Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

エデンの園の比定


Wikiによるとエデンの園は旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記Book of Genesisの第二章に現れます。
<創世記の記述>
エデンEdenの園は「(エデンの)東の方」にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕し、守るために、神によって、そこに置かれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。」
「エデンを流れる1つの川は(エデンの)園を潤し、そこから4つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川(チグリス川)、ユーフラテス川)に分かれていた。」
「アダムとイヴが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)を食べたことから“人はわれわれのひとりのように(普通の人間に)なり、”その後、生命の樹の実をも食べたので、彼らを創造したヤハウェ・エロヒム(mh唯一神)は彼らが永遠に生きることを恐れ、エデンの園から追放する(失楽園)。生命の樹に至る道(月)を守るため、ヤハウェ・エロヒムはエデンの東にチェルビン(金星)ときらめいて回転する炎の剣(太陽)を置いた。」

エデンの園の位置の特定に関する要点に着目すると・・・
エデンの「東の方」に園があり、エデンを流れる1本の川は、エデの園を流れ、そこを流れ出ると4つの川に分かれて流れ続けたんですね。
4つの川のうちの2つ、チグリス川とユーフラテス川、は今も流れていますが、どこから流れ出ているかというと・・・トルコの東方、イランの西北、アゼルバイジャン近くの高原です!

エデンは実をたわわに付けた樹木が生い茂る楽園で、アダムとイヴが暮らしていたのですが、2人は大蛇にそそのかされ、彼らを創造した神ヤハウェの命令を破って知恵の樹の実(林檎?)を食べてしまったため、エデンの園を追い出されます。アダムとイヴから生まれた子供がどんどん増えて人間社会を形成していくのですが、また神のご機嫌をそこねることを人間がしてしまったので、神は大洪水を起し、箱舟に乗ったノア(mhアダムの子孫で、アダムから10世代目の男)の家族と動物だけが生き延び、水が引くとアララト山に漂着した箱舟から外に出たノアや動物の番(つがい)は、世界に拡散して繁栄し、今に至るっていう、それはそれは壮大な物語なのです。

今回のブログのタイトルは「エデンの園の比定」とさせて頂きました。
エデンの園の“特定”の方が判りやすいかとは思いますが、専門用語の“比定”の方がカッコ好いですからね。比定とは“他の類似のものとくらべて、そのものがどういうものであるかを推定すること”で、“エデンの園の比定”は“エデンの園の場所を、歴史や史実と比較検討しながら特定すること”となります。

熱心な読者の何名かは我がブログ「エデンの園の不思議」‘15・11・30でザリン博士の見解をご承知でしょう。彼がエデンと比定した所は、今、ペルシャ湾の海底です。
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上の図で示されるように、4つの川が合流して出来た1本の川がエデンに流れ込んでいたと言うんです。しかし・・・これはヘブライ聖書の記述“4つの川が流れ出る場所”に反しています。更に、4つの川のうち、ギホン川Gihonとピション川Pishonに相当するかもしれない川の痕跡は衛星写真から見つかるのですが、これらの川がどう呼ばれていたのかはわからないんですね。

Wikiにはエデンの園の比定の現状についても記述があります。
<エデンEdenの場所>
「エデンがどこであったのかについては、古来より様々な場所が主張され、議論されてきた。その中には、創世記に典拠がみとめられないものも少なからずある。
多くの説では、エデンがアルメニア(mh黒海とカスピ海の間の小国)の近くにあったと主張している。ユダヤ教の伝承によれば、エデンはエレバン(mhアルメニアの首都)にあったという。エレバンの近くにはノアの箱舟が流れ着いた場所との説があるアララト山がある。
その他の仮説として、紀元前3000年代~紀元前2000年代にメソポタミア-インダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがエデンの園のモデルとされる。ディルムンの位置については諸説があり不明だが、一説にはバーレーンのバーレーン要塞がディルムンの首都の跡地とされる。
他に、紀元前2600年 - 前2500年頃、メソポタミアにおいてラガシュとウンマという二つの都市国家(mhバビロン辺りにありました)が「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境界の意)」という肥沃な土地をめぐって戦争を繰り返しているが、このグ・エディンEdin(もしくはグ・エディン・ナ)がエデンEdenの園のモデルであるとする説がある。
他に環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)などの視点から、7万年前~1万2000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有る。」
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ペルシャ湾説の解説図も載せておきましょう。
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しかし・・・
「アダムとイヴがいたエデンの園」など実在していたのでしょうか?

大人気ないのですが、その答えは「否(いな)」と言わざるを得ません。神が土からアダムを創り、アダムの肋骨(ろっこつ/あばらぼね)からイヴを創ったなどという荒唐無稽な話が現実のものとは誰しも思ってはいないでしょう。アフリカ発祥の猿人が数百万年をかけて進化し、ホモサピエンスとなり、そして現人類になったのであって、神が土から創ったアダムとイヴが全ての人間の先祖である、なんていうことは断じてありません!
ならば、エデンの園も無かったと考えるべきでしょう。

しかしですねぇ・・・それらしい場所はあったと思うんです。何の根拠もなく“そこから4つの川が流れていて、その川の名前は・・・”などと空想して聖書の中で物語を創るより、それらしい実在の場所を思い浮かべ、そこを流れ出ていた川の名前や、土地の呼び名を、そのまま流用させて頂くか、そういう物語を読んで、内容を真似(mh盗作?)させて頂く方が、物語の作者にとっても苦労が少なくて済みます。アダムとイヴは現存していなかったが、1本の川が流れ、人々が平和に暮らす、実り豊かな樹木が生い茂る場所があり、その地から4つの川が流れ出ていた。その場所をエデンEdenと呼んで物語を創ったんじゃあないのでしょうか。
とすれば、作者が思い描いていた楽園、パラダイスのエデン、がどこに在ったのかを探求する作業はBiblical archaeology、つまり聖書考古学の範疇(はんちゅう)と言えます。

で、今回はYoutube「In Search Of Edenエデンを探して」から、前回とは異なるエデンの園の比定案をご紹介しましょう。プレゼンテイターの英国人考古学者デイヴィッド・ロールDavid Michael Rohlが1998年に発表した仮説を紹介する内容で、2006年頃にフィルム化されました。
・・・・・・・・・・・・
文明の起源は何だろう?それは、どこから始まったのだろう?
聖書の中に、土(つち)から創られ、神の姿をした男アダムとイヴ、そして、彼らが暮らし、後にその地上の“楽園paradise”から追い出されることになるエデンEdenという美しい園に関する物語がある。エデンの園から追放された彼らは人類の起源で文明の魁(さきがけ)になった。
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考古学は、この考えと異なり、人類は進化の賜物(たまもの)だという創造物語を語っている。文明は、男と女が初めて自分たちの周辺の自然界をコントロールし始めた新石器時代に生まれたのだという。科学と論理の出現に伴い、多くの科学者たちはエデンの園の物語を神話学分野の話だと見なしているのだ。

しかし・・・エデンの園の話は本当に作り話なのだろうか?それとも、それ以上の何かがあるのだろうか?旧約聖書の創世記を詳しく調べると、エデンの園が本当に、この目に見えている地上に存在していたことを示す手掛かりに気付くだろう。私はこれからあなた方を、楽園paradiseを見つけ出す旅に連れていくつもりだ。
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私はデイヴィッド・ロールだ。古代世界を研究している歴史家として、最近の25年間を世界における偉大な古代の伝説の裏に隠れた歴史に光を当てようと費やしてきた。今、私はあらゆる物語の中で最も古いと言われる伝説を調べるためにオックスフォード大学にきている。エデンの園という聖書の中の伝説だ。
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創世記によれば“神はエデンの東に園を創った”という。その園に神はアダムとイヴを住まわせた。しかし、彼らは大蛇に誘惑されて神の命令に背き、エデンから追放された。彼らはその後、繁栄する。息子のケネンは農夫farmerに、エイブルは牧夫shepherdになったという。
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人間の始まりに関する近代の世俗的な見方では、これと異なる、人類の歴史的、創造的な瞬間を説いている。更には今から7千年前、石器時代の農耕民や狩猟民が、果物や獲物を探して彷徨(さまよ)うのを諦め、農業集団として定住するようになったと言う。文化人類学者たちは、この大きな時代の変わり目を“新石器時代の革命neolithic revolution”と呼ぶ。
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人類学者リチャード・ラジェリー「新石器時代の革命の最中に物事は急激に変化した。人々は動物を自分たちの住家の近くの野原で飼育し始め、穀物を栽培し始めた。これが大きな飛躍点となり、歴史的な文明が造られる基礎となった。」

考古学も聖書も、何か特別なことが今から7千年前に起きたということについては同じ考えのようだ。アダムとイヴや息子たちのケネンとエイブルの神話についても同じ考えなのだろうか?それともこれは新石器時代の革命に対する聖書だけの見解なのだろうか?もしそうだとするなら、エデンの園は本当に存在していたのだろうか?
エデンが現実に存在し、それがどこにあったのかを示す最も重要な証拠の一つは、何世代もの間、我々を見続けているのだが、近年、我々はそれについて真面目に考えることに疲れ切っている。
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エデンの位置を特定する決定的な表記は創世記の中の第二章に見つかる。とても直接的かつ地理的な事実に基づいた説明で、奇跡などはどこにもない。

創世記「神はエデンの東の園に植物を茂らせた。」
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「そしてそこに、土から生まれた、神の姿をした男を住まわせ、園の中央には実を付ける生命の樹と、実を付ける善悪を知る知恵の樹を植えた。エデンから園に向かって流れ込む川は、そこで4つに別れた。第一の川はPishonと名付けられ、黄金に溢(あふ)れたハビラHavilahという名の土地を流れた。ダリアンDelianはそこで見つけた石を彼に見せた(mh?)。第二の川の名はGihonで、クシュCushと呼ばれる土地を流れた。第三の川の名はヒデカーHiddekelで、アシャーAshaの東に向けて流れた。第四の川の名はペラPerathだ。」
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これはとても情報に満ちた説明だと言える。恐らく最も重要なもので、我々に1つではなく、2つの場所に注目するよう伝えている。
1つはエデンと呼ばれる一帯だ。それが何処にあるのかに関する地理学的な手掛かりは沢山ある。もう1つは、我々が探している園Gardenは“エデンの東”にある!
(mh“エデンの東the East of Eden”と言いますが、これは“エデンと言う場所の東側の部分”であって、“エデンに東側に接する、エデンとは別の場所”という意味ではありません。つまり、エデンの中に、エデンの中央、エデンの西、そしてエデンの東、があるってことです。エデンの東端に接していれば“エデンの東”と言えますが、接しているならエデンと一体になっている訳で、エデンの一画だと考えてもよいでしょう。つまり“エデンの東”とは、エデンから離れた所ではなく、“エデンの一部”と考えても好いということです。)
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聖書はその場所が4つの川と強いつながりがあることを我々に伝えている。
我々は聖書に描かれていた2つの川、ヒデカーとペラ、については知っている。古代のメソポタミア、現在のイラク、を流れる有名な河で、ギリシャ人はチグリス川とユーフラテス川と呼んでいた。
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問題はいつも、残る2つの川、ギホンとピション、の特定だ。初期の教会学者はギホン川がクシュという名の土地を流れていたと理解していた。しかし、そのクシュはどこにあるのだろう?彼らが知っていたクシュはアフリカにある土地だけだった。ファラオが暮らす土地の南で、今はスーダン、エチオピアと呼ばれている。“とすると、ギホンはナイル川のことではないか?”と彼らは考えた。
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もしギホンがチグリス川やユーフラテス川から離れた川ナイルだとするなら、ピション川も離れた場所にあったと考えても好いかも知れない。そこで、彼らはインド亜大陸のインダス川やガンジス川がピション川ではないかと考えた。その結果、初期の学者たちは、エデンとはアフリカからインドまでの古代世界の全てを含む広大な地域だと結論づけた。しかし、これでは創世記の内容に整合しない。人類は神から罰せられてエデンから追放され、楽園の境界の外に行くように指示されたのだ。境界の外の地域が、アフリカからインドまでの広大な土地であった訳がない。もし我々がエデンと、そこにある園を見つけようとするなら、もっと違う広さの場所を考える必要がある。もっと狭い、もっと特殊な場所だ。

最近の学者たちは、エデンはチグリスとユーフラテスがペルシャ湾に向かって流れ出て、他の川と合流する場所ではないかと考えている。そこには、都合が好いことに、人類の文明の最初の痕跡が考古学的な証拠として出現しているのだ。
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しかし、どんなに都合が好かろうが、私は、彼らが正しいとは思わない。決定的な手掛かりは創世記の第二章の中にあるのだ。「河はエデンを流れ出て園を潤す。そこから4つの“頭head”に分かれる。」
ヘブライ語の“頭”はユダヤ人の新年“ロー・シャシャナ”に在るように“ルーシュRush”だ。新年の“頭;最初”を意味する。言い換えれば、年の“始まり”であって“終わり”ではない。
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従って、創世記の第二章の単語の解釈には2通りあるが、“終わり”ではなく“始まり”であって、4つ川の源、または頭、がエデンだと考えている。つまり、我々は高地の流域の、4つの大きな川の源が分散する場所でエデンを探さねばならないのであって、川が海の中に現れる場所ではない。
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チグリス川とユーフラテス川の源はトルコの東でイラン西の山地にある。もし、私の考えが正しければ、エデンがあるのはそこだ。
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そこには他の2つの川の源もなければならない。

古代メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な平地にあった。
創世記「エデンを流れ出た川は園を水で潤し、そこで分かれて4つの頭になる。:創世記2:10」
聖書はチグリス川とユーフラテス川がエデンを流れ出る川だと言っている。更に聖書は、存在が判らない2つの川をパイソンPison、ギホンGihonと呼んでいる。
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問題は、古代におき、チグリス、ユーフラテスと同じ水源から流れ出るこれら2つの川が存在していたのかどうかだ。

答えはもっと高い場所、宇宙から得られるかもしれない。人工衛星が撮影した映像はエデンの場所の比定の鍵になった。
ラビン博士「私がこの研究を始めたのは衛星映像が使われ始めた時だった。今では、その技術によって私は宇宙から何かを探すことが出来るようになった。もっと見やすい映像も手に入れられる。」
衛星は2つの川だけではなく、聖書にある4つの川の全てを見せてくれた。これらの川はシュメリアSumeriaで合流する。ギルガメシュ叙事詩の場所だ。
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ラビン博士「物語で述べられている他の2つの川は今は水が流れていないが、ある時期には存在していた。化石川とも呼ばれる。」

見つけだす唯一の方法は、そこに行って何かを発見することだろう。イギリスを発ってイランに向かうのだ。7千年前、人が文明に向かって歩き始めた場所に行くのだ。

楽園探求の旅は我々をオックスフォード大学の建物から4千6百Km東の、21世紀における強力なイスラム国家イランに連れていく。
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我々はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界の偉大な3つの宗教で存在を認められているエデンの園の追求するため、この地にやってきた。現在、イラン共和国はイスラム国家で、1979年、最後のペルシャ王朝の崩壊後に成立した。しかし、ここには長くて語るべき多くの輝かしい歴史がある。中東は伝説で満ちている。叙事的な伝説は神話と異なり、現実に起きた歴史的な出来事に基づいていることが多い。歴史家は、創世記の中の物語と明らかな関連を示す、極めて多くの伝説について熟知している。

人類学者リチャード「物語自体は古代世界で良く知られていた。古代の物語における人間創造の場面について興味深いのは、それらの話の後の時代になってから、聖書の創世記の中で神の活動の締めくくりとして人間創造が行われた話が現れているということだ。」
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そして古代の記録された伝説は聖書の物語と共鳴しているだけではなかった。メソポタマで発見され、大英博物館に所蔵されている、この驚くべき円筒状シールは4千年前のものだ。
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シールに隠されている像が粘土板に転写されると、そこに見えてくるのは、王座に座る男と、その対面の女、2人の間のたわわに実を付けた木、そして女の後ろにいる大蛇だ!
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これこそが、最も古い、アダムとイヴの存在を感じさせるものではないのだろうか?

このような場所にいると、突然何かを思い出すものだ。
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勿論、計画されていたことは間違いないだろうが、しばしば簡単に忘れ去られてしまっている。聖書は英語で書かれたものではなかった。これらの翻訳言語は余りに使い慣れ過ぎている。原典に遡って考えると、理解が全く異なることが多い。例えば、エデンの園に対する元々のヘブライ語は“ガム・デ・エイデン”だ。
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“ガム”はある固有の“園”で、壁などで囲まれた庭を指す。ペルシャ語にも囲まれた公園や庭を示す言葉“パリデイザ”がある。この言葉から我々の言葉“パラダイスparadise”が造られた。壁で囲まれた庭と、楽園の4本の川の遺産は、イランでは沢山見つかる。
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今、エスファハーンEsfahanの王宮のバルコニーに立っている。下に見えるのは王宮の庭だ。我々の話と関係がある庭で、壁に囲まれ、中央の大きなプールには泉がある。
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エデンの園の水の源と同じだ。そして、庭を4つにわけるようにプールから4方向に水が流れ、庭の外に向かっている。これがペルシャの典型的な庭だ。
この基本的な建築様式は、とても特別な建物にも反映されている。インドにあるタージ・マハールだ。しかし、どうしてペルシャの楽園の庭がインドに現れることになったのだろう?
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西暦1218年、伝説のモンゴル皇帝ジンギスカンはペルシャ帝国を一掃し、全てを戦利品として奪ってしまった。しかし、占領者たちは占領地が持っていた資質と文化に魅惑されてしまったのだ。ジンギスカンの子孫たちがインドにムガール帝国を創った時、ペルシャのパラダイスの概念をインドに持ち込んだ。
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それがシャー・ジャハーンによるムガール建築の傑作として絶頂期を迎えたのだ。タージ・マハールへ続く円形の入口の上には“お前はパラダイスに入ろうとしている”と書かれている。パラダイス庭園は4等分されている。中央にはプールがあり、中央から流れ出る4つの水路はエデンの川を表わしている。
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奥には光輝くタージの白いドームがあって、栄光の王冠を表わしている。それは、聖書の中の雪を被る神の山と同じだ。シャー・ジャハーンの華麗なパラダイスはペルシャの建築様式で造られていたのだ。
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しかし、ペルシャ人はどこで楽園の庭の概念を得たのだろう?ペルシャ一帯で生まれ育っていた、ずっと昔の伝説からではないのだろうか?

そろそろ、人間の文明の根源となった、イスファハーンの南のメソポタミア平原に向かう時間だ。多くの方言に悩まされる地域なので、ニザムが通訳をしてくれることになっている。
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我々はシュメール(Sumerスマー)の古代の土地を目指している。シュメール人は世界で最初に偉大な文明を創った。エジプトのファラオたちよりも古い。彼らの起源はベールで覆われている。
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しかし、紀元前5千年、“新石器時代の革命”の終わりの頃、彼らは創世記の2つの川チグリスとユーフラテスの川岸に沿ったメソポタミア平原に定住したことが判っている。そしてそこに地上で最初の都市を造った。シュメール人はジグラットと呼ばれる巨大な高台寺院も建造した。
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長く続く階段は最上階に設けられた都市の守護神が祀られている建物に続いていた。これらの人々が彼らの神々の山の住家とするために、平原に人工的な山を造ったのだろうか?そうだとすればシュメール人そのものが山岳地から平原のメソポタミアにやって来たことを暗示する。
これらの人々は北の土地にあるザクロス山脈との関連が強いように思われる。
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4千年前の旅行ガイド本に“エンメアカーEnmerkarとエラタの王”という題のシュメリアの叙事詩がある。シュメール人の王エンメアカーは遠く北に棲むミステリアスな支配者に使節を派遣した。使節の目的地は黄金と貴石で溢れているエラタ王国だ。創世記でもエデンのある場所では黄金と貴石が豊富だったと記述されているのだ。
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エラタ王国がどこにあったのかを知る人はいない。しかし、例え我々の旅が何処で終るか判らなくても、どこから始まったのかは知っている。粘土タブレットに刻印されていた物語によれば、使節の旅はイランの南西でカルカ川の畔(ほとり)の広い平原にある古代都市スーザから始まる。そしてそこは、5千年後、使節の足跡を辿(たど)りながらエラタに向かう旅を我々が始める場所でもある。
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シュメール叙事詩「敵のせいで王の言葉には熱が籠っていた。星の夜は星と、太陽の昼は太陽の神とともに使節は旅をして天国を目指した。」
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「スーザからアンシャン山脈までの登り道は塵(ちり)が舞う砂利道が続いていた。5つ目の門、6つ目の門、7つ目の門と、使節は通り過ぎていった。エラタに近くなったところで彼は眼を上げた。記念すべきエラタへの道を辿る彼の足は塵にまみれていた。小石の山を見上げると大きな蛇が平地をうろついているようだった。彼はそれに逆らわなかった。」
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エラタに向かう長い旅で、使節は7つの門を通過する。古代の“門”という言葉は山地を通り抜けるための峠(とうげ)とか峡谷を意味する。
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これも古代ユダヤ人の伝統の“天国への7段階”と関係が在るのかも知れない。この中世の象牙の彫り物の中には7段の楽園が現されていて、7つ目の天国にはアダムとイヴが木の脇で立っている像が彫られている。今日でも“楽園にいる”という意味で“7つ目の天国にいる”と我々は言う。
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シュメール人の文学を使うと聖書に書かれているエデンの場所が判るかもしれない。重要な手掛かりがそこに書かれているのだ。とても長い物語なのだが、物語の終わり近くで、使節は最終目的地エラタ王国に近づいていたことが記録されていた。彼は山を下り、麓の、うねりながら広がっている平地を目指した。エラタの平原だ。ここで使われている言葉が興味深い。シュメール人の言葉“エディンEdin”は多くの学者たちが聖書の“エデンEden”の語源だと考えている。
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アービン・フィンクル博士は大英博物館のシュメール専門家だ。
アービン「ヘブライ語のエイデンAidenから英語のEdenが生まれ、それはEdenまたはEdinと綴(つづ)られるシュメール語だったのは間違いないと思う。楔形文字で使われていた言葉で、草原を表わすシュメール語で、住居区とか町の外部で、耕作地を境界とすると、境界の外の一帯だ。そこを彼らはEdinと考えていた。」
つまりイーデンEdinとは単に平原とか耕作されていない土地を意味する言葉だったのだ。

ここからカーディッシュ山脈に入る。
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数千年の間、生活様式がほとんど変わっていない一帯だ。ここでは創世記に記された古代世界の雰囲気を感じることができる。車を飛ばし、エラタを目指して4つの門を通過して辿った今日の旅は終わりだ。恐らく使者が徒歩でひと月かけた道を一日で踏破できたのは好かった。
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しかし問題は、彼が、ここからどの方向に向けて発ったのか、我々には確信がないということだ。ここから近い所に素晴らしい場所がある。そこが出現したのは今から2百年もしない近年のことだ。残念だが今回の旅ではそこを訪れる予定はない。

もしエデンの園が存在していたのなら、それはザグロス山脈の奥深くにあったと私は確信している。我々が目指している場所だ。
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我々はエラタという山岳の王国を目指して王の使節が辿った足跡に沿って旅をしている。7つの山岳地帯を越え、彼はエディンEdinと呼ばれる土地に到着した。そここそがシュメール人の言う、聖書のエデンEdenの場所ではないかと私は考えている。しかし使節の叙事的な物語は、もし英国軍人ヘンリー・ローリンソン隊長Captainの努力が無かったなら、我々の役には立たなかった。1844年、ローリンソンはペルシャの古代遺跡を探検していた。ヘヒスタンの岩山の岩肌の高い所に、彼はペルシャ王ダリオス1世が遺した記述を見つけた。
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彫刻された絵はダリオスが政敵を打ち負かし、ペルシャの正統の王となる場面を描いていた。この遺跡で重要なのは、枠で囲まれ、3つの異なる言語バビロン語、イルマイト語、古代ペルシャ語、で書かれている“王の業績”だ。
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当時、学者達は古代バビロニア語を解読できずにいたのだが、ペルシャ語をどう読むのかについては知っていた。同じ内容を表記していると思われる、これら3つの言語のコピーを採取する方法を見つけられたら、バビロニア語やイルマイト語を解読するのに役立つはずだ、とローリンソンは気付いた。そこで、彼は細部まで記録しようと考え、60mの岩肌の表面をきれいに掃除し始めた。
ローリンソンの努力の結果、メソポタミアの遺跡都市からすでに発掘されていた数千のタブレット書類を解読することが可能になったのだ。
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アービン博士「ヘンリ-ー・ローリンソンは記述を解読するためには、誰もがそれを近くで見られるようにコピーを採取する必要があると考えていた。絵に描くことも離れた場所から写真に収めることも、当時は不可能だった。そこで彼は岩肌を登り、体をロープで縛りつけて岩肌に貼り付きながら、重ねた紙を押し付けて型を取ることにしたのだ。それを持ち帰り、解読に役立つレプリカ・コピーを作って研究者たちに提供した。彼は勇気のある男だった。というのは岩山は険(けわ)しく、レリーフがある場所に近づくのはとても危険だったのだ。風が回っていて、留まっていることすら大変なのに、彼はそこでコピーを採る作業をしたんだ。」

彼の命知らずの行動がなかったのなら、聖書は単なる創世記の原始的な世界に関する歴史的な情報源のままだっただろう。ここ大英博物館には、楔形文字が刻まれた古代のタブレットで一杯の棚がある。その中のタブレットの一つは偶然にも聖書の次に最も有名な古代の書類だった。
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イラク北部の古代ニネヴァNinevehで1850年に発見されたもので、一見、破壊されたタブレットでしかなく、重要なものと思われていなかったのだが、その翻訳が1872年に公表された時、大きな衝撃を巻き起こした。それは聖書の中の物語が初めて、別の古代文明の記録の中に発見された時だったのだ!大洪水Great Floodの物語だった。3千年前のタブレットは伝説的な王ギルガメッシュの叙事詩だと判ったのだ。そこには大洪水の話があり、恐ろしい洪水の中で箱舟を造った英雄は、恐ろしい洪水の中を生き延びたのだ。彼はノアの物語と同じように、鳥を船から放って、乾燥した土地を探させている。
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アービン博士「それは大きな影響をもたらした。何故なら人々は聖書の記述と関係する内容を聖書以外のものから探し出そうとしていた時期だったからだ。考古学者たちも切望していたことだった。聖書の内容を支持する記述証拠が現実に出現したということは極めて特殊で、驚くべきことだった。ギルガメッシュ叙事詩の翻訳と聖書の物語は驚くほど似ているのだ!」

ローリンソンの熱意のおかげがあるとはいえ、我々には、まだ解かねばならない問題が残されている。ここカルカ川の水源の近くで、エラタ王国を目指していた使節の追跡は途絶えてしまっているのだ。古代のガイドブックには次にどの方向に向かったのか、明確な記述が残されていない。越えねばならない3つの門はどの方向にある山なのか?別の古代の書物を捜し求めなければいけないようだ。

捜し求めていた書物は粘土のタブレットだった。今回のタブレットはパリのルーブル博物館にある。このタブレットには紀元前8世紀の強国アッシリア王サーゴン2世がエラタ王国に遠征する軍事行動の様子が記録されている。
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シュメール人の王エンメアカーの使節と同じように、王サーゴンの軍隊も7つの山を越えている。しかし、今回の場合、使節の旅と異なり、我我は、軍隊がどこに行ったのかを正確に知っているのだ!
タブレット「我サーゴンはアッシリアの王で、カーフンを発ち、偉大なグラーテを横切り、あらゆる種類の木々で覆われた高い山を進軍し、そこでは日の光も差し込むことは無く、7つの山を偉大な困難を超越して踏破し、灌漑水路として使われているラッパー川とエラタ川を渡り、ミニオン地方のスリカシュの方向に、私は丘を下った。サーゴン」
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サーゴンは古代のスリカシュを目指していたのだ。それはミニオン平原のサケッシュというカーディッシュの町の下にあった。彼は7つの峠を越えて北に向けて進み、エラタ川を渡り、ウラトの平地またはエディンに到着した。聖書でいうアララトAraratだ。エンメアカーの使節も北に向けて7つの山を越え、エラタにある平地またはエディンで旅は終わっている。
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彼らが同じ場所に行こうとしていたと考えるのは極めて理に適っている。我々が向かうのはその場所だ。残った3つの高い山を越えて、エラタに下りていくのだ。アララトだ。エデンの土地だ。
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サーゴンの助けがあったおかげで、我々はエラタの場所を見つけた。我々の旅の最終目的地は7番目の山地の向うにあった。使節は、7番目の門に到達した時、旅が終わりに近づいたことを知った。山の麓には平地エディンEdinが横たわっている。
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聖書のエデンEden、不思議な王国エラタだ。楽園は使節を手招きしていた。彼は7番目の天国に到達したのだ。
我々の目的地、エデンの地、は我々の目の前に横たわっている。しかし楽園に辿り着いた時、我々は何を見つけるのだろう?
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我々は7つの天国に繋がる7つの門を通り古代使節の道を辿って楽園までやってきた。大きなオルミエ塩湖に近づいてきた。とうとうエデンにやってきたのだ。エンメアカー以降5千年の間、ほとんど変わっていない。その2千年前はアダムとイヴの時代だ。
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あの山の向うでユダヤ人はエデンの園の話を聞いたのだ。

パラダイスに踏み込む前に、創造記の中の手掛かりについておさらいしておこう。もし、ここがエデンだとすれば、我々は見つかっていない2つの川ギホンとピションを探し出さねばならない。クシュとハビラいう名の土地と、園を流れている川については見つけられるかもしれない。

エデンの一帯を撮影した衛星写真を見てみよう。大きなオルミエ塩湖の東岸に向けて、聖書が言う“エデンの東”にある“エデンの園”が広がっている。北と南にある高い山に護られるよう囲まれた長くて肥沃な谷間だ。
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古代の楽園の庭は巨大だったのだ。園の西の端は湖の湿地帯marsh Landだ。
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しかし東端は峠の東門Eastern Gateを越えると別の世界に繋がっている。
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そして谷間を貫くように川が流れている。園を流れる川は湖に注いでいる。園の北には肥沃な一帯があり、カスピ海に注ぐアラス川の幾つかの支流が流れている。
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このアラス川は古代においては別の名前が付いている。7世紀、イスラムがペルシャに侵攻した時、アラビアの地理学者は、その川をガイホンと呼んでいる。聖書ではギホンと言う名の川がクシュという名の土地を流れていた。初期のキリスト教学者たちはクシュをアフリカの土地の名だと結論付けていた。しかし、信じられないかも知れないが、ガイホン川が流れていた古代のこの土地の名もクシュなのだ!後ろで雪を被っているあの山は現在でもクシュダーグKusheh Daghと呼ばれている。“クシュ山”だ!
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ガイホンと聖書のギホンが同じ川を指し、ここが創世記に言うクシュであることについてはもう何の疑いもない。そこで我々は創世記でエデンを指している3番目と4番目の川を比定することになる。4番目の川が、地図の南東の隅で、この地に割り込んでいるのだ!ケザ・ウイゾンUizon川だ。
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もし私が正しければ聖書の作者がピションPishonと呼んだ川だ。黄金に溢れたハビラの地をうねって流れる川だ。金はいまでもケザ・ウイゾン川で見つかっている。ケザという言葉は“黄金”を意味する。“黄金のウイゾン”だ。しかし、どうしてウイゾンUizonがピションPishonと同じだと言えるのだろうか?言語学者が示しているように、その答えは古代のイランの名前をヘブライ聖書の中のセミティック語の名前に変換する方法にある。例えば古代のミニオン地方の町ウシテリUshiteriは、現在はアラビア語の呼び名でピシデリPishdeliだ。
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イランの文字Uはセミティック語だとPになるのだ。同じように、古代のイランの川の名前Uizonは聖書の作者によってセミティックでPishonピションと変換されたのだ。

いよいよ地理学上のジグソーパズルの最後のピースだ。アダムの二人の息子、農夫のケネン(カインCain)と羊飼いのエイブル(アベルAbel)について考えてみよう。
ケネンとエイブルは神に捧げものをするよう、父親に命じられていた。ケネンは畑の作物を捧げ、エイブルは山の動物を生贄(いけにえ)として捧げていたが、神は生贄の方を気に入っていた。神に好かれるエイブルに対する憎しみと恨みがケネンの心に生まれた。突然の妬(ねた)みの感情に流されたケネンは全ての罪の中で最も痛ましい罪を犯す。
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記録に残された人類最初の殺人の結果、ケネンはエデンの園を追放される。

創世記「ヤハウェ“呪われよ。お前の兄弟の血を受けとめようと口を開けている土地から消え失せよ。お前がこの地を耕しても、何の恵みも得られぬ。地上を彷徨(さまよ)いあるけ。”そうしてケネンは神ヤハウェのいる土地を離れ、エデンの東のノーットNodという土地で暮らすことになった。」

それは聖書の決定的な部分だ。“エデンの東のノーットの土地”!
驚くべきことに我々の地図の東の地域にも似た名前が見つかる。上ノクティUpper Nochdiと下ノクティLower Nochdiだ。
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ノクティは“ノックトに所属する”ことを意味する言葉だ。これが創世記のノーットNodではないのだろうか?聖書の作者にとっては外国の名前をヘブライ語に変換することは慣れた作業だった。ノーットは放浪者を意味する。ケネンは追放された放浪者だ!
我々はギホンとピションという2つの川を見つけた。そして、恐らくノーットという名の土地も。いよいよ楽園に踏み込む最後の段階になった。西の方向、エデンの園だ。
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都市タブリズTabrizが在る峡谷は招いている。失われていた楽園に戻る時だ。

創世記「そう言うとヤハウェは男をエデンの園から追放した。彼はその男を罰したのだ。」
我々はアダムの次の世代のケネンを園から厳しい土地に追いやった“追放の道”を通って戻っている。
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創世記「エデンの園の直ぐ前に、彼は炎が立ち上がっている剣を置き、生命の樹へ続く道を守るため、彼はチェリビンを置いた。」

人類学者リチャード「チェリビンとは羽根をもつ小さな天使ではないかと考えている。しかし、今ではチェリビンが古代バビロやメソポタミアのカリブーだということを知っている。神聖な場所や寺院の守護神だった。
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もし大英博物館を訪れたなら、沢山のチェリビンを見ることが出来る。それらは、羽根を持つ偉大な創造物で、驚かされるだろう。エデンの園におけるチェリビンの仕事はアダムやイヴが戻ってこないよう見張ることだ。神は彼らを罰して園から追い出したのだから。」

東門から西に続く追放の道を通ってエデンの園に入ったところだ。アダムとイヴが7千年前に離れた場所に戻っていくというのは特別な気分だ。渓谷の道を下ってタブリズに到着すると、そこではエデンの園が永遠に失われてしまったことに気付く。現代の工業化した人間たちによって冒されてしまっている。
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人間が決して楽園に戻らないだろうという聖書の予言はある意味では正しかったのかも知れない。何故なら園は無機質な都市の下に埋められているのだから。しかし、人類が破壊してしまわなかった場所が一つある。聖書にはエデンにある神の山から落ちた男の物語がある。大きな山がタブリズ渓谷を見下ろしていた。その円形の火山はサハンド山Mt.Sahand だ。この山の斜面にアダムが暮していた古代世界の様子と似た場所を見ることが出来る。
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もしあなたが聖書の中の些細な文章でも信じているのなら、エデンの園が実際に在った場所だということについて私の証明など不必要だろう。しかし、もしあなたがエデンの物語は詩的な比喩(ひゆ)だと思っているとしたら、問題は、その比喩となったものが何か?何故、他の場所ではなく、この場所が人類の発祥の地なのか?ということだろう。
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聖書によれば、石器時代の終わり頃、古代シュメールに最初の都市が造られる凡そ1千年前、アダムやエデンが存在していた。その観点から言えば、当時、誰がここに住んでいたのだろう?考古学者たちは新石器時代の革命の時期、イラン西部のザグロス山脈が重要な場所だったことを明らかにした。
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しかし何故、人類学者は、この時期が人類の歴史における変革の時だと考えるのだろう?
人類学者リチャード「新石器時代の革命は恐らく、生活の変化という意味で、人類が行った最も重要な変革と言えるだろう。この時に歴史的な文明の基礎が造られたのだ。農業が始まり、牧畜が始まり、定住していた村の周辺の畑で穀物を栽培した。村が町に、そして都市になるまでには、そんなに長い年月がかからなかった。農業がなければ地上に都市は生まれなかった。」
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我々は新石器時代の革命を継承している。従って、その革命が我々の起源だと言える。としたら、この地が物語を創造した場所だとしても驚くことはないだろう。サハンド火山の山頂の近くの、ここカンドヴァンという隠者村では、新石器時代のアダムと同じ古代の社会に触れることができる。
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我々は、古代メソポタミアの神話物語から、人間が地面の土と殺害された神の血を混ぜて、神の姿で造られたことを知っている。ここで暮らす現代の“新石器時代の人々”は、園を見下ろしている赤い山から採取した赤い土や粘土を儀式で使っている。
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人類学者リチャード「私が知っている所によれば、埋葬で赤い粘土を使っている。死体に赤い粘土を塗り、時には、骨に塗っているようだ。古代の人々が行っていた象徴主義の現れではないかと思う。我々は血に覆われてこの世に生まれてきた。この世を去って次の世に行く時も、血で覆われていなければならない。このことを赤い粘土が象徴しているのだ。」

聖書によれば、アダムも粘土から造られた。アダムという名前自体も“赤い大地”を示す言葉だ。
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しかし、人間アダムとは何だったのだろう?恐らく現代人の我々は、アダムが神によってエデンの粘土から造られた最初の人類だと信じる心の準備が成されていない。しかし歴史上のアダムは存在していたのだろうか?聖書の作者の頭の中には彼が存在していたことは間違いない。彼はノアのたった10世代前の男でしかない。そこまでは誰もが理解できる。アダムは存在していた。何故なら彼は子孫たちによって覚えられているからだ。彼は命を持った最初の人間で、最初に神と会話した男だ。
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我々は本当の意味では地上の楽園に戻れなかったと言うべきかもしれない。しかし、近代の映像技術を使う事で、古代の美しい園の谷を取り戻すことが出来る。アダムが暮らしていたエデンを垣間見ることが出来る。
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気象学者たちによれば地中海からの西風が運んだ暖気が、この長くて細い谷間で微気候microclimateを創り出していたと言う。多湿な大気が植物の繁茂を促し、驚くほど沢山の種類の樹木には、目を奪うような、美味の果実がたわわに実っていた。台地を厚く覆っていた赤い土には、林檎、アプリコット、ピスタチオ、アーモンドの果樹園が広がっていた。
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野生の葡萄の樹は丘の斜面を覆い、甘い緑の葡萄の房を付けていた。メソポタミアの“蔦(つたvine)”という意味の言葉の一つが創世記で使われていた“生命の樹”を指す言葉として使われている。谷間を貫いて流れる川はオルミエ塩湖の湿地帯に続いていた。これが地上の楽園だったのだ。
私の旅はここ、神の山の麓で終わる。アダムと呼ばれる男と彼の家系は神の怒りに触れ、ここエデンの園から追放されて、地上を彷徨った。
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しかし、これは始まりでしかなかった。人間という創世記の叙事詩はその後、数千年続いたのだ。しかし、それは、また別の話と言えるだろう。

In Search Of Eden
https://www.youtube.com/watch?v=jjuYYFn1cXk

フィルムで紹介されたデイヴィッド・ロール氏の仮説を確認しておきましょう。
次の図で赤い部分がエデンEdin/Edenです。エデンの東側の部分でGANと書かれた緑の部分がGardenつまりエデンの園/楽園/パラダイス、ということになります。エデンの園GANの西に接しているのはオルミエUrmiya塩湖です。
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このパラダイス/エデンの園、に暮らし始めたアダムとイヴは、神の怒りを買い、パラダイスを追い出され、そして恐らく、パラダイスではない“エデンの地”で生計を立てることになったんだと思います。ひょっとすると、東に追い出され、エデンの外で暮らすことになったのかもしれませんが。

創世記に書かれている有名な大洪水の話の中で、ノアの箱舟はアララト山に漂着しています。オルミエ塩湖の近くです。今回のブログが比定するエデンの園の位置を裏付ける状況証拠は沢山ありますねぇ。しかし問題は、証拠の信頼性で、残念ながらmhは何ともコメントできません。ノアの大洪水が起きる前にエデンがあったのは創世記の記述で間違いないので洪水でエデンは水没していたんだから、その痕跡なんか残っているわけがない!って主張する人もいるようで、議論は果てしなく続くことになるのでしょう。

今日は9月29日です。東京都の築地移転をどうするか見通しが全く立っていないのに、経費節減のために五輪のボート競技場の新設は止めて宮城の既設コースを使おうか、など代替案が小池知事から提示され、五輪関係者が唖然としているようです。エデンの比定がいつまでも確定されなくたって何の実害もありませんが、築地と五輪は早く、きちんと比定しないと大ブーイングを受けるでしょう。小池知事だけではなく、都や五輪の関係者は、問題を他人ごととせず、実務的に、真剣に、計画的に、取り組んで、早く、都民や世界の人々を安心させてほしいものです。しかし・・・小池百合子女史と森喜朗氏で、うまくまとまるんですかねぇ。mhは懐疑的です。
(完)

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mh徒然草118: TVワイドショーは問題ありますねぇ。


今日は11月9日で、アメリカ大統領選挙の結果が出る日です。まだ午前9時台なので、どちらが大統領になるのか不透明ですが、TVワイドショーが提供する現地情報によれば、どうもヒラリーのようですね、はっきりとは言っていませんが。「ヒラリーなら最悪よりまし」との冷めた見方のようです。

で~ワイドショーを観ていると、数日間、時には数週間、どのチャンネルのどの時間帯のワイドショーも、伝える内容が同じなんですね。特に9月は、東京都の小池都知事関連のニュースでは築地移転やオリンピック競技場の話で持ち切りでした。最近の朴大統領スキャンダルもそうです。昨日の博多駅前大通りの陥没事故や、アメリカ大統領選も同じです。同じ内容が数日、時には数週間、どのチャンネルのワイドショーでも取り上げられます。

落ち着いて考えてみれば、mhは毎日が日曜日で、もっぱらブログ作成に忙しいのですが、横目ではTVも見ていて、結局、のべつまくなしTVワイドショーを連日見ているんですねぇ。すると、あるチャンネルで取り上げられた話題が、別のチャンネルでも取り上げられることが多く、また同じ内容だ!って思うことになるのは至極当然かも知れません。

しかし・・・やっぱ、放送局のワイドショーの企画にも問題があるんじゃあないの?って思います。取り扱うのはどの放送局のワイドショーでも取り上げる、大衆の関心が強いことばかりで、他局が採り上げたものであろうとなかろうと、自局も取り上げるんですね。節操がないとmhは評論しておきたいと思います。そのうえ、長々と、連日、どちらでもいいことを繰り返して解説します。

築地の問題も、朴大統領のスキャンダルも、重要な話題であることは間違いありませんが、新情報を中心に短くまとめ、余った時間はもっと深みのある話題を提供してほしいと思います。例えば築地なら、移転が不透明になって魚市場の業者がどんな問題や悩みを抱えているのかを追跡レポートするとか、朴大統領の問題では、大学生数人を集めて、今回のスキャンダルをどう考えているのか討論してもらうとか。

どこの放送局も取り上げる出来事を、どこの放送局とも同じ内容で長々と報道する日本の放送局というかマスコミ界は、ジャーナリスト精神を欠く、お手軽スキャンダル垂れ流し業界としかいいようがありません。イラクでのISとの戦い、自衛隊を派遣している南スーダンの動向、残されている自衛隊の家族の気持ち、はどうなっているのでしょう。セウォル号の回収は、まだ発見されていない9遺体の家族の気持ちは、どうなっているのでしょう。小池都知事の追っかけやアメリカ大統領選挙の現地レポートと比べれば大した内容じゃあないと思っているんでしょうが、そんな考えでは視聴者が感動するニュース番組を作ることは出来ないと思います。

で~私も時々セウォル号の情報を探しているのですが、本日11月9日時点の最新ニュースでは次の通りです。
(10月17日付)回収は来年に延びそう。
深さ40mの海底に沈んでいるセウォル号の回収は7月を予定していたが、気象条件その他の理由で10月にずれ込んでいる。最悪は来年になる。船をそのままの形で持ち上げるため、船体の下に鉄ビーム20本を設置したが、6本が未完のままだ。水の汚れで海底の視界も悪い。
新しい情報を入手したら、詳細にご報告いたしましょう。

で~ワイドショーに対するmhの苦情は、これが初めてではなく、読者諸氏も、また同じことばかり繰り返していてmhはワイドショーみたいだと思われたかもしれませんが、そうではありません。歳をとって子供になったってことです。嫌だ!と思うことは、いつまでたっても嫌だって気持ちばかりが先走り、読者諸氏の気持ちなど考えている余裕がないんですねぇ。反省はしています。
Runaway-Del Shannon
https://www.youtube.com/watch?v=qPdihUTYk90
(完)

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Wu Zetianの不思議


Wu Zetianをウー・ズーティエンと読めた方は、Wu(ウー)とは何か?正確には誰か?を知っているかも知れません。しかし、多くの人は、この人物を知っているのに、ウー・ズーティエンと聞いて、“はて、誰のこと?”と思われるでしょう。

Wu Zetianウー・ズーティエンとは武則天の中国読みです。武則天って何者?と思われた方はこのブログで勉強して下さい。武則天って則天武后のこと?って思われた方、正解です。

Wikiによると中国三大悪女の一人です。
<Wiki:中国三大悪女>
中国の歴史上において特に国を陥れたとされる3人の女性のこと。
以下の4人のうちの3人を指す場合が多い。
呂雉(呂后)、武則天(則天武后)、西太后、妲己
これに毛沢東夫人の江青を加えて中国四大悪女と呼ぶ向きもある。

三大悪女の候補4人を簡単に紹介しましょう。
呂 雉(りょ ち紀元前241年生)漢の高祖劉邦の皇后。
武 則天(ぶ そくてん624年生)中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后
西太后(せいたいこう1835年生)清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母
妲己(だっき)殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃

しかし、三大悪女のWikiは日本版だけで、中国版、英語版その他の外国語版が全くありませんから、かねがねmhが主張しているように、世界三大○○というのは日本人が勝手に創り出したのではないかと思いますが、念のためと思って調べたら、中国(古代)四大美女(.西施(春秋時代).王昭君(漢).貂蝉(後漢).楊貴妃(唐))ってのが日本語版と中国語版のWikiにありますから、日本ばっかりじゃあないようです。世界三大美女はクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ(トロイ戦争の架空のヒロイン、日本では小野小町)との記事もWikiにありましたが、これは日本語版だけですから、やっぱ日本だけで言われているんじゃあないかと思います。

で、今回はYoutubeフィルム「The Secret History of Chinese Female Emperor中国の女帝の秘話」を使い、Wu武のエピソードを世界自然遺産、世界歴史遺産などの写真と共にご紹介いたしましょう。

その前に、Wiki武則天の抜粋です。
Wiki:武 則天(ぶ そくてんWu Zetian)
中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱(いみな)は照(曌)。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
生年624年2月17日、没年705年12月16日(享年81歳)
帝位在位期間690年10月16日 - 705年2月22日
mh:垂簾聴政(すいれんちょうせい)の時代を加えると50年以上に渡り唐王朝の最高権力者でした。

なお武は武という家系を示し、名前は照(Zhaoジャオ)と言います。則天とは何か、調べたのですが明記したものが見つかりませんでした。“天に則る”ということで、私利私欲を捨て、正義を貫く、というのが日本人には判りやすい理解ですが、武則天の場合、“皇帝に従う”という意味から、皇后という意味の称号ではないかと思われます。武照ウー・ジャオが生きていた時は武則天と呼ばれたことはないようで、戒名として則天を使うよう、武が言い残したようです。それはどんな経緯(いきさつ)があったからなのか?その辺りはブログを見て頂けたら推察ができるのではないかと思います。

フィルムに登場する場所を地図に示しておきましょう。
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西安
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洛陽・竜門石窟・嵩山
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・・・・・・・・・・・・
中国の“王家の谷”に高くそびえている石の塔がある。
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それは寂し気な妾(めかけ)からついには中国の皇帝になった女性の墓を示す印だ。彼女は中国の歴史の中で、唯一人、皇帝の称号を得た。しかし、この女帝は物議を醸しだす不穏当な統治者として歴史の中に潜(ひそ)んでしまっている。
「女性がそんなにも巨大な権力を持つなどということは、国の安定を脅かすものだった。」
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「彼女は、邪魔するものは何らかの手段で常に排除していた。」
「武則天に係(かかわ)ると危険が伴っていたようだ。」

China’s Forgotten Emperor中国の忘れられた皇帝
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中国2千年の帝国の歴史にたった一人、女の皇帝がいる。ウー・ズーティエン武則天と呼ばれている女性だ。武皇帝だ。西暦637年、13歳で妾として初めて王宮に入った。
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愛人たちが集まるハーレムの一人として唐王朝の皇帝“太宗”に仕えるためだ。
「太宗には百人を超える妾がいた。しかし、彼女は美しく、魅力的で、面白い女だとの評判を得ていたようだ」
王宮に入ると、彼女は直ぐに皇帝の寵愛を得ることになった。二人の関係が強くなると王宮内での彼女の影響力は高まっていった。彼女は如才なく、抜け目無く立ち回っていた。
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皇帝が老いて死ぬと、武則天は彼の息子“高宗”の第一妾になった。
西暦655年、新皇帝は武を皇后とした。
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しかし高宗は健康な男ではなかった。彼女は徐々に、王座の後ろに潜(ひそ)む真の権力者になっていった。690年、夫が死ぬと武則天は陰から表舞台に現れ、自らを皇帝と名乗った。しかし、中国の古代歴史書は、彼女が権力の座についたことを明記していない。

バーミンガム大学ジョナサン・ダグディル「歴史は武女帝について、暗く索漠(さくばく)としたイメージだけを伝えている。最も残虐な話の一つは、彼女が自分の子供を殺したというものだ。また、彼女の2人のライバルの女性の手足を切り取り、葡萄酒の大樽の中に漬け、ゆっくり流血させながら殺したという話も伝わっている。」
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北フロリダ大学ノーマン教授「こういう言い伝えから、邪(よこしま)で、人を操り、計算高く、利己的で、冷酷な悪女で、権力に固執しているというイメージが出来上がっている。」
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帝位に就いてからも冷酷な統治をしていたと伝えられている。
メルボルン大学トニア・エクトフェル教授「これは武則天の次男の墓よ。」
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「彼は母にとっては地位を脅かす脅威だったの。反逆罪で訴えられ、皇帝となる権利を剥奪され、部屋に閉じ込められ、毒を与えられて自殺させられたの。権力を手放すまいとして母親が自分の息子を殺害したのよ。」

武則天は凡そ50年の間、中国を導いた。言い伝えでは、独裁者で帝国に災害をもたらした人物だという。
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考古学者たちは、このような武の物語を否定するかも知れない新しい証拠を発掘しつつある。
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ジャン・ジエンリン教授は唐代に関する考古学分野の実力者だ。
ジャン教授「我々が発掘した場所で見つかった物は、武則天に関する知識を深めてくれる。それらは、唐代の本当の歴史について新しいヒントを与えてくれる。」

今日の西安は、武の都だった長安を全て包括する巨大な都市だ。
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人口は1千2百万人で、今も急速に拡大している。そこにジャン教授の資料保存場所もある。歴史家ハリー・ロスチャイルドは武が統治していた時代に関して興味深い発見が最近行われたとの話を聞いてやってきた。
ロスチャイルド「私は17年間、武則天の時代について研究している。とうとう、その原点にやって来た気分だ。ここには彼女を感じさせるものばかりが保管されている。」
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土偶は武の首都(長安)の生活を現している。楽士、貿易人、貴族などの土偶は、楽しいあの世のために、遺体と共に埋められていた。
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しかし、期待していなかった土偶があった。武が統治していた中国がどんなものだったかを示す最初のヒントだ。
ジャン教授「これは馬に乗る女の土偶だ。とこかに旅に出かけているところだ。つまり、当時、女が社会の中で活動的だったことを示している。」
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「ここには別の土偶がある。女が男の服を着ている。」
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「当時、女は、男と同じように自由に振る舞うことが出来たのだ。例えば馬に乗り、狩りに出かけ、旅をした。武則天の時代、女の地位は、それ以前よりも高かったのだ。ずっと自由に振る舞い、自分の考えを主張していた。」

7世紀から8世紀の初めにかけて女性の自由がかつてない程、大きくなったのは武則天の影響があったと考えて間違いないだろう。
武則天についてはもっといろいろな事があったようだ。古代の歴史書は彼女の統治を貶(けな)している。しかし、最近、男の服を着た女の墓が沢山発見され出したことから、話は違っていたのではないかと考えられ始めている。
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メルボルン大学のトニア・エクトフェル教授は唐代の墓の専門家だ。彼女は中国の歴史の中でも、最も興味深い考古学的な発見の一つを見に来たところだ。
トニア「興味深いわ。想像以上に素晴らしいわ。」
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これは古代中国の伝説の不死鳥をモチーフに飾り付けられた冠(かんむり)だ。
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長い間失われていた唐代の宝物で、古代の記録にはあったのだが、これまで見つかっていなかった。
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値の付けようもないこの冠は、貴重品倉庫に厳重に保管されていて、特別な許可を得ないと見ることが出来ない。
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トニアは、この冠は武則天が治めていた中国の決定的なヒントではなかろうかと考えている。
トニア「信じられない程多くの努力を注ぎ込んで造られているわ。金属細工はフィルグリーfiligreeと呼ばれるもので、とても繊細な構造が採用されているの。その上、沢山の小さな宝石の粒が、黄金の小さな台座の中に嵌(は)めこまれているのよ。全体は羽ばたいて遊んでいる孔雀(くじゃく)のように見えるわ。」
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「中国ガラスで造られた葡萄の房も付いているわ。」
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「この冠には洗練された国際感覚があり(cosmopolitan)、その上、豊かな、洒落(しゃれ)た、贅沢な雰囲気を持っていると思うわ。」

ジャン教授の調査チームはこの不死鳥の冠を、従来とは異なる墓の中で見つけたのだ。盗掘にあっていなかった。
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墓は唐の王室の子孫の一人でリー・チュエイという名の若い女性のものだった。
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彼女の頭は、宝石が埋め込まれた蜂の巣のようだったのだ!
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18ヶ月をかけて、調査チームは全ての貴石を取り外し、その後、また冠を復元していった。その冠の素晴らしさに誰もが感嘆した。これらの貴石がどこから来たのか、X線分析器を使って調べると、驚きの結果が得られたのだ。

カーネリアンcarnelianは長安から5500Km離れたウズベキスタンのもので、ガーネットgarnetは4800Km南西のインド、アンバーamberは6400km西のイラン、象牙は7200km離れたスリランカのものだった。
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mh:
カーネリアン:網目模様がないものは紅玉髄(べにぎょくずい)、あるものは瑪瑙(めのう)
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ガーネット:石榴石(ざくろいし)
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アンバー:琥珀(こはく)
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トニア「この冠は武則天の社会に関するヒントを与えてくれるわ。物資が豊富で、贅沢に満ち、芸術は最高位にあったのよ。今見ている冠は唐の王室が集めることが出来た世界の、そして宝物の全てを具現化したものよ。」
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リー・チュエイは皇女でなかったのにも拘わらず、値をつけようがない贅(ぜい)を凝(こ)らした冠を身に付けていたのだ。当時の中国が信じられない程に豊かだった明確な証拠だ。
彼女の墓はもう一つの秘密を持っていた。彼女の手の中に翡翠(ひすい)の蚕silkwormが握られていたのだ。
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中国を世界でも最も豊かな国にしようとする武則天の統治と野望を暗示している。

7世紀の中国で、武則天という女性が一人寂し気な妾から女帝に這(は)い登った。
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夫の皇帝が病気だったので、彼女が帝国を実質統治した。古代の歴史書は彼女の統治を“災い”だとして無視した。しかし、今日の専門家たちは、事実は全く異なっていたと考えている。

首都長安の80km北西の墓で、トニア・エクトフェル教授は武則天の影響力を示す証拠の壁画を調べている。
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トニア「この壁画には王宮を訪れた外国の大使たちが描かれているの。遠く世界各地から来ているの。絵画にはモンゴル人、韓国人、多分ローマかシリアから来た剃髪した僧侶も描かれているわ。」
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「新疆(しんきょう)やギリシャや、ペルシャの人もいるわ。これらの絵で興味深い点は、大使たちが卑屈な姿勢をとっていることよ。体の前で手を交差させ、緊張した様子で描かれているの!」
壁画は、当時、武則天が外国の王たちから尊敬されていたことを示していた。
トニア「私は武則天が完成された政治家だったと思うわ。彼女は外交が戦(いくさ)よりも効果的なことを知っていたのよ。それで世界に向けて国を解放し、多くの外国人を受け入れていたのよ。」
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最近の調査によると、武則天が統治していた長安で2万5千人の外国人が暮らしていたという。多くは交易人で彼らが取り扱う主要な中国製品は絹だった。
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紀元前4千年紀から中国は特上の絹を生産していた。武の時代には、中国の絹の価値は黄金と同じになっていた。古代貿易路のシルクロードは長安から東西に延び、中国と外国と繋いでいた。しかし、7世紀中ごろまで、山賊や盗賊が、貿易路に出現しては旅人を恐れさせていたのだ。新たな発見によると、武則天は見事な対応を見せていた。彼女は安全保障のためにシルクロードにそって遠く中央アジアに到るまで軍の前哨地(ぜんしょうち)を造ったのだ。
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ハリー・ロスチャイルドは最も新しい考古学的な証拠を確認すべく、シルクロードの長安の起点となっていた場所を訪れた。
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ハリー「今いるのは、“西の市場”の跡で運河の端だった所だ。この方向には店が並んでいた」
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「鉄商人や肉屋や銀や金の細工師、習字用筆の売り店(たな)などがあって、必要な物ならなんでも手に入った。ここにある岩は橋になっていて、荷車が通った車輪の跡も残っている。西の市場の雰囲気を感じることが出来る場所だ」
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武則天が統治していた当時の長安には東西に市場があり、それがシルクロードの起点だった。西の市場では長安の西方から届いた商品が売られていた。
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シルクロードの交易は武女帝の帝国を豊かにしただけではなく、多くの外国人を中国に呼び寄せていた。長安は当時、世界で最も国際的な都市だったのだ。この多国籍文化の名残は今の都市西安でも感じられる。
ハリー「ここは中国人イスラム教徒の町で昔からある一画だ。通りは人々の喧騒やエネルギーで満ち溢れている」
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「これは砂糖漬けした無花果(いちじく)だと思う。昔はシルクロードを伝わってペルシャから届けられていた」
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「これはタフィーtaffy(飴菓子)だ。南瓜(かぼちゃ)とセサミ(胡麻ゴマ)の種から造られていて、練(ね)ると段々固くなる」
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「セサミはシルクロードに沿ってペルシャや中央アジアから来ていた植物だ。1300年前の武則天時代には、遠くから運ばれてきた一種の果物fruitのようなものだった。多国籍文化という観点で見ると、活気に満ち、喧噪で、エネルギーにみちた様子は武則天の時代と同じだと思う。」

西暦662年になると、夫の皇帝が病気だったこともあり、皇后の武則天が実質的に中国帝国を統治し始めた。
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交易は順調で富と贅(ぜい)を持ち込んで来た。高価な手工芸品などの証拠が見つかっている。
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武則天はそれらを世界に見せつけることを好んでいた。
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そのため、彼女はこれまで見たこともない大規模の王宮を造る計画を建てた。考古学者たちがその痕跡を初めて発掘した時、彼らはその規模に驚かされた。

ハリー「これは大明宮の南に造られていた丹鳳門だ」
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(上の絵には人間が一人写っています、点のように小さく!)
「巨大な門のひとつで発掘された基礎の上に当時のように再建されている。見上げると目がくらむ気分になるくらい高く、帝国の壮大さを思い起こさせてくれる。」
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「門の前に立つと、自分がいかに小さく無意味なものかという気になってしまう。武則天の大明宮は世界で最大だった。たった3年で建設されたこの王宮は、誰もが見たどんなものよりも規模が大きい。」

「この大明宮の大きさを見てくれ。昔のポンペイの2倍の面積がある。」
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「明や清の王朝の宮殿だった紫禁城の5倍で、ペルシャのアクロポリスの22倍もある。その壮大さには驚かされる。ここから見れば規模は凡そ判るが、広場に立つと、また違う感覚の壮大さを思い知らされる。」
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ここには弓道広場、ポロ広場、闘鶏場、軍楽隊の練習場などがあった。それはまだまだ序の口で、その向うには、3つ4つの宮殿があった。外国から訪れた使者たちは、宮殿の壮大さに驚いて口を開けたまま、天国の楽園をこの地上に見ている気分でいただろう。恐らく、大明宮の大きさを使って帝国の威厳を示す意図があったのだと思う。」
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武則天が中国を世界の超大国にしたことが明らかになりつつある。彼女は貿易網の中心にいた。富と政治的な影響力は日本から地中海まで、韓国からインドまで広がっていた。
(mh:なぜ“韓国からインドまで”と言うのか判りません。脚本家は韓国がどこにあるのか正確には知らないまま、極東の、よく耳にする国の名をあげただけかも知れません。)

彼女が統治するまで、中国は男の高級官僚によって統治されていた。この伝統を覆して、男社会で生き残るため、武則天はそれまであった全ての決まりを破壊しなければならなかっただろう。
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7世紀、武則天の首都だった長安は大きな町だった。
ジョナサン「武則天の時代、およそ1百万人が城壁の内側、更に1百万人が外側で暮らしていた。長安は世界中のどの都市よりも大きかったんだ。」
バーミンガム大学からやってきたジョナサン・ダグディルは武則天の記念すべき成功の理由を知っていると考えている。彼女は中国で眠っていた宗教の“仏教”を再活性化して平民の支持を獲得したのだ。
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ジョナサン「武則天は国が仏教を支援すれば人々が喜ぶこと知っていた。さらに効果的な方法は、寺院や仏塔(パゴダ)を建てることだった。彼女が造った主な寺院は私の後ろに聳えている大雁塔Great wild goose pagodaだ。」
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大雁塔は、もともと、西暦652年に建造されたものだ。
ジョナサン「長年、この大雁塔を研究している。とても素晴らしい建造物だ。」
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仏塔は神聖な仏典を保管しておくための重要な寺だったが、建造されて50年後、地震で破壊されたのだ。仏教を信仰する環境で育てられた武は、仏塔を再建することに決めた。
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しかし、彼女が行った再建の規模が大きかったのだ。ジョナサンは、新しく再建された建物は当時の最高記録だったのではないだろうかと考えている。武はそれを建てたことで人々の心に強い印象を残したはずだ。それをジョナサンは証明できると考えている。

ジョナサン「武則天がこの仏塔を再建した時、どのくらいの高さだったのか知りたいと思った。もし、ある理由のために極めて巨大に建て直そうと決めたとしたら興味深いと思ったからだ。1,2,3,4,5・・・」
(mh仏塔内の階段の数を数えながら登っています。)
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そのためには解かねばならない問題があった。武則天のパゴダは第二の地震で部分的に破損し、最上の3層が倒れてしまったのだ。
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そのため、ジョナサンは、失われている3層を想定して高さを算出しなければならなかった。彼は階段の数の傾向を見つけた。
「前の階の段数は43、42,38,37と続いている。次は37、36だ。」
(mhジョナサンが早口で何を言っているのか理解できません。各階の階段数が段々と減っていくのは間違いないのですが・・・現在は7層で最上階まで般若心経の文字数265の数と同じ階段数とありますが、事実かどううかは自信がありません。武則天はオリジナルの塔を修復した上に5層を継ぎ足したのですが、地震で3層が倒れて今の7層になっているということですから、オリジナルは5層で、武則天が拡張した時は10層だったことになります。)

こうして階段の数と高さの傾向を調べると、失われた3層を含めた仏塔の高さは90mに近いことが判った。驚くべき高さだ。
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ジョナサン「つまり、彼女の仏塔はアジアで最も高いだけではなく、当時の世界で最も高い建物の一つだったんだ。これと同じような建物は何処にも無かった。町の景観は今も昔と同じように印象的だ。当時なら、塔から町の全てを望めたはずだ。」
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「武は彼女の人民に娯楽を与えようと意図して、記録破りの塔を造ったのだ。このような見栄えの好い塔をつくることで武は多くの称賛を集めることが出来た。長安の市民の多くは仏教徒だったから、武が自分たちの宗教である仏教を支持していると人々は感じたはずだ。」
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武則天は平民の間の団結を生むため、新しい仏教寺院を彼女の帝国の全ての町で造るように指示した。それだけでは終わらなかった。長安の400Km東の河南省には竜門石窟がある。歴史家ルー・ヤンは、これが武の権力を示す重要なものだと考えている。

ルー「竜門石窟は仏教の聖地で、何世紀もの間、巡礼者が訪れている。しかし、ここには武女帝と巡礼者たちの信仰とを直接的に結び付けているものがある。」
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多くの上流階級人は費用を寄進して、この神聖な岩壁に個人のための小さな石窟を掘らせていた。1400以上の石窟には10万以上の仏像が彫刻されている。
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小さい像は2,3cmで、最大の像は17mの高さがある。この最大の像を収めた寺院こそが武則天が指示して造らせたものだ。言い伝えが残されている。
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ルー「とても印象的で素晴らしい眺めだ。寺院も大きい。この仏像の正式な呼び名はヴァイラルジャナ(廬舎那仏?)で太陽の燦爛(さんらん)を持つ基本的、一般的な仏陀で、仏教のもつ力の象徴と言える。」
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武則天は自らを仏教の中心に、人々の目に見えるように置くことを望んでいた。それを実現するため、彼女の顔に似た仏陀を彫らせるという大胆な手段を採ったと考えられている。
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ルー「伝説によれば、この像は彼女の顔をモデルに造られているという。彼女は自分の力をこの像で示したかったのだ。仏教が重視されていた時代で、大勢の信者がいたから効果があっただろう。この寺院を造ることで、彼女は宗教だけでなく、中国の社会の中で、中央舞台に立つことになったのだ。龍門で実物の仏像を見ると、とても素晴らしい出来栄えだと誰もが思うだろう。彼女は、自分が望んでいたものを得ることが出来たと、私は思っている。」
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龍門石窟と大雁塔は武則天が自分の地位を高め、帝国を平穏にするため、宗教をどのように活用すればよいかを知っている卓越した策士だったことを示している。

巨大な仏像の前を流れる川(mh伊河)の上流では、一連の新たな発見が彼女の成功を裏付けている。
ここハンジアで、ワン(王?)教授と彼のチームがコメを保管するために造られた巨大な穀物倉庫を発掘している。
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ルー「これが最大の食物倉庫ですか?」
ワン「いいえ、これは小さめの倉庫です。」
記録を見ると、それぞれの食糧倉庫がいつ造られたのか、正確な年代が判る。
ワン「年代が刻まれたこの煉瓦を倉庫の底で見つけました。」
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ルー「倉庫の多くは武則天の時代のものですか?」
ワン「そうです。これも武則天時代のものです。倉庫が一番沢山造られたのは彼女が統治していた時代です。」
武則天は中国の東部から運河を使ってコメを運搬し、巨大な穀物倉庫に積んで保管し、時期が来たら取り出して人民や軍に配給していた。
ワン「武女帝の時代、ハンジア倉庫は、国でも最も重要な倉庫でした。長安に運ばれた全ての穀物はこの倉庫から送られていたのです。」
7世紀の初め、中国は度重なる旱魃(かんばつ)に襲われ、飢饉(ききん)を起こしていた。しかし武の統治の下、コメ保管倉庫の構造が改善され、効果を発揮した。
ワン「彼女の時代に湿度対策が劇的に進歩しました。穀物は10年以上保管できたのです。」
ルー「この地域には、このような倉庫がいくつくらいあるんですか?」
ワン「287個までは確認しています。さらに5百から6百の場所でも確認発掘が進んでいます。コメが豊作だった時、帝国の半分のコメがここに保管されていたのです。全部で6千トンも。」
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ルー「巨大な倉庫量は武政権が強力な力を持っていたことを正に証明するものだ。彼女はとても有能な統治者だった。彼女の時代だけでなく、後の世代も安定させるだけの力があったんだ。」
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考古学は、武則天が彼女の国民と兵士たちに、いつでも十分な食料を与える有能な行政官だったことを示している。

しかし、彼女の成功にも拘(かか)わらず、女だったために官僚社会からの支持を得られなかった。彼女は同志を必要としていた。そこで、伝統を破り、共産主義者が行政にも参加できるようにした。女性が事業を始められるようにしたり、離婚することを認めたり、自由に結婚できるようにもした。最も大胆だったのは、シャン・グァン・グナール(?)と言う名の女性を首相に指名したことだ。
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ハリーはジャン教授のチームが女首相の墓で最近発掘した証拠について説明を受けた。彼女の最後は物議を醸しだすものだったようだ。
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ハリー「これがシャン・グァン・グナールの碑文だ。私は碑文が発見された2013年9月から、それを見る機会が来るのを待ち続けていた。今、その時が巡ってきて、恍惚としている感じだ。」
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ジャン教授「彼女が死んだ時、どのくらいの年齢だったのかがこの碑文から判る。“47回の春と秋を持った。”つまり47歳で死んだんだ。」

ジャン教授たちが女首相の墓を発見した時、それが意識的に破壊されていることに気付いた。この破壊は武則天の荒涼としたイメージが何世紀も続いたことを理解する鍵でもある。
ジャン教授「墓はほぼ完全に破壊されていた。発掘していると、墓の煉瓦がどれもこれも剥がされていることに気付いた。目的を持って行われた破壊だったんだ。普通だと墓には石棺を置く台座と壁画があるのだが、それらが全て破壊されていた。我々が見つけたのは、この墓石だけだ。」
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シャン・グァン・グナールの墓は武則天の後継皇帝中宗の命令で破壊されていた。ハリーはこの破壊と武の悪行や無能を記した歴史書の間には直接的な関係があると信じている。
ハリー「シャン・グァンの墓が破壊されていた。これは7世紀後半から8世紀初頭における女性の権力者たちの痕跡を破壊しようとする意図によるものだ。家父長制度による規範的な権力を復活するのが目的だった。」
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西暦690年までに、武則天は中国帝国における最初の女皇帝の地位に登りつめていた。しかしこれに反対する者たちは転覆を企てていた。
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トニア「彼女はとても大勢の敵を殺害していたのよ。しかし、権力を持つ以上、いつだって反抗者がいて、つばぜり合いを続けていたのよ」
歴史家が我々に信じさせたいと思っていた話は沢山あるが、彼女の冷酷さに関する話については単なる宣伝propagandaと言う訳ではないようだ。芸術歴史家art historianジェニー・リューは武の孫娘ヤンタイ皇女の墓で記録文を見つけた。武は血縁者にも無慈悲だったようだ。
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ジェニー「ほかの皇女の碑文も研究したわ。でもこれは見たこともないものよ。」
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「“二人の子供に対する怒りと、秘密の薬”つまり、ヤンタイ皇女に起きたことなの。薬か毒で彼女は流産させられ、死に至ったっていうことが書かれているのよ。やったのは武則天ね。彼女が毒殺を教唆(きょうさ)したのよ。彼女は王宮でも毒を使って暗殺することで知られていたの。同じ血統かどうかとは無関係に、帝位を継ぐ可能性の高い子供を排除しておこうって考えていたのよ。武則天に立ち向かうことはとても危険な事だったのよ。」
中国の皇帝として武則天は権力を維持すべく、全ての対抗者を見事にふるい落としていた。しかし、その戦いは血ぬられたものだったのだ。
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トニア「武則天は信じられない程、残酷になっていたの。彼女は数百人の同族を抹殺したのよ。その残忍さや恐怖の統治は“過剰だった”と言ってもいいと思うわ。しかし、彼女には良心が無かったという訳ではないわ。彼女は自分がしたことに困り切っていたのよ。」
自分の死後の世界を考え、武は自らの罪を許してもらうよう望んでいた。告白文を黄金の板に刻み、神聖な儀式を行う神聖な場所に納めていたのだ。
ジョナサン「ここは嵩山(すうざん)だ。古代中国の5つの聖地のひとつで、武則天の生涯において重要な場所になった。」
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「西暦700年、武則天は自らの罪を刻んだ黄金の板を持ってこの山にやって来た。そして赦免(しゃめん)として、板を山に納めたんだ。」
その板に何が刻まれていたかは正確に知ることが出来る。何故なら、1300年後、一人の農夫が山の斜面でその板を見つけたのだ。記事は短い。しかし意味は深淵だ。
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ジョナサン「“統治者武照(ウー・ジャオ;武則天)は疑いが永遠の魂とともにあることを認め、僕(しもべ)として謹(つつし)んで嵩山の中央の頂きに出向き、符を打ち付ける。”これは彼女に罪の意識があったことを示している。言えることは、彼女がこの符を見えるように掲示し、他の人々に対して、自分は後悔していると宣言しているということだ。儀式的な表現だが見れば誰でもわかる。“私は罪を犯したが、これらの罪から私を免除してほしい”と言っているんだ。許されたかどうかは分からないけど、この符が人々に与えた印象はとても大きかったはずだ。」

武則天の統治の終焉は彼女の宮廷にいた男性の貴族たちの間に生まれた腹黒さと謀反による悲惨なものだった。
トニア「高く登りつめるにつれ、彼女は背の高いケシのようで、大きな攻撃目標になっていた。」

ジョナサンは嵩山(すうざん)の麓(ふもと)の人里離れた場所に来ている。武が最後の年に引きこもったところだ。
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「このパゴダは重要だ。というのは武がここに来てはお祈りをしていたのだ。1500年前の建物だが昔と同じように聳(そび)えている。向うに見えるのは神聖な山の嵩山(すうざん)だ。」
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「中には行ってみると、何故、武則天がここを訪れていたのかよくわかる。静粛(せいしゅく)で神聖な空間だ。」
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「政治的にも困難な時代だったので、それから逃れるために訪れていたのだ。彼女にとって平穏で安全で心やすまる場所だった。」
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人生を通じ、武則天は寂しい妾からただ一人の女性の皇帝に登りつめながら、儒教の伝統を打ち砕いてきた。彼女は中国を女性にとって住み易い国に変えた。彼女の帝国は豊かで平和だった。彼女の帝国の首都は活気にあふれ、世界に開けていた。彼女の人民は食に困ることは無く、信仰も自由だった。しかし、とうとう男の社会制度が入り込んできた。これを押し戻すには彼女は年を取り過ぎていた。
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トニア「武則天が帝位を失った時、彼女は80歳だった。彼女は帝位を強奪されたのではない。放棄したのだ。だから彼女はまだ、統治できる力を残していた。退位後、彼女は数か月の間、生きていたが時が来て静かに死んでいった。」
西暦705年、武則天は死んだ。
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ここは乾陵チェン・リンだ。唐王朝の陵墓だ。彼女の最後の休息の場所だ。
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彼女は、山の深くの秘密の墓室で夫の高宗の近くに埋葬された。
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トニア「この道は“魂の道”と呼ばれているの。武則天の墓の方向に続いているのよ。」
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「とても印象的で威圧的だわ。面積は大明宮と同じくらいで、とても広いの。」

武則天の墓に続く道は、悪霊を追い払うため、王室の警護兵や石像によって守られている。門の入口の両脇には、敬意を払いながら整列している2組の外国の使者像がある。
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トニア「武則天は半世紀以上の間、権力を持っていたわ。しかし、この場所では、彼女の魂や王位や、権力は何世紀もの間生き続けているのよ。」

乾陵にポツンと一つで立っている石碑は、ここが武則天の眠りの場所であることを示している。
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彼女の命令により、碑には文字が何も刻まれていない。歴史家に彼女の施政を記してもらうためだ。何世紀もの間、歴史家たちは彼女の物語を記してきた。しかし、彼女の生涯について更に多くの発見をしている近代の専門家たちは何をこの石碑の上に記すだろう。
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ジョナサン「彼女は自分の望むことを実現してきた。偉大なリーダーで政治的な洞察力を持っていたが、男の社会の中ではいらない女性と見られていたのだ。」
ジェニー「私が書いてみたいと思う一言はmaverick(焼き印のない子牛;mh独立心の強い人物)よ。なぜなら彼女が権力を得るやり方がそうだからだ。」
ハリー「私なら何も書かないだろう。全く特異で前例のない政治活動は決めつけられることを拒否している。1300年に渡って彼女は歴史の評価を正そうとしてきた。何も書かれていない石碑こそ完璧な記念碑だ。」
The Secret History of Chinese Female Emperor
https://www.youtube.com/watch?v=fteAJVZfJ2s

補足(Wikiより)
武則天とは七世紀の唐代に活躍した皇帝である。中国の長い歴史の中で唯一の女性皇帝。低い身分から権謀術数を駆使して李氏唐朝を簒奪するまでに至り、また容赦ない大量粛正を行ったせいで前漢の呂后、清の西太后と共に中国三大悪女の一人に数えられる。一方で唐の興隆を継承した優れた政治家として評価もされており、男尊女卑の儒教の影響もあって時代によって毀誉の分かれる人物である。日本では彼女の皇后としての側面を重視した則天武后という名称が主流である。最近の中国では皇帝としての面を強調した武則天の呼称が主に使われている。
(完)

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mh徒然草119: 高齢者の交通事故に思う。


今日は11月14日です。老人の運転手が引き起こす交通事故がニュースで話題になっています。主人が重篤な病気で入院していて、83歳の奥さんが連日、見舞に行き、徹夜の看病の翌日、駐車場を出る時にブレーキを踏んだのに加速して2人をひき殺してしまいました。横浜では痴呆症と思われる87歳の老人が1日中、軽トラックを運転していて、通学中の小1男子をひき殺してしまいました。夜10時のTV“報道ステーション”では冒頭で「今日だけで高齢者による交通事故が4件ありました。どうすれば防げるのでしょうか。」とあり、免許更新時に高齢者講習が義務付けられること、認知症が疑われる事故(逆走など)を起こしたら専門医による検査が義務付けられるだろうこと、が紹介され、法制度と自動車の安全機能の両面からの見直しが必要だろうと結んでいました。

高齢者が引き起こす交通事故を減らすため、免許証の返上運動や、免許更新時の認知症検査の義務化など、高齢者から免許証を取り上げる方向からの取り組みに焦点が当てられているようです。中には、自治体などがバス・サービスを導入し、高齢者が運転しなくても、移動できるような工夫をすべきだとの意見も出ていますが、mhが思うに、自治体が高齢者対策でバスやタクシーなどの移動サービスを強化する案は簡単には進まないと思います。というのは、システム導入で自治体の出費が増え、赤字が増加するばかりだという判断が行政側に働くと思われるからです。

しかし、我が横浜市では70歳以上になると年間6千円ほどでフリーパスがもらえ、市営バス、市営地下鉄は乗り放題になります。mhも来年の誕生日にはその権利を得られるので、パスを申し込むつもりでいますが、歩いていけるところなら、歩けるうちは歩こうと思っています。だって、健康にもストレス解消にも、歩いた方がずっと好いですからね。

高齢者が自動車を運転するのは、mhは反対です。事故を起こす確率は高く、ひき殺された人は不運すぎるし、その家族は悲劇すぎ、ひき殺してしまった高齢者は事故の償いのために余生を過ごすことになるなんて悲しすぎます。そんなことが起きないよう、高齢になったら、元気なうちに車の運転はやめることを強くお勧めします。

交通事故で人をひき殺した場合、過失(過失運転致死傷罪)だとすれば、例えばブレーキとアクセルを踏み間違えたとか高速を逆走したとかして人を殺してしまった場合、法的には100万円の罰金で済むようですね。交通刑務所に1年間、強制収容されるのじゃあないかって、大した根拠もなく信じていたのですが、どうも、100万円で済むようです。しかし、殺した人の家族には賠償金を支払わねばなりません。対人無制限の保険に入っていれば、先方の要求金額がいくらであろうとも、保険会社が支払ってくれるので問題はありません。とすれば、主人が重篤な病で入院中に、見舞にいった奥方が2人をひき殺してしまった事故も、お金の上では問題は少ないのではないかと思います。しかし、83歳を過ぎた老夫婦の行く末は、ひき殺された人の家族同様、悲しみに満ちたものになるでしょう。

高齢者の交通事故では、高齢者を支援してくれる人が周囲に少ないことが根本の原因ではないのだろうか、とふと思いました。特に一人暮らしの高齢者の運転が危ないと思います。冒頭に挙げた、老夫婦の奥方が引き起こした事故では、恐らく、老夫婦だけの生活で、子供や自治体からの支援がないのではないでしょうか。でも事故時はご亭主は長期間入院中で奥方は1人でした。87歳の認知症の男性も一人で暮らしていたのではないでしょうか。軽トラックを運転していたので、例えば息子さんと同居していて、息子さんのトラックを運転していたかも知れませんが、でも、認知症なのに車を運転する環境にあったということは、車はもうあぶないからやめなさいって言ってくれる人がいなかったことになります。

高齢者は、車の運転はもう危ないって思っていても、社会から切り離されていて、頼るものがなく、相談する人もなく、従って、やむなく運転を続けているのです。事故が起きるまで、続けるでしょう。よって事故を起こす前に病気で死ぬことがなければ、事故で人を殺すことは確定しているという見方も可能です。このような事態を改善しようと、免許証を剥奪しても意味はないでしょう。無免許運転をすればいいんですから。

高齢者が車の運転をしなくても済む環境をつくることだけが、高齢者による交通事故を減らす対策だと思います。それをしなければ、社会の高齢化に伴って、高齢者の交通事故が増えるのは当然の帰結です。

以前にもブログでお伝えしたと思いますが、身内に高齢者がいたら、丁寧に面倒をみるか、それが不可能なら老人ホームに入ってもらうしか手はありません。あなたが高齢者なら、車の運転をしなくて済む生活に切り変えねばなりません。いつかは車の運転どころか、寝たきりで動けなくなってしまうわけですからね。やっぱ、人は一人では生きていけませんから、高齢化したら若い人に面倒を見てもらうか、高齢者同士で助け合って暮らせる老人ホームに入る必要があると思います。政府や自治体は、これを確実に実現することが、単なる高齢者福祉の充実というだけではなく、高齢者が引き起こす事故の削減につながることを肝に銘じておくべきです。免許証を取り上げても意味がありません。

PAUL AND PAULA - Hey Paula Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=xj-YqTQZ5iQ
(完)

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呪われたピラミッド谷の不思議

ピラミッドならエジプトだと思っていましたが、世界の不思議をテーマにブログを作っていて、エジプト以外の処にも沢山のピラミッドが残っていることが判りました。例えばイランやイラクにはジグラットZigguratと呼ばれるピラミッド神殿の跡が沢山残っています。ギリシャ人歴史家ヘロドトスはバビロンのジグラットを“バベルの塔”として記録に残しました。
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Google Earthによれば50mx50mの正方形で周囲には池があります。
バビロンから数百Km南の古代都市ウルUrのジグラットです。
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中国には始皇帝陵があります。北アメリカにもピラミッドがあるというYoutubeも見ました。少し内容に無理がある気がしたので、ブログ化はパスしましたが、メキシコやユカタン半島では、例えばマヤ文明などで数百のピラミッドが造られました。

南米でも、ペルーを中心に、ピラミッドが沢山造られたんですね。エジプトのピラミッドと同じ紀元前2千5百年頃のカラルCaral遺跡です。ブログでもご紹介しました。
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カラルから350Km北のモチェ川の河口近くにも太陽の神殿Huaca del Solがあります。
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この神殿から9km離れた太平洋岸には2016年1月4日「砂漠の王国の不思議」でご紹介したチムー王国の首都チャン・チャン遺跡が残っています。
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このチャン・チャンから海岸に沿って2百Km北に、今回のブログの舞台となるランバイエケLambayequeと呼ばれるデルタ地帯があります。
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ランバイエケにはアンデスの水を集めた2本の川が流れ込んでいます。
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2つの河口近くのデルタに・・・
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ピラミッドが・・・
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何百も造られました!!!
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ピラミッドの裾で発見された埋葬地に見つかった一つの墓。
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今回ご紹介する「呪われたピラミッド谷の不思議」は、仕事でペルーを訪れていたドイツ人技師ハンズ・ハインリッヒ・ブルーニングHans Heinrich (Enrique) Brüningがランバイエケを調査して世界に知らしめたピラミッド文明を巡る恐ろし~い物語です。
ハンズ氏は結局、ランバイエケの調査と保存に半生を捧げることになりました。収集した工芸品はペルー共和国に安く売却され、ランバイエケに建てられたブルーニング国立博物館に展示されています。
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展示物1:黄金のマスク(墓から発掘)
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展示物2:土器
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展示物3:ネックレスの拡大写真。髑髏が・・・
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女性用とは思えません。
きっと恐ろしい祈祷師か残酷な王が・・・怪しい儀式で・・・

・・・・・・・・・・・・
彼らは地上で最後のピラミッド建造民族と言えるだろう。
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不可解な文明を持っていた。アンデスの隔絶されたランバイエケの谷間で、ピラミッドを建設しなければならないという執念に憑(と)りつかれていたようだ。その強迫観念は恐怖に変った。暴力と流血は受け継がれ、ある時、突然、彼らが築いてきた全ての文明が地上から消え去った。
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最近になってから、この文明を突然の終焉に追い込んだものが何なのかを説明する証拠が明らかになった。彼らを恐怖に追い立てていたものは何だったのだろう。

古代の失われた都市:呪われたピラミッド谷
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ペルーの北部、アンデスの麓の丘に隔離された谷間がある。過去の出来事で今でも呪われている所だ。
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昔、ランバイエケ谷で暮らしていた人々は、ピラミッドを造ることが生き残るために重要なことだと信じていたようだ。彼らは250ものピラミッドを造った。古代世界における建築技術の傑作の一つと言えるものだった。広い谷間に造られたこれらの記念物monumentsは辺りの風景を威圧していた。
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しかし、ある日、何か恐ろしい事がこの谷間に起きて250のピラミッドと共に文明が消滅し、その後、何世紀もの間、外の世界から忘れ去られていた。
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そうとは気付かずにこの谷間にやって来た一人の男の仕事によって、失われていた文明がとうとう外の世界に知られることになる。
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(mh:ハンズがランバイエケ谷を訪れたのは1883年頃のようです。)

ハンズ・ブルーニングは偶然、探検家で考古学者になった人物だ。彼はドイツからペルーを訪れていたサトウキビ処理工場の機械技術者だった。滞在中に失われた文明に出くわすことなど考えたことも無かったはずだが、残された人生は失われた世界のために費やされることになる。
当時、失われた世界で見つかる宝物は、掘り出され、散在している田舎の鍛冶屋で溶かされてから売りさばかれていた。
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ペルー人の仲間「もし興味があるなら、あれと同じようなものを安く買えるよ。例えばあれは20リブラだ。安いだろ?あそこに見えるお面は100リブラだ。」
ハンズ「200リブラを払うから溶かすなって伝えろ!さぁ早く!」
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ブルーニングはお金のために何Kgもの黄金や銀の工芸品が溶かされて歴史から永遠に失われてしまうのを食い止めることは出来なかった。
しかし、彼は、これを機にユニークな工芸品が消滅してしまう前に助け出そうと誓った。そして、工芸品の出処を探すため、ペルー人の仲間を案内に砂糖工場を出発した。技術者としての人生を諦(あきら)め、考古学者、探検者として生きることに決めたのだ。
彼は太平洋岸からアンデスの麓に広がるランバイエケ谷を通って旅をしていた。
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周囲には妙な風景が広がっていた。その時、失われた文明は既に彼の周りにあったのだ。
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彼にはそれが見えていなかった。しかし、丘に登ると、この谷の秘密が目の前に開けていたことに気付いた。
ハンズ「なんてことだ。山が煉瓦(れんが)で出来ている!この山はピラミッドだったんだ!」
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周囲に見える全ての丘が、昔は煉瓦で造られていたピラミッドだった。
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数百年経過して浸食されたピラミッドは丘に変り、風景の中に隠れていたのだ。
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彼は失われた文明から集めた工芸品を展示する博物館を創り始めた。撮影した数百枚のピラミッドの写真は世界の関心を集めることになった。
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彼の主な関心は、文明が造り上げて来たピラミッドの研究だった。
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ペルー人の仲間「あそこはプレベトリーアって呼ばれている場所だよ。山だ。恐ろしい霊魂が棲んでいる所だ。とても力があるんだ。人だって殺す。あそこには地獄の入口があるって、みんな言ってるよ。」
ハンズ「で、お前は信じているのか?」
ペルー人の仲間「地元の人は沢山のことを信じているよ。口先だけかも知れないけど。」

ブルーニングはこの伝説を無視してプレベトリーアに行くことにした。今はトゥクメイTucumeと呼ばれる場所だ。それは谷間に横たわっていた。住民は入ることを恐れている場所だった。
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ペルー人の仲間「ここから写真を撮ればいい。」
しかし、ブルーニングはトゥクメイに入って行った。そして世界の他の場所では決して見つからないユニークな構造の、失われたピラミッドの都市を見つけたのだ。そこには26もの廃墟となったピラミッドが聳えていた。トゥクメイは失われた文明の中の最後のピラミッド都市だった。そこに入り込んだ時、呪術医が特別な儀式のために、その場所を使っていることに気付いたが、昔、行われていた儀式については、ブルーニングは知る由も無かった。
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ハンズ・ブルーニングはこの谷とそこに住んでいた住民に関する研究に残りの人生を捧げた。しかし、何故、こんなにも多くのピラミッドを造ることになったのか、文明を消滅させる何がトゥクメイで起きたのか、については、何も判らないまま死んでしまい、仕事は後世の人たちに残されることになった。

凡そ1百年後、国際的な科学者で構成された考古学分野の調査チームが、ブルーニングが遺した謎を解くため、新しい技術を持ち込んで集まった。現場考古学者、気象学者、遺骨専門家などで、調査の目的は、暮らしていたのはどんな人々だったのか、何が彼らに沢山のピラミッドを造らせることになったのか、文明を消滅させる何がトゥクメイで起きたのか、を調べることだった。
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考古学者たちはランバイエケ谷のピラミッドの位置を注意深く地図上に記していた。沢山のピラミッドが集中している文化は他の地では見られないものだ。
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サンドワイズ教授「ここはピラミッドの谷だ。沢山ある!今はトゥクメイで調査しているが、周辺の小山はみんなピラミッドなんだだ。こんなにピラミッドが集中している場所は世界に類がない。ランバイエケ谷全域では3つのピラミッド都市が突出している。まずはパンパ・グランデPampa Grandeだ。ここには一つのピラミッドしかないが、巨大なんだ!」
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高さ50m、幅200mはある。

サンドワイズ教授「次はバタン・グランデBatan Grandeだ。6つのピラミッドがある。」
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「そしてトゥクメイTucumeには26ある。南アメリカで26もピラミッドが集まる場所はここだけだ。」
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サンドワイズ教授「昔、パンパやバタンのグランデGrandeでは数個のピラミッドがあっただけだった。それがトゥクメイとなると信じられない数が造られているんだ!」

ピラミッドを造った人々は文字を使っていなかった。彼らが自分たちを何と呼んでいたのか、誰も知らない。そこで谷の名からランバイエケ(人)と呼ばれることになった。ランバイエケは西暦700年頃には繁栄していた。彼らは数千年前にペルー北部でピラミッド文明を創り上げた人々の子孫だ。
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しかし、ここランバイエケでは、人々はピラミッドを建設することに憑りつかれていたようだ。一体、何のためのピラミッドなのだろう?何故、ランバイエケはこんなに沢山のピラミッドを造ったのだろう?

ピラミッドを造る文明では全て、ある目的を持っていた。彼らが信仰するものの中心がピラミッドだ。数十の文明がピラミッドを造っている。しかし、ランバイエケのピラミッドは、それらのどれもと異なる。
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サンドワイズ教授「ピラミッドと言えば、まずはエジプトのピラミッドが頭に浮かぶ。巨大で、先端が尖(とが)っている。統治者の墓として造られた。一つの時期に、一つの目的で一つ造る。それだけだ。」
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サンドワイズ教授「アステカのピラミッドも良く知られている。マヤでもそうだが、ピラミッドは寺院だった。時には内部に墓もあるが、主には儀式用の建物だ。」
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しかしトゥクメイでは、ピラミッドの構造が世界のどのピラミッドとも全く異なる!
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大きさが全て異なる26のピラミッドは中央にある山の周りに集中して造られている。ピラミッドが広がる地域は広く、1マイル(1.6Km)平方くらいだ。中でも一つの建物が突出している。そこでは、大きな、長方形の高台が山の隣に設けられている。
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サンドワイズ教授「我々は世界で最も大きいピラミッドではないかと考えている。それが都市の中央にどんと座っているんだ。」
長さ700m、高さは20m以上、上層はフットボール場7個分のオープン・スペースになっている。
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ピラミッドは一つの塊(かたまり)構造で、内部には何も造られていない。頂きは全て切り取ったように平面になっている。墓や寺院が造られていた痕跡は全く見つかっていない。
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サンドワイズ教授「これこそが世界の他の場所で造られたピラミッドと異なる点だ。」
ピラミッドに登る道は一つで、ランプ(ramp坂道、スロープ)で出来ている。
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ここのランプは長さ120mもある。ランプを登り切ると迷路のような通路が続いている。この構造も世界で類がない。
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ピラミッドが社会の中心だったことは間違いない。住民が持つ全ての資源を投入しなければ、こんな巨大なピラミッドを造ることなど出来ない。数千人が、時間をかけ、組織的に労役(ろうえき)を提供したはずだ。煉瓦は泥で造られ、日干しされている。その数は気が遠くなる程だ。作業は兵役のようだっただろう。全ての煉瓦には、どこの作業場で造られたものかを示す印が付けられた。
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ランバイエケ谷にはこのような作業場が数百も群がっていた。
サンドワイズ教授「これが煉瓦に付けられていた印の例だ。」
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「足型状のもの、渦状のもの、T字形のもの、などだ。彼らには文字が無く、記録システムを持っていなかった。しかし、何かを示す記号は使っていたんだ。煉瓦で見つかった記号は80もある。それはある発掘場所からだけのものだ。ランバイエケ谷全体では数百の記号が使われていただろう。」
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何かが、ランバイエケの人々をピラミッドの組織的な建造に駆り立てていたのだ。炭素年代測定によれば、トゥクメイで最初にピラミッドが造られたのは西暦1100年だ。その後4百年の間に、更に多くのピラミッドを造り、それ以前に造られたピラミッドを拡張してもいた。建築モデルが現場で見つかっている。ピラミッドは計画に従って組み上げられていたのだ。このピラミッドの建造では、煉瓦を造るだけでも2千人で1年が必要だった。それ以外に、ピラミッドを組み上げる軍隊のような作業者たちがいた。さらには彼らの食事を調理する数百人の料理人も必要だった。従って一つのピラミッドを完成させるには数千人が数年間、働かねばならなかったのだ。
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トゥクメイには、このピラミッド以外に25のピラミッドが、谷全体では、更に2百もある!

ピラミッドの建設はランバイエケ谷の住民にとって負担が大きい事業だった。とすればピラミッドは人々の強い願望を満たすものでなければならなかったはずだ。
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それが何であれ、ピラミッドがどのように使われていたかに関係しているはずだ。ピラミッドの最上層にヒントがある。これは発掘された、あるピラミッド群の一つだ。石には装飾が施されている。
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この部屋の直ぐ外で、考古学者たちは、いくつもの食糧の小山を見つけた。ラマや大型魚の骨も出て来た。かなりの量だ。ピラミッドの上で、このようなものが見つかるのは普通ではない。
ベルー人考古学者「我々は多くの台所用品も見つけた。炭が残る炉や、植物の種や動物の骨や、土器の欠片も。これら全ては、そこで調理が行われていた証拠だ。」
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発掘が進むにつれ、更に食物の層が現れた。ピラミッドの上では豊かな人々が暮らしていたのだ。
ベルー人考古学者「これらの証拠から、ピラミッドの上で、人々が長い間、生活を続けていたことが判る。一時的な儀式の場所という訳ではなかったんだ。」
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そしてピラミッドの最上部で、35歳の男の遺骨が見つかった。
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考古学者たちは、ここに住んでいた男だと考えている。宝石類と鳥の羽で編んだ頭飾りを身に付けていた。
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一帯を統治するエリートだったのだ。
サンドワイズ教授「ここがトゥクメイのリーダーが暮らす王宮のような場所だったことは間違いない。」
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つまりトゥクメイでは、統治者たちは何世代もの間、ピラミッドの上で暮らしていたのだ。アンデス一帯の全ての支配者がそうであったように、これらの統治者も神のような扱いを受けていたのに違いない。
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彼らは世界を思いのままにできる不思議な力を持っていたと主張していたはずだ。トゥクメイは26人の王が26のピラミッドの上で暮らしていた。考古学者たちはこれらの王が谷全体を統治していたと考えている。
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この地が持つ何かが、彼らを、ピラミッドを引き付けていたのだ。
サンドワイズ教授「トゥクメイではそれぞれのピラミッドの上にそれぞれの王がいた。力が大きな王は大きなピラミッドを造っただろう。」
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「小さなピラミッドは小さな権力の王が造ったはずだ。いずれにしても26人の王がいたのだ。」

この大きなピラミッドの上にも王が暮らしていた。その場所へ行くには、長々と続いているランプ(スロープ道)を登って行かねばならない。王は、ピラミッドの中心の最も高い場所に暮らし、住民とも謁見していた。
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王の住居の後ろには広い台所があった。ラマの肉は王の好物だった。台所の近くで考古学者は作業場や倉庫の跡を見つけている。
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人々の活動やそれに伴う騒音がやむことは無かっただろう。
王の住居の前方は全く異なる機能を持っていた。広大なスペースが大集団で行う儀式のために確保されていた。
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しかし、26人の王たちは何故、この場所を選んで集まっていたのだろう?
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そのヒントはトゥクメイの中心にある山だ。
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ペルー人考古学者「ペルーでは古代から山は神聖で、神秘的な力を持っていると信じられていた。」
伝えられている話によれば、神は自然を自由に操(あやつ)る力を持っていると信じられていた。
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雷の轟きは神の声だ、稲妻は神の怒りだ。しかし、最も偉大な神は山に住んでいる。

神々が怒ると人々に害をもたらす。神はアンデスの水を操(あやつ)って、人々に生と死をもたらす。水が無ければ谷は砂漠になる。
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考古学者たちは、自然を操る不思議な力を持つ神聖な山のレプリカがランバヤキに造られたのだろうと考えている。
サンドワイズ教授「後ろに在るのがトゥクメイの山だ。トゥクメイの中心に控えている。アンデスの山と同じように超自然的な力を持つと考えられていた。」
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「山の前のピラミッドは、山が持っている力を掴まえる場所だ。つまり恐ろしい力から人々を守る所だ。」

これがランバイエケ谷の理屈だったのだ。人々はピラミッド建造のために労役に従事した。彼らは不思議な力が山にはあると信じていた。ピラミッドの頂には、最も恐れているものから彼らを守る力があると信じていた。
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しかし、この谷で暮らす人々がそんなにも恐れていたものとは何だろう?身を守るためとはいえ、何故、こんなに沢山のピラミッドを必要としたのだろう?

考古学者たちは、谷に残された3つの偉大な遺跡の中から、その答えを見つけたと考えている。都市の炭素年代測定結果は驚くべき事実を提供している。これら3つの都市は同じ時期にあったわけではなかった。以前からあった都市が何らかの理由で放棄された後に、別の都市が造られていった。まず、パンパ・グランデが造られ、数百年後、突然、放棄された。(mh:600-750年)
その直後、バタン・グランデが造られた。これも、ある時、突然、放棄された。(mh:750-1100年)
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最後に造られたのはトゥクメイだ。広大な都市で、多くの労力が注ぎ込まれた。しかし、これもある時に放棄され、それが、この文明の終焉となった。(mh:1100-1500年)

放棄されたこれらの都市には共通する妙な痕跡が見つかった。人々が都市を放棄する直前、ピラミッドの最上層に火が放たれていたのだ。この痕跡は全ての都市で明確に残されている。トゥクメイの主要な王宮の跡には、火で焼かれて赤茶けた煉瓦が残っている。
ペルー人考古学者「この煉瓦から、強烈な火で焼かれたことが判るのよ。石の表面が赤くなっているだけではなく、焼けただれている箇所もあるの。」
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しかし、この火が侵入者や攻撃者たちによって放たれたことを示す証拠は見つかっていない。ピラミッドの住民が自分たちで焼き払ったようだ。
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サンドワイズ教授「数百の重要な場所で同じことが起きている。それで終わりだ。以降、そのピラミッドには戻っていない。」

苦労して造ったピラミッドを簡単に焼き払って放棄するということはどういうことなのだろう?それを理解するのには何か不吉なものを予想せざるを得ない。ペルーでは浄化して悪魔祓いするために火を放つ慣習がある。
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ペルー人考古学者「火はとても大切なものだ。その場所を浄化して神聖にする。悪い力や不吉なものを焼き払う力があるのだ。」

考古学者たちは谷の古代の住民が最も恐れていた超自然的な力の痕跡を地域一帯で発見した。それが攻撃してくると、人々はピラミッドに火を放って浄化し、放棄していたのだ。この地域は地球上でも最も厳しい気象災害に晒されている。その災害から人々を守ることこそがピラミッドに棲む神の責任だった。
考古学的な地層調査からパンパ・グランデやバタン・グランデが大洪水に襲われていたことが明らかになった。
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一方、モチェの神殿複合体(mh:チャン・チャンです)は砂嵐に襲われて埋没してしまった。洪水や旱魃(かんばつ)はエルニーニョとよばれる現象で引き起こされ、今でもこの地域を襲っている。
(mh道路には泥水が流れています。)
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これこそがランバイエケ谷の人々が恐れていた超自然的な力ではなかったかと考えられている。なぜなら、この現象はランバイエケでは神々が怒って引き起こされるものだと信じられていたのだ。そして、神々の怒りが人々に及ぶことがあるなら、それはピラミッドの役割が果たされなかったことを意味する。
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サンドワイズ教授「洪水が谷を襲えば、人々は流され、農作物は壊滅的被害を受けて飢饉が起きた。その都度、人々は、ピラミッドやそこに住む王が役割を果たさなかったのではないかと疑いを持ち、ピラミッドを放棄して、新しいピラミッドを造ることにしたと考えられる。」

これこそがランバイエケ谷に憑(と)りついていた因習だった。大災害を回避できなかった時、ピラミッドは呪われてしまったと考えられ、火を放って浄化した後に放棄されたのだ。その後、新しいピラミッドが造られ、取って代わった。それで、谷のあちらこちらにピラミッドの跡が残されることになったのだ。

ランバイエケ谷で、最後で最大のピラミッド都市トゥクメイが造られた時、状況は変わっていた。ここには大災害の跡がない!
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にも拘らず、トゥクメイの人々がピラミッドに放火し、その後、文明が永遠に消滅することになったのは何か別の理由があったのに違いない。

劇的な発見が、トゥクメイ最後の日、何が起きたのかを説明してくれそうだ。考古学者たちは偉大なピラミッド都市とランバイエケ文明が終焉に到った過程を探り当てたと信じている。
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それは考古学者たちがピラミッドに続く2つの歩道に気付いたことから始まる。
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歩道は直角に曲がりながら都市を走っていた。その道は都市のある地点を通過していた。
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そこに小さな建物跡があった。調べると寺院であることが判明した。
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そここそがトゥクメイの儀式の中心だったのだ。
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ランバイエケ谷に危機が起きた時、人々はこの寺院に集まり、供え物をして神に怒りを収めてくれるように祈った。
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一連の供え物が寺院発掘場所から見つかっている。
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寺院の中心の石は山とそこに住む全能の神を象徴している。ここでの儀式こそが世界を導くものだと人々は考えていた。しかし、ランバイエケ文明の最後の日、この寺院で行われた一連の供え物は暗い面を持っていた。

2005年の夏、寺院の外で見つかった人骨を調査するため科学者たちが招集された。その時の発見は谷の文明が最後の日に辿(たど)った不吉な変化を露(あら)わにすることになった。
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科学者マリア「この骸骨は恐ろしい事がこの人物に起きたことを暗示しているの。体は通常の状態で埋められていたけど、頭は捻(ひね)られているのよ。」
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頭は脊髄から切り離されている!
マーラ「背骨と頭をつないでいた骨を見ると切断の跡が見えるわ。ほら、こんなにきれいに。前から後ろにスパッと切ったのよ。間違いなく、首切りが行われたのよ。」
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この人物は自然死ではなく、殺人だったことが明確になった。女性や子供を含め、全部で119の遺骨が寺院の外で見つかったが、多くは斬首されていた。使われていたナイフも見つかっている。
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全ての証拠は人間の生贄(いけにえ)が行われていたことを示している。トゥクメイの生贄はこの地で行われた最大のものだった。
マーラ「世の中で何か、恐ろしいことが起き、その理由が判らない時、人々は神に祈るために生贄を捧げたのよ。」

遺骨は5層になって埋められていた。ほとんどは最上層に、つまり最後に行われた生贄の数が多かったことを示している。その日こそトゥクメイ最後の日だったはずだ。
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マーラ「生贄の数が増加していったっていうことは何かが起き続けていたことを示していると思うわ。一人の生贄では不足したので、2人、3人と増やしていく必要に駆られたのよ。」

トゥクメイの最後の時、何か恐ろしい出来事があり、それを取り除くために最も大切なものを神に捧げなければならなくなったのだ。男や女の、時には子供の血を。若ければ若い程よかったはずだ。
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生贄の数はトゥクメイの最後に向けて増加しているようだ。考古学者たちは生贄の増加と都市の終焉は関係があると考えている。この新発見で、考古学者たちはトゥクメイ最後の日に何が起き、何故、どのように文明が消滅することになったのかを語ることが出来ると考えている。

全ては1532年に始まったのだ。その年、ランバイエケ谷から遠く離れたペルー北部にスパニッシュ・コンキスタドールがやって来た。この、外の世界からの侵入者たちは、古代の神がアンデスを歩くかの如き、4本足の生き物に乗っていた。そのニュースがランバイエケ谷に伝えられた時、人々は驚き、何事が起きるのだろうかと慌てふためいた。実際の所、コンキスタドールたちがトゥクメイに来ることはなかった。しかし彼らがペルーに滞在している話が伝わってくるだけで、人々は慌てふためいた。
ペルー人考古学者「彼らはトゥクメイには来なかったが、彼らの話が人々を震え上がらせていた。彼らは見たこともない動物、馬だが、に乗っていた。南アメリカでは知られていない動物だった。」
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スペイン人が南アメリカに到着した時、ランバイエケ谷はインカ帝国の勢力下にあったことが遺跡で見つかった工芸品から判明している。インカもランバイエケも、スペイン人の出現は神の怒りの現れだと考えていた。今こそ、神に捧げものをしなければならない!
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しかし、スペイン人がやってきて1年もしない内に、本当に恐ろしいニュースがトゥクメイに届けられることになった。スペイン人はトゥクメイから遠く離れた高地の町で、インカの神ともいえる皇帝を捕え、殺してしまったというのだ!このニュースは溜(た)まっていた恐怖に火を点けた。今こそ、神にもっと重要な貢物を捧げる時だ!人の生贄だ!
トゥクメイ最後の日、寺院の外で何が行われたのかは見つかった証拠やスペイン人の歴史書から明らだ。最高位の祈祷師は寺院の前にある神聖な山の象徴の石に語り掛ける。
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別の祈祷師は雷の神に、別の祈祷師は稲妻(いなずま)の神に語り掛ける。生贄の効果を高めるため、儀式は寺院の外に場所を変えて続けられる。インカの統治者でもあったランバイエケの王たちは寺院の周りに集まっている。
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最高位の祈祷師は石に青い粉を吹き付ける。その痕跡は考古学者によって確認されている。面を顔につけ、祈祷師は神の姿になる。
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いよいよ殺害が始まるのだ。
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119の骸骨は、寺院の外でどのような儀式が行われていたかを語っている。
マーラ「遺骨を調べると、犠牲者が暴れた跡が見つからないの。殴られた跡もないわ。でも、首の骨が見事に切られている跡は見つかるのよ。それは見事な仕事で、何度も刃物で切りなおした痕跡もなく、スパッと切っているの。手を見ると縛り上げられていた証拠は見つかっていないわ。」
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これらの犠牲者を縛り上げる必要はなかったのだ。彼らは予めマラと呼ばれるドラッグを与えられていた。マラの種が寺院の外で見つかっている。
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マラは体を麻痺させる成分を含むドラッグだ。悲惨な運命だったとしか言いようがない。最後の瞬間、彼らは反抗する力を奪われていたのだ。
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いよいよ犠牲者が寺院に引き連れられてきた。彼は既にマラを沢山与えられている。体の全ての筋肉は麻痺して力を失っている。暴れることも、逃げることもできない。
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しかし、意識だけは残っていて、何が行われようとしているのか判っていただろう。

斬首された後で行われたことは骸骨を調べると判る。
マーラ「119の遺体のうち、およそ90には首に切断の跡が見つかっているの。この切断は系統立てて行われたのよ!」
全ての切断の跡が同じだ!その跡から科学者たちはどのように生贄が行われたのかを知っている。使われたのは刃物だ。
マーラ「切断跡の位置や角度は同じで、使われたのはナイフよ。喉から後ろ側に切り裂(さ)かれたのよ。犠牲者の後ろからナイフを喉に当ててかき切ったのよ。喉からほとばしる血は前に飛んでいくので後ろにいる殺害者にはかからないわ。喉の左から右にかきあげるようにナイフで切断したの。その時、犠牲者は四つ這いの姿勢だったはずだわ。殺害者は犠牲者の頭を掴んで少し持ち上げてからかき切ったのよ。」
しかし、喉を切り裂かれ、首が体から離れたからといって、儀式が終わったわけではなかった。
マリア「骸骨を調べていたら、特徴的な傷を見つけたの。この左の肋骨(ろっこつ)には7つの切り跡が残っているの。」
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「胸の中央で、骨が切り取られているものもあったわ。胸を切り開いていたのよ。」

人間の生贄の最後の瞬間に行われたこととは、寺院の外で、犠牲者の心臓を取り出すことだったのだ。この偉大な文明の最後の日、生贄の儀式は寺院の外で何度も行われた。祈祷師は薬で麻痺した犠牲者にナイフを持って近づいていった。このナイフの一つがトゥクメイで見つかっている。
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儀式で最も重要なものは血だった。後に見つかっている歴史書などから、神は人の姿をしていて、血を飲んで力を付けていたことも判っている。
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最後に犠牲者の心臓が握り取り出された。しかし、生贄がスペイン人の暴挙を止めることは無かった。神はもっと多くの血を望んでいるかのようだった。彼らの恐怖が高まり、儀式は更に過激になっていった。

調査している考古学者たちは、人の生贄は最後の日まで、連日行われたと考えている。
ペルー人考古学者「混乱が収まるまで、続けられたのだ。恐らく、連日10人以上が生贄にされたと考えている。」
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ランバイエケ文明の最後が来る直前、生贄の体は寺院の外に積み上げられていた。しかし、多くの人間の生贄もスペイン人を止めることはできなかった。王のピラミッドは、人々を保護し、世界を平穏にすることにまたもや失敗したのだ。
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ピラミッドは超自然的な力を失ってしまった。そうとなれば、行うことは一つだ。人々はピラミッドに火を放った。文明最後の直前、放火が行われ始めたのに違いない。人々はピラミッドの頂きの王宮に注意深く火を放った。呪われた都市は炎によって浄化されねばならない。
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サンドワイズ教授「トゥクメイが放棄されたことでピラミッドの建築も最後になった。もう造られなくなったのだ。恐らく3千年前に始まったピラミッド文化も終了してしまった。全てが終わったのだ。」
ペルー人考古学者「トゥクメイに火が放たれた後、都市は完全に放棄された。その後で人々が何処に去ってしまったのかは今も謎だ。」
新しい都市、新しいピラミッドを建てるために、ランバイエケの人々は町から逃げ去った。しかし、統治していたのはスペイン人だ。再び、ピラミッドや王が現れることはなかった。そうして、ランバイエケ文明は谷の中に溶けて消え去ってしまったのだ。
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Lost Cities Of The Ancients | S01E02 The Cursed Valley Of The Pyramids
https://www.youtube.com/watch?v=Ug28T073zbk
御参考
シカン文化(Sicán)
ペルー北部沿岸で750年~1350年頃のプレ・インカ時代に栄えた文化。南イリノイ大学人類学科教授の島田泉により名づけられた。「シカン」とは「月の神殿」を意味する。地名からランバイエケ文化とも呼ばれる。前期・中期・後期の3つの時代に分かれる。

トゥミと呼ばれる、裕福な家庭の副葬品である儀礼用ナイフ。伝説の人物ナイムランプ(注)の意匠。
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ナイムランプNaylamp
古代ペルー民話の人物。コンキスタドールの歴史書によれば、海から文明を携えてランバイエケに上陸し、王国を築いた。子孫は、チムー王国に占領されるまで、王として王国を継承した。

ランバイエケ谷を占領したチムー王国の伝説によると、首都チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという男によって創られ、彼の子孫が歴代の王として君臨し続けたんですね。チャン・チャンはモチェ川デルタに造られた都市ですが、この川の流域には西暦100年頃に生まれたモチェ文化の影響を受けています。

つまり、ランバイエケ谷もモチェ川デルタも、海からやって来た人によって統治されることになったんです!

ブログ冒頭でご紹介したように、ランバイエケの150Km南がモチェ川、そこから350Km南にはカラルの遺跡があります。カラルは南北アメリカで最も古い都市だと言われていて、ピラミッドもいくつか残っています。Wikiによれば、カラルは紀元前2千5百年前に生まれ、紀元前1800年に放棄されました。町が放棄されたからと言って住民が死滅した訳ではないでしょう。恐らく、旱魃(かんばつ)で農作物の収穫が激減したので、雨が多い赤道方向、つまり北のモチェ川方向、に移り住んでチャン・チャンが造られ、一部の人は更に北のランバイエケに移り住んだのでしょう。2つの文明に残る、リーダーが海から来たという伝承も、同じ文化を引き継いでいる証拠です。

しかし・・・どうして山からではなく、海から来たのか?
お釈迦様が仰ったように、因果応報、理由があるはずです。

考えられる理由の一つはこうです。
カラルを放棄した人々は水を求めて熱帯方向に移動したのですが、荷物を運ぶ必要がありました。当時、車輪がついた台車はありませんでしたから、肩に担ぐか、リャマに載せて運ぶしかなかったのですが、リャマは捕獲するのも大変なので沢山はいませんでした。それで、結局、肩に担いで運んだんです。でも、海岸の砂浜を重い荷物を担いで歩くのは重労働だったので、当時でも使われていた漁業用の船で移動することにしたんです。彼らが次の住居と決めたモチェ川デルタに着くと、そこには原住民が暮らしていましたが、何も知らない田舎者だったので、海から来た人たちが、原住民を統治することになり、国を造る偉人が海からやって来たと言う国造り物語が生まれることになりました。
恐らく、この仮説が正しいと思うのですが、客観的な証拠は何もありません。よって、もう一つの理由もご紹介しておきましょう。

理由その二です。
海岸に開けたデルタで暮らす住民は、海では魚介類を獲り、平地ではアンデスから流れ下る水を使って灌漑(かんがい)しながら野菜や穀物を育てていました。海は荒れたら出漁を控えれば済みます。しかし、山から流れ出る水は、エルニーニョで洪水になると、手が付けられません。恐ろしいものだったのですね。それで、優(やさ)しい海こそが、有能なリーダーが誕生する場所として相応しいと考えたんです。山から来たとなると神様になってしまいますし、山のどこから来たのか?と聞かれた時、眼に見えている山のどれかを示さなければなりませんが、そんなところに神や人が暮らしていないことは誰も知っていました。でも、海だと、何処まで行っても海しか見えなかったので、海の遠くから来たと言い張っておけば、それ以上の詮索(せんさく)が出来ないので都合が好かったんです。で、リーダーになった人が、私の祖先は海から来たのだ、平民とは違う出自があるのだ、ということで国造り物語を創造することにしたのです。

日本でも天皇の祖先がどこから来たのか、時々、話題になることもあったようですが、神の子孫だというのはさすがに嘘っぽいですから、所在が分からない高天原から来たことになっています。
Wiki高天原によれば、その所在は天上説、地上説、作為説の3つあるとのことですが、海の向う、例えば朝鮮、から来たと考えることもでき、我が女房殿によれば、今上天皇が、“そうかもしれないなぁ”って仰ったことがあるとか。昔のことなので、どこから来たのか、いくら考えても答えが出るとは思えませんが、天上説じゃあないことだけは間違いないでしょう。
(完)

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mh徒然草117: 病院に行ってきました。


病床数500の大きな病院の口腔外科で、12月8日、親不知を抜歯するために入院する予定ですが、1ヶ月前の11月初め、担当医から突然電話があり“骨肉腫の確認のため、サンプルを採りたい。いつ来院できますか?”って言うんです。えぇ?骨肉腫?何で、今頃そんなこと調べなきゃあいけないの!いつ、どうして、その気配があるって判ったの!
でも電話で、抜歯の前にやっておきたい、っていうので、余り細かく聞かずに、とにかく、指定の時間に伺いましょ、ってことにしました。
で、今、11月7日午後5:30ですが、手術を終え、ショッピングも済ませて家に戻り、このブログの作成を始めた所です。

女房も、一体全体、何が起きているのか判らないから、一緒に行って医者と話しをしたい、っていうので、二人で、説明を聞きました。

医者は、“類似のケースで、骨肉腫が見つかったことがあり、その場合は抜歯治療の方法を変えないといけないので、事前に、骨肉腫の有無を確認することになった。確率は1万人に1人くらいだが、念のためにやっておく方がよい”と勧めます。6月に抜歯を済ませておけば、こんな話は無かったんですが、メキシコ旅行帰りで、下痢が激しく、手術日程を変更してもらったんです。本来なら7月にでもやっておけばよかったんですが、どういうわけか、医者の方の日程が採れないんで、結局12月に延びた訳ですが、6月なら不要だった骨肉腫検査を強いられたmhは、不満たらたらです。今日だって、30分で済んだとはいえ、親不知のある場所を恐らく2cmほど切り開き、あごの骨に付着している肉を骨ごと削り取り、7,8針縫われたんです。まだ、麻酔が効いていて、若干、口に痺(しび)れが残っているんです。数日、痛みを伴うだろうってことで、薬を飲むことになっているんですが・・・

で、病院ですが、やっぱ、年寄りが多いんですねぇ、患者のことですが。で、私も若い歯科医に、何でそんな検査が必要なのか、パスできないのか、ってなことを言ったんですが、一緒にいる女房殿が、きちんと見てもらうべきよ、と言い、その一言で、手術してもらう腹を決めたんです。手術が終わり、暫く、部屋の外で待っていると、私と同じような老人夫婦が診療室に入りました。私の手術をした若い歯科医が、患者の老人(男です)に、“見ちゃった以上、治療しないで放っておくのはお奨めできません。”てなことを言っているのが聞こえました。患者は、痛い思いをしたくないし、これまで問題なかったんだから、と私と同じような事を愚痴って駄々をこねていました。で、その駄々が長々と続くんですね。おかげで私は随分と待たされました。私も少し、駄々をこねたんですが、もっと年を取れば、もっと長々と駄々をこねるようになるんだろうな、つまり子供のようになるんだろうな、などといろいろな思いにふけながら、自分の呼ばれる番を待っていました。

病院に行くと、高齢化が進んでいることを実感します。年寄りばかりです。車いすに乗った80過ぎと思われる痴呆症のような女性を、夫と思われる男性が、面倒を見ていました。老人が老人を介護する老々介護の時代が始まったんですねぇ。1ヶ月ほど前にTVで見た、北欧の老人は、年金だけで暮らしているのに、mhの団地の部屋と同じくらいの広さの老人ホームの部屋に一人で暮らし、食事や洗濯は全て若い人たちが対応しているんです。日本は北欧と比べたら、老人福祉は格段に遅れていることを実感しました。いずれ我が家でも、女房殿や私のいずれかが、寝たきりになる時がくるか、または恐らく私が先に逝き、女房殿は一人になる訳ですが、自宅で一人で暮らしていたら、孤独死を迎える確率は高いでしょう。よって、元気なうちに老人ホームに入るつもりでいるのですが、ホームの空きは少なく、環境がいいホームなら結構な費用がかかるようで、年を取って寂しい一人暮らしをしなくてすむよう、若い時からお金を貯めておかねばならないっていうのは、どうなんでしょうかねぇ。いろいろ楽しみたい年齢の時から、年を取って一人暮らしになる時のために、楽しみを我慢して暮らす生活を強いられるのは、どう考えても、間違っていると思います。いっそのこと、北欧に逃亡しようかとも思いました。

もう、麻酔が切れかけ、少し痛みが増してきました。今晩は、痛み止めを飲んでからベッドに入るつもりですが、痛み止めは既に1回飲み終えているので、今日はあと1回しか飲めないから、暫く我慢しなければなりません。辛い夜になりそうですが、昨日、東京のあるフェスティバルで工業大学の木造のジャングルジムのようなオブジェクトが白熱電球の熱で発火し、5歳の男の子が焼け死にました。父親が救いに飛び込んだようですが、子供の救出は叶いませんでした。焼けどを負った父親の命は別条はないようですが、心に受けた傷は一生、完治せずに残るのだろうなぁと思うと、私の今の痛みなど、屁のようなものです。人間って、いろいろな痛みを感じながら生きていくものなんだなぁと思います。その痛みを和らげてくれるのは、身近な人です。幸せな老後を迎えるためには、家族や友達など、兎に角、大勢の仲間を持つことが一番だな、って思いました。
チクチクと痛みが増しつつあります。今回はこれで終わりましょう。

追記:11月8日
朝8:45、徒歩30分の病院に行ってきました。術後の確認だけで、1分で終了し、14日には抜糸することになりました。病院に出かける前ですが、NHK―TVの7時のニュースにひき続いて紹介された特集番組で、痴呆症の妻を11年ほど世話をし、その妻が逝ってから、妻との生活を本にしたところ、これが映画化されたということで、映画の概略が紹介されていました。妻は死期が近づいた時、夫に“ありがとう”って言ったって言うんですね。見たら、きっと感動すると思いますが、しかし、老々介護を強いている政府は間違っているって思いました。誰もが、いつかは、年を取り、夫婦で、または一人で、暮らすことになり、それを政府が放置し、援助しないというシステムは間違っています。誰でもみんな、老人ホームに入って、お金の心配も身の回りの世話の心配もしなくて暮らせる体制を整備すべきです。元気で、一人で暮らしたいという人は、個人の希望で、老人ホームに入る時期を遅らせればいいわけで、元気なうちは老々介護か一人暮らしをしていなさい、というスタンスの老人福祉では、誰も安心できません。介護に疲れ、無理心中する老夫婦のニュースも時々、TVで目にします。福祉が貧困な証拠です。こういう状態を知ると、若者も老後の心配をしながら、若い時代を過ごすことになり、のびのびした人生を満喫することは出来ないでしょう。老人の一人暮らしや、老々介護を解消する施策こそが、老人だけではなく若者も心やすらかな人生を過ごす必要条件だと思います。それが出来ていないまま、経済発展だ、国土防衛だ、などと言っている日本は遅れている国家だとしか思えません。

John Denver- Sunshine On My Shoulders (with lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=o3ZOP-uAt2s

(完)

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サハラの骸骨の不思議


今回はニジェール共和国Republic of Nigerのサハラ砂漠に眠っていた骸骨(がいこつ)を巡るお話しです。
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テレーネTerene国立保護区内の、ゴベロGoberoと呼ばれる砂漠の中の地点。西には黒い岩肌の山地が広がっています。
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岩山には、ほとんど緑がありません。
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しかし、Google Earthをよく見ると、岩山の裾や砂漠の中の所々に緑や井戸が見つかります。化石水でしょうか、それとも岩山に降る雨が地下水系で流れ込んでくるのでしょうか。

“ゴベロGobero”はこの岩山の東側の砂漠一帯に現地人が付けた名です。ご紹介するYoutubeはこのゴベロで見つかった骸骨のお話しですが、ゴベロ南東100Km位いの砂漠に妙な写真が見つかりました。タイトルは“UTA772Memorial”。
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調べると、1989年、パリに向けてチャドのンジャメナ空港を発ったUTA航空772便が離陸からおよそ1時間後、貨物室内で発生した爆発で墜落した場所を示しているようです。乗員14名、乗客156名全員が亡くなりました。次の写真で、砂漠に立つのは、残されていた尾翼でしょう。黒いのは墓碑銘です。
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写真に写る5人は犠牲者を偲ぶために訪れたのでしょう。砂漠の真ん中にポツンとある墓碑を訪れる観光客がいるとは思えませんからね。

今回の物語のプレゼンテイターを簡単にご紹介しておきます。
ポール・カリスタス・サリーノPaul Callistus Sereno :1757年生まれ、古生物学者paleontology、シカゴ大学教授。モンゴル、アルゼンチン、モロッコ、ニジェールなどで恐竜の新種をいくつか発見。
National Geographicの "explorer-in-residence米国在住探検者?" で、今回のフィルムは撮影開始2011年で2013年に公開されたものです。
・・・・・・
2000年。荒廃したサハラ砂漠の奥地で、化石を探していた一人の恐竜ハンターは予想していなかったものに出くわした。
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そこに数千の骨が砂の上に散らばっていたのだ、恐竜ではなく、人類の骨だ!
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ポール「みんな唖然とした。」
それはサハラで見つかった先史時代の最も広い埋葬地の一つだった。
チームメンバー「ポールは、それが大発見だと直ぐ気付いたようだった。」

それは、永遠に失われかけていた2つの文化を物語る発見だった。
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しかし、人々はこんなところで何をしていたのだろう?一番近い水辺からでも数百Km離れている!どんな暮らしをしていたのだろう?そして何故、死滅してしまったのだろう?
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恐竜ハンターは初めて人類の骨に出くわすことになった。
ポール「私はこれらの骨で、この場所で、仲間と共に、何をしたらよいのか理解しようとしていた。」
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消え去ってしまっていた世界は、この発見で息を吹き返し始めた。
写真家マイク・ヘットウァー「我々は墓の上と墓の下で花をみつけた。死んだ彼らを愛していた人がいたんだ!」
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それからの長年に渡る発掘作業は“時間という砂”との戦いだった。サハラの頭蓋骨を救済するのだ!

National Geographic Specials
Skeletons of The Sahara サハラの頭蓋骨s
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サハラ砂漠・・・そこは地球上で最も隔絶された場所の一つだ。
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しかし、誰もが英気を削がれてしまうわけではない。
ポール・セリーノ「やあ、ゲイブ、ローレン、ディデール。シール貼りだぞ。」
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古生物学者Paleontologistのポール・セリーノと彼のチームは、これから5週間の遠征に出発するところだ。
セリーノ「OK。そろそろ出発するぞ。」
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運転手「トレビアンTres Bien」
セリーノ「これは遠征が上手くいくようにというオマジナイの一種だ。このシールを貼ったら、遠征が公式に開始されたってことさ。じゃあ出発!」

今回(2011年)のサハラ探検はセリーノにとって8回目だ。
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探検チームの目的はエジプトのファラオよりも2倍も古い時代の失われた文明の謎を解くことだ。ニジェールの真ん中にある町アガデズAgadezから2日をかけ、世界で最も広大な砂漠の中を5百Km移動するのだ。
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セリーノ「アガデズを発つと、直ぐに広大な砂漠が始まる。何千Km走っても誰にも会わないだろうし、数百Kmいくと、予想していなかった人々に出会うかも知れない。」
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彼らはゴベロGoberoと呼ばれる先史時代の場所を目指している。10年以上前に始めた仕事を続けるためだ。10年前、彼は偶然、1万年前の仮想タイムカプセルに出くわしたのだ。誰もが存在に気付いていなかった人類からのメッセージが残されているところだ。

ポール・セリーノは世界的に有名な恐竜ハンターだ。
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世界の何処にでも出かけていって、もう一つの丘、もう一つの砂漠と、精力的に調査することで知られている。彼の研究分野では、絶滅種の一つを見つければ、その後の名声は保証される。
セリーノ「これはすごいよ、デイヴ。でっかい爪だ!」
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セリーノはこの20年間、サハラを縦横に探検し、数ダースの未知の恐竜や古代の鰐(わに)を発見している。
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しかしゴベロでの発見は、彼にとっても素晴らしい、しかし二度とないだろう発見の一つだ。2000年のある日、設営していたキャンプから遠く離れたこの場所で、サリーノのチームは恐竜の骨を見つけようと立ち止まった。
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この時、ナショナル・ジオグラフィックの写真家マイク・ヘットウァーMike Hettwerも探検に同行していた。彼は、ゴベロが発見された日のことを回想する。
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ヘットウァー「当初、我々はランドローバーlandroverで、砂漠を駆けてここに到着すると、みんな散らばってサハラの探検を始めた。」
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「誰もが、かっこいい発見をしたいと思ってた。私はというと、でかい恐竜の骨は見つけていなかった。でも何かを探そうと地面を調べていたら骨の欠片が見つかったんだ。で、写真を撮っていた。」
しかしマイク・ヘットウァーが追跡していた骨は恐竜の骨ではなかった。人間の骨だったのだ!
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ヘットウァー「で、私は砂の丘の方に歩いていった。そしたら今度は足と腰が繋がった骨を見つけた。そして左右の手の骨もね。で、頭蓋骨も見えた。風で運ばれる砂で切断されたように削られた頭蓋骨だよ。わかるかなぁ。」
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「まるで大きな茶碗みたいだった。しかし、間違いなく、それは砂と風で半分に切り取られた頭蓋骨だったんだ。そしてその半分になった頭蓋骨は椎骨に繋がっていた。で、遺骨の全体が見え始めたんだ。で、また歩き始めると、別の、綺麗に残された遺骨が見えた。そこで、私は骨を掘り出して車の所まで戻り、ランドローバーの上に広げて載せて、みんなに見せたんだ。ポール・セレーノは、直ぐに大発見だって気付いたよ。」
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それは、想像以上の謎の始まりだった。数え切れない程の遺骨が砂漠に横たわっていた!一番近い水辺から数百Kmも離れているのに。彼らは一体、ここで何をしていたと言うのだろう?
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セリーノ「みんな唖然としたね。人間の頭蓋骨が横たわって砂漠を眺めているんだ。一体、いつ頃の人たちなんだろう?彼らが見ていたのはどんな世界だったのだろう?何故、ここにいるのだろう?私は、この発見に対して、この場所で、これらの人々と、どう対応したらいいのだろうかって考え始めた。」
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頭蓋骨の外観から、彼らは先史時代の人々だと思われた。近くで見つかる工具も石器時代の文化を示していた。
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セリーノは突然、ひどいジレンマに陥(おちい)った。驚くべき発見があったのは探検の最後の日だった。暗くなる前に、みんな、キャンプに戻らなければならない!
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セリーノ「我々に残された時間はなかった。はっきりしないけど、多分数ダースの遺骨を見たはずだ。しかし、車に戻らなけりゃあいけなかったんだ。でないと危険だ。で、車を運転してキャンプまで戻った。発見場所の位置はGPSに記録しておいた。いつかきっと戻ってこよう、っていってね。戻ってきて、そこが何だったのか調べようって。」
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人骨は砂の中から救い出され、生きていた印を語る時期が来るまで待たなければいけなくなった。しかし・・・次に訪れるまでに、風に運ばれた砂は彼らを消し去っているだろう。
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セリーノ「きっと重要な発見だと感じていた。戻って来て調べ直さなきゃあいけないって。このまま放置して、全てを失うことがあってはならないって。」

セリーノはその後の10年間で、ゴベロに4回、戻ってきた。その都度、新たな人骨を発見した。
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セリーノ「この墓場には何か妙なものがあった。」
探検の都度、詳細調査のため、シカゴ大学の彼の研究室にサンプルを持ち帰った。調べるにつれ、これらの人々が誰なのかという謎は深まるばかりだった。
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セリーノ「我々の目の前の遺骨は10歳の少女で、横に伏せた状態で埋葬されていた。頭蓋骨は少し傾けられている。ここに右手があって、肩と左手、ここに左足、右足はその下にある。」
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「足と一緒に折りたたまれているんだ。発掘している時、目を引き付けられる箇所があった。骨格としては角張り過ぎていた。で、これは何だろうって思った。」
それはこれまで誰も見たことが無いものだった。10歳の古代の少女の上腕には河馬(かばhippo)の歯から造られたブレスレットがあったのだ!
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写真家ヘットウァー「ブレスレットだった!ブラシで土を取り除くと、宝石か何かの飾り物のように見えたんだ。本当に感動した瞬間だったよ。とても驚いた。」
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墓から出現したものはこれらの人々が埋葬儀式という十分発達した文化を持っていたことを示している。遺骨を捨てる場所ではなかったことは明確だ。ゴベロは、これまでサハラで見つかった最も広大な、最も古い、巨大な共同墓地だったのだ。
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しかし、砂漠の真ん中で、これらの人々は一体、何をしていたのだろう?どのように生活していたのだろう?

セリーノは答えを探すためにサハラに戻ることを決めていた。しかし、サハラにおける政局の不安定が彼の道を閉ざしていた。5年に渡る革命やテロ攻撃や内戦が熱砂の砂漠を更に熱くし、彼の訪問を不可能にしていた。
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5年間の発掘サイトからの隔たりはセリーノにとって最も長い空白だった。しかし、待ち望んでいた、わずかな好機がやってきた。40人のニジェール軍兵士の護衛を受けてゴベロに戻れることになったのだ。
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セリーノ「もし、革命や政府の変化が起きているのがニジェールでなかったら、リビアか別の土地で起きているよ。砂漠は砂と同じで、いつだってじっとしてくれないようだからね。」

彼は残されている骸骨に何が起きているかを自分の目で確かめ、心配事が間違いだったことを早く確かめたいと思っている。
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セリーノ「みんなゴベロに戻るべきじゃあないって言っていた。時間という砂の中にかき消されてるだろうからってね。もう新しいものはないよ、サイトに戻ることは無理だよって言ってた。でも今、我々はその入り口まで来ているんだ。あと50Kmだ。もう直ぐだよ。」

「到着だ。ここでキャンプしよう。やっと戻ってきたなぁ。疑問に決着を付けなけりゃあ。」
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研究者、骨の専門家、地質学者で編成された調査チームは、直ちにテントの設営に取り掛かった。彼らは、かつてここで暮らしていた人々に関する謎をとく手掛かりを早く見つけたいと熱望していた。人々の遺骨はおよそ70エーカー(1エーカー=4千㎡)に渡る3つの埋葬地に広がっていた。多くの人々が永眠している霊場だ。埋葬地には東の端のG1から西のG3まで名前が付けられた。
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セリーノ「最初に来た時のことは決して忘れないだろう。私はゴベロで座り込んで遺骨を覆う砂をブラシで取り除いていた。そうしながら、この遺骨こそが私と同じ人類だって気持ちに打たれていたんだ。」
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「歯が見えて来た、随分すり減っているが、それほどひどくはない。多分若い人だ。恐竜の骨を探している時は、いつだって我々と全くことなるものを掘り出している。大きくて、奇妙で、奇怪であればあるほど、価値があるんだ。でもここで掘りだそうとしているのは私と同じ人類の骨だ。同じ人類の目をのぞきこみながら発掘するんだ、背筋がゾクゾクしながらね。」
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発掘で遺骨が次々に現れてくると、あることに気付いた。これらの丘は一つの文明に対する神聖な場所ではない。少なくとも2種類の異なる人骨が埋葬されている!
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ゴベロで見つかった遺骨の70を炭素年代測定すると、最初の人々はおよそ1万年前にゴベロに定住を始めていたことが判った。ナイルの最初のピラミッドよりもずっと昔だ。
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1千5百年間、ゴベロで遺体を埋葬した後、人々はどこかに消えてしまった。

その後1千年して別の人々がやって来た。
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彼らもエジプト人よりも前の人々だ。この人々は2千5百年間、住み着いていた。

ゴベロに最初に住んでいた人々の遺骨は黒っぽい。背が高く、腕力もあったようだ。頭蓋骨は長く、楕円形で、眼窩も大きい。彼らの後にやってきた人々の遺骨には黒いシミのようなものはない。頭蓋骨は上に向かって高く、細く、眼は小さく、骨は脆(もろ)い。2つの異なる人種が、数千年を隔てて、同じ場所で砂の中に埋葬されているのだ。
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セリーノ「それは驚くべき事実だった。彼らの頭蓋骨は、辺り一面に散在していた。みんな5千年以上前の人たちだ。彼らは、5千年に渡ってこの地にやって来ていた。みんな、エジプトのミイラよりも古い時代の人なんだ。ゴベロはきっと特別の場所だったんだ。」

しかし・・・どんな場所だったというのだろうか?この砂漠で、どんな方法で、長い間、人々は暮らし続けることができたのだろう?調べてみると、一帯には他の骨も散乱していた。人の骨よりももっとあり得ない骨だ。それがヒントを与えてくれた。

セリーノ「謎は深まった感じだった。小魚の骨がある!この小さな骨は亀(かめ)のものだ。これは哺乳類の骨。」
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魚の骨、亀の甲羅、そして、もっと驚くべきものもあった。
セリーノ「これは河馬(かば)の足首の骨だ。水が好きな動物だ。水なしでは暮らしていけない。その河馬の骨が砂漠にあるんだ!」

彼らは砂漠の真ん中で何をしていたのだろう?サハラが砂や岩ではなかったということだろうか?その答えは太陽の周りを移動している地球の動きに関係している。1万2千年前、地球の楕円軌道は太陽に近づいていて、地軸の傾きは、北半球で今より輻射熱が多い状態にあった。暖かい状態が続き、水蒸気も多く発生していた。それで雨をもたらすモンスーンが北の方向にもやって来て北アフリカに貴重な水をもたらし、沢山の湖や川が木々や草原を潤していた。
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“緑のサハラGreen Sahara”と呼ばれる時代だ。
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それは5千年続いた。体長1.8mのナイル鱸(すずき)といった魚や、河馬のような大型動物、キリンも繁殖していた。長い間、科学者たちは、サハラにも人々が暮らしていたと信じていたが、ゴベロが見つかるまで、どこで、どんな人々が暮らしていたのか、何も証拠を持っていなかった。
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セリーノ「科学的な観点で言えば、今回の発明は重大なものだ。何故かと言えば、緑のサハラと乾燥したサハラは氷が溶けて以来の大きな気候変動だからだ。過去1万年の中で最も大きい変化だ。私の後ろに広がる砂漠を見てくれよ。」
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「そこは昔、オアシスがある楽園だったんだ、沢山の動物がアフリカのあちこちから水を求めて集まっていて・・・象や、河馬や、水が好きな鰐や、1.8mの魚もね。私たちがここで成し遂げたいと思っているのは、ゴベロを出来るだけ深く理解するってことだ。それなしでここを離れたくはないね。」

ディディール「この遺体は手を頭の上に上げているね。」
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ディディールはセリーノのゴベロ探検にいつも同行している。魚や海辺の生物の専門家で、ゴベロがどうして今のようになったのかを説明する時、地元の言い回しを引用するのが好きなようだ。
ディディール「“アマン・イマン”つまり“水は命”だ。“ゴベロ”は正に“水”だ。彼らは生活していた。何故なら彼らには水が有ったんだ。巨大な湖も有った。湖には魚も、カエルも、亀も、象もいた。彼らは大きな生物多様性をもっていたんだよ。」
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「そして、当然だけれど、この生物多様性が人間を引き付けたんだ。大勢の人々が湖の周りに居住地を造った。その一つがゴベロということさ。」

現在のサハラは緑とはほど遠い。調査チームが古代の湖の近くにおける生命の様子に関する証拠を探している時も、秒速18mの風が途絶えることなく吹き渡っている。
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風は祝福でもあり、呪いでもある。風なくして骨は地上に現れなかった。しかし、骨が現れると、風は骨を削り取っていく。だから、発掘作業は残されていた痕跡を風が消し去る前に探し出す“風との競争”だ。調査チームの目標は埋葬地に埋められた異なる人骨から何か遺物を収集することだった。人々がどんな暮らしをしていたか、教えてくれるかも知れない。
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古い人々は黒っぽい骨をしている。キフィアンKiffian文化のキフィア人だろうと考えられている。ゴベロで見つかるまで、誰も実際のキフィア人の頭蓋骨や遺骨を見たことが無い。考古学者たちは、彼らの存在を、主に特徴的な模様が付いた土器の破片を通じて知っていた。
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今回、ゴベロで見つかった残留物は、人類の歴史における大きな空白を埋め始めることになった。発見された古代の骨は、彼らの生活の様子を、どの位、我々に話してくれるのだろう?もし、彼らが語りかけていることを理解できれば、多くのことが判るはずだ。

クリス・ストジャノスキーはアリゾナ州立大学の生物考古学者だ。ゴベロで回収された骨の半分以上がテンプTempeにある彼の研究室に運ばれてくる。
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ストジャノスキーは古代の人々の骨を保管するのに、プラスチックの箱を使う。人々が冬の衣類を保管する時に使うものと同じだ。
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ストジャノスキー「まずは足の指から骨を並べていこう。」
彼は、骨を一つずつ並べていって人骨全体を見事に再現することができる。
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「これは足首の骨・・・これは腓骨(ひこつ:膝から足首まで)、これは脛骨(けいこつ;腓骨と並行にある骨)、これは・・・」
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骨を置いていくたびに人間の様子が現れてくる。
「この骨の全体の様子から、ここに筋肉がついていたはずだ。十分発達しているから・・・体力がある人間だっただろう。(mh以降も復元作業が続きますが省略します。) もし1万年前、アフリカ、つまり今のサハラ一帯、に棲んでいたなら、そこは湖周辺の肥沃な場所だったはずだ。主要なタンパク質源は狩猟か、狩猟なら活動的でなければいけなかったはずだし、漁業だとすれば、人間と同じ大きさの魚を獲っていたわけだから、恐らく手造りの銛(もり)で船上から獲っていたんだと思う。これらの活動で食糧の全てを確保していたはずだ。そうした生活習慣の結果が、この骨というわけだ。」
ストジャノスキーにとって最高のヒントになるものは、時には見えないところから現れる。例えば腕の骨は平和に暮らしていた人々の証拠にもなる。
ストジャノスキー「尺骨(前腕の骨)や橈骨(尺骨に並ぶ骨)だ。何かで殴られそうになった時に、腕で庇(かば)おうとして、手をこう上げるだろう?何かが当たれば、前腕の骨に影響が出る。」
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「でも、ここにある人骨の腕には傷がないんだ。ゴベロで見つかった骨の全てで見当たらない。小さいが、一つの証拠さ。つまり、彼らには防衛が生活の一部になっていなかったっていうことだ。」

発見された骨から、キフィア人は丈夫で体力が強く活動的で、しかし平和な生活を送っていたことが推察された。彼らは身長も大きかった。骨の持ち主の多くは身長180cm以上だ。
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それは彼らの埋葬方法を特徴的にしていた。彼らは薪(まき)の束のように結び上げられていたのだ!
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ストジャノスキー「ゴベロの古い埋葬を見ると、遺体はきつく曲げられている。つまり、手は体の直ぐ近くに、掌(てのひら)は顔の近くまで持ち上げられている。大抵の場合、足は体に密着するように持ち上げられ、大抵は顔に届くくらいだ。それで、大きな人間も、こんなに小さな束のようになっている。」

発掘がほとんど完了すると、遺骨はさらなる疑問を投げかけてきた。
セリーノ「これは頑丈な人々だ。でも墓の中では体を縛(しば)り上げられている。」
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「膝(ひざ)が顎(あご)の直ぐ近くまで届いている。そして足は交差している。これが人間一人の全ての骨だというんだから驚きだ。直径25cmの筒にも入りそうだよ。1万年前はこの方法がゴベロの埋葬地では一般的なんだ。」

何故、彼らは、こんな方法で埋葬されていたのだろう?この男の死体は、死んで直ぐ、死後硬直が始まる前、誰かによってこんな形にされた。誰かは死体の足を交差し、手を注意深く口の前で交差させた。これらの一つ一つは象徴的な何かを思わせる。しかし、記録されたものがなく、謎は解かれないまま残されている。
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キフィア人の埋葬地は、暗い茶色の場所だ。向きは近代の墓場のように、意識的に配置されている。一番古いものは1万年前だ。新しい時代に造られた墓は、明るい茶色の場所で示されている。墓の向きは明確な決まりもないようで一定ではない。
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これは“テネリアン”として知られる、新しい人々の骨だ。短くて細身だ。
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彼らは横を向いた姿で埋葬されている。眠っているように見える。
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キフィアンの墓と異なり、テネリアンの墓には文明のヒントが一緒に埋葬されている。
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河馬(かば)の歯で造られたブレスレットを付けた10歳の女子はテネリアンの墓から見つかった。

これ以外にも奇妙な発見がある。
写真家ヘットウァー「この男は中指を口に入れている。なぜそんな恰好で埋められたのか、誰も思いついていない。」
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「もっとも綺麗に残されている遺骨の一つで、頭を囲む大きな壺がある。何故かは判っていない。あなたならどう思います?」
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幾つかの埋葬地ではキフィアンとテネリアンの墓が混在している。この男はテネリアンの時代に生きていた。しかし死んだ後で体は半分に曲げられている。膝(ひざ)は頭の上まで引き上げられている。そして彼の背中を覆う大きな亀の甲羅(こうら)と共に埋葬されている!
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墓場から得られるこれらの手掛かりは死が儀式と強く結びついていることを暗示している。しかし、日常の暮しぶりはどんなものだったのだろうか?それを示すものは残されていないのだろうか?サリーノのチームはゴベロ文明の証拠を探してテレーネTereneの砂漠をブラシでこすりまくっている。砂の山を崩しては篩(ふるい)にかけ、小さな何かが残っていないか調べている。
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女性「私たちはこれを破片って呼んでいるけれど、工具を造る過程で生まれたものよ。」
セリーノ「ゴベロみたいな場所では、沢山の手掛かりが残されていて、何か見つかる可能性があるんだ。人間の歴史に数ページを付け加えることができるかも知れない。」
先史時代のゴミ捨て場は“貝塚midden”と呼ばれていて、何百もの日常品が見つかる。
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サハラが緑だった頃、湖から離れた場所に暮らしていた人々の様子を思い描くのに役立つ。水を求めて移動する動物を追いかけていた人々は、先を尖らせた石で狩猟していた。棘(とげ)のある銛(もり)や細心の注意を払って造った釣り針で魚を獲っていた。
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容器を模様で飾り、石や象牙から飾りのビーズを造っていた。つまりキフィアンは狩猟集団だった。主に水に基づいた“もの”に頼っていたようだ。というのは銛(もり)が沢山見つかっているのだ。一方、テネリアン文化では、矢や弓を使う狩猟が主力だったようだ。これらの道具は今でも沢山見つかっている。」
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これらの先史時代の人々が使っていた道具を我々は今、手にすることができる。しかし彼らが棲んでいた土地を理解するのは、そう簡単ではない。彼らの棲んでいた世界について、我々はどのくらい、知ることが出来るのだろうか?
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セリーノはゴベロのかつての様子を体感的に再現しようと考え、新しい工具を使っている。
セリーノ「結局、基本となる地図が必要だ。墓の数は多いし、調べなけりゃあいけない遺物も沢山ある。」
今から、何処に何があるのかを表わす地図を作るのだ。
セリーノ「ゴベロでは、昨日が今日見える。You can see yesterday today.それを特殊な手法で地図化できないことはないはずだ。十分な正確さで、人が棲んでいた頃の5千年前に湖がどうだったのかを想像できるようにね。」
地図作りをやっているのは野外技術者ニール・ピーターソンだ。しかし、どんな風にして何もないような砂漠を地図化するというのだろう?
ニール「最も簡単な方法はメジャーやコンパスで寸法や距離を測定して、何が何処にあるのかを明確にすることだ。」
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「更には遺骨の様子を絵に描く。これらは最も簡単で重要な要素になる。」

セリーノ「4枚の絵を描けば、このグリッド全体が判ると思うよ。」
ニール「グリッドを組み合わせて、この大きさの面積のグリッドをね。それから発掘サイトでの位置を確認する。これが一つの方法だ。」
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しかし、今回の探検では、ニールはもう一歩踏み込むつもりだ。地形をレーザービームで走査して、砂丘の起伏を調べるのだ。ニール「この中心から光ビームを発射して、内部の時計機能で光が戻ってくるまでの時間を計って距離を求める。それを1秒のうちに数千回繰り返してあらゆる方向でデータを収集するんだ。」
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ニールはレーザ測定で得られた像を発掘サイト一帯の写真や土壌科学者が集めたデータと組合せて、ゴベロの三次元の地図を創り上げる。地図には、発掘情報を付け加えることも可能だ。
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ニール「発掘サイトを再現するには、まず、どのように見えているかを知る必要がある。それを定量化してデータとして嵌め込んでやらなけりゃあいけない。でないと仕上がらないんだ。」
その結果得られた映像は、ゴベロにある墓がどうして何千年後の今も残されることになったのかを明らかにしてくれた。墓の全ては砂丘の上にある。その砂丘は砂漠に在る他の砂丘と異なり、ほとんど位置が変化しない!
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理由?それは湖の沈殿物で出来た岩で固定されているからだ。そうでなければ、砂丘は風と共に彷徨(さまよ)い、骨も一緒にどこかに移り去っていたはずだ。

調査チームが収集していたデータも活用して、古代の湖の輪郭が見え始めた。ゴベロの水は砂丘の間にあって、水深は3mだった。
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分析は別の、興味ある事実も明らかにしてくれた。湖の水位は変化していたのだ!凡そ8千5百年前、水位は上昇した。どのくらいかは、今も正確には判っていない。しかし2種類の遺骨の間に見られる大きな違いのひとつの中に重要なヒントがある。キフィア人の骨は黒っぽい。何故なら、長い時間、恐らく何世紀も、水中に没していたからだ!
ストジャノスキー「ある時期、湖の水位が上がり、砂丘の頂きも水面下にあった。その時期は砂丘で埋葬が出来なかったのは間違いない。」
化石化のためには、墓は、何年もの間、水中に没している必要があったはずだ。骸骨の中を流れる水が、体内に元々あった鉱物を洗い流し、大地の鉱物を持ち込んだ。
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ストジャノスキー「骨が水で覆われていたことで化石化され、骸骨には黒シミが出来たんだ。」

そして最初の埋葬から数百年後、過酷な旱魃(かんばつ)が湖を縮小し始め、キフィア人は別の地に居住地を移さなければならなくなって歴史から消えていった。
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それから1千年後、水がゴベロに戻ってくるとテネリア人が移り住み始めたのだ。」
研究室の作業員のエリン・フィツガーランドはテネリア人の墓の発掘作業をしている。その時、新しい物語が始まった。
エリン「顎(あご)の辺りを発掘していたら、上腕骨の辺りに・・・」
その墓には一人の大人の頭蓋骨が、風化して半分だけ残っていた。それ以外にも何かあった。砂で埋まっていた大人の腹部辺りに。頭蓋骨だ。小さくて、脆(もろ)くて触ると壊れそうだった。
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セリーノ「信じられないよ。」
エリン「砂を除いて遺骨が見えるようにしてみると、玉子の殻(から)のように脆(もろ)いことがわかったの。繊細で、ブラシじゃあなく、息で砂を吹き飛ばしてからカバーをかけ、ポール・サリーノの所に行って、それから一緒に戻ってきて確認したの。」
サリーノ「いつ見つけたの?今日?」
男「昨日だ。私は肘(ひじ)の辺りの砂をブラシで除去していた、そうしたら頭蓋骨のようなものが見え始めて来たんだ。」
エリン「もし、直ぐに彼女(mh大人の遺骨)のそばに埋葬されたのじゃあなければ、もっと違う状態だと思うの。赤ん坊の頭蓋骨よ。」
脆い頭蓋骨はとても小さく、骨が薄く、一見したところ乳児のものだった。
セリーノ「小さな頭蓋骨だ。でも形は完璧に残っている。砂のサンプルを採るまで、ブラシで掘り出したくないよ。」
彼はある仮説を思いついた。
セリーノ「とても乱暴な推定だけど、子供を産むと直ぐ死んだ女性だ。生まれた子も母と一緒に死んだんだ。我々の責任は好く調べて全てを明確にすることだ。すごい発見だよ。」
エリン「これ以上、ブラシで砂を取り除いていくと、骨が壊れてしまって、正確な事がわからなくなるだろうから研究室に運んで注意深く作業することが必要だって思ったの。」
そのためには、まずその墓を完全な状態で1千Km離れた研究室に移すにはどうしたらいいかを考えねばならなかった。
セリーノ「頑張ってやってみるしかないな。砂がサラサラしているから、難題だよ。」
埋葬状態をそのまま保つため、骨の周りに液体接着剤をかける。
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この方法は時には不適切だと非難されることもある。多くの考古学者は人骨を一つずつ掘り出しては保管し、研究室で復元している。しかしセリーノは人骨を復元するのに恐竜の骨の他と同じ方法を採る。
セリーノ「誰もが完璧な状態で保管したいと思っている。だから砂を取り除く作業も含めて全て、研究室でやるほうがいいんだ。時には顕微鏡で覗きながらね。」
セリーノ「少し固まってきたけど、まだ脆そうだ。まだとても持ち上げられる状態じゃあない。」

接着剤を塗ったところで、セリーノとエリンは遺骨をアルミホイールtin foilで包んだ。その上から、骨折した足などを包む時のように軟らかい石膏(せっこうplaster)を塗った。
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セリーノ「石膏を塗って固めれば、壊れないし、世界中のどこへでも安全に運ぶことができる。この人がどんな事情で数千年前に埋葬されたのか、その物語を知りたいんだよ。それを研究室で見つけるんだ。物語は遺骨の中にあるから、今、バラバラにすることは出来ないんだ。シカゴに戻ってからじゃないとね。」

それから凡そ1年後、別の湖近くの居住地で、ゴベロの骸骨や手工芸品を積んだコンテナ・トラックがシカゴの西の倉庫を出発した。運転手はこれまで、いろいろな荷物を運んだ経験がある。
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運転手「何を運んでいるかっていうのは、大抵、知ってないよ。犬の餌かもしれないし、玩具かもしれない。コンテナに詰める物なら、何だって運ぶ。」
しかし、今回の荷物は6千年前の骨で、彼には初めての荷物だ。
運転手「神経質になるよ。この荷物のことは忘れられないだろうね。」
トラックがシカゴ大学に到着するのをポール・セリーノと彼のチームが待ち構えていた。
セリーノ「こんなに長くかかるとは思わなかったよ。」
彼らはゴベロの2つの埋葬地の骨を研究室に持ち込んで、新たなヒントを見つけようと数か月も待っていた。荷物には凡そ4百Kgの手工芸品と石膏で固められた30の完全な骸骨があった。シカゴはゴベロから1千Kmと5千年も離れている。しかしポール・サリーノの化石研究室には、サハラの骸骨の仲間は沢山ある。別の探検で持ち帰ったサンプルも棚やテーブルを埋め尽くしている。ここでは恐竜に焦点を当てている。数億年前の奇妙な獣(けもの)だ。
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セリーノの研究室のスタッフが人類の謎の解明作業をするのは初めてだ。
ボブ・マセック「ポールが人間に関する初めての仕事を持ち込んできた時、私とは全く別の人類の骨じゃあないかって感じたよ。最初は少し緊張した。」
いよいよ、愛する恐竜を隅に移して、ゴベロから届いた新しい配送物に取り組む時だ。
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タイラー・キーラーも自分に身近な生物の遺骸を取り扱いながら奇妙な感情を覚えていた。
タイラー「見た時、人骨に間違いないって思ったね。目の形、歯、鼻・・・付着している土を取り除いて綺麗にしていくと、興味深くて、普通じゃあなくて、ユニークな骨が目の前に現れてくるんだ。ある一人の人間を見ているって気がする。」
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エリンは彼女がゴベロで発見した人物との再会を1年間待ち続けていた。一つの塊の中に2つの頭蓋骨がある。恐らく一人の母親と生まれて間もない一人の子供だ。
エリン「ニジェールに戻ったような気がしたわ。もう1年もたったなんて信じられなかった。昨日のことのように感じたわ。また会えてとてもうれしかったわ。」
マセック「じゃあこれを真っ直ぐ上に持ち上げよう。」
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中には、彼らが発見した状態のままの墓があった。調査の妨げになる砂漠の風と砂はないけれど。この研究室で、本当の物語が明らかになるのだ。

セリーノ「十分な環境の中で、6千年前に起きたことについて墓が我々に語りかけているものが何かを探す大事な機会だ。これから忙しくなるぞ。Now the hard work begins.」
作業しているのは特殊な人々だ。芸術家のセンスと科学者の技術を併せ持っている。細かな証拠品も全て集められ、番号が付けられ、カタログ化される。小さな欠片(かけら)が時には古代の謎を解く鍵になることもある。
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2つの異なる墓がある埋葬地のものの中から、考えてもいなかったものが現れた。
エリン「最初に思っていたより大きいみたいね。」
当初は赤ん坊のものだと思っていた頭蓋骨は、ゴベロで見たよりもかなり大きそうだ。これは骸骨が研究室に到着して以降にいくつも見つかった驚きの中の一つだった。
セリーノ「ワーォWow!考えていたよりも大きい頭蓋骨だな。これが何か、まだ判らないね。頭蓋骨の一部がこんなふうに上に向いているみたいだ!
エリン「えぇ、ここには別の乳歯があるの。」
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セリーノ「そうだね。そしてここにも見つかっている。」
赤ん坊よりも大きい第二の頭蓋骨だけではなくて・・・
エリン「この乳歯も見つかっているのよ。」

骨の周りに散乱している歯は別のヒントを与えている。
セリーノ「これは6歳の臼歯(きゅうし)だ。乳歯が抜けて生えて来たんだよ。赤ん坊じゃあなくて、少し年配の子供だと思う。5歳か5歳半くらいだ。」
お産の時に2つの死が起きたことが想定されていたが、そうじゃあないようだ。
セリーノ「わからない。何が起きたんだろう、不思議だ。大人の女性と5,6歳のこどもが恐らく同じ時期に死んでこんな風に埋葬された時、何が起きていたのかは謎だ。それを解くには骨を全て調べなければ駄目だろう。」
しかし土を除去していっても、エレンは大人と一緒に埋葬された子供の謎を解く新しい証拠を見つけられなかった。
エリン「ひょっとしたら顔が全て壊れているんじゃあないかって思うわ。」
砂漠は骸骨にとっては厳しい環境だ。その上、2人の墓は砂から遺骨が見える状態だった。
セリーノ「そういうことは好く起きることだ。そんな時こそ科学が役に立つ時だ。推測と抗弁、仮説と評価だ。」
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セリーノ「それに、新しい情報をいつも受け入れる姿勢でいなければいけない。年少者の頭蓋骨かも知れない。とにかく、いつでも異なる結論を受け入れられるようにしている必要がある。それが、自分が期待していなかったものでもね。」

行き止まりに迷い込んだ時でも、湖の近くで暮らしていた人々がどんな暮らしをしていたのか知るための別の道を彼らは見つけていた。そのための近代的な道具を使う事もできた。この日の朝、セリーノは“アコーディオン男”というニックネームが付いた骸骨を、別の場所に持ち出した。
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シカゴ病院大学で重要なテストをするのだ。遺骨が見つかった状態を完全に保ちながら調査を進めるセリーノの手法は、体全体の骨を完璧に調べることを困難にしていた。そんな場合はCTスキャンを使って調査することにしていた。構造や骨の寸法や密度に関する明確な情報を与えてくれるので、アコーディオン男をデジタル解析する手助けになる。CTスキャンのデータはセリーノの研究室の卒業生の一人がアニメーション化してくれる。
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1万年後、このキフィア人が初めて立ち上がった。
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CTスキャンの別のデータを使えば、5千年前のテネリア人の表情すら判る。
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ゴベロに残されていた記録はこれらの人々の全体像だ。彼らの骨や工芸品は人類の歴史の大きな空白を埋めてくれる。
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彼らが立ち上がるのや、彼らの目を見るだけでは、彼らの魂は理解しにくい。しかし、一つの特別な墓が、彼らがどんな人々だったのかを見せてくれる驚くべき実情を準備してくれていた。その墓は2006年に発掘されていた。
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セリーノ「私が砂漠のゴベロでその墓を見つけた時、半円状の頭蓋骨が見えて、人間のものだって気付いた。」
一つの墓にテネリア人は3人を埋葬していた。一人の大人と2人の子供だ。ここで何が起きていたのだろう?
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セリーノ「これが彼女の左足で、こっちが右足だ。」
研究室にもどってから、状況が明らかになってきた。
セリーノ「研究室に持ち込んで調べてみるまで、その複雑さがなんのためなのか、全く判っていなかった。現地では、きれいに発掘してなかったんだ。今見ると、右に居る女性は手を持ち上げて真ん中の第一の子供の額のところにその手を当てている。
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手で子供の頭を包もうとしているみたいだ。でも、後で気付いたことだけど、子供達は彼女の手をとても変わった風にして握っていたんだ、こんな風に。彼女の手も実際、交差していて、片方の手が別の手の上にあった。それが何を意味するのか、分かってはいない。」
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埋葬状態を判り易く表すため、セリーノと彼のチームは3人の骸骨の型を取って実物大のパネルにした。片面は太陽や風に晒されていた方だ。
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このパネルの裏面は砂の中に埋められて保存されていた側を示している。
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肋骨の位置から、右側の大人の女性が最初に埋められたことが判る。中央の子供の膝(ひざ)は母親の足の上に重なっている。二人目の子供は一人目の子供の首の上から手を延ばしている。そして3人の手は組み合っている。
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砂から花粉が見つかったことから、セリーノはこれらの遺体が花のベッドの上に横たえられていたことを知っている。4つの矢尻が骨の下から見つかった。これは射かけられたものではなく、副葬品のようだ。

写真家のマイク・ヘットウァーは、この骨が見つかった時、サハラの現場にいた。
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ヘットウァー「こんな光景は滅多にみられるものじゃあない。雰囲気や思いやりや感情が墓の中に残っているんだ。彼らの写真は5千枚は撮ったと思うよ。」
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「全て、違った角度からね、太陽の位置も変わっている。時には夜も墓を訪れて撮影した。フラッシュを焚いてね。」
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「驚かされたのは、こんな場面を今まで見たことがなかったからだ。墓の上や下には花の痕跡が見つかった。彼らのことを本当に愛していた人達がいたのに違いない。発掘メンバーの何人かは彼らの骨を掘り出しながら涙を流していたよ。でも、ブラシで砂を取り除いて3人の骨を見たら、彼らがどんな人たちだったかという疑問が湧いてきた。腕の骨を見て、彼らが手を握り合っていることに気付いたんだ。埋葬者の誰かが彼らの手を握り合わせたんだ。」
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3人を並べ、手を握り合わせて埋葬したということは、3人は、死後硬直が起きる前の数時間内で一緒に死んでしまったということだ。
ストジャノスキー「誰も不思議に思うだろう、3人はどのようにして死に至ったのか?どうして一緒に埋葬されたのか?って。」
この疑問に答えるために、アリゾナ州のクリス・ストラジャノスキーは古代生物学者が手にすることが出来る最高の証拠を追跡している。歯だ。
ストジャノスキー「探そうとしているのは、死んだ時の出来るだけ正確な年齢だ。3人の墓にいた子供については、この歯を手に入れている。」
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人間の歯は子宮の中にいる時から生え始めて、20歳近くまで成長を続ける。歯は毎日、新しいエナメル層で覆われていく。しかし、病や飢饉などのストレスを受けると、それらが解消されるまで体はエナメルの生成を中断してしまう。歯を顕微鏡で調べると、これらのストレスが黒い斜線として現れている。
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誰もが体験するストレスの一つは誕生だ。
ストジャノスキー「新生児線がここに見える。」
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新生児線は科学者たちに人生の開始時点を教えてくれる。そして、丁度、木の年輪のように、歯のエナメル層を数えると年齢が判る。厳密には年齢ではなく、何日、生きて来たのかが判る。
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ストジャノスキーは小さい方の子供の歯を分析して、年齢を求めた。
ストジャノスキー「日々のエナメル層の成長を数えたら、この子は生まれて1806日位で死んだことが判った。」
つまり一番左の最も小さい子供は大体、5歳だったということになる。年長の子供は8歳だった。しかし、彼らは何が原因で死んだのだろう?
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ストジャノスキーは子供達が無くなる最後の1ヶ月の間でのストレスの跡を見つけることはできなかった。つまり病や飢饉などが死の原因だったわけではない。
セリーノ「もし歯の中に、パターンが見つかったということなら、つまり何かのストレスを人生で体験していたなら、それは人生の終わり頃のはずだ。でもそれは見当たらなかったんだよ!」
セリーノはゴベロに生命を与えていた水を指しているのではないかと考えている。
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セリーノ「何がしかの原因で彼らは死に直面した。骨が折れている訳ではなく、病の痕跡もない。それに、彼らは3人ともかなりの年齢差がある。とすれば、彼らは多分、一緒に、そして突然、死んだんじゃあないだろうか。そして私が考え付く一つのことは、3人は近くの湖でおぼれたんじゃあないかってことだ。」
5千年前までなら、今は砂漠のこの土地でおぼれたってこともあり得る。
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その後、エジプトにピラミッドが造られる時代になり、モンスーンによる雨の領域は再び南下してゴベロの水は完全に干上がった。

サハラは我々が今知っている砂漠になってしまった。それまで5千年続いていた生活に終わりが来たのだ。もし、恐竜を追跡していた科学者が偶然、発見しなかったなら、当時の暮しを示す全ての証拠は永遠に消え去っていたかも知れない。
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セリーノ「発見というものは期待していた何かを見つけることではない。それは、多分、夢にも思っていなかった何かを見つけることだ。大切なのは、それが重要だって気付くことだ。それが発見の神髄だ。」
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セリーノ「今回の発見は多分、私が行った重要な発見になるだろう。ひょっとすると我々の世紀における最も重要な科学的な発見かも知れない。誰でも期待通りの発見をすることが出来るだろう。しかし大きな発見というのは、期待していなかったものを見つけることだ。ゴベロはその一つになった。」
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Mystery Ancient Skeletons in the Sahara | Unexpected Discovery || Documentary English subtitles
https://www.youtube.com/watch?v=P6NwTesXIBo
・・・・・・
「世界の不思議」をテーマに遺跡を特集したドキュメンタリーをYoutubeから採り上げて何度もご紹介してきましたが、古代文明では火葬の風習がないようで、骸骨とお付き合いするケースが多いことに今更ながら気付きました。
今回のYoutubeフィルムを初めて見た時、特に中段部の展開に新規性が感じられなかったのでブログ化は不適かな、と思ったのですが、フィルムの後半で登場した3人の遺骨を見て、これは是非、皆さんにもご紹介しようと思い直し、くどい説明部分は一部省略させて頂きながら完成させました。

フィルムでは“遺骨が語る物語を聞く”という表現が何度も現れます。火葬なら“灰が語る”ってことになる訳ですが、やっぱり、骨、それも体全体の骨じゃなければ物語は生まれない気がして、日本の火葬は寂しすぎるから見直されるべきではないか?などとも思いましたが、仏舎利の不思議でご紹介したように、我が尊敬するお釈迦様も火葬ですから、火葬で問題はないと思います。1万年後の子孫に感銘を与えるためには、骨壺を少し工夫して印象的にする方法が考えられます。遺影を釉薬で焼き付けるのもいいかも知れませんが、一番好きな言葉や、信条、子孫に伝えたい一言、自伝、なんかを書き記しておくのもいいかも知れませんね。お釈迦様の骨壺に「因果応報」「自灯明法灯明」なんて刻印されていたなら、真舎利かどうかも判るし、仏教の普及はもっと進んだことでしょう。みなさんも是非、ご検討下さい。

世界の埋葬方法についてネットで調べてもうまい資料が見つかりません。ヘブライ聖書から生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教では最後の審判で人は生まれ変わることになっているので、遺体を灰にするのは厳禁じゃあないかと思います。お釈迦様が生まれたインドでは、ヒンドゥ教徒が多く、彼らは火葬して灰をガンジスに流すのが最高の弔いのようですね。中国は土葬が主体だとネットにありましたが真偽は不明です。日本でも、昔は土葬で、風呂桶のような棺(ひつぎ)を作る棺桶屋が商売になっていたようですから、火葬が始まったのは明治以降ではないかと推察します。

今上天皇(きんじょうてんのう)の明仁(あきひと)天皇は、火葬を希望し、既に内定しています。この話をニュースで聞いた時、素晴らしい天皇だと思いました。太平洋戦争に対する強い反省の心をもち、沖縄や東日本大震災の被災地などに何度も出かけ、いつも辛い体験をした国民と同じ気持ちを持とうと努める真摯な姿勢には、いつも心が打たれます。

(完)

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mh徒然草116:混沌としてきましたねぇ。


今日は10月31日(月)で、ハロウィーン(万聖節)。キリスト教徒でもない日本人が、29、30日(土曜・日曜)の夜、仮装して渋谷に集まり、お祭りを楽しんだようですが、近々、ブログ「ケルトの不思議」でご紹介するように、2千年程前のイギリスで蔓延(はびこ)っていた怪しい宗教の死者の祭りがその起源です。そうと知ってか知らずか、ハロウィーンを楽しむ日本人が増えていて、バレンタインデーに次ぐ売り上げだろうっていうんですから、一体全体、日本はどうなっているのか?1947年生まれのmhには、理解の範疇を越えています。日本の将来を思うと不安一杯ですが、落ち着くところに落ち着くでしょうから、老人があれこれ言うのは余計なお世話というものでしょう。

それにしても、最近、日本を取り巻くアジア諸国は先行き不安が一杯です。

お隣の韓国では、朴大統領の身辺で蠢いていた不審な女性が大きな話題になり、大統領の辞任を求める動きも出始めたようですね。

<韓国機密漏洩のカギ握る崔氏 朴氏支え40年超…陰の権力者>
産経新聞 10/31(月)
「韓国の朴槿恵(パククネ)大統領をめぐる機密資料の漏洩(ろうえい)疑惑は、事件のカギを握る朴氏の友人、崔順実(チェスンシル)氏が電撃的に帰国したことで、新たな展開を迎えた。民間の実業家である崔氏がなぜ、“朴政権の陰の権力者”と呼ばれるようになったのか。」

【朝鮮日報社説】高まる国民の怒り、速やかに挙国一致内閣を立ち上げよ
朝鮮日報日本語版 10/31(月)
(前略)
「大統領の周辺では国政から事実上退くか、あるいはあくまでそれには応じないとする双方の意見があるようだ。ただ朴大統領が自らの力だけで今の状況を打開し収拾する力も権威も失っていることだけは間違いない。一方で巨大野党が反対すれば、内閣改造も不可能だ。さらに国民の信望が厚い新たな人物を首相とするような形だけの対応が通じる段階でもないだろう。形を取り繕うだけではおそらく国民が黙っていないはずだ。」

北朝鮮では金正恩は暗殺されるかもしれないとの恐怖から、酒浸りの毎日が続いていて、側近もいつ金正恩から処刑されるか、びくびくしながら暮しているようです。

ロシアでは、プーチンが居座り、野党の党首やジャーナリストなど反プーチン派の指導者が不審死を遂げ、スターリンの恐怖政治が再来するかの様相です。

中国の習近平主席の行動もおかしくなってきたようですね。
<北京市長に習氏側近 実績なき登用…「露骨」と批判>
産経新聞 10/31(月)
「中国の習近平指導部は30日までに、蔡奇・国家安全委員会弁公室副主任を北京市長に登用することを固めた。同市人民代表大会(議会)の承認を経て近く正式に発表する。複数の共産党筋が明らかにした。蔡氏は習近平国家主席の腹心として知られる。大物政治家が就任するのが一般的といわれる北京市長に、重要ポストの経験が全くない蔡氏を任命することは異例で、党内から「露骨な側近政治だ」といった反発が出ている。
(中略)
また、胡錦濤前国家主席に近いとされる劉鵬・国家体育総局長も近く更迭されることが固まったという。サッカーの中国代表のワールドカップ(W杯)アジア最終予選での成績は、30日現在、3敗1分けと低迷し次回のW杯本大会への参加が絶望的といわれる。このことに対し、サッカーファンの習氏は大きな不満を持っており、劉氏は責任を取らされた形となったという。」

最近、習近平同志を核心としよう、というスローガンが発表されたようですが、核心と呼ばれたのは毛沢東だけだと言いますから、とうとう、習近平は中国国政の実権を握り持つ唯一の人物、すなわち“核心”になったようですね。

フィリピンのドゥテルテ大統領は麻薬対応が国民に受けて、支持率90%近くまで上がっていますが、麻薬関係者3千4百人程が、ここ数か月で、警察官によって殺されています。警察官の中には、麻薬密売人の仲間もいて、自分に不都合な事態が起きる前に、付き合っていた麻薬密売人を殺しておこうという輩(やから)も沢山いるのではないかと言われています。

海の向うのアメリカでは、嫌われ者のヒラリー女史とトランプ氏が大統領の席を争う構図ですが、昨今の女性差別発言で、トランプ氏だろうとのmhの予言は、若干、おぼつかなくなっているものの、ヒラリー女史もトランプ氏に劣らない曲者のようで、まだトランプ氏にも勝機は残っていると踏んでいます。

そして日本では、自民党総裁の任期は、安倍首相の考えを忖度(そんたく)した二階幹事長や高村副総裁などの老人パワーが画策して、2期6年から3期9年に延びました。党内からの反論はニュースにもなりませんでしたから、緘口令というか暗黙の圧力が働いているのでしょう。自民党は中国共産党と同じ管理体制ができあがり、若手議員が青雲の志で国事に取り組む環境は封印されました。

一体全体、日本や、日本の隣国は、なぜ、こんな事態に陥ってしまったか?

その原因を一言で結論付けるなら「慈愛の欠如」でしょう。尊敬するお釈迦様が偉大だったのは、深くて広い慈愛の心を持っていたからです。我々のレベルに照らしてみれば、「困っている人を助ける」ってことですね。その慈愛の心が、我々の心の中から薄れているんです。困っている人のことなど、構わなくなり、自分のことだけを心配するようになったんですね。そうして、だんだんと、貧富の差が生まれてきました。政治家もいかにして自分の地位を守るか、高めるかを考え、貧困者への配慮はおざなりです。

この傾向が人間の本性だとすれば、今の流れは留まることはないのですが・・・
しかし、諸行無常!自分勝手に振る舞う者たちにも終わりがくるのです!

で~、世界各国の傍若無人なリーダーたちは、何によって終わりを迎えるのかですが・・・
2つ考えらえます!

その一つは自滅です。宇宙もそうだと言われていますが、拡大をし続けると最後は崩壊するしかないのですね。それが運命だということでしょう。

もう一つは、クーデターです。自分のことしか考えない人は、結局、他の誰もから嫌われ、怒りの風船が破裂して反乱が勃発するんですね。

日本の場合、貧民に武器が与えられていませんから、クーデターは起きそうにありません。よって自滅を待つことになりますが、幸い、日本には選挙制度が残っていますから、国民は国会議員を解雇する権利があります。日本国憲法の改訂も国民投票で反対すれば見送られるわけです。国民の意見を反映するチャンスが残されていて、それを行使することが出来る日本は、その権利をもたない中国や北朝鮮と比べたら格段、恵まれています。韓国、フィリピン、アメリカも、仮に一時的な停滞や後退があったとしても、国民投票による決定制度が機能する体制が維持されている限り、立ち直ることは可能だと思います。

ってな、毒にも薬にもならないようなことを言っていても、当座の不都合はどんどんと増していて、昨今のmhの心配事は、野菜や果物の値段の高沸です!気象異常が主因です。地球温暖化を完全に止めることは不可能でしょうから、栽培方法を改革する道しか残されていないのではないかと思います。例えば、コンピュータで温湿度や日照を管理する野菜工場ですね。だんだんアグリ・ビジネスが増えているようです。若者よ。農業、頑張って下さい!

It must have been love - roxette (lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=Q6WzkvBkcUE
(完)

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