Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草99:アメリカ大統領選挙と我が余生の相関

アメリカ大統領選挙の仕組みは複雑で理解できていなかったため、ネットで調べてみましたので、大雑把なmhの性格に従って纏めた結果をご紹介いたしましょう。
民主党、共和党の夫々から候補者1人を選んでから、国民選挙で選挙人を選び、選挙人の投票で最終決着します。

党の候補者の絞り込みは予備選挙と呼ばれ、6月8日、民主党はヒラリー・クリントン女史が大統領候補の指名を獲得しました。共和党は既に、ドナルド・トランプ氏が指名獲得を終えています。7月に行われる党大会で正式に党の大統領候補として指名を受けるでしょう。

この2人のうちのどちらを大統領にするかは本選挙で争われます。国民はいずれかの候補に投票するのですが、票は各州毎に集計され、州での得票率が最も高い候補者が、その州に予め割り当てられた数の選挙人の全てを獲得します。全米での選挙人の合計は538人で、過半数の270人を獲得すれば、選挙人による最終投票で大統領に選ばれるのが普通です。普通でない場合というのは、選挙人が、予め宣誓していた大統領候補ではなく対立候補に投票した場合に起きるのですが、実際にはそんなことはないといってますので、国民投票で大統領が選ばれると言い換えてもよいでしょう。

州毎に勝ち負けが決まり、1票でも多ければ、その州に割り当てられた数の全ての選挙人を獲得できるので、効率良く勝利するには、勝利する州では対立候補より1票多く獲得してその州の全ての選挙人を自陣営で固め、負ける州は得票ゼロで済ませても好いことになります。善戦したとしても、1票でも負ければ獲得選挙人数はゼロですから。2000年にブッシュ氏とゴア氏が対立した本選挙では、国民票の総獲得数はゴア氏が多かったのですが、獲得代議員数が多かったブッシュ氏が大統領になりました。

今日は6月9日、実は2日後の11日にメキシコ旅行に出発です。気もそぞろで、普段に増して大雑把な性格がそのまま現れたブログになるのではないかと心配はしているのですが、連日、舛添東京都知事を巡る“不適当な”政治資金運用の都議会質問と、これを茶化して伝えるTVワイドショーで、少々うんざりしているところに持って来て、アメリカ大統領予備選がドナルド・トランプ氏とヒラリー・クリントン女史で確定し、いずれが大統領になるのかを巡り、芸能人や有識者が今も面白おかしく、スクリーンで話しているのを見聞きしていると、どうとでもなれ!とやけっぱちな気分になっているところです。

で~TVによれば、今回の大統領選挙では、アメリカ国民は史上最悪の選択を強いられることになるとのこと。トランプ氏またはヒラリー女史に投票したい人は40%で、いずれにも投票したくない人は56%だと言います。2人は国民の半数以上から嫌われているのです。

大統領としていずれを選ぶかの問いにはトランプ40%/ヒラリー44%。もしヒラリー女史ではなくサンダース氏だったらトランプ40%/サンダース49%。リバタリアン(自由主義者)のゲーリー・ジョンソン氏が本選に立候補したら、トランプ38%/ヒラリー39%/ジョンソン9%、とのアンケート結果も紹介されていました。

くしくも英国ではEU加盟継続の賛否に関する国民投票が今月の23日に実施されるとのこと。キャメロン首相は残留に賛成するよう国民を説得しているが予断を許さない状況のようです。英国の経済界は残留支持の立場で、もし脱退すると経済的な打撃が大きいと言っていますが、国民は、難民問題その他でEUに加盟していると自国の利益確保が困難だとの考えからEU脱退の方向のようです。これを機に、スコットランド独立の話も再燃する可能性が出ているとの記事もありました。

これらの出来事を見るにつけ、世の中、何が起きるのか判らない時代になってきたなあ、と感じます。

話をアメリカ大統領選に戻せば、ヒラリー女史はトランプ氏相手なら女性票の80%を獲得しても好さそうなものですから、男性票が50%だとすれば支持率は合計65%(=女性:50%x80%+男性:50%x50%)になっても不思議はないと思うのですが、45%程度との下馬評ですから、女性にもかなり嫌われているのは間違いありません。ましてやトランプ氏が大統領に最適だと考えている人は少ないと思いますが、他の候補がひど過ぎたからこんな結果になってしまったわけですから、大統領選に出馬するのは、大統領にふさわしくない人ばかりとも言えます。アメリカの将来も不透明としか言い様がありません。

そんな中ですが、以前にも予言したように、トランプ氏とヒラリー女史の争いならトランプ氏の勝利は固いでしょう。アメリカ国民はきっと変化を選ぶと思います。とすればトランプ氏の方が間違いなく変化を期待できますからね。

平和が長く続き、人々の思いは平和の維持から自己願望の追求にシフトし、核兵器の開発や軍備増強、貧富拡大、などもやむを得ないこととして容認する環境に変りつつあると思います。昔から言われているように、歴史は繰り返すのです。平和ボケし過ぎた我々は、戦争・内紛・テロ・犯罪に向かっていきます。それもこれも、人間の性(さが)だと考えるなら、せめて自分だけは不幸に出会わぬよう工夫するしかない、と考え、結局、誰もが、他人より己(おのれ)の幸福を優先することになるのでしょうか。

しかし・・・

こんなつまらぬ、埒も無いことばかり考えていてもしょうがないから、海外旅行で楽しい時を過ごそうって結論に至っても、お釈迦様ではありませんが、因果応報、自然の摂理と言えるでしょうから、女房殿にも自由気ままな時間や買い物をして頂いて、ストレスをためず、健康で長生きして余生を楽しもうと思います。

Bus Stop - The Hollies (1967) (Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=R2Rz7j3a-qA
(完)

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東方の三賢人の不思議

もし貴方が仏教徒で“東方の三賢人”が何者かご存知なら、あなたは物知りだと認めましょう。クリスチャンでも知らない方が多いのではないかと思いますが、どうなんでしょうかね。

次の絵は、東方からやって来た三賢人(WISE-MEN)が女性を、ではありません!赤ん坊を、見ている場面です!
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この赤ん坊こそイエスJesusなんですね。
ってことは・・・女性はマリアMaryで、その左にボケッと突っ立っているのは夫のジョセフJosephってことです。

3人の賢人は英語WikiでThe MagiまたはBiblical Magi、時にはWise MenまたはThree Kingsとも呼ばれるようです。つまりメイジャイ(マジ)、聖書のメイジャイ、賢人、三人の王、で、今回は“三賢人”と呼ばせて頂きます。

三賢人は生まれたばかりのイエスにプレゼントを贈るため、はるばる東方からやってきたと言います。名前はっていうと、はっきりしていなかったようです。それでは都合が悪かろうということで、Wikiによれば、7世紀頃の欧州で次の通り名が付けられました。
*メルキオール Melchior (黄金Goldを持参。青年の賢者)
*バルタザール Balthasar (乳香Frankincenseを持参。壮年の賢者)
*カスパール Casper (没薬(もつやくMyrrh)を持参。老年の賢者)

マリアとジョセフが旅をしていて、エルサレムJerusalemの南5Kmの小さな村ベツレヘムBethlehemに辿(たど)り着いた時、イエスは生まれました。そこで三賢人から黄金、乳香、没薬のプレゼントを贈られた後、Youtubeによれば、迫っている危機を噂で知ると、直ぐエジプトに逃げ出します。イエスは赤ん坊ですから、自分ではまだ歩けません。マリアが抱いてエジプトまで逃げたんですね。

で、危機が去ったことを知ると、エルサレムの北100Km程の町ナザレNazarethに移り、暮らし始めました。それでイエスは英語で“Jesus of Nazarethナザレのイエス”と呼ばれるのです。勿論、単にイエスJesusとか、イエス・キリストJesus Christとも呼ばれますが、Christというのは「膏(こう:油)をつけられた者」という意味の、救世主の称号です。知らなかったでしょ?

なんで救世主に“膏(こう:油)が付いている”のか?お釈迦様が仰ったように、因果応報、理由はあるのですが・・・古代、特に中東では、好い臭いがする所は生物学的に清潔で、棲み易い場所と考えられていたようで、主にオリーブ油が珍重されていたようです。これに、時には没薬(もつやく)を混ぜて香りを強調した、王や祈祷師は油とか膏とかを頭から被(かぶ)る風習があった、とネットで見つかりました。真実かどうかは不明です。

三賢人がイエスの誕生を祝福するためにやってきた時の様子を描いた、恐らく最も古い絵がこれです。
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西暦565年製のモザイク画で、イタリアの都市ラヴェンナRavennaのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂に残されています。3人の衣服は彼等の出身地を、髭の有無と色(黒と白)は彼等の年齢を表しているらしいのですが、重要なのは、彼らがイエスのために持ってきた乳香Frankincense、没薬(もつやく)Myrrh、黄金Goldです。乳香も没薬も日本では見かけない木の樹液から作る香で、一般的には焚いて使われます。

三賢人がベツレヘムでイエスに面会することになった経緯(いきさつ)や、その前後の彼等の行動については、これから紹介するYoutubeで触れるとして、一体全体、何年の何月何日にイエスと面会したのかというと・・・今年は西暦2016年ですから、2016年前の、イエスが生まれた12月25日だろうという考えは間違っているようです!!!

2千年前、日本は弥生時代でした。
Wiki:弥生時代
北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つで、縄文時代に続き、古墳時代に先行する。およそ紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称である。

で~“弥生”ですが・・・
旧暦3月に付けられた名で、草木がいよいよ生い茂る月「木草弥や生ひ月(きくさいやおひづき)」が詰まって「やよひ」となったようです。紀元前3世紀から紀元後3世紀を弥生時代と呼ぶのは、明治時代、東京府・本郷区・向ヶ岡・弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因(ちな)み弥生式土器と呼ばれたことに由来する、とWikiにありました。
(弥生式土器)
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弥生時代の丁度真ん中頃に現イスラエルIsraelで生まれたイエスに関係ある三賢人の話となると、随分と古い昔のことのようですが、共和制ローマの執政官カエサル(シーザー:紀元前100年 - 紀元前44年)の方が数十年も古いです。アレキサンダー大王(紀元前356年 - 紀元前323年)は3百年以上も古く、エジプトのツタンカーメン(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)になると1千3百年も古いのです!つまり、日本人には2千年前のイエスの話は随分と古い感じがしても、ヨーロッパやエジプトの人には、驚くほど古いものではありません。その時、既に文字もありましたから、いろいろな記録も残されていたはずです。聖書もその一つです。

2千数十年前、現イスラエル一帯はジュディアJudeaと呼ばれ、統治していたのはヘロド(Herodヘロデ)です。ブログ「ヘロド王の不思議2015年8月17日」でご紹介したように、今も残る建築物を手がけましたが、そのいくつかは砦です。自分の保身に、異常なまでの神経を使っていたのでしょう。
次の航空写真はヘロド王が造った砦兼王宮ヘロディアムHerodiumです。
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丘は人工的に造られたもので裾には町も造られました。

ヘロド王はエルサレムJerusalemの“神殿の丘Temple Mount”の整備もしています。
Olive Mountainから見たTemple Mount:
中央の黄金のドームは岩のドームです。
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Wikiによれば、ヘロド王は紀元前73年頃に生まれ、 紀元前4年頃に死んでいます。イエスが生まれたのが西暦元年(西暦元年は西暦1年。西暦0年という年は無い!)とすれば(?)、紀元前4年に死んだと言う事は、厳密にはイエスが生まれる3年前以上前にヘロドは死んだって訳で、イエスの話をヘロドが聞いたはずはありません。しかし、聖書によれば、ヘロドとイエスが同時にこの世で生きていた期間があるのです!一体全体、なんでそんな馬鹿なことが!

思わせぶりなmhの言い回しや辻褄の合わない聖書の記述で、皆さんは、段々、真実からはぐらかされているような、不愉快な気分になっているのではないでしょうか。しかし、お釈迦様も仰ったように、必ずや真実はあるのです。因果応報、世の中には訳の分からない話なんてありません!!!この辺りはブログの最後でmh流にご説明し直すとして、それではYoutube 「Biblical Magi - 3 KINGS, 3 WISE MAN Mysteries聖書のメイジャイ(3人の王、3人の賢人)の不思議」をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
三賢人Wise Menについては「マタイによる福音書」に数行しか書かれていない。
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「賢い男達で、星に導かれ、東方からエルサレムに来て、ヘロド王に「ユダヤの王として生まれた男の子はどこにいるのか?」と聞いた。ヘロドは「その子を見つけたら教えてほしい」と頼んだ。彼等はベツレヘムでイエスに会うと3つの贈り物を渡し、来た時と同様、どこへともなく立ち去った、ヘロド王と再び会うことも無く。」
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聖書には3人とは書かれていない。3つの贈り物をしたので3人だろうと推定されているだけだ。

彼らが何処から来たのか、どこに去ったのかは記録がないので判らない。しかし、ヒントはある。聖書では賢人のことをMagiメイジャイと呼んでいる。
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ギリシャ語、ローマ語、ヘブライ語などではなくペルシャ語で、古代ゾロアスター教を崇拝する祈祷師を指す言葉だ。従って、三賢人を調べるにはペルシャを調べねばならない。現在のイランだ。

イランでは今もゾロアスター教が信仰されている。ゾロアスター教ではユダヤ教と同じように“処女からメシアMessiah(注参照)が生まれる時、星がそれを知らせてくれる”という言い伝えがある。
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(mh:ゾロアスター教はキリスト教やユダヤ教より古い宗教で、その一部はキリスト教に取り入れられたと考えてよいと思いますから、この言い伝えの発端はゾロアスター教ではないかとmhは推察いたします。)
つまり、三賢人(メイジャイMagi)は星を見て、メシアの誕生を予知したのだ。

(注:メシアMessiah
ヘブライ語で「(油を)塗られた者」の意。理想的な統治をする為政者または救世主を意味する。
おぉ、また油が出てきましたね!つまり“聖なるholy塗るためのanointing油oil”です!)

三賢人がペルシャに関係しているという別の根拠もある。イタリアに残る西暦565年のモザイク画に描かれている三人は、尖った帽子、ガウン、ズボンを身に付けている。
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ついでに顎髭(あごひげ)に着目すると、白いひげの男、黒いひげの男、髭のない男として描かれている。3人が若年、中年、高年の男達という証拠だ。

服装について言えば、2千年前、こんな服装の男達がいた所は・・・ペルシャだ!
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その証拠が遺跡ペルセポリスの階段に残されている。
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つまり聖書に記された三賢人はペルシャから来たのだ。
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彼等はいつ頃、イエスの所に来たのだろう?それを知るには、まずはイエスが生まれた時期を知る必要があるだろう。イエスが生まれた年は何年なのか?それは、多分あなたが知っている年ではない!全て神学者ディオニュシウスDionysiusが犯した間違いから来ている。

ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウス(西暦470年頃 - 544年頃)はローマ教皇庁から依頼されて、暦を作ることになった。
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その時、彼はローマ帝国が採用していた暦をイエスの誕生を原点として作りなおすことにした。こうして出来上った暦は、今も世界中で使われる西暦(グレゴリオ暦)の元となっている。
彼はイエスが生まれた年を知っていると考えていたのだが、不幸にも数学は学び始めたばかりで、いくつかの計算間違いをしたのだ。

彼はローマ皇帝が統治していた年代を基に計算を始めた。皇帝オーガスタスの時にキリストは生まれている。オーガスタスの統治時期は紀元前31年~紀元後14年だ。
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しかし、同じ本の別のページには紀元前27年~紀元後14年とある!
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オーガスタスと名乗る前、彼はオクタビアンという本名で4年間、ローマを統治していたのだ。この4年がディオニュシウスの暦策定から漏れてしまった。

彼は更に、もう一つの計算ミスをした。紀元前1年(西暦マイナス1年)と紀元後1年(西暦1年)の間の0年の取り扱い方を間違ってしまったのだ。
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結局、彼の暦には5年のずれが生じることになった。つまり、イエスが生まれたのは西暦1年(西暦元年)ではなく、紀元前5年または紀元前6年なのだ。

ではイエスは、紀元前5又は6年の何月何日に生まれたのだろう?ディオニュシウスが暦を作ったのはイエスの誕生から5百年程後で、何月何日に生まれたのかを覚えている人は誰もいなかった。そこで彼はローマ帝国の冬のお祀りの日(mh:冬至)、つまり太陽の神が生まれたという12月25日を誕生日とすることにした。
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イエスとは全く関係がない。しかし、以降、この日にイエスが生まれたとし、その日に三賢人がしたように、プレゼントを交換する習慣が生まれ、今も続いている。

それはそれとして、では、イエスは実際、何月何日に生まれたのか?どうすればその日が判るのか???それを知るためには三賢人に戻って考えねばならない。彼等は祈祷師で、占星術に長けていて、“星に従って”イエスの誕生を知ったのだ。いつでも見えている星ではないようだ。そんな星が天空にあった時期はいつなのか?
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聖書には次の記述がある。
There came wise men from the east saying “ Where is he that is born King of the Jews?”
東方から賢人が来て言った“ユダヤの王となるべくして生まれた子はどこだ?”

そして更に次の記述もあった。
And lo, the star went before them till it came and stood over where the young child was.
そして、見よ。その星は彼等の前を行き、若き子のいる所の上で留まった。

その星は三賢人をエルサレムに招くと消えてしまい、再び現れると彼等をエルサレムの南のベツレヘムに導いたのだ。そんなことが出来る星とは何だろう?
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もし紀元前5,6年頃、彼等を導いた星を見つけることが出来れば、イエスの誕生日を言い当てることが出来るかも知れない。

何世紀もの間、多くの人が、どんな星なら三賢人をベツレヘムに導くことが出来たか調べてきたが、聖書の記述に整合する星を見つけた人は現れなかった。しかし今、この問題を解決した人物がいる!米国ラッツガーズ大学Rutgers Universityの天文学者マイクロ・モーナー教授だ。古代占星術の専門家でもある。
ローマの硬貨がヒントになった。牡羊が振り返って星を見ている。
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モーナー教授は、長年、星の動きから三賢人の追跡をしている。彼によれば、古代、人々は星の運行を現代人よりも注視していた。星の位置は、その下で暮らす人々の活動に影響を与えていたという。

モーナー教授は、古代占星術において牡牛座(エリーAries白羊宮)がジュディアJudeaを表すことを知っていた。三賢人は牡羊座を見てメシア(救世主)の誕生に気付いた可能性があるという。
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ボブ「モーナー教授。三賢人が見たのはどんな星なんでしょう?」
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モーナー「当時の星の動きをコンピュータで再現してみよう。夜明けに最初に上る星が金星だ。」
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「そして土星、木星、更には太陽が一直線に並んでいる。」
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「木星が重要だ。新しい王を意味している。そして、それが牡羊座エリーの中にあるんだ。」
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「その時にメシアが生まれるという言い伝えがあった。そこで3人はヘロデ大王に聞いたんだ“生まれたメシアはどこなのか?”と。4つの星がこんな配列になるのは、凡そ70年に一回だ。しかし、もう一つ重要なことがある。4つが全て牡牛座の近くにあるということだ。こういうことはめったにない。」

星は王の中の王がジュディアJudeaで生まれたことを伝えた。コンピュータによる過去の星座の運行から求められた日付は紀元前6年、4月17日。これがイエスの生まれた日だ!
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これを裏付ける証拠はあるのだろうか?
聖書にはイエスが生まれた時の羊飼いたちの様子が併記されていた。
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They were keeping watch over their flocks by night.
(彼等は夜も羊の群れを見張っていた。)

いつの季節なら羊たちは夜でも群れていたのだろう?イスラエルに暮らす羊飼いに訊いてみると、4月から9月の6ヶ月間だという。11月以降ならばベツレヘムは極端に寒く、どんな動物も夜まで外で群れていることはない。
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やはりイエスは12月生まれではないのだ。モーナー教授の“4月17日にイエスが生まれた”との説は正しい可能性がある。

三賢人は星を見てエルサレムに向けて出発した。ペルシャからエルサレムへの旅は2千年前なら大仕事だった。アラビア砂漠の上を真っ直ぐ横切っても1600Kmだ。4月17日に現れた星の様子を見て3人はペルシャを出発することにした。しかし、直ぐに夏が始まる。砂漠ならとても暑い。そこで彼等は9月まで出発を待った可能性がある。ペルシャを発った彼等は、砂漠を迂回しチグリス川に沿って北周りで行っただろう。途中で水も補充できるから都合がいい。そして地中海沿岸近くまで行ってから南下し、まずエルサレムに行ったのだ。
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どのルートを採ったかについては確信はないが、間違いなく、およそ1ヶ月の旅程だっただろう。しかし何故、直接、ベツレヘムに行かずにエルサレムに行ったのか?
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実は星が示していたのはベツレヘムそのものではなく、ユダヤJudeaという国一帯だったのだ。都市を示していたのではない。

三賢人がユダヤに到着した時、季節は既に冬で、イエスは生後数か月経過していた。彼等は不幸にも、危険な地域に足を踏み入れていた。
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ユダヤを統治するヘロドは暴力的な王だった。
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既に妻や息子たちや数百人の政敵を殺害していた。その一方で、当時の偉大な建築家でもあった。マサダの頂きに砦を造った。
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ローマ帝国に対抗するためだ。エルサレムの寺院の丘も造った。ユダヤ教徒は、今も彼が造った嘆きの壁に向いて祈りを捧げている。
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その壁に使われている岩はとてつもなく大きい(mh:以前にも紹介しましたが、13.2mx3.3mx4.8mの直方体の岩も使われています)。どこからこんな大きな岩を採ってきたのか。エルサレムの近くに、今は放置されているその採石場がある。
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エルサレムに到着した三賢人は、町の人々に「ユダヤの王となるべき子はどこにいるのか?」と聞きまわっていた。部下から、不思議な質問をする三賢人の報告を受けたヘドロには初耳の話だ。そこで、彼は祈祷師たちを集めて訊いてみた。すると、旧約聖書に次の予言が書かれていたことが判った。
And thou Bethlehem, in the land of Juda, art not the least among the princes of Juda.
ユダヤの王子はベツレヘムで生まれるだろう。

ヘロドは考えたはずだ。「それが事実なら、自分の立場は危ない!しかし、もし兵を送って探すものなら、噂を聞き付けて、その子は隠されてしまうだろう。」

2千年前の12月、三賢人はヘロドに会うために、エルサレムの彼の居城を訪れた。
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ヘロドは三賢人と面談すると言った。「その子供はベツレヘムに居るかもしれない。見つけたらその場所を教えてくれ。私も出向いて祝福したい。」
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恐らく、三賢人はヘドロ王が野蛮な王であることに気付いただろう。直ぐにエルサレムを去り、ベツレヘムに向かうことにした。道のりは8Km。“途中で彼等はまた星を見た”と聖書は言っている。
And lo, the star went before them till it came and stood over where the young child was.
そして、見よ。その星は彼等の前を行き、若き子のいる所に来ると留(どど)まった。

その星は三賢人をエルサレムに招くと消えてしまい、再び現れると彼等をエルサレムの南のベツレヘムに導いたのだ。そんなことが出来る星とは何だろうか???
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何世紀もの間、この言葉が何を意味しているのか、人々は頭を悩ませてきた。しかし、今なら我々は知っている。

再び、モーナー教授に訊いてみよう。
モーナー「木星が紀元前6年4月17日に東の空に在った時からその年の12月までの様子を見てみよう。木星は牡羊座に対して左に動いてから右に戻っている。」
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「聖書ではこう言っている。
And lo, the star went before them till it came and stood over where the young child was.
そして、見よ。星は彼等の前を行って、ついには若き子供がいる場所まで来ると停止した。
エルサレムで見た星の様子はこうだ。ここに牡羊座がある。木星はここだ。南がベツレヘムだ。」
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「星は動いているのだが、この時、木星はベツレヘムの上に静止しているように見えていたのだ。
つまりベツレヘムの星というのは木星だったんだ。」
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彼らがベツレヘムでイエスに会ったのは星の運行から紀元前6年の12月19日だと導かれた。2千年前のミステリーは今、占星術と天文学によって解き明かされたのだ。
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イエスは生後8カ月だった。しかし、彼等はどこで聖なる家族と会ったのか?どこかの家のはずだ。多分、これとあまり変わらないだろう。
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ジョセフとマリアがベツレヘムに来た時、宿はどこも満室だったと聖書にある。しかしそれは誤訳だろう。当時、ベツレヘムに宿があったはずがない。彼等は普通の家の最下階で休憩させてもらったのだ。当時、普通の家では、今と同じように住民は上の階で暮らし、最下階は家畜を飼う所だった。だから聖書にあるように、マリアはイエスを“飼い葉桶に寝かせた”のだ。

生まれた場所に造られたと言われる降誕教会Church of the Nativity。
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本当にこの場所かどうかは誰も確信を持っていない。しかしイエスの死から160年後、ここがその場だと認定されている。
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つまり、この場所で三賢人がペルシャから持ってきた金・乳香・没薬(もつやく)をイエスに渡したのだ。金は今でも最も高価な金属だが、乳香と没薬(もつやく)は当時なら金よりも価値があった。今でもカイロの香辛料市場に行けば乳香と没薬(もつやく)が整腸剤として売られている。
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当時は勿論、そんな目的ではない。乳香と没薬(もつやく)から作られる香りは、神の臭いだと言われていたのだ。今でも降誕教会ではこの2つが焚かれ、その煙は天に上っていく。
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メシア(救世主)に対する贈り物でこれ以上素晴らしいものがあると言うのだろうか。

いよいよ三賢人は祖国に帰るのだが、ヘロド王から受けた「子供を見つけたらその場所を知らせてほしい」との依頼についてはどうなったのだろう?
聖書には次のように書かれている。
And being warned of God in a dream that they should not return to Herod, they departed into their own country another way.夢で、ヘロドのところに戻らぬよう、神から忠告を受けたので、彼等は別の道を通って故郷へ向かって出発した。

情報が夢の中で与えられたとは意味深長だ。ペルシャのメイジャイmagi(祈祷師)は魔術magicを使い、その上、夢占いの能力を持っていることで知られている。
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マジックmagicという言葉はメイジャイmagiから来ている。あなたも“ハリーポッターHarry Potter”で尖った帽子を被った賢者を見たことがあるかも知れない。
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メイジャイMagiは昔、夢占いをすることで知られていた。彼等は“夢の本Dream Book”を持っていた。夢を見たら、それが何を意味するか、夢の本で確認するだ。ここにあるのはエジプトの夢の本だ。
例えば帆船で海を移動している夢を見たとしょう。この列のこれが帆船での移動だ。
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そこの隣を見ると、もう直ぐ友と会うだろう、と書いてある。つまりメイジャイは夢占いが得意だったから、神が見させてくれた夢なら、その意味が何かは直ぐに判り、それに従ったはずなのだ。

三賢人について知れば知るほど、聖書の中の記述は意味を持ってきた。
聖書によれば三賢人は天空と夢占いに導かれて行動した。これはメイジャイが祈祷師でこれらに精通していたことと一致する。夢のおかげで、彼等はイエスが何処で生まれたのかをヘロドに知らせることなく故郷に帰ったのだ。

更に聖書は言っていた。
Then Herod,…slew all the children that were in Bethlehem, …from two year old and under.そしてヘロデはベツレヘムの2歳以下の子供を全て殺した。

mh:ヘロドの“幼児虐殺”として有名です。しかし、当時、ベツレヘムは人口数百人の村だったようですから、多く見積もったとしても20~30人だっただろうとWikiにありました。

降誕教会近くの地下の洞窟には悪いことをしたわけではないのにヘロドによって殺された多くの人々の骨が残っている。心が揺さぶられる所だ。
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これらの遺骸が何歳くらいのものか判らない。しかし、よく見れば、多くは大人のようだ。小さい遺骨も多くは幼児というよりも成長した子供だろう。

ヘロドは何故2歳までの子供としたのだろう?三賢人が生まれて直ぐのイエスに会ったなら6ヶ月以下としても十分だったはずだ。しかし、モーナー教授の理論に従えば、その時、イエスは生後8ヶ月だった。その上、ヘロドは、いつイエスが生まれたのかについての正確な情報を持っていなかった。そこで残忍な王は2歳としてみたのだろう。

イエスはどのようにしてヘロドの魔の手を逃れたのか?ジョセフとマリアは、ヘロドの恐ろしい計画の噂を聞き付けたのだ。2人はイエスを抱いて直ぐにエジプトに逃れた。イエスにスフィンクスやピラミッドを見せたかも知れない。
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今でも、カイロを訪れる巡礼者はイエスを連れた聖家族が休憩したと言われる場所を訪れている。
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そこに聖家族が滞在したことを裏付ける物語もある。イエスが生まれる30年前、エジプトの女王クレオパトラが有名な木“ギリアッド”をユダヤからこのカイロに輸入したという。
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彼女はユダヤ人護衛兵を雇っていたのだろう。だから30年後、ジョセフとマリアがエジプトに逃げた時、彼らの故郷ユダヤから移り住んだ人が住む集落に駆け込んだのだ。

2年後、ヘロド大王が死ぬと、彼等は故郷に戻った。それが聖書の中の三賢人に関する物語の終わりで、以降、彼等は登場してこない。

となれば、どこから彼等の物語を手に入れればよいのか?6世紀のモザイク絵に戻って見直してみよう。
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白い顎鬚(あごひげ)の男は年寄りだ。黒い顎鬚の男は中年で、若い男は髭がない。つまり6世紀の伝統によれば三賢人は異なる年齢の男達だ。

別の伝統もある。彼等は一緒に埋葬されているというのだ。今も一緒にいる!何処に?恐らく誰も思いもつかないだろう。ドイツのケルンだ。見事な大聖堂Cathedralは彼等の骨を保存するために建てられたのだ! 
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屋根の上の印は十字架ではない!星だ!三賢人が導かれたという星だ。
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この中に彼等の遺骨がある、8世紀以上もの間。これは中世の最大の宝物の一つだ。これと同じものはどこにもない。
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前面パネルは着脱が可能で、その直ぐ裏に3人の賢人の頭蓋骨がある。
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しかし本当に3人の賢人の頭蓋骨だろうか?大きな疑念がある。中世の欧州では、イエスの時代に関して数百もの偽物や間違いが生み出されてしまったという事実がある。従って、ドイツに三賢人の骨がある可能性は少ない。ヨーロッパの大聖堂で例を挙げると、パリには磔(はりつけ)にされたイエスが被っていた冠がのこされている、ローマにはイエスのへその緒が、アヘンAachenには幼児の頃の覆いの布が、トリーアTrierにはコートが、ブルースBrugesには・・・・(省略)
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これらはみんな中世の物語に端を発している。現れたのは8世紀以降だ。

三賢人の骨は偽物が多い中世ではなく、それ以前のものだという証明はできないだろうか?証明できる!そのことは14世紀に大聖堂の壁に描かれている!王冠を被った女性。コンスタンティンのローマ皇帝の母の聖ヘレナだ。
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彼女は信じられない程の“買い物狂”だった。4世紀、ヘレナはイエスの生涯に関係する品を買い漁っていたのだ。

壁に描かれた、三賢人の骨が収められているという箱を見ると、骨がある。
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彼女はこれを買ってコンスタンティノープルに持ち帰ってきた。しかしコンスタンティノープルは三賢人の最初の安息場所でしかなかった。骨は4世紀の聖ヘレナから、数世紀を経てケルンまでやってきたのだ。

大聖堂に残る、骨を包んでいたという布にもヒントがある。小さな紫の部分がある。
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染料はフォエネシア(Phoeniciaフェニキア;現シリア)から来たものだ。中東のもので、欧州のものではない。シリア人は2、3世紀頃、偽物を作る発想は無かった。

今のところ、問題なさそうだが、もう少し事実が必要だ。肝心の骨はどうだろうか?誰も骨を調べることは許可されたことがない。しかし、別のやり方もある。私はミイラ研究の専門家だ。あるルートでケルンの大聖堂の三賢人の頭蓋骨を収めた写真を手に入れている!私の大学には特別な技術がある。写真から何が見えるか、調べてみよう。
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その前に頭蓋骨の特徴について説明しておこう。頭蓋骨はいくつかの骨から出来ていて、骨は後頭部の縫合(suture)と呼ばれる部分で出会っている。
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若い人の縫合は少し開き気味なので、はっきり見て取れる。老人になると骨は完全に接合して縫合が見えなくなる。

ケルンの3つの頭蓋骨は、縫合が良く見えるもの、わずかに見えるもの、それと全く見えないもので、若い男、中年の男、高年の男のものだと判る。
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だからと言って、これが本当に三賢人のものだと結論付けることは出来ない。しかし、全ての証拠を集めると、その可能性があるというのはとても驚くべきことだ。

骨は4世紀まで遡るものだ。偽の骨ではないようだ。骨を包んでいた布の染料からみて欧州のものではなく、中東のものだ。縫合から若年、中年、高年のものだと判る。神話と同じ年齢配分だ。つまり、この頭蓋骨は本物の三賢人のものかもしれないのだ。

クリスマスの発想は三賢人の物語から始まった。クリスマスにプレゼントを交換するのは、昔、三賢人が乳香、没薬(もつやく)、黄金をイエスに届けたことに由来する。
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しかし、もう一つ、我々には三賢人から教えてもらったことがある。古代ペルシャでは握手をする習慣があった。それはペルセポリスの壁画にも残されている。
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ギリシャ、ローマ人、エジプト人、ヘブライ人は、敬礼したり、お辞儀したり、抱き合ったり、キスしたり、帽子を脱いだりして挨拶するが、握手の習慣はなかった。しかし、ペルシャでは握手が友情と誠意の表現だった。握手をする時は是非、三賢人と彼等の信じられない旅を思い浮かべてほしい。
(フィルム完)
・・・・・・・・・
キャスターはボブ・ブライヤーRobert Brier/Bob Brier。1943年生のアメリカ人考古学者でニューヨークLong Island Universityの上級研究員Senior Research Fellowです。

ご紹介したフィルムは、彼や彼の仲間のアイデアを纏めて脚本化され、撮影されたものだと考えて良いでしょう。

さて、このフィルムを見て、みなさんはどんな感想をお持ちになりましたか。胡散臭い話ばかりじゃあないのって感じをお持ちになったんですね?実は私も同じです。フィルムを見て頂くと好く判るのですが、キャスターのBobは、典型的な、頭が切れるアメリカ人を思わせる早口で矢継ぎ早な語り口で、テンポ良くストーリーを展開します。聞き取り困難な説明も多く、大雑把な性格のmhですから、前後の脈絡から推定するか、切り捨てるかして、矛盾がない流れにさせて頂きましたが、牡羊座と木星が、エルサレムからベツレヘムに三賢人を導いた根拠については理解できず、曖昧なままになってしまいました。しかし、それはmhの責任というよりも、天文学者モーナー教授と、彼から答えを引き出すボブBobの駆け引きが素っ頓狂だったからだと、言わせて頂きましょう。

それにしても、いくつも疑問が残ります。
三賢人はいたのか?
三賢人は星に導かれてイエスと会ったのか?
その時、黄金・乳香・没薬をイエスに渡したのか?
ヘロド王はイエスを狙い、幼児虐殺をしたのか?
ケルンの大聖堂にある頭蓋骨は三賢人のものか?
そもそも、イエスは神であって人間ではないのか?

フィルムで引用されている『新約聖書New Testament』ですがWikiにはこうあります。
「27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。」
つまり色々な人が、異なる時期に、異なる場所で書いたものを寄せ集めて新約聖書としているんですね。

で~三賢人が現れるのは“マタイによる福音書”です。マタイはイエスの十二使徒の一人、つまり直系の弟子ですから、彼が書いたとすれば信憑性は高いと普通なら考えるでしょう。しかし、書にはマタイという署名もなく、言い伝え以外にはマタイが書いたという証拠もなく、記事の内容や引用している年代表記などから、マタイと異なる時代の人が書いたとしか考えられないというのが科学的定説のようです。勿論、宗教関係者はそれを認めません。

しかし、もし、三賢人が、星の予言に従い、わざわざ東方からイエスの誕生を祝うために数千Kmも旅をしてきたというなら、特記されるべき歴史的行事ですから、多くの記録があってしかるべきだと思うのですが、三賢人については“マタイによる福音書”の中で、わずかに数行、述べられているだけだと言います!

また、ヘロド王が、イエスを抹殺するため、やみくもに2歳以下の赤子を虐殺したって話も、“マタイによる福音書”に残されているだけです!実はヘロドは、ハスモン王アンティゴノスを暗殺して王に収まり、その王の娘、つまり王女、を妻に迎えたんですね、自分の王位の正統性を確保したいと考えたんでしょう。しかし、その妻から息子が生まれると、急に心配になってきました。自分は王位を奪還しようとする息子たちに殺されることになるのではないのか?で、自分の息子を二人も殺してしまうんです。その時期が、たまたまイエスの誕生の時期と重なるので、イエスを狙った幼児虐殺という作り話が生まれたのではないか、というのがもっぱらの噂です。

イエスが家族もろともエジプトに逃げたと、これまた“マタイによる福音書”にあるようですが、これを裏付ける事実は見つかっていなくて、むしろ、それを否定する証拠ばかりが見つかっているようで、エジプトに逃げたという話は全くの絵空事だと考えられています。

ここまで来ると、三賢人の存在すら怪しくなります。ブログ「チベットの不思議1/5」(‘16・02・08)でご紹介しましたが、チベット仏教の最高位ダライ・ラマが死ぬと、賢人たちが、先代の言行や、神聖な湖の状態、夢占いなどをして、ダライ・ラマの生まれ変わりがどこで生まれたかを割り出し、そこに行って、それらしい子を見つけだして新たなダライ・ラマに育てるという伝統があります。イエスの誕生にまつわる三賢人の話も全く同じで、どの宗教も、神を仕立て上げるのには苦労しているようです。

で、三賢人は星に導かれてイエスに辿り着いたと言う件ですが・・・星はいろいろあるし、色々な動きをしていますので、理屈を付ければ、ある時期、ある場所で、誰か重要な人物が生まれるって予言することは可能です。そしてその場所に行ってみれば、そこが数百人の村なら、若い夫婦が何組か暮らしているでしょうから、必ず、一人や二人の赤子を見つけることが出来ます。そう考えれば、三賢人と呼ばれる星占い者がイエスに会った可能性もありますが、それ自体は大して神聖な意味をもつものだとは思えません。単なる星占い者の思い込みだって考えることもできますからね。イエスの神格を高めようと、作って付けた話だと考えても好いでしょう。

仮に三賢人がイエスの所に来たとして、持ってきた3つの贈り物はどうなったのでしょう?神の子の生活費として黄金を食糧に換え、香料を焚いて、神の臭いを作ったとしても、贈り物の量は少なそうですから、そのうち、直ぐに底をついてしまったはずです。マリアやジョセフは、赤ん坊が神様だと知らされたのでしょうから、以降、畏(おそ)れ多くて、仮に悪いことをしても叱ることができず、精神的にはかなり抑圧状態にあったでしょう。この辺りの話は記録にないようですから、イエスが青年になるまで、普通の子として扱っていたと思います。とすれば、3つの贈り物の価値は直ぐに失せてしまっているわけで、そんなものをわざわざ数千Km離れたところから持ってくるということなど、あり得ないと思われます。

星占いを信じる人がいて、星が聖人の誕生を告げたと思ったとして、何千Kmも砂漠をラクダに乗って危険な旅をして贈り物をするというのは、普通の人ならやりそうにないことです。それをしたとなると、三賢人は普通の人ではなくて神か天使だってことになり、神や天使が世界中に、かなり大勢いるってことになりますが、唯一神を唱える宗教には不都合です。

やはり、三賢人がいたという話は、マタイの作り話だと断言できるでしょう。新約聖書に関係するその他の聖人は誰一人、三賢人について言及していないという事実もありますから、マタイはきっと、適当な話をでっちあげたのです。ドイツのケルンに保存されている遺骨も、ある時、恐らく中世に、誰かが、矛盾がないよう周辺固めをした上でそれらしいものを寄せ集めて世に出したのだと思います。遺骨のDNA分析をしたら、不都合な事実が沢山、見つかるのではないでしょうか。

ここまでくるとイエス自身の存在すら、どうなんでしょうねぇ、と言いたくなりますが、恐らく、イエスという聖人というか、信念の人はいたと思います。なかなか、好いことを言い、彼に従う人が多くなったんでしょうね。で時の為政者には目障(めざわ)りだったので、磔(はりつけ)にされ、神格化されることになったのだと思いますが、mhは彼が神だとは思いません。神とは何か、っていう定義を最初にしなければならないのですが、話が長くなるので、止めておきましょう。

Youtube「Biblical Magi - 3 KINGS, 3 WISE MAN Mysteries聖書のメイジャイ(3人の王、3人の賢人)の不思議」では、三賢人にまつわる話を事実であるかの如き理屈で飾り立てました。それが全て絵空事だ、と言う蛮勇あるというか大人気ない者はmhだけで、大半の人は「そうかもね。それが事実だったら楽しいね」って感じで心大きく受け流して、楽しんで頂けたのではないかと思います。もう直ぐ70歳になろうというmhが未だに大人になり切ってないってことは、まだまだ長生きできそうで、御目出度い話だと言えなくもありません。

Biblical Magi - 3 KINGS, 3 WISE MAN Mysteries - Documentary Film HD
https://www.youtube.com/watch?v=Ts_w2r4mpqs

(完)

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mh徒然草98:G7とオバマ大統領広島訪問

今日5月27日、伊勢サミットが終わり、安倍総理が首脳宣言という形で、総括を発表しました。
ネット記事を転用すると次の通りです。

「危機回避へ全ての政策」
“日本が議長国として26日に開幕したG7伊勢志摩サミットは、世界経済について「新たな危機に陥ることを回避するため、全ての政策対応を行う」などとした首脳宣言を採択しました。”
“8年ぶりに日本で開催されたG7伊勢志摩サミットの最大のテーマ・世界経済の認識について、首脳宣言は「回復は続いているが、成長は引き続き穏やかでばらつきがある」と指摘しました。その上で、「我々は新たな危機に陥ることを回避するため、適時に全ての政策対応を行う」ことを確認。「財政戦略を機動的に実施し、構造政策を果断に進めることに関し、G7が協力して取り組みを強化することの重要性について合意する」として、日本が主張してきた財政出動についても盛り込まれました。”
“また、国際的な脅威となっているテロ対策をめぐっては、「G7が主導的な役割を発揮すること」を確認し、テロ集団への身代金の支払いが「テロ組織の活動を支えることになる」として、全ての国に対して身代金を払わないよう求めました。”
“東シナ海や南シナ海における中国の海洋進出については、「状況を懸念する」とした上で、国際法に基づいて主張を行うことなど、海洋安全保障をめぐる法の支配「3原則」が明記されました。”
“北朝鮮の核実験やミサイル開発については、「最も強い表現」で非難し、拉致問題を含む国際社会の懸念に直ちに対応することを強く求めました。”

自由主義諸国の主要国首脳が集まって2日間議論しても大した結論がでてくるとは思えません。しかし、顔を合わせて忌憚ない意見交換をするのは、電話やメールでは不可能な“ハートの交換”が出来るので、それなりの意味があるのは間違いありません。

世界経済については安倍首相はリーマンショック以来の経済危機にあり、これを乗り切るには財政出動が最も効果的だという主張をしたようですが、危機(クライシス)というのは大げさではないのかという意見もあったようですし、ここ数年、経済成長率が安定して2%以上のイギリスとドイツは財政出動で国の借金を増やすつもりは毛頭ないようで、おそらくチグハグなやりとりだったと思います。結局、主催国の首相の顔をたて、経済クライシスではなく、経済リスクで落ち着きました。しかし、リスクがない時代はありません。つまらぬことに拘(こだわ)り、アベノミクスの失敗を世界経済の低迷のせいにする安倍首相に、各国首脳はあきれたことでしょう。

今日はオバマ大統領は岩国の米軍基地で激励演説した後、ヘリで広島に飛び、平和公園の献花と演説、原爆資料館見学をし、帰国する予定と聞いています。こうしてキーボードを叩いている今、TVでは彼が乗った車が空港から公園に向って移動している最中で、道路脇には大勢の市民が、大統領を一目見ようと、並んで待ち受けています。市民の思いは様々なようですが、8割近くは、広島訪問に感謝し、謝罪は求めないとの立場のようで、日本人の美点を垣間見た思いがします。

今、平和公園に到着し、安倍首相、岸田外相、ケネディ駐日大使が出迎えて、資料館に消えていきました。これから行われる演説で、何を言うのか判りませんが、アメリカは核を放棄するとでも言うのなら評価できますが、核は無くすべきだという程度の話しか出てこないと思いますので、今回の訪問を機に、核兵器の縮小が始まると期待するのは無理でしょう。韓国では北朝鮮に対抗するために核兵器の所有を検討すべきとの話が出ていて、同じような話が日本でも出ています。今の憲法は核兵器の保有を禁じていないっていうんですね、驚きです。非核三原則などと言っていた政治家の中から核保有は憲法に牴触しないと言い出す人が出てきているということは、世界中が、防衛の美名の下で、核を保有する、維持する方向に動いています。

オバマ大統領の広島訪問を喜んでいる大半の日本人も、その内、必要悪だとして核の保有を認めることになるのではないかと、ひねくれた性格のmhは預言いたします。平和ボケした日本人に喝(かつ)を入れるには戦争が必要で、そのうち、中国かロシアに戦争を仕掛けるか仕掛けられる好戦国になりさがっているだろうと予言いたします。

ノストラダムスの予言よりも確度が高いと思いますが、どんな予言も当たることがない、というマーフィーの法則もありそうですから、mhの予言は当てになりません。

オバマ大統領が演説を終えました。英語と同時通訳が被って、好く判らなかったので、明日、新聞に載るであろう英文で確認してみます。
ひき続いて安倍首相が「このような悲惨な戦争を繰り返させてはならない」などと他人事みたいにいってます。「日本は核兵器を認めない、戦争は放棄する」と、なんでハッキリ言えないんでしょう。

The Ronettes - Be My Baby – 1963
https://www.youtube.com/watch?v=Qn8c2qKqKZ8
(完)

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Confuciusの不思議

Confucius(コンフューシャス)とは何か、ご存知ですか?孔夫子がラテン語化しヨーロッパで使われることになった言葉ですが・・・

夫子は先生の尊称。Confuciusは孔先生。つまり孔子です。
Wiki:孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐコン・ズー)
紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日。春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏(うじ)は孔、諱(いみな)は丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。
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仏陀とほぼ同じ時代を生き抜いた思想家で、仏陀同様に背が高く、仏陀同様に女房殿や子供たちを捨てて自分の考えを貫きました。仏陀同様、自筆の書は残しませんでしたが、仏陀同様、弟子達が纏めた彼の思想は残りました。「論語」です。

論語は512の短文を全20篇に纏めた冊子で、第一篇「学而」第一章は次の通りです。
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「子曰:學而時習之,不亦說乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知而不慍,不亦君子乎?」
(子曰(いわ)く「学びて時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず、亦君子ならずや。」)

文庫本の「論語」もあります。次のURLで全文を見ることも出来ます。
http://kanbun.info/keibu/rongo00.html
既に読まれた方は、孔子が遺したいくつかの名言を至宝の教訓とされているのではないでしょうか。

中国・山東省・曲阜(きょくふ)の孔子廟
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大成殿(本殿)
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本殿内部
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萬世師表:いつの世でも師である。(mh訳)
新文在茲:新しい文化が茲(ここ)に在る。(mh訳)

中国が紛争に明け暮れていた春秋時代(紀元前770~同403)、魯(ろ)公国を拠点に活動しました。
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今回はYoutube「Story of Confucius孔子物語」を使い、孔子の生涯をご紹介しましょう。

おぉ!話がそれますが「孔子物語」から「論語物語」を連想してしまいました!「次郎物語」の著者下村湖人が、孔子と弟子の間の出来事のいくつかを纏めた論語物語は、胡人の孔子観が強く現れ過ぎているきらいもありますが、素晴らしい本だと思います。皆さんも、この中の一節を国語の教科書などで読んだことがあるかも知れません。

それではフィルムの内容をご紹介いたしましょう。
なお“孔子自身が話している”言葉は【】で括(くく)りました。
・・・・・・・・・・・・
【神が創った全てのものの中で、悪意を持っているmalicious(?)ものは大地だ。最も偉大なものは人間だ。天の目的は我々人間の中に仕込まれている。】
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彼は中国で最も尊敬される聖人の一人だ。何百万もの人々が彼の聡明さを讃える。しかし、崇高な知恵に到る孔子の道には苦難の涙の跡が続いているのだ。
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多くの血が流されていた時代、彼は結婚していない10代後半の母から生まれ、貧しく、苦労して生き抜いた。人々の苦難を忘れたことは無く、社会に蔓延(はびこ)る抑圧を解消することを誓った。
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Tu「彼はゲームの規則が明確ではなく、受け入れられないと明言した。彼は政治的秩序を変える思想を打ち出し、かつ実践しようとした。」
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彼は妻を捨て、子を捨て、中国の未来のために戦った。(mh:この辺りもお釈迦様と似ています。)
金持ちや権力者の貪欲な手法に立ち向かった。自分勝手で冷酷な敵に向かい、中国各地で勇気を持って平和と正義を支持した。

彼は、自分が失敗したと信じながら死んだ。しかし、今日、アジアの何百万人もの人が彼の教えに従って、輝かしい繁栄に向かって立ち上がっている。
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Roger「2千5百年後の今日においてさえ、孔子という特別の人間を引き合いに出さず、人々は“中国的な事Chineseness”について語ることは出来ない。」
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これは孔子という偉大な人物の物語だ。駆り立てられ、家庭を見捨て、人々を助けた。世の中を良くしようと知恵の限りを捧げ続けた、苦悩の男。
「Confucius; Words of Wisdom孔子;知恵の言葉」
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中国。キリスト誕生の550年前、古代の高度に発達した文明があった。
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中国の天才たちは文字を発明し暦を創り、法を整備していた。複雑な鉄器を鍛造し、素晴らしい青銅器を鋳造していた。
しかし、キリスト誕生の550年前、華やかだった中国は突然、暗黒に飛び込んだ。
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Tu「紀元前6世紀、中国は重要な変革の時期に入った。つまりある種の政治的秩序を維持していた封建社会が分解を始めたのだ。」

Morris「政府は弱体化していて事実上はないも同じだった。数多くの封建社会の統治者たちが中国を支配しようと覇を競った。その結果、絶えず戦いが行われ、社会はいつも混乱していた。」
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この暴力的で混沌とした時期に孔子は生まれた。ある時期に平和について教えた哲学者が、人も恐れる戦士シュー・リャン・ホー(叔梁紇しゅくりょうこつ)、の息子だというのは皮肉だ。
叔梁紇(しゅくりょうこつ)は巨大な男だった。
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飛び抜けて醜くかったが、非常に強かった。彼の暴力的な人生の末期、彼の上官が長年にわたる彼の功績を讃え、報奨として、今の北京から560Kmにある“ちょTsou”という長閑(のどか)な村の統治者の職責を与えた。
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“ちょ”で老齢の戦士は快適な老後を過ごしたが、彼は一人でじっとしてはいなかった。
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かれの人生の願望は満たされていなかった。何年もの間、2人の妻と9人の娘、1人のびっこの息子だった。彼は健康な息子がほしいと望んでいた。彼の執着は少女チェンチャイ(徴在ちょうざい)を妾(めかけ)にする結果となった。
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彼女は16歳で彼は70歳だった。徴在(ちょうざい)は彼の長年の人生の夢を叶えた。健康な男の子だ。伝説は、この驚くべき出産を奇蹟だと伝えている。
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Julia「伝説によれば、孔子の母は野原に出かけ、そこで“黒い皇帝”と呼ばれる人物の姿を夢の中で見た。彼はどんどん大きくなり、彼と彼女は結合し、夢から覚めると彼女は妊娠していた。」
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このような伝説にもかかわらず、新しく生まれた子供は異形で異常だった。巨大で醜く、鼻は曲がっていた。
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Roger「彼は台地とか塚を表すチョウ(丘)と名付けられた。伝説によれば、孔子が生まれた時、彼の頭の頂点は窪んでいて、頭の周辺は出っ張っていて、言わば冠(かんむり)のようだったらしい。」
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赤子の丘は後年、彼が中国で最も有名な師となった時、父や祖先の名の孔を与えられ、“師の孔”を意味する“コン・フー・ザ孔夫子”と呼ばれるようになった。
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彼が死んで21世紀過ぎてから、キリスト教の宣教師たちが彼の名前をラテン語に直し“コン・フー・ザ”は“コンフューシャスConfucius”と呼ばれるようになった。
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この名が世界中に知れ渡り、今では“師の孔Master Kong”と呼ばれることはなくなった。

悲しいことだが孔子は彼の父について知ることは無かった。叔梁紇(しゅくりょうこつ)は孔子が誕生して3年後に死んでしまったのだ。
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悲しむ孔子と母を、新たな悲劇が襲う。叔梁紇(しゅくりょうこつ)の家族は2人を認めなかった。葬儀にも出席させてもらえなかった。
Julia「孔子の父親は大家族をもっていた。しかし彼は金持ちではなかった。既に多くの娘たちに資産を分け与えていて、びっこの息子のためにも何がしかを残さねばならなかったからだと思うが、孔子の父は健康で元気な男の子を持てたことで幸せだったと思う。彼の年老いた妻たちや娘たちは、彼と同じように喜んでいたとは思えない。」
親戚から見放され、孔子と母は食べ物にも困るようになった。彼等は人里離れた小さな村を離れ、16Kmはなれた曲阜チュー・フーに向かった。曲阜で彼等は新しい生活を捜し求めた。しかし、彼等の厳しい試練はその時に始まったのだ。
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父の家庭から拒絶され、孔子は繁栄していた都市曲阜にやって来た。
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曲阜における若い孔子の生活は厳しかった。食事も不十分で、母親は狭い畑で野菜を育てるのに苦労して働いていた。彼らが生き残るには、孔子は母親を助け、自分たちだけでなんとかするしかなかった。
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Tu「彼はあらゆる肉体労働をした。他人の家の床を掃き、家を掃除し、市場に買い出しにも行った。彼は、あらゆる肉体労働をしたので、人々の生活についてその奥まで理解するようになった。しかし、彼には際立った特徴があった。それは学問に対する信じられない程の好奇心だ。」
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知識に対する彼の飽くなき欲求は他の貧しい子供達と彼を離れさせていた。それは彼の母親も認めていて、彼女は彼の学問を支援した。
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Tu「彼女は息子が自由に育つ環境を創るのにとても真摯(しんし)だった。勉強し、学生になって、出来たら政府の役人になって成功することを願っていた。彼女は息子に期待していたのだ。」

醜く、不器用で、照れ屋の孔子には友達はなかった。他の男の子たちが戦争ごっこをしている時、彼は一人の遊びを考え出し、自分で粘土から造った玩具の容器を使って古代の儀式の真似をした。
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若き天才は自分の頭で創り出した穏やかな世界のために、乱暴に走り回る少年時代を放棄したのだ。10代の後期になるまでには、知識に対する彼の欲望は巨大になっていた、孔子は中国文明、悲惨な戦いの歴史、更には詩の雄弁さについて疲れを見せることなく学び続けた。
Kong(孔家の第75代!)「孔子は自分に課した目標を達成しようと駆られていた。彼は人格を向上することに執拗だった。彼は言っている【棺桶の蓋が被されてしまったら、学ぶ時間は無くなてしまうんだから、勉強を止めるように言われて、判りましたって言えますか?】と。」
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(mh:ネット情報によれば、孔子を祖先とする家系図は世界最古のものとしてギネスにも登録されています。2560年以上も続いていることは驚くべきことです。孔子に対する中国人の並々ならぬ敬愛が働いた結果でしょう。現在生きている子孫の総数は200万人!最も代を重ねた家系は83代とのことです。)

しかし、孔子の人生に最大の悲劇が訪れる。彼が愛した母が死んだのだ。孔子が愛した唯一人の人の死は彼を悲しませた。彼は辛い屈辱に立ち向かわねばならなかった。
Tu「彼は母を埋葬するのが自分の責任だと考えていた。古代の仕来りによれば母親は彼の父つまり、母親の夫と共に埋葬される。しかし、母は彼に、父親がどこに埋葬されているのかを語ったことが無かった。近所の人々が彼を気の毒に思い、彼の父が何処に眠っているのかを教えてやった。そこで彼は母を父の近くに埋めることが出来た。」
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この仕事が終わると、孔子はきっと賢くなることを誓い、母の魂に別れを告げた。

彼は若者なら押しつぶされてしまうような苦難を味わったのだ、絶望的な貧困の恐怖や冷淡な排斥による心の痛手を。しかし孔子は塩のように苦(にが)い人生を力強い、二度と忘れることが無い試練の場に変えていたのだ。後年、彼は言っている【高貴な人は悲劇を想定することはあっても悲劇を生み出すことはしない。家族愛は金よりも尊い贈り物だ。】

彼の母が逝って、孔子は世界で一人になってしまった。
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家がない、非合法で貧困な孤児で、将来について頼れる親戚も無かった。彼は、水に写る自分の中に、醜い巨人を見た。
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伝説に寄れば、孔子の背丈は9フィート6インチ(289cm)だった。実際は6フィート(183cm)くらいだっただろう。しかし、古代の中国では、6フィートの孔子は他の男と比べたら塔のようなものだったはずだ。孔子は他の人にはない優れたものを一つ持っていた。彼の卓越した聡明さだ。国土を統治することができるはずの才能だった。

中国はまさに混沌と血なまぐさい争いの中にあった。非情な戦士たちが権力を握り、人々を奴隷のようにこき使っていた。孔子の将来はほとんど破壊され尽くしていた。
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しかし、驚くべきことに、その時、運命の神が彼に微笑んだのだ。

紀元前6世紀、孔子が住んでいた町、曲阜、は、中国にいくつかある互いに争い合っていた公国の一つ、魯(ろ;Luルー)の首都だった。
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公式には魯は代々受け継がれている公爵dukeによって統治されていた。しかし、現実には、公爵は力を失っていて、何年もの間、実質的な統治者は、悪名高い3人の将軍の家族だった。
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その内の一つが巨大な男だった孔子が驚くべき才能を持っていることを知り、彼に穀物倉庫の監督の仕事を命じた。孔子の最初の仕事は見かけよりも重要なものだった。というのは古代中国では、穀物は貨幣としても使われる重要なものだったのだ。
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彼を雇った男がどんな人物であったとしても、長年の貧困の後の定収のある仕事は、次の飛躍を目指す彼にとっては感謝すべきものだったはずだ。

19歳になって孔子は結婚した。女房がどんな女だったか、なんという名前だったのか、知られていない。知られているのは彼等には一人の息子と、その後、何人かの子供がいて、結婚生活には問題があったようだ、ということだけだ。
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Julia「孔子は一人の息子と、少なくとも一人の娘がいたことが判っている。娘は孔子の弟子の一人と結婚したという記録を見つけている。娘はもう一人いたと考えている人もいる。しかし、かれの女房のことについては、一つ言われていることがあって、私は確信を持ってはいないのだが、孔子と女房は離婚したという。はっきりしていることは、孔子と女房とは上手くいっていなかったということだ。」

仮に結婚生活が上手くいっていなかったとしても、孔子は義務として穀物倉庫を管轄して彼の家族を養っていた。
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30歳になるまでには、彼は少年時代の夢を大きく膨らましていた。国家の重要な為政者になって、血なまぐさい争いに終止符を打ち、平和を取り戻すのだ。

Tu「多くの人々は、引きこもるか、隠者になって、自分の精神の中に生きる道を見つけ、社会とは出来るだけ関わらず、この嫌な世から離れようとしていた。しかし孔子は言った【私は鳥や獣たちと戯れて暮らすことはできない。私は人間だから、人間たちの中で暮らす。】そこで彼は世界を変えるという選択をしたのだ。それを自分の誓約とすることが、彼を行動的にした。」

曲阜の図書館に閉じこもり、孔子は歴史書や古典の詩の本を立て続けに読んだ。
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中国の過去をどこまでも調べることで中国の未来を変える鍵となるものを見つけようとしていた。

そして、ついに彼は驚くべき、急進的な考えを公表する。
【人は教育を受ければ、身分差は消滅する。】
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Roger「孔子にとって、教育とは、ある年齢に達するまで続けるものではなく、人生そのものだ。孔子は、人は教育されることによってより良くなると信じていた。孔子は身分には興味を持っていなかった。お金を持っていない人と、とても裕福な人との違いには関心がなかった。」
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【もし皇帝の息子や王女に資質がなければ、彼等は平民を統治する立場から退(しりぞ)くべきだ。もし平民の息子たちが資質を持っているのなら、彼等は統治者の地位まで引き立てられるべきだ。】
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Julia「孔子は高貴な身分でなかろうが、あらゆる身分の人でも弟子として受け入れて学校を始めた。これは当時ならかなり革新的だった。彼以前で、そのようなことをした人はいないのだ。それゆえに、彼は中国というよりも全アジアが生み出した、最も偉大な教師と考えられている。」

孔子の素晴らしい学校では、貧しいが、若く頭脳明晰な農夫や、裕福な家の息子たちが、身分の差を忘れ、対等に接しあって、正義と真実を願う新たな結束を産んだ。燃え上がる決意と、確固たる信念の下で、彼の言うところの卓越した人間、高貴な生まれではなく高貴な思想をもつ官僚、になるよう、弟子達を指導した。
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【誰でも卓越した人間になれる。必要なことは向上しようと決めることだけだ。】
しかし、その決意を貫くのは容易ではない。孔子は彼に従う者全員に、絶対的な誠意、厳格な自己制御、飽くなき徳を要求した。
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【卓越した人は何が正しいのかを考える。小さい人間は何がもうかるのかを考える。卓越した人は自分自身に多くを強いる。小さい人間は他の人に多くを強いる。卓越した人は多くの仕事を当然として受け入れる。小さい人は不満で一杯だ。】
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何年か過ぎると孔子の名声は高まり、遠方から来る弟子も増えて集団は膨れ上がった。彼は自分の使命にまい進する人間になった。家族から離れ、弟子達の成長に力を注ぐことに専念した、将来を夢見ながら。
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一つの仕事が残されていた。中国を真に変革するためには、彼は公国を統治している男の注目を引き、政治的な力を獲得しなければならない。くる年くる年、孔子は魯の統治者から声がかかるのを待ち続けた。
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くる年くる年、彼は名声を積み上げていた。しかし、誰も、彼に政府の職責を提案してこなかった。
失敗に直面した孔子は、自らの力で自らの哲学を実践せざるを得なくなった。卓越した理想的な人物として振る舞いながら、静かに失望の年月を耐え続けた。
紀元前501年。50歳の彼は、切望する権力を手に入れる機会はもう来ないだろうと思っていた。
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しかし、まさにその年、全てが変わった。魯で権力を持っていた3家は、互いに激しく争っていた。権力を喪失していた公爵家系の若い指導者デュ・ディンは、実権を回復する好機だと考え、孔子に学校での指導を止めて、自分の助言者になってほしいと依頼した。
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孔子は抜擢されたのだ。これは、よりよい社会を創る機会ではないのか?若いデュ・ディンを指導して中国の聖人君主に変えることが出来るのではないのか?
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デュ・ディンは孔子を魯の統治責任者にした。とうとう、孔子は自分の考えを実践する力を持つことになったのだ。今日、孔子が行ったいくつかの改革は奇怪に見える。例えば、男と女は互いに道の反対側に離れて歩かねばならないといったものもある。しかし、その他のものは驚くほど、先を見通した施策だ。例えば貧しい若い子どもや老人には支援金を贈るよう命じた。
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自らの主張を推進することで、公僕として彼が何世紀も進んでいたことを証明したのだ。

【他の人でも私と同じように犯罪を裁くことはできる。しかし、私はその犯罪が起きないように状況を改善することが出来る。】
【家族を愛することは、ほかにも輝きを与える。家族に対する親切は、社会に対する親切を生み出す。】

Kong「孔子は彼が生きていた時代ではなかなか受け入れられなかった。彼は人間性、慈悲という考えを推し進めた。彼は言っている【自分がしてほしくないことを人にしてはならない。】 【平民を馬鹿にしたり、好き勝手にこき使ったりする代わりに、教育と知識を与えねばならない。】これらは“社会の基本は人民だ”との考えによるものだ。」
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人々は孔子の高貴な考えに基づいて制定された法律を受け入れ、従った。古代の歴史書によれば、彼が魯を統治していた間、町は安全で、犯罪はほとんど起きなくなり、商人は税金をごまかすことは無かったという。
この特別な期間、孔子の喜びは顔にも現れていたと言われている。中国を救うという彼の夢は現実になりつつあった。
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しかし彼の成功と革新的な思想は彼を危険な敵に仕立て上げていたのだ。彼の影響力を恐れた魯の3家は連携して孔子に対抗することにした。
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彼等にとって危険な改革者の孔子に、これ以上、仕事をさせておいてはならぬ!陰謀家たちは知恵を出し合い、単純で魅惑的な計画を生み出した。彼等は国中から美女を探し出し、彼女たちを贈り物として届けることにしたのだ、孔子にではなく、若い統治者デュ・ディンに。
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陰謀家たちが望んだように、デュ・ディンは昼も夜も敵が送り込んだ贈り物と時を過ごし、孔子と彼の改革は忘れ去られてしまった。

失望と屈辱で、孔子は弟子たちを連れて魯から出ていくことにした。
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伝説によれば、彼は故郷を離れる時、嘆きの詩を読んだという。
【女達の笑い声が私を不要な人間にした。女達の笑顔が私を不要な人間にした。彷徨いながら私は人生を終えるのだろうか。】
夢を打ち砕かれた孔子は、敵対していた人々に追放され、紀元前497年、世の中を平和にしてくれるだろう王子を求めて中国中を巡る旅に出ることになった。54歳で、普通の男なら、あちらこちらをさ迷い歩く生活などは望まない年齢だ。しかし孔子は普通の男ではなかった。以降13年の間、彼の意見を訊いてくれる統治者を求めて中国の東部を歩いた。
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各地を回り、孔子や弟子は税で押しつぶされ、統治者には無視され、侵略軍に虐殺される農民たちの過酷な苦悩を目にすることになった。孔子は訪れる場所のすべてで、厳しい窮状を見た。好く知られる一つの話では、彼はトラに食われて死んだ息子や夫のために泣いている女に出会ったと言う。
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Julia「孔子と弟子が彼女に訊いた“そんなに恐ろしい虎が近くに居るのなら、何故、今も暮らしているのか。何故、よその土地に移らないのか?”すると女は言った“もし別の土地に移ったら、もっと抑圧的な統治者に出会うでしょう。だから、ここに残っているのです。”これを聞いた孔子は弟子達に向いて“まさにその通りだ。抑圧的な政府は人食いトラよりも手に負えない。”」
人々のこと考える孔子だったが、統治者への思いが強かった。
彼は高貴な人々だけが人々の苦難を終わらせる力を持っていることを知っていた。彼だけが彼等を指導できる。
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【まず統治者に“徳”について教えることだ。彼が徳を得たなら、大臣たちに、さらには平民にも、徳が伝わる、あたかも病が伝染するかのように。】

しかし孔子にとって不運だったのは、“徳”は指導者たちが感染したいものではなかったということだ。
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Julia「孔子は理想を求める男だった。しかし、彼の時代の統治者たちは理想を求める人々ではなかった。彼等は自分たちの喜びばかりを求め、領地や権力を更に拡大することだけを求めていた。」
統治者は次々と孔子に面談し彼と話をしたが、彼を雇うことはなかった。彼はひるむことなく、弟子達をつれ、次の土地では中国を救ってくれるだろう統治者に会えるかもしれないと歩き続けた。
しかし、彼は、恨みではなく、敵意を受けた。それは彼の責任だったのだろうか?
中国の歴史書によれば、孔子は現代の人々が考えている九人の聖人と全く異なっている。
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Roger「孔子は徹底して厳格だった。逸話に寄れば、あるとき、道に座り込んで飲んだくれている年とった男に出会った。」
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「孔子は彼の所に歩いていき、杖で彼を叩いた。そして“若い時は何もせず、中年になっても家族を養えず、年をとっても、自分が死ぬべき時を知らない。お前は恥知らずだ。”と言うと、彼はまた男を杖で叩いたという。」

この旅の間に、孔子は別の、有名な哲学者にあった。神秘の男、老子で、道教の始祖だ。
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老子は孔子に自分の本心を話すのは控えた方がいいと警告した。
Roger「老子は孔子にこう言った。“あなたの問題は知恵がありすぎて他の人々を厳格に批判することです。人を非難していると、自分の身に危険が及びますよ。”」

老子の警告は冷淡な予言だった。彼が心配したように、孔子の素っ気ない物の言い様は中国中で敵を作っていた。彼の過激な主張は彼の命を危機に晒した。彼を殺そうとしていた王の土地では、扮装して旅をせざるを得なかったこともある。彼はやっとのことで暗殺を回避した。しかし、彼の危機はその時だけではなかった。

別のケースでは、彼は戦士で王の屋敷に招待された。
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そこへ向かっている時、敵対する王の役人が彼を引き留めた。
Roger「役人は軍隊を派遣すると孔子と側近を取り囲んだ。彼等は水や食料がないまま、暫くの間、留まらざるを得なかった。孔子によれば弟子達は落胆したようだ。しかし後で孔子に聞いたところでは、彼は講義をしたり、冗談を言ったり、とにかく元気だったという。」
孔子たちは結局、友軍に助け出してもらうことになった。大抵の場合、当時の中国の統治者たちは孔子を襲う事は無かった。彼等は、もっとひどい仕打ちをした。彼を無視したのだ。

紀元前484年、孔子が魯を発って既に13年が過ぎ去っていた。彼は依然として中国の聖人を探しながら彷徨っていた。
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67歳の彼は、父と同じように、偉大な目的を果たすことなく人生の最後を迎えようとしていた。しかし、484年、驚くべき連絡が彼の元に送られてきた。以前の弟子の一人が魯の役人となり、統治者を説得して孔子を故郷に呼び戻すことにしたのだ。放浪は終わり、彼は曲阜に戻った。
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それは正義と平和の中国という彼の理想を実現する最後のチャンスだった。

13年に及ぶ放浪の後、孔子は故郷の曲阜に戻った。彼は政府の高い位置に就くことを熱望していた。失意の底にいたはずだったが、彼は未だに、指導し育成すべき王子を見つけ出せるかもしれないと期待していた。
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曲阜に着くと彼は直ぐに統治者たちに呼び出された。その一人が彼に“どうすれば正直な役人を探すことが出来るか”と訊いた。孔子の答えは極めて素っ気なかった。“あなた自身が正直であることです。”
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魯の統治者たちは孔子に政府での地位を与えることはなかった。望みは消え失せ、彼は書室に閉じこもり、詩や歴史書の編纂に打ち込んだ。しかし彼の正直な心は、真実を否定することは出来なかった。中国を救おうという彼の偉大な夢は決して満たされていなかったのだ。
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これまで学んだことから、これまで2世紀もの間、偉大で力のある人達が国を血まみれの戦いに引き込んできたのを彼は見てきた。人々が更なる悲劇に巻き込まれてきたことも見てきた。彼の家族は彼を慰めてはくれなかった。彼は長年、妻と離れて暮し、娘は結婚し、息子は勉強を怠(なま)け、若くして死んだ。孔子は少しばかりの涙を流しながら、息子を適切に葬った。
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老齢の彼には生徒達が本当の家族であり、気も紛(まぎ)れていた。歴史書によれば彼は3千人の弟子を持っていたという。しかし心から従う者は72人だけだった。何年もの間、その内の一人の生徒が彼の特別のお気に入りだった。貧しく、しかし聡明で、名はイエン・フイ顔回という。
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Julia「孔子は彼のことを、気に入っている弟子だと言っていた。だから顔回はいつも幸せだった。彼は、とても貧しく、食べ物にも事欠き、狭い路地にある小さな家で暮らしていたが、心はいつも満たされていた。彼は貧乏に満足し、学ぶことを愛していた。この2点は、顔回と他の弟子達との特徴的な違いといえるだろう。」

恐らく孔子は顔回を愛していたのだろう。
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というのは、この若き天才が、孔子が若かりし頃に体験した貧困と、真実を求める情熱を思い起こさせていたからだ。人生の終わりに近づき、彼は、顔回なら自分の仕事を引き継いでくれるだろうと知って、心が安らいだ。しかし、顔回は突然、病に罹り、そして死んだ。41歳だった。孔子は聖人としての沈着を保とうと試みたが、顔回の死は大きな痛手だったようだ。自己統制を貫いた人生において、中国で最も偉大な哲学者が初めて泣き崩れたのだ。
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Roger「顔回が死んだ時、孔子は言った【天は我を見捨てり。天は我を見捨てり】。顔回は孔子から奪い去られた。顔回は孔子が一生懸命に育てた弟子で、希望の光だったのだが、それが失われてしまったのだ。落胆は大きかった。」
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顔回の死後、孔子は深く塞ぎ込んでしまった。若い時、彼は天からの救いを求めて世間から隠遁した人を軽蔑していた。年を取り、彼は人間の力の限界を知った。
【今、私は“天はその意志を持っている”ことに気付いた。】
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紀元前479年、73歳の中国で最大の思想家は死んだ。彼の最後の言葉は辛辣なものだった。
【私の所にやって来て、私を彼の師匠として連れていく指導者は誰もいないのか?】
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Morris「孔子は自分が失敗者だと信じて死んだ。中国に大した影響を与えられなかったと思っていたはずだ。しかし、事実は全く逆で、彼の思想は支配的になり、長い間、中国や周辺の国の全ての思想に影響を与えることになった。」
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多くの偉大な思想家のように、孔子は彼の哲学をほとんど書き残すことは無かった。しかし、彼の教えは彼と共に死んだわけではない。それらは彼が指導した弟子達の心の中に引き継がれていった。

彼の死から2千5百年後、孔子は彼が夢にも考えたことが無い程多くの人々に影響を与えている。
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繁栄を続けるアジアで、かれの教えは、勤勉に働き、教育を受けることが成功への道であると信じる何百万もの人々に、比類するものがない程の繁栄をもたらしている。今日でも、孔子の精神は中国における血生臭い戦いやテロを終わらせようとする勇気ある改革者を鼓舞し続けている。
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Tu「天安門悲劇の後で、孔子の伝統は、個人の尊厳、反抗の精神、更には西洋社会における人権とか、自由、を考える上で豊かな資源となりえることを、多くの中国人知識者は悟り始めている。」
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Julia「私は彼が遺した遺産は人類にとって重要だと思う。人間は重要なのだ、何故なら、人間とは自分自身を改善することができるものだから。我々は我々自身を、我々の未来を創ることが出来るのだ。」

【私が15歳の時、学ぶことを心に決めた。】
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【40歳の時、私が目指すべきところが何かを知った。60歳で、不変の真実を見抜き、70歳で、心の要求に従っても決して正義に背くことは無い。】

子曰、
吾十有五而志于学、 吾れ十有五にして学に志ざす。
三十而立、 三十にして立つ。
四十而不惑、 四十にして惑(まど)わず。
五十而知天命、 五十にして天命を知る。
六十而耳順、 六十にして耳従う。
七十而従心所欲、不踰矩、 七十にして心の欲(ほっ)する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。
(フィルム完)
・・・・・・
冒頭でも触れたように孔子と釈迦には類似点がとても多いのですが、孔子は聖者の治世者を育て上げて社会をよくしようと考えていたようです。しかし、ブログ「Buddha」でご紹介したように、釈迦は、そういう発想は全く持っていなかったんですね。この点から、私には釈迦のほうが頼りになると思いますが、孔子が偉大な人物であったことは間違いありません。自分が生きていくだけで精一杯だった春秋時代、孔子は、中国を変えたい、良くしたい、という高邁(こうまい)な思想を持ち続けていたのですから、それだけでも偉人と言えるでしょう。

既にご紹介したかも知れませんが、私が大切にしている孔子の言葉をご紹介いたします。

「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」
詩三百、一言を以て之を蔽(おお)う、曰(いわ)く思いに邪(よこしま)無し。
(詩経という本には3百もの教えがあるが、これらの教えの言わんとすることを一言でいうなら「思いに邪(よこしま)無し」だろうね。)

「不以言挙人、不以人廃言」
言(げん)を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず
(言う事が良いだけでは、その人を推挙しない、あんな人が言う事だから、といってその言を(良し悪しも考えずに)廃しない。)

「過則勿憚改」
過てば則ち、改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ
(間違ったら、それを改めることに遠慮していてはならない。)

今(5月20日)、TVでは舛添東京都知事が政治資金や都の費用の使い方について記者会見中です。
「お騒がせしご心配をかけていることにお詫びします。専門家の第三者の目で厳格に見直してもらい、改めて皆さんにご報告させて頂きます。皆さまにご心配をおかけしないよう努力し、今後も都知事の職責を果たしていきたい」とのこと。
自分がしたことに悪い事があったとすれば是正するが、あったかどうかは自分には判断できないから第三者の目で見てもらうが、どうあったとしても知事を辞めるつもりはないとの主張です。家族との旅行や夕食、雑貨や車や絵画の購入、奥方の家を事務所に使って高額家賃を払っているなど、誰が考えたって政治資金規正法を逸脱しているのは明らかなのに、舛添氏はそうは思っていないんですね、判らないって言っているようですから。世間では“せこい男”だとの評判が定着しています。それが彼には判っていないんですねぇ。いや、判っているけど、世間がどう言おうが、どう見ようが、まずは金だ、と考えているのでしょう。浅ましいです。孔子の有り難い教え「過てば則ち、改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」を説いても馬の耳に念仏でしかありません。となれば、法で裁くしかありません。

Story of Confucius
https://www.youtube.com/watch?v=bWHt9FR0b_M

(完)

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mh徒然草(特番):東京都知事選

7月14日です。一昨日の12日、記者会見で、鳥越俊太郎氏が4野党の推薦を受けて都知事に立候補することを宣言しました。

今回の都知事選では立候補者を巡り、色々な話題が出ています。どんな選挙結果になるのか、神のみぞ知るのでしょうが、前岩手県知事の増田寛也氏(64)、自民党衆院議員の小池百合子元防衛相(63)、鳥越俊太郎氏の3人の中から知事が選ばれるのは確実視されています。

昨日までは日本弁護士連合会元会長の宇都宮 健児氏(69歳)も立候補宣言していましたが、この4人の中で、所謂(いわゆる)政治家は小池百合子氏だけです。他の3名は非政治家で、mhの感覚では、誠実な人ばかりのようですから、どなたがなられても東京都の改善は進む気がしています。

しかし、小池氏は、政治家で、自民党との確執もあり、違和感を感じます。そもそも、自民党の衆議院議員であるのにもかかわらず、自民党に事前に相談もせず(?)都知事選立候補宣言する行動は異常です。都議会の冒頭解散を選挙公約のトップに早々と挙げて公表する記者会見にも驚かされました。小池氏固有のスタンド・プレーと言えるでしょう。国会議員と兼務はできないが、都知事選に立候するかどうかは議員本人の自由であるという規定しかなければ、知事選で勝利したら議員を辞任し、負けたら議員を継続することになります。そんな虫のいい話があっていいとは思えませんが、政治家が決めることですから、あったとしても今更、驚くほどのことではありません。

小池氏の動きは“小池の乱”などと揶揄(やゆ)され、自民党は快く思っていないにも拘わらず、立候補宣言を取り下げるように強く申し入れることもなく、党籍剥奪など断固たる対応をとることもありませんでした。情けない程のダラシナサと言えます。立候補は本人の自由意志で決められるべきで、党としては口をはさむべきではないと考えているとはとても思えませんし、その考えは政党として正しいとは思えませんが、もしそういう気持ちが少しでもあるとしたら、自民党の議員がTV番組に出演して自分の考えを発言することなんて、何も問題ないはずなのに、緘口令を敷いている自民党は、恐竜時代のような古臭い体質を持っていると思います。

しかし、党が候補者を決めるのを待たず、党に仁義を切ることもなく先に手を挙げた小池氏には、政治家のずるさを感じます。これに対する自民党の仕打ちは、増田氏を党推薦の候補とする、と決めただけで、小池氏に対する処分はありません。政治家の思惑というか、かけひきというか、庶民感覚とはかけ離れた世界で、物事が動いている感じです。

鳥越俊太郎氏の立候補宣言に関してどう思うかをマスコミに訊かれた小池氏は「究極のあと出しジャンケンですね。」と皮肉っていました。自民の推薦を得られないことが確定すると「パラシュートなしでの立候補となります」とも発言していました。自分の“先だしジャンケン”については触れず、“パラシュート”などという訳の分からない話を持ち出す小池氏は、典型的な政治家だと言えるでしょう。政治家、つまり、国民優先ではなく、自分の議員生活を優先するタイプ、ということです。今回の都知事立候補も、大臣にしてもらえずにくすぶっているより都知事の名声を得たい、と考えたからではないでしょうか。
(mhパラシュートというのは、戦争で敵と銃撃戦をしている最中に、敵の陣営の後ろにパラシュート降下した味方が、敵を後ろから攻撃するという、援護射撃を指した“政治家の専門用語”でしょう。)

東京は首都とは言え、地方の組織であって国会とは別です。政治家、つまり国会議員がトップになるとしたら文字通り天下りであって、好ましい形とは思えません。都知事も政治家以外の人から選ばれるべきだとmhは思います。

何度もブログで非難させて頂きましたが、政治家を長くやると、政治家を続ける、つまり選挙に勝つことだけに執着し、政治家としてなすべきことはおざなりになってしまうんですね。小池氏の場合、1992年から国会議員を続けていますから、政治家人生は24年になっています。

今回の都知事選では小池氏は落選するとmhは予測しています。落選しても規則が許すなら国会議員を辞任しないでしょう。その時、自民党は小池氏をどのように処遇するのか。これまでの流れを見ると、党から何かするのではなく、小池氏側から自民党を離れて無所属議員になるとの申し出があって、自民党はほっと胸をなでおろす、というストーリーが現実性が高いと思います。

政治家としての活動はせいぜい10年とし、それを過ぎたら退任した方がよいと思います。その方が日本国だけではなく本人にとってもよいでしょう。都知事選に言及するなら、地方の首長は国会議員が務めるべきでは無いと思います。首長を辞めたら国会議員に立候補するというのは問題はないと思いますが。

(追記)ブログを見た方から議員失職に関するニュース紹介がありました。
産経ニュース7月14日
「自民党の小池百合子元防衛相(衆院東京10区)は、14日告示の東京都知事選に立候補したことに伴い、公選法の規定に従って衆院議員を自動失職した。同区の補欠選挙は、鳩山邦夫元法相の死去に伴う衆院福岡6区補選とともに、10月23日に実施される見通し。」

The Monkees - I'm a Believer (Lyrics) Español & Ingles
https://www.youtube.com/watch?v=x_njf3J5obk
(完)

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美しき姫君の不思議

この絵、どこかで見たことありませんか???
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Wiki:『美しき姫君』(うつくしきひめぎみ、伊: La Bella Principessa)
15世紀後半に描かれたとされている絵画。盛期ルネサンスRenaissanceの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinciの真作ではないかという可能性が論議されている肖像画である。この作品は羊皮紙(Vellum)にパステル、ペンとインク、淡水彩(ウォッシュ技法)など、複数の絵画技法を用いて描かれた作品(ミクストメディア)であり、大きさは 33 cm x 22 cm となっている。
オクスフォード大学名誉教授の美術史家マーティン・キェンプMartin Kempは『美しき姫君』に関する書物を著し、この作品に描かれている女性はミラノMilan公ルドヴィーコ・スフォルツァLudovico Sforzaと愛妾ベルナルディーナ・デ・コラーディスとの娘ビアンカ・スフォルツァBianca Sforzaであり、のちに『美しき姫君』と改名された作品であるとしている。

今回は、この不思議な絵を巡るYoutubeフィルム「Mystery of a Masterpiece傑作の不思議」をご紹介します。レオナルド・ダ・ヴィンチの手になるものか?それとも・・・
それは、ブログの最後で明かされます。お楽しみに。
・・・・・・・・・
彼は恐らく、これまでの歴史の中で最高の芸術家だろう。彼の才能はとてもユニークなので、彼のノートさえ数十億円の価値がある。レオナルド・ダ・ヴィンチ。モナ・リサを描いた天才だ。
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彼のかず少ない完成された作品は西洋社会では宝物と呼ばれるものばかりだ。だから、考えてみてほしい、もしあなたが、これまで知られていない、レオナルドが描いた絵を手中にした時のことを。例えば、この不可思議な若い女性の肖像画だ。
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もしそれが本当にレオナルドの手によるものなら、数百億円の価値があるかも知れないのだ。しかし、その前に、あなたはそれが本物であることを証明しなければならない。
「私はそれがレオナルド・ダ・ヴィンチの作品であることにどんな疑いも持っていない。」
しかし、懐疑的な意見は数えきれないほどある。
「この絵画がレオナルドによって描かれたという可能性はほとんどないと思う。」
今、利害関係のない個人調査家たちが、この肖像画は本物か、贋作かを鑑定しようとしている。
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過去の名も無い芸術家の作品か、本物のレオナルドか。鑑定調査は何層も塗られた絵具の内部まで行われ、当時の塗料と同じ組み合わせでも行われ、更には肖像画に描かれた若い女性の周辺と、その肖像画が造られる経緯(いきさつ)についても行われた。驚くべき新たな発見と、予想していなかった指紋、ナイフで付けられた切り傷・・・
「隅の方には、下方向に切り取ろうとしていて、滑ったようなナイフ瑕がある。」
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これらのことは、今、この傑作のミステリーを解き明かすかもしれない。

「Mystery of a Masterpiece 傑作の不可解」
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それは、どこからともなく現れた肖像だった。しかし、ひょっとすると百億円の価値があるかもしれない。理由は簡単だ。この肖像画は最も偉大な天才の一人、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品かも知れないのだ。

物語は1998年1月30日ニューヨークから始まる。クリスティーズ・オークション・ハウスは例年恒例の古典的巨匠の競売会を開いた。
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競りにかけられた作品のひとつは、普通とは異なる趣(おもむき)の一品だった。若い女性の肖像画で、樫(かし)の木の板に接着された、羊皮紙として知られる動物の皮の上に、チョークを塗って描かれていた。それは油絵drawingというよりも水彩画paintingのようだった。クリスティーズのカタログによれば19世紀初頭のドイツの作品だ。
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芸術品収集家ピーター・シルヴァーマンPeter Silvermanはオークションに参加するため、パリからニューヨークに飛んできていた。彼は掘り出し物bargainsを見つけてはそれを利益に変えて生計を立てていた。彼は、クリスティーズが大きな勘違いをしているのではないかと考えていた。
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シルヴァーマン「私は自分にいいきかせた。これはとてもいいものだと。私には何故カタログで19世紀のものとなっているのか理解できなかった。私の最初の反応は、掘り出し物を見つけたぞ!ってことだった。それが何かについては確信はなかったが、間違いなく19世紀のものなんかじゃあないし、贋作でなければイタリアで描かれた絵だ、という確信があった。」
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もしこれが古い物で、その上、イタリア製だとしたらクリスティーズが提示している価格よりもずっと高いはずだ。シルヴァーマンは競(せ)りの指導権を握って値を付け続けた。しかし、彼は最後まで競り上げはしなかった。
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シルヴァーマン「私は160万から180万だろうと考えていた。」
しかし、絵は220万円よりも僅かに安い金額で落札され、ピーター・シルヴァーマンはチャンスを逸した。
シルヴァーマン「二度と、あの絵にお目にかかることはないだろうと思った。」
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しかし9年後の2007年、ピーター・シルヴァーマンは、著名なディーラーのケイト・ギャンズKate Ganzが所有する東73番街にあるギャラリーで再び、この絵に出会った。二度目のチャンスだ、逃すわけにはいかない!
シルヴァーマン「私の心臓の中で爆弾が破裂したような感じだった。とても信じられない幸運だった。でケイトに売値はいくらか訊いてみた。彼は220万円だと言った。私は躊躇しなかった。“その値段ならいいよ。買うよ。”絵を入れた封筒を小脇に挟み、デパートからオレンジが入った袋を持ち出すみたいな気分で、ギャラリーを出たんだよ。」

パリに戻るとシルヴァーマンは、買ったばかりの絵を見せびらかした。絵を見たある芸術家は、この絵はありきたりの絵ではなく、恐らくルネッサンスの時のものだと言った。細かく調べるにつれ、彼は驚嘆すべき考えに憑(と)りつかれることになった。
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これはルネッサンスの作品だと言うだけではなく、偉大な芸術家、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないのだろうか。レオナルドの名前をほのめかすだけでも、芸術分野なら爆弾の塊を撫(な)ぜるように危険なことだ。
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全ての芸術分野で恐らく最も謎に包まれた人物とも言われるレオナルド・ダ・ヴィンチは1452年から1519年まで生きていた。科学、自然歴史学、芸術に対する彼の飽くなき好奇心はルネッサンスを擬人化personifyした。しかし、今も残る彼の絵の数は極めて少ない。世界中の博物館で、およそ1ダースの絵がこの天才の手になるものだと認められているだけだ。
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マーティン・キェンプ「レオナルドの手によるものはとても少ない。彼がしたことはいつでも特別で、天才的な筆さばき、構成、視覚的な繊細さは際立った存在感を持っていた。我々は“これは彼が成し遂げたことだな”と感じるだけだ。」
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今、ピーター・シルヴァーマンは優れたレオナルドの作品が彼の膝の間に転がり込んできたのではないのかと信じる気になりつつある。
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もし彼が正しいのなら、彼のポケットには数十万円ではなく、数億円が入ったことになる。しかし、喜ぶ前に、僅かな疑いも残すことなく、レオナルド自身がこの肖像画を描いたという証拠を集めておかねばならない。

芸術作品を考える時、証拠とはどんな意味を持っているのだろう?
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肖像画には署名がない。この肖像画の存在を記した記録はどこにも残っていない。レオナルドの作品だと証明するには、芸術的、歴史的、科学的な3つの観点で証拠立てる必要がある。
しかしシルヴァーマンは手ごわい難題に出くわすことになった。芸術的な評価は完全に分かれていた。彼はマーティン・キェンプに連絡してみた。キェンプはレオナルド学派に関する、世界でも極めて影響力をもつ人物の一人で、肖像画を無料で調べることに合意した。
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キェンプ「我々は絵をいろいろな角度で眺めまわして、様々な事実を見つけることが出来るかもしれない。署名か、それと同じような性質のものが。」
彼の専門的な目は、直ぐに、ヘッド・バンド、後ろ髪を束ねているリボンなど、高解像度の写真に映し出されている細部に引き付けられた。
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キェンプ「例えばヘッド・バンドを見てみると、髪に対して少し傾いて付けられていて、髪がこの部分で少しへこんでいる。レオナルドはいつも物質の固さに対する優れた感覚を持っていて、それが押されるとどのように反応するかも理解していた。」
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目の周りに現れている繊細な絵画手法、
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キェンプ「この部分を大きく拡大すれば、小さく、細かな跡が見える、それは一本の毛で造られた刷毛(ブラシ)か何かで描かれているかのようだ。レオナルドしかできない技術だ。」
見れば見る程、この絵はこれまで発見されたことが無いレオナルド・ダ・ヴィンチの作品ではないかと、彼は信じるようになった。
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しかし、他の人物はキェンプ程の感銘を受けていないようだ。
デイビッド・イクサージオン(レスター大学)「私には、この絵がレオナルドによって描かれたものとはとても思えない。」
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デイビッド・イクサージオンはこの肖像画にダ・ヴィンチの才能を見つけられないという多くの研究家の一人だ。
デイビッド「芸術的な仕事に合致しないし、彼が成した作品のどの技術と比べても劣る。私の個人的な予感では浮かばれることは無いと思う。」

マーティン・キェンプでさえも100%の確信を持っているわけではなかった。
キェンプ「この絵には何か特別な物があるという思いが残っている状態では、それを拒否し続けるのが普通だ。何故ならそれに流されてしまうと、見たいと思うものも見ることが出来なくなるからだ。だから、いつも身を少し引いて、少し待てよ、それはないだろう、って言い続けることが必要だ。」
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芸術歴史家たちの意見が割れている状態では、シルヴァーマンは法医学的な検討に持ち込むしかないことを知っている。そこで彼はジアンマルコ・カプッツオに相談してみることにした。彼はイタリア人の芸術専門家でパリに住んでいる。
カプッツオ「彼は私に、レオナルドの絵を持っていると言った。で私は、冗談を言ってるの?頭は大丈夫?と言ったんだ。」
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カプッツオは明らかにすべき問題は非常に基本的なところにあると知っている。
カプッツオ「何故あなたはそれがレオナルドの製品だと思うのか?何故それが19世紀のものではないと考えるのか?何故それが偽物だとかコピー品だと考えないのか?それが19世紀のものではないということを人々に証明しなければならない。」
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そうだとすると、最初の明確な質問は、その肖像画がどのくらい古いものかということだ。特に、肖像画が描かれている動物の皮、つまり羊皮紙、がいつ頃のものかだ。
カプッツオ「私がその絵を見た時、まず羊皮紙を確認する必要がある、と伝えた。もしそれがルネッサンス時代のものでなければ、調べる価値は無い。」
カプッツオは、その肖像画からサンプルを採り、C14年代測定法と呼ばれる有名な方法で調べることにした。全ての植物は大気から炭素原子を吸収する。炭素は炭素14と呼ばれる放射性元素など、多くの形で吸収される。動物は、その植物を食べC14を体内に取り込む。
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そして動物が死ぬと体内にあるC14の量は予測可能な速度で減り始める。どのくらいのC14が残っているかを測定すれば、どのくらい前に、その動物が死んだのかを科学者は想定することが出来る。
シルヴァーマンの場合では、絵は動物の皮に描かれていた。従って、その羊皮紙がどのくらい以前のものかはC14測定で明確になるはずだ。

結果は19世紀ではなく、ルネッサンスの時期を示していた。予測によれば95%以上の信頼性で、その羊皮紙は1440年から1650年のものだった。
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レオナルドは1452年から1519年の間、生きていた。つまり羊皮紙の年代はレオナルドの生涯にオーバーラップしている。
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しかし、それは羊皮紙に描かれた肖像画がレオナルド・ダ・ヴィンチのものだと、あてずっぽうではなく科学的に証明することになるのだろうか?
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贋作者たちは芸術専門家や科学者に本物だと思わせるため、必ず古い材料を使う。リオ・スティーブンスは、その手のトリックの全てを知っている。彼は偉大な芸術家の手法を使って絵を描くことで生計を立てている。彼は贋作者ではない。しかし彼は、贋作者のやり方の秘訣を全て知っている。

スティーブンスの家は博物館のようだ。異なる国の異なる芸術家の製品ではないかと思われる絵画で埋め尽くされている。
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しかし、絵は全てスティーブンス自身が描いたものだ。彼は今、最近買った凡そ1万円の絵を犠牲にしてモネ風の新しい偽物画を描こうとしている。
スティーブンス「本当に優れた贋作者は、適切な材料を準備する。もし、19世紀のキャンバスに描かれた絵を造るには、19世紀に造られたキャンパスを使わなければならない。これは、1890年代のヨーロッパ大陸で描かれたかなりレベルの低い絵だが、これを使ってモネの絵を描いてみよう。本物みたいなスタンプ、本物の構造、本物の状態。だからもし誰かが見ても、その目やその心が騙される。このキャンパスに絵を描けば、誰かを騙すことができる、かなり価値のあるモネの絵が描けるかも知れない。」
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スティーブンス「この絵は120年もそのままだ。まずはそれを駄目にする。」
スティーブンスは塗料剥離剤の塩化メチレンを使ってオリジナルの塗料を溶かしていく。
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「ある芸術家が別の芸術家の作品を意図的に破壊していくっていうのはいい気分じゃあない。道徳的には悪いことだ。しかし、これが贋作者たちが実際にやっていることだ。」
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「これでモネのキャンバスだと見えるものが出来上がった。これから厄介(やっかい)な絵付けだ。」
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贋作が奏功するかどうかは、熱心な犠牲者を見つけられるかどうかにかかっている。
「贋作者は詐欺師のようなものだ。相手の思い込みを上手く活かす。もし誰かが、あることを真実だと信じ、期待しているなら、贋作者はそこに現れる。そして、その相手に声を掛ける。」
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彼は凡そ40時間を使ってモネの偽物を描き終えた。
「もし、あなたの知識が不十分なら、これが2,3億円する。」
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「世の中には大勢の贋作者がいる。いくつかの絵は、その作家の絵ではないのにもかかわらず、そうだと思われている。その出来が素晴らしいので、偉大な作家のものだと思われたりしている。モネのものではないか?などとね。」

毎年、収集家たちが偽造品に何億円をもつぎ込んでいることはあまり知られていない。FBI検査官ジム・ウィンは通常、それらの偽造品を厳重な証拠品倉庫に仕舞い込んで厳重保管している。全て芸術品関連のウインが関係した喚問調査で獲得したものだ。
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ウイン「これはゴーギャンの絵だ、と主張されている。クリスティーズ(mh:ニューヨークの有名なオークション・スタジオ)に出そうとしていたディーラーに委託されたものだ。」
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このゴーギャンの贋作は4千万円以上で売られた。
この2つのシャガールは典型的な偽物だ。
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「これらはそれぞれが5千万円以上で売られた。裏を見てみよう。何か書かれている。これは本物らしく見せるために重要なものだ。」
オークション・スタンプやサイン、シミさえもあるが、これらは全て偽物(フェイクfake)だ!
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「もしオリジナルがここにあったら、この偽物はそれと全く同じで、サインも絵のサイズも同じはずだ。全て騙すために行われたものだ。本物らしさを造り出すために行われたものだ。」

少女の肖像画では、最初の科学的試験である炭素年代測定で、絵が描かれている羊皮紙がルネッサンス時代のものだと証明された。しかし絵そのものも羊皮紙と同じように古いのだろうか?それとも最近描かれた偽物なのか?
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ジオマルコ・カップツオは別のテストのため、その肖像画とピーター・シルヴァーマンを載せてパリの町を移動しようとしている。
「大きくはないから封筒に入った。」
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スティーブンス「ジオマルコ!運転には気を付けてくれよな。ひょっとすると100億円の絵を運んでいるんだから、もし事故を起こすと、かんべんできないよ。」
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もしシルヴァーマンが100億円の価値があると確認したいのなら、もっと多くの証拠が必要だった。カプッツオは大通りに棲む、ある専門家の所に向かった。彼の名はパスカル・コッテPascal Cotteだ。彼は2億1千4百万画素の分解能をもつ特殊なカメラを発明した。そのカメラは絵の表面の下に描かれているものの組成の秘密も探ることが出来る。
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ルーブル博物館もコッテを招いて博物館で最も価値がある宝を調べさせている。レオナルドのモナ・リサだ。コッテはその傑作を調べた結果得られた特別なデータを使って、数世紀に渡る劣化を取り去り、オリジナルの色の強度や混合度を算出した。仮想清浄修復手法は、レオナルドが描いたであろうモナ・リサを浮き上がらせる。
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コッテは、同じ技術を少女の肖像画に適用しようとしていた。彼はまず、質を劣化することなく、イメージを数百倍拡大できる超高解像度写真撮影から始めた。髪一本の細部すら、マウスをクリックすれば見えてくる。
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コッテのカメラは別の特徴もある。彼は虹フィルターを使って裸眼では全く見ることが出来ない肖像画の部分を可視化する。
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コッテ「面白いのは、赤外線フィルターだ。これを使うと塗られている塗料の内部まで見ることが出来る。このカメラの革新的な性能の一つは3つの赤外フィルターがあって3段階のレベルの映像が取り込めることだ。」
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コッテの回転フィルターは像を13層に分ける。各々の層は異なる波長の光の下だけで見ることが出来る。
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異なる波長は異なる細部を浮き出してくれる。コッテのカメラの最も有効な像は、赤外線のもので、例えばここではチョークで覆われたペンとインクの線が浮き出て見えている。

少女の肖像では構図の大きな工程変化を、赤外線が浮き出してくれる。
コッテ「この顎の部分を見ると、ある変化が見受けられる。」
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「最も重要な変化は額部で見受けられる。赤外線の端部として見える。明確な線になっている。」
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コッテは肖像画の表面状況と、誰もがレオナルドの作品だと認める英国王室収集品の女性の肖像画の表面状態を比較した。このスケッチでは、レオナルドの“変化”は裸眼でも見ることが出来る。そしてコッテは、スケッチで行われた変化が肖像画の赤外線映像でしか見ることが出来ない変化と驚くほど似ていることを発見した。
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コッテ「この首回りで、わずかな修正が行われていることを発見した。多くの変化が額と首の両方で行われている。同じ場所で同じような修正作業が行われているのだ。2つの絵の習性が一定だと言える。」

コッテにとっては、これらの類似した変化は偶然の一致以上のものだった。これらの絵が同じ手で描かれたかどうかについて議論されているのだから。

しかし、ダ・ヴィンチの絵画技法に深く影響を受けたルネッサンスの芸術家がいて、彼が肖像画を描いたということはないのだろうか?
研究員クリスティーナ・ジェドウはレオナルドの工房で彼に雇われていた芸術家たちの研究をしている。
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ジェドウ「これらの芸術家はレオナルドの影響を強く受けていたの。同時に、彼等を区別するのは簡単よ。」
これはレオナルドの弟子の一人ジオバンニ・バツラフィオが描いたものだ。
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ジェドウ「レオナルドと比較できる唯一人の弟子はバツラフィオよ。しかし彼の画法は全く異なるの。」
ジェドウはこの不思議な肖像画を見たことがある。彼女はマーティン・キェンプやその他の人も気付いていた点について直ぐに指摘した。
顔の周りのペンの跡は、少し変わった方向に傾いている。
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ルネッサンスの時代としたら珍しい。左手を使う芸術家が描いたようだ。
キェンプ「右手で描けば右上から左下の方向の線になる。左手なら自然にこの絵のような方向の線になる。」
左利きとなるとレオナルド・ダ・ヴィンチよりもよく知られている画家はいない。
ジェドウ「レオナルドの全ての弟子は右利きだったの。誰も左手で絵を描いた弟子はいないわ。」
バツラフィオは右利きで彼の絵と不思議な肖像画とは明らかな違いがある。
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もし、肖像画がレオナルド自身の手によるものでないとしたら、それは誰か別の人がかなり苦労しながら左利き固有の方法を真似るかコピーして描いたということになる。

パスカル・コッテはレオナルド独特の手法が見つからないか、肖像画のイメージの調査を続けていた。そして突然、彼は、全く思ってもいなかったものを見つけた。
コッテ「私は肖像画の上の方で発見した。」
肖像画の左上隅に微かな、しかし明確なものが・・・指紋だ!
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これは最後の証拠になり得るだろうか?
レオナルドのほぼすべての作品の表面には指紋が残っている。絵具を延ばすために彼の手を使うのは彼の署名方法の一つだ。

キェンプ「ジネーヴラ・デ・ベンチには指紋がある。」
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「“チェチーリア・ガッレラーニ”や、未完成のバチカンの“荒野の聖ヒエロニムス(mh後述)”の絵にも指紋が付いている。」
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これからレオナルドを浮かび上がらせることが出来るのだろうか?
分析はスイスのローザンヌLausanneにある犯罪学研究所で行われた。
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そこでは、誰がやったのか、という質問に答えることを専門に研究している。今、生徒達が指紋鑑定専門家クリストファー・シャンポー教授の教室に集まっている。シャンポーは問題の羊皮紙からパスカル・コッテが採取した指紋の分析を教材に取り上げ、他の人達に見解をもとめた。
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指紋についての説明なしでシャンポーが資料をネットに掲載すると、明晰な学生や同僚たちが意見を寄せて来た。
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46人の検査者は指紋を識別するために彩色コード分析ソフトを使って指紋の特性を分析した。峰に沿って線を描く。マニューシャと呼ばれる別の側面については、別の印を使う。もし跡が明確なら実線を、もし明確さが少なければ点線を使う。
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500年前の指紋に対する評決は決定的なものだった。
「もし、評価者全ての分析結果を全て使うとすれば、これがそうだ。全てが点線のデータになる。つまり、この絵に信頼できる情報がないということだ。」
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メールで送られてきた結論は明確だった。「この指紋は価値が無く、分析に使うことは出来ない。」

シャンポー「もしエッジがあったとしても、特別に変った特徴とはいえない。誰の指紋にも見つかる特徴しか現れていないからだ。これだけの情報で誰の指紋かを断定することは不可能だ。」
部分的な指紋の調査は暗礁に乗り上げた。そして芸術界の中には、懐疑的な意見が依然として残されていた。多くの人は肖像画がレオナルドの腕前を反映していないと信じている。
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デイビッド・イクサージオン「この作品についてこれだけ意見が分かれているというのは、私には理解できない。私は、それがレオナルドによって描かれたとは思わない。私は間違いなくレオナルドのものではないと信じているよ。」

オックスフォード大学の芸術歴史家マーティン・キェンプはかれの評判が境界線上にあることを知っている。彼はもう少し確信的な裏付けを組み上げねばならない。
キェンプはファイン・アート学校の芸術家で世界でも有名な絵画教師のサラ・シムレイに、オリジナルの肖像画に類似する技術と材料を使って少し娯楽仕事をしてもらえないかを依頼した。
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シムレイ「レオナルドならどんな選択をするのか、山羊の皮か牛の皮か、牛なら厚い皮になるから、表面はより滑らかで平坦になるはずよ。」
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キェンプは、レオナルドが何故、この肖像画にチョークや羊皮紙という、普通とは異なる選択をしたのかを理解するのにシムレイの協力が役立つのではないかと期待していた。絵画技術に対するレオナルドの飽くなき挑戦の表れなのか?それとも全く、偽物の一品か?

キェンプ「これまでの調査ではレオナルドの作品だという考えで90%は正しい。しかし、残る10%でレオナルドのものではない、となれば、レオナルドの作品だという考えそのものは意味をなさなくなる。つまり、考えられる多くの中のたった一つのことだけでも全てが崩壊する可能性があるから、いつも、あらゆる調査を続けておかないと、間違った考えに流されてしまうことになる。」
類似な手法は準備の段階から行われる。羊皮紙にシミを付け、インクを確認し、肖像画の線をトレイスしながら、彼女は、これらのことがきっと役に立つと確信するようになった。
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シムレイ「こういう作業が絵画手法を見事に使いこなす飛びぬけた芸術家の仕事だったとの思いが明確になったわ。髪の毛一本、顔のほてり、それに目の周辺、眼窩(がんかeye socket)の中に引き込まれた眉毛。」
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「もしレオナルドのものでないとしたら、作者はレオナルドと同じように解剖学知識を持っていた人だと思うわ。」

人間解剖学を学ぶため、レオナルドは自分自身で死体解剖をし、露わになった筋肉や骨を驚くべき詳細さで書き記している。
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彼の研究は生きた人々の肖像画に新たな科学的な現実主義を導入することになった。絵に色付けするため、サラ・シムレイは自然の色素に富んだ様々な鉱物を混ぜ合わせて彼女自身のチョークを造った。
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最大の技術課題は吹き飛ばされぬよう、チョークをしっかり羊皮紙に固着することだった。
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それは重要な点を新たに喚起することになった。羊皮紙に描いたレオナルドの製品は一つも無い。それは、この肖像画がレオナルドのものだと信じる上では問題になる。いつもと違う材料を使って行われた、全く知らない作品となれば、不審者たちを二重に疑い深くする。
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チョークを羊皮紙に固着するため、シムレイは2種類の結合材を使った。一つは樹液から、もう一つは卵白から造った。
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シムレイ「結合材を色素と混ぜるのは色素を羊皮紙に固着するためよ。直ぐ剥がれたりしないようにね。使っている最中にも、状態が変わって延びやすくなったりそうではなくなったりするわ。白の上のピンクが効果的みたいね。」
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「そうね、薄く、とても薄く塗り重ねていって・・・。別の方法としては、チョークを削って粉末にして、羊皮紙の上に指先で直接塗る方法かしら。レオナルドが彼の指先で色チョークを塗らなかったっていう理由はないと思うわ。ね、上手くいくでしょ?」
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「この素晴らしくて、不思議で美しい製品が、普通なら互いに全く馴染まない自然界の材料を使い、かなり複雑な工程を経て仕上がっていくのを見ているのはとても楽しいわ。」
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普通と異なる色素を混ぜて使うのはレオナルドが好む方法の一つだったようだ。
クリスティーナ・ジェドウ「レオナルドは驚異的な実験者だったことは誰もが知っているわ。そんなもんだから、彼はよく大々的な失敗をしたのよ。」
レオナルドの実験は時々、トラブルを起こしていた。ミラノの修道院の最後の晩餐の絵では、ダ・ヴィンチは何世紀も続く伝統的手法に反して、新しい塗料を使い、湿った漆喰の上ではなく、乾いた壁に直接描いた。
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しかし、この実験は失敗だった。20年間内に修道院を訪れた人達が、キリストや弟子達のイメージ像は剥げ落ちていたと報告している。

不思議な肖像画で使われた、羊皮紙の上にチョークで描く技術というのも大胆過ぎる。
クリスティーナ・ジェドウ「レオナルドを知っている人の誰が、こんなことを彼がしたなんて思えるのかしら。誰が、全く実験的な方法で作品を造るなんてことを信じられるのかしら。」

サラ・シムレイ「こんな手法で材料と技術を組み合わせてこの種の結果が作品に現れるようなやり方は私も初めて体験したわ。」
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サラ・シムレイの実験で、問題の肖像画を完成させるにはレオナルドのような卓越した技術が必要だったことが確認された。懐疑的な人々は別の作者の可能性がある人物を思いついてはいない。ルネッサンス時代の、レオナルド以外の左利きの芸術家の誰なら、この肖像画が描けたというのだろう?

パスカル・コッテの写真探査で、裸眼では見えない部分が他のレオナルドの作品と類似性があることは確認されている。しかしマーティン・キェンプはもっと強力な証拠が必要なことを認識していた。
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彼は別の見方をしてみることに決め、彼の努力を少女が誰かを特定することに向けることにした。彼女は誰だ?何故、彼女の肖像画が描かれることになったのか?

キェンプは、彼女がいつ、どこで暮らしていたのかを特徴付けるかもしれない点に焦点を当ててみることにした。彼女の髪だ!
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エリザベス・ニニェラはイタリア・ルネッサンスの髪型を研究している。彼女は、長いリボンで巻かれたポニーテイルはコッツォーネと呼ばれる特別なスタイルだと気付いた。彼女はコッツォーネ髪型から、特定の時期、特定の場所、特定の王家にまで追跡することが出来る。
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ニニェラ「1491年、ラプリシタデステはコッツォーネ髪型をここミラノのスフォルツァ王室に持ち込んだのよ。で大流行したの。」
ルネッサンスの間、ミラノはヨーロッパで最も強力な都市国家の一つだった。
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20年間、スフォルツァSforza家によって統治されていた。ルドヴィーコ・スフォルツァはミラノで最も権力を持っている男だった。
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彼の妻がコッツォーネのスタイルを持ち込んだ時、王宮の女性達はそのファッションに続いた。
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ニニェラ「私たちは記録された資料を持っているの。スフォルツァ家では1491年から1497年、最も遅いケースでは1499年までコッツォーネの髪型が使われていたの。」

もし、そうだとすれば、レオナルド・ダ・ヴィンチは、正にこの時期、ミラノにいた。1482年から1499年、彼は芸術家、技術者として、最も強力な支援者ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えていたのだ。彼の多くの肖像画の中の人物は、王室の音楽家や貴婦人を含め、ルドヴィーコに関係している。
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肖像画の中の不思議な女性もルドヴィーコ・スフォルツァに関係しているのだろうか?髪型から見て、間違いないとニニェラは言う。
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ニニェラ「私には肖像画の女性は重要な人物だと思えるわ。多分、スフォルツァ家と繋がりがあるはずよ。」
としたら、その人物は誰だというのか?

キェンプはその疑いがある人物たちのリストを作り上げた。
キェンプ「親戚も検討した。スフォルツァ家に嫁いだ女房も候補者になり得る。顎の線は特徴的で肖像画のものとかなり異なる。
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ビアンカ・マリアBianca Mariaはルドヴィーコの姪(めい)でとても特徴的な顔をしている。
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しかし肖像画の女性とは異なるようだ。
そしてスフォルツァ家の周辺や歴史を調査していくと、建前上は無視されていた、ある人物が見つかった。ビアンカ・スフォルツァで非合法の娘だ。
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権力者ルドヴィーコ・スフォルツァの非合法の娘が肖像画の中の少女と同じ年頃だったのかも知れない。
キェンプ「彼女は恐らく13歳の時に結婚した。彼女の相手はルドヴィーコの軍隊の司令官ガリアッツォ・サンセヴェリーノでミラノでは重要な男だった。」
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ビアンカ・スフォルツァは結婚からたった4か月後、死んでいる。恐らく妊娠による体調不良が原因だ。今、マーティン・キェンプの調査はビアンカの命を甦らせようとしている。彼女は絵と同じ髪型だ。彼女はレオナルドの時代、ミラノの家族の一員だ。そして彼女はダ・ヴィンチのパトロンの娘だ。彼女に敬意を表すため、キェンプは肖像画に「ラ・ベーラ・プリンチ・ペッサ:美しき姫君」という名を与えることに決めた。
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それは刺激的な発想だ。しかし、重要な疑問は残ったままだ。もし、その肖像画が金持ちで権力家のパトロンのためにレオナルドによって描かれたというのなら、何故、“プリンチ・ペッサ:美しき姫君”に関する記録が残っていないのか?レオナルドの弟子が描いたコピーも無い。王家の財産目録にも書かれていない。もしキェンプが肖像画の歴史を辿ることが出来ないなら、また別の暗礁に乗り上げてしまうことになる。

しかし、パリの研究所で、映像専門家パスカル・コッテは肖像画がどこから来たのかを示すかもしれない、ある妙な“跡mark”を見つけた。絵の左側に沿って、誰かがナイフで羊皮紙を切り取ろうとしたような傷だ!
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キェンプ「誰かがナイフで切ろうとして、刃が滑り、もう一度やり直した時の傷のようだ。」

コッテは更に別の決定的なヒントを見つけ出した。一つ・・・
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二つ・・・三つの穴が羊皮紙にある!
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コッテは彼の発見をマーティン・キェンプに伝えた。キェンプは、これらの断片情報を纏め、ある理論を組み上げた。

三つの穴はシートを製本する時に出来たものだとは考えられないだろうか。そうだとすれば、ナイフの傷跡の説明も付く。肖像画の左側に残るナイフの傷は、誰かが、本から、一つのページを切り取ろうとした時に出来たものだ。
この考えはキェンプが抱えていたいくつかの問題を解決してくれるものだった。この肖像画が何故、羊皮紙に描かれていたのかを説明してくれる。更には、壁に飾られる肖像画の記録に何も残されていない理由、レオナルドの作品リストに掲載されていない理由も説明してくれる。
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本の中の一ページだとすれば、表と裏の表紙の間に閉じられて棚に収められていて、世の中に広く紹介されることはない。しかし、何故ビアンカ・スフォルツァの肖像画が本の中に仕舞われていたのか?それはどんな本なのか?

キェンプ「現時点での私の仮説ではルドヴィーコの非合法の娘ビアンカに捧げられた詩集本の中の一ページだ。1496年の結婚の記念だったのだと思う。それは本の中の最初の部分とかにあって、印象的なページだった。」
キェンプとコッテは十分な確信を得たので、コッテの写真や技術分析と、レオナルドの失われた作品であり、肖像画はビアンカ・スフォルツァで、彼女の結婚を祝う本の中の一ページだったに違いないというキャンプの理論、を纏めた本を二人で発行した。
しかし、キェンプの考えは疑い深い人々達を納得させることに失敗している。
デイビッド・イクサージオン「この絵がある記念のための本の一部だという考えがある。正直にいえば、私は、この種の絵を含む記念のための本があるとは思わない。」
しかし、突然、幸運が降ってきた。南フロリダ大学の芸術歴史学教授エドワード・ライトd.r.edward witeが一連のe-mailで“ポーランド国立博物館に、面白いものがある。きっと、あなたが見たいと思うものだよ”とキェンプに言ってきたのだ。

疑いを晴らすことが出来るかもしれないと考えたキェンプとコッテは直ぐにワルシャワに飛んだ。
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デイビッド・イクサージオン「もし、記念のための本を見つけだし、肖像画の女性が、本が示す女性と同じであって、そして本から切り取られた場所が見つかり、それがミラノでの生活の時期であり、更には羊皮紙にある孔と本の綴(と)じ孔が完全に一致するとしたら、その絵はその本のものであるという考えに同意せざるを得ないだろう。もし私が帽子の持ち主で、そんなことにでもなったら、喜んで帽子を脱いで跪(ひざまず)くだろう。」

ライトのe-mailは、まさにそのような本を指摘していた。スフォルツァ家の歴史に関する「スフォルッツィアーダ」と呼ばれる本だった。500年前のものだ。羊皮紙に印刷されている。
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そして歴史家も認めているが、ビアンカ・スフォルツァの結婚を記念するものだ。本はビアンカの死後、スフォルッツァの王女が1518年にポーランドの王と結婚するためにワルシャワにやってきた時に持ってきたものだ。
今、マーティン・キェンプとパスカル・コッテはポーランド国立博物館に居る。(mh:リアルタイムで撮影された映像です!)
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彼等はこの本の中で、失われていた最後の鍵を見つけたいと熱望していた。
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彼等は、失われたページが本の中にあるかを確認したいと思った。もしあるなら、どこのページがそうかをどんな方法で断定できるのか?答えは本を綴じる方法の中にある。
本は、何枚かの長いシートを重ねて隅を合わせて半分に折った、いくつものセクション(部分)を集めたものだ。
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もし、その中の一つのページが切り取られると、その反対側のページは、何らかの方法で固着されない限り、本から外れてしまうだろう。
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キェンプは本の中の肖像画は最初の方のページの、本の中身を飾るページilluminationの近くにあったはずだと信じていた。
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彼は、本の端を、各シートの跡を辿りながら、本全体に渡って調べてみた。
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しかし、裸眼で見るだけでは、一つの羊皮紙のどこが端で、どこが始まりなのかを言い当てるのは難しかった。そこでパスカル・コッテが特殊拡大カメラを使って写真に取り込んで、目でシートの一つ一つが見えるようにした。各々、特定の場所に焦点を当てて撮影し、特別なソフトで複数の写真を縫い合わせて一つの巨大映像を造り出したのだ。
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この本を構成しているのは3乃至(ないし)4枚のシートを2つ折りして造られたセクションだ。第一セクションを調べると3枚のシートで出来ていることが判った。2つ折りして重ねれば6枚の2つ折りページが出来るはずだ。しかし、羊皮紙の一枚は、二つ折りされた反対側が失われている!
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他のシートと違って、一致する相手側のページが無いのだ!よく調べてみたら次のページに接着されている!
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キェンプ「これら2つのページがどのように固定されているか、はっきり見て取れる。そしてこのセクションの最終ページは少し巻き上げられている。」

彼等は、失われたページがどのページなのかを探し出した。本の最初の方の、本の中身を飾るページilluminationの直ぐ前のページだ!まさにマーティン・キェンプが予言した通りだった。
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しかし、まだ一つ調べなければならないことが残っていた。それは、ひょっとすると全ての理論を台無しにしてしまうものかも知れない。シートの隅の3つの穴は本の縫い目と一致するか?コッテの高解像度カメラでは3つの穴は明確に確認できる。

本には5つの縫い目があった。
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しかし、ポーランド人の古物研究者によれば、この本は数世紀前に綴じなおされ、本の補強のためオリジナルの3つの縫い目に2つの縫い目が追加されたと信じられているという。そのとき同時に、ページは隅を切りそろえられた。
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キェンプとコッテは肖像画の3つの穴の配置が本の3つの縫い目に一致するか比較してみた。もし一致しなければ、肖像画がこの本から抜かれたと言う話は無しになる。もし一致すれば、それは作品が、レオナルドが描いた失われたビアンカ・スフォルツァの肖像画だという、マーティン・キェンプとの理論の強い裏付け証拠になる。

三つは完全に一致した!
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調べねばならないかも知れないと彼らが考えていた全ての芸術品で、という訳ではないが、キェンプが想定していた正にその本で綴じ孔と肖像画の孔の位置が一致したのだ!
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キェンプ「今はとても楽観的になっているよ。我々の考えが正しそうだという確信がふかまった。」

キェンプは残されているギャップを埋めようと、15世紀のミラノから若い女性の肖像画が辿ってきたはずの不可解な旅を調べ続けている。しかし、彼は既に一つの興味深い痕跡を見つけ終えていると言ってもいいだろう。
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芸術品収集家のピーター・シルヴァーマンは最大の利益を獲得した、つまり彼はある計画をもっているということだ。肖像画はスイスのある場所で密かに保管されている。シルヴァーマンは新たな発見を求めて世界を旅している。
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この美しき姫君の肖像画が次に日の光を浴びる時と場所はキェンプがレオナルドのものだという更なる証拠を見つけてくれるかどうかにかかっている。シルヴァーマンによると肖像画を18億円で買いたいとの提案が来ている。その提案は、彼によると「却下した」とのことだ。
・・・・・・
さて、みなさんは、この美しき姫君の絵について、どう思いますか?つまり、レオナルドの手によるものか?ってことですが・・・

ポーランド国立博物館に保管されていた本も贋作だとなれば話はべつですが、どうもそうじゃあないようですから「件(くだん)の肖像画は、その本、つまり、ミラノMilan公ルドヴィーコ・スフォルツァLudovico Sforzaと愛妾ベルナルディーナ・デ・コラーディスとの娘ビアンカ・スフォルツァBianca Sforzaの結婚を祝ってビアンカのために造られた本から切り取られたもの」との見解は99%の信頼性で正しいと言えるでしょう。

となると、残る問題は、その絵がダ・ヴィンチによって描かれたものかどうかに絞られます。

しかし・・・ダ・ヴィンチが描いたという記録が残っていない以上、ダ・ヴィンチらしい絵としか言いようがないと思うんです。
で~念のため、もう一度、ネットをチェックすると、Wikiに「《荒野の聖ヒエロニムス》に残されていた指紋と件の肖像画で見つかった指紋は一致する、とオーストラリアの法医学芸術専門家ピーター・ポール・ビロPeter Paul Biro, a Montreal-based forensic art expertが発表した」って言うんですね。
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その新聞記事のタイトルですが・・・
Leonardo da Vinci Fingerprint Reveals Painting May be Worth $150 Million
つまり、指紋確認の結果、肖像画の価値は150億円になったというんですね。
で~ピーター・ポール・ビロPeter Paul Biroをネットで調べると、彼はいろいろな訴訟に絡んでいるというか、巻き込まれているようでしたが、彼の主張は全て“却下”されていました!
それを頭に入れて次の彼の写真を見ると・・・
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どうも、彼の主張を頼りに、件の肖像画がダ・ヴィンチのものだと言うのは気が引けます。

で~mhは思ったんですね。ダ・ヴィンチが指図したか、構造を纏めたか、最後の仕上げをした可能性は高いが、彼以外の手も入っている絵ではなかろうかと。ダ・ヴィンチのものではないという確証はありません。かといって、彼のものだという確証もイマイチです。となれば、お釈迦様も仰っているように「中間の道」が妥当かと・・・

Nova (PBS) - Mystery of a Masterpiece
https://www.youtube.com/watch?v=Uh350VRTWb8
(完)

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mh徒然草96: ネフェルティティの墓は?(近況)

4月11日公開のブログ「ネフェルティティの不思議」で、ツタンカーメンの墓の壁画の裏に、彼女が眠る部屋があるというニュースについてご紹介しました。
昨年の11月26日、観光客もいなくなった静寂の中、日本人技術者の渡辺広勝氏は、光電製作所製の地中レーダーを使って計測を行い「明らかに大きな空洞がある」との結論を出したのです。詳細を確認されたい方は次のナショナル・ジオグラフィックの記事(日本語版)をご覧ください。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/120200344/?P=1
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その後、今年の3月末、確認のための再調査がナショナル・ジオグラフィック主催で別のグループによって行われ、結果は4月中旬に発表されるはずだったのですが・・・5月9日にやっと公開されました。

これによると、空洞らしきものは確認できなかったとのこと。エジプト考古学者は、当初、ネフェルティティの墓がツタンカーメンの墓の脇に隠されているとの考えに懐疑的でしたが、渡辺氏の調査結果を聞くに及んで、もしかしたら、と考え始めていたようです。しかし、これでまた逆戻りです。

3月の測定結果を分析したDean Goodman氏は、空洞は無い、と断言しています。彼によれば、渡辺氏は、測定したデーターはほとんど公開していないようです。胡散臭い!ってことです。この件について記者に質問された渡辺氏は「40年も使い込んだ機器の結果には、他の人は気付かない、私にしか見えない情報がある」と言っているようです。多くの専門家は、渡辺氏が20年以上も市場に出回っていない(古典的な)光電製作所製の測定器を使っていることに批判的だとのコメントもあります。

これらのことから、渡辺氏の空洞存在説は根拠がないのではとも思えますが、彼と一緒に仕事をしたことがある日本人考古学者は、実績もある彼の職人的能力を高く買っているようです。

今回の件では、エジプト学者の間で、過去のしがらみも絡んだ中傷合戦に発展していて、決着を付けるには更なる調査しかない、と記事は結んでいました。
関心がございましたら、次のURL(英文)で詳細をご確認下さい。
http://news.nationalgeographic.com/2016/05/160509-king-tut-tomb-chambers-radar-archaeology/

で~無責任な立場のmhがどう考えるかっていうとですね~今回の渡辺氏の見立ては間違いではないかと。73歳の彼は、11月の調査でエジプト出張した時、現地で体調を崩し、調査はできないかもしれないと心配されていたようです。神業(かみわざ)のような彼の判断力は時差ぼけによる体調不良で鈍ってしまっていたのではないかと。

ツタンカーメンの壁画壁の裏側に隠し部屋があるとしたら、壁の厚さは精々煉瓦の寸法つまり30cm程度でしょうから、超音波探査したなら、誰でもわかる明確な測定結果が得られるのではないでしょうか。それが、渡辺氏にしか読み取れない微妙な内容だったということ、別の人が別の機器を使って計測しても、何の兆候も見られなかったということから、壁の裏の空洞という考えは恐らく間違いではないかと。

考えてみれば、壁表面の凹凸測定結果に現れていたはずの、空洞を思わせる兆候に関する詳細解説はネットでは提供されていませんでした。言い出しっぺの考古学者ニコラス・リーブス氏は、ザヒ・ハワス博士が指摘するように、誇大妄想癖があるのかも知れません。

San Francisco-Scott Mckenzie
https://www.youtube.com/watch?v=WaPy1JBlxcI

(完)

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マヤ:失われた王国

中央アメリカで生まれた文明については、既に何度がご紹介させて頂きましたが、今回もマヤ文明に関するYoutubeフィルムで、少々古くて、初演は23年前の1993年です。フィルムには、ブログ「マヤ暗号を打ち破れ」で登場した2人のマヤ文字解読者が出てきます。その一人リンダ・シーレーLinda Scheleは1998年、55歳で夭逝(ようせい)しました。ご紹介するフィルムでは、ジャングルで元気にマヤ遺跡と取り組んでいる生前の彼女を見ることが出来ます。きっと幸せな時間を過ごしていただろうと思います。

で~私事ですが~6月、メキシコ・シティ周辺とユカタン半島のチェチェン・イツァChichen Itza近辺を旅行することにしました。今は5月のゴールデンウイークの最中ですが、このブログが公開される時には、既に帰国しているはずで、そんなこともあるもんですから、個人的な都合で恐縮ですが、出発前に今一度、マヤ文明の総括をしておこうと考え、見つけたYoutubeをブログ化させて頂くことにしました。フィルム自体は、なかなか上手く纏められていると思いますので、マヤ文明の理解を深める一助になるかと思います。
・・・・・・
彼等はコロンブスよりも数千年前からこの地にいた。
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パリがまだ小さな村だった時、彼等はジャングルから都市を彫り上げていた。
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彼等は生死を賭けて球技をしていた。天空の動きに従って暮しの予定を立てていた。彼らが書き記したものは謎が多く、我々はまだ解読段階だ。
(mh:現在は95%以上が解読可能です。)
「わぉ、これを見てくれ!」「本当にすごい!」
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現在、発掘調査速度は速まり、彼らが何者なのか、我々はついに見つけ出しつつある。
人骨専門家「骨っていうの?骨なら沢山あるわ。」
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彼等は神が自分たちをトウモロコシから作ったと言っている。彼等は、そう、マヤ人だ。
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時は1839年。所は西ホンジュラス。アメリカ人探検家ジョン・ロイド・スティーブンスは隊員を率いてコパンcopanと言う名の、人々に見捨てられたマヤの古代都市を探していた。当時、マヤについてはほとんど何も知られていなかった。スティーブンスはそれを知り始めようとしていたのだ。
数千年に渡る熱帯林の成長の中に隠れた、静寂な寺院跡や崩れ落ちた石は、何Kmにも渡って広がっていた。
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スティーブンスは神秘の念に打たれた。誰がこの場所を造ったのか?ここで何が起きたのか?
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それから数日間、スティーブンスと英国人芸術家フレデリック・カサウッドは廃墟の都市に関する印象を記録した。
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「それは我々の目の前に、大海を漂う難破船のよう横たわっている。マストは失われ、乗組員は沈んで消え去ってしまった。その船がいつ来たのか、何が船を破壊することになったのかを語る人は誰もいない。全てはミステリー、暗く、不可解なミステリーだ。」
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次の3年間、スティーブンスとカサウッドは、北の、もう少し知られていたマヤの一帯を訪れた。ユカタンではウシュマルUxmalとチェチェン・イツァChichen Itzaを、チアパスChiapasではパレンケPalenqueを訪れた。それでも同じ疑問は彼等に憑(と)りついていた。
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「誰がこれらの都市を造ったのか?都市は何故、見捨てられたのか?」
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マヤの古代都市は、南側はホンジュラスの一部からエルサルバドル、グアテマラ、北側はベリーズ、メキシコまで広がる一帯に残されている。
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そこに、何百もの小さな王国が点のように散らばって、それぞれ独自の歴史を持っていた。
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学者達が古典的マヤ文明と呼ぶ中心部は南側の低地に在った。そこが今回の物語の場所だ。
まずは最初に科学的な調査が行われたコパンCopanから始めよう。
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今日、一部で修復が進んでいるが、未だに不可思議な雰囲気の中に包まれたままだ。
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ビル・ファッシュはコパン都市計画の責任者だ。
ビル「コパンはマヤの主要な都市の一つだった。見つかっている遺跡からはそうは見えないが、4百年ほど繁栄していた間は、とても素晴らしい所だったんだ。」
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ビル「信じられない程の芸術家、彫刻家、建築家、技術者、天文学者、筆記人scribeたちがいた。現在の文化に例えると、ティカールTikalがニューヨークとすればコパンCopanはパリだったと言えるだろう。」
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この数十年間、毎年、10人以上のマヤ専門家と数百人の作業者たちはコパンの歴史の断片を繋ぎあわせて元に戻そうと試みている。ここで起きた物語は、石を一つずつ積み上げる度に明らかになりつつある。
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ビル「かつて建物を飾っていた、刻印された石の断片は、3万個以上もある。問題は、これらをどうくみ上げていけば答えが得られるのかについて何もヒントがない事だ。それらしい絵見本のようなものがないんだ。我々自身がそれを創り上げねばならない。」
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ビル「問題を悪くしているのはこれだ。ゴックGOKと呼んでいる石片だ。これらの石が建物のどのあたりに使われていたのか、“神のみぞ知るGod Only Knows”だ。」
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ビル「最初にここに来た考古学者たちが、このように、ここに積み上げている。」」
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「ここから石を一個ずつサイトに運んで積み上げてみて、おかしければまた元に戻して他の石で試してみるという具合に作業するしかないんだ。」

この困難にも関わらず、ビル・ファッシュのチームの専門家たちは数千もの刻印された石の断片をくみ上げ直し、数十の建物を甦(よみがえ)らせつつある。年と共に1千年前のコパンの姿は明確になってきた。
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しかし、マヤの権力者たちが自分たちの死体を埋めた寺院には、未だに多くの謎が隠されて残っている。
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古典的なマヤは金属についてはほとんど関心を持っていなかった。だからここには金は埋められていない。しかし、たまに、もっと価値のあるものが掘り出されている。
「これ見て、この顔!」「いいぞ。塗り直されてるな。スタッコstuccoが上塗りされている。」
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1992年ロバート・シャーラーは王家の墓を発見した。いくつかの土器容器も一緒に埋められていた。
「ここに絵文字glyphがある!」
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これらの容器を特に価値のあるものにしているのは、描かれた文様と並んだ絵文字だ。
マヤ文字解読者デイビッド「これらは魅力的な土器ですよ。書かれた絵文字についてどのくらい解読できるかなんとも言えませんけど。」
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40年前、我々は数個の絵文字しか解読できていなかった。今日、凡そ半分は解読できる。しかし、それには専門家が必要だ。
女性考古学者「この容器に足がついたようなものもあるのよ。」
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テイビッド・スチュアートDavid Stuartはマヤ学者の息子で、世界でも最前線の碑文研究者だ。
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デイビッド「今日、絵文字を読めるようになったことで、マヤはだんだんと一般的normalになっている。つまり人間的になっているということだ。何故なら彼らが歴史を持っていたこと、彼等は自分たちのことや人生における出来事について真剣に関心を持っていたこと、が判るようになったから。」

マヤの記述方法の一つはほとんど永遠に失われかけていた。16世紀にスペイン人宣教師がやってきた時、彼等は何百ものコディセスcodicesと呼ばれる折込み本を見つけ、直ちに燃してしまったのだ。
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今日では4冊のコディセスの一部分が残るだけだが、それらが、マヤについて考える道筋を建てる手助けをしてくれた。
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それらは天文学の情報で一杯の暦Almanacだった。
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暦を書いた男や女たちの筆記人は、高度な数学を使って、数千年の過去、そして数千年の未来の夜の空の動きを算出していた。
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彼等は宇宙が、あるものは長い、あるものは短い周期的な動きをしていることを知っていた。日食についても預言していた。季節と彼等の生活における行事の間の関係についても魅惑されていたようだ。
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更に、マヤは、紙よりもずっと長く残る手法で記録を残した。記録には日付や数字以上のものが現されている。
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これはコパンの碑文階段だ。石段の表面に、彼等の統治者の時代に起きた重要な出来事が記録されていた。新しい世界における最も長い記述テキストと言えるだろう。
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しかし、最初にここを修復した考古学者たちが、崩れていた石を無作為に並び直してしまったので、今日、我々は、断片しか解読できない。彫像専門家のバーバラ・ファッシュは階段の上の1200の絵文字のカタログを作っている。
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いつかこれらの絵は、コパンの王たちのもっと完全な物語を話してくれるだろう。

ほかの碑文はここ数十年の劇的な研究進歩のおかげで、もっと容易に解読できるようになっている。
マヤ文字解読者リンダ「これは大地に棒で植物を植えた、という意味よ。」
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「これが日付。それは・・・」
碑文学者のリンダ・シーリーLinda Scheleは絵文字解読作業の一部を分担していた。
リンダ「ここには小さな木、テーがあって、こちら側で東を向いているのは若者で、西側は髭を生やしているでしょ?年寄りよ。」
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リンダ「人々が歴史についての意識を育てあげ、歴史を記録するということは、彼らが何をしたのかということとは別の、特異な面よ。」
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リンダ「今、私たちがやろうとしていることは、失われた歴史を再現することなの。何故って、アメリカの歴史は1492年にコロンブスとともに始まったってわけじゃあないんだから。紀元前2百年に始まっているのよ、最初のマヤの王が自分の名を石に刻んだ時から。」
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最初の王が自分の名を石に刻むよりもずっと前から、マヤ人は肥沃なコパンの谷間で暮らしていた。
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彼等はトウモロコシを育てる農業者だった。彼等の生活は自然界のリズムによって定められていた、植え付けも収穫も、誕生も死も。
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しかし、西暦400年頃、ヨーロッパではローマ帝国が崩壊を始めた頃、ある変化がコパンの谷に広がった。緩やかに褶曲して流れるコパン川の岸辺で、石で造られた建物がジャングルの土地から立ち上がってきた。
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煌(きら)びやかに彩色された建物が、数千人が集まることが出来る、白い砂が敷き詰められた中央プラザを囲んでいた。
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貝殻やカカオ豆を通貨に、タバコや翡翠(ひすい)、羽毛などの取引が行われていた。
都市の中心には球技場が造られていた。
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球技の目的は重いゴム製のボールを、手足を使わずに動かし続けることのようだ。
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ある石垣に彫られた記録によれば、競技者は腰の帯にいくつかの人間の頭をぶら下げていた。しかし、それが競技の敗北者たちに現実に起きたことか、単に象徴的に記録に残されているだけなのか、誰も正確には知らない。
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ビル「ボールは太陽の動きを表すものだと考えられていた、さらに拡大解釈して月や星も。そして、それらが絶えず動き続けていることを彼等は確認したかったんだ。もし、その競技を正しく行えれば、つまり神々を正しい方法で敬えば、農業のサイクルを安定させることができ、太陽は規則正しく昇り、雨は必要な時に降り、豊作になると考えていたんだろう。」
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マヤの神聖な世界では、神々は全ての生命の源で、王だけが神々と接触する能力を持っていた。神は太陽や月とともに物理的な宇宙を維持し、その見返りに人々からの崇拝を要求した。その要求の究極は血だ。
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リンダ「マヤの人々は、神聖な瞬間や、重要な行事に関して何か知りたいと思った時、血を差し出していたの。血は、彼らがチュレルと呼んでいだ“魂”を運ぶ車のようなものだったのよ。」
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リンダ「血は人の体内で流れているだけではなく、建物や木、空の中でも、この世の全ての神聖な物の中で流れていて、彼らが血を差し出す時、それはチュレル(魂)を活性化することだったの。ジョージ・ルーカスの“フォースForce”みたいなものよ。もしオービーワン、カノービ(mh?)だとすれば、死の星Death Starの戦いで“フォース!”って叫びながら宇宙船を操縦して突っ込んでいくようにね。つまり、そういったことをマヤの人々はこの儀式で行っていたの。そうすることで彼等は、宇宙の生きた力と彼らが考えているものに触れていたってことね。その“力Force”は今もここにあるのよ!」

特別な場合は、王さえも血を捧げた。それはマヤの生活の中で最も神聖な儀式だった。何日かの断食と精神的な準備の後、エイ(魚の一種)の脊椎で自分の皮膚に孔を空け、紙の短冊の上に血を垂らした。
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この犠牲的行為によって神々へ続く道が口を開けた。紙の短冊が燃されると、その煙の中を神々が昇って行くのが見える、とマヤの人々は信じていた。
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今日、古代マヤの子孫たちは、彼等の祖先にかなり似た生活を送っている。
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彼らが記憶している神話、彼らが執り行う儀式、これらは全て、時間というものが始まった時に神が彼等に与えてくれたものだとマヤの人々が信じている伝統なのだ。
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カシミロ・サガジャウはマヤの祈祷師で、収穫時の田畑を祝福する。
カシミロ「我々はカチケラ族で古代マヤの直系子孫だ。我々の宗教はずっと昔からのものだ。子供のころ、マヤの祈祷師から学んだ。種まきの時期と収穫の時期、いつ火を点けるか(mh:焼き畑農業です)、いつトウモロコシ儀式をするか、を夢の中でマヤの神々から教えてもらうんだ。」
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マヤ人の儀式に対する特殊な感情は、今から凡そ500年前、ユカタンに到着したスペイン人宣教師たちがここにきて直ぐに気付いたものの一つだった。
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カソリック教会が伝統的な信仰方法を禁止すると、古いやり方は地下に潜(もぐ)ってしまった。
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今日、マヤ人が従う宗教はこれら2つの信仰がまじりあったものだ。彼等は今でも古い文化の多くの面に粘り強く縋(すが)りついている。
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チアパスChiapasやガテマラの高地では、彼等の個性的な着物は、彼らがマヤ人だと言うだけではなく、彼らが暮らす村を象徴している。マヤの女が、フィピールhuipilという伝統的なブラウスを身に付けていると“偉大な命の木が地中から出ているように、夢に従って織られた布の中央から頭が出ている”と言われている。
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(Wiki:ウィピル;メソアメリカの先住民族の民族衣装の1種で、長方形の織物を2~3枚縫い合わせて作られた貫頭衣)
メキシコのチアパス高地で、チップ・モリスは20年以上も機織り人たちの研究をしている。
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チップ「機織り人はいつも、自分たちのデザインは世界の始まりから、つまり文明の始まった時から続いているものだと言っている。」
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「古代の彫像や遺跡を見ると、そこに描かれている文様と、今日、機織りされた布の文様は同じだ。」
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「文様の中にあるのはマヤの世界の地図のようなものだ。それは我々が立っている地表の地図ではなく、夢の世界の地図だ。神々が居る世界で、雨を管理する生き物や天使や雷神が暮らす世界だ。ブラウスの上の文様には道はないし家もない。あるのは雨を創り、命を創り、世界を維持する宇宙の神聖なイメージだ。」
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世俗的な世界と神聖な世界の境界線がどこにあるのかほとんど判らない世界では、全てのことは見えている以上のものだ。
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ピラミッドは祖先が暮らした神聖な山を象徴している。ドアは、山にある危険な地下世界に続く洞窟への入口、通路を表している。
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マヤ人は自分たちが死ぬと地下世界に行くと信じていた。彼等はそこをシバルバXibalbaと呼んでいた。
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そこは畏怖(いふ)の場所だった。水が流れる、病と衰退の世界で、普通の人は逃げ出すことなどとてもできない場所だった。
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マヤの人々が死をどのように考えていたのかが、コパンから200Km北のカラコルCaracolと呼ばれる都市遺跡で調査されている。
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かつて繁栄していた行政上の中心地で、多くの墓が見つかっている。
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「岩をどかすまで、このままにしておこうか。」「そうね」
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アレン・チェイスは土器専門家、ダイアン・チェイスは人骨の専門家だ。彼等はマヤの人々がどのように死を考えていたのかを理解しようとしている。

アレン「我々は物事を西洋的な手法で考えがちだ。しかしマヤは西洋社会ではない。彼等が西洋人がやる方法でしたことなんて一つもない。だからマヤ人がどのように生きたのかを我々西洋人が理解するのは難しいんだ。つまり、我々は普通、たとえば毎日、死人と一緒には暮らさない。我々は死体を自分たちの家の部屋に仕舞っておくことなどしない。しかしマヤ人は、それを何世紀もの間、していたんだ。」

ダイアン「大丈夫よ。とてもいいところだわ、アレン。ここは皇族の墓だわ。」
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一般人は自分の家の床下に、エリートは墓に埋葬された。
ダイアン「容器は素敵で、きれいな形で残っているわ。この多彩の容器は前よりも後ろ側の方が綺麗なままだわ。」
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「骨はどうなってる?」「骨?沢山あるわ。少なくとも2人、頭の向きは南ね。骨の保存状態もいいわ。この隅には誰か別の人の足の骨があるわ。最初の2人のものじゃあないみたい。男じゃあなくて多分女ね。誰か別の人のものよ。」
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マヤの人にとっては家族の一人だけでなく、大勢を同じ場所に埋めることはよくあることだった。
「私は、家族の霊廟だったと考えているわ。祖父が死ぬとまずそこに置かれ、祖母が死んだら、その隣に置いていくのね。」
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「月日がたてば息子や娘も死んで、その時は必要なら祖父や祖母の遺体を少しずらしたりして、息子をその近くに置いたりするの。こうして何人もの死体が収められていって、霊廟は骨だらけになるの。」

考古学者には墓はタイムカプセルのようなものだ。死者と一緒に埋められた物は、時々、正確な時期や名前を示してくれる。それは古代のマヤ人がどのように暮らしていたのかを知る手掛かりになる。
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そして時には、そこで、美しいとしか言いようがない品物も見つかる。
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(いずれも土器の容器です。)
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カラコルの墓のように、コパンの建物も固有の埋もれた歴史を秘めている。
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しかし、それを見つけるには、どこから手を付けて良いかわからない作業が必要になる時もある。
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ホンジュラス人考古学者のリカルド・アグルシアは1978年からコパンで調査を続けている。
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「私の主な関心事はここの人々にどんなことが起きていたのかを探し出すことだ。それは私が引き継いだことの一部、国の仕事の一部でもある。若い時、初めてここの遺跡にやって来たのだが、とても衝撃を受けた。それ以降、いつも考えているんだ。人々に何が起きたのか、彼等は何者か、彼等はどんな生活をしていたのか。」
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この4年間、アグルシアはコパンの人々がどのように暮らしていたかを我々にもっと語り掛けてくれるかも知れない寺院ピラミッドの発掘をしている。第16寺院の造りを見ると典型的な皇族の建物のようだ。その中には考古学的な問題が埋まっていたのだ。
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マヤ人にとっては、特定の場所が神聖だった。そこで、彼等は前からある寺院の上に自分たちの寺院を建てた。
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作業者たちは先に造られていた建物の上層部が大きすぎたら、そこを壊し、その上に新しい構造物を建造したようだ。

アグルシアの調査メンバーは上に積み上げられた構造物の一部を取り除いて、その下に迷路のようなトンネルを造った。
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アグルシア「トンネルの中を歩いていると迷路にいるみたいで混乱するよ。3Dで、上ったり下がったり、よく道を見失うことがあるし、何が見えているのか判らなくなる時もある。」

左側の平坦な壁は、かつて、古い寺院の外壁だった。その壁に沿って最後まで歩けば、元の寺院の寸法を確認することができる。
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アグルシア「私は今回、近道をして、別の壁に突き当たることが出来た。この壁はずっと南に伸びている。そこで上を調べてみたら、埋められていた構造物の上の段に行き着いて、それは更に上に伸びていた。ここから見ても判るようにテラスは更に上に伸びていてかなり大きなピラミッドであることが判る。調べてみたら、およそ8階建ての建物と同じ高さで、テラスは段になってどんどん上に続いている。」
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しかしアグルシアが次に見つけたものは全く思いもよらないものだった。2番目の構造物の内側に3番目の構造物があったのだ。そしてこれは、それまでのものと異なっていた。アグルシアがロウサリラRosalilaと呼ぶその構造物は完璧な形で残されていた。ホコリや土砂を取り除くと、当時の塗料の跡がまだ残る大きな顔(マスク)の一対が現れた。
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「これまで我々が見つけた顔のほとんどは高さ1~2mで横方向には5~6mの大きさだが、調べてゆくと更に横にどんどん伸びていて、まだ終わりがどこか確認できていないんだ。」
ビル「どんな様子?」
アグルシア「あっ、ボス。最近、ここに来ていないでしょ。」
「すごいね。信じられないよ。」
「辺りが全部、赤く塗られてるんです。」
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アグルシア「これから下の方を調べようとしているんです。既に鳥の像が2つ見つかりました。一つは左側のここにあって頭は北向きで、多分、もう一つは、嘴(くちばし)が目の上を覆うように曲がっています。」
ビル「羽根はみんな毛羽立っているね。ここの遺跡のどの鳥よりも高いところにあるから昔なら数Km離れたところからでも見えていただろうな。本当にすごい像だ。」
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明るい彩色が施された彫像で飾られたロウサリラは、かつてコパンでは最も高い寺院だった。
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中央入口の両側には2つの巨大な鳥が落ち行く夕日に向いている。その上では、くねくねうねった大蛇が空に向かって体を延ばしている。ロウサリラに施された念の入った装飾は考古学者達に問題を投げかけている。
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ビル「我々は、ロウサリラが何のための建物かを知りたいと思っている。何故、150年もの間、そこにあって、誰も触ることなく残されたのか?何故、完全に埋められてしまったのか?埋めた人々は、ロウサリラには全く手を加えていないんだ。他の建物は、もっと大きなもの、すごいものを造るために、みんな、解体してしまったというのに。何故、これだけがそんなにまで敬われ、そのままの形で埋められて残されることになったのか?更には、その中に何があるのか?何を仕舞い込んでいるのか?それをアグルシアに見つけてほしいと思っている。」

しかし、新たな発見が行われる前に、雨季がコパンに降りて来た。
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考古学者たちは家に戻り、全ての発掘作業は、雨季の終了まで中止された。

およそ6ヶ月後、雨が上がった。
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天気は爽やかだ。いよいよ第16寺院の発掘が再開された。これから半年間、作業者たちはロウサリラを覆っている土砂を取り去っていく。

雨がまた始まる直前になって、不可思議な寺院は、もう一つの驚きを提供してくれた。構造物の入口通路にある秘密の隠し場所のような所から、アグルシアは1300年前に埋められた何かを見つけたのだ。
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アグルシア「見て下さい。何か黒いもので・・・角はとても鋭くできてます。」
彼らが見つけたのはひとかたまりの刀剣だ。特に神聖な材料だった火打ち石から切り出されている!
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これらの刀剣は恐らく儀式で使われていたものだ。そこに彫られた顔の主は王の祖先だろう。ひょっとしたら生贄にされる人かも知れない。
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このように繊細な、薄く削られた刀剣を造るのにどのくらいの時間がかかったのか、今日では誰も、そんな技術は持っていないので、とても想像することができない。
結局、ロウサリラでは9本の火打石の刀剣が見つかった。恐らく9人の“夜の王”を表しているのだろう。
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アグルシア「ここに1300年もの間、眠っていたんだ。とても信じられないよ。つまり、見事な芸術作品だよ。信じられない程、繊細な造りだ。こんなすごいものを見つけられたなんて光栄だよ。」
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「戦いの炎の中で捕まえられたんだ、きっと。これから写真をとって、寸法を測って、当時の人達のことをゆっくりと考えてみたい。」
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「それは彼等にとってとても重要なことに違いない。とにかく感動している。とても特殊な感覚だ。こんなこと、いつも起きることじゃあないよ。」

アグルシアがロウサリラで見つけた火打石は、古代マヤ文明が最盛期だった西暦7世紀頃に、この場所に仕舞われたようだ。
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当時、マヤの多くの王国で、新しい建物が盛んに造られていた。
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いくつかの都市は道で繋がり、交易で繁栄していた。
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コパンはマヤの南の端だ。しかし、北では、マヤの世界の根底を揺さぶる出来事が起きていた。
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ティカールTikalはマヤの偉大な都市の一つで、周辺の都市が羨むほど繁栄していた。
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恐らく、ティカールの王たちは、他の王国が彼等に驚異を与えるだろうとは考えてもいなかっただろう。しかし562年の春、カラコルCaracolがティカールを攻撃し、打ち破った。それに続いた激動の時期に、王家の一部はジャングルに抜け出し、新たな都市を打ち建てた。今日、研究班のベースキャンプがその場所を示している。
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かつての偉大な都市ドス・ピラスDos Pilasは、今、再びジャングルに覆われている。残された断片を集め、当時の劇的な権力復活の様子を調べ上げる作業はアーサー・デムレスが指揮して進められている。ここで彼が調べ上げたことは、マヤに関する考えを変えつつある。
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アーサー「4,50年前、我々は、マヤの人々は平和を愛し、神政なtheocratic社会で、天空の動きを学んだ学者のような王たちがいて、自分たちだけで静かに暮らしていたと考えていた。しかし、最近の碑文解読や、新たな遺跡の発掘で要塞が確認されたことなどから、マヤの人々はとても暴力的だったことが判ってきた。恐らく新しい文明世界で最も好戦的な人々だったかも知れない。彼等は、絶えず戦や、王国の世襲闘争や、領土拡大に明け暮れていたんだ。」

実は、1990年、アーサーのチームは、この見解を裏付ける明確な証拠を発見したのだ。
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アーサー「それは大きな、完全な姿で残る碑文で、大国ティカールとドス・ピラスを巻き込んだ一連の戦争、紛争、占領などが記録されていたんだ、戦の戦利品についても。それは驚くべき情報の断片だ。これを解析することで、マヤの歴史における、この極めて過渡的な時期に対する我々の考えは変わりつつある。」

デイビッド「これは本当に素晴らしい発見だよ。“彼はこのカラクムール王の部下だ”っていっている。信じられない言い出しだよ。“我々はティカールと対等に戦える”って言っている。」
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スティーヴ「多分、考えなきゃあ駄目だ、つまりそれが従属なのか、それとも・・・」
碑文学者のデイビッド・スチュアートDavid Stuartとスティーヴ・ハウストンSteve Houstonは、石に刻まれた記事がどのくらい解読できるか確認するために呼ばれてやってきた。
「・・・ボナンパックとトニカへの連絡のために。その後は・・・X、これを見て!ここにある。アトゥムだ。この円は祭壇のようなものを示している。そしてここには奉納品が説明されている。階段だな。見て、これは段だよ、段だ。ピラミッドだよ!」
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「つまり、この出来事は、統治者Aの父親を巻き込んだ新しい事件だ。この頭蓋骨の絵文字はティカールの統治者の名前だ。」
(mh:2人の若い文字解読者は興奮していて、話があちこち飛ぶもんですから、仰ってることがうまく翻訳できません!)

アーサー「当初、マヤの戦いは、多かれ少なかれ儀式的だったようだ。多くは宗教的な目的で行われたのだ。ここに描かれている男達は大袈裟に着こんでいる。」
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アーサー「古代の衣装で、大きな旧石器時代の槍を持ち、戦場に出かけては、敵と対峙して叩き合った。そして片方は捉えられ、連れ帰れられて生贄にされていた。」
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石段の碑文が明確にしたのは、8世紀のある時、それまでの儀式的な戦いが、権力拡大のための軍事遠征に道を譲ったということだ。ドス・ピラスの王はパシオン川沿いの町を攻撃し、決定的な交易ルートを抑えた。
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アーサー「戦い方は過激になり、占領目的に変ったように思える。実際、他の領土を吸収する出来事も起きている。つまり、収まりがつかなくなった。ある種の軍事競争が始まったのだ。」
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アーサー「敵国の心臓部への攻撃が公然と行われるようになった。人々の居住地を攻撃し、寺院を焼き払うといったことが。」

新しい形の戦いはカラコルでも行われるようになった。
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アーサー「カラコルやマヤ全域において、8世紀、そして9世紀は大きな変革の時で、沢山の戦いが行われた時期だ。カラコルは、それまで、上手く戦いを進めていた。」
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「しかし、この時期の終わり頃には、隣の文明を打ち負かして、自分たちの王国に取り込むということではなく、大勢を捕えて生贄にすることが行われている。恐らく、人々はとてもびくつき出していたはずだ。」
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アレン「あなたがマヤの都市にいたとしよう。あなたはいつも争いに巻き込まれている、そして「わかった、私は捉えられて役務につく」と言う、恐らく1年の内3ヶ月間、ここを離れた外の地で。しかし、今度はそうではなくなって、略奪的な敵軍が攻め込んできて、男をみんな引っ張って畑に連れ出す代わりに、首を切り落として棒に差し、巨大な頭蓋骨の丘を造るようになった。となれば、あなたは恐怖で慄(おのの)くだろう。」
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「そうなれば誰だって言うに違いない“なんてことだ!ここから逃げ出そう。”」
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ドス・ピラスでさえも、この恐怖に襲われることになった。碑文の石段の上にも、慌(あわ)てて造られた防御壁の名残りがある。
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アーサー「考古学的には、この防御壁は我々がここで発見した最も重要な特徴の一つだ。この石組みがこんなにも整然としている一つの理由は、王宮で、微細に削られ積み上げられていた石を取り崩して持って来て、組み上げているからだ。つまり、この石垣は、生死を賭けた最後の防衛手段で、石段の上までずっと続いていた。」
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都市の最後の日の姿が明らかになってきた。
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攻撃者たちを跳ね除けようとする必死の試みとして、ドス・ピラスの市民は2つの防御壁を都市中心部の周りに造り、その中に移り住んだ。
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「これは、包囲され壊滅されようとしていた時、ドス・ピラスの中央広場を埋め尽くしていた小屋の下に敷かれていた土台だ。」
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「これが示すのは偉大な王国の最後の瞬間の絶望だ。繁栄が驚異的だっただけに、凋落は壊滅的だった。人々は塔のように聳(そび)え立つ寺院の下の儀式用広場に押し合うように集まって最後の時を迎えたんだ。」

一方、コパンは別の問題で苦しんでいた。
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最も権力があった統治者の一人が捕えられ首を切り取られると、王の神格に対する信仰は揺らいだ。
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その当時、コパンの谷では、人口が増え続けていた。
ビル「基本的には、コパン人は自分たちの成功の犠牲になったと言える。都市が発展し、より活き活きと、より活動的になると、この見事な、肥沃な、堆積土の低地は全て家で覆いつくされ、彼等は食糧を得ようと自分自身をも切り取ってしまったのだ。」
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「時と共に全ての森が失われ、土地の浸食が始まり、谷間全域で雨の恩恵が減ると、人々はこの地で生活を続けられなくなったのだ。」

8世紀の中頃・・・マヤ南部一帯で、王国の力は衰えていた。
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病と飢えは日常茶飯事だった。人々は次から次へと町を捨てて出ていった。ヨーロッパでは、暗黒の時代Dark Agesが半ば終わっている時期だった。しかし、このジャングルでは、それが始まろうとしていた。
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ゆっくりと・・・一つ、また一つ・・・偉大な南部の都市は放棄されていった。
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761年、ドス・ピラスの王が捕えられ、殺された。以降、この地で新たな碑文が残されることは無かった。

パレンケに残る最後の記録は799年だ。
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その20年後、コパンが活動を止めた。
カラコルは859年に記録を止めた。
ティカールでの最後の記録の日付は879年だ。
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南部マヤでは10を少し超える都市だけが10世紀の最初の数年を越えて生き延びていた。
ユカタン半島などの北部のウシュマルUxmalやチェチェン・イツァChichen Itzaなどの都市は、さらに数百年、繁栄を続けたが、もはや神格をもつ王によって統治されてはいなかった。
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そして徐々に古い建築方式、記録方法、信仰方法、は失われていった。古代マヤ文明は終焉を迎えたのだ。
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アーサー「マヤ文明に関する一般的な理解を飛躍させる一つの方法は、今はもう打ち捨てられたジャングルの中にあるモニュメントと建築物、科学、記録方法を持つこの高度な文明を見ることだと思う。それを見れば直ぐ、大きな衝撃を受けるはずだ。我々は失敗するものだし、文明というのは複雑な現象で、我々はそれを駄目にしてしまうこともできる、そしてその結果は完全に壊滅的なものにもなり得る、ということを思い出させてくれる。」

チェチェン・イツァChichen Itza
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チェチェン・イツァChichen Itza
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チェチェン・イツァChichen Itza
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ティカールTikal
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古代マヤ文明は失われたかもしれないが、マヤの人々が消えてしまったわけでなない。
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3千年もの間、彼等は自分たちの王や外部の征服者たちの野心の中で生き延びてきた。そして今再び、攻撃にさらされている。
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グアテマラでは、この30年間、マヤ人とは関係なかったはずの内戦に巻き込まれている。
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10万人のマヤ人が殺され、4万人が行方不明になった。誰も、未亡人や孤児の数を数えたことなどない。それでも、彼等はこれら全てに耐えている。
彼等はフィーピルhuipilを織っている。
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彼等はトウモロコシを栽培している。
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デイビッド「私は現在のマヤの人々が多くの点で古代マヤと同じ伝統の中で生きていると感じている。彼らは失ったものにはこだわっていない。古代の王たちの話をするが、話だけだ。彼等はもう王のために働くことはない。自分自身の生活を始め、それを続けているのだ。」
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ビル「私は、人々がマヤは崩壊したと語るのを聞くのが好きではない。マヤは崩壊していない。進化したんだ。彼等は様々な困難な時期、好い時、悪い時、を生き延び、今も我々と共にいる。彼等は今も彼等の習慣を維持しているし、彼らの社会を構築し、それを維持している。古代のマヤの生活方法がどのくらい生き延びているか確かめるのはとても楽しいことだ。」
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アグルシア「我々が掘り出したものは、歴史の一部だ。そしてここに生きた人々は我々が知る限りでは偉大な人々だ。我々がもっともっともっと知らねばならないことはこれらの人々の生活における出来事だ。」
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リンダ「今、起きていることは、これらを造ったヤシュ・パーとかバード・ジェイガルとかパカールとかいう人々が彼等の声を取り戻しているということだわ。彼等は、我々にとって現実になりつつあるの。そして20世紀の人々に語り掛けている、この場所を造ったのが誰か、そして何故か、何を感じていたのか、この世界について何を考えていたのか。彼等はもう名も無い人たちではないのよ。」
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以上でYoutubeフィルムのご紹介は終わりです。

マヤ文明の衰退についてWikiには次の様な記述があります。
古典期マヤ文明の衰退:
9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。

トルコ南東部のギョベクリ・テペGöbekli Tepeで見つかった1万2千年前の神殿について2014年5月23日のブログ「文明の起源は宗教か?」でご紹介しましたが、人々が遊牧生活をやめ、定住して農耕生活を始めたことで文明が生まれたとの見解が示されていました。
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今回のフィルムでは、コパン発掘責任者ビル・ファッシュが、古代都市周辺で何百年も続いた焼き畑農業で、周辺一帯から木々は消え失せ、土地は痩せ、増加した人口を維持する食糧が確保できなくなって、都市が見捨てられたのだろうと述べています。
文明、具体的には都市、を維持するには、その住民を養うに十分な食料、とりわけ農産物が欠かせないのは論を待ちません。人類は自然を破壊し続け、気象の異常化が常態化しています。農作物の収穫は安定せず、減少方向でしょうから、農耕地帯から離れている都市の生活は難しくなって人々が離れていくと思いきや、東京一極集中で、地方の市町村の人口は減っているっていうんですから、一体全体、日本はどうなっていくのか。仮にどうなろうとも、マヤと同じように、日本人も必ずどこかで生き続け、日本固有の文化や伝統を維持し続けるのでしょうが、どんな時でも人間らしく生きていてほしいと思います。
Lost Kingdom of the Maya - National Geographic (with subtitles)
https://www.youtube.com/watch?v=bSd2P0guPFk
<緊急追記>
バングラディッシュのダッカで日本人7人を含む20人が殺害された事件の犯人と思われるテロリストの写真が見つかりました。
http://bdnews24.com/bangladesh/2016/07/02/site-publishes-photos-of-dhaka-cafe-assailants
投稿したのはSITE Intelligence Groupは白人至上主義者やジハード主義者団体のネット活動情報を追跡しているグループとのことですから、写真が本当に今回の犯人たちのものかどうかは何とも言えないのですが、それにしても、恐らくは写真のような若者たちが、仲間とも言えるイスラム教徒の警官に殺されるのを承知で異教徒を殺害する決断に至った経緯には同情に値するものがあるような気がしていますが、だからと言って、彼等の行為が許されるわけはありません。しかし・・・アッラーの神は、きっと許しているんでしょうね、でなければ、彼等は全く救われないことになりますから。彼等にも家族はいるはずで、にも拘らず、このような暴挙に出るとは親不孝者としか言いようがありませんが、カメラに向かって明かるく笑いかけている彼等の顔を見ていると、ムハンマドが生み出した罰の大きさに唖然とさせられます。
別の記事です。犯人は20~28歳の男子学生のようだとのこと。やはり写真の笑顔の男達かもしれません。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160703-00000043-jij-asia
(完)

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mh徒然草95:不確実性の時代にどう生きるか(解答)

猫の目の様に、予測不能な変化を続ける不確実性の今の時代を幸せに生き抜くための2つの秘訣とは?

1.何が起きても受け入れること。
2.起きてほしい事が起きるよう、起きてほしくない事が起きないよう準備すること。

幸せに生きる基盤になるのは、何んと言っても精神的かつ肉体的な健康です。その最大の敵はストレスですが、ストレスの原因はいつでもそうですが、現状否定です。従って、何が起きても、その現実を受け入れればストレスを回避でき、健康には最善です。

現実に起きたことこそが事実であり真実ですから、それを受け入れないというのは間違いです。そう簡単には割り切れないよ、って仰るとしたら、その時点で、あなたはストレスの罠(わな)にはまり込んでいると言えるでしょう。

何が起きても受け入れる心を獲得できさえすれば、どんな不確定性の時代も乗り切れると思います。

それはそれとしても、今より楽しく活きる方もあるんじゃぁないの?と言われるのですか?
ありますよ!
起きてほしいことが起きるよう、起きてほしくない事が起きないよう準備することです。

具体的には何をすればよいかっていうとですね・・・
まずは現状把握ですね!今、あなたの身辺では何がどうなっているのか、それは何故か、ってなことを知ることが第一歩です。
現状把握の次は、対処方法の考案、次は実践、次は、元に戻って現状、つまり実践の結果、どんな状況になったかを把握し、次の手は対処方法の考案、と、現状把握⇒対処方法考案⇒実践⇒現状把握⇒対処方法考案、つまり所謂(いわゆる)、改善サイクルを回し続けるのです。

以上は、2千5百年も昔、すでにお釈迦様が見通していたことで、既に皆さまもご存知のことかと思いますが、真理だと思います。問題は、やはり実践でしょうね。判っていてもなかなか出来ない。人間だから仕方ないですね。しかし、その都度、反省し、やり直していくしか道はありません。

現実は認めるしかなく、よって現実を受け入れ、その中だけで改善策を考える、というのは、時には問題ありそうです。例えば、紛争が続くシリアや独裁政権下の北朝鮮に暮らす人が、現体制を受け入れた上で対策を考えるというのでは、答えを探しているうちに殺されかねません。このような場合は、切り捨てて逃げ去るのが最善の場合もあると思います。どうしても折り合いがつかなければ、恋人であろうが、夫婦であろうが、肉親であろうが、祖国であろうが、それを捨てて一からやり直すのです。

しかし・・・こんな調子で能天気な事ばかり言っていると、mhも女房殿から切り捨てられないとも限りませんから、この辺で終わりたいと思います。実は、このブログを書き始める前は、全く別の不確実性への対応方針が頭にあったんです。時代が猫の目の様に変わるのなら、その変化を事前に予測し、もしくは直ちに察知し、素早く身の振り方を切り替える能力を身に付けるべきだ、ってな考えだったんですが・・・どうして、至極ありきたりの結論になってしまったのか。きっとmhには重すぎるテーマだったからでしょう、今更ですが反省してます!次回はもっと楽しいテーマ(愚痴?)を採り上げるようにしましょう。
A Whiter Shade of Pale w/lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=KZQbS16Ui2s
(完)

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