Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

“ダ・ヴィンチ・コード”の不思議


“ダ・ヴィンチ・コード”は2003年に発売され世界中の話題をさらったベストセラーで、作家ダン・ブラウンDan Brownが書き上げたミステリーです。
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処女作は「天使と悪魔Angels & Demons」で「The Da Vinci Code」は2作目。

コロンビア・ピクチャーズがトム・ハンクス主演で映画化し、2006年に公開されました。
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日本でもヒットし、mhも文庫本を買い込んで完読しましたが・・・さて・・・どんなストーリーだったか・・・全く思い出せません!!!

そのmhが今回取り上げるYoutubeフィルムが「The Da Vinci Code: The True Story (Discovery Channel)ダ・ヴィンチ・コード:その真実」となると、殊勝にも、せめて粗筋くらいは調べ直しておかないとね、と考え、いつものようにWikiに尋ねてみたら、見つかりました、粗筋(あらすじ)が!

<粗筋Plot summary>
ルーブル博物館の学芸員でシオン修道会Priory of Sionの責任者ジャック・ソニエルは、ある夜、サイラスという名のアルビノ・カソリック僧にルーブル博物館内で撃たれた。サイラスは“教師Teacher”という名でしか知らない男の代理人として仕事をしたのだ。“教師”はHoly Grail(聖杯?)を見つけるための決定的手掛かり“鍵の石keystone”を捜し求めている男だ。翌日、ソニエルの死体はウィトルウィウス的人体図(下図参照)と同じ格好で見つかった。
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パリ警察はハーバード大学教授ロバート・ラングダム(映画ではトム・ハンクスが演じました)を召喚した。紋章学者のラングダムは仕事でパリを訪れていたのだ。

警察署長のベズ・ファッチェは、ラングダムを召喚したのはソニエルが死の直前に残した不可解なメッセージの解読を手伝ってもらうためだと説明した。メッセージにはフィボナッチ数(下図参照)が無造作に配置されていた。
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フィボナッチ数:1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,89,144,・・・
ラングダムはファッチェに、ソニエルは女神芸術分野の第一人者で、ソニエルが血で描いた五芒星(下図参照)は、ファッチェが考えるような悪魔崇拝ではなく、女神を表していると説明する。
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警察の暗号研究員ソフィー・ニーヴSophie Neveuは、自分がソニエルとは別居中の孫娘であること、警察署長ファッチェはラングダムが祖父ソニエルを殺したと考えていることをラングダムに内々で伝える。実は、彼女の祖父の死体のそばには“PS(追記?シオン修道会?)ロバート・ラングダムを探せ”とのメッセージが書き残されていたのだが、ラングダムが現場に来る前にファッチェがそれを消し去っていたのだ。
ニーヴは祖父が秘密の異教徒集団に加盟していたという記憶に悩まされていた。しかし、祖父がラングダムに暗号をとかせるつもりだったと判り、その暗号をたどったニーヴとラングダムはチューリッヒ貸金庫銀行のパリ支店の貸金庫に行き着いた。2人は警察の目を逃れパリ支店を訪れる。そこで、彼等は“鍵の石”クリプテックスCryptex(下図参照)を見つける。それは筒状の、手に持てるサイズで、文字が描かれ、回転可能な5つの同心ダイヤル・リングがついた秘密の入れ物だった。
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Cryptex:作家ダン・ブラウンの創作品で、実在していたものではありません。上の写真はお土産品みたいですね。

5つのリングが正しく整列すれば入れ物を開けることが出来る。無理にこじ開けると、中に仕込まれている酢が流れ出し、中に保管されている、メッセージが書かれたパピルスが溶け、判読不能になる。クリプテックスが入っていた箱にはクリプテックスを開けるパスワードのヒントも残されていた。

ラングダムとニーヴは“鍵の石”をラングダムの友人でHoly Grailエキスパートのレイ・ティービング卿の家に持っていった。そこで、ティービングは、Grailは杯ではなく、マリー・マグダレンの遺骨が入った墓だと2人に告げる。3人はティービングの自家用機で国外に逃げ出すが、機中でニーヴの名前“SOFIA”がクリプテックスを開ける暗号文字だと気付く。クリプテックスを開けると、中には、更に小さなクリプテックスが、新たな暗号ヒントと共に入っていた。暗号ヒントは3人をウエストミスター大聖堂のアイザック・ニュートンの墓に導くことになる。
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英国への機中で、ニーヴは、10年前に始まった彼女と祖父の間の別離の原因を告白する。大学から事前の連絡もせずに実家に戻った彼女は、“春の不妊治療儀式”を密かに目撃することになった。物陰に隠れていた彼女は、仮面をつけ、女神への賛辞を唱える大勢の男女が集まる儀式会場の中心で、祖父が女とセックスしているのを見てショックを受ける。ニーヴは家から逃げ出し、以降、祖父ソニエルとの接触を全て絶ってしまったのだ。ラングダムは、彼女が見たのは古代の儀式でヒエロス・ガモスと呼ばれる“秘密の結婚”だと説明する。

彼らがウエストミンスター大聖堂に到着する時には、実はティービングはサイラスを動かしていた“教師”だったことが明らかになっていた。ティービングは、バチカン法王庁を崩壊するためにHoly Grailを使おうとしていたのだ。彼によればHoly Grailとは、聖杯などではなく、イエス・キリストがマリー・マグダレンと結婚し、子供も産んでいたということを明確にする一連の書き物だという。彼はラングダムに銃口を押し当て、第二のクリプテックスを開けるパスワードを考えるよう命令する。ラングダムは“APPLE”ではないかと気付き、密かにクリプテックスを開けて中のものを抜き去ってから、ティービングの目の前でクリプテックスを破壊してしまう。ティービングは警察署長ファッチェによって逮捕された。ファッチェはこの時、既に、ラングダムが無実であることに気付いていた。大僧正アリンガロサはサイラスが罪もない人々を殺害するために使われていたことに気付き、サイラスを警察が見つけ出す手助けをした。警察がオプス・デイというキリスト教団の本部に隠れていたサイラスを見つけると、自分を殺しに来たと思いこんだサイラスは暴れ出し、あやまって大僧正アリンガロサを銃で撃ってしまう。大僧正は一命をとりとめるが、サイラスはこの事件で受けた銃の傷が元で死んでしまう。

第二の“鍵の石”の中にあった最終メッセージはニーヴとラングダムをスコットランドのロスリンRosslyn礼拝堂に導く。
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ロスリン礼拝堂の案内人は、子供の時にニーヴの両親とともに交通事故で死んでしまったと聞かされていた兄だと判った。更に、礼拝堂の管理人マリー・チョーヴェル聖クレアはニーヴがずっと会ったことがない祖母だった。そしてニーヴがイエス・キリストとマリー・マグダレンの子孫だと判明する(!!!)。シオン修道会は、ニーヴの命が狙われないよう、彼女の生い立ちを隠していたのだ。

最後のメッセージの本当の意味は、Grailはルーブル博物館の“逆さのガラス・ピラミッド”の下にある、小さなピラミッドの下に埋められているというものだった。
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それは“薔薇の線Rose Line(注)”の下にあり、Rose LineはRosslynにも通じる。
(注)Rose Line:ダ・ヴィンチ・コード原作者ダン・ブラウンの造語で、パリを通る子午線の仮称。

ラングダムは、本の最終ページに、この謎解きの最後のピースを書き記しているが、それを誰かに伝えたいと考えているふうではなかった。彼は“薔薇の線”に従って“逆のピラミッド”に辿(だど)り着き、昔、テンプル騎士団がしたように、埋められているはずのマリー・マグダレンの棺の前で跪(ひざまず)いたのだった。
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(以上がWiki: Da Vinci Code粗筋の訳です。)

この物語ではレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な壁画「最後の晩餐」が大きな役割を果たします。最後の晩餐とは、十字架で貼り付けになる前夜Eveにキリストが12人の使徒と行った会食です。
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Holy Grailは「聖杯」と訳すのが普通です。
Holyは「聖なる」という形容詞で、Holy Nightと言えば「聖(きよし)この夜」となります。

英和辞書で「grail」を調べると「中世の伝説に現れた言葉でキリストの最後の晩餐に使われたコップ又は大皿で、アリマセアのジョセフJoseph of Arimatheaが、キリストが十字架の上から流した血を受け止める時に使ったと言われる。13世紀に書かれたイギリスのアーサー王に関する伝説にはGrailを捜し求める中世の騎士たちの物語が書かれている」とあります。

よってHoly Grailは聖杯と訳すのが普通なんですが、“ダ・ヴィンチ・コード”を知った今となれば、そう言い切れません。
それではYoutubeフィルム「The Da Vinci Code: The True Storyザ・ダ・ヴィンチ・コード:真実の物語」をお楽しみください。
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“タ・ヴィンチ・コード”は2000年続くHoly Grailの秘密を暴露した。
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公開されると世界中で論議を巻き起こした。関係者が法王から非難されることもあったという。ブルック・マスターの映画の内容にはどのくらい真実が含まれているのだろう?
エレイン教授「架空の物語の中で、原作者ダン・ブラウンはひょっとすると真実かもしれない何かを突き止めたのかも知れない。」
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レオナルド・ダ・ヴィンチは5百年前、彼の作品にメッセージを残したのだろうか?
ダ・ヴィンチ研究家マリオ「もし、最後の晩餐にあるという本当の秘密を知りたいと望むのなら、その絵を調べる必要はない。」
今回、映画で登場する紋章学者ロバート・ラングダムのモデルとなった男と、ダ・ヴィンチ・コードが有名にした教会に隠された本当の秘密を探し出した。
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現実の暗号解析者たちがダ・ヴィンチ・コードに隠された真実を描き出す。
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2006年5月、ダ・ヴィンチ・コードが映画公開された。ダン・ブラウンが書いた同じ題名の本に沿ってロング・ハウワード監督が造り出したこの映画は、世界中で議論を巻き起こした。
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製作者トッド・ハロウェル「我々は方々から個人的な非難を受けた。中傷メールも届いた。」
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映画のキャッチコピーは「キリストとマリー・マグダレンは結婚していて子供が一人いたというのは事実だ」と言っている。
カソリック教会関係者は激怒した。
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映画は興行収入7億ドルの大ヒットだった。
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しかし、映画の中身のどの位が事実に基づいたものなのだろうか?
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レオナルド・ダ・ヴィンチのよく知られた作品最後の晩餐を使い、重要な登場人物の一人セリー・ティービングは役者セリアン・マッカレンの口を借り「カソリック教会は2千年前の陰謀を隠している」と語っている。
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映画によれば、Holy Grailは多くの人が信じているような杯ではない。人物だ。しかも普通の人物ではない。カソリック教会が娼婦と言っている女マリー・マグダレンMary Magdaleneだ。
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教会が問題視するのはマリー・マグダレンとキリストが男とその妻だということだ。
神学者ロビン・ジョーンズ「教会が造り上げてきたキリストの重厚なイメージが危機にさらされる!」
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キリストが結婚していたのかどうかとの疑問はおよそ2千年の間、議論に上っていた。しかし映画では、その根拠は明確にせず、結婚していたと断定している。
ロビン「聖書では、この問題には全く触れていない。」
映画ではセリー・ティービングは、ほとんど知られていない“フィリップの福音書”という驚くべき証拠を挙げ、この考えを支持している。「キリストは他のどの使徒たちよりも彼女を愛していた。そしていつも彼女の唇にキスをしていた。」
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しかし・・・フィリップの福音書は実在していた!1945年12月、他の12のパピルスの本と共に西エジプトの農夫によって発見され、今もカイロ考古学博物館に保管されている。
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学者達は、キリストの使徒たちによって書かれた福音書の翻訳本だろうと考えている。
プリンストン大学の宗教学教授エレイン・ペイグルはこれらの本がキリストとマリー・マグダレンの、これまで伝えられてきたものとかなり異なる関係を説明していると信じている。
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エレイン「かなり異なる物語が記されている。もっとも重要なことはキリストが娼婦と関係を持っていたということだ。トーマスの福音書によれば、その女は使徒ではない。」
しかし、映画の中で主張されているように、フィリップの福音書には、どの使徒たちよりもキリストはマリー・マグダレンを愛していたと書かれているのだろうか?
エレイン「作家ダン・ブラウンはこう言っている“私がフィリップの福音書を見た時、キリストは誰よりもマリー・マグダレンを愛していて、いつも○○にキスをしていたと書かれている。”」
○○の部分はパピルスが欠けていて何か書かれていたか判らない。
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しかし唇に相当する言葉なら、欠けた部分にピッタリ嵌りこむのだ!だから、何人かの専門家はその翻訳は正しいかも知れないと考えている。

神学者ロビン・ジョーンズ「欠けた部分に唇と書かれていたとしても、それが、マリー・マグダレンがキリストの妻だったという証明にはならない。」と信じている。
「家族なら愛情表現として唇にキスをしあうのが普通だ。家族なら唇にキスをする。それは性的な感覚ではない。しかし家族でないとしたらそれは性的なキスだと言えるだろう。」
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エレイン・ペイグルは言う「ほかの解釈もあるわ。キスが儀式的な肉体的なものではなくて精神的な物だったという。」

しかし驚くべき新たな発見が更なる議論を生み出した。パピルスのこの小片は匿名の収集家が保有しているものだが、これまでの解釈を変える必要があると何人かの専門家が言っている。
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長年、失われていた福音書の一部だと信じられているものだが、2010年、分析と翻訳のためにハーバード大学に送られたものだ。33の言葉しか書かれていない。その中で最も関心を集めている節は「キリストは皆に告げた、これが私の妻だ」という箇所だ。
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エレイン「ダン・ブラウンは彼の小説の中で、ひょっとしたら真実かも知れない何かを突き止めたと考えてもいいかもね。見つかったパピルスの小片は分析の結果、最近作られた偽物ではなく、本物だと判っているの。だから記述が事実ならダン・ブラウンの考えは正しいって考えていいはずだわ。」

もし、この欠片の記述が事実なら、少なくとも何人かの初代のキリスト教徒たちはキリストが結婚していたと考えていたということだ。
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そうは言っても、福音書に書かれた内容でダン・ブラウンの考えが正しいとは言い切れない。何故なら、キリストの死後、かなりの年月が経ってから、何人かの信者が、キリストは妻を持っていた、と考えただけかも知れないのだ。

しかし、ダン・ブラウンはこれを更に発展させた。550年前、レオナルド・ダ・ヴィンチはこの秘密を知って、彼の有名な壁画の中にそのメッセージを密かに残したというのだ。
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それは事実だろうか?最後の晩餐はダ・ヴィンチの有名な作品で、ダ・ヴィンチ・コードの中で重要な役割を果たしている。フィルムによれば、キリストの右隣に座っているのはマリー・マグダレンで、教会関係者が信じているような使徒ジョンではないと言う。
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そして彼女こそがHoly Grailだと言う。
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ダ・ヴィンチ研究家マリオ「ダン・ブラウンの本やその映画を見た時、とても美しいので楽しめた。しかし、単なる科学小説science fictionでしかない。」
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マリオはミラノで活動している発明家でレオナルド・ダ・ヴィンチの専門家だ。彼は15年の間、ルネッサンスの大家の作品を調べている。マリオはフィルムが主張していることを、ある明確な理由から、信じていない。彼はダ・ヴィンチの最後の晩餐は、単なる変形版だという。

マリオ「ダ・ヴィンチの最後の晩餐が描かれる前、既に何百もの最後の晩餐の絵があった。」
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「彼が自分の絵を描く時、彼はいくつかの規則に従わねばならなかった。例えば12人の使徒の位置だ。」
レオナルドの最後の晩餐の前に描かれた絵の多くはかなり類似性がある。
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画家たちは、キリストと使徒の配置では同じ法則に従って描いていた。聖ピーターは手にナイフを持っている、キリストは銀貨を入れた財布を持っている、そして最も若い使徒の聖ジョンは若く、女のような顔をしている。
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マリオ「これがジョンなのか、それともマリー・マグダレンなのか?そう疑う気持ちも判るが、それは馬鹿げた疑いだ。何故なら、それはジョンでなければならないからだ。レオナルドは以前の絵を参考にするしかなく、それらでは、ジョンは必ず女性のような顔で描かれていた。単にそれだけの理由でしかないのだ。」
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セシーリア・フロシーニニはイタリア・フローレンスの絵画研究所の責任者だ。彼女の班はレオナルドの7作品を含め、イタリアの巨匠たちの作品の修復を行っている。彼女は最後の晩餐に描かれていることの多くについて確認することが出来ると信じている。
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セシーリア「最後の晩餐を描く時、レオナルドはそれまでと異なる手法を使ったの。湿った漆喰の上に絵具で描く代わりに、彼はアギィオックス、酢、油絵具を混ぜたものをつかって、メラニーズ教会(mh:ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院?)の壁に直接描いたのよ。その実験は失敗だったの。」
絵が仕上がる頃には絵具は剥げ落ちてしまっていた。
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マリオ「今見ているのはオリジナルの絵の“影”だ。後に上塗りされ、レオナルドのオリジナルは失われている。」

フィルムは“最後の晩餐には文字が隠されている”と我々に信じ込ませようとしている。Mはマリー・マグダレン、Vはチャレス、つまり聖杯、の象徴だ。
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しかし、専門家に言わせると、全ての絵には文字を含んでいるように見える部分が数多く含まれているという。
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従って、新たな証拠が出てこない限り、最後の晩餐に文字が含まれているかどうかを議論しても答えは得られない。

レオナルド・ダ・ヴィンチはキリストとマリー・マグダレンの真実の関係を描いたということではないのかも知れない。しかし、彼はメッセージを発している。それは、5世紀前、ダ・ヴィンチ・コード同様、論争を巻き起こした。
マリオ「この絵から失われているのはヘイロウ(halo光背/光輪)だ。」
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レオナルド・ダ・ヴィンチの前に描かれた最後の晩餐では、キリストや使徒たちは聖人を示すヘイロウと共に描かれていた。しかし、ダ・ヴィンチはこの伝統を無視し、教会の壁画にもヘイロウのない絵を描いた。
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マリオ「彼等は普通の人間だとレオナルドは考えていたからヘイロウを描かなかった、と私は信じている。それこそがレオナルドの秘密なのだ」
レオナルドは最後の晩餐で控えめなメッセージの方法を使って語り掛けていたのだ。彼はキリストが人間mortalだと言っている。ダ・ヴィンチ・コードの本でも貫かれているテーマだ。
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しかし、彼はその他にも、何か解かねばならぬ暗号を残しているのだろうか?

ダ・ヴィンチ・コードでは、オスカーを受賞した俳優トム・ハンクスがHoly Grailを探すハーバード大学の紋章学教授ロバート・ラングダムを演じている。
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驚くことに、彼の人物像は実在するシンボルの専門家に基づいて組み立てられていた。ペンシルベニア出身のグラフィック・デザイナー;ジョン・ラングダムだ。
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ジョン・ラングダム「人々が私にラングラムのモデルじゃあないですよね、と訊(たず)ねるので、いいや関係ないですよって答えていたけれど、次々に同じ質問を受けているうち、皆さんがそう言うのならって気になってきたよ。」

ダ・ヴィンチ・コードではラングダムは紋章symbolの裏に隠れた意味を解く専門家だが、実在するラングダムは、それを造り出す方の専門家だ。
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ジョン「私がロバート・ラングダムについて特に気に入っている点は、彼が紋章symbolについて関心を持っていることだ。それは私の人生でもあり、彼の人生でもあり、私と彼が重なり合う部分だからだ。」ジョンの情熱は対照的な言葉や節、つまりアンビグラムを作ることだ。上下、左右、逆に読んでも読めるデザインだ。
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そしてこの特殊能力がダ・ヴィンチ・コードを描き始めるかなり前、原作者ダン・ブラウンと彼を引きあわせる切っ掛けになった。
ジョン「ダン・ブラウンの音楽経歴を知る人は多くない。ポップ・ミュージックのシンガーソングライターで、ある時、彼は「天使と悪魔」というCDの包装を、アンビグラムを使ってデザインするつもりはないか、と電話してきた。その時に仕上げたのがこれだ。」
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「でも、そのCDが完成してしまうと、彼は音楽への興味を失い、小説家になったんだ。」
5年後、ダン・ブラウンは「天使と悪魔」という本を書き、ジョンのイラストをその本に使った。ダンの次の小説がダ・ヴィンチ・コードだった。そしてそれが映画になる時、ジョンはまた連絡を受けた。
ジョン「これは私がデザインした、チューリヒの貸金庫銀行のロゴだ。」
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「映画でも使われた。トム・ハンクスの刺青(いれずみ)にも使われたよ。銀行の場面は2,3秒しか現れなかったけど楽しい瞬間だったよ。」映画の主人公はジョンと同じで紋章symbolに関心を持っているばかりでなく、ジョンのラスト・ネーム“ラングダム”と同じ名を持っている!

映画では、紋章学者はレオナルド・ダ・ヴィンチが創造したと考えられていたクリプテックスの暗号を解かねばならなかった。
映画のシーン「見てくれ、文が後ろから前に描かれている!」
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レオナルドは彼の多くの本で、文字を逆向きに書いていた。文字も変形して描かれていた。しかし、彼はジョンのようにアンビグラムは使っていない。その代わり“鏡文字”を使った。これが映画で言う“手の込んだ暗号方法”なのだろうか。
(以降、右利きと左利きの脳の働きの差を実験で確かめる場面が続きますが省略します。レオナルドもジョンも左利きだった、という事実(偶然?)があります。右利きの人と左利きの人では脳の働きが異なるのは間違いないと思いますが、それが先天的なものか、後天的な物かについては議論が必要だと思います。mhが思うには、後天的な部分が多いのではないかと。つまり、右利きが主流の世界で生きている左利きは、右利きと異なる感情をもつことが多く、これが右利きと異なる能力を産む、ということではないかと。またレオナルドは先天性の学習障害dyspraxicだったとの見解も披露されていました。文字の綴(つづ)りを暗記するのが不得手だとか、そういった障害で、その分、別の分野で特殊な能力を発揮する人が多いようです。)

レオナルドが学習障害者だったかどうかの証明は別にして、彼は世界でも最も創造的で生産的なデザイナーの一人だったのは間違いない。だから彼は映画に出てくる、究極の秘密の箱ともいえるクリプテックスを造ったのだろうか?ダ・ヴィンチ・コードのクライマックス画面では、トム・ハンクスが演じる人物が秘密の箱クリプテックスを開ける。
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その中にはHoly Grailの隠し場所が書かれたものが入っている。

正しい文字の組合せだけがこれを開けることが出来る。もし無理に開けようとして壊したら、秘密は永遠に破壊されてしまうのだ。

マリオ「クリプテックスはダ・ヴィンチの発明品のようにも見える。」
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「映画では、中には秘密が入っているのだ。とても魅力的な設定だ。私もダ・ヴィンチ・コードを探してみた。彼の本物の暗号だ。」

これはダ・ヴィンチが書いたノートのコピーの一つで“フォーリオンビー”と呼ばれている。その33頁に、ある人達に言わせるとクリプテックスに関する一連の設計図が描かれている。
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マリオ「リングの形は確かにクリプテックスと同じようだ。」

マリオはレオナルドが設計した発明品を造ることで生活費を稼いでいる。この数年、クリプテックスだと考えられているダ・ヴィンチの発明品を造っている。結果は驚くべきものだった。
「クリプテックスだというのは正しくない。あのリングは、直径2mの円形の永久機関だ。一度動き出したら決して止まらない機構だ。」
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「彼は、この考えに憑りつかれ、この種の機械を何百も設計しているが、摩擦が主因で全て失敗しているようだ。」
つまりダ・ヴィンチのノートに書かれた絵はクリプテックスではなかった。実際のところ、クリプテックスは原作者ダン・ブラウンの卓越した想像の産物だったのだ。

映画では、クリプテックスが暗示した場所はパリのルーブルに隠されていた。夜の美術館の場面を撮影するのは決して楽ではなかった。
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製作者トッド・ハロウェル「そこでルーブルのかなり広い部分の模型をステージ、実際使ったのはジェームズ・ボンドのステージなのだが、その上に造り、必要な絵画も極めて詳細に準備した。」
映画での重要な場所ルーブルで学芸員だったソニエルはシオン修道会の筆頭者で、ダ・ヴィンチ・コードではシオン修道会はキリストとマリー・マグダレンの血統を残す秘密結社となっている。
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それは純粋な作り話でしかない。しかし、それを造り出したダン・ブラウンは真実の物語に触れたのだ。ハリウッドの脚本家の一人もそれを自慢している。
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1891年、ベニエイ・スニエイという修道士がフランス南西部の小さな村で教会を改築していて、古代の羊皮紙を見つけた。
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執筆家ジーン「この羊皮紙には、伝説にもなっていた莫大な宝物が、教会の中心に隠されていると描かれていた。」
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書類はラテン語で書かれていて、あるページの下段には2つのイニシャルPとSがあった。
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この興味深いヒントにも関わらず、宝物は見つかっていない。
そして凡そ90年後、1970年代後半、この謎を調べていた小説家が、その意味を説明する秘密のドシエイ(?mh:王家の家系図のようなもの)を見つけた。
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それによればPとSはシオン修道会Priory of Sionを表しているという。1099年に結成された組織で、秘密の血統を守るものだと言う、フランスの、ある王家の家系を!
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ドシエイはその家系の血統を古代から現在に至るまで追跡している。そして南東フランスで今も暮らしているピエール・フロンタールという男に行き着いた。
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シオン修道会がフランスの中世の王家の保護者だったという話はフランスで話題をさらった。すると「聖なる血統、聖杯Holy Blood Holy Grail」という本の原作者が彼等の考えを公表して、驚くべき展開になった。
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長年隠されていたフランスの王は、キリストの最後の活きる子孫でもあると言うのだ!
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執筆家ジーン「これは扇動的なセンセイショナルだった。彼等はキリストがマリー・マグダレンと結婚して子供を作り、その結果、王国が生まれ、ピエール・フロンタールまで繋がっているというのだ。つまりフロンタールがキリストの子孫だというんだから。」

しかし、その本はフロンタールには重荷になっていたようで、1992年、秘密のドシエイとシオン修道会の話は捏造(ねつぞう)したものだとフロンタールは認めた。
1960年代、彼は2人の友人と、自分が王家の子孫だという秘密のドシエイを創りあげたのだ。
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組織の名前は、彼の生まれ故郷の山の名Mont Sion(シモン山)から採った。その詐欺話は偽書類を古代資料の中に紛れ込ます作業から始まった。そして小説「聖なる血統、聖杯」の発行は最後の仕上げだったのだ。しかし、キリストの子孫だというのは、やりすぎだった。

ダ・ヴィンチ・コードの構想はこの本から20年後に書かれた。しかし、シオン修道会やキリストの活きた子孫については同じだ。

映画では最後の生き残り家系はフランスではなくスコットランドで見つかる。映画のクライマックスに登場するロスリン礼拝堂だ。エジンバラから数Km南の中世の建物だ。
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しかし、そこでの撮影はチャレンジでもあった。
製作者トッド・ハロウェル「ロスリン礼拝堂を初めて訪れた時、大きな波状の屋根が建物全体を覆っていた。」
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「長年の劣化で雨漏りが激しいので、仮の屋根を造って礼拝堂を保護していたのだ。確かではないけれど少なくとも20年程は経っているらしい。」
ハリウッドの撮影隊を受け入れるのは礼拝堂にとっては大きな衝撃になった。
「撮影の後、礼拝堂を訪れる人の数が飛躍的に増え、仮の屋根を本物の屋根に置き換えられるようになったんだ。映画関係者として、とてもよかったと思っているよ。」

映画ではロスリン礼拝堂はテンプル騎士団が建造したことになっている。キリスト教の軍隊で11世紀にHoly Grailの秘密を見つけたという伝説がある。石の構造を見ると、テンプル騎士団との関係がありそうに見える。
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礼拝堂保存責任者ニック「この礼拝堂の特徴は繊細な彫刻だ。随所に3次元の像が彫りこまれている。」
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「馬に乗った騎士像はテンプル騎士団との関係を思い起こさせる。」
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しかし現実には、この礼拝堂は騎士団が解団して200年後に建てられている。にもかかわらず、そこに彫られている像はHoly Grail探求者たちを引きつけている。

礼拝堂の薔薇の花は、ある人達に言わせるとマリー・マグダレンを表しているようで、Holy Grailハンターたちを引きつけている。
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ダ・ヴィンチ・コードは正しいのか、それとも間違いなのか?ロスリン礼拝堂は本当に秘密を隠しているのか?

2006年に公開された映画のクライマックス場面によれば、スコットランドのロスリン礼拝堂には秘密の部屋がある。マリー・マグダレンの墓室だ。何世紀もの間、この礼拝堂には本物のHoly Grailハンターたちが訪れている。映画は真実なのか?礼拝堂は秘密を隠しているのだろうか?
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礼拝堂保存責任者ニック「この礼拝堂には探せば探す程、不思議が見つかる。例えば尖塔に彫られた花の中央には穴がある。」
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「礼拝堂の24の尖塔には隠し部屋があり、花の穴はその部屋に通じていたのだ。その部屋は特別な目的で設計されていたのだが、宗教的な物ではない。中を調べたら古い蜂の巣が一杯あった。つまり尖塔の隠し部屋は蜂の集団の巣として使われていたのだ。

しかし、もっと難解な秘密の彫り物もある。特に、円形天井の梁についている215個の箱だ。
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スチュワート・ミッチェル「ロスリン礼拝堂の特徴の一つで、手が込んだ彫刻で重要な謎だと言える。」
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スチュワード・ミッチェルは作曲家だ。彼は彫刻された箱はコード(音階)を示していると考えている。ダ・ヴィンチ・コードで明かされた謎とは全く異なる謎を秘めているという。スチュワードは天井にあるこの215の石の箱の連続が500年前に礼拝堂を造る時に仕込まれたコード信号だと考えている。彼がそう考えることになった切っ掛けは、柱の上に彫られている演奏者の像だった。
スチュワート「オーケストラのように、いろいろな楽器の演奏者が演奏している姿を現している。」
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彼はロスリンのコードは音楽曲になっていると確信している。しかし、それを解き明かすトリックは、それぞれの箱がどの音階を示しているかが判らなければ駄目だ。
スチュワート「ロスリンの箱に彫られている文様はサイマティックスと呼ばれるものに似ている。」
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サイマティックスは“見える音”に関する学問だ。ジョン・リードはこの分野の研究者の一人だ。
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ジョン「音というのは全ての物質の内部から生まれてくる。宇宙にあるすべての物質は振動している。もし音を見えるように出来れば、今までと全く異なる方法で宇宙を理解することが出来る。」
音は目で見えないものだが、金属板を細かなホコリのような粒で覆っておくと振動数に応じて独特な模様が現れる。
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中世でもあったはずの特殊な技術を使えば、音の模様を作ることが出来る。ロスリンの箱はサイマティックスの文様が彫られた楽譜だというのだ。そしてインターネットのデーターベースを使い、スチュワートは箱に描かれたコードの音階を確定した。
スチュワート「ここにある第一のパターンはCナチュラルに似ている。隣のこの箱はA音階だ。これはB音階。」
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確認のため、振動学者のジョンの考えと比較した。
ジョン「ロスリンの文様と音階を確定する工程は、電子機械板を使って振動させながら文様を見つけることだ。振動数を徐々に変化しながらどんなパターンが現れるかを調べて音階とパターンの関係を決めていく。」
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こうしてロスリンの箱のパターンが現れる周波数を見つけてみると、ジョンの結果はスチュワートの結論と一致した。
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スチュワートのサイマティックス理論は上手くいったのだ。その結果、どんな曲が天井に描かれていたと言うのだろうか?それはこれだ!
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(どうあっても、その曲をお聴きになりたい方は最後に挙げるURLにアクセス下さい。)

しかし、ロスリン礼拝堂のニックはそれに賛同していない。
ニック「いくつかの箱は修理などで取れてしまい、後になって新しいものに付け替えられているんだ。」
ロスリンの雨漏り屋根はいつも問題を起こしていた。何世紀も続いた雨漏れで軟らかい砂岩で作られている箱は浸食や劣化を起こし、文様の詳細も判らなくなっているものが多い。19世紀、劣化が激しい箱は取り変えることになった。今でも、見れば、どの箱は新品と交換されたもので、どの箱が昔からのものかは判る。
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ニック「角や文様がクッキリしているのは入れ替えたものだ。しかしオリジナルの箱は丸みを帯びていて、文様部は薄れ、不明瞭だ。」
つまり現時点では15世紀の箱と19世紀の箱が混在しているのだ。
ニック「これまで文様が重要視されたことはなかった。だから新しいものに交換する時、オリジナルの文様のことなど気にせず作業が行われているんだ。」
従って、現在の文様から作られる曲がオリジナルの曲と同じかどうかは判らない。結局、曲の真偽は証明することはできなかった。

娯楽映画として、ダ・ヴィンチ・コードは驚異的な成功を遂げた。
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歴史としては、ほとんどの秘密は証明されることはなく、いくつかの秘密は価値のないものだった。
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キリストの妻についての福音書はダン・ブラウンのキリストとマリー・マグダレンの考えに新たな見解を持ち込むことになったが、その考えを保証するものではなかった。何故なら、その福音書自体が古代のダン・ブラウンが面白い話を造ろうと捏造した作品かも知れないのだから。
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The Da Vinci Code: The True Story (Discovery Channel)
https://www.youtube.com/watch?v=2oi5hdM6W8o
(完)

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mh徒然草94:不確実性の時代にどう生きるか。

30年ほど前、経済学者が書いた「不確実性の時代The Age of Uncertainty」が評判になり、mhも購入しましたが、どんな内容だったか、全く思い出しません。ネットで調べたら著者ジョン・K・ガルブレイスはカナダ生まれの経済学者でアメリカの大学を卒業してアメリカ市民権を得ています。1978年に日本でも売り出された本「不確実性の時代」の内容はというと「大恐慌、世界大戦、巨大企業の支配、貧困問題、核の脅威…「不確実性」はどこまで増大するのか?アダム・スミスから約二百年、経済思想は現実の政治・社会とどう関わり合いながら変遷してきたか。鋭い時代感覚とジャーナリスティックな視点で現代資本主義の本質を抉り出した「経済学の巨人」がわかりやすく解説する、「未来のための経済思想史」」となっています。

この内容だとしたら、mhが最後まで読み切ったはずはないと思いますので、恐らく、最初の数十ページを読んだところで本箱行きとなり、転勤で何度か住居移転している内に廃棄されたと考えて間違いないでしょう。

今日は5月7日ですが、ロンドンではムスリムの市長が当選したようです。対立候補は富豪で“ムスリムの候補者は過激派を支援している!”と根拠もなく非難して身内からも見放された人物のようです。ムスリムの新市長は、富豪候補者と対照的に誠実な人物だったから人々に選ばれたのだろうと想像しています。

一方、アメリカでは、トランプ氏に対抗する共和党の候補者が大統領予備選からの離脱を表明し、トランプ氏が党の候補者になって、民主党の候補者と本選で争うことになりそうです。民主党はヒラリー女史が有力ですが、ニュースなどを見ていると、トランプ氏が大統領になるのは反対だが、ヒラリー女史には投票したくない、という人が多いようで、mhの予言「トランプが共和党の候補になれば、70%の確率で大統領になる」はいよいよ真実味を帯びてきました。

トランプ氏が大統領になると「日本がアメリカ牛に38%の関税をかけるなら、アメリカは日本製の自動車にも38%の関税をかける」「アメリカ軍の日本駐在費用全てを日本が負担しないならアメリカ軍の駐留をやめる」などという彼の発言は、後日、事実と異なる点があったということで微修正されるでしょうが、流れはその方向に変っていくのではないでしょうか。関税をかけて自国の弱い産業を守るのはどの国もやっていることですが、自由競争に反しています。また、日本が中国などから攻撃されたらアメリカが守り、アメリカが攻撃されても日本はアメリカを守る義務はないという日米安保条約は不平等だとの指摘も、間違いだとは言い切れません。沖縄に駐留する米軍は日本防衛に大きく貢献しているのは事実ですが、日本防衛のためだけに駐留しているのではなく、アメリカの国益を守るためでもあるので、米軍の沖縄駐留費の全額を日本が負担しなければならない、というのは、べらぼうな偏見ですが、にも拘らず、この偏見は、アメリカ人の恐らく半数に共感を持って迎えられているのです、クリントンの意見なんかより、ずっとましだと。

日本でも国会議員選挙で、投票したい候補者がいなくて困惑する人は多いのではないでしょうか。議員として活躍してほしい人は少ないんだから、議員数は大幅に減らすべきだと思うんですが、大きな進展はありませんでした。更には政治不信で投票率は50%程度に低下しているにもかかわらず、他候補より得票率がよいというだけで選ばれた議員の集団が国の将来を決めています。自分の利益のために政治家になりたがる人が多く、なってほしい人が少ないのは世界の風潮ですが、そんな人達が国の施策を決めだすと、信じられないような不合理が行われることでしょう。

世界はインターネットや交通手段の発達で情報や富や人の移動が頻繁に大量に短時間に行われるようになり、経済や為替や株価や資源価格は乱高下し、混沌とした不確実な時代になってきました。貧富の差は拡大し、海外ではテロや難民問題、国内では窃盗や詐欺、更には汚職などが連日、ニュースに上ります。

このような不確実性の時代は、どう生きていくとよいのか?皆さんにもいろいろなお考えがあるのではないかと思います。次回のブログで、mhが到達した“不確実性の時代を生き抜く秘訣”をご紹介したいと思います。ご期待下さい。

Have You Never Been Mellow [Lyrics] Olivia Newton-John
https://www.youtube.com/watch?v=0bUThm4XrvE&nohtml5=False
(完)

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リビアの不思議

カダフィー大佐。
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第二次世界大戦後、戦勝国に支持されてリビア国王に収まったイスラム教団のリーダーを、1969年、クーデターで追放し、リビア・アラブ共和国を打ち建てて、若干27歳で事実上の元首になりました。その後、42年間、長期独裁政権を維持していましたが、2011年、内戦で殺害されました。

内戦のきっかけは、殺害される1年前の2010年、隣国チュニジアで起きた出来事です。
Wiki:ジャスミン革命
「一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモがチュニジア全土に拡大し、軍部の離反によりアリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された。」
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「この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなど他のアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。この一連の動きはアラブの春と呼ばれた。」

アラブの春にはYoutubeやFacebookなどのソーシャル・メディアが大きな役割を果たしました。ジャスミン革命が中国に波及することを恐れた中国共産党は、ネットの規制や監視を強化。最近、日本でもマスコミやジャーナリズムへの圧力が高まっていますが、情報規制や言論調整は独裁者の常套手段ですから、いやな兆候です。

カダフィー大佐の殺害後に行われた選挙で世俗派が大勝し、リビアの国政を担当しますが、これに不満のイスラム勢力が暴動を起こし、Wikiによれば「2015年現在、リビア国内はトリポリ(mh:チュニジアに近い港町)を拠点とするイスラム勢力系の新国民議会と、トブルク(mh:エジプトに近い港町)を拠点とする世俗派のリビア国民代議院による二つの政府・議会が存在し、それぞれから元首、首相を選出している。国際社会からはトブルク政府が正当性を認められているのに対し、トリポリ政府はトルコやカタールの支援を受けていると指摘されている」ようです。

リビアの国土面積は176万平方Kmで日本(38万平方Km)の4.6倍、人口は633万人(2016年)で 日本の20分の1です。
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時計回りにエジプト、スーダン、チャド、ニジェール、アルジェリア、チュニジアと国境を接し、北は地中海に面していますが“砂漠の国”と言って差し支えないでしょう。

水問題は深刻です。国土の5%に年間100mmの降水量があるようですが、Google Earthでスキャンしても、川らしい川は1つしか見つかりませんでした。地中海から16Km砂漠に入った所に造られたダムで蓄えられ、太い水道管でトリポリなどに運ばれているのではないかと思います。
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雨季だけ流れる川“ワジwadi”は点在していますが、国民の多くは化石水fossil waterに頼っているようです。およそ4万年前に地中に閉じ込められた地下水で、砂漠でオアシスを造り出しています。
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化石水は、飲料水だけでなく、灌漑にも使われます。Google Earthで調べると、化石水を使って砂漠で野菜栽培をしている所は沢山見つかります。
次の衛星写真では、左側に砂漠の中のリビアの村が、その周辺に人工の円形農場が見えています。
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円形農場は“センターピボット”で、上の写真の大きいものは直径800mです。

Wiki:センターピボット (Center pivot irrigation中心支点回転型灌漑)
「アメリカ合衆国のグレートプレーンズや、サウジアラビア・エジプトなど乾燥地域において行われている灌漑農法。乾燥地域でも大規模に作物を栽培できるよう、地下水をくみ上げ、肥料を混入した後、自走式の散水管に圧送し、平均は半径400m、大きいものは半径1kmにもおよぶ円形農場に水をまく。散水器の周回数は気候や土壌、作物により異なるが、おおよそ一日1~12回程度で、移動速度の速い周辺部の散水量を多くして、散水の不均一を防いでいる。」
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しかし・・・
化石水は補充されることがありませんから、いつか尽きてしまいます。化石水が尽きて住民が去ったのではないかと思われる村の跡がGoogle Earthでも沢山見受けられます。飲み水に不自由するリビアでの生活は厳しく、その上、二つの政府がある異常な国家体制ですから、今も多くの人々が砂漠の国リビアを見限り、危険を承知で地中海を渡って欧州に逃げようとしています。無事に海を渡っても、そこに待ち受けているのは厳しい現実ですが、リビアに留まるよりもましだと考えているのです。

こんな砂漠の国リビアですから、現在の概念で言うところの国家や文明などは生まれませんでした、つい最近、砂漠に眠る石油で潤うようになるまでは。

実は、1万年程も前から、リビアの砂漠で暮らす人々もいるにはいたのです。ギリシャ人から“訳の分からない言葉を喋る人”という意味の“ベルベル人”と呼ばれることになる人々の祖先です。彼等は砂漠に点在するオアシスを基点に、リビアからモロッコの一帯で暮らしていました。
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紀元前3千年、東にはエジプト帝国が生まれ、紀元前8百年には西に都市国家カルタゴ(現チェニス)が出現しています。しかし、リビアは、単なる通過点で、定住する場所ではありませんでした。例えば現在の首都トリポリは、中東のレバノンを基点に地中海を船で移動して貿易していたフェニキア人が、紀元前7世紀に入植して建設が始まった海運中継都市です。それ以前には大きな町はなかったでしょう。小さな町は、後述するように、内陸に出来ていたようではありますが。

歴史的に見て、リビアを領土として最初に統治したのは、共和制ローマのようです。ローマの植民都市レプティス・マグナLeptis Magnaがトリポリの東130Kmの海辺に造られ、西暦200年頃に最盛期を迎えました。しかし、ローマ帝国が衰退すると、イスラム帝国(サラセン帝国)に組み込まれ、以降、オスマン帝国属領時代、イタリア植民地時代(1911 - 1934)、連合軍による占領下のリビア(1943 - 1951)、を経て、やっと原住民の統治者によるリビア王国が出来たと思ったら、カダフィー大佐による革命で王国は潰れ、カダフィーが殺害されると、二つの政府が並立する状況になったというわけです。
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このような歴史をもつリビアを、これまでブログで何度か登場したオーストラリア人写真家David Adamsが訪れるYoutube 「The Ancient Chariots of Libyaリビアの古代騎馬戦車」という50分のフィルムを見つけたので、ご紹介しようと思い、関連情報を集めているうち、フィルムの全編鑑賞が不可能になってしまいました!

そこで、今回は、2度ほどフィルムを見たmhの拙(つたな)い記憶と、DavidAdamsFilmの宣伝フィルムTrailer、ネット情報を駆使して、リビアの様子や“チャリオットChariot騎馬戦車”に関する情報をご紹介させて頂きます。
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実は、Davidが出演するフィルムはチャリオットをテーマに編集することで物語性を創造しようとしているのです。
次の映像では砂漠の映像が、別の砂漠を走るチャリオットの映像にかぶっています。
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チャリオットといえばローマ帝国の代表的な馬車ですが、そんなものが地中海沿岸から1千Kmも入った砂漠の中を走っていたなんてことがあるのでしょうか???

次の西暦117年のローマ帝国の版図によれば、帝国は地中海を取り囲んではいますが、アフリカの、特にリビア辺りでは、勢力範囲は海岸線から精々100Kmしかありません。その向うは砂漠で、領土化する価値など無かったのです。
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上の版図のリビア部を拡大すると・・・
リビア沿岸のトリポリタニアTripolitaniaに、Lepcis Magna、現在はレプティス・マグナLeptis Magnaと呼ばれる都市がありました。
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レプティス・マグナから50Kmほど内陸はローマ帝国の力が及んでいない場所(灰色の部分)ですが・・・そこに“ガラマンテ(ス)Garamantes”とあります。
ガラマンテというのはリビア南部のサハラを中心に暮らしていた民族の名称で、Wikiによれば紀元前5世紀から紀元後8世紀にかけて栄え“ベルベル王国Berber Kingdomというか都市国家なるもの”を形成し、地下トンネルなどを使った灌漑を足掛かりに独特な文明を築いていたとあります。

Youtubeではレプティス・マグナ、トリポリ、ガダメス、ガブロン、ガラマ(ガラマンテスの中心地でした)、アカクス山地を4WDで辿ります。
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旅はローマ帝国の軍勢がやってきたはずの海から始まります。海岸に近い場所に造られた都市レプティス・マグナはアフリカ大陸に残る最大のローマ遺跡で世界遺産です。
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ローマに次いで大きなコロシアム。
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その傍にはチャリオット競争が行われていたコース跡が残っています。
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で~フィルム公開は2009年7月ですから、ガダフィー大佐は健在です。
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リビア人が今も競馬が好きなのは、祖先がチャリオット競技を好いていたことに関係がある、と暗示するショットです。

次の訪問地トリポリの港。近くに旧市街Old Cityが残っています。港の造りはなんとなくカルタゴCarthageに似ています。
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Old Cityの、ローマ皇帝の名が付いたマルクス・アウレリウス門(西暦163年)
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トリポリから次の訪問地ガダメスまでの凡そ5百Kmはアスファルト舗装道路が続いていました。Googleで調べた限り、リビアの道路網は粗く、大きな町や村は舗装道路で結ばれていますが、小さな村は砂漠に孤立しています。そんな村の住民は4WDを持っているはずはありませんから、駱駝で1日かけて町に出かけては、物々交換する生活を送っているのではないかと想像します。

ガダメスは人口7千人の“大都市”で、そこに残る旧市街は世界遺産です。
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1970年代、政府は旧市街の外側に住宅地を作ったのですが、夏の間、住民たちは避暑に優れている旧市街に戻って暮らしているとのこと。

旧市街の、白い漆喰で造られた住居の屋根はお互いに往来可能に繋がっていて女たちの世界になっているようで、男子禁制が伝統だとフィルムで解説していましたが、理由については説明がありませんでした。
何故そんな伝統が生まれたのでしょう???
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mhが想像するには、男尊女卑からだと思います。ここは砂漠の国で、とても暑いんですね。男は、屋根の下の通路や住空間で涼しく快適に過ごします。女は、男の目にふれぬ、直射日光が当たる屋上に追いやられたのではないかと。
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ガダメスから次の訪問地ガラマを直接つなぐ舗装道路はないようで、フィルム取材班は砂漠の中の道なき道を走ります。
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ガラマの町に残るガラマンテスの遺跡
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近くには鰐(ワニ)の岩絵が!古代、この辺りに湖か川があった証拠でしょう。
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今はリビアでは見られないキリンの岩絵もあります。
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少し離れた別の村には、入り口に大砲が残る砦があります。イタリア植民地時代(1911 - 1934)の税関砦とのこと!
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こんな奥地の砂漠に、何を搾取しようとしてイタリアから出向いてきたのか。人間の欲は測ることが出来ません。

取材班の最終目的地アカクスAkakus山地。30年以上も雨は降っていない一帯です。
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ここに残る岩絵Cave Paintingsは世界遺産登録されました。観光客の落書きが増えていて、岩絵の保護を加速するのが選定理由の一つです。

多くの岩絵は、岩山の裾の、日光や雨や砂嵐を避けた岩肌に描かれています。
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駱駝やキリン。
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チャリオットも!これこそDavid Adamsと取材班が狙っていた絵です。勿論、リビアに来る前から、この絵があることを承知していたでしょう。
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ネットで調べるとチャリオットの絵はいくつか見つかります。
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いずれのチャリオットも、車輪が2つ描かれていますが、一つの車輪だけで走行しているような妙な構図です!一体どうなってるのか?
絵が間違いか、稚拙なのか?と思ったのですが・・・判りました!実は4輪のチャリオットで、荷物が無い時はチャリオットを立てて馬や牛に繋いで2輪として使っていたのではなかろうかと。4輪よりも2輪の方が走行性能はよさそうですからね。我ながら、好い思い付きです!必然性には若干の疑問は残りますが。

ところで、このチャリオット・・・一体、何処から伝わって来たのでしょう?

ローマ帝国が地中海沿岸を統治していた今から凡そ2千年前、そこを訪れたガラマンテの旅人が、これは便利だ、と物々交換して砂漠の故郷に持ち帰った可能性があります。しかし証拠はありません。アカクスの岩絵にはギリシャ文字も残されていますから、ギリシャ人かローマ人がチャリオットでガラマンテの町までやって来て技術を伝えた可能性も否定できません。

しかしです!!!Wiki:Garamantesによれば、古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前5世紀)が「このあたりで4頭建ての馬のチャリオットがあり、エチオピア方面での奴隷狩りにも使われていた」と書き残しているとのこと!ということは、アカクス山地に暮らすガラマンテスは、ローマ帝国がアフリカに来るより数百年も前からチャリオットを使っていたということです!

となるとチャリオットの原型はどこから来たのか???

そこで、改めて冷静に考えてみれば「なんだ、そうか、エジプト帝国からきたんだな」と気付きます。

紀元前13世紀、エジプトのラムセス二世もチャリオットに乗って戦をしていました!
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エジプト文明は世界四大文明と呼ばれるにふさわしいと、改めて思い知りました。

(完)

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mh徒然草93:誰もが出来ないことをやるリーダー?

東京都の舛添知事が外遊して1泊20万円のホテルに泊まったり、連日、湯河原の別荘に公用車で移動したりすることについてマスコミで指摘を受けると「何も問題ない」と見えを切る場面をTVニュースで見た方は多いでしょう。恐らく、多くの人が、舛添氏は首都のリーダとしての資質に欠けていると思ったのではないでしょうか。

丁度、同じころ、私がいつも辛口で批判している岸田外相が訪中しました。大した進展がないにもかかわらず、笑みを浮かべて「重要な第一歩を踏み出した」と自画自賛しているTVニュースを見て、はて、日中関係は、最近、どうなっていたんだっけ、と改めて考えてみると、南シナ海での中国の横暴や、中国経済の失速など、好い話がない中、TV番組「今世界は」に出演していた元中国大使の丹羽氏が、日中関係の悪化の切っ掛けは尖閣諸島の国有化だったと指摘していて、石原前都知事が「あそこは東京都が買い取ります」と見えを切った様子も映し出されました。その発言を切っ掛けに、中国に進出していた企業やスーパーが暴徒に襲撃され、大損害を受けましたが、石原氏がこれに弁明したというニュースを見たことはありませんし、コメントしたとしても、悪いのは中国だ、けしからん、ということ以上のものがあるとは思えません。

日本のリーダー安倍首相は、年金積立金を株に投資し、日銀と結託してマネーゲームを仕掛けましたが、今日5月2日、円高が急速にすすんで、株価も大暴落が続いています。

これら一連の出来事から、凡そ、リーダーが、誰も出来ないことをやる時、それは理にかなわぬことばかりだとの真理を悟りました。考えてみれば、理にかなったことは多くの人が賛同することですから、目立ちませんし、誰もがしないことじゃあないんですね。で~誰も出来ないことをやるリーダーは、他の人が出来なかった、誰もがやりたがっていた事を、リーダが優秀だから実施できた、って例はほとんどありません。例えば、誰もが期待しているはずの核のない世界を実現するリーダーはいません。むしろ、核や武力は必要だというリーダーばかりと言えます。そんなリーダーが、自分にしか出来ないことをやりだすと、そのリーダーを頂く人々は、悲惨な結果を辿ることになるのは、自然の摂理ではないかと思います。

リーダーは多くの人々の考えや希望を理解し、それを成し遂げる方法を考えて、実践するのが責任だと思いますが、そんなことはせず、自分にしかできないことをやりだす、というのは乱心としか言いようがありません。リーダーになると、そのうち、乱心する人が多いのは、日本に限らずどの国でも同じようですから、乱心する前にリーダーを入れ替えるシステムとか、リーダーの権限を制約するシステムを作っておくことが重要だと思います。

本当に優れたリーダーとは、自分にしかできないことをする人ではなく、誰もがしてほしいことをする人だと思います。

Roy Orbison-Oh Pretty Woman (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=mHPgco6GQk8

(完)

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タージ・マハールの不思議

ムムターズ・マハールMumtaz Mahal/Taj Mahal
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宮廷の大富豪アーサフ・ハーンの娘で、本名アルジュマンド・バーヌー・ベーグムArjumand Banu Begum(1593-1631)。19歳でシャハブッディン・ムハンマド・シャー・ジャハーンShahabuddin Muhammad Shah Jahan(1592-1666)と結婚。1631年、37歳で死亡。シャー・ジャハーンの父、ムガル帝国第4代皇帝ジャハーンギール、から称号ムムターズ・マハールMumtaz Mahal(ペルシャ語:宮殿の光)を授けられたが、インド風のTaj Mahal(王冠宮殿)に変化したと考えられている。夫シャー・ジャハーン(世界の皇帝の意)は父の死後、権力闘争を経てムガル帝国第5代皇帝になった。

つまりタージ・マハールは女性に与えられた称号で、墓廟の名ではありませんでした。しかし、墓廟の美しさを例えるのに、美しい女性の名で呼ぶのがふさわしかろうとのことで、墓廟自体もタージとかタージ・マハールと呼ばれるようになりました。

でサイトのレイアウトですが、幅3百m、長さは1km以上の長方形の敷地に庭園と建物が配置されています。
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ガンジスの支流の一つヤムナー川を挟んで南北に分かれていますが、普通、建物がある南側だけ観光します。このmhも訪れさせて頂きました。
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次の写真は川向うの庭園から墓廟を見たものです。イスラム教では「対称の美」が尊ばれていて、川を挟んだこの地にも墓廟が建てられるはずでした、白ではなく黒の大理石で!夫シャー・ジャハーンの墓廟が!
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しかし・・・タージ・マハールが完成したのはムムターズ・マハールの死から23年後の1654年頃で、この間、Wikiによると、シャー・ジャハーンは、自分の墓の着工などはすっかり忘れて何十人もの側室たちとの好色生活を20年も続け、ふと気づけば父を見限った息子たちが始めた権力闘争に巻き込まれて幽閉され、一人寂しくこの世を去ってしまうのです。彼は、元妻ムムターズ・マハールの眠る墓廟で永遠の眠りにつくことになりました。

タージ・マハールの墓廟の中央には、大理石の透かし彫りに貴石が散りばめられた仕切りで囲まれた八角形のスペースがあり、その中心、つまり墓廟の中心にムムターズ・マハールの棺が置かれていました。そこでシャー・ジャハーンの棺は、その横に据えられることになったのです。
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彼の棺の位置は、イスラムが重視する「対象の美」を逸脱していますが、父の不甲斐なさに業を煮やした息子の怒りの現れだとの見方があるとWikiにありました。

しかし・・・いずれの棺も偽物で、中は空です!本物は、この床の下、つまり墓廟の基壇の中に造られた空間に収められているのです。
次の写真がその空間で、小さい方がムムターズ・マハールのものです。
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イスラムの伝統によれば、墓は地味でなければいけないので、遺体は人目に触れぬ地下の空間に埋葬されたとのこと。

墓廟の南の大楼門
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大楼門から見た墓廟がもっとも美しいと考えられています。
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墓廟の東の集会場。西の対称位置には全く同じ造りのモスクがあります。
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それではYoutubeに従って「タージ・マハールの不思議」をご紹介しましょう。
・・・・・・
タージ・マハール。インドの象徴、宝石の建物、壮大な情熱の記念碑。
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タージ・マハールは“世界の王、”全能のムガル帝国統治者、シャー・ジャハーンによって17世紀に建てられた。
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この偉大な戦士王Warrior Kingは、これまで世界が見たことがない最高建築を造り上げた。この物語はそれがどのように造られることになったのかを紹介するものだ。
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それは同時に彼の美しい王妃ムムターズ・マハールの伝説でもあり、彼等の愛が完璧に生き続けるためのものでもある。
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世界で最も美しい女性が最後に眠りに就く所として選ばれた世界で最も美しい場所。それがタージ・マハールだ。
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しかし・・・タージ・マハールの華麗な部屋は、インドの歴史の転換期にシャー・ジャハーンが彼の生涯と莫大な資金を費やして建てた建物の中で今も密かに隠れている。
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「Secrets of the Taj Mahalタージ・マハールの不思議」
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今日、タージ・マハールは世界で最高の観光名所の一つだ。毎年3百万以上の人々が最も美しい人間愛を自分の目で確認しようと訪れる。
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しかし、インドにとって、タージ・マハールは傑作建造物以上のものだ。
インド人解説者「この建物はインド国民の誇りとも言うべき記念碑だ。国家の象徴とも言える。」
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タージ・マハールはインドの歴史の中でも最も繁栄したムガル帝国時代に莫大な費用を投入して造られた。造ったのは、生涯を夢に捧げた偉大なムガルの王シャー・ジャハーンだ。
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建物は壮麗さと、壮大さと、力と美を完璧に結合した彼の計画から生まれた。タージ・マハール、「王宮の冠」だ。
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タージ・マハール内部の神聖な場所は墓廟だ。ムムターズ・マハールからシャー・ジャハーンの愛は生まれた。彼女の記憶を残すため、ムガル帝国は永遠の愛の詩を石で造り上げたのだ。
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建設は1632年に始まった。象の部隊が建築資材をムガル帝国の首都に運搬し始めた。
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そして当時の最大の建築プロジェクトになっていった。数年のうちに、タージ・マハールの骨格が完成すると、莫大な費用をかけてこれを大理石で飾り立てる段階になった。
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建設サイトとなったヤムナー川の河岸は特別な問題があった。
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「川に近いので、土壌の固さが不十分だった。岩盤に到達するまで掘り下げなければならない。しかし、この問題を解決する素晴らしい方法を見つけ出した。今なら人々も、少し変形して行っている方法だ。彼等は“井戸の基礎”を造ることにしたのだ。当時では期的なアイデアだった。ムガル帝国の建築家たちは水の多い層を下げるため、深い井戸を掘り、その井戸を岩やモルタルで埋め、その上に石の柱を建てた。
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柱を強固な石の橋で連結すると、出来上がったのは建物を支持する耐力をもつ堅固な石の丘だ。
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タージをヤムナー川の流れから永遠に守るものだ。タージ・マハールは永遠の愛の力の証として立ち続けなければならない。シャー・ジャハーンの伝説にもなるであろう。
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シャー・ジャハーンは偉大なムガル帝国皇帝のお気に入りの息子で、贅沢で豪華な世界の中で育てられた。1607年の15歳の誕生月には、体重と同じ金や宝石を与えられるという、特別な名誉に授かった。
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しかし、それは偉大なムガル帝国の皇帝として彼が選ばれたということではなかった。彼が皇帝になるだろうとの望みは大きかったが、それに相当する大きな危険もあった。彼の兄弟たちは紛れもないライバルだった。最初に生まれた息子が必ず王になるわけではなかったのだ。諸侯たちの息子も死を賭しても帝位を狙っていた。彼の誕生日を祝福する群衆の歓声はなんの意味もない。

王室の歴史書chronicleはシャー・ジャハーンの勝利と災いを記録している。
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「王子は子供の花嫁を与えられた。」それは政略結婚だった。空契約で終わる可能性があるものだった。しかし、この愛は永遠に続くことになった。
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10年後、彼は25歳になった。彼の星は最高に輝いていた。皇帝の代理として強敵と戦い、連戦連勝をあげていた。そこで皇帝はかれに「世界の王」を意味するャー・ジャハーンという称号を与えた。
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ムガル帝国の首都はインド北部の偉大な都市アグラAgraだった。
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帝国の中心、インドの権力の中枢の一つ、巨大な“赤い砦Red Fort”がある所だ。
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統治者のムガル人やその家族は砦の中にいくつも造られていた壮麗な王宮で暮らしていた。
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そこにはハーレムがあり、シャー・ジャハーンが望むどんな気まぐれも与えてくれる女たちがいた。
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しかし、彼が最も好んだのは、少年時代からの妻ムムターズ・マハールだった。シャー・ジャハーンは彼女を「王宮の中の選ばれた者」と呼んでいた。
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歴史書を見ても、このカップルが特別に親密だったことが判る。
ニューデリーの大学教授「当時のことを考えれば、それは個人的な愛情のなせる業だったのだろう。」
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「ロマンスも少しはあったかも知れない。よく言われることだが、愛という概念は欧米的だ。東洋には、人間的とは言えない愛の感覚がある。神格への愛、偶像への愛、父への愛、所属組織への愛、宗教への愛だ。これらは精神的な愛とは言えるがロマンティックな愛ではない。」

しかし、ムムターズ・マハールに関するシャー・ジャハーンの記憶は、世界でも突出したロマンティックな愛の象徴とも言えるものだ。連日、数えきれないほどの訪問者がタージ・マハールを訪れては感動している。理由の一つにはムガル帝国の建築家が用いたいくつかの素晴らしい視覚的なトリックがある。
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訪れてまず目にするのは大楼門が切り取る枠に収まる墓廟だ。
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門に近づく程タージ・マハールは小さく、遠ざかる程大きく見える。
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その時に観光ガイドは必ずこう言う「ここを離れる時、あなたはタージをあなたの国まで連れていく。」
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視覚トリックはミナレット(塔)についても同じだ。外側に少し傾いているのだ。
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もし垂直に立てられていたら、内側に倒れているように見えるだろう。
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左右のミナレットが互いに遠ざかる方向に倒れているので、完璧に垂直に立っているように見えるのだ。それはもうひとつのアドバンテージにもなっている。地震があるとミナレットは外側に倒れるはずだからタージとその偉大なドームは被害を受けなくて済む。
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墓廟の上に載っているドームはタージ・マハールの輝ける王冠だ。建物全体をいつの時代でも新鮮に、優雅に見せてくれる要素と言える。
「ドームの造り方は、現代なら、別の方法もあるだろう。巨大な金属支持構造の建物を造ることもできるし、他の材料を使うことも出来る。しかし、当時、彼等は石を使ってドームを造るという課題を解決しなければならなかった。そこで、石を積み上げて石のリングを造り、このリングを積み上げていった。」
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ドームは一層ずつ積み上げられていった。石の間に詰められたモルタルが石を安定させた。その結果、内部に梁や柱などを使わず、自分自身で構造を維持できている。ドームの重みは建物の下の石の構造物に垂直に伝わるようになっている。ドームの高さは40m以上で4mの厚みがある。
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あたかも大理石の箱の建物facadeの上に浮いているようだ。この応力計算の不思議は現代の建築技術者にも称賛されている。350年以上もの間、このドームはムガル帝国の建築の究極的表現になっている。

1621年、ムガル帝国は転換期を迎えていた。シャー・ジャハーンの父である皇帝が重大な病に罹った。息子たちは権力の空白を埋める準備を整え、帝位を継承しようと暗躍を始めていた。シャー・ジャハーンは、その時が来たことを知っていた。最終で絶対の権力を得るためなら、彼はどんな行為もためらわなかった。毒殺さえも。
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偉大なムガル皇帝が死ぬと、シャー・ジャハーンは彼のライバルたちを排除し始めた。報奨が大きい時、兄弟愛は何の意味も持っていない。
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「家族や愛情といった概念はあった。しかし、これらの感情には蓋がされ、権力を獲得し、国を思うように統治したいという特別な願望が優先された結果、暴力すらも合理的な意味を持っていたのだ。」

ライバルが全て退(しりぞ)くと、シャー・ジャハーンは王位を獲得した。
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1628年、アグラの「Red Fort赤い城」で帝位に就くと、彼は直ぐに、賢く、温厚な統治者の資質を表し、帝国を更なる繁栄に導いていった。
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ムムターズ・マハールは陰に控えていたが、シャーにとって最も重要な助言者の一人だった。
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彼の帝国は最盛期と同じ栄光の時代を迎える勢いだった。ムガルは戦士の神とも言えるジンギスカンの流れを汲んでいる。
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遠い祖先はアジアの草原(ステップ)における強力な戦士、モンゴル人だ。シャー・ジャハーンが権力につくほんの1百年前、ムガルは北からこの地インド平原に侵入してきた。彼等の運んできた大砲はインドの都市を次々と破壊し征服していった。
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シャー・ジャハーンの時代までに、ムガルはインドの大半を手中に収めていた。偉大な土地は、およそ2千年間の歴史の中で初めて統一されたのだ。
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ムガル人の統治者は彼等の信仰を持ち込んできた、イスラムだ。イスラムは、直ぐにヒンドゥに次ぐインド第二の宗教になった。
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侵略者達は人々にイスラムを強制しなかった。彼等はインド固有の文化とのバランスを求めていた。ムガルのリーダーは宗教的に寛大であることを宣言していた。1億人以上のインド人民は商業、工業、技術、芸術の分野で繁栄を果たした。芸術歴史家たちは彼等の統治者ムガル皇帝を現人神のように描き残した。
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偉大なムガル帝国の力は尽きるところがないかのようだった。シャー・ジャハーンはあらゆることを意のままに決め、彼の言葉は帝国中に響き渡った。
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国中に繁栄と安定がもたらされた。国の歴史書は「シャー・ジャハーンは人々に溢れるばかりの喜びと幸福を与えた」と書き残している。そしてシャー・ジャハーンと彼のムガル帝国は輝かしい絶頂に到達することになった。
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しかし、現在、彼の最も偉大な遺産タージ・マハール、インドの象徴、は危機にある。テロリストや原理宗教主義者たちによる爆破の危険が高まったのだ。2006年以来、最高警戒地区に指定され、24時間、警備されている。
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廟に近づくことは厳格に管理され、建物内部の見事な装飾を撮影することは禁止されている。どのくらいの期間、この警戒態勢が続くのかは誰も知らない。

芸術歴史家のエバー・コーはこの警戒態勢が始まる前にタージを調査する権利を与えられた。
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彼女は建物と歴史に関する国際的な専門家だった。タージの宗教的な表現について次の様に解明している。
「タージ・マハールはイスラムの信仰における現世と来世の建築的な実施形態だ。」
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「全体的な配置はその二重性を示している。つまり墓廟とその庭が創る精神的な面、それに対するバザールや市場という世俗的な面だ。」
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「興味深いのは世俗的な部分が精神的な部分である墓廟側と鏡対称に配置されていることだ。これらを繋ぐ主要門(大楼門)がある広場は墓廟の庭に繋がり、その向うに墓廟が立っている。」

墓廟の中心には最も神聖な場所Holy of Holiesがある。
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タージ・マハールの至高の空間で、シャー・ジャハーンの奥方が永遠に眠る場所だ。“王宮の中の選ばれた人”だったムムターズ・マハールは“赤い砦”の、女性ばかりが住むハーレムで贅沢な生活をしていた。詩人たちは彼女の優雅さと魅力を「月さえも彼女の美しさに出会うとはずかしくて隠れてしまう。」と讃えた。

帝国のファースト・レディーは例えようもない程、見事に着飾っていた。
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「彼女はあらゆる資質を持っていた。ハーレムでも第一の女王で、王の最高の寵愛を受けていた。そう断言できるのは、ハーレムの女たちへの支払いに関する興味深い記録が残されているからだ。格差がつけられているのだ、極端に高い支払から極端に少ない支払まで。最高の支払を受けるものは、様々な行事において、いつも極めて高価な贈り物を与えられていた。」
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ムガル帝国の財力は伝説的だった。男も女も宝石を身に付けていた。
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男たちにとって、宝石は高貴の印だった。彼等はハーレムでお気に入りの女にそれを与えていた。無限とも言える量の宝石がインドを“世界の宝”にしていた。ムガル帝国の時代にインドの宝石芸術は最盛期に到達していた。
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貴石は、像、家具、武器、衣服を飾っていた。今日でさえ、ムガルの職人の製品には最高値が付けられている。インドの繊維についても同じだ。綿はこの地で4千年以上も織られていて、今もインドの重要な工業だ。
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ムガル帝国のもとで、インドは世界でトップの高級織物輸出国になっていた。偉大なムガル皇帝と彼の一族の支配者たちは、その交易で現金を手に入れた。
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シャー・ジャハーンは彼の王国に対する特別の責任を持っていた。後継者を作ることだ。ハーレムに棲む多くの女たちが彼の子を産んだ。
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しかし歴史書に記されているように、子を産んだ女には、妻という名が与えられるだけで、その他の特権は何もなかった。シャー・ジャハーンのハーレムは一時期、愛の巣だっただろう。
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しかし、直ぐに保育園のような場所になっていたのだ。

「ハーレムはつねに全く非公式な場所だったわけではない。軍の組織のようで、一種の階層社会でもあった。規則と仕来りの場所でもあった。」

帝国が平和な時期には、多くの快楽の時間があった。ムガル人の娯楽だった酒と阿片は伝説になっている。シャー・ジャハーンとムムターズ・マハールはいつも二人で過ごしていた。
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歴史書は王宮における彼等の生活をこう述べている「二人の相思相愛の様子は、いかなる階級、いかなる統治者、いかなる夫婦にも見られたことがない親密なものだった。“王宮の中の選ばれた者”に対する王の親密さ、深い愛情、思いやりは、他のものに対するそれらの数千倍だった。」
シャー・ジャハーンにとって、ムムターズ・マハールと一緒にいることは最高の幸福だった。
「もし皇帝のガウンや、彼の部屋や、軟膏や油が置かれた飾り棚を見たなら、多分あなたは、感情を高め、最高の愛人同志に仕立て上げる工夫がなされていたことに気付くだろう。」
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二人の愛情と思いやりは心からのものだった。
歴史書は言う「そして、いつもその女性は帝国を見事に統治する皇帝の親密な友で、愛人で、同伴者だった。」
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「厳しい時も順調な時も、楽しい時も悲しい時も、旅先でも王宮でも。」
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“世界の王”の微笑みは長く続くことは無かった。帝国に不穏な動きが在った。1929年、暴動が起きたとの知らせがアグラの王宮に届いた。遠く離れた州が帝国に再び謀反を起こしたのだ。それは戦いの始まりを意味した。シャー・ジャハーンは軍と共に出陣した。
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敵を慈悲なく壊滅しなければならない。来る日も来る日も、彼とムガル帝国軍はインド平原を進軍し続けた。
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デカン地方の謀反人たちを叩き潰すため、何度も出軍を繰り返した。戦は終わりがないかのようだった。ムガル帝国は、未だに、大砲を中心とした戦をしていた。トルコから輸入した最新鋭兵器だ。シャー・ジャハーンの軍隊は山を越え、荒れた平地を横切って進軍を続け、敵の城壁を打ち破り、謀反人たちを葬り去りながら戦いを続けた。およそ2年に渡るこの戦にも、ムムターズ・マハールは同行した。何物もムムターズ・マハールと夫との繋がりを割くことはなかった。
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しかし、連戦連勝の喜びは悲劇で中断されることになった。戦いの最中にムムターズ・マハールが子供を産んだ。その時、体調に問題が起きてしまう。
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妻が衰弱していく時、偉大なムガル王が出来たのは祈ることだけだった。
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歴史書は悲しい出来事をこう記録している「1631年7月17日、偉大な王の妃は最後の時を迎え、世界は嘆きの場所となった。」
ムムターズ・マハールは14番目の子を産み落として死んだ。
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シャー・ジャハーンの世界は終わりを迎えたかのようだった。皇帝は8日間、部屋に閉じこもって出てこなかったと言われている。2年間、音楽を聞くことは無かった。宝石も香水も身に付けなかった。
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「彼の髪と髭は白く変わってしまい、老人のように見えた。彼女の死が強い悲しみだった証拠だ。」
伝説によれば、死ぬ前、ムムターズ・マハールは遺言したという「世界が見たこともない崇高な墓廟を造ってほしい」と。
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それはシャー・ジャハーンの余生における最大の仕事になるはずのものだった。彼女の記憶を残すために世界で最も美しい建物を建てるのだ。
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タージ・マハールはインドの記念碑として立ち続けている。シャー・ジャハーンの先人たちも華麗な墓廟を造ってきた。
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シャー・ジャハーンが建てる記念碑は祖先達の仕事の優れた点を集めて造られることになった。
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彼の父のミナレットを備えた墓廟がモデルとなった。彼の祖祖父の墓廟も中央の主建屋を囲む4隅に櫓を持っていた。
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4つの見事な入口portalは祖父の墓から感化されたものだ。そして偉大なドームは有名な祖先の記念碑から採用した。
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異なったモデルが完璧に調和している。大きさ、美しさ、華麗さのどれをとっても、タージ・マハールに迫る墓廟はない。記念碑はこの世の楽園以外の何物でもなかった。象徴となっている墓廟のドームは大理石を丸く削って造られた王妃の記念碑だ。詩人は「時間という頬におちた涙」と詠った。
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1632年。ムムターズ・マハールの死から6ヶ月後にタージ・マハール建設は始まった。当時、世界で最大の建築プロジェクトだっただろう。2万人がかりだされたと言われている。
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歴史書がその状況を記録している。「そして帝国のあらゆる地方から優れた石工の集団が集められ、集団生活を始めた。建物を覆う数百万個の煉瓦は建築現場近くで焼成され、タージは記録的な速度で立ち上がっていった。」
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建築には多くの費用が必要だった。巨大な建築物の建設が続いている間、帝国の宝物は流れ出るように使われ続けた。しかし、偉大なムガル皇帝にとってそんなことは何の問題でもなかった。必要なら他のどんな事業もさしおいて、タージの建築が優先された。タージの建設を止めることが出来るものは何もなかった、たとえ人民が皇帝の熱意のために、どんな苦労を被ろうとも。
インド人解説者「シャー・ジャハーンは人工的な飢饉を創り出した。彼は人民が必要としていた穀物をもアグラに供出するよう指示していた。職工や労働者など、とにかく多くの人々が建築に関与していたので莫大な食料が必要だったのだ。」今日、国民が受けていた苦労を覚えているものは誰もいない。残っているのは崇高な記念碑だけだ。

「色の配置は、とても象徴的だ。世俗的な部分と、その他の建物は赤い砂岩で色付けされている。」
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「白い色は墓廟のために残された。それは強調されるべき建物だった。」
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「ムムターズ・マハールが永遠に暮らす天国的場所だ。純白はここに埋められた人の気高さと信仰を表現している。」

タージ・マハールの白い大理石はラージャスターン州の、今も使われているマックラーナ石切り場から切り出された。
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マックラーナの大理石はシャー・ジャハーン時代にも有名だった。固いが加工しやすい。繊細な彫刻も輝く光沢も可能でムガル帝国の建物に使われていた。切り出された大理石は400Km以上離れたタージ・マハールの建築サイトまで運ばれた。建築にはこの素晴らしい石が大量に使われた。
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建物の外郭が完成すると、煉瓦は純白の大理石で覆われ、完全に見えなくなった。表面が磨かれた白い覆いの大理石がタージ・マハールに大きなインパクトを与えている。
「勿論、この白い大理石が建物に美と輝きを与えているのだ。浮遊しているような感覚も醸し出している。それは詩における言葉のように、建物が語りかける手段になっている。」
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「大理石の構造物の隣からは庭が続いている。庭はタージ・マハールの心臓部だ。コーランにおける天国を表している。2つの通路が地形を4つの正方形に分けている。通路に沿った水路はコーランにおける楽園を表現している。水路が合流するところにある池は、天空の池を表現している。天国の楽園に辿り着いたらこの池の水で渇きを癒すのだ。」
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ムガルの伝統に従い、墓廟と庭は割り切れない単位で構成されている。そして墓廟の内装は、コーランにおける8つの楽園を表現している。8つの個室が墓廟の中心を囲むように配置されている。
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ムムターズ・マハールの石棺はその中心に置かれている。
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完成すると直ぐ、巡礼者達が訪れるようになった。極めて敬虔なイスラム教徒だったムムターズ・マハールは今日でさえ、何千もの巡礼者達を世界中から引き寄せている。墓に捧げられる花は預言者ムハンマドが天国に上った時を思い起こさせる。
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彼が天国に到達すると、流した汗の一粒一粒は薔薇に変ったのだ。信心深い者たちは神的な邂逅を求めて故人に献金したりする。インド人のイスラム教徒もムガルの統治者たちの聖地に訪れては同じような祈りを捧げている。
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イスラム原理主義者は聖者を崇拝することはしない。しかし、インドでは、これが一般的なのだ。
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ムガルはイスラムを亜大陸に持ち込んだ。しかし、彼等はコーランを堅苦しく伝えることはなかった。インドでは、長い間、イスラムは寛容と公開opennessの原則に連動していたのだ。

シャー・ジャハーンの統治時代、寛容と公開の原則はインド国境の外まで伝えられた。偉大なムガルは外部の世界からの訪問者を歓待するよう命令していた。彼は外部との交流で多くの利益があることを知っていたのだ。シャー・ジャハーンの宮殿では、帝国の東西から訪れた旅行者たちが常に見受けられた。欧州人は異国情緒ある被り物をしているので簡単に見分けられる。
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大陸を越えた接触で双方は利益を得ることが出来た。欧州人は織物、香料、宝石に魅かれてやって来た。
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彼等は代金を銀で支払った。彼等は新しい考えもムガル帝国に運んできた。タージ・マハール自体もインドと欧州の間をつなぐ役目を果たした。豪華な石の花が埋め込まれた、糸を編んだような透かし彫りの大理石がタージ・マハールの中心を囲っている。この技術と構想は遠く離れた欧州から伝えられた。中級の貴石が使われたモザイクはピエトゥラ・ドーラと呼ばれるものだ。
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「ピエトゥラ・ドーラの技術が欧州から直接伝えられたのか、どこかを仲介して伝えられたのかは判っていない。しかし、シャー・ジャハーンの想像を掻き立てた。そこで彼はその技術を使う事にしたのだ、建物が宝石箱に見えるように。」

ピエトゥラ・ドーラは固い石の意味のイタリア語だ。ルネッサンス期、これらの貴重な石は欧州の王宮を飾っていた。その技術がイタリアからインドに伝わり、新たに開花したのだ。
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インドのピエトゥラ・ドーラ工房では数百年以上もの間、同じ技術が使われている。多くの工房では、17世代、18世代もの間、技術が受け継がれている。彼等はタージ・マハールで仕事をした技術者の子孫たちなのだ。
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ピエトゥラ・ドーラは習得するのに苦労が必要な技術だ。モザイクは色がついた小さな石を大理石に埋め込んで作られている。職人は一つのモザイクを造るのに何百もの石を切削しなければならない。
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その各々は正確な形と寸法に削られ、大理石の溝にピタリと嵌りこむように造られる。この職人は貴石を取り付ける花形の穴や溝を大理石に掘りこんでいる。
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繊細な最終調整の後、特殊な接着剤で石を窪みに固定する。石で絵を描く手法は、インドの職人たちの誇りのひとつだ。
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タージ・マハールを飾り付けた職人の名が歴史書に記されることは無かった。しかし、シャー・ジャハーンは彼等の技術を頼りにしていたのだ。
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1643年、タージ・マハールは着工から12年で完成をみた。困難と試練にも拘らず、シャー・ジャハーンは彼の夢を達成したのだ。
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「王宮の中の選ばれし者」は、その名にふさわしい寺院の中で眠っている。人間の手で造り得る、考えられる限りのどんなものよりも見事な建物だ。彼女の命日には、「世界の王」シャー・ジャハーンはムナー川を船で移動してタージ・マハールを訪れ、そこで大切な恋人を思い出していた。
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タージ・マハールは残る最後のミステリーを隠していた。墓廟で見る石棺は空の飾りものだ。ムムターズ・マハールは床下の秘密の部屋で邪魔されることなく静かに横たわっている。
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タージ・マハールを完成した後、シャー・ジャハーンはこの国を20年以上、統治し続けた。しかし、王国は惨めな結末を見ることになる。
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彼が進めた莫大な費用のプロジェクトや贅沢な生活が帝国を廃墟の境まで追い込んでしまっていた。1658年、「世界の王」はその地位から転げ落ちてしまう。ムムターズ・マハールと彼の間に生まれた息子が、父の贅沢な暮らしを止めさせ、帝国を救う決意をしたのだ。偉大なムガル人、30年も皇帝の座についていたシャー・ジャハーン、は幽閉されることになった。
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“赤い砦”に閉じ込められ、二度と外に出ることは無かった。
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夜になると召使は、ずっと昔、彼が若かりし頃に成し遂げた英雄的行為、勇気と権力と勝利の物語を彼に読んで聞かせた。
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シャー・ジャハーンの数十年に渡る賢明な統治で、ムガル帝国は頂点に達した。彼の無限の権力や偉業に挑戦できる後継者は誰もいない。しかし、最大の権力者というものは誰よりも厳しいものだ。シャー・ジャハーンに残された安らぎは一つだった。幽閉された部屋の窓から遠い所に、愛した女が眠る、キラキラと輝く記念碑を見ることが出来た。
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彼は「王宮の中の選ばれし者」への愛情を忘れることはなかった。彼等の幸福はいずれ無くなる運命のものだ。しかし、彼等の愛情は永遠だった。
ムムターズ・マハールの墓は歴史の中に彫り刻まれた。シャー・ジャハーンもまた彼の最後の居場所をそこに見つけることになる。
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1666年、74歳でシャー・ジャハーンは死んだ。彼を記した歴史書は次の言葉で終わっている「“世界の王”は死んだ。遺体は川を運ばれ、前王女ムムターズ・マハールの美しい墓に移された。」
シャー・ジャハーンは再び“王宮の中の選ばれし者”と一緒になった。彼等の伝説、世界で最も完璧な建物、は彼等を永遠のものにしている。
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Secrets Of TheTaj Mahal- National Geographic
https://www.youtube.com/watch?v=RZy25C1qo4Y&nohtml5=False
(完)

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mh徒然草92: 忌まわしい捕鯨?

調査捕鯨「忌(い)まわしい」=豪環境相が日本非難
時事通信 3月25日(金)17時0分配信
【シドニーAFP=時事】オーストラリアのハント環境相は25日、AFP通信の取材に対し電子メールで回答し、日本が南極海で行った調査捕鯨について「忌まわしい」と非難した。  日本の船団は昨年12月に出航。「科学的調査」(水産庁)に十分なクジラ333頭を捕獲し、今月24日に帰港した。

関連するニュースがありました。
「妨害なく333頭捕獲、調査捕鯨終え3隻が帰港
読売新聞 3月24日(木)17時42分配信
2年ぶりに捕獲を再開した南極海での調査捕鯨を終えた日本の調査船団のうち3隻が24日、山口県下関市の下関港に入港した。調査捕鯨は、2014年3月の国際司法裁判所による南極海域での調査捕鯨の中止命令を踏まえ、捕獲数を削減するなど新計画に基づいて実施。懸念された反捕鯨団体の妨害もなく、計画通りクロミンククジラ333頭を捕獲して戻った。」

次の写真は捕鯨調査船団の母船「日新丸」で、船体にはRESEARCH(調査)の英文字が見えます。
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半年ほど前の2015年8月にも北大西洋でイワシ鯨90頭、ニタリ鯨25頭の調査捕獲をしています。

日本の捕鯨頭数の推移です。1986年の2700頭がピークで、1988年には急激に減少し、以降、徐々に増加傾向にあります。捕獲はミンク鯨(グラフでは茶色の棒)が多いようです。
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2011年以降のデータがありませんが、2015年度は2回の調査捕鯨でミンク鯨333頭、その他115頭、合計448頭を捕獲していますから、1990年代の捕獲ペースが維持されていると言えるでしょう。

捕鯨についての各国の判断を大雑把にいうと、問題なしとする国は少なく、捕獲を止めるべきだという国の意見が強いようで、国際捕鯨委員会(IWC)に加盟する概略70%の国は捕鯨に反対のようです。

Wiki:国際捕鯨委員会(IWC)
設立当初から1970年代半ばまでは、加盟国はおよそ十数カ国で推移していた。主要加盟国は、ノルウェー、英国、日本、ソ連、オランダなど南極海捕鯨操業国、デンマーク、オーストラリア、米国、カナダなど沿岸捕鯨操業国であった。
1970年代後半期より、加入国が急激に増加し、1980年代には40カ国前後がIWC加盟国となった。これは、ペルーなどIWC非加盟捕鯨操業国及び非捕鯨国に対して米国などから加盟が強く促されたことによる。捕鯨国に親和的な票を投じていたカナダは81年に脱退を通告し、反捕鯨国がIWCにおいて付表改正に必要な4分の3以上の多数を占め、鯨類資源に関する科学的不確実性を理由として1982年に商業捕鯨モラトリアムが採択されるに至った。
その後捕鯨国としては1992年にアイスランドが脱退し、加盟国は40カ国程度で推移していたところ、2000年代より再び加入国が相次いだ。1999年の年次会合後の記者会見において、亀谷博昭農水政務次官は捕鯨賛同国を増やすために漁業振興などを目的にした政府開発援助を活用する方針を表明し(日本経済新聞6月3日付朝刊/朝日新聞6月3日付朝刊)、以降日本側とEU諸国等反捕鯨国との間で加入の勧奨が相互に行われたためである。この結果、加盟国が84カ国へと1990年代に比べて倍増し、現在に至っている。」

2008年以降にIWCに加盟した国は10カ国で、捕鯨支持国は3、反捕鯨国は7となっています。

所謂(いわゆる)先進諸国で捕鯨に反対していない国は、日本、韓国、中国、ロシア、ノルウェイ、アイスランドで、他は反対派と言えるでしょう。カナダはIWCを脱退していて、エスキモーなどを中心に年数頭の捕鯨をしているようです。

この国際捕鯨委員会で、1982年、商業捕鯨の一時停止(モラトリアム)を決議し、商業を目的とした母船式捕鯨、沿岸捕鯨を1986年から禁止することが決議されたのです。鯨の生体数調査を行い、絶滅を回避できることが確認されるまで商業捕鯨を禁止する期間(商業捕鯨モラトリアム)を定めたんですね。だから、日本の捕鯨頭数が1987年に前年の1/3になり、1988年には更に1/3に減ったんですね。

(モラトリアムmoratorium:精神分析学の用語。本来は「支払い猶予期間」の意であったのを転じて,社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期をさす。)

で~未だに商業捕鯨が認知されていないので、モラトリアムが続いていますが、鯨の生体数や今後の予測を行うために、日本は「調査捕鯨」と称して捕鯨を続けています。

捕鯨に賛成する日本人に言わせると「カンガルーを何百万匹も殺して食肉にしているオーストラリアには捕鯨を禁止する資格はない」とのことで、説得力がある見解だと思う人も多いかと思います。しかし、この非難は的外れだとmhは思いますね。どこの国でも、牛や豚など、結構、賢くて、人間に慣れてくれば愛着も生まれる動物を食肉として殺戮(さつりく)していますから、カンガルーを殺戮することだけを取り上げるのは偏りがあると言えるでしょう。ならば、鯨だって、牛や豚と同じだから、食肉とするために殺戮したっていいではないか、との考えもあります。中国や韓国には狗肉料理専門店が多いようで、日本にも輸入され、中華料理店、韓国料理店などで食べることが出来るようですが、日本人は昭和になって以来、忠犬ハチ公の影響や、犬のペット化の普及から、狗肉を食べることへの嫌悪感が強くなり、みなさんの中でも食べたことがある人は少ないでしょう。犬は鯨よりも賢くて人間に近いとも考えられますから、犬を殺して食べるなんて中国人や韓国人は野蛮ねぇ、ってな考えの日本人は多いと思います。

話を捕鯨に戻すと、みなさんは捕鯨をどう思われますか?

なかなか難しい問題で、さてどう答えたらいいのか、悩むと思います。水産庁も悩むんですねぇ。で想定質問と模範解答が水産庁のホームページにあるんです。
Q1:日本はどうして絶滅にひんしたクジラをとるのか?
Q2:調査捕鯨は疑似商業捕鯨ではないのか?
(模範解答)
調査捕鯨では、1頭1頭のクジラから、それぞれ100項目以上の科学データが収集されています。その分析結果は、毎年国際捕鯨委員会(IWC)科学委員会に報告されており、高い評価を得ています。
また、調査が終わった後の鯨肉は市場で販売されていますが、これは国際捕鯨取締条約において、捕獲したクジラは可能な限り加工して利用しなければならないと規定されていることに基づいているものです。
調査捕鯨は、鯨類の調査のために行われているものであり、鯨肉を販売することを目的にして行われているものではありません。

Q3:日本は海外援助で開発途上国の票を買っているのではないか?
Q4:クジラを殺さなくとも調査は出来るのではないか?
Q5:どうして世界の世論に反して捕鯨を行うのか?
(模範解答)
鯨類の持続的利用は世界の多くの国が支持する考え方であり、反捕鯨は世界の世論では決してありません。国際捕鯨委員会(IWC)においても、加盟国の半数近くが鯨類の持続的利用に賛成しており、2006年の年次会合では、持続的利用支持国が反捕鯨国を上回りました。
また、そもそも国際捕鯨取締条約は鯨類の持続的利用をその目的としており、この条約に基づき、国際捕鯨委員会(IWC)が設立されています。適切な資源管理の下、豊富な資源量を有する鯨種・系群について持続的に利用することは、元来認められていることなのです。

Q6:クジラを食べなくても他に食べ物があるのではないか?
Q7:クジラは特別な動物と思わないか?
Q8:捕鯨が再開されれば必ず乱獲になる?
Q9:調査のために毎年850頭ものミンククジラを捕獲する必要があるのか?
(模範解答)天然生物資源の動向を把握するための科学データには、統計学的に一定以上の「確かさ」が必要です。この「確かさ」がなければ、どんな調査も意味のないものになってしまいます。何十万頭もいるクジラに関する科学データについて、必要最低限の「確かさ」を得るためには一定の数のサンプル(標本)が必要となります(例えば、日本人の平均身長を知りたいと思ったとき、10人の身長をはかるだけでは分からないのと同じことです)。
調査捕鯨における捕獲頭数は、統計学的な計算に基づいて決められた数字なのです。

Q10:クジラの肉は汚染されている?
以上のQ&Aの詳細をご確認したい方は次のURLを見て下さい。
http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_faq/faq.html#q10

日本以外で捕鯨をしている国ですが、ノルウェイ(IWC加盟国)が年間5百頭くらい、アイスランド(IWC脱退)が同2百頭くらい、フィリピン、インドネシアが50頭くらい、カナダが数頭という数字がWikiにありました。ロシア、中国、韓国は捕鯨に賛成しているIWC加盟国ですが、捕獲頭数は不明です。

日本とノルウェイが突出していますが、ノルウェイの捕鯨は古来からの食習慣で、捕鯨で生計を維持する小規模漁民の保護が必要で、独立国が他国からどうのこうの言われる筋合いのものではないし、アイスランドなどと共同で生体数の確保も進めている、ことを根拠に捕鯨を継続しているようです。

で日本はどうかというと、悩んだ挙句、想定問題と模範解答を準備したんですね。

しかし・・・水産庁の模範解答を見ると胡散臭さを感じます!捕鯨母船「日新丸」の胴体に、大きく「RESEARCH調査」とペンキで書いたり、商業目的ではないと言いながら、恐らく、全てを食肉として卸していますから、ずるい!って思います。捕鯨問題に正面から真摯に取り組んでいません。事なかれ主義が貫かれ、捕鯨に頼る漁民、鯨肉を食べたいというグルメ(?)を保護している振りをしていますが、本当は、困ったなぁ、どうしたらいいんだろう、取り敢えず、反対の立場だと言っておこうか、てな生半可な態度に思え、気が短いmhとしては、とても受け入れられません!

難しい問題だから判断を水産庁に一任する、というのでは、お釈迦様の「自灯明・法灯明」の教えを破ることになりますから、自分の考えで、法に照らして、あるべき姿ってものを見つけてみましょう。

こういうことは、筋を通すことが必要で、調査捕鯨と称して実態は商業捕鯨をするのは欺瞞(ぎまん)であり、理解を得ることはできないのでやめるべきです。そもそも、南氷洋のミンク鯨は日本だけが捕獲権利を持つ動物ではありません。世界の人々が平等に所有し、平等に保護しなければならない動物だと思います。他の国の人が捕獲しないでほしいっていってるのに日本の漁船が赤道を越えて南氷洋で狩猟するなどということは控えるべきだと思います。そんなことをしなくてもいいよう、捕鯨に頼っている漁民に他の生活の糧を計画的に準備する作業が必要だと思います。
カンガルーや犬を殺して食べていることが非難の対象になっていないのは、食習慣が違うからだけではありません。食肉となるカンガルーや犬が、食肉として、その国で育てられた“国畜(家畜)”だからです。鮪は回遊魚で各国の漁獲高が決められるようになっていたと思います。近大マグロなどという養殖ものも出回るようになりました。鯨もそうあるべきで、現在はモラトリアムだと言われているわけですから調査捕鯨と言えども控えるべきでしょう。調査なら殺さずやる方法はあるはずで、それを見つけるべきだと思います。

一方、日本の経済水域にいる鯨は捕獲する権利はあるかも知れません。いくら回遊しているからといって、日本が自国の経済水域で捕獲してはならない、ってな話はべら棒だと思います。そうはいっても、他国の経済水域を通過して日本の水域に入ってきた、言わば共有財産を、日本の思惑だけで捕り尽くすのも過剰行為でしょうから、回遊数が平年より多ければ、余剰分は捕獲できるなどとの制約をつけてやれば、鯨の生体数の減少は発生しないと言えるし、自国の経済活動の自由も確保できるので、他国とのトラブルは起きないはずです。しかし、日本の経済水域に入り込む鯨の数は恐らく、かなり少なくて、広い経済水域のどこに鯨がいるのかを把握しないと効率よく捕獲できませんから、捕鯨業者には特殊な人工衛星や超音波などを使った解析システムが必要です。お金がかかるし、めんどうな仕事だと思いますが、だからといって、鯨が群がる南氷洋まででばって、我が物顔に捕獲するのは許されない時代でしょう。早く対策を立てないと、捕鯨は日本では成り立ちません。捕鯨漁師は恐らく急速に減少しているでしょう。農業も後継者不足であえいでいます。将来の道筋を示せない政府に責任があり、それを他国のせいにするのは間違いだと思います。

Down by the Sally Gardens - Rita Eriksen
https://www.youtube.com/watch?v=oLnMEAKV36Q

(完)

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ゼグマZeugmaの不思議

先週のブログではアナトリア(トルコ半島)に残る遺跡「ネムルト山Nemrut Dagi」をご紹介しました。今週もアナトリアに残る古代都市ゼグマZeugmaを、Youtubeドキュメンタリー「The Secret Treasures of Zeugmaゼグマの秘宝」に従ってご紹介しましょう。

Wikiによれば「ゼグマZeugma」はコンマゲネ王国の都市の一つで最盛期には8万人が暮らす当時の大都市だったようです。名前はギリシャ語で「船の橋」を意味しているとのこと。

町は、ネムルトからメソポタミアに沿って約200Km(直線距離で南西130Km)下流の、シリア国境に近い河岸にありました。 
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しかし、2000年6月に完成したビレッチャック・ダムBirecik Damで生まれた湖(貯水池)によって、遺跡の多くはユーフラテスの水面下に隠れてしまったのです。
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ダムに水を溜め始める8週間前、ユーフラテス西岸(次の写真の左側)の小さな村ベルキシュBelkisに考古学者チームが集まりました。彼等は、村に寝泊まりし、遺跡調査・救済活動を開始しました。
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今回ご紹介するフィルムは彼等の活動記録です。

ゼグマの大半が水没して16年が経過していますが、今も一部の遺跡が残され、公開されています。グレコローマン式の石柱が立つ部屋の床にはモザイク画が残されています。
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この遺跡は「ダナエとディオニソスの家」と呼ばれているようです。2人ともギリシャ神話の神で、この遺跡で見つかったタイル画か胸像にその名が残されていたのでしょう。

マケドニア帝国からローマ帝国に移り行く時代を生き抜いた2千年前の町ゼグマZeugmaとはどんな町だったのか?何故、人も棲まぬ遺跡になってしまったのか?
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・・・・・・・・・・
2000年夏、トルコの片田舎が新聞の一面を飾ることになった。
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ユーフラテス岸辺の忘れ去られていた古代都市で、考古学者たちは素晴らしいローマ芸術を発見した。しかし、まだ見つからずに地中に眠っている多くの古代芸術は新しく造られるダムにより水没する運命にあった。
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このフィルムは、水位が上ってしまう前に出来る限りの遺跡を救い出そうと格闘する考古学者達の、時間との闘いの記録だ。
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東トルコのベルキシュ村の夜明け。
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これまで4年以上、フランスとトルコの考古学者チームは、遺跡を調査し、救済するために、忘れ去られた古代都市を何度も訪れていた。しかし今回は最後のチャンスだ。数か月で遺跡は水没する。
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その日までに、素晴らしい、世界も驚く芸術を出来るだけ多く見つけて、救い出さねばならない。
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彼等のいる場所から下方の谷のどこかに、かつて偉大なギリシャやローマ帝国の宝物と言われた都市が埋められ、眠っている。ゼグマZeugmaだ。ユーフラテスを渡る重要な地点に造られた町のひとつだった。東西を結ぶルート上の重要な商業都市だった。
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ゼグマは紀元前300年にギリシャ人によって建設され、急速に成長して町になった。その後、ローマ帝国の管理に入ると、更に繁栄を遂げた。駐在する6千人の軍隊は、交易ルートの要衝でシルクロードの一部でもあるユーフラテスに架かる‟船の橋ゼグマ”を防衛していた。
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ゼグマの富は筆舌に尽くせないほどで、ユーフラテスの小ローマとも言われていた。数世紀もの間に、見事なモザイク画のいくつかは、盗み採られてはいたが、すばらしい一品はまだ数多く残されているはずだった。
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ゼグマはこれまで真面目に発掘調査されたことがない都市だった。ダムの建設が進む今となっては時期が遅すぎるかも知れない。もうすぐ地表から消えてしまうのだ。
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これがビレッチャック・ダムだ。世界でも野心的なプロジェクトの一つだろう。
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この20年間、トルコ政府はユーフラテス川で一連のダムの建設を進めていた。目的は、発電と、イギリス・ウェールズと同じ面積(mh:2万平方Km)の地域の灌漑だ。このダムの完成は間近い。
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完成すると谷全体が大きな貯水池になり、村は水面下に沈んで3万人以上が住家を追われることになる。
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古代都市ゼグマの隠されたままの家々や宝物も、考古学者が救い出さねばユーフラテスの水の底に沈んでしまう。発掘を待っている遺跡を全て掘り出すには1年以上必要だが、残された期間は6週間しかない。

この頭を削り取られたような高台には寺院の基礎が残されている。その脇の草地は競技場だった。
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間違いなく、町は華麗だった。辺りにはヴィラ(villa高級住宅)やマンション(大邸宅)があったはずだ。

2千年前、この丘は、今日なら値を付けることができない手工芸品や、像や、念入りに造られたモザイク画などで飾られたヴィラ、公共施設などで覆われていたはずだ。
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問題は、これらのヴィラやマンションがどこに隠されているかだ。6週間のうちに、少なくとも1つ、ヴィラ(villa高級住宅)を発掘したい!
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第一日。川の両岸で探索を進めるため、フランスとトルコの考古学者チームは2つのグループに分かれて作業することになった。6週間で全ての遺跡の大まかな地図を作り、何が出来るか、何をすべきか、どこから取り組むか、を決めねばならない。水に埋まる前に宝物が見つかる保証は何もない。
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ゼグマは2つの町から出来ていた。丘の上には豊かな人々が暮らすグレコローマン式の町セルキアSeleuciaが、そしてユーフラテスEuphratesが流れる低地には古代のギリシャ都市アパメアApameaがあった。最初にアパメアが水に沈んでしまう。
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アパメア探索チームはボートでユーフラテスを渡って対岸のアパメアに向かった。渡河ポイントは昔、橋が架けられていたはずの場所だ。
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調べなければならない面積は120エーカー(7百m四方)もある。
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これまで誰も発掘したことがない。まず、都市の概要を調べなければならない。そのためには、今はほとんど壊されたか埋まっている、町を囲む城壁を特定する必要がある。全長数Kmのはずだ。

城壁の一部が所々で露出している。かつての城塞都市の面影を伝える証拠だ。
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数日間で城壁の全容を調べねばならない。断片はジグソーパズルのように一帯にちらばっているが、数千mは地面の下だ。
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これを掘りだせれば理想的だが、水没までに残された短い時間では不可能だ。調査効率を上げるためにはここで暮らしている人々の助けが必要だった。彼等の多くは何世代もここで暮らしている。壁が残っている場所について多くの情報を持っているはずだ。
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ここは井戸だった。考古学者は知らなかった場所だ。強固な城壁の一部がそのまま残されていた。
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壁の厚みは3.5mある。

調査結果が1枚の大きな紙の上に記録されていくにつれ、城壁の全貌が現れ始めた。町の防衛のため、当時の優れた発想が取り入れられている!
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町の外郭が判ると、次の課題は城壁の内側に何が在ったかを知ることだ。これらの木々の下には街路、市場、住居、寺院などが埋まっているはずだ。
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それを確かめるために掘り起こしていたら、一生、作業しても終わらないだろう。

しかし、発掘以外にも手はある。考古学者チームは油田や鉱床を探す2人の専門技術者に支援を求めていた。彼等には測定機器という武器があった。

この機器は磁場の変化に影響を与えるあらゆるものを検知することができる。
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通常なら磁場は一様だ。しかし、磁性のある岩や金属などがある所では乱れがある。この乱れを棒の先の2つのセンサーでモニターする。
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毎年、ユーフラテスは洪水を起し、大量の細かな土壌を運んできた。廃墟の町は3m以上も堆積した土壌の下にある。そこに大きな岩があれば、都市の構造物の一部である可能性が高い。

正確なデーターを得るため、測定者は一定の速さで直線に沿って歩いていく。こうして調査サイト全てのデーターを収集するのに2日を要した。その価値はあるはずだ。
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磁場データーがコンピューターに取り込まれ、土壌の下の詳細が現れ出した。黒い部分は石の壁や石が敷き詰められた街路、家などを表している。
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発掘したら何年もかかるはずの調査が数日で完了した。夜、考古学者たちは調査データーをテーブルに広げて分析した。すると地面の下にある都市の様子が手品のように少しずつ現れ始めた。
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これが発掘をせずに調べ上げた都市の全貌だ。
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ビレッチャック・ダムの工事はほとんど終わった。考古学者たちに残された時間は無くなってきた。
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ローマ側のサイトを調査するチームは、広いサイトの中でも有望なスポットに調査を集中していた。残された期間は4週間だ。ゼグマに埋められている秘宝の兆候はまだ現れていない。丘の町の全容を地図化する余裕はなかった。岩が多く、磁場の変動から地中の遺跡を探す手法が採れないのだ。
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そこで、過去の調査結果からヴィラが在るかも知れない2ヶ所を選び、そこに賭けることにした。

ここは第一のサイトだ。壁の様子は期待できそうだ。
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しかし、これだけでは普通の家か、高級なヴィラか判断できない。数日間、発掘を続けているが、判断できる材料は見つかっていなかった。周辺全体を発掘していく通常の方法では時間が足りない!

そこで特定の場所だけ深く掘り進め、建物の基礎を確認してみることにした。すると、古代と繋がるものが現れた。2千年前の排水管だ。
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考古学者は家の全貌を検討してみることにした。

ここが玄関だっただろう。入ると居間が、その隅には恐らく木製の階段で繋がる別の部屋が高い部分に造られている。
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ここはヴィラではなく、普通の家のようだ。ヴィラを思わせるものも見つかっていない。

しかし排水管に沿って調べていくと、竪穴が見つかった。
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その底では、信じられない程に見事な出来栄えのトンネルが延々と続いていた。恐らく2千年の間、だれも調査したことがないトンネルだ。
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町があったはずの一帯の地下深くで、どこまでも続いている!構造も堅固だ。町全体の下水道システムに間違いない!紀元前300年頃、町の建設に先立って造られたはずだ。
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トンネルの途中には新たな歴史を示す構造物があった。モルタルで造られたアーチだ。これはローマ帝国の統治時代のものだろう。
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トンネルの幅が広い一帯は大勢の住民が暮らす所だったはずだ。詳しく調べれば町全体の様子が判るかも知れないが、時間がかかり過ぎる。考古学者たちは下水道の調査を打ち切り、地表の発掘作業に集中することにした。

ここは第二サイトだ。現れた石柱の断片などから、重要な建物だった可能性は高い。
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発掘が進むにつれローマ式の豪邸の様相が見えてきた。ゼグマの優雅な建物に違いない。捜し求めていた工芸品やモザイク画が見つかるかも知れない。手分けして広い範囲で発掘を進めていった。

しかし、手作業での発掘では間に合いそうにない。そこで考古学ではめったに使わない技術に訴えることにした。
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手作業なら1週間の仕事を1日でこなしてくれる。手工芸品が簡単に破壊されてしまうリスクはあるが、そんなことは言っていられない。残された時間は僅かしかないのだ。

発見した遺物は全てスケッチし、発見時の状態や位置が判るよう図面に記録された。
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柱の一部が見つかった場所が正確に残されていれば、かつてのヴィラの様子を再現するのに役に立つ。注意深く調べれば、ローマの統治が終わる頃、何がゼグマに起きたのかを知ることができるはずだ。

歴史書物によれば、西暦250年頃、ゼグマは、東の敵ペルシャの攻撃を受け、駐屯していたローマ軍小隊は敗走している。町は包囲され、焼かれ、破壊された。その次の100年でローマ全軍はユーフラテス流域を放棄して引き揚げてしまう。
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これを機にゼグマも荒廃していくことになった。この歴史の痕跡はゼグマにも残されていた。2千年前に起きた出来事の証拠だ。家の遺跡に焼け焦げた場所が残されている。石は赤茶け、木は黒焦げている。
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そして恐らく廃墟になった後で起きた地震による地崩れでヴィラは埋まってしまったのだ。見つかった灰やコインから西暦250年頃、破壊されたヴィラだと思われる。
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4週間の発掘で、考古学者たちが発見した手工芸品だ。
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全てローマ帝国時代の裕福な家庭のものだ。2千年間、土の中で眠っていたのだ。
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残された仕事、それは貴重なモザイク画の発見だ。

発掘終了まで2週間になった。調査チームは、この家で何が起きていたのかを教えてくれる証拠をもっと見つけようとしていた。ここは間違いなく金持ちの家だ。モザイク画が在る可能性は高い。その救済作業を考えると、数日内に発見する必要がある。
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突然、珍しいものが現れて来た!壁に付着していた土砂を取り除くと、出て来たのは明るい色で描かれた壁画だ。
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泥が壁画を守っていた!こんなことは例外だった。この壁画は2千年間、光を当てられたことは無いのだ。しかし、早く保護処置をしないと高温多湿の空気に触れて急速に劣化してしまう。
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考古学者たちに残された期間はたった5日になった。そろそろ時間切れだ。残されていた土砂の最後の層を取り除いていると、建物の隅で、捜し求めていたものがやっと見つかった。モザイク画の床だ。しかし、何も書かれていない。単なる床の様でみんな落胆したが、直ぐにギリシャ語が現れた!
古代神話の登場人物の名前だ。イカルスIcarus, ダエダルスDaedalus!
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3日後、63平方mのカラフルなモザイク画の床の全てが現れていた。
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期限まで残り2日になった時、このモザイク画は完璧に姿を見せてくれたのだ。
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付近のヴィラにも素晴らしいモザイク画が沢山残っているのは間違いない。
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この発見で世界中から遺跡保存の声が上がった。考古学者たちは発掘作業の延長許可をトルコ政府に要請した。もう少しモザイク画を見つける時間が必要だ。
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発掘隊は、ローマ式モザイク芸術の国際的専門家ジョン・ピエール・ダモを急遽呼び寄せることにした。到着したジョンがモザイク画を見た結果、ギリシャ神話が表現されていることが確認された。クレタ島の女王パーシパエーがミーノータウロスを産んだ。有名なラビリンスを造った男だ。その物語が描かれている。
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「間違いない。明確だ。突出した出来栄えだ。これまでに見た中で最高の傑作だ。」

モザイク画を水没から救い出すには床からはがし別の場所に移さねばならない。沢山の小さなタイルがばらけてしまわないよう接着剤で床全体を覆い、固まったところで床をいくつかに切り分ける。
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その後、床を剥がしてトラックに載せ、地元の博物館で保存するのだ。
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この床の救済に目途が立つと、考古学者はまだ残っているかも知れないモザイク画を探す作業に取り掛かった。

ダム建設工事は完了し、丘の麓の村人たちには家から離れるよう指示が出されていた。離れる前、住民は自宅を壊しながらドア、窓、煉瓦、梁、柱など、移転先で再利用できるものを取り外していた。
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新居の建築は政府が行うことになっている。3万人は今、この地を離れ始めた。

ユーフラテスの水はダムで集められ、水位は日ごとに上昇し、3ヶ月後には広大な貯水池が出来上がるのだ。
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1ヶ月もすればベルキシュ村は無くなる。その2週間後には、新たに見つかったヴィラも水没してしまう。モザイクの梱包作業は始まったばかりだ。水が発掘場所まで上昇してくる前に、フランスとトルコの考古学チームは14の部屋と新たなモザイクを見つけていた。
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そのどれもが傑作品masterpieceだった。どの部屋にも異なるモザイク画が残されていた。
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これらの値も付けられないモザイクは一つのヴィラから見つかったものだ。
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他のヴィラにも同じようなモザイク画が残されているに違いない。
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水に沈んだら、二度と見つけ出されることはないだろう。しかし、今回発掘されたヴィラから、ゼグマでの生活の様子は推察できる。
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中央広間には泉があり、壁や柱には装飾が施されていた。
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素晴らしいモザイク画の床のダイニングルーム。
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ヴィラは豪華な生活空間だったのだ。

もし時間があれば、もっと素晴らしい発見ができるはずだとの思いも残るが、考古学者たちがゼグマを去らねばならない時はついにやって来た。丘の上での発掘は一ヵ所で続けられることになったが、それでゼグマの発掘は完了する。
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2000年6月。水位は1ヶ月以上、上がり続けている。
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発掘サイトだったヴィラにも既に水が到達しているはずだ。
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古代都市は今、消えていこうとしている、永遠に。
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The Secret Treasures of Zeugma
https://www.youtube.com/watch?v=xNhdmqW-dgI
(完)

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mh徒然草91:朴大統領は死刑か?


4月13日、韓国の国会議員選挙で朴槿恵(パククネ)大統領を擁立する与党セヌリ党が過半数を割りました。党内で朴大統領のやり方に批判的で大統領と距離を置く「非朴派」が相次いで公認されずに無所属や野党から立候補するといった非朴派と朴派の内紛に、国民が嫌気を起して離れていったことが主因だろうとのことです。にも拘らず大統領報道官から「20代国会が民生を重んじ国民のために働く新しい国会になることを願っています。国民のこのような要求が表れたのではないかと思います」と極めて簡単な大統領コメントが出ただけで、大統領が直接、国民に語り掛けることは無く、選挙の敗北に対する反省もないことに、韓国民はあきれているようです。

かねがね、朴大統領の言動はバランス感覚に欠け、思い付きが多く、そのくせ、意固地で、独善的で、独裁的で、国のリーダとしての資質に欠けると思っていましたが、やっぱりねって感じです。安倍首相を顧(かえり)みると、朴大統領ほどはひどくないと思いますが、独善的な傾向は同じです。二人とも親族を後ろ盾に、苦労体験がないままリーダーになっていますから、他人の気持ちは理解できません。

ところで、今回の韓国の選挙の結果、朴大統領は来年、任期切れで退任したら糾弾される可能性は高まったと専門家たちが言っています。何故そんなことになるというのか?

韓国では政権交代すると「必ずといってよいほど前大統領が訴追される」と言います。全斗煥(チョンドファン)元大統領は退任後、不正蓄財などを追及されて死刑判決を受け(減刑の後、特赦)、盧泰愚(ノテウ)元大統領も政治資金隠匿などを理由に懲役刑に処されています(後に特赦)。盧武鉉(ノムヒョン)元大統領の場合、実兄が収賄で逮捕され、自身も収賄疑惑で捜査対象となり、自ら命を絶ちました。今の朴政権になった時、李明博(イミョンバク)前大統領の訴追はなかったのですが、李氏の看板プロジェクトだった『4大河川改修事業』に対する批判などが巻き起こりました。繰り返されるこの歴史は「恨(うらみ)の政治」と呼ばれているそうです。大統領にいじめられていた人の怨みが、退任して普通の人になったのを機に、爆発するのです。

政界の中枢を非朴派に握られた朴大統領も、退任後「多くの政策で間違いを起こした」と追及されるでしょう。感情的とも思われる反日政策、その反動の過度に中国寄りの政策、国内経済の低迷、セオル号事件の対応不備、慰安婦問題の安易な幕引き、などなど非朴派に攻撃される材料には事欠きません。

韓国で前大統領が批判されたり、死刑判決を受けたりするニュースに接すると、韓国人って過激で理解できない人種だね、なんて考える日本人が多いかと思いますが、それは間違いでしょう。人間は、国が変っても本質は同じで、韓国人も日本人も大差はないはずです。じゃあ、何故、韓国では前大統領は新大統領派から非難され、死刑判決を受けたりするのか?

恐らく、日本の首相よりも強い権限を韓国大統領が持っているからではないでしょうか。普通の人なら、権限を持つと、他人の考えを自分の権限で押さえつける傾向が強くなるのです。よって普通の、つまり大したとりえのない人が、親族の威光などでリーダーになって大きな権限を得ると、自分は偉い人間だと錯覚し、それを誇示したくなって権限を過度に行使し、その結果、周辺から恨みを買い、退任して権限を失うと、虐げれれていた人々の仕返しを受ける、という、極ありきたりのパターンが韓国の前大統領の「死刑判決」に現れるのだと思います。

安倍首相も自民党国会議員の言動を抑圧したりしていますから、退任すれば、ヒットラーの生まれ変わりのようだったとの感想が党内から出てくるかもしれません。日本では、さすがに死刑判決は出ないでしょうが、それは日本の首相に韓国の大統領ほどの権限がなく、生じる恨みの程度が小さいためだと推察します。しかし、田中角栄氏のように裁判で断罪される可能性はあるわけで、集団的自衛権で、アメリカのために自衛隊員が死ぬことがあれば、どうなるかは保証の限りではありません。首相は、独善で物事を決めぬよう、国民や国会議員の意見に十分耳を傾けるよう、誠意をもって議論を尽くすよう、心を入れ替えるべきだと思います。

There's No Way with Lyrics by Alabama
https://www.youtube.com/watch?v=MLqH3RVz200&list=RDdKLItnEBUr8&index=3
(完)

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