのが我が家の規則です。毎朝3本を消費するので、理想は6本の房。これなら2日分になりますから。この、本数を確認する時点では全くの目視で、バナナは決して手にしません。凡そ2~3個ほどの房を候補に選んだら、その内の一つのヘタの部分をつまんで持ち上げ、全方向から眺めます。指圧確認の痕跡が多いバナナはmhの厳しい目から逃れることはできません。で、もしこれが許容できるものなら、これを買い物籠に入れ、第二候補のヘタをつまんで持ち上げて目視だけで観察し、籠に入れていたものよりもよさそうなら差替え、でもやっぱ、籠のバナナの方がよさそうだったら、元に戻し、バナナ選びは完了です。時には念のため第三候補があれば、へたをつまんで目視確認して籠のものより良ければ入れ替えます。しかし、3つの候補のいずれもが既にお婆さんの指圧確認で許容可能範囲を越えてずたずたに傷んでいる場合は、その日のバナナは諦めます。

このようなルールを決めて置くと、バナナの山の全てを指先確認する必要はありません。最多でも3つのバナナのヘタ持ち目視確認をするだけですから、他の買い物客にかける迷惑も少なく済みます。

私も人並みの利己主義者ですが、見境なく利己主義を押し通すのは人間として恥ずかしいと思っていて、そんなことをなるべくしなくて済むよう、自分で事前に決めたルールに従って行動することにしています。なかなかスマートな生き方だと自画自賛していますが、女房殿に言わせると「こういう場合はこうでなきゃだめ、とか男って決めてかかることが多いのよね。だから融通が利かなくて、生活力がないのよね」と、こき下ろされ、反論できないまま半世紀ちかくの時間が過ぎていますから、これからもこんな調子が続くんでしょうねぇ。

注:今回の曲は音が出るまで5秒ほどあります。
Paul Anka - Diana
https://www.youtube.com/watch?v=5JpWEZ2BQ7I
(完)

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契約の箱とエチオピアの不思議

エチオピアについては「シバの女王の不思議(7・06)」「ソロモンの黄金の不思議(7・27)」でもご紹介しましたが、アフリカ大陸でエジプト/スーダン(エジプト文明)に次いで早くから文明が花開いた国なのです。
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「肥沃な三角地帯」の一端のエジプトとは青ナイルで繋がっているし、島伝いに幅20Kmの紅海を渡ればイエメンですから、エジプトや中東アジアから、早々と文明が伝えられたのでしょう。

今回はエチオピア帝国の発祥を辿(たど)る2010年1月オン・エアーのBBC4ch番組をご紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・
アフリカ・・・人類発祥の大陸・・・約10億人が暮らしている。
多様な種族、文化、自然に満ちた所だが、世界の他の地域と比べると知られていることが少ない。しかし今、それは変わろうとしている。最近の数十年をみると、考古学者が最も研究に注力する場所になっているのだ。
歴史はあるが記録されたものは少ない。しかし、金や芸術や伝説や種族社会が昔の出来事を伝えてくれる。
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私の名はガス・カセリー・ヘイフォードGus (Augustus) Casely-Hayford。イギリスの芸術歴史家Art Historianだ。これからアフリカの失われた王国Lost Kingdomについて調べていこうと思っている。
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今回はエチオピアだ。
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1974年、エチオピア王国は長い歴史にピリオドを打つことになった!2月に起きたエチオピア軍のクーデターで9月には皇帝ハイレ・セラシエ1世Haile Selassie Iが帝位から引き摺り下ろされた。彼は3千年の歴史をもつ帝国の最後の皇帝となったのだ。
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今はエチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopiaとなっている。しかし、人々は王国の栄誉を忘れてはいない。首都アジス・アベバの広場にはメネリク2世Menelik IIの銅像が立っている。エチオピア独立の象徴だ。
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彼が皇帝だった時代、ほとんどのアフリカ諸国は欧州の植民地だった。しかし、彼はエチオピア軍を指揮して、1880年から1896年にかけて行われたイタリアとの戦いに勝利し、アフリカで唯一の独立国としての地位を確立した。
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その勝利は他のアフリカ諸国に波及し、独立運動がアフリカ大陸に広がっていくことになる。
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しかし、私が今回知りたいのは、14世紀にエチオピアで書かれた本「ケブラ・ナガストKebra Nagast(The Glory of Kings王たちの栄光)」に載っている、3千年続いた王国の発祥についてだ。何がこの国を創ったのかだ。シバの女王や「契約の箱Arch of the Covenant」との関係だ!
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(上と下の映像を合わせて翻訳本の表紙になります)
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「紀元前950年に歴史が始まった」と記されている。イスラエルの王ソロモンと、マケダMakedaの女王、判り易くはシバの女王、という輝かしい両親の息子が初代の皇帝メネリク1世Menelik Iとなり帝国が設立されたという。

つまり、旧約聖書とエチオピアの王室や宗教との関係は、王室の正当性を裏付ける重要な要素だと言える。しかし、ケブラ・ナガストKebra Nagastに書かれていることは事実だろうか?本当にエチオピアはソロモンやシバとの関係があるのだろうか?
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私には皇帝と話すチャンスは全く残されていない。しかし助言者は見つかった。
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エチオピア正教会の先代の総主教アブネ・パウロスAbunePaulos氏だ。彼は王国と宗教の関係を知っている。
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「キリスト教の誕生より1千年前、エチオピアは旧約聖書に書かれている指示を受け入れ、1千年の間、これに従ってきた。我々はユダヤ教も受け入れたしキリスト教も受け入れた。もう3千年の間、旧約聖書に従っているのだ。」

つまり信仰と皇帝は同じ時期に発生していると言っている。また彼に寄ると「十戒」が書かれたタブレット(石板)が入った「契約の箱Arch of the Covenant」はエルサレムJerusalemからこの地に運ばれている、ソロモンの息子メネリックによって!!!
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「契約の箱とソロモンの子孫は同時にこの地にやって来た。契約の箱は我々と共にある!このエチオピアに!」
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仮にそれが事実ではないとしても、旧約聖書とエチオピアの人々との関係はとても強いようだ!

しかし問題はある。契約の箱はとても神聖で恐れ多く、誰も直接、見ることは出来ないのだ!その上、メネリックがソロモンとシバの息子だと言う証拠は残っていない!にも拘わらず、この伝説はエチオピアの人々の心に強く刻まれている!

私の旅はアジス・アベバAddis Ababaから始まる。ハラーHarar、タナ湖Lake Tana、それから北に行って・・・
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ゴンダーGondar、ラリベラLalibela、デブレダモDebreDamo、アクソンAksun、そして最終目的地イェハーYehaへ続く。
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ハラーHararの町だ。古くから栄えている。ユダヤ教徒が住んでいたが今はイスラム教徒の方が多い。エチオピアには飢饉や旱魃がつきものだが、ここでは穀物が豊富で、他にも面白いものが売られている。
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乳香frankincenseだ。寺院や教会でも使われている。
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「コーヒーを沸かす時、火にくべる(注ぎ足す)といい香りのコーヒーが出来るよ。」
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この2千年の間、エチオピアは遠く地中海の北や東まで乳香を輸出し、他の品物と交換してきた。

コーヒーは9世紀になって初めて、この地で栽培された。

これはチャー(?)でこの一帯で好く嗜(たしな)まれている。
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「刺激が強く、噛んでいると頭が冴えて興奮し、眠気は吹っ飛ぶんだ!」
宗教的な陶酔を得るためイスラム教のお祈りでも使われるという。

しかし、最も驚いたのは、この町にイスラム教徒が多いことだ。イスラム教はナイルを遡ったり紅海をよこぎったりしながらエチオピアに伝わった。そして17世紀にはキリスト教徒と共に立ち上がり、皇帝と対峙(たいじ)したこともあった。
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私はタナ湖を横切って、当時のエチオピアの首都ゴンダーGondarに向かうことにした。
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16世紀、ポルトガル人たちは2つの目的でエチオピアにやって来た。一つはイスラム教徒達の貿易ルートを乗っ取るため、もう一つはプレスター・ジョン(注)の不思議な噂を確認するためだ。彼等は、この地でジョンを見つけたと考えた節がある。
(注:Wikiプレスター・ジョン ( Prester John):アジア、あるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する。)
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ポルトガル人が見つけたのはプレスター・ジョンではなく本物のキリスト教国だったという訳だ。しかし、ポルトガル人もエチオピア軍に滅ぼされ、エチオピア王国は外部と隔離された歴史を歩み続けた。

エチオピアには数千年間、変化していないものが多い。このパピルスのカヌーもその一つだ。
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タナ湖の北のゴンドーGondorは17世紀にはエチオピアの首都だった。
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1635年、趣のある形をしたこの城の主ファサラーダスがエチオピアを統治していた。
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キリスト教とイスラム教の両宗教を拠り所とした王で、モロッコやマリなど、アフリカのどの王国よりも古い時代にこの見事な城を築いた。当時、町には6万人が暮らしていた。4百年前だから大都市の一つだろう。
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王は権力を誇示するためにこの城を造ったのではない。ソロモン王や旧約聖書と王室との関係を示して王位の正当性を誇示しようとしたのだ。その証拠が城の中に残っている。
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天井に「ダビデの星Star of David」が描かれている!
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王室がソロモンの子孫だとすれば、ソロモンの父David(デービッド;ダビデ)の星は王室と強い関係があると言える。当然、皇帝ファシラダスFasiladasもソロモンの子孫ってことになる。

他にも旧約聖書と関係するものが残っているのだろうか?

記録によれば、オランダ人は城がインドのものと類似していると見ていたようだ。確かに、そんな雰囲気もある。しかし、ここに妙な建築技術が使われている。木製の梁(はり)だ。普通、石の建造物では木の梁は使わない。
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機能的に考えれば不要だし、その上、ここでは必要以上に長い!どこかの建築物の外観を真似たのだろうか?
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キリスト教会と皇帝との関係は強かったはずだ。ゴンドーの町に古い教会が残っている。
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ファシラダス皇帝の後継者が建設したものだ。
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中の絵画は、ヨーロッパの教会や、アフリカのミッション系教会で見かける絵と全く異なっている。
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絵は漆喰の上に書かれている。
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息を飲むような素晴らしい出来栄えだ。
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天井に描かれた神は、床で礼拝する人々を見守ってくれているかのようだ。
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他にソロモンやシバ、旧約聖書との関係を示すものは無いのだろうか?

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日曜の朝、ゴンドーの東の丘の教会を訪れた。ある儀式を見るためだ。
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僧侶が信者の前で聖書を読んで聞かせている。
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アラビア語とも関係ある古代エチオピア語で書かれている。旧約聖書に使われ、ソロモン王も話していたヘブライ語と似ている。
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今、この言葉を話す人は誰もいない。しかし、聖書を読んで聞かせることが儀式の本題ではない。一番大切な物は岩山の岩窟にある。蜂の巣だ。
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そこから採取された蜂蜜は、外で待っている信者に分け与えられる。
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蜂蜜はエチオピアの一般食品の一つだ。テッジとよばれる料理の材料にもなる。しかし、ここの蜂蜜は神聖で、どんな病も治癒する力があるらしい。
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蜂蜜は地中海でも中東でも食されているが、エチオピアでは特別な意味がある。ミツバチの群れが飛ぶときに発(た)てる音が古代の王の息子の名になった。ラリベラLalibelaだ。この王と同じ名が付けられた町がゴンドーから南東200Kmに造られている。エチオピアのどの町よりも重要な意味を持つという。

ラリベラにある11の「岩の教会Rock Church」の一つ、聖ギオルゲス教会Biete Giyorgis (Church of Saint George)だ。固い岩山を彫って造られた!
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見事としか言いようがない!教会を造るために注ぎ込まれたエネルギーの大きさに畏敬の念すら感じる。
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この教会の建造に携わったのは皇帝ラリベラだ。しかし歴史書ケブラ・ナガストKebra Nagastによると、王ラリベラはソロモンの血統を引いた皇帝ではない!だからこそ彼は、教会の建設に注力し、宗教的な力を背景に政権の正当性を擁護しようと考えたのだろう。

教会への入口と、上方に設けられている窓は少し変わった形のようだが・・・
今日は日の光が当たっていないが、もし当たっていたら、建物は輝いて見えるのではなかろうか。
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(mh:ナイルの源流を訪ねるフィルムで光が当たる教会の映像がありました。)
(タイトル:Mystery of the Nile: The Gift of Ethiopia)
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(次はGoogleEarth写真。下の方に見えている、岩に掘られた黒い筋(すじ)の道を通って教会に行きます。)
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「兎に角、中を見せてもらおう。」
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ダビデの星と十字架が梁のアーチに彫られている。
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ギリシャ風のアイコンが彫られた所もあって、中世の文化の全てが凝縮している印象もある。
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何百年も前から、大勢の人がエチオピアの各地から巡礼でラリベラの11の教会を訪れている。エチオピア以外の国からもやってくる。王ラリベラがエチオピアに重要な足跡を残したことは間違いない。

この石の教会「Biete Medhane Alem (House of the Saviour of the World世界の救世主の家)」は少し大きい。壁には、これまでにも見かけた奇妙な形の窓が彫られている。帝国の起源と関係があるのだろうか?
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上のキノコ型の窓の形は日の出を表現していると考えられている。下の窓はいろいろな種類の十字が組み込まれている。
なんでこんな形の窓が造られたのだろう?
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その上、窓の四隅には木の梁のようなブロックの突起が加工されている。岩から削り出された建物だから建築上は何の意味も無く、装飾のためとしか考えられない。この教会よりも古い時代の建物を真似たのではなかろうか?それはきっと、ラリベラの人々にはとても重要な建物だったに違いない!
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王ラリベラはソロモンの血を引いていない。だからこそ、自らの正当性を擁護(ようご)しようとして、昔の重要な建物に似せてこれらの教会を造ったのだ!もっと調査する必要がある。更にエチオピアの奥地に行ってみよう。

この辺りは世界でも古くから人々が暮らしている場所だ。
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考古学者は4百万年も前に人類が暮らしていた証拠を見つけた。この高地では3千年前に既に人々が住み着いていたことが確認されている。サハラ周辺で初めて農業に牛を使ったのもこの一帯だった。
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今も続いているということは、他の場所と隔離されていると考えることもできる。その上、この辺りは海抜3千m地帯だ。
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次に行くところは、世界でも類がない所だろう。切り取られた丘「デブレダモDebreDamo」だ。
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デブレダモはエチオピアでも最も古い建築物の一つだ。6世紀、テーブル・マウンテンの上に建てられた修道院Monasteryだ。
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人々の暮しから隔離された所で、行くのには山羊の皮で作ったロープをよじ登るしかない!
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(GoogleEarthより)
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ここがデブレダモDebreDamoだ!
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この修道院が造られた時、1千人の僧侶が暮らしていたと言われている。現在は凡そ3百人だ。男ばかりで女が来ることは許されていない。
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キリスト教徒だけが暮らす社会としては世界で最も古いものだと言われている。ラリベラより5百年程前の6世紀頃、ガバメスガル皇帝によって造られた。
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岩壁の側面に足場(ランプ)を組んで建築材料や労働者を運び上げたが、建築が終わると足場は解体され、デボラダモは再び下界と切り離された。僧侶たちは俗世界から離れて祈りに専念するのだ。きっと昔からのものが変わらずに残されているはずだ。

翌朝・・・
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お祈りの時間に合わせて修道院に入ると昔から続く独特な礼拝が行われていた。
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教会の中には、これまでに見たことがある形があった。ゴンドーGondorの城の木製の梁やラリベラLalibelaの岩の教会の窓に似ているが、今回のものは正真正銘の木で作られている!
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きっと、これがオリジナルに近いのだろう。

この教会は木と石を組み合わせて造られている。
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横に走る木の梁の所々には丸い木が突き出ている。
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この木はモンキー・ヘッドと呼ばれ、ダンベルのように両端が膨らんでいて、壁の内と外で横に走っている木の梁の間に詰められた石の力で梁が膨らまないように抑えている。
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モンキー・ヘッドと名付けられた所以(ゆえん)は壁の内側から見れば直ぐに判る。サルの頭のようだ!
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この見事な木の組合せ構造のおかげで、石組みの建物は永い間、崩れずにいる。
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このような構造は2千年の間、この辺りで使われていたのだろう。ひょっとするとソロモンやシバの時代まで遡るのかも知れない。

次の目的地はAksunアクソンだ。古代エチオピアで最も多くの人々が暮らしていた首都だ。
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デボラダモが造られた時、アクソンは既に大都市だった。歴史書「Kebra Nagast」によれば2千年前に既に繁栄していた町だ。ローマ、ペルシャ、中国、そしてアクソンが当時の世界の4つの偉大な帝国だったと別の歴史書でも書かれている程だ。

そして、このアクソンに、ソロモンとシバの息子が3千年前に持ち帰った「契約の箱」があると言われている!
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エチオピア人は、この塀(へい)で囲まれたサンタマリア教会群の一画に、ユダヤ教やキリスト教の源、十戒Ten Commandmentsが書かれた石板(タブレット)が入った「契約の箱Arch of the Covenant」があると信じている。
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1974年まで、Archアーク(契約の箱)はエジプト王朝の正当性を示す証拠だった。(mh日本なら三種の神器です。)

Archアークはとても神聖なので、誰も近づくことも、見ることも、触ることも許されていない。そのArchアークが、あの礼拝堂に在ると言うのだ!だから、ここから先には行けない。
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もしArchアークがそこになければエチオピア正教会とエチオピア帝国の正当性は崩れてしまうのだ。
(Google Earthより:Arch of the Covenantがあるとされる礼拝堂Chapel)
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しかし、Archアークだけがエチオピア王国の正当性を裏付けるものではない。この礼拝堂の近くには4世紀に王アザーナが建てた教会の跡がある。
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アザーナがエチオピアの最初のキリスト教会を造ったと考古学者は考えている。考古学者が自信を持ってそう断言する根拠は彼の時代に造られた硬貨だ。
左の古い硬貨では、上の方に古代宗教を象徴する三日月と太陽がデザインされている。右の新しい硬貨では、これがキリスト教を象徴する十字架に変わっている!キリスト教への改宗がアザーナ王の時代に行われた証拠だ!
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この硬貨は、4世紀、エチオピアがサハラ周辺で初めて硬貨を使った証拠でもある。

硬貨以外にもキリストとの関係を示すものがある。皇帝が建てた石碑stelaだ。固い花崗岩で造られている。高さ30mで重さ500トンの石碑もある。1~2世紀に造られ、当時、最大の石のモニュメントだっただろう。
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石碑の表面には、テーブル・マウンテンのデボラダモ修道院で見たダンベルのようなモンキー・ヘッドの丸太と、四隅に突起がある窓が何度も繰り返して彫られている。
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ガイドの説明によれば、窓と床の繰り返しを示しているという。高層住宅だ!石碑は皇帝があの世で暮らす住居だったのだ!
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しかも、石碑の頂きは「日の出」の形をしている!
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今回の一連の旅は、やはり繋(つな)がりがあった。エチオピアの歴史は脈々と後世に伝えられていたのだ。
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石碑が建っているのは2千年前に皇帝が住んでいた場所で、従って以降の皇帝の発祥の地と言える。しかし、もっと古い、ソロモンやシバと関係する証拠は残っていないのだろうか?

ガイドはもう一つの証拠に案内してくれた。それはこの石の建物の中にある。
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記念碑だ!4世紀、旅行者達に皇帝の力を示すため、アクソンのキリスト教徒の王イザーナによって建てられた、軍隊の栄光と勝利の記録だ。
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使われているのはサビアン文字だ!

サビアンはサウジアラビアの南のイエメンとここエチオピアだけで使われていた。8世紀にはエチオピアでは完全に消滅したと考古学者は考えている。しかし、初めて出現したのは紀元前1千年頃、つまりソロモンやシバの時代だ。シバがこの地を統治した時代から14世紀後、この石碑が建てられたと言う事になる。
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アクソンの文化の源流は32Km離れた町にあると考えられている。そこに行ってみよう。
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イェハーYehaだ!旧約聖書と関係がある町かも知れない。キリスト教が伝えられる前の寺院の跡がある。
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ここでお祈りが捧げられていた。
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ここは生贄(いけにえ)の儀式が行われていた場所だ。血はこの溝に流し込まれた。
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いつ造られたのか明確ではないが、考古学者たちは、恐らく紀元前5百年頃のもので、エチオピアで一番古い建造物だと考えている。ギリシャのパルテノンより古く、ローマのコロシアムより1世紀以上前に造られた。ユダヤ教の旧約聖書と関係していた場所かもしれない、との思いが頭を過(よぎ)る。エジプト正教会の発祥の源かもしれない。

今回の旅の始めに、先代の総司教アブネ・パウロス師が私に語ってくれたことを思い出す。「従って我々はユダヤ教を受け入れた。その次にはキリスト教を受け入れた。これらを全て足せばエジプトの宗教の歴史は3千年なのだ。」
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イェハーYehaで最も興味がある場所は遺跡の直ぐ脇のキリスト教会だ。そこに重要なものが残されている。ソロモンとシバとエチオピアを関係づけるものだ!
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これは香を焚(た)く台だ。どの教会にも属さないものだ。キリスト教以前の宗教シンボルの三日月と太陽が彫られている。考古学者によると紀元前5世紀のものだという。シンボルの下には文字が・・・
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そして、同じ時代の石・・・
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いずれもサビアンの文字が彫られている!旧約聖書、ソロモンやシバの女王との関係があった証拠だ。3千年前のものではないが、そんなにかけ離れた時代でもない。2人の間に生まれた息子がエチオピア帝国を創った証拠だと考えることだって可能だろう。
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今回の旅では確実な証拠は見つからなかったが、ソロモンの流れを汲む宗教の歴史がエチオピアに残っていることが確かめられた。3千年もの長い期間、同じ系統の宗教が引き継がれ、今も続いていることは驚きだ。
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エチオピアは外部から隔離されながら、3千年の間、政治的にも宗教的にも独立した国家を維持し続けて来たのだ。
確かに帝国は数十年前のクーデターで消滅してしまった。しかし、宗教、文明、人々の生活、伝統の歴史は今も生き続けている!
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Lost Kingdoms of Africa 2 of 4 Ethiopia
https://www.youtube.com/watch?v=rrQB9GHrmCs

<「契約の箱Archアーク」に関する長~い補足>
エチオピアと、ソロモン・シバとの関係を裏付ける「契約の箱Arch of the Covenant」(アーク)とはどんなものなのか、仏教徒のあなたも十分な知識を持ち合わせていないでしょうから、mhが調べた結果を簡単にご紹介しましょう。

そもそも、箱の存在は旧約聖書に記されていたことで話題に上るようになりました。この旧約聖書は、紀元前6世紀ころ、バビロンに幽閉されていたイスラエルの民が、故郷のイスラエルやエルサレムの町などで崇拝していた神を偲びながらヘブライ語で巻物に書き記した物語というか、宗教教本でした。その巻物の記述の中に「モーセMoses」という男が出てきます。
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モーセ像(ミケランジェロ)

実はmhは、今まで「モーゼ」だと思っていたのですが「モーセ」の方が一般的のようで、あら、どうして、と狐につままれたような気分です。暇なので調べたら、モーゼは英語Mosesの発音から来ていて、モーセ又はモーセスはギリシャ語またはヘブライ語の発音から来ているようで、原典に近い後者の方が適当だろうとその筋の人が考えたことから「モーセ」が主流(?)のようです。

Wikiによれば「モーセは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者」とあります。つまり、旧約聖書が造られる7世紀ほど前に生存していた人間で、神ではありません!

「出エジプト記Exodus」によればモーセはエジプトで悪政に苦しめられていたユダヤ人を引き連れてエジプトを脱出する、つまり「出エジプト」するんです!紀元前13世紀のエジプトといえばツタンカーメンTutankhamunよりも1世紀も後の、王ラムセス2世RamesesII(在位;前1279 - 1212年頃)の時代です!そう考えると、エジプトの歴史は古いんですねぇ!

で、紀元前13世紀の大半の期間でラムセス2世(!?)がファラオでしたから、彼に虐げられていたユダヤ人をモーセが率いてエジプトから脱出する物語が、旧約聖書の「出エジプト記」だと言っても良いでしょう。英語版の解説では、モーセが連れ出すのはユダヤ人ではなく、イスラエル人Israelitesとなっていました。脱出後、イスラエルを建国する人々だからでしょう。元々はユダヤ人で、イスラエルと呼ばれる土地で暮らす人がイスラエル人だと考えると好さそうです。

ところで、何故、モーセがエジプトからユダヤ人を逃してやることになったのか?それは神の指示があったからなんですねぇ!「エジプトで困っているユダヤ人を私が定める約束の地イスラエルに逃がせ!」との指示があったんです!

モーセが引き連れていったユダヤ人の数は記録では60万人の男Israelitesと、その妻や子供達、さらにはユダヤ人ではない人もいて、総勢2百万人だったと言います!当時のエジプトの推定人口は1千万人以下ですから、エジプトで暮らしていた人の20%以上を引き連れて脱出したってことになります!紅海を横切ってエジプトからシナイ半島に逃れるのですが、神が手助けしてくれました。海水を押しのけて逃げる通路を創ったんです!2百万人とモーセは水が切れた海の底を歩いてシナイ半島に逃げました。エジプト軍がこの道を通って追跡してくると、神は海水で道を元の様に埋め尽くし、エジプト軍は溺れ死ぬんです。この辺りは皆さんも聞いたことがあるでしょう。

で、シナイ半島に逃げたモーセは40日間、「シナイ山Mount Sinai」(標高2285m)の山頂に滞在します。Google Earthで北方向から見たのが次の写真です。手前の黄色ピンは聖キャサリン修道院、その奥の黄色ピンがMount Sinai、そのずっと遠方に海、右側の川のようなものは紅海、です。
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つまり「シナイ山」という山は現存しています。旧約聖書でも多分「シナイ山」と記されているでしょうから、紀元前6世紀には既にシナイ山と呼ばれる山があったと考えられます。しかし、モーセがこの山に来た時は旧約聖書が書かれた時期より7世紀も前ですから、その時も「シナイ山」と呼ばれていたかどうかは定かではありません。実はいつ頃からそう呼ばれるようになったのか判りませんが「モーセの山」と呼ばれる山があって、それが今では旧約聖書の「シナイ山」ではなかろうか、と考えられて命名されたのではないかと思われます。

モーセが居たであろう現「シナイ山」頂で真夜中に撮影された映像をご紹介しましょう。教会があります。
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教会がよく見えるのは撮影用照明の影響でしょう。右に青く見えるのは、何らかの目的で青い照明が教会の近くに点灯しているためだと思います。

次は教会と反対方向の光景です。麓(ふもと)の町の灯だと思いますが随分明るく輝いています。小さな町なので明るすぎる気がします。何か別の理由があるのかも知れません。
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で、モーセがシナイ山に滞在していると、また神の声が聞こえてきて、十戒Ten Commandmentsという10の戒めを、授(さず)かりました。後まできちんと残るよう、わざわざ神が自らの指でこれを石板に書き記しました。この石板は2枚で構成されているようです。その後で神は、2枚の石板を入れる箱を造るよう指示し、その寸法や材質、装飾などの細かい仕様をモーセに伝えます。モーセはそれを製作専門家に伝え、彼らが造ったのが「契約の箱Arch of the Covenant」という訳です。木製で、金張りされ、人が箱に触(ふ)れると焼け死ぬので、箱に持ち運び用の棒を付け、守護神として翼のある智天使(チェルビンcherubin)も2人(?)付けられました。
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(フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱)
つまり、箱(Archアーク)は、持ち運びできる棒が付き、神の教え「十戒」が神の指で記された石板2枚が入った箱で、重要なのは箱ではなくて中身です。

で、このArchアークは、モーゼから3世紀ほど後の紀元前11~10世紀に現れるイスラエルの王デービッド(ダビデ)からその息子ソロモンに引き継がれ、聖地エルサレムの丘の寺院の「聖なる場所の中の聖なる場所Holy of the Holies」に保管されるのですが、その後は「一体全体、どこに消え失せてしまったのか定かではない」とされています。箱に触ると炎で焼かれ、箱を直接見ると目が潰(つぶ)れる、恐ろしい代物ですから、簡単に盗まれたり、焼失したりしてしまうはずはなく、どこかに残っているに違いない!と考える人は多いようで、3千年を過ぎた今でも、この箱を探す人々がいると言われています。

ところが、今回のブログで紹介したように、エチオピアの町アクソンの礼拝堂に本物のArchアークが保管されているって言うんですから驚きです!!!ブログで紹介されている14世紀のエチオピア歴史書ケブラ・ナガストKebra Nagastによれば、ソロモンとシバの間に出来た子で、後にエジプト初代皇帝になるメネリク1世Menelik Iが、皇帝になるになる前、シバがソロモンから譲り受けたという息子の証の指輪を持ってエルサレムを訪れ父ソロモンに表敬訪問しました。その帰路、ソロモンの命令で同行することになったエルサレムの貴族の息子が、Archアークを盗んで持って来たのです!彼等は喜び勇んで紅海を渡り、エチオピアに向かいました。Archアークが無くなったことに気付いたソロモンは追跡するのですが、時既に遅く、いまさら盗まれたとは言えないので、皆に口止めしてから偽(にせ)のArchアークを造り、神殿に奉納したのです!!!

全く信じられないような裏話です。しかし、現在の考古学の結論では、「出エジプト記の記述内容を裏付ける証拠はほとんど見当たらないので、全て作り話だと考えざるを得ない」とのこと!!!となると裏話の反対の表話は作り話ってことになります。

ってことは・・・モーセは架空の人物で、エジプトから大挙して逃れたというのは作り話で、十戒も存在せず、従ってArchアークも造られていなかった、ってことです。そうなってくると、王ソロモンの存在すら怪しくなりますが、紀元前10世紀頃から紀元前6世紀頃までエルサレムという町が存在していたのは間違いないようなので、ソロモンもシバの女王もいたと想像している方が、浪漫があって楽しいし、個人的にはこの2人または似た人物は必ず実在していたと思います。

シナイ山の麓(ふもと)には聖キャサリン修道院Saint Katherine’s Monasteryがあります。3世紀に建てられ、世界遺産にも指定されている寺院で、今も修道士が暮らしています。シナイ山は背景の山の奥です。
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修道院の中の風景です。観光客で溢(あふ)れています!
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この修道院を訪れるYoutube「失われたアークを探してDigging for the Truth Season 1, Episode 04 Hunt for the Lost Ark」で、インタビューされた僧侶が「一時期、ここにArchアークはあった」と言っていました。「信じよ、されば救われん!」ということでしょう。
(完)

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mh徒然草63:消えゆく祭り いま何が

昨日(10月2日)、NHKの朝のニュースが終わって7時30分「消えゆく祭り、今何が」というレポートが流れ始めました。全国各地で祭りが消えていく、つまり実施されなくなっていくが、どんなことが起きているのか?をレポートするんです。気が短いmhは「そんなこと決まってるでしょ?田舎は高齢化して若い人が減ってるからじゃないの?それとも何か別の面白い理由があるのかしら?」と思って見ていました。

2015年10月2日(金) 「消えゆく祭り いま何が」
阿部
「秋祭りの季節ですよね。 地域の人々が集い、五穀豊穣や無病息災を願う伝統の祭りは、各地で代々受け継がれてきました。しかしいま、その祭りに異変が起きています。」
和久田
「こちらをご覧下さい。 全国各地で開催できなくなった祭りの一部です。ほとんどが何百年も続く伝統の祭りです。
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たとえば、こちら。 三重県鳥羽市の『火祭り』。 400年以上続く、国の重要無形民俗文化財に指定されている祭りですが、今は、とりやめられています。」
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阿部
「全国各地で消えつつある伝統の祭り。 一体、何が起きているのか取材しました。」

で、皆さん、何が起きていたんだと思います?


過疎化です!
で、隣町の若者も手伝って祭りを継続しているところもあり、都会に出た子供の家族も帰って来て、昔を懐かしむチャンスが残されているところもある、と言ったストーリー展開でした。詳細は次のURLで確認できます。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/10/1002.html

で~、高齢化以外に理由があったのかしら?と期待して見始めていたmhは失望しました。田舎では若い人が都会に出てしまい、昔から続いている伝統的な祭りも継続するのが困難になった、っていうレポートなんですねぇ、簡単に言ってしまえば。天下のNHKが税金を使って作る番組とは思えません。年寄りばかりの町は、時の経過と共に高齢化も進み、一人去り、二人去り、20年もすれば住民数は現在の半分以下になるでしょう。隣町から若い衆がやってきてくれても、住民の大半は寝たきりで、祭りを見に出かけることすらままなりません。田舎町の人口減少と高齢化の傾向を変えることが出来ない以上、隣町から若い衆を助っ人で呼んで祭りを継続することなどせず、ご先祖様に詫びを入れて終止符を打つ方がよい時に差し掛かってきたと思います。今ではお祭りどころか、神社やお寺を維持することすら困難な田舎町も多くなっていますから、その対策をきちんと進める方が重要だと思います。

総務省の国政調査結果によれば、2005~10年の5年間の人口増減率ランキングトップは東京、ビリは秋田でした。
そして2013年の年齢別構成で55歳以上の比率が最も少ない反老齢化ランキングトップは沖縄、ビリはまたもや秋田です。
人口増減率トップ10とビリ10の計20都道府県で増減率と反老齢化のランキングをグラフ化すると次の通りです。
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人口増減率ランキングがよい、つまり人口が増えている所ほど反老齢化ランキングもよい、つまり若い人の比率が高いことが明確に示されています。また、人口増減率で10位の兵庫県でも0.0%ですから、残る37府県では人口減少が進んでいるのです。やはり、日本の人口分布や老齢化については都会と田舎で完全に二極化しているですねぇ。つまり、大都会はいつも若い人で溢れ、田舎はわずかに残った老人ばかりが暮らす所になっていくのです。

秋田県のお祭りといえば、竿灯と「なまはげ」でしょうか?
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ネット記事によれば次の通りです。
「なまはげ」は男鹿(おが)に古くから伝わる民俗行事で、大晦日に男鹿市内の約80の集落において行なわれ、年に一度、各家々を巡り、悪事に訓戒を与え、災禍を祓い、祝福を与えて去っていく。 「怠け者はいねが、泣ぐ子はいねが」と練り歩く姿はよく知られる。この行事は昭和53年に「男鹿のナマハゲ」の名称で国の重要無形民俗文化財に指定されている。」

しかし、男鹿で「なまはげ」を続けるのは容易ではないでしょう。そもそも泣いて「なまはげ」を喜ばせてくれる子供の数が減っています。雪深い集落の家から家を「なまはげ」になって走り回ってくれる若者も少なくなっているし、「なまはげ」にお酒を振る舞ってくれるはずの家も、家主が死んで廃墟になったものも多いでしょう。どう考えても「なまはげ」は消滅する運命としか思えません。逆に都会では、例えば東京の神田明神祭など、神輿の数や担ぎ手の希望者は断るのも大変なくらい増え、祭りは盛大になるばかりです。

男鹿(おが)市の人口:
1995年以降、19年間で4.05万人から2.97万人に減少しています。秋田の平均人口減少率は5年で5.2%ですが男鹿市では7%です。
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男鹿市の年齢別人口推移
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65歳以上の人口は1980~2015まで徐々に増えていますが、総人口はどんどん減少しています。25年後には50%が65歳以上になる見込みです。

価値観は人により異なるし、年齢と共に変わっていくので、一概に言う事はできませんが、年寄りにとって、およそ都会程暮らしやすい所はないと思います。かく言うmhも、断然、都会で暮らし続けるつもりです。歩いてすぐスーパーに行けるし、病院が離れていたとしてもバスや電車の便が好いから、一人でも行けますし、もしいけない場合でも電話すればお医者さんが直ぐ来てくれます。しかし田舎では、雪でも積もったりしたら、1週間以上、食糧の買い出しにも行けないし、お医者さんだって、来てくれるまでに1日以上かかることも考えられます。

秋田の雪深い片田舎の一軒家で、一人で暮らすご老体もいらっしゃるでしょう。その生活ぶりを思い描くことは困難ですが、寂しさや生活の不自由に優(まさ)る喜びを持たれているならそれも人生かと思います。もしあなたが田舎に残る親をお持ちでしたら、毎日でも電話してあげてほしいと思います。

たった今、TVの「報道特集」で「長寿大国で・・・漂流する孤独な老い」をテーマにした番組が流れていて、都会で一人暮らしの老人を若い女性が花火大会に連れ出すシーンが映っています。田舎でも都会でも、結局は一人で暮らさざるを得ない人は多く、それも人生と受け入れねばいけませんが、死ぬ時、何か言える力が残っていて、もし近くに誰かが居たら「幸せだった!」と言いたいですねぇ。

追記:この記事を投稿しようと読み直していて思いついたのですが「なまはげ」は男鹿ではなく秋田市でやることにしたらどうでしょう。人口は比較的多く、泣いてくれる子供も多いし、男鹿の出身者も多いでしょうから、行事は無理なく残せるのではないかなぁと思いました。

今回の歌は「You Raise Me Up 」です。
味わいある曲なので歌詞を挙げてみました。ザッと見て頂いてからお聴きください。
When I am down and, oh my soul, so weary
気落ちし、そして魂まで疲れている時
When troubles come and my heart burdened be
困難に出会い、心が押しつぶされている時
And I am still and wait here in the silence
私は動けなくなって、あなたがここに来てくれて、
Until you come, and sit awhile with me
私と一緒に暫く座っていてくれるのを静かに待つのです。
You raise me up, so I can stand on mountains
あなたは私を元気づけてくれる。だから私も山の頂に立つことができる。
You raise me up, to walk on stormy seas
あなたは私に嵐の海を渡り切るための元気を与えてくれる。
I am strong, when I am on your shoulders
あなたの肩に載って一緒にいる時、私は強くなれる。
You raise me up, to more than I can be
あなたが元気づけてくれるので自分でも驚くようなことさえやり遂げられそうに感じる。
https://www.youtube.com/watch?v=Rkkw8RhH9ck
(完)

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アルキメデスの失われた本

Wikiアルキメデス(Archimedes)によると、紀元前287年― 紀元前212年、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者、となっています。
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(ドメニコ・フェティ1620年画)
生まれたのも死んだのもシシリー島で、文字通りシシリー島民にもかかわらずギリシャ人というのは、シシリー島が当時ギリシャ植民地だったからでしょう。
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彼が暮らした町、シシリー島シラクサSiracusaの遺跡。闘技場の跡でしょうか。
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シラクサの町から海に突き出た岬の先には砦もあります。アルキメデスの時代より後に造られたものだと思います。
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ところで、アルキメデスと言えば、いろいろな分野で重要な功績を残しています。
例えば武器の開発で知られています。
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有名なのは「アルキメデスの鉤爪(かぎづめ)」。港の砦の上などに備え付けられた起重機のような機械で、大きな金属製の爪が付いたロープが垂れ下がっていました。
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城壁の下に迫った敵船の側面やマストに、その爪をひっかけて船を持ち上げ、海面に落とします。
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船は横転したり、横揺れで兵士が投げ出されたりしたようで、実際に使われていたようです。

また、円周率π(パイPi)を初めて計算で求めた数学者として有名です。
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彼が活躍した紀元前3世紀以前には、既にπの概念、つまり円の周長は直径のπ倍(3.1415・・・)で一定だということは認識されていたようですが、その値を彼が初めて計算で求めました。以降、1千年以上、彼の計算方法が利用されたほどで、πは「アルキメデス定数"Archimedes' constant"」とも呼ばれていました。
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彼が採用したπの求め方は・・・
円が内接する多角形と外接する多角形を考えます。円の周長は外接する多角形の辺長よりも長く、内接する多角形の辺長よりも短いことが判ります。
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多角形の角の数を5、6、8などと増やしていくと、多角形の辺長は限りなく円の周長に近くなっていくのです。
アルキメデスは結局96角形の辺長が直径の何倍になるのかを計算で求め、その結果、
223/71(3.1408) < π <22/7(3.1429)
を得ました。実際のπ値は・・・
π = 3.14159 26535 89793 23846…………….
彼が得た値は精度が高いことが判ります。

「アルキメデスの原理」」は皆さんも中学生の理科で習ったでしょう。
「流体中の物体は、その物体が押しのけている流体の重さ(重量)と同じ大きさで上向きの浮力を受ける」

この原理の発見について有名な逸話があります。「シシリー島シラクサの僭主ヒエロン2世は、神殿に奉納するために黄金で作らせた「誓いの王冠」について“金細工職人が銀の混ぜ物をしてごまかしていないかどうか確認してほしい!”とアルキメデスに依頼した。」
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「銀は金よりも軽いので密度を調べれば一目瞭然だが、それには王冠を溶かして体積を計算しやすい形に成形せねばならず、壊さずにこれを解決するには何かしら別の手法を考える必要に迫られた。アルキメデスは困り果てたが、ある日、風呂に入ったところ、水が湯船からあふれるのを見て、その瞬間、アルキメデスの原理のヒントを発見したと言われている。」

「アルキメデスは「εὕρηκα!」(Eurekaヘウレーカ!分かったぞ!)と叫びながら、興奮のあまり服を着るのも忘れて裸で通りに飛び出したという。」
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確認作業は上手く行き、王冠には銀が混ざっていることが示されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9#/media/File:Archimedes_water_balance.gif

「アルキメディアン・スクリュー」は生コンクリートなどの粘性流体や粉体などを搬送するコンベアー装置として今も活躍しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9#/media/File:Archimedes-screw_one-screw-threads_with-ball_3D-view_animated_small.gif

また彼は球体の表面積や体積、放物線と直線で囲まれた面積の計算もしています。中でも「球体とこれを内接する円柱の表面積比と体積比は、いずれも2:3である」というのが自慢の発見だったようです。
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アルキメデスの墓は彼の希望にそって、球と円柱の形で造られたようで、これがその墓だ!という写真がネットで見つかりました。
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確かに古い墓のようですが、裏付け証拠に乏しく、ガセネタかも知れません。

またアルキメデスは『平面の釣合(つりあい)について』という本で「梃子(てこ)の原理」を解説し、「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」と豪語して、この原理を端的に言い表したと言います。
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当時、アルキメデスが他の追随を許さぬ天才科学者だったのは間違いないようです。今回の話題からはそれますが、ギリシャのペロポネソス半島とクレタ島の間のアンティキセラ島近くの海底で見つかった天体運行を計算する歯車式機械「アンティキセラ機構(Antikythera Mechanism)」について2014年3月27日のブログでご紹介しました。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/13963192.html
実物はアテネ国立考古学博物館に展示されています。
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この機構を誰が思いつき、誰が造ったのか?何の記録も残されていないので特定は出来ないのですが、2千年程前のものであること、高度な数学に基づいた天体軌道解析能力と、それをモデル化する卓越した機械工学の知識と技術を持ち合わせた人物しか製作できないものであること、から「アルキメデス以外には考えられない」との噂です。

今から17年前の1998年、ニューヨークで、1千年ほど前に製本された彼の学術記録のコピー本がオークションにかかりました。これを2百万ドル(2億円)で落札したのはIT産業に携わる匿名の富豪です。ひょっとするとアップルのスティーブ・ジョブズ氏かマイクロソフトのビル・ゲイツ氏かも知れませんが今も謎のままです。

その本は「アルキメデス・パリンプセストArchimedes Palimpsest」と呼ばれています。
当時、本は羊皮紙を使う事が多かったのですが、高価なので、古い本を解体し、インクを脱色し、その上に新しいインクで新しい内容を書き記して別の本に造り変えることが行われていました。こうして生まれ変わった本をパリンプセストと言います。閉じられていた本を解体してインクを脱色してから新たな本にする時、元の本の1頁のサイズを二つ折りして本にするので頁の大きさは元の本の半分になります。また新たな文字を書くときは、読みやすいよう、元の文字が書かれていた行と直交する方向に書きます。例えば次の本・・・
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左頁が次の見開きの2頁になります。
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赤く、薄いインクで書かれている日本語はインク脱色された元の文章で、黒い英文が新たに書かれた文章です。消された記述は肉眼では判別しがたいのですが、紫外線やX線等を使うと解読できることが多く、時には貴重な古文書が隠れていることもあるようです。

「アルキメデス・パリンプセストArchimedes Palimpsest」は、誰が、どこで、いつ、どのようにして見つけたのか?そこには何が書かれているのか?」

今回のブログは、それを紹介するYoutube: BBC「The Lost Book of Archimedes」です。
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紀元前3世紀、ギリシャ植民地のシシリー島シラクサSiracusaで生まれ育った天才アルキメデス。
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共和制ローマとカルタゴが戦った第二次ポエニ戦争の際、シシリー島に攻め入ったローマ軍兵士が、上司の命令でアルキメデスを連行しようとすると思案中だと拒否したので殺されてしまったという。67歳だった。
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しかし、彼の研究が記述されている本が見つかり、今も調査が進んでいる。2千2百年前に死んだ天才が残した、世界を変えたはずの書物だ。
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「アルキメデス・パリンプセストArchimedes Palimpsest」と呼ばれ、科学者たちは、そこに書かれたオリジナル記述の復活作業に取り組んでいる。
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痛みが激しい上に、オリジナルの文章が消去され、別の文章が上書きされているため、解読には困難が伴う。
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しかし、調査につれてアルキメデスの研究成果が明らかになっている。アルキメデスの発想は数百年、いや数千年も先行したものだったのだ!
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彼の本はオークションで落札された。購入者はIT産業で莫大な資産を造ったと言う事以外については自分の名や身分すら明らかにすることを拒否している。
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世界中の研究者はアルキメデスの本を自らの眼で見て、手に取って分析したいと望んでいる。Dr.ウィリアム・ノエルはその本の売買仲介者にEメールし、見せてもらえないかと頼んだ。
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「観るだけならいいだろうということで、その本を見せてもらった。その時は興奮で手が震えて仕方がなかった!」
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本は、アルキメデスのユニークな研究を伝える内容のものだった。
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彼の数学的な発見と、それをどんな発想で突き止めたのかが記録された本だ。
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本は信じられないような経過を経て、アメリカ・バルティモアの博物館に所蔵されることになった。物語は紀元前287年のイタリア、シシリー島に遡(さかのぼ)る。アルキメデスが生まれた年だ。
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彼の人生の多くはベールに包まれていて知られることは少ない。天才的な数学者、科学者だった。
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金の王冠が本物か調べるよう王から依頼された彼が、風呂に入る時にその方法に気付き、「エウリカ(Eureka:分かったぞ)!」と叫んで、服を着るのも忘れ、裸で外に飛び出して町を走り回ったという逸話は有名だ。

彼は機械の発明もしている。初めて円周率πを計算で求めた。宇宙を埋め尽くすのに必要な砂粒の計算もしている。その答えは10で、後ろには62個のゼロが続く!
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複雑な形状の体積や表面積の研究にも没頭していた。8つの三角形と4つの正方形でなる多角形体。12の正方形、8つの六角形、6の八角形からなる多角形体・・・
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彼の頭脳を恐れたローマ軍は、彼を捕えて殺さずに連行するよう兵士に指示した。
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しかし兵士は研究に没頭していたアルキメデスに「邪魔をするな」と言われて腹を立て、彼を殺してしまう。紀元前212年だった。
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彼の死は偉大なギリシャ数学の終焉を意味した。ヨーロッパは暗黒時代に突入し、数学や科学分野への関心は失せていく。

しかし彼の知識はコピーされ、世代をついで引き継がれていった。
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10世紀、最後のコピーの一つが造られた。
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しかし、以降、数学への関心は失せ、アルキメデスの記憶は忘れ去られていく。

12世紀のある日、ある僧侶がとんでもないことをしでかした。
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彼はアルキメデスの研究が書かれていた本を解体し、インクを薬品で消去し、各ページを2つ折りにしてから新たな文章をオリジナルの文章と交差する方向に書いていった。本はパリンプセストとして「讃美歌教本」に転用されてしまったのだ!
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中東のユダヤ教修道院・・・
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長い間、讃美歌教本は修道院の図書館に埋もれていたが、その間も世界は動き、世の中は変化を続けていた。
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15世紀にはルネッサンスがヨーロッパを席巻していた。
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芸術や文化が開花し、学者達はアルキメデスの研究内容を理解する知識を持ち合わせていた。しかし、1千5百年も前に生まれた人物の偉大なアイデアが、埋もれ、失われていることに気付く者はいなかった。もし、当時の数学者たちがアルキメデスの知識を知ったなら、数学は飛躍的な進歩を遂げたに違いない。
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彼の本が再び世の中に現れたのは更に数百年後だ。コンスタンティノープルの図書館に保管されていたのだ。どうしてそうなったのか、知る人は誰もいない。
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図書館のカタログに本の内容が数行で紹介されていた。それがアルキメデスの本かも知れないことにデンマーク人のヨハン・ルーズヴィー・ハイバーグ教授が気付いた。
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1906年、彼はコンスタンティノープルの図書館に戻り、実物をじっくり調べた。「どうも、アルキメデスに関するパリンプセストのようだ!」
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本の持ち出しは許されていなかった。そこで写真家に全てのページを撮影するよう頼んだ。
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その写真からアルキメデスの仕事を再現しようとしたのだ。それは信じられないほど困難な仕事だった。
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しかし、この本は間違いなくアルキメデスの研究のコピーだ!!!

ハイバーグ教授の発見はニューヨークタイムスのトップを飾り、世間に知られることになった。
「偉大な記述本がコンスタンティノープルで見つかった!」「アルキメデスの本で西暦900年頃にコピーされたもの」
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それは、まさに、アルキメデスがどんな問題をどのように解いていったのかを忠実に再現する「方法(メソッドMethod)」と呼ばれる貴重な本だった。
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アルキメデスは数学のマスターと言える。彼がどのような思考で問題を解いたのかは学者達にとって重大な関心事だった。実際の所、アルキメデスの問題へのアプローチは、数千年の間、誰もが行わなかったものだったのだ。

当時、円錐と円柱の体積を計算する方法は知られていた。そこで天秤を使って、球体の体積を求める方法を見つけたのだ。
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彼は頭の中で、球体を無限の数の薄い片にし、天秤を使うとどのように均衡を採ることが出来るかを計算し、天秤で試験して確認した。究極とも言える発見は、球体と、球体を内接する円柱の、体積比と表面積比はいずれも2:3だとの真理だ。
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この発見が彼にとっていかに大切なものだったのかは、彼の墓石が円柱と球から成っていることでもわかる。
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無限の断片にして体積を求めるアルキメデスの手法はカルキュラス(calculus微分積分学)と呼ばれ、近代数学の重要な分野を占めている。彼はそれを1千8百年も前に発見していたのだ!
現代の社会はカルキュラスなしでは成り立たない。
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それは数学や科学の発想の原点にもなっている。
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ハイバーグ教授はコンスタンティノープルで発見したアルキメデスの本の分析を進めていた。
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しかし、1914年に勃発した第一次世界大戦で、仕事は中断されてしまった。
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パリンプセストは再び失われ、どんな秘密が潜(ひそ)んでいたのか、誰も知ることは無かった。
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学者達は、アルキメデスの本を見ることはもう無いだろうと諦めていた。

1971年、古代エジプトの専門家ニゲル・ウィルソン博士がケンブリッジ大学の図書館で、たった1枚の紙に出会った。
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彼はその紙を詳細に調べた。そして、書かれているギリシャ語の専門用語などから、アルキメデスの記述だと気付いた。有名なパリンプセストから引き裂かれた1ページに違いない!しかし、なぜ、たった一枚のページだけがケンブリッジで見つかったのだろう?
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調べるとその1枚のページはコンスタンタイム・ティッシャンドルフという名の男から大学に寄贈されたものだったのだ。
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悪い噂のある、近づきがたい男だった。コンスタンティノープルにも、しょっちゅう旅行していた。その時に彼は図書館を訪れ、アルキメデスのパリンプセストを手にしたのだ!
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よく調べてみたいとの欲求にかられ、1ページだけ引き裂いて持ち帰ったのだ。彼がアルキメデスの知識に関心を持っていたとは思えない。しかし、重要なものだ、と直感したのだろう。
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昔と違い、ニゲル・ウィルソン博士は近代技術の恩恵を活用することができた。彼はケンブリッジの図書館で見つけた1ページを紫外線を使って調べてみた。
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ウィルソン博士は確信した。ハイバーグが写真に撮って解析しようとしたたがなかなか出来なかった解読は、現代の科学技術をもってすればかなりの範囲で可能だ!間違いない、アルキメデスの本だ!
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第一次世界大戦後のパリや他のヨーロッパの都市は、中東からの芸術作品で溢れかえっていた。しかしアルキメデスに関する新たな情報は何もなかった。
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1991年、フェリックスは、あるフランス人から「私はアルキメデス・パリンプセストを持っている」という手紙を受け取った。
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住所を見ると彼の住居の近くだったので早速その本を調べてみることにした。
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その時、所有者は奇妙な物語を語って聞かせた。1920年代、家族の一員でアマチュアの収集家がトルコに旅をした時、偶然、その本を見つけたというのだ。
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「売りに出したいのだが、いくらくらいで売れるだろうか?」

フェリックスは4-6千ポンド(150万円位)ではなかろうかと答えた。実際、このような特殊な本について競売の先例はなく、評価は難しかったのだ。

本はニューヨークのオークションにかけられた。
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結局、フェリックスの予測をはるかに上回る2億円で匿名の資産家が落札した。
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そしてバルティモアのウォルターズ・アート博物館Walters Art Museum in Baltimoreのキューレター(curator学芸員)ウィリアム・ノエルの手に渡ったのだ。
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「初めて観た時、こんなにボロボロな本がどうして重要なのか判らなかった。」
虫が食った跡や、糊や恐らく蝋燭の灯で読書中に落ちたと思われるワックスが付着したところもある、汚い本だった。
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ウィリアムは本を解読するため、ギリシャ語専門家、数学専門家、画像解析専門家、古書復元専門家から編成される研究チームを編成した。

本には妙な絵が描かれたページがあった。構図は中世のものだが塗料を調べると時代は異なるようだ。
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いつ頃、何のために描かれた絵だろう?1906年にコンスタンティノープルで本を写真に収めたハイバーグは、この絵について何も記録に残していない!
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研究チームは宗教画の専門家ジョン・ロゥデン博士に調べてもらうことにした。
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「私は似た絵を以前見たことがあると気付いた。」
調べると1982年、ある本が売りに出され、その中に問題の本に描かれた絵のミニチュア版が載っていた。とても似ていた!それらのミニチュアの絵はフランスの本に書かれていたものを真似たものだった。

これが1929年に発行されたフランスのオリジナル本だ。
「manuscript grecsギリシャ語写本」
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やっぱり、似た絵がある!
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このフランス本が発行された1929年、アルキメデスのパリンプセストの何ページかに、本の中の絵が転写された可能性がある!

バルティモアで、実物の絵とフランスで発行された本の絵を重ねてみると全ての絵で構図とサイズが一致した!
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何故そんなことをしたのだろう?考えられる一つの理由は本の価値を高めるためだ。アルキメデスの本だったことに気付かず、中世の讃美歌の本だと思った人物が絵を挿入したのだろう。

バルティモアの研究室では本の再生という繊細な作業が続いていた。本を閉じる中央部では縦に描かれたオリジナルの文を読み取ることは不可能だ。
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そこで、閉じていた部分で本を解体した。
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顕微鏡で拡大し、注意深く作業を進めていく。
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まず、汚れを取り除く。
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読書中に付着したと思われる燭台のロウを丁寧に取り除く。
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いよいよ解読作業が始められる段階になった。可視光線と紫外線の2つの光で各ページをコンピューターに取り込んでいく。
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これは白色光でみたものだ。縦に書かれているアルキメデスのテキストは判読困難だ。
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これを赤のイメージで見ると、縦書き文はほとんど見えなくなり、代わりに横書きされた讃美歌の文は明確になる。
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青のイメージで見ると、縦横両方の文が比較的はっきりと見えてくる。
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そこで、2つのイメージの像を組み合わせて画像処理すれば、アルキメデスのテキストだけが、赤く、以前よりも鮮明に浮き出てくる!これで判読は随分と楽になったはずだ。
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ギリシャ数学では記述だけでなくダイヤグラム(図やグラフ)が重視されていたことが判ってきた。
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専門知識が必要な解析作業はまだ続いているが新しい重要な発見もあった。
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アルキメデスは三角プリズムと円柱が共有する体積を算出していた!共有部の断面は三角形だ。
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その三角形の面積を無限(インフィニティinfinity)に重ね合わせれば共有部の体積を求めることが出来る。
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現代でも無限は数学者が頭を悩ませる分野だ。しかしアルキメデスは2千年以上前に、既に「無限」の概念を理解し、応用していたのだ。
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無限を語る時、人は宗教問題を取り扱っている気分になることすらある。宇宙はどこからやって来たのか?いつ生まれたのか?いつまで続くのか?どれだけ大きいのか?

もし、この本が1千年前に失われることがなければ世の中はどう変化していただろう。
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数学は技術、科学、物理の基礎となる学問だ。紀元前3世紀にアルキメデスによって書かれた本が、ルネッサンスで数学の進展を促していたら、今の世界はもっと進歩していたことだって十分考えられる。宇宙工学だってコンピューター工学だって、もっと進化していたはずだ。
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The Lost Book of Archimedes : Documentary on the Lost Manuscript of the Mathematical Genius
https://www.youtube.com/watch?v=nMfKrfG1aEI
(完)

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ヒッタイトの不思議

緊急追記(11月8日19:20)
ミャンマーの総選挙の投票は数時間前に打ち切られました。BS5チャンネル「いま世界は」はmhが毎週見ている番組ですが、最初にこのニュースがありました。結果は2週間後に判明するようです。投票には、日本を始めとして30か国から国際監視団が送り込まれ、公正な投票が行われるようチェックしていたとのこと。結果は、ある記事によれば即日開票され明日9日には大勢が判明とありました。「いま世界は」では2週間後と言っていましたが、こちらの方が現実的な線かと思います。
投票を終えたミャンマーの人にインタビューすると、民主化が進むことを期待している、というコメントばかり。ってことはスーチー女史率いる野党が大勝するのでしょうか?
mhの意見はこの見解に否定的です。軍事政権はスーチー女史の野党が過半数を撮る結果はどんな手段を使ってでも拒絶する、と予言しておきたいと思います。トルコの総選挙もやり直しの結果、与党が過半数を取りました。ミャンマーでは選挙そのものが否定され、次回の選挙は未定、という結果になると思います。さて、皆さんの予想は?

ヒッタイト・・・
いつか、どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き・・・
「ヒッタイト」は、いつ、どこで生まれた、何を指す言葉なのか???

「ヒッタイト」は、ヒッタイト王国(帝国)及びその住人を指す言葉です。その国は、いつ、どこで、どのように生まれ、どんな文化を持ち、どんな王が統治し、いつ、なぜ消滅することになったのか?
Youtube、Wiki、ネットで得た情報を駆使してご紹介しましょう!

予めお断りしておきますと、ご紹介するYoutubeフィルムは放映時間1時間55分で、これまでブログで取り上げたフィルムの2倍というmhブログ史上最長作品です!!!気が短く忍耐力に乏しいmhに不向きだなぁ、と半ば諦めて観始めたのですが、雄大な叙事詩Epicで叙情詩Lyricとも言えるストーリー展開と、なかなか解像度が高い綺麗な映像に魅入られ、必死にナレーションを翻訳し、Wikiで内容確認し、映像をスクリーン・コピーしてブログ原稿を作成する作業は足掛け3日、実質丸二日を要しました!そして今、更に実質1日かけて原稿を見直している所です。きっと大作になるはずです!!!

フィルムが長い分このブログも長く、分割公開にしようかとも考えましたが、それではヒッタイトの魅力が十分伝わらないと思い直し、皆さんにも時間を割いていただいてこのブログを読んで頂くことにしました。2時間のフィルムを集大成したブログは、1時間ないと読み切れません!このブログはパスするか、いや、読んでみようと思われるのなら何回に分けて読むか、それとも一気に読むか、方針を決めて頂いて次に進むことをお薦めします。
・・・
・・・
さて・・・
読んでみようと決心されたご奇特なお方のみ、いよいよ以下にお進みください。
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ハットゥシャ(英語Hattusa)に残るライオン門
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「ヒッタイト」という言葉を、誰が、いつ使い始めたのかを考えていると、「日本」という名は誰がいつ使い出したのか?なぜNihon やNipponではなくJapan なのか?という疑問が湧きあがりました。何か共通する理由があるのではないだろうか?

まず「日本」について調べてみました。
Wiki「日本」によると、中国大陸の南部から稲作を中心とする民族が、現在の日本の、大陸に近い島、九州か出雲辺りではないかと思いますが、に流れつき、後日、弥生人と呼ばれるようになります。この弥生人が各地に「クニ」という政治・生活集団を作り始めました。クニが一つしかなければクニを意識する必要はないのでしょうが、複数のクニが生まれてくると、他のクニを意識し始めるのは、お釈迦様ではありませんが世の習いです。そこで、「○○のクニ」とか「XXのクニ」という呼び方が生まれました。その一つが「ヤマトのクニ」です。朝鮮半島とのつながりも強く、百済(くだら)や新羅(しらぎ)にも出兵して任那(みまな)を勢力下に置くなど、当地だけではなく海の向うの大陸でも勢力を持っていたのですが、西暦663年、百済復興のために朝鮮半島に援軍を送った白村江(はくそんこう)の戦いで、新羅と唐の連合軍に打ち負かされ、以降、朝鮮への影響力を失います。
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朝鮮半島には伽耶(かや)などの小国もあったのですが、実質的には高句麗、新羅、百済による三国時代が到来し、西暦918年に統一されて高麗(こうらい)となりました。初代国王は王建(太祖)と言われています。この「高麗コウライ」がKoreaという言葉になったんですねえ。

話を我が日本国に戻しますと、白村江の戦いで敗れたヤマト王権は、中国の唐王朝と外交関係を結ぶに当たり、対等な関係を意識させるため中国の「唐」「皇帝」に対し、当方の国号を「日本」、国王の称号を「天皇」としたのです。つまり「日本」は、ヤマトの官僚が決めた言葉です。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺ヤマタイ」となっていたのですが、これを嫌って独自の呼び方、つまり「日本/太陽が昇る土地」を制定したのでしょう。

西暦1271年から24年間、アジアを旅したマルコ・ポーロは、イタリアのジェノヴァGenovaの刑務所に投獄され、そこで知り合った小説家ルスティケロ・ダ・ピサに自分の旅行体験を語りました。これが「Book of the Marvels of the World世界の驚異の本」、日本語では「東方見聞録」、という本となって出版されました。
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「Delle meravigliose cose del mondo, 1496年版:世界の不思議」

この本の中で、日本が「黄金の国・ジパング(ZIPANG/ZIPANGU)」として登場したのがJapanの初めなんですねぇ。
では何故、マルコ・ポーロは日本をZIPANGと呼んだのか?それは勿論、彼が接触した中国人がそう呼んでいたんですねぇ。漢字「日本」は、今でこそ中国語で「Rebenリーベン」と発音しますが、マルコが中国に居た頃の元王朝では「Zibenズーベン」と読まれていたのです。つまり、中国人がZibenとかZipangと呼んでいたので、Japanと呼ばれることになったということです。

「中国」は「中華」など「中心にある国」という意味を持つ名前ですが、英語ではChinaと呼ばれるのは"Qinチン"つまり秦(シン)がヒンドゥ語でCinaになり、これがペルシャ語でChinとなったのですが、16世紀にインドに派遣されたポルトガル人の小説家の役人が、報告書でChinaを使ったのが初めだと言われています。ブログ「iaの不思議」でもご紹介しましたが「○○にiaまたはaを付けて○○人の土地」とするのは古代ギリシャやローマ帝国の習慣でしたから、ChinからChinaという言葉が生まれたのも頷(うなず)けます。

それでは、いよいよ「ヒッタイトHittite」です。
「ヒッタイト帝国Hittite Empire」紀元前1600年頃―紀元前1178年頃
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上の地図(ドイツ語表記)は紀元前1400年頃の領土を示すもので、青がヒッタイト帝国Reich der Hethiterです。南にエジプトÄgypten、東にアッシリア帝国Assyrishes Reichが、西のギリシャあたりにミケーネ文明圏Mykenischer Kulturkreisと記されています。

ヒッタイト帝国の版図はシュッピルリウマ1世Suppiluliuma Iとムルシリ2世Mursili IIの時代(紀元前1350年―紀元前1295年)が最大でした。
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で・・・地図の(Ankara)の近くにHATTIという地方名があり、その右の黒い丸●の下に小さな字でHattusa(ハットゥシャ)という町の名が記されています。おぉ!いずれもHittiteと似た名ではないですか!!!

実は、この一帯はハッティHattiと呼ばれていたのですが、近代の考古学者たちが、ヘブライ聖書に現れている「ヒッタイトHittite」いう土地がハッティHattiだろう、と大した根拠もなく考えてしまったので、以降、ヒッタイトHittiteと呼ばれているのです。

Wiki「ヒッタイト帝国」によると、紀元前16世紀~紀元前1180年までの約4百年間、およそ40人の王(皇帝)によって統治された国で、首都ハットゥシャHattusaの遺跡は世界遺産です。

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今から180年前の西暦1834年、トルコ中央部・・・
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ボガズカレBoğazkaleという小さな町の丘で、古代の町の跡が見つかった。
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この不思議な町にはレリーフやヒエログリフが彫られた城壁や住居跡が残っていた。
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その後40年程、町のことは忘れ去られていた。
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しかし、シリアなど、周辺で同じヒエログリフが相次いで見つかり出すと、この町への関心が高まってきた。
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大きな帝国の一部ではないのか?
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西トルコから北シリアまで広がる文化圏だったようだ!
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1876年、ロンドンで考古学者が驚くべき発表をした。
「小アジアAsian MinorにヒッタイトHittiteという帝国があった!」
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確かにヘブライ聖書にはヒッタイトという名の民族が記録されているが、沢山いた民族の一つで、大して重要ではないと無視されてきた。そのヒッタイトがアナトリア(小アジア)に帝国を造っていたとは!!!
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1906年、発掘は始まった。楔形文字cuneiformで書かれたタブレットが沢山見つかった。音節syllableを左から右に書く表記方法は英語やドイツ語と同じだ。タブレットにはアケーディアン(注)言語が楔形文字で記されていたものもあった。古代の国際語の一つだ。
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(注:アケーディアン:ギリシャのペロポネソス半島の中央にアルカディアArcadiaという地名があります。ヒッタイトよりも数百年以上後に生まれた土地の名のようで関係はなさそうですが・・・結局、アケーディアンがどこで生まれた言葉かは申し訳ありませんが不明です。)

従ってアケーディアンと楔形文字の両方を理解する考古学者ならタブレットに描かれた内容を読み取ることが出来る。発掘を続けていくと驚くべき内容が書かれたタブレットが見つかった。エジプトとヒッタイトの関係が記されている!
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カーデッシュの戦いの後でラムセス2世Ramses IIとハットウシリー3世Hattusillis IIIが締結した平和条約だ!

以降6年間で数万を超えるタブレットの断片が見つかった。
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その結果、ここが単なるヒッタイトの町ではなくハットゥシャHattusaと呼ばれる首都だったことが判った。
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しかしタブレットの多くにはアケーディアンと異なる言語が楔形文字で記されていた。ヒッタイト語に違いない!ヒッタイト帝国を知るためにはこの言語の解読は必須だ!
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楔形文字に詳しい言語学者ベッドリック・ロズニーはヒッタイト文字の解読に精力を注いだ。
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1915年、彼は、ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語族の一つで、英語やドイツ語に似ていることを掴んだ。
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そしてある日「パンBread」という単語を特定した!
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パンなら「飲む」とか「食べる」という言葉と一緒に使われることが多い!こうしてロズニーは古いインド・ヨーロッパ語のヒッタイト語の解読に成功する。これを機に考古学者たちは、アナトリアでのタブレットの収集と分析にエネルギーを注ぎ込み出した。次々に見つかるタブレットには都市、王、王妃などの名前、神々への祈りの言葉や信仰儀式の様子などが記されていた。
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手紙や法律などの記録も解読するに至ると、古代ヒッタイトの様相が急速に明らかになってきた。
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3千年の沈黙の後、ヒッタイトの男や女が物語を語り始めたのだ。
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紀元前18世紀、アナトリア(トルコ半島)は混沌の中にあった。多くの部族が争いを繰り返していた。敵に征服されぬために敵を征服する戦いが続いた。
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その中でハティアンHattianと言う部族が頭角を現した。彼等は紀元前17世紀ころ、彼等よりも前、恐らく紀元前2千年代、に住み着いていたインド・ヨーロッパ系部族のハティアンHattianを征伐し、先住民のハティアンHattianの名とその文化を継承した部族だと考えられている。この部族が今で言う「ヒッタイトHittite」になったのだ。
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新しい征服者がどこから来たのかは今もって判っていない。いずれにしても、紀元前1650年頃、ヒッタイトのリーダーは付近の町を統一し、王国を打ち建て、自分が住む町をハットゥシャHattusaと命名した。「ハットゥシャの人」という意味の「ハットウシャリー」から生まれた名だ。

王は近隣の都市国家を征服し、東アナトリアと北シリアを短期間で勢力下に置いた。どの部族も降伏しなかったので、全て戦(いくさ)で平定するしかなかったようだ。
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特に初代の王はライオンのように獰猛で、領土拡大の戦いに血眼だった。
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戦いを繰り返し、ヒッタイト王国は拡大していった。シリアに深く攻め入った戦いではシリアと他の民族との連合軍に敗れ、引き下がることもあったが、戦は概ねヒッタイトに有利に展開した。

ハットウシャリーの王が死に臨んで残した言葉がタブレットに残されている。
Wash my corpse well, 私の屍(しかばね)をよく洗え。
Hold me to your bosom. 私を懐深く抱け。
Keep me from the earth! 私を土で汚してはならぬ!(?)
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20歳の息子が父を継いで王になると、父の望みだったシリアの併合を成し遂げ、さらに南のバビロニアにも軍を進めた。紀元前1595年頃、チグリス川を渡ってバビロンに攻め入った。ヒッタイトの攻撃でバビロン王国は崩壊する。
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ヒッタイトの文明は彼らの祖先が滅ぼした部族ハティアンHattianから生まれたものが多かった。
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この土器には結婚式の様子が描かれている。
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王や王妃のシール(Seal印章)も造られた。
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粘土のタブレットに捺印され残っているシールは多い。
次のシールでは中央に王のエンブレム(emblem紋章)、周辺に楔形文字が配置されている。
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ヨーロッパ文明よりも1千年前に、既に容器に物語を残していた。
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この土器には牛の上で遊ぶ子供が描かれている。
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ハティアンHattianの神話はヒッタイトの神学Theologyの基礎を形成していた。
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宗教は人々の生活に密着していた。
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太陽の女神と、女神の胸にいる嵐の神は、戦と農業の神として敬われていた。
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人間の姿をした神
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ヒッタイトは、占領した土地で敬われていた神々を受け入れていった。その結果、ヒッタイト王国には多くの神々が異なる形で存在することになる。
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逆にヒッタイトの神々も周辺に影響を与えている。後に現れるギリシャのゼウスやローマのジュピターもヒッタイトの神との関係が強い。
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このような神々に対する態度から、彼等は「数千の神々を崇める人々」とも呼ばれた。
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宗教の中心には王がいた。王は神の使いだった。
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紀元前1590年頃、ムルシリ1世Mursili Iは勝利の遠征から帰国した。
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しかし義理の弟に暗殺されてしまう。そこから王国の混乱が始まった。以降65年間、多くの王は前任者の暗殺者だった。王国は弱体化し分裂していった。
(次の写真は玉座です!本物だと思うんですが・・・)
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紀元前1525年、テリピヌTelipinuが王になると帝国の再建が始まった。ある時、ライバルは彼の妻と息子を殺害する。この殺人者は逮捕されたが、処刑されずに国を追放された。テリピヌは暗殺の繰り返しに終止符を打ち、王国の平穏を優先することにしたのだ!
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テリピヌは王位継承のルールを定めた。「我亡きあとは第一王妃の息子を王とする。第一王妃に息子がいなければ第二王妃の息子を王とする。息子がいなければ、第一王妃の娘の夫を王とする。」
後にテリピヌ法典と呼ばれる王位継承に関する法律は、ヒッタイトの歴史でも重要な掟(おきて)として後世に伝えられていく。ヒッタイトの法律は報復retributionより貢献contributionに重きを置くことにしたのだ!

テリピヌ法典は、結婚や農業など生活の隅々まで網羅していた。
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「全てはこの法によって裁かれねばならぬ。従わぬ者がいれば、その者の頭は首から切り離されるであろう。」
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テリピヌは、隣接するキズワトナ国と戦争放棄条約を結んだ。特に彼の代、このような講和条約は広く進められた。戦いではなく、互いを認め合う形で平和を獲得していったのだ。しかし、その平和は一時的なものだ。ミタンニMitanniやエジプトが必ずヒッタイトを我が物にしようと攻めてくるはずだった。王は、これに備えて軍備を強化することも怠らなかった。

ヒッタイトの日常生活を伝えるレリーフは沢山見つかっている。
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しかし、より正確な情報はパレットに記録されたテキストから得られる。農業に関する記事が多い。王国にとって重要事項だった証だろう。

冬になるとヒッタイトの国土は雪に埋まった。隣町に行くのも命がけだ。
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厳しい冬と不作が続けば飢饉が起きる可能性は高かった。
穏やかな季節になると人々は商品や作物を持って町に来ては商いをした。
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町に来ると、人々は簡易役所に出向き、納税の品々を納めた。
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町はバザールと税務署とストック・マーケットが一つになった交流の場だった。配偶者を見つける場所でもあった。

結婚では男は女の家に支度金を渡す義務を負っていた。女は場合に寄れば離婚を申し出る権利があった。地方で問題が解決できなければ、訴訟は首都ハットゥシャの宮廷裁判所に持ち込まれた。
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首都では、寺院、住居、砦が400エーカー(≒1.2Km四方;1エーカー≒4千平方メートル)に渡って広がっていた。トロイやアテネよりも広い町だった。
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全長数Kmの城壁に取り囲まれた王宮は侵略不能に思われた。
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首都ハットウシャはヒッタイト王国の要(かなめ)だった。
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町は下の町と上の町の二つで構成されていた。
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王宮も住居も砦も全て完備された完全な首都だった。
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石の加工技術も習得していた。時には15トンの石が建築に使われた。
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粘土のパイプを使った高度な水利システムも採用されていた。これは近くの泉から町まで水を引くパイプだ。
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水は人工池に集められてから住居近くの泉に送られていた。
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下水道も完備していた。
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石で覆われた町を囲む城壁も造られていた。
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18m毎に避難通路が設けられ、兵士が警備する主門は8つ造られていた。
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危機が迫ると、城壁の外に暮らす住民は城壁内に移動した。
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王宮には過去の出来事や法律などの記録が、タブレットに記されて保管されていた。事があれば、記録を参考に対処した。
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数百年の歴史や法律が全て保管され、先例を参考に現在や未来の問題を解決しようとする姿勢は、ヒッタイトの特徴ともいえる。勿論、新たな出来事も全て記録され残されていった。
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「すべてが順調で問題ない。君の家も奥方も。」「弟よ。当方は問題ない。そちらの様子を出来るだけ早く伝えてほしい。」といった庶民の手紙も見つかっているが、遠くバビロニアなどから届いた情報はヒッタイトの文化や宗教に影響を与えたはずだ。事実、ババロニアの独特な神話の影響が見受けられる芸術もある。
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それらは後世に引き継がれ、ギリシャ神話やヘブライ聖書にも残されている。
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紀元前1400年、テリピヌの死から1世紀後、ヒッタイト王国は平和と繁栄を享受していた。しかし、それは永くは続かなかった。エジプトがミタンニMitanniやアルザワArzawaと軍事同盟を結び、ヒッタイトを攻撃してきたのだ!
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三方からの攻撃はヒッタイト王国の土台を揺るがすものだったが、北からの攻撃と比べれば些細な物だ。
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アナトリアの黒海沿岸(後のポントス王国)の有力民族だったキャシュカKaskaが北の国境から攻め入ってきた。首都ハットウシャは手薄い防御のまま、この攻撃に晒(さら)されることになったのだ。四方から一挙に攻め込む敵に立ち向かう力は残されていなかった。
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ヒッタイト王国は崩壊し、生き残ったわずかな人々は、アナトリア中央部の狭い土地でひっそり暮らすしかなかった。悪夢と言って済ませられる程度を遥かに超えた悲惨な状況だった。

この時、敵対していた国々はヒッタイト王国が消滅したことを確信したのだ。エジプトのファラオ・アメンホテプ3世Amenhotep III(在位:紀元前1386年―1349年)は同盟国にこう手紙を送った。「全ては終わったと聞いている。ハットウシャの国は完全に滅び去った。」

しかし、彼等はみんな間違っていた。数年後、一人の男が灰の中から立ち上がり、それまで以上に強力なヒッタイト王国を造り上げるのだ!王の中の王King of Kingsとして知られることになるヒッタイトの偉大な王シュッピルリウマ1世Šuppiluliuma Iだ。
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彼は戦士だった。その上、注意深く、自らが建てた計画で全てを進めることができる卓越した戦術家で、政治家でもあった。実は、彼の父トゥドハリヤ2世が死ぬと、シュッピルリウマの兄が王位を継いでトゥドハリヤ3世になったのだが、シュッピルリウマはこの兄を暗殺して王位に就いた。彼は王位継承に関するテリピヌ法典を犯したのだ!

王となったシュッピルリウマは直ちに西のアルザワArzawa、北のキャシュカKaskaを討伐(とうばつ)し、ハットウシャはヒッタイト王国の首都として再生した。その後、時をおかずに南に進軍してシリア連合軍を打ち破り、北シリアをヒッタイトの管轄下に組み込むことにも成功する。
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南東のミタンニ王国Mitanni Kingdomだけが残っていた。
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シュッピルリウマは直ちにミタンニへの攻撃を開始したが敗退する。そこでミタンニの南のバビロンと婚姻外交で同盟を結び、ミタンニに圧力をかけてからミタンニの首都ワシュカンニWashukanniに攻め入ると、ミタンニ王トゥシュラッタは戦わずに逃亡した。
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こうしてシュッピルリウマは軍事的な成果を着々と収めていったが、政治的・経済的な成果も多い。シリアの都市ウガーリットUgaritとは同盟条約を結んだ。
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これにより商業ルートを確保すると、ヒッタイト王国とその国王の名声は高まった。
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ウガーリットは以降2世紀に渡ってヒッタイトの収入の多くを産み出した。
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しかし、シュッピルリウマの最大の宝は何と言っても強力な軍隊だろう。歩兵と戦車隊で構成されていた。
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歩兵は槍と矛、または青銅の剣と斧、で武装していた。厳しい掟で管理され、1千5百Km以上も遠征することもあった。

ヒッタイトの誉れ高い精鋭部隊と言えば戦車隊だ。どの帝国の戦車隊よりも強力だった。
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戦車上の兵士は、どんな弓よりも遠くまで矢を射ることが出来る弓を使った。敵はヒッタイト戦車隊の轟(とどろ)きを聞くだけで逃げ腰になった。
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メソポタミアへの勢力拡大を図るため、シュッピルリウマは、バビロン王の娘を妻として迎えることにした。しかし問題があった。彼は既に結婚していたのだ。妻は女王の称号も持っていた。こんな彼がバビロンの王女と結婚するために採った解決策は単純だ。王妃を追放したのだ!
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バビロンの王女は、やってくると直ちにヒッタイトの王妃に収まった。
シュッピルリウマ1世Suppiluliuma Iは20年ほどヒッタイト王国に君臨していた。帝国の領土はかつての広さを取り戻していた。
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シュッピルリウマの国は帝国と呼べる国になっていた。しかし、ミタンニの都市カーカメッシュKarkameshは依然として彼に歯向かい続けていた。紀元前1327年、シュッピルリウマはカーカメッシュを包囲する。町の陥落を待っていると通信士がエジプトからの手紙を持ってきた。それは古代史における大きなミステリーとなる。

「私の夫は死んだ。私には息子がいない。聞くところ、あなたは大勢の息子を持っている。もし一人の息子を贈ってくれたら彼は私の夫となるだろう。今は夫がなく、心許なく、心配は絶えない。」
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手紙を寄こしたのはエジプト王妃アンケセナーメン。亡夫というのは少年王ツタンカーメンだ!
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何故、エジプトの王妃がヒッタイトの息子との結婚を望むのか?疑いを拭いきれない彼は部下をエジプトに派遣して事実を確かめることにした。
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カートメッシュを征服すると、シュッピルリウマは首都カットゥシャに戻り、エジプトからの連絡を待っていた。

翌年、部下がアンケセナーメンからの怒りの手紙を持ち帰った。
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「私があなたをだまそうとしているのではないのか、と何故あなたは言うのか?息子を持たぬ私がどうして身を守ることが出来よう。あなたの国以外には私を守ってくれる国はない。あなたにだけ私はお願いしているのだ。あなたは多くの息子を持っていると聞いている。私に一人ほしい。彼は私の夫になるであろう。エジプトで彼は王になるはずだ。」

出来過ぎた話だ。しかし、もし事実なら、もしヒッタイトの息子がエジプト王になるなら、ヒッタイトは世界で最も偉大な帝国との評価を得ることが出来る!

部下の説得もあり、シュッピルリウマは息子をエジプトに贈った。
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息子が無事エジプトに着いたと知らせてくるのを彼は待っていた。が、何の何の音沙汰もない!やっと数週間後、部下が戻って来た。息子はエジプト帝国の領土に入ったところでアンケセナーメンのライバルに暗殺されたと言うのだ!
「神よ!何故、このようなことが起きたのだ!エジプトを叩きのめすのだ。」

ヒッタイト軍は直ちに出陣し、シリアに築かれていたエジプトの町を破壊して多くの捕虜を首都ハットウシャに連行した。これが悲惨な結果を招くことになる。
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捕虜たちは恐ろしい伝染病(プレイグplague:ペスト)を持ち込んだのだ!病は直ぐ国中に拡散し、人々は次々に死んでいった。そうしてヒッタイトは荒廃していく。
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紀元前1322年、22年間、王国を統治していたシュプリルーマは伝染病で死んだ。シュプリルーマから王位を引き継いだ息子も同じ年に伝染病で死んでしまう。

王位は最も若い息子ムルシリ2世Mursili IIに引き継がれた。彼は中央アジアで最もパワフルで、しかしもっとも脆弱な帝国を引き継ぐことになったのだ。
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ムルシリ2世の代、王国は戦闘力も経済力も疲弊していた。周辺国は侵攻体制を整えてスキを狙っていた。しかし、ヒッタイトにとって最大の問題は伝染病だった。まだ収まっていなかったのだ。

王ムルシリは神の加護をひたすら祈った、人々を伝染病から救ってほしいと。
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しかし何も起きなかった。神がヒッタイトに与えた罪に関する「神託Oracle」が記録されている。
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「ムルシリ王の父シュッピルリウマは王位を略奪しようと兄を殺し、その上、エジプトを攻撃した。いずれも嵐の神の許しを得ずに!」

ムルシリは神に許しを請う祈りをひたすら続けた。
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そのお陰もあったのか、20年間猛威を振るった伝染病はやっと終息した。
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しかし、今度は別の問題が生まれていた!

義理の母で、バビロンから嫁いだシュッピルリウマの妻タワナアンナ(Tawananna:皇太后の称号)は政治に口を挟むようになっていた。彼女はムルシリの最高助言者としての地位を獲得していた。
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その彼女が王ムルシリの妻との間で問題を起こし始めたのだ。

ムルシリ王の支えとなってシリアやバビロンの町を統治していた兄弟が次々と死ぬと、王の権力は急速に弱体化していた。
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そんな時、彼の妻も突然の病にかかってしまう。ムルシリは妻の回復を神に祈ったが病から1年で彼女は死んだ。王の失意は救い難かった。

薄汚い手段が採られたのではないのか?と多くの者が疑いを持っていた。ムルシリは、義母タワナアンナが黒魔術で妻を殺したのではないかと考えるようになった。
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当時、黒魔術はヒッタイトの社会の中で密かに蔓延(はびこ)っていたのだ。
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神託を仰ぐと、タワナアンナは有罪と出た!毒を盛った可能性がある!ムルシリは義母を王宮から追放した。

ムルシリの身辺に起きた一連の悲劇を思うと彼の辛い心境は同情に値する。結局、ムルシリは若くして王位を息子に譲り、身を引いた。
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その当時、ヒッタイト周辺では東のアッシリアが目を離せない動きをしていたが、問題は何と言ってもエジプト帝国だった。
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ムルシリの死から16年後の紀元前1279年、そのエジプトで最強の王が就任する。ラムセス2世Ramses IIだ!
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野心家のラムセスはシリアにおけるエジプトの勢力を強化したいと考えていた。シリアは父セティ1世Seti Iも力を入れていた土地だ。紀元前1275年、ラムセスはシリア奪取のためヒッタイト侵攻に着手した。
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ラムセスは考えていた。「エジプトの力は高くヒッタイトの力は低い。今こそ征服の時だ!」
当時、ヒッタイトの統治者でラムセスのライバルはムワタリMuwatalliだった。ヒッタイト帝国第22代の王でムルシリ2世の長男だ。
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しかし、実力や人気が高かったのは弟のハットウシリーだ。ヒッタイトで二番目の権力を持ち、ムルシリ2世の最も若い息子だった。

紀元前1274年、カーディッシュKardeshはヒッタイトの勢力下にあった。
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シリアの立場は、つねに曖昧だった。カーディッシュKardeshは戦略的な場所で、ヒッタイトとエジプトの接点だった。カーディッシュを制したものがシリアを統治する。

エジプトとヒッタイトの両国は武器や戦車を整備し、戦の準備を進めていた。そして、エジプト王ラムセスはついにカーディッシュに向けて進軍を始める。過去にない壮大な規模の軍勢だった。
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対するヒッタイト軍もシリアに進軍した。指揮官はハットウシリーだった。
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ラムセスは、留守中のエジプト本土をヒッタイトが攻撃する場合に備え、軍の半分を後方のエジプト側に配置し、残りの半分を率いてカーディッシュに向かっていた。
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エジプトを発って1ヶ月後の紀元前1274年5月、ラムセス率いるエジプト軍の先陣はカーディッシュまで16Kmに迫っていた。既にヒッタイト領だ。しかし敵軍は見えない。

シャブトゥナShabtunaでオロンテス川(Orontes)を渡ろうとしていたラムセスは2人の遊牧民を捕えた。彼らによるとヒッタイト軍は160Km北にいると言う。「エジプトの大軍を見て恐れおのき、首都ハットウシャに戻ろうとしているようだ!」
この時、遊牧民は嘘をついていた!
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そうとは知らず、翌日、ラムセス軍は渡河を始める。
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そしてカーディッシュKardeshの西のアモンAmonに陣を張った。
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エジプト師団リーRE、ターPTAH、セトSETHはラムセス軍から南に離れて進軍していた。
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カーディッシュの町で、ラムセス軍の兵士が偶然、2人のヒッタイトのスパイを逮捕した。
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拷問にかけると「ヒッタイト軍は既に連合軍を率いてやってきた。今はカーディッシュの北で戦闘態勢を敷いて待機している。」と白状した。しかしこれも嘘だったのだ!ラムセスは彼の後方から進んでくる師団に注意するように伝令を送ったが遅かった。その時には既に、ヒッタイト軍は南からエジプト軍に襲い掛かろうとしていたのだ!
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(次の映像がカーディッシュの戦場の今の様子かと思いますが・・・)
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ヒッタイトの先鋒はエジプト軍に襲い掛かった!
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エジプト軍は奇襲に浮足立った!
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運よく攻撃を逃れたエジプト兵士はラムセスに状況を報告した。ラムセスを救えるとしたら、それは奇蹟だけだったろう。ハットウシリーと兄ムワタリは戦場にいて勝利を確信していた。しかし、ラムセスに奇蹟が起きる!

エジプト軍が全てを捨てて退却を始めるとヒッタイト軍は略奪に走った。
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そうこうしているうちにラムセスの後方から進行していたエジプトの援軍が到着し、ヒッタイト軍の側面から襲い掛かった!
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両軍とも戦車chariotを温存していたので、いずれに勝利が転がり込むのか予断を許さない戦いが続いた。その混乱の中からラムセスは戦車で抜け出し、逃げるようにエジプトに引き上げ始めた。ヒッタイト軍はラムセスを追跡してエジプト領土に深入りすることを諦めた。

カーディッシュの戦いで、ヒッタイトは掴みかけた勝利を逃した。大きな痛手も受けた。しかしエジプト軍の損害はこれを上回っていた。軍の半分を失ったのだ。戦いの結果、ヒッタイトはアムルと、今のダマスカスのアーバを領土として取り戻した。その後、16年間、両者の緊張は続く。

ラムセスはカーディッシュの戦いの記録をルクソールのカルナック神殿や南のアブ・シンベル神殿に残している。
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お蔭でエジプトが考えたカーディッシュの戦いの顛末(てんまつ)は知ることができる、手前勝手な記録も若干残ってはいるのだが。
「私ラムセスは出会う敵、全てをなぎ倒した。敵は言った。彼は人間ではない!数十万の兵士を打ち破るのだから!」
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しかし20世紀に見つかったヒッタイトのタブレットには、この戦いのもう少し正確な記録が残されている。しかも戦いの後の悪夢についても!

戦いを終えて首都ハットウシャへの帰途にあったハットウシリーは、ローワズアンティーアの町に宿泊した。彼等の神イシュタに戦いのお礼をするためだ。そこで祈祷師の娘と出会った。
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25歳の彼女は神イシュタの世話を任されていた。若く、上品で、そのうえカリスマ性も持ちあわせた女性で、名はプドゥヘパPuduhepaと言った。神が準備してくれた出会いだった。

彼等は結婚し息子や娘も出来た。プドゥヘパは妻で、献身的な母であるだけではなく、ヒッタイトの歴史で最も有名な女になる。
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カーディッシュの戦いから2年経った紀元前1272年頃、ヒッタイト王ムワタリが死ぬと、息子ウルヒ・テシュプ Urhi-Tesubがムルシリ3世Mursili IIIとなって王位を継承する。新王の叔父ハットウシリーは北部ヒッタイトを任された。
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しかし二人の関係は当初から複雑だったのだ。叔父ハットウシリーの実力を恐れていたムルシリ3世は、就任から7年目にハットウシリーの土地と資格を剥奪した。

王の仕打ちに対するハットウシリーの反応は速かった。「7年間ヒッタイトのために貢献してきた私を王は破滅させようとした!私はもう王の指示には従わない!」彼は北部で軍を編成し、内戦の末、甥(おい)のムルシリ3世を失墜させ、自らが王ハットウシリー3世Hattusillis IIIとなった。

この時、ハットウシリーは結果としてテレピヌが打ち建てた王位継承に関するテレピヌ法典を犯すことになった。自らの行為を正当化しようとした証拠が残っている。「ハットウシリーの弁明」と呼ばれる一種の自叙伝だ。
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「ウルヒ・テシュプ Urhi-Tesubは、私に対する神の加護に気付くと嫉妬した。彼は私に悪意を働いた。私から全てを奪い取った。それだけでは飽き足りず、カラドニアまで攻め入ってきた。そこで私は彼を罰することにした。」

紀元前1267年頃・・・ヒッタイト王国の東方ではアッシリアが勢力を得ていた。南のエジプトではラムセスが12年の統治を果たし、国は安定していた。ヘブライ聖書では、モーゼが神ヤハウェの指示に従ってエジプトから人々を引き連れて逃亡を進めていた時期だ。そしてハティHattiの地ヒッタイト帝国では、ハットウシリーがハットウシリー3世となり、妻プドゥヘパPuduhepaは王女として夫を支えていた。ヒッタイト帝国は平和と繁栄の中にあった。

ハットウシリー政権の特徴は近隣諸国と強い友好関係を築き上げることだった。妻プドゥヘパも王を補佐し、他国の王室間の結婚を仲介して関係改善を進めていた。彼女は自分の署名で他国の王たちと手紙の交換もしている。
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4百年の歴史からヒッタイトでは多くの神が生まれていた。どんな小さな町も独自の神を崇めていた。
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神々の名のリストには終わりがなかった。
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信仰心が篤いプドゥヘパは夫と相談し、神々のリストを整理して格付けを進めた。
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紀元前1260年頃、ハットウシリー3世の治世10年目頃、アッシリアAssyriaはヒッタイトにとって解決しなければならない問題になっていた。
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アッシリアを攻撃するに当たり、ハットウシリーはエジプトと不可侵条約を結んでおきたいと考えた。条約が締結できればヒッタイト帝国の安定と権威は高まる。

エジプトのラムセスも同じ思いでいた。紀元前1259年、数十年の敵対関係の後、ハティHattiの王とエジプトの王は平和条約を締結する。条約のヒッタイト版はアケーディアン言語で書かれ、王ハットウシリーと王妃プドゥヘパの印章Sealが付記されてエジプトに贈られた。この条約文はヒエログリフに翻訳され、カルナック神殿の壁に残されている。

エジプト版もアケーディアン言語で書かれ、首都ハットウシャに送られた。今はイスタンブール考古学博物館にコピーが展示されている。
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この、3千年前の世界初の平和条約のレプリカは、1970年、ウ・タント事務総長の時代、トルコ政府からニューヨークの国際連合に寄贈され、今も安全保障会議室入口の壁に飾られている。
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「エジプト王である私ラムセスは、ハティ王のハットウシリーにこれを贈る。彼は私の兄弟で、私は彼の兄弟だ。彼は私の平和(Peace)で、私は彼の平和だ。我々は兄弟の関係を結ぶ。それは過去のどの関係よりも素晴らしい。」
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この条約でヒッタイトとの紛争に終止符を打ったラムセスは、以降、国内の安定に勢力を注いだ。アブ・シンベル神殿の建設にも着手した。
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エジプト帝国とヒッタイト帝国の手紙の交換は数百通に及んだ。うち凡そ50通は王妃プドゥヘパ宛てだった。
「私エジプトの王妃ナファタリはヒッタイトの偉大な王妃プドゥヘパにこう伝える。あなたは平穏にくらしているか。私のほうはとてもうまくいっている。」
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ハットウシリーの妹に関する面白いやりとりもあった。「ハットウシリーからエジプトの偉大な王へ。私の妹に子供ができるようにならないものだろうか。」「私の兄弟ハットウシリーよ。兄弟の妹は50歳か60歳ではないのだろうか。エジプトのどんな薬をもってしても子供は難しいだろう。」

ヒッタイトの王妃プドゥヘパは、ラムセスを自分の義理の息子に出来れば両国の平和がさらに確実になると考えていたが、その調整は首都ハットウシャで起きた大火で遅れていた。
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「あなたは娘を私の所に贈ってくれると言ってくれたが、まだ彼女はエジプトに到着していない。誰かが怒っているのだろうか?」

後日、娘はエジプトに贈られてハーレムで暮らすことになり、ラムセス2世はハットウシリーの義理の息子になった。この出来事もアブ・シンベル神殿の入口の壁に残された。
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ヒッタイトとエジプトは個人レベルの親密な関係を築き上げていった。王同志は兄弟と呼びあい、王妃同志も姉妹と呼びあった。公的な手紙の交換では得られない関係だった。

ハットウシャリーの晩年、彼はアッシリアを平定していた。そしてアズリカヤという大きな寺院の建設が首都ハットウシャで始まった。
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建設の一部は息子トゥドハリヤ4世Tudhaliya IVにも引き継がれている。

紀元前1240年、ハットウシリーは重篤な病の床にあった。ラムセスに手紙を送り、エジプトの神の神託をほしいと頼んでいた。
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プドゥヘパは毎日、神に祈りを捧げていた。
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「太陽の神アリンナよ、我が女神よ。我が願いを聞き届けよ。あなたの息子ハットウシリーは病の床に在ります。もし誰かがハットウシリーに不幸が訪れるよう神に祈っているとしたら、その祈りがハットウシリーに及ばないようご尽力下さい。」
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「我が夫に今後も何年も何カ月も何日もの命を与えて下さい。」

しかし・・・彼女の祈りは聞き届けられなかった。
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ハットウシリーの死は古代の偉大な結婚の終わりとして記されることになった。プドゥヘパは後を継いだ息子トゥドハリヤ4世を補佐したが、彼女もすでに高齢になっていた。

ハットウシリーの死は偉大なヒッタイトの歴史の最後を飾るものと言えるだろう。
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トゥドハリヤ4世の統治の代、王国はアッシリアからの驚異に晒(さら)されていた。そこに旱魃(かんばつ)と飢饉が重なった。王にはこれらに対応する力がなかった。そしてハットウシャリーの死から30年後、450年間続いたヒッタイト帝国は謎を残して消滅する。ハットウシリー3世の死から4人の王がいたことは記録に残されていたが、その記録も突然途切れてしまうのだ。
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紀元前1200年頃、アッシリアの攻撃から逃れるため、王や住民は首都ハットウシャHattusaを放棄して各地に散って行ったと考えられている。
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ハットウシャは、その後二度と以前の栄光を取り戻すことは無かった。
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ヒッタイト帝国の崩壊はアナトリアにおける青銅器時代の終わりをもたらした。それは以降3世紀続く暗黒時代、その後の鉄器時代という、新しい時代の始まりだった。ヒッタイト王国の土地は、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、トルコに引き継がれていく。

東洋と西洋の架け橋となるアナトリアで生まれたヒッタイト帝国は5百年で消滅したが、散り散りになった人々は生き続けていた。南西部の高地、ユーフラテス川沿いの都市国家、北シリアなどにはヒッタイト風建築遺跡がある。
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ヒッタイトはアナトリアで貴重な文明を育んだ。外交が戦いよりも大切なことを示した。シュッピルリウマSuppiluliumaやテリピヌTelipinuやハットウシリーHattusillisやプドゥヘパPuduhepaの声が今もこの地の隅々から聞こえてくる。ハットウシャHattusaの遺跡はヒッタイト帝国の盛衰を今も語り続けているのだ。
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以上をもってYoutube「Forgotten Empires The Hittite Kingdom忘れ去られた帝国;ヒッタイト王国」を終わります。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。時間がありましたら、次のURLからご自身でヒッタイトの魅力を味わられることをお薦めします。私は、ここで一休みさせて頂きましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Ve9QE7Or6v0
(完)

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mh徒然草61: 防潮堤は必要か?

東日本大震災で津波の被害を受けた市町村の百数十か所で防潮堤建設計画が進んでいます。一部は既に着工済みで、未着工のものもあるようですが、住民は悩んでいるようです。

今朝(9月25日)のNHK「あさイチ」によれば、当時、防潮堤を造る計画については国が全ての費用を支払う条件が提示され、早目に実施計画を提出しないと資金枠が確保されない条件もあったようで、自治体は、住民との議論を十分行わないまま計画をまとめ、国に提出したようです。しかし、今、高さ9mの防潮堤を造っても、海面が9m上昇して浸水される地域には住民が住んでいない所も多く、何のために造るのか、疑問が膨らんでいるのです。住民ばかりではなく、昔は多くの人が関与していた漁業・漁業関連業(加工・冷凍工場など)についても、30%程度しか復活していないようで、その上、防潮堤で生活が海から隔離され、以前の状態は望むべくもありません。

追記:9月28日、この番組の情報がネット「NHKオンライン」で公開されました。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/09/0925.html
防潮堤については、数日前から民放TVでも同じ趣旨の番組を見ていますのでニュース・ソースは同じで、住民の悩みの内容も同じだと思います。防潮堤を造っても、その近くの開発は進まないので、駐車場にして、海岸は潮干狩りができるようにしようとか(今朝のNHKで役場の課長のような人が言っていました)、防潮堤のあちらこちらに、水族館にあるようなアクリルの窓を付けて海が見えるようにしよう、とか、いろんな案も出ているようですが、聞いた感じではとても役立つとは思えないし、言っている側も、それでOKだとは考えていない様子です。つまり、防潮堤の取り扱いをどうするか、困っているのです。
(9/28追記:NHKの番組でも言っていますが、防潮堤を造るのならお金を出すが、造らないとしたら、相当分のお金を別の防災計画で使っても良い、という規則はないのですね。つまり防潮堤で使わなければ予算は取り上げるってことで、いかにもお役人が決めた規則で、住民の意向は無視されています。)

防潮堤ではありませんが鬼怒川の堤防が決壊し、住民の避難が続いていましたが、仮設堤防が完成したので、非難は(恐らく昨日に)全域で解除されたのですが、年寄りの女性避難民が「解除されたと言われても、怖くて戻れない」と言っているニュースも流れていました。決壊箇所は以前と同じ堤防高さで、両側はコンクリートブロックで表面を覆われ、以前の堤防よりも強固な様子で、「10年に一度の大雨があっても問題ない」と言われているようですが、地球温暖化で毎年、大雨、強風、熱波、極寒、旱魃が世界のあちらこちらで起きていて、毎年、過去最大の異常気象がおきる確率は高まっていますから、10年に一度の異常があっても大丈夫というだけでは、何の気休めにもならないことは明確です。

防潮堤問題がこんなに住民を悩ませている件については、国の方針が間違っていたことが原因だと思います。1993年に津波被害を受けた奥尻島では高さ9mの防潮堤が造られ、海は遠のき、住民の減少や老齢化は進んでいます。津波の前から人口減少が続いていた土地で、三陸沿岸と似た環境です。
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昨年6月、岩手県・陸前高田市の青年グループが奥尻島を視察した記事がありました。防潮堤で住民の生活が戻るわけではないことを実感したようです。
http://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/feature/CO004100/20140717-OYTAT50071.html

5,6年前にTVで見たのですが、奥尻島に防潮堤が出来てから、付近の海底は、藻も生えず、魚も住み着かない、海の砂漠に変わっていることが紹介されました。それまでは樹木から生まれる有機物が地下水に溶け込んで海に流れ込んでいたのに、防潮堤の基礎工事によって遮断され、海水が変質して、海草や魚介が棲息する環境が失われたことが理由のようです。

これらの事実から得られる教訓は次の通りでしょう。
1) 安全・安心を最優先しても住民は幸せになれない。
(飛行機は落ちるから乗らないという考えでは人生は楽しめません。)
2) 対策は、直ぐに決めず(ここが政府の防潮堤推進政策の間違いだと思います)、冷静になってから決める。
(カッカしている時に決めると後悔が多いのはご承知でしょう。)
3) 年寄りの意見に流されず、若者や経済を支える中堅の意見に重きを置いて対策を決める。
(若者が棲まない町は廃墟になることは自然の理です。)
4) 対策は、住民の意見で決め、政府や自治体が誘導することは可能な限り控える。
(実態を、過去も将来も体験しない役人が決める案は不毛です。)
そして何よりも重要だと思えるのは次です
5) 自然を受け入れ、自然を大切にする対策を考える。
(自然と共に活きてこそ、人間らしい時間をすごせます。)

防潮堤は教訓5)に反するので、お薦めできないというのがmhの考えです。津波警報が出たら短時間で安全な場所に移動できる体制の整備に重点をおき、防潮堤のない、海と共に暮らす生活を目指すのが、三陸海岸沿いの市町村には適当ではないかと思います。逃げることが出来ない弱者の年寄りは見捨てるのか!と怒られそうですが、そういうお年寄りには、高台で暮らすことをお薦めします。防潮堤で日陰の場所より快適です。年寄り重視で防波堤を造るとしたら、20年後は廃墟になる、つまり住む魅力がない場所になっている確率が極めて高いでしょう。

そうは言っても、自分たちの運命は自分たちで決めるべきで、住民の総意が防潮堤ならそれで良いでしょう。しかし、くどくて申し訳ありませんが、もう一度よく考え、年寄りの意見に流されず、若者の意見を取り入れながら、冷静に、よく討議して、施策を選ぶことをお薦めします。

ベルギー・アントウェルペン中央駅のフラッシュモブFlashmob
https://www.youtube.com/watch?v=0UE3CNu_rtY

(完)

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ラムセス2世の不思議

お詫び:ナイル・クルーズの特番を入れたため公開が1週間遅れました。

美女の話から始めましょう。前回のブログ「エジプトの失われた都市」で古代エジプトの三大美女について、誰が選んだのか判らないが恐らく日本固有のランキングだろうとのコメント付きで「クレオパトラ」「ネフェルティティ」「ネフェルタリ」をご紹介しました。確かに選出根拠は不明瞭ですが、この3人はなかなかの女だったようです。特にクレオパトラとネフェルティティは単なる王妃ではなく、ファラオ、つまり女王だったようですから、頭は切れ、美女かどうかはおくとしても、魅力的な女だったと思います。

では「ネフェルタリNefertari」はどんな女だったのか?こんな女でした。
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ラムセス2世の妻です。上の壁画は「王妃の谷The valley of Queens」の彼女の墓に描かれているものです。

「王妃の谷」については、これまでご説明する機会がありませんでしたが、ラムセス2世が最も愛した王妃、その上、三大美女、のネフェルタリをご紹介する以上、彼女が眠る谷に触れないわけにはいきません。

王妃の谷The Valley of Queensは、ピラミッド山Al-Qurnを挟み王家の谷The Valley of Kingsの反対にあります。
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次の写真で、右のアーチ状の入口はネフェルタリの墓に通じています。
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王妃の谷には少なくとも88の墓があり、王妃だけではなく、王子、王女の墓もあります。

ところで、ナセル湖畔のアブ・シンベル神殿には、大神殿The Great Temple at Abu Simbelと小神殿The small Temple at Abu Simbelがありますが、実は小神殿はハトホル神と王妃ネフェルタリに捧げられた神殿なのです。
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入り口には、2体のネフェルタリ像及び4体のラムセス2世像が交互に配置され、足元には子供の像もあります。
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このアブ・シンベル神殿を造った王こそ、今回のテーマのラムセス2世Ramesses IIです。ラムセス大王Ramesses the Greatとも呼ばれる第19王朝の偉大な王(大王)で、ラムセスI世の息子セティ1世Seti Iの子供でした。ラムセスは紀元前1314頃から紀元前1224年頃まで90年余を生き、多くの軍事遠征や寺院の建設をしています。

次の図はカルナック神殿に残るラムセスの父セティ1世の遠征図のスケッチと実物写真です。
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実は、この図が暗示するものも今回のブログの話題の一つなのです。

詳細はおいおい説明するとして、それでは本題の「ラムセス2世の不思議」の始まりです。
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戦士、モニュメント建造者、恋人、神・・・ラムセス2世、ラムセス大王
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エジプトの首都カイロ
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エジプト主席考古学者Supreme Council of Antiquitiesザヒ・ハワス博士Dr.Zahi Hawasが統括するカイロ博物館の奥の薄暗く妖(あや)しい部屋の一画にラムセス大王は眠っている。
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「戦士で、家族思いで、信仰心も篤い男だった。エジプトを66年に渡って統治し、広い帝国の隅々で墓、礼拝堂(チャペルchapel)、石像を建造した。」
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「偉大な王だった。歴史は彼を忘れることはない。」
緊急追記:mhも現地でお会いしてきました!
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ラムセス大王の統治は紀元前1279年頃に始まった。王は100人余の子供の父親でもあった。90歳頃、静かに永遠の眠りにつき、栄光とともに王家の谷に埋葬された。
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彼の業績の痕跡はエジプトの隅々に残された。鉤鼻で背の低い男が偉大な王だったというのは本当なのか?遺跡に残る記録は単なる宣伝文句ではないのか?
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ラムセスが王位に就いた時、エジプトのファラオの時代は既に2千年以上続いていた。ピラミッドが初めて建てられた時から数えても千年は経過していた。エジプトはナイル流域の肥沃な土地を中心とした巨大な帝国になっていた。
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(mh:この像がラムセス2世だと、何故、断言できるのか?それはカルトゥーシュ (cartouche)が像の近くに掘られているからです!)
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しかし、周辺には対立している国があった。南のヌビアン(Nubiansヌビア)、西のリビアン(Lybiansリビア)、北のヒッタイト(Hittites)だ。ラムセスは大きな危険の真っただ中にいたのだ!
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エジプト帝国は、安定を維持できる強力な王、強い戦士を必要としていた。ラムセスが王位に就いたのは、丁度、そんな時だ。25歳だった。
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彼はどのように育てられたのか?答えはルクソールからナイルを下った町アビドスAbydosにある。
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ラムセスの父セティ1世Seti Iが神々を讃(たた)えるために建てた神殿がある神聖な町だ。
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メンフィス大学のピーター博士がセティの神殿を案内してくれる。
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博士は第19王朝を中心に研究している考古学者だ。
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彼によれば、ラムセスはここアビドスAbydosで皇帝学を学び、彼がしなければならない事を父から教えられて育った。
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父セティ1世も勇敢な戦士だった。北のヒッタイトとの戦いに多くのエネルギーを使っていた。
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ラムセス自身もファラオだった70年間の多くを、帝国の守護と拡大の戦いに費やしている。
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エジプト考古学ではピラミッドや墓の調査に重点が置かれるのが一般的だ。しかし、今、エジプトを囲む広域に調査の手は広がっている。地中海沿岸、リビア、シナイ半島北部、シリア、ヌビアなどで、エジプト帝国の足跡を見つけようというのだ。

地中海岸から直線距離で南に700Km入ったナイル東岸の町ルクソール。エジプト帝国の中心とも言えるこの町のカルナック神殿のパイロン(塔門)には戦いの様子を描いたレリーフがある。
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ラムセスの父セティが遠征から戻る様子を描いたとてもユニークなレリーフだ。
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王が乗る馬車と馬の下に小さく描かれている2つの四角形は砦だ。
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これらの砦は、エジプト帝国の守護のため、シナイ半島の北部を通ってアジアに続く街道沿いに建てられていた。砦の名前や、どんなタイプの砦だったのかは記録に残されている。その一つ、港の近くの大きな砦がチャールTjaruだ。ラムセスも遠征時に何度か通過している。しかし、その位置を特定する考古学的調査は放置されていた。
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カルナック神殿のレリーフに描かれた馬の前方には太い線が縦と横に走っている。
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縦の線は左右を草で囲まれていて、線上には魚や鰐が描かれている。これから戻っていく場所、つまりナイルに違いない!その河口には、横に走る、魚も描かれた水域がある。これは地中海だ!
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砦は地中海の近くに在る!ナイルの氾濫でナイルデルタは拡大を続け、海岸線はこの3千年で50Kmほど北に移っている。従って、砦のあった海辺の場所は、今なら砂の海の中だ。

2006年、考古学者が砦跡を発見した!パナマ運河の直ぐ脇の砂の中に。
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(mh:手前が遺跡の一部。奥に見えるのは建物ではなくパナマを南に移動する貨物船に積まれたコンテナです。)
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この辺りに何かあると気付いたのは1968年の古い衛星写真からだ。
この黒い線がナイル運河。
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この一帯は遊牧民の村だった。しかし、開発が進んだ今、Google Earthの衛星映像をみても灌漑農業、ビル、住居、発電所、道路などが多く、昔の様子は判読困難だ。だから開発が行われる前の1960年代の衛星写真が役に立つ。

スエズ運河からシナイ半島側に入った所に何かの跡があった!
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発掘を進めると大きな砦が見つかった。土煉瓦で組んだ城壁だ!
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城壁にそって多くの見張り塔が造られていた(CGです)。チャール砦に違いない!
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砦の中の建物跡から牛の骨が見つかった。3千年前のものだ。戦いに出かける前に勝利を祈念して神に供えたのだろう。
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決定的な証拠が見つかった。ラムセスの名前が彫られた壁画だ!
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平穏を祈念して神に捧げものをしている。
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砦を囲む城壁は高さ9m、幅12mで、24の監視塔が造られていた。砦内側の面積は20エーカー(8万平方メートル)で、兵士の住居と食糧倉庫、中央にラムセスが建てた寺院があった。この砦はこの辺りに近接して2つ建てられていたチャール砦の内の「東チャール砦」に違いない。
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海岸の近くに建てられた2つのチャール砦の更に東にもいくつか砦の跡が見つかっている。
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これらの砦はエジプト帝国の首都ピラムセスPi-Ramsesからシナイ半島、ヒッタイト(小アジア)に続く古代の道Horus Way(ホルスの道)に造られ、通行を管理していた。
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チャール砦こそがアジア遠征の軍事キャンペーンの拠点で守りの要でもあった。そこから先は危険に満ちた敵地だ!若きラムセスは敵を打ち破る決意で砦を拡充していった。
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小アジア(トルコ一帯)に拠点を置くヒッタイトHittitesはエジプトには手ごわい相手だった。ラムセスが王になる40年ほど前から、彼らとの熾烈な戦いが続いていた。

王就任から5年後、ラムセスはヒッタイトを目指して地中海沿岸を移動し、彼等の領土に攻め入った。
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カデッシュKadeshの戦いの様子がカルナック神殿に残こされている。
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そこには驚くべき内容が含まれている。
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深入りし、敵の待ち伏せに遭(あ)ったラムセスが、かろうじて逃げ戻る様子だ!
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ラムセスは、この苦い体験を国民にどう伝えるか悩んだはずだ。普通の王なら、事実を隠すか、勝利したと虚偽の報告をしただろう。しかし彼は事実を隠さなかった。苦境から生きて帰国できたのは自らの勇気と神の加護によるものだと記録に残した。
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彼は、自分が完璧な将軍ではないことを認めたのだ。それでも王の威光を堅持できる確信があったのに違いない。

それにしても、ヒッタイトは侮れない敵なのは間違いなかった!そこで、ラムセスは国境の警備を強化すべく、首都をメンフィスから北のパイラムセスPi-Ramsesに移した。
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かつての首都パイラムセスの跡には遺跡の断片が散乱しているばかりで当時を偲(しの)ぶことは難しい。
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紀元前1258年、ラムセスは国境を堅持するために驚くべき行動に出た。カルナック神殿にヒッタイトと結んだ契約文が刻まれて残っている。相互不可侵安全保障条約だ!
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50年に渡る戦いを経て、2つの大国は互いを尊重しながら発展する道を選んだのだ。いずれかが他国から攻撃されたら互いに協力して敵に当たる約束までしていた!(この辺りは近々、ブログ「ヒッタイトの不思議」で詳細をご紹介する予定です。)

牛に対抗するに牛の角を掴んで立ち向かう力を持っていることを彼は証明した。小躯(しょうく)だったことは彼のミイラから判っている。体は小さくてもエジプトの歴史上、最も偉大な王だったと言っても過言ではないだろう。彼に出会う者は誰もが額(ぬか)づいたに違いない。
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ヒッタイトとの和平条約を機に、ラムセスは国力を戦から統治に切り替えた。ルクソールのナイル対岸に彼が建てた建物が残っている。
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そこには長い煉瓦のアーチが何列も残っている!
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古代エジプトでは穀物は重要で、現金と同じ価値があった。
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賃金も税金も穀物だった。その穀物を大量に保管する倉庫を造ったのだ。
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穀物倉庫は彼の建築事業の一部でしかない。神のためにもその力を発揮した。父セティが始めたカルナック神殿での建築を拡充させ完成させたのだ。

彼が担当した列柱室は、世界の八不思議に加えられるべきモニュメントだろう。
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ノートルダム寺院もこの石柱室の中にすっぽり入る。
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複数の神々が暮らす空間で、面積は5400万平方メートル。16列に並んだ134本の石柱のほとんどは高さ15mで、特に中央の12本は24mもある!
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古代エジプトに起重機はなかった。どんな方法でこの石柱を建てたのか?石柱室の近くにヒントが残っていた。レンガが積まれている。斜面を利用したのだ。
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まず柱の基礎を並べ隙間を瓦礫で埋めた。
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次の石柱を基礎の石柱の上に載せた。
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そして隙間を瓦礫で埋めた。これを何度も繰り返して柱が組み上げられていった。
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最後に瓦礫を取り除けば石柱室の出来上がりだ。
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ラムセスはアブ・シンベル神殿も造った。この見事な神殿のおかげで彼は大王と呼ばれることになったと言えるかも知れない。
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入口の左右の巨像は高さ20mで、どのファラオが造った像よりも大きい。
内部のホールに入ると8対のラムセス像がある。高さ18mだ。人間で、かつ神でもある男として参拝者を見下ろしている。
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古来、エジプトでは、王は神と人間を取り持つ役だけを担(にな)っていた。しかし、ラムセスは、もっと神の立場に近い位置に自分を置いたのだ。別の部屋のレリーフを見ると、どれだけ自らを神格化していたか判る。
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彼は神が座るべきイスに座り、捧げものを受け取っている!頭の上には丸い太陽が描かれている!
かれの顔に巻かれた髪の形は2本の角を持つアムン神の姿そのものだ。
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その上、ヒエログリフに「ラムセス大王太陽神」とある!!!
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彼は一人の男としては大きすぎる仕事を成し遂げた。だから自分は神に相応(ふさわ)しいと考えたのに違いない。

しかし、アブ・シンベルにはラムセスの人間らしさも残されている。
帝国で彼の次に重要な人間のために造られた神殿だ。
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女のために造られた。
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ネフェルタリだ。40年以上も前に死んでしまった彼の妻だ。2人は十代で結婚した。
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彼女の名ネフェルタリは「すべての中で最も美しい女性」を意味する。「偉大な妻」というタイトルもある。それは彼女の子供が次の王になることを指している。寺院入口の彼女の像の足元にも子供の像が刻まれている。
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壁画の中の彼女は神が被る冠を付け、左右に女神を引き連れている。
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このような構図は王だけに許される。ネフェルタリは王と同じ扱いを受けていたのだ。

このレリーフで彼女は船に乗る牛の姿の神に捧げものをしている。これも王だけが許される行為だ。
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寺院で祈りを捧げることが出来るのは王と祈祷師だけだが、これらの壁画を見る限り、ネフェルタリも女神に祈りを捧げていただろう。

真実は別で、壁画は彼女に対するラムセスの賛辞の現れでしかないのかもしれない。しかし彼女の死がラムセスに大きな悲しみを与えたことは間違いない。

第一王女で、ラムセスの長男の母親で、20年以上も連れ合いだった。遺体はルクソールの王妃の谷に埋葬された。
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墓の内部
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こんな見事な王妃の墓は他に類がない。ラムセスは最高の芸術家に装飾を指示したのだろう。
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ネフェルタリを深く愛していのだ。
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王家の墓
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墓KV05の構成は驚くべきものだった。新たに発見された通路の奥にはラムセス2世の像があり、近くに百を超える部屋が造られていたのだ。
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神と名乗る以上、ラムセスに出来ぬことは無いはずだった。あらゆることに対処するため、沢山いる息子たちを帝国中に配置し、彼の名代で働いてもらうつもりだったに違いない。しかし、多くの息子たちは彼よりも先に死んでいった。「ファラオとして葬ってやらねばならぬ!」
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KV05は、最初は小規模な墓だった。しかし、次々に死んでいく子供達のために父王は墓を拡張していったのだ。

紀元前13世紀の終わりまで60年以上、ラムセスは王として君臨した。砦を拡充し、国を守備し、カルナック神殿の列柱室やアブ・シンベル神殿を建て、自らを神の地位にまで高めた。しかし全能のファラオでも免(まぬが)れることが出来ないものがあった。死だ。紀元前1213年頃、100人を超える子供の父ラムセスは死んだ。90歳になったところだった。
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遺体はミイラ処理され、王家の谷に埋葬された。墓の建設は王就任の2年目に始まり、65年をかけて完成していた。

長い通路が地下に向かって伸びている。
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両脇の壁にわずかに残るレリーフ・・・
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荘厳な美で満ち溢れていたはずの墓は、今、単なる洞穴のようだ。
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洪水が運んだ瓦礫で内部は破壊されてしまったのだ。考古学者達は、わずかに残る手がかりから当時の様子を再現している。

死んだファラオが次の世に行くゲートを通るには、冥土を司る神から出される質問に答えねばならない。間違えばゲートは閉じたままだ。王は、通路を下りながら壁に描かれたガイド(手順書)を見て、神の質問に備えながら玄室に向かった。

これがラムセスの玄室の復元CGだ。石棺は黄金で飾られていた。
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今は壁画や柱すらも破壊されてしまっている。
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70年に渡りラムセスはエジプトに君臨した。彼の統治手法は以降のファラオの手本となった。軍事の平穏と経済の安定を実現した。彼は、最高の建築家、最強の戦士、そして現人神(あらひとがみ)と讃えられる偉大な王だったのだ!

Rameses The Great
https://www.youtube.com/watch?v=9cn1Kqu_unc
(完)

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