Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

最初のアメリカ人の不思議


アメリカ大陸はクリストファー・コロンブスが初めて発見したようですね。次の地図に彼の4回の航海ルートが記されていますが、1492年に行われた最初の航海でキューバ本島の北東4百Kmに浮かぶサン・サルバドル島(バハマ領)に上陸したのが第一歩と言われています。
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アメリカ大陸を最初に発見したのはコロンブスではない、という説もあります。中国(明)の航海責任者だった鄭和(ていわ)はコロンブスより7,80年前に発見したというのです。更には、バイキング(ノルマン人)が10世紀末に北アメリカ大陸を発見し、ニュー・ファンドランド島に短期間だが定住していたという話もあります。

しかし・・・彼らがアメリカ大陸にやってきた時、そこには既に何千年も前から暮らしていた原住民がいたのです!彼らの祖先も、元々からアメリカで暮らしていた、という訳ではありません。考古学者たちによれば、1万数千年前、陸続きだったシベリアからアラスカに入り込んだ人々でした。モンゴロイドです。

20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは凡そ6万年前にアフリカから世界中に拡散を開始しました。それを示す一つの資料は次の通りです。
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ということで、アメリカ大陸を最初に発見して最初のアメリカ人になったのは、1万5千年前(1万2千年とも言われています)にアジアからシベリア・アラスカ経由で移住したモンゴロイドだというのが定説です。

しかし・・・
今回ご紹介するYoutube 「Decoding The First American Civilization最初のアメリカ文明を解読する」によれば、モンゴロイドよりも先にアメリカを発見し、アメリカに棲み着いた人がいるって言うんですねぇ。それは誰か?いつ、どこから来た人か?

この、仮説というか珍説と呼ぶかは読者諸氏に委ねるとして、新説をYoutubeフィルムにそってご紹介いたしましょう。
我田引水、恣意的かつ独善的な論理展開と断定、はこの手の新説にはつきものですが、中には、いくつかの興味深い情報も見受けられ、全くのでたらめとも言えません。この辺りをお含(ふく)み頂いた上で、お楽しみください。
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ブラジルのジャングル奥深く、数千もの奇妙な絵で飾られた、先史時代の岩の隠れ家がある。
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南アメリカの考古学者たちは、奇妙な人間の残骸(ざんがい)を発見している。
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頭蓋骨はヨーロッパ系ではない。しかし、アメリカ・インディアンのものでもない。彼らは、我々が知っている、アメリカという新天地にやってきた先史時代の人種のいずれにも属さない。頭蓋骨は氷河期と同じ古さだ。
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とすると、最初にアメリカを発見したことになるこれらの人々は誰なのだろう?彼らに何が起きたのだろう?彼らはみんな、地上から消え失せてしまったのだろうか?それとも何人かは今も生き延びているのだろうか?

ブラジルの北東部セラ・ダ・カビバラSerra da Capivaraに、人里離れ、岩が突出した崖や谷が多い地帯がある。
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ペドラ・フラダPedra Furadaと呼ばれる所で、藪の後ろには岩のシェルターが隠れていることを現地の農民たちは昔から知っている。
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シェルターの岩壁は日常生活の様子を描いた絵で飾られている。鹿を捕獲する網、蜂の巣から蜜を集める棒、手で目を隠している姿、ここでは3人で妊婦の出産を手助けしている。
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絵のいくつかは全く解読できない。
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この奇妙な絵は仮装した男たちが女たちと踊っている様子だと考えられている。
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体に飾りを纏った人間の絵もある。何人かは面を被っているようだ。
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何らかの儀式をしているように見える。
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これまで、これらの絵が何を表わしているかを明確にした人はいない。しかし土地の農民たちは、この絵を最初に描いたのが誰かを知っていると言う。
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農民「“この一帯で乱暴者として知られていたインディアンが描いたんだ”と老人たちは私に話してくれたよ」
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インディアンは候補者の一つだ。現在、ブラジル北東部で暮らす人の多くはヨーロッパ人定住者とアフリカ人奴隷の子孫だ。
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しかし、彼らの祖先がブラジルに来たのは僅か5百年前だ。ポルトガル人が最初にブラジルを見つけた時、彼らは、インディアンがいることに気付いている。インディアンは数千年以上前からアメリカ大陸に棲み着いているのだ。今、この辺りのいくつかの村では、インディアンと農民と奴隷の混血の子孫が暮らしている。
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現代の考古学者たちは彼らがいつアメリカ大陸にやって来たのか、そしてどこから来たのかも正確に知っている。南北アメリカの全ての原住民は、モンゴロイドに属する人種だ。彼らはシベリアで暮らしていた古代人の子孫だ。
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氷河期、1万2千年前、シベリアとアラスカは地続きだった。モンゴロイドが新天地にやって来た最初の人類だと専門家たちは考えていた。
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しかし、ブラジルでの発見は、全く異なったアメリカ発見物語を示している。これらの岩のシェルターに描かれた絵はインディアンたちよりもずっと古い!
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この絵では狩人が巨大アルマジロを追いかけている。インディアンがアメリカにやってくるずっと前の氷河期に繁栄していた動物だ。
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多くの絵には楽しそうな雰囲気がある。この絵ではサーカスのように、何人かが肩の上に立っている。
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ここにはロマンチックな瞬間がある。
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絵は失われた素朴な世界を魔法のように目の前に出現している。この原始のパラダイスは、一体いつ頃のものだろう?

フランス人考古学者たちはペドラ・フラダPedra Furadaで最大の岩のシェルターでの発掘を終えたばかりだ。彼らの目標はアメリカ・インディアンたちがこの地にやってくるよりもずっと昔の時代の様子を探ることだ。30cm掘るたびに、数千年前の先史時代が現れてくる。4万年前の層に到達した時、これを見つけた。見事な石器の形をした珪岩quartziteの破片だ。
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石の片側は刃のように鋭く欠かれている。
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人の手で、切断用の石として欠かれたのだろうか?もしそうだとすればアメリカ発見の歴史は書き直されなければならない。

アメリカ・インディアンよりも早く、人々がここにやって来ていたのなら、彼らの存在を示す、もっと別の痕跡も残っているはずだ。
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考古学者たちは5万年前の地層まで掘り続けた。そこで見つけたのがこれだ。動物の骨の欠片(かけら)と炭だ。
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この発掘に携(たずさ)わっていた考古学者の一人アンミリー・パーシーAnne-Marie Pessisにとっては、これらの欠片は人間がいた証拠だ。
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アンミリー・パーシー「我々は小屋のような構造物を見つけたの。そこにあった炭の脇では、時には彼らが食べたに違いない動物の食べ残しもね」
(mhアンミリーの後ろいは金属で造られた遊歩道が見えています。壁画のあるこの辺り一帯はセラ・ダ・カビバラ国立公園で、壁画を見に来る観光客が多いのです。)

これらの証拠は、新世界が、これまで信じられていたより数万年前に発見され、人が棲み着いていたことを示している。勿論、アメリカ・インディアンたちよりも早い時期だ。とすれば、これらの先駆者たちは誰だろう?早目に来たモンゴロイドだろうか?それとも全く違う人種なのだろうか?

最初のアメリカ人を特定するための手掛かりはブラジルの北東、南東の岩のシェルターで現れた。考古学者たちは最近、人間の残骸を掘り出した。先史時代の頭蓋骨は9千年から1万2千年前の地層から見つかった。アメリカ大陸で見つかったものの中で最も古い。
中でもこの頭蓋骨は最も古い。“ルーシア”と名付けられた若い女性の頭蓋骨だ。
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彼女は最初のアメリカ人が誰かを語ってくれるのだろうか?

ウォーター・ネヴァスWater Nervousはブラジルのサンパウロ大学の人体人類学者だ。彼は、ルーシアがどの人種に属するのかを探し出すため、標準骨と、頭蓋骨の寸法を測定するための信頼できる考古学用の測定器を使っている。
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彼は当初、ルーシアがアメリカ・インディアンの祖先のモンゴロイドに属する人種だと信じ切っていた。そして測定結果をコンピュータに入れてみた。
ウォーター・ネヴァス「コンピュータが出した結果は驚くべきものだった。統計的な分析の結果、それはモンゴロイドではない、モンゴロイドとは完全に別のなにかだっていうんだ!」
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としたらルーシアは誰なのだろう?どこから来たのだろう?

それを探すため、彼女の顔を復元しようと考え、頭蓋骨をリオデジャネイロに持って行った。復元手順の最初はルーシアの頭蓋骨の3次元寸法測定だ。
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その結果から頭蓋骨のレプリカを造る。

顔の復元は、法医学技術で世界の先端をいく英国マンチェスター大学のリチャード・ニーヴRichard Neaveの手に委ねられた。
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リチャード・ニーヴ「私には二グロの顔のように思われる。全てが二グロの特徴を示している。顔の寸法比率がそうだ。決してモンゴロイドではない」
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ルーシアは歴史的には東アフリカ、南アジア諸島、そしてオーストラリアやメラネシアインド洋の片隅で見つかった人種に属する。するとこれが最初のアメリカ人の顔なのだろうか?
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復元されたルーシアの頭蓋骨は、人体人類学者ウォーター・ネヴァスが、多くの頭蓋骨を測定した結果によっても確認されていた。
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ウォーター・ネヴァス「その結果を見て、私も信じられなかった。しかし、何度調べても同じ結果が確認されたので、もう間違いないだろう。彼らはアボリジニーで、アフリカ人で、アジアのモンゴロイドやアメリカ・インディアンとの類似性は無い。」

しかし、どうしてルーシアがアフリカ系でオーストラリア系であり得るのだろうか?ウォーター・ネヴァスによれば簡単に説明がつく。ルーシアは両者なのだ。最初の人類(mhホモ・サピエンス)はアフリカで発生した。10万年ほど前、人類はアフリカを出て移動を始めた。一つのグループは東へ旅をし、6万年前にオーストラリアにやって来た。
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ルーシアはアフリカ人の子孫に属しているように思われる。今のオーストラリアのアボリジニーになった種族だ。
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しかし、もしアメリカという新世界にやってきた最初の人間が現在のアボリジニーの子孫だとしたら、どんな手段で新天地に到達したというのだろう?

オーストラリアや東南アジアは太平洋の反対側で、アメリカから1万2千Kmも離れている。氷河期にはシベリアとアラスカの間は陸続きだった。オーストラリアのアボリジニーの祖先たちが北に移動し、アラスカを通ってアメリカに来た可能性は考えられる。しかし、アラスカから更に遠くへ行くことは出来なかったはずだ。大量の“万年氷permanent iceが何千年もの間、カナダを覆っていたからだ。
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この氷の壁は人間だけではなくアメリカに入り込もうとする動物さえも阻(はば)んでいた。
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ならば、他に南アメリカへ行くルートがあったと言うのだろうか?

アンミリー・パーシー「全ての可能性を考えるべきだと思うわ。北極を回って寒さの中で過ごすよりも大海を横切る方がずっと簡単だったはずよ。北周りなら、寒さを耐え凌(しの)ぐ高度な技術を開発していなければ無理よ。」
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海を渡って来た?しかし、アボリジニーの祖先たちに太平洋を横断する技術があっただろうか?

彼らはティービー種族だ。オーストラリア大陸北海岸の近くのバスルスト島で暮らしている。
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彼らが覚えている限り、彼らの生活スタイルは全て海から生じて来た。南国の浅瀬の海で蟹(かに)を獲るには、昔から伝わる銛(もり)が最高の道具だ。
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しかし、ティービー族は全く例外だと言える。多くのアボリジニーはオーストラリア大陸で暮らしている。大陸の外の島で暮らす種族との結婚はない。最も古いアボリジニーの祖先たちはどうだったのだろう?彼らは大海を航行する技術を持っていたのだろうか?

妙なことに、最初のオーストラリア人たちの文明の手掛かりは海岸から遠い、大陸内部で見つかる。
ここはキンバリーKimberley、西オーストラリアの北にある岩の砂漠だ。現在では人はだれも棲んでいない。
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しかし氷河期、2万~5万年前、最初のアボリジニーにとっては狩猟の場所だった。オーストラリア人の岩絵専門家グラハム・ウォルシュGraham Walshはアボリジニーたちの古い伝統を探し、記録することに人生を捧げている。
一帯には数万年前の岩絵で飾られた多くの岩のシェルターがある。
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一つのシェルターで、グラハム・ウォルシュは船旅の歴史を書き換える絵を発見した。世界で最も古い船の絵だ。
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グラハム・ウォルシュ「キンバリーの北の種族のように特徴的な頭飾りを付けた人々は、戦いの絵にも現れている。彼らは銛(もり)とか槍(やり)のようなものは使っていないが、銛などの道具は1万7千年前頃に現れたものだ。この絵の人物たちはもっと古くて5万年くらい前の人々だと思う。」
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驚くべきことは、船が特別な目的を思い描いて設計されているように思われることだ。
グラハム・ウォルシュ「先頭にいるのは先導者で、何かの祈りをして、静かな海を祈念しているように見える。きっと大海に乗り出しながら平穏な海を願っている様子を描いているのだと思う。」

アボリジニーの祖先が航海技術を持っていた最初の兆候は、海から離れた内陸の岩のシェルターに残っていた。恐らく、大海を航行していたのだろう。
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しかし、彼らは何故、太平洋を横切ろうとしたのだろう?広大な大海は彼らには難題だったはずだ。科学者たちは、最初の大海横断は恐らく偶然のなせる業だったのではないかと、段々、信じるようになってきた。その考えは、突拍子もないものだとは言えない。

アンミリー・パーシー「今から3年前、5人の漁師が嵐の中でアフリカを出発して2人がブラジルに到着したのよ。そしてアフリカには帰りたくなかったので定住することにしたの。航海はまさに冒険だったはずよ。オデッセイOdyssey(注)ね。しかし、彼らはたった3週間でアフリカからブラジルまでやってきたのよ。彼らは生き延びたの。ってことは、そういうことはできたってことよ!」
(注:オデッセイOdyssey
ギリシャ人ホメロスHomarの叙事詩オデュッセイア。英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、10年間にもおよぶ漂泊が語られている。)

もしアボリジニーの祖先たちが偶然、南アメリカにやって来たとするなら、彼らがアメリカ新大陸に定住した最初の人々で、アメリカ系アボリジニーになったはずだ。
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そうだとすれば、彼らの子孫はどこにいるのだろう?何故、今日、アメリカ系アボリジニーが北や南アメリカにいないのだろう?
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一つの可能性はこうだ。彼らは長い間、侵入者たちから隔離され、自由に、自分たちだけで暮らしていた。アジアから北アメリカへの陸地の通路は数千年の間、氷で閉ざされていて、彼らの他には誰もいなかったのだから。しかし、1万4千年前、気候が変わり温度が上昇し始めた。氷河期は劇的な終わりを迎えていた。
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アラスカでは氷の間に通路が現れた。まずは動物がそこを通って南に下る権利を得た。この動物を追跡していたのはモンゴロイドの狩人だ。
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およそ1万2千年前、今日のアメリカ・インディアンの祖先たちが新大陸に入り込んだことは、今では良く知られている。モンゴロイドの移動速度は速く、数千年で南北アメリカ全域に拡散した。まさにこの期間こそ、アメリカ系アボリジニーが消え始めた時期だと科学者たちは信じている。とすれば、モンゴロイドがアボリジニーに取って代わったのだろうか?
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ウォルター・ネーヴ「私が持っているデータによれば7千年前、南アメリカの全ての人種は古代モンゴロイドの系統だ。しかし、9千年前ではモンゴロイドは全く見つかっていない。モンゴロイドとの入れ替えが9千年前から7千年前にかけて起きたのは間違いない!」

岩絵専門家たちはこの入れ替えがどのように起きたのかを示す手掛かりを求めてブラジルの岩絵調査している。岩絵の中にアメリカ系アボリジニーが絶滅に到った説明が在るかも知れない。
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絵には何人かの人間が空中に描かれている。彼らは空を飛んでいるかのようだ。
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これを見た時、科学者たちはアメリカ系アボリジニーが楽しんでいる様子を表わしているのだろうと思った。

しかし、コンピュータは新しい発想を生み出した。全ての像を一旦、消去し、その後で、一つずつ、ヒトコマ漫画のように映し出してみる。
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すると楽しそうに飛んでいるように思われていた人物が、槍を持って敵に跳びかかる戦士に変った!
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岩絵専門家マルセロ・コスタ・ソウザ「私は最初、この絵は思い思いの姿で空を楽しそうに飛んでいる人々を組み合わせた場面だと思っていた。今は、そんな平穏なものではなく、暴力的な場面だと考えている。」

この発見のおかげで、他の絵の不可解だった場面の意味が、にわかに明らかになった。この絵も侵略の様子を表現している。
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これは、多分、殺戮の場面だ。
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モンゴロイドはアボリジニーと戦っていたのだろうか?

それを裏付けるように、これらの絵はモンゴロイドがやって来た後に現れ始めている!
アンミリー・パーシー「9千年以上前に描かれた暴力場面の絵は見つかっていないの。これは発見された人口の増加と、偶然とはいえ一致しているわ。どんな断定もできないけれど、少なくとも小さな部族での人口増加が9千年前には確認されているの。だから、暴力という考えはとても重要な観点なのよ。」
モンゴロイドによる占領という考えは、今日、アメリカにアボリジニーが残っていないという事実の説明になる。彼らは抹殺されてしまったのだ。

しかし、迫害される人々もしばしば、侵略者との婚姻や、野生の自然の中に逃げ込むことで絶滅を逃れている。何人かのアメリカ系アボリジニーたちは、アメリカの片隅に逃げ込んで生き残れただろうか?
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南アメリカ大陸の最南端にティア・デル・フエゴTierra Del Fuegoがある。いくつかの島々で、大陸からはマゼラン海峡で隔てられている。
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ここで見つかった最も古い頭蓋骨は9千年前のものだ。これもウォーター・ネヴァスによって寸法測定された。
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ウォーター・ネヴァス「これらの頭蓋骨もオーストラリア人との強い類似性を示している。インディアンやモンゴロイドとの類似性はない。南アメリカの最南端にも拘わらず、モンゴロイドから隔離され、オーストラリア人と類似性がある人々が棲んでいたんだ。」

アメリカ系アボリジニーのある部族が、南アメリカの端に逃げ出して聖地sanctuaryを見つけたようだ。とすれば、彼らはどうなったのだろう?彼らの子孫はどこにいるのだろう?
最初にやって来たヨーロッパ人がティア・デル・フエゴを探検した時、猟師や集団と出くわした。フエゴ島民だ。1930年代、イタリア人写真家は彼らの生活の様子を記録していた。
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それは原初時代primordial eraの生活に見えた。クリスティーナとウルスラの姉妹だけが、これらの漁師や集団の生き残りの子供たちであることが確認されている。
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姉妹は70数年前、今は誰も棲んでいないこの小さな村で生まれた。彼女たちはアメリカ系アボリジニーのルーシアの子孫なのだろうか?
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顔を見る限り、答えは“ノー”だ。外見は他のアメリカ原住民たちと大きく違ってはいない。しかし、もっと確実な祖先の印(しるし)は、顔の裏側に隠れているのだ。頭蓋骨の形だ。

現地の博物館には現代のフエゴ島民の頭蓋骨のいくつかが保管されている。クリスティーナとウルスラの直近の先祖たちだ。
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科学者たちは、頭蓋骨の寸法測定を開始し始めた。予想していた通り、平面的な顔の古代モンゴロイドの痕跡がある。しかし普通とは違う特徴もあった。眼の上の明白な突出部だ。
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どんなモンゴロイドにもそのような特徴はない。フエゴ島民は間違いなく、オーストラリア系アボリジニーの祖先と関係を持っているようだ。
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ウォルター・ネーヴ「我々はフエゴ島民がモンゴロイドと非モンゴロイドの混血だと考えている。」
7千から9千年前、アメリカ系アボリジニーの何人かはモンゴロイドと混血して絶滅を逃れたようだ。そして大陸から隔絶されたティア・デル・フエゴ諸島に逃げ延び、20世紀まで暮していた。
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しかしアボリジニーは元々、南国での生活に適した人種だ。そんな彼らが、どんな方法で、南米の片隅の、このような寒冷地で生き残っていたのだろう?

アルゼンチン人の考古学者たちは湖の近くの岸部にテントを張って、その答えを探す調査を始めた。この海岸で、イガイ(貽貝)の殻mussel shellの小山が見つかった。
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古い層は6~7千年前のものだ。これはアメリカ系アボリジニーたちが残した古代のゴミ捨て場なのだろうか?

別の小山が海岸のあちこちで見つかった。草で覆われている。しかし、みんな特徴的な形をしている。中心部がへこんでいるのだ。
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発掘隊の責任者アネスト・ピアノによれば、海岸周辺が古代の居住地だった証拠だと言う。
アネスト・ピアノ「この辺りに散在している円形の凹みがある小山は、小屋の基礎の跡だ。周りに棒の柱を立ててドームか円錐の形を造り、周辺の砂利で柱を固め、小屋の中で暮らしていた。」
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60年前まで、この海岸に沿って似たような小屋がフエゴ島民によって造られていた。この小屋でアメリカ系アボリジニーは何千年もの間、風、雨、雪の冬を耐えていたのだ。
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いくつかの種族は寒さから身を守るため、リャマと同種のグアナコguanacoの毛皮を身に付けていた。
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しかし、いつも裸で暮らした種族もあった。
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彼らはどのように寒さを凌いでいたのだろう?

ティア・デル・フエゴはアザラシの集団生息地で囲まれている。
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アザラシは互いの肌を擦り合わせて寒さを凌いている。油はカロリーがとても高い。毎日、一匙(さじ)摂取すれば強力な寒さ対策になる。
ウルスラ・カルデロン「私たちは子供のころ、毎日、アザラシの油を一匙、与えられていたの。だから健康に育ったのよ。だから今も生きていられるのだと思うわ。子供にとてもいいって言っていたわ。でも冬だけで、夏は食べないの。夏に油を食べると顔に吹き出物が出るのよ。」
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フエゴ島民はいつも、船で移動する時でも、火種を絶やすことなく確保していた。
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クリスティーナ・カルデロン「彼らはカヌーで火を燃していたのよ。ある時、どうしてカヌーが燃えないのって訊いてみたの。火は泥の層の上で燃えていたのよ。火が小さければカヌーに火が移らないの。」
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南アメリカ大陸から隔離されていたアメリカ系アボリジニーの子孫たちは彼らの生活スタイルを数千年の間、保ち続けていた。
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しかし、中には普通とは少し異なるものもあった。それは儀式の名残と考えられるものだ。1930年代の探検隊の記録には、謎に満ちた男性の成人式が記されている。種族の秘密に仲間入りする前、少年たちは幽霊や精霊の姿をしなければならない。民俗学に関する報告書によれば、少年や女たちは幽霊の存在を信じていたという。
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この儀式はブラジルの岩のシェルターに残されていた不可解な場面の解読に役立たないのだろうか?仮面をかぶり、体に縦縞を書いて踊っている幽霊は、どこかで見たような気がする。
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種族の知恵は長い間、秘密とされ、男だけが引き継ぎ、女たちには知らされていなかった。この種の知恵に関するどんな些細な情報も、今なおタブー(禁制)とされている。
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クリスティーナ・カルデロン「それはとても秘密な儀式だって、みんな言っていたわ。だから私たちは詳しい事を聴いたことが無いの。男なら知っていたかも知れないわ。」
どんな秘密を女たちから隠しておかねばならなかったと言うのだろう?民族学者によれば、かなり昔、女たちが社会を牛耳っていた時が在ったと部族の長が語っていたという。
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だから今度は、男たちが牛耳る力を失うことが無ければ、女たちは全く知らされないのに違いない。

恐らく、この秘密の物語はアメリカ系アボリジニーによって伝えられたのだ。何故なら、これと似た儀式がオーストラリアのアボリジニーの間で行われていたという記録があるからだ。
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オーストラリアに最初にやって来た人々の伝統が、地球の果ての南アメリカの最南端で、彼らの子孫の小さな集団によって残されていたというのは驚くべきことだ。
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しかし、5万年を生き延びた後に、これらの伝統の記憶は今、永遠に消えゆく危険に晒(さら)されている。19世紀における白人定住者の到来は、ティア・デル・フエゴ諸島の原住民たちを絶滅の瀬戸際に追いやった。リャマの一種グアナコguanacoは主要な食料元だった。
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しかしヨーロッパからの定住者は、もっと別のものがこの土地には適していると考えた。羊だ。
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おかげでグアナコを狩猟していた草原は少しずつ羊の牧場に変っていった。それでフエゴ島民は単純に、狩猟対称をグアナコから羊に切り替えたようだ。それは悲劇的な間違いだった。ヨーロッパ人の土地所有者は密猟者を冷徹に殺害する以外の発想を持ってはいなかった。
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キリスト教宣教師たちは島民が新しい環境に適合できるように支援した。原住民の女たちや子供たちは集会所に集められ、集団生活をし、教育も受けた。これが事態を更に悪化させることになった。フエゴ島民と、ヨーロッパ人が持ち込んだ初めての病との接触の機会が増えた。
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ウルスラ・カルデロン「ある突出した病気があって、大勢が死んでしまったのよ。生き残った人は僅かよ。でもお腹の病気がやってきて、もっと大勢が死んだのよ。大勢の赤ん坊や大人が。私も病気にかかったわ。でも治ったの。」
死は確実に村々を死滅させた。30年前、クリスティーナとウルスラは故郷の村を捨て、白人たちの居住地に移り住まなければならなかった。村は無人になった。

彼女たちは家族の墓参りで時々村にもどっている。
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クリスティーナとウルスラは、アメリカを最初に発見し、この地を開拓したアボリジニーの文化に繋がる最後の生き残りだ。何故なら、彼女たち2人だけが完全なフエゴ島民の生き残りなのだ。彼女たちの子供は混血の子孫で完全な島民ではない。

9千年前にもしていたように、今回はヨーロッパ人との間で行われた混血がアメリカ系アボリジニーの文化の何かしかが完全に絶滅することから救ってくれるかも知れない。

フエゴ島民の祖先たちは、オーストラリアを離れて大洋の反対側の大地に向けて出発した。
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フエゴ諸島に到着したのは大洋と大陸を長い年月をかけて旅した結果だ。彼らがアメリカを最初に発見した。
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5万年後、彼らの子孫たちは数人にまで減ってしまった。しかし、ひょっとしたらフエゴ島民だけがモンゴロイドが到達した以降のアボリジニーの生き残りではないのかも知れない。長い間、隠れたまま見つかっていない別のアボリジニーがブラジルの熱帯雨林の中の隅で、発見されるのを待っているかも知れないのだ。
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History Channel - Decoding The First American Civilization - Discovery History Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=lbkFEosqYlc
・・・・・・
アルゼンチンの野生のグアナコguanaco
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ブラジルのペトラ・フラダの岩絵(1)
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ブラジルのペトラ・フラダの岩絵(2)
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オーストラリアに残るアボリジニーの岩絵
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次の岩絵はネットで見つけたもので、フィルムでも登場していましたが、1万5千年以上前のものと言われているオーストラリアのアボリジニーの壁画です。
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先頭に居るのは祈祷師で大海に出帆する前に、天を仰いで平穏な船旅を祈念している姿だろう、というのですが、どんなものでしょうかねぇ。

で、オーストラリアのアボリジニーがブラジルのジャングル奥深くの岩のシェルターに岩絵を残したっていうのですから、大西洋を船で横断し、アンデス山脈を越えてアマゾンに行ったってことになります。1万年前のアンデス一帯がどんな自然環境にあったのか確かに知っているわけではありませんが、もし緑多き山だったとするなら、太平洋岸は南国の平地が続いていたはずで、わざわざ山を越えてアマゾンに棲み着く必要はなかったのではないかという気もします。

フィルムで紹介されているブラジルのペトラ・フラダの岩絵のある洞窟の近くでの発掘によれば、人間の活動が見られる地層は3~4万年前のものだと言います。Wikiにもその旨の記事がありました。これが正しければ、モンゴロイドよりも数万年前にブラジルにホモ・サピエンスが暮らしていたことになります。彼らがブラジルで発生した人種でないとすれば、どこかから来たことになりますが、としたらmhはオーストラリア方面から太平洋を渡り、アンデスを越えてやって来たのではなく、やっぱ、アフリカ大陸から来たんじゃあないだろうかと思いますね。全くの珍説で裏付け証拠はありませんが、そのうち考古学者が新たな発見をして、この説を支持してくれるだろうと思っています。

それにしてもヨーロッパ人はアルゼンチンにも侵入し、原住民の土地を勝手に我が物とし、そこに入り込んだ原住民を撃ち殺していたんですね。北アメリカのインディアン、中南米のマヤ人、南米のボリビアやペルーの人々など、大勢のアメリカ原住民がヨーロッパからの侵略者たちによって殺害されました。他人が長年暮している土地に武器を持ち込んで侵入し、殺戮するという発想は、自分たち以外は人間ではないという思い上がりから生まれたのではないかと思います。他人の人格を認めない人は数世紀前のヨーロッパ人に限ったことではなく、今でも世界中に散らばっていますから、理不尽とも言えるテロや殺人はなくなりません。せめてこのブログの読者や作者は、殺す側にも殺される側にもならぬよう、心して過ごすことを再確認しておきたいと思います。
(完)

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mh徒然草110: 女子卓球の中国化


今日8月15日。終戦記念日ですが、リオ五輪の女子卓球団体戦の準決勝でドイツと日本の対戦をライブで見ました。2-2で迎えた第五戦、福原愛は最終セットでドイツに帰化した中国人選手に惜敗。三位決定戦では頑張ってほしいと思います。

で~ドイツ・チームのメンバーを見ると、中国系が3人中2人なんですね。コーチも中国人女性のようでした。

ネットに次の記事がありました
<リオ五輪>卓球女子シングルス16強、「非中国系」はわずか4人―独紙
配信日時:2016年8月14日(日)
「2016年8月11日、ドイツ紙ディ・ヴェルトは、リオ五輪の卓球女子シングルス16強のうち12人までが中国人、中国系、中国からの帰化選手だったと伝えた。 女子シングルス16強のうち、「非中国系」選手は、日本の福原愛、北朝鮮のキム・ソンイ、リ・ミョンスン、韓国の徐孝元の4人という少なさだ。 中国卓球界ではジュニア世代から極めて激しい競争が繰り広げられ、トップ選手の世代交代も頻繁に行われる。こうした争いに敗れた選手たちが国際大会に出場する選択肢は、他国に帰化するほかない。コンゴ代表のハン・シン、スペインの何志文、アメリカのフォン・イージュンらもそうした選手だ。 卓球がオリンピックの正式競技となった1988年のソウル大会から前回ロンドン大会まで、金メダル28個のうち24個を中国が独占している。」

中国人の卓球選手がオリンピック出場のために他国に帰化する傾向には、批判的なコメントもありました。世界選手権ならまだしも、国を代表して戦うオリンピックでは帰化人の参加は制約すべきだという意見です。しかし、その一方で、目くじらを立てるべきではないとの意見もあり、日本人の評価も分散しているようで、いい傾向だと思います。

私は、後者の意見に賛成です。オリンピックには国対抗という意味合いがあることは認めますが、ドイツに帰化した以上、中国生まれ、中国育ちといえどもドイツ人です。中国籍は捨てたのです。その上、卓球の力量は十分あるわけですから、ドイツ代表として日本人選手を打ち負かしたからといって、敵ながらあっぱれと褒め称えることはあっても、卑怯なドイツ、負け犬の中国人、などと非難するのは筋違いでしょう。卓球の実力は日本選手よりも高いわけですから、卓球界では称賛されるべきだと思います。

卓球日本を復活するには、福原愛選手のように、中国で武者修行をするチャンスを増やすとか、中国のトップ選手を日本に招待して鍛えてもらうのが好いと思います。きっとドイツは、そんな理由で中国人選手を受け入れているのでしょう。日本は、スポーツ面でも、国際化が遅れていると思います。まさか、国際化より国粋主義に走っているってことはないと思いますが。国粋主義は危険です。他国を排除するってことですからね。

星に願いを訳詞付 ビリー・ジョエル
https://www.youtube.com/watch?v=wtKUMiSBK3s

(完)

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チャチャポヤの不思議Pt-2

「チャチャポヤの不思議」(2015・06・01)ではクエラップ砦をご紹介しました。
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標高3千mの山頂に造られた、長さ6百m、幅1百mの遺跡です。
どこにあるかっていうと・・・南米ペルーのアンデス山中ですね。
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近くを流れるウトクバンバ川Rio Utcubambaは北上後に東に流れ、ジャングルでアマゾン川に合流して大西洋に注(そそ)いでいます。

その先は・・・
大西洋の向う側ってことですが・・・
アフリカがあります!!!

北アフリカの国チュニジア。かつてカーセッジ(Carthageカルタゴ)と呼ばれた強力な都市国家がありました。
「カーセッジの不思議」(2015・08・31)でご紹介しましたが、紀元前8百年頃、フェニキアPhoenicia(現シリア&レバノン)の王女ダイドーDidoが祖国を脱出し、船で地中海を伝って逃げ延びた先で造り上げた都市です。
その後、数世紀を経て大国に成長し、新興のローマ帝国と対立します。
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紀元前2百年頃、イベリア半島(スペイン)で生まれ育ったカーセッジの将軍の子ハンニバルは、成人すると、アフリカ象を引き連れた軍隊と共にアルプスを越えて敵国の首都ローマまで攻め上りました。

しかし・・・宿敵ローマ帝国との間に起きた第三次ポエニ戦争(紀元前149~146年)でカーセッジは完全に葬(ほうむ)られてしまうのです。カーセッジを地上から抹殺しようと目論んでいたローマ軍は、カーセッジの城壁を破り、町に火を放ち、多くの市民を殺戮し、わずかに生き延びた市民は奴隷として帝国に連れ帰りました。

歴史から消えてしまったカーセッジですが、ローマ軍の手を逃れて脱出した人たちがいるっていう考古学者が現れました。彼によると、カーセッジ帝国の残党が逃げ延びた先はチャチャポヤだっていうんです!!!

この、学説というか、仮説というか、どう呼ぶかは読者諸氏にお任せしたいと思いますが、奇想天外な説をご紹介するのがYoutube「Carthage’s Lost Warriorsカーセッジの失われた戦士たち」です。

この説では、カーセッジに移り住んだCeltケルト人が重要な役割を果たすので、簡単にご紹介しておきましょう。

Wiki:ケルト人(ケルトじん、Celt、Kelt)
中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

ケルト人の分布は次の通りです。
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青 - 紀元前1500年から紀元前1000年
赤 - 紀元前400年

ケルト人やカーセッジ人が、ローマ帝国の手を逃れ、大西洋を渡り、アマゾンを遡(さかのぼ)り、アンデス山中に棲み着いた???

まずはYoutubeフィルムの内容を見て頂きましょう。mhの意見は最後にご披露させて頂きます。

・・・・・・
南アメリカのジャングルの奥深くでケルト人の特徴をもつ青銅の斧(おの)が見つかった。コロンブスが新大陸に到達するよりも古い時代のデザインだ。
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2千年前、ペルーのアンデスの頂きにある砦まで旅をした古代の戦士たちが遺したものだと考えられるのだろうか?
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ハンス・ギフホーンは、伝説のチャチャポヤのミイラは驚くべき謎を隠し持っていると信じている。
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ハンス「私は沢山の証拠を見ている。それらは全て、一つの理論を指している。古代の人々がペルーにやって来てチャチャポヤの勢力に加わったんだ。」

Carthage’s Lost Warriors
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紀元前539年、力を付けていた都市国家カーセッジは北アフリカの海岸から、地中海の多くを制圧していた。
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砦のような場所に防衛力に優れた港を持つ、古代世界の重要な貿易都市だった。
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貴重な資源や贅沢品が、途切れることなく、植民地から集まり、都市の基盤は信じられない程に豊かなものになっていた。
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カーセッジの港には商業船や軍船が沢山集まっていた。合計174のオールと帆を持つ船もやってきていた。トライリンと呼ばれる、左右に3列のオールを持つ船もあった。

カーセッジ人は地中海を出て大西洋上を遠方まで航海していたと信じられている。
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彼らはアフリカ西海岸に沿って南のカメルーンまで航海し、黄金を使って交易した。イベリア(スペイン一帯)の植民地との交易では銅や錫(すず)を手に入れていた。
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スペインの太西洋側をも航海していた。地中海のバレアレス諸島Balearic Islandsでは強力な戦士たちを調達していた。
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ドイツ・ハヌーヴァーHannover近くのヒルドシャイムHildesheim大学のドイツ人教授ハンス・ギフホーンは何年もの間、スペインの島々で古代史に係る調査をしていた。
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彼は古代の伝説に強い関心を持っていた。それは、失われてしまった知識に関する貴重な情報源だ。ハンスは、紀元前146年にローマによって打ち負かされて帝国が崩壊した後、カーセッジ人が単純に消滅してしまったとは信じていない。生き残った人々が新しい人生を、どこか別の所で始めることが出来たはずだ。このことを確信していたハンス・ギフホーンは、バレアレス諸島でそのヒントを探し始めた。

ハンス「カルタゴ人は地中海岸や更に離れた所にも交易中継地を造り、今のニューヨーク人たちのように商業活動を手広くやっていた。」
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交易はカーセッジの勢力の鍵となるものだった。同様に、カーセッジの軍事力を強化するイベリア出身の何千もの兵士も帝国には重要だった。中でもバレアレス諸島の投石手は最も恐れられた傭兵だ。
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ハンスは全てのカーセッジ人が奴隷として連れ去られたということはあり得ないと思っていた。とするなら、他にどんな代替案が彼らに残っていたのだろうか?彼らは逃げ出し、遠く離れた南アメリカを目指して大海を横切ったのだろうか?ペルーの山の上の砦クエラップに眠る死者たちは、ハンスが信じているように、このケルト人やカーセッジ人の子孫なのだろうか?
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ハンスの仮説の重要な鍵は地中海の南海岸にあるカーセッジから始まる。
カーセッジの荷物専用の港は全ての船に対して開かれていた。
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しかし、その奥にある門を通過することを許されていたのはカーセッジの軍船だけだった。そこには秘密の波止場が建設されていたのだ。
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ひとつの船着き場の幅は6mで奥行き30m。1万人の船員と350隻の軍船が停泊できた。陸上でもこの超大国は勢力と威光を拡大していた。戦い用の象が強力な武器だった。
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彼らが地域を統括していたことで新たに生まれたローマから厳しい抵抗を受けた。力を付けたローマ帝国は、3つの流血の戦いの後、カーセッジを滅ぼした。町が燃え落ちた時、数十万人が死んだ。それ以上の数えきれない市民が奴隷になった。しかし、逃げ出すことが出来た多くの人々もいたに違いない。
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ハンス教授は何人かの上級船員たちは北スペインにあったカーセッジの交易港にかろうじて逃げ出せたはずだと信じている。彼らはここガリシアで安全な港を見つけたのではなかろうか。しかし、勝利したローマ人は直ぐに町を占領した。ローマ人はそこに世界の7不思議の一つとなる有名な灯台に似たヘラクレスの塔Tower of Herculesを建てた。2千年の間、塔からの光はアメリカに続く大西洋に向けて恐ろしいビスケイ湾の海を照らしている。
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古代、この一帯の港は北の海岸を目指す船の重要な出発港だった。ここでカーセッジや地中海中から来た船員たちは、何千年もの間、北大西洋を船旅していたケルト系リベリア人と接触していた。
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ちは外国から持ち運ばれてきた貴重品を取引していた。その伝統は今もケルト人やカーセッジ人の子孫に受け継がれている。取引きは世界を一つにする。そこでは最近の出来事に関する情報交換も行われる。
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ひょっとすると、カーセッジ人が大海を横切って、遠く、今のブラジルまで航海した話が語られていたかも知れない。

ハンス「カーセッジ人がブラジルに到達することが可能だとしても、それが実際に到達したことを意味するわけではない。証拠が必要だ。その証拠は、例えば古代の歴史家ダイオドロスDiodorusの書物の中で見つかる。」

ギリシャ人歴史家ダイオドロスは書物「世界の歴史」の中で、誰もが知っている人が棲む土地の、更にずっと向うで、カーセッジ人は楽園を発見した、と記している。
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その楽園は、野生の動物が棲み、船が遡れる川、高い山がある土地にあった。どこの国の船員もするように、カーセッジ人もその発見を秘密にしていたのだ。ハンスはカーセッジ人の避難者や同僚のケルト人たちが編隊を組んで船でスペインを発ったと信じている。
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ハンス「私にはカーセッジ人の航海技術なしでヨーカと呼ばれる投石紐sling技術を持つケルト系リベリア人が大西洋を渡ることは考えられない。」
カーセッジ人の船長たちは彼らの先祖フェニキア人が得意だった航海術を完璧なものにしていた。彼らは南中した太陽が作る影の長さから緯度を確定することが出来た。夜はこぐま座の中の北極星、古代に“フェニキア人の星”として知られた星、を頼りに航海した。

航海の場合はいつもそうであるように、船は風と海流によって、アフリカからブラジル北東の海岸に向かって加速される。
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ジャニス・ジャカイトもまた、全く一人で大西洋を横断した。ハイデルベルクHeidelberg出身のこの女性は南ポルトガルからカリブ海の島まで海流に乗り、ハイテクの技術を積み込んだ手漕ぎボートで、90日をかけて6千4百Kmを乗り切った。
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カーセッジ人も同じように大西洋を横切れた証拠だ。
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ジャニス「勿論、航海は公園の中の池を船で渡るようなものではないわ。危険な条件もいくつかあるの。波は8、9mの高さだし。トロール船との衝突やニアミスでネットに捕まってしまう危険もあったわ。最大の問題は飲料水と食糧よ。また、一日中、太陽に晒されているからいつも汗だくになるの。一旦、乗り出したら、海流や風に逆らって船を進めることは出来ないわ。やり切るしかないのよ。古代、腕力がある人が乗った大きな手漕ぎ船でも、きっと同じだったと思うわ。海に出れば、潮と風の流れに従うしかなかったはずよ。」

ハンスはコロンブスよりも1千5百年前、カーセッジ人の船が熱帯の海岸線に到達し、新しい世界を発見することが出来たはずだと信じている。
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ブラジルの海岸から少し離れたイデマラッカ諸島はカーセッジ人が到着するとしたら理想的な場所だ。17世紀、オランダの探検家たちは、オーレンジ砦を造った。防御に適した場所だったからだ。
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ここで見つかる陶器の欠片(かけら)は古代の土着民の住居が砦の下にあったことを暗示している。砂には奇妙な白い粘土の屑(くず)も混じっている。
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考古学者マルコス「これはオランダ人の土器の屑だ。沢山見つかっている。」
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カーセッジ人や原住民たちの痕跡は、これまで発見されてはいない。古代、大西洋を横断して疲れ切っていた船員たちがここにいたなら苦労したに違いない。
考古学者はそれを確信している。16世紀、傭兵としてやって来たハンスターデンはブラジルの海岸で人食い人種に捕えられた事件を書き残している。彼はこれらの人々がどのように敵の首を欠き切り、体を細切れにして食べていたかを目撃していた。
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彼らは恐るべき人々だったが、交易人でもあった。交易となるとカーセッジ人の強みだ。それでカーセッジ人は生き延びる機会を得られたのではなかろうか?

コロンブス以前に大西洋を横断してブラジルに渡ったという記録はない。しかし海岸から遠くないリアルパライーバは、考古学的にとても意味がある所だ。伝説の場所ペリガ・ドリンガーがある。そこには無数の絵や模様が彫られて残されている。専門家たちは未だに、意味を解読できていない。
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考古学者ブリト教授「古代、リアルパライーバにはティアコ・アタラコ(?)が在った。石には沢山の彫刻が残されている。例えば、このインガーの岩だ。」
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「これを掘った人達が何を考えていたのか、どんな暮らしをしていたのか、我々は判っていない。つまり、彼らが遺したメッセージはまだ理解できていないんだ。どんな方法で彫刻したのか、どんな人々がインガーの岩に命を吹き込んだのか、は謎のままだ。しかし、こんなことをしたのは、ここで生まれ育った人々ではなかったとは考えられないだろうか。ひょっとすると2千年前の完全に異なる文化のなせる業だ。」
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ハンス「当初、現地の考古学者たちはインガーの岩絵の多くが古代世界の記述法に似ていることに気付いたようだ。私の調査もそこから始めた。その結果、言葉ではなく、古代文字との類似性が見つかった。ケルト系イベリア人のアルファベットと似ているんだ。」

岩に彫られた4つの記号は古代ヨーロパの言語と似ている。
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我々はこの4つの音声について知っている。
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しかし、これまで、岩絵を解読することはできていない。

商人や移住者たちがリアルパライーバをエデンの園だと考えていたとは思えない。少し川を遡ると、岩と砂の乾燥した未開の地が始まる。ここにやって来たら、どんな船員や探検者といえども大西洋岸まで戻らざるを得なかったはずだ。
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しかし北西の方向には古代の船員には信じられない程の長さの川があった。アマゾン川だ。
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熱帯のジャングルはカーセッジから来た人間にとって全く目新しい光景だったと言う訳ではない。彼らは似た植物体系をアフリカで目にしていただろう。しかしジャングルはカーセッジ・ケルト同盟者たちにとっては煩(わずら)わしいだけのものだったはずだ。このことについては、どんな記録も残されていない。

彼らと現地人との最初の接触については、コロンブスの後を追いかけて新天地にやってきた探検家たちによって1千5百年後に書かれた生々しい記録から想像できるだけだ。探検家たちは優れた武器を持って来てはいたが、ジャングルの掟を知らない侵略者たちよりも原住民のほうが有利だった。スペインやポルトガルからの侵略者たちは16世紀にアマゾンを植民地化しようとする彼らの悲劇的な試みについて語っていた。彼らにとってアマゾンの全ては受け入れがたいもので、至る所に死の危険が潜んでいたのだ。
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それは1千5百年前のカーセッジ人にとっても同じだっただろう。生き残るためには、船という隠れ家を離れるわけにはいかないことを知ったはずだ。
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スペイン人コンキスタドールたちは煌(きら)びやかな品物を持ち込んで現地人と贈り物の交換をしていた。
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種族のリーダにとって、カーセッジ人が持ってきた金属の斧なら十分だったはずだ。
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1660年、ポルトガル人はアマゾン三角州の近くに最初の基地バレーンを造った。そこを基点に熱帯の富を搾取し、同時に、野蛮な異教徒を回収させようともした。
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現在、ベルリンでは考古学者達がインディアン(mh南北アメリカ原住民)の文明を研究している。ゴーエルディ大学ではアマゾンで暮らす、野蛮ではなく、無宗教徒でもない種族の証拠を集めていた。
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何千年も前から、文明が発達していたことが確認されている。タンガと呼ばれる祈祷用の陶器の飾りも見つかっていた。
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モーラ・デ・シルベイラ博士は数千年前にアマゾンの日常生活で使われていた考古学的な宝物のコレクションの研究員だ。
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特殊なカルト用の品物は貴重な材料で造られていた。この高価な石の結晶から造られている矢尻はコレクションの中でも突出している。
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豊かな色彩で彩られたテラコッタの偶像は、マラジョー島における複雑な宗教的な信仰の証拠だ。
モーラ「これはマラジョーで見つかったペニスのシンボルよ。」
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「島の文化は高度に発達していたの。人々は湿地の中に造られた人工の島で生活していたの。この土器は宗教以外では鳴子(ガラガラrattle)としても使われていたのよ。」

これを最初に発掘した人々はマラジョー文明の時代にまで遡る素晴らしい発見に感激した。
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これらの多色な塗料で彩られた葬儀用土器は、地中海で見つかる古代の様式を連想させる。ギリシャ・タイプのケルト形渦巻きだ。

シャーン教授「アマゾン盆地には1万1千年前から人が暮らしていたのよ。長い間、人口は少ないままだったの。でも、2千年前、人口爆発があって、それも急激に起きているのよ。」

事件の目撃者の記録によれば、1541年、スペインの探検隊が伝説の黄金都市を探し求めてアマゾン川を遡ったが、彼らは直ぐに攻撃にあったという。
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川辺に密集していた集落の住民たちが射た矢が、雨のように彼らに降り注がれた。裸の白っぽい肌の女達も前線で戦っていた。
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これらの恐れを知らぬ“アマゾン人”の記録から川にアマゾンという名が与えることになったという。この説明は多くの人々に疑念を持たれてはいるのだが。

しかし、数十年に渡る考古学的な作業によれば、ジャングルには多くの居住地があったことが明らかになっている。数千の集落には特殊な農業技術を使った豊かな玉蜀黍(トウモロコシmaize)畑が広がっていた。
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その一種がチョコレートの原料になるカカオで、今では世界中を征服している。
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今日、専門家は、かつて文明がアマゾンに沿って広く繁栄していたことを再発見している。2千年前、アマゾンで文化革新が起きていたことを彼らは確信している。発見された陶器は、その当時に技術が飛躍的に向上したことを示している。この新しい文化形式は外部からやって来た人々の影響だろうか?
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シャーン教授「この特有な陶器の様式はとても素敵だわ。マラジョーで生まれたものよ。葬儀ではこのような色のものが使われていたの。アマゾン上流で似た陶器が使われるようになったのはずっと後のことよ。だからマラジョーで発達して、その後に他の場所にも影響を与えていったと信じているの。この様式は外部からやって来たものかもしれないとも言われているわ。」
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手工芸品が地中海のものと類似している事実は可能性を高めてくれる。船員たちが古い世界から新しい知識を運んできたのではないか。
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素人考古学者のハインズ・ブドレイにとって、これらの手工芸品が意味することは一つだ。他国からやって来た探検隊が、コロンブスよりもかなり昔にブラジルに上陸したのだ。
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彼は更に証拠を見つけていた。古代の斧だ。
ハインズ「商人はギアル・グアポーレという王国の話をしてくれた。ブラジルとボリビアの国境を流れる川グアポーレの近くにあった。商人は、そこのボリビア系土着民から直接、斧を購入したと言っている。だから本物に違いない。木製の握り部はもうなくなってはいるが。」
金属の斧を蔽う深い緑青が長い年月の経過を示している。刃の頭には奇妙な形が付いている。
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ハインズ「牛の頭だ。鹿antelopeかも知れない。しかし、いずれにしても南アメリカには存在していない動物の姿だ。」

ハインズは見つけた全てを持ってサンパウロの地球科学研究所を訪れた。研究所の最新技術で分析してもらうためだ。結果は驚くべきものだった。
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研究員「斧は銅61%、亜鉛(あえん)39%で、この種の金属合金はヨーロッパ人がやってくるまでアメリカにはなかったものです。」

ハインズ「これ以外の重要な点としては、木製の握り部はパラグアイ川の近くのパンテナラの森の木で造られたものだということだ。その木を科学的に調べたら1千5百年前のものだった。」

これらの証拠からアマゾン盆地では川に沿って広い範囲で交易が行われていたことが分かる。これが大陸の内部まで斧が運ばれたという事実の説明になりはしないだろうか?
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ケルト系カーセッジ人は海岸から川を伝って上流を目指したのか?奴隷商人からチャチャポヤ地域まで逃げた原住民たちについての記録がある。彼らは船と徒歩で海岸から内陸まで4千Kmも移動したのだ。
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決死の覚悟を持っていたカルト系イベリア人なら同じ旅をしたはずだ、とハンスは信じている。しかし、この移住者たちは野生の動物たちの恐怖や未知の伝染病などで満ちた世界最大のジャングルを通り抜けることはできたのだろうか?仮にジャングルを通り抜けられたとしても、彼らはとても乗り越えることなど出来そうにない、行き止まりとも言えるアンデス山脈に突き当たっていたのだ。
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ケルト人とカーセッジ人は、チャチャポヤ人によって海抜3千mに造られた巨大な砦クレラップまでたどり着くことが出来たのだろうか?
このコンピュータで組み上げた映像はクレラップで使われた石がどれほど大量なものかを表している。エジプトのキヨのピラミッドよりも大きいのだ。
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チャチャポヤは魅力的な石造りの建造物だ。ここの人々はどこで、このような素晴らしい建築知識を獲得したのだろう?オハイオ州コロンバス州立大学の考古学者ウォーレン・チャーチは25年もの間、チャチャポヤの研究をしている。彼はケルト系カーセッジ人がクエラップの遺跡に影響を与えたとは見ていない。彼が見たのは力強い原住民の文化遺産だ。
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ウォーレン「彼らの建築技術は卓越したものとして広く知られている。それは構造物の表面に現れ、いまも見事に保存されていて訪れる誰もが気付くはずだ。記念碑的で、素晴らしい外観を呈している。きっと、絶頂期だったのだろう。」
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ピーター・ラッシュは30年以上、ペルーで暮らしている。地方の州都の市長もやったことがある人物だ。彼は完全にこの地方の人々に魅惑されている。生きている人だけではなく死んでしまった人にも。
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ピーター「クエラップについてはどのように表現したらいいというのだろう。見事な場所だ。炭素年代分析法も行われているが、その結果によれば、そんなに古くない。およそ西暦8百年頃のものだ。例外はこの主門で凡そ西暦5百年頃に造られた。」
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ハンス・ギフホーン教授「クエラップについて調べ始めた時、全く訳が分からなかった。アメリカのどんな砦も、これとは似ていないんだ。しかし、この技術が古代の地中海のどこにでも見られるものだと言うことを私は知っている。」
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クエラップの大寺院に残されているものがハンスの理論を支持している。壁に彫られた頭は大西洋の反対側で行われていた陰湿な習慣を思い起こさせる。
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ケルト人は罪人の首を切り取り、自慢げに見せびらかしていた。チャチャポヤ人もまた、この儀式を行っていたのだろうか?
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ハンス「人間の頭をさらし物にするカルト人の習慣は、魂が頭蓋骨の中にあるという信仰に結びついている。だから彼らは頭をとても重要なものとして扱っていた。その上、チャチャポヤ人とケルト人は頭蓋骨に穴を明けて治療する達人だったんだ。」
ケルト人とチャチャポヤ人は、病人の頭に孔を明けて内部の圧力を逃がし、悪霊を追い出す治療している!
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古病理学マイケル・シュルツ教授「チャチャポヤの場合、彼らがその技術を使っていたことを我々は知っている。何故なら、そのことは紀元前5百年頃のヒポクラテスの資料に書かれている。この治療はケルトによっても行われている。オーストリアで考古学者がその証拠を見つけている。チャチャポヤとケルトが同じ習慣を持っていたということは興味深い。」
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同じ治療方法が使われていたということは、ハンス・ギフホーン教授が信じているように、2つの文化の接触があったと言う更なる証拠だろうか?
決定的な証拠はクエラップに隠されているのかも知れない。
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ウォーレン「チャチャポヤには複雑な石組みがあるという点で特殊だ。建物には魔力が込められている。そのシンボルが何を意味するかは別にしても、何か力強いものを感じさせる。」
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この砦に暮らしていた人々は誰だったのだろう?人々はどこで暮らしていたのだろう?

ピーター・ラッシュ「ここにはとても大きな円形の家がある。上階を支持する梁が在った穴が壁に残されている。」
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「クエラップでは敷地を最大限有効に使うため2階建ての家が必要だった。何故なら、3千人の人々がこの砦の中で暮らしていたからだ。」

今日までアンデス高地の原住民は祖先から伝えられた方法や器具で畑を耕しているという。チャチャポヤ時代の農業は、今もこの渓谷や急斜面で見られる方法と変わらないだろう。
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ウォーレン「チャチャポヤのマリニヨン渓谷はアメリカのグランド・キャニオンより深くて広い。生活するには厳しい場所だ。誰も家を造り住み付きたいと思う所ではない。一体、何をしたかったというのだろう。だからこそ謎なんだ。」
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チャチャポヤの巨大な砦は今もなお多くの謎を秘めている。しかし、ハンス・ギフホーン教授は“自分はその答えに近づいている”と信じている。
ハンス「クレラップと似た砦はアメリカ大陸のどこにもない。考古学者なら発祥の源はアメリカの外にあると考えるかも知れない。」
スペインの大西洋岸には、砦の都市の遺跡が人工の台地に見つかることがある。
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リベリア系ケルト人が2千年以上前、都市カーセッジが崩壊する前後の時期に、この都市を造った。クレラップと同じように、家は丸く並べられた石の基礎の上に建てられていた。
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そして、ここでも都市を造った人々は、防衛のために奇妙な場所を選んでいる。ケルト系イベリア人がスペインに棲み着いた場所とアンデスの山の上の砦の類似性はハンス・ギフホーン教授の理論を支持している。2つには繋がりが在るのだろうか?
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この謎を説明できる場所は南アフリカしかない。

ケルト系カーセッジ人がペルーにいたという決定的な証拠は今もまだ見つかっていない。インカの人々にとっても、チャチャポヤ王国はあまりにも僻地(へきち)だ。スペイン植民地時代の歴史家たちもここまで踏み込んで来たことは無い。
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今日ではチャチャポヤの住居地はゴーストタウンと化し、そそり立つ崖の上に隠されている。埋葬用の奇妙な像は不思議な祖先たちの信仰に繋がる証人だ。
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考古学者たちは目がくらむような高い場所に造られた埋葬地で調査をしている。ここに埋葬された戦士たちは首切り人たちで、アンデス高地全域を見ても珍しい。ドイツ人考古学者クラウス・コーシュミェイダーもチャチャポヤに惹(ひ)きつけられた人物だ。
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クラウス「住居の中に埋葬するのがチャチャポヤでは一般的だ。我々は沢山の証拠を円形の家の中で見つけている。それは発祥がアマゾン盆地地方にあることを示しているのかも知れない。何故なら、そこでは、今なお、家の中に遺体を埋葬しているのだ。」

チャチャポヤの急峻な岩壁に造られた儀式の場所は岩絵で飾られている。熱帯の気候にもかかわらず、急斜面の岩によって保護されているので、今も鮮明に残っている。美しい衣類を纏い、鳥の羽の被り物と輝く首飾りを付けた人の姿がある。
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更には見事な頭飾りを付けた人のような姿も見つかっている。古代ヨーロッパのケルト人の神話に現れる神サーニューノは、これと似た姿でデンマークのグーンレス族の銀の大釜に描かれている。
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クラウス「ここには妙な絵がある。人がボートの中で座っているみたいだ。これと似た絵はいくつか見つかっている。」
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クラウスもチャチャポヤ人は東から移動してきたと考えている。しかし、彼が考えている東というのは、3,4百Km離れたアマゾンだ。大西洋の向うではない。
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真実を知っているのは死者だけだ。嵐がくるたびに、どこかで遺体が地中から現れ、チャチャポヤの痕跡は破壊されていく。雨は何日も休むことなく山岳地帯に降り続く。アマゾンに水を供給している川は濁流となる。ネマバンバという町では誰もがそれを受け入れて最善を尽くしている。
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雨季になると何度も繰り返されてきた光景だ。
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ウォーレン「チャチャポヤ一帯では信じられない程の大雨が降り続く。世界でも例が少ないだろう。空が大地に落ちてきて、人々の足は水に変る。大雨で谷が生まれ、崖崩れがおき、地形が大きく変化する。となると、これを逃れて山の上で暮らすのも意味があることになる。」

今から数年前、考古学者ピーター・バージに突然の知らせが舞い込んだ。墓泥棒たちが前コロンブス代の埋葬地で略奪していて、多くのミイラが雨の中に放置されているという。ピーターは、直ちに救済隊を編成するとレマバンバの山に向けて出発した。
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目的地のラグーノ・デス・コンドーレスはコンドールの湿地帯lagoonだ。そこでは、以前、現地人の農夫が、それまで知られていなかった埋葬地を海抜2500mの所で見つけていた。
ドイツ系ペルー人に統率されたチームは道を急いだ。墓荒らしたちは忙しく仕事をしたようで、現地は眼を塞ぎたくなるような惨憺(さんたん)たる状況だった。多くの石棺sarcophagusは破壊され、墓は荒らされていた。
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チャチャポヤのミイラの残骸は一帯に散らばっていた。チームのメンバーは応急処置を施しながら緊急発掘を行い、なんとか200以上のミイラを州都まで運ぶことが出来た。
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今日、コンドールの湿地(ラグーン)の遺体はレマバンバに保管されている。遺体は最初から膝を抱えた姿勢で布の袋の中に収められていた。
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発掘後、いくつかのミイラはウイーンVienna大学で調査された。残っているのはスペイン人がやって来る前に死んだ人々だ。
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驚くことに、彼らはヨーロッパ人によって南アメリカに運ばれてきたと思われている病の痕跡を示していた。

ドイツ・グ―ティンゲンでは、古代病理学者シェルツ教授は、どんな病を患っていたのか、死因は何かについての情報を得ようとしていた。彼はチャチャポヤのミイラの中に結核の痕(あと)が確認できるという。
シェルツ教授「典型的な結核では、骨が食い尽くされた様になる。」
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「その変化の様子がチャチャポヤのミイラでも確認できる。それはとても妙な現象だといえる。なぜなら、コロンブス前のチャチャポヤ人の多くに同じ現象が見つかっているんだから。」

残念ながら結核の証拠だけではコロンブスの前に大西洋を越えた接触があったとは言えない。古代の病の痕(あと)は南アメリカの他の場所でも見つかるのだ。
シェルツ教授「チャチャポヤで見つかる結核の例は我々が知る限り、かなり昔のヨーロッパの結核の例と似ている。もしこれらの人々が古代世界からやって来た人々の子孫だとするなら、それも一つの解釈だろう。更に言えば、その病はもう少し新しい時代に、海を渡って伝わった可能性がある。」

クエラップ砦を造った人々がどこから来たにしても、何故、彼らは巨大な砦をこの地に造ったのだろうか?
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ピーター・ラッシュは、クエラップは低地からの侵入者に対する防衛の地だったのではないかと考えている。定期的に繰り返す旱魃で飢えた、近在の種族からの守りのためではないか?

ピーター・ラッシュ「考古学者達は沢山の頭蓋骨をこの辺りで見つけている。頭を割られた頭蓋骨だ。」
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これらの犠牲者は侵略者か、それとも防衛者か?致命傷は斧(おの)や投石紐sling shotの可能性がある。一つ明らかなことは、彼らが無残な死に方をしているということだ。
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ウォーレン・「チャチャポヤは、誰が誰と取引するか、誰が富を得るのか、誰が出し抜くのか、誰がこの地を治めるのか、といった争いの最前線だった所なのではないだろうか。入れ代わり立ち代わりの争いが続き、血が流されていたのだ。」

今日、チャチャポヤにある州の行政センターは近代の政治や経済の課題を取り扱っている。
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その近くの考古学博物館で、人類学者たちはチャチャポヤの運命とその起源に関する重要な情報を集めている。
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考古学者ソテロ「このミイラは、ある家族のもので、25歳の女性で、6歳の子供と夫と一緒に見つかっているの。頭蓋骨の前部に1つ、後部に3つ明けられた孔は、間違いなく戦の最中のものよ。」
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考古学者たちは、不自然な原因による死の兆候を何度も見つけている。殺人とか暴力を示すものだ。

ピーター・ラッシュ「チャチャポヤ人にはとても戦(いくさ)好きだったという評判がある。彼らは攻撃から身を守るため、敵を攻撃するため、主な武器として投石紐slingを使っていた。」
彼らが選んだ投石紐は、他のペルーの種族のものとは完全に異なっている。

この痕跡は、我々を再びマヨールカMallorca島の古代世界に導く。そこには訓練中の投石紐のチャンピオンがいる。ワン・カバレロはバレアレス諸島で的中率No.1の投石紐チャンピオンだ。
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ハンス・ギフホーン教授はチャチャポヤで昔使われていた投石紐をベルーから持って来ていた。
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これをマヨールカ島の伝統的な投石紐と比べたワン・カバレロは2つがほとんど同じことに気付いて驚いた。石を包む部分の、紐を撚(よ)って輪を作る独特な方法も全く同じだ。
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ワン・カバレロは自分たちの祖先が投石紐を頭に巻いて身に付けていたことを覚えていた。その習慣はもう失われてしまったが、チャチャポヤの人々も同じようにしていたのではなかろうか。
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しかし、ペルーのある集落には、今もいくつかの習慣が残っている。住民の多くは何世紀も続いているチャチャポヤ固有の名前を持っている。

陶器造りをしているクロティルデ・アルバは彼女の祖先達を自慢している一人だ。
アルバ「陶器はチャチャポヤ時代から続く古代の伝統なの。スペイン人がやって来るずっと前から続いているのよ。」
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ウォーレン・チャーチ教授「我々はチャチャポヤ人がとても活動的な交易人だったという事を知っている。交易には仲介者が必要だ。誰もが儲(もう)けが多い仲介者になりたがる。仲介していると文化や製品が集まってくる、今のニューヨークのようにね。地理的に考えても、チャチャポヤはとても戦略的な位置にあるといえる。」

チャチャポヤの女たちも裕福だった。インカ時代の絵では、捕えられた肌の白い、ブロンドの髪の女が描かれている。インカの統治者たちは、自分たちのために、しばしばチャチャポヤの女を選んでいる。
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今でもシシリア・フローレスのようにブロンドの髪のチャチャポヤの住民は多い。彼女はワンカス村のはずれで家族と共に暮らしている。
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外見だけで、黒髪で茶色の肌をした近所の人と簡単に見分けがつく。

シシリアは村では他の人と同じ暮しをしている。毎日、仕事場の夫に食べ物、飲み物を届けている。それがこの辺りの習慣だ。彼女は自分がなぜ、みんなと違うのかを説明できない。
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シシリア「私は4人子の一人で3人がブロンドなの。2人の従妹もおなじよ。みんなチャチャポヤ市で暮らしているわ。子供の一人もブロンズよ、他はみんな黒髪だけど。父さんは私たちが何故ブロンドか説明できないけれど、父さんの両親もブロンドだったのよ。」

ウォーレン・チャーチ教授「チャチャポヤの人にブロンドが多い理由についての説明は今のところ見つかっていない。しかし、チャチャポヤには肌が白くてブロンドで魅力的な女性が多い。インカの皇帝が多くの妾をチャチャポヤから連れていったとか、チャチャポヤでは投石紐が使われていたというのは、昔、チャチャポヤを旅したペルー人が語り伝えている。」

リンマバンバの村にはブロンドで白い肌の人が多いという報告がいくつもある。そこは、昔からインディアンの人が多いところだ。ワンカス村と同じように、ここでも、ヨーロッパ人の祖先を持っているかどうかを知る人は誰もいなかった。
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小学校を訪れてみると、驚くほど多くの子供がブロンドの髪を持ち、白い肌をしていることが判る。
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サライバは遺伝子による体質遺伝を解析するため、子供から分析用のサンプルを集めている。Y染色体chromosomeの調査では、男の提供者については判らない。バレンティナという女の子はサンプルを提供している。
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彼女は現地人家族の子供で、親戚の誰もがインディアンと異なる祖先がいたかどうかを知っていない。

ワンは生きた例の一人だ。赤毛の彼は理想的な調査対象だろう。
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他の生徒たちが黒髪であることから考えると、ブロンドで白い肌は、現地のインディアンの遺伝子の突然変異によるものだという可能性もある。オランダ・ロッテルダム大学の研究室が行った分析は、ブロンドの起源がどこかを確定することを目的としている。そこでは国際的なメンバーからなる専門家チームが、分子遺伝子研究所にペルーから送られてくるサンプルの到着を待ち構えている。
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カイザー教授の指導の下で、科学者たちは遺伝子の中の髪の毛の色に関する特別な兆候を確定することに成功した。

カイザー教授「ペルーの資料を調べる時にまずは、赤毛の源がヨーロッパにあるのか、そうでないのかに注目している。DNA分析でどこの発祥かを分類する。これまでの調査によれば50%はヨーロッパ発祥でこれが赤毛の原因で、残りはアメリカ発祥だと判っている。」
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遺伝子分析でもヨーロッパ系が調査対象者の祖先の一部にいたことを示している。ヨーロッパを出発した船員たちが、古代、アメリカまで到達していたのだろうか?彼らは2千年前、困難を乗り切ってアマゾン川を遡(さかのぼ)り、ペルーにやって来てチャチャポヤを故郷にしたのだろうか?その答えは子供たちの中にあるかもしれない。
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カイザー教授「現時点で我々が入手している証拠では、ヨーロッパの西部、特にイギリスとイベリア半島の北部で1B形Y染色体がされている。」

コルーニアは北スペインの町で、かつてケルト人が棲み着いたところだ。人々の運命は漁業と海運で決まる。現在のコルーニア人の祖先は、2千年前、ペルーと共に生物学的、文化的な遺産を持ったのだろうか?
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我々は、ケルト人が大海を航海する能力を有していたことについては知っている。
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壊滅に追い込まれた超大国カーセッジで生き延びた人々はローマの支配領域から逃げ出さざるを得なかったはずだ。彼らは失うものを持たぬ、恐れを知らぬ船乗りたちで、命をかけて新たな故郷を探す船旅に出たのだろうか?
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彼らが円形の家や砦の壁に古代世界の痕跡を残したのだろうか?南アメリカ生まれのものではない動物の飾りがついた斧(おの)も、地中海式の文様が付いた儀式用の土器や高度に発達した治療技術も。
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この考えに対する意見は様々だ。
ウォーレン・チャーチ教授「私が見る限り、文化が伝わったようには思えない。外部の方式や要素の侵略があったとは見ていない。チャチャポヤでの出来事はとても特別なので、多くの注目を集めているのだろう。」

ハンス・ギフホーンは自分の考えが正しいと確信している。新たな科学的証拠が発見されることを期待している。
ハンス「チャチャポヤの文化についての調査は極めて少ない。だから私はもっと多くの驚くべき発見があるのではないかと期待している。」
しかし、今までの所、ハンス・ギフホーン教授の見解を支持するのは、仮説だけだ。動かぬ証拠smoking gunは見つかっていない。
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Carthage’s Lost Warriors
http://www.pbs.org/wnet/secrets/carthages-lost-warriors-watch-the-full-episode/1163/

フィルムに出て来たヘラクレスの塔についてのWiki情報です。
Wiki:ヘラクレスの塔(Torre de Hércules)
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スペイン北部ガリシア州ア・コルーニャ県の県都ア・コルーニャの中心部から2.4キロメートル離れた半島に建つローマ建築の灯台。海抜57メートルの丘に建つ塔は高さ55メートルで、北大西洋を一望できる。1791年に改築工事が施されたものの、ローマ時代に建築されてから既に約1,900年が経過しているにも関わらず、今もなお現役の灯台として利用されている。2009年6月27日、UNESCOの世界遺産に登録された。
ヘラクレスの塔の起源については、長年にわたって多くの神話が語り継がれている。ケルトとギリシャ・ローマの要素を交えた神話によれば、ギリシア神話の英雄ヘーラクレースは三日三晩も続いた戦いの末にゲーリュオーンを打ち倒し、(このあたりがケルト的な行いであるが)その首を武器とともに埋葬し、その上に町を築くように命じたという。ア・コルーニャの紋章で灯台の下に描かれている髑髏と骨はこの殺されたゲーリュオーンを表しているとされている。

で~ハンス・ギフホーン教授の仮説“ローマ帝国の手を逃れたケルト人、カーセッジ人が、凡そ2千年前、大西洋を横断してアマゾンを遡(さかのぼ)り、ペルーのアンデス山中のチャチャポヤに棲み着いた”っていう話をどう思いました?

断片的な事実を恣意的に拾い上げて結び付け、それをもって仮説の裏付けにしているようで、信憑性(しんぴょうせい)は薄いというか、胡散臭いと思われた方が多いのではないでしょうか。

mhの見立てでは、チャチャポヤとカーセッジの直接的な関係を示す証拠や事実はひとつもありません。アマゾンで見つかったという青銅の斧に残っていた木の棒が1千5百年前のものだというのが若干、それらしい雰囲気を醸(かも)し出してはいますが、古い木をコロンブス以降のスペイン人が持ってきた斧に付けた可能性もありますから、鵜呑みにはできません。

しかし・・・古代人が海流に乗って何千Kmも船旅をした例はあります。モアイで有名なイースター島は、最も近い有人島まで直線距離2千Kmの“絶海の孤島”ですが、西のポリネシア諸島から大勢の人が移り住んでいます。実は、次回ご紹介するYoutubeも、古代に行われたであろう南アメリカへの移住を採り上げています。大西洋ではなく、太平洋からきたらしいという話なのですが、冷静に考えると、コロンブス前に大西洋を横切った人がいたという考えは、仮説というよりも、もっと信憑性が高い“推定、考察”といえるかも知れません。重要なのは裏付け証拠です。
(完)

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mh徒然草97:長生きの秘訣

(東京都知事選(特番)、築地移転延期(特番)で7月15日公開を変更させて頂きました。)

今日5月17日、TV「みんなの家庭の医学」で、103歳の女性を採り上げ、彼女の健康状態を調べ、その源がなにかを名医3人が解説していました。(補足:この番組は女房殿が毎週、見逃さずに見ていて、私は、ブログ作成の傍(かたわ)ら、横目でチラチラ眺める程度です。)

50歳で旦那を亡くして53年、旦那が遺してくれた遺産だけで一人暮らしを続けているのですが、採血、MRI、などで検査すると、例えば、血管膜厚は0.9mmで20代。MRIで調べた脳内の海馬の、老化で収縮して生まれた空間は小さく、ボケの兆候は全くなく、毎日、着飾って雀荘(勿論、室内全面禁煙です)に出かけ、ライバルたちと数時間、厳しい勝負をし、ゲームの合間には自宅で作って持ってきた野菜サラダその他を食べ、家に戻ると必ず手を洗い、決まった就寝時間、起床時間を守って毎日を暮しているとのこと。

お蔭で、腸内フローラのバランスが維持されて栄養が適切に吸収され、適度な運動と友人とのゲームで筋力や脳の活性が維持され、健康な生活を可能にしているとの名医の見立てでした。

これを健康で長生きする秘訣として箇条書きすると次の通りだと言います。
1) よく噛む。
若い時から1口30回を守っているようです。
2) いろいろな食材をバランスよく食べる。
健全な腸内フローラの育成に良いようです。
3) 着飾って外出する。
社交機会を持ち、足を使って歩くのが、精神及び体力面で好いとのこと。
4) 相手と競うゲームをする。
特に麻雀は、頭を使う上に競争心も持て、脳の活性化に好いとのこと。
5) 外出から帰宅したら手をきれいに洗う。
悪い菌を体内に持ち込まないのが重要らしいです。
6)ルーチン・ワークをもつ。
規則正しい生活は体内器官の活動にも適しているようです。

確かに、指摘されると得心がいくものばかりです。しかし、mhの場合、沢山のことを覚えるのが苦手ですから、一点集中主義を貫いているというか、それしか出来ないのですが・・・例えば車の安全運転の秘訣は「速度は20%減」でして、長生きの秘訣となれば「ストレスを持たない」です。最近、車の安全については「車を運転しない」に変えましたから、他人を傷つける事故を起こす確率は原理的にはゼロになり(注)、他人に傷つけられる事故だけを心配すれば好くなっています。
(注:車を運転しなくても事故を引き起こします。mhがいつもしている赤信号での横断では、車が来ていないと思い込んで赤信号で渡ろうとしたら、実は来ていないはずの車が来ていて、運転手が思わず急ハンドルをして信号機に衝突する事故が起こり得ます。やっぱ、赤で渡るのはやめるべきでしょうねぇ。)

確かに、長生きの秘訣は、ストレスを持たない、というだけでは不十分かもしれません。
で~、103歳の女性が番組の最後に述べた長生きの秘訣はというと「趣味を持って毎日を楽しく過ごすこと」と、これまた一点集中主義で、年を取ると、誰も同じような思考パターンになるんだなぁ、と改めて再認識した次第です。

しかし~疑い深いmhは、実は長生きの秘訣は違うんじゃぁないの?との思いを捨てきれません。

今回TVに登場した103歳の女性(寿栄子さんと言います)は50歳で旦那を亡くし、以降、旦那の遺産で悠々自適の生活を送っています。しかし、逆に、女房を亡くせば、旦那は3年以内に死ぬ、というジンクスというか、都市伝説というか、怖~い言い伝えがあります。我が女房殿の父(義父)は妻の死から1年で、女房殿の妹の義父も妻の死から1年で、言い伝えに従うように亡くなっています。

旦那を長生きさせたければ、女房は長生きしなければならない。
旦那が早死にすれば、女房は長生きする。
女房が死ぬと、旦那は3年以内に死ぬ。

この命題は恐らく真であり、従って一般的に、女房が長生きするのは理にかなっています。となれば、旦那は、元気なうちに好きな事をしておかないと、あの世で後悔することになるのは必定です。

Ray Charles - I can't stop loving you
https://www.youtube.com/watch?v=_TgqO4V8Vyo

(完)

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黒いミイラの不思議


ブログ「リビアの不思議」(2016年6月20日)で、サハラの中心とも言えるアカクスAkakus山地で見つかったチャリオット(馬戦車)の岩絵を巡る物語をご紹介しました。
a4301.png “何故、サハラの真ん中にチャリオットが!!!そうか!エジプト帝国から来たんだな、ラムセス二世(紀元前13世紀)も乗っていたし。”と締めくくらせて頂きました。
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しかし・・・
今回ご紹介するYoutube「Black Mummy of the Green Sahara緑のサハラの黒いミイラ」を見て、とんでもない勘違いをしていた!と思っています。

ラムセス二世は3千2百年前の男です。彼より1百年程前、ツタンカーメンの父アケナーテンもチャリオットを乗り回していますが、今から5千1百年前、上ナイルと下ナイルを統合して古代エジプト第一王朝を打ち建てたナーマー(ナルメルNarmer)はチャリオットを使っていないようです。つまり、エジプトでチャリオットが使われ始めたのは、今から4千年程前からではないかと思われます。

片や、サハラの真ん中でチャリオットが使われていたのは・・・チャリオットが岩絵に描かれたのはいつか?岩絵なんだから、恐らく、かなり古いんじゃあないの?いやいや、岩絵だって数百年前に描かれたものもあるはずだ。待てよ、チャリオットがアカクス山地近辺を走り回ってたってことは、辺りには緑が多く残されていたんじゃあないの?サハラは砂漠の意味だから今回取り上げるフィルムの題に“緑のサハラ”ってあるのは、妙なネーミングだけれど、緑のサハラの時代は、恐らくエジプト帝国設立よりかなり前だろうから、サハラのチャリオットの方がエジプトのチャリオットより古いんじゃあないの?ところで、今回のYoutubeのタイトルの“黒いミイラ”って何のことだ?

こうして、取り留めも無く疑念と妄想を膨らませていくと、混沌の中で自分を見失いそうです。それでは読者諸氏に申し訳ありませんので、この辺りで打ち切って、語り足りない所は後置きに譲り(?)、Youtubeフィルムをご紹介いたしましょう。
・・・・・・
リビアの砂漠の中の岩のシェルター(mh:避難場所のような所)で、前例のない発見があった。
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ミイラ処理された小さな子供だ。彼が掘り出されるまで、アフリカではエジプト人がミイラ化処理技術を発明したものだと誰しもが考えていた。このミイラの発見は、古代エジプトに関して我々が知っていると考えていた全てのことに対して挑戦する新しい理論の開拓を、サヴィーノ・ダロニア博士と彼のチームに促すことになった。
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サヴィーノ「ミイラ処理技術はエジプトで生まれたものではなく、他の場所、他の文化、東アフリカとは別の地域のものだった!」
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エジプト学者ジョアン「ミイラ技術を生んだ人々はどこで暮らしていたのか?どこから来たのか?どんな方法で信じられない程に高度なミイラ処理技術をそんなにも古い時代に獲得していたのか?」
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どんな民族か判らない人々がエジプト人よりもずっと昔に仲間の死体をミイラ処理していた???

長い間、失われていたアフリカの文化を解き明かす鍵になりえることを証明したのはこの子供だ。
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「Mystery of the Black Mummy黒いミイラの秘密」
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サハラ。世界最大の砂漠。地上で最も暑く、最も人里から離れた所のひとつでもある。ローマ大学のイタリア人考古学者サヴィーノ・ダロニアは既に2日間、砂漠を車で走り続けている。
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前方に目的地のリビア南西部のアカカス山地が現れて来た。
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リビアは北アフリカの国で、西にはアルジェリア、東にはエジプトがある。
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不愛想な地形は、残っていた僅かな遊牧民族さえ追い出してしまったが、かつては子供をミイラ処理した、ある家族の故郷だったのだ。
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新しい秘密を解き明かすことを期待しながら、サヴィーノは毎年、この雄大な場所に戻ってくる。全ては今から40年前、ミイラ処理された小さな少年“ワン・マフジャジ”の発見から始まった。彼の名前は見つかった“岩のシェルター(岩陰遺跡)”から名付けられた。サヴィーノと同僚たちは、この発見が意味することを完全に解き明かそうと、数十年も取り組んでいる。サヴィーノ「岩のシェルターで見つかったミイラはサハラにおける古代文明の考古学的、歴史的な再構築を始めさせることになった、と私は思っている。」
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我々は今日のリビア人が、かなりの部分で中東の人々と同じだと思っている。しかし、サヴィーノたちは、この地には数千年前に南からやってきた黒人アフリカ人が棲んでいたと信じている。
(mh:サハラの南のサバンナやジャングルで暮らすアフリカ人は黒人、つまりネグロイドNegroidと呼ばれる、肌の色が黒い人種です。しかし、ナイル下流のエジプトや地中海沿岸の北アフリカ、つまりサハラよりも北のアフリカ人は、肌の色が褐色で、黒人とは異なる人種です。)

黒人らしき狩人が描かれている岩絵を別にすれば、考古学者は、この考えを証明する証拠を何も持っていない。しかし、ミイラが全てを変えてしまったのだ。
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サヴィーノ「黒いミイラの意義はとても大きい。我々は、この地域にいたのではないかと考えられていた黒い人々が、実際にいたのだという証拠を初めて掴んだのだ。」
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それは、これまで知られていなかったアフリカの文明を解き明かす驚くべき探求の始まりだった。ワン・マフジャジの岩のシェルターは日中の太陽から十分な日陰を確保できるというだけのもので、格段、特別の場所ではない。
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ミイラを発見した時に立ち会ったダマダニ族の男に会うため、サヴィーノは岩のシェルターに戻ってきた所だ。彼らは一つの狭い場所に着目している。サヴィーノの先輩のモウリー教授が黒いミイラを発見した場所だ。
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サヴィーノ「今でも、その場所を見ることが出来る。というのは、自然に侵食が進んでいる場所だったのだ。ワン・マフジャジの遺体は、丁度この辺りにあった。小さな袋が太陽の光に晒(さら)された時、中に何が入っているのか、誰も想像つかなかった。袋を開けるとミイラがあった。それを見て誰もが驚いた。」
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その子は死んで直ぐ、胎児のような姿勢で鹿の皮でできた袋に入れられ、袋は植物の葉で包まれて埋められていた。こうした注意深い保護のおかげで、以降、5千5百年もの間、遺体は守られていたのだ。
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イタリア人考古学者たちは、重大な発見をしたことに気付いていた。少年の頭蓋骨の形は、彼が黒人であることを暗示していた。それが正しければ、アフリカにおけるミイラ処理の歴史は書き換えられることになる。そのためには彼らは確認しておく必要があった。ミイラの分析のため、脆(もろ)い荷物を携えて最も近い村に向けた10日の紆余曲折の駱駝の旅の後、ローマに戻った。
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ローマ大学のジョージオ・マンジー博士はリビアで発見された人骨に関する世界で最先端の専門家だ。彼の研究室には、リビア人の頭蓋骨のコレクションが見事に整備されている。
オウマンジー博士「1950年代、イタリアの研究チームが子供は黒人、二グロNegro、だと推論した主な理由は頭蓋骨の顔の組立を考慮したからだ。特にこの部分、鼻の根元、の寸法と、上あごが前に突き出ているという特徴だ。」
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ミイラの歯は彼が死んだ年齢を明確にした。
マンジー博士「イタリア・チームがまず調べ直したことは歯だ。とても若い人間の歯だった。X線で調べたのだが、その方法だと顎に埋まっている歯も調べられるので簡単に、正確に年齢が判る。」
その結果、ワン・マフジャジは黒人で2歳半の少年だと確定した。しかし、驚くべきは炭素年代測定の結果だった。ワン・マフジャジは5千6百年前の人間だったのだ。
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過去にアフリカで見つかったミイラの中で彼が最も古いことになる!彼はどこから来たのだろう?
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エジプト人がミイラ処理技術を発明したと思われる時期よりも1千年も前、誰がこの少年をミイラ処理したのだろう?ワン・マフジャジの黒いミイラの源は今もミステリーに包まれたままだ。

この少年についてもう少し調べてみようと、サヴィーノは彼のミイラが眠っているトリポリ博物館に戻ってきた。
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サヴィーノ「ミイラ処理の最も印象的な証拠は頭蓋骨に付着している皮膚だ。皮膚は体の骨にも残っている。更には有機物の残骸もあった。ミイラ処理しなければ起こり得ないことだ。」
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「胸を切開してから内蔵を取り除き、バクテリアの活動を防ぐための有機物を詰めたのだ。特殊で高度な技術といえる。」

ワン・マフジャジを特別なミイラにしているのは彼がアフリカで見つかった最も古い、内臓を除去したミイラだということだ。切開手術が彼の胃と胸部に沿って行われていた。その後、内臓が取り出され、体が腐らないよう有機的な防腐剤が詰められた。この処理方法があったからこそ、黒いミイラは世間に現れることになったのだ。
ミイラ専門家でエジプト考古学者のジョアン・フレチャーは強い関心を示した。
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ジョアン「私はおよそ15年前、黒いミイラに関心を持ち始めたの。主な理由はそれが内臓を除去したミイラだったからよ。内臓は胸部から、それに勿論、下腹部からも取り除かれていて、とても高度な除去処理で、アフリカで見つかった中で最も古くて完璧なミイラ処理なのよ。誰もがエジプトがミイラ処理の本家だと言うけれど、黒いミイラはエジプトでミイラ化が行われていない時代のものなので興味が湧いてくるの。私の疑問は、この黒いミイラは後のエジプトのミイラ化処理に影響を与えたのか、それともこれら2つの伝統は別々に発達したのか、という点にあるわ。」
一般的にはエジプトがアフリカにおける唯一の古代文明だ。エジプトの芸術や宗教は有名で、学術的にはエジプトこそがアフリカにおける変革の発祥地といえるだろう。
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しかし、この確立した学術的発想に黒いミイラが対抗しようとしていると考えている人々がいる。
デイヴィッド・マッティングリー教授はサハラ文明を専門に研究している。
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マッティングリー教授「ミイラが中央サハラで発見された時、それはエジプトと同じ処理が行われているだけだろうと思われて、大して着目されなかった。私も同じで、エジプトがサハラの闇を照らしていた結果だろうと考えていた。」
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しかし、ワン・マフジャジはナイルから2千4百Kmも西に離れた場所で見つかり、しかもエジプト人よりも1千年前に内臓を除去してミイラ処理されていたのだ。
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アフリカに置いては、ミイラ処理技術を発明したのは古代エジプト人ではないと考えることが出来るのではないか?そして、もし彼らがミイラを準備したというのでないなら、誰がしたというのだろう。」

ジョアン「エジプト人以外で、一体誰が、こんなにも優れた方法で遺体を保存することができたのか、というのはとても興味深い疑問だわ。私には、それが誰かなんてとても思いつかないわ。彼らがどこからきたのか、どんな経緯で、信じられない程高度なミイラ処理技術を、そんなにも古い時代に習得していたのか。それは大きな謎だわ。」

ワン・マフジャジの民族と彼らの文化に関してもっと新たな情報を見つけ出そうと、サヴィーノは12年間、調査を続けて来た。彼の探求はワン・マフジャジの岩のシェルターから始まった。
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そこでの注意深い発掘作業が決定的なヒントを与えてくれたのだ。
サヴィーノ「ワン・マフジャジが眠っていた4,5千年前の地層に炭が残っている。そして、動物の糞も見つかった。恐らく牛の糞だ。彼らの生活では牛が重要だったのに違いない。」
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この発見は驚くべきものだと言えるだろう。牛は砂漠では生活しないのだ!しかし、その姿はアカクス山地の広い範囲に残っている岩絵にも繰り返し描かれている!
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サヴィーノ「ワン・マフジャジの時代に書かれた岩絵の50%以上が牛だ。つまり6千年前、牛はとても重要な動物だったんだ。この絵の牛は、この地方に固有な牛だと思われる。なぜそう言えるかというと、体の色が赤と白で、この地方の牛の特徴だったのだ。」
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牛と山羊。ワン・マフジャジの人々は明らかに動物を飼育して暮らしていたのだ。しかし、彼らはどのようにして、こんな砂漠の中で生きていくことが出来たのだろう?
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単純な植物の残骸がワン・マフジャジの家族がかつては全く異なる環境で暮らしていたかも知れないとの示唆を与えてくれた。
サヴィーノ「ワン・マフジャジが生きていた5千5百年前、この一帯には、水辺でなければ育たないティファ―という植物が生えていた証拠がある!」
ティファ―はオアシス周辺にしか見かけない植物だ。今の様子からは、とても想像することはできない。
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この辺り一帯がかつて青々としていたなんてことがあり得るのだろうか?気象学者がその答えを用意してくれるだろう。

NASAの衛星のひとつがケビン・ホワイト博士の注目を引き付けた。彼は今、最近の技術を使って古代の自然環境を研究する、イギリスを代表する大学のチームを指導している。
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ケビン「NASAの科学者たちは火星表面を研究するための参考としてサハラの西側の映像を調べていた。そしてレーダー機器を使って得られた情報から、“砂の敷布sand sheet”と呼ばれる砂に覆われていた河川体系を発見した。」
レーダーは砂漠表面の内部まで浸透し、かつて、いくつもの巨大な湖に水を供給していた古代の河川の全貌をさらけ出すことに成功した。

ケビン「この辺りを見ると、多くの川がいくつも繋がっていたことが判る。左側の外観写真では、全く判らない情報だ。」
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これらの湖は、古代のうちに干上がってしまっていた。科学者たちはペリオレイクpaleolake(古代の湖)と呼んでいる。
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ケビンは似たような河川をリビアの中央サハラで見つけ出すため、この技術を使っている。しかし、ケビンが最も興味を持っているのは古代の湖の沈殿物だ。何故なら、それが昔の物語を語ってくれるからだ。
ケビン「湖の沈殿物は湖周辺の斜面で起きていた事象に関する多くの情報を捉えている可能性がある。周辺の植物体系、水中の生物体系が判るかもしれないし、時には化石が残されていることもある。」
当時の気象状況を再構築するためには、サンプルが必要だ。ケビンの同僚のニック博士は衛星で捕えた地図を使ってリビア旅行を計画した。
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ニック「今私が居るここがペリオレイクだ。」
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ニック「ワン・マフジャジの時代、多くの人々がこの一帯で暮らしていた。我々は当時使われていた土器や石器を見つけた。」
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ニック「私が特に見つけたいと考えているのは、有機堆積物だ。それを使って放射性炭素年代分析ができる。淡水の蛇貝の化石や、象、犀(さい)、鰐(わに)、魚の骨からも年代推定が可能だ。だから是非、見つけ出したい。」
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ニックとサヴィーノは友人だ。彼らは干上がった川底を目指し、ワン・マフジャジの岩のシェルターから数時間、車を進めている。そこで見つかる証拠が、この一帯が、かつて全く異なった自然環境にあったことを証明してくれるだろうか。
マッテンディッシュ(?)はアフリカでは有名な岩絵の一つだ。
サヴィーノ「人間の姿をした人物が斧を持っている!」
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サヴィーノ「ここには沢山の動物が描かれている。象、2,3匹のキリン。何らかの文明があったはずだ。私が気に入っている絵はこれだ。」
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ニック「なかなか不可解な絵もあるね。」
ここの岩絵に書かれている動物はサバンナ(草原)でしか暮らしていないものばかりだ。しかし、次の岩絵にはニックも驚いた。鰐(わに)の絵だ。草原には水もあったという証拠だろう。
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ニック「岩絵の動物から、この辺り一帯の当時の様子を想像することが出来るね。今我々が立っている所は、きっと湖畔か、雨季に川が流れていた川辺だよ。多分、この辺りには浅瀬があって何匹かの河馬(かば)や犀(サイ)がいて、鰐(ワニ)もやって来る危険な場所だったかも知れない。」
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「象も高台から水を求めてやってきただろう。ライオンがガゼルを捕まえていたかも知れない。勿論、人間も動物狩りをしていただろうね。きっと、現代のケニヤみたいなところだったと思うよ。」
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現代のサハラでは、このようなエデンの園はワン・マフジャジの時代の足跡から想像するだけでしかない。しかし、今でも古代の湖がどんな様子をしていたのかを砂漠の真ん中で体験することができる。
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ガバローはサハラに十数か所あるオアシスの一つだ。そこは我々にワン・マフジャジの時代の環境を垣間見せてくれる。湖の湖畔で成長しているのは我々を古代に導いてくれる生きた化石だ。
サヴィーノ「この辺りの植物はワン・マフジャジの岩のシェルター辺りのものと同じだ。5千5百年前の植物と全く同じ植物を見つけたこともある。つまり、ワン・マフジャジの時代も、この湖の周辺のような様子だったと考えていいと思う。」
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ニック「生きた化石の植物が今もあるってことか。過去を語る叙事詩みたいだね。」

ニックはサハラから研究室に戻った。分析の結果、1万年前の古代の気象環境が明確になった。コンピューターの画面に映し出されたモデルは、我々を現代からサハラの気候が急速に変化していたワン・マフジャジの時代にまで連れていってくれた。当時、砂漠は植物で覆われ、谷は湖だった。全てが1万年前に起きていた。地球の軸が変化して熱帯モンスーンがアフリカの北部、サハラ中心まで雨を運んでいた時代、ワン・マフジャジの祖先は南から草原のサハラにやってきたのだ。
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サヴィーノ「1万年前、モンスーン帯に沿って黒人が南からやって来て、今のサハラの中央にも住み付いた。それでアカカス山地一帯でも黒人が見つかっているのだ。」
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サハラにやって来たのは彼らだけではなかった。およそ7千年前、メソポタミアやパレスチナから牛や山羊を引き連れた人々もサハラの中心地までやって来た。
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サヴィーノ「サハラの中心やアカクス山地は世界でも最初の人種のるつぼとなった場所と言える。南からきた黒人と、中東から来た言わば白人が、この地で交わったのだ。」
今日のリビアで、人種のるつぼの遺産を見ることが出来る。
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マッティングリー教授「現代のリビアの町の通りを歩いていると、信じられない程に多様な人種に出会う。彼らは地中海とサハラが混じり合った人種の交流を示しているのだ。しかし、本当に驚くべきことは、白系の地中海型人種とサハラの二グロ系人種の混血が極めて古い時代に行われていたということだ。」
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この人種多様性は、サヴィーノを悩ませていた興味深い岩絵の説明にもなりそうだ。
サヴィーノ「この岩絵の人々の顔はワン・マフジャジのような黒ではなく、どちらかと言えば白い。」
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民族と文化の混合がワン・マフジャジをミイラ処理することになったのだ。しかし、少年はどんな社会の中で暮らしていたのだろう?
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その重要なヒントのひとつは、彼が壊さずに身に付けていたダチョウの卵の殻で出来たネックレスだ。
サヴィーノ「今も、ネックレスに使われていたダチョウの卵の殻のビーズのいくつかが残っている。」
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古代社会の墓の副葬品は、当時、宗教的な儀式が行われていたことを暗示している。更にミイラ処理は全く異なることも暗示している。ワン・マフジャジが、これまでに見つかった中でたった一つの完璧なサハラのミイラだとしても、ワン・マフジャジよりも以前から、一千年とは言わないが数百年前から、人々は死体をミイラ処理していたのだ。
ジョアン「黒いミイラの特徴は、それが内臓除去という高度な技術をつかっているということよ。この技術は本当に複雑な高度な方法なので、ある日突然、生まれたってものじゃあないわ。黒いミイラは極めて複雑な発展過程を踏んだ一連の流れの中の結果だったのよ。」

ワン・マフジャジがミイラ処理されたのは、彼が特別な子供だったからなのだろうか?
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サヴィーノ「ワン・マフジャジの家族が、特別に権力があったとか、豊かだったということはない。彼の時代、彼のような人種の社会では大きな格差というものは、まだ生まれていないはずなのだ。」
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ジョアン「ワン・マフジャジのように小さな少年が注意深くミイラ処理されていたという事実は、必ずしも何をしたのかで人物を判断する社会ではなかったことを暗示しているわ。恐らく、若くして死んでしまった子供が再び、この世に生まれてくることができるよう、ミイラ処理することが重要だったのよ。後悔と愛情からミイラ処理が行われていたとも言えると思うわ。死んだ子をいつも自分のそばに置いておきたかったからかも知れない。」

しかしワン・マフジャジがミイラ処理された時期は最大の疑問だ。アフリカにおけるミイラ処理は、ここ、サハラの中心で始まったのだろうか?
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サヴィーノ「ここで5千5百年前のミイラが見つかった。それはエジプトで見つかったミイラより少なくとも1千年は古い。このことは、ミイラ処理やその知識がエジプトで生まれたものではないということだろう。中央サハラで生まれた知識やその他のものがナイル河畔に伝わったと考えるべきだ。考古学的には、それを裏付ける更なる証拠を見つける必要があるとは思うけど。」
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サヴィーノは黒いミイラの人々の多くの子孫が、ワン・マフジャジの死から5百年後、中央サハラから離れざるを得ない状態に追い込まれていたことを知っていた。環境調査の結果によれば、およそ5千年前、サハラを再び乾燥状態にする急激な気候変動がやって来た事が確認されているのだ。
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サヴィーノ「先史時代、気候変動は人々に大きな影響を与えた。恐らく、アフリカの中心部における変化は、厳しかっただろう。だから6千年前、更には5千年前、サハラの地で乾燥危機が起きた。だから人々は移動しなければならなくなったのだ。」
ワン・マフジャジの人々がミイラ処理技術を携(たずさ)えて豊かなナイル河畔の東に移動したと考えるのは可能だろうか?それとも2つの伝統は、それぞれ全く独自に発展したのだろうか?
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サヴィーノは、更なる証拠を探してリビアのサハラ全域を移動している。サハラの文明とエジプトのナイル河畔における社会を結び付けるものはあるのか?そしてさらに興味があるのは、黒いミイラ以外にも、サハラで生まれた革新的なものが古代エジプトに影響を与えていたということはないのだろうかということだ。

調査は数年を要した。しかし、彼は間違いなく、最初のヒントを見つけた。それは枯草の山から針を見つけたようなものだった。そこでサヴィーノは不思議な遺跡に出くわしたのだ。
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それは、ワン・マフジャジの岩から丁度100Kmの、玉石がばらまかれたメサックと呼ばれる平地の、変哲もない岩の破片が散乱している場所にあった。直径3mほどの、石が円形に並べられたモニュメントだ。
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それは間違いなく、サハラで暮らす人々の生活の中で、牛が重要な意味を持っていたことを示していた。牛の骨がモニュメントの中で見つかった。近くには捧げもの用の土器も残されていた。牛の喉をかき切る血の儀式が行われていたのだ。このモニュメントこそ牛信仰の証拠だ。

サヴィーノ「私がこれを発見した時、直ぐに牛信仰の記念碑だと判った。そこで発掘すると、直ぐに骨や焼かれた牛の跡が出て来たんだ。牛信仰に関係する儀式の考古学的証拠で間違いない。」
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ジョアン「リビアのサハラ文化における神聖な牛の喉を欠き切る儀式の場所の発見は、その後のエジプトで日常的なものとして行われていた、寺院の中での牛の生贄儀式のことを思い起こさせてくれるわ。人間のミイラが墓に埋められている場所で行われる葬儀では、牛の前足を切り取って、まだ恰(あたか)も生きた状態の足を死者の口に捧げて、牛の命を死者に移し、死者があの世に旅立てるようにしていたの。牛を使って神聖な力、神聖な知恵を死者に移そうとしていたわけね。この動物と人間の象徴的な関係は、エジプトの西のサハラの文化ととても似ていると言えると思うわ。」
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牛が人間と神を結びつけるというエジプト人の発想は新しいものではなかった。実際の所、牛信仰は、ナイル湖畔で最盛期を迎える数千年前からサハラ中央で存在していたのだ!
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サヴィーノ「サハラの文明がエジプトの文明に大きな影響を与えていたと考えるとワクワクする。しかし、冷静に考えてみれば、それは極めて当然だともいえる。」
サヴィーノはエジプトの生活におけるミイラ処理と牛信仰は、いずれもサハラの社会の中心にあったことを明確にした。
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しかし、彼は、牛の記念碑から1Kmほどの乾燥した涸れ川(wadiワジ)の中で、もっと決定的なものを見つけた。動物の頭を持つ人間の岩絵だ!
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サヴィーノ「この岩絵の最も興味深い点は、犬の面を被った神が描かれているということだ。」
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「この種の人間はインディアン・ミサキ時代(?)の人々と繋がっている。岩の色がとても黒い(注)ことから、この絵はかなり古いと考えて良い。ナイル河畔で描かれた絵と比べると、こちらの方がかなり昔のものだと断言できる。」
(注:鉄分を含んだ岩は酸化が進むにつれ表面が黒くなります。)
この絵に塗られていた絵具の中の有機物を分析すると5千6百年前のものと判明したが、岩絵は更に数千年古いとサヴィーノは信じている。
ジョアン「そんなにも古い時代、動物の頭をした人間の姿がエジプト以外の場所に存在していたということは、とても興味深いわ。岩絵よりも後世に生まれたエジプトの神話文化の中に、高度な絵画技法で全く同じ対象が描かれているんだもの。」
エジプトの神アヌビスは古代エジプトの最も知られるシンボルの一つだ。
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ジョアン「これがアヌビスよ。埋葬や死者の守り神としての古代エジプトの神なの。特に神聖な儀式の時には、彼に似せたマスクもエジプトでは使われていたの。これと同じマスクを祈祷師が被(かぶ)って、死者があの世で蘇るよう、魔法の儀式をするの。サハラの文化に、犬の、実際にはジャッカルの、マスクをかぶった人間の岩絵が、アヌビスよりも1千年以上も前に現れていたっているというのはとても興味深い事実だわ。エジプトの神話に関する新たな評価を生みだす事実になるはずよ。」

中央サハラの生活の中で牛信仰と動物の頭の人間が発生した時期は、それらがナイル河畔で発生する以前だった。しかし、小さくて曖昧な社会が、そんなに大きな影響を生み出すことなど起きえるのだろうか。ワン・マフジャジの文化がリビアの南西部から拡大したのかどうかについて語るには、考古学者たちは更に知らねばならぬことがあるだろうと思っていた。

800Km南の現在のナイジェリアで、その質問への答えを探す作業は始まっていた。
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1980年代、フランス人考古学者たちは土器、人間の墓、岩絵、を発見していた。これらは全て、リビアでイタリア人によって発見された証拠と同じだった。更には、これに似た手工芸品は北アフリカ全域でも発見された。これらの事実から、この文化は、今まで誰も想像したことがない広い範囲に拡散していたと考えられている。
サヴィーノ「これがトリポリで、カイロで、ナイル。中心がアカクス山地だ。」
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「アルジェリア、リビア、エジプト、スーダン、チャド、ニジェール、マリ。これらが占める面積はヨーロッパよりも広い。つまり、古代において、この広大な土地に、同じ文化の、同じアフリカ人が暮らしていたということを意味する。」
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この文明の広がり面積は驚くべきものだ。マリから東端はエジプトまで、北アフリカのほとんどに広がっていたのだ。
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ジョアン「多くの点で広範囲に広がっていたサハラ文化が、物理的に極めて遠い場所まで伝えられたとは言い切れないと思うわ。ナイル河畔といえどもサハラの一部なんだから。つまりエジプトの西の砂漠からナイル河畔までは、とても短い距離だとも言えるのよ。」

構想の外郭は固まった。しかし、考古学者たちは、今もなお、中央サハラのアフリカ文明がエジプトに影響を与えたという証拠を必要としている。彼らが必要としているのは、もっと直接的なつながりだ。接触があったという証拠だ。イタリア人はアカカス山地のもっとも一般的な手工芸品である土器に目を向けることにした。サハラの限られた場所で生まれた土器とナイル河畔の土器と比べるとどうだろうか?
ワン・マフジャジが発見された岩のシェルターの近くの洞窟で、サヴィーノは古い時代に遡るアフリカの土器の破片を発見していた。
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サヴィーノ「今でもここで、その破片を見ることが出来る。恐らく9千年前のものだ。」
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「何かを押し付けて波模様の装飾が施されている。この土器は世界でも最も古い土器の一つだ。」
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イタリア人チームは土器の破片を集めて、元の形に再現していた。サヴィーノと一緒にローマに戻って、それを見てみよう。
サヴィーノ「これがそうだ。恐らく6千年前のものだ。何かを押し付けた文様の装飾は、アフリカの広い範囲に共通する特徴だった。」
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これはどこにでも見つかる土器のひとつではなく、サハラ固有の形の土器だ。ナイル湖畔で見つかる土器とは全く異なる。
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ナイル湖畔の発掘では、6千年程前、高度に装飾されたサハラ土器の急激な流入が起きていることが確認されていた。
サヴィーノ「我々は特にスーダンのナイル湖畔で、系統立てて発掘を続けている。1万年前、9千年前、8千年前と。」
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「そして6千年前、突然、スーダンで生まれた土器とは技術的に全く異なるサハラ中央の土器が現れてくるんだ。つまり人とか土器の製造の方法とか、そういった交流が今から6千年前に行われたことが判ったんだ。」
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これが謎を解く最後のピースだろうか?考古学者たちはサハラの文化がナイル河畔に影響を与えた証拠を見つけたのだろうか?もしそうだとしたら、サハラ中央で暮らしていた人々に起きたことは何だったのだろう?影響力や洗練された文化にも拘わらず、彼らに関するほとんど全ての痕跡は失われてしまっているのだ!まるで全ての歴史が、文字通り、サハラの砂で覆いかくされてしまったかのようだ。しかし彼らと共に彼らの革新的な文化が死んだというわけではないことを考古学者達は確信している。
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デイヴィッド・マッティングリー教授「過去1万年において、中央サハラと古代エジプトの遺産は信じられない程強く絡み合っている。しかし、もし5千から8千年前まで遡るとしたら、2つの関係が、今の我々が知っている関係と少し異なる時代があった。エジプトが砂漠に向けて輝いていたこととは別に、小さいが多くの光をナイル湖畔に向けて放っていた砂漠の文明について我々は考える必要がある。この文明がエジプト文明の形成に重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。」
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サヴィーノ「私の意見では、エジプトの伝統は、サハラの伝統の影響を受けて始まったと思う。土器の製造や装飾技術、絵画の中にもそれを見ることが出来る。それはサハラのもので、エジプトのものではない。つまり多くの文化的な知識がサハラで生まれ、ナイル河畔を含む北アフリカの広い範囲に広がったんだ。」
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ジョアン「中央サハラの文明が、その後に生まれたエジプトの神話文明と広い範囲で関係があるということは、とても驚くべきことだと思うわ。ミイラ処理はその例よ。間違いなく2つの文化にはつながりがある。どちらが先かだけど、エジプト人の多くはエジプトが先だと考えたがると思うけれど、でも私はこれだけ多くの情報がサハラにあるということから、考え直す必要があると思うわ。」
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サヴィーノ「ワン・マフジャジが2歳半と小さくて、アカカス山地で彼の家族と暮らしていた5千5百年前、彼らは砂漠ではなくサバンナの環境の中で暮らしていた。そうだとしても、彼は3歳になる前に死んだんだ。彼の家族は繊細な技術を施して彼の遺体をミイラ処理し、墓場に運んだ。そうして偶然だろうけれども、遺体を植物で包んで丁重に埋葬したんだ。」
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Black Mummy of the Green Sahara
https://www.youtube.com/watch?v=Jz94ZjGCy2s

<御参考>
Wiki「車輪」に“車輪が最初に現れたのはメソポタミアで紀元前5千年頃(7千年前)”とあります。とすれば・・・チャリオットは、メソポタミアからナイル河畔経由でサハラに伝えられたものかも知れません。6,7千年前ならサハラは草木で覆われていて、メソポタミアあたりから連れてこられた牛にチャリオットのような荷車を牽かせながら、ワン・マフジャジの家族は牧草地を移動して遊牧生活をしていたことも考えられます。

Wiki「サハラ砂漠」には“砂漠化の進行”が紹介されています。
「サハラ一帯は、完新世(1万年前~現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。20,000年前から12,000年前はサハラ砂漠が最も拡大した時期で、現在のサヘル地帯(アラビア語:サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域)のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8,000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。7,500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5,000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。その後徐々に乾燥化が始まり、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。5,000年前と比べると砂漠の南限は1,000kmも南下している。乾燥化は歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も進行中である。」
(完)

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mh徒然草特番:トランプが勝つ!?


今日は9月22日。雨がしとしと降り続く寒い日になりました。

アメリカ大統領選挙は、ヒラリー女史とトランプ氏の泥仕合になっていて、最近の両氏の発言は低俗極まりなく、うんざりします。いずれも選びたくないというアメリカ国民の気持ちも十分理解できますが、今更どうにもなりません。

で、ネットニュースを見ていたら次の記事がありました。
「トランプ氏長男、シリア難民を毒入り菓子に例え物議」
AFP=時事 9月21日
「米ニューヨーク市とニュージャージー州で連続爆破事件が発生したことを受け、大統領選の共和党候補、ドナルド・トランプ氏の長男が、シリア難民を毒入り菓子になぞらえるメッセージをツイッターに投稿し、物議を醸している。」
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「トランプ氏の選挙運動にもたびたび登場するドナルド・トランプ・ジュニア氏は、カラフルなフルーツキャンディー「スキットルズ(Skittles)」が山盛りに入ったボウルの写真に、「私がボウル1杯のスキットルズを持っていて、この中に3粒だけ食べたら死ぬものが交ざっていると言ったら、あなたは片手一杯分持っていくだろうか? これがわれわれのシリア難民問題だ」というメッセージが添えられた画像を投稿。「この画像が全てを語っている」とのコメントを添えた。
ドナルド・ジュニア氏は、少数が後に攻撃を行う可能性があるにもかかわらず、移民を受け入れるのはあまりに危険だと主張している。ニューヨークとニュージャージー州で発生した爆破事件で爆弾を仕掛けたとされる容疑者は、アフガニスタン出身で後に米国籍を取得した男だった。

 スキットルズを製造するリグレー社は20日、ドナルド・ジュニア氏のツイートを批判する声明を発表。「スキットルズはキャンディーで、難民は人間です。的を射た例えだとは思えません」と述べた上で、「マーケティングと誤解される恐れがるため、今後はいかなるコメントも差し控えます」と言明した。

 父親のトランプ氏も、選挙集会で移民問題について語る際、繰り返し1960年代の「スネーク(The Snake)」という曲の歌詞を引き合いに出している。この曲は、けがをしたヘビを助けた女性が、最後にはそのヘビにかまれてしまうという内容だ。また19日には、不法移民は米国で悪事を働くことを目的に入国する「トロイの木馬」だとの従来の主張を繰り返した。」
【翻訳編集】

喩(たとえ)で使われたキャンディーの会社には迷惑だったでしょうが、なかなか判りやすい表現です。簡潔な表現で大衆に意図を伝える喩(たとえ)は特に政治家が引用する道具で、私も折りがあればブログで使ってみようかな、なんて思いましたが、そういう才覚は持ち合わせていないので期待できません。

「アメリカはシリアから難民を受け入れるのをやめるべきだ」というドナルド・ジュニアの主張は父親と同じもので、アメリカ国民の大半は心情的に同調するでしょう。一方のヒラリー女史は、現時点では難民の排斥に反対のようですが、TPPでは、大衆が反対のようだと見ると、“蝙蝠のように(?)態度を豹変(?)した”女性ですから、そのうち意見を翻すと思います。

今日のTVニュースで見た国連の安全保障理事会では、アメリカが“ロシア軍によるシリア爆撃だ”と非難すると、ロシアは“アメリカが自らの誤爆をロシアに押し付けている”とやり返す非難合戦でした。今は停戦合意の最中なのに、ロシアもアメリカもシリアを爆撃しているようで、大勢の人が毎日、殺されています。突然、外国の爆撃機がやってきて爆弾を落とすんですから、理不尽な話で、シリア政府からも見放されている国民が国外に逃げ出したくなるのは当然でしょう。シリア難民を産み続けているのはロシアやアメリカ、それにアメリカに組する有志連合です。日本も有志連合のメンバーに加わっていると見なされ、ジャーナリストの安田純平氏は今も安否不明です。

過去において、アメリカはベトナムやアフガニスタンやイラクに軍事介入しましたが、いずれも混乱を拡大しただけで、問題解決には至りませんでした。自分たちの軍事介入で産み出した(補足参)北アフリカや中近東の難民を受け入れないという身勝手な発想にはあきれますが、“覆水盆に返らず”と言いますから、早く心を入れ替え、難民を産み出した元凶の軍事介入を中止すべきです。それを進めるならクリントンでもトランプでも構わないのですが、クリントンは大胆な変更をしないでしょうから、mhはトランプ大統領でいいと思います。
(補足)
北アフリカや中東からの難民は、軍事政権やイスラム国などのテロ集団から逃れることがきっかけだったと思いますが、軍事政権もイスラム国も、欧米の介入で誕生したものです。他国への軍事介入が大きな問題を生むのは歴史が証明済みの真理だと言っても過言ではありません。

I Don't Want To Talk About It || Lyrics || Rod Stewart
https://www.youtube.com/watch?v=MjxL3U2mCyg
(完)

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サイラス大王Cyrus the Greatの不思議


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サイラスCyrus二世、ペルシャ語クラシュKuruš、日本語キュロス二世、はアケメネス朝ペルシアの初代国王です。在位は紀元前559年頃 - 紀元前529年で、紀元前539年にオピスの戦いでナボニドゥス率いる新バビロニア王国を倒してバビロンに入城。捕囚されていた、ユダヤ人をはじめとする諸民族を解放しました。征服した土地の住民には寛大で、後世に理想的な帝王と仰がれ、ユダヤ人が祖国の地エルサレムに戻ることを許したことから旧約聖書で“メシア(救世主)”と呼ばれています。
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イランのペルセポリスから40Km北東のパサルガダエにはサイラスの廟墓があります。
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世界の七不思議のひとつ「ハリカルナッソスのマウソロス廟」のモデルにもなりました。サイラス大王が後世の統治者たちにも尊敬されていた証でしょう。

それではYoutube「ANCIENT CIVILIZATIONS Ancient Persia and Arabian Peninsula」のペルシャ部分をご紹介しましょう。
・・・・・・
紀元前4世紀、ペルシャ帝国の驚くべき都市。
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ギリシャ三大悲劇詩人の一人アイスキュロスAeschylusは「ペルシャ人」という物語を書いた。彼が描いたペルシャ人は傲慢で、しかし謙虚な人々だ。
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強く、攻撃的だが、マラソンMarathon(紀元前490年)、プラタイアPlataea(紀元前479年)、サラミスSalamis(紀元前480年)、の記念すべき戦いでは打ち負かされている。

ペルシャ人とはそんなにも呪われた、捉えどころのない人々だったのだろうか?それとも彼らの敵によって書かれた歴史が真実を隠しているのか?
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19世紀、今のイラン、古代のペルシャにおける2万5千ほどの考古学的場所から、ギリシャ人が遺した記録とは相反するように思われる記述や記念碑が発掘され始めた。古代ペルシャの都市の石や壁に残され、何年もの間、解読することが出来なかった記録が、少しずつ、秘密を語り始めている。それではこれから2千5百年前の、果てしなく広がるペルシャ帝国の秘密の窓を開け、ペルシャが世界の中心だったころの様子を見てみよう。
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世界の遠く離れた場所からやって来る、様々な衣装を着けた人々の姿、異国情緒のある動物、貢物、象の角、土器、織物、ライオンの毛皮、が並ぶレリーフ。
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ペルセポリスを発掘していた考古学者たちは、これらを見て頭を悩ますことになった。なぜ、遠く離れた場所に暮らす、こんなにも沢山の異なる民族の人々を一つの作品に描いているのか?
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その答えは少しずつ明らかになってきた。
象牙とオカピを持っている人々はエチオピア人だ。ヒトコブラクダdromedaryはアラプの典型的な動物で、先がとがった帽子はシーア人だ。
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アッシリア人は荷車を引いている。驢馬を引き連れているのはインド人だ。階段の壁に彫刻された、全部で23カ国もの人々は歴史の中で最初の偉大な帝国とも言えるペルシャ帝国の様子を現していたのだ。
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人々の誰もがこの地ペルセポリスを首都と定めていたのだ。

広大なペルシャの領域はアフリカ大陸からインダス川まで広がっていた。肥沃なエジプトやスーダンの土地や、ヨーロッパのシーア人Shiitesやトラキア人Thraciansも。アラビアやティグリス・ユーフラテスの間の土地バビロンを占領し、東北方面には、今日のウズベキスタンまで広がり、南東はインド全域まで渡っていた。その中心にあったのが、全ての中の華(はな)、ペルシャだ。
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数十年の間、これらの記録は考古学者の関心を引き付けたパズルだった。
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楔形文字で書かれていることに加えて、記録は3つの異なる言語(エラム語、古代ペルシャ語、アッカド語(新バビロニア語))で書かれていたのだ。

イラン北西部のベヒストゥン山頂付近の人が近づくことも困難な場所にレリーフが残されていた。英国軍人サー・ヘンリー・ロリンソンは危険を顧みず、岩肌の文字を書き写した。
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(mh:ダリオス1世が反乱軍の王ガウマタ(スメルディスを名乗った)に対して勝利したことを記念するレリーフ。命乞いをする9人の指導者の面前でガウマタを踏みつけている。最後尾のとんがり帽子はサカ王Skunkha。王の後方はボディーガードや戦士。)

それは、彼の仕事の中でも簡単な部分で、その後、文字の解読に10年もの年月を注ぎ込むことになったのだ。しかし、偉大な考古学者のおかげで、1835年、謎は解明し、全く新しい世界が学者達の前に開けて来た。ペルシャ人がペルシャの歴史を、自らの作品を通して語り始めたのだ。
(mhこの碑はエジプトのヒエログリフの解読で有名なロゼッタ・ストーンの役目を果たしたのです。)

ギリシャ人歴史家ヘロドトスは、“ペルシャ人は他国の習慣を、他のどんな人々よりも、あるがままに受け入れている”と書いている。恐らく一種の侮辱を暗示しようと書かれたこの記述は、実際には、ペルシャ人のもつ素晴らしい美点を表わしている。
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ここはパサルガダエだ。羽根を持つ守護神ジーニーが、エジプトの頭巾を付け、典型的なアッシリア人の姿で描かれている。
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このジーニーが見つかったのはアッシリアやエジプトではなく、ペルシャなのだ。このジーニー像や他の証拠は、一体化された世界の概念と、そして恐らく一体化に対する願望がペルシャから生まれ、帝国の多くの人々が異なる場所で異なる生き方をする喜びの基礎を築いたのがペルシャ人であることを示している。
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パサルガダエは紀元前553年に造られ、帝国の最初の首都となった。
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その後、スサSusaやペルセポリスPersepolisの方が王に好まれるようになって放棄されるが、決して衰退してしまうことはなかった。
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このような石碑記録は当時からずっと残されてきた。
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“私はサイラスCyrusだ。アケメネスAchaemeneの流れを汲むものだ。”
この言葉も、アッカド語(バビロニア語)、エラム語、ペルシャ語の3ヵ国語で書かれていて、見た人々に、サイラスとは最も偉大な世界の支配者の一人だろうとの思いを抱かせる。

これがサイラス大王の墓だ。何もない所から果てなく広がる帝国を数年で創り上げた男だ。
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サイラスの時代、アジア経済は拡大していて、人々は安定を望んでいた。人々は異なる民族の間に起きていた混乱を終わらせたがっていた。一つにまとめ上げられた世界への願望が広く行き渡っていたのだ。今日、このような考えを、我々はエキュメニズムecumenismと呼ぶ。当時、この概念は統一された帝国を意味した。最初にその資格を持って現れた人物こそサイラス大王だったのだ。
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ペルシャで神に貢物をしたいと思った人は、きっと落胆しただろう。というのは、寺院といったものがなかったのだ。パサルガダエのように、祭壇なるものものは大地の丘の上にポツンと置かれていただけだった。
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生贄のために燃されたと思われる火の跡は、今も明確に残っている。他の証拠と共に、これらの発見は考古学者達がペルシャの宗教の性質を理解する手助けとなっている。

ペルシャ人にっとっては空、大地、そしてそれらの中にある全ての創造物は全て神だった。そして生贄は寺院のような閉じた建物の中で行われるものではなく、開けた空の下で行われるものだった。彼らは生贄を太陽、月、大地、火、に捧げた。これらは最高の神の化身で一神教の始まりの神と考えれているアフラ・マズダー (Ahura Mazdā)の一部だった。
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しかし、ペルシャ人は帝国の人々にアフラ・マズダーを信じるよう強いることは無かった。崇拝は自由だった。誰もが祭壇の上の生贄を、自分が欲する神に捧げることが出来た。

これがスサだ。イランにおける最も重要な考古学的な場所の一つだ。
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ここで発見された記録文は紀元前4千年に遡る。何年もの発掘調査で明らかになったのは、町の断片だけだ。
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しかし、多くの建物の基礎や巨大な石柱や柱頭は、スサがペルセポリスと同じ華麗な宮殿都市だった証だ。
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歴史記録によれば紀元前512年、ダリオス1世の統治下で、スサは発展してペルセポリスと共に、美しい首都となった。しかし、なぜ、2つの首都があったのだろう。
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海抜1千5百mにあるペルセポリスは冬の大半、雪で覆われ、政府機能は不全だった。しかし、ペルシャのような大帝国を統治する以上、気候が悪くなったからといって政府機能を停止させるわけにはいかない。そこで、冬の間、正統な政府機能をスサに移していたのだ。
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スサで、考古学者は、大きな絵の一部だと直ぐわかる、釉薬で焼いたタイルを見つけた。断片を並べると、タイルは物語を語り始めた。

手が込んだ上着、黄金の装飾、槍(やり)、弓、矢筒。こんなに豪華に装飾されたこれらの戦士は、一体誰だろう。
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スサの発掘作業は1884年に始まった。最初はこれらの戦士は上流階級に属する兵士たちだと思われていた。フランス人のユニフォア(?)夫婦がヘロドトスの記録の内容と照らし合わせてみると、ペルシャ帝国の人間の姿をした守護神の一人の像だと判明した。伝説のインモータルだ。
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帝国を守る守護神は1万人いた。一人が戦いで倒れたら、次の守護神が直ぐに引き継いだ。
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それはあたかも、不変恒久のごとき(immutable)だった。そこでインモータルImmortalsという名前が生まれたのだ。
(mh:immortalはmortalの対義語で“不滅の”を意味する英語です。で、mortalは“死すべき運命の”、つまり、不滅ではない、生命の、人間、といった意味になります。)

神々が守る王は、統一国家、命令を課すことが出来る権力、を代表していた。帝国内のいくつかの地方では、彼は神だとさえ考えられていた。エジプトで彫られ、スサで発見された、この像の台に刻まれている文は、その証拠だ。
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“ダリオス大王。あなたには力と平安が与えられていて、全ての平地と山岳はあなたが履いているサンダルの下に集められている。あなたには神ラーと同じ崇拝が、上エジプトと下エジプトから、いつの時代でも与えられている。”
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世界で最も重要なものの一つ、ペルセポリスという華麗な考古学的遺跡は、2千年mの間、知られることは無かった。
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ペルシャの首都を陥落したことを祝って酒に酔いしれたアレキサンダー大王の軍隊が建物を破壊した後は、何世紀もの間、時間と砂がペルセポリスを埋め尽くしていた。
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発掘された場所の一つはかつて王宮が建てられていた所だ。しかし、その周辺では、召使たちの家や、技能工たちの作業場や、王宮の生活を支えるための全てが集まった都市が、発掘され、更なる秘密を解き明かす時が来るのを待っている。
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この4.5Kgの黄金の銘板は帝国の憲章で、ペルセポリス建設の様々な段階について考古学者たちが理解を深める手助けをしている。
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建物の跡をこの記録に照らし合わせて調べることで、新たに発掘した各々の場所をどの皇帝が造ったか明確にできた。
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一番最初に造られ、ペルセポリスの核とも言えるものは、ダリウスが建てた王宮だ。
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一部はギリシャに打ち負かされた彼の息子クセルクセスXerxesに引き継がれた。隣の建物は完全にクセルクセスが建てた。
残る部分はダリオス3世に到るまでの後継者たちによって造られた。
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これらの発見は、特にギリシャ人エスキラスのペルシャ劇によって我々に伝えられた“アジアの土地に暮らす人々は、もはや彼の言葉に従わなくなった。どんな賛辞も捧げられなくなった。王の偉大さは過去のものになったのだ”という言い伝えを覆すものだ。
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全てが事実と異なっていた。ペルセポリスは皇帝エスキラス以降も繁栄し輝いていたのだ。帝国の凋落や衰退はなかったのだ。考古学者は帝国の祝賀、拡大、偉大な瞬間、を表わすレリーフを解読している。そのことだけでも、帝国がどれだけ強力で堅固だったかを我々に教えてくれる。古代ギリシャ人が我々に残した野蛮なイメージとは正反対のものだ。
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この古代記録は、異なる人々からなる使節団の行列の様子を描いたものだと考えている。
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人々は自慢げな顔をして、ペルシャ人の儀式担当官に導かれ、王の中の王による式典に参列しようとしている。彼らが手にしている高価で象徴的な捧げものは、一般的に王の好みで捧げものを指定した歴史的に偉大な皇帝たちとは異なる物語を語っている。

しかし、最も大きな啓示は人々の行列の隣に彫られたこのレリーフから得られる。イメージは間違いなく、何かを象徴しているものだ。しかし、何を意味するのだろう。
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ペルシャの暦の天文的なシンボルと比較すれば、しし座Constellation of Leoが牡牛座Taurusに交替しようとしていることを示している、と考古学者は確信している。このようにして春の最初の日に“ノーレス”として知られる祭りが祝われていたのだ。当日、人々は首都にやってきて、世界の中心地にテントを建て、帝国最大の祭りが始まることになる。行事は王宮の内外で執り行われる。王宮内に招待された人々には御馳走が振る舞われる。
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ペルセポリスの王宮にはレセプション用の大ホールが2つある。一つはアパダナApadana、もう一つは“百の柱の間”と呼ばれていた。
王宮の建物に入ることを許されていたのは帝国内の各地から来た使節団と王宮で働く者たちだけだった。
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使節団は偉大な階段を登り4m高い所に造られたアパダナに入っていく。
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王宮の扉や柱は彫刻が施された石で飾り付けられ、同じような石の飾りは、ペルセポリスの他の場所でも豊富に配置されていた。壁はというと、テラコッタで装飾されていた。

アパルマは謁見の間として知られ、1万人を収容できた。
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混乱を避けるため、儀式の間は共通のエラム語が使われた。フェニキアのアルファベットを使ったセム語を語源とする言葉だ。ペルシャ官僚の公用語で、エラム語を使うことで多くの民族を一つにまとめ上げようとしていたのがペルシャだった。
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使節団の大行列が整列し終えていた頃、王は大広間に通じる塔門を通って進んでいった。
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塔門の扉にある人々によって高々と支えられた王の像は、大広間で何が行われていたのかを連想させてくれる。

王は信頼できる側近たちと会い、帝国の組織変革と、新たな決定を行っていた。会議を開催して、新たな道、新たな海路、重さや寸法の軽量に関する新しいシステムの確立、金と銀の2つの金属を一体化した共通通貨の採用、などを決めていた。
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塔門に到る南北の扉は王の住居に続いていて、召使いに付き添われた王が往来するレリーフが彫られている。
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王とその直属の部下たちは階段の上の王の住居に入っていった。ダリオスの王宮の中では、行儀よくしていないと王を守っている犬に襲われることになる。
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晩餐の様子はこの一連のレリーフに示されている。
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ここで発見された皿は、贅沢な生活を裏付ける貴重な金属で造られている。
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属州の長で軍隊の長でもある王は、彼の家族または最も信用できる人々に新たな役職を任命し、見事な贈り物を報奨として与えた。
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報奨のひとつの例は黄金の剣だ。テヘラン博物館が所蔵している。
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食後、王と側近は、各地からの使者が貢物を王に捧げる“百の柱の間”に向けて移動した。王を祝福すべく広場で待ち構えていた属州の代表者たちは大広間で儀式に臨んだ。
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大広間では、誰もが王に近づけるわけではなかった。時には、王をちらっと見ただけで満足しなければならないこともあったはずだ。
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“百の柱の間”に置かれた王座に着くと、足元には贈り物が並べられた。玉座はカーテンで囲まれ、外からは見えなかった。
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10列で各列10本配置された100の柱は、高さ19mあった。王を見ることが出来ない不運な人も、ペルシャ帝国の広大さを思い起こさせる部屋の魅力を堪能したはずだ。
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柱の上では神話上の動物が、王の町や人民を守るかのように見下ろしていた。
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ペルセポリスから数Kmの場所で、考古学者たちは正方形の基礎をもつ高さ12m程の建物を見つけた。
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何のためのものか、学者達の間で議論は続いているが、今もってミステリーのままだ。もともとの言われが判っていないだけではなく、ナシルースターという山の近くにあることが理由だ。
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山の岩肌には飾りが彫刻されている。奇妙な十字架、人間の姿、文字。山の中に彫られた、入口が地上からかなり上にある4つの部屋。
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幾つかの仮説があった。火の寺院だというもの、見張りの塔だというもの。最も魅力的だと思われる仮説は、そこがかつて図書館か、神聖な教本が保管されていた場所だだったというものだ。

岩壁の方は、よく見ると人の像がある。これなら考古学者には何のためのものか理解しやすい。
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王の死を悼(いた)むペルシャ人の姿だ。ナシルースター山の十字架はダリアス1世および彼の直系の後継者たちの墳墓だったのだ。
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ダリアス、偉大な征服者、インドからエジプトまで、ペルシャ帝国を拡大した男。
彼は、自らの姿や、政治的な発言が精神的な経典となり、山に彫り残される最初の王になった。ペルシャの本当の歴史が書き記されたのは、山の上で、本の中ではなかった。
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“悪意を持って成されていたことを、私が善と化した。地方は混乱し、人は人と敵対していた。そこに私が平和をもたらした。私の法律は、強者が弱者を害することを止めた。私は長年、崩れたままの城壁を修復し、今から未来にかけて守りとなる新たな城壁を造った。アフラ・マズダは私を、私の王宮を、私の言葉を守護するであろう。”
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以上がYoutube「ANCIENT CIVILIZATIONS Ancient Persia and Arabian Peninsula」の古代ペルシャ分の紹介です。
https://www.youtube.com/watch?v=QgcT1FqMRac

ところで、ブログのタイトル「サイラス大王Cyrus the Greatの不思議」としたのは、前回のブログ「ネビュカネザの不思議」と関係して、バビロンを打ち負かし、幽閉されていたユダヤ人捕虜を解放し、ユダヤ人が記したヘブライ聖書(旧約聖書)に救世主として名が記されたサイラス、という視点から、彼の偉業を調べることが目的でした。
しかし、このまま終わるのでは、サイラスに関する説明は不十分でしょう。そこで、Youtube「The Cyrus Cylinderキュロス(サイラス)シリンダー」(日本語:キュロスの円筒形碑文)をご紹介しておこうと思います。
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バビロンで見つかりました。長さ22cm、直径10cmで、表面には楔形文字でアッカド語が記さています。大英博物館の所蔵品です。
・・・
このシリンダーに書かれた内容を見た瞬間こそ、恐らく、多様な文化をもつ国々を、統治者が、歴史上で初めて、どのように管理するかを考えていたのか、について我々が気付いた時と言えるだろう。
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私の後ろに在るのは“サイラス・シリンダー”として知られているものだ。
焼かれた粘土で造られ、2千6約年前、バビロンの建物の基礎に埋められた。
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表面に記されているのはバビロンを征服したペルシャ王サイラスへの賛辞だ。彼がしようとしていることを告げている。
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紀元前539年、バビロンはボシャザによって統治されていた。ボシャザとネビュカネザは共にバビロンの王で、イスラエルからユダヤ人をバビロンに連行し、他の民族とともに幽閉した王だ。
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ペルシャ王サイラスは、今、これらの人々を自由にしようとしている。人々が祖国に戻り、自らの宗教に従った生活を再開することを許している。異なった場所で、異なった人々が、異なった宗教を信仰するのだ。ペルシャは、異なる言語、異なる信仰を受け入れた、世界で初めての帝国だ。

このことから、サイラスは、異なる人々、異なる信仰からなる社会を創り、統治していこうという人々から参考にされる人物となった。それは特にアメリカ合衆国にとって重要だった。何故なら18世紀、異なる13植民地を集めた国家をどのように作るかを考えていた建国の父たちFounding Fathersは、サイラスを参考にしたのだ。
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トーマス・ジェファーソンはサイラスを勉強し、孫にもサイラスを学ぶように伝え、合衆国の憲法は、ある意味でこのシリンダーに書かれた内容を直接受け継いだものだと言える。
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シリンダーに書き記された内容は偉大な歴史の一部であることを感じてほしい。極めて寛容な帝国が中東で生まれていたのだ。ペルシャ帝国の思想は合衆国の思想と極めて近いと言える。
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我々が創る作品が偉大な点の一つは、それが我々よりも長い年月の間、生き続けるということだ。つまり、作品は多くの異なる命をもつことができる。
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その命の全てにおいて、異なる世代の全てにおいて、作品は異なる意義を獲得することができる。従って、その意義は、時の経過と共に豊かにもなれる。このような観点から見た時、最も突出した作品の一つが、サイラス・シリンダーだと言える。
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凡そ2千5百年前のもので、粘土で造られた小さな樽のような形で、表面は楔形文字で覆われている。1879年、バビロンに派遣された大英博物館の調査団によって今のイラクで発見された。サイラス・シリンダーを理解するには、それが造られた世界を知ることから始めなければならない。イラン、当時のペルシャ、が全権を握っていた世界だ。

物語はキリストが生まれる550年前、ペルシャ帝国の創始者サイラス大王と共に始まった。
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サイラスは、ペルシャとメディアMedia(現イラク北西部)を統一した後、現トルコのリディアLydiaの王クロエサスCroesusと戦い、これを打ち破ると直ぐに、西の強力なバビロン帝国を壊滅する。紀元前539年、首都バビロンを包囲すると、ほとんど抵抗もないまま、町は陥落した。サイラス率いるペルシャは古代世界の超大国になったのだ。

サイラスがバビロンを征服することは預言され、ユダヤ人の預言者ダニエルDanielによって旧約聖書の中に記載されていた。その当日、バビロニアのバルシャザールは宴(うたげ)を開き、エルサレムの寺院から持ってきた神聖な黄金の容器を使って祝っていた。すると突然、奇跡的にも、“お前は天秤で体重を測定され、渇望していることが確認された。お前の王国はメーデとペルシャ人に与えられるであろう。”という手書きの文字が壁に現れたのだ。
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この出来事から、“壁に描かれた言葉”という言い回しや、レンブラントの偉大な絵画“バルシャザールの宴”が生まれた。

偉大なバビロン帝国は消滅した。サイラスはバビロンの人々に向けて、粘土のタブレットに書かれた宣言文を示し、バビロン侵略を正当化している。その一つの例はこのタブレットだ。
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これと似た多くのタブレットが出回っていた。今に伝わるこれらのタブレットにはサイラス・シリンダー同様、特徴的な表現が記録されている。

サイラス・シリンダーは、そこに刻まれた記述内容をバビロニア人に伝えることを目的としていたことから、バビロニアの言語セム語で書かれている。ヘブライ語やアラビア語やアラメイク語とつながりがある言葉だ。サイラスの部下の官僚は典型的な楔形文字を使って記述していた。古代イラクで紀元前3千年頃に発明された文字だ。
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スタイラスと呼ばれる箸(はし)のような棒を、乾燥した、しかしまだ少し軟らかい粘土に押し付けて記録する。文字は短い線の配列や組合せで構成され、言語が現す音を示している。一文字づつ記録され、読み手は粘土に表されたこれらの音を組合せて文章を読み取る。
シリンダーのある行には“私はクラシュKurash、シャー・キシャーティで世界の王、偉大な王、バビロンの王だ”と書かれている。
ではクラシュ(サイラスのペルシャ語)という言葉を楔形文字で書いてみよう。
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(省略)
シリンダーの文章の前半ではサイラスの徳とバビロン進攻の大儀を褒め讃えている。第30から35行で、サイラスが近代的な自由主義の発想を持つ偉大な指導者だったことが判る。サイラスがバビロンを征服して行った最初の行動の一つは、捕えられていた人々の解放だった。このことは彼の統治に関する思想の現れだ。まさにこのことがシリンダーの表面にも記録されている。それはユダヤ人の歴史において重要な瞬間だった。バビロンの川辺で何年間も涙を流して暮し続けていた彼らが、今は解放され、エルサレムに戻って寺院を再建することを許されたのだ。バビロン幽閉から解放されてエルサレムに戻るということは、第二の寺院を再建してユダヤ教を形成することに対するサイラスの許可を意味する。以降、帰還という概念はユダヤ人の生活や神話の中心に置かれることになった。デイビッド・ベンゴリオンやそのほかの人々も書いている、“サイラスは、敵に対する慈善の精神、あらゆる宗教に対する独特な寛容、を示した。サイラスこそがザイオンZion(mhエルサレム/シオン)に初めて戻ることについて決定的な判断を与えた偉大な人物だ。”
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サイラスの帝国は崩壊してしまったが、彼の思想は残った。サイラスは統治者の鏡だ。サイラスに対する見方の原型はギリシャ人歴史家ゼノフォーンXenophonから来ている。彼が書いた本“サイロペディアCyropaedia”は、サイラスをモデルとした帝国の運営方法に関するものだ。
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ルネッサンス時、とても人気があった本で、アメリカ建国の父たちにも持て囃(はや)された。ジェファーソンは、ゼノフォーンの“サイラスの人生”を2冊、恐らく3冊、持っていて、常に参照していた。つまりサイラス・シリンダーとアメリカ合衆国独立の間には、極めて強い関係があると言える。
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サイラス大王によって創られたペルシャ帝国は、後のダリアス大王の下で最盛期を迎え、アフリカのリビアからインダス川のパキスタンまで広がっていた。それは今も残る中東という概念の始まりでもあった。我々が今、近東Near Eastとか中東Middle Eastという言葉を使う時、それはまさにペルシャ帝国だった場所について語っているのだ。
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私の後ろにあるレリーフはペルシャの首都ペルセポリスの王宮のレリーフのコピーだ。これには帝国の様々な人々が、様々な貢物を運んでいる様子が描かれている。
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まさに帝国の多様性を示す完璧な象徴と言えよう。誰もが固有の貢物を持っている。他の帝国と異なり、ペルシャ帝国は、人々やその慣習を破壊して一つのものを押し付けることはしなかった。ペルシャ帝国は習慣や生活様式や言語や信仰の多様性を認め、これらの共存を認めた。それは目まいがする程の多様性をもつ帝国をどのように統治するかに関する偉大なモデルとなった。
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とても広大な地域だったので、これを管轄するためには新たな試みや技術が導入されねばならなかった。古代ペルシャの楔形文字や、宝石や金銀の容器の加工技術や、アラメイク語、硬貨の普及などだ。
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サイラスが併合した王クロエサスが統治するリディアLidiaは、当時、繁栄していた国だった。サイラスはリディアの金銀の硬貨を真似て“クロエサイドCroesides”という硬貨を造ることにした。表面に牡牛に襲い掛かるライオンが刻まれている。
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この硬貨は紀元前522年のダリアス大王の時代まで使われた。ダリアスは全く新しい“黄金のダーリック”を導入している。ダリアスに因んで名付けられた硬貨だ。
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それに“銀のシグロスSiglos”も。
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こちらは、ヘブライ語では“銀のシェケルShekel”(イスラエルの現在の通貨)となっている。ダリアスは自分を有能な射手、有能な騎手、有能な槍の使い手、と呼んでいた。従って、コインに刻印された射手の像は、ペルシャ人がコインにしたがったイメージだったのだ。

この腕輪は一対になっていたもののうちの片側だ。
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端部のグリフィンGriffin(mh鷲の頭と羽根、ライオンの体、をもつ神話の動物)は、恐らくゾロアスター教におけるベラグナVeragnaという鳥を表わしている。
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表面には沢山の小さな孔が彫られて貴石、ガラス、または有色タイルを埋め込んだ。アケメネス朝の特徴的な技法だ。当時、腕輪は特に貴重な外交的な贈り物で、4つの使節団が貢物として運ぶ様子がペルセポリスのアパダナのレリーフに記録されている。
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オクサスOxuxの宝物(オクサス川近くで見つかった宝)の中には、“黄金の額”とも言える魅惑的な奉納品がある。
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そこに描かれた像は、恐らくフェルトで造られた軟らかい帽子を被っている。顎(あご)にかかっている覆(おお)いは恐らく、口まで持ち上げて使う事もあるものだ。この人物が、火の前で宗教的な行為や儀式を行う時、彼は神聖な火を守り、汚してはならなかった。彼は奉納された木の棒“ボーサムbarsom”を持っている。

我々はアケメネスの人達がゾロアスター教徒だと考えている。古代の宗教で、預言者ツアラツストラZarathustra、ギリシャ語でゾロアスターZoraster、から名付けられた。多くの神々が敬われていた時代、預言者ツアラツストラが現れ、“アフラ・マズダAhura Mazdaが全ての創造主だ”と説いた。
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これはサイラスの後に現れ、帝国に安定した行政と資金的な基礎を確立したダリウス王の公式な“封印Seal”だ。
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王はライオン狩りをしている。
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(mh円筒状のSealシールを粘土板の上で回転させて文様を浮かび上がらせます。)

彼の上の方には、ゾロアスター教の神でアフラ・マズダだと考えられている、人間の頭を持ち羽根が付いた像が描かれている。添えられた説明文は“我はダリアス、偉大な王”と、古代ペルシャ語、エラム語、バビロニア語の3つの言葉で書かれている。これら3つの言語に、時にはエジプトのヒエログリフも加わった記念碑的な公用語は、帝国の文化の多様性を示すものだ。

我々がペルシャ帝国に関して知っている情報の発信地は全てギリシャだ。つまりペルシャの敵によって書かれた歴史と言える。20世紀のアメリカの物語を、ソビエトから得た情報だけで知るようなものだ。だから、このサイラス・シリンダーが重要なのだ。そこにはペルシャ人がペルシャ人として世界に向けて語りかけている言葉が記されている。サイラスからの直接的なメッセージなのだ。1879年、サイラス・シリンダーが発見された時、サイラスとシリンダーは、それまでとは全く異なる論争を巻き起こすことになった。政府についてではなく、記載されている内容の信頼性についての論争だ。19世紀の中頃は記述の真偽や権威が疑われていた時期だった。ダーウィンが進化論Evolutionを書き、地質学の発見はこの記述が信頼できるものかどうか、人々に疑いを抱かせていた時代だ。
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シリンダーは、バビロンの神マドックがサイラスにのり移り、導いたと語っている。ヘブライ聖書は、軍事攻撃を指揮したサイラスを統治していたのはイスラエルの偉大なる神だと言っている。サイラス・シリンダーに書かれていた内容に従へば、ヘブライ聖書は年代記であり、事実とは別のもので、一つの軍事攻撃が、祈祷師たちの翻訳によって2つの異なる表記として現れた結果と言える。つまり、ヘブライの記述は、もっと広い中東全域における宗教的伝統の一部だと言えるだろう。(mh;何を言いたいのか不明ですが、ヘブライ聖書の記述は嘘だ、と極めて間接的に暗示しているようです。)

しかし、サイラス・シリンダーが現代の出来事に与える影響は始まったばかりと言えた。
1971年、ペルシャ王国設立2千5百年の記念式典があった。
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イランのシャーShah(王)は古代の首都ペルセポリスと、サイラスの墓廟があるパサルガダェで豪華な式典を開いた。
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記念式典におけるパフラヴィー2世(パーレビ国王)
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サイラス・シリンダーは式典で公式のシンボルとして使われた。シリンダーは再び新しい物語を産むことになったのだ。イランの歴史にシャーの称号を再現し、シャーを偉大な伝統の中心に引きずりだした。シャーを保証するサイラス・シリンダーだった。
シャーとシリンダーが表裏に刻印された硬貨が鋳造された。
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しかし、直ぐに、シャーは消滅することになる。革命的なイラン人達はシャーよりもイスラムの歴史を望んだのだ。
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イラン・イラク戦争以来、サイラス・シリンダーは全てのイラン人の連帯の象徴となった。2千5百年前にイラクと戦い、勝利したことを思い起こさせるために。シリンダーはペルシャがユダヤ人を解放し、彼らがエルサレムに帰ることを可能にした瞬間を輝かせる価値をも持っているのだ。

2010年、サイラス・シリンダーがテヘランで展示公開されると、およそ50万人の人が訪れた。イスラム教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、誰もがだ。
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そしてそれは、とても限定的な議論に焦点を当てることになった。今日のイランとは何か?今の、未来のイランを形作る歴史とは何か?

熱が入った議論の中で、最も説得力や影響力があるものの一つは、議論に口を挟むことがなかったサイラス・シリンダーの“声”だと言えだろう。
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new beginning for the Middle East: The Cyrus Cylinder and Ancient Persia
https://www.youtube.com/watch?v=iokGgmrOj4Q&list=PL1Zr6sb7aD_HSu-vyHVxpfhwhLJbY37eL&index=10

Wiki:キュロス・シリンダー
キュロス・シリンダーは、1879年にホルムズド・ラッサム(英語版)がバビロンのマルドゥク神殿を発掘したときに発見した断片で、35行からなるアッカド語の刻文が記されていた。これに続く36行目から45行目までをイェール大学が所蔵していることが後に明らかになった。冒頭の3行は破損していてほとんど読めない。

刻文の内容は、まずバビロニア王(ナボニドゥス)がマルドゥク神に罪を得たことを述べ、怒ったマルドゥク神がアンシャン王であったキュロスに世界の王としての地位を与えたと記す。キュロスはマルドゥク神の命令によって諸国を征服し、バビロンに無血入城した(1-19行)。

ついでキュロスの一人称による記述になり、キュロスはテイスペスの子孫たる自分の家系を記す。キュロスはバビロニアの民衆に安寧をもたらすものであること、マルドゥク神がキュロスとその軍隊を祝福していると述べる。各地の王が貢ぎ物を持ってキュロスを訪れてひざまづいた。キュロスは信仰を奪われた各国に対してその神々の像を返し、ナボニドゥスがバビロンに連れ去った各地の住民を元の国に返した。キュロスは諸国の人々がキュロスとカンビュセスのために祈るように命じた。

最後に、自分が多くの生贄をささげ、またバビロンを囲む城壁を築いていることを述べている。バビロンの町の建設中にアッシュールバニパルの碑文を発見したことが記されている。

キュロス・シリンダーの文章は、それだけ読めばキュロス2世によるプロパガンダの文章であるが、旧約聖書の歴代誌下36章、エズラ記の1章および6章、イザヤ書44章に見える、キュロスがバビロン捕囚でバビロンに移住させられた人々を解放し、神殿の再建を許した記事を裏付けるものとして注目された。ただし、キュロス・シリンダー自身はとくにユダヤ人については何も記していない。

以上でYoutube、Wiki情報による「サイラス大王の不思議」の大団円にするつもりでしたが、サイラスの紹介はまだ少し不十分のようですので、「Wikiキュロス二世」で彼の一生を手短にまとめておきましょう。

誕生は紀元前600年頃。メディア王国(現イラン、アフガニスタン、トルクメニスタン)に従属する小王国アンシャン(ペルセポリス近辺)の王子だった。
紀元前559年、王となり、紀元前552年にメディア王アステュアゲスを打倒。
次に不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた軍団を率いて小アジア(トルコ)西部のリディア王国に攻め込み、紀元前547年、リディア王クロイソスを打倒。ヘロドトスによればその時キュロスはクロイソスを火刑に処そうとしたが、クロイソスがアポロンに嘆願すると突如雨が降って火を消したため、キュロスはクロイソスの命を助けた。以降、クロイソスはキュロスに参謀的な役割で仕えた。
紀元前540年にスサを陥落し、エラム王国は滅亡した。
東方各地を転戦して征服し、紀元前539年にナボニドゥス率いる新バビロニア王国を倒した。
彼はさらに東方辺境に転戦し、東はヤクサルテス川(シルダリア)から西は小アジアに至る広大なペルシア王国を建設した。
ヘロドトスによると、キュロスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人(カスピ海とアラル海の間の地域)との戦いで戦死したという説を伝えている。

で~サイラス廟があるパサルガダエには4枚の羽根を持つ、神格化されたサイラス像が残されているようです。
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Youtubeでは、この像(?)を“守護神ジーニー”と紹介していますが、サイラス自身が守護神だったということかも知れません。
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(ペルセポリス)
(完)

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mh徒然草108:トランプ氏を大統領に!

【8月2日 AFP】
米CBSニュースが1日発表した最新の世論調査によると、大統領選に向けた支持率で民主党候補のヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)前国務長官が共和党候補の実業家ドナルド・トランプ(Donald Trump)氏を7ポイント引き離した。
調査は先月(7月)29~31日に実施。支持率はクリントン氏が46%だったのに対し、トランプ氏は39%だった。
クリントン氏の大きな課題である「好感度の低さ」が克服されたわけではないものの、党大会後にそれがいくぶん緩和したことを示す結果となった。今回の世論調査ではクリントン氏を「好ましい」とした回答者は5ポイント増の36%、「好ましくない」と答えた人は6ポイント減の50%だった。
トランプ氏を「好ましい」とみる人は31%で、共和党大会前とほぼ同じ。一方、同氏を「好ましくない」とした回答者は52%に上った。

mhが思うに、世論調査の質問は次の通りです。
あなたはクリントンとトランプのどちらを支持しますか?
クリントン46%、トランプ39%、その他15%
あなたはクリントンを好ましいと思いますか?
思う36%、思わない50%、その他14%
あなたはトランプを好ましいと思いますか?
思う31%、思わない52%、その他17%

これから、次の怪しげな推定が生まれます。
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米国民の30%は“クリントンもトランプも好ましい人物ではない”と考えています。
残る70%のうち、半分(35%)+αはクリントンが、半分(35%)-αはトランプが、好ましいと考えているのです
これを大胆に、細かな矛盾には目をつむって結論付けると、「どちらが大統領になろうとも、国民の65%近くは、新大統領は好ましくない人物だと考えている」となります。

アメリカの複数のマスコミ部門が毎日(?!)行っている支持率調査結果の変化がみつかりました。
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9月3日時点の支持率はクリントン46%、トランプ42%と僅差です。
クリントンの優位は4月から続いていますが、差は縮小している感じですねぇ。クリントンの好ましい面はいくら探しても見つからないから支持が減少、トランプの暴言は出尽くして支持が上昇、との局面に入ったからでしょう。

11月に本選が行われますが、mhの見立ては、何度もお伝えしたように、トランプの勝利です。クリントンが大統領になっても事態は何も改善しません。だから、何か面白い事をして、現状を変えるだろうトランプに、人々の期待が集まるのです。

トランプの暴言や過激思想がそのまま実施されたら世界は混乱するでしょうが、これまで通りアメリカに頼る防衛や経済が良いとは思えません。アメリカがトランプを次期大統領に選出し、それを機に世界各国はアメリカとのしがらみをすて、他国や近隣諸国と新しい関係に入る。それは世界の進展に役立つと思います。頑張れトランプ!

Kitaro ......AQUA
https://www.youtube.com/watch?v=xwmDe0OhhPs
(完)

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ネビュカネザの不思議


ネビュカネザNebuchadnezzar(Wiki;ネブカドネザル(2世))とは?いつ頃、何処で、何をしていた人物か?

今からそれをご紹介しましょう。

恐らく、キリスト教徒が多い欧米では、良く知られた男だと思います。というのは旧約聖書が生まれる原因を造った男がネビュカネザなんですね!彼が統治していた帝国の首都はバビロンBabylon。現在のイラクの首都バクダッドの南80Kmにあった古代都市です。
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川が上(北)から下(南)に流れています。ユーフラテスの支流で、灌漑水路などを経由し、海に注いでいます。良く見ると、直径3百mの3つの円丘が正三角形の頂点の位置に見受けられます。高さは15m程で、恐らく、再開発で生まれた土砂の廃棄場でしょう。
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更に一部を拡大すると・・・
川岸の円丘の直ぐ東(右)の黄ピンにバビロン市街が、その南には、池に囲まれた一片50mほどの正方形の土地が見えます。
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バビロン市街の城壁にはイシュタール門Ishtar gateのレプリカが!!!?
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本物のイシュタール門(!?)はベルリンにあります。
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Wiki:ネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar)
新バビロニア王国の2代目の王。在位;紀元前605年 - 紀元前562年。

彼の在位とキリスト教との関係は?

記憶力の良い読者諸氏なら、ネビュカネザに攻略され、エルサレムからバビロンに連行されたユダヤ人の捕囚がヘブライ語で書いた“聖書”、ユダヤ教徒が言う所のトーラー、を思いつくのではないでしょうか。

つまり、ネビュカネザがエルサレムを攻略し、ユダヤ人をバビロンに強制連行しなかったら、旧約聖書が生まれることは無く、従って、今のユダヤ教、キリスト教、イスラム教も生まれてこなかったのです。

ネビュカネザの在位時、都市バビロンは最盛期を迎えたといいます。その後、ペルシャに併合され、ペルシャを滅ぼしたアレキサンダー大王がマケドニア帝国の首都と定めたのですが、大王はバビロンで夭逝(ようせい)しました。

で~、ブログ冒頭で述べた“バビロン跡に残るイシュタール門はレプリカで、本物はベルリンにある”とはどういう意味か?

実はバビロンの遺跡が見つかった時、それは完全な廃墟で、イシュタール門は跡形すらなかったんです。その本物がベルリンにあるってことは???

それではYoutube「Nebuchadnezzar IIネビュカネザ2世」をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
イラク人は彼を国家的英雄と呼ぶ。しかし、聖書は彼を狂気の男と記している。バビロンの伝説的な男ネビュカネザとはどんな人物なのだろう。伝説と神話はバビロン神話の中で一体になった。
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メソポタミア。“川の間の土地”は、ユーフラテスEuphratesとティグリスTigrisの間、かつて文明が生まれた所だ。2千5百年以上も昔、巨大な都市がこの中心で生まれた。バビロンだ。
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統治した男は、バビロンを世界の不思議の一つに仕立て上げた。その男こそネビュカネザだ。
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ユーフラテスの王によって造られた建築物は、例えば巨大なバベルの塔のように、後世の人々の想像を刺激する神話になっていた。
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今日では瓦礫が残るだけだ。しかし近代の考古学者は残された瓦礫の欠片から失われた都市を理解することが出来る。
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最新技術によって数千個の古代のタブレットの上に刻まれた楔形文字の情報が保存されている。
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世界で最初に生まれた筆記文字とも言える楔形文字は現代の科学者たちなら解読でき、失われた都市バビロンのイメージは今、まさに甦(よみがえ)ろうとしている。
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科学者たちは、ネビュカネザとバビロン人の宇宙論cosmologyをより深く理解しようとしている。

The Babylon Mystery ; Nebuchadnezzar
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ネビュカネザの世界は、1百年前、レバノンで発見され始めた。フランス領事オーリー・ファニヨンは古代の芸術的な宝物を求めてエルヘルナン地区を探索していた。当時、植民地の行政官たちにより、沢山の探検が行われていた。19世紀は偉大な発見の時期だった。何処に行っても、新たな、重要な発見があった。伝説都市トロイも発掘されていた。エジプトのヒエログリフも解読できるようになっていた。そして10月のある暑い日、オーリー・ファニヨンは後日、考古学の上で驚愕とも言える発見をした。
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ファニヨンは、かつて広大なバビロン帝国が地中海岸近くのこの地点まで広がっていたという仮説について調査をしているうちに、その証拠を発見したのだ。石の壁に、ライオンを手で制している男の姿が彫り出されていた。絵と共に刻まれていた文字によれば、男はバビロンの王ネビュカネザだった。夕暮れ迫る中で、ファニヨンは世界を驚愕させることになる写真を撮影した。
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これがこれまで見つかった最も古いネビュカネザの姿だ。
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風化した石のレリーフの発見は古代の神話と伝説を一体化し現実化した。

ネビュカネザによって統治されていた王国はユーフラテスとティグリスという2つの偉大な河の恩恵を受けていた。
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2千5百年前のネビュカネザの時代、芸術作品は当時の最高傑作ばかりで、中には人々の奇妙な姿を模(かたど)った像も生まれていた。
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シュメール人は革命的な発達により培われた完全に新しい文明を創っていた。紀元前3千年頃に発明された楔形文字は、ネビュカネザの広大なバビロン帝国で最盛期を迎えていた。新しい技術は南の古代都市ウルUrukから、北のメソポタミア全域、さらに北、そして地中海沿岸やパレスチナ文化圏まで広がっていた。
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ネビュカネザの王国はエジプトやエルサレムまで広がる、正真正銘の帝国だった。

エルサレムはデイビッド(ダビデ)の聖なる都市で、全てのユダヤ人の古代の故郷だ。
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しかし、2千6百年前は今のような巨大都市ではなかった。周囲を城壁で囲んだ、せいぜい数千人のユダヤ人が“寺院の丘”を中心とする狭い地域に居住するだけの町だった。

ネビュカネザはその城壁に孔を明けて神聖な都市に攻め込んだのだ。古代のレリーフがその戦いを描いている。
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バビロニア軍は砦塔(注)を使って町の城壁を剥がし取ったのだ。
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城壁の中にいた防衛軍はバビロンの軍事技術を上回ることは出来なかった。
(注:砦塔;台車の上に砦の城壁と同じ高さの櫓(やぐら)を組み上げた移動形の塔)

侵入者たちは金属の鎧をまとい、投石器を使い、念入りな計画を立てていたのだ。極めて効果的なもので、数千の射手による雨の如き火矢の打込みが行われていた。ネビュカネザは彼の軍事総力を駆使して最大の戦果を得た。数千の敵兵は討ち死にし、生存者は罪人としてバビロンに連行された。
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それはユダヤ人にとって悲惨な大惨事、神の激怒だった。バビロンは“氷の熱いベッド”として知られるバベルがある恐ろしい幽閉の地に思えた。

今日、バビロンの名残はイラクで見受けられる。しかし、20世紀初め、以前の大都市の名残と呼べるのは基礎の石と瓦礫だけだった。建物は築20年の最近造られたものばかりだ。
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しかし、これらのイメージ遺跡(?オイディプース Oedipus)は1百万の住民が暮らしていた古代都市の、ある種の壮麗と栄光の概念を思い起こさせてくれる。タイルで飾られたバビロンの重厚な城壁は古代の7不思議の一つに数えられていた。世界の二番目の不思議として称賛されるべきものもあったと言われている。ネビュカネザの愛人セミラミス王女の空中庭園だ。セミラミスが歴史的に実在していたのか、どんな女性だったのか、は都市を巡る御伽噺(おとぎばなし)のような伝説の中に隠れてしまっている。
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ネビュカネザの死後1百年程してバビロンを訪れたと考えられているギリシャの歴史家ヘロドトスは首都に魅了された多くの人の一人だ。彼は、バベルの塔の目的については想像しかしていないが、その伝説的な大きさに感激している。
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想像力を極限まで膨張し“通りの幅は16mで城壁は25mの厚みがあり、都市は96Kmに渡り広がっている”と記録に残した。
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このおかげでユーフラテスの河岸にある大都市は、前世紀(20世紀)の初めドイツ人考古学者ロバート・コーディユイが事実かどうかを調査するまで、ずっと魅惑的な伝説の町となっていた。
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コーディユイが到着した時、古代都市バビロンがあったと言われる場所は、吹きすさぶ風で砂漠の砂が積み上げられた瓦礫の丘が見渡す限り広がっていた。しかし、コーディユイはその下に伝説のバベルが埋まっているはずだと確信していた。
発掘を始めて直ぐ、広大な都市の城壁の残骸が現れ、確信は新たになった。“首都バビロンだけが、このような強力な防御施設を持っていたはずだ。”
コーディユイはヘロドトスが記録の中で称賛していた城壁の残骸を見つけたのだ。
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バビロニア人は当時の驚くべき技術成果とも言える、瀝青(れきせいbitumen)を使った、湿度に強いタイルを城壁に採用していた!
コーディユイは伝説の都市の全てを掘り出したいとの願望に憑りつかれ、以降18年間、第一次世界大戦の際中も、ほとんど休むことなく作業した。
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今日でも彼の後任者たちはシャベルや鋤(すき)を使って発掘を続けている。
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コーディユイが発掘していた場所から50Km離れたシッパーSipparで、発掘チームは考古学的なセンセーションを巻き起こす新たな発見をした。ネビュカネザの時代からの図書館だ!ここで、考古学者たちが探しているものは芸術作品とか貴金属品ではない。もっと価値のある宝物、つまり文字が刻まれたタブレット(石板)だ。
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使われている楔形文字は数千年前のもので、ネビュカネザの時代、バビロニア人が考え、信じていたことが記録されて残されている。
考古学者達は3百以上もの粘土板、権利や習慣、神話や政治など価値のある記録、を掘り出すことが出来た。
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“シッパー図書館”を見つけ出したことは、文字通り、知識の宝の発見だ。しかし、そのためには、まずは“知識”を解読しなければならない。

文字記録を解読する作業は時間との闘いだ。バクダッド博物館のソンマーフェルト教授のような楔形文字の専門家が10年以上も古代のタブレットを自分の目で確かめながら調べている。
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粘土のタブレットは羊皮紙よりも経時変化を受けて傷つきやすく、地中から彫り出された瞬間から温度や湿度によってしばしば短時間の中に割れて粉々になりがちだ。そうなるとバビロンにおける生活の様子を記した宝物は塵(ちり)となってしまう。
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記録にはバビロン帝国の生活の詳細が記されていた。
発見された物の中に、2千5百年前、恐怖や驚愕で慌てふためいた人々の記録があった。月食the eclipse of the Moonだ。粘土のタブレットは月が消え、町中の祈祷師が松明に火を灯(とも)した日について述べられていた。
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“人々は急いで家から外の通りに出て、着ていた服で自分を覆って視界を遮(さえぎ)り、人々の祈りや聖歌が町全体に満ち渡った。王の兵士たちは黒い泥に手をいれ、手に付けた泥を顔全体に塗りたくった。”
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この方法だけが、バビロニア人がシンと呼んだ神である月を再び人々の前に現す方法だと信じられていたのだ。

今も、小さなイラクの博物館でウォルター・ソンマーフェルトと同僚たちは集められた粘土板の研究をしている。風化した表面に記録された過去は、考古学的調査を進める者にとって驚くべき発見に満ちた宝物だ。
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ソンマーフェルト「粘土板は古代バビロンの失われた文明に光を当ててくれる。シュメリア人、バビロニア人、アッシリア人は紛れもなく優れた記録者たちで、手紙や日常の出来事、当時使われていた科学的な知識の全て、文学、神話など、可能なもの全てを記録に残していた。今日、我々が知る全ては粘土板から得られたものだ。これまで数百万の粘土板を入手している。我々はイラク中で1億以上のタブレットが今も地中に埋められていると見込んでいるが、解読が済んだものは発見したものの25%でしかない。」

そんなにも沢山の多くの情報を持った粘土板があるとしたら、考古学者達がネビュカネザの遺産を最新技術の助けを借りて保存することに熱心なのは驚くことは無い。
古代オリエントの知識はホログラフィック・フォトグラフィと呼ばれる技術でガラス板に永遠に保存されている。ミンスター大学の物理学研究所で開発された技術で、レーザー光線が粘土板の記録の表面を走査し、鏡システムで文字のイメージを乾板上に移し替えてから、特殊な現像工程で情報を乾板に焼き付ける。
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すると、粘土板は3次元映像として映像乾板上に再現されるので、専門家は楔形文字の細部の特徴も調べることが出来る。
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解読には欠かせない要素だ。ホログラムの映像解分解度は極めて高いので、楔形文字の中で特殊な文字が使われていても、オリジナルを傷つけることなく顕微鏡を使って解析することが可能だ。その上、ホログラム情報はインターネット上に掲載できるので、解析チームは世界中で、同時に作業することもできる。
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古代バビロンの知恵は今日ではコンピュータ画面の上に提供されている。それらの中にはバビロンの日常生活が宗教的な信仰に強い影響を受けていたことを示す古代の生贄儀式の説明がある。
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更に、聖書に記されている、バベルの人々が示した無信仰への報酬の物語が、敵対的なプロパガンダ以外の何物でもないことを裏付ける記録もあった。生贄の儀式では、全ての手順は詳細に定められていた、祈祷師が手を洗うために使う油、生贄となる動物の爪や歯のどこを調べるべきかも。
身分の高い祈祷師は、月が昇る時、赤い羊毛と色がついた石で造られたネックレスを身に付けていなければならなかった。
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その時だけ、生贄の動物の体を割いて肝臓を取り出すことが出来た。肝臓の状態は、帝国や王の未来の良し悪しを表わす神の啓示だと信じられていた。

たった150年前まで、ドイツ人考古学者ロバート・コーディユイは“バビロンの古代文化は吹き渡る風に乗って飛び交う砂に隠されて埋まっている”と書いていた。今でも、専門家は数千の記録がバビロンの土の下に隠されていると考えている。
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コーディユイは書いている「廃墟は私に聖書の中の預言者が述べた呪いを思い起こさせる。“バビロンにこれ以上居残ってはいけない。誰も再び住んではならない。”」
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聖書の呪いは本当に現れるのだろうか?そしてコーディユイは1百年後、バビロンのミステリーに光を当てる新しい方法が生まれることを想像できたのだろうか、ロケットを含めて!
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ロシアのソユーズは調査衛星を大気圏外に打ち上げた。冷戦時代、この技術は宇宙から写真を撮り敵の国土を密かに探るために使われた。宇宙船は150の衛星画像を地上に持ち帰った。その一つに北緯32度、東経44度の場所がある。イラクの領土内のある場所だ。
モスクワの“レニングラード・プロスペクト47”と呼ばれる一画。
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かつてソビエト軍事情報局の司令部があった。東西冷戦の終結に伴い、敵国をスパイ調査するために使われていた衛星写真が研究目的で解放された。
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専門家はこれらの鳥瞰図から価値のある情報を得ることが出来る。破壊され、長年地下深く埋められたままの構造物の外観が、植物分布や色の変化として衛星写真の中に現れることがある。
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地上から270Km離れた衛星カメラが見つけ出した小さなものが考古学者の目によって新たな情報に生まれ変わった。古代都市バビロンだ。コンピュータを使ってイメージを拡大すると長い間、見失われていた都市の全体が見え始めてきた。

上の左には最近つくられたサダムフセインのパレスがある。その右はコーディユイが発掘した地域だ。
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遺跡のイメージはこれまで考古学者達が調査した狭い地域だけを示している。
しかし、実際には、ネビュカネザの都市はこの衛星写真が示すイメージよりもずっと広かったのだ。今日、再生されたイメージの面積のおよそ60倍はある!
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そして空中からは一つの形が明確に見える。伝説となるべき建物、バベルの塔、の跡だ。
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今見えるのは池だけだ。
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映像を見る限り建物の基礎は正方形だ。つまり中世の画家たちの“創造”は彼らの“想像”でしかなかったのだ。
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バベルの塔は円形ではなく、基礎の上に建てられた正方形の構造物だった。高さは恐らく1百m以下だろう。
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偉大な構造だったというバベルの塔は、これまでずっと人々の想像を掻(か)き立てて来た。都市バビロン以上に知られることになった塔は、崩れ落ち、その後際限なく繰り返された誇張の象徴になっていたのだ。

歴史記録家の祖ヘロドトスは、ネビュカネザの息子が帝国を引き継いでから始まった都市崩壊で、半分だけ残されたバベルの塔を見たのかも知れない。王室の面々が行列を組み、見事な塔の頂きの青い寺院を目指して登り始めている様子をヘロドトスは頭の中の目で描き出していたのだろう。
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寺院は都市バビロンの守護神マドックに捧げられたものだった。ヘロドトスはマドック寺院に登ることは天国や星々の世界に登ることを意味し、何層もの構造で出来た寺院の最も高い場所にマドックが棲んでいると記録している。

ヘロドトスは彼の想像を更に広げて、次のように描いている。
“そこでは、黄金のベッドに神の配偶者でバビロニア人の処女が横たわっていて、時々、夫で、バビロンの偉大な神で、全てを知っていて全てを見ている神マドックも現れる。”
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ヘロドトスが記録に残した幻想的な説明は、当時のバビロンで繰り返し語られ、今は廃墟に沈んでいる話から生まれた想像と現実が混じり合ったものだった。
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今日、バベルの塔の寺院はほとんど残っていない。それらは全て瓦礫になっている。しかし、バビロンの町からも見えるボーセパーには、別の巨大な塔遺跡が天に向かって聳えている。
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専門家たちはこれらの塔は、当時、大寺院であるだけではなく、バビロニア人天文学者が星の動きを研究するための絶好ポイントだったと考えている。しかし、ネビュカネザと彼の天文学者たちは宇宙を眺めながら単に自然科学を研究していた訳ではない。彼らは天球を神々と見なし、永遠の力に支配された宇宙における星々の運動が、地上の現実世界におけるあらゆる面を反映していると信じていたのだ。天体は神であり、星、太陽、月、そして当時知られていた5つの惑星、の挙動が地上における生活の未来を見せてくれると信じていた。
ミュンヘンのドイツ博物館のプラネタリウムでは、プログラムで動作する投影システムを使い、2千5百年前のバビロンにおける夜の状態を見ることが出来る。
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プラネタリウムの人工の天球には、数千の星がネビュカネザに見えたように現れる。バビロニア人は星の運行に地上の天変地異の兆候が表れると信じ、何百年もの間、毎晩、星のグループ、特に天国への門に立っている双子のジェミニ(Gemini双子座)の動きを観察していた。
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アクエリアス(Aquarius水瓶座)は地上における水の流れの全てを司ると考えられていた。半分人間で半分馬のサジタリアス(Sagittarius射手座)は戦や苦境時における力強い味方で、神話の牡牛タウルス(Taurus牡牛座)は全ての町を破壊することができるとして特に恐れられていた。

バビロニア人は今日の占星術astrologyを発明した人々だ。彼らは天空を、黄道Zodiacの12星座(十二宮)に分け、星の動きを記録した。
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磨き上げたこのような水晶のレンズを提案し、望遠鏡の基になる技術も獲得していた。
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数学に対しても高度な知識を持っていた。幾何学的な文様が刻まれた石板はピタゴラスの理論(mh三平方の定理)が既に知られていたことを証明している。
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この理論はバビロンで有名な建築の一つで、女神イシュタールに捧げられた青い“市門City Gate”に影響を与えていた。

ベルリンへの電報の中で、コーディユイはタイル煉瓦の独特の美しさを称賛している。“青い釉薬の煉瓦”は梱包され、ベルリンに輸送され・・・
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洗浄され分類された。
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この煉瓦を使ったイシュタール門の再現はベルリンの博物館島で始まった。初めて造られてから2千5百年後、5千Kmの旅をしてネビュカネザの偉大な市門は再現したのだ。
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門には多くの動物がバビロニア独特の姿で描かれていた。
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神の召使いとしてバビロニア人に崇拝されていた動物のイメージは“行列通りProcessional street”の壁を飾り上げ、訪れる全ての人々を町の中心まで導いていた。
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汚れのない青いタイルが、灼熱の砂漠から奇蹟の町に入ってきた人々に与えた印象は、どれほど大きかったことだろう。
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煉瓦には青い釉薬がかけられていたが、この特殊技術は2千5百年前、どのように行われていたのだろう。

化学者ステファン・フィッツは、セラミック専門家アンドレア・フリッチャーと共同で、バビロンのタイルの欠片をスペクトル分析計にかけ、その謎を解いた。
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手始めの工程がとても重要だった。砂と野菜灰vegetable ashから採取したソーダを適切な比率で混ぜたものを加熱してガラス状にし、釉薬のベースとして使う。
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今日ならコンピュータで管理された窯kilnを使って必要な温度950℃を確保できるが、当時のバビロニア人はどんな方法で温度を管理していたのかは解明できていない。

冷えてガラス状になった釉薬は、次の工程のためにグラインダー粉砕され粉末になる。そこに微量のコバルトと酸化銅が加えられ、これらの化学物質の組合せ比率に応じた固有の、輝くような青を生み出す。しかし、古代バビロニア人はどんな手法で微量の鉱物を計量したのだろう。今日、適切な調合のためには、科学者たちはミリグラム単位の精度の調薬用天秤ばかりを使う必要があるのだ。粉末に蒸留水を加えてよく混ぜ、クリーム状の液体にすると釉薬は完成する。
フィッツ博士「バビロニア人が成し遂げたこと、つまり建物や城壁を造り、これらを飾り上げたということは、驚くべき技術成果だ。釉薬も使っている。バビロンには釉薬の原料が十分は無く、別の地域から持ち込んで作ったんだから驚きはなおさらだ。」
釉薬を煉瓦にかけ、今回は1千℃以上で12時間、焼いて固めれば青いタイル煉瓦の完成だ。
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バビロニア人は間違いなく釉薬煉瓦の匠だった。イシュタール門だけで2万個以上もの釉薬煉瓦が使われていた。門は天空の青を映し出し、輝いていただろう。
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門を抜けている道は神々の道、つまり“行列通りprocessional way”で、煉瓦に刻印されていた説明文から、新年の祭りが行われていた通りだと判明している。
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ネビュカネザは“神マドックとナーブのために、私は通りの飾りをアスファルトと焼き煉瓦で固めて仕上げ、その上には輝く塵を振りかけて配した。神よ、この通りを歩きながら楽しんでほしい。”との祝詞(のりと)を数千のタイルの上に刻印していた。
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バベルの塔、イシュタール門、行列通り、は全てバビロン人が信仰する神々に捧げた、まさに儀式的なものだったのだ。

古代の粘土板には大寺院における地鎮祭の様子が詳細に記されている。油、ミルク、ビール、棗椰子(なつめやし)など、人々が生きるための食糧は、王や祈祷師が神の土地に建物を造るための捧げものとして使われ、その土地に信仰の恩恵を植え付けていた。神への重要な捧げものとして、クリーム、蜂蜜、ビールが基礎の石に注がれた。この、神聖な石の上に、粘土を焼いて造られた神の使者の像が据えられた。像は全て、手に神の力の象徴の“金属の棒”を持っていた。
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神を喜ばせるために口を香料のジュニパーjuniperで拭いた生贄の羊が捧げられた。土壌から生まれた神聖な穀物としての精製された白い小麦粉を使者の像の上から振りかけたら、像を基礎石と共に地中にうめ、その上に建てられる建物が成長と繁栄で満たされることを祈念した。

建物が崩壊して長い時間が過ぎ去った今日でも像は地中で生きて見つかっている。
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更にギリシャ人歴史家ヘロドトスはある儀式についても書いていたが、その意義を理解することに間違いなく失敗している。彼が訪れる遥か昔にバビロンの魔術文化は崩壊していたのでやむを得ないことかも知れない。彼がバビロンに着いた時に残されていたのは都市の城壁など、昔なら称賛に値する建物だったはずの跡だけだ。
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ヘロドトスはバビロン人たちの呪縛にかかっていたのだ。それは彼が書き残した都市のサイズが過剰に誇張されていることからも判る。

科学者たちは新しい手法を使ってその根拠を確かめようとしている。この研究室では世界の第7番目の不思議の“バビロンの城壁”が200分の1のスケールで再現されている。レーザーカッターを使い、一度に何千もの小さな穴を明けて、当時ならタイルで造られていた壁の形を切り出している。
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過去に、このような近代手法でバビロンの町が再現されたことはない。
この新たな仕事は単に飾りとしてのモデルを造るためのものではない。実験考古学を適用するためのものだ。作業を進めると、ヘロドトスが記録したデータが正しくない事が直ちに判明してきた。ヘロドトスのデータに従って、例えば矢を射るための銃眼付き城壁のモデルを組んでみると、寸法が一致せずに不都合が起きた。
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都市の城壁はヘロドトスが記載した97Kmも広がっていなかった。19Kmだったのだ。更には、都市の主な煉瓦造りの建物はほとんどが1,2階構造でしかなかった。このモデルを使った実験では建物はほとんどが直角の角を持った形で造られている。バビロンは巨大な城壁都市として造られた。
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高さ12mの二重構造の城壁が都市中心部を取り囲んでいた。
プロメァー教授とモデル製作者は、当時使うことが出来た軍事技術に対してなら、城壁は無敵だったと確信している。町で暮らしていた多くのバビロニア人は、家の堅固さや、町の防衛力について全く疑いを持っていなかっただろう。
カメラは住民たちが毎日暮らしている町に対して抱いていただろう感情を見せてくれる。
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2千5百年前、このイメージに対抗できる町は何処にもなかった。
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ローマは小さな泥の小屋が集まる村でしかなかった。コンスタンティノープルは全く現れていなかった。初めてニューヨークに家が建てられた時より2千年も昔だった。ネビュカネザは“私が成したことは、私の前のどんな王も成し得なかったことだ”と高らかに宣言している。
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マーブラー(?)大学のサマーフェルト教授は、バビロンに暮らしていた人々がどのように彼らの神を讃える祭りを祝っていたかを推定している。
サマーフェルト「祭りは極めて印象の強い神を中心に行われた。祭りに現れた神の姿は極めて大きく、お祭り用の彩色が施されて明るく輝いていた。王は身分の高い祈祷師とともに祭りに参加した。人々は火が灯った松明(たいまつ)を持ち、歌を歌った。バビロンの祭りに参加することは出来ないが、インドで行われている祭りから当時の雰囲気を感じ取ることが出来る。」
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バビロンの偉大な“行進通りprocession way”は恐らく、これに似ている。東インドの人々の宗教的な祭りとネビュカネザの新年の祭りとの間には、かなり多くの類似性がある。古代の宗教的伝統は恐らくバビロンから直接、または他の地域を介してインドに伝わったのだ。インドで行われている祝賀行事と古代のバビロンの粘土板に記載されている内容を比較すると、驚かされる。古代バビロンの新年祭でも行われていたように、インドの祭りでは、お祭り用の装飾が施された古代の神の像が神聖な台車に据えられ、寺院の外で引き回される。
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王はネビュカネザの生まれ変わりのようだ。ネビュカネザの時代、王は神が定めたと言う規則に従って行事を行っていた。ネビュカネザがかつてしていたように、インドの王も台車をきれいに掃き清める仕草をしなければならない。この宗教的儀式は王の正統性と、王、神、そして人々との連帯を確認すためのものだ。町の全ての住民は儀式の中で陶酔していた。最後には、神の像の台車に繋がれたロープをみんなが掴んで、町の通りを引き回す。
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宗教は抽象的な概念ではなく、毎日の生活の中で生き、現れているものだったのだ。祭りの喧騒(けんそう)は2千5百年前のバビロンで行われていた古代の儀式を近代に置き換えたものだと考えていいだろう。
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ドイツ人考古学者コーディユイは1900年代の初頭、古代都市バビロンの一部を発掘し、以降、18年間、発掘を続けた。しかし彼は瓦礫と、煉瓦から推定できること以上のものを理解することは出来なかった。オリエントの古代世界は彼にとってミステリーのままだった。しかし彼の想像は、時には僅かながれきから巨大な宮殿を創り上げ、ある時、ベルリンへの電報で“私はセミラミス女王の空中庭園を発見した”と書いている。実際のところ、彼はネビュカネザの南砦の城壁遺跡以上のものは見つけてはいない。しかし彼の熱意は“この重厚な城壁なら3千年前のシリアの石のレリーフに描かれている空中庭園のような巨大な超建築を支持していたに違いない”と信じさせた。
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伝説のセミラミス王女のテラス状庭園は存在していたのか?それとも後年になって創造された御伽噺でしかないのか?

モデルの助けを借りて、考古学者であるマイクロ・プローマ教授は存在していたかもしれないことに気付いた。
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プローマ「正確な寸法比較と、注意深く組み上げられたモデルから検討していくと、空中庭園は実在していた可能性がある構造物だと判る。我々には、信じられない程の大量の材料が崩壊しないよう組み上げられ、かつ耐水性を持っていたという事実を直接的に確認することは出来ないが、彼らは鉛の板やタイルを池の底に敷き詰めたりし、出来ること全てをやっている。」
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「勿論それでどのくらい耐水性を持たせられたのかは判らない。しかし、信じられないような発想で、それまでに例がない無い手法だ。下まで流れて来た水は、また上まで吸い上げられている。つまり庭園の全域で、水は永遠に循環しているのだ。」

セミラミスの空中庭園は伝説ではなく現実性を持っていることが明確になった。イラクでは今も大きな水車が使われている。
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これを使えばユーフラテスの水を灌漑用に使う事が出来ただろう。このような公園施設はバビロンの栄光だったに違いない。強い特権の特徴だったであろう空中庭園は、オリエントの灼熱の砂漠の中では高さ1百mで聳えるバベルの塔よりも人々の称賛を浴びたかも知れない。しかしネビュカネザが愛していたというセミラミス王女の姿は歴史の事実の中には現れていない。彼女は伝説でしかない。
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古代オリエントで、セミラミス王女と空中庭園は一体化し、美しい都市のロマンチックな象徴を形作ることになったのだ。

神々の門を備えた古代バビロンは世界でも良く知られる夢の都市だった。しかし驚くほどの速さで崩壊した夢だった。きわめて強力な城壁が敵からバビロンを守ることがなかったというのは恐らく最も大きな悲劇ではないのだろうか。国は内部から浸食されて崩壊してしまったのだ。
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ネビュカネザの後継者ネボニダスが祈祷師たちによって退位させられると、バビロンは直ぐに歴史年代記の中の脚注でしかなくなったのだ。
結局、“都市バビロンは腐り、破壊され、その後はずっと、二度と人が棲めなくなった。人だけでなく家畜さえ”という聖書の中の恐ろしい予言は正しいように思われる。

以上が「Nebuchadnezzar IIネビュカネザ二世」の内容です。
https://www.youtube.com/watch?v=Y_9lZnzK-14

ネットで“聖書”及び“バビロン”で検索すると“エホバの証人”のホームページが見つかりました。
そこに次の記事があります。
「信頼できる預言」
北京<ペキン>,モスクワ,ワシントンといった大国の首都が人の住まない廃墟になると聞いたら,どう思いますか。まさかそんなことはない,と思うでしょう。しかし,古代バビロンはそうなったのです。西暦前732年ごろ,つまり200年ほど前に,エホバ神はヘブライ人の預言者イザヤに霊感を与えて,強大なバビロンの終焉に関する次のような預言を書き記させました。「もろもろの王国の飾り……であるバビロンは,神がソドムとゴモラを覆されたときのようになるのである。彼女は決して人の住む所とはならず,また,彼女が代々にわたって住むこともない」。―イザヤ 13:19,20。

神はなぜバビロンの滅びを予告なさったのでしょうか。西暦前607年,バビロニア軍はエルサレムを滅ぼし,生き残った者たちをバビロンに連れて行って,ひどい仕打ちを加えました。(詩編 137:8,9)神の予告によると,神の民は自らの邪悪な行ないのゆえに,70年間このつらい仕打ちに耐えなければなりません。その後,神は彼らを救出して,故国に帰還させてくださることになっていました。―エレミヤ 25:11; 29:10。

この預言の言葉のとおり,西暦前539年,ユダの70年間の流刑がまさに終わろうとしていた時,無敵と思われた都市バビロンはメディア‐ペルシャ軍に征服さ れました。やがて,バビロンは廃墟の山となりました。預言されていたとおりです。そのような劇的な変化を予告することは人間には不可能です。疑問の余地のないことですが,聖書の著者である真の神エホバは,出来事を事前に予告するという点で他のいかなる神とも異なっています。―イザヤ 46:9,10。

“名前まで予告されていた”
バビロンの陥落についての預言の中で際立っているのは,征服者となるペルシャのキュロス王に関するものです。キュロスが権力を握るより2世紀近く前に,エホバ神はその名に言及し,彼がバビロンを征服することを予告しておられました。

キュロスによる征服について,イザヤは霊感のもとにこう書きました。「エホバは,その油そそがれた者キュロスにこのように言われた。わたしはその右手を取った。それは,彼の前に諸国の民を従えるため,……彼の前に二枚扉を開いて,門が閉じられないようにするためである」。神はさらに,ユーフラテス川が干上がるということも予告なさいました。―イザヤ 45:1‐3。エレミヤ 50:38。

ギリシャの歴史家ヘロドトスとクセノフォンは,この驚くべき預言が成就したことを認めています。彼らの記述によると,キュロスはユーフラテス川の流れを変えて水位を下げました。その結果,キュロスの軍は,開け放たれていた門を通ってバビロンに入ることができました。予告どおり,強大なバビロンは「突然」,一夜のうちに倒れたのです。―エレミヤ 51:8。

エホバの証人と言えば・・・我が団地の部屋にも2,3ヶ月に1度、“エホバの証人”の上品な女性2人連れが訪れ、是非読んでほしいと言って、キリスト教関係の小雑誌を置いていきます。読むことがないのですが、本箱に一冊残っていて、見てみたら「マタイによる福音書」でした。パラパラめくると、ありました!三賢人が誕生したイエスを祝福するために訪れる場面です!本件は「東方の三賢人の不思議」(7月25日)にご紹介しましたが、内容は完全に一致していました、当然ではありますが。

で~バビロンを滅ぼしたペルシャ王キュロスというのは“キュロス大王Cyrus the Great”で、英語の発音はサイラスとなります。彼がバビロンを滅ぼすことになるのは、彼が生まれる1百年も前に聖書の中で予言されていた、っていうんですねぇ。信じられません。しかし、大王キュロス(二世)が生まれたのは紀元前6百年頃で、Wikiによれば彼は“紀元前539年にオピスの戦いでナボニドゥス率いる新バビロニア王国を倒した。バビロンに入城して「諸王の王」と号し、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。キュロスは、被征服諸民族に対して寛大であったので、後世に理想的な帝王として仰がれ、ユダヤ人を解放して帰国させたことから旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている(イザヤ書45章1節)”とありますから、サイラスによるバビロン征服の後、バビロンに幽閉されていたユダヤ人がヘブライ聖書にサイラス(キュロス)を救世主として追記した可能性は十分あるわけで、2百年も前に名前まで指名して予言していたっていうのは、いかがなものでしょうか。“信ずれば救われん”(聖書の“求めよ、さらば与えられん”の日本的な誤訳のようです)とも言いますから、信じていない者がどうこう言う筋合いはないのでしょうが・・・やっぱり、いかがなものかと。

さて、次回は、バビロンを滅ぼしたサイラスCyrusに関する不思議をご紹介したいと思います。
(完)

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