Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草107:TPPには無理がある?


今日は8月15日。アメリカ大統領選挙の立候補者クリントン女史がTPP(環太平洋連携協定Trans-Pacific Partnership)反対を表明したと聞いて、あらまぁ、どうして、って思ったのは私だけではないでしょう。ネット記事によれば次の通りです。

見出し:クリントン氏、「当選してもTPPに反対」明言
2016年08月12日
「米大統領選民主党候補のヒラリー・クリントン前国務長官(68)は11日、中西部ミシガン州で経済政策をテーマに演説し、環太平洋経済連携協定(TPP)について「選挙後も反対し、大統領としても反対する」と述べた。クリントン氏が当選後もTPPに反対すると明言したのは初めて。同じくTPP反対を掲げる共和党候補のドナルド・トランプ氏(70)から、当選後は推進に転じると批判されていることを意識したものだ。クリントン氏は「雇用減少と賃金低下を招く貿易協定は、TPPを含め、いかなるものでも阻止する」と強調した。」

別の記事で確認した条約発効の条件は次の通りです。
「日本やアメリカなど12か国が参加したTPP協定の署名式が行われた2016年2月4日から2年以内に、12の国すべてが議会の承認など国内手続きを終えるか、12か国のGDP=国内総生産の85%以上を占める少なくとも6か国が手続きを終えれば、その時点から60日後に協定が発効する。日本のGDPが17.7%、アメリカが60.4%なので、この2国だけで加盟国の全体の78%に達するため、日本とアメリカのほかにGDPが比較的大きな4か国が手続きを終えれば、TPPは2018年の4月に発効することになる。」
http://www3.nhk.or.jp/news/imasaratpp/article15.html

アメリカではTPPは、まだ国内承認されていませんから、次期アメリカ大統領がTPP反対となれば、発効条件は未達となり、TPP構想は消滅します。仮に日本が反対し、アメリカを含む11カ国が賛成すると、11カ国のGDP合計が85%に達する可能性がありますから発効する可能性はあるわけです。

アメリカ大統領選の立候補者2人がTPP反対ですから、TPPはアメリカでは承認されず、既に死に体になったと思いますが、大統領選挙中の発言は時には翻されるといいますから、ヒラリー女史またはトランプ氏のいずれが大統領になろうとも、アメリカがTPPを承認する可能性はゼロではありません。仮にTPPに前向きになったとしても、アメリカに有利な修正案を提示してきて、日本や他のTPP加盟国は翻弄され、TPPそのものが仕切り直しになるとすれば、参加各国はアメリカに対する不信感からTPPを離脱するのではないでしょうか。

TPP交渉については、日本の農業問題があって、アメリカに有利なものだとばかり思っていましたが、次期アメリカ大統領候補が2人とも反対ということは、少なくとも現時点で、2人ともアメリカにとって不利だと考えているわけです。世界の製薬の先端を行くアメリカの製薬業界は、新規開発薬の利益独占期間が不十分だとして反対で、アメリカの自動車会社は日本の自動車業界の影響力が弱まらないので失業者が今後も増えるから反対だと言っていて、大統領候補もこの声に同調してTPP反対を唱えているのです。強い産業は利益確保が不十分だから反対で、弱い産業は保護が不十分だから反対、というのは随分と身勝手な主張だと思いますが、この風潮は日本も同じで自動車業界はTPP賛成、農業関係者はTPP反対です。

クリントン女史はTPPを推進しているオバマ大統領と同じ民主党の上院議員ですから、今更TPPに反対なんて、なんて節操のない人なんだろうと思いますが、TPPが悩ましい問題であることは間違いありません。つまり日本で考えれば、自動車業界は利益増かもしれませんが、農業は衰退が加速し、食糧自給率は減少し、もし異常気象で世界の食糧生産が落ちれば、食生活は大打撃を受けかねないのです。

私は個人的には、関税は撤廃し、自由化すべきだと思います。しかし、それは理屈であって、今日から、全ての品目について関税撤廃すべきだと言っている訳ではありません。各国の事情を配慮し、産業別に、少しずつ、状況に合わせ、弱い者にも強くなるチャンスを与えながら、税率縮小を進めるべきだと思います。今のTPPは、状況を見ながら税率を見直すシステムが欠けているように思われますので、発効しても、いずれ破綻(はたん)するでしょう。

関税を設けて自国の産業を保護するのは一時的な避難でしかありません。関税をゼロにしても自立できる国が理想なのは間違いありません。しかし、どの産業の関税を、いつ、どのくらい低減し、いつゼロにするかを議論するには、その産業を将来、どうもっていくかを決めてから行うのが筋でしょう。例えば日本の農業、具体的にはコメや肉類、をどうするかを決めてからTPP交渉に臨(のぞ)むべきです。

しかし・・・この考えに基づけば、TPP交渉に臨むこと自体に無理があると言わざるを得ません。何故なら、コメや肉類の将来をどうするかなんてことは、独裁者でもなければ、決めることなんてできないからです。日本のコメや肉類の生産がゼロになってもいい、って覚悟するなら別ですが、食糧に関する安全保障上の問題が残ります。

次期アメリカ大統領候補は2人とも私が嫌いなタイプですが、TPPに反対する姿勢は正しいと思います。長期的な関税低減率を今、決めるのではなく、状況に合わせて低減していく方式でないと上手く機能しないと思います。

Fly Me To The Moon - Brenda Lee
https://www.youtube.com/watch?v=b-iqj5ZpRAY

(完)

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欧州の巨石文化の不思議


2014年4月3日公開のブログ「ストーンヘンジの不思議」では、その歴史、青い石の秘密、これから導かれたストーンヘンジの効用(病気やケガを治す!)などを2人の考古学者の意見に従ってご紹介しました。で~どこのストーンヘンジかって?そりゃあ勿論、英国ウィルトシャー州Wiltshireのストーンヘンジです。ロンドンの西120Kmにあります。建設は紀元前2300年頃に始まり、以降、何度かデザイン変更されているようです。
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Wikiによれば、語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているようです。中世の絞首台は二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていたから名付けられたとのこと。

更にはブログ「オークニーの寺院の不思議」(2015年6月22日)で、ブリテン島の北のオークニー諸島に残るストーン・サークルについてもご紹介しました。建設は紀元前2500年頃で、直径は約1百mです。
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数Km離れた場所には同年代のものと思われる円墳も残されています。

イギリスのお隣の国アイルランドのニューグレンジNewgrangeにある石の古墳。
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直径は約70m。建設は紀元前3千年頃。白い石は石英で、1百Km以上はなれた所から運ばれてきました。見つかった時は崩れた瓦礫の山で、修復されて今の形になっています。

フランスに移って・・・ロクマリアクエラ巨石群Locmariaquer megaliths
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紀元前47百年頃には19個の石が直立していました。最大の石は上の写真のもので重量330トン。高さ21mで聳(そび)えていました、信じられません!

直ぐ近くには古墳もあります。
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このロクマリアクエラ巨石群から10Km離れた所にはカルナック列石Carnac stonesがあります。
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最大のメンヒル(menhirヨーロッパ先史時代に立てられた、単一で直立した巨石)は6m位ありそうです。
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Wikiによればカルナック列石の総全長は4km!環状列石もあり、石の総数は3千個ほどです。
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列石は幅1百m、長さ2Kmに配置されています。
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これらのストーンヘンジ、ストーン・サークル、ストーン列柱、古墳群の位置を地図にプロットすると次の通りです。北を左に起きました。
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一番左の黄色ピンはオークニー諸島、一番右がフランスの遺跡カルナックとロクマリアクエラの位置を示しています。

また、フランスのロクマリアクエラ巨石群から4Km離れたガブリニス島Gavrinis、エルラニク島Er Lanicにもストーン・サークルや古墳が残されています。
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ガブリニス島Gavrinisの古墳
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エルラニク島Er Lanicのストーン・サークル
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これら一連の古墳や寺院と思われるストーンヘンジやストーン・サークルなどの巨石構造物が造られたのは紀元前8500年頃から始まった新石器時代の後期です。御参考までに旧石器時代Paleolithic Ageは200万年前に始まり、その後は中石器時代Mesolithic Age、巨石構造物が造られた新石器時代Neolithic Ageと続きます。新石器時代の次は青銅器時代Bronze Ageです。

新石器時代の後期に、ヨーロッパで巨石施設が生まれた原因は?
類似施設がヨーロッパ各地で造られたのは何故か?
沢山の巨石を何十Kmも離れた場所からどのようにして運んだのか?
何のための施設か?
なぜ、巨石が使われたのか?

これらの質問の正解はないようです。裏付けとなる記録、例えば絵文字その他で明記されたものが見つかっていないんですね。しかし、説得力ある見解はあります。例えば、巨石施設に遺骨や埋葬品が見つかれば、お墓でしょう。
今回は、この辺りに関する情報を、思いつくままに!順不同で!一挙に!ご紹介します。

巨石構造物に使われた石の種類や組成を調べると判るのですが、何十、何百Kmも離れた所で採取されています!大した道具や車輪も無かった時代、何十トンもある大石を何十Kmも運んだという事実に我々現代人は驚愕しますが、2百万年もの長期間、石を加工し運搬する経験を積み上げてきた古代人には、日常茶飯事だったかも知れません。
巻末に、搬送方法に関する考察を紹介したネット情報を挙げましたのでご確認下さい。

少し悪乗りして、毛色が変わったストーン・サークルもご紹介しておきましょう。
セネガンビアの環状列石(世界遺産):
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Wiki:西アフリカのセネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群。立ち並ぶ巨石は8世紀頃に、より早い時期の墓の上に墓標として立てられたもので、12世紀頃まで続けられた。10個から24個の石でそれぞれの環が形成され、高さは1メートルから2.5メートル、重いものでは10トンにもなる。これらの石は、一般的にはラテライトである。

で~日本にもあります!
北海道小樽市忍路(おしょろ)の忍路環状列石:
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墓を石で囲んだ区画墓と推定されています。

北海道の駒ヶ岳近くにある鷲ノ木遺跡
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“画像左から竪穴墓域があり、環状列石に続く。現在はシートにて保護されている”と解説にあります。

秋田の大湯(おおゆ)環状列石:
十和田湖の近くの山間に100m隔てて2つあります。
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縄文時代(1万5,000年前~約2,300年前)後期の日時計と考えられています。
西側のストーン・サークルは・・・
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東側のストーン・サークルは・・・
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一体全体、こんな大きな日時計(?)を隣接して2個造ったのはどんな理由からでしょう?片方または両方が墳墓だったなら、王と女王の墓という説明も可能ですが、ここでは遺骨や埋葬品が見つからなかったので、日時計との結論になったんでしょう。しかし、何故、直ぐ近くに大きな日時計を2つも!ヨーロッパの巨石遺跡から理由が推定できます!

ということで、ヨーロッパの巨石遺跡についてYoutube「 Stonehenge rediscoveredストーンヘンジ再発見」を参照しながら、もう少しご紹介いたしましょう。

5千年前の新石器時代後期、世界を変える革命は最高潮だったといいます。
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2百万年前から始まった旧石器時代、人々は、大型動物の群れを追い、移住しながらの狩猟生活を送っていました。
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しかし、中石器時代から新石器時代になると、氷河期も終わり、生活パターンは変化していくのです。

8千年前にはブリテン島が大陸から分離しました。
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凡そ1万年前、多くの大型動物は死滅し、小型動物しか捕獲できなくなりました。
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お蔭で、動物壁画は描かれなくなったといいます。
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そこで、動物の群れを追って移動生活をしていた人々は、集落を作って定住し、地味な畑作業に縛られるようになったのです。すると、暇な時間が生まれ、何か知的で刺激的なことをしたくなり、巨石文化が生まれたと言います。
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アイルランド、イギリス、フランスの巨石遺跡の近くで共通して見つかるものがあります。
まずは鐘状のビーカー(Bell-beaker土器)。
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見つかる場所は広範囲に渡っています。
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石斧。次の斧は磨かれています。
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翡翠の石斧も見つかっています。
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いずれもフランスの円形墳墓で発見されたもので、身分の高い人物が儀式で使ったものではないかと考えられています。
アイルランドの円形墳墓で発見された石斧。
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似た形状の石斧はイギリスのストーンヘンジやオークニー諸島の遺跡からも見つかっています。

更には、墳墓の形と入口の方向ですが・・・
フランスのロクマリアクエラの墳墓も・・・
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フランスのガブリニス島の墳墓も・・・
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アイルランドのニューグレンジの墳墓も・・・
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いずれも円丘墳墓で、巨石で壁や天井が蔽(おお)われた通路は、冬至の朝、太陽光が、玄室まで差し込む向きに造られているのです。

そしてフランスのガブリニス島の円丘墳墓の玄室に到る通路の側面と・・・
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アイルランドのニューグレンジの円丘墳墓の玄室に到る通路の側面には・・・
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渦巻き状の文様が彫られています!
アイルランドのニューグレンジ近くの大小の円丘墳墓群。
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墓の周囲に並べられた石にも同じような抽象的な模様が・・・
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1999年、ある学者が文様の中に月の模様と類似しているものを見つけました!
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渦巻き状の文様は月を表しているのではないのか???
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墳墓の通路は冬至の日の出の方向を指していますが、左右の壁には光は当たりません。その壁に描かれた渦巻き状の文様は・・・月を表しているのではないか?

アイルランドのキャロウキールCarrowkeelの古墳に月の意味が現れています。
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いくつもある墓の入口は、19年に一度(注)月が沈む特別な方向に向いているのです。
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(注:月は天球上の白道と呼ばれる通り道をほぼ4週間の周期で運行する。白道は19年周期で揺らいでいるが、黄道帯とよばれる黄道(太陽の見かけ上の通路)周辺8度の範囲に収まる。)

当時、この墓は80Km離れた場所で採れる石英で覆われていました。
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黄色なら太陽、白なら月でしょう。
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月は古墳だけでなく、ストーンヘンジでも重視されていたという意見があります。
冬至の太陽は中央の下の開口部に沈みます。
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しかし、月に一度、月はその上の開口に沈むのです。
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アイルランドのキャロウキールCarrowkeelの北のキャロウモーアCarrowmore。
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手前には小さなストーン・サークルがありますが、奥に見える丘には・・・
円丘墳墓があります!
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伝説によれば、祀られているのは女性戦士メイQueen Maebhです。
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入口は毎月1回、月が玄室まで差し込む方向に向いています。

ストーンヘンジから30Km北のエーヴベリーAveburyには直径4百mのストーン・サークルがあります。形が異なる大小の石が交互に建てられ、大きい方は柱状pillarで男、小さい方はひし形lozengeで女を表していると言われています。
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ヨーロッパ各地の紀元前1千年頃(青銅器時代)の墓で黄金の帽子Golden Hutが見つかりました。
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祈祷師でもあった“王”が使ったもので、年、月、季節、月のサイクル(日?)、を計算する模様がついていると考えられています。
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2002年12月、ドイツで見つかった太陽と月が描かれた銅製のディスク。ストーンヘンジ末期のものです。
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これらの事実は、ヨーロッパにおいて、古くから広い文化交流があったこと、古代人が太陽だけではなく、月の動きにも関心をもっていたことを示していると言います。

7万年前に始まった最後の氷河期が1万年前に終わり、狩猟から農業に生活様式が変わると、気候のリズムを知ることが重要になりました。日射量の変化には特に関心が強かったはずです。冬至は日照時間が最少で、これを過ぎると太陽の恩恵は増え始めます。このことから、冬至は“太陽が生まれる日”と考えられ、農作業には重要な意味をもつ日になりました。そこで、冬至に太陽が昇る位置や沈む位置を明確にし、豊穣を祈念する祭りをする場所としてストーンヘンジやストーン・サークルを造ったのです。つまり、墳墓ではなくて寺院だったんですね。

この時期、太陽だけでなく、月も重視されるようになったと言います。古代から女性は子孫繁栄や豊穣のシンボルと考えられ、月のサイクルは女性の生理に影響を与えています。
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遺跡で見つかった女性像は右手に角を持っています。角は月を表していると考えられています。

狩猟生活から農耕生活に変化した時期に巨石構造物が生まれることになった理由として、勢力範囲の誇示も挙げられています。
例えば、フランスのロクマリアクエラLocmariaquerの巨石ですが・・・
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紀元前4500年、高さ21mで聳(そび)えていました。
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材料の石灰岩は湾の向うから運ばれてきたものです。斧のマークも彫られています。
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この巨石は遠くからでも見ることが出来る、いわゆるモニュメント(記念碑)でした。そんなことが出来る部族は偉大で、力もあるんだから、よそ者が入り込んでも直ぐに追い払うぞ、という威圧効果があったのです。

獲物を追って移り住んでいた狩猟時代と異なり、農耕時代になると定住し、平野に耕作地を開拓し、そこで穀物を育てることになったのですが、すると、よそ者が畑を荒らしたり、耕作地を奪いに来たり、ということで部族間の紛争が生まれたのです。そこで、自分たちの力を誇示して威嚇(いかく)するために巨石文明が生まれたと言います。日本の十和田湖付近に造られた隣接する2つの日時計も、この土地は俺たちのものだという意思表示が目的で造られたのでしょう、確信はありませんが。

こうして農耕地を中心に集落が生まれ、ストーンヘンジやストーン・サークルが造られるようになると、リーダーが現れてきました。彼らは、死後も人々に畏敬の念を与え、権力を子孫に継承しようとして、集落の近くに大きな墓を造ることにしたのです。従って、耕作地の中心にストーンヘンジやストーン・サークルが、その近くに円丘墳墓が造られることになったと言う訳です。

チベット死者の書、エジプト死者の書でもご紹介しましたが、人間の根底には死後の世界への関心があり、それが宗教発生の原点だという考えがあります。mhも、それで正しいだろうと、何となく思っていましたが、今回のブログの作成を通して、違うのではないかと思うようになりました。

古代人には、死後の世界より、今を生き延びる、つまり食糧の確保の方が重大な関心事だったんですね。そこで、穀物の収穫量に密接な関係を持つ太陽や雨に対する関心、尊敬、畏敬の念から、太陽の神、雨の神が生まれ、これを祀る寺院が造られるようになったことが宗教の起源でしょう。

この考えが正しいか否かは、世界の各地で生まれた宗教の実体や寺院の様子から判断できます。

例えば日本。最初の宗教は卑弥呼か卑弥呼以前のものでしょうが、魏志倭人伝によれば、卑弥呼は“倭女王卑弥呼”とありますから間違いなく女で、Wikiによれば西暦248年頃に亡くなり、後継者は“宗女の壹與”とあります。つまり子孫繁栄・豊穣の象徴である女性が巫女として太陽や月の運行から天候を占い、国を治めていたんですね。農業で生きていくには大勢の作業者が必要なので、子供は多いほどよかったのだと思います。死後の世界を心配するよりも、まずは家族繁栄が優先された結果、女性のリーダ(巫女)が祀り上げられていたのでしょう。

メキシコのマヤ文明も同じで、太陽の神、雨の神が重要でした。神を宥(なだ)めるために生贄の心臓を捧げていたのです。人の命よりも明日の太陽や雨の方が気掛かりだったというわけです。

紀元前1万年に建設が始まったというトルコのギョベクリ・テペでは20もの寺院が造られましたが、そこからは、人骨が見つかっていません。この近辺で小麦の量産が始まった証拠がありますから、豊作を祈念する寺院だったと思います。
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以上で、焦点が掴みどころのないブログ「欧州の巨石文化の不思議」は尻切れトンボのように終わりです。

巻末ですが、補足情報です。
フランスのロクマリアクエラ円丘墳墓の玄室。
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巨石の模様は麦の穂を表しているのでしょうか。
ロクマリアクエラ近くの町の丘に点在する墳墓では黄金の副葬品も見つかりました。
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フランスのカルナック遺跡の北の丘には125mx60mで高さ30mの丘があり、頂きには礼拝堂があります。
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この礼拝堂の近くで、1860年、埋葬の跡がみつかり、バラサイト、ジャスパーなどの貴石で出来たネックレスが出てきました。
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39個の磨かれた石斧も見つかっています。丘は墳墓だったのです。
近くには地下に続く長いトンネルがあって・・・
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その先の玄室で、翡翠の飾りや斧が見つかっています。
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農作業を中心に古代人が集まって暮らすなら平地でしょう。
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そこに巨石でモニュメントを造るには遠く離れた岩山から石を運ばねばなりません。
ナショナル・ジオグラフィック「古代人は巨石をいかにして運んだか」という記事が見つかりました。木材の橇(そり)や筏(いかだ)、川や海のルート、を使ったという考えが主力です。詳細は次のURLでご確認下さい。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8544/?ST=m_news
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Youtube ; Stonehenge rediscovered.
https://www.youtube.com/watch?v=slTrDp08pLc
(完)

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mh徒然草106:タイの新憲法は悪くない?


昨日の8月7日、タイで新憲法賛否の国民投票があり、即日開票の結果、承認が確定したようです。

「タイ、新憲法案承認へ 軍が強い影響力を維持」
朝日新聞デジタル2016年8月8日00時42分
「一昨年のクーデター後、軍事独裁体制下にあるタイで7日、民政復帰に向けた新憲法案の是非を問う国民投票があり、賛成61%、反対39%(開票率94%)で承認が確実になった。推定投票率は58%だった。来年半ば以降に総選挙が行われるが、憲法案には上院議員を非公選にするなどの内容が含まれ、“民主主義の復活ではなく、非民主的制度が固定化される”と懸念する声も強い。」
中見出し:軍独裁のタイ、7日に新憲法の国民投票 賛否表明できず
「憲法案は、選挙で選ばれた下院議員や政権に対し、憲法裁判所などに強い監視権限を持たせ、上院は200人全員を有権者が直接選ばない、職業分野ごとの間接選挙で選ぶ形にした。さらに、選挙後5年間の「移行期間」には上院定数を250人に増やし、軍部が実質的に全員を選ぶ。国民投票での「移行期間中の首相選出は、上院を加えた両院合同会議で行うべきか」との付帯質問も賛成58%で承認が確実となり、軍が今後も政治に強い影響力を持つことになった。」

で~中見出しの「軍独裁のタイ、7日に新憲法の国民投票 賛否表明できず」とは何かっていうと・・・
「2年前のクーデター後、軍事独裁体制下にあるタイで7日、民政復帰に向けて新憲法案の是非を問う国民投票が実施される。民主主義に逆行する内容を含む憲法案には批判もある。だが、賛否の意見表明は封じられ、憲法案文は一部の世帯にしか配布されず、国民の理解は深まっていない。」
「タイ東北部ウドンタニ。1日、県として最初で最後の憲法案に関する意見交換フォーラムが開かれた。“では、質問がある方はどうぞ”との司会者の呼びかけに唯一応じたのは最前列にいた女性だったが、質問ではなく、憲法案を賛美する自作の詩を朗読し始めた。
県庁の担当幹部が憲法案を説明し、パネリストの地元の学者や元国会議員らが壇上で意見を述べた後、聴衆と質疑応答をするという形式。だが、来場者は役人や県と関係の深い財団の職員、大学から参加を指示された学生たちなどで、用意された約500席は半分ほどしか埋まらなかった。」

投票は軍主導の出来レースだったようですね。下院議員は国民投票で選ばれるが、ここで決められた法令の修正や廃案権を持つ憲法裁判所や上院のメンバーは軍が指名するってことですから、軍の意向で全てが決まる体制が憲法によって保証されたことになります。

何を持ってクーデターと呼ぶか、定義の問題もありますが、「単なる政治・経済の不穏であっても、軍が政権を掌握する正当性を有する」との条文もあるようですから、タイでは軍事政権が定着したと言えるでしょう。

軍事化のきっかけは、2001年から2006年まで首相を務めたタクシン・チナワット氏(巨額脱税容疑で退陣し、アメリカ・イギリスに実質亡命。現在は所在不明)、その実の妹のインラック・シナワトラ前首相(在位2011-2014。国民の中間層が首相退陣を求めたデモが、軍介入のきっかけとなった。)だと言えます。

富豪のタクシン家系(首相を務めた兄妹はアメリカ留学経験あり)から軍隊に政権がシフトしただけで、国民にとっては大差ない、ってな冷めた発想が、今回の新憲法の承認を呼んだのでしょう。軍が暴動を抑えてくれるから安心という国民感情もあったようです。

しかし・・・善かれ悪しかれ、国民の投票だけでは国政が決まらない(最後は軍が決める)ことになったわけで、民主主義は消失したと言えます。投票でこれを変える仕組みはありません。何を決めても軍が反対すればそれまでです。となれば、権力を握る側に立ちたいって考えるのが人情というものでしょうか。微笑みの国と言われたタイ王国は、これからは軍国主義国家に成り下がるしかありません。現在の国王ラーマ9世(プミポン国王)は89歳と高齢で、状況を変える力は持っていません。彼が亡くなれば軍司令官が葬儀委員長になって国葬が行われ、軍指導体制はますます堅固になるでしょう。

しかし・・・驕(おご)れる者は久しからず、と言います。権力を握った軍がいつまでも安泰というわけではありません。そう考えると、権力を追求する人々が哀れに思えてきたりします。人間とは不思議なものです。

The Monkees - I'm a Believer (Lyrics) Español & Ingles
https://www.youtube.com/watch?v=x_njf3J5obk

(完)

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ペトラの不思議Part-2

今日は7月18日。2か月後の9月19日に公開予定のこのブログに着手しました。完成は3日後でしょうか。

9月12日公開で投稿済みの「ヴィㇽカバンバの不思議」をYoutubeから書き下ろしている時、ふと思ったんです。
“mhはハイラム・ビンガムみたいに女房子供を家に置いたまま、4ヶ月毎に海外旅行していていいんだろうか、女房殿は寂しくないんだろうか”と。
で次回の10月の旅行は保留しようか、と今は思っていますが・・・女房殿から、掃除の仕方が悪いとか、洗濯物のたたみ方やしまい方がおかしいとか、食器の洗い方が悪いとか、くどくどと非難されると、女房殿と暫く離れて一人旅をしたくなるので、今の気持ちが10月まで続いている保証はありません。

私のブログ「世界の不思議シリーズ」も恐らく150回を超えたでしょう。新鮮なネタはそろそろ底をつき出し、Youtube以外の情報ソースを見つけ出さないといけないかなって思うこの頃ですが、時には、既に投稿済みのブログと同じ不思議を紹介するフィルムの中に、なかなか捨てがたいものがあるのです。ということで、前回は「ヒッタイトの不思議Part-2」を紹介させて頂きました。“いつかどこかで聞いたような浪漫に満ちた不思議な響き”のヒッタイト帝国の首都ハトゥシャに関する皆さんの知識も深まり、ロンドンやパリなんかよりも興味深い都市だったと思われたのではないでしょうか。そうは言っても、ローマは別格で、いやな思い出しかないイタリア旅行を体験したmhも、もう一度、ゆっくり訪れたいと思っています。

で~今回もPart-2シリーズで“ペトラPetra”をご紹介させて頂くことにしました。初回の「ペトラの不思議」は2014年10月27日に公開しました。この時点ではYoutubeの紹介手法が現在と異なり、mhの独断的な翻訳、解釈、短縮、それに加えて小さな映像、で構成されていて、今回、見直してみて、あまり良い出来だとは言えないなぁと反省しています。

そこで今回は、映像が綺麗なフィルムを使い、ペトラの魅力を中心に、若干の秘密も付け加えてご紹介します。映像が綺麗な理由は、恐らく高解像度のカメラが使われていることに加えて、ドローンによる空中撮影が採用されているからだと思います。
・・・・・・・・
ペトラ・・・
それは古代世界における最も素晴らしい都市のひとつだ。
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記念碑でもあり、寺院にも似た墓は30m以上も聳えている。そして、これらの素晴らしい造り物は組み上げられたものではない、砂岩の崖から彫り出しているのだ。
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最盛期、ペトラは乳香frankincenseと没薬myrrhの広大な交易ネットワークの中心に位置し、世界でも最も乾燥した砂漠にも拘らず、3万人が生活していた。

スイス人建築家「それは都市としては適切な場所ではない。飲料水が無いのだ。」
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このように広大な都市で、どのようにして、古代の人々は、十分な水資源もなく、生き延びていたというのだろう。
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どのようにして、高い崖の表面に、この美しい建築物を造り上げていたのだろう。
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それを探し出そうと地球科学者は石工とチームを組んでペトラ式の墓を造ってみようとしていた。
アメリカ人地球科学者「この作業を通して、我々は、2千年もの間、見つかっていなかった何かを見つけたいと考えている。」
考古学者と水力学技術者は、遊牧民の集団がこの砂漠の都市をオアシス都市、古代のラスベガス、に変えた方法を探し出そうとしていた。
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アメリカ人考古学者「砂漠環境の厳しさの中にもかかわらず、ここでは驚くほど大量の水量が消費されていたの。」
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そしてついに、2千年後、ペトラの秘密が明らかになろうとしている。
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Petra; Lost City of Stoneペトラ;失われた石の都市
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そこは地球上で最も乾燥している場所のひとつだ。ヨルダン王国の厳しい砂漠の中に隠されるようにして、素晴らしい古代都市がある。
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ペトラだ。数千年の間、その場所は隠され続けてきた、砦のような崖と、秘密を守る遊牧民たちによって守られながら。
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そして1812年、アラブ移民を装い、命を賭けて伝説の都市を探し出そうとしたスイス人冒険家が、この地を訪れた。
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ヨハン・ルーディヒ・バークハルトJohann Ludwig Burckhardtは、60mも聳えるシークと呼ばれる、1マイル(1.6Km)程も続く、折れ曲がった細い渓谷を進んでいった。
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渓谷の終わる辺りの処で塔のように聳えた、寺院のようなファサード(facade建築物の正面部)に出会った。
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それは“宝物”と呼ばれている。アラビア語で“アル・カズネAl Khazneh”だ。2千年前に建てられ、今でもデザイン、建築技術の粋を集めた傑作品だ。雄大な柱は渓谷の底面から、繊細な彫刻飾りの柱頭まで真っ直ぐ伸びている。
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神話の神々のような像がファサードを飾り上げている。幻想的な形の壺が屋根の頂きに据えられている。
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聳え立つような入口は奥の3つの部屋に続いている。
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ここにあるのは手の込んだ棺桶ではなく、天然の岩の美しさだけだ。
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アメリカ人地球科学者「ここから見ると、アル・カズネが建物として特徴的で魅惑的というだけでなく、純然たる崖の、活きた岩の表面に彫られたものだということが判る。」
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実際の所、アル・カズネは記念碑的なサイズの彫刻像だ。幅24m、高さ38mで、アメリカのラッシュモアRushmore記念碑の2倍ある。
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スイス人冒険家バークハルトが渓谷をさらに進んでいくと、何百もの見事なファサードを至る所に見つけた!
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多くのファサードはエジプト風、ギリシャ風、ローマ風にも見える。
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しかし、それ以上のものもあった。都市全体の跡だ。
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6千人が座れる円形劇場も沙岩から彫り出されている。
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メインストリートと、これに面した大きな寺院のような構造物もある。
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もっと高い岩山には、さらに目を見張るべき記念碑も彫られている。
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バークハルトによる伝説の都市の再発見は、答えよりも多くの疑問を浮かび上がらせた。誰がペトラを造ったのか?そして何故?

バークハルトは不思議な砂漠の民の話に刺激を受けていた。中国、インド、エジプト、ローマとシルクや香辛料を取引して利益を得ていたという。
そして、彼らは得た黄金の宝物を崖の中に隠した。
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ギリシャ人やローマの記録は彼らに名前を与えていた、ナバティアン(Nabataeanナバテア人)だ。
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紀元前4世紀の資料には、ナバティアンはテントで暮らす遊牧民だと記されている。
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しかし、その3世紀後の紀元前50年頃に書かれた記述によれば、繁栄している都市に暮らす洗練された人々だとある。キリストの時代、ナバティアは繁栄した王国で、エジプト、ジュディアJudea、そして北アラビアの広大な砂漠で囲まれていた。
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たった数世紀で、どのようにしてテントの村が豊かな王国になったのだろう。砂漠の真ん中で、彼らは、どのようにペトラを打ち建てたのだろう。
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アメリカ人地球科学者トム・パラダイスは30年の間、見つけようと試みている。彼は地球科学者で古代の建築物保存に関する専門家だ。“宝物アル・カズネ”の両脇に、彼は妙な四角な跡があるのに気が付いた。
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これが、“宝物”がどのように造られたのかを教えてくれるのかも知れない。これらの跡は古代の建築用足場を固定した跡ではなかろう?
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パラダイス「長い間、人々はこれらの跡が崖に彫刻作業をするために使われた足場のようなものだろうと考えていた。」

しかしパラダイスは疑いを持っている。もし足場を固定した跡だとするなら、なぜ、ナバテア人は、そのまま残してしまったのか?なぜ、ペトラの他の場所には同じ跡が残っていないのか?パラダイスは、本当の理由は、このモニュメントに数世紀前に与えられた魅力的な名前のせいではないかと考えている。
パラライス「この建物はアル・カズネ、つまり宝物、と呼ばれている。伝説によれば、1千年の間、ここは裕福な人々が棲む家だった。」

宝物と言う名で知られていたので、人々が宝探しをしたのだ。建物の頂の壺には弾丸の跡もある。
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とすれば、建物の脇の四角な跡は、近くで好く見ようと登るための“足掛かり”だったのだろうか。

しかし頂上の壺には黄金は入っていない。石の塊だ。このモニュメントの宝物と言えるものは見事な石像だけだ。
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四角な跡がどんな目的で造られたとしても、けっして足場ではないとパラダイスは考えている。その上、この砂漠では、木材はほとんど手に入らない。としたら、一体全体、ナバティアンはどのようにしてこのように巨大で高くそびえるモニュメントを足場なしで崖の表面に彫ることが出来たのだろう。
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パラダイスはそれを見つけるための大胆な計画を持っていた。上から下に彫っていくのだ。彼は、チームメンバーの石工たちと共同で、この2千年で初めて、ナバティア式のファサードを造ろうとしている。
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パラダイス「私は多分、彼らがどのようにファサードを崖に掘ったのか、その答えを知っている。」

パラダイスの計画に並行して、考古学者たちと水力学技術者たちは、どのようにナバティアンが、この完全に乾き切った環境の中で生き残れたのかを調べていた。

スイス人建築家ベルヲルド「水の全てのインフラ・ストラクチャーは一つの偉大な都市計画に沿って実現されていたのだ。私はそれを証明できると思っている。」
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彼らの成し遂げた包括的な発見は、石を自在に扱うだけではなく、水も制御することによって、都市ペトラが造られていたことを明らかにした。砂漠の都市を古代世界のラスベガスに変えていたのだ。

遊牧民たちはどのように石の都市を造ったのか。そして何故ペトラが伝説の中に埋もれ消えてしまうことになったのか。科学者たちは、それを明らかにすることができるのだろうか。

多くの人々はインディアナ・ジョーンズの「最後の聖戦Last Crusade」のクライマックス画面でアル・カズネを知っている。そこで、ハリソン・フォードとショーン・コネリーは、秘密の寺院と、そこにあった聖杯Holy Graleに辿り着く。
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しかし、ハリウッド映画にあったにも関わらず、アル・カズネと、その他のペトラの象徴的な建物の多くは寺院ではない。それらは墓だ。
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ナバティアンは記述したものをほとんど残していない。しかし、いくつかのファサードには、キリスト時代に中近東で共通語の一つだったアラメァック(?)の記述がある。タークメニアと呼ばれるファサードに書かれた記述の一部には次のように書かれている「この墓は神聖なものだ。中に残る全ての物は、永遠に修正されたり、移動されてはならない。」
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墓泥棒はこの注意書きに敬意を払わなかった。従って人骨や副葬品が残るところはほとんどない。しかし、人体と同じサイズの棚は、ここが間違いなく埋葬の場所だったことを物語っている。
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全体として、ペトラの岩壁には8百もの墓が掘られているのだ。

米国東洋研究センター;クリストファー・タトゥル「直ぐに目に付くこのモニュメントのおかげで、多くの考古学者たちは、この地がネクロポリス(necropolis共同墓地)のような死者の町ではなかろうかと考えがちだった。しかし、過去2百年の調査を通じ、生きている人々も棲む都市だったことが明らかになってきた。」
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クリストファー・タトゥルはここで10年以上、調査をしている。サイトの2%以下しか発掘が進んでいないが、考古学者たちは調査結果を地図にした。
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結局、古代のペトラはマンハッタン島と同じ広さの都市だったのだ。人が棲み娯楽にふけった2平方マイル(2.6平方Km)の市街地downtownと、郊外には更に多くの人が暮らす地域が南北に広がっていた。この調査結果に基づいて、タトゥルは人口を見積もることが出来た。
タトゥル「最盛期、2,3万人が暮らしていたと我々は考えている。」
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しかし、砂漠の中の孤立した地域の文化と考え辛いことには、ペトラには墓が、そこここにあるのだ。なぜナバティアンは墓を都市中に彫ることにしたのだろう。そして、どんな方法で彫ったのだろう。
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アメリカ人地球科学者パラダイスは彼の彫刻チームが何らかの答えを準備できるのではないかと期待している。
パラダイス「ファサードを造るという実験を行う事で、ナバティアンがどのようにこのようなファンタスティックなファサードを彫ることが出来たのかについて身を持って教えてくれるだろう。」

しかし、パラダイスは彼のファサードをここペトラに彫ることは出来ない。ペトラは保護された世界遺産だ。どこか別の場所で、適切な砂岩の岩壁を探さねばならない。

調査の結果、アメリカ人地球科学者 パラダイスは南カリフォルニアを選んだ。ヨルダンの砂漠と異なって遠くには海が見える場所に、ペトラと同じもののように思われる砂岩が沢山ある。
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土地の所有者の許可を得て、実験に適当な岩を探すことにした。
石工マサン・ハント「我々はまず、装飾的な彫刻に向いた均質な砂岩を探さなければならない。」
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砂岩は砂と鉱物の混合物が圧縮されて形成された柔らい石だ。チームは完璧な岩を選び出すことが出来た。次の仕事は作業に必要な工具を見つけることだ。
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ベトラではパラダイスはそのヒントを岩肌に見つけていた。鉄器のチズルで付けられた痕跡だ。
パラダイス「当時、彼らは鉄製のチズルを使っていた。その手法は2千年後の今でも変わっていない。我々は同じチズルを使うし、そうすれば彼らと同じ削り跡が残る。」
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チズルの形式は削り跡から見ると、先端がとがった棒状チズルでよさそうだ。
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そこで石工のハントは、カリフォルニアでも棒状チズルを使い、作業に着手した。

しかし、手作業では時間がかかり過ぎることが判った。ギリシャの記録によればナバティアンは大勢の奴隷を使っていなかったようだ。しかし、彼らは恐らく大勢の熟練工と十分な時間を持ち合わせていたに違いない。石工ハントにはその二つとも不十分だが、代わりに動力工具がある。
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勿論、使うのはナバテア人と同じ棒状チズルだ。これでやっと適切な岩と適切な工具が揃った。

石工チームがカリフォルニアで作業の準備を進めている間に、パラダイスは何を彫るのか決めねばならなかった。ナバティアンの墓をナバティア式にしているものは何だろう?ペトラの多くのファサードは、どこか別の土地のもののように見える。アル・カズネで、パラダイスは古代ギリシャや古代ローマを連想させるデザインの柱や柱頭や彫像を見つけている。

ぺトラ全体では、他の地方のデザインも見つけている。シリアやメソポタミアと関連がありそうな段状デザインや
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インドを思い起こさせる象の彫像
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エジプトのオベリスクのようなデザインも。
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しかし、良く見うけられるデザインの中で、パラダイスは、他では見当たらないデザインに気付いた。
パラダイス「屋根が中央部で分離していて、中央には円錐状の屋根と、その上には壺がある。これはギリシャ式でもローマ式でもない。」
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この新しいデザインはどこか遠方の文化が一体になったもののようだ。
パラダイス「建物のデザインはこれ以上ないほどにシンプルだ。それは本物のペトラを物語っている。」
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ナバテア人のデザインをナバティア式にしているものは、このように、他の帝国のデザインと組み合わされて出来ているユニークな外観だと言えるだろう。

しかし、砂漠の真ん中で暮らす人々が、どのようにして遠い異国と接触していたのだろう。そのキーワードは2つ。乳香frankincenseと没薬myrrhだ。
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乳香と没薬は古代において、絶対に手に入れておきたい贅沢品だった。新約聖書の中では、この2つは、東方の三賢人から乳児のキリストへの贈り物の中に含まれている。
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アラビア半島南方の砂漠の中の樹から作られ、エジプト、ギリシャ、ローマにおける重要な宗教儀式の際中に香として燃されていた。しかし、これらを地中海全域の消費者の元に届けるためには、まず砂漠の中を運ばねばならない。
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何世紀も遊牧民として生き延びていたナバテア人はあらゆる秘密の水源の場所を知っていた。もし生きて砂漠を横断したければ、ナバテア人の道案内を確保しなければならない。交易路にそって、彼らは水源を掘り当てていた。
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ペトラの山の向う側の谷間で、ジョージ・ワシントン大学のアンドリュー・スミスは“マクラ”と呼ばれるこの井戸の跡を見つけた。
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ペトラへの交易路が通っていた場所だ。そこで彼が彫り出したものの中には、数十もの小さな香のための粘土で造られた容器があった。
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スミス「ナバテア人は乳香を加工して、この小さな容器に詰めて蓋をし、駱駝や驢馬などで運んでいたようだ。」
乳香の道はナバテア人の命を守る血管だった。サウジアラビアを横切り、ギリシャやローマへの玄関ガザの港に繋がっていた。
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この交易から得られた資金報酬が砂漠の民を急速に強力な王国に押し上げた。アラビアの北西でいくつものナバテア人の町や墓が生まれていった。1世紀の終わり、ローマ人の作家プレニーは、ナバテア人を“地上で最も豊かな民族”と呼んでいる。彼らの富の多くは首都ペトラの建設のために使われた。パラダイスはナバテア人が多くの人々との交易に関与していたことが彼らの建造物のデザインに影響を与えたと信じている。
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パラダイス「ペトラがこの地域における交易路の中心にあったことから、交易相手から建築のファサードを入手したと考えるのは筋が通っている。」

しかし、これだけ色々なデザインが在る中で、パラダイスはどのデザインを実験用として採用したらいいのだろう。
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パラダイス「このタイプのファサードは他の5百以上ものファサードを代表していると言えるだろう。従って、これが典型的な墓のファサードと考えて良い。」
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パラダイスにとっては、この墓が典型的なナバティア式だった。見ると、単純なデザインのようだが、異なった建築様式の組合せになっている。グレコローマン式の入口、ナバティア式の棟(むね)、エジプト式の庇(ひさし)、シリア式の天国に上る“閉じた階段”と呼ばれるデザイン、が一つのファサードの中に残されている。
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しかし、このデザインを彫刻チームが実験用としてそのまま使うと、岩の大きさに比べて幅が狭く、見栄えが悪い。そこでファサードの幅を広げることにした。となるとデザインにはどのような影響がでるのだろう。

この問題に取り組むと、何十年か学者たちを混乱させていた問題に光を当てることになった。なぜ、ナバテア人の墓には、類似した、独特の、多様性が見られるのか。ペトラの墓のデザインで重要なモチーフの一つは“閉じた階段”だ。いくつかの墓では“閉じた階段”の最下段が庇の高さと同じで、階段は完全に2つに分かれている。
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何人かの学者は、これを革新的なデザイン変更だと主張している。しかし、パラダイスは現実的な理由があったことに思い当たったと考えている。
パラダイス「ファサードを広くした場合“閉じた階段”を広げてファサードの隅の方に持って来なければならなかったんだ。」従って幅の広いファサードでは階段が2つに分かれることになった。
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このようにして、自分たちの理論でファサードを造り上げていくにつれて、ペトラの基本的な建築思想が徐々に理解できるようになった。岩は、何を彫るか、どこに彫るかについて重大な影響を与えている。

しかし、なぜ、この場所なのだろう。岩山と砂漠のどこに首都を創ったらよいのか、というのは昔から続いている質問だ。どんな方法で、ナバテア人は美しい都市を維持するのに十分な水を得ていたのだろう。その一つのヒントがここ、都市の中心部の偉大な寺院として知られる場所にある。
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モニュメントのような石段は数百の石柱で囲まれ、石が敷き詰められたプラットホームに繋がっている。
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広場には孔があり、下を溝が走っていることを示している。
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ブラウン大学スー・アルコックは大学の調査チームを率いている。
アルコック「もし、表面の石を全て取り除くことが出来たら、例えば、魔法で石の床全体を持ち上げたとすれば、その下に溝や運河のネットワークが広がっているのが見えると思うわ。」

彼女はひょっとしたらそのような魔法を使えるのかも知れないが、地表の下を調べるための別の方法も準備していた。GPRと呼ばれるGround-Penetrating-Radar地中探査レーダーだ。
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男性メンバー「ここでは発掘は厳しく制限されている。だからGPRが地下の様子を見る方法なんだ。外科病棟でX線で体を調べるのと同じようなものさ。」

レーダーは高周波の電磁波を地中に向けて発信する。電磁波が材質の異なる部分、例えば土と岩の境目、を通過すると、反射が起きる。しかし電磁波の速度は材質に応じて変化する。土壌を通過するときは遅く、空気中を通過する時は速い。
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GPRは、この変化を検知し、どこに溝が隠れているかを教えてくれる。チームは事前に決めた測定ルートに沿って、GPRを広場全体に渡り移動さて探査した。

偉大な寺院の床下には、排水溝のようなネットワークがあった。興味深いのは、溝が広場を越えて隣まで延びていたことだ。
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アルコック「ペトラでは建物が密集し隣接していたから排水溝のような溝はずっと繋がって広がっていたのよ。」
アルコックはこの溝が巨大な都市全体を走る水システムの一部ではないかと考えている。
「ペトラは中心都市だったのよ。当然、水供給システムが必要なはずだわ。」
この理論にはたった一つ、問題がある。
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ペトラは地球上でも最も乾燥した場所の一つだ。
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仮に偉大な寺院の床下に、都市全体にとって十分な水供給システムが見事な技術で造られていたとしても、その水は一体どこから来ていたというのだろう。

可能性がある一つの水源は、今日でも現地の人達が毎日使っている。“アイン・ムーサAin Musa”と呼ばれている。つまり“モーゼの泉”だ。その泉を水力学技術者のチャールズは調査チームと共に訪れた。

女性考古学者「イスラエル人を引き連れたモーゼがこの石を杖で突いたら水が湧き出て来たのよ。」
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モーゼが奇蹟の水をもたらしたという話は、伝説の岩とこの泉を結び付けた。しかし、モーゼの泉から得た水をペトラに結び付けるには別の、技術的な奇蹟が必要だ。8Kmも離れているのだ。
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ペトラへの入口となる細い渓谷“シークSiq”でどのように水が運ばれたのかを示す証拠を調査チームは見つけ出した。通路に沿った岩壁の下の方に、かつて陶器のパイプがあったことを示す跡が付いた狭い溝が続いている。
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チャールズ「溝の中をよく見ると、短い陶器の筒が繋げられて埋められていたことがはっきり判る。」
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凡そ0.3mの長さの筒が、何万個も、高地にあるモーゼの泉から8Kmに渡って繋がっていたのだ。そして全ての筒のつなぎ目には水が漏れない工夫が織り込まれていた。ということは、ナバテア人は高度な水力学を知っていたのだろうか。

サン・ホセのカリフォルニア州立大学で、チャールズは、6mの長さの水槽を使って、それを見つけ出そうと試みていた。
水力学技術者チャールズ・オルトロフ「ナバテア人にとって水はとても貴重だった。古代の技術者は水が漏れないパイプ・ラインを必要としていたはずだ。」
彼らの挑戦は、パイプの中を、どのようにすれば素早く、効率的に水を運ぶことができるのかを調べることだった。
チャールズ「パイプの傾斜角を変えてみるのが一つの選択肢だ。」
水を速く運ぶとなれば、単純だ。傾斜角を急にしてやればよい。まずは6度にして水をパイプに流し込んでみた。上手く流れ始めた。水の流れは速い。しかし、直ぐにパイプの中で水が詰まり始め、水力学的転移hydrauric jumpと呼ばれる乱流が生まれて、流速が低下し出した。
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それよりも大きな問題があった。パイプの内部に水が詰まって、そこの水圧は上っている!ペトラの配管では、圧力が高いと陶器のパイプの継ぎ目から水が漏れる可能性が高い。「どうも6度の急勾配は適当ではなさそうだ。」

そこで勾配を緩くして4度で試験することにした。2度というわずかな変化は流速変化に大きな影響を与えた。

流速は速まった。しかもパイプのどこにも水の詰まりは発生しない。これはペトラの配管工たちにとっていいニュースと言えるだろう。
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チャールズ「パイプのどの部分をみても、水面の上には水がない空間が残っている。これなら水漏れを回避しやすい。」

近代の手法のおかげで、パイプで水を速く流すための最適な勾配が4度だと判明した。チャールズはペトラに残されていた溝の勾配を測定して驚くべき発見をした。
「古代のナバテア人技術者は水パイプを通す溝の勾配を凡そ4度にしていた!」
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2千年前、ペトラの技術士たちは長いパイプ経路を完璧に設計していたのだ。
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ナバテア人が水力学の達人だったことが明らかになった。
「我々が2千年後に確認したように、彼らは既に科学的原理を発明していたのだ。」

しかし、水だけが砂漠で入手が困難なものではない。地元では木材の供給もわずかしかなかったはずだ。とすれば、どのようにしてナバテア人は下から組み上げた木材の足場を使うことなく、岩肌に聳える墓を造ることが出来たのだろうか。
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パラダイスは、尋常ではない彫刻作業のための重大なヒントをこの未完の墓で見つけた。
パラダイス「上の方は完了している。直ぐ下の庇部分は彫刻作業が進んでいるが、その下は全く作業されていない自然のままの岩肌だ。」
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パラダイスとって、上が完成していて、下がそのままだという事実が意味することは一つだった。
パラダイス「ナバテア人は上から彫り始め、下の方に彫り進めていったのだ。」
未完成の墓はナバテア人が岩壁の上層部がら下方に向けてファサードを造ったことを示していた。
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カリフォルニアで、パラダイスたちはナバティア式のファサードを造っていた。上から下へ、足場を使わずに。ここまで仕上げるのに、彼らは安全ハーネスを使っていた。
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しかし、ナバティア式の上から下への建築方法で作業している内に、ハーネスや下からの足場を使わずに作業する方法を思いついた。作業している場所の少し下方に、孔を3箇所に明け、ピンを指し、その上に木材の板を載せて着脱が簡単な、仮の足場にする。僅かな資材があれば十分だ。彫刻作業が進んだら、また孔を明け直し、少し下に木材の板の足場を移してやればよい。
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棒のために明けた孔は、後で削りとられていくので、跡が残らない。この方法は完璧に機能した。こうすれば、ナバテア人も下から組み上げた足場なしで、作業速度を上げられたはずだ。しかも痕跡が残らないから、ペトラのファサードと同じ結果になる。
作業が半分を過ぎると、実験チームは別のことに気付いた。彫刻によって生まれた沢山の瓦礫が足場の役目をしてくれる!
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つまり、以降はパイプと木材の板を使う必要がないということだ。

ペトラでの未完成の墓の発見と、カリフォルニアでの実験作業での発見を組み合わせてみると、ナバテア人がどのような方法でアル・カズネを彫ったのかについて新しい理論が生まれることになった。

彼らはまず岩山の上に登り、そこから岩壁に、横方向の浅い溝を彫った。
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そして、古代のドリルを使い、穴を明けてピンを固定し、木の板を張って彫刻作業者たちの作業用プラットフォームを造った。最初に彫ったのは壺と最上層だ。
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そこから下に向かって、華麗な柱や彫像などのセクションを彫り進めていった。半分ほど掘り進むと、彫刻で生まれていた瓦礫が積み上がって足場になった。
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以降は、瓦礫を下から登って行っては作業を続けることが出来たのだ。
パラダイス「ほかのどんな文化や社会においても、この方法をこの種の大きな建築物で使ったことはないはずだ。」
上から下に作業する方法は、ペトラの砂岩の岸壁にファサードを彫り上げるのに最適で、革命的な発明だったのだ。

しかし、彫刻はアル・カズネの特徴の一部でしかない。アル・カズネは渓谷の底深で、かつ都市へ入るための入り口という、印象的な場所にある。しかし、この狭い渓谷が“死の罠”になり得る証拠があるのだ。
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観光客が偶然に撮影したこのビデオは砂漠の危険を示している。鉄砲水だ。
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ペトラの年平均降水量は5,6cmだが、一気に降るので、この峡谷を凶器に変えてしまう。この洪水は1963年、22人のフランス人旅行者の命を奪った。そして今日でも、アル・カズネに損傷を与えている。
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スイス人建築考古学者ウェリー・ベルウォードは旅行者とアル・カズネを保護するためにペトラにやってきた。彼はナバテア人がどのように洪水の発生を回避したのか、そのヒントを探している。
ベルウォード「彼らがこの崖にファサードを造ろうと決めた時、彼らには冬季に発生する洪水に対抗する何らかの手段が必要だった。」
アル・カズネの隣は細い峡谷だ。ここでベルウォードは大きな岩のブロックをモルタルで積み上げた古代のダムを発見した。
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ベルウォード「それは2千年前のもので、今でも全体が完全な形のまま残っている。」
しかし、このダム一つではアル・カズネを守るのには十分ではないだろう。ベルウォードは他にもダムがないか探してみた。峡谷に沿って登っていくと、岩壁の表面にヒントを見つけた。ある高さの所に、黒い線が水平に続いている。
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線より上は岩の色が黒っぽい。下は明るい色をしている。ベルウォードはかつて貯水池があり、蓄えられていた水の中の鉱物が沈殿した結果だろうと考えている。
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この線に沿って調べていくと、2つの大きな溝が峡谷の岸壁に掘られていた。溝はかつて、ダムがあった跡を示している。
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ベルウォード「ダムの壁は峡谷の岩壁にはまり込むようにして固定されていたのだ。そうすれば蓄えた水の圧力にも容易に耐えられる。」
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彼は、このヒントを基に考えを進め、古代ナバテア人のダム構想を見つけ出した。ナバテア人は5つのダムを造っていた。更に、これらのダムが効率的に機能するよう、長さ42m、深さ5mの、迂回用の溝を掘ったのだ。この溝はダムから溢れた水を貯える貯水池に繋がっていて、アル・カズネの方向に流れ込む水の力を弱めていたのだ。それはアル・カズネと同じように、重要で、技術的な宝物だと言えるだろう。
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ナバティアンのダム構想は完璧だったので、ベルウォードもこの手法を改善することは出来なかった。今では、建設チームは、昔と同じように、古代のダムの修復を進め、アル・カズネを保護しようとしている。
ベルウォード「今後ともアル・カズネを守っていくとするなら、何千年も前に行われた方法が好いと思っている。今、我々がしている作業は、正にそのものだ。」
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洪水の恐怖は大きかったのでナバテア人はダム構想とアル・カズネの推進を並行して進めていた、とベルウォードは考えている。実際問題として、学者たちは、広大な墓地や都市の中心部、水システムなど、ペトラの多くの部分がキリスト誕生の頃の1百年の間に造られたと信じている。
ベルウォード「都市の全ての水システムは一つの全体計画に従って組み立てられているのだ。」

とすれば、一体どのくらいの量の水が、そのシステムによって準備されていたのだろうか。米国のサン・ホセで、カリフォルニア州立大学の水力学技術者チャールズ・オルトロフはそれを見積もっている。
チャールズ「この地図には全ての水源やダムなどが記入されている。」
彼はこれまでに見つかった水に関する特徴を地図に纏めた。新鮮な飲料水用の8つの泉、鉄砲水から町を守る36のダム、1百以上の溜池、多くの水施設を繋ぐ2百Km以上のパイプライン。
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この地図と流体力学的な実験から、オルトロフはペトラの3万人が手に入れることが出来た水量を見積もった。
オルトロフ「もし全ての水源の水を足し合わせたなら、一人一日当たり8リットルになる。」
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シャワーや洗濯機がなかった時代なら、8リットルは一人が生存するために必要な水の量より十分多かっただろう。事実、新たな発見はナバテア人がペトラを砂漠のオアシスに変える十分な水を得ていたことを明らかにした。水が十分あったという証拠は偉大な寺院の直ぐ隣の、広いテラスで見つかった。
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最初に発見した人物に寄って“市場”と名付けられた場所だ。1998年、この場所を2.4mほど発掘したところ、耐水性のセメントを発見した。「水を溜めていたところのようだ。」
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発掘を続けると構造が明らかになってきた。ここにあるのは一つの角で、北西の方向にも同じような角がある。
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結局、4つの角が見つかった。42mx24mの長方形をしている。オリンピックの競泳プールの大きさとほぼ同じだ。そしてその中央には、石で出来たプラットホームの跡があった。更には、プールのような構造物を囲むように掘られた溝が、灌漑で使われていたかのように、下のテラスに繋がっていた。
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土壌サンプルを調べたら、そこでは耕作が行われていたことが判った。つまり“市場”は島のように造られたパビリオンと、下の段の緑地や耕作地を含む、巨大で記念碑的なプール複合体Pool Complexだったのだ。
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町の中心部全体で、考古学者たちは、泉や、柱が並ぶ通りに沿った運河など、他の水関連施設を見つけていた。
(mh:上の写真が現状で下は想像図です。)
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この砂漠の環境の中で、彼らは水を豊富に楽しんでいたのだ。

砂漠の中心部で???とすればペトラは別の華々しい場所と似ているように思われてきた。ラスベガスだ。
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砂漠に囲まれたオアシス都市で、どこに行っても水や泉を見かける。砂漠をオアシスという全く逆の場所に変革することによって、そこが富みと権力の場所だと人々に知らせていたのだ。

古代にペトラを訪れた人々にとって、暑く乾燥した砂漠を何日も旅した後に辿り着いたオアシス都市は、大きな感銘だったことだろう。
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ペトラの贅沢なプールと国際センス溢れる構造物は長い年月を過ぎた今でも木霊のように響いて伝説を思い起こさせてくれる。
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カリフォルニアでは2カ月に及ぶ作業の結果、2千年後に初めて造られたファサードが姿を現していた。シリア的で、グレコローマンでエジプト的で、しかしナバティア式のファサードだ。今ならカリフォルニア的でもあると言えるだろう。
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ナバテア人が死者のために墓を、生者のために給水溝を彫り出したかどうかは別にして、彼らの石加工技術はペトラの富と美の鍵だった。
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では、どうしてナバテア人の王国は衰退し、ペトラの大半が消えてしまうことになったのだろう。ペトラ全体て見つかる倒れた石柱はその犯人を示しているように思われる。
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古代の記録によれば、巨大地震が西暦363年に起きていた。この地震は考古学者の間でも有名な大地震でペトラに大きな打撃を与えたことは間違いない。しかし、一つの惨事だけがペトラの全てを破壊し、町を衰退させたとは思えない。人々の最大の娯楽の場所だったはずの偉大なプールに、地震よりも前に町を襲った出来事の証拠が残っていた。363年の地震で積もった地層の下の2世紀の前半の地層から、動物の骨が見つかった。
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少なくともその時には水が無く、プールは埋められていたのだ。そして、西暦520年頃、つまり地震から1百年後、ダムの機能が致命的に欠乏していたこを示す証拠がある。
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ペトラの中央通りの多くの場所に、敷石が無い部分が続いている。
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パラダイスは、甚大な鉄砲水で敷石が洗い流されてしまったのではないかと考えている。
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パラダイス「洪水は岩山を下り、町の中心の通りに流れ出て、敷石を剥がし取り、流し去った。この時、ペトラの黄金時代が終わったことが決定付けられたのだ。」
皮肉にも、水に欠乏していたペトラは、水に寄って終焉を迎えたのだ。

今日、南カリフォルニアの丘では、彫刻チームがペトラを甦らせようと最後の仕上げをしている。それは、他の文化では見つからない、ペトラ独特の繁栄の証拠だ。柱の上の中央部にある小さな突起飾りだ。
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この突起には葉や花などの模様が刻まれているのが普通だ。
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パラダイスは、ナバテア人が砂岩に見つかるものを尊敬の印として選んで刻んだのではないかと信じている。
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パラダイス「それは岩が、あたかも生き物のような雰囲気を持っていることを思わせる。岩が卓越した創造力を持っているかのようだ。」

そして砂岩そのものは墓の表面を仕上げるための工具にもなる。
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石はナバテア人の生活の中心にあった。ペトラという名前自体もギリシャ語の岩という言葉からきている。
パラダイス「ナバテア人と砂岩の関係は、彼らが誰かを示す根底的なものだ。彼らは、この岩の渓谷で生まれ、この石の渓谷で生き、死ぬと岩の中に埋葬されたのだ。」
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「そして、大きな墓のファサードが彼らの最後の休息の場所になったのだ。」
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毎年、50万人以上の観光客がスイス人ヨハン・ルーディヒ・バークハルトの足跡を辿ってペトラにやって来ては、誰もが宝物アル・カズネを見上げる。
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ペトラが西洋の人々に知れるようになってから2世紀、その卓越した技術文化は、他のどの古代文明とも同じレベルにあったことが証明されつつある。

米国東洋研究センター;クリストファー「ペトラは都市以上のものだ。それはすばらしい王国だった。平和で繁栄し、古代世界が憧れた王国だった。」
水の匠masterとも言えるナバテア人は、石の都市を燃焼させた。貯水池、給水溝、ダム、泉、プールでさえも。水を管理できなければ、ペトラという都市は生まれなかったのだ。
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2千年以上も昔、砂漠の民は、この人を拒絶する崖の間に定住し始め、厳しい環境の大地をオアシスに変えた。
パラダイス「ナバテア人は少ない資源を最大限に利用する方法を知っていた。だから彼らは何百年もこの地で存続し、繁栄することが出来たのだ。」

バークハルトは砂の砂漠に消えた伝説の都市を追い求めてここに来た。
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世界で知られている都市の中で最も豊かな都市だ。エジプトやローマに対抗して造り上げられた。泉やプールは水を一杯湛(たた)えていた。今日、ペトラの多くの伝説的な魅力は本物だったことが明らかになっている。
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BBC Documentary Petra: Lost City of Stone | BBC Documentary 2015
https://www.youtube.com/watch?v=lGZtM1wqtDA
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エド・ディル(‎ Ad Deir, 修道院、英語: The Monastery)
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(Petra Part-2: The End)

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mh徒然草105:小池東京都知事の誕生

今日は8月2日。新知事が都庁職員の前で就任の挨拶を終えて記者会見をしている画面がTVで流れています。

まだ就任したばかりですから、公約の都議会冒頭解散発言には暫く目をつぶり、今後の都政や都議会の改善を期待したいと思いますが、選挙公約の一つであったはずの知事手当半減は、まずもって実施してほしいと思います。

おぉ、たった今、記者から質問が出て、小池氏は直ちに半減を検討すると回答しました!今更、これを引っ込めたら都民から総スカンを食らうでしょうから、至極当然と言えますが、これで少し、小池氏の改革に期待が持てそうになりました。改革するなら、中国故事に習えば「隗より始めよ」で、まずは身を綺麗にすることです。私は横浜市民ですから、東京都知事に関して、あれこれ口を挟む権利も意味も無いのですが、対抗馬の増田氏や鳥越氏は選挙中に知事報酬の削減について言及していなかったようですから、小池氏の潔さというか、選挙活動の巧みさは認めざるを得ないでしょう。

以前にもお伝えしましたが、選挙運動が巧みな議員経験者ばかりが議員や知事をやるというのは、反対です。今回の都知事は増田氏か、鳥越氏がよいのではないかと思っていましたが、結果がこうですから、mhの発想は庶民、都民、国民の心を反映していなかったわけで、考えさせられました。

それにしても、自民党の対応は理解できませんねぇ。元々、政治家の発想を理解しようとすること自体が無理だとは思いますが、小池氏の離党はないようですし、党紀を変えてでも総裁を3期(9年)にすることを考えるべきだという安倍首相べったりの二階氏が幹事長に収まるようですし、都知事選では自民党員の家族を含め、党が推薦していない候補以外を支援するものは除名するとの、驚くべき時代錯誤の御触れを出した自民党東京都連会長の石原伸晃経済再生担当相は、今日(2日)午前の記者会見で、都知事選で党推薦の増田寛也氏が敗北した問題に絡み、「知事選は党本部マター。お金も都連でなく党本部が集めたのであり、責任者は幹事長だ」と述べた(URLを参照ください)ようですし。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/160802/mca1608021214012-n1.htm
ここまでくると、自民党をぶっ壊せ、と小池氏にエールを送りたい気分です。

しかし、小池氏の勝因は、やはり選挙運動の巧みさではないかとの思いは消えません。実が無くても選挙に勝てるとなれば、期間中は選挙運動を巧みに進めることに注力し、自分が何をするか、何をしたいかは隠しておく必要すらあるわけです。

イギリスのEU離脱、フィリピン、アメリカの大統領選挙、はたまた日本の選挙もそうだと思いますが、いわゆるポピュリズムが幅を利かせる世の中になりました。韓国の慰安婦問題も、ポピュリズムの中で朴大統領の考えが揺らぎに揺らいで、このままではセウォル号の引き揚げは、mhの予言通り、成功しないのではないかと思いますが、こちらの方は、現時点では純粋な技術問題だけが障害で、当初7月中の引き揚げ完了は9月にずれ込んだものの、予定通り行われるようです。

ポピュリズムと言えば、ヒットラーの台頭も、中東からEUに流れ込む難民の排斥運動の高まりも、現状が変わらない事に対する不満の反動で節操のない行動に走るポピュリズムは、後日、大きな禍根を残すというのが歴史からの教訓です。

ポピュリズムは問題の本質を見ず、利己的な発想に流される様を表す言葉だと思います。このブログも、この調子で続けたら、ポピュリズムそのものですから、一息入れ、周囲を冷静に眺めてから、身の振り方、政治家で言うなら出処進退、を決めさせて頂こうと思います。

それにしても、読み辛い、不穏な世の中になってきました。

Seasons In The Sun - Terry Jacks (lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=IYsrKDSKzWg
(完)

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ヴィㇽカバンバの不思議

ヒッタイト・・・
いつか、どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き・・・
「ヒッタイト」は、いつ、どこで生まれた、何を指す言葉なのか???

これは「ヒッタイトの不思議(part-1)」からの引用で、先週のブログ「ヒッタイトの不思議Part-2」でも使わせて頂きました。

で、今回もご紹介したのは、お釈迦様も仰ったように、訳があるんですね、当然ですが。

「ヴィㇽカバンバ・・・どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き」

ヴィㇽカバンバVilcabambaはケチュア語で "Willkapampa" と表記され、意味は“エスピリトゥ・パンパEspíritu Pampa”つまり“魂が宿る平原”です。

魂が宿る平原“ヴィㇽカバンバ”はどこにあり、どんな魂が宿るというのか?

まずは場所ですが、勿論、ケチュア人の土地にあります。なじみの薄いケチュア語ですが今もれっきとした公用語で、スペイン語と共に使われています、ペルー共和国で!

そう!ヴィㇽカバンバVikcabambaは旧インカ帝国にある町なのです。

どこにあるのか、正確には“あった”のか、というと、インカ帝国の首都クスコCuzcoから北西に6百Km、ペルー共和国の首都リマLimaから北に2百Kmのアンデス山中なんですね。50年程前に特定されました。
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クスコ近くには空中都市マチュ・ピチュMachu-Picchuが!

ところで・・・
ヴィㇽカバンバは何故、浪漫に満ちた響きを持つと思うかですが・・・勿論、人によるのですが・・・mhの場合、メランコリックなイメージが彷彿と湧いてくるからです。私もクスコやマチュ・ピチュを訪れる幸運に恵まれましたが、何故、こんな高地に首都を造ったのか、人々はどんな生活を送っていたのか、と不思議に思いました。ヴィㇽカバンバもクスコ同様、アンデス山中に造られた町です。しかし忘れ去られていたんですね、ヒッタイトの首都ハトゥシャのように!

浪漫に満ちた都市、メランコリックな都市、失われた都市Lost City“ヴィㇽカバンバ!”
ヴィㇽカバンバを巡る2人の男を紹介するYoutubeフィルムが見つかりましたのでご紹介しましょう。
一人はヴィㇽカバンバを発見したかも知れない男。
もう一人は、それを消滅させた男です。

・・・・・・・・・・・・
ペルー・・・何世紀もの間、高度な文明が繁栄していた国。
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この地を中心に、太陽の王King of the Sunは、南アメリカ大陸の背骨アンデス山脈に沿って3千Kmも広がる広大なインカ帝国を統治していた。
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西暦1532年、大虐殺が行われ、帝国は破壊され、占領された。混乱の最中、帝国の高貴な人々は首都から遠く離れた土地に逃げのび、困難の中からインカの文明を復活させようと歩み出した。その地こそ、インカ最後の都市ヴィㇽカバンバだ。
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これは、帝国最後の人々が隠れ住む都市ヴィㇽカバンバから微(かす)かに漏れ出していた声を追い求めた2人の男の物語だ。一人はそれを発見し、もう一人はそれを永久に破壊し尽くした。
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マチュ・ピチュ・・・何世紀もの間、輝かしいインカの砦は山頂の林の生い茂る樹や湧き上がる霧の中で忘れ去られていた。
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1948年、アメリカの退役上院議員がマチュ・ピチュを訪れた。彼は若かりし頃、マチュ・ピチュを世界に知らしめた男だ。
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彼は、記憶されるべき多くのことを成し遂げていた。しかし、彼、ハイラム・ビンガムHiram Bingham、は、自分が人々に記憶されている理由はたった一つだと知っていた。考古学的に重要なこの遺跡の発見だ。
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ハイラム・ビンガムが考古学者になったのは、偶然のなせる業と言えるだろう。彼は、熟練した発掘専門家からは馬鹿にされていた。しかし、気にしなかった。マスコミの冷たい仕打ちにも馴れていた。

あのもの騒がせな1920年代、彼はワシントンで共和党上院議員に選出された。彼のきらびやかな生きざまは、当時の風潮にぴったりだったのだ。
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贈収賄スキャンダル、国会議員の妻との不倫、離婚、最初の妻の財産を横領したとの訴訟、などは全て彼には勲章のようなものだった。1929年にはワシントンのキャピトル・ヒルCapitol Hillで気球船ツェッペリン号に乗って人々の話題になった。ハイラムは新聞の見出しになることをするのが好きだったのだ。
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彼の冒険的な人生は、恐らく、彼が受けた躾(しつけ)に対する完全な反動と言えるだろう。キリスト教布教の最前線の一つと言えるハワイ諸島に派遣された宣教師の家庭に生まれ、節約を旨(むね)とする厳しい環境の中で育てられた。子供時代は、いかなる贅沢も、行儀の悪さも、ダンスをすることさえも、厳しく禁止されていた。
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ハイラムが家庭から逃れようとしたとしても驚くことではない。
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知性あふれ才能に恵まれたハイラムは、アメリカ本土の学校で学ぶことになると直ぐ、エール大学に入学し、大学生活を満喫した。
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子供の頃の宣教師の家庭での厳しい生活をすっかり忘れ、知的好奇心、冒険、女性などの新しい世界の誘惑に身を任せていた。

「お母さん。どうしたらいいのでしょう。私がダンスをするのをあなたが嫌っていることは判っています。しかし、ここではダンスをしてはいけないという考えは誰も理解してくれないのです。でも、これからの人生にとって良くない事はしないつもりですので、ご心配なさらずにいて下さい。」
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彼は控えめだったが、強い誘惑に身をまかせ、とにかく楽しむことに決めた。人に好かれる魅力を持っていたおかげで、エール大学がもつ身分の良さや特権的な雰囲気の中でも自由気ままに振る舞えた。まもなくしてアルフレィダ・ミッチェルAlfreda Mitchellと知り合った。
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ティファニーの資産を引き継ぐ女性だ。直ぐに上流階級のアルフレィダに虜(とりこ)になり、彼は自分もその一部になる決意をする。初めて出会って2年後の1900年、二人はコネチカット州(mhニューヨークの北東)のニュー・ロンドンにあるミッチェルの大邸宅で結婚式を挙げた。
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ハイラムは水辺を目指す家鴨(あひる)のように(like a duck to water)富を手中にした。しかし、好いことばかりではなかった。経済的には正反対の履歴を持つ夫婦で、妻は夫が自分の考えに従って暮らすことを望んだ。彼女の家系の力が強く、当然、妻の考えが優先されるべきだという立場だったのだ。
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彼は資産と上流社会の生活を気に入ってはいたが、妻の家系からの圧力を全て受け入れる気分にはなれなかった。一人で何も決められない状況にいる自分は、綺麗に仕立てられた籠の中の鳥のようだと感じていた。
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エール大学で講師を務めてみたものの、馴染めず、大学での仕事に息が詰まり始めていた。加えて、上流社会の家庭生活からの圧力もあったことから、ハイラムは現状から逃げ出すことを考え始めた。
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彼は、シモン・ボリバーの探検本に感化され、冒険の旅にでれば現状を打破できると考えて、現地調査をすることを決め、1906年、妻アルフレィダに別れを告げると南アメリカに向けて出発した。

「全く知らない土地を初めて探検した時、血は湧き、踊っていた。私の祖先たちは十世代もの間、こうして新天地に出かけていたんだとの思いを強く感じた。」
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長い間、一人で旅行して家を留守にする夫のおかげで、妻アルフレィダは不幸せだったが、ハイラムは“自分も妻と離れて幸せではない”と書き綴る手紙を続けざまに送っていた。
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「愛するお前に。お前への私の愛は日ごとに深まっている。我々の長い別離について不満を言うのは止め、良い仕事を成し遂げた後の未来を楽しむことにしよう。」

しかし、数千Km離れた土地で気ままな旅を続けていたハイラムは有頂天だった。アルフレィダと離れていることで少しさみしかったが、自分が長年したかったことをとうとう見つけたのだ、冒険だ。
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ビンガムは自分の冒険旅行に関する本を書くことに専念するため、大学での学術研究は放棄することにした。

ペルーに着いた時、ビンガムは初めてインカの世界を目の当たりにした。
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そこには、古代エジプトのような高度な文明の跡が広大な地域に残っていたが、ほとんど知られていない。インカの子孫たちはアンデス山地に残って暮らし続けていた。遺跡は彼に過ぎ去った見事な過去について語りかけてくれていたが、それをどのように解釈したらよいのか、彼は考え付いていなかった。
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彼は何か方法を見つけねばならなかった。
「幸運にも、私は王室地理学協会が発行した、とても便利な小雑誌を持って来ていた。」
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「その本の中の一章で、先史時代の遺跡に出会った時は何をすべきかを見つけた。寸法を測ること、多くの写真を撮ること、石組みの様子を出来るだけ詳しく記述することだ。」

彼は直ぐ、ベルー全土の遺跡を調べることに没頭した。しかし、インカの歴史に関する幾つもの話の中で、たった一つの話が、他のなによりも彼を魅了した。“ヴィㇽカバンバ”だ。インカの王が暮らした最後の町だ。16世紀の歴史書によれば、インカの高貴な人々や祈祷師たちは、コンキスタドールの大虐殺や占領を逃れ、首都クスコの北の、人が踏み入ることができない高地のジャングルの中に移り住んでいた。
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彼らはヴィㇽカバンバと呼ばれるその場所に亡命王朝を打ち建てた。王宮、寺院を造った。かの神聖な黄金伝説もそこに持ち去っていた。
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以降、黄金の夢に誘惑された多くの男達がヴィㇽカバンバを探そうと試みたが、誰も見つけていない。恐らく、黄金はまだジャングルの中に隠されていて、発見されるのを待っているのだ。
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ハイラムはその思いに憑(と)りつかれた。それこそが宝探しをする者の夢だ!

ハイラムの目の前にすばらしい冒険が広がった。“自分こそがインカの古い都市ヴィㇽカバンバを見つけ、隠されている宝物を掘り出す最初の男になるのだ!”
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アメリカに戻ると、ハイラムはヴィㇽカバンバ研究者としての活動資金集めを始めることにした。スペイン人コンキスタドールたちが書き残した地図や年代記を見つけ出しては読みふけった。
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そしてヴィㇽカバンバが在るべき場所を算出した。数か月後、彼は確信を得た。インカ最後の逃亡者たちは “Espíritu Pampa ( エスピリトゥ・パンパ)”と呼ばれる場所に棲んでいたのに違いない!
残るは探検に必要な資金を集めるだけだ。
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彼には妻の家系を後ろ盾に、銀行から資金を借りられる自信があった。ある時、ニューヨークにあるエール大学のクラブに出かけた。
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そこで探検の話をすると、やってきていた大勢の仲間は、ビンガムの旅行写真を見て強い関心を示した。

ハイラム「昨晩、これまでほとんど話をしたこともなかったクラスメイトの一人が私の所にやってきて二人で話した。私が探検の計画を話し、写真家に払う1800ドルが必要だと言うと、彼は笑って“1800ドルだって?なんなら君にあげよう”と言ってくれた。私は嬉しくて大声を上げるところだった。」

1911年6月8日、ハイラム・ビンガムはニューヨーク港の蒸気船の甲板の上にいた。
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彼は妻に二度目の別れを告げた。今回は辛かった。4人目の息子が産まれたばかりだったのだ。(mh;結局7人の子供がいたようです。)
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ハイラム「その時、見送るお前がどのように見えたか、私は決して忘れない。とても勇敢で健気(けなげ)で、小さく見えていたにもかかわらず何かを強く訴えていた。一人で旅立っていくことがとても冷たい仕打ちのように思えた。」
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しかし、ペルーに戻るや否や、彼は自分が最もやりたいと思っていたことを始め出した。1911年7月、北のスピリトゥ・パンパに向けてクスコを出発した。幸せな気分ではちきれる程だった。
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そして大きな幸運に出会うことになった。苦労もなく目的地に向けて旅を始めて3週間もしない時、土地の農夫が、近くの山の上の、古い石で出来たテラスについて話してくれた。
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彼はその場所が何と呼ばれているのかを訊ね、ノートに書き記した。マチュ・ピチュMachu Picchuだ。
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ビンガムは翌日、ちょっと見ておくことにした。原住民の子供が数時間離れた山の上のその場所に案内してくれた。
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「近づくほどに、思っていた以上の遺跡だと判った。石を綺麗に組み上げたテラスが続いていた。100段はあるだろう。信じられない光景だ。ほかの誰なら私が見つけたものを信じてくれるのだろうか。しかし、幸運にも私は、いいカメラを持って来ていた。」
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ビンガムはインカの新しい遺跡を見つけた。二つとない見事な美を備えたものだったが、インカ遺跡に対する十分な経験が無い彼は、どんなにすばらしい発見なのか、その時は気付かなかった。
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4百年前にインカが放棄して以来、全く手が付けられることなく放棄されていた都市遺跡だった。
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ビンガムは自分が見つけたものを理解することなく、探検隊が待つ山の下に戻り、旅の目的地ヴィㇽカバンバを目指して出発した。

彼は北に向けて急いだ。樹木が密生して進むことすら困難なジャングルの中を進み、危険な渓谷を渡った。必ずやインカ帝国の失われた都市を、素晴らしい寺院や王宮の跡を見つけ出すのだ!
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数週間の死にもの狂いの進軍の結果、探検隊はついにヴィㇽカバンバがあるはずの土地に到着した。数日間、ジャングルの中に入り、草を刈り取りながらヴィㇽカバンバの痕跡を探した。しかし、彼らを待っていたのは厳しい仕打ちだった。何も見つけ出すことが出来なかったのだ。ハイラムが当初、算出していたヴィㇽカバンバの在ったはずの場所エスピリトゥ・パンパは、石で出来た、採るに足りない遺跡が僅かに残るばかりの、うっそうとしたジャングルに覆われた荒涼たる台地でしかなかった。
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想像していた素晴らしい都市とは完全にかけ離れていた。ハイラムは失望し、どうしたらよいか判らなかった。これがヴィㇽカバンバなのだろうか?それとも自分の計算は間違っていたのか?
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ハイラムは当惑してしまったが、とにかく探検に戻ることにした。しかし、探検隊のメンバーは疲労し、資材や食料も不足してきていた。探検を打ち切り、文明世界に戻ることに決めた時、彼らの意欲はもう底をついていた。
「私は太陽に晒(さら)されて歩きながら何度も考えた。大学講師の道を捨て、多くの費用を注ぎ込み、私と私の愛する妻の長い時間をこの探検に捧げたというのに。未来がどうなるのか私には判らない。」
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ハイラムがアメリカに、彼の妻のもとに向かって帰途についている間、暗雲とも何とも言えない得体のしれないものが彼の探検人生を覆い始めていた。

しかし、アメリカに戻ると、ハイラムの気力とヴィㇽカバンバの夢は再び息を吹き返した。彼は改めて計算し直してみた。エスピリトゥ・パンパでないとしたら、場所としては不適切だが、マチュ・ピチュこそヴィㇽカバンバではないのか?翌年、彼はペルーに戻ってマチュ・ピチュを徹底的に調べてみることに決めた。
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1912年夏、彼はマチュ・ピチュに到着した。作業者が木々を払いのけると現れた石造りの遺跡は驚きとしか言いようがなかった。
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それは特別な都市のようだった。規模の大きさ、造られた場所の完璧な美しさ、見事なテラス・・・全て王室のための都市であることを示している!
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「このような場所に1つで3トンもありそうな、がっしりした花崗岩を使って門や建物を造るよう命じる者は王以外には誰もいないだろう。その上、造り上げるためには、莫大な、際限のない忍耐を必要としたはずだ。」
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発見の興奮で舞い上がっていたハイラムは、こここそが王の最後の避難の地に間違いないと考えるようになった。
“スペイン人支配者が棲むクスコに近すぎるという問題はあるが、その他は必要な条件を満たしている。高台に造られた、息を飲むほど壮麗なこの王宮で、インカの最後の王は身を隠しながら帝国に指示を発していたに違いない。”
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彼はこの見事なマチュ・ピチュの発見に身を捧げることにした。それは世界で名声を得るパスポートだった。ナショナル・ジオグラフィックは、ある刊を全て、ビンガムと彼のペルーにおける業績で埋め尽くした。
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その時から、誰もが、マチュ・ピチュと、それを発掘した男について知ることになった。
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ナショナル・ジオグラフィックの特別な夕食会で、ハイラムは北極と南極を探検した世界の著名な探検家たちと並ぶ栄誉を与えられた。
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彼はついに、望んでいた名声を得た。しかし探検者としての彼の経歴は長く続くことはなかったのだ。

1915年、彼はペルーに戻った。
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これが論争の嵐を巻き起こしたのだ。多くのペルー人には、ハイラムが見事な黄金を全く発見しなかったということが信じられなかった。実は、彼は黄金を見つけ、ペルーから密かに持ち出していたという噂が飛び交(か)った。
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この噂に反論することに疲れ、逮捕されるかも知れないと恐れたビンガムは、早々と荷物を纏め、飛行機でペルーを離れた。アメリカに帰る途中、彼は、もう探検はしないと決めた。
第一次世界大戦は激しさを増していた。彼は飛行士に志願した。
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ペルーの男性考古学者「世界大戦は彼に手軽な救いを与えた。ベルーで受けた、どうしようもない状況から拾い上げてくれたのだ。彼は愛国者として戦争に参加することで、世界はまだ自分を必要としているという誇りを持つことが出来た。」

戦争が終わりヨーロッパから戻ると、ビンガムは政治面での経歴を歩み始めるための完全な資格を獲得することになった。エール大学の卒業生で、世界でも有名な探検家で、今は戦争の英雄だった。1924年、彼は何の苦労もなくアメリカ上院議員に選ばれた。
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1920年代、彼の議員活動は平穏だった。しかし贈収賄スキャンダルや大恐慌が政治生命を縮めることになった。ハイラムに対する政治環境は悪化し、1932年、議員の席を失った。その後すぐ、彼は妻アルフレィダと離婚し、彼女から多くの資産を手にすることになった。その後、再婚すると、一つの噂を頼りに人生をやり直すことにした。マチュ・ピチュ発見者という評判だ。

彼は死ぬ日でも信じていた、マチュ・ピチュがヴィㇽカバンバだと。

しかし、ヴィㇽカバンバの場所が明らかになると、彼が間違っていたことが明らかになった。新たな発見の結果によれば、ヴィㇽカバンバはマチュ・ピチュではなかった。ハイラムが最初に計算した位置、つまりエスピリトゥ・パンパだったのだ!
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エスピリトゥ・パンパの木々が生い茂るジャングルの中に、ハイラムが探していた場所からたった数mの所に、ヴィㇽカバンバの跡は眠っていたのだ!

マチュ・ピチュがヴィㇽカバンバではないかも知れないとの思いを跳ね除けながら、1956年に亡くなるまで、ハイラムは何年もの年月をヴィㇽカバンバとその終焉(しゅうえん)に関する研究に捧げていた。
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彼の研究は彼を16世紀に連れ戻していた。血糊で汚れ、波乱で一杯の占領時代だ。
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今は名前を忘れられているが、ペルーの歴史を変えた男がいた。フランシスコ・デ・トレイドFrancisco de Toledoだ。
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行政の天才、法律の熱愛者、ヴィㇽカバンバの破壊者、インカ最後の王の殺害者だ。

フランシスコ・デ・トレイドは1515年、スペインの町ロペッサで暮らす貴族の家庭に生まれた。
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当時、スペインは世界でも最も豊かで権力のある国だった。スペインの大軍隊は中東のイスラムと北ヨーロッパのプロテスタントを征服していた。16世紀に、これ以上の特権を得ることは難しいだろう。
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スペインは西洋の最高権力国家だった。驚くべき新大陸の発見は、使いきれない程の富をスペインに供給してくれるはずだった。
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これこそがフランシスコが生まれた当時、スペインに保証されていた、かつ野心的で華麗な世界だったのだ。
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しかし家族の地位にも拘わらず、フランシスコの若い時代の生活は楽ではなかった。母は彼を産むと直ぐ死んでしまい、その後、隔離された厳格なカソリック教の世界で、尼僧によって育てられることになった。若いフランシスコは宗教的な思想を強く受け、キリストの絶対性を固く信じる信徒に成長していった。
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彼の家系はスペイン王室に仕える仕事にずっと携わってきていた。そこで15歳になるとフランシスコも王宮で給仕の仕事に就くことになった。

1532年、王宮の仕事を始めて2年した時、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の胸が躍るようなペルー占領と、インカ王アタワルパの身代金としてペルーから手に入れた巨額の黄金の話を耳にした。
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これらの話は、当時、スペインから最も離れている世界の端から届いたものだった。遥かに離れた場所に生まれたペルー植民地と莫大な財宝に対する思いが、若いフランシスコの心のなかで膨らんでいったとしても非難することはできないだろう。

フランシスコは世界の果てでスペインの権威を拡大するために編成された宗教的かつ軍事的な組織に加わることにし、必要な誓約をした。
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この時、彼は自分の人生をキリスト教とスペインと法律に捧げることにしたのだ。

組織の中で急速に出世を遂げたフランシスコは、1558年、王室の永世会員になった。国王チャールズ五世が死ぬ時、王のベッドの脇で追悼することが出来た数少ない人間の一人にも選ばれたほどだ。フランシスコは次のスペイン王フィリップ二世の身近で奉仕することになった。新王は、荒廃した、誰もが望まない厳しい現実に見舞われている中で王位に就いた人物だった。
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帝国は崩壊していたのだ。ヨーロッパに手を広げ過ぎていた上、アメリカ大陸の占領と探検では、何十年間も多くの資金を注ぎ込んでいたものの、回収できた額が少なかった。インカやアステカから得た黄金は溶かされて金塊にされていたが、海を渡ってくることは無かった。インカの富の大半は、インカの富を搾取し、原住民に無理を押し付けていたスペイン人の現地支配者の手に落ちていたのだ。
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彼らは無謀な行動を続け、黄金で自分たちの懐を豊かにしたが、スペイン王に税金として納めることは無かった。フィリップ二世は、植民地の無法状態を正し、なにがしかの歳入を王に送り届ける仕事をしてくれる人物をペルーに派遣せねばならぬと強く感じていた。そこで指名したのがフランシスコ・デ・トレイドだった。

1569年、フランシスコはペルーに向けて出帆した。スペイン帝国における、もっとも難しく、しかし重要な仕事を成し遂げるために。
困難な船旅は、凡そ1年を要した。大西洋を横断して新大陸につくと、太平洋側を海岸に沿って南下し、ペルーに向かった。
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1569年11月30日、フランシスコはスペイン植民地ペルーの首都リマに到着した。現地のスペイン人支配者たちは、彼を好意的に歓迎した。しかし、フィリップ王への手紙の中では、彼は現地の状況とスペイン人支配者たちの実情について次のように密かに打ち明けていた。
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「この地のスペイン人は墓や神聖な祈りの場所に隠されている黄金を自らの欲深い手でつかみ盗ろうとしています。スペイン帝国への納税から逃れようという行為は誰もがする当たり前のことになっています。」

これこそが派遣されたフランシスコが正さねばならぬことだった。新総督として、彼は納税義務を持つ植民地ペルーを改善するため身を粉にして奮闘しなければならなかったのだ。赴任して直ぐ、彼は、ペルーが2つの力で分裂されていることに気付いた。一つはスペイン人支配者だ。
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仲間同志で争っていたし、原住民を奴隷として酷使していた。

もう一つは教会だった。
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道徳的な指導をするだけでなく、原住民に勤労奉仕を強いていた。

植民地全体が原住民の苦悩と犠牲の上に成り立っていたのだ。原住民の全てが不満で一杯なのは当然と言えた。
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フランシスコは改革のために何に目を向けねばならぬか、直ぐ気付いた。
「スペイン人に対する劣等感や負い目から、原住民が自由に暮らせていないことに気付いた。私の仕事は、彼らがスペイン人に騙されて仕事をさせられないよう守ることだ。」

彼は、追放されたインカ王室がヴィㇽカバンバを建設し、スペインの統治に対して何年も反抗し続けていることも知ることになった。
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ペルーの男性考古学者「フランシスコ・デ・トレイドがペルーに到着した時、彼はインカに同情的だった。その一方で好ましからざることも起きていた。ヴィㇽカバンバに引き下がったインカが、コロンブス以降に行われた外部からの侵略行為に驚異を与えようとしていたのだ。」

フランシスコは、この混乱を収め、秩序を取り戻さねばならなかった。もっと深く、ペルーの状況を調べなければ、正義を行うことは不可能だと悟った。そこであることに思い当たった。それは絶好のタイミングと言えるだろう。植民地で何が起きているのかを自分の目で見るための旅だ。
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1570年、彼は広大なインカ帝国の、スペインの手が入っていない地域を中心に、調査の旅を始めた。5年を必要とする仕事だっただろう。通訳と書記を引き連れ、植民地内を次々に移動して、現地人や、スペインに好意的な人々から聞き取り調査をした。
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人口、有効土地、資源、地域の歴史に関するデータを集めながら、数年、歩き回り、記録した資料は60万にもなった。

フランシスコは原住民が話すのを聞いて、彼らがどんなに虐待されていたかを理解した。収入の大半を搾取されていたばかりでなく、何万人もが死んでいる!彼らに免疫が全くない、ヨーロッパから持ち込まれた一連の恐ろしい疫病で、人口の半数以上が消し去られていたのだ。占領者フランシスコ・ピサロが来てから、たった30年間で、ほぼ1百万人が湿疹や天然痘で死んでいた。原住民は、絶望の中で、逃亡中のインカ王室によって救われるのだという非現実的な夢に望みを託していた。フランシスコはヴィㇽカバンバに寄せる彼らの思いは消し去っておくべきだと信じるようになっていった。

現在のエクワドルのキトからボリビアに到るまでの旅をしたフランシスコは、あることを学んでいた。
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インカ帝国は多くの異なる民族から出来ていた。インカ民族はスペイン人が到着するおよそ1百年前の近年になってから他の民族を統治し始めた一つの民族に過ぎない。帝国を拡張するため、インカはスペインと同様、残忍なやり方をしていた。
フランシスコ「インカが弱い民族にたいして野蛮だった証拠は十分ある。インカは専制君主的だった。侵略者の姿そのものだった。」
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ペルー人学者「フランシスコはスペインによるペルーの占領を正当化するための証拠を探していたのだと思う。インカは専制君主的で、他の民族を不当に扱ったから、スペインは彼らを罰し、インカに虐(しいた)げられてきた人々を解放してやらねばならないと理屈づけ、自分たちの行為を正当化しようとしたのだ。」
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フランシスコは自らが調査したインカの実情を熟考した結果、スペインによる占領に正当性があることには何の疑いもないと考えるようになった。几帳面な性格だった彼は、後日、大きな論争を巻き起こすことになる計画を思いついた。彼の目的は、ペルーを正義が厳格に実施される偉大な王国にすることだった。
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彼はスペイン人支配者や教会に対して彼の権限を行使して厳しく取り締まることにした。彼らが敵対してくるだろうことは気付いていたが、兎に角、実行に移した。原住民に対しては、彼らの世界を再組織化し、スペイン王室の正義と権威が実現できるように変えていった。原住民は遠く離れた小さな村から、スペインに税金を収めねばならぬ近くの町に移動させられ、その見返りに法律で彼らを守った。スペインに従えば、彼らにも権利が与えられると約束した。
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フランシスコの考えによれば、ペルーの秩序を確固たるものにするため、もう一つ、恐ろしい犠牲が必要だった。“ヴィㇽカバンバが存続していてはならない。2つの王を持つことは出来ない。ヴィㇽカバンバと残党勢力は破滅されねばならない!”
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フランシスコは知らなかったのだが、彼が破壊しようと考えたインカの王はトゥパク・アマルTúpac Amaruという名の、少年のような若者だった。ヴィㇽカバンバでインカの巫女たちによって育てられたトゥパク・アマルは宗教に敬虔で、外の世界については何も知らなかった。
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おだやかで、抜きん出て美しく、魅力的で、しかし頭が良いようには思われていなかった。

ペルーの女性考古学者「トゥパク・アマルが王位に就いた時は、とても若く、“ウティ”と呼ばれていた。精神的な成長が遅れていて、物事への反応が遅く、頭が切れる方ではない、という意味だ。」

ペルーの男性考古学者「トゥパク・アマルが政治的な出来事について知っていたとはとても思えない。彼は、単に象徴的な人物でしかなかった。」

トゥパク・アマルは無邪気な若者だった。しかし、そのことが彼を救うことはなかった。1572年6月16日、スペイン軍はヴィㇽカバンバに大攻勢をかけた。軍が砦の中に攻め入ろうとしていた時、トゥパク・アマルと、最初の子を妊娠していた妻は彼らの手を逃れようとしていたが、結局、それは叶わなかった。逃げ出して直ぐに捕えられた若きトゥパク・アマルはクスコに連行された。
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1272年9月21日、彼は死刑を執行された。トゥパク・アマルがクスコの通りを死刑台のある広場に引き連れられていく時、町全体は声を失っていた。
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原住民だけでなくスペイン人の誰もが、ハンサムで若い王を愛していた。誰もが総督フランシスコの心変わりを期待していた。しかし、この時、フランシスコは執務室に鍵をして閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。

クスコの中央広場で、トゥパク・アマルは死刑台に立った。目撃していた人が記録に残している。「集まった全ての原住民は、悲しみに打ちひしがれ、空に轟くばかりに泣き叫んだ。」
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その次に起きたことについては二通りの話がある。
一つは、トゥパク・アマルは群衆を静まらせ「母なる大地よ、我が敵が我の血をどのように流すかを見届けよ」と高々と言ったというものだ。
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もう一つは、涙を流し、王位の放棄を訴え、許しを請ったというものだ。

誰もがフランシスコ・デ・トレイドが考えを変えるように祈っていたが、彼の閉ざされた執務室からは何の伝言も届くことは無く、刑は執行された。
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フランシスコ・デ・トレイドはスペイン王フィリップ二世に宛てた手紙に記している「偉大なる我が君が命じられたインカに関する仕事は成し遂げられました。」

しかし、フィリップは原住民の問題を解決する方法としてトゥパク・アマルの死を望んではいなかったのだ。この瞬間、潮はフランシスコに厳しい向きに流れ始めてしまう。
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ペルーの女性考古学者「トレイドは与えられた使命を完遂した。従って、スペイン人の誰からも受け入れられるだろうと考え“これで全てが完了した”と高らかに宣言したのだ。」

しかし、終わってはいなかったのだ。二つにされたトゥパク・アマルの死体が槍に刺されてクスコの広場に掲げられると、それを見た人々の胸中にインカ王への思いが湧き上がってきた。彼らにはトゥパク・アマルの顔が生前よりも美しく映っていた。
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数世紀過ぎた今、それは更に美しくなっている。トゥパク・アマルは殉教者のように無実で、キリストのような敬虔な姿をした、スペインの圧政に立ち向かう原住民の抵抗の象徴だ。5百年に渡ってペルーで起きた原住民による反乱は、18世紀のトゥパク・アマル二世の反乱から20世紀の都市でのゲリラ活動に到るまで、全てトゥパク・アマル(一世)の名前を思い起させるものばかりだ。
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ペルーの男性考古学者「それは悲しい神話と言える。何故なら、トゥパク・アマルを思い起こさせる人々の反乱は、全て失敗しているのだ。トゥパク・アマル二世の反乱は失敗し、トゥパク・アマルの名を騙(かた)ったボリビア革命も失敗した。」

歴史はトゥパク・アマルを悲劇の主人公に変え、フランシスコを冷酷なスペイン人像に変えてしまった。総督として成し遂げた、残酷な搾取から原住民を守るための公平と正義は忘られ、たった一つの事実が彼を有名にしてしまった。“罪のない少年王トゥパク・アマルを死罪にした男”として。
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ペルー人考古学者「これらは記録され、残された歴史から判断される内容だが、その記録はスペイン人宣教師が書き残したものだ。彼らはフランシスコ・デ・トレイドを嫌っていた。実際の所、私は、フランシスコが誰に対しても同じ判断基準を適用していたと思っている。行政を行う者として正しい態度と言える。良心的な観点から彼の行為を判断するとしたら、それをできる人物はフランシスコしかいないだろう。」

植民地ペルーを見事に改革し終えたフランシスコは、ペルーにおける何年にも渡る仕事への賛辞を期待しながらスペインに戻った。
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しかし、彼が受けたのは非難だった。ペルーから送られてきていた教会側の主張がフィリップ二世に影響を与えていたのだ。王は、公表すること無く、フランシスコを解雇した。「家に引きこもれ。お前は王に奉仕したのではなく、王の権威を失墜させたのだ。」
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フランシスコにとっては全く酷い仕打ちだった。王宮での仕事を辞して家に引き下がったペルー植民地第五代総督フランシスコ・デ・トレイドは、6ヶ月後、失意の中で死んだ。

ペルーを正義の王国に改革しようという彼の厳格な理想は実現することはなかった。強欲、植民地崩壊、が少しずつ息を吹き返していたのだ。
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フランシスコの施政が色あせるにつれ、新たな行政官たちによって原住民は以前に増して搾取されるようになった。そして、ヴィㇽカバンバは、呪われたペルーの悲劇の神話となっていったのだ。

Lost Cities of the Inca - AMAZING ANCIENT HISTORY DOCUMENTARY
https://www.youtube.com/watch?v=EGC3-9p37as
ネットで見つけたヴィㇽカバンバVilcabamba(エスピリトゥ・パンパEspíritu Pampa)の写真です。
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大きな石は聖なる場所だった雰囲気があります。
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トゥパク・アマル1世:享年27歳(Wiki)。
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16世紀に中南米に乗り込んだスペイン人コンキスタドールは、殺戮、略奪、搾取を続け、アステカ文明、マヤ文明、インカ文明を破壊してしまいました。スペイン人に対する怨みは今も原住民の子孫の心の中に残されているのではなかろうかと推察します。イギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどもアフリカや中近東、アジアで同じような蛮行を働き初め、植民地主義が世界を席巻しだすと、これに遅れまいとして我が大日本帝国も東南アジアや中国、韓国に進出し、現地の人々に多大な苦痛や損害を与えることになりました。今では植民地主義こそ姿を消しましたが、アメリカと、これに組する先進国の連合軍がイラクやアフガニスタンに侵攻し、日本も仲間に加わっています。しかし、部外者による武力介入は、未だに実を結ぶことはありません。アルカイダ、タリバン、ISなどのテロ集団が生まれ、バングラディッシュでは日本人も標的にされ殺害されました。

部外者たちは自分たちの正義を他国に植え付けようと目論んで武力介入するのですが、考えてみれば、その国の住民と部外者で価値観が異なるのですから、不安定な状況が生まれるのは当然の帰結でしょう。他国に武力介入しても好い結果が得られないことは歴史が証明済みであるのにもかかわらず、平和ボケした世代の政治家や一般人は、話し合いで駄目なら武力で解決しようという気運を強めています。南シナ海の領有権に関する中国の主張はオランダ・ハーグの仲裁裁判所で退けられましたが、北京でインタビューされた若い女性が、武力に訴えてでも国益は守る、と声高々に応えるのをTVで見て空恐ろしくなりました。このような好戦的な傾向は、中国だけではなく、世界中で、日本でも、高まっています。流れを変える必要があると思います、平和な方向へ。
(完)

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mh徒然草特番:築地市場の移転延期


今日は9月4日(日曜)。ここ1週間程、TVワイドショーが築地市場の移転問題を採り上げて、移転反対派や、移転容認派(注)を取材した結果や、コメンテーターたちの考えを伝えています。
(注:移転容認派;決まったことなので、くずぐずせずに、きちんと対応したいという人が多く、当初から移転希望とか、移転賛成の人は少ない感じがします)

移転延期の公表は8月31日でした。以下はネット記事の抜粋です。
「東京・中央区の築地市場は、ことし11月7日に江東区の豊洲市場に移転する予定でしたが、東京都の小池知事は31日午後、記者会見を開き、当面、移転を延期することを表明しました。
延期の理由について、小池知事は、豊洲市場の敷地内を通る地下水の水質調査の結果が11月7日の移転予定日に間に合わないことを挙げ、“市場は生鮮食料品を扱う。食の安全は生活者の目線を大切にすべきだ”と述べ、安全性の確認を行う必要があるためだとしています。
また、豊洲市場の整備費が去年3月の段階で5800億円余りと、当初の見込みより大幅に膨らんだことについて、“これだけの費用がかかったことに私は驚いている。きちんと精査し、都民に説明する必要がある”と述べ、検証する考えを示しました。
さらに、小池知事は、仲卸業者などから新しい店舗の間隔が狭いといった声が出ていることなどに触れ、“多額の費用をかけながらいまだに不満が出てくるのはなぜなのか。情報公開が足りないということだ”と述べ、現状では情報公開が不十分だという認識を示しました。」
「そのうえで、小池知事は、延期の期間について、来年1月上旬に出される豊洲市場の水質調査の結果や、市場の安全性や使い勝手などを検証するために立ち上げるプロジェクトチームの調査結果が出た段階で移転時期を判断することを明らかにしました。
築地市場の跡地には、東京オリンピック・パラリンピックの際のアクセス道路が整備される予定で、移転の延期によって完成が間に合わなくなるという指摘も出ていることから、小池知事は新たな移転時期などについて、調査の進展を見極めながら速やかに結論を出したいとしています」

ワイドショーでは、移転決定の経緯に問題があるとか、都議会のドンがどうのとか、法的には安全が確認されているとか、移転先の施設ではマグロを切る作業空間が確保できないとか、様々な意見が飛び交っていますが、マスコミは小池知事の延期決断を支持しているようです。その判断根拠は、安全が確保されている保証が無いまま移転を進めるのは間違いだ、ということだと思われます。

ここで、突然ですが、mhの結論は・・・
移転延期しないは正解
移転延期し後日移転中止も正解
移転延期したが後日移転復活は不正解、
です。
既に移転は延期としたので、残る正解は“移転中止”だけです。

今回の経緯をTVやネットで見る限り、全てが不確実な情報で動いています。移転の決定経緯、予算と実体の格差、移転先の土壌や水質の安全性、どれひとつとっても、明確に解説され公表されたことがありません。例えば重要な観点である“食の安全”ですが、小池都知事は「安全が確認されていない」と言っています。どんな有害物質がどのくらい、どこに(土壌?地下水?)あると不安全か?それがどこまで確認されているのか?それとも基準値以上の危険物質があるのか?これらが全く公表されていません。

公表できるデータが無いまま東京都は移転実施に踏み切ったと言うのでしょうか?それとも危険を示すデータがあり、隠ぺいしているのでしょうか?そうだとすると大問題ですが、データがないまま踏み切った訳ではなく、隠ぺいがあるとの事実が確認されているわけではないようです。あるTV番組のコメンテーターによると、土壌改善の結果、法的レベルでの安全は確認され、現在続いている水質検査は第8(9?)回目で、これまでの検査では全て問題なしとなっているとのこと。つまり、現時点では食の安全には問題がないとの結論になっているわけです。

にもかかわらず、なんで8回も9回も検査しなければならないのか素人には判りませんが、移転先の敷地は広いので、検査のボーリングは何ヶ所かで行われねばならないでしょうから、そんなこともあるのかもしれませんし、1年間、経時変化がない事を確認しないといけない、という安全規定があるのかもしれません。としたら、検査結果が出る前に移転を決めた舛添知事は何を根拠に安全を確保すると考えたのか?都の担当者の考えはどうなのか?

来年1月の水質調査結果は第8(9?)回目ですから、これまでの経緯から考えるとOKとなるのではないかと思いますので、それを確認したら移転再開に向けて動くという考えの小池知事は、移転を遅延させた責任を問われることになるでしょう。

小池知事の判断が正しかったとなる条件は、1月の水質検査結果で手の打ちようがない危険が確認されることしかありません。危険物質は、程度の差こそあれ、どこにも存在しますから、基準値以下なら受け入れるという発想が必要だと思います。もし、移転先の危険が確認されたなら、改善が終わるまで移転を延期するか、改善は止めて移転計画そのものを中止するとすれば都民の納得は得られるでしょうが、これまでの7回(8回)の検査で安全となっていた検査結果が翻(ひるがえ)る可能性は微少です。

それにしても、小池劇場というか、知事だけが先走り、知事だけが目立っている現状は問題です。都庁の担当者の意見や立場が無視されています。法的な安全が確認されているのか、いないのか?それが不透明です。確認されているのなら安全面での移転は問題なしとしてよいはずですが、知事が確認不十分とした根拠が不透明です。一体全体、何をどこまで確認すれば十分だというのでしょうか?それは専門家でないと判断できないはずで、知事がなすべきは、専門家やこれまで安全について調査や対策を進めて来た部門からのヒアリングです。それが十分なされないまま、小池劇場が開幕してしまいました。支離滅裂な舞台の幕が切って落とされたとしか言いようがありません。

安全性を指摘されても釈明できないような状態のまま放置し、予算と実体の大幅な乖離について何の弁明も出さぬ都庁や都議会の関係者の対応にはあきれますが、だからといって小池劇場だけでは解決しないでしょう。実務が伴っていませんから問題はさらに尾ひれがついて膨れ上がっていくだけです。都議会や都庁関係者は、小池知事が幕を切って落とした劇場が終わるまで、つまり知事が退任するまで幕の陰に潜んだままなにもせず、幕がおりるのをひたすら待つだけで、彼らが自ら問題の解決や事態の改善に取り組もうという意欲は生まれてくることはないでしょう。

移転が遅れるか中止されると、オリンピックのための道路が造れないとの問題があるようですが、代替案はあると思います。それを考案し進めるのは知事ではなく、実務担当者やオリンピック関係者の仕事で、彼らの協力なくして答えは得られません。小池知事は彼らの協力を得られるか?mhは否定的です。

いずれにしても、トバッチリを受ける都民の皆さま、ご愁傷様です。が、都民が選んだ都議会議員であり、新知事ですからね。諦めて頂くしかありません。

Simon & Garfunkel - The Boxer (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=MYPJOCxSUFc

(完)

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ヒッタイトの不思議Part-2


ヒッタイト・・・
いつか、どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き・・・
「ヒッタイト」は、いつ、どこで生まれた、何を指す言葉なのか???

との書き出しで始まった2015年11月9日のブログ「ヒッタイトの不思議」では凡そ4世紀の間、アナトリア(トルコ半島)に存在していた“ヒッタイト帝国”の歴史を全てご紹介する1時間55分のYoutubeフィルムを使いました。

今回は少し嗜好を変え、英国放送協会BBC British Broadcasting Corporationの「Lost Cities Of The Ancients - Episode 3 The Dark Lords Of Hattusha古代の失われた都市;エピソード3;ハットウシャの闇の帝王」を引用して、3千年以上もの間、存在すら気付かれていなかった“ヒッタイト帝国”が発見されるに至った経緯(けいい)、その首都ハットウシャ、そして帝国の消滅、にスポットを当ててお送りしましょう。

その前に前回のブログで使用したmhブログ史上最長の2時間のフィルムを確認しておこうと考え、7月8日調べてみると消去されていました。ネットで調べ直すと直ぐに見つかったのですが、驚くことに、このフィルム、オリジナルは3時間ものだったのです!最初の30分しか見ていませんが、前回はなかった、ヒッタイトの首都ハトゥシャ発見の経緯に関する詳細がありましたので、まず、この部分をご紹介し、その後でBBCフィルムの内容をご紹介していきたいと思います。

しかし・・・「ヒッタイトHittite」という言葉、ロマンチックromanticな響きを持っていますねぇ。

ロマンチックを辞書で確認すると“[形動]現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま”とあります。

[形動]は形容動詞のことで、これも辞書で確認すると“品詞の一。用言に属し,活用があり,終止形語尾が,口語では「だ」,文語では「なり」「たり」であるもの。事物の性質・状態などを表す点では形容詞と同じであるが,形容詞とは活用を異にする。「静かだ」「にぎやかだ」「はるかなり」「堂々たり」の類”とあります。
つまり形容動詞のロマンチックは、“ロマンチックだ”“ロマンチックなり”という形で文章の中で使う事ができるんですね。

で“ヒッタイト”という言葉が“ロマンチックだ”ってことは“ヒッタイトが、現実を離れ、情緒的で甘美だ”ってことになります。なぜ、mhがそう思ったかですが・・・恐らく、ヒッタイトの人々が築き上げた見事な歴史が、3千年もの間、人々から完全に忘れ去られてしまっていた、というメランコリックな事情によるものでしょう。

長い前置きは終え、まずは3時間ものYoutubeフィルム「Forgotten Empires The Hittite Kingdom忘れられていた帝国;ヒッタイト王国」の冒頭です。
・・・・・・・・・・
紀元前1274年、カデッシュKadeshで記録に残る戦いが当時の2つの超大国の間で行われていた。
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エジプトの伝説的ファラオ“ラムセス二世”率いる軍に敵対したのは、どの敵からも恐れられ、しかしその足跡が偶然によって発見されるまで、文明の歴史の中で3千年もの間、忘れ去られていた曖昧(あいまい)な国の軍隊だった!

小アジア。アナトリアとも呼ばれる所・・・
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現代はトルコと呼ばれ、北はロシア、西はギリシャ、東はイラクやイラン、南はシリアで囲まれている。
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1834年、フランス人考古学者チャールズ・フィリ・マリー・テクシエFélix Marie Charles Texierはアナトリアの中心部の高地、ボアズコイBoğazköyという小さな町の近くで、古い都市の跡を見つけた。
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ピラミッドのようなものも見つかった。
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その不思議な都市は多くの城壁、レリーフに満ちていて、不思議なヒエログリフも残されていた。
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この発見は当時の考古学者の関心を引くことは無かった。
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しかし、40年後、この遺跡で見つかっていたリリーフや像やスタンプ用シールと似たものがアナトリアのあちらこちらで発見され“トルコの西からシリアの北部まで広がる広大な土地に興味深い文明があったのではないか”と考えられるようになった。
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1876年、アーシュボード・ヘンリー・セイズがロンドンの聖書考古学学会で驚くべき発表をした。
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「これらの遺跡を総合的に分析し、一部のレリーフを解読した結果、“ヒッタイト”のものだと判明した!」
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学会は驚愕した。ヒッタイトについてはヘブライ聖書(旧約聖書)で簡単に触れられていただけで、学者の間でもほとんど知られていなかったのだ。
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聖書によれば、パレスティナで暮らした、いくつかの民族のひとつでしかなかった。その民族ヒッタイトが広大な領地を持っていたとは!
多くの学者の目は急にボアズコイの遺跡に向けられることになった。
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1906年、ドイツ人考古学者ヒューガ・ウインクラーHugo Wincklerは同僚セアドー・マックウィーディと共に発掘隊を率いてボアズコイを訪れ、調査を始めた。
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すると楔形文字が描かれた沢山のタブレット(石板)が見つかった。
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楔形文字では楔文様を組合せた字が左から右に書かれる。
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タブレットの多くは古代の国際語とも言えるアケーディアンAkkadian(mh:紀元前2千3百年から同2千年頃までメソポタミア、現イラクで栄えた人や言語)で書かれていた。アケーディアンは既に解読済みだから学者達はタブレットの内容を読み取ることが出来た。
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発掘から数週間した時、一人の作業者がエジプトとヒッタイトに関する好ましからざる関係を記録した注目すべき粘土のタブレットを掘り出した。しかし、よく調べてみると、それはカデッシュの戦いの後、エジプトのラムセス二世とヒッタイトのハットウシャリー三世の間で結ばれた和平条約だった。
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3千年も前の世界で最も古い和平条約で、レプリカは国連の安全保障会議室の入口にも飾られている。

タブレットの解読が進むにつれて、ボアズコイはヒッタイトの単なる都市ではなく、ハトゥシャと呼ばれる首都だったことが判った。
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多くのタブレットはアケーディアンで書かれていた。しかし、数百のタブレットでは見たことが無い言葉が使われていた。ヒッタイト語に違いない!
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ヒッタイトを深く理解するには、これを解読する必要がある!

チェコ人言語学者ベドゥリック・ロズニーBedřich Hroznýは楔形文字の専門家で、なんとかしてヒッタイト語を読んでみたいと熱望していた。
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1915年、ロズニーはほぼ1年間、解読に挑戦した結果、ヒッタイト語は英語やドイツ語と同じインド・ヨーロッパ語系言語ではないか、と思うようになっていた。
そして、ある日、ロズニーはある文章の中で“パンbread”という文字を特定した。
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“パンbread”を含む文章には“食べるeat”、“飲むdrink”などという言葉が使われている可能性が高い。

すると彼は、突然、その文章を解読することが出来たのだ!
“Now, you eat a bread, further you drink a water.”
ロズニーが解読したのは訳の分からない言語などではなかった。彼は、間違いなく、最も古いインド・ヨーロッパ語を解読したのだ。
・・・・・・・・・・・・
以上が3時間もののフィルム「Forgotten Empires The Hittite Kingdom」の冒頭部です。

ところで、インド・ヨーロッパ語とは何かですが、端的に正確にご紹介できる程、mhの頭の中では整理ができていません。なかなか難しい、とだけ言っておきましょう。
しかし、何となくでもいいから判っていないと、次にご紹介するYoutubeフィルムの冒頭の、ヒッタイト語の解読場面を見ても、何故そんな馬鹿なことが!と、あっけにとられてしまうだけでしょう。
ということで、さわり部分だけご紹介しておきます。まずは次の図をご覧ください。
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上の図の左下にある分類一覧の拡大図です。
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インド・ヨーロッパ語族、シナ・チベット語族、コンゴ・コルドファン語族、アフロ・アジア語族(アラビア語)、などなどあり、その他に日本語、朝鮮語とあります。

全く異なる言語としか思えなくても、同じ語族に属するなら、文法だけではなく、特定の名詞や動詞が極めて似た音を持つ例があるようで、一つの地域で発祥したのではないかと考えられています。例えばインド・ヨーロッパ語族の言語の発祥は、黒海・カスピ海の一帯だろうというクルガン仮説があります。
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クルガンは仮説の提唱者の名ではなく、ブログ「ステップの帝国の不思議」(2015・12・07)でご紹介したステップ帝国の墓のことです!いやいや、クルガンではなくインド・ヨーロッパ語族の発祥はアナトリアだよ、というアナトリア仮説もあるようです。

いずれにしても、似ている以上、その理由は必ずある、というのが尊敬するお釈迦様の教えです。人や物は、言葉と共に移動して拡散し、文明や歴史を創り上げていったと考えて間違いないでしょう。そうだとすれば、我が日本は、どこの語族にも属さないようですから、どこからやって来たんでしょうかねぇ。モンゴルから中国を迂回して朝鮮半島から流れ込んできたんじゃあなかろうかっていうmhの仮説をブログ「シルクロードの不思議な質問(2)答え」(2014・01・06)でご紹介したことがありますが・・・

閑話休題。

以上でヒッタイト発見に到った経緯の概略のご紹介を終えるとして、以降では、ヒッタイト語の解読にまつわる逸話と、ヒッタイトが消滅することになった経緯をBBCフィルム「The Dark Lords Of Hattushaハットウシャの闇の帝王」からご紹介いたしましょう。
・・・・・・・・・・・・
「で、このタブレットはどこでみつかったんだい?」
「アナトリアの中央あたりです。」
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1906年、ドイツ人考古学者ヒューガ・ウインクラーHugo Wincklerとセアドー・マックウィーディは発掘隊を率いてアナトリアの中心にある小さな町ボアズコイに向かった。辺りは世界の中心と呼ばれる都市がある場所から、かなりかけ離れた山岳地帯だ。そんな所に文明のようなものが本当にあったというのだろうか。
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山地や丘を進んでいくと突然、思いもつかなかった場所でin the middle of nowhere、見事なものを眼にすることになった。大きな門だ!ライオンの像が彫られている。
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形や彫り物の様子は、これまで彼らが見たものと全く異なる!門の大きさや出来栄えは息を飲むすばらしさで仕上がっていた。あらゆる場所に偉大な文明の痕跡が残っていた。門は広大な都市への入口だったのだ!
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「誰がこれを造ったのだろう?」
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発掘隊が調査を進めていくと、都市は何Kmにも渡って広がっていることが判った。
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古代の3つの偉大な国エジプト、アッシリア、バビロンにある大きな都市から何千Kmも離れたアナトリアの高地で広大な都市が歴史から忘れ去られて眠っていたとは!発掘隊リーダのウインクラーも、世界中のその他の誰もが知らなかった文明だ。
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彼らは何週間か調査を続けたが、この都市が何なのかを示すものは見つからなかった。見つかったタブレットは解読できないものばかりだった。

が、ある日、意味のある何かが現れた。ウインクラーが解読できるタブレットだ。ババロニアン(注)で書かれている!古代における国際的言語だ。
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(mh;“バビロンの”ということで“アケーディアン”のことです)。

“条約、ラムセス大王がハティの偉大な王ハトゥシリと偉大な平和と偉大な兄弟関係を結ぶために・・・”
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エジプト、アッシリア、バビロンという3つの国の王だけが“偉大な王”と呼ばれるに値する。しかし、タブレットの和平条約には4番目の偉大な王としてハトゥシリという名が記されていたのだ!不可解な国ハティの王だ。
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ウインクラーは思った「我々は失われていた帝国を見つけたのに違いない!」
平和条約の日付は紀元前1259年だった。

ドイツ人考古学者ヒューガ・ウインクラーHugo Wincklerは本物のミステリーを解く前に死んでしまった。
しかし・・・
こんな大きな帝国が、どうしてこんなに完全に歴史から消滅してしまうことになったのだろうか。
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この疑問に答えられるようになるのは、それから凡そ1世紀後だったのだ。考古学者達は遺跡を細かく分析する必要があった。難解な楔形文字によるヒッタイト語や、この文字とは異なるヒエログリフ(絵文字)の解読が必要だった。
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考古学者たちは都市をハトゥシャHattusaと呼んだ。“ハティHattiの土地”だ。彼等は住民をヒッタイトHittitesと呼んだ、旧約聖書で言うヒッタイトと異なるのかもしれないのだが。
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ハトゥシャのヒッタイト人は首都をとても奇妙な場所に造った、どんな帝国も造らないだろう場所に。偉大な都市としては隔離され過ぎている!
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当時の主要都市は世界の他の場所に繋がる交差路にあった。交易路とか河や海の近くだ。しかしハトゥシャは違っていた。主要な河から80Kmも離れていた。背後には聳え立つ山々が控え、黒海や地中海から数百Km以上も離れていた。その上、高地で、過酷な気象条件に晒(さら)される場所だ。冬なら数か月間、雪で埋まり、外部と完全に隔離されていたことだろう。
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何故、どのようにして、ヒッタイト人がこのような場所に首都を造ったのかを想像することは不可能に思われたが調べていくうちに、いろいろな事実が判ってきた。

彼らは近くの山から大きな岩を切り出し、穴を明け、運搬し、険しい崖に沿って分厚い城壁をくみ上げ、その内部に都市を造った。
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それはまさに花崗岩の山の上に造られた城塞都市だ。一つの巨大な城壁は多くの障害物を乗り越えながら全長7Km以上に及び、町全体を取り囲んでいた。それは外敵からヒッタイトを守る破壊不能な防衛ラインだった。ハトゥシャは難攻不落の城塞都市だった。彼らはあきらかに安全保障に強い関心を持っていたのだ。
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この城壁は恐らく世界でも最も厚いだろう。強度を増すために独特な構造をしていた。
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厚みは8mで、ところどころには空間が造られている。この空間には細かな石と砂が混ぜて詰められ、叩いて固められ、コンクリートのように硬くなって、壁の強度を増していた。

石垣は最後に泥で固められ、高さ8mの城壁に仕上げられていたと考古学者たちは考えている。12m毎に高さ13mの見張りの塔を造り、普通なら弱点となる門には恐ろしい罠(わな)を仕掛けていた。侵入してくる敵は睨みつけるように聳える塔からの攻撃に晒(さら)されるのだ。
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それで終わりではなかった。町を横切るようにして、外壁よりも厚い壁が市内を走り、その壁には秘密のトンネルが8ヶ所も造られていた。
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外壁から侵入した敵は更に大きな危険に立ち向かわざるを得なかっただろう。トンネルに隠れているヒッタイト軍による待ち伏せ攻撃だ。
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こうして都市は何層もの防衛手段で厳重に守られていたのだ。

ハトゥシャは5万人以上が暮らす都市だった。敵の手が及ばない厳しい環境の高地に侵略不能の城塞都市として造られた。
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しかし、乾燥したアナトリアの高地は克服できない問題をヒッタイトに与えているように思われる。近くには水がない!

そこでヒッタイト人は素晴らしい技術を使い、仮に籠城している時でも水を確保できる対策を打っていたのだ。その中心となるものは、遺跡で見つかる奇妙な形をした筒だ。
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この筒が最初に見つかった時、何のためのものか判らなかった。しかし、幸運にも、それらが連(つら)なっている状態で発見され、パイプだったことが判明した。
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ヒッタイト人はハトゥシャよりも高い丘に泉を見つけ、そこから何Kmも離れた城壁内の大きな水槽まで地下パイプを使って落差で水を引き込んでいたのだ。城壁内で見つかった7つの巨大な貯水池は一つでも1万人が1年使う量の水を蓄えていた。
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ヒッタイトは人里離れた山地に、堅固な城塞都市を造り上げていたのだ。

帝国の偉大さを誇示するための施設も造っていた。ある建物は儀式で使う大きな入口と、200以上の部屋を持っていた。
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広い前庭も備えられていた。建物内部では儀式の用具や置物などが沢山見つかった。
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帝国で最も神聖なハトゥシャの大寺院だったのだ。

都市の最も高い所には巨大なピラミッドがあった。幅250mで100段の階段が下から上まで続いていた。
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素晴らしい建築物だった。町を取り囲む外壁はこのピラミッドの上を横切って走り、ピラミッドの頂点には大きな門が設けられていた。門の両脇にはスフィンクスが立ち、エジプトのある南に向いていた。
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外部からの訪問者は、帝国の象徴であるピラミッドを眼にし、その荘厳さに打たれながら階段を登って町に入っていったのだ。

しかし、ヒッタイトが造った最も重要な建物は、ピラミッドの場所にはなかった。都市の中心の丘の上にあった。王のための城だ。
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これこそが首都ハトゥシャの脈動する心臓beating heartだった。城の周りには、王を守るために更なる城壁が造られていた。城からは都市の全貌が見渡せた。ヒッタイトはこの町を永遠の都市として造ったのだ。

しかし、このように孤立した場所に帝国の都市を造った理由や、歴史から完全に消滅してしまった理由は解明できていなかった。新たな手掛かりが必要だった。

考古学者たちは、王の神聖な場所を見つけた。その壁にはヒッタイト人のイメージを表すレリーフが彫られていた。
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戦(いくさ)や、更には死に対するこだわりを示すレリーフもあった。奇妙なことに、都市の中では、こういったレリーフ像はほとんど見つかっていない。ヒッタイト帝国の運命を表すものは全て、都市の中から取り去られてしまっているかのようだった。
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しかし、古代のハトゥシャには考古学者たちによって発見されるのを待っていた素晴らしい宝物が一つあった。黄金や宝石などではない。もっとずっと重要なものだ。迷路のように続く通路の奥に、隠されるようにあった図書館が見つかった。
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そこには3万ものタブレットが綺麗に整理されて保管されていたのだ。これまで発見されたどの図書館よりも大きいだろう。ヒッタイトという不思議な人々の思考、業績、失われた文明が記録されたタブレットは考古学者たちによって解明されるのを待っていたのだ。

しかし、一つ問題があった。誰も知らない言語で書かれている!この暗号文を解読するには大勢の言語学者の知恵と努力が必要だった。
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ヒッタイト語は世界でも最も古い表記方法の一つの楔形文字と呼ばれる小さな三角形の記号の連続で表記されていた。メソポタミア一帯で利用されていた楔形文字は既に解読されていて読むことは簡単だった。
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しかしヒッタイト語自体はまだ判っていない。アルファベットを知っている人がラテン語を読むようなもので、読めても意味が分からない!

不可解な言葉を解読する鍵になるのは似た言語と比較することだった。単語や文法が似ているからだ。しかし、ヒッタイト語と似た言葉を見つける作業は楽ではなかった。アナトリアの近くで使われているどんな言葉もヒッタイト語と似ていなかった。

しかし、この暗号のような言語も、タブレットに書かれた数千もの文章の中の、たった一つの文章から解読されることになった!この行だ。
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この行を手書きし、読みを併記するとこうだ。
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“ヌ・ニンダ・アン・エエイザアッテニ・ワアタルマ・イコウテイニ”
“nu NINDA-an e-ez-za-at-te-ni wa-a-tar-ma e-ku-ut-te-ni”

“NINDA-an”は“breadパン”を表す言葉だと推察された。

その他の言葉は・・・
“wa-a-tar”は英語の“water水”にとてもよく似ている!
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“e-ez-za”はドイツ語で食べるという動詞“essen”に似ている。発音も極めて近い。
“nu”は例えばNow、“e-ku-ut-te-ni”は“アクアaqua”と似ているからwater、つまり“飲むdrink”という動詞だと考えると
“Now, you eat bread, you drink water”
と翻訳することが出来る!

これがきっかけで3千年後、初めてヒッタイト語を読むことが出来るようになった。それは中東のものではなく、ヨーロッパと同じインド・ヨーロッパ語族の言語だったのだ。ヒッタイトはロシアかヨーロッパ方面からトルコに移ってきて城塞都市を建設し、住みついた民族なのかもしれない!
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・・・・・・
驚きました!皆さんも驚かれたことでしょう。ヒッタイト語に、英語のwaterやドイツ語のessenが使われていたんです!そんな嘘みたいな話ってあるの?って思われたことでしょうが“あるの?”ではなくて“あった”んですね。お釈迦様が仰ったように、事実は事実として素直に受け入れねばなりません。
・・・・・・
タブレットを解読するとヒッタイトの歴史が次々に明らかになった。彼等は仲間の繋がりを重視し、王に対する絶対の忠誠を誓いあっていた。
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(mh:誓いあっていたっていうのは、そうしないと誓いと逆のことをする危険を十分に秘めていたってことです。実はこれがヒッタイト消滅の理由なんですね、後でも触れますが。)
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以降は大幅にはしょって、ヒッタイト帝国の滅亡の経緯に移りたいと思いますが、その前にエジプト帝国のラムセス二世との戦いについて補足情報をお知らせしておきます。

ヒッタイト帝国の宝といえるものは強力な軍隊でした。その中心の武器はチャリオット(馬車戦車)です。
ヒッタイトのチャリオットは台車に対する車軸の位置が他のものと異なっていました。通常は台車の後ろ側、つまり馬からは遠い位置に車軸があるのですが、ヒッタイト人は台車の中央に車軸を移していたのです!
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おかげで台車の強度が向上し、従来なら1人しか乗れない台車に3人の戦士が乗ることが出来るようになって、戦力が3倍になったというわけです。
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この革新的技術で、カデッシュの戦いでは、ラムセス二世の軍隊に壊滅的な被害を与えることが出来たのです。
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この戦いを機にヒッタイトは偉大な帝国として世界に知られることになったのですが、帝国の消滅の種も、この戦いから芽吹くことになった、とフィルムでは解説しています。それは何を意味するのか?
・・・・・・
考古学者は首都ハトゥシャで、ある施設を発見した。見た所、王の墓のようだが、中には棺や遺骨はなかった。
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その代わり、壁に妙なヒエログリフが彫られていた。2つ目の解読不明な暗号だ。
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この暗号がヒッタイトの消滅を詳しく語ってくれるかも知れない。
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考古学者たちはヒエログリフの解読に着手した。自分を差している絵は“私”を意味しているのではないか。
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“眼eye”と“鹿deer”の絵の組合せは“アイデアidea”を示しているのではないのか?
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同じ記号がいくつかの意味を持っている可能性もある。解読を困難にしているのは、抽象的な形の文字だ。何を示しているのか全く想像できない。ヒントとなる新たな事実が必要だった。

そのヒントは粘土で造られた小さなものから見つかった。紋章印だ。
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中央にはヒエログリフで名前や地位などが記述され、周辺に解読可能な楔形文字が並んでいる。

これを契機に、ヒエログリフは一つずつ解読されていった。すると、最初に発見された洞穴のヒエログリフが最も重要な内容を含んでいたことが判った。そこにはヒッタイトの最後の王の名前が記されていたのだ。
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ヒエログリフは彼の最後の遠征の内容と、ヒッタイトを最後に打ちのめすことになった敵の名を書き記していた!その名が判明した時、考古学者たちは唖然とした。外敵の名ではない!
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ヒッタイト内部の人間だったのだ!内戦があったのに違いない。

ヒッタイト帝国の最後の日、偉大な王はヒッタイト帝国の内部の敵の反乱を受けていたのだ。

ヒッタイトを包み隠していた覆(おおい)はパラパラと剥がれ落ち、消滅に到る様子が見え始めて来た。

指揮官ハトゥシリがカデシュの戦いから凱旋すると、王室内で権力闘争が起きたのだ。ハトゥシリの甥(おい)だった王は、名声と実績と力を持つ叔父が自分を王位から引き摺り下ろすのではないかと恐れ、叔父の力を削(そ)いでいった。王の仕打ちに対するハトゥシリの反応は速かった。王を捕え、首都ハトゥシャから追放したのだ。
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しかし、この時、ハトゥシリはヒッタイトの固い掟(おきて)、つまり王への忠誠、を破ることになった。

これを機に、兄弟の誓いは振り出しに戻り、王家への忠誠心は軽んじられるようになった。血縁同志が敵対する内戦が始まり、収拾がつかなくなった。そしてついにハトゥシリが死んで数代後、首都ハトゥシャは死滅することになる。

内戦はゆっくりと首都ハトゥシャの命を縮めていった。都市は外敵には強かったが、内部の兄弟に対しては弱かった。内戦で王の権威は失われ、都市は崩壊していく。
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十分な食料がハトゥシャに届かなくなり、市民は飢えに襲われた。
シリアのウグリット王に宛てたヒッタイト王の手紙が見つかっている。「穀物を大至急、献上するように」

ハトゥシャ最後の日、一体、何が起きていたのだろう。楔形文字のタブレットにもヒエログリフにも書かれていない。しかし考古学者はこの疑問に答えられるかもしれないヒントを見つけた。猛火に晒(さら)された多くの煉瓦だ。
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焼かれたのは都市の全てではなかった。王宮、大寺院、それに中小の多くの寺院だけだ。つまり、帝国の重要な建物だけが焼け落ちていたのだ。さらに奇妙なことがこれらの建物で起きていた。中に置かれていたはずの貴重な宝物や記録品などが何も見つからない!全て事前に持ち出されていたのに違いない。外敵ばかりでなく内部の敵すら、侵入した形跡が残っていなかった。

これらを結び付ける一つの理論は次の通りだ。
ヒッタイトは彼らの帝国が終わったことに気付いた。そこで首都を放棄することにしたのだ。町を去る前に偉大な建物は火を点けて燃してしまうことにしたとしても不思議はない。後でやって来るかも知れない敵に価値のあるものを何も残さないためだ。平和的、組織的に行われた首都放棄だった。
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価値のあるものや書類などは全て持ち出した。
ヒッタイトは無敵だったはずだった。偉大な都市、偉大な第4の帝国を築き上げていた。永遠に繁栄し続けるつもりでいたのに。

誰もが不思議に思うことは、彼らがどこに去っていったのかということだ。
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もし重要な資料などを持ち出していたなら、それにはヒッタイトの最後も記され、どこかに眠っていて、我々が彫り出すのを待っているはずだ。

ヒッタイトは首都ハトゥシャが永遠に続くものとして慎重な配慮のもとに建設した。しかし、それは他の場所からあまりにも隔離されていた所だったため、他のどの文明もその地に町を造ることは無かった。
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ヒッタイトの神話や伝説を辿(たど)る人は誰もなく、彼らの歴史は首都ハトゥシャと共に死んでしまったのだ。時の流れとともに都市は風化し、土砂に埋まり、名前も忘れられてしまった。こうして、見事なヒッタイトの物語は3千年以上もの間、歴史から消えてしまうことになったのだ。
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Lost Cities Of The Ancients - Episode 3 The Dark Lords Of Hattusha - BBC Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=8cVfIJikiMI
(Release Date: 11 April 2007 (Japan) See more)

(完)

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mh徒然草104:自転車に乗るなら気を付けて!


自民党の谷垣幹事長(昭和20年生)は7月16日(土曜)11時頃、趣味の自転車で怪我をし、2週間経っても入院したままで、幹事長を辞任する方向です。頸椎損傷で、数年前に顔に怪我をして以来、2度目の大事故とネット記事にありました。

で~谷垣氏がどこで怪我をしたのか未確認ですが、ネットの映像ニュースで、皇居周辺の歩道を何人かのグループで走行している動画がありました。
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今回の事故が、どんな原因で起きたのかを明記した記事が見当たりませんが、皇居周辺の歩道を自転車走行中に事故を起こしたとしたら、速度の出し過ぎだったのではなかろうかと想像します。

最近、横浜の我が団地周辺でも、歩道を猛スピードで飛ばす自転車が散発し、歩行中だった私は、事故に巻き込まれました。この時は、自転車を運転していた男子高校生がよけてくれて、当方の被害は軽い打撲で済みましたが、高校生は自転車から投げ出され、暫く立ち上がれませんでした。

70歳の谷垣氏ですが、いつも自転車に乗って体を鍛えているようですから、普通の転倒だとしたら頸椎損傷などの大事故になるとは思えません。やはり、結構、スピードを出していたのではなかろうかと推察します。

高齢で、歩道を、自転車で高速走行していたとしたら、転倒すれば大きな事故になるであろうことは容易に想像つきます。悪い事が3つも重なっていますからね。高齢なら、自転車専用道路を、低速で走るのが適当でしょう。調べると皇居サイクリングコースなるものが日曜日に設定されています。歩道ではなく、自動車道路を閉鎖して自転車だけに開放するのです。自転車はレンタルも準備されているとのこと。

谷垣氏は今回で懲りたと思いますが、やはり、自転車で歩道を走るのはよくないと思います。走るのなら車道にすべきだというのが、歩道を歩く歩行者mhの考えです。電動自転車で前後に子供を載せたお母さんが幼稚園を目指して歩道を走る光景によく出会います。このお母さんたちは、倒れたら子供が大怪我をするので、いつでも停止できるよう、速度は控えめです。筋力トレーニングや、通勤、通学などで歩道を自転車で走る人は、どうしても速度を上げることが多くなるんですね。とても危険です。

保険会社による自転車事故の事故原因分析結果は次の通りです。
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歩行者との接触や自転車単独での事故は合計4.3%と低く、自動車やバイクとの接触事故が95%程度で、そのうち、出合い頭、右折・左折時が合計で80%以上もあります。いずれも速度を下げていれば事故は避けられた可能性が高く、自動車だけではなく、自転車にとっても速度が事故率に大きく影響することが確認できます。

自転車で歩道を走るなら低速で。

自転車に乗る人は、この原則を守って、自転車に乗る人も歩行者も、事故に遭わぬよう、事故になっても大事に至らぬよう、配慮してほしいと思います。

追記
このブログ公開日の前日(9月1日)の朝、ネットで谷垣氏の病状の現状に関する情報がないか、ネットで当たってみましたが、8月1日の怪しげな憶測記事(半身不随か)を最後に、何も見つかりませんでした。重篤な状態かも知れません。人生には事故や不幸は付き物で、いかんともしがたいのですが、注意や配慮で避けられた事故や不幸が圧倒的に多いと思います。もし回復することがあれば、谷垣氏も今後は、気を付けるでしょう。自動車や自転車に乗られたら、スピードはこれまでよりも20%落とすことを強くお勧めいたします。

Mary Hopkin (Those were the days my friend)
(mh;tavernターヴァンは居酒屋です。)
https://www.youtube.com/watch?v=3un5f6qLi_k
(完)

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