Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草(特番) 結局は安倍首相が問題?


今日は12月28日。ネットに日本と韓国、日本とアメリカ、に関するニュースがありました。

まず韓国ですが、実は1年前の12月28日、日韓外相会談があり、慰安婦問題は“最終的かつ不可逆的”な解決をみたはずでした。しかし、mhも酷評したように、火種はくすぶり続けています。慰安婦像もこの1年で数が増えたとのネット記事もありました。

昨年の“最終的かつ不可逆的”解決に至ったという日韓外相会談について外務省ホームページに記事がありますのでご紹介しておきましょう。

「日韓外相会談」
12月28日午後2時から3時20分頃まで,岸田文雄外務大臣は,尹炳世(ユン・ビョンセ)韓国外交部長官と日韓外相会談を行い,直後の共同記者発表(日本語/英語/韓国語(PDF)別ウィンドウで開く)において,慰安婦問題について以下のとおり発表した。
(1)岸田外務大臣による発表は,以下のとおり。
日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。
ア)慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。
イ)日本政府は,これまでも本問題に真摯に取り組んできたところ,その経験に立って,今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。具体的には,韓国政府が,元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し,これに日本政府の予算で資金を一括で拠出し,日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行うこととする。
ウ)日本政府は上記を表明するとともに,上記(イ)の措置を着実に実施するとの前提で,今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。あわせて,日本政府は,韓国政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
(2)尹外交部長官による発表は,以下のとおり。
(省略します。日本外相発表に準じたものです。当然ですが、慰安婦像については何も言っていません。)

で~1年後の今日、ソウルの日本大使館前の慰安婦像は相変わらず残ったままですが、釜山(プサン)の日本総領事館前に慰安婦像を据え付ける動きがあったんですね。
「釜山の日本総領事館前に“少女像”区当局が強制撤去」
朝日新聞デジタル 12/28(水)
韓国・釜山市の大学生や市民団体が28日、日本総領事館前の歩道に旧日本軍の慰安婦を象徴する「少女像」を設置した。歩道を管理する釜山市東区は設置を許可していなかったことから、強制的に撤去し、区役所に運び込んだ。現場は区当局や警察当局とにらみ合いが続き、騒然とした。
釜山の大学生らは日韓合意に反対の意思を示そうと日本総領事館前に少女像の設置する運動を進めてきた。費用は募金で集め、少女像も製作。当初は31日に設置し、除幕式を開く計画だったが、慰安婦問題の日韓合意から1年を迎えた28日に設置を強行した。
警察当局によると、市民団体のメンバーらは少女像を取り囲むように座り込むなどして抵抗していたが、区当局側に排除された。この騒動で市民団体のメンバーら13人が公務執行妨害の疑いで警察当局に連行されたという。

以上は日本メディア発信のニュースですが、韓国メディア“聯合ニュース”でも慰安婦像を巡る韓国内の軋轢(あつれき)が紹介されていました。それによれば、釜山以外でも問題が起きていたようですね。
「西部の忠清南道舒川郡でも、自治体と地元団体が少女像の設置場所をめぐり対立している。市民の参加で製作された少女像は公共施設が集まる場所にある広場への設置が認められず、この広場の一角に一時的に置かれている。
昨年12月に除幕した南部・済州島の少女像も、設置を推進した団体は日本総領事館前に置くことを計画していたが、済州市が外交問題などを理由に許可しなかったことから、結局は公園に設置された。」

これらのニュースを見ると、日韓の密約(?)を守り、韓国政府は慰安婦像の増設を公的には認めていないようです。約束したのでしょうから、守るのは外交上の義務で、当然ではありますが、朴大統領の弾劾が行われようとしている状況下で韓国政府は頑張っていると言ってもよいでしょう。

しかし、日韓の合意に納得しない一部の慰安婦もいて、彼女(たち?)は日本政府を相手に訴訟を起こすことにしたようです。
「慰安婦合意1年、元慰安婦が日本を相手取り追加訴訟に」
中央日報日本語版 12/28(水)

一体全体、韓国民は、元慰安婦は、日韓の政府間合意をどうして蔑(ないがし)ろにするのでしょう?

話は変わって~日米に目を向けると、安倍首相はホノルルに行ったんですね。そこで“不戦の誓い”らしきものを述べていますが、その評価がネットにありました。
「歴史的」「アジアが先」時事通信 12/28(水)
=真珠湾訪問、評価二分―各地の戦争資料館長=
安倍晋三首相が28日(日本時間)、犠牲者を慰霊し、二度と戦争を繰り返さない決意を表明した真珠湾訪問。日本にある戦争や平和関連の資料館館長らからは「歴史的に(意義が)大きい」との評価の一方、「謙虚さが足りない」など批判的な声も上がった。
広島県の呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)館長の戸高一成さん(68)は「両国の責任者が、直接真珠湾で慰霊したことに意味があり、非常に良かった」と評価する。首相が謝罪しなかった点も「戦争はどちらかが一方的に悪いわけではない。謝罪ではなく反省するもの」と指摘。両首脳の未来や次世代に向けた演説を含め、今回の訪問を「歴史的に大きい一つのアピールになった」と称賛した。
一方、東京大空襲・戦災資料センター館長で作家の早乙女勝元さん(84)は、演説で強調された同盟関係について「純粋な平和同盟ではなく軍事同盟だ」と懸念。沖縄県で再開された普天間飛行場の移設工事に触れ、「『和解』や『寛容』という言葉が空虚に聞こえる。日本が侵略と植民地支配を繰り広げた中国や朝鮮半島への謝罪が先ではないか」と疑問を呈した。
長野県上田市の無言館(戦没画学生慰霊美術館)館主の窪島誠一郎さん(75)も「『謝罪なき和解』というセレモニーを、日米共同で制作した感じ」と手厳しい。首相の演説を「謝罪を避けるという根本的な無理が、言葉の弱さにつながっている」と批判。同盟関係を強調した点についても、「アメリカのためなら戦争しかねない。大戦(という過ち)を犯したという謙虚な姿勢が足りない」と不快感を示した。

慰安婦に関する韓国の動き、ホノルルでの安倍表明に対する日本国内の評価、を見ると、どうも、多くの人が得心していないんですねぇ。

原因は、安倍首相の本心にあるとmhは思います。どんなきれいごとを言っても、本心は違うんだろう?って多くの人が感じているんですね。

それには、お釈迦様が仰るように、因果応報で、根拠があります。例えば、慰安婦問題では、当初、安倍首相は日本の非を認めた河野談話を認めていませんでした。最近は認めると言っていますが、慰安婦や韓国から謝罪の言葉を求められても“言う必要がない”という態度ですから、本当は認めていないんじゃあないの?って思われるんですね。

また、“不戦の誓い”が空々しく響くのは、日本国憲法を変えようという動きや、スーダンやその他の紛争地域への派兵や、武器輸出、はたまた国連における核根絶条約への反対投票などの中に、安倍首相の思惑を見ているからです。確かに、現状で防衛力をゼロにするのは問題あると思いますが、戦力を増強し、海外派兵を進め、武器輸出も行う人物が“不戦の誓い”をしたところで、それを真に受ける人がいなくても当然でしょう。

実は、今日、“力の本の不思議”というYoutubeフィルムの紹介ブログを投稿したばかりです。4月24日公開されますのでお楽しみに。で、このフィルムにはナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラーと、その部下ハインリッヒ・ヒムラーが登場するんですね。独裁者、ファシスト、です。彼らに反論するなんて怖くてできません。今の自民党では、安倍首相の言動を非難する国会議員はいませんが、それは、安倍内閣がナチス・ドイツや戦前の東条内閣と同じ性格を帯びてきたからだと思います。総裁任期も伸ばしました。ひょっとすると、任期規定を廃止し、党員の賛同が得られるなら死ぬまで総裁でいられるって規則を作るかも知れません、キューバや北朝鮮やアフリカの独裁政権などと同じように。

独裁者が最も重視することは、死ぬまで権力を維持することです。それが独裁者たる所以(ゆえん)です。もし、日本が独裁国家になるとしたら、日本帝国が復活して皇帝天皇が独裁者になり、皇族が権力を継承していくことが考えられますが、この可能性は低いでしょう。むしろ、安倍首相が終生総督となり、子供はいないようですから、佐藤栄作家系か岸信介家系の長老が安倍終生総督を継承するケースが考えられます。そうなれば、ネットのブログ記事は愛国心を鼓舞するもの以外は全て排除され、現在の中国のように、総督礼賛と対立国誹謗だけが飛び交う、無機質な世界になるのです。このブログも検閲にかかり、公開されることはありません。

たった今、東京都議会の自民党議員3名が自民党を離脱するというTVニュースが流れました。離脱理由は“自由闊達な議論をして都民の立場で活動するため”とのこと!自民党員は国会だけでなく、都議会でも独裁体制が徹底し、自由にモノが言えないようですね。安倍首相の力がこんなところにまで及んでいるとは思ってもいませんでしたが、ここまできているとなると、安倍首相だけではなく、彼を取り巻く長老たちも、権力を維持したいと考えて、あちらこちらに手を回しているとしか思えません。
追記:
12月29日のネットニュースで自民党都議会議員の記者会見に関するニュースがありました。
これによれば、自民党員のまま、自民党会派を離脱するんですねぇ。映像ニュースを見ると、自民党を愛しているっていってますが、一体全体、何を考えているのか、mhには判りません。ま、我田引水の意見を言わせて頂けば、自由闊達にモノをいえる雰囲気にない、というのは間違いないと思います。
気になる方はご自身で次のURLでご確認下さい。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822871000.html

Daydream Believer- The Monkees
https://www.youtube.com/watch?v=T-2Z08mp7n8
(完)

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英国を救ったケルトの不思議


前回のブログ「ケルトの不思議prt-3」で、ローマ軍がブリテン島から完全撤退した西暦410年以降、ローマに代わりゲルマン民族(アングロ・サクソン)がブリテン島を乗っ取ったとご紹介しました。

今回の「英国を救ったケルトの不思議」によれば、ケルトの島ブリテンがローマ帝国に征服され、ケルト人はローマ化された後、征服を逃れたヘイドリアン長城以北のケルト人が抵抗を続けていると・・・ある事情でローマが撤退して、ブリテン島の南半分(イングランドですが)はゲルマン民族に乗っ取られてしまうんです!
としたら“ケルトが英国を救った”とはどう意味か?脈絡が掴めません。

しかし、今回のブログを見て頂けたら、そうだったのか!と腑に落ちるでしょう。英国・ブリテンを救ったのは、ケルト人で、その切っ掛けを作ったのは、ブリテン島の隣の、当時のローマ人がハイバールニアHiberniaと呼んでいたアイルランド島を拠点に活動したパトリックという名の、ブリテン島生まれのケルト人です!!!彼が英国を救うことになったって言うんです!

パトリック・・・聖パトリックか???
どうもクリスチャンの響きが・・・
聖パトリックが英国を救った???!!!
しかもアイルランド島から???

それではYoutube「How the Celts Saved Britain - 1of2 (BBC) 」から、ローマ統治時代に導入されたキリスト教に染まった家庭で生まれたブリテン人でケルト人のパトリックが、隣のアイルランド島から故郷のブリテン島を救うことになった経緯をご紹介していきましょう。
・・・・・・・・・・・・
英国人は伝統的にアイルランドを別の場所だと見なしている。野蛮で、手に負えない、文明化していない、近代化や鎮静が必要な土地だと。この英国的な歴史的解釈は、我々が良く言う1500年前の暗黒時代Dark Ages、アイルランド人が全く異質の役割を果たしたことを都合よく忘れている。当時に遡れば、英国に文明をもたらしたのはアイルランド人だと判るのだ。
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文明はどのように失われてしまったのか?どのようにして、原始的で未開発だったアイルランドが、ヨーロッパや英国が体験した中で最も深淵で社会的で文化的な改革を成し遂げたのか?それは、衰退と再生の叙事詩だ。

How the Celts Saved Britain:A New Civilisation
ケルト人はどのように英国を救ったのか:新しい文明
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5世紀始め、ローマ帝国は最盛期にあったようだ。帝国は、軍事力と甚大な富を使い、その文明と学問を、知られている世界の隅々にまで広げていた。紅海から大西洋まで、中東からヨーロッパの北西端まで、数千Kmに及んでいた。
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私(Dan Snowプレゼンテイター)は今、セヴンエストリー(?)の英国側にいる。向うに見えるのはウェールズだ。
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しかし、私の物語が始まる、今から1600年前には、そこに英国やウェールズは無かった。広がっていたのはローマ帝国の属州ブリタニアBritanniaだ。

ローマによる3世紀以上の占領は、鉄器時代の英国を、道路や町や技術のある土地へ変革していた。グロウシェスターシェア(?)に残っているローマ時代の邸宅跡は、セヴンエストリーから数Kmにある。繁栄、文字、法律と共に、ローマが英国に持ち込んだ快適さと贅沢さの極みだ。
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そして高度な新たな宗教も持ち込んで来た。キリスト教だ。
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その上、ローマ軍は敵対的な隣人からブリタニアを守った。北では、戦好きのピクトPictがヘイドリアン長城で押しとどめられ、そして西では海の向うにアイリッシュIrishがいた。
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ローマ帝国に征服された歴史が無い彼らは、典型的な野蛮人barbarianだった。野生的で、非文明的で、本や町や道路がない田舎で暮らしていた。

西暦406年、ローマ帝国は突然、危機に見舞われた。ゲルマン系の侵略者が帝国の中心ローマを攻撃したのだ。
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ブリタニアに駐屯していた軍団は呼び戻され、ブリテンは脆弱で何の防御もないまま放置されることになった。

英国の敵は海を横切って、ブリテンにやって来るようになった。西暦400年頃、恐ろしい事件が起きていた。何千もの男や女や子供が人身売買を専門にしていた海賊pirateによって誘拐されたのだ。当時、そのような誘拐事件は頻繁に起きていた。しかし、ある一つの事件は特別なものだった。
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生き残りの一人がその出来事を書き記していたのだ。その時16歳だったが、ブリテンとアイルランドを永遠に変えるよう運命づけられていた。名をパトリックという。彼は、一緒に捕えられた仲間と共にアイルランドに送られ、奴隷として売り飛ばされた。

アイルランド海を横切る船旅に出た私は、彼の絶望がどんなに大きかったのかを容易に想像できた。ローマ的な心情の彼は、海を横切りながら、文明の光を後方に残し、野蛮な土地に入り込んで行く気分だっただろう。
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西ヨーロッパでローマの手にかかっていない唯一の国だったアイルランドは、鉄器時代のままだった。ペティ(族?)と上王High Kingsたちが多くの王国からなる部族の島を統治していた。邪教徒(pagan)の島で、農業を生業とし、富は家畜の数で決まっていた。ローマ人がハイバールニアHibarnia、つまり冬の土地、と呼んだのも判る気がする。
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アイルランド国立博物館員ケリー「パトリックにとっては、とても住める場所じゃあなかったでしょう。その上、彼は奴隷という最低の地位の人間でした。文明化されていたブリテン島から来た彼は、恐らくアイルランド人を野蛮な人々だと思ったはずです。島の言葉や習慣を知らない彼はとても憤慨していたでしょう。」
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プレゼンテイター;ダン「アイルランドはブリテンとどのように違っていたのでしょうか?」
「全く違っていて、パトリックにとっては知らないものばかりだったと思います。島には町などありませんでしたし、言葉も違っていたし、ローマの世界のように道路網などありませんでしたし、商業や生産部門もありませんでした。優雅な建物が並ぶところもないし、農業も遅れていました。つまりアイルランドの全てのことはブリテンとは全く異なっていたんです。」
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「アイルランドで暮らす普通の人々の生活の様子はどんなものだったのでしょうか?」
「不潔で低俗で希望などは少なく、多くの人は隣人を敬うことはなく、土地争いや、牛などが原因の風土病で多くの人が若くして死んでいたのではないかと思います。生きていくにはとても厳しく悲惨な環境だったことは違いありません。」

若いパトリックは島の北部のスレミッシュSlemish山地で暮らしていたと考えられている。しかし、最近、学者達は、彼がここ、西海岸のメイヨーMayoで、アイルランドでの旅を終えたのではないかと考えている。
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彼は牧夫の仕事を押し付けられていた。それは彼の年代の奴隷の若者にとっては一般的な仕事だった。全く見も知らないアイルランドの自然環境の中で、不断の厳しい生活を強いられていた16歳のパトリックは神に頼らざるを得なかったようだ。
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彼が祈りを捧げたのはキリスト教の神、つまりローマから教えられた神だ。祭司の祖父、助祭の父が敬っていた神だ。パトリックの告白によれば、アイルランドで奴隷のまま終わるだろうと思っていた彼は、キリスト教を真剣には捉(とら)えていなかった。
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彼がしていたことは、失ってしまったブリテン島での生活を思い起こしながら自分を慰めることだった。

6年間の奴隷生活の後、彼の祈りは聞き届けられた。彼はアイルランドから逃げ出し、ブリテン島に向かった。
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しかし、もし彼が野蛮な生活を離れ、文明の世界に戻ろうと考えていたのなら、直ぐ考え直さねばならなかっただろう。ローマ軍が撤退したブリタニカでは、秩序はパニックに道を譲っていたのだ。

ヘイドリアン長城は北の野蛮人ピクトを寄せ付けない目的で造られた。かつてはローマ帝政下の英国の権力と安全保障の象徴として立っていた。
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しかし、今は崩壊を象徴するだけのものだった。ブリテン人は見捨てられていた。長城を守るのは自分たちしかいなかった。英国の最初の歴史家の一人ビードBedeは次に何が起きたかを書き残している。北方の野蛮人ピクトが長い槍のような武器で襲ってきて、長城では防御し切れず、人々は昼も夜も敵襲を恐れていたという。秩序は混沌に取って代わられていたのだ。

長城から数Kmの所にあるヴィンドランダVindolanda砦は、当時、英国が突入することになった黙示録の世界を生々しく残している。
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最も大きな砦の一つで、軍人と市民2千人以上が砦とその周辺に暮らしていた。
「ローマ軍が去った後、ここで何が起こったのでしょう?」
ヴィンドランダ・トラスト;バーレイ「長城の近くに造られていたこのような砦は、直ぐに放棄されました。」
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「どうしてですか?」
「恐らく、安全保障上の問題からでしょう。人々は自分たちの将来に不安を持ち、野蛮人たちが襲ってくるだろうと心配していたはずです。ローマ軍が引き揚げを進めるにつれて、心配は膨れ上がっていきました。砦の中に閉じこもり、自分たちだけで、外敵から守らねばならなくなったのです。」
「住民が長城の上にプラットフォームのような広場を造った目的はなんでしょうか?」
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「長城の南側の防衛のために、投石機を据え付けたり、弓を射たりする場所を確保しようとしたのです。ローマ軍が去ってしまうと状況は悪化し、これまで長城の北にしかいなかった敵が、南にも現れるようになっていました。」
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「状況は絶望的で、長城の補強をするにも石切り場がありませんでした。そこで砦の外に造られていた家の石や墓石を使いました。補強作業は慌ただしく行われました。生き残るために必死だったんです。」
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歴史家ビードBedeの記録によれば、ブリテン人は飢えを凌ぐため、仲間同志で争い、盗みあっていた。ある人物はローマ皇帝に軍事支援を要請する手紙の中でこう言っている“野蛮人が自分たちを海の方向に追い込んでいる。海は自分たちを野蛮人の方向に押し戻している。2つの死に方がある。おぼれ死ぬか、斬り殺されるかだ。”
しかし、ブリテンのこのうめき声は聞き届けられることはなく、ローマから援軍が来ることはなかった。

超大国ローマが躓(つまづ)くと、ブリテンでのかつての活気ある経済は冷え込んだ。昔の贅沢な居住地villaや町の生活や、貿易は崩壊してしまった。
「これは皇帝アルカディアスArcadiusの銀貨で西暦393年頃のものです。」
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「ローマで造られ英国にもやってきた最後の銀貨ですが、貨幣の価値は急速に失われていて、人々は昔のようには信用しなくなっていました。どんな硬貨も鋳造されなくなり、誰もお金を信用しない状態で、どうして買い物などができるでしょう。そこで人々がしたことは、ローマの硬貨を溶かして貴重な銀だけを取り出し、通貨棒Currency barsにして使うことでした。これがローマ軍の基地で見つかった昔の例です。」
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「何か買いたければ、この通貨棒を適当な長さに切って、売り手に渡すんです。売り手がその価値を信用したら、商品を渡してくれたんです。」
「このような通貨棒を使うようになって人々はどう考えていたのでしょうか?」
「信じられない程に神経質になっていて、暴力沙汰になることも多かったとおもいます。取引きも減って、人々は不幸になり、長城の周りで暮らすのが好い事だとは考えられなくなっていきました。」

ローマ文明が信じられない程脆(もろ)いことが証明されてしまった。海外に逃げ出すことが出来る人々は逃げ出した。その中の一人がパトリックだった。とても暮らしていけないと考えた彼がブリテンを離れたとしてもさして驚くべきことではない。驚くべきことは彼が向かった先だ。アイルランドに戻ったのだ。
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パトリックは言っている「私の動機は夢だ。その中で予言天使が信仰を地球の果てまで届けて、野蛮人でかつては自分を捕え、奴隷として使ったアイルランド人を変えるように訴えたのだ。」
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アイルランド北部に上陸した時、パトリックはキリスト教に基づいた新しい文明を広めようとの決意も持ち込んだ。
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彼が内陸に入って行くと、そこには邪教paganismが蔓延(はびこ)っていた。アイルランドはドゥルーイズDruidsに取り仕切られている、神聖な木や、森や、湖の土地だった。祈祷師や賢者や儀式執行人たちによって、動物に対する信仰や人間の生贄が執り行われていた。未来を予言していたのは祭壇の上の血や内臓だった。
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ドゥルーイズの宗教はかつて西ヨーロッパ中に広がっていた。困惑させられたローマは、この宗教を死罪に値するものとしていた。しかし、ローマの権限もアイルランドにまで及ぶことは無かった。そして、ここアイルランドでは、その宗教は信じられ続け、繁栄していた。このように深く異教に染まっている人々をパトリックはどのように説得して、新しい宗教を受け入れさせることが出来たのだろうか?

彼は古い宗教が最も強く残っている場所から手をつけ始めたようだ。
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今日でさえ、うっそうとした谷には邪教徒社会の印(しるし)が残っている。ボロ布が木に結び付けられているのは木が崇められている証拠だ。暗い時代にまで遡る習慣が今も実践されているのだ。
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司教Bishopジョセフ・ダフィー「“悪魔の谷”を意味するアウトオブジョー(?)という古い名前は邪教がまだ残っていることを示しています。しかし、ここの新しい呼び名は“パトリックの場所”とか“パトリックの椅子”で、伝説によればパトリックがここに来て、邪教徒たちに説教をしています。」
「何故パトリックは邪教徒の場所に来て説教をしたのでしょう?アイルランド人をキリスト教徒にするためですか?」
「勿論ですとも。彼は大地に座り込んで、邪教徒たちを気楽な気分にさせながら説教することに最善を尽くしたんです。昔のアイルランド人は、こういう、魂が宿っているような雰囲気の場所にとても魅かれていたんです。だからパトリックもここに来たのです。彼は邪教徒たちが理解しやすいような例えを使いました。邪教徒は太陽Sunや、その周期に重要な関心を払っていましたが、キリストは神の子Sonでしたから“U”を“O”に変えて太陽の神キリストとして説明したんですよ。」
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「つまりパトリックは邪教徒たちの伝統的な信仰の場所や集会でキリスト教を布教したんですね?」
「全くその通りです。このような場所はキリスト教とは全く関係なかったんですが、パトリックも普通の祭司などとは違う考え方を持っていたんです。」
「そのことで、彼はどんな危険に立ち向かっていたのでしょうか?」
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「彼は言っています。“盗賊や盗人から受ける危険ではなく、自分の考えに敵意を持ち、威嚇する人々からの危険だ”と。特にドゥルーイズDruidsはパトリックにとっては敵対的でした。ドゥルーイズは確固たる宗教を信じていましたし、別の場所からやってきた人たちでしたから。」

パトリックが変革を開始した時、彼は邪教そのものを変えようとしていた。ドゥルーイズにとって神聖な水はキリスト教の洗礼のための聖なる水になった。邪教徒の聖域は破壊されず、キリスト教の祭壇に変えられた。
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古代の祭りは放棄されることなく、新しい宗教の祭りに変えられた。

かつては奴隷だったパトリックは、アイルランドの邪教体制を引き継ぎながら、社会的でかつ宗教的でもある改革的なメッセージを説教した。
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彼が草の根運動の中から、どのように支持を得ていったのかは解(わか)るような気がする。しかし、上流階級のアイルランド人には変革で失う物は多すぎる。パトリックはどのようにして彼らを古い仕来りから切り離していったのだろう?
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伝説によれば、パトリックはアイルランドの権力者たちの神聖な場所に着目したという。“アイルランドの初代の上王High Kingの椅子”の“タラの丘The Hill of Tara”だ。
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ベルテナという邪教徒の祭りの夜、パトリックはタラTaraの一角で火を放ったと言われている。伝説によれば、祭りには上王自身が最初に火を点けることを好んでいたのだ。
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パトリックの行動は騒動を引き起こすものだった。しかし、よく考え尽くされていたとも言える。敢(あえ)て火を放つことで、パトリックは王たちの注意をタラに惹きつけたのだ。彼はキリスト教のメッセージを使って王たちに強い感動を与え、彼らの考えを変革したという。
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とても上手く作られた話に聞こえる。事実、そうかも知れない。この話はパトリックによる変革から200年後に書かれたものだ。その時には彼は既に聖人として祀(まつ)り上げられていた。従って、彼に関する多くの記述は所謂(いわゆる)聖人伝で、歴史と神話が混じり合っていた。しかし、仮に神話だとしても、我々に一つの重要な事を語りかけている。パトリックはここタラの地に来たのだ、何故なら、ここは上王の椅子がある場所で、周辺には邪教徒の祈祷師たちがいたからだ。ここに来ることで、彼は政治的な力を得ながら邪教と立ち向かい、それを取り込んでいったのだ、邪教の正に中心地heartlandで。
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「パトリックについて私が驚かされるのは、彼が、ここアイルランドで信じられない程の成功を収めたことです。キリスト教がどうしてアイルランド人にとって魅力的だったんでしょう?」
司教「パトリックは間違いなく、抑制した生活を送っていました。それは人々が満足を得る人生とは異なるものでした。それがあなたの質問に対する最も簡単な答えです。恐らく、彼は、人々がそれまで体験したことが無い方法で、人間の尊厳についての新たな感覚を彼らに与えたのです。例えば、彼は奴隷制度に真っ向から反対していました。それは当時でもとても悲惨な社会慣習の一つでした。奴隷は最低の地位の人々で、なんの権利も与えられず、一生そのままでした。彼は説教の中で、このことを強く批判しました。」
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「新しい信仰が何故、虐げられていた人々の心を動かしたのかは私にもわかる気がします。しかし、上流階級の人、例えば王や役人などについてはどうだったんでしょうか?」
「パトリックは読み書きが出来ました。記録によれば、アイルランドにおける読み書きの発展にパトリックが大きな貢献をしたことが明らかになっています。ラテン語や古典の言葉を使い、書き記す方法をパトリックは教えたのです。世界中どこでもそうですが、どんな人たちでも大きな改革を実現しようとしたら教育が一番重要であることを知っています。人々に食糧やお金を与えるのではなく、人々の知恵を表現できる方法を指導するのです。そうすることで人々は人生を豊かに出来るのです。」
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「つまり彼は近代性の波を持ち込んだということですね?」
「そうです。物を考える上での大きな改革でした。そうすることで彼はキリスト教をブリテンからアイルランドに持ち込んだのです。」
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私に確信があるわけではないが、その目的が信仰だけではなかったのは明確だ。キリスト教はローマ帝国が崩壊後も生き残った遺産の一つだ。しかし、今、それは新しい文明への道を開き始めた。パトリックが説教をした納屋があった場所に再建された最初の教会は、社会的、政治的な変革だけではなく、新しい宗教の到来を記念する場所になった。
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パトリックの改革の力はクロー・パトリック(Croagh Patrickパトリックの積み藁(わら))と呼ばれる山によって象徴化されている。アイルランドで最も神聖な山で、豊穣の神クラムドゥの本拠地だ。
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古代の収穫祭ルナサンで注目されていた場所で、邪教徒の信者たちは山に登って豊穣と再生の儀式を行っていた。今日では毎年、キリスト教徒の巡礼者が、パトリックの登頂を記念して訪れている。

2時間登り続けている。そろそろ頂上だが、山は岩で覆われている。
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今日、この山を登る巡礼者の多くがパトリックを倣(なら)って素足だというのはとても驚くべきことだ。天候が急速に変化する、何人も亡くなった危険な所だ。しかし、パトリックがこの山に登ったのは彼の決意を試すためではない。ここは彼がやってくる数世紀も前から邪教徒にとって神聖な場所だった。パトリックは邪教徒が重視していた聖地にキリスト教を持ちこむためにやってきたのだ。
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イエス・キリストが荒野に踏み入っていたように、パトリックは山頂に40日滞在して嵐や悪魔の攻撃を耐え凌(しの)いだと言われている。山頂で、彼はアイルランドの蛇を追い出したと言われている。科学的な見地によれば、この山に蛇が棲み着いていたことはないはずだ。しかし、“タラの火”のように、これも象徴的な話だといえる。

頂上からは、大西洋が目の前に広がっている。
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パトリックはある種の誇りを感じたに違いない。ヨーロッパで最も西の端に初めてキリスト教がやってきた。彼は事実、地球の果てに彼の信仰を届けたのだ。パトリックにとっても輝かしい瞬間だったに違いない。彼はアイルランドの地に新しい文明の種を播(ま)き終えたのだ。
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しかし、数百Km離れたアイルランド海の向う、ローマ帝国の属州だったブリタニアでは、事態は全く違った道を辿っていた。

完全武装した男たちが乗った3隻の船がブリテンの東海岸に到着した時、不吉な章が新たに始まっていた。ブリテンの歴史の中で初めてという訳ではないのだが、今回の混乱の張本人(troublemakers)は二、三人のデンマーク人を伴ったドイツ人たちだった。彼らはサクソンSaxons、アングロAngles、フリージアンFrisians、ジュートJutesだった。
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アイルランド人やピクト人と同じく邪教徒で戦いの部族で、彼らの土地はローマ帝国に征服されたことはなかった。彼らは傭兵としてブリテンに招かれていたのかも知れない。妙な話のように思うかもしれないが、ローマ軍には傭兵を使って防衛する伝統があったので、アイルランド人やピクト人との戦のために雇われた人々だったのかも知れない。問題は、ローマ帝国は傭兵に支払うだけのお金を持っていたが、5世紀の、経済崩壊していたブリテンにはそれが無かったことだ。暫くは上手くいっていたのだろう。しかし、十分な手当や食料の提供を得られなくなると、ドイツ人傭兵は直ぐに腕力に訴え、これが大惨事に繋がった。

歴史家ビードはこう書いている「彼らは、全ての町で略奪を始めた。暴動を止める手立てもないまま、火の手は、直ぐに、海から海まで広がった。人々は火や剣で殺された。キリスト教の司祭たちすらも惨殺された。」
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かなり短い期間で、彼らは昔はローマ属州だったブリタニアの東部と南部を陥落した。住民には彼らの暴挙を止める手段は何も残されていなかったのだ。ブリテンは自由だけではなく、母国語ブリソニック(?)を失うことになった。サクソンが占領した領地を刷新すると新しい地名が生まれた。Wessex,Sussex,Essex,Mersianなどだ。
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アングロ人は自分たちの新しい国家にも名前をつけた。Engra-land、つまりEnglandだ。新しい言語はEnglishと名付けた。

占領されたブリテン人は奴隷になってしまった。いくらかの人々はブリテンの西に逃げた。更に多くの人々は海峡を渡って大陸に逃げ、“偉大なイクソドスExodus(脱出記)”として知られることになる。彼らと共にローマの制度ともいえるキリスト教や、文字や、技術などの最後の痕跡はブリテンから消え去り、残されたものは戦好きで、邪教で、読み書きの伝統が無いサクソンの社会だった。
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サファカ(?地名)で復元されたアングロ・サクソン村は、暴力的な殺人者だと伝えられている人々とはとても異なるイメージを与えてくれる。地元民に溶け込んで現れた農耕民の定住地と言った方がいいかも知れない。
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学者たちは何年もの間、異なる2つの見方について論争している。しかし、最近の研究によれば、もっと複雑で不吉だったようだ。英国の歴史の中では最も不思議なことの一つだろう。
「アングロ・サクソンは狂騒的とも言える歴史的な大虐殺行為の民族だったのでしょうか?それとも農耕民的な、連続性を好む民族だったのでしょうか?」
マンチェスター大学ライアン博士「それは地域や、身分によって異なっていたと私は思います。エリートたちは略奪や殺戮も辞さない一方、普通の人々はそういう行為は好まず、ゆっくりとした変化を望んでいたのではないかと思います。」
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「言葉も文化も町の住民もいなくなり、英国は進歩から退却してしまったと思うんですが。」
「一部に残っていたのは間違いありませんが、大勢としては仰る通りです。ブリテンの文化や言葉は死んでしまいました。殺戮などの悲惨な思いを受けたのは事実ですが、ブリテンで生まれた人々は、アングロ・サクソンの生活様式や言葉を受け入れていったのです。そして何世代かすると自分たちもアングロ・サクソンであると考えるようになりました。」
「移住してきた人々の生活様式が受け入れられていったというのは少し妙な感じもありますが。」
「そう言うことも出来るでしょう。しかし、逆にブリテン人が変わったとも言えます。アングロ・サクソンの社会で暮らす以上、アングロ・サクソンのやり方や経済に倣(なら)う方が都合がよかったんです。」

元々のブリテン文化は、コーンウォールやウェールズやブリテンの北西部にしがみ付いて残っていた。
(mh:次の地図の赤い部分です。)
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例えば私の祖母の家族の言葉であるウェルシュ(ウェールズ語)は古代ブリテン語の一つのブリソニックの流れを汲む方言だ。

しかし、ブリタニア島はついにサクソンのものになってしまった。キリスト教や文明化の光を浴びたことがあるブリテンは今や、野蛮で邪教の暗黒の中に飛び込んでしまったのだ。
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しかし、アイルランドでは事態は逆だった。キリスト教は、かつての邪教の“冬の土地”アイルランドを変革していた。アイルランド人は新しい宗教を受け入れていた。初期の教会の隠者hermitたちは禁欲的な伝統に身を染めていた。グレンダロック(地名)の隠者ケヴィンは凍るように冷たい湖の中で神に祈りを捧げながら何時間もじっと立ち続けていたと言われている。
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彼は、湖の向うの崖に見えている小さな洞窟で何年も暮し、水の中で心を研ぎ澄ませながら神に祈りをささげ、夏になると鉄のベッドの上で寝たと伝えられている。
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このような過激で犠牲的な行為は、初期のキリスト教信者がよく行っていた。そしてある時、ケヴィンは洞窟での生活を打ち切り、谷を出て、修道院を造った。
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アイルランドの南東に位置するガンデロック修道院は、いくつかの木造の建物と十数人の献身的な賛同者と共に始まった。しかし、急速に拡大して、いくつかの建物が出来始めると、一帯は修道院の町と呼ばれるようになった。
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50年前には町も、道も、石の建物もなかった田舎のグレンダロックが大きな飛躍を遂げたのは驚きとしか言いようがない。グレンダロックのような集団社会は着実に国内に広がった。きっと、アイルランドは当時、世界で最も修道院が密集する国だっただろう。修道院は単に福音gospelを説教するだけではなく、技術や神学のための場所でもあった。近くには近代的な病院もあった。穀物倉庫や図書館もあった。ここにくれば最新の農業技術や、大きくて頑丈な家を造ることが出来る建築用材料のモルタルについても学ぶことが出来た。修道院をもつアイルランドは近代化の島だった。そしてアイルランドは世界を変えていく。
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修道院は、拡散しながら新たな進歩を社会にもたらしていった。アイルランドで最も古い修道院の一つのレンドゥランはストラングフォード・ロフ(Strangford Lough北アイルランドの東岸にある入り江)にある。
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パトリックがアイルランド島に上陸し、彼のミッションを始めた場所だ。最近、入り江Loughで、考古学者達は、修道僧たちがアイルランドの生活を急進的に改革した跡を発見した。
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シェフィールド大学モーランド博士「これが世界で最も古い潮力用の堰(せき)の跡です。西暦619年から621年にかけて造られました。技術そのものは単純ですが、驚くべきものです。」
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「修道僧たちは石や粘土や木材を使って、入り江を区切るダムを造ったんです。幅は6m、長さは110mで、粉ひき用の水車を据え付けました。満ち潮の時にダムの入口を閉め、引き潮になったら貯めていた水で水車を回転させて穀物やコーンなどを製粉し、修道院の食材にしていたんです。」
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「再生可能renewableエネルギーで、潮力を使った水車としては世界最古でしょう。修道院は単なる神聖な場所というだけではありませんでした。修道僧たちは最先端をいく技術を開発する仕事にも携わっていて、その技術を人々に伝える役目も負っていたんです。」
「私はキリスト教がなぜ、こんなにも広がったのか、人々に知られるようになったのかということについて懐疑的だったんですが、やっと今、分かったような気がします。キリスト教が経済的な活動を活性化し、新しい考えや新しい技術を取り入れる役目を果たしていたんですね。」
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「そうです。アイルランドと言えば、野蛮な部族が暮らす、田舎の、どこにでもある島だったと考えられがちですが、当時は、修道院のおかげで、イングランド島より恐らく50年、いや100年先を走っていたでしょう。」

しかし、アイルランドを本当に革新化することになるのは、別の形の技術だった。ローマの文明の神髄とも言えるものだ。
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今日、本や図書館は我々の文化の重要な一部だ。それらが無い時間を考えることは不可能だ。しかし、6世紀はそういう時だった。勿論、ローマ時代には本は沢山あった。数十の図書館が帝国中に散在していた。しかし、ローマが崩壊した後は、“図書館は墓のように、永遠に閉ざされてしまった”と歴史家が書き残している。もしアイルランドの修道院や修道僧たちが図書館を造らなかったら、西ヨーロッパにおける、学んだり書いたりする文化は根絶していただろう。

学ぶという変革を進めた中心は写本manuscriptだった。全ての修道院は、写本室を持つようになった。そこでは、新たに訓練された書家たちが毎日、本のコピーを作り続けていた。旧約聖書から新約聖書まで、あらゆる本をラテン語や古典ギリシャ語で書き写していた。
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古代の作品のほとんどは失われている。しかし、数十人の職業的な写本家scribeは今日も仕事を続けている。
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写本家ポール「これは羊皮紙で子牛calfの皮です。皮からこのようなシートを造るのには半年から1年が必要です。」
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「製造方法は1千年以上前と全く同じしょうか?」
「ほぼ間違いないでしょう。写本では、まず羊皮紙に文字を書くための線を定規や細い金属棒を使ってけがいていきます。」
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「書き写すのにはどのくらいの期間がかかりますか?つまり1日で何語くらい書き写せますか?」
「場合によります。写本をする時の湿度が問題です。湿度によってインクの流れや、羊皮の状態が変わるんです。湿度が高いと羊皮紙が反ってしまい作業が困難になるんです。アインゴール(?)インクを使うと、大気の酸素と化合するので、かなり黒い文字を羊皮紙の上に書くことが出来ます。羊皮紙の上で、段々、黒く変色していきます。鳥の羽のペンquillを使って書くのは金属ペンよりもかなり難しいですよ。あまり力を入れずに書くのがコツです。」
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「なるほど。しかし、体力的な仕事ですね。思っていたより疲れます。」
「仰る通りです。この作業を昔、修道院でやっていたら、手は凍えるし、湿度は高いし、明かりは乏しかっただろうし、羊皮紙は温度や湿度などの気候条件によって変化していただろうし、大変な作業だったはずです。鳥の羽ペンと羊皮紙の組合せは魔法としか言いようがないと思っています。」

この写本は“ストームマス(?)”として知られている。
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西暦700年にアイルランドの修道院で書かれた。1千2百年も前のものだとは信じられない美しさだ。
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私が手にしたなかで、最も古い本だ。ラテン語のマス(ミサ?)用の本で、意図的に小さく作られているのは宣教師たちが遠く離れた場所での集会や洗礼や病人を訪ねる時などに持っていき易いように配慮されたためだ。今でも、とても色彩豊かなのは、この本が数百年の間、アイルランドの城の壁の中に隠されていたからだ。数ページはダメージを受けているが、それでも読む上では何の支障がない程度のものだ。この本はアイルランド語で書かれた、世界でも最も古い写本の一例だ。病気で苦しんでいる人々のために読み上げられていた。

このような書物は記述された文字の力を持っていたに違いない。それは古代の知識を現代や未来に伝えるだけではなく、キリスト教を布教し、実践するのに役立った。そしてアイルランド語を新しい書物言語に育てていったのだ。
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アイルランドの修道院から生まれた社会的、文化的な改革は、爆発的な速さで国際的な広がりを持つことになった。

モーランド博士「アイルランド人が行った偉大な事の一つは、当時のヨーロッパ大陸との関係を良好に保ったことでした。大陸から、大勢の学者が訪れてきて、修道院で祈りや勉強をしました。大陸で修道院が充実してくると、こんどはアイルランド人が大陸を訪れ、指導したりもしました。」
「地球の端(はし)のようなアイルランドが突然、文化の重要拠点になったというのは驚きですね。」
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「その通りです。ローマ時代、世界の果ての、ローマ化されたことがなかったアイルランドは、決して知られることはありませんでした。しかし、キリスト教や、大西洋沿岸や北アフリカなどにおける修道院拡大運動のおかげで、世界の隅のアイルランドは突然、ヨーロッパにおける文化の、キリスト教布教の中心になったんです。」

アイルランドの僧侶や本はヨーロッパに流れ出し、数十のアイルランド系修道院が設立された。
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ラクセイルLuxeuilはフランスで最も重要で繁栄した修道院だ。イタリアのボビーオBobbioには中世において最も偉大な図書館も造られた。スイスのセント・ガレンSt Gallenにはユニークな書類が保存されている。
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ローマ崩壊以降、ヨーロッパで作られ、今も残っている唯一の建築計画図で、アイルランド人によって設立された近代的な修道院の青写真だ。
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アイルランドは新しいヨーロッパ文明の揺り籠になった。古代世界の知識を継承するだけでなく、それを新しい何かに変革した。修道院の文明は、ローマ帝国が成し遂げたように、世界の基礎を形成することになった。しかし、ローマ人が軍事力を使ったのに対し、アイルランド人は信仰や学習や発想力を通して文明を広げたのだ。

ヨーロッパは既に恩恵を感じていた。しかし紛争で荒廃したアイルランドの隣の島、将来のイングランド、スコットランド、は頑固にも邪教paganのままだった。
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やがてアイルランドのキリスト教は、最大の難題に立ち向かうことになる。新しい文明を野蛮なブリテンに持ち帰るのだ。
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How the Celts Saved Britain - 1of2 (BBC)- A New Civilisation (2009)
https://www.youtube.com/watch?v=FxzM_Y0cYJA
(完)

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mh徒然草109:青森県の地元就職リーフレット


(特番の都合で公開日をずらしました。)

今日は8月19日。Rio五輪も終盤です。レスリング53Kg級で吉田志保理選手は接戦の末、惜しくも金メダルを逃しました。試合後のインタビューで涙ぐみながら“金をとれずにごめんなさい!”と謝っていましたが、よく頑張ったと思いますよ。レスリング58Kg級では川井梨紗子選手がオリンピック初出場で見事に金メダルを取りました。吉田選手はこの10月には34歳。優勝した川井選手は11月で22歳。スポーツ界での世代交代は摂理であり、いつかはこのような結果になるのは定めでしょう。

時の流れと共に人は老い、死んでいきますが、その一方で新しく生まれる命があり、社会は繋がっていきます。ならば、新しい命が少なく、若者の流出が多い地方は、人口が減少し、過疎化し、高齢化していくから繋がらなくなるのか?そうじゃあないと思います。在り方を見直せば済むことだと思います。

そうは言っても、地方を活性化しようと考えたら、まずは、人口を、特に若い人の比率を増やしたいと考えるのは人情というものでしょう。mhは見なかったのですが、数日前、TVのワイドショーで取り上げられ、恐らく酷評だった青森県のリーフレットをご紹介しましょう。

まずは、それを採り上げたネットニュースです。
“31歳で貯蓄933万円?マイホーム? 青森県想定「現実離れ」”
河北新報 8月14日(日)
“31歳、子ども2人の世帯貯蓄は933万円。頭金なしで2722万円のマイホームも買える。高校3年生に地元就職を勧める青森県のリーフレットに、こんなシミュレーションが載っている。「現実の県民生活からは程遠いプランなのでは」との疑問の声に、県は「あくまでモデル。個々の人生は当然異なる」と釈明している。
「なるほど地元就職」と題したリーフレットは、A3判二つ折り。6000部を作製し、就職説明会などで配布している。高校卒業後に青森、東京でそれぞれ就職し、結婚後も共働きする二通りの人生を紹介。青森の方が経済的にゆとりがあると訴える内容だ。
県内在住のファイナンシャルプランナーが監修したシミュレーションは表の通り。国の2015年家計調査では、青森市の勤労者世帯の貯蓄額は503万円。だが、プランでは31歳で1.9倍近くたまる計画だ。年収と不動産価格は国の公表データを基にしたが、結婚後も実家暮らしを続けたり、2722万円の一戸建て住宅を頭金なし、年間約100万円を返済する35年ローンで購入するなど、都合のいい設定も目立つ。
若者の雇用に詳しい弘前大の李永俊教授(労働経済学)は「東京への過度な憧れに警鐘を鳴らす意義はあるが、貯蓄額などに無理がある。もっと現実的な計画を紹介した方が良かった」と指摘する。県労政・能力開発課は「専門家がちゃんと監修したものだが、結果として、東京との比較を際立たせすぎた面があるかもしれない」と説明している。”

この話題は、特に青森県在住者、青森県出身者の関心を引いたようです。mhがネットで見た範囲では「税金を使って、信頼性が少ないデータで、自分勝手な仮定の下に、手前味噌の結論を導き、それを見た人をあきれさせた」という感想が多いようです。「お役所はいつもこれだ」と冷たい意見が多いようですが、「いいこともしているよ」とお役所を弁護する人も、少ないのですが、いました。

「いいこともしているよ」と弁護した人は青森在住の30代の主婦で、パソコンを使うサービス業をしていますが、リーフレットの内容には批判的で、“地域の魅力、課題を語ってほしかった”と結んでいました。

で~就職説明会で配布されたリーフレットは次です。
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(折込面)
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高校を卒業し、青森で就職した場合と東京で就職した場合の年収や貯蓄、住居がどうなるかを対比したもので、次のようなコメントが添えられているようです。(リーフレットの字が確認できませんので他の記事から流用します。)
(地元就職なら)
*東京より通勤時間が約30分も短いうえ、朝夕の通勤ラッシュもほとんどなく快適!
*東京に比べて1日に約30分もの自由時間を持てるなんて最高!
*実家暮らしは経済的余裕ができる時期。夢も貯蓄もふくらむね!(24歳で結婚して2子が生まれても31歳まで実家暮らし)
*青森はマイホームを手に入れやすく、空間的にもゆとりある生活を送ることができる(3500万円2階建て一軒家購入)
*住宅ローンが終わり、人生の大半を費やした仕事も一段落。セカンドライフを満喫するぞ!
(東京就職なら)
*妻のためにちょっと広めの物件に引っ越し。広い分、家賃もその分高くなる。
*持ち家は諦めマンションを購入。人生最大のお買い物。(6685万円のマンション購入)
*都心から少し離れたマンションを購入。各部屋もそんなに広くない。
*住宅ローンは終わったけれど、毎月の管理費や駐車場代などの維持費がこの先もまだ続く(65歳定年退職時)

確かに・・・ネガティブ・キャンペーンのようでスッキリしませんね!このリーフレットを見て、地元の青森で就職したいと思う人は少ないと思いますね、特に夢多く、青雲の志を持つ若者なら。

総務省の人口増減率ランキングは次の通りです。
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秋田、青森の両県は人口減少が最も激しく、年1%で県民数は減っています。

青森県で安定している仕事といえば自治体公務員か教員でしょうか。
全国自治体別・公務員年収のランキングが見つかりました。500位まで平均年収が高い順に並んでいます。
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で~下位6県は次の通りです。
42位(652万円):長野県、青森県、岐阜県
45位(645):北海道、
46位(643):沖縄県、
47位(619):鳥取県
青森県職員は東京都職員よりも年収が15%低いようです。
秋田県は29位ですが668万円で、青森県と大差はありません。

教員については次のデータが見つかりました。
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人口減少率が高い青森県、秋田県の教員給与は全国平均というところでしょう。

多くの教員は大卒だと思いますので、もし大卒で、青森県に実家があり、教員になりたい人なら青森県の小中高校に就職するのも悪い選択ではないでしょう。しかし、高卒なら教員資格はありません。

ならば青森県庁に就職して公務員になろうと思っても、恐らく、高卒は大卒と比べて昇格が遅いでしょうから、仕事としての魅力は小さく、自宅から通えるメリット(若者には親の目が付いて回るということでデメリットかも知れません)はあっても、採用枠が小さいでしょうから、求職倍率は高く、高根の花かも知れません。

青森県の高校を卒業して就職を希望する若者は、教員にはなれず、公務員も採用枠が小さいので希望は少なく、結局、事務員か工員として企業に就職することになるわけですが、とすれば、県内に就職したい企業がどの程度あるかが最大の問題です。

更には、子供の養育・教育で地方自治体がどんな支援をしてくれるのかも重要な要素かも知れません。利根川を挟んで銚子市と神栖市がありますが、自治体から子供への支援で大差があって、それを理由に住居を川向うに移す若い夫婦が多いという話を聞いた記憶があります。

通勤時間やマイホームの取得難易度が就職を決めるというなら、青森県出身者に、青森で就職する方が得だよ、などといちいち教える必要はないでしょう。県外に就職する人が多くて困っているということは、通勤時間やマイホームだけが就職先を決定する条件ではない証で、それは、至極、まっとうな考えだと思います。青森県は、もっと夢のある就職環境を準備すべきでしょう。それをせずに、通勤時間とマイホームしか話さないとしたら、これからの人生に夢や希望を持っている若者を引き付けることは出来ません。

青森県や秋田県の人口は急速に減少し、高齢化は急速に進んでいます。それを止めるには発想の大転換が必要です。他と比べて就職枠が少なく、興味のある仕事の選択肢が少なく、文化的な施設や刺激が少ない青森や秋田で暮らしたいと考える若い人は少ないのは当然で、その若者の気持ちを変えなければならないんですから、生半可な発想では叶(かな)わないでしょう。

人口が減少し高齢化が進むことは確実な未来だと受けとめ、その中で県民が充実した暮しができる施策に注力することが大切だと思います。高齢者が暮らしやすい青森県なら、いずれ高齢になる若者も青森県に住みたいと思うかも知れません。そんなことは、とうの昔からやっているよ、って関係者は言われるかと思います。とすれば、今回のリーフレットに限れば、やらない方がよかった小手先対応だったと言えるでしょう。

Rainy Days Mondays Carpenters lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=DdMnJt97Rx8

(完)

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ケルトの不思議prt-3

いよいよ「ケルトの不思議」は最終回を迎えることになりました。
Part-1では紀元前387年のケルト戦士王ブレネスによる古代都市ローマの陥落、Part-2では紀元前52年、現在のフランス(当時のゴール)中央部のアレシアで行われたケルト王ヴァーシンゲトリックとジュリアス・シーザーの闘い、がフィルムの中核をなす物語でした。

今回のPart-3は、西暦60年のブリテン島におけるケルト部族とローマ帝国の闘争に焦点を当てます。

後日談ですが・・・この戦いに勝利したローマ帝国は、以降、ブリテン島での領土拡大を続けますが、スコットランド(当時のカレドニア)を拠点としてケルト部族は抵抗を続けます。そうこうしているうちに、西暦410年、お膝元のローマがゲルマン系諸集団の襲撃でゴタゴタし始めたのを機にローマ帝国軍が全面撤退すると、次はゲルマン民族がやってきて、ローマに代わってブリテン島に王国を築くことになります。

西暦約150年(c.150AD)のローマ帝政下のブリタニア地図です。
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北にあるヘイドリアン長城Hadrians Wallについては以前ブログで紹介させて頂きましたが、これがローマ帝国の最北限です。後年、その北にAntonine Wallも造られましたが、防衛効果を発揮するまでには至らなかったようです。
ロンディニアムLondiniumとあるのは現在のロンドンで、ローマ帝国が造った町です。
ここを通り、南東から北西にブリテン島を横断しているオレンジ色の線は“ワトリング街道Watling Street”で、今回のブログの舞台の一つです。Watling Streetの最北西にDevaという町がありますが、その西のSegontiumという町の近くに島があります。アングレシー島Angleseyです。
また、ロンディニアム(ロンドン)の直ぐ北東には、今回の物語の主人公で悲運の女王ブディカが最初に攻撃した町カムロドゥヌムCamulodunum(現在のColchester)が、その北部に、ブディカの小国ノーフォークNorfolk(地図でNorwichの一帯)がありました。

それではCelt Part-3の始まりです。
・・・・・・・・・・・・
2015年の始め、イギリスのグローシェスターシアーで、ローマ帝国によるブリテン占領時代に遡る古代の墓から、およそ250の男女の遺体が見つかった。しかし、みんなの興奮を巻き起こすことになったのは、墓石に彫られていた名前だ。ブディカキアBodicacia!
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これは我々の偉大な英国人ヒロイン“ブディカBoudicca”に関する、初めて発見された考古学上の証拠となりえるのだろうか?あの、アイシーニの女王で、ブリテン(注)人で、ケルト人のブディカの!
(mh:Youtubeに合わせ、このブログでは英国をブリテンと呼ばせて頂きます。)

ブリテンにおいては、我々は決してケルトの過去から遠く離れた存在ではない。ケルトは近代史の中で、ぼんやりした、かなり野性的な、しかし何よりも多くの感心を持たれる存在に思われる。彼らの発生や信仰、最後の運命は謎のままだ。
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しかし、ケルト人集団による古代イタリアへの侵略から、ゴール(ガリア;現フランス)でのジュリアス・シーザーの遠征、ブリテンの戦士女王ブディカの指揮下でのケルトの最後の抗戦まで、ケルトの強力な部族民たちがローマ帝国という巨大な敵と、生き残りをかけてどのように戦ったのかについては、ある物語が鮮明に描き出している。
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最も偉大な文化の対立の一つは、今の我々の世界を決定付け、ヨーロッパの最も不可解な古代の人々を浮かび上らせている。
The Celts : Blood Iron and Sacrificeケルト:血、鉄そして生贄
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何世紀にも渡るヨーロッパでの戦いの後、ケルトは近代的な勢力だったローマ帝国により崩壊した。紀元前52年、シーザーと彼の軍団は、ついにゴールで反乱軍の指導者ヴァーシンゲトリックを打ち破った。
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古代ローマは今や絶頂期にあり、周辺の世界で文明のイメージを形作り上げ、ローマの遺産を打ち建てていた。しかし、ローマが占領していなかった一つの場所がある、ブリテンだ。

西暦43年、ローマは全面的な軍事進攻を開始した。その結果、ブリテン島の東部と南部の大半はローマの属州となった。
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それからたった17年後の西暦60年、ブリテン人は帝国の占領に対抗して立ち上がり、襲い掛かった。これはケルトの最後の挑戦の物語だ。正義の反抗の話だ。しかし、そのほとんどは、手ごわい戦士女王、最初の偉大なブリテンの英雄、ブディカの物語だ。
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紀元前54年、シーザーはブリテン島への短期的な進攻を行った。その時、島の南東部を訪れ、極端に豊かな文化や洗練された技能や技術を眼にしていた。当時の見事な工芸品のいくつかは大英博物館のコレクションの中に見ることが出来る。
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この素晴らしい宝物は1940年代に見つかったスネティシャムSnettishamの沢山の発掘品の一部だ。ノーフォークNorfolkの草原で見つかった。
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ノーフォークは、後年になって女王ブディカによって統治されることになるアイシーニ族の領地の一部だ。
宝物はトークや瀟洒(しょうしゃ)な黄金の首飾りで、エリートだったケルトの指導者や戦士の印の一つだ。ヨーロッパ中で見つかっている芸術的なスタイルで、文化の印(しるし)だ。
「この見事なトークはスネティシャムで見つかった。」
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「本当に素晴らしい。見て分かるように使われている黄金の量も多い。しかし、トークに込められている職人の技の方が驚くべきものだと言えるだろう。圧倒的なmind-blowing技巧が注入されている。首輪は8つの黄金のロープで造られ、それぞれのロープは8本の黄金のワイヤーを捩(ね)じり合わせて造られている。ロープの端の金具がまた素晴らしい。絶妙な工芸品だ。誰がこれを持っていたとしても、また誰がこの製造を命じたとしても、その人物は信じられない程の資産や権力を持っていたはずだ。間違いなく、ケルトの上流階級人が身に付けていたトークだ。」

このような複雑で精緻な製品を製造するのは、今の金細工師にも尋常ではない挑戦のはずだ。博物館の神話学者の一人、ナイジェロ・ミックスはアイシーニの職人の秘密を探ろうと電子顕微鏡で調べている。
「ロープの端の金具の表面の仕上げがとても素晴らしいですね。」
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「どんな方法で仕上げたのでしょう?何かを押し付けたようですが。でも、この部分はそうではないようにも見えます。」
「押し付けたのではありません。とても繊細に造られているんです。拡大して窪みの部分を良くみると、ある種の溝のようなものが見えます。ハンマーで細かく叩いたんですよ!」
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「魔法のような技巧ですね!画面のこの長さが3mmですから、溝の幅は1mmの半分くらいですね!何度もハンマーで叩いて溝を造っていたんですね。」
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「えぇ、正に金細工の魔術のような製品ですよ。」

偉大なトークはケルト人の職人技術が最高潮にあったことを表わしている。しかし、もっと驚くべきことが、壊れたトークの破片から見つかった。金メッキされている!
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「黒い部分は青銅でトークの本体。その表面に何かがあるんですね?それを分析することはできるんですか?」
「できますよ。映像を走査して調べたい場所を決めて・・・」
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「金Auと水銀Hgがあるんですね?」
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金と水銀が一緒に見つかるのは、それらが十分に混ぜ合わされているからだ。水銀金メッキと呼ばれる手法だ。金は液体の水銀に溶けるので、塗料として青銅の表面に塗り広げることが出来る。その後、炎で焼くと水銀が蒸散し、黄金の薄い層が表面に残るのだ。
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しかし、水銀鉱床はブリテンでは見つからない。水銀は遠く離れたスペインから送られてきたものだと考えられている。極めて高度な技工士でもあったアイシーニや彼らのような多くの部族は、ヨーロッパの大西洋海岸線に沿って地中海まで広がっていた古代の交易網を活用して、長い間、富を得ていた。従って西暦43年にローマ人が進攻してきた時、北や西ではブリガンティBriganteやオーヂヴィチOrdiviciやシリューリSiluriなどの部族との戦が行われたが、豊かだった南東のアイシーニIceniやトリノヴァンテTrinovanteなどの部族はほとんど抵抗しなかった。彼らのリーダーは地中海世界の贅沢品を長い間、享受していたのだ。
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ここはエセックスのコルチェスターだ。
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2千年前、ケルトの重要な町でトリノヴァンテ族の首都だった。彼らは、実際のところ、ローマ人の到着を歓迎した。

西暦43年、ローマ人はブリテンに進攻しブリテン南東部を抜けて進軍していた。最初の侵略から数週間後、ローマ皇帝のクラウディウスClaudius自身も馬車に乗って町にやって来たという。そして民話によれば、彼は、現地の種族の降伏を受理する時、象に乗っていたという。以降、ローマ人が支配的になり、町はローマの戦の神カムロスの名からカムロドゥヌムCamulodunumと名付けられた。ローマ人はカムロドゥヌムを帝国の威光の展示場showcaseに変えていった。
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ローマ劇場や浴場が造られた。そして今は城が立っているその上の方に、皇帝クラウディウスに捧げられた大きな寺院がある。もしローマの統治を受け入れたなら、その部族に提供される異国の地中海の生活様式の宣伝の場だった。
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ローマの生活様式に従えば、税や義務、関税などのローマからの要求にある程度応じさえすれば、繁栄でき、ローマ市民としての特権や贅沢を享受することができた。実際問題として、ケルトの指導者たちもローマの顧客になっていった。ケルトの指導者たちは、死んだら、領土の一部をローマに分け与えることに合意しておけば、生存期間中は自分の領土を自分が統治することができた。
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ローマによる、このずる賢い土地の獲得手段こそが、突然の、思いもよらぬ暴動の引き金になったのだ。それはブディカの物語だ。皇帝や王や闘士たちによって支配されていた世界で、強力な影響力を持った女だ。
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ブディカの勝利さえあれば、ブリテンの歴史は完全に変わって、今日の我々が暮らす土地を全く異なるものにしていたはずだった。

“赤毛の、馬戦車チャリオットに乗ったケルトの女王ブディカ”という我々のイメージは、歴史の中で消すことが出来ない部分だ。
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しかし、ブディカの物語は、ローマ人が彼らの歴史書の中で彼女について簡単に記した内容よりも、ずっと長い物語だ。

ブディカとケルトの反乱について我々が知っている全てはローマ人の記述の数ページからくるものばかりだ。これはローマ人歴史家タシタスTacitusの年記annalで、2世紀初頭に書かれた。タシタスがこれを書いた時はケルト人の反乱があった50年後だが、彼は彼の生涯の中で起きたことを書いている。その一節はブリテンとローマの歴史における極めて劇的な対立の詳細に触れている。
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「ブディカは夫でアイシーニ人の王プラスタガスの死に臨んでいた。」
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タシタスの年記によれば、アイシーニの王プラスタガスは長寿で知られた男で、彼の王位を二人の娘と、ローマ皇帝ネロに託した。タシタスによれば、プラスタガスは王位を守ろうとしていた。彼はローマに対する義務については熟知していた。彼の王国の半分は皇帝ネロに差し出さねばならない。しかし、残りの土地は妻で王女のブディカとの間に出来た子供達のものだ。彼はアイシーニの将来を守っていたのだ。しかし、それはローマの見方ではなかった。ローマにとっては、ローマの顧客であったプラスタガスとの間の取引は彼の死と共に終わったのだ。

彼の王国は家族によって継承されることはなかった。しかし、この時、ローマはケルトの女王の影響力や復讐心を考慮に入れていなかった。

ブディカの物語には説得力がある。我々はローマの歴史家から戦いや酒飲みの戦士の話は聞いていたが、ケルト人の女について聞いたことが無かったからだ。それが突然、燃えるような赤毛の、ローマ帝国の権力に敢然と立ち向かう、信じられないような力強い女性の話になる。しかも彼女は、女王であるだけではなく、真のリーダーだったのだ。

考古学上の発見により、権力をもつ女がいつの時代にもケルト人の社会で活躍していたことが明らかになっている。その証拠はアイシーニの土地から1千Km南の、ドイツ・シュツッツガルトで見つかる。
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2005年、考古学者たちは鉄器時代の墓室の発掘を始めた。略奪者から守るため、80トンの墓室全体は土地から剥がされ、特別にあつらえた研究所に運ばれ、そこで安心して調査が続けられることになった。
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泥の中から、2千6百年前に生きていた墓の住民の遺骨が見つかった。
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ニコール・エディンガーネス博士は、そのプロジェクトの主任だ。
「この歯の並びや消耗の状態を見ると若い女性のようですね?」
「そうでしょう。恐らく30歳くらいです。」
「右手を胸の上に置いていますね。保存状態はいいようですね。」
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この女性は“ベットゥルベルの王女”と呼ばれて知られることになった。というのは、ニコールたちのチームは泥の中に人骨以上のものを見つけたのだ。彼女は信じられないようなケルトの宝石のコレクションを一緒に墓に持ち込んでいた。
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「2千6百年前のものとは思えない見事さでしょ?これは左右の肩につけていた飾りよ。」
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「そしてこれが私のお気に入りの物なの。黄金のビーズよ。いくつか見つかっているの。」
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「繊細な模様があるわ。信じられない!きっとかなり身分の高い女性だったんでしょうね。」

ブディカよりも650年前のこの墓はケルト人の戦士のものではなかった。女性の権力者の墓だったのだ。我々はケルトの部族長や王といえば男だと思いがちだが女の権力者もいたのだ。

タシタスによれば、ローマは、王プラスタガスの遺志を却下し、女王への尊敬さえも無視した。兵士が持ってきたローマからの指示書の内容は、アイシーニ王国の全てをローマが統治するというものだった。これをブディカが拒否すると、ローマは直ちに行動に出た。ブディカは公衆の面前でむち打ちされ、彼女の2人の娘は凌辱された。王位継承の論争は非情な屈辱による帝国の権力の見せしめとなった。
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ブディカは固く復讐を決意した。家族、部族、そしてケルト人全体のために。

数年の間、彼女はローマの生き方に従うふりをしていた。しかし、彼女はブリテン人だ。女王だ。そしてケルト人だった。アイシーニの誇りを取り戻すため、祖先から受け継いできた土地を取り戻すため、ケルトの反乱軍は、もっと力を付けねばならない。

我々の歴史は刀の刃の上に乗っているようなものだった。ブリテンは異種のケルト的文化の可能性を持っていたのだ。
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ローマ化された上辺(うわべ)の下で鼓動している英国Englandの心臓はケルトのままだった。そしてブリテン固有の軍事的な技術や技能はローマの偉大な将軍たちさえも羨(うらや)むものだった。紀元前55年にシーザーがこの海岸にやって来た時、それまで大陸で体験したことが無い戦いに出会った。ブリテン人は新しい移動型の戦闘方式を備えていたのだ。
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(mh以下、馬戦車チャリオットの解説が、これまで何度か登場していた古代戦闘技術専門家マイク・ローデスによって行われますが省略します。シーザーによればブリテンは1千もの2輪のチャリオットを持っていました。騎手と、重装備をした戦士の2人が乗っていたようです。その速さは敵をパニックに陥れるのに十分だったといいます。)

シーザーが記したブリタニアBritannia(ブリテンのラテン名で、ローマ人が付けた名前です。)の説明には、チャリオットの特別な使い方も記されていた。
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(mhワックスのシートに尖った棒でラテン文字を書きました。)

しかし、ブリテン人はもう一つの恐ろしい戦闘用の道具でも有名だった。繊細で象徴的な模様がついたケルトの長い剣と鞘(さや)は、上級の戦士たちだけが持つ自慢の所有物だ。専門家の手にかかれば、恐ろしい武器になる。
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(mh以下、長い剣の使い方や、その威力が、木の枝から吊るされた豚肉(羊か?)を使って披露されますが、省略します。ケルトの剣は長くて重く、“突く”のではなく、横に“払って”敵の体を切るための武器だったようです。)

タシタスの記録によれば、西暦60年、アイシーニ人の反撃は急速に実行に移された。数万人の戦士を指揮していたブディカはカムロドゥヌムを目指していた。ブリテンにおけるローマ帝国の首都で、占領の鮮烈な象徴として平和で繁栄している町だった。
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かつてはローマと同盟を結んでいたが、自分たちの、ケルト人の町を取り戻そうと考えたトリノヴァンテス族が加わり、ブディカが率いる反乱軍の数は膨れ上がっていた。ブディカは夜を待って戦いを仕掛けた。ケルト人は、慈悲を見せることなくカムロドゥヌムで暮らしていたローマ人を切り倒し、死体の山を築いていった。
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破壊行為は町中で行われ、カムロドゥヌムは燃え落ちた。

2千年後の今、考古学者たちは、この攻撃がどんなに強烈なものだったを明らかにしている。最近発見された物が保管されている。
「ここにあるのは一体、なんでしょうか?」
「ある場所でまとめて見つかった宝石や硬貨です。これは一対の腕輪armletsで、デザインは完全にローマ的です」
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「それに幸運にも、この一対のイアリングも残っていました。真珠がついています。」
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「金だけではなく銀の装飾品も見つかっています。この大きめの腕輪メダリオンmedallionは銀製です。」
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「ローマ軍のものだったようです。黒豹(pantherくろひょう)が描かれています。ローマ人の軍人とその妻は引退後の豊かな生活を楽しんでいたのでしょう。」

この宝物はおよそ2千年前に我々を引き戻し、あるローマ人の家族の家で起きた驚くべき現実を見せてくれる。宝石などの貴重品類は、台所で慌てて掘られた穴の中に隠されていたのだ。
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焦げた土器の欠片や無花果や棗(なつめ)椰子datesから、台所が炎に包まれていることが判る。我々が目撃しているのは、恐ろしい恐怖の瞬間だ。
「それは余りに生々しいイメージですね。家の住民は貴重品を隠す場所を探していた。その時、恐らく、家には火が付いていた。」
「そうです。後で戻って来て掘り出すつもりだったはずですが、それは叶(かな)わなかったんです。」
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隠されていた宝石や硬貨などの貴重品は、人々が受けたトラウマのような、暴力的な出来事を活き活きと物語っている。ブディカ軍がカムドロゥヌムを攻撃した物理的な法医学的な証拠でもある。そして歴史を活き活きと表すとともに、タシタスの記録にある攻撃に関する説明をも裏付けている。
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カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)でブディカが大きな反撃を受けなかったのは、ローマ軍の本体がブリタニアの遠く、北や西の敵対的な土地での帝国の拡大闘争に忙しかったためだ。タシタスによれば、ブリテンでのガイウス・スエトニウス・パウリヌスGaius Suetonius Paulinus総督は、特別な目的のために遠く離れたモナ島、今のアングレシー島Anglesey、に軍勢を伴って遠征していた。彼はケルト社会における祈祷師や権力者を世に送り出しているドゥルーイズの本拠地を壊滅するために島に侵攻していた。
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ローマ人は、ドゥルーイズをケルト社会における危険な要素だと見ていた。彼らは極めて高い権力を持つ祈祷師や、秘密の知恵や知識や歴史を持つ人々の集団で、他のケルト部族に王を輩出していた。ドゥルーイズは精神的な接着剤のようなもので、信仰を広めることによってケルトの部族を一体化していた。
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恐らく、ドゥルーイズはケルト社会にたった一つだけあった刺激的で不可思議な集団だ。誰もがドゥルーイズについては聞き知っていた。しかし、実態については全く知られていなかった。事実、我我はケルトの宗教や信仰について、ほとんど知っていないと言える。しかし、もし、思わせ振りな部分に着目したなら、例えばケルトが宇宙をどのように理解していたのか、宇宙のどこで暮らしていると考えていたのかを知れば、少しはケルトを理解できるかも知れない。

我々が知っている重要な事がひとつある。毎年、決められた時に行われるケルトの祝祭だ。これは五月日Maydayの習慣の現代版だ。
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火祭りは毎年、エジンバラで開催され、4月の最終日に始まる。ケルト的な火祭りで、アイルランドの記録によれば1千年以上も前から行われている。人々がこのように大勢集まって祝うようになったのは、数千年とは言わないが、数百年も前からだ。
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この踊りは季節の移り変わりを表現するもので、5月の女王は夏を代表し、新たな年を再活性化するための火の力を使って冬を表わす緑の男と対決する。
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ベルティという火祭りは毎年行われている多くの祭りの中の一つだった。多くの祭りを計画する目的で、ケルトは季節や宇宙に関する十分な知識を必要としていた。

フランスで1世紀前に行われた、ある興味深い発見のおかげで、我々はケルトがどのように年月の移り変わりを理解していたのかを知っている。それは石碑の欠片だ。ある専門家たちは、2世紀、ローマによって禁止されていたドゥルーイズの伝統を記録するために、ローマに占領されていたゴールで造られた石碑だと考えている。
見つかった全ての欠片を並べて復元し、写真にしたものがこれだ。実物の幅は1.5mで高さは1mの石碑だった。
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1枚の青銅の板だった。しかし残っていたのは、ここに写っている断片だけだ。これはカレンダーだ。しかし普通のカレンダーではない。大きな文字で書かれているのはラテン文字で書かれたゴールの陰暦の月の名前だ。5年の周期で繰り返すカレンダーが16列で記されている。
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この中に、ケルトが年月をどのように考えて祭りの時期を正確に決めていたのかを見ることが出来る。というのは月の名前の近くに“Ivos”とあるが、これが祀りを意味する言葉なのだ。
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ここにMID SAMミッド・サムとあるが、恐らく11月を示し、直ぐ後にIvosと続いているが、これが夏の終わりの祭りを意味している。ケルトが祝っていたこの祭りはハロウィンだ。ハロウィンは近年、死者の祭りになっているが、先史時代に遡る起源を持っていたのだ。2千年前、ローマ人はケルトの死の儀式について記録していたのだ。ドゥルーイズが行っていた首狩りや人間の生贄とともに。

ローマが占領したことがないケルトの土地、今日のアイルランドのハイバールニアHiberniaに、陰惨な慣習が行われていた証拠となる一つの場所がある。
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このような湿った場所は、かつては神聖な土地と見なされていた。今も、古代の鉄器時代の信仰や人間の生贄の名残りが見つかる。

「彼と顔を合わせることは驚きとしか言いようがない。彼はアイルランドのケルトだ。鉄器時代を知っている人物の顔だ!」
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「彼は顔を鈍い武器のようなもので殴られた。その傷だけでは死ななかったかも知れない。頭の後ろ側に斧で付けられた別の傷がある。」
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湿地で見つかった鉄器時代のこの死体は、儀式的な活動が行われたことを示している。暴力を望んでやったことではない。計算された、象徴的な行為だったのだ。腕に明けられた孔にはハシバミ(樺)の小枝が詰められていた。
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乳首は完全に切り取られている。このようにして生贄になった人物は普通のケルト人ではなかったと思われる証拠がある。彼らは特殊だった。考古学者達がそう考える理由は、例えば彼らの手にある。華奢(きゃしゃ)で滑らかで、がさついていない。
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この人物は生活のために手を使うことは無かった。爪は綺麗に切り整えられている。

考古学者メット・ケリーはこれらのケルト人の儀式と信仰を知ろうとして、12年も湿地で見つかった遺体を研究している。
「これらの死体はキャッシャール人なんですね?」
「そうです。キャッシャールシアの人々です。この遺体はヨーロッパでも最も古い、新鮮な死体だと考えています。」
「何故、殺害が行われた、このような犠牲者を湿原に捨てていたのでしょう?」
「まず、湿原は、古代人にとって神聖な場所だったのです。湿原で儀式が行われていました。そして王を殺害し、湿原に埋めることは、正当で、かつ適切な儀式行為だったんです。これらの死体がそれを反映していると考えています。」
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首を切り取られて投げ捨てられていた遺体もある。殺された後で、もう一度、象徴的に殺されたのだ。ここで見つかった遺体は部族長や王の生贄なのだ。法医学考古学によれば、この古代の殺戮儀式は季節的に行われていたという。

ロビー・リードはアイルランド国立博物館の保存担当主任だ。彼は最近発見された湿原の男たちの分析をしている。
「ロビーさん。今、あなたが死体から注意深く取り出した物は何ですか?」
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「スローsloeという黒くて青みがかった樹の実の種だと考えています。死体のこの部分にあったものです。大腸に沿って、この実がずっと詰まっているんです!数百あるでしょう。X線で調べたら3百個以上が確認できました。」
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「決して美味しくない実ですよねぇ、苦くて酸っぱい、小さなプラムのようで。何が起きていたのでしょう?何故、この人物は何百もスローの実を食べたのでしょう?」
「どんなに飢えていたとしても、3百も食べる人はいないでしょう。間違いなく儀式的な食事だったと思います。スローの実は10月末11月初旬に熟します。サリムという祭りの時期です。現代のハロウィンです。そしてその時期に、この辺りでは王が殺されていたんです、サリムのために!」
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アイルランドの湿原の死体から得られた科学的証拠はローマ人が、まだ手を付けていなかった西の土地を気に掛けていたのが間違いではなかったことを暗示している。ローマ人歴史家は、人間の生贄がドゥルーイズの指揮のもとに行われていたという、身の毛のよだつようなケルトの物語を書き残している。ドゥルーイズは、残忍な文化を実践することで人々に英気と、望ましいケルト的な独立心を鼓舞させられると信じていた。

パウリヌス総督軍がモナ島、現在のアングレシー島、を侵略し、ドゥルーイズを全滅しようと企てたのも不思議ではない。そして彼は冷徹なまでの手際よさで、それを成し遂げた。モナ島の強力な敵ドゥルーイズを破壊することはローマが目的としていた古代文明の殲滅(せんめつ)の一部だった。彼らは、誰が支配者なのか、みんなに分からせたかったのだ。
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ブリテンに侵略して20年もしない内に、ローマの文明化は野蛮なケルトを打ち負かしていた。当時、彼らは帝国の力を宣言するために都市を造っていた。当時の都市は今も残っている。しかし、軍隊を引き連れて北のドゥルーイズを破壊しようとしていたパウリヌス総督は、これらの都市の防衛に手を回している余裕はなかった。

カムロドゥヌムが燃え尽くされ崩壊してしまった後、ブディカの軍隊は侵略を続け、ローマ領の港で商業の中心だったロンディニアムLondinim、現在のロンドン、に攻め入った。
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ブリテンの南と東では反乱が勃発していた。文字通り分断され、都市には火が放たれていた。タシタスによれば、7万人が殺され、死体は放置されていたという。

伝統的な歴史によれば、これらの暴動の全てはローマ人がケルト人であるアイシーニの女王やその娘たちを残忍に扱ったことから生まれたものだ。しかし、ケルト人の反乱には、人々に良く知られている個人的な仕返しの物語とは異なる事情があった。英国の歴史におき、ブディカの反乱とパウリヌス総督によるドゥルーイズの殺戮の2つの出来事が全く同じ時期に起きたのは、単なる偶然というわけではない。

ブディカの反乱軍にはケルトの部族連合が含まれていた。アイシーニの女王の反乱というだけではなく、もっと重要なものだった。ドゥルーイズに対するパウリヌスの襲撃はケルト人が信じていたものの全て、ケルト人が理解していたもの全てに対する攻撃だった。だからブディカはローマ人に対抗して立ち上がり、“ノゥNo”と言ったのだ。他の部族も彼女の側に立った。自分たちの生活様式を守ろうとしたのだ。

ケルト人による暴動が大きくなる前に、ニュースはアングレシー島のパウリヌスの元に届いていた。パウリヌスは、直ちに、素早く行動しなければならないことを理解していた。アングレシー島から南へ。長い道のりが急いで戻らねばならない!
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2つの軍勢は、互いに敵に向かってワトリング街道Watling Streetの両端から進軍を開始した。パウリヌスは2つの軍団を率いていた。高度に訓練された、戦場での戦いで鍛えられていた1万人の軍勢だ。しかし、古代の資料によると、ブディカの軍勢は20対1でローマの軍勢を上回っていた。

我々の島ブリテンの歴史における最も重要な戦いの一つのための舞台は整っていた。勝利の報酬はブリテンの運命と、ローマ帝国のこの地域における統治だ。2つの勢力は、今日、“ワトリング街道の闘い”として知られる最後の対決で出会うことになった。
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ワトリング街道の闘いが行われた正確な場所については判っていない。しかし、可能性のある場所のひとつがここだ。バーミンガムの北東にあるマンセッターの坂だ。
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古代戦闘技術専門家マイク・ローデスはこの戦いにおける戦術について研究している。
(mhここで、また例のマイク氏が登場して古代に行われたであろう戦いの様子を解説しますが、都合により、大幅に割愛させて頂きます。なるほど、と思うポイントだけご紹介しておきましょう。
ローマ軍は両側を山で挟まれた谷間の湿地平原でブディカの大軍を迎え撃ちます。狭い道のような平地だったので多勢に無勢でも戦える環境です。湿っていて馬が駆けるには不適当な場所な上に、ローマ軍は坂の上側から坂の下側のブディカ軍を攻撃しました。勢いよく攻め立てる条件はローマ軍側に備わっていたようです。)

タシタスは言っている「ブリテン人は勝利を確信して戦いの場に進軍してきた。彼らは軍勢の数で圧倒的に勝っていた。そして、これがローマを完全に打ちのめす最後のチャンスであることを知っていた。」
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もし負けたなら、ローマ軍には逃走する機会は残されてはいないだろう。400年に渡るローマとケルトの闘いは決着がつこうとしていた。ケルト軍を打ち破るには、軍の前線を死守しなければならないことをパウリヌスは知っていた。
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(mhここで、また例のマイク氏が登場します。彼によれば、ローマ兵は槍を雨あられの如く、ブディカ軍に投げつけました。ブディカ軍の兵士の武器は長い剣と、軽量な、木枠に毛皮を貼り付けたような楯だったのですが、ローマ軍の槍が楯を打ち抜きました。楯を持っていた兵士は槍で刺されて負傷するか、負傷しないまでも、槍が刺さった楯で戦わねばなりません。
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しかし、長い槍が刺さった楯を持って動き回ることは出来なかったので、結局、楯を放棄するしかなかったのです。楯なしでは闘士の戦力は半減です。一方のローマ兵は楯を持っていました。そこで、楯でケルト兵を押し戻し、楯の脇から剣で突いて敵を刺し殺す戦法をとったのです。また、ブディカ軍のチャリオットは乾いた土地では効果的でしたが、山間の湿地では自在に走り回ることが出来ず、戦力になりえなかったと言います。言っているのはマイク氏で、信憑性については保証できませんが、理にかなった説だと思います。)
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タシタスは、次に何が起きたかを我々に伝えている「生き残ったブリトン(Britons:ブリテン人です)は背を向けて逃げ始めた。」
しかし、逃げ道はローマ兵で塞がれていた。ケルト人たちは死体の山を築いていった。統制がとれていない個人集団のケルト軍に対して、考え抜かれた戦術を駆使し、訓練で鍛えられていたローマ軍は大勝した。ブディカ軍の全てが戦場から消え去ってしまったのだ。
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タシタスによれば、その日に殺されたローマ兵士の数はたった4百人なのに、ケルト兵士の死者数は8万人だった。偉大なケルト人の最後の反乱は終わった。

ブディカは生き残ったが、直ぐ後で毒を飲んで自殺したと言われている。彼女と共に、ブリテンにおけるローマの統治を終わらせようというケルトの希望も消え去ってしまった。ブディカは歴史から消え去り、英国の神話の中に入り込んでしまった。自由なブリテンの思想と共に。
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しかし、ケルト人による反乱は現実に起きたものであり、ブディカに関するどんな考古学的な証拠も見つかっていないとはえ、彼女がその中で重要な役割を果たしたことも事実である。

そして2015年の春、グローシェスターシアーで、ローマ人によるブリテン占領時代の古代の墓が発見された。遺骨とともに墓石があった。その上には “ブディカキアBudicacia”と彫られていた。その墓石の下に骨があった。これこそがブリテンの偉大な闘士女王ブディカの決定的な証拠なのだろうか?
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しかし、その骨は男のものだった。ブディカの神話は今日も続いている。

軍事強国ローマとの何世紀にも渡る対決の後、ヨーロッパの土地のほとんど全ては、膨れ上がった広大な帝国の領土に組み込まれ、鉄の文明を持っていた被征服者たちは破壊されてしまった。しかし、ローマはヨーロッパの全てを征服したのではなかった。ケルトの社会はまだ完全に消し去られてはいなかった。

ここはアイルランドの西海岸にある町スピトゥルでゲルカ(?)の一部だ。
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ブディカから2千年後の今でも第一言語はケルト語のゲーリックGaelicだ。ここを訪れると、あなたも過去の言葉を聞くことが出来る。昔を感じることが出来る。アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブリタニ―、コーロなどヨーロッパの周辺部一帯で、最も重要な遺産とも言えるケルトの言葉が生き続けている。
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我々はトルコからポルトガルまで信じられない文明のルーツを求めて数千Kmを旅してきた。そして3千年を遡り、鉄器時代の部族たちの物語を解きほぐしてきた。ケルトはアルプスの北で初めての偉大な都市を建設し、手の込んだ、見事な手工芸品を創造してきた。しかし、我々はまだケルト人がどんな人たちだったのか、彼らのリーダーが何を成し遂げたかについて正確に理解したわけではない。
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ブレネスはどのようにローマを打ち破ったのか、ヴァーシンゲトリックはどのようにジュリアス・シーザーと戦ったのか、ブディカはどのようにしてケルトの反抗魂を再燃させたのか。
我々はケルトの過去に関する記憶すべき物語を共に発掘してきた。文化は今も我々の生活の中に生き続いている。ケルトの魂は我々の世界の一部として、今も我々の心の中で燃え続けている。
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BBC The Celts Blood Iron And Sacrifice 3of3
https://www.youtube.com/watch?v=rMv_MDiP3Ms

Wiki: ケルト語派
ケルト語派(アイルランド語: Teangacha Ceilteacha、ウェールズ語: Ieithoedd Celtaidd、ブルトン語: Yezhoù keltiek、スコットランド・ゲール語: Cànanan Ceilteach、コーンウォール語: Yethow Keltek、マン島語: Çhengaghyn Celtiagh)はインド・ヨーロッパ語族の語派の一つ。ケントゥム語に属す。元々ヨーロッパに広く栄えていたケルト人によって話されていたが、ローマ人やゲルマン人に追われ、現在はアイルランド、イギリス、フランスの一部地区に残る少数言語となっている。イタリック語派とはいくつかの共通点があり、また語彙(ごい)の点でゲルマン語派との一致も見られる。

ケルト語が最近まで、又は今も使われている地域は次の通りです。
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大陸から押し寄せて来たローマやゲルマンの手が及び難い“僻地”に残ることになったのは、お釈迦様の仰るように因果応報です。

見辛いと思いますが・・・各地域のケルト語と英語の対比表です。
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Englishのbee(蜂)はIrish Celtic 及びScottish Gaelicでbeach、chair(椅子)はcathaoir/ seidhirで、似ている気もしますが、全く異なる場合の方が多く、イギリス英語のネイティブスピーカーでもケルト語の会話は理解できないでしょう。

言葉は文化だと思います。BBCフィルムの翻訳では、stunning, amazing, fantastic, astonishing, remarkable, marvelous, awesome, excellent, splendid ,wonderfulといった言葉は大抵“素晴らしい、見事な”とさせて頂きましたが、もう少し洒落た表現が無いのかしらと思っても、文化とは程遠いmhにはいかんともすることが出来ず、英語そのもので代替させて頂く手法も採らせて頂きました。悪しからず。
(完)

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mh徒然草123:ポピュリズムの台頭


今日は12月5日。二日後は、延び延びになっていた親不知の抜歯入院です。

昨日のニュースによれば、オーストリア大統領選挙では3%の僅差で難民受け入れに柔軟な候補者が右翼候補をしりぞけました。しかし、イタリアの憲法改正国民投票では、ポピュリズムを煽(あお)るコメディアンが率いる5つ星運動が改正反対(No!)を訴え、改正は大差で否決されて、首相は公約通り辞任表明しました。

トランプ氏の当選以降、巷では “ポピュリズムこそが、大衆の意思で、従って民主主義だ”という意見が幅を利かせているようです。

しかし・・・ポピュリズムは大衆の意見を代表しているとはいえ、その本質は、自分たちさえよければ他の人はどうでもよいという利己主義です。ヒットラーを生み出した当時のドイツはポピュリズムに酔いしれ、その結果、他国ばかりかドイツ国民の多くが亡くなる悲惨な運命を辿りました。ロシアのスターリンや、レーニンの共産主義運動も、毛沢東の文化大革命も、当時の国民の多くは熱狂し、支持したのですが、振り返ってみれば大きな間違いだったことは、誰しも認めるところです。

ポピュリズムに対する反省から、世界は国際協調を軸に民主化を進めて来たのですが、ここにきて、ポピュリズムこそが民主化だという意見が出てくると“歴史は繰り返す”という格言が頭をよぎります。

ある評論家は、ポピュリズムの特徴は“NO!”と言うことだと言います。“TPP環太平洋自由貿易協定はNOだ!”“難民受け入れはNOだ!”“既存の政治はNOだ!”という具合です。しかし、大衆に判りやすいメッセージで、ポピュリズムを煽(あお)り立てる人たちは、問題を指摘しても、解決策は提案しない、と批評していました。なかなか的を射た見識だと思います。

ブログでフランスの経済学者ピケティ氏の経済論をご紹介しました。
「“r>g(resource>gross)”つまり株や不動産から得られる不労所得利益率“r”が、働いて得る労働所得の伸び率“g”を上回ると、金持ちは働かずして資産を増やし、貧富の差が拡大する。過去からのデータを調べると、今はr>g の流れの中にある。」

民主化された国では、国民投票で国策や代議員を決めますが、1票の重さは収入と無関係です。r>gで貧富の差が拡大している今、数を増してきた貧しい人々の意見が国を動かそうとしているのです。この、貧しい人々を煽(あお)って、現状を“NO”と言って否定し、その反動で政権を得ようというのがポピュリズムです。

しかし・・・ポピュリズム政権は貧乏人を幸福にするでしょうか?

その答えが“NO”であることは歴史が証明しています。ヒットラーやレーニンや毛沢東や、最近ではタイのタクシン首相やベネズエラのチャペス大統領もそうだと思いますが、一時は過半数をしめる貧しい国民から熱狂的支持を得ても、結末は国民の願望とは異なりました。“そんな能書きはどちらでもいいから、兎に角、現状を変えてほしい”というのが貧しい人々の悲鳴ですが、既存政治家が耳を貸すことはありません。彼らは資産家に属し、貧しい人たちに富みを分配する考えは毛頭ありません。考えるのは株価を上げることで福祉の充実ではありません。

先週、カジノ法案が衆議院を通過しました。ネットのコメントを見ると、国民の大半は“国会議員は他にもっと議論すべきことがあるだろうに”と批判的ですが、政治家が強引に進める以上、そこには政治家に都合がいい結末があるのに違いありません。

今、人々は経済最優先の政治に振り回され、ならば自分も資産運用してもうけようと考えだしています。拡大解釈させて頂くなら、僅かな資産を運用しているmhも資産家のお仲間です。ニュースでは、必ず円相場や株価の動向が伝えられています。ギャンブルだって何だって、経済が潤えばどぅってことはない、という考えが蔓延(はびこ)っています。このままではピケティ氏が指摘するように、貧富の差は拡大を続け、世界はポピュリズムに向かって突き進むのでしょうが、ポピュリズムが貧しい人が希望する世界を実現することはなく、資産家も資産を危険に晒すことになるのです。ポピュリズムの結末は、集団自殺ともいえる悲劇だとmhは思います。

で~、この結末を回避する手段、つまりポピュリズムに陥らない秘訣ですが・・・

そんなもの、あるの?ってお思いかも知れませんが・・・

一つだけあります。

貧富の差を縮小してくれるだろう政治家を国会に送る。これだけです。
残念ながら、そんな立候補者が見当たらない時は、二世議員ではない若手に投票しましょう。青雲の志を持っている可能性が高いですからね。

Westlife - I Have A Dream (With Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=c_PoDIiGFqg

(完)

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ケルトの不思議Prt-2


皆さんは、きっと「ガリア戦記」という言葉を聞いたことがあるでしょう。私も、いつか、どこかで聞いた気がするのですが、何のことだったのかサッパリ覚えていませんでした!

Wikiで確認すると“ガリア”と呼ばれた土地で行われた戦いの記録なんですね。
誰が書いたのかというと・・・シーザーです!!!
ジュリアス・シーザーとか、ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar英語:Gaius Julius Caesar)とか、カエサルCaesarとも呼ばれています。ガリア戦記を彼自身が書いたことは間違いないようです。

で~“ガリア”って土地があった場所ですが・・・先週の「ケルトの不思議(Part-1)」でご紹介していますが・・・古典ラテン語で“ガリアGallia”、フランス語で“Gauleゴール”と呼ばれていて・・・現在のフランスです。
次の地図の赤い部分が「ローマ帝国におけるガリア諸属州の位置」です。
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本来の“ガリア”は“イタリア北部以北の地”でした。Wikiに次の記述があります。
「地理上の概念としての“ガリア”の起源は、紀元前4世紀にさかのぼる。イタリア半島北部に押し寄せて定住した部族集団(mhケルト人です)を、ローマ人は“ガリア人”(Galli ガッリー)と呼び、ガリア人の居住するイタリア半島北部が“ガリア”(Gallia ガッリア)と呼ばれるようになったのが始まりである。」

今回は、「ガリア戦記」の題材になった戦いの顛末(てんまつ)に焦点を当て、ケルト人の運命を辿(たど)るYoutube「The Celtケルト人」のPart-2をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
2千年前、フランスの片田舎のこの小高い丘は、完全に異なる2つの文明の最前線だった。
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秩序ある文明の象徴だったローマ帝国は、古代鉄器時代の部族“ケルト”と対峙(たいじ)していた。
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我々イギリス人にとってケルトの歴史は古いものではない。ケルト人は近代史の中で、隠され、野性的で、もっと本質的な存在だ。

彼らの発祥、信念、最後の運命は謎に包まれたままだと言えるかも知れない。
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しかし、この力強い部族民たちが、大敵ローマ帝国と生き残りをかけて、どのように戦ったのかを鮮やかに浮き出たせてくれる物語が残っている。
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これから、古代イタリアで大暴れした最初のケルトの攻撃部隊からジュリアス・シーザーのゴール(ガリア)遠征、そして女性戦士王ブディカの下でのケルトの最後の抵抗まで、今の我々の世界にも影響を与えている最も偉大な文明の対立のひとつ、ヨーロッパの最も不可解な古代民族についてご紹介しよう。
The Celt;Blood.Iron & Sacrifice
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紀元前4世紀、ケルトは軍事的、文化的な勢力としての最盛期にあった。新たな支配地を求め、本拠地から離れた地域にも進攻していた。
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紀元前387年、彼らは都市ローマを焼き尽くした。この出来事は対立と戦いが社会的地位を得るための手段になるという、ケルトの新しい時代を開いた。戦士が王になる時代だ。
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しかし・・・ケルトだけが軍事勢力のままだった。ローマ崩壊後、都市は再建され、ローマ人は地中海全域に力を及ぼし始めていたのだ。
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ローマ人が創り上げた新しい帝国は、後に続く全ての帝国の先例となった。しかし、ローマ軍はまだケルトの主要地の、アルプスの北のヨーロッパ中央部や西部を征服できてはいなかった。
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ケルトは領土拡大を狙うローマにとって手を付けるには手ごわい相手だった。
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戦いの勝利の報酬はヨーロッパの未来とそれを形作る文明だった。中央集権化された近代ローマなのか、それとも深く先史時代に起源をもつ鉄器時代の文化なのか。
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2つの巨大な軍事勢力は偉大な将軍たちの時代に入っても残忍な対立を続けることになった。
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ケルトの新たな時代は、今もなおスイスのヌーシャテル湖岸の小さな町と関係を持っている。ケルトの歴史の中で、今も最も有名な村、ラ・テーヌLa Teneだ。
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この村の名はケルトに関する全ての書物の中で強調されて記されている。ほとんどの考古学者はケルトの最盛期についての芸術的成果を詳しく知っている。黄金時代、ラ・テーヌ文化は英国からバルカン半島まで、ヨーロッパ全域に広がっていた。
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この黄金時代の、手が込んだケルト的芸術品や手工芸品は、最もケルト的だと考えられている。
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しかし、野蛮な慣習と血なまぐさい残忍さをあわせ持つケルト文化は、ローマの“美”の裏に暗く埋められている。
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1857年、考古学者たちはヌーシャテル湖岸の古代の湖底から、鉄器時代の木造の橋の残骸を発見した。
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その残骸を囲むように残されていた剣、鞘(さや)、槍先などを含む沢山のケルト工芸品も見つけた。3千以上の品物が泥の中で綺麗に保存されていた。
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これらの発見から、木造の残骸は、神に捧げる生贄用の祭壇としてケルトの戦士によって使われていた台座だったのではなかろうかと何人かの古学者たちは考えている。
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血なまぐさい戦いでの犠牲者が、儀式のために晒(さら)されていたのだろう。湖で発見された品々は現在、マーク・アントニーケイザの注意深い監視の下で、ラ・テーヌ博物館で保管されている。
「ここラ・テーヌで何が起きたと考えていますか?なぜ、こんなにも沢山の収集品がここにあったんでしょうか?」
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「ラ・テーヌは当時の重要な通行場所にあったことが理由のひとつだと私は考えています。川の上に橋が架けられていた場所でした。そして多分、重要な戦いの後、人々は戦いの成果を見せつけ、記念するために、武器などの品物を木製の壇の上に置いたのです。つまり品物は神に対する捧げ物offeringで、それが2千年後に見つかったのです。沢山の武器以外に、例えば、この頭蓋骨も見つかりました。額に切り傷が残っています。」
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「興味深いことに、この傷は戦場で受けたものではありません。恐らく生贄にされる時のものでしょう。」

「似たものとして、沢山の馬の頭蓋骨もありました。裏側から中をみると孔が開けられた部分があります。」
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「槍で突かれたんでしょうか?」
「内側からの孔ですからそうではありません。吊釘(つりくぎ)でしょう。馬の頭を壁の吊釘に架けて展示していたと考えています。」
「つまり人間だけではなく、馬も飾られていたってことですね?」
「そうです。」
つまり怪奇的なタブロー(tableau展示物)で、武器などの美的なものだけでなく、血を流し完全に腐敗している死体も展示されていたのだ。

ラ・テーヌは生活以上のものを展示していた。見事な装飾が彫り込まれた武器などの道具は戦士の地位や業績を顕示する手段だった。
「これらの品々を手にしていると、単なる道具とは異なる、何か特別な気分がするのではないかと思うんですが・・・」
「この剣の、特に鍔(つば)の部分には飾り絵があります。全ての剣で異なる絵が彫られているのです。」
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「武器でもあり芸術品でもあったということですね?」
「そうでしょう。闘いが生活の一部だったのですから、戦士たちは剣の美に強い関心を持っていたのです。」
「つまり、地位も表す剣を使う戦士たちは芸術と一緒に生活をしていたとも言えますね。」
「そうかもしれません。」

ラ・テーヌで発見された品物は、貪欲で、戦(いくさ)好きという、極めて特異なケルトの世界を見せると共に、美と創造性が、冷酷さ、凶暴さと絡み合う著しい対照を表わしていた。

この美と凶暴性の両極は、堂々とした、しかし神聖にも見えるグンダストゥリクト(?地名でしょう)の銀の大鍋に現れている。
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表面にはケルトの神や、奇妙な獣、儀式のイメージがハンマーで叩き出されている。
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しかし、この見事な品物も、戦への執着を思い起こさせる。ある人に言わせると、死後、軍隊での地位が上がるよう、描かれている兵士たちは神聖な液体の中に浸けられている。
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戦いの前の饗宴や、兵士たちの飲食など、儀式で使われ、永遠の不滅を獲得するためのものだったと考えられている。
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この銀の大鍋には多くのイメージが描かれているが、実は、ケルトが造ったものではない!恐らく、エストレイシャン(?)と呼ばれる人々が製造し、友情の証(あかし)として隣人のケルト人に与えたものだと信じられている。

大鍋は伝統的なケルトの拠点のヨーロッパ中央部ではなく、数千Km 東のバルカンで造られた。
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従って大鍋は、ラ・テーヌ文化の美と暴力の表現と共に、以前に増して切実に権力と土地を求めている文明を表わしている。
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ケルトの戦士たちとバルカンの攻撃的な集団は以前から交易を通じて接触していた。奴隷や贅沢品を剣や塩と交換していた。そして紀元前3世紀の初頭になると、ケルト人はギリシャのデルフィ近くでも見受けられるようになった。
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ケルト人の戦場での技術や勇敢さは伝説的だった。その結果、彼らは報酬を払ってくれさえすれば、傭兵となり、喜んでその敵を殺した。これが自在に移り暮らすラ・テーヌのケルト人だ。
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我々は、ケルト人が鉄器時代、ヨーロッパ中央部で発生した伝統的なヨーロパ人であることを知っている。新しい理論によれば、鉄器時代以前、ヨーロッパ西部で生まれていた人々かも知れない。
しかし、紀元前3世紀、ケルトはここにもいたことを我々は知っている。今のトルコだ。
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アレキサンダー大王は、かつて、この地を統治していた。
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しかし、紀元前323年に彼が死ぬと、彼の帝国は崩壊を始め、権力の空白が残った。そしてケルトの指導的集団はヨーロッパを横切り、アジアのこの地にやって来た。トルコ中央部で現在のアンカラの南に。

ここはかつてガレイシアGalatiaと呼ばれていた。首都はゴーディオンGordionだ。向うに見える平らな丘の上に古代都市ゴーディオンがあった。
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そこに在った砦にはアレキサンダー大王もやってきた。私がここに来たのはそのためではない。ケルト人もまたゴーディオンに定住を始めたからだ。そのことはローマ人歴史家リヴィーの記録から判っている。
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ガラック・ダーキシャは1998年からゴーディオンで研究を続けている考古学者だ。
「ケルトがゴーディオンにやって来たのはいつ頃でしょうか?」
「いつ来たのか、正確には判っていません。恐らく、紀元前3世紀の中頃、または終わり頃です。」
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「彼らはここで何をしていたんですか?」
「記録によれば、さまざまなヘレニズム時代において傭兵をしていた。勿論、獲得した土地に定住する意図も持っていたはずだ。ケルトが西から持ち込んだ、以前ならこの地で見かけていなかったものを我々は見つけている。例えばこの南の方には人間と動物が一緒に埋葬されている墓があった。首が折られていて、戦いで死んだ兵士たちだと考えられる。これはヨーロッパの初期のケルトの習慣と似ている。」

古代の歴史家はケルトの暴力的な葬儀方法について記している。そしてここゴーディアンでは考古学者たちは、恐らくケルトの習慣だと思われる陰惨な証拠を見つけたと考えている。

ここにあるのはゴーディアンで発掘された人骨だ。女性で30歳から45歳くらいだろう。
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頭蓋骨の後ろに窪みがある。頭を叩かれ、それが原因で死んだと思われる。暴力的に殺されたのだ。彼女の遺体はもっと若い女性の上に置かれていた。90年代に発見された時の写真がある。妙なことに、2つの石が彼女の上に置かれていた。
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ローマ人の記録によればゴーディアンでは人間の生贄や斬首などの恐ろしい儀式がケルト人によって行われていた。これがその証拠と言えるかも知れないが確信はない。

ゴーディアンで見つかった骨のいくつかは、動物の骨と一緒だった。恐らく儀式的な埋葬だったのだ。考古学者たちは類似の出来事を、遠く離れたヨークシャーやフランス北部でも見つけている。
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ケルト人の墓で、関節が外れた豚や馬の骨が、人骨と一緒に見つかっている。時にはチャリオット(馬戦車)一式も!恐らく死者をあの世に運ぶために使った乗り物だ。
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埋葬儀式はケルト文明の中核をなすものだった。しかし、これらの古代人は今、構造的で秩序的で、文明が意味するものが彼らとは全く異なる勢力に対抗しようとしていた。

グレイシアはケルト世界の最も東の地域を代表している。しかし、紀元前2世紀になると、この地のケルト人は勢力を広げて来たローマ帝国の圧力を受け始める。リヴィーは書いている「紀元前189年、ローマ軍がゴーディアンを攻撃すると、グレイシア軍は山岳地帯に逃げてしまった。1世紀後、ゴーディアンはローマの属国の都市になった。」
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紀元前387年、ケルト人によって打ち負かされたローマは再建され、ヨーロッパで先端を走る発達した勢力として知られるようになっていた。
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紀元前1世紀の中ごろには、ローマ帝国はシリアからスペインまで、地中海沿岸一帯を支配していた。更に拡大すべき北と西の方向に立ちはだかっていたのはケルトの中心地ゴール(ガリア)だ。
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ゴール南部は古典的な世界の影響を受けていた。
遡る紀元前600年、フランスの南海岸にマッサラヤという港が生まれていた。現在のマルセイユMarseilleだ。
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マッサラヤはイタリアやギリシャから異国情緒ある贅沢品を入手する船のハブ港だった。ケルト部族は地中海岸の近在地域の人々と物々交換し、上手く付き合っていた。穀物、毛皮、奴隷を提供し、ローマの葡萄酒と交換していた。
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しかし、ケルト人とローマ人という2つの全く異なる世界は、今、衝突しようとしていた。

紀元前58年、ゴールの征服の仕事はいつの時代を通じても最も有名なローマ人の双肩にかかっていた。将軍ガイアス・ジュリアス・シーザーだ。
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シーザーは直感に優れたinspirationalリーダーだった。闘士で、自分の決断に強い自信を持っていたが、同時に、部下からのアドバイスも採用する男だった。しかし、ローマに大勢の敵を持ち、政治的な崩壊の危機に面していた。ここゴールでの輝かしい勝利があれば、戦の英雄としてローマに戻れるはずだ。

ゴールは、いつも争いや内紛を引き起こしているケルト部族で溢れた危険な土地だった。シーザーは彼に敵対する部族を潰すことから始めた。その一方で、ローマの支配を受け入れる部族とは同盟関係を作り上げていった。
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ローマ帝国は、以前からケルトの部族と交易関係を形成していた。特に、ゴールのある部族とは、うまみのある公式の関係を1百年も保っていた。ここはパリの南東320Kmにあるバーゲンディのブラックトだ。かつてこの地区の首都だった。
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ゴールの最も強力な部族の一つエドウィーが暮らしていた。

ブラックトの考古学者の主任ヴァンソン・ギシャーに訊いてみた。
「エドウィーとローマとはどんな関係だったのでしょうか?」
「後に占領されるのですが、その以前には協定が結ばれていたんです。」
「何故、ローマはその段階を採ったんでしょうか?何故、手紙を送って寄こしたりしたのでしょうか?」
「エドウィーの領地は地中海と北海の間にありました。そのうえ、2つの大きな川、サン川とワール川、がある重要な場所だったんです。ローマは、金属鉱石、たとえば錫、などの交易のため、この地を自由に使いたかったんです。その反対の方向、つまりイタリアからゴールには、勿論ですが、イタリア葡萄酒が運ばれました!」
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「それが伝統的なやり方だったんですよね。アルコールは商業を潤滑にし、人々に連帯感を与えますから。」
「そうです。ローマの葡萄酒はとても好い罠(わな)のようなものでした。」
「戦いで敵を支配下におくより、葡萄酒で柔らかく取り込む方が、被害も費用も少なくて済むから、いい方法だと言えるでしょうね。」
「そうです。まさにビジネスというか、取引きだったんです。」
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しかし、ゴールへの侵略で、シーザーはその協定を破り捨てた。彼の目的は、野蛮な儀式を行っている扱い辛い部族をローマの支配下に置くことだった。文明化したローマ帝国に同化させようと考えていたのだ。紀元前53年、彼の遠征が始まって5年目、彼の仕事のほとんどは成し遂げられたと考えていた。
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力んでいた野蛮なケルトは手懐(てなづ)けられてきていた。

しかし、シーザーは全く思い違いをしていたのだ。

紀元前52年の初期、ガリア遠征を終えて帰ろうとしていたシーザーは若いケルト戦士の挑戦を受けた。若者はヴァーシンゲトリックVercingétorixという、ケルト部族長の息子だった。シーザーが自ら書いた記録によれば、ヴァーシンゲトリックは底知れないエネルギーと鉄のような意志を持つ男だった。ヴァーシンゲトリックの伝説的な挑戦は彼をフランスの国家的英雄にまで持ち上げることになる。
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19世紀には彼を讃えてロマンティックな像が建てられた。若干30歳の戦士王は素晴らしい戦闘戦術家だった。
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数か月の間、ヴァーシンゲトリックの反乱軍はゲリラ戦術でシーザーを挑発し、慌てふためさせた。
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ヴァーシンゲトリックは、シーザーが兵士に食事や水を与えるために必要としている供給ラインを断つことに勝利がかかっていると仲間の部族長たちを説得した。そこで、彼らは焦土作戦を採った。
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シーザーが建造していた駐屯地の建物は燃やされ、畑の麦は踏みつぶされた。ヴァーシンゲトリックは、もし自分の意見に従わなければ、戦に負けて奴隷になるか、死ぬかしかないと、人々に思い起こさせた。2人のカリスマ的指導者に導かれた2つの偉大な軍勢は、やがて戦場で角を突き合わせ、ヨーロッパの未来を決めることになる。
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ヴァーシンゲトリックはラ・テーヌのケルト黄金時代の戦士だ。しかし、彼について我々が知っているほぼ全ては、彼の強敵シーザーの戦闘日記から得られている。しかし、フランクフルトの40Km北東に、一つの場所がある。そこには、ケルト人が彼らの指導者をどのように見ていたかを描いているものがある。
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我々はジュリアス・シーザーについては沢山のイメージを持っている。しかし、我々はヴァーシンゲトリックがどのような姿をしていたのかについては知っていない。彼の最も有名なイメージは19世紀に建てられた像だ。それは現実的というよりもロマンティックなものでしかないと言えるだろう。しかし、1996年、ドイツ・ガイバリーのこの草原で、信じられない発見があった。
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ここにそれがある。彼がいる、と言うべきだろう。
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ガイバリーの戦士だ。素晴らしい!彼の前に立ち、対面して見た方が良さそうだ。
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見事な頭飾り(ヘッドギアheadgear)だ。これがヘルメットなのかどうかは分からない。首には、ケルト固有としか言いようのない品物を付けている。
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素晴らしい首輪“トーク”だ。資産と権力のある人だけが付けていた。神もトークを付けていたというから、権力の象徴で、かつ身を守ってくれるものだったのだろう。この像は紀元前400年頃のものだ。従って、ヴァーシンゲトリックより2百50年程前の人物の像だ。しかし、この像はケルトによって造られた、ケルト戦士がどのように見えるかを伝える魅力的な表現だ。この像を彫刻した人物は間違いなく、ケルトの戦士たちを見て、知っていたのだ。
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この像はガイバリーの丘の麓の埋葬地を囲んでいた4つの像の一つだ。
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墓の中には、本物のケルト戦士の遺体が埋葬されていた。
これがその墓に埋められていた人の遺骨だ。この人物については多くのことが判っている。骨や歯の分析から、年齢は恐らく20歳代だ。彼と一緒に埋葬されたものが素晴らしいのだった。彼は間違いなく、地位が高い人物だった。ガイバリーの王家の若者だろう。この美しいブローチには羽根が付いた馬のような姿が、そして小さな人間の頭が馬を見返しているように彫られている。
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古代の人間と動物の関係を象徴しているのだろう。

これは黄金のトーク(首輪)だ。墓に眠っていた男の首に付いていた。繊細な模様も描かれている。
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これは剣だ。戦士の直ぐ脇に置かれていた。鞘(さや)も本当に美しい。
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青銅で造られているが鉄製の飾りや、鞘を巻いていた生地の繊維も残っている。墓の外で見つかっている像との関係もあるはずだ。彼が頭に付けていた被り物(ヘッドギア)の残骸も見つかっている。それは石像の頭の左右に付けられている奇妙な防御用のヘルメットと同じ形をしたものだ。若者と一緒に、見事な宝石や美しく飾られた剣を埋めていた豪華な墓は、彼が極めて上流階級の人物だったことを語っている。そして戦士であることは地位と表裏一体だった。彼はケルト社会が勃興していた時期に、戦士の王という新しいタイプの指導者が出現し始めた変化の中で生き、そして死んだ。
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豪華な埋葬品も見つかったガイバリーの戦士の儀式的な埋葬は、豊かな古代文化の一部を完成させた。数百年後、その遺産を守る仕事はヴァーシンゲトリックに託されることになった。

紀元前52年の春、ケルトの指導者たちはゴールの生き残りをかけた戦術会議に召集された。討議の結果、ローマの軍勢を打ち破るためには、もっと広範囲な防御態勢が必要だと言う事になった。唯一の選択肢は部族間の敵対関係を乗り越え、力を集中することだった。
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みんなは、ヴァーシンゲトリックをゴール連合軍の最高司令官に選んだ。

北東のセーヌ河からゴールの南西まで、対抗していた勢力が結集されることになった。一体化されたゴールのケルト軍は、今や、これまで以上に手ごわい勢力になっていた。

紀元前52年はローマ、ケルト、それにヨーロッパの運命を決める年になる。
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紀元前52年の夏、ヴァーシンゲトリックと彼の兵士8万と1万5千の騎兵は、ゴールの中心地アレシアの丘の上に軍陣を敷いた。
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ローマ軍との血なまぐさい小競り合いの後、ヴァーシンゲトリックはケルト中心地のマンディービー(?)族の地の丘の砦に引きこもった。シーザーは彼を追跡し、その丘の麓の平原に陣を張った。
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ヴァーシンゲトリックは理想的な体制を確保することになったのだ。ヴァーシンゲトリックは自分の決断に自信を持っていた。丘の砦は麓の平地から120mの高さにあった。片側は全くの崖になっていて、アレシアの砦は完全に難攻不落だった。ケルトがこの丘に陣取っていた時、彼らは樹木を綺麗に切り倒していた。従って、丘を囲む麓(ふもと)の平原は手に取るように眺めることができた。
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丘は2つの峡谷に囲まれていた。ヴァーシンゲトリックは、丘の緩やかな斜面に深い堀を造り、1.8mの高さの石の壁を造るよう命令した。

こうして砦の内部は完全に防衛され、難攻不落になったことを見ると、ヴァーシンゲトリックは自分たちが優位に立ったと信じただろう。しかし、シーザーは、それまでに何度もの包囲戦を戦っていた。彼は、若い対抗者などより何年も多い戦争経験を積み、豊富な知識を持っていた。アレシアを囲むことで、シーザーはケルト反乱軍に罠を掛けた。生命線とも言える情報と物資輸送を遮断したのだ。シーザーは期待していた状態にヴァーシンゲトリックを嵌め込んでしまったのだ。

丘の麓(ふもと)一帯の木々は切り倒され包囲壁の材料に使われた。高さ3.5mの木製の壁と見張り塔が建てられた。
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その内側には堀も造られた。シーザーの計画は丘を囲む全長17Kmもの包囲壁だった。

敵の攻撃から軍を守るため、別の恐ろしい防御策も実施された。古代軍事戦略の専門家マイク・ローデスは、長年、戦術について調査している。
「ローマ軍は大地をどのように戦い用に改造したんでしょうか?」
「今、ここで私たちがやろうとしていることです。」
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「いろいろな防御策が採られました。例えば“地雷”を埋めることです。鉄製の返しが付いた銛(もり)の先のようなものを地雷のように地中に埋めて隠しておくのです。敵の馬や兵士たちがこれを踏めばどうなるか、おわかりですよね?」
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(mh以下、専門家が想定した戦術や戦の様子が語られるのですが、省略させて頂きます。)
包囲壁の内側には堀が造られ、これを越えなければローマ軍に攻め込むことはできなかった。アレシアの丘の砦で、ヴァーシンゲトリックはローマ人の防衛策が進んでいるのを見ていた。このままでは駄目だ。もっと軍隊が必要だ!
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彼はシーザーの防衛用包囲壁が完成する前に、闇に紛(まぎ)れて騎馬の小集団を放った。ゴール全土から援軍を集めるのだ。援軍がやってくれば、ローマ軍を後方から攻撃するだろう。
その翌日、ローマ軍が建造していた壁が完成し、包囲戦が始まった。
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シーザーは既にヴァーシンゲトリックの行動を予測していた。彼は、別の壁を造った。最初の壁よりもずっと長い、全長35Kmの防御壁だ!
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たった5週間でこれを造ったのだ。とても人間技とは思えない。シーザーは片方の壁でヴァーシンゲトリックからの攻撃を防ぎ、もう片方の壁で、外部からの援軍の攻撃を防ぐ戦略だったのだ。しかし、シーザーの計画にも孔はあった。
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自分たちの軍勢を前後二つの壁や掘で防衛することによって、自分たちも罠の中に閉じ込められることになった。包囲しているだけではなく、包囲されていることにもなったのだ。

ヴァーシンゲトリックも丘の砦の中で罠に閉じ込められていた。彼は攻撃を仕掛ける前に、救援の軍隊が到着するのを待っていた。問題は砦の中の食糧や水が、その時まで持ちこたえられるかどうかだった。
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包囲開始から数週間たっても援軍が来た兆候はなかった。砦の中ではヴァーシンゲトリックの兵士たちの間に不安が広がっていた。彼に残された選択肢は一つだった。非戦闘要員を砦から出すことだ。女性や子供なら囲いを開けて外に逃がしてくれるだろう。
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しかし、シーザーは慈悲を見せることは無かった。ヴァーシンゲトリックに砦を追い出され、シーザーに無視された人々は壁に囲まれた一帯に閉じ込められてしまうことになった。

逃げ場所もなく困り果て、飢えに苦しんで死んでいく人々を丘の上から見ていたヴァーシンゲトリックの心情はどんなものだったのだろうか?
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彼の覚悟は徐々に高まっていった。彼は丘の砦を守っていただけではなく、もっと大事なものを守っていたのだ。これは中央集権的で近代的なローマと、深く先史時代に起源をもつ古代鉄器時代の文化との戦いだった。勝利の報酬はケルト部族が持ち続けて来た生き方だ。

何世紀もの間、ケルトは発展し繁栄してきた。彼らは技術的に進歩し、尊敬される戦士だった。移住しながら彼らの考えをヨーロッパや、その外部にも広めて来た。
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そして南の地中海世界や北の温暖な地域との交易も確立した。今、その偉大な世界は驚異に晒されていた。

紀元前52年の10月、孤立から一カ月後、膨大なケルト軍が西の丘の上を埋め尽くすように現れた。
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ゴールの全域から25万人の兵士たちが集まったのだ。ローマ人を振り向かせるには十分な数だった。ヴァーシンゲトリックは、シーザーよりも多くの有利な点を持っていた。しかし、彼は心理的な武器をも持ち合わせていた。ローマ軍の兵舎には、負けたら悲惨な運命をたどることになるだろうとの噂が蔓延(はびこ)った。

ローマ人たちが恐れていたものを理解するために、北フランスの、アミオンから数Kmの所に来ている。
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悲惨な争いが在ったところだ。しかし、世界第一次大戦の2千年前、別の大量虐殺がここで行われていた。それはケルト固有の陰惨な行為だった。

1960年代、リモンスアンカ村で発掘をしていた考古学者たちは、2百人のバラバラになった人骨を掘り当てた。
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部族間の争いの結果、ケルト的な儀式が行われたためだろうと考古学者たちは考えている。遺骨の多くに暴力的に殺害された痕跡がある。骨盤には槍で何度も突かれた跡がある。肩の直ぐ下の骨には刃物が当たった痕跡がある。
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しかし、明らかに異常なのは、頭蓋骨が一つも見つかっていないことだ。その理由は骨に残っている。若者の脊髄(せきずい)の椎骨(ついこつ)には、前から後ろ方向に刃物で切った傷跡がある。斬首されたのだ。
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古代の作者が書いた本を参照してみよう。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて生きていたギリシャ人の作家ストローベリィによれば「ケルトの間には戦場から戻る時、馬の首に敵の頭を吊り下げておくという、野蛮で高度に異常な習慣がある。それは高い尊敬を集めたので、種油で防腐処理して家を訪れる客にも見せたりしていた。」
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リモンスアンカ村の斬首が何故おこなわれたのかについては正確には判っていないが、いずれにしてもとても奇妙なことだと言えるだろう。ゴールの地にやって来たローマ人達も、飾られている首を見て、奇妙な、野蛮な風習だと思っていたに違いないのだ。アレシアにいたシーザーは、彼の頭がケルト人の馬に吊るされないためには、戦術と運の組合せが必要な事を知っていた。
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集まってきた25万のケルト兵は丘の上からローマ軍の様子を眺めながら、攻撃のタイミングを伺っていた。女や子供を犠牲にしたのにも関わらず、ヴァーシンゲトリックの軍隊は飢えで苦しんでいた。
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丘の向うに援軍がやって来ていたとは言え、ヴァーシンゲトリックには、まだ問題が残っていた。丘の上で包囲されているヴァーシンゲトリックには遠方にいる救援と直接連絡を取る方法が無かった。彼は駆けつけて来た戦いには馴れていないかもしれない部族長たちに賭けるしかなかった。
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援軍はローマの砦に弱点があることに気付いた。そして紀元前52年、10月2日、攻撃を決断した。昼頃、6万のケルト兵士は攻撃を始めた。目標はシーザー防衛軍の北西の隅にあるローマ軍の駐屯地だ。急な斜面があったのでローマ軍はその部分だけには城壁や堀を造れなかったのだ。その弱点をケルトは知り、そこに攻め入った。
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援軍の攻撃に呼応してヴァーシンゲトリックの軍勢は丘を駆け下り、内側からローマ軍の防御に孔をあけようとした。彼は、そのことでローマ軍を前後から攻撃して壊滅することが出来ると考えていた。ケルトの兵士たちは、ローマ軍に波状攻撃をかけた。
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報酬はこれ以上高いことはなかったはずだ。シーザーにとってはゴールの征服者という名誉ある称号を手に入れるチャンスだった。一方のヴァーシンゲトリックは祖国の地のために闘っていた。

ケルトがどのように戦ったのかについては新しい考えがある。ローマ人の記録によればケルトの軍勢は十分な訓練を受けていない上、統制が採れていなかった。
(mh以降、また例の古代軍事戦略専門家マイク・ローデスによる戦闘技術の解説が続きますが、省略させて頂きます。戦いの武器ですが、ケルトは剣を使い、払うように振って体を切る戦法。ローマ軍は剣もさることながら、槍を上手く使い、突いたり、払ったりしたようで、手軽な武器で大勢の兵士に与えられたこともあって、かなり有効だったようです。)

闘いながらも、ローマ軍の防衛ラインは維持されていた。しかし、後方から攻撃していたケルトの援軍は防衛ラインに風穴をあけた。勝利を確信したヴァーシンゲトリックは前方からローマの防衛軍に襲い掛かった。
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シーザーは敗退の瀬戸際にあった。彼が持っていたのは最後の1枚の切り札だ。カリスマ的な指導力で、彼はそれを頼りにしていた。
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6千の軍勢を引き連れて彼は反撃に出た。シーザーが参戦したことで力を得たローマ軍はケルトに襲い掛かり、戦いの流れは完全に変わった。シーザーは回顧録(memoirメモアー;ガリア戦記でしょう)の中で声高々に言っている「私の軍はケルト軍を追い払った。彼らは蜘蛛の子が散るように草原を逃げ回った。」
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丘の砦から敗戦を見ていたヴァーシンゲトリックは再び包囲されることになった。彼に残された道は2つしかなかった。降伏か死だ。彼はその決定を戦略会議に委ねた。次の日、ヴァーシンゲトリックは礼服を身にまとい、馬に乗り、彼の仲間と共に丘を下った。伝説によればこうだ「馬から下りると武器を地面に置いて言った“ここに私はやって来た。強い男だ。しかし、もっと強い男によって打ち負かされた男だ。”」
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自由の戦士はついに、狡猾な老齢の戦略家に出し抜かれたのだ。
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ケルトの黄金時代は終わってしまった。
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ローマ人は記念碑的な建築物を造って勝利を祝福した。これはフランス南部オランジュの凱旋門だ。
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この凱旋門通りにはゴールでのローマ軍の勝利に関する物語がある。中央最上段では裸のケルト兵がローマの騎兵に踏みつけられている。
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左右の通路の上には戦利品の山が描かれている。
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門は道を跨(また)いでいる。南はローマに、北は死者の土地に続く道だ。ジュリアス・シーザーは3百万人が僻地のゴールに暮らしていたと考えていた。彼は正しい。そのうち1百万人は死に、1百万人は奴隷として売られた。もし、それが現代社会で起きたとしたら、大量虐殺genocideと呼ばれるだろう。

ヴァーシンゲトリックに対してもシーザーは慈悲を見せなかった。彼はローマに連行され、6年の牢獄生活の後に公衆の面前で殺された。
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それから何世紀も経過し、ヴァーシンゲトリックは国家的英雄として再び出現した。彼は自由なゴールを夢見て命を捧げたのだ。
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アレシアの闘いにおけるシーザーの勝利はヨーロッパの歴史を決定づけた瞬間だった。古代のカルト文明が、その中心地で破壊されたのだ。ケルトは地上から消え、ローマ化、属国化が進んでいく。
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この像はヴァシァー戦士として知られている。紀元前20年のものでアレシア戦いから32年後に造られた。一見しただけでは、彼がローマ人の兵士だと思うだろう。
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服や武器がローマ風だ。鎖で出来た短めの鎧(よろい)やベルトや短剣はグラディアの時代のものだ。
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どう見てもローマの軍人に見える。しかし、外見は欺瞞(ぎまん)そのものだ。良く見ると首にはトークを付けている。
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このトークこそ、ケルトの上流兵士の象徴なのだ。彼はケルト人だ。しかしローマによって予備兵として雇われたケルト人だ。ヴァーシンゲトリックは墓の中で苦々しく思っているだろう。悪名高く、ボサボサした長い髪の野蛮人は消え失せてスマートになっている。彼はローマ化した。手懐(てなず)けられてしまったのだ。

かつてトルコからフランスまで広がっていた偉大な文化は終わってしまったかのように見える。しかし、ケルト人は消滅してしまったわけではなかった。
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紀元前51年、アレシアの闘いの直ぐ後、部族は十分にローマ化されていた。ジュリアス・シーザーはこの場所に来て「ゴールの占領はローマ帝国の偉大な歴史のひとつだ」と戦記に記した。彼は、これらの部屋の一つでそれを書いていたのかも知れない。
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その本の中で、遠征と共に、紀元前55年と54年に行った海の向うの謎の国ブリタニアBritanniaへの2回の調査旅行についても書いている。それは我々が持っている、イギリス及び、そこに暮らす人々に関する最初の詳細な記録だ。
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次回では、ローマ人は彼らの関心をずっと北の国、ケルト文化の最後の砦の一つ“ブリテンBritain”に向ける。豊富な資源、強力な部族、進んだ軍事力、もう一人の偉大な指導者、女王ブディカを備え持つ島だ。

The Celts: Blood, Iron And Sacrifice with Alice Roberts And Neil Oliver - Episode 2 of 3
https://www.youtube.com/watch?v=KGI6gud8MUo
Wikiからの補足:
ウェルキンゲトリクスVercingétorix:ヴァーシンゲトリック
紀元前82-同46年。ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるアルウェルニ族の出身で、古代ローマのガリア侵略に対して抵抗した人物である。フランス最初の英雄と称される。ヴェルキンゲトリクス、ヴェルチンジェトリクス、ヴェルサンジェトリクス(フランス語読み仮名転写)とも表記される。
近代に至ってもウェルキンゲトリクスはフランス最初の英雄、ガリア解放の英雄とされ、かつてアレシアの町があった現在のアリーズ・サント・レーヌ(英語版)村にはナポレオン3世の命によって銅像が建てられた。
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また、フランス人彫刻家フレデリク・バルトルディ作のウェルキンゲトリクスの像が、クレルモン=フェランの中央広場に建てられた。
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補足:フランス南部オランジュOrangeの遺跡
シーザーのガリア凱旋門
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中央最上段のレリーフ:ローマ騎兵がガリア人を踏みつぶしている。
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オランジュのローマ劇場
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(Part2/3完)

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mh徒然草115:老人を狙った詐欺


詐欺事件では老人、特に女性の老人が被害者になることが多いですね。今日10月25日のモーニングショーで荷受け代行詐欺が紹介されていました。ご存知かも知れませんが、知らない方もいらっしゃるでしょうから概要をご紹介しましょう。

“自宅で簡単にできるいいバイトがある”とのSNS情報を見て申し込むと“荷物が届くから指定の私書箱に転送してくれたら1件当たり3千円を支給する”と連絡があるようです。このアルバイトに申し込むには契約書が必要で、その際、個人情報、代金支払い銀行口座情報を相手に連絡しなければなりません。
契約が済むと、小さな荷物が宅配便で届きます。送り主は例えばスマホ販売会社です。届いた品物を開封せず(契約で開封してはいけないことになっています)、指定の私書箱に転送すると、自分の口座に3千円振り込まれるようです。荷物は2ヶ月で5,6回、届き、転送する都度、3千円が振り込まれます。しかし、2ヶ月を過ぎると荷物は送られてこなくなり、代わりにスマホ販売会社からスマホ本体の請求書(例えば1台当たり3万円)や、電話会社からは電話使用料金の請求が送付されてくるんです!転送したスマホは名も知らぬ人に流れ、おれおれ詐欺などに悪用されると共犯者の疑いを受けることもあるようです。
詳細を知りたい方は次のURLでご確認下さい。
http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20160722_1.pdf

10月19日付けネット新聞によれば、犯人が逮捕されました。
<荷受け代行詐欺、3人逮捕 バイト募りスマホ転売の疑い>
自宅に届いた新品のスマートフォンを開封せずに転送する「荷受け代行」と呼ばれるアルバイトを主婦らに持ちかけ、入手したスマホを転売して利益を上げていたとして、神奈川県警が詐欺容疑でグループの3人を摘発していたことが捜査関係者への取材でわかった。県警は、主婦らの個人情報を悪用する手口で、スマホ数千台、計約1億円分をだまし取っていたとみて調べている。
 県警サイバー犯罪対策課は19日、いずれも無職で、横浜市鶴見区の宍戸卓志(34)、川崎市川崎区の西川宏太(32)、同区の三浦知則(45)の3容疑者を詐欺容疑で再逮捕した。3人とも同様の詐欺罪などで起訴され、公判中という。
 発表によると、3容疑者はアルバイト5人の名義を使い、4月から5月にかけスマートフォン9台を高松市内の販売事業者から計約31万円で購入。このスマホを転売するかたちで、販売事業者からだましとった疑いがある。

「荷物受け取り代行」でYahoo検索すると、私書箱を開設して受け取り代行をする方法を提案しているサイトがいくつか見つかります。別の実行犯による類似の事件が全国で起きていると思われます。

大泥棒の石川五右衛門の辞世の句に「石川や浜(はま)の真砂(まさご)は尽きるとも世に盗人の種(たね)は尽きまじ」とありますが、盗賊の一部は詐欺師に変身して情報化時代も暗躍しているのですね。

主に老人や女性や、痴呆症の人を対象にした“おれおれ詐欺”“(羽根布団などの)売りつけ詐欺”“荷受け代行詐欺”などの特殊詐欺を減らそうと、国や地方自治体、国民消費者団体などのNGOなどがいろいろ工夫しているようです。例えば銀行の窓口で、まとまった金額を引き出し辛くなりました。暗証番号などを併用し、mhのように記憶力が低下した老人には自分の貯金すら下ろすのが大変になっています。このような対策にも拘わらず、特殊詐欺被害は大きく減少した様子はないようです。ネットには次の記事がありました。

特殊詐欺被害17%減=上半期198億円-警察庁
(2016年8月4日)
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「摘発強化や防犯対策で被害の増加に一定の歯止めがかかっているが、依然として高水準にある上、7府県は額・件数とも増えた。
認知件数は未遂も含め8.1%減の6443件で、被害の78.7%を65歳以上が占めた。一方、金融機関や宅配業者などと連携した声掛けによる水際での被害阻止は過去最多の6214件に上り、少なくとも約104億円の被害を防いだ。
手口は、おれおれ詐欺が最多の約80億円(8%減)。架空請求詐欺の約78億円(11%減)、医療費の還付をうたった詐欺の約19億円(58%増)が続いた。」

今日、フィリピンのドゥテルテ大統領が来日しますが、彼が断行した厳しい取り締まりのおかげで、麻薬密売人が激減して治安も改善したらしく、国民の人気は高まっています。これに習(なら)って、日本でも特殊詐欺実行犯は金額の多少に拘わらず懲役20年以上にするなど、罰則を強化したら、犯罪は減るのかも知れませんが、人権問題もあるのか、そのような動きはないようです。

好い歳をした若者や大人が、老人を中心とした弱者からお金をだまし取るという卑劣な“特殊詐欺”においては、恐らく被害者は一人暮しの老人で、加害者は一人暮しの成人のケースが最も多いのではないかと思います。一人暮らしの老人は、少ない貯金と年金生活に不安を感じ、それを子供や友人に相談できないまま、儲け話に飛びついてしまうのでしょう。また、一人暮らしの成人は、定職がなければ、生活費を稼ぐ方法は盗みか詐欺しかありません。もし、女房や子供と一緒にくらしていたなら、詐欺などではなく、仕事を探して真面目に稼ぐことを考えるのではないかと思います。だとすれば“特殊詐欺”を減らす方法は、一人暮らしの老人を減らし、働く気のある成人が定職を持てる環境を創り出すのが最善です。

しかし、“特殊詐欺”が増えていると言うことは、一人暮らしの老人が増え、定職を持たない成人が多くなっているということでしょう。社会は不健全な方向にシフトしています。この流れを止められないのは政治家や経済人が自分のことしか考えなくなってきたからだと私は思います。いずれ政治家も経済人も老人となり、しっぺ返しを受けることになるでしょう。

Passenger - Let Her Go
https://www.youtube.com/watch?v=Ginx7WKq5GE
(完)

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ケルトの不思議Prt-1


今回はケルトについてご紹介しましょう。で、ケルトとは何かですが・・・

キルトkiltではありません、タータン調の模様の布で造られたスコットランドのスカートみたいな衣装ですから。キルトquiltでもありません、綿(わた)を布で挟んだパッチワーク状の衣装とか布ですから。ケトルkettleではありませんよ、薬缶(やかん)ですからね。勿論、カルトcultでもありません、悪しき集団とか異端宗教ですからね。

で~ケルトはというと・・・英語ではceltまたはkeltと綴られ、Wikiで“ケルト”で検索すると一つしか見つかりません。“ケルティックと同じ”です!

ケルティックと言えば・・・“アメイジング・グレースAmazing Grace”をブログでご紹介したことがあります。歌っていたのがケルティック・ウーマンCeltic Womanで、収録場所はアイルランドの首都ダブリン郊外にある、パワーズコートPowerscourtと呼ばれる、13世紀に造られた領主の城です。広い庭の周辺には草原やゴルフ場が広がっています。
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次のURLでAmazing Grace、ひき続いてYou raise me upをお楽しみいただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=HsCp5LG_zNE

ケルティック・ウーマンCeltic Womanはケルト人の婦人という意味で、ケルト人とはイギリスやアイルランドに住んでいた人達で、ひょっとしたらバイキングも同族ではないのかしら、などと思っているとしたら(かつてmhはそう思っていました)とんでもない間違いです。

ブログ「ローマ帝国の不思議」でもご紹介した記憶もあるのですが、ケルト人はローマ帝国にも攻め込んでいるんですね。またブログ「チャチャポヤの不思議Pt-2」では北アフリカの古代都市カルタゴが滅亡した時、一部のカルタゴ人はスペインの港からケルト人と共に南米に逃げたという仮説もご紹介しました。つまりケルト人Celtは、ヨーロッパでは結構、幅を利かせていた民族だったんです。

Wiki:ケルト人(Celt、Kelt)
中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。

現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。
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(Wiki続き)
紀元前1世紀頃に入ると、大陸の各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。
ケルト人がいつブリテン諸島(イギリス・アイルランド)に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。

Wikiによれば、「ヨーロッパ全域に暮らしていた人をケルト人とは呼ばず、ケルティックCeltic、つまりケルト系と呼ぶ」とありますが、この意味する処は何かというと・・・ヨーロッパに広く分布して暮らしていたケルト人の定義が不明瞭なところにもってきて、特にローマ人やギリシャ人などから、国家や文化を持たない“ならず者”と見なされていたからかも知れません。“ケルト人はならず者”となると、まともで上品だったかもしれないケルト人を祖先にもつ現代人には少々不都合というか不愉快です。イギリスやアイルランドの“ケルト文化”は大陸のケルトとの交流が感じられず、ケルトとは別の人たちではないかとの見解も出されているようで、全てのケルト人がならず者ってことはないよ、っていう含みを持たせて“ケルティック”を好ましい定義としているんじゃあないんでしょうか、考えすぎかもしれませんけど。

ケルト人とはどんな人たちだったのか?

それを紹介するBBC英国放送協会のフィルムをご紹介しましょう。今回はPart-1/3です。
・・・・・・・・・・・・
2015年の前半、ヨークシャーの何のとりえもない墓で人骨が発見された。20代前半の男の骨だった。遺骨の横には大きな剣と5つの槍先があった。鉄器時代の埋葬場所だったのだ。
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この様な墓はヨーロッパ全域で見つかっている。そして我々は、この男がかつてトルコからポルトガルにかけて広がっていた同一の文化を共有していたことを知っている。そう言えるのは彼がケルト人で、先史時代の我々の祖先の一人だからだ。
英国においては、ケルト人の過去は遠い昔の話ではない。ケルト人は直近の歴史の中でも、闇に隠れ、野生的で、一義的なものに思われる。しかし、彼らの起源、信仰、究極的な運命の多くは謎だ。
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しかし、これらの精力的な種族が生存をかけて彼らの宿敵のローマ帝国とどのように戦ったかに関するある物語は色濃く残されている。古代イタリアまで出かけて暴れまわったケルト人侵略者からジュリアス・シーザーのゴールGaule(注)遠征まで。
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そして最後にはケルトは女王戦士ブディカBoudiccaの下で立ち上がる。
(ゴール:ガリアGalliaとも呼ばれ、フランス一帯を指す古代の地名です。)
我々が今でも気に掛けている偉大な文明の対立の一つが、ヨーロッパの最も不可解な古代人を浮き出している。
The Celts; Blood, Iron & Sacrificeケルト;血と鉄と生贄
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ローマ。かつて、数百年の間、ヨーロッパで最も偉大な帝国の中心だった。
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この都市はシリアから英国までの広大な土地を統治していた。その力は強力な軍によって形成され、法律、経済、建造物はその栄光を物語っていた。しかし、この帝国がヨーロッパ全域に拡大する前、アルプスの北の強力な蛮族軍がローマに対抗していた。戦士種族は数世紀の間、ローマ人を苛立(いらだ)たせた。ケルト人だ。

これはローマ人が考えるケルト人だ。“死にゆくゴール(フランス一帯の土地の名)”と名付けられている。
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全裸で、髪はバサバサにもつれ、口ひげがあり、首の周りにケルトの上級戦士の究極的な象徴であるトークという首飾りを付けている。
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ローマ人の目には、典型的な裸の野蛮人に映(うつ)っていた。そしてもっと重要なことは、この男が裸の野蛮人で、打ち負かされ、征服された人間だということだった。脇の下の致命的な傷から血を流し、苦しみの中で、持っていた剣を地に落し、そのそばに座り込んで、死を迎えようとしている。
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とても美しく、力強く、心を揺り動かす芸術作品だが、宣伝目的のものでもある。これこそがローマ帝国が市民に見て、感じてほしかったローマの敵ケルトだった。たしかに高貴な男に見えるが、本質的には野蛮人なのだ。力強く激しいイメージは、統制がとれ、従属的で、文明化されていた存在だったローマの発想とは反するものだ。

4百年の間、ローマ人とケルト人はヨーロッパの覇権を争った。彼らの運命は最終的に戦いで決着する。ローマ人が歴史的記念物を造って勝利を祝福するのにつれて、ケルト人は、徐々に歴史から退いていくのだ。
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ケルト人とローマ人の大きな違いのひとつは、ケルト人は自分たちの歴史についての文字記録を残さなかったことだ。彼らの伝統は口伝だった。書いたものではない。生活の様子を細かく書類や彫像や建築物として残したローマ人と異なる。
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しかし、ケルト人は我々には全く見ることが出来ない人たちではない。彼らが後世に残した世界は、我々の足の下で、発見されるのを待っている。

ヨーロッパ全域で考古学者たちは古代ケルト人の世界を掘り起こしている。ここは中央フランスのシャンペイン郡だ。ブーッシェーBucheresの郊外で、2013年4月、考古学者たちはとても興味深い物を発見した。
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彼らは、この一帯を調査していた。理由は単にここが広大な倉庫の予定地だったからだ。調査の最中に、彼らは偶然、埋葬地を発見した。結局27の男や女の墓を見つけた。埋葬されたのは紀元前4世紀だった。ここは鉄器時代の墓地だったのだ。埋められていたのはケルト人だった。
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ブーッシェーの発見などから、ケルト人とはどんな人たちだったのかを直接見ることが出来るようになってきた。これはブーッシェーで見つかった骸骨の一つで、最も完璧なもののひとつでもある。
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他のものは不完全なものばかりで、本当に数少ない完全な骸骨だ。遺骨を注意深く調べてみても、病気やケガの跡は見当たらない。しかし、いくつかの痕跡は残っている。例えば前腕に残っているシミは病の痕ではない。銅か銅合金で造られた何かが付けられていたか、この近くに置かれていた跡だ。実際、ブーッシェーの全ての墓で見つかった興味あるものは骸骨だけではない。一緒に埋められていた副葬品だ。
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あの世に旅立つ遺体は装飾品を付けていた。その装飾品は驚くほど高尚な文化があったことを示している。留め具、ブローチ、ブレスレット、小さなピン、ネックレスのセットなどが見つかっている。
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この留め具はとても贅沢に造られている。信じられない程に手が込んだ手工芸品だ。本体には渦巻きのように織り合わされた模様が繰り返して彫られている。奇妙な白い釦のような飾りは珊瑚で造られている。地中海から来た珊瑚だと考えられる。
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これはとても古典的なケルト人のトーク(首飾り)だ。棒の表面には飾りも刻印されている。
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幾つかの墓には武器も見つかった。この剣は鞘(さや)に納められている。
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剣の長さは興味深い。騎兵が持っている、振り下ろして敵を切るための剣程の長さはない。従って、これは歩兵が身に付けるために造られたものだ。ここの鉄の部分には飾りがついている。注意深く見ると、この丸い模様は珊瑚で造れている。2匹の龍の目だ。
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剣は彼らにとっては重要な、自分の象徴のような所有物だったことが判る。ケルト人は独立心が強く、その上、製造技術にも長けていた人たちだったようだ。身の回りの品物や武器などについても気を配っていた。ローマ人が思い描いていた裸の野蛮人とはだいぶ違っていたのだ。
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2千5百年以上昔、ケルト人とローマ人は出会うよう運命づけられていた。ケルトの勢力圏が拡大してアルプスの南、イタリアの北に及ぼうとしていた。そしてあるケルト人たちが間違いなくここにやって来たことを我々は知っている。アルプスの峠ヴァルカモニカだ。
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ここで岩肌に彫られた絵はかなり初期のケルトを表現したものだろうと考古学者たちは考えている。この峠にやって来た時、カルト人はカミュンニと呼ばれている山の民に出会った。
カミュンニが絵を彫ったと考えられている。ケルトがどんな人たちで、どんな様子だったのかが消されずに残されることになった最も古い記録だ。ここには興味深いものが描かれている。4つの車輪の乗り物、チャリオットだ。
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こちらには2人の戦士が槍や楯を持って描かれている。新しい民族がやって来た時、忘れがたいものとして誰かが記録に残したのだ。

明らかだったのは危険を冒して南下するケルト人たちは戦いの準備を終えていたということだ。

この辺りには岩絵が沢山描かれている。木の葉に覆われた岩の道にも。これを見てくれ。素晴らしい。男が靴を履いて、左手には槍を、右手には小さな楯を持っている。いや、楯ではなく、ひょっとすると敵の兵士の頭かも知れない。
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ここでは何人かが槍と楯と剣を持っている。戦っているようでもあるし、勝利を祝って歓呼しているようでもある。
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彼らはとても活き活きした様子に描かれている。誰がこの絵を描いたのかは判らないが、これらの兵士を見て強い印象を受け、兵士たちの到着を書き記しておこうと思ったのだ。
ケルト部族は新しい土地を取り込みながら、南に、イタリアの中央に向けて移動していた。秩序ある、構造社会だったローマを嵐が襲おうとしていた。
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ローマ人がケルト人に初めて出会った時に何が起きたのかを知るためには、これに頼らざるを得ない。リヴィーLivyの“ローマの歴史”だ。
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ティタス・リヴィーはローマ人だ。従って、まず初めに、彼が狂信者partisanだったことを考慮しておく必要がある。それに、彼が記録を書いたのは事件の3百年後だ。彼によれば、ローマ人とケルト人が初めて出会ったのは紀元前387年だ。場所はクルーシアム、現在のタスカニーTuscanyでローマから160Km北の町だ。
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平和な丘の町タスカニーを歩いていると、ここでその後数世紀続くことになる対立と流血を産むことになった事件が起きたと信じるのは難しい。
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リヴィーは書いている「異様な数千の戦士たちは奇妙な武器で武装し、クルーシアムを眼指して進軍していた。占領すべき新しい土地、略奪すべき貴重品を探していたのだ。」
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「彼らを指揮していたケルト族の戦士王はブレナスと呼ばれていた。」
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「ケルト軍がクルーシアムの町に向かって丘を下って進んでいる時、町のリーダーは軍を派遣して町を守ってもらおうと考え、ローマに伝令を送った。しかし、その要求は却下された。代わりにローマは3人の大使を送り込み、平和裏に決着しようとした。それは、ローマが最も強力な敵と初めて直接、出会った瞬間だった。」
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「その時、ヨーロッパの心と魂を求めて何世紀も続くことになる争いが始まったのだ。交渉が始まると、ケルト人は土地を要求した。ローマを圧倒する数の軍勢を後ろ盾に、ケルト人は妥協する様子は全くなかった。熾烈な口論があった。そして冷静さを失った一人のローマ人大使は持っていた槍でケルト人の部族長の心臓を刺して殺してしまった。たった一回の槍による一撃で、中立の誓いという、自他ともに認めていたローマの習慣の一つは打ち砕かれてしまったのだ。ケルト人は、問題を起こして逃げ去ったローマ人に適切な罰を与えるため引き渡すようローマに要求した。要求は無視された。それは大きな間違いだった。

リヴィーは書いている「ケルト人の怒りは制御できない程に燃え上がり、数Kmも延びる軍隊の列は“ローマへ!”と叫びながら驚異的な速さで進軍を始めた。
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西暦387年、ローマ人はケルト人と直接、接触することになった。しかし、近代考古学によれば、ケルト文化はそれよりもずっと以前に遡る。いくつかの古い証拠はオーストリアのソルツバーグSalzburgの南東のハルシュタットHallstattと呼ばれる小さな村に残されている。
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その場所の名はケルト時代の名としても使われ、“初代ケルト文化”と同意語にもなっている。
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ここがハルシュタットだ。オーストリア・アルプスの山間に潜んでいる。落ち着いた町で、人々は静かに暮らしている。しかし考古学においては最も有名な名で、ケルトについて調査するには理想的な出発点だ。何故なら、最も古いケルトの物質的文化を垣間見ることができるのはここだからだ。後世に残るケルト的な特徴“ハルシュタット文化”を生み出すことになった場所なのだ。
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とても重要な文化で、私が考古学を学ぶ学生の時、必ず理解しておかねばならない事項だった。そして、それから30年後の今、私は聴き親しんでいた町にとうとうやって来ることが出来た。考古学者たちは、1846年にハルシュタットの調査を始め、“上谷”と呼ばれる死者の町で恐らく5千はある墓のうち1千以上を発掘した。
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墓の中には遺骨と共に紀元前8百年に遡る2万以上の手工芸品が埋葬されていた。複雑な造りのブローチ、黄金のブレスレット、青銅の板から創られた容器、鉄の短剣や斧・・・
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これらは全て長い間忘れ去られていた先史時代の文明の証拠だ。その文化はケルト的だと我々が考えているものだ。
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考古学者のハンス・レシュレイライターは、この地で25年以上、研究を続けている。
「ここで見つかった墓が特殊な点はなんですか?」
「墓の数だろう。5千以上はある。そして素晴らしい副葬品だ。多くの宝石やその他の贅沢な工芸品が見つかっている。およそ60%以上の墓から、こういった副葬品が見つかるんだ。」
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「ということは、ここで死んで埋葬された人々の多くが、副葬品も一緒にあの世に持って行くだけの富を持っていたということですよね?ここがお金持ちの人々用の埋葬地ではないとどうして判るんですか?お金持ちは別の場所に埋められていたという証拠でもあるんですか?」
「遺骨や筋肉の様子を調査してみると、墓に埋められた人々はどうも一生働いていたようなんだ。かなりの力仕事をしていたようだ。労働者だったんだ。」
「とすると、どんな仕事をしてそんな体になったんでしょうか?」
「女の場合、肩に重い荷物を背負っていたことが判っている。男の場合、足の筋肉はほとんどないが、肩には沢山の筋肉があった。」
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「つまり、男は、何かは判らないけど、上半身が鍛えられるような仕事をしていたってことですね?しかし、歩き回ることは、それほど多くは無かった。」
「その通りです。」

ハルシュタットを特徴付けるものは今もなお、近くの山の深く埋もれていて見ることができる。価値のある品物でこの地に暮らしていた古代の人々を豊かにし、ハルシュタットを有名にした。
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「もう直ぐ目的地だ。滑りやすいから気を付けて!」
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「ここには巨大な先史時代のトンネルの一部が残っている。」
「3千年前に造られたトンネルの発掘をしているんですか!で、輝いている結晶の砂は・・・塩ですか?」
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「そう、塩です。先史時代の鉱夫が探していたものです。塩の層に向かって掘り続けていたんです。」
古代社会において、塩は決定的な食物保存材として高価な品物だった。ハルシュタットのケルト人は莫大な量の塩を掘り出していた。山には長さ200m、高低差20mに渡って採掘が行われていた。
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「鉱夫が遺したものは、今でもみんな、完璧な形で残っている。例えば、これは松明の燃え残りだ。」
「つまり、ここがハルシュタット社会の富の全てで、ここのおかげで文化が造られたってことですね。墓の骸骨にもその影響が残されていたってことですか?」
「そうです。この壁で工具を見つけました。青銅で、塩の層を掘るためのものです。男は座って、天上の岩に向けて工具を振るっていました。女は掘り出された塩を肩に担いで運んだんです。それで墓で見つかったような体型になったんです。」
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つまり、彼らは骨に生涯の労働の痕跡を残していたのだ。ハルシュタットの人々にとっては、ここが生活の場所で環境でもあった。地底人のような人たちだったのだ。

この古代の掘削孔の中には、働いていた人々を直接的に思い起こさせるものも残っていた。
「ということは人々がこの中で暮していた証拠もあると考えていいですか?」
「えぇ。先史時代の糞もあります。」
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「妙な仲間意識のようなものを感じてしまいますね。」
「この糞の中には寄生虫の卵も見つかっています。ほとんどの鉱夫の胃の中に寄生虫がいたという証拠を見つけていますから、3千年前のここでの暮らしが快適なものだったということはないでしょう。」

この山で採れた塩の品質は高かったので、とてもよい実入り製品となり、この辺り全域で取引されていた。
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ハルシュタットの人々は白い“黄金”のおかげで豊かになったのだ。
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同じ時期に、もう一つの製品が先史時代の社会を変え始めようとしていた。鉄だ。製造方法の秘密は小アジアから東地中海を通りヨーロッパの中心部まで広がった。
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人々は長い間、銅や錫から青銅を取り出すことは出来ていた。鉄はこれらの材料よりも豊富だったのだが鋳造し、製品に仕上げることが難しかったのだ。加熱と鍛造を何度か繰り返して金属製品をつくる。固く、頑丈で、従って完璧な武器を造ることが出来る。
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ケルト人は鉄の達人になった。ハルシュタットにおける驚くべき発見はケルト人が豊かで産業的で、技術的に洗練されていたことを示している。それは新しい、固有の文化の誕生でもあった。成長し、影響力を持ち、ヨーロッパを完全に支配するものだっただろう。

ハルシュタットはヨーロッパで繁栄し、拡散した新しい文化の発祥の地として有名になった。紀元前5百年までに、ケルト人はイタリア北部に到達していた。そして紀元前387年までに、クルーシアムにおけるローマ人大使による不適切な対応を受け、ケルトの部族長ブレニスと彼の軍勢は復讐の念に駆られながら、南のローマを目指して進軍していた。
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ケルトの大軍が近づいているとの連絡を受け、彼らと対峙すべく、将軍クインタス・サルピシャスに率いられたローマ軍は北に向けて進軍した。サルピシアスは6軍団、凡そ2万4千の兵士、を指揮下に持っていた。
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ローマから17Km北のアリア川の平原で、彼は敵に出会った。現在、その場所はとても戦いが行われた場所には思えない。直ぐ近くを高速鉄道の線路が走り、空を見上げれば高圧送電線が縦横に走っている。
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しかし、戦いによって数千人がここで死んだはずだ。ここがローマ軍が初めてケルト軍と出会い、凄(すさ)まじい戦いを行うことになったアリア川の戦場だ。ローマ人司令官サルピシアスが彼の敵についてほとんど情報を持っていなかったということについては記憶しておく価値がある。敵の戦術や武器について何も知らなかった。その上、彼は、敵がいつ目前に現れるのかについても気付いていなかった。
マイク・ローデスは古代の戦術の専門家で、およそ2千5百年前に戦場で起きた出来事を細かく調べ上げていた。
「戦場だったとは感じられないような所ですね。」
「まったくです。でも歴史は、我々が今暮らしている、この地で起きていたのです。」
「地勢は司令官にはどう映っていたんでしょうか?」
「当時のローマ軍が、後のローマ帝国の軍隊とは異なっていたことはまず頭に入れておかねばなりません。我々が議論しようとしているのは紀元前387年の戦いですからね。まだ駆け出しのローマ軍隊だったんです。小規模で・・・(mh以下、省略します。)」
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「で~、サルピシアスとローマ軍のどこがまずかったんでしょうか?」
「ブレネスがサルピシアスが予想していた行動をとらなかったというのが一番でしょう。ブレネスは誘いには乗らなかったんです。(以下、省略します。)」
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「ケルト軍は流れる水で、ローマ軍は川の中の岩だったようだと言えるみたいですね。」
丘の上でエリートの騎兵をあしらいながら、ケルト戦士たちは平原のローマ軍の歩兵集団に戦力を集中した。ケルト兵士の数や、怒涛のような雄叫(おたけ)びに気後れしたローマ軍団は、攻撃を恐れて混乱し、逃げ出した。結局、大勢のローマ兵士は切り殺され、重い青銅の鎧(よろい)に身を包んでいた兵士たちはアリア川でおぼれ死んだ。
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ローマの記録によれば、その戦いで2万のローマ兵が死んだという。都市ローマも同じ運命を迎えようとしていた。

ローマ人は敵が予想もしていない所から現れたと考えていたかも知れない。しかしケルト人は何年もの間、地中海世界との接触を持っていた。

丘の上の砦はヨーロッパにおけるケルトの象徴的な特徴といえるだろう。鉄器時代の城は領主たちの住家であり権力の中心だった。
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紀元前6世紀に造られたホイネバーグHeuneburgは、南ドイツで、ハルシュタットから4百Km西にある。
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ここがホイネバーグだ。
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紀元前6百年、この一帯全てが鉄器時代の建物で覆われていた。考古学者たちは、ここが単なる丘の砦ではなく、都市だったと考えている。恐らく、アルプスの北における最初の都市だ。ケルトの都市ホイネバーグには5千人が暮らしていたと考えられている。
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壮大な建物だった。大きな櫓(やぐら)がいくつも設けられた高さ5mの白い城壁が砦の町全体を取り囲んでいた。更に、城壁を取り囲むように深さ6mの掘が造られていた。難攻不落の威圧的な建物となるよう造られていたのだ。
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ダック・カウザーはホイネバーグに住む考古学者だ。
「この城壁は見事ですねぇ。鉄器時代の砦としたら、予想以上に美しいです。」
「まったくその通りです。とても特徴的で、普通の構造ではありませんからね。普通、カルト人は木材や石や土で建物を造るんですが、ここでは石灰岩を基礎に使い、その上に泥の煉瓦を組み上げたんです。」
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「粘土煉瓦を守るために上塗りもしました。アルプスに近いので気候も良くありませんでしたからね。更には、権力の顕示という目的もありました。この城壁は何Kmも離れた場所から見ることが出来、ここを訪れる人は、強力な場所だと感じたのです。」
「城壁の下の部分は白く塗られていますね。」
「はい、使われていたのが泥の煉瓦で、焼き固めずに日干されていただけだったからです。」
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「それで、鉄器時代の建物としてはちょっと変わっているということでしょうか?」
「はい、とても変わっていたと言えるでしょう。泥の煉瓦を使った建物は、アルプスの北でそれ以前も、その後もなかったんですから。」
「この発想はどこから来たものなのでしょう?」
「長い間、そのことは謎のままでした。しかし砦の城壁で採用された泥の煉瓦と櫓の組合せは、フェニキア文化でしか見受けられません。例えばレバンテLevanteやシシリー島やリベリア半島です。ですから、ここの砦を造った建築家はフェニキア文化圏で作り方を学んでからやって来た人でしょう。」
「地中海の影響を受けていた例なんですね。当時、フェニキアの影響力がローマよりも抜きん出ていたということでしょうか?」
「そう考えて良いでしょう。」

ホイネバーグの丘の上に立つと、ここが重要な場所だったことが判る。辺り一帯を見渡すことが出来る。
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下を流れるのはドナウまたはダニューブ呼ばれる川となって黒海まで流れている。川伝いに広大な地域と繋がっている重要な地点に鉄器時代の都市が造られていたのだ。
銀をイベリアから、琥珀(アンバー)をバルティックから、ワインや土器をイタリアやギリシャから。まさに大陸の東西南北との交流があった。広い外界との繋がりはホイネバーグを交易や産業の重要なハブに変え、強力な文明を打ち建てる基礎を創ることになった。
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交易で得られた巨額の富は初期のケルト人の支配者たちを鉄器時代の小さな領主以上の存在に育てていた。
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何人かの支配者は王並に扱われていた。この円墳は紀元前530年頃に死んだ男の悲しみを守り続けている。
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彼はホフトフ王子として知られている。何故なら彼と共にあの世に持っていかれた品々が初期のケルト世界における素晴らしい一品ばかりだったからだ。今はシュトゥットガルトStuttgart博物館に保管されている。
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これはとても素晴らしい。ケージ(Cage長椅子?)だ。ホフロフの王子が彼の同僚たちと休憩をとった家具だ。
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リベットで一体化した青銅板で出来ている。ハンマーで叩いて描かれた模様は戦う兵士を象徴している。ここには4輪のチャリオットが2頭の馬によって引かれている。
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戦士は楯と槍を持っている。アルプスの峠ヴァルカモニカの岩絵と同じだ!
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今は緑に錆びているが、これが墓に納められた時はきっと輝いていただろう。このケージに今付いている足はオリジナルのものではない。オリジナルはこれだ。
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一輪車に乗った人形のような飾りが施され、8本が取り付けられていた。人形には珊瑚も埋め込まれている。
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「これ以外にも、角(つの)の杯(さかずき)、青銅の皿、それに3匹のライオンの飾りが付いた500リットルは入りそうな大釜もあった。」
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大釜はケルトの暮しの中ではとても重要なもので、晩餐会などで使われて、部族長の権力や富を示し、部族の結束を緊密に保つ道具でもあった。この大釜の大きさから、ホフトフの王子はとても重要な人物だったのではないかと思われる。しかし、沢山の贅沢品の中で最も贅沢なものは王子自身が持っていた。
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遺体が布で何層にも包まれていただけではなく、黄金の装飾品で飾られていた。
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黄金のネックレスは抽象的な細かなパターン文様が刻まれている。この2つのブローチは不思議な形に曲げられていて、特殊な埋葬儀式のために造られ、生きている人が使ったものではないかも知れない。
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青銅の短剣は模様が打ち出された黄金で覆われている。
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しかし、もっとも興味深いのは彼の靴だ。靴そのものは腐って残っていない。しかし、黄金のプラーク(plaque飾り)は残っていた。
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贅沢な暮らしをしていた男で、身の回りの品を全て墓に持って行ったようだ。あの世で宴会を開くために必要な道具も全て持って行ったのだ。

アルプスの小さな村ハルシュタットから、ヨーロッパの偉大な古代文化の一つが生まれた。ケルトは古典的なモデルには当て嵌(は)まらないかも知れない。しかし、豊かな複合体complexで整然と組織化された社会を持っていた。ローマ人が“死にゆくゴール”の像で言う裸の戦士、乱暴な野蛮人とは全く異なる。
私が考古学の学生だった頃と比べると、ケルト誕生に関して最近の調査が示している内容はずっと複雑で、しかも興味深い。
もし、ケルトがどこでどのように始まったのかを調べようと思うと、多面的な見方が可能で、多くの証拠も見つかっている。剣や宝石など、ヨーロッパ全域に広められた物質的なものから考えてもよい。更には言語もある。と言うのは鉄器時代のケルト言語は沢山あり、夫々は似ているが部族によって異なるのだ。西ヨーロッパやウェールズ、スコットランド、コーンウォール、ブリタニ―(Brittanyブリターニュ)には今でも生き残っているケルトの言語がある。しかし古代ケルト語を調べるために今向かっている場所は、西ポルトガルのアルガーヴだ。
ジョン・クックは文献学者で文学書を研究している。彼はギリシャ人歴史家ヘロドトスの本からケルトの発祥について新しい理論を造ろうと研究している。
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「ジョンさん。ポルトガルでケルトの調査をしていたなど、とても思いも付きませんでした。ケルトはここに住んでいたんでしょうか?」
「それについては疑いの余地はありません。ヘロドトスが紀元前5世紀に書いていたように、ケルト人はダニューブの源で住んでいただけではなく、ヘラクレスの柱、つまりジブラルタル海峡、の外のこの地にも暮らしていたんです。ヘラクレスがクセイセイと呼んでいた人々なのですが、クネイセイはケルティックと似た響きがあります。ケルト人がいたのでポルトガルにもケルト系の名前や言語が残っているのです。」
「ヘロドトスが言っていることはどのように理解したらよいのでしょう。ケルトはヨーロッパ中央部を発祥地として広がって西ヨーロッパにやって来たということでしょうか?」
「それについては違う方向から良く調べないといけないと思います。そんなに単純な話ではないようです。」
ジョンにとっては、話はそんなに単純ではないという。ポルトガルのケルトとヨーロッパ中央部のケルトを結び付ける考古学的な証拠が欠如しているのだ。しかし、リベリアのケルトとイギリス、アイルランドや大西洋海岸のケルトを結び付ける証拠はある。
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その手掛かりは紀元前7世紀の古代の石碑に彫り込まれている。ハルシュタットのケルトと同じ時代のものだ。
「これは何でしょうか?」
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「これはイベリア半島南西部の鉄器時代初期の集団墓地の跡で見つかったものです。」
「記述を読むことは出来るのですか?」
「ここに“ローゴーボー”とあってスペイン北西部の今の言語の“ルーグーボー”と強い相関が認められます。ケルト人の神“ルーク”を指していると考えられます。」
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「“ヒーラーボー”とありますが、これは恐らくリーダーの名前で、説明書きの最初に2つの名が記されているのです。彫られている言葉は全てケルト人が話していたものだと考えています。」
「つまり、ここに暮らしていた人々がケルト語を話していたということでしょうか?」
「そうです。だから、記録に残されている言葉もケルト語だと考えています。」
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ジョンは石碑に描かれているのはフェニキア人のアルファベットで、ケルト人が使っていた言葉だと考えている。紀元前9百年、地中海のフェニキア人の船はイベリア半島までやって来ていた。それで、この石碑はフェニキア文字で書かれているのだが、書かれている言葉はフェニキア語ではなく、ケルト語だと言うのだ!この初期ケルト語は後の時代にガーリック、ウエリッシュ、コーニッシュなど、イギリスやアイルランドで話されていたケルト語と明確な関連がある。ジョンは青銅器時代の商人や船乗りはポルトガルから北スペイン、そしてブリターニュからアイルランドまで、大西洋岸を南北に移動しながら銀や銅や錫の交易などで、この原始的なケルト語を使っていたと考えている。
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これは新しい発想でとても興味深い。ケルトはヨーロッパ中央から拡散したのではなく、大西洋に沿って移住していたというのだ。(mhフィルムはBBC英国放送協会が作成していますが、英国のケルトはヨーロッパ大陸のアルプスの北側一帯から来たのではなく、海からやってきたという考えには、格別の思い入れがあっても当然かもしれません。)
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この新しい理論は、英国に伝わった我々のケルトの遺産は、これまでの発想とは異なり、鉄器時代のケルトに侵略されたからではなく、鉄器時代以前の青銅器時代に到着していたと言っている!
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とすればイギリスのケルトは単に血統的な交換をしていたというだけではない。そしてそれが正しければ、英国やヨーロッパ西端のケルトはヨーロッパ中央でのケルト文化の拡散に関して、これまで考えていた以上に影響を与えていたと考えることが出来る。そして、この考えを支持する魅力的な証拠があるのだ。これはグングリン(?)の剣で、ケルト初期のものだ。優雅な細長い形状で、先端と柄(つか)は少し幅が広い。典型的なケルトの剣の姿だと言われている。
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今から一世代前においては、この剣はケルト人がヨーロッパ中央から西に拡散していった証拠だと言われていた。従ってこの形の鉄製の剣がドイツ中央部やフランスの全域で見つかっている。しかし、最近、考古学者たちは青銅で造られた沢山のこの形状の剣を英国で発見している。紀元前8世紀の初頭の、ハルシュタットより以前のものだ。このことは、この形状の剣はイギリスで青銅から製造され、西から東に、つまりイギリスから中央ヨーロッパに、伝わったのであって、その逆の方向ではないということを示している。従ってケルト人のブレネスという名の戦士王や彼の軍勢もイギリスで生まれた技術に基づいて製造された武器を持っていたのかも知れないのだ。
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紀元前387年、ケルトとローマの世界は、アリアの戦いで初めてぶつかり合った。ローマ人歴史家レヴィによれば2万の兵士が命を失い、都市ローマは司令官ブレナスが率いるケルト軍の意のままに置かれることになった。
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リヴィーは書いている「ローマは最後の戦いのため、武器を持てそうな夫人や子供も全て集めて砦に引きこもった。」

その砦はこの上、キャピタラインの丘にあった。ローマが造られていた7つの丘の一つだ。
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都市はこれまで打ち負かされたことは無かった。従って、ケルトの進攻は最大の恐怖だったのだ。
リヴィーは書いている「彼らは王を先頭に門から侵入してきた。すると直ぐに、雄叫びや野蛮人の歌が聞こえてきた。」
この叫びや野生の音楽というのはカーニックスCarnyxから聞こえて来たものかもしれない。ケルトのモール(?)トランペットだ!
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ケルトは何百ものこのトランペットを戦いに持って来ていた。しかし、今日では、カーニックス演奏家は世界でたった一人しかいない。音楽家ジョン・ケニーだ。
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ジョン・ケニー「カーニックスが戦いにおいて敵に恐れを起させるために使われたのは間違いない。」
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「音を造る方法は近代の楽器チューバと同じだ。しかし、カーニックスでは音は銅で造られた頭蓋骨の中で共鳴して拡大する。カーニックの頭蓋骨は、人間の頭蓋骨と同じように機能する。“ムー”とか“アー”と声を出してみると頭蓋骨に振動が起き、声が造られていることが判るはずだ。これと同じことがカーニックスの頭蓋骨で起きている。他のどの楽器とも異なる点だ。」
トランペットの音はケルト兵士の雄叫びと共に町中に木霊していた。正にケルトの戦略が敵を恐れさせていたのだ。
ジョン「当時、世の中には大きな音は無く、どちらかと言えば静かだった。しかしカーニックスの音は高く、生活の中では聞いたことが無い音で、人々をイラつかせる効果を持っていた。もし、静かな朝などにこの音を聞かされたら、人々は恐怖を感じただろう。」

ケルトが都市ローマに入った時、全ての市民は既にキャピタラインの丘の砦の中に退却していたか町から逃げ出していた。
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通りには人影は全くなかった。リヴィーは書いている「ケルトがローマの貴族が住んでいた大豪邸(マンション)に来てみると、玄関ドアが開いていた。
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罠(わな)かもしれないと疑いながら注意深く建物に入って行った。しかし、中で彼らを待っていたのは老人のグループだけで、至極反抗的な雰囲気で、じっと椅子に座っていた。
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その光景を見たケルト兵士は気が抜けてしまった。一人の兵士が老人の髭(ひげ)をなでようと手を伸ばした。すると、その老人は持っていた象牙の杖で兵士の頭を殴った。
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ローマの運命を決めた瞬間だ。怒ったケルト兵士は、老人を叩き殺した。」

ケルト軍は略奪を始めた。火を放って町中を焦土と化した。暴れまくるケルトに歯向かう力はなく、砦内の食糧や水も尽きたローマ軍は降伏して、身代金を黄金で支払うしか方法は無かった。アリア川の戦いでローマ軍を率いていた将軍クインタス・サルピシャスはケルトの戦士王ブレナスと交渉して決着を付けることに合意した。彼は500Kgの黄金を支払うことに合意した。都市が既に破壊し尽くされた状態としては巨額な身代金だ。
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ケルトの王ブレナスはローマに侮辱を与えるため、通常よりも重い錘(おもり)を、黄金を計る秤(はかり)に載せた。将軍サルピシャスにとっては2回目の侮辱だった。ローマの司令官がこれに反対すると、戦士王ブレナスは秤を揺らしながら言った「付け加えた分は敗者たちへの賞品だ!」
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ローマ人がケルトに完璧に降伏したという事実は劇的な出来事だった。ローマ人は、ケルト人が取引において野生の野蛮人から遠い民族だということを苦い出来事を通じて学ぶことになった。4世紀の間、ケルト人は同盟や強力な部族との関係を造り上げていた。戦闘文化を持ち、共通の語源をもつ言葉を使い、広範囲の貿易網を持っていた。彼らは中央ヨーロッパ全域に勢力を拡大し、アルプスを越えてイタリアになだれ込み、生まれたばかりのローマ帝国を打ち負かしたのだ。
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この敗戦に続く数年の間に、ローマは新しい難攻不落の城壁“セルウィウス城壁Servian Wall(注)”を造った。
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それはケルトに敗れた市民たちにとって、永遠の記念碑だった。彼らは二度と都市を陥落させることなどしないと決心した。
(セルウィウス城壁:紀元前4世紀初頭に造られ、高さ10mx幅3.5mx全長11Kmでローマの中心を囲んでいました。)

ローマにとって、それは新たな時代の始まりだった。その後の数百年に渡り、ローマ人はケルト人と衝突し、生き残りや領土のためにヨーロッパの心や魂を賭けて戦うことになる。

次回は3百年後のケルトの黄金時代や、ヨーロッパ、更にはその外部への更なる拡大についての発見を紹介する。フランスではローマの偉大な将軍ジュリアス・シーザーが25万の軍を率いる戦士王に戦いを挑まれる。戦いの報奨はケルトの中心の土地ゴールだ。
The Celts Blood Iron And Sacrifice With Alice Roberts And Neil Oliver - Episode 1 of 3
https://www.youtube.com/watch?v=zA-itb5NwDU
(完)

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mh徒然草(特番)小池都知事と森会長


「小池知事に感情ムキ出し 森会長「五輪4者会合」での醜態」
2016年11月30日
「つくづく、時間とカネの無駄遣いである。29日、東京・お台場のホテルで開かれた、2020年東京五輪の開催費削減などを協議する国際オリンピック委員会(IOC)、東京都、大会組織委員会、政府の4者会合。都はボートとカヌー・スプリントは「海の森水上競技場」を、水泳は「アクアティクスセンター」をそれぞれ予定通り新設する方針を提案。一方、バレーボール会場は「有明アリーナ」を新設するか、既存施設の「横浜アリーナ」を活用するかについて、クリスマスの時期まで結論を先送りすることになった。

当初は一部非公開の予定だったが、小池百合子都知事(64)の意向で急きょ、完全公開となった会合。詰め掛けた大勢の報道陣に“醜態”をさらしたのが、組織委会長の森喜朗元首相(79)だ。

都が検討している「横浜アリーナ」案に対し、冒頭からケンカ腰。「横浜は合意しているんですか。僕の知り得る情報では、横浜の方が迷惑していると聞いている」と小池知事にカミつき、「(迷惑しているのは)なぜかというと、横浜は(IOCで)『野球』が内定している。これで手いっぱい」などとまくし立てたのだ。
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「横浜市は『お決めいただいたら、ぜひ、やりたい』と言っていただいた」と答えた小池知事の反論にも耳を傾けず、最後まで「くどいようですが横浜はOKしてくれる? 受け入れてくれると知事は判断している?」とネチネチ迫っていた。

さらに森会長は五輪の運営経費について、都が「3兆円」とはじいていることも不満タラタラ。「高いと思ったら(都が)削ればいいんです。あたかも3兆円より上に予想されていることばかり国民の皆さんに言われると甚だ迷惑なんですよ」と逆切れする始末だった。

幼稚園児じゃあるまいし、仮にも首相だった男が感情ムキ出しで女性知事に怒声を上げる姿を目の当たりにしたIOCのコーツ副会長も唖然呆然。落ち着かない様子で、両手の指先でペンをクルクル回しながら森会長を凝視していた。

ちなみに森会長が「迷惑している」と“代弁”した横浜市の林文子市長(70)は29日夕方の会見で、「そういうことはございません。横浜市としては横浜市でやりたいということであれば承ります」と全否定。森会長の勝手な“思い込み”だったことがハッキリした。一体、国民・都民はいつまでこの“老害”に振り回されるのか。スポーツジャーナリストの谷口源太郎氏はこう言う。

「東京五輪は安倍政権にとって『アベノミクス第4の矢』の国家プロジェクト。その旗振り役を中心で務めたのが森氏です。国家プロジェクトだから運営費は二の次。それが今の莫大に膨らんだ経費につながった。その“戦犯”の森氏が今になって経費削減の会合に出席するのもデタラメですが、自分や組織委が否定されるようで嫌なのでしょう。メディア受け狙いがアリアリの小池知事の手法も許せないと思っているから、余計に感情的になるのだと思います」

いつまでも茶番劇を見せられる国民・都民はタマったもんじゃない。」

ブログの読者も似た感想をお持ちのことでしょう。

で~その翌日だったと思いますが、あるTV局が横浜市長に訊いたんですね「横浜アリーナを使う件について東京都から問合せがあったんですか?」って。市長の答えは「問い合わせがあったとは聞いていません」です!市長の答えから考えると、森会長も全くのガセネタで、横浜市は迷惑しているって言ったんじゃあないと思いますね。東京都から正式な打診もないまま、小池都知事やマスコミが騒いているので、横浜市は迷惑しているって言った人がいるんじゃあないかとmhは思います。それを小耳にはさんだ森会長は、それみたことかって思い、小池氏に嫌味を言ったんでしょう。mhもそのニュースを見ていましたが、本当に余計なことばかりいう人だなあって思いました。

mhは常々、森喜朗氏と小池百合子氏のお二方とも人間的には信用ならないと思っています。彼らに任せて置いたら支離滅裂な展開が続き、時間と費用の無駄どころか、庶民の期待とは別の結論に行き着いてしまうでしょう。その結果は相手が悪いからだとして、2人が責任を取ることはありません。

このまま2人を放置していたら、大損害を被ることは必定です。それを回避する義務は、2人に振り回されているであろう都庁関係者やIOC関係者にあると思います。救いようのない2人ですが、だからといって関係者が傍観していることは許されません。親分は無視して、子分たちは自らの責任を果たしてほしいと思います。

アメリカのトランプ氏といい、フィリピンのドゥテルテ大統領といい、もうちょっとましな人はいるだろうに、と思われる人々がリーダになって、うまくいくのかしらと他国の心配をしていられる状況にはありません。日本も負けず劣らず、政治家の独善に翻弄されつつあります。一体全体、政治家って人間はどうして、尊敬できない人ばかりなんでしょう。そういう人を選んだのは我々ですから、詰まる所、我々自身が尊敬に当たらない人間に成り下がってしまったということなのでしょうか。

しかし・・・尊敬されないまでも、大勢から嫌われる人にはなりたくありません!

Kitaro – Caravansary
https://www.youtube.com/watch?v=RQS9_ZN5k_c
(完)

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