Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

バーバー王国の不思議

今回は「BBCアフリカの失われた王国」シリーズ第2弾「モロッコのベルベルBerber王国」です。
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番組プレゼンテイターはイギリスの芸術歴史家Art HistorianガスGus (Augustus) Casely Hayford。
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第一弾「契約の箱とエチオピアの不思議」は11月23日にポスト・アップpost upしました。まだご覧になっていない方は先にこちらを見て頂いた方がいいかもしれません、なんてったって物事、順序ってものがありますからね。

私事で恐縮ですが、10月に訪れたエジプト・ナイルの次のアフリカでの旅行先は、大手旅行会社がパックを組んでいるエチオピアかモロッコを想定しているのです。理由は単純で、帝国を創った歴史があること、一人旅追加料金込みでも比較的安いことです。

で~、Youtube「モロッコのベルベルBerber王国」を観たのですが、それも2,3回も観たのですが・・・どうもmhの頭に判り易い形で飛び込んできてくれないんですねぇ。聞きなれない固有名詞が多く、モロッコの生い立ちの最初から紹介してくれる方式では無く、途中だけを切り取った番組で、モロッコの歴史に何の知識も持ち合わせていない硬い頭のmhには、一体全体、何を話しているのか、全く掴みどころがないんです。弱りました!このフィルムはブログ候補からはずそうか、と何度も考えました。

しかし・・・近い将来の旅行先候補を調べない訳にはいきません!
で、mhの硬い頭でも理解できるよう、最初に関連情報を調べ、フィルムをこれにはめ込んでmh流ストーリーを作りあげ、これに従ってご紹介することに決めました。そこまでは思考過程や手順に落ち度はないと思うんですが・・・

調べていくと、更に調べなければいけないことが芋ずる式にズルズルと出てくるんです!またまた弱りました。やっぱ、縁が無かったとあきらめようか・・・しかし、何度もYoutubeを見ている内に、モロッコには是非行ってみたくなってきたので、また思い直し、どうぜ時間はこぼれるほど余っているのだから、この際「mh流モロッコ王国のバーバー編」を纏めてみようと覚悟を決めました。 

で、ベルベル王国よりもずっと昔、凡そ2千年遡(さかのぼ)ったところから、話を始めたいと思います。
とても長いので、mh流に簡略化(手抜き)させて頂きます。

Wik:モロッコの歴史:
紀元前814年に現在のレバノンから到来したフェニキア人がカルタゴを建設すると、彼等はモロッコ沿岸部にも港湾都市を築いた。一方で内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。

紀元前146年に第三次ポエニ戦争でローマ軍に敗れたカルタゴは歴史から消滅する。
カルタゴは実は第二次ポエニ戦争でローマに敗れ、都市カルタゴに封じ込められ、ローマの許可なしに軍事行動を起こしてはならぬ、との屈辱的条件を飲まされていたのですが、カルタゴ自身は、地中海と、ヌミディアという小国とで完全に囲まれていたんです。このヌミディアが、カルタゴが弱体化したことにつけ込んで攻めてきたので、カルタゴは武器で対抗したんですねぇ。気持ちは十分判ります。で、この武器を使ったことを口実に、かねがね「カルタゴは潰さねばならぬ」と考えていたローマが仕掛けた戦が第三次ポエニ戦争なのです。

カルタゴは強大なローマ軍によって全滅しました。この時、小国ヌミディアはローマの属国になる代わりにカルタゴが管理していた地中海沿岸の土地の権利を認めてもらったんですね。これがマウレタニア王国で、次の地図で黄色い部分です。これには東側の紫の部分、つまりカルタゴがあった元ヌミディアの領域は含まれていません。こちらは、クレオパトラで有名なエジプト・プトレマイオス朝の権利になったんでしょう、多分。
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で、マウレタニアは独立しようとローマ帝国に小競り合いを仕掛けたりしていたのですが、西ローマ帝国が衰退すると、西暦429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島からアフリカに入り込んできました。その百年後のユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)の時代、東ローマ帝国に編入されてしまいます。

暫くは東ローマ帝国の下で平穏にすごしたのですが、イスラムの嵐が吹くことになりました。サラセン帝国が勢力を拡大してきたのです!!!

実はサラセン帝国っていうのは昭和20年台に生まれたmhの耳になじむ名前なのですが、今ではイスラム帝国って言われることが多いようですね。ムハンマドが開祖のイスラム教を信じる人々が創った帝国で、発祥地は勿論、今のサウジアラビアのメッカです。
Wiki「イスラム帝国」に掲載されている版図を見て頂くと理解がしやすいと思います。
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ムハンマドの時代に既にアラビア半島全域を掌握しています!な~に、大したことではありません。この辺りは砂漠ばかりで人が住んでいる場所は限られていたんですから、駱駝で行けるところなら全てイスラム帝国になってしまったんですね。帝国は日々、どんどん拡大していきました!!!

で正統カリフ時代には、西はエジプト、東はパキスタンまで拡大し、ウマイヤ朝の西暦750年には西のモロッコがイスラム(サラセン)帝国の勢力に入ることになったのです。つまり東ローマ帝国が弱体化して、アフリカはイスラム帝国の思いのままになってしまったんですね。最大版図ではジブラルタル海峡を越え、イベリア半島の大半もイスラム帝国になったんです。

しかし・・・お釈迦様も仰るように、栄枯盛衰は世の習いで、世襲によって統治者が堕落し、イスラムの教えを軽視しだしたことに腹を立てた貧しいイスラム教徒達が起こした西暦750年のアッバース革命で、ウマイヤ朝は滅び、アッバース朝がとってかわりました。で、アッバース朝の執拗な追跡からスペインに逃れた、中東レバノン生まれ(!)のアブド・アッラフマーン1世は、持ち出した莫大な黄金に物を言わせ、スペインの地に「後ウマイル朝(西暦756年-1031年)」を創りました。

で~、この「後ウマイル朝」の初期、スペイン・ゴルドバに造られたのが世界遺産にもなっているメスキータです!
コルドバのメスキータ(聖マリア大聖堂)
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メスキータ (mezquita) は、スペイン語でモスクという意味の普通名詞ですから、「コルドバの聖マリア大聖堂 (スペイン語: Catedral de Santa María de Córdoba)」と言わないと、世界遺産のモスクを指すことになりません。
で、このモスクはキリスト教会としても使われるのですが、その辺りを解説し出すと、このブログが長くなりすぎるので今回は省略します。詳しく知りたい方は次のURLのWiki「メスキータ」でご確認下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF

それでは、いよいよYoutube「モロッコのベルベルBerber王国」を、と行きたいところですが、もう一つ、解説しておきたいと思います、フィルムでは触れていないことですから。

日本語でベルベル、英語でBerber(バーバー)って何のことか、ご存知ないでしょう?お教えしましょう。それは、モロッコに王国を築くことになった民族が使っていた言葉の呼び名、及びその言葉を話す人々です。ギリシャ人が名付けたもので「わけのわからない言葉を話す者、ことばがわからない人」を意味します。

で~、現在、モロッコの人はどんな言語を使っているのか?これも長くなりそうですが、そろそろフィルム紹介を始めろという怒りの声が届き始めてきそうですから、大雑把に紹介します。
モロッコの公用語はアラビア語とベルベル語です。
これがアラビア語の文字
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緑:アラビア語が唯一の公用語
青:アラビア語がいくつかの公用語の一つ
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モロッコに限って話すと、アラビア語では学校の第一言語として正則アラビア語が教えられていますが、日常生活ではアラビア語モロッコ方言が使われていて、他のアラビア語圏の人とは意思疎通は困難なようです。かつてフランスの保護領だったので第二言語としてフランス語が教えられているようです。スペインに近いところでは日常生活でスペイン語も話されています。

次はベルベル語の文字です。
ティフィナグtifinagh文字(アルファベット)
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なんだか少し、シバの女王の国で使われていたサビアン文字Sabaeansに似ているような・・・

ベルベル語は次の地図の紫の地域で使われています。モロッコも含まれます。
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どんな言葉か?と問われても答えられません。Wikiには「現在、主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されているアフロ・アジア語族の言語。」とありますが、それが何を意味するのか・・・
ベルベル語話者は「ベルベル語」という呼称を好まないようで、それはベルベルがギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイに由来することにあるようです。で、自分たちは「タマジグト(タマジグ)」と呼んでいるようです。

さて、これで晴れて、とうとう、Youtube「The Berber Kingdom of Moroccoモロッコのバーバー(日本語;ベルベル)王国」の始まりを宣言します!
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サハラ砂漠・・・
世界でも最も過酷な気候の地の一つ。
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途轍(とてつ)もない莫大な量の砂が大地を埋め尽くしている。完全に不毛の、砂以外には何もない場所のように思われる。
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しかし、この地から砂漠の遊牧民たちがアフリカの北西部一帯を変えようと立ち上がった。サハラからスペインまで広がる帝国を創るためだ。

一人の男によって始まった王国は帝国となり、数世紀の間、繁栄することになった。帝国は高度なアイデアと優れた手工芸品を産み出した。彼等はバーバーBerber(日本語:ベルベル人)と呼ばれる。彼等はアフリカを変えたのだ。
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世界の他の場所と比べ、アフリカやその過去については知られていることは少ない。
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しかし、記録が残されていないからと言って、アフリカで生まれ発達したものが何もないということではない。
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アフリカ独自の手工芸品や文化、信仰は着実に生まれ、育まれていた!
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今回は砂漠から立ち上がったバーバーBerberが創り上げた見事な文化、国家、そしてその国家が次の国家にとってかわられた様を紹介しよう。

「モロッコに生まれたバーバー人の王国:The Berver Kingdom of Morocco」
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21世紀のモロッコ・・・
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近代的なイスラム国家だ。国王はムハンマドの子孫だと主張している。
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彼は、文化と同様に多様性に富んだ自然や歴史を持つモロッコを統括している。
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大西洋や地中海に面した海岸・・・
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アルプスとほぼ同じ標高の、雪を抱いた山々が連なるアトラス山脈
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そして国境周辺に広がる乾き切ったサハラ砂漠・・・
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モロッコで広く話されている言葉はArabian Europe語(ヨーロッパ系アラビア語?)だ。
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しかし、凡そ半分の人はバーバー語(ベルベル語)を話す。アフリカ固有の言葉だ。
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1千年前、この地モロッコはバーバー人の土地だった。
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アトラス山脈を境として、北と南に農夫や商人や遊牧民などの異なるバーバーが異なる小国を造っていて統一された国家ではなかった。
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しかし、みんな同じイスラム教徒だった。
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彼等の子孫は昔の習慣に従い、勿論、イスラムの教えにも忠実に暮らしている。
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しかし11世紀の中頃、一人の男が全てを変えた!コーランを熱心に学んでカリスマ的な説教師になり、グループを導いていった。
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彼のミッションは堕落したイスラム教になれてしまった人々に、厳格で正しいイスラム教を教えることだった。
(mh:本当でしょうか?方便ではないかと・・・)
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彼の名はアブダーラ・イビン・ヤシーンAbdallah ibn Yasin。イスラムの中心地(注)でイスラム教の何たるかを学んだことがある男だ。
(mh:英語版Wikiによれば、ヤシーンがイスラム教を学んだ場所はメッカなどではなく、現在のモロッコの大西洋に面した町ティズニットTiznitのようです。)

彼はサハラから彼のミッションを開始した。そしてアフリカ北西部を変革していくことになる。

1054年、アムラビットAlmoravid(日本語:ムアービト)と呼ばれる数千人の遊牧民がシジルマーサSijilmasaを目指していた。シジルマーサは、当時のアフリカで重要な商取引ルートにある都市の一つだった。アムラビットのミッションはシンプルだった。「ジハードJihad(注)」だ!今なら反西洋過激派Anti-Western Extremistsの「聖戦」を思い浮かべがちだが本来はそうではない。厳格なイスラムの教えを取り戻すことが目的の行為だ。
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mh:ジハードJihadはよく聞く言葉なので、ここで改めて簡単に解説しておきます。
ジハードはイスラム教徒(ムスリム)の義務の一つとされている行為で、本来は「努力」「奮闘」を指し、ムスリムの主要な五行に続く「六番目の行」とも言われます。
この「努力」には「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていないのですが、『クルアーン(コーラン)』の中で「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われていて、これが異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)の意に転じたとのこと。
五行もこの際、確認しておきましょう。
1. 信仰告白(シャハーダ):
「アッラーフ(Allāhアッラー)の他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
2. 礼拝(サラー):
一日五回、キブラに向かって神に祈ること。マスジド・ハラームを例外として必ずキブラを示す壁の窪み・ミフラーブがある。
3. 喜捨(ザカート):
収入の一部を困窮者に施すこと。
4. 断食(サウム):
ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
5. 巡礼(ハッジ):
経済的・肉体的に可能であれば、ヒジュラ暦第十二月であるズー=ル=ヒッジャ月(巡礼月)の8日から10日の時期を中心に、マッカのカアバ神殿に巡礼すること。

ここがかつての商業都市シジルマーサSijilmasaだ。
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5万人を超える人々が暮らしていた。
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アフリカでも最も大きなオアシス地帯の一つだ。
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今は灌漑も行われ、昔よりも広大な土地で子孫たちが生活している。
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その土地には泥で造られた都市の遺跡が眠っていた。
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この建物群はアムラビットAlmoravid王国(日本語:ムラービト朝)の最初の町となった。
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この町の何がアムラビットを引き付けたのか?
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この地で考古学調査をしているエレット・ロス博士が語ってくれた「ここはモロッコの商業ルートのハブ(複数の周辺を中心で束ねている所)だった。大きな都市で広大なオアシスでもあった。ここで取り扱かわれていた商品は、穀物、手記、本、馬で、最も重要な品は南のサハラを越えて運ばれてくる黄金だった。マリ、セネガルなどで採取されたものだ。黄金のコインがここで鋳造され、主に東方に輸出されていた。エジプト、アラビア、中央アジア、そしてインドまでも。」
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シジルマーサを完全に統治下に収めることに成功すると、アムラビットは南に軍を派遣した。黄金の搬送ルートを押さえるのだ。数千Kmも南下し、商業都市アウダフストAwdaghustを包囲し陥落させた。黄金ルートを確保したことで、アムラビットは割の好い貿易を手中にした。
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しかし、この成果はもう一つの重要な成果無しでは成し遂げられなかったのは間違いない。水の確保だ。この過酷な気象条件の中で、水は全ての生物にとって生き残るために必要なものだった。
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バーバーは、水を見つけ、運ぶ方法を知っていた。砂漠の地下を使うのだ!
これがカターラと呼ばれる、古代のバーバーが活用した灌漑システムだ。
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mh:カターラと番組プレゼンテイターのガスが言っていますが、一般的にはカナート(アラビア語: qanāt)と呼ばれる、乾燥地域に見られる地下用水路です。アフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、新疆などではカレーズ、北アフリカではフォガラ(foggara)といわれています(Wiki)。

数キロに渡ってカターラは広がっている。その下には水を運ぶ、複雑に張り巡らされた地下トンネルが続いている。
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バーバーはこうして、貴重な水を確保することで厳しい環境の砂漠で生き抜いた。

強力な軍隊と黄金を確保したアムラビットは、精神の支えであるイスラム教を錦の御旗に王国の設立と拡大に着手した。
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その時点で、アムラビットのジハードは止めようがない動きに昇華していた。
「自分たちのイスラム教を他のすべてのバーバーたちにも広めるのだ!」
それは、4千メートルのアトラス山脈を越えて勢力を拡大することを意味していた。山の向うにはもっと生活に適した、繁栄を謳歌できる場所があるはずだった。
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当時、アトラス山脈を越えて移動することは楽ではなかったが、ある渓谷があり、そこを通るルートが使われることが多かった。
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今は放棄され誰も暮らしていないエビン・エスイン(?町の名です)を通るこの道は「Road of thousand Casbahs多くのカスバ(城塞)がある道」と呼ばれていた。
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ここは、カスバの一つだ。道の両脇に残っている砦のような建物は、商人たちが所有していた。黄金やシルクも砂漠を越えて運ばれ、ここを通って行った。そんなこともあって、この辺りは盗賊が横行する危険な所だったので、商人たちは砦を造って身を守る必要があった。この頑丈な建物を見ると、当時の生活ぶりが目に浮かんでくる。
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アムラビットAlmoravidは400匹の騎馬軍団、800匹の駱駝軍団、2000人の歩兵集団となって、この峠を越えて進軍した。
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峠を抜けた彼等は今まで暮らしていた砂漠とは全く異なる環境で暮らすことになった。昔からそこに住んでいた人達にはアムラビットは宗教的異端者の集団と映っていた。
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最初に住み着いたのはアトラス山脈の北側の山麓にあったアグマットAghmatという小さな町だ。
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アグマットは、周辺の種族を制圧するための新しい指令本部の町になった。
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これまで、アグマットで彼らがどんな生活をしていたのかを知ることは困難だった。理由は簡単だ。どこにアグマットがあったのか誰も知らなかったのだ。失われた都市だと思われていた。しかし、その都市は間違いなくあったのだ、ここに!私の直ぐ足元に!
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これは浴場の跡だ。彼らがどのように水を使っていたのかが判る。
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フランス人(?)の考古学者アドラフィリが案内してくれた。
「ここはモロッコで最も古いHamam(トルコ語で風呂)のひとつだ。」
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水には2つの使い方があった。最初に公共の建物や個人の家で、3日後は灌漑用に使われた。
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1千年も前の遺跡がほとんど無傷で発掘されたのは信じられないような奇蹟といえる。しかも驚くほど大きな浴場だ。500平方メートルもある。円筒状の天井の造りも見事としか言いようがない。
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湯沸しの方法に関する卓越した知識がなければこんな大きな浴場の管理はできないだろう。しかも石とモルタルで組み上げられた壁には水や湯を蓄える力があったのだ。
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ここにはあふれんばかりの冷水と温水が流れていた。冷水は建物の中に導かれた炎で加熱されていた。
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ここには文化的な生活があった。人々はここにきて体を清め、肉体的にも精神的にもリラックスすることが出来ただろう。
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水が少ない砂漠の民アムラビットにとっては、ここは水の寺院だったに違いない。もっと端的に言えば「水の場所」だった。
アムラビットは徐々にアグマットでの快適な生活を享受するようになった。しかし問題があった。砂漠の民にとって、町は軍事的な観点からは好ましくなかった。3方向を山や丘で囲まれ、一方向だけ開けている。広い所で戦うのが得意だった彼等には、攻撃には脆(もろ)く見えたのだ。
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十数年後、アムラビットは新たな安住の地を求めて移動を始めた。もっと広々とした領地を求めて。

アムラビットのDNAには「サハラ(砂漠)」が埋め込まれていた。平で広々とした土地が適していたのだ。彼等はアトラス山脈の麓から32Kmの、バーバーの言葉で「神の土地」と名付けた場所に住み着くことにした。マラケシュMarrakechだ!
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1070年にマラケシュに住み着き、「ジハード」の準備体制は完璧に整った。マラケシュも急速に都市としての体裁を確立していく。
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リーダーは住民から税金を徴収し、見返りとして安全を約束した。
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アムラビットAlmoravidのジハードは止まることは無かった。イーブン・イエッスン(多分アムラビットのリーダーです)が死んでも、王国の建設と拡大は続けられた。
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説教者イブン・ヤーシーンの死後、新しい男がジハードを引き継いだ。彼の名はユースフ・イブン・タシュフィーンYusuf ibn Tashfin。他の誰よりもアムラビットの勢力の拡大に貢献した。小さな王国を帝国に育て上げたのだ。
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タシュフィーンの帝国建設はマラケシュから始まった。まず水が引かれ・・・
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町を巡る城壁を造って人々を守った。
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この通りはタシュフィーンの時代からあった。今も当時の雰囲気が残っている。
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野菜や果物を売る店には所せましと店が広げられている。
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香辛料も売られている。
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歴史に詳しい教授に町の通りを案内してもらいながら訊いてみた。
「ところでタシュフィーンってどんな男だったんですか?」
「背が高く、親しみやすく、ハンサムだった。強く、偉大な人格も備えていた。」
「彼はマラケシュをどう変えていったんですか?」
「王宮を建てた。商業、行政、を核とした首都の建設も精力的に進めたんだ。町は今と同じくらい賑わっていただろう。」
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城壁の修理や増強は何度も行われた。
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バブザカラー(?)という名の当時の門が今も残っている。巨大だ!
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しかし、装飾は驚くほど単純だ!
(mh:単純という表現は、後で出てくる次の王朝の門と比べるための伏線です!)
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アムラビットAlmoravidの文化はシンプルなのが特徴だ。サハラから来たイスラム教徒で、「単純」と「美」の調和を好んだのだ。この門を通る時、人々はアムラビットの精神に触れ、彼等と共に暮らしていることを感じたことだろう。(mh:次の王朝の門でも、これと似た解説が行われていました。)

首都は出来上がった。いよいよ帝国の設立に着手する時だ!
アムラビットの軍勢は北に進軍し、次々と都市を陥落していった。東の町アルジアーズAlgiersも手中にした。アルジアーズは今のモロッコより東の都市だ。(mh:モロッコの東はアルジェリアで、アルジアーズっていうのは現在の首都アルジェのことです!)
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シジルマーサを獲得して26年が経過していた。

しかし次のアムラビッドのジハードは誰もの想像を超えたものだった!
北へ・・・ジブラルタルを越えてヨーロッパに進出したのだ!

8世紀初頭、地中海を挟んだスペインやポルトガルには、北アフリカと同じイスラム国家が出来ていた。そこはアランデルースと呼ばれていた。 
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コルドバの地で繁栄していた。豪華な王宮や見事に手入れされた庭も造られていた。
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ところが11世紀になると、弱体化していたイスラム系国家はスペイン北部のキリスト教都市国家からの侵略に悩まされ始めていた。
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モスレムのリーダーたちはアムラビットに加勢してくれるよう頼み込んできた。
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「スペインの地で退廃してしまった(decadence)イスラム精神を改めるのなら協力しよう!」

mh:で~次の映像が現れます。この場所は・・・既にブログ巻頭部で紹介済みです。
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後ウマイル朝(西暦756年-1031年)時代に建てられた、モスクと教会が合体したメスキータ(モスク)で、アムラビットに言わせれば正にデカダンス(退廃)の象徴だったことでしょう。
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アムラビット軍はイベリア半島を攻め上り、スペイン北部のザラゴザZaragozaもキリスト教徒の手から奪回した。
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こうしてアムラビットはモロッコ周辺とスペインにまたがる大帝国を創り上げることになった。
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過去において、北西アフリカで、一つの精神の下でこのように大きなイスラム系の帝国が創られたことはなかった。鼓動を続ける帝国の心臓はマラケシュだった。
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マラケシュの広場ジャマ・エル・フナJemaa el-Fnaaに集まる人々は物を交換するだけではなかった。
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情報や、イスラムの教えに関する知識の交換も行っていた。南ヨーロッパや、砂漠を越えて中東から流れてくる物語もあちこちで語られる、活気溢れる広場だった。
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12世紀の初め、広場は帝国のニュースの発信源になっていた。1106年、この広場に流れたニュースは極めて重要だった。ユースフ・イブン・タシュフィーンYusuf ibn Tashfinが死んだのだ!
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亡くなったのが80歳を超えていたとはいえ、彼一代で偉大なバーバー人の帝国は築き上げられたのだ。
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戦士で偉大な王だったタシュフィーンが死ぬと、23歳の息子アリー・イブン・ユースフAli ibn Yusufに権力が引き継がれた。そして、全く異なった時代が始まる。
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息子アリーは生まれてこのかた、砂漠の暮しについて全く体験がなかった。王宮で大切に育てられ、贅沢な生活を送ってきた。
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アリーは1万3千箱に詰まった銀と、5千4百箱に詰まった金を相続していた。贅沢三昧な暮らしをする条件はそろっていたのだ。
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新しいリーダーはマラケシュを更に美しい都市に変えていった。新たな王宮も建てられた。しかし王宮は都市の美化計画の一部でしかなかった。
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彼はスペイン・アンダルシアの美をマラケシュに取り込んだ。しかし、彼の壮大な計画が明確に現れたものはどこにも残されてはいなかった。

そして1952年・・・荒廃した建物の下からこれが現れた!
クッバ・ バアディンKoubba Baadiynだ!
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(mh:フィルムで何て言ったのか聞き取れなかったのでモロッコ観光名所25選から見つけ出しました。第25位でした!観光客には内部は公開されていなかったようです。勿論、外は見ることが出来たと思いますよ、上の写真のように。しかし、この建物の素晴らしさは中に入らないと判らないんです!!!)

この建物は、当時のマラケシュの文化がどんな雰囲気だったのかについてのヒントを与えてくれる。
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モハメッド教授は言う。「アムラビット時代のマスターピース(傑作)だ。アンダルシアから連れてこられた建築家が宝石ともいえるこの建物を建てた。」
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ここを訪れた人々は、床の水槽で身を清めてからモスクに向かった。
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裕福な人々は、こうした豪華で芸術性に満ちた建物を、マラケシュのあちらこちらで造り上げていたはずだ。
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とても装飾性に富んだデザインだ。このような設計の建物がアフリカに造られたのは、マラケシュが初めてだった。
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見事な曲線は、何の変哲もない建物の外観と両極をなしている。
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アリーは何も欲していなかった、最高のもの以外は!
Ali wanted nothing, but the best!

アリーは父親とは全く異なるタイプの人間だった。帝国のリーダーとしての資質は欠けていた。しかし、彼は重要な役割を果たした。というのは彼の時代に建築技術が花開き、人間的な物、例えば詩などの文学も生まれた。砂漠から生まれたアムラビットの文化とは全く異なる新たな文化を創ったのが彼だった。

しかし・・・首都の華麗な建物や文化の始まりともに、帝国の終末が始まっていた。マラケシュからも望める山々の中で、アムラビットより強力な勢力が形成されていたのだ!
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実はアムラビットは山奥の領地には関心が薄かった。それが、山岳地帯で改革集団が勢力を拡大するのを助長することにもなった。彼等はアルムハッド Almohad(日本語:ムワッヒド)と呼ばれる。「神による再統一を信じる人々」だ。
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リーダーの名はモハメッド・イブン・トゥマルトMuhammad Ibn Tumartだ。アムルハッドはアムラビットと異なり砂漠の民ではない。山岳地帯のバーバー人だ。リーダーのトゥマルトは数十年、イスラム教の教えを学んでいた。(mh:メッカに巡礼に行っているとWikiにありました。)

ここはティメルTinmelという名の村だ。トゥマルトが革命を始めた所だ。
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モロッコの地は、既にイスラム教国だった。従って、トゥマルトはもう一度イスラム国に変えようとした訳ではない。アムラビットのイスラム信仰が堕落していることを非難したのだ。
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彼は自分の政治的な野心には正当性があるとしてアムラビットを糾弾するために立ち上がったのだ。
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堕落したアムラビットAlmoravidに制裁を与えねばならぬ。そして我々アルムハッド Almohadの思想に従った大帝国を築くのだ!
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1113年、アルムハッド軍はティメルTinmel を発ってマラケシュを目指した。長い戦いになるはずだった。
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マラケシュに到着するとアムラビットAlmoravidが籠る城壁を取り囲んだ。
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アムラビットはアルムハッドの攻撃を予測して城壁を強固なものに補強していた。しかし、強固な城壁であるほど、中に籠るアムラビット軍が敵を打撃する力は衰退していたとも言える。
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アルムハッドが城壁内のマラケシュ中心部に入るには20年を要した。そして1147年、アムラビット朝(日本語:ムラービト朝)はついに終焉を迎えた。

マラケシュを陥落したアルムハッド Almohadは、アムラビットAlmoravidが造った重要な建物を次々に造り変えていった。

これはカトゥビア・モスクだ。本を売っていた男の名カトゥビアの名が付けられている。
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マラケシュの重要な建物でもある。
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伝説によれば、以前のモスクは正確にメッカに面するように造られていなかった。それで破壊され、この建物に造り変えられた。
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実際、マラケシュ全てのモスクは、こうした理由で壊されて造り直されることになった。そのことで自分たちアルムハッドの信仰だけが正統であると町の住民に示したのだ。
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このメッセージは、マラケシュを訪れる時に、人々に伝えられることになった。これは新たに造られた町に入るためのモーハッド門だ。
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1185年、アルムハッドの王が造ったものだ。アムラビット王朝が建てた門はシンプルなデザインだった。
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しかし、アルムハッド王朝の門ではイスラム固有の神聖さを強く打ち出すために装飾の上に装飾を施している!
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アムラビットの美術感と比較するとアルムハッドのそれは壮大で印象的だ。しかし、これらの2つの考え方のいずれもがバーバー王国の歩みだと言える。なにはともあれ、アルムハッドは、こうしてマラケシュを整備し、更なる帝国の拡張の拠点としていったのだ。
東は現在のリビアまで帝国の領土となった。イベリア半島にはマラケシュに次ぐ第二の首都セヴィレSevilleも造った。
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アルムハッド王朝は地中海全域で影響力を持つようになった。その思想は「手から手」にも伝えられていた。これを示す証拠はマグレの銀行に残っていた。

アムラビットとアルムハッドの2つの王国が地中海一帯に影響を与えたコインが保管されている。この金のコインはアムラビット王朝のものだ。
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中央には丸い円の中にイスラム教を讃える文字が刻印されている。このコインはスペイン、ポルトガル、ドイツ、英国、遠いところでは中国でも使われる程の影響力があった。当時のUSドルのような意味もあった。

アルムハッドもアムラビットのコインの影響力を引き継ぐことになった。出回った銀貨だ。
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中央の、ジハードの正当性を主張する文句が刻印された部分は正方形でアムラビット王朝のコインのような円形ではない!

その後、彼等はさらにジハードの思想を主張するためのコインを造っている。中央の正方形だけのコインだ!
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これらのコインが出回ることで王国の勢力はアムラビットの時代よりも更に強固なものになった。
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(mh:アルムハッド王朝のコインは、勿論、銀貨だけではありません。金貨もありました。)
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Coin minted during the reign of Abu Yaqub Yusuf

バーバー人の勢力はアルムハッド王朝で最盛期を迎えた。そして、世界でも類がない、華麗な庭園が王宮の一部として造られた。アグダル庭園Agdal gardenだ。
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およそ1千エーカー(約4百万平方m=2Km四方)の広さを持ち、オレンジ、レモン、フィッグ(イチジク)、アプリコット(杏子)、ヤシの木が植えられていた。
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30Km以上離れたアトラス山脈の水を引いて灌漑し、大きなプールも造った。この庭園はとても贅を凝らした美に満ちていると私は思う。貴重な水をふんだんに使って王朝の権力を顕示している。
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人々は貴重な水を満々と蓄えた広大なプールの縁で憩い、花々を観賞し、アルムハッド王朝がもたらした文化的、経済的な繁栄を堪能した。
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数百年の年月が過ぎた今でも、ここにいると、当時のままの優雅な時が流れている気分になれる。
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14世紀の末期、王朝はこの庭園に代表されるように、平穏と繁栄を享受していた。全ては秩序を保ち、規則正しく、順調に推移していた。

イスラムの哲学者イブン・カドゥーンはバーバー人の王国はこの庭園のようだと書いている。
「この庭園の中で王朝は車輪を回し続けていた。王国が無ければ正義はない。軍隊が無ければ王国はない。税がなければ軍隊はない。福祉が無ければ税はない。正義が無ければ福祉はない。」

マラケシュの380Km北の町フェズFezは、このシステムが上手く回転し、バランスが取れた国家運営が行われていたことを示している。
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このメディーナMedina(スペイン語で旧市街、広場などの意)は昔の面影をそのまま残している。
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フェズは帝国の偉大な都市の一つだ。
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サトウキビ、綿、金銀、陶器、銅器、それに情報が取引される、世界に向けて開いていた貿易センターだった。
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フェズの大学にはアフリカだけではなく地中海の対岸からも学者達が集まっていた。
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メディーナMedina(旧市街)の中心に残る神学大学Theological Collegeで今はも勉学が行われている。アルムハッド王朝時代、何百人もの者学者達が訪れては学んでいた。そこに貴重な本が残されている。
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金粉が使われたこの本はコーランの解説書だ。
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息を飲むような見事な美しさだ。
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この大学では、主に歴史、哲学、薬学、神学が教えられていた。

また次の本はアンダルシアの哲学者イブン・メシッドが書いたものだ。彼は古代ギリシャと中世ヨーロッパの思想に詳しかった。
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本のタイトルは「優れた法学者への入門書」だ。
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イスラム法の精神と理論について書かれている。
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「我々が信じるイスラムには次のような諺がある」
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「知識の分野には境界などはない。」
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「真実の探求はアラブやイスラムの世界の中だけに留まっていてはならぬ。」
(mh:どのイスラム教徒もこのように考えてくれたら世界はもっと平和になるでしょう。)
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神学校の外では銅板を叩くハンマーの音が鳴り響いていた。フェズのメディーナMedina de Fezは動き続けていた。
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372の製粉工場、9082の店、47の裁縫工場、188の陶器工場があった。まさに工業の中心都市だった。
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メディーナの一角にこの都市と同じくらい古い場所がある。
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世界でも抜群の品質のレザー(なめし皮)工場だ。貴重な本の羊皮紙や、貴重品を包むものとして使われていた。
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今でも当時のままの製造工程に従って大量のレザーが造られている。染料には植物が使われている。
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自然の素材だけが使用されている、昔と同じように。
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アルムハッドは、知的にも経済的にも、帝国を世界のどこにも負けない地位に成長させた。
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12世紀の終わりにはラバトRabatの海岸に砦が造られていた。海からの侵略を防ぐと共に、帝国軍の海外遠征拠点でもあった。
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ラバトのような軍港は帝国の生命線だった。
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こうして、ラバトの町は軍事面での中心地として拡大していった。見事な門も造られた。
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1195年、ある事業が始まった。400もの石柱が立っている広場!ラバトの全ての軍隊が終結できるくらいの広さがある。
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アフリカ西部で最大のモスクか、はたまた全イスラムの世界とも言うべき所だったのだろうか。ローマ風の建造物の面影もある。

実は、ここは、世界最大のモスクになるべき場所だったのだ。しかし、その夢は実現されなかった。
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あのミナレットの頭部がないのも、石柱の上に屋根がないのも、建設開始から4年後の1199年に王ヤアクーブ・マンスールAbu Yusuf Yaqub al-Mansurが死んでしまったからだ。
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モスクは完成を待たずに放棄され、王の夢は果たされることは無かった。
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mh:Google Earthで入手したHassan Tower, Rabatの写真です。
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ヤアクーブ・マンスールは最後の偉大な王だった。彼の死と共に帝国の衰退が始まった。おひざ元のマラケシュの繁栄に影が差し始めると、海を隔てたイベリア半島における勢力の衰退が加速的に進行し始めた。

アンダルシアではキリスト教徒がイスラム教徒のジハードを跳ね除け、アルムハッドの排斥が進められた。
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そしてとうとう、アルムハッド王朝はイベリア半島で力を失ってしまう。そればかりか、北西アフリカにおいてさえも王朝の権威は衰退していったのだ。
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エルファイーズ教授に訊いてみた。
「アルムハッド Almohad王国の急速な衰退の原因はなんでしょうか?」
「まず、キリスト教徒との対立で完全に打ち負かされ、地中海を越えた地域での権力を完全に失ったことが大きい。地中海沿岸での勢力を失い、貿易による富の獲得が不可能になった。国民は福祉を与えてもらえないのなら税金は払わない、ということになる。それが帝国の崩壊を加速した。かつて帝国を繁栄に導いた車輪は逆方向に回り始めたのだ。その回転は止まらなかった。帝国は崩壊に向けて進んでいった。」
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1269年、アルムハッド王朝は終焉を迎えた。アムラビット王朝からアルムハッド王朝に引き継がれて続いていたバーバー人の王国は終わってしまったのだ。

16世紀、モロッコ王国は復活する。しかし、この広大は王宮は別の王朝によって作られた。
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イスラムの教えに従ってこの地を統治することになったのはバーバー人ではない。アラビア人だ。イスラムの教えが王国の骨格だった。
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しかし今回はイスラムの開祖ムハンマドの教えを直接受けてきた人々が、バーバー人が造り出したモロッコを統治することになったのだ。
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アラブの王朝は現在も権力を維持している。

アラブ人による統治が始まって5百年後の現在、多くの人はモロッコがアラブの国でアラブの歴史を持っていると信じているようだ。
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しかし、この地は、バーバー人の王国だった。それは間違いなく、アフリカ人によって創られていたのだ。アラビア人のものではなかった。

この地で生まれた砂漠の遊牧民の集団が、誰もなしえなかったことを成し遂げていた。イスラムの旗の下に全てのバーバー人を集結し、統治し、ヨーロッパへも進出を果たす偉大な帝国を創っていたのだ。

Lost Kingdoms of Africa Series The Berber Kingdom of Morocco
https://www.youtube.com/watch?v=ZYo8FEYkfFs


(完)

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mh徒然草68:スーパーに並びました。

今日11月10日、一人団地の部屋を10時12、3分前に出て、徒歩7,8分のスーパーマーケットに買い出しに行きました。霧雨が舞う生憎の天気ですが、スーパー入口付近には15人ほど集まっていました。ほとんどが私と同じ老人ばかりです。今日は火曜日。毎週、玉子の安売りがあるのです。「10個入り白玉Mワンパック本体価格119円;お一家族様1パック限り、各店先着1,000パック限り」で、恐らく毎週、同じ条件で売り出されているのではないかと思います。新聞と一緒に配達されたチラシを見ると玉子以外にも目玉商品があるようです。
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私がこのスーパーに開店前から並んだのは2ヶ月ほど前が初めてで今回は2回目です。確かに、スーパーの入口に到着した時に整列することもなく、思い思いの場所に手持無沙汰な様子で立って待っていたのは15人程ですが、その前に広がる駐車場はほぼ満杯!20台は停車していたでしょう。車の中に座って開店を待っている人も結構見受けられました。年寄り夫婦が運転席側シートに座った車も多かったです!開店時間が近づくにつれ、数分のうちに続々と人が集まって来て、駐車場に入ってくる車も増え、開店直前には車で待っていた人も加わって、5分程前の15人のパラパラとした集団は途端に100人ほどの集団というか群衆に膨れ上がりました。

本日のお目当てが玉子の人が多かったことは確かです。というのは、私はショッピング・リストに書いた玉子、牛乳、食パン、バナナの4点に決めていたので、これらをささっと買い物籠に集めて5列ほどあるレジに向かったのですが、各列には3人程が既に並んで精算を待っていて、そのどの人も籠に玉子を入れています!玉子1パックだけしか買わない人も何人も見ました!車から降りてきた、私が、ひょっとして、と思って注目していたある年寄り夫婦は、別々に清算していましたから、一家族2パックを獲得したことになります。家に帰って女房殿にこの辺りについて報告すると、「レジを済ませたら、また玉子売り場に戻って2個目をゲットする人も多いはずよ」とのこと。

しかし「いつもよりたった100円ぽっち安い玉子パックを一家族2個以上も買い漁(あさ)る老人は何てはしたなくて醜(みにく)いんでしょう!」なんて思いませんか?

これは私の根拠が薄い推定ですが、こうまでして売り出し品の玉子を買い漁る老人の50%は、意地汚い、はしたない人だと思います。やはり一家族1パックに留め、他の人にも買えるチャンスを残すのがまっとうな人間というものでしょう。自分さえ好ければ他の人がどうなろうが知ったことない、っていう利己的な発想の人は欲が深い人だと言えるでしょうから、我が尊敬するお釈迦様に問合せしたとすれば「幸福にはなれないであろう」と仰られると思います。「欲を捨てる」。これはお釈迦様が悟った、幸せになるための重要な条件ですから、欲が深いなんて、全く救いようがないってことです。

で、残りの半分の老人ですが・・・きっと生活に困窮している人だと思います。少ない年金だけを頼りに暮らし、衣類などを買う十分な余裕はありません。しかし玉子は栄養確保のために重要な食材ですから、他の食材はさておいても、これだけは買って、毎食、ごはんに生玉子と納豆をかけるだけで生活している可能性だってあるでしょう。こういう人が玉子2パック買っても、いちいち目くじらを立てるのは料簡が狭いというものです。

しかし、1年前と比べると食品価格は20%はUPしました。以前にもこのことでブログで愚痴らせて頂いたことは記憶に残っているのでmhの認知症の進行は思う程は酷くないな、と安堵(あんど)していますが、年を取るにつれ、人は判断力や体力が衰え、子供の様に自分勝手になり勝ちで、自分のことすら満足に出来なくなっていくのは、自然の摂理と言えますから、そうなった老人を馬鹿にしたり、非難したりする人がいたとしたら、その人は人間ってものを理解できていないってことだと思います。

話は少しそれますが、昨今、老人の運転する車が引き起こす事故のニュースが多くなりました。私は20年以上前から、所謂(いわゆる)マイカーは持ち合わせていません。従って、赤信号を無視して横断歩道で事故にあうことがあったとしても、私が事故を起こす心配は全くありません。田舎で暮らす老人は車がないと食料すら買えないようですが、タクシーを使ったり、頼んで配達してもらうなど、いろいろな手段があるはずですから、車は処分し(これで結構、月々の経費が節約できるんですよ)、車を運転しない暮らし方をするべきだと思います。私だけは大丈夫って言っている人ばっかりが事故を起こしています。スーパーに駆けつける途中で人をはねて殺してしまったら、安い玉子パックを何個買えたとしても穴埋めは出来ませんよ!!!

melody fair Bee Gees
https://www.youtube.com/watch?v=w6DIa0roL74
(完)

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ヴォイニッチ手稿の不思議

今回は古物商ヴォイニッチが世を悩ますことになった不思議な本「ヴォイニッチ手稿Voynich Manuscript」をご紹介しましょう。

いつものようにYoutubeフィルムで楽しんで頂こうと思いますが、その前に、ヴォイニッチと、手稿の内容、手稿が米国のエール大学Yale Universityのベイネケ図書館Beinecke Libraryで保管されることになった経緯、について、Wikiと、ベイネケ図書館のホームページの資料でご紹介します。

Yale University Beinecke Rare Books & Manuscript Library
(エール大学;ベイネケ希少本手記図書館)
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Wiki:ウィルフリッド・ミハエル・ヴォイニッチWilfrid Michael Voynich
(1865年10月31日–1930年3月19日)ポーランドの革命家。イギリスとアメリカでは古物商および愛書家として活動し、後にアメリカへ帰化しポーランド系アメリカ人となった。ヴォイニッチ手稿Voynich Manuscriptの名前の由来となった人物としても知られる。
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図書館ホームページより
ベイネケ図書館の主な収集品リスト:
アルファベット順で9ページ目のシート。右上隅が問題の手稿。
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手稿の写真
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ヴォイニッチ手稿の解説文:
15又は16世紀の、ミステリアスで未解読の手稿。ポーランド系アメリカ人の古物商ウィルフリッド・M・ヴォイニッチに因んで名づけられた。不可解な図が含まれ、出所、言語、作成時期について熱い議論が続いている。
図に基づくと1)植物の章、2)星座や十二宮Zodiacを思わせる章、3)太った裸婦たちの章、4)折り込み紙に描かれた星雲図を思わせる章、5)薬草やハーブの図入り解説を思わせる章、6)星形の花をあしらった調理法の記事を思わせる章、から構成されている。
蒐集経緯:
ドイツ皇帝ルドルフ二世(1576-1612)が600黄金ドゥカートgold ducatsで購入した。ロジャー・ベーコンRoger Baconが書いたと信じられている手稿で、皇帝はイギリス人占星家astrologistジョン・ディーJohn Deeから手に入れたと思われている。1912年、ローマ近くのフラスカチFrascatiにあるジェスート学院Jesuit Collegeでヴォイニッチが購入した。1969年、ヴォイニッチから手稿を購入したクラウスH.P.Krausがベイネケ図書館Beinecke Libraryに寄贈した。

Wiki;ルドルフ2世Rudolf II.(1552年 – 1612年)
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1576年 - 1612年)、ハンガリー王(在位:1572年 - 1608年)、ローマ王(在位:1575年 - 1576年)、ボヘミア王(在位:1575年 - 1612年)。マクシミリアン2世と皇后マリアの子。政治的には無能だったが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。
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Wiki;ロジャー・ベーコンRoger Bacon(1214年 - 1294年)
「驚嘆的博士」(Doctor Mirabilis)とよばれた13世紀イギリスの哲学者。カトリック司祭で、当時としては珍しく理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので近代科学の先駆者といわれる。
mh:で、この司祭がヴォイニッチ手稿の作者ではないかと図書館の資料にありますが、どうですかねぇ。Youtubeフィルムでご確認下さい。

Wiki;ジョン・ディーJohn Dee(1527年 - 1609年)
イギリス・ロンドン生まれの錬金術師、占星術師、数学者。
mh:で、この錬金術師がヴォイニッチ手稿をルドルフ二世に売り込んだのではないかと図書館の資料にありますが、どうですかねぇ。その辺りもフィルムで確認下さい

ついでのおまけで「黄道帯Zodiacゾディアック」についてもご教示しておきましょう。
黄道帯(こうどうたいZodiac):
黄道(こうどう:天球上における太陽の見かけの通り道(大円))の上下に9度の幅をとって空にできる帯のこと。黄道帯には十二星座があり、それを黄道十二星座という。
黄道を説明する図:
白い太陽をまわる青い地球から、太陽が天空を通る道(黄道ecliptic:図では赤い線)を見渡せば黄道十二星座が配置されています。
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Wiki;黄道(こうどう)十二星座、占星術で「黄道十二宮」
星座のリストです。字が小さくて恐縮です。
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で、こんなに沢山ばらしてしまったら、もう不思議なんて残っていないんじゃあないの?と仰るあなたは浅はかです!本当の不思議は、これからご紹介するフィルムの中にあるのです!そして、その不思議が何かを知った時、あなたはどんな理屈をこねて理解したことにするのか、それとも理解できないのか。
mhがこねる理屈(屁理屈?)はブログの最後でご紹介しますが、皆さんにご納得頂けるかどうか。全く自信はありません!
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人は秘密を暗号化したいという性向がある。軍事機密、ラブレター、禁断の知識・・・
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過去の暗号(Codeコード)のほとんどは解読されてきた。しかし、歴史的にも不可解とされるコードの中で、あるひとつが突出している。
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それは解読しようというあらゆる試みを何世紀もの間、拒否している。
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ヴォイニッチ手稿だ!The Voynich Code
世界で最も不可解な書類The world’s most mysterious manuscript
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それは世界でも最も不可解な本だ。作者不詳で、使われている文字は1種類のアルファベット(発音記号)で、謎に満ちたイラストが挿入された本だ。どんな秘密が行間に隠れているのだろう。一人の研究者が、これを解明しようと努力を続けている。その人物にスポットを当て、これからヴォイニッチ手稿の不思議を紹介していこう。

アメリカ軍事情報部の本部の一室で作業している暗号解読エキスパート達・・・
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彼等は太平洋戦争で使われた日本軍の暗号「パープル・コード(注)」の解読に成功したメンバーだ。中でもウィリアムズは世界でトップクラスの暗号解読専門家だった。幾つもの暗号にチャレンジし、ひとつずつ着実に解読(crack the code)してきた。
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(注)Wiki:パープル・コードPurple Code
機械式暗号の一種。太平洋戦争の開始前から敗戦まで日本の外務省が使用していた正式名称「暗号機B型」(通称 : 九七式欧文印字機)による外交暗号に対してアメリカ軍がつけたコードネームである。

mh:下の写真の左側は有名なドイツの「エニグマ暗号機」、右が日本軍の「暗号機B型」です。
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mh:ヒットラーの写真もありますから、日本軍はエニグマ暗号機の技術を譲り受けたのでしょう。
・・・
しかし、一つの暗号だけは頑固で、暗号解読エキスパートのウィリアムズの努力をあざ笑い続けた。ヴォイニッチ手稿だ。
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「とても手に負える代物ではない!」と彼はついに解読を諦めてしまう。

妙な本だが、どうみても単純そうなこの本の何が不可解なのか?その後、何十年かを経る中で少しずつ明らかになってきた。この本の物語は、20世紀の初頭、ニューヨークの一人の若い古物商がイタリア・ローマの近くのモンドレゴーネを訪れたところから始まる。
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彼は希少価値のある本を捜し求め、ヨーロッパを歩いていた。名はウィルフリッド・ヴォイニッチ。
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今回訪れた学院には古い本が詰まったトランクが沢山保管されていた。17世紀の有名な収集家キャーシャーが所有していたトランクもあった。そのトランクの中にあった数冊の本のひとつにヴォイニッチは魅せられた。
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奇妙な本だった。彼はそれを買うことにした。そして、解読を試みた、彼の残りの人生を投入して。
しかし秘密が隠された部屋のドアまでたどり着くことすら出来ないまま死んでしまう。

ヴォイニッチの死後、本はエール大学のベイネケ図書館の蔵書に加えられることになった。
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この図書館は希少本の蔵書で知られているが、中でもヴォイニッチ手稿は突出している。
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レネ・ザンドベルゲンRené Zandbergenはヴォイニッチ手稿の研究を何年も続けている。
「こんにちは。ヴォイニッチ手稿を見せてもらおうとやって来たんですが・・・」
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「私が最初にその本を見た時“私が解読できる本だ”と感じた。しかし、それが間違いだったと判ってきた。誰よりも早く私が解読するのは無理かもしれない、と今は考えている。」

その本は厳重に管理されたスペースに保管されている。
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台車に載り、私の待つ閲覧室に運ばれてくる。オリジナルを見るのは初めてだ。
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200ページ以上の羊皮紙で編纂された本で(mh:多分、本物です!)
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自然界のものと思われる多くの絵と共に17万の文字が書かれている
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いろいろな内容が書かれている様子で、その内容が何かについて、これまで沢山の考えが示されてきた。
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驚くべき多様性に満ちた本だ。
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見れば見るほど、解読はそれほど難しくない気がしてくる。
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挿入された絵は、この本がいくつかの章で構成されていることを示している。
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ヴォイニッチ手稿に描かれた図の研究を続けているイラストレーターのポロ・ザイアックに意見を訊いてみた。
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植物の章がある。
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これらの植物に関する説明が書かれているはずだ。
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いくつかの絵は、現実の植物に感化されて描かれているようだ。
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その植物が、地球上のどこで、どう育ち、どんな薬草になりえるのかを暗号化して記しているとも考えられる。
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そしてゾディアック(黄道帯十二星座)などの星座を描いたと思える図もある。
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ここでも、植物の絵と同様に、いくつかの絵は実際に宇宙で見つかる星座を示しているみたいに見える。
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また、組合せて回転すれば動くように見える図もある。
(mh:いわゆるパラパラ漫画です。)
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一体、どんな目的で何を伝えるために描かれているのだろう。

そして裸婦たちが描かれた章が始まる。プールで沐浴しているようだ。これらの絵は、この本の中でも特に難解だ。
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沐浴による治療法でも解説しているのだろうか。それとも泉での秘め事を暴露しているのだろうか。
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それに続く章では植物の調理法を解説しているように思われる。
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どんな食材をどう切って、どう処理するかを説明しているかの様だ。
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医学の天才が競争相手に見られても気付かれないよう、薬の調合法を書き記した本かも知れない。
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それとも宗教裁判にかけられないよう、禁断の新しい科学知識を暗号で記録したのだろうか。
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誰が書いたのか、それを最初に追跡し始めたのはヴォイニッチ自身だ。
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本のクリーニングをしていた時、偶然、ある書き込みを発見した。誰かが最初のページに何かを書いている!
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とても見辛いが紫外線を当てると文字が浮き出て来た!Tが見える。
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「ヤコブ・ア・タペンスJakub z Tepence」だ!彼は17世紀の移動医師Travelling Doctorで医療用植物のエキスパートだ。彼が調合する薬はヨーロッパでも広く知られていた。
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mh;ウィキ英語版で見つけた内容によればタペンスはボヘミアの薬剤師でルドルフ二世のお抱え医師です。
Jakub Hořčický (in Latin Jacobus Sinapius) (1575 – 25 September 1622), later granted the title z Tepence ("of Tepenec"), was a Bohemian pharmacist and personal doctor of Emperor Rudolf II. The latinized name is a translation of his family name, which means "mustard" in Czech ("sinapis" in Latin).
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1608年、タペンスはルドルフ二世の治療のためにプローグ(Pragueプラハ)に召喚された。
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プラハの宮殿・・・
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ルドルフ二世は鬱病(うつびょうdepression and melancholia)に罹(かか)っていた。タペンスのアルコール・ベースの飲料薬は、お決まりのディスティラー・グラスで調合され皇帝に差し出されていた。それを飲むと皇帝も落ち着けるようで、タペンスはお抱えの医師として採用されて、ひと財産造ることができた。
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しかし、医師のタペンスにはアルコール・ベースの飲み薬を暗号化する必要などあったのだろうか?

ケヴィンは植物図書館の学芸員だ。
「アルコールは中世の科学分野で重要な役割を果たした物質だった。よって、アルコール・ベースの調合液の混合成分が何かは重要な秘密とされていた可能性もある。」
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タペンスは不思議な手稿の作者なのか?

薬草と思われる植物の絵は、自然界のどの植物とも類似性のないものも多い。
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葉や茎、実などの拡大率がちぐはぐで、バランスを欠いた図が多い。
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解剖学に出てくる図や抽象的なシンボルとの類似性を持つ植物図も多い。さらには植物のイラストとは言いがたいものもある。
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中世の伝統では、薬のもつ力を強調するためにイラスト調の絵が使われたこともある。しかしタペンスがこの本を書いたはずの17世紀初頭には、植物はもっと具象的に描かれるようになっていた。例えばこの植物本だ。
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確かにヴォイニッチ手稿の最初のページに「ヤコブ・ア・タペンスJakub z Tepence」という自署が見つかっているが、だから彼が作者だということにはならない。事実、彼が購入した本に自分の名前を記したものもある。
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ヴォイニッチ手稿が彼の所蔵になったことがあるのは間違いないだろう。しかし手稿は、彼が生きていた時代よりもかなり以前に書かれたものに違いないのだ。

ある決定的なヒントはヴォイニッチ手稿と一緒に見つかった手紙の中にあった。1665年、ボヘミアの医師ヨハネスがローマの友人に宛てて書いたもので「本はボヘミアの皇帝ルドルフ二世が600ドゥケットで購入したものだ」とある。
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皇帝ルドルフ二世は科学分野でのスポンサーとして知られている。彼の時代、自然科学と手品(マジック)との違いは明確ではなかった。よって、皇帝は沢山のマジック用具のコレクションも蒐集していた。莫大な費用を様々なコレクションにつぎ込んでいた。その中にヴォイニッチ手稿が含まれていたのだ。

皇帝が死ぬと大きな負債が残った。ヤコブ・ア・タペンスも債権者の一人で、借金の形(かた)にヴォイニッチ手稿を手にし、自署を手稿の巻頭に残したのではなかろうか。

手稿に挟まれていた手紙にはもうひとつ重要なことが書かれていた。手稿の作成に関係したと思われる人物の名前、ロジャー・ベーコンだ。(mh:次の写真を見るとRogerium Bacconemと書かれているように見えます)
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ロジャー・ベーコンは13世紀のイギリスの有名な聖職者だ。別名「奇蹟の医師miracle doctor」と呼ばれていた。科学者で、彼が発見した新しい事実が教会との間で問題を引き起し、それで何回か捕えられて監獄に閉じ込められたこともある。
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ベーコンは光学現象に関心を持っていた。ヴォイニッチ手稿にもそれらしい絵が描かれている。
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虹だ。
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彼は虹が出来る理由を見つけていた。光りの反射や分解についても実験していた。特に拡大鏡を使った観察に力を入れていた。
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手稿の占星術に関する章には、植物を顕微鏡で覗いて描いたのではないかと思わせるものが沢山ある。
例えばこの図・・・
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植物の葉を拡大したかのようだ。
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ヴォイニッチ手稿のこれらの図はそれまで隠されていたミクロの世界に入り込んだ、初めてのスケッチなのだろうか?
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植物の繊維のようなものを拡大したような・・・
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花粉を拡大したような・・・
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不思議な実・・・
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ヴォイニッチ手稿は、ロジャー・ベーコンが見た不思議な世界の記述かも知れない。とすればそれを暗号化したのも頷(うなず)けなくはない。というのは、当時、このような研究者は教会からは異端者infidelと見られ、訴えられる可能性が高かったのだ。
しかし、彼が生きていた13世紀、これほど大きな倍率の拡大鏡はなく、勿論、顕微鏡も発明されてはいない。2枚の凸レンズで構成される顕微鏡が出現したのは17世紀初頭になってからだ。

確かに、拡大鏡や顕微鏡を通して観察した世界を描いたものと見えるかもしれないが、ヴォイニッチ手稿には、観察とは無関係で、現実から乖離した絵も多い。
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幻想の世界を表現したのだろうか。
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ひょっとするとヴォイニッチ手稿はミステリアスな手法でミステリアスな図を並べ、あたかも古代の不思議な本の雰囲気を創り上げて、ルドルフ二世のような好事家に高い価格で売り込むために作られた本ではなかろうか。

現代でも顕微鏡で観察すると新しい側面が見えてくることが多い。ヴォイニッチ手稿で描かれた絵や文字も、拡大してみると、高度な技術で描かれていることが判る。どの図も、迷いがない線で見事に描かれている!
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200ページに渡って書かれた文字にも、間違いを修正した箇所がひとつも見られない。とても人間技とは思えない!
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このことで、多くの人が疑念を持つことになった。
「ヴォイニッチが、どこにもない希少本を作りたいという誘惑に駆られて、自分でこの本を作ったのではないのか?」
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彼には疑われる理由があった。時間と、製作に必要な資材を買い集める資金的な余裕があった。

しかし・・・
もう少し詳しくヴォイニッチ手稿を観察してみよう。つまり、これが、別の書物を参照して造り上げた言わば偽物かどうかを調べてみるのだ。
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顕微鏡で見ると、隠れていた美が浮かび出てくる。
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見事な筆さばきと言うほかない。
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この素晴らしいパターンから、この本が本物か、それとも偽物かが推定できる。
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使われている絵具のサンプルを取って分析してみよう。
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信頼性を上げるため、異なった場所から異なった絵具をサンプルとして取得する。
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特に緑は、不思議な、魅力に満ちた色合いを呈している。これもサンプルとして採取する。
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調査の結果、絵具は一つのバッチ(塊)から造られた物ばかりではないことが判った。本を仕上げるには長い期間が必要で、その間に使われた絵具のバッチも異なることになったということだろう。

青は鉱物系色素(ピグメント)・・・
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赤と黄色は鉄系色素・・・
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いずれも15,16世紀の高価な絵具に用いられた材料で、現代では入手困難なものばかりだ。
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調査結果をまとめれば、絵具や文字で使われたインクは本物だと言える。
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手稿も本物だ。19世紀以降につくられた偽物などではなかった。何世紀も前に作られたことは間違いない。使われている絵具はとても高価で、それを使いこなす技術や知識も並のレベルではない!
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当時、アラビア油が色素を用紙に定着するバインダーとして広く使われていた。
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この油を使って鉱物系色素の絵具で絵を描くためには高度な作画技術が必要だった。
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しかし、高度な技術と技巧で描かれたはずの多くの図が杜撰(ずさんsloppy)としか思えないものが多いのはどういうことなのか。
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素朴naïveな絵とも言えるかも知れないが。
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例えばここに描かれているドラゴン・・・
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裸婦・・・まるで子供が描いたようだ!
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ベイネケ図書館のリネイザ女史は驚くべき理論を披露してくれた。レオナルド・ダ・ヴィンチが子供のころ、絵の練習のために描いたのではないかと言うのだ!
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レオナルドは裕福な家庭で育った天才少年だった。小さい時から自分の髪で絵ブラシを作り、絵を描いていた。子供と言えども、質が高く、洗練された構図の絵を描いていたはずだ。
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特に、宇宙を思わせるこの絵は彼が描いたであろうことを示唆している、とリネイザ女史は言う。
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15人の裸婦が風呂の中に立っている。何人かは妊婦のようだ。中心には宇宙のシンボルとしてエリー(Aries牡羊座の羊)が描かれている。牡羊は4月のシンボルだ。これを囲んでいる裸婦は1日を意味していると考えられる。つまり4月15日の意味を持つ図だろう。

10時の方向に立つ裸婦だけは縞模様の長いリボンの先に誕生のシンボルである星を付けている。
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レオナルドの重要な出来事、誕生した月日と時間を示しているのではないのか?4月15日の10時だ!
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つまり、リネイザ女史は、ヴォイニッチ手稿は、後年になってレオナルドが残した絵画テキスト本の「幼児時代版」ではないかと考えている。

しかし、手稿には折り畳み式の大きな羊皮紙も使われているし、変色しない鮮やかな絵具も使われている。これらの材料は極めて高価で、とても子供が絵の勉強で使うような代物ではない。
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豊富な資金を投入し、長い年月をかけ、高度な技術を駆使して作られた本のはずだ。従って本の価値は極めて高いものだったに違いない。重要な本だった。
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従って、極めて重要な、価値のある内容が書かれている可能性もある。それで、他の人には分からないように暗号が使われたのかも知れない。

暗号化にはどんな方法があるのだろうか。歴史上で使われた暗号を熟知する専門家ゲハラッド・スターシャが教えてくれた。
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「ジュリアス・シーザーによって使われた暗号がこれだ。アルファベットを単に4つ後ろにずらして書いていく。」
VならVWXYだからY、OはOPQRでRだ。するとVOYNICH(ヴォイニッチ)はYRBQLFKと表されることになる。
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シーザー暗号のルールは極めて単純だ。何文字ずれているのかが分かれば誰だって解ける。1文字ずつ24回ずらして試してみれば必ず解読することが出来る。

1330年頃になると、暗号ブックが現れた。重要な言葉とそれに対応する記号が描かれた本で、これを手元に持っていれば簡単に読むことが出来た。
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問題は、暗号ブックを暗号の送受信者の間で厳格に管理する必要がある上に、解読されるリスクを減らすため時々記号を変更しなければならず、その都度、送受信者間で暗号ブックのやり取りが必要になることだった。その時に秘密がリークしてしまう危険がある。

もっと簡単な方法は例えば暗号リストだ。16世紀後半に使われ始めた。
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今日では、単語の出現頻度を自動的に計数して分析したり、コンピュータで多くの組合せを造り出したりして解読する手法が使われるようになり、暗号解読効率は飛躍的に向上した。
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ヴォイニッチ手稿に使われている文字をコンピュータにかければ、意味のある内容を見つけることができるのではなかろうか?
そこで、本の中の全ての文字17万個をコンピュータに入力してみた。記号のような文字を自然の文字に置き換え、単語として意味を持つ言葉がないかを調べる。
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いくつかの文字はヨーロッパの言語における母音のように、他の文字よりも出現頻度が高かった。
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しかし、どんな組み合わせを試してみても、これまでに世界で使われたことがある言語と音声学的に類似するものが見つからなかった。

ヴォイニッチ手稿は最新の技術を駆使した解読を頑(かたく)なに阻み続け、秘密は解かれないまま残された。
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言語学者ゴードン・ラッグは自分の考えに自信を持っている。彼は作者の動機に焦点を当てて本の性質を分析した。
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「単語の配置の状況からみると、人間の言葉がもつ特徴からかなりかけ離れていると言える。誰かが、人工的に、言葉に見えるように記号を配置して書いたものに違いない。」
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「簡単に言葉を造り出す一つの方法に、このような孔の明いた紙片をつかうものがある。」
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「この紙片を、色々な文字や記号をランダム(無作為)に羅列(られつ)したリストに当て・・・」
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「孔から見える記号を機械的に本に転写する。ひとつ転写したら、紙片を別の位置にずらし、また孔から見えた記号を転写する。」
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「この作業を繰り返せば、意味のない単語が羅列された「文章」を自在に生み出すことができる。転写するだけだから、少し慣れれば、長い文章も短時間で、ミスもなく書くことが可能だ。この考えが正しければヴォイニッチ手稿に描かれた文章は何の意味も持っていないことになる。」

「そして、そのような本を書いただろう男を挙げるなら、イギリス出身のエドワード・ケリーだ。公式資料を偽造した罰で耳をそぎ落とされ、それを隠すためにいつも鬘(かつら)を付け、その上から帽子を被っていた。」
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「ケリーは16世紀の終わり頃、ひと儲けしようと、英国を離れてヨーロッパ大陸に移った。不可解な本を作り、興味を持ちそうな皇帝ルドルフ二世に売りつける意図を持っていたことも考えられる。成功すれば、しこたまもうけることができる!」

「皇帝は不可解なマジックや科学にも関心を持っていた。ケリーはそこにつけ込んだ。信頼を獲得するため、まず、自分を錬金術師alchemistとして売り込んだ。“私はその辺に転がっている物から黄金を造り出せる!”」
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「ルドルフ二世はケリーが持ち込んだ機器をチェックしてから、彼を部屋に閉じ込め、鍵穴からこっそり覗いて監視していた。」
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「ケリーは、見張られていることを判っていたはずだ。」
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「勿論、黄金が出来る訳など無い。しかし彼は何も心配していなかった。小さな金の塊を隠し持っていたのだ。」

「皇帝はその黄金を見せられて驚嘆した。こうしてケリーはお抱えの錬金術師として採用されることになり、彼が予め仕込んでいた不思議な本を皇帝に売りつけることにも成功したのだ!」
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「もう一つの可能性だが、ケリーは天使の言葉を聞くことが出来、知り合いで英国人の数学家ジョン・ディーJohn Deeという男がケリーの言葉を記録することができた、というケースだ。」
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「勿論、天使の声を聞くことが出来る男は地上ではケリーしかいなかっただろう。それを聞き取り、解読して書きとめるジョン・ディーも興奮していただろう。天使の言葉なら夢想的fantasyだったはずだ。」
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「この二人の関係が特別だったことは天使が提案したという夫婦交換が行われたことでも判る。その上、ケリーは人をだます才能も動機も持っていた。あらゆることが、ケリーがヴォイニッチ手稿の作者だと示しているように思える。時々、不思議な言葉を使っていたという事実もある。」

16世紀の不可解な本を近代科学で解明しようという作業にやっと許可が下りた。手稿は動物の皮で作られている。カーボンデイティングにかければ、いつ造られた羊皮紙なのか正確に判るのだ。許可が取れたのは今回が初めてだった。
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アリゾナ大学のグリッグはヴォイニッチ手稿の異なる4ページから、本を傷めぬように注意しながら微量の試料を採取することにした。
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結果は明確だった。異なる4ページのカーボンデイティングは明確な特徴を示していた。羊皮紙が作られた時期が集中している!
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95%の信頼性で1404年から1438年の間に作られていたことが判った。
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この結果はセンセーショナル(sensational煽情的)だった。タペンスは16世紀の人間でロジャー・ベーコンは13世紀の人間だ。2人とも作者ではあり得ない。レオナルド・ダ・ヴィンチも半世紀後に生まれている。エドワード・ケリーも150年あとの人物だ。これまでの仮説は全て整合しない!

「私はもう迷わずに断言できる。手稿は1420年頃に造られたのだ。」
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もうひとつ、ヴォイニッチ手稿にはヒントが挿入されていた。多くの幻想的な絵の中に、たった一つ、現実的な物の特徴を表す絵があった。城壁rampartだ。
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アゲハチョウ胸壁swallowtail battlementsだ!
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手稿が作られたはずの1420年頃とこの胸壁とは強い関係がある。この胸壁はヨーロッパで頻繁に現れていた。しかし、15世紀前半に限れば、北イタリアにしか見られなかったものだ!
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ルネッサンスの頃、北イタリアは資金が潤沢で文化への影響力が高い地域のひとつだった。ヴォイニッチ手稿を産み出すために必要な歴史的な条件が備えられていた所だと言える。この事実はヴォイニッチ手稿の解明の上で重要な原点のひとつとなりえるだろう。
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いつころ、どこで始まった不可思議なのかについて、これまではどの研究者も判らないままだった。しかし、今なら、どこから調査を始めればよいか、はっきり言えるのだ。
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ミラノとベニスが含まれる地域で、ヴォイニッチ手稿と関係がある古代の資料が見つかるかもしれないと思うと、今後の展開に期待が湧いてくる。
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いつかきっと、秘密が解き明かされる時が来るに違いない。
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フィルムは次のURLでお楽しみください。ナレーターの声や語りがミステリアスで、映像も綺麗ですから、英語が全く理解できない方も、このブログを読んだ後なら楽しめるのではないかと思います。時間がありましたら挑戦して下さい。mhの誤訳が多いことにも気付かれるかも知れません。その時はご教示ください。
Voynich Code - The Worlds Most Mysterious Manuscript - The Secrets of Nature
https://www.youtube.com/watch?v=awGN5NApDy4

追加情報です。
今回のフィルムに登場した番組プレゼンテイターのレネ・ザンドベルゲンRené Zandbergenのウェブサイト「The Voinich Manuscript」をご紹介しましょう。
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http://www.voynich.nu/index.html
とても沢山のコメントが書かれていて全て目を通すのは全く不可能でしたので、重要そうなところを拾い読みしてはみたのですが、レネ氏の直近の結論はフィルムの内容と若干、変化しているようです。彼の現時点での結論を端的に言えば「誰が何を書いたものかは不明」です。仮定や想像ばかりで、裏付け証拠が見つかっていないのです。彼のコメントを読んでも、単なる可能性と言うか思い付きといった方が良いかもしれないことを羅列しているだけです。調べるにつれ、段々と泥沼に沈み込んでいるのではないでしょうか。

それは次に抜粋する彼の2つのコメントにも現れています。
「それで私は、手稿(MS)はルドルフ二世が皇帝として在位していた間に買ったものだと今は信じている。可能性が段々と低くなる順に本の売り手の候補を3つほど挙げると次の通りだ。
1. これまで誰にも知られていない誰か
2. アウスバーグからやって来たカール・ワイドマン
3. リチャード・ストレイン経由でローウルフ」
(mh:つまり、「最も可能性が高い売り手」は、ベイネケ図書館が公開している解説や、今回紹介したYoutubeで候補に挙げられたイギリス人占星家astrologistジョン・ディーJohn Deeではなく、「誰も知らない誰か」だって言うんです!!!)

「題目:単なる教本Textか、暗号か、でなければ何の意味も無いもの:
私はこの題目の中の3つの選択肢が、それしかない3つだと言うつもりはない(mh:なんてまどろっこしい言い回しでしょう!)。これらの3つの選択肢はよく巷(ちまた)で取りざたされる、誰もが思いつきそうなアイデアだ。長年、私は別の解釈もあると感じていた、例えば、意味のあることが記録されているはずだったが、暗号や不正確な転写などのおかげで回復不能な状態になっているのかも知れない。今もその可能性はあると思っているが、基本的にはどの考えが正しいかというか、最も答えに近いのかについては私には判っていない。よって全ての選択肢はオープンopenのままとしておきたい。」
(mhつまり、何だってあり得るってことです!)

ヴォイニッチ手稿の全ページはURLで見ることが出来ます。謎に満ちたこの手稿を解き明かしてみようと思われる方はチャレンジして下さい。
例えばページ「f72r2」では次の映像が見られます。
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ヴォイニッチ手稿全ページURL
http://www.voynich.nu/folios.html

さて、これでmhがフィルムやネットで調べた情報は出し尽くしました。いよいよ、この手稿に関するmhの見解をご披露する時です。

mhの見解:
この本はルドルフ二世(1552年 – 1612年)が600黄金ドゥカートgold ducatsを払って匿名の芸術家に作らせた本です。使う紙は150年程前の1430年頃にはぎ取られた羊の皮が使われました。皇帝が匿名の作者に与えた指示はたった一つ、「世界のどこにもない本を作れ」というものでした。皇帝は、この世の誰もが持っていない不思議な物をコレクションに加えたいという強い願望があり、それでこんな悪戯(いたずら)をしたのです。芸術家は絵を描くのは得意ですが、誰もが持っていないもの、と言われて困り果ててしまいました。「どこにもないものの形ってどんなんだ?」全く思いつきません。そこで、植物の本やら、占星術の本やらを買い漁り、これをデフォルメした絵本を描くことにしました。愛人の裸の絵も戯れに挿入することにしましたが、写実的だとどこの誰なのかがばれてしまうので、漫画化しておきました。しかし、出来上がったデフォルメした絵本を見て、自分の絵画の才能が辱められた気分になった芸術家は、絵本ではなく解説本に見せることで自分を慰めることにしたのです。オリジナルの絵の意味を知らないまま解説を書くのはまずかろうと思い、記号を羅列して解説文風に見せることにしました。しかし、作業を始め出すと芸術家もその面白さに嵌りこんでしまいました。意味のない記号を意味のあるように見せかける、これは新しい芸術です!こうして、出来上がった本は、その芸術家の集大成ともいえるマスターピースになったのです。

(完)

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mh徒然草67:核で世界は自滅する。

今日は11月6日ですが、最近、国連で開かれている核軍縮関連のニュースがポツポツと見受けられるのですが、反応が鈍く、明晰とは程遠いmhの頭脳では、どうしてこんなことになってしまうのか、全く理解できません。

幾つか見つかりましたが、同じ日の同じ会議の内容を異なる記者が報じているものもあるので、これも頭の切れの悪いmhを混乱させる原因ですが、整理すると次のようなのです。

<10月2日の国連総会第一委員会(軍縮)の出来事>
日本が提出した軍縮決議案「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意の下での共同行動」は156ヶ国の賛成で採択された。中国、ロシア、北朝鮮の3か国が反対し、米英仏の核保有国を含む17か国が棄権した。同趣旨の決議は22年連続となる。
(全文は次のURLですが、今読むと混乱すると思います。確認を希望される場合はブログ全文を読み終えてから行うことを提案しておきます。)
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151103-OYT1T50057.html

<同じく10月2日の国連総会第1委員会(軍縮)の出来事>
核兵器の使用禁止や廃絶のための法的枠組みづくりの努力を呼び掛ける決議案を賛成多数で採択した。唯一の被爆国として賛否が注目された日本は棄権に回った。128カ国が賛成し、29カ国が反対、18カ国が棄権した。五大核保有国では米英とフランス、ロシアが反対、中国が棄権した。日本は、米国の「核の傘」に依存する安全保障政策と合致しないと判断したとみられる。
mh:別の記事によれば「決議は来月に本会議で採択された後、正式な総会決議となる。法的拘束力はないが、国際社会の意思を示すものとなる。」とのコメントがありました。
(前の記事と同じ理由から、全文の確認は後で行う事を提案します。)
http://mainichi.jp/select/news/20151103k0000e030179000c.html

<10月5日の国連総会第1委員会(軍縮)の出来事>
核兵器禁止条約を念頭に置いた初めての作業部会設置に関する決議案を賛成多数で採択した。135カ国の賛成に対し、日本を含む33カ国が棄権。米英仏中露を含む核保有国など12カ国が反対した。
 決議によると、新たな作業部会は「核兵器のない世界の実現と維持」に向け、「具体的、効果的な法的措置や法規定、規範」について「実質的に取り組む」。国連総会の補助機関として設置され、総会に勧告と報告を行う。来年ジュネーブで開催されるが、核保有国は参加しないとみられる。
 日本が棄権した理由について、国連外交筋は「核軍縮には核保有国と非核保有国の協力が必要という日本の立場と照らし合わせた結果」と説明した。被爆国でありながら米国の「核の傘」に守られている日本は、人道的見地から核廃絶への法的枠組み強化を求める2日の決議案採決時にも、同様の理由で棄権していた。
(前の記事と同じ理由から、全文の確認は後で行う事を提案します。)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151106-00000014-mai-int

以上のニュースのポイントを私の頭脳でも判るよう箇条書きにまとめてみました。
1) 核軍縮に関する議論は国連で毎年行われている。
2) 核保有国はいかなる軍縮決議にも反対している。
3) 日本は自らが提案した「核軍縮の枠組みをつくるべき」という法案には賛成しているが、その他の核軍縮決議には棄権している。
4) いかなる決議がなされようと法的拘束力はない。

なんと無力な国際連合なのでしょう。なんと身勝手な核保有国なのでしょう。なんと日和見主義の日本なのでしょう。

人間のやることなんて、こんなものでしょうかね。mhは「近い将来、核戦争は起きる」と断言します。
我が尊敬するお釈迦様は達観していらっしゃいました「欲を捨てられぬ人に真の救いが訪れることは無い」。結局、人類には救いはないのでしょうか。

話はガラッと変わって11月1日、ソウルで日中韓首脳会議が行われました。その後、安倍首相は中国、翌2日には韓国の首脳と会談しています。この会談で何が決まったかというと、来年は日本でやりましょう、ということだけです。中国と韓国は事前に歩調を合わせることで合意していたかのように、日本の、特に安倍首相個人の、歴史認識を批判し、安倍首相は、これに直接答えることはせずに「未来志向で」と躱(かわ)しましたが、過去は見ないということですから、歴史認識ばかり主張する中韓を無視したということでしょう。

国連も日中韓首脳会議も、睨みあっていることと比べれば異論を交換しあうだけだってよっぽどましだとは思いますよ、確かに。しかし、それにしても情けない結末です。具体的な進展は何もないんですから!

国連の軍縮では核保有国が核放棄する意志がないことが最大の問題です。やはり、いきつくところまでいくしかない、つまり、馬鹿に付ける薬はない、って感じです。また、日中韓首脳会議の効果を期待するには中国共産党の独裁、朴大統領の無能、安倍首相の独善を解消しなければならないでしょう。朴大統領も安倍首相もあと3年もすれば交替していますが、中国共産党は自滅でもしてくれなければ、いつまでも続きますから、弱ったものです。

こんな実りが少ない中で日中韓首脳会議における安倍首相の態度は好かったと思います。いや、これは決して皮肉ではありません。中国や韓国がひど過ぎました!

DEBBIE REYNOLDS - Tammy(1957)with lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=HgVPyW9U1sY

(完)

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ティワナクの不思議

2014年2月にペルー・ボリビアを旅行した時、チチカカ湖畔の町プーノで一泊しました。翌日、バスとフェリーを乗り継いでチチカカ湖を横切りボリビアに入国し、またバスで首都ラパスに向かう予定だったのですが、ストライキで道路が閉鎖されたために朝8時の出発が午後1時頃にずれ、小型車でチチカカ湖の南を迂回してラパスに向かったのです。
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この経緯(いきさつ)をレポートしたブログを下記に挙げておきますので時間がありましたらご確認下さい。
2014年2月28日「チチカカ湖とウユニ塩湖の不思議な質問の答え」
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/preview/edit/da2dd16f4e98591840f5a1e9b9c2e7b4
同3月9日「南米で出会った人達の不思議」
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/preview/edit/68dc65af559a6df9a4a34feef3f22647

この変更のおかげでチチカカ湖から流れ出る唯一の川デサグアデーロ川に架かる橋を徒歩で渡り、国境を越えてペルーからボリビアに入国することになったのですが、国境から首都ラパスへの途中、ちょっと立ち寄った場所がありました。それは今振り返って考えてみるに、今回の不思議「ティワナクTiwanaku」だったのです!!!
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計画では訪れるスポットではなかったので用意周到なmhの調査対象外でしたし、さらに不運なことに、ラパスに続く主要道路の途中で折れて脇道に入り、確かに遺跡の近くまで行ったのですが、生憎と観光客には閉鎖されていたようで中に立ち入ることが出来ず、車を降りて数分、遠くから見ただけで「何か、土が盛り上がった所が広がっているなぁ」程度の印象しかなく、帰国するとすっかり記憶からも消し去られていました。

その場所が、メソポタミアと肩を並べる古代文明の発祥地で、世界で最も高地に残された古代文明の遺跡で、おまけに世界遺産にも登録されていたっていうんですから、折角のチャンスをつかみ損ねたmhの落胆は測り知れません。ま、湖畔の町プーノでストライキに出くわさなければ立ち寄らなかった場所ですから、近くに行っただけで幸運だったと言えなくもありませんから、私にとって不思議なめぐりあわせの場所と言えます。

話はそれますが「文明が発祥するための最も重要な必要十分条件を挙げよ」っていう漠然とした問を投げかけられたら皆さんはなんて答えますか?川?文字?町?言葉?土器?信仰?

川かも知れません。世界四大文明はナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河、という大河の畔(ほとり)で生まれました。しかし、アマゾンやミシシッピー、ガンジスなど他にも沢山の大河があるし、ブログで紹介したペルーのカラル遺跡、トルコのギョベクリ・テペ遺跡などは極めて小さな川のそばで生まれた文明であることを考慮すると、川さえあれば文明が生まれるということなら何百何千の文明が世界中で生まれていなければなりませんが、実態はそうではありません。よって川は正解とは言えず、また、文字や町や言葉や土器や信仰は文明が発祥してから生まれるものとも言えそうですから、少々、的外れでしょう。
・・・
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文明が発祥するための唯一最大の必要かつ十分な条件、それは「農業」だと思います。農業で収穫された食糧を糧(かて)にして人が生きている場所は、必要量の水と、作物の育成に適した気候が確保されていて、大抵の場合、人はその場所に定住しています。定着していると人々の間の助け合いが自然発生して集落が生まれていったに違いありません。そして、集団で定住生活を始めるようになって初めて文明が現れたのではないかと思います。アマゾンでは焼き畑農業が行われていました。そういうところでは、次から次に焼き畑を行いながら移動していくため、定住することはなく、文明は生まれません。しかし、一般的に、農業で暮らしていこうとすれば定住することになり、集落ができることで諸々のシステムが生まれ、言葉や規則、収穫を左右する気象への関心の高まり、などが発生し、これらが文明になっていくのではないでしょうか。

遊牧民が暮らすモンゴルでは、河や草原があるわけで、農業を営むことだって可能だったのですが、土地を耕して、種をまいて、育てて、収穫するという農業独特のゆったりしたプロセス・サイクルではなく、馬を駆けて草のある場所を巡り廻り、家畜を放し飼いしてその辺りに生えている草を食べさせながら育て、家畜の乳や肉に頼って暮らす、農業と比べたら自由奔放な生活サイクルを選んでしまうと、町は出来ず、従って文明も生まれないのだと思います。かくいうmhは、どちらかというと遊牧民族の生活への憧れが強く、そんな場所を求めて海外旅行を続けているのかしら、と自己分析している次第です。

以上はmhが思いついた結論ですが、よ~く考え直すと、また別の答えが出てくるかもしれないという、少々心もとない気分が残っていることは正直に認めなければなりません。

さてさて、何のための前置きか、焦点も段々とそれてきて、皆さまからは「いい加減に本題に入れ!」とのお叱りが出てきたようですから、いよいよフィルムの紹介を始めさせていただきましょう。
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現地の言葉で「世界の中心にある石」ティワナク・・・
海抜3900mの高地に造られた「一枚岩の寺院」
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今回は3千年前にアンデスの高地で生まれた文明「ティワナク」についての物語だ。
それは単なる場所ではない。長い年月をかけて人々によって創られ、5百年続いた文明でもある。
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どうして、このように厳しい自然環境の中で人々は繁栄し文明を創ることが出来たのか?今それが考古学者の努力によって明らかになってきた。
(中心の石Stone at the Center)
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ペルーとボリビアにまたがるアンデス山脈に沿ってアルチプラノ高地が広がっている。
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標高3千8百メートル以上の荒涼とした大地に高木が育つことはなく、雨も少ない。
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呼吸は困難で、温度は昼間でも20℃程度、夜には零下まで下がることもある。しかし、そこにも人は暮らしている。西暦600年から1100年の5百年の間、この地には数百万の人々が暮らしていた!その人々が創った文明は、ボリビアは勿論、ペルー、チリ、アルゼンチンにも影響を及ぼしていた。

文明を築いた人々の子孫は今もこの台地で細々と暮らしている。
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その一人を訪ねてみた。アイマラと呼ばれる、インディオの一部族だ。彼等の祖先は6千年前、この辺りで暮らし始めた。
(mh:フィルムで見るアイマラの人は、私がボリビアに訪れて出会った人と比べても背が低い人が多く、今更ながら驚きました!)
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彼等にとってリャマは大切な家畜だ。群れにして何匹も飼っている。
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リャマの毛から糸を紡ぎ、布に織って寒さから身を護る服を作るのは女の重要な仕事だ。使われる糸の色は昔から集落ごとに定められている。
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リャマは布以外でも大いに役立っている。まず、糞は乾燥して肥料に使う。これがないと農業の収穫は半分以下だ。
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また、空気の薄い高地でも長い時間動き回れるので、四輪車やトラクターの役目も果たしてくれる。
リャマの群れを保有しているかどうかで、この高地で生き残れるかどうかが決まると言っても過言ではない。
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アルチプラノ高地のペルーとボリビア国境にあるチチカカ湖の畔(ほとり)。3千年前から農業が行われている。
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耕地は22千平方マイル(5万6千平方Km)も広がっている。近くのチチカカ湖は世界で最も高地にある航行可能な湖だ。その周辺はチチカカ盆地とも呼ばれている。

標高3千5百mもあるこの高地で農業が可能な理由は、チチカカ湖一帯に固有の微気候(microclimateマイクロクライメイト)による。湖の水が他の乾燥した高地にはないマイルドな気候を作ってくれるのだ。その上、チチカカ湖に流れ込む川が運んできた沈殿物は肥沃な土壌となって作物の生育を促進してくれる。
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この土地からティワナクの生活や文明は発生した。しかし厳しい条件が多いため、気象変化があれば収穫量は大きく変動する。
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そこで、人々は土地を変革して収穫を安定化する方法を見つけ出していた。灌漑耕地だ。その痕跡は今も草原に残っている。
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川や湖から耕作地まで特殊なパターンで水路を巡らして水を引き込んでいた。
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山で溶けた氷河の水が水路に運んでくる肥沃な土壌を掬(すく)い上げては耕作地に積み上げ、作物の栄養源とした。
また、水路に溜められ昼の太陽で温められた水は、夜の冷え込みを抑制する機能を果たした。つまり耕作地一帯にも微気候microclimateが形成されていて植物を霜などから守る役目を果たしていたのだ。収穫量は灌漑していない場所と比べて25%も多かった。
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この灌漑農業は一人の力では成し遂げられないし維持することも出来ない。この地では集団で農耕する習慣が生まれていたのだ。
こうしてティワナク一帯は数万人の食糧も確保できる一大農耕地となり、次々と集落が生まれていた。
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チチカカ湖の周辺に分散している集落で考古学者は沢山の寺院跡を発見している。今も人が暮らしている小さな集落にその一つがある。
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地面を2mほど掘り下げて造られた長方形の区画で、周囲の側面は大小の石で組まれた壁で補強されている。「沈んだ広場Sunken Court」だ。
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3千年程前に造られ、神に祈りを捧げたり、豊作を祈念したりする寺院の機能を果たしていた。広場の周辺に集まった人々は2m下の広場で行われている行事を見下ろしていた。
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側面のところどころにはめ込まれた様に立つ大きな石には血の跡が残っていた。今もリャマの生贄(いけにえ)の儀式では血がかけられている。
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分散した沢山の集落のそれぞれの寺院でおこなわれていた祈りの儀式は、後には大寺院で行われるようになっていく。

アンデスの高地・・・
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祭りの日、コーカラという小さな村にどこからともなく人々が集まってきた。いつもなら250人の村はお祭りになると4千人に膨れ上がる。飲んで、踊って、ボリビア式のパーティを開くのだ。
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アンデス固有の竹笛を吹き鳴らして楽しそうだ!
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mh:
民族楽器:サンポーニャ(西: zampoña)
南米アンデス地方の民族音楽フォルクローレに使われる笛の一種。先住民の言葉アイマラ語ではシーク(sicu)と呼び、またこの楽器を使用した合奏をシクリアーダ(sicuriada)と呼ぶ。
(mhスペインは漢字(中国語)で西班牙です)
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ケーナ(quena):
南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)。
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ご興味がありましたら「El Condor Pasaコンドルは飛んでゆく」をしばしお楽しみください。
https://www.youtube.com/watch?v=lEe92FfxmJk
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集まるのは人ばかりではない。リャマも群れを成してやってくる。
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羊もやってくる。みんな、この荒涼とした高地を歩いてやってくる!!!
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スペイン人コンキスタドールが持ち込んだキリスト教は今では人々の大切な心の支えだ。町を訪れた人々は必ず教会に寄って敬虔な祈りを捧げる。
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教会を一歩外に出れば、そこは賑やかなお祭りの場所だ。
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男も女も音楽に合わせて踊り歩く。今年の豊作を祈念するためだ。お祭りが賑やかな程、収穫は期待できる。それが3千年前から受け継がれている儀式の一つだ。
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ティワナクはおよそ8世紀をかけて拡大し、紀元前200年頃になると、南アメリカでは例がない大きな寺院複合体Temple Complexの建設を始めた。

チチカカ湖畔から16Kmくらいのアイマラの集落に「中心に置かれた石」を意味するティワナクが造られた。
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巨石を彫って造られた何体もの像が広場などに立っている。
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最初に完成したのは「沈んだ寺院Sunken Temple」だ。周囲の石垣の石は高度な石材技術によって隙間なく積み上げられていて、表面も研磨されたように滑らかだ。
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しかも大小の石が見事に組み合わされ、所々に当時の人の顔が彫られた石が嵌め込まれている。
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小高く積み上げられたピラミッドの丘から見た太陽の寺院。西暦500年頃に出来たものだ。中庭の中央に立つ巨像の周りに観光客が集まっているのが見える。
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mh:ここでティワナクの遺跡の概要をGoogle Earthと鮮明な写真でご紹介しておきましょう。
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ピラミッドから見た写真:右は沈んだ寺院、左は太陽の寺院
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沈んだ寺院越しに太陽の寺院を見た写真。中庭に立つ巨像が門からのぞいています。
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太陽の寺院の広場の北西部にたつ太陽の門。一枚岩から造られ、表面にはカレンダー、中央上には太陽・雨・収穫を司る神が彫られています。
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太陽の寺院から西に約3百m離れた丘に残る月の門。これも一枚岩から出来ています。
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1500年前、数万の人々が集まって儀式を行ったと言われる太陽の寺院の広場を西に向かって歩いているところ。
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ティワナク遺跡を支配している大きな台地・・・
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そこでは巨石が沢山使われている。重い石は50トンもある。当時、車輪は使われてはいなかった。どんな方法でティワナクの寺院が造られたのかは考古学者の関心を引く点だった。
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火山性の石なので切り出したポイントは特定しやすい。
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約40Km北西の、チチカカ湖に突き出た岬にある石切り場QUARRY SITEだ。
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途中には放棄された岩ABANDONED STONESが何個か残っている。
どんな方法でこのように大きな石を運んだのだろう?
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湖を利用して運んだのは間違いないだろう。それ以外には考えられない。
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チチカカ湖にはトトラと呼ばれる葦(あし)が生えている。湖で人が暮らす浮島の材料としても使われている。
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このトトラは昔から船の材料として使われてきた。トトラの船は浮島の住民の大事な足だ。今も造られ、使われている。
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トトラの茎の断面には中空の細いパイプが沢山ある。従って強くて軽い。
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試しにトトラの船に乗ってみた。想像していたよりもしっかりしている。その上とても軽くて浮力は十分だ。
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2002年、全長15mのトトラの船が造られた。
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その船には昔の石切り場で9トンの石が積み込まれた。
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船は岬を迂回し、ティワナク遺跡に向けて湖面を移動した。
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その時のルートは次の通りで、全行程24Km。昔の石材搬送ルートも似ていたはずだ。
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船から陸に石を移す作業は女も子供も加わって50人で行われた。
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その50人で陸揚げされた石が丸太の上を縄で引かれて移動した。
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「これがその時の石だ。1時間足らずで60mも動かすことが出来たんだ!」
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当時、車輪などの便利な道具は無かったので、陸での石の移動は農作業と同様、大勢の人々が集まり、石に架けた縄を引いて運んだに違いない。
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「大勢の人が、あたかもお祭りを楽しむように集まって、集落ごとに石運び競走を楽しんでいたのではないだろうか。」
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ティワナクは大きなお祭りの場所としてだけではなく、別の目的でも使われたことが判ってきた。太陽の動きを知る場所でもあったのだ!
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集落の長など重要な人々が太陽の寺院の広場の中央に立ち、日の出と日の入りが外壁のどこで起きるのかを確認した。大きな石は夏至や冬至、春分、秋分を決めるものだ。例えばあの大きな石から太陽が昇る時が夏至だ。
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つまりこの広場「カラソサヤ」は大きなカレンダーだった。お祭りの日やお祈りの日も決められていたに違いない。

「もし、ここに西暦500年にこの広場を訪れたら、白い服を着た人が広場の中央に立ち、カラフルに塗られた石の上でコカの葉を噛んだり、麻薬のような薬を飲んだり嗅いだりして精神を高揚させながら、太陽に祈りを捧げているのを見るだろう。」
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広場の土の中から見つかった土器のビアグラスから、ティワナクの人々にはビールを嗜(たしな)む風習があったことが確認されている。
この石像・・・左手にビアグラス、右手に精神高揚の嗅ぎ煙草パイプを持っている!
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昔、色とりどりに塗られた石の広場には大勢の人が集い、儀式が行われていた。
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儀式は祈祷師が取り仕切っていたのだろう。人々は太陽とともに生活のリズムを築き上げていたのだ。
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このような人々のユートピアのような生活にも暗黒の部分が出現しつつあった。2005年、冬の太陽が沈む壁の辺りの地中で、考古学者があるものを見つけた。この倉庫の中に保管されている。
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小さな頭蓋骨に穴が開いている。子供だったのだろう。生贄にされたのだ!
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ティワナクで生贄の証拠が見つかったのは初めてだった。多くの生贄は農繁期と雨季に行われていたという。農業の収穫量がどれほど人々にとって重大な関心事だったのかが判る。

寺院の完成から200年後、アカパナ・ピラミッドが造られた。完全に人口の丘だ。
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その後、千年以上を経て、形は大きく変わってしまった。今の高さは17mだ。
頂きに立つとカラソサヤ(太陽の寺院の広場)で行われている儀式は手に取るように眺められる。
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エジプトだったらファラオ(王)がここに立って儀式を統括しただろう。しかし、ティワナクにはファラオやリーダーがいた証拠は全く見つかっていない!王のために造られた建造物なども何処にも残っていないのだ!

山からの雪解け水はティワナクの広大な灌漑地を潤していた。ティワナクを統治していたのは、人間ではなく、自然崇拝という思想だったのだ。
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ここ「中央の石」ティワナクは厳しい自然の真っただ中にあったのだ。
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ティワナクのイメージを更に正確に理解するためボリビアの首都ラパスを訪れた。
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標高3600mの、世界でも最も高地にある首都だ。
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博物館にはティワナクの手工芸品が展示されている。
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ティワナクで行われていた古代の祭りの様子が沸々と湧いてくる。
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印象的なものがあった。ティワナクで見つかった頭蓋骨だ!極端に変形している。これはティワナクのエリートの特徴だ。
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勿論、ティワナク遺跡で見つかったケロスkerosと呼ばれるビアカップもある。形といい文様といい、ティワナク独特の土器だ。特に儀式の時は、この容器にビールを注いで飲むのが仕来りだった。
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ティワナク独特の図形が織り込まれた布も展示されている。
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リャマの頭を表していると思われるパターンが繰り返して現れている。
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ティワナクの歴史を記したものは残っていない。だからといって、記録が全く残されていなかった訳ではなかったのだ。布に繰り返して現れる図形は当時の人々が何をどう見ていたのかを語りかけている。その言葉はまだ正確には解読できていないが、きっと彼らが紡ぎ出した物語がこの布に織り込まれているのに違いないのだ。
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西暦700年頃になるとティワナクの文明がチチカカ湖周辺から数百キロメートル以上も離れたチリやペルーにも普及していたことが判ってきた。
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そして驚くことに、この文明の普及は平和的に行われていた。決して土地を占領し植民地化し帝国化するためではなく、文明を共有し生活を豊かにするためのものだったのだ。

チチカカ湖畔から4百キロメートル東、海抜は1500mも低いコチャバンバの町にその証拠が残っている。
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これが海抜2、250mの近代都市コチャバンバだ。
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ティワナクの文明がリャマや人々によって西暦750年頃にこの地に伝えられた時、ここは細々と農業が営まれる場所だった。しかし、チチカカ湖周辺と比べて格段に温暖な気候のこの地で農業が発展しない訳は無かった。ティワナクではジャガイモ中心の農業だったが、この地ではいろいろな作物が豊富に収穫されるようになっていった。
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今も市場には沢山の種類の果物や野菜が豊富に並んでいる。そして、この「メイズmaize」も山ほど栽培されることになった!ティワナクの人々にとって重要な飲み物「ビール」の原料だ!
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mh:とうもろこしはコメ、小麦と並ぶ世界三大穀物の一つで「Corn(コーン)」と呼ばれますが、これは米国、カナダ、オーストラリアなどでの呼び名で、その他の国では一般に「Maize(メイズ)」と呼ばれているようです。ちなみに「コーン」はイギリスでは小麦、スコットランドやアイルランドではオーツ麦を指すようです。今回のフィルムはBBC製作ですからイギリスで、よってメイズと呼んでいました。

ボリビアでチーチャChichaと呼ばれているメイズビールの醸造所を訪ねてみた。
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これがチーチャだ。
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ティワナクがこのコチャバンバの谷間にやって来たのは、ビールの原料を求めていたからではないかという説もあるくらいだ。
(mh:若いイギリス人レポーターのジャゴ・クーパーは「Quite tasty!とてもおいしい」って言ってますが本当かなぁ?見かけはとても飲めるような代物ではありません!)

しかし、数百キロメートルも離れたこの地にティワナクの人々はどのようにして到達することになったのか、どんな過程を経て、この地の自然の恵みをコントロールすることになったのか?
それを知るには当時の跡が残る場所に行ってみなければならないだろう。
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1985年、コチャバンバの郊外で建築工事を始めようと丘の土を掘り始めると沢山の人骨が現れた。工事は中止され、考古学者が発掘を引き継ぐことになった。
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1300年前の遺跡だと言う。キャリン博士に説明してもらった。281

「一番下の地層は西暦700年から750年のものよ。上の地層は西暦1100年の地層でティワナクの末期のものなの。」
ということは、ティワナクはおよそ4百年の間、この地をコントロールしていたことになる。
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ここは人々が代々暮らし続けていただけではなく、死体を葬るところでもあった。尖った頭蓋骨が見つかっている。幼いころから頭を布などで強く巻いて変形させていたのだろう。
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勿論、ティワナクのビアカップ「ケロス」も発見された。デザインはティワナク調だ。しかし、ティワナクから持ち込まれた物ではない。この地で造られたものだ。その証拠にカップの内側にはティワナクのカップには見受けられない模様が描かれている。
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ボリビアの伝統ビールのチーチャ。ティワナクから生まれ、今もチーチャ・バーで大勢の人に親しまれている。
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西暦1000年代、ティワナクの文化はチチカカ湖一帯からアンデスを越えた遠方まで広がっていたのだ。
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ティワナクは王国でも帝国でも無かった。その基本は人々の生活を通じた集団性だった。決して覇権をしてはいなかった。平和的な文化拡大だったのだ。そしてそれは理想的に機能していた。

しかし、そうした環境はいつまでも続くことはなかった。
(mh:お釈迦様も仰るように、諸行無常、栄枯盛衰は森羅万象の定めなのです。)
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次に行く所はあの雪に覆われた標高5千m以上の山だ。チチカカ湖の死命を制しているとも言える所だ。

ティワナクは太陽と雨の絶妙な組み合わせを生活の拠り所としていた。そして山から流れ来る雪解け水で耕地を灌漑した。全ての儀式は、これらの自然の恵みが順調に続くことを祈願したものだと言える。

しかし、繁栄を始めて5百年過ぎたところでバランスが崩れてしまったようなのだ。
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ティワナクは世界でも最も高地で生まれた文明だ。気候の変化は他の文明発祥地とは比較にならない規模の影響を及ぼす。特にアンデスの氷河はティワナク文明の繁栄を左右する重大な要因だった。
その氷河が溶けるのを止め、流れ出す水の量が激減したらどうなるのだろう。それは現実に起きることになった。

今歩いている氷河は段々と死んでいく氷河だ。全長は毎年15m短くなっている。表面状態から、西暦1100年以降、この氷河から流れ出す水が激減し旱魃が常態化していることが判った。
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ティワナクに流れ出ていく雪解け水の量は年々、急速に減っていったのだ。いくら神に祈っても、この自然の流れを変えることは出来なかった。
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西暦1100年頃、偉大なティワナクの寺院は見捨てられることになった。一枚岩から彫られた神々の顔は失望した人々に寄って辱められてしまった。
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しかし、ティワナクが放棄されたからといってティワナクの人々が死に絶えてしまったわけではない。散り散りになってしまったが、あちらこちらで小さな集落を形成し、暮し続けていた。
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ティワナクの寺院はスペイン人のコンキスタドール(征服者)がやってくるまでの400年間、廃墟のままだった。
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コンキスタドールは見捨てられていたティワナクの寺院を見て、その素晴らしさに驚愕した。しかし、彼等は寺院をそのまま、そっとしておかなかった。
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これは現在のティワナクの教会だ。1580年から1612年にかけて建設された。
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建設に使われた石材は全て、古代ティワナクの寺院で使われていた石だ。ここに立っているキリスト教の聖人石像も古代ティワナクの石像を削って造っている。
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1865年、ボリビアはスペインの支配から独立した。
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以降、少しずつ、自分たちの運命を自分たちで築き始めている。
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古代ティワナクを放棄して1千年を経た今日、現地人のアイマラはティワナク寺院を自分たちの管理下に置こうと政府に働きかけている。
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9月21日の春分の朝、アイマラのリーダーたちは太陽に向かって祈りを捧げた。
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1千年前、ティワナクでは人々の集団の力で生活が営まれ寺院が造られ、維持され、文明が育まれていた。
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百万人を超える人々がティワナクの文明の恩恵を受けながら寺院と共に暮らしていた。
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そして今も、この寺院で、古代の仕来りに従って儀式が執り行われている。また新たに生まれ変わろうとしているのだ。
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Lost Kingdoms Of South America S01 E02 The Stone At The Centre
https://www.youtube.com/watch?v=ZmT0lBSc54o
最後になりますが、このフィルムのプレゼンテイターのジャゴ・クーパー氏の経歴の概略をご紹介しておきましょう。
次の写真はブログ「チャチャポヤの不思議」でご紹介したクエラップKuelap Fortressで撮影されたものです。
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Jago Cooper (born 1 June 1977) is a British archaeologist(考古学者) and the Curator(学芸員) of the Americas at the British Museum whose career has focused on the archaeology of South America and the Caribbean, in particular the historic effects of climate change on island communities. In recent years he has written and presented a series of programmes for BBC Four(BBC4チャンネル), including Lost Kingdoms of South America, Lost Kingdoms of Central America, Easter Island(イースター島): Mysteries of a Lost World and The Inca: Masters of the Clouds(雲の支配者;チャチャポヤスです!).
(完)

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mh徒然草66:軍事力と幸福度

今日10月31日、南シナ海の南沙諸島Spratly Islandsやスカボロー礁Scarborough Shoalを巡る中国と東南アジア諸国及びアメリカとの軍事的な対立を取り上げたTV番組が多くなりました。確かに中国の傍若無人な振る舞いは腹に据えかねますねぇ。スカボロー礁近くで漁をしていたフィリピン人は中国船に体当たりされ、這う這うの体(ほうほうのてい)で帰港したものの船は使い物にならず、岡での仕事をしていますが収入は従来の半分で日本円で毎月1万円程度になって、子供を大学に通わせる夢は叶えられそうになくなったと嘆いていました。
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米国は、南沙諸島を埋め立てて軍港や滑走路造りを進めている中国に圧力をかけるため、埋め立てられた岩礁や島の近くを軍艦で通過して、そこが公海であることを顕示しています。また、フィリピンは国際裁判所(オランダ・ハーグ(Hague)の常設仲裁裁判所)に中国との領土問題を提訴し、中国は提訴を取り上げないよう裁判所に申し出たものの裁判所は仲裁裁定を下すことにしたようです。
詳細は次のURLでご確認下さい。
12月7日;チェックしたらURLの行先は消されていました。まさか中国が・・・

南シナ海を巡る中国とベトナム、マレーシア、ブルネイ、フィリピン、はたまたインドネシア(!)との領土問題については中国の一方的な強硬姿勢だけが浮き出ていて、世界中のどの国も、中国の主張を正当だと思わないでしょう。いや、場合に寄れば、中国の支援で国が成り立っている小国が南シナ海から遠く離れたアフリカとか太平洋にあったとすれば、その国は中国に脅かされて「中国の主張には理がある」ってな意見を対外的に発信することはあるかもしれませんが、凡そ先進国と呼ばれる国なら、中国の暴挙に眉をひそめているか、公に反対姿勢を示しているようです。例外かと思いますが、朴大統領は「平和的に解決されるべきである」としか発言していなくて完全に中国の傀儡(かいらい)になった感すらありますから、将来、韓国は北朝鮮と共に中国に併合されてしまうかもしれません。明後日の11月2日には韓国で日中韓3ヶ国の首脳会議がありますが、恐らく、朴大統領は中国への遠慮と日本への反感に固執して、新たな展開が始まることは無いのではないかと思います。

このような南シナ海を巡る領土問題は、中国の目に余る横暴はあるものの、今のところ中国と他国との軍事衝突または紛争の段階には至っていませんが、小競り合いなど、不測の事態が起こる可能性は高まっています。これがエスカレートすると、国家間の軍事衝突、つまり戦争になって、戦場は南シナ海に留まることなく、香港、上海、北京などの中国本土やマニラなどの東南アジア諸国本土にまで拡大し、当事国の国民は勝敗とは無関係に、甚大な損害を受けることになります。勿論、戦争当事国全ての国において、大勢の人が死ぬことになります。

人類はこの100年で、いくつもの戦争を行ってきましたが、第一次世界大戦、第二次世界大戦、太平洋戦争などを体験した世界各国の戦前、戦中、終戦直後、終戦から20年後、の国民の幸福度を調べてみたとすれば、恐らく、勝ち負けと無関係に、終戦から20年後の幸福度が一番高いという結果になるのではないでしょうか。つまり、戦前、戦中、終戦直後は戦争という重荷で幸福度は下がっているのです。

そう考えると、軍備の増強は幸福度を低下させると言えますから、どの国も軍備増強は止め、むしろ縮小すべきだと思いますが、どういうわけか中国は強い覇権願望があって、軍事費を毎年10%近く増やし続けていますから、隣国の日本としては看過できません。しかし、中国に対抗して日本も軍事費を増やすというのは日本国民の負担になるし、仮に戦争になってアメリカの支援を受けて中国を抑え込むことが出来たとしても、大勢の日本国民が死ぬことになるのは明らかですから、軍備増強に軍備増強で対応する策は愚策だと言わざるを得ません。だったら負けても好い、という選択すらありそうです。

中国の軍備増強は中国国民を不幸にすることは間違いありません。幸福だと思うのは、実はそれは錯覚なのですが、中国人民軍という軍隊だけでしょう。国家権力や人民軍による圧政のおかげで中国国民はどんどん不幸になっているのです。国民が不幸になって軍だけが幸せになれるわけがありません。

ところで、ふと不思議に思ったのですが・・・中国では何故、国民でなくて人民という言葉を使うようになったのでしょうか?国と人民が一体ではなく、人民の心が国から離れ国の概念が希薄な時に生まれた言葉ではないかと思いまが、今も人民という言葉が幅を利かせていますから、国と人民は一体ではないということでしょう。気の毒な国だと思います。日本も中国のようにならなければ好いのですが・・・

We Are The World
https://www.youtube.com/watch?v=DzDCBgJLhYw
(完)

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ステップの帝国の不思議

今回はアルタイ山脈を中心とする匈奴(きょうど、中国語(拼音ピンイン):Xiōngnúションヌー)の皇帝の墓の発掘に携わるフランスとモンゴルの考古学者たちの活動フィルム「The Emperor of the Steppesステップの皇帝」をご紹介します。

このフィルムを楽しむための基礎知識をmhがネットで集めたので事前にお教えしておきましょう。
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次の写真、草原を駆ける騎手達の後ろには湖が・・・上方には雲が???いやいや雲ではなくアルタイ山脈です。
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次は西からアルタイ山脈を望んだCG映像(?)です。雪を被った山脈の向うはモンゴルです。右下の細長い湖はカザフスタンのバルハシ湖Balkhash lake。その右には天山山脈とその奥にタクラマカン砂漠が・・・
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アルタイ山脈を挟んで東のモンゴル高原と西のカザフスタンにはステップが広がっています。カザフスタンのステップは標高が概略700mですが、モンゴル側では概略1400m。今回のロケ地はモンゴル側ステップですが、標高や緯度が高いため、冬は寒く、夏も暑くはないので、ちょっとした工夫をすると地下3mが万年凍土になる可能性があるんですねぇ。その辺りはおいおいご紹介しましょう。

ところでステップとは何か?Wikiで確認しておきましょう。
Wiki:ステップ(ロシア語степь stepʹ、ウクライナ語степ step、英語steppe)
中央アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味。ステップは植生や気候によって定義される。
ということで、草原のステップSteppeは英語のステップStepとは全く語源が異なるんです。

今回ご紹介するフィルムは次の2本。撮影は5年程前だと思われます。
「The Emperor of the Steppesステップの皇帝」
「The Frozen Tombs of Mongoliaモンゴルの凍った墓s」
皇帝とは匈奴の皇帝で、日本では「単于(ぜんう)」と言われています。凍った墓は「単于の墓」と思われるものです。墓の規模からみて間違いないでしょう。

Wiki:単于(呉音ぜんう、漢音せんう、拼音(ピンイン):Chányúシャンユー)
匈奴を始めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号。妻は閼氏(えんし、あつし)という。

Wiki:匈奴(きょうど、中国語(拼音)Xiōngnúションヌー)
紀元前4世紀頃から後5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族nomadおよび、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

次の地図は紀元前2百年頃の匈奴(地図表記でXiongnu Khanate:AKA Hsuing-nu)と周辺国の様子を示すものです。
中国はHan Dynasty(漢王国)、日本はYayoi Culture(弥生時代)となっています。
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匈奴といえば草原を馬で駆け巡り、中国に攻め入ったり、遠くはヨーロッパまで押し寄せた騎馬民族Normadで、フィルムではコーカサス(注)との混血もあったと紹介されています。

Wiki:コーカサス(英語:Caucasus、ロシア語:Кавказ、グルジア語კავკასია、アルメニア語Կովկաս、アゼルバイジャン語Qafqaz)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万(日本は38万です)km²の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも古代ギリシア語: Καύκασος (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。
次の写真はコーカサス山脈です。
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話が少しそれますが、フン族(フンぞく、Hun)とも呼ばれることがある匈奴がヨーロッパに勢力を拡大していったのでドイツ平原あたりの原住民だったゲルマン系のゴート族が南に逃れていったんですねぇ。これが「ゲルマン民族大移動」で、西ローマ帝国が王が死去した西暦453年の翌年に瓦解する原因の一つとなりました。

フィルムのロケ地はアルタイ山脈の東の麓と、更に7百Km東のモンゴルのステップの中央辺りです。

Wiki:アルタイ山脈Altai Mountains
西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。モンゴル語で「金の山」を意味する。
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ロシア・カザフスタン国境に在るベルーハ山:標高3506mでアルタイ・シベリア地方の最高峰
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長い前置きはここで終え、まずはYoutube「The Emperor of the Steppesステップの皇帝」の始まりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
モンゴルの草原・・・
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「ステップの皇帝」
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2千年前、モンゴルの遊牧民の祖先は中央アジアに帝国を築いていた。
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帝国は匈奴(Xiōngnúションヌー)として知られている。長い間、宿敵の中国と勝ったり負けたりの紛争を続けながら、帝国の領土は拡大と縮小を繰り返していた。
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匈奴から国を守るため、中国は全長4千Kmにも渡るバリケード「万里の長城」を築いた。
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匈奴の武器はスピードだった。馬を駆って中国を攻め立てた。長城は時には防御に成功し、時には匈奴の侵入を許した。
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匈奴の歴史を調べるならモンゴルを訪れねばならない。首都ウランバートルUlaanbaatarは1950年に生まれた若い町だ。モンゴル人口の4分の1の70万人が暮らしている。フランス人考古学者のピエールが訪れたのは2月。外気温は零下20度だ。
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モンゴル歴史協会との打ち合わせがある。
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考古学者ネアバターと発掘の段取りを相談するのだ。何度か一緒に匈奴の遺跡調査を行った2人は良き友人だ。
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1957~58年のファイルに保管されている写真の左から2人目の男・・・
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考古学者ドロサラーンだ。匈奴の古代の共同墓地necropolisを調査している。
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その発掘はドロサラーンの生涯をかけた仕事となった。
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沢山の墓を見つけた。発掘場所が突然崩壊し、調査の継続を断念することになった数年後、彼はこの世を去った。調査を完了できなかった無念さを抱えたまま。

残されたノートによれば、恐らく彼は匈奴の皇帝の墓を見つけたのだ。
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mh:ノートの文字はモンゴル文字ですが、これはソグド文字から生まれたウイグル文字から来ているようです。
で、ソグド文字はというと・・・
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文字の種類や歴史を調べると、面白いことが判りそうですね。で、念のためお伝えしておくと、今回のフィルムが関係している匈奴の帝国では、文字は使われていませんでした。それで不思議が沢山残されることになったのですね。

話をフィルムに戻しましょう。

ウランバートルの西約5百KmのゴールマッドGol Mod。40数年前、ドロサラーンが発掘作業をした所だ。
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そこには数百の墓がある。巨大な墓もいくつか見つかっていた。
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匈奴は文字文化を持っていなかったので、生活の記録は遺跡しかない。
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多くの墓は石で枠取りされていた。四角形の墓には考古学者がドラマスと呼ぶ入り口がある。墓の中央に棺が埋められていたが、ほとんどの墓に盗掘の跡がある。
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ウランバートルでの打合せから4ヶ月後の6月。モンゴルの厳しい冬も終わり、草原を移動できる季節になった。フランス人のピエールとモンゴル人のネアバターは新たな発掘を始めるためウランバートルを出発した。目指すは先人の考古学者ドロサラーンが調査した場所ゴールマッドGol Modだ。3日間の旅になるはずだ。
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旅では予想していなかったトラブルが起きるものだ。
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アーハン川に架かるこの木造の古い橋は危険で車では渡れない!
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100Km迂回して新しい橋を渡る。
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平地での移動は快調だ。天気も最高!海抜約1千5百mに広がる草原は果てしない。
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高木で覆われた丘が見え出した。そろそろ目的地だ。
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サイトに到着するとピエールは直ちにドロサラーンが40数年前に発掘を断念した墓跡を見に出かけた。
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大きい!発掘では墓の中心に生えた木は撤去する必要がある。それにしても大きい墓だ。皇帝(単于ぜんう)のものに違いない。ここを第一発掘サイトとしよう。その他にもいくつかの墓を調べてみよう。

この墓が玄室まで6層で造られていたことはドロサレーンのノートに記されている。土壌を除去するには重機が必要だろう。
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発掘を行えるのは夏だけだ。来年の夏には、玄室を掘り出す予定だ。1951年、ロシア人考古学者コスロフが北モンゴルで見つけた玄室と似た玄室があるはずだ。
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金箔で覆われた部屋に棺は納められているはずだ。
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1950年以降に発見された匈奴の遺品は少ない。
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フェルトと絹で織られたタペストリー。二匹の動物が争っている。
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ブルドーザーとパワーショベルで、墓の周りの土砂の除去を始開始した。今年の調査期間は8週間しかない。急がねばならない。1日8時間、日の出から日没まで作業する。
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第二発掘サイトではボランティアの学生たちがピエールの指導で作業することになった。
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発掘チームは事前に造られていた木造小屋でこの夏を過ごす。小屋の一つは研究室に当てられた。
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食事は酪農製品が主体だ。昼も夜も羊肉のスープが振る舞われる。
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地方自治体から墓を囲む木の伐採許可が下りた。早速作業を始める。
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クレーターがとうとう姿を現した。この下が玄室だ。
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付近を発掘していると、墓への通路の石垣が現れ出した。何世紀も経て、土で埋まってしまったのだ。
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フランスから今回の発掘の指揮官ジャン・ポール・デハッシがやってきた。
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デハッシはパリのアジア芸術博物館の学芸員だ。
「匈奴の皇帝の単于が眠っているとしたらここだ!」
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匈奴が統治した500年の間、20人の皇帝(単于)が帝国を指揮していた。その間、中国は匈奴の宿敵だった。

遊牧民のサラッチの一家はゴールマッドGol Modで何世代も暮らしている。今年もこの地に移動してきた。
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毎年6月には、水が豊富にある所に夏の住居を構えることにしている。
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サラッチは30人の部落のリーダーだ。彼等は匈奴の時代と同じように、この地で自給自足の生活をしている。
ゲル(ger。中国ではパオと呼びます)を建て始めた。入り口は狭いので、まず家具類を配置する。
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その後、骨組みが完成したらヒツジの毛でつくったフェルトを被せる。
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男達が家造りをしている間、女たちはヤクyakや騾馬muleから乳を搾るのに忙しい。
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ミルクからはチーズも作る。
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発掘隊は近くの町ハイアーニで説明会を開くことにした。人口2千5百人の町だ。
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発掘目的を住民に理解しておいてもらうためだ。彼等は伝統を重視した生活を送っている。発掘作業で土壌が汚染され、生活が脅かされないか心配しているようだった。どんな副葬品が見つかりそうかについても関心を示していた。
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めずらしいことなので、大勢の住民が集まってきた。
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mh:若い女性はこんな説明会でも着飾って参加するんですねぇ。華やいだ集まりは大歓迎です。メイド服の女性が多いので驚きました。勿論、ここにはメイド・カフェなんかありません!都会らしい所は近くにはありませんから、人生の大半をゴールマッドGol Modの集落で過ごす人が多いのだと思います。そんな女性にとっては家事に便利なメイド服が一張羅(いっちょうら)なのかも知れません。

発掘サイトには国連とモンゴルとフランスの旗が立てられていた。
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その近くでは2人のフランス人を中心に第二サイトの発掘が進んでいる。土器のポットが見つかった!様子を見にぶらぶらとやって来たピエールは黄色いシャツを着たモンゴル人の同僚に言う「おぉ!これはすごい。今夜はみんなで一杯やろう!」
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mh:後でも触れますが、このピエールは他のフランス人に先駆け、単独で早々とモンゴルに入って現地で発掘の段取りなどを担当する、下働き専門のフランス人の親父さんです。何かあればワインかビールを飲もうと言い出す、mhによく似た親父さんで、同類の哀れみとも親しみとも言える共感みたいなものを感じました。

墓の外観が現れ出した。長さ40ヤード(1ヤード=3フィート≒0.9m)、幅33ヤード、面積は4900平方(mh?)フィートだ。
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黒い層が続いている。火災の跡だ。敵に焼き討ちされたのだろうか。
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墓には木製の屋根の建物があったことが判っている。
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そこに火を付けたのかも知れない。
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権力の象徴の建物を焼き尽くそうとして。
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8月。初年度の発掘作業の終わりの前夜、キャンプファイヤーの周りにチームメンバー全員が集った。
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冬はすぐ近くまでやって来ていた。今年はこれで終えるが、次の6月にはまた発掘が始められる。
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新しい年の発掘が始まった。
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第一発掘サイトでは最初からパワーショベルを投入した。
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玄室は地表から50フィート(15m)の所にあることが想定されていた。もう少しで到達するはずだ。しかし、ここまで発掘しても人が造った工芸品は出てきていない!どうしてだろうと思っていると突然、地表から25フィート(7.5m)の場所で青銅の大皿の欠片が現れた!
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続いて別の場所から騎馬戦車の部品も出て来た。
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最初に見つかった皿のような青銅はかなり大きい。埋葬された人間が高貴だった証拠だろう。
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第二発掘サイトでは魚の鱗のような金属部品が見つかった。
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匈奴は中国の戦士の影響を受けていた。きっと鎧(よろい)の一部だ。
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秦の始皇帝の軍勢は最も恐ろしい敵だった。
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彼の時代、中国では6つの小国が覇を競っていたが秦(Qinチン)がこれを統一した。だから秦(チン)の名が現在のチャイナChinaの基になっている。
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mh:その他の5国は趙Zhao、楚Chu、魏Wei、燕Yan、斉Qiです。

秦による統一の戦では、当時の人口3千万人の内の2百万人が死んでいる。始皇帝は全土に7百の宮殿を造った。
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内戦で手一杯の秦は匈奴の攻撃に何度も悩まされていた。
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ゴールマッドGol Modの第一発掘サイトで見つかった青銅部品は騎馬戦車のものだったことが確認された。小片となって散らばっている様子から、略奪が行われていたことが判った。
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玄室も荒らされているかも知れない。
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青銅の騎馬戦車は中国の戦車のレプリカで、皇帝の遺体とともに埋葬された副葬品だろう。
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200m離れた別の発掘サイトでは小さな墓の発掘が進んでいた。
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黄金の花模様の飾り物がいくつか見つかった。貴族の墓だろう。
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この花飾りも騎馬戦車同様、中国の文化の影響を受けたものだ。金はモンゴルの川で採取されたものに間違いない。

金の花飾りは玄室の壁を飾っていたはずだ。
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6月13日の朝、辺りは慌ただしくなっていた。
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バイク、馬、徒歩で人々が集まっている。丸二日行われる「ナダーム」と呼ばれる祭りを楽しむためだ。祭りの間、モンゴル人は働かない。そこで、発掘を中断し、みんなでナダームの見物に出かけた。
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呼び物の一つは馬のレースだ。
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騎手は子供だ。約22Kmを走って速さを競う、子供にはタフなレースだ。
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もう一つの呼び物はモンゴル相撲だ。日本相撲の源にもなった。戦いの前には鷲の踊りの儀式を行う。
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地面に倒れた者が敗者となる。
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近くでは馬のレースに参加した子供の家族が、勝者が戻ってくるのを今か今かと待っている。
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先頭が来た!勝者の一族が出迎える。
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勝者には「草原の騎手」という称号が与えられる。匈奴の時代と同じだ。
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ナダームが済むと発掘が再開した。今度は青銅の容器の断片が見つかった。
「君は大食家(glutonグルトン)のお面を見たことがあるか?これがそうだよ、taotieタオティエだ。」
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Wiki:饕餮(とうてつ、拼音: tāotièタオティエ)
中国神話の怪物。体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになった。
で、次の写真が代表的な饕餮(とうてつ)の姿です。中央が鼻で、その左右には上から、角、眉、目、口が描かれています。
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中国の銅鏡の欠片も見つかった。元の形は次のようなものだ。
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ここで我がピエールとネアバターはがっちり握手して喜びあいます。
ピエールがまた言いました「今夜は乾杯しよう!」
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しかし、いやなものも見つかった。盗掘に使われたと思われる木製のバール棒だ!
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やはり盗掘されていた!上から垂直に掘られた穴は、石か何かに突き当たった所で折れ曲がってから、玄室に到達しているようだ。
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「、棺がどうなっているか、最後まで掘ってみよう。」
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やはり盗掘されていた。遺体も残っていない!
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わずかに金の飾り物が見つかった。規模から考えて皇帝の墓に間違いない。
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皇帝の棺は地下55フィート(16.5m)に埋められていた。大きな墳墓だった。
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それが恐らく、敵軍によって燃え尽くされ、その上、盗掘にもあっていた。
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見つかった装飾品・・・
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陶器の破片・・・
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棺の木材のカーボンデイティングから造られたのは西暦30-50年だと判明した。匈奴の最後の皇帝フドウエルシ(注)の時代だ!
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(注)皇帝フドウエルシ(呼都而尸Hū dōu ér shī):呼都而尸道皐若鞮単于(ピンイン:Hūdōuérshīdàogāoruòdīchányú)というのは単于号で、姓は攣鞮氏(れんていし)、名は輿(よ)という。生年不明。死亡は西暦46年。

以上が最初のフィルム「The Emperor of the Steppesステップの皇帝」の粗筋です。
https://www.youtube.com/watch?v=E0B-vKoxaSE

補足ですが、匈奴、つまりステップの王国の創始者をご紹介しておきましょう。冒頓単于(ぼくとつぜんう)と言います。生年は不詳です。彼が単于に在位していたのは紀元前209~174年の36年間で、中国では秦末期~前漢前期でした。彼は、秦代に書かれた史書に初めて名前が出た頭曼単于(とうまんぜんう:~紀元前209年)の長男だったのですが、頭曼の寵愛する閼氏(えんし:単于の妻)が末子を生んだので、長男の冒頓を廃してその末子を太子に立てたいと考えた頭曼は、冒頓を敵の月氏へ人質として送ってしまいました。その後、頭曼は突然月氏を攻撃したため月氏は激怒して人質の冒頓を殺そうとしたのですが、冒頓は馬を盗んでなんとか逃げ帰ると、父の頭曼は彼の勇気に感心し、一万の騎兵を統率させました。冒頓はその騎兵の中からさらに自分の命令に忠実な者だけを選出し、父の頭曼と狩猟に出かけた際、父を射殺して単于となります。その後、近隣諸国を併合し、匈奴の大帝国を築いたのです。

ひき続いてYoutube「The Frozen Tombs of Mongoliaモンゴルの凍った墓s」を映像を中心にストリーミング調で簡単にご紹介しておきましょう。

フィルムの最初に登場する映像です。湖も広がるモンゴルの高原。石が丸く敷き詰められた場所が見えています。
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タイトルが出てきました:モンゴルの凍った墓(複数です)
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今回の発掘サイトはウランバートルから車で5日移動したアルタイ山脈の麓で、ゴールマッドGol Modから7百Kmも西にあります。
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赤い部分は匈奴の影響が及んでいた場所です。東の端はアルタイ山脈になっていますが、匈奴といえば、アルタイ山脈よりも東、つまりモンゴル側に広がった帝国のイメージが強く、ヨーロッパ側に重点が置かれたこの図は、ヨーロッパ人、特に今回の2つのフィルムを作成したフランス人、の関心の方向を示していると思われます。
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ペルシャの皇帝に貢物を献上するため匈奴の特使が都(ペルセポリス?)を訪れた時の様子か?
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このフィルムに何度か登場してコメントするフランスの歴史家です。発掘には参加していませんが、最初のフィルムにも登場し、今回も登場していて、発掘の先兵となった我がピエールより、格が高い考古学者だと思います。
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匈奴の遺跡から発掘された金の容器でしょう。発掘場所は不明ですが、恐らく、カザフスタンか、それよりもヨーロッパ側で、モンゴルではないと思います。最初にご紹介したフィルムで発見された品と比べると、明らかに新しい時代のものだと思われます。
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青銅(?)のスフィンクス。
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ペルシャやギリシャの影響が強く現れたスフィンクス。
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今回の発掘現場の一つです。発掘するのは石が敷かれた所、つまり墓です。
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地面にしみ込んだ雨水は冬に凍ってしまいますが、石を敷いておけば夏でも太陽の光が届かないために地表から3m程度になると永久凍土になってくれるようで、そこに埋葬された人間はミイラ化して腐らずに残っている可能性があるのです。
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我がピエール・アンリ・ジスカールPierre-Henri GISCARDです。発掘の先兵として最初のフィルムと同様、唯一人で現地に送られ、発掘の段取りを整える役を仰せつかっているのです。ま、今回のフィルムでは主役の一人くらいの扱いを受けていますので、下積み生活が報われたと言えるでしょう。
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Pierre-Henri GISCARDピエール・アンリ・ジスカール
Directeur Scientifique de l’Institut, 研究所の科学ディレクター
Fondateur et Directeur de la Mission Archéologique Française de l’Institut des Déserts et des Steppes
砂漠と草原の研究所のフランスの考古学ミッションの創設者兼ディレクター

ネットでピエールを検索しても単独では登場していません。考古学ジャーナルJ ARCHAEOL SCI, vol. 36「The warriors of the steppes: osteological evidence of warfare and violence from Pazyryk tumuli in the Mongolian Altai(2009)ステップの戦士たち:モンゴルのアルタイ地域のパジリク・ツムリ(パジリク古墳群)から見つかった戦と攻撃の骨学的証拠」の寄稿者8人の一人として7番目に名前が登場しているだけです。

モンゴル人の共同発掘者が匈奴の岩絵を見ています。
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鹿やオオカミや牛の絵のようです。
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木製の棺を開けてみました。木片に氷が残っています。
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中からいくつかの副葬品が見つかりました。

まずは木製の4本足の皿。足は本体に差し込まれていて、簡単にはずれました。
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木製の容器
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木製の馬。金箔で覆われていました。
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木製の短剣。昔は金箔で覆われていたはずです。
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埋葬の様子の解説資料です。男の脇の子供は生贄(いけにえ)で殺されたと考えられています。
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別の墓で見つかった棺。馬も生贄として棺の脇に置かれました。
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棺の蓋を開けています。
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棺の中で見つかった動物。長い角がついています。
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鹿の像かもしれません。
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取っ手が付いていたと思われる容器
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棺の中の様子
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死者とシャーマン(祈祷師):パジリク古墳(注)の壁画
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Wiki:パジリク古墳群(パジリクこふんぐん)
ロシア連邦、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓(クルガン)群。3世紀前半の古墳だと考えられている。

住民のゲル:太陽発電パネルと衛星通信アンテナが設置されています。標準的な家族のようで、今では衛星通信型の携帯電話を持つ家も多いようです。
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中でみんなが目を凝らしてみているのは・・・勿論テレビですね。
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発掘された墓の一つです。木製の棺が見えています。
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女性の戦士だと考えられています。頭には高さ50cmの飾り帽を付けていました。
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一緒に見つかった装飾品。金のようです。
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埋葬時の想像図
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ギリシャには女戦士がいたと言っていました。
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この絵はアルタイ系の女戦士の図
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墓で見つかった女性の頭蓋骨には矢で射貫かれたような穴があり、やはり女戦士だったのだろうと話していました。

棺は年代測定などの調査を終えたらウランバートルの博物館で保管されることになっています。
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ネットで見ると、この発掘レポートは2013年11月にフランス語で公開されていました。詳細は不明です。
The Frozen Tombs of Mongolia
https://www.youtube.com/watch?v=63M_HNxFeW4
(完)

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mh徒然草65:朝から列をなすお年寄りの不思議

今日は10月も晦日の31日、土曜日。女房殿のお見送りで散歩も兼ねて徒歩20分の駅まで出かけました。朝7時57分の電車で新横浜に行き、近くのショッピング・モールの一角で七五三の着物の着付けアルバイトを午後3時頃までやることになっています。このところ連日、仕事が入っていて、おかげでmhは自宅で一人自由な時間を過ごすことが多くなりました。着付けのアルバイトは時給1千円で「安くこき使われてるわ!」などと愚痴をこぼしながらも、うれしそうに出かけていく女房殿には「たくさんかせいでね」と声援を掛けて送り出しています。実はmhも、最近まで勤めていた神田の会社から声がかかり、この26日から、昔取った杵柄で、あるプロジェクトの技術援助をすることになり、少し忙しくなって、楽しみのブログ作成や旅行計画検討に割り当てられる時間が半減し、頭を痛めていますが、プロジェクトの方は作業の制約・必要条件を把握し、業務の定型化をしてしまえば、その後は週1日もあれば対応できそうなので、私のブログを期待して(?)お待ちいただいているファンの方に大きな失望を与えずに済むのではないか、と踏んでいます。

さて、話を今回のテーマ「朝から列をなすお年寄りの不思議」に戻すと、今朝、駅前に数軒あるパチンコ屋の前に20人程が9時の開店の1時間以上前から列を作っていました。男女ほぼ同数で、50歳以下と思われる人は2人程度。残る18人程は60歳以上でしょう。女性ではポシェットかショルダーバッグ姿、男性はリュックサック(最近は洒落てバックパックと言うようですが)の人が多かったです。パチンコ屋の前でなかったら、これからハイキングに出かける人達がバスを待っている列だろうと見まがうこと請け合いです。

mhもパチンコ屋には入ったことがあります。東京の確か飯田橋あたりに集合して信州のスキー場に向かう夜行バスを待つ間、時間潰しで友人とパチンコ屋に行きました。40年以上も前の話で、昔はレバーを指ではじいてはパチンコ玉を一つ一つ飛ばしていたのですが、飯田橋のパチンコ屋では丸いグリップのようなものを少し捻ると、玉は連続的にパンパンと飛び出して行きました。mhのパチンコ体験はこれを含め、人生でも5回以下ではないかと思います。従って、パチンコの楽しさはほとんど理解できないのですが、朝早くから並んで、恐らく、自分が一番気に入ったパチンコ台を確保し、時々リュックサックに入っている「お握り」をほおばり、「お茶」をすすりながら(?)3,4時間はパチンコを楽しむつもりの方々ではないかと想像します。女房殿の着付けアルバイトなら1時間1千円のお小遣いが入るのは確定していますが、今朝見かけた人達は、どうみても普通の和やかな雰囲気のお年寄りばかりでしたから、いわゆるパチプロという、パチンコでお小遣いを稼ぐ程の技量は持ち合わせていない方々ではないかと推察していますが、ひょっとすると店に入れば変身し、鋭いまなざしで台を動き回るパチンコの玉の軌道を見極めては次から次へと打ち出される玉の強弱や間隔を微修正し、タッパンのようなカートンに溢れんばかりのパチンコ玉を獲得したら景品か現金に換えて、その日の食事代くらいを稼ぎ出しているのかもしれません。

しかし、今朝、老人の列を見た時「なんでお年寄りが開店1時間前からパチンコ屋に並んでいるのかしら」と漠然と不思議に思ったんです。その思いを忘れないうちにブログを書こうと思って、いまもパソコンのキーを叩き続けているのですが・・・

なぜ、年寄りが多いのか???
落ち着いて考えてみたら、この答えは簡単ですね。土曜は若い人にとっては休日。仕事の疲れをとる日ですから、朝早くからパチンコ屋の前に並ぶよりもすることが沢山あるんですねぇ、勿論、睡眠をたっぷりとるということもありますし、道路が込まないうちに友人や家族と早目に遠出する、っていうのもあると思いますが、兎に角、休日の朝はパチンコ屋の前に1時間以上も並ぶことなんてしている暇がないんです。

しかし、平日の朝、駅のホームや通勤電車の中には若い人が多く、彼等の7割以上はスマホをいじくっています。メールやニュースなどの情報を見ている人は半分くらいでしょうか。残る半分は、指先を機関銃のように動かしながらゲームに嵌(はま)りこんでいます。mhはガラパゴス携帯で、ネット契約していませんから電話しか使えないし、その電話も、いつだって電源OFFしてますから重要な電話があったって受信することもなく、よって携帯電話を携帯することも最近はほとんどありません。こんな状態で毎月数千円払うのも馬鹿らしいから解約しようかなどと考えているところですが、ま、私の様に極端ではないにしても、少なくともお年寄りが携帯でゲームをしている姿は見かけた記憶がありません。

「グリップを握り、電動で連射されるパチンコにのめり込む老人と、指先を機関銃のように動かしてスマホでゲームに嵌りこんでいる若者は何か共通点があるのではないのかしら?」こんな埒も無い疑問を女房殿を送って帰りがてらにふと思いましたが、今、その答えを思いつきました。

「スマホでゲームをしている若者は年を取ったらパチンコにのめり込む老人になる。」

「人の好き好きを笑う勿(なか)れ」って格言があったかどうかは自信がありませんが、スマホのゲームにしてもパチンコにしても「そんな、つまらないことを」などと言うつもりは毛頭ありません。人に迷惑をかけない限り、好き勝手な楽しい時間を過ごすのは結構なことです。しかし、もし、暇(ひま)つぶしだとしたら、mhのように旅行を楽しむことをお勧めします。誰だって行ってみたいところは必ずあると思いますから、そこに行くルート、移動手段、費用、そこに着いたら何をしたいか、見たいか、食べたいか、など、情報をネットや雑誌で入手して旅行構想を思い描くだけでいいんです。実際に行かなくたっていいんです。結構、楽しめますよ。

The Platters - Smoke Get In Your Eyes
https://www.youtube.com/watch?v=vfBboBz3yoc
(完)

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