Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ジェデフレーの失われたピラミッドの不思議-2

(先週の続きです)
アブ・ラワシュAbu Rawashの軍事地域の端は今、考古学的な発掘地点になっている。しかし、時計の針を4千5百年前に戻すと、そこは建設現場になっていた。ファラオのジェデフレーの指示によって数百人の作業者が2トンの石を引っ張ってナイル谷の麓(ふもと)から120mの高さの丘の上まで運んでいる。ジェデフレーの石工に対する命令は、完成したらエジプトの歴史の中で、どの構造物よりも高い建物を造ることだった。
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今日の考古学者たちへの命令は、その建物が一体、何だったのか、そしてその建物に何が起こったのか、を確定することだ。
歴史家テッサ・ダンロップ「この丘に切り株のような記念碑が建ち始めた瞬間から、それが元々、どんな形の構造物だったのかを知るのは難しかったはずよ。それを見つけようと考古学者たちが何年も調査してきたのよ。」
丘の頂に、こんなに大きなものを建てるという試みはエジプトの歴史の中でも初めてのことだった。技術者の仕事は前例がないもので、かつ莫大な量の資材を持ち込む必要があった。
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メンフィス大学ピーター博士「ピラミッドは砂漠の真ん中に造られる単なる石の積み重ねではないということを理解しておく必要がある。それは建築的で、行政的で、経済的な複合体なのだ。ピラミッド複合体に付属して、ピラミッドの町があったはずだ。作業者たちはそこで生活していた。作業場や、共同宿舎や、穀物庫や、倉庫などあらゆる種類の、ピラミッドとは異なるタイプの建物があった。何故なら、そこは小さな都市のようなものだったはずだからだ。」
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この論理的な働きを理解すればする程、検討チームは、ここで造られた物の本当の性質と大きさをより正しく理解できるのだ。
テッサ・ダンロップ「ピラミッドが造られているサイトの大きさを確定することは、重要な要素よ。もし正確な面積が分かれば何かを知ることが出来るはずよ。そうすれば、ここにピラミッドがあったと言えるかも知れないのよ。」
人工衛星を使った地図化は人工の土手道causewayの存在を示している。土手道は2つの機能を持っている。ファラオのあの世への旅の通路になり得たはずだ。しかし、その前に、石を減築現場に運搬するための主要道路だったはずだ。
「衛星地図を見ると、ここに長い断崖がある。高くて急で、崖の縁からは5,60mの落差だ。」
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経験から、エジプト人の技術者たちは7%以上の勾配は石を引き上げるには急すぎることを知っていたはずだ。しかし、ここの丘の斜面はその倍の急勾配だ。
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「そこで、彼らがまず考えたのは、この断崖の下の谷に向かって、もっと緩やかな傾斜の土手道を造ることだった。」
ジェデフレォィの祖先たちは、土手道を造るに当たり、大きな宗教的な意義を道に与えていた。伝統によれば、それは太陽の移動に沿って東から西に向かうよう言い含めている。
「エジプト人は方角に従ってピラミッドの向きを決めていたの。そして勿論、西はとても重要だったのよ。なぜなら、太陽が死ぬ方向だから。東から生まれ変わって出てくる前に、西に埋葬しておくことが必要だったのよ。」
(mh:ピラミッドの不思議で、何故ピラミッドがナイル河岸の西の丘に造られたのかについてmhの仮説をご披露したことがあります。夕日が映える夕焼け空を背景に立つピラミッドは東の町から良く見えたからだとしたのですが・・・どうもそうではなかったようですね。)
ここに造られた土手道は1.6Km(1マイル)以上の長さだ。古代エジプトでこれまで見つかったものの中で一番長い。
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ロンドン大学フェクリ博士「これは単純なことではない。土手道は先例がない方法で造られていたんだ。彼がこんなに高い場所にピラミッドを造ったのは信じられない。石をこんなにも長い坂を使って引き揚げるなんてことはね。」
しかし、この土手道で驚くべき点は、南北に走っている点だ。初期のエジプト学者は規格をはずれたこの考えが、ジェデフレーが家系から切り離されていたためだと考えていた。
しかし、近代の学者たちは、ジェデフレーが技術者から提案されて現実的な選択をしたというだけのことだという。
「“東西にしたいという王の意向は理解いたしますが、石を運ぶには南北が最適なのです”と提案されたのだ。」

ロンドン大学フェクリ博士「地勢を上手く使おうとすれば、自然に合わせなければならない。更に言わせてもらうなら、ピラミッドは山だ。山は空に向かって立っているものだ。」
土手道がどこを走っていたのかは明確に確認できる。
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大地の傾斜に沿って、石切り場まで到達していた。
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そこは4千5百年も経った今でも使われている。
「これは現地にある石切り場の一つだ。石はここで切り出され、坂道を使って丘の上のピラミッドまで引き上げられた。」
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概算によれば、ジェデフレーの建築工事のために32万5千トンの石灰岩がこの石切り場で採取された。
「沢山の石が切り出された。建築に十分な石だっただろうことは間違いないだろう。」

しかし、石灰岩ではない、遠くから運ばれてきた多くの石もあった。莫大な量の花崗岩だ。船で運ばれてきたのだ。エジプトの花崗岩はここから1千Km離れたアスワンの石切り場で採取されている。ファラオたちは、そこから大きな艀(はしけ)を使ってナイルの上で運んだ。
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この作業はナイルが増水し、川幅が1.6Km以上になる、海に流れ下る洪水時だけ行われていた。建築現場近くの川辺には、荷卸しのための港が造られていた。
「とても感激している。ここが、かつて港があった所なんだから。土手道の最下段の入口に近いんだ。とても興味深い場所だ。所々には建物が建っていないので、昔の面影も残っている。ここにあった港から運河でナイルに繋がっていたんだ。」
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それは、この地にピラミッドを建設するための基本的な工事だった。川から丘まで石を運ぶため、彼らは運河を造らなければならなかったのだ。

ザヒ・ハワス「我々は、古代王朝の時代から大きな運河がナイルに沿って造られ、さらに小さな運河が大きな運河から引き込まれてピラミッドの建築現場まで続いていたという証拠を持っている。それが遠く離れた場所から、この失われたピラミッドまで石を運ぶ唯一の方法だったんだ。」

港や石切り場や土手道といった明確な目に見える証拠は、数千から場合によれば数万の人々が関与した仕事だったことを示している。
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そしてこれら全ての人々に十分な食料と宿泊施設が必要だった。近くに労働者の集団の受け入れ施設がなかったら、ピラミッドがこの地に造られることは無かっただろうことは考古学者たちの全員が同意している。
「謎の一つは、何千人ものピラミッド建設労働者が住む町ないし村がどこにあったのかということだ。これはまだ欠けている要素だ。どこかに存在していなければならないんだから。」

研究や調査の結果、作業者の住居地として最も可能性の高い場所が割り出された。現代のアブ・ラワシュ村がここにある。
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つまり、恐らくこの場所で45世紀の間、人々は暮らし続けているのだ。

仮にどんな痕跡が、考古学者たちが到達できないところにあったとしても、ギザのピラミッドの周辺の発掘サイトに戻ってみれば、それがどんなものだったのか、彼らは明確に描き出すことが出来る。この住居地はジェデフレーの1世代前、クフの大ピラミッドを建設した労働者たちが暮らしていた場所だ。
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39エーカー(15ヘクタール)以上に渡って広がっていて6千人の共同住宅があった。下水道施設も造られていた。そして世界でも最も古い石畳の道が見つかっている。同時代の記録から、このような住宅地でどんな人々が暮らしていたのかを知っている。徴収された労働者と技能を持つ職人で、集団で仕事をし、どれだけ仕事をしたのかに応じた配給を与えられていた。
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「若者は生活に自負を持っていたの。彼らは地上で最も権力があるファラオによって選ばれた者として働いていたの。そして優れた建築家や石工だったチームリーダーの指揮の下で、分け前を貰いながら仕事をしたの。労働者の世話をすることもとても重要だったのよ。だって何トンもの石を引く仕事は、体が頑強でなければ出来ないわ。」

アブ・ラワシュの地上に残る全ての証拠が、ギザの丘で今日も見られるものと同等の大きさを引き継いでいることから、アブ・ラワシュでも大きな建築事業が行われていたことが分かる。

今では、チームのほぼ全員が、これがジェデフレーの失われたピラミッドであることを確信している。彼らが次に知りたいと望んでいることは、その設計と建築の詳細だ。どのような外観だったのか?どんな宝物が保管されていたのか?そこは古代エジプトの建物で最も偉大なものに対抗できるほど、本当に壮大だったのか?
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ギザから8Km北で、10年越しの発掘で見つかった素晴らしい発見が今、世界に向けて明らかにされようとしている。アブ・ラワシュの140mの丘の頂きに造られた構造物は4千年以上もの間、世界で最も高い大ピラミッドよりも高かったと噂されていた。
今、専門家たちは、その建築の様子を知りたがっている。
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外観から、この地に造られているものが独創的だったことは明確だ。
「もし自然の丘を選ぶなら、上に伸びる円錐形の形じゃあないかしら。近くにピラミッドを建ててほしいっていう場所よ。そこなら既に4,50%の仕事が終わっているんだから。」
丘に突き出ている岩の頭で、ピラミッドは、予め自然が造っていた基礎と内部構造を持っていた。
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メンフィス大学ピーター博士「丘の上に造ることで多くの時間を節約したかも知れない。」
しかし、別の問題を伴っていた。作業者たちは周辺の基礎石が彼らが造ろうとしている構造物を支えるのに必要な十分な強度がないことに直ぐに気付いた。その問題に対処するため、紀元前25世紀では最先端の解決法を導入した。何トンもの石膏を使ったのだ。石膏は砂と水とカルシウムで出来ている。エジプト人が持っていたコンクリートに一番近い材料だった。
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「ちょっと見た所では人間が造った壁のように見えるの。でも元々あった自然の岩よ。触ってみれば分かるけれど、脆くて、簡単に欠けてしまうの。ここでも見受けられるように、石膏を使えば、石をつなぎ合わせることができるの。」
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しかし、石膏を使った修復は最初の段階だけだ。第二段階では試験的に導入された技術を試している。それはジェデフレーの祖先によってここから24Km南のサッカラで発明された建築方法だ。1世紀前の、極めて初期のエジプトの階段ピラミッドにも使われていた。

「階段ピラミッドは時間の試練にも耐えて残っているの。それには秘密があるのよ。大きな石板が使われているけれど、良く見ればわかるように、内側に行くほど下に傾いているの。ピラミッドの中心部に向かってね。つまり、何かの動きがあったとすれば、石はピラミッドの中心に向かって動こうとするのよ。それで、石を汲み上げた構造物が一体性を維持しようとするの。これを見て、アブ・ラワシュで何が行われていたのかが私たちにも分かるようになったの。」
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傾斜組立構造はアブ・ラワシュのピラミッドを安定させ頑丈に保つことができる。しかし建築家たちには機会が無かった。そこで彼らはこの技術を彼ら自身の方法に変えていた。花崗岩のピンを使って、石灰岩を固定していたのだ。
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「ここに、その跡が残っているの。良く見ると切り取られているのが分かるわ。長さ2.5mのところで折れているけど、元々はピラミッドの外面にまで突き出ていたのよ。だから、長さは2倍の5mほどあったのね。」
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大きな地震で花崗岩がずれたのだろう。しかし、花崗岩の強度は利用価値があった一方、加工を困難なものにしていた。
エジプト学者デニス「この工具には歯が付いているが、昔使われていた工具を参考に造ったものだ。しかし、花崗岩を削る作業にはとても使えない。」
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しかし4千5百年前、デブラの技術者たちは、一般の作業者と極めて簡単な技術で加工方法を見つけたのだ。
「まずは花崗岩より硬い火打石で目印の線を描く。」
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「次は石のハンマーを使って、花崗岩の表面に溝を造る。」
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銅で造られた金鋸(かなのこ)は紀元前26世紀に入手可能な最高の道具だった。しかし、銅では花崗岩を切ることは出来ない。そこで金鋸に水をかけながら砂粒を注いでやる。砂の中の石英粒子が銅の刃に埋まり込んで、固い研磨用の刃先を造るのだ。
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「力を加えながら何回も、金鋸を動かせば、花崗岩に溝を切っていけるんだ。」
あと必要なのは時間だ。5日間、2人、3mの長さのブロックを切断することができた。とても労力を必要とする作業だ。しかし、作業現場には、ピンや楔(くさび)で必要とされた以外の、沢山の切断された花崗岩が残されている。恐らく、これらの石は別の目的で使われていたのに違いない。
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調査チームは、先例のない程の量の、重くて硬いこの石から計算され導かれる巨大なピラミッドに使われていたのだという結論に到達した。

「ここに来ると瓦礫の周りに残された沢山の大きな花崗岩の石に気付くの。他の石の形とは全く異なっているのよ。この表面にはよく見かける斑模様があるのよ。水を掛ければ見やすくなるはずよ。光で輝いているでしょ?」
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「表面はとても滑らかなの。つまり、これは補強ピンの部品ではなくてピラミッドの化粧石だったのよ。」

近くで採れた石灰岩ではなく、花崗岩を化粧石に使ったとすれば、それは見事なものだっただろう。多くの労力や費用を使って運ばれ、加工され、磨かれ、太陽に照らされて輝いていたのだ。それは強烈な富と権力の象徴だったはずだ。
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「労力や搬送や、技術者を集めることが、どれだけ費用がかかり、どれだけ困難だったのか、理解しておかなければならない。沢山の花崗岩を使うのは、黄金で覆うのと同じようなことだったはずだ。」

ジェデフレーが始めると、他のファラオたちがこれに従うようになった。20年後、彼の甥(おい)が三番目のピラミッドをギザに造った。彼は大きさを既に立っている2つに合わせようとはしなかった。その代わり、彼はジェデフレーの建築を真似たのだ。

「後ろにあるのがメンカウラーのピラミッドよ。」
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「基礎部が良く見えるでしょ。ピンクの花崗岩が使われているの。」
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「興味深いのは、アブ・ラワシュに置かれている花崗岩の塊から、ジェデフレーは花崗岩の市場の指導者だったってことよ。クフは墓室だけに花崗岩を使ったの。ジェデフレーは素晴らしい花崗岩を化粧石に使ったのね。メンカウラーはそれを、ここで真似たのよ。」
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クフはピラミッドの中で花崗岩はほとんど使っていない。彼が選んだ石は石灰岩limestoneだ。石灰岩は現場近くで手に入れやすかったので、沢山使って大きなピラミッドを造ることが出来た。

ジェデフレーの考えはこれとは異なっていた。花崗岩graniteを使うのはある種の芸人気質showmanshipだ。しかも実はそれ以上のものだった。花崗岩は固くて長持ちするのだ。彼は自分の記憶が、他のどのファラオよりも、より長く生き、より長く続き、より強く輝き続けることを望んでいたのだ。

「彼は宣言をしていたのだ。“私のピラミッドは花崗岩で覆われている。私は父のピラミッドよりも長く残るピラミッドを造るのだ”」
そのピラミッド全体を花崗岩で覆うには許容できない程の費用がかかったかもしれない。メンカウラーは基礎部の3段のみに使った。しかし、もし花崗岩がどの辺りの高さまで使われていたのか知ることが出来れば、ジェデフレーのピラミッドがどのくらいの高さで立っていたのかを計算から求めることが出来る。そうすれば専門家チームはピラミッドの完全な外観を得ることが出来る。

「ここにあるのはジェデフレーの花崗岩で覆われたピラミッドの基礎部分だ。私がいるこの辺りまで地面からは6m位の高さだろう。」
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「しかし、我々は花崗岩で追われた基礎は13m位だったと推定している。つまり今の高さは当初の半分くらいだということだ。下を覆っていた花崗岩の化粧石は取り外されている。」
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ピラミッドの高さはもし、基礎面の大きさと斜面の傾斜角が分かっていれば簡単に算出できるはずだ。しかし地面の上にいる考古学者たちにはなかなか厄介な謎だった。下の石の角度を見ると、かなり急勾配のようだ。
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建築作業が困難になるだけではなく、とても不安定な構造物になる。
「我々は、最下段のいくつかの石の角度からピラミッドは64度じゃあないのかと思った。」

初期のエジプト学者たちには、64度のピラミッドだから長い間立っていることはできなかったという根拠になっていた。ジェデフレーのピラミッドは高くなりすぎたという理由だけで壊れてしまったというわけだ。
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しかし、我々の調査チームはもっと論理的な答えを引き出していた。もしこれらの64度の石が基礎の石と同じように12度傾いて置かれたとするなら、ピラミッドの側面の傾斜は52度になる。この角度はクフのピラミッドと同じだ。
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「つまり64度から12度を引けば52度ってことだから、この角度で上に伸びていたとしていいのじゃあないか?」

この考えに基づいて計算すると、ピラミッドの高さが求められる。高さは丘の表面から66mだ。
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この時代の他の全てのピラミッドの頂点には建物の見どころを示すかのような、光り輝くキャップ・ストーンが置かれていた。

ダシューアの赤いピラミッドの場所では、この一つが造り替えられて残っている。
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「これがピラミディアン(キャップ・ストーン)よ。ベンベンとも呼ばれているの。恐らく銅と銀と金の合金のエレクトラムで覆われていたはずよ。日の出の光を受けると、光り輝いていたことが想像できるでしょ?」

我々はとうとう、4千5百年前の、ジェデフレーの完全なピラミッドの姿を描くことが出来る。高さは120mの高さの丘の表面から66mだ。
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光り輝くエレクトラムで覆われた頂点、磨かれた石灰岩の側面、基礎部はよく磨かれたアスワンの花崗岩で造られた幅12mの帯。ジェデフレーのピラミッドはエジプト黄金時代の他の建造物に比類するものだった。そして地面の上にたつ考古学者にとっては、ファラオが歴史の中で改めて認識されるべきであると我々に伝える意味のあるものだった。
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ブリストル大学アイダン博士「結局ジェデフレーのピラミッドは多分、近代の書家たちが言っているような失敗作品ではなかったんだ。実際のところ、大成功だったはずだ。自然環境や材料やその他のものを見ても、多に例のない独特な記念碑だった。丘の頂の素晴らしい王の記念碑だった。頂からは彼の王国や祖先たちの墓を見下ろすことができた。偉大な墓だと言えるだろう。」
この墓の完成はジェデフレーの輝かしい統治を象徴するとともに、彼の永遠性が保証される瞬間でもあった。
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しかし、何か不都合が起きた。初期の歴史学者によれば、それは彼の兄弟が復讐だ。ジェデフレーのピラミッドや遺産や名前を破壊するために、彼を殴り倒した。

ギザのピラミッドの8Km北で考古学者たちは、今、彼らが最も高いピラミッドだっただろうと考えている場所を調査している。彼らはそれを建てた男はジェデフレーだと特定した。第四王朝のファラオで、家系はエジプトの最も偉大な建造物に関与している。今、考古学者たちはピラミッドが破壊された理由を解き明かそうとしている。
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過去の歴史家たちはジェデフレーが家系に対して許せない罪を犯し、その復讐のため、彼らはジェデフレーを殺したというシナリオを考えた。彼らは彼の墓を破壊した。この理論は現場で見つかった沢山の破壊された像と、像への冒涜はその所有者の魂を呪うためのものだという古代のエジプト人の考えに基づいている。
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20世紀初頭に行われた僅かな発見の上に立つ歴史家たちは、劇的な考えを思いついた。彼らはジェデフレーを、兄を殺し、その後、その妻と結婚し、王位を奪った残忍な落伍者として描いた。短い悲惨な統治の後、彼は弟のカフレイ王子によって暗殺される。そしてカフレイが国を繁栄させ、第二のピラミッドを建て、ギザのスフィンクスも彼が造ったのではないかと考えられている。
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ジェデフレーによって忘れられた彼の父の側に戻ることによって、彼は秩序を回復したのだ。

しかし、現代の専門家たちは、この結論に飛びつくことに注意深くなっている。
サリマ教授「学者たちがかつてジェデフレーについて考えていたことは、彼が家系をボロボロに破壊したということや、彼が新しい邪教cultを始めたということや、何人かの同じ家系の人々を殺害したということだったの。でも、これを支持する明らかな証拠は何もないのよ。」
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ブリストル大学アイダン博士「エジプトの歴史における、あまりにも多くの情報は、1百年前の発掘に基づいている。当時は、調査方法も正確ではなく、科学もまだ未熟で、学者たちも歴史の中の事実に基づいていない華々しい話を書きたがる時代だった。」
ジェデフレーが自分のピラミッドをギザに造らないとした決断は家系の中の確執を示す強い証拠だった。

しかし、ギザでは、一連の発見によって、学者たちはジェデフレーと彼の統治に関するこれまでの考えを急速に見直そうとしていた。
バシル・ドブレヴはカイロにあるフランスの研究所の主席だ。彼の先駆者的な調査は、これまでの出来事に対して別の物語を提供し始めている。彼が根拠とするのは最も有名な古代の顔に関する20年に渡る調査から来ている。スフィンクスだ。
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バシル・ドブレヴ「スフィンクスに関する私の関心は第四王朝に関する博士論文を作成することがきっかけだった。スフィンクスは最も大きな像で、この王朝時代に造られた。それで、私も一生懸命勉強したんだ。」

スフィンクスはカフレイのイメージを讃えているとして、長く、広く知られていた。彼は弟で、ギザに戻り、自分のピラミッドをここに建てることによって、家系の秩序を建て直したことで知られている。しかし、スフィンクスの顔と頭巾を見るだけで、ドブレヴ主任は何かが足りないと思い始めた。
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「多分、カフレイには沢山の像がある。これらの像では彼は髭を付けている。スフィンクスは最初から髭を付けていない。その上、カフレイの頭巾は織り込まれていないが、スフィンクスの頭巾では織り込まれている。何故カフレイが、彼の最大の像が、普段の彼と違うのか?」
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そしてギザの詳細な調査は、別の問題も指摘した。カフレイはファラオに就任すると直ぐに自分のピラミッドの建設に着手した。しかし彼のピラミッドと彼の寺院を繋ぐ道は、スフィンクスを迂回している。これはスフィンクスが既にそこにあったことを意味している。
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「カフレイがピラミッドと寺院と土手道を造った時、スフィンクスは既にそこにあったのだ。そこで、彼はよけねばならなかった。彼が造った土手道は南側に傾いている。従って彼の寺院に入る道も南側に造られた。これはとても例外的なことなのだ。」
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テッサ・ダンロップ「最近の考古学的な調査によれば、ギザのスフィンクスはカフレイのピラミッドより古いの。カフレイが造ったのでないとすれば、誰が造ったのか?」

スフィンクスが誰の顔に似ているのかという疑問はドブレヴを何年も悩ませた。彼はスフィンクスが最も似ているのはこの像の顔だと結論を出した。この小さな像は45世紀の間、完璧に保存されてきた。
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ジェデフレーの父の唯一の当時のイメージだと考えられている。大ピラミッドの建設者のファラオであるクフだ。
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「我々が知っているクフのイメージでは髭が無い。クフとスフィンクスは一緒だ。」

しかし、スフィンクスがクフの指示で造られたという証拠は何もない。全ての記録に残っている証拠によれば、クフは大ピラミッドを建てることに憑りつかれていたので、別の建設計画を進める余裕はなかった。大ピラミッドの建設費用だけでも王国を破産させるほどの額だったのだ。

テッサ・ダンロップ「ピラミッドの建設は当時の経済を支えるインフラに大きな問題を引き起こしていたはずよ。クフは目の玉が飛び出るような大きなピラミッドを建てたのよ。労働力や資源や石工を集めたのよ。お金が必要だったので自分の娘たちを娼婦として売り飛ばしたの。」

もし、歴史の中に残されていたこの説明が半分でも正しいとすれば、クフがスフィンクスの建設者であるとは思えない。しかし、スフィンクスは息子のカフレイがピラミッドを造る時には既に完成していたのだ。となると、これを彫り出すことができたファラオはたった一人しかいない。ジェデフレーだ!
「スフィンクスは一つの岩から削り出して、クフの形、クフの顔で造られている。息子のジェデフレーは父を助けて国を導き、建設工事も指揮していた。スフィンクスの顔は重要な宣伝手段だったんだ。」
皮肉なことに、この理論を支持していたのはシャセナーンのアブ・ラワシュにおける発見の一つだったのだ。
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テッサ・ダンロップ「沢山の像がアブ・ラワシュで見つかっているの。それらのいくつかがスフィンクスの顔と同じで同じ頭巾を被っているの。しかも顔がライオンの体に付いて現れたのはこの時なのよ。もし、ジェデフレーがスフィンクスの彫刻をアブ・ラワシュで手掛けていたとするなら、ギザの記念碑的な像も彼が手掛けなかったという理由はないわ。」

もしジェデフレーがスフィンクスを彼の父に似せて造るよう命令していたとすれば、嫌われ者の男がやる仕事だとは思えない。伝統的な物語はこれらの証拠と合致しない。調査チームはもっと確実なものを見つける必要があった。
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テッサ・ダンロップ「ジェデフレーが彼の父に似せたスフィンクスを造った理由については、推理小説と同じように考えれば、いくつか思いつくわ。一つは、彼が正当な後継者を殺した後、自分の血統の王朝を正当化しようと考えたのね。別の考えでは、彼の兄のケイワブが死んで彼がクフの正当な後継者だったというものよ。正統な後継者なら当然、偉大な父を記念してスフィンクスの顔をクフに似せて造るのは至極当然なことよ。」

この理論は、歴史は書き換えられるべきだと要求している。そして“家系を投げて飛び出したジェデフレー”という、これまでの我々のイメージは、変わらねばならない。しかし、それを理論以上のものにするためには、我々の専門家たちは証拠を必要としている。彼らは死者の町にある古代の墓の中でそれを見つけるかも知れない。彼らはギザの偉大な埋葬地に入り込んで行く。
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アブ・ラワシュの立ち入り禁止の軍事地域の中に、丘の上で、ポツンと一つ、遺跡が残っている。ここで考古学者たちのチームはギザのクフの大ピラミッドに対抗するように造られた素晴らしいピラミッドの残骸を調査している。
ザヒ・ハワス「クフと彼の家系はいつまでも記憶に残されるだろう。今日でも人々はクフや息子のカフレイや、孫のメンカウラーについて話したりしている。しかし、恐らく、このピラミッドが全てのピラミッドの中で最も興味深いものだということを誰も知っていないだろう。」
それはクフの息子ジェデフレーによって建てられた。調査チームは彼の人生の本当の物語を明らかにしようと試みている。彼らの調査は、この文明が産み出した、最も驚くべき建物のいくつかに彼らを導いている。
ジェデフレーは長い間、後の世代によってエジプトの歴史から排除されてしまった男として、悪役の役目を与えられている。何故なら彼は権力を得ようとして兄弟を殺害したというのだ。そして、彼の家系や、その墓地に背を向け、離れていったと言われている。
テッサ・ダンロップ「ギザに残っているのは王国の素晴らしい墓よ。クフの息子の一人のジェデフレーは、何故、別の場所にほとんど抹消されてしまったピラミッドを建てたのか?」
これまでのところでは、調査チームは、父を排除しようとしたのではなく、父の名誉のためにジェデフレーはスフィンクスを造っていることを発見している。
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クフのピラミッドの直ぐ脇の竪穴には、この考えを支持する更なる証拠が見つかっている。この竪穴には、かつて、古代エジプトの歴史の中で最も素晴らしい副葬品が保管されていた。
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神聖な船だ。それは巨大な富と権威の葬儀への贈り物だ。しかし、それ以上のものでもある。
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サリマ・イクラムはサッカラから32Kmの場所を訪れた。ここに、“ピラミッドの教科書”とも言われるものがある。埋葬地における船の意義を説明している、一連のかなり複雑なヒエログリフの解説書だ。
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サリマ「船は古代エジプト人にはとても重要だったの。何故なら、勿論だけれど、川を使ってエジプト中に物を運搬する主要な手段だからよ。そして別の理由でも船は重要だったの。古代の王は太陽の神の一人なのだから船が必要だったのよ、太陽の神として東から西にナイルを渡って旅をするのよ。」
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この船を死後の世界へ旅するクフに贈呈した人物の名前は今でも竪穴の壁の上に見ることが出来る。古代エジプトの印の“カトゥシュ”で書かれている。ザヒ・ハワス博士がこれからそれを説明してくれる。
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ザヒ・ハワス「私には一つのカトゥシュが見えている。そこには、ジェット、エフ、それにラーと書かれている。」
カトゥシュは、この竪穴を掘ったのはジェデフレーだと顕示しているのだ。従順な息子が父の名誉のために!

この事実はこれまで歴史が、彼の家系について述べてきた全てのことと矛盾する。
ザヒ・ハワス「私は歴史の臭いを嗅いでいる気分になれる。クフの家族の歴史の臭いだ。」

船のための竪穴に残るこの印の存在はジェデフレーがギザや彼の父を疎(おろそ)かにしなかったという最後の証拠だ。
ザヒ・ハワス「クフが死んだ時、ジェデフレーは“私が彼の息子だ。私がクフの次の王だ”とみんなに伝えたがっていた。そして、彼が父の遺体をピラミッドの中に埋葬したのだ。そして、神聖な船すらも、彼が竪穴に保管させ、我々に“全て問題ない”と伝えるためにカトゥシュを書いた。」
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一つの問題が残っている。ジェデフレーは兄のケイワブを殺害して自分の権力を獲得したのではないのか?そして死んだ兄の妻だった妹と結婚した。これらはいずれも、ジェデフレーの殺害動機であり有罪の証拠だとして語り継がれている。

しかし、これについても、壁に描かれていたことが全く異なる物語を語っている。これはギザの集団墓地、死者たちの町だ。
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ここでエジプト学者たちは、歴史が彼の敵だと伝えているある女性の指示で、名誉のために書かれたジェデフレーの名前を見つけている!
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「ここに彼のカトゥシュがあるわ。ケイワブの娘が彼に感謝しているのよ。」
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「ケイワブはクフの息子で王位を継ぐつもりでいたの。でも、出来なかった。大勢の人がジェデフレーは兄を暗殺してファラオになったって言っているけど、もしそうなら、何故、ケイワブの娘が彼女の叔父を祝福しているのよ?意味をなさないわ」

ジェデフレーがケイワブを殺害したと言える確実な証拠はない。彼の近親結婚は、どんなに初期の歴史学者たちを驚かすとしても、当時の標準的な王室の慣習以上のものではなかったのだ。
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従って、失われたピラミッドの破壊に関する最も流布している説明は機能しない。我々はジェデフレーの家系を崩壊させる、どんな動機も知っていない。

サリマ・イクラム「ジェデフレーは間違いなく、良くできた息子だったのよ。そうでないとしたら、何故、父に神聖な船を贈呈して自分の名を大きな石板の上に書き残したというのよ。」
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初期のエジプト学者たちが言っているような、ジェデフレーが統治していた時代には混乱が多かったということを示すものは何もない。しかし、彼が権力の座にいた時代は簡単なものではなかった。もし彼が自分の場所を永遠なものとしたければ、王位を継承した瞬間にどんなファラオもしたように、直ちに取り掛からねばならなかった。
「ファラオは、王になったら直ぐ、あの世のために自分の建物を造らなければいけなかったのよ。ジェデフレーの新しい時代も、いつだって彼に味方してくれるわけじゃあなかったんだから。」

専門家たちは、ピラミッドの建設にどのくらいの時間がかかったのか、議論を続けていた。しかし、我々は彼が権力につくと直ぐに、アブ・ラワシュで建設が始まったことを知っている。
ザヒ・ハワス「グラフィティはピラミッドの中で、ジェデフレーの統治の第1年に発見された。このことからジェデフレーは彼のピラミッドの建設を王位についた直後に開始したことが分かる。彼の最初の年に、彼はピラミッドの建設を始めたのだ。」
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このことはいつも、失われたピラミッドが消えてしまったことに関する別の謎を与えている。ピラミッドは失われたのではなく、実は完成しなかったのではないのか?

エジプトの標準に従えば老人の部類に属するジェデフレーは、王位についてから短い期間だけ統治していたとずっと考えられてきた。
サリマ・イクラム「古代エジプトでは多くの人は、我々なら若すぎると思う年齢で死んだの。30とか35歳が平均寿命だったの。勿論、もし身分が高ければ、十分な食事もとれたのだから、40歳とか45歳だったのね。」

歴史学者たちは伝統的に、“タウレン(牡牛座生まれの?)王の一覧表”と呼ばれている古代のヒエログリフの記録を信用している。
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これによればジェデフレーの在位期間はたった8年だ。しかし、これは彼の死から3世紀後に編集されたものだ。それに、この信憑性を疑う正当な理由もある。一つは、神聖な船の竪穴に描かれたカトゥシュが完全にそれに反している。描かれたのはジェデフレー統治の11年目なのだ。

アブ・ラワシュ現地責任者マイケル・ヴァッロッギア教授「我々は今は、ピラミッドが完成していたという証拠を持っている。そして、この王の統治は8年ではなく、約23年だ。」
1年置きに国勢調査が行われていたことが広く受け入れられている以上、竪穴の壁に残されていた記述やカトゥシュは、少なくとも20年の統治期間があったことを示している。彼は仕事を終える時間を持っていたのだ。
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ピーター博士「私はエジプト人は我々が考えているよりも速く、例えば15年とかで造れたのではないかと疑っている。ジェデフレーがピラミッドを実質的に、完全な姿に、完成させられなかったと考えねばならない理由はない。」
検討チームがギザで手にしているスフィンクスや神聖な船の竪穴などの考古学的証拠は、これまで我々がジェデフレーについて信じていたことを完全に覆(くつがえ)している。彼にはピラミッドを完成させる十分な時間があったのだ。しかし、我々の調査チームは、全ての中で最大の謎を解こうとして今もなお格闘していた。ギザのピラミッドは4千5百年も残っているのに、アブ・ラワシュの第四のピラミッドは何故、消えてしまったのか?
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アブ・ラワシュの廃墟は、ピラミッドの残骸であることが特定されている。その場所は下エジプトに位置し、ギザやクフの大ピラミッドから8Kmにある。失われたピラミッドはクフの息子ジェデフレーによって建てられたと信じられていた。しかし、彼が家族に犯した罪への復讐のため、破壊されてしまった。初期の考古学者たちはアブ・ラワシュで発見した全てのことが、この考えを支持していると理解していた。

ピーター博士「王宮内での殺人や陰謀、家系内の確執や、ジェデフレーやクフの怒りから、アブ・ラワシュのピラミッドが排除されたのだという話を思いつく。そこは栄光の地ではないし、ジェデフレーは父に対して怒っていたということもあるし、カフレイが直ぐに全てを建て直したという話もある。」
しかし、新しい発掘によれば、この場所やジェデフレーに関して、これまで信じられていた全てのことが間違っていることを示している。

地中に散乱していた破壊された像はジェデフレーの立場が見放されていた証拠だとずっと思われていた。
物語によればクフの別の息子のカフレイが彼の兄を暗殺し、ピラミッドを破壊し、兄の像を辱め、魂まで亡き者にして、アブ・ラワシュを葬(ほうむ)ったという。
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「像は誰かの記憶を貶(けな)す目的で破壊されたという考えがある。顔の特徴を削り取ったり、目を傷つけたり、鼻を欠いたり、耳を取ってしまうとかいうことだ。それが何だか分からなくしてしまおうとしているようにね。」

しかし、全ての破壊が冒涜(ぼうとく)を徹底的に行おうとしていたためだと考えるのは余りかけ離れすぎている。破壊されていた像は4千5百年前のものだ。
「壊れていた理由は、ジェデフレー個人に対する反感からではないかも知れない。意図的に冒涜されたという跡も確認されていないんだから。像のいくつかは偶然、壊れていただろう。」

伝統的な考古学者たちは、これらの像に関して、自分たちがこうあってほしいと期待していることを語ることが多い。
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それに従っていたら、我々はジェデフレーをもっと身近に理解することは出来ない。

今、新しい発掘が、アブ・ラワシュを最初に発掘した人々が完全に見過ごしていた、他の証拠を見せてくれようとしている。それはピラミッドの直ぐ隣に建てられていた建物のネットワークに関するものだ。
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ザヒ・ハワス「我々はこれまでで初めての証拠を手にしている。最近の発掘から、祭司たちがここで、王の信仰を寺院の中で維持し続けていたんだ。でジェデフレーの王朝の次の第五王朝が終わるまでね。これはピラミッド複合体pyramid complexが完成していたという重要な証拠だ。」

重要な構造物は墓地複合体だった。それがなければ、どんなピラミッドも完成させることはできなかっただろう。それはピラミッドの東側に建っていた。
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そしてファラオが死んだ後も、彼がこの世に残したものは彼の魂を育み続けていたのだ。
「機能的な墓地複合体は絶対に欠かせないものだ。それがあって初めて魂や精神が生き続け、祭司たちによって世話をし続けられたんだ。この世と死者の世をつなぐものだったんだ。」
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死ぬと、ファラオは神になる。埋葬地の寺院は、祭司たちが彼の信仰を崇拝してくれる場所だ。そしてアブ・ラワシュ寺院の周辺の土を調べると、ジェデフレーの信仰は力強く、かつ優しいことが分かった。
サリマ・イクラム「何十万ものこれと同じものが、この場所の近くで見つかっているの。」
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「何か小さなものを捧げるための容器よ。香とか小さな果物とか、パンの欠片とか。彼らはこれを寺院に持って行って、床においたのよ。彼は間違いなく、ここに埋葬されたのよ。何故って、ジェデフレーの信仰は長い間続いていたんだから。彼はこの地区一帯の擁護者として守られていたのよ。」

ジェデフレーの信仰は彼の埋葬の日に生まれた。簡単な木の箱がミイラ処理された彼の遺体を細い立て坑の下の石棺が置かれている場所まで運ぶために使われた。
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ザヒ・ハワス「この場所が他と異なっている理由は、私を4千5百年前まで連れて行ってくれる点だ。王の死が宣言された。誰もが泣いている。国民は悲しかった。王の息子、高位の祭司が棺を運ぶ葬儀行列を導いて細い通路を移動していく。ここまで来た所で、棺を石棺に納める。その瞬間、王の息子が命令する。“入口を塞げ!”」
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アブ・ラワシュにあるピラミッドの下の通路は完全に掘り起こされている。しかし、ジェデフレーの最後の旅がどのようなものだったのかは、ここから南のダショーアの屈折ピラミッドbent pyramidとも呼ばれる場所に行ってみれば思い浮かべることは出来る。
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サリマ・イクラム「ジェデフレーの葬儀は劇的なものだったと思うわ。何故なら、彼はこのように狭くて急峻な斜面の通路だっただろうから。運ばれてきた棺は石棺の中に収められ、祭司がお経をあげたりお祈りしたり香を焚いたり、人々は油を体に塗ってあげたりしたの。それが済むと石棺は、細い急峻な通路を通って下まで下げられていったの。」
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「きっととても派手だったはずよ。この狭い暗い、急な斜面の通路の中を祭司たちが墓室まで下っていったのよ。」
あの世への道は、墓室の完全な闇の中から始まる。
サリマ・イクラム「ジェデフレーが地面深くに沈んでいることはとても重要だったのよ。何故なら、完璧の暗黒がなければ、光の中に戻ってこれないんだから。エジプト人はいくつかの信仰形態や再生思想を持っていたの。一つは、地面の底に行くことで、別の考えでは北極星で神と共に暮らすとか、勿論、太陽の神と暮らすという考えもあるの。ジェデフレーにとって最も重要なことの一つは太陽の神と暮らすことだったはずよ。」
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ジェデフレーの祭司たちは、地上を離れたジェデフレーの魂は光となって立ち上がり、太陽の中心になると信じていた。
サリマ・イクラム「ジェデフレーは太陽の神レイを名前の中に取り入れた最初の王だったの。更に自分が太陽の神の息子だと関係付けた最初の王なのよ。」
ジェデフレーが死後も長く続く太陽との結合を創ったのだ。彼の家系の統治が終わった後も、雄大で力強いファラオと太陽は、それぞれが光、命、繁栄、の源になった。
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「彼が太陽の神の息子という呼び名を導入したんだ。それが、後のファラオの歴史におけるエジプトの王の一般的な呼び名になった。」

考古学における、この12年間の調査は、ジェデフレーのピラミッドの物語を書き直し、彼の本当の遺産を明らかにすることになった。しかし、もしジェデフレーのピラミッド複合体が完成していたというのなら、そして彼の信仰が死後も人々の間に何世紀も流行していたというのなら、重要な謎はまだ解かれていないままだ。考古学者たちは、かつて輝いていた構造物が今日、我々が見ているような瓦礫のようになるまで破壊されている理由を見つけ出す必要がある。
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ジェデフレーは彼のピラミッドを完成させていた。彼には力強い神だとの栄誉が与えられていた。彼以降の全てのファラオは太陽の神の息子だと呼ばれるようになっている。彼は古代の世界で最も称賛される像スフィンクスの建築者だっただけではなく、アブ・ラワシュの墓で、ピラミッドがどんなものであるべきかという完全な例を明確に示した。
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サリマ・イクラム「基礎は花崗岩で赤だったの。その上は白く輝く石灰岩、そして頂(いただき)は恐らく黄金やエレクトラムで覆われた花崗岩だったのよ。つまり3つの色があったのね。どの色も強い象徴的な力を持つものばかりよ。」

丘の上に建てることにより、ジェデフレーの技術者たちは彼らの主人のために重大な勝利を物にした。ギザの大ピラミッドよりも僅かに高いピラミッドにしたのだ。
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テッサ・ダンロップ「それは驚異的な建築成果よ。凡そ50年の間でクフとジェデフレーの2つのピラミッドを造ったんだから。それまでにはなかったことよ。その上、この2つのピラミッドは海面からの高さは同等なのよ。」

2つのピラミッドの頂点を結ぶ線の延長は北エジプトでの所謂(いわゆる)ピラミッド平原の位置を示している。1世紀以内に、この地と、南のダシューアの間で、百以上の類似の構造物が造られている。
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今は、ジェデフレーのピラミッドが完成し、意味を持って立っていたのは明らになっている。そこはファラオが死んでからも長い間、重要な祈りの場所だった。

ピーター博士「彼のピラミッドは多分、我々が想像するより、もっと素晴らしかった。だから彼が霞んだ悪人で、ピラミッドが破壊され忘れ去られようとしていた言う概念は正しくない。」

考古学者たちはこの場所で起きた真実と、ここの建物を建設した男を明らかにするため、神話を一つずつ剥がし取っていた。しかし、まだ、彼らは最後に何が起きたのかを見つけ出す必要がある。
かつて壮大なピラミッドはどのようにして瓦礫と同じようになってしまったのか?
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その答えはギザの倉庫に保管されている些細な品物と共に眠っているかも知れない。
「とても見事な、固い木で造られた一品がある。木づちmalletだ。これはファラオの時代からずっと使われている道具だ。」
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「しかし、皮肉にも、ヴェロディア博士が話してくれたように、これはジェデフレーのピラミッドの建設のために使われるものではなくて、分解するための道具だ。ローマによるエジプト統治の時代に遡る。ピラミッドを分解し、その石のブロックを別の場所で再利用しようとしてやって来た石工たちが使ったのだ。」
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それは、何世代もの間、人々を悩ませてきた質問に対する、驚くべき、直接的な答えだ。ピラミッドが完成して25世紀経過した頃、ローマ人が偉大な将軍ジュリアス・シーザーの指揮の下、エジプトを侵略した。
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エジプト最後のファラオ女王クレオパトラはシーザーの愛人になった。彼は、短期間、苦労しながらエジプトを独立国として保った。しかし、シーザーが死ぬと、オクタビアヌスがエジプトを征服し、彼の帝国のささいな州になってしまった。ローマ人はエジプトの資財を略奪し、彼らの権威を押し付けた。ローマにとってアブ・ラワシュは単なる加工済みの石の塊でしかなかった。しかし、余りにも巨大な構造物だったので、何十年もかけたものの、全てを持ち出すまでにはいかなかった。
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ローマ人が去った後は、19世紀の中ごろまで、近在の商人たちが彼らの仕事を引き継いだ。石を盗み出して近くのカイロの市場で売りさばいたのだ。
「1900年の始め頃、かなり大規模の盗難が行われていたという証拠を持っている。毎日3百頭の駱駝がここに来ていたんだ。」
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ザヒ・ハワス「ここでの破壊作業はジェデフレーの統治時代に起きたのではない。ずっと後に起きたのだ。毎日、ここから沢山の石が持ち出された。近代になってから墓や住居を造るために。このピラミッドから剥がし取っていったんだ。」

1800年代の終わりまでには、多くの石が、急成長する近代都市の一部になっていた。

たった数年後の1900年初頭、フランス人考古学者エミル・シャセナーンが最初の発掘を開始した。そして彼は誤解と、こうあってほしいという願望から物語を創り出した。彼は石が数千年前に悪魔の王に対する復讐心に燃えた家族によって盗まれたと結論づけた。そして神話が生まれたのだ。

今になり、今日の考古学者たちの仕事のおかげで、エジプト黄金期の偉大な王国に関する真実の物語に光が当たるようになった。
バシル・ドブレヴ「それが我々の研究の重要な点の一つだ。ジェデフレーを真実の歴史の中に戻すのだ。我々は、前世紀の30年代のジェデフレーを排除し、21世紀が始まった今、彼を正しい道に戻したんだ。彼が本当に重要な王だったということを示すためにね。」

ジェデフレーは偉大なピラミッド建築者の一人としての役割を演じた。これらの建物は古代のファラオの土地に入って来る誰の心をも感動させ続けている。しかし、全てのピラミッドが一つの家系の野心から生まれたということを忘れがちだ。
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ザヒ・ハワス「私の意見では第四王朝は歴史の中で最も重要な王朝だ。この埋葬地で使われている石の数を見れば、その数はその他の全ての王朝で使われた数と同じなんだ。」

この王朝の全ての人物の中でジェデフレーの名前は悪性だと考えられたり、無視されたりしていた。全能な、無慈悲なクフの息子として生まれた彼は、兄の死で王位に登りつめ、20年以上、王国を統治していた。実際の所、もし証拠がなかったら、彼の名は裏切り者、殺人者として黒く塗られたままだっただろう。
しかし、アブ・ラワシュの発掘で明らかになった事実によれば、彼は全くそれとは違う男だった。事実は、死後も、そして生きていた時も、尊敬されている人物の絵を示している。責任感があり、決断力があった。彼はファラオとして出来る限りの野心を持った建設の責任者だった。
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その結果、完全な姿でピラミッドが立っていた何世紀もの間、完成し崇拝される巡礼地を完成させた。失われたピラミッドは見つかったのだ。
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The Lost Pyramid of Djedefre
https://www.youtube.com/watch?v=qdkcnNCzbbM

私が知る範囲では、アブ・ラワシュのジェデフレーのピラミッドは全てのピラミッドの中で一番南、つまりナイルの一番下流に造られたものです。
更には、かれの父クフのピラミッドでは、地下室があり、本来ならそこが墓室なのですが未完成です。墓室はピラミッドの中心当たり、つまり石で組み立てられた四角錐の重心辺りに造られていて、そこには石棺も残されていて、mhも中に入り、見させていただきました。
しかし、クフ以前のピラミッドでは、マスタバに倣(なら)い、地下、つまり四角錐の底面より下の大地に墓室が造られ、アブ・ラワシュでも古典的なピラミッドの基本を踏襲したんですね。その方が建設の負担が少なく済むと思います。ジェデフレーは、クフ王よりも国民に優しい人物だったのではないかと想像します。

(完)

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mh徒然草122:オバマとトランプはどちらが?


今日は11月23日。アメリカ次期大統領トランプ氏は、TPPからの脱退を改めて宣言しました。ネットニュースを見ると「オバマ大統領はTPPを断念した 」とあります。

さらにトランプ氏は、地球温暖化対策として国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP)で決められた「パリ協定」を無視するとも言っているようです。アメリカは石油の使い方について他国から指図は受けないってことです。

トランプ氏の暴言は今に始まったことではありませんから、アメリカを除く先進国は、後進国を支援しながら温暖化対策や自由貿易や世界平和を進めていかねばなりません。

しかし、ふと思ったのですが・・・オバマ大統領は、この8年間、世界を良くする何をしたというのかしら?

核兵器の廃絶を目指すという志はどこへ消えてしまったのか?核保有国と一緒になって国連の核廃絶法案に反対し、日本もそれに同調している現実はどう考えればいいのか?広島訪問は一つの成果かも知れませんが、そのことで、核兵器に対する日本やアメリカの考え方や政治・軍事方針が変わった様子はありません。むしろ、オバマ大統領が誕生した8年前よりも、核兵器に依存しようという輩が、北朝鮮のみならず、日本にすら増えていると言っても過言ではありません。

核兵器を減らすのは簡単でした。アメリカが所有する核を半減すればよかったのです。そうすれば、他の国も経費が掛かる核の開発や保有を控える方向に動いていたはずです。
核兵器の保有量は、ロシアやアメリカは20%ほど減少させているようですが、未だに、世界を壊滅するに足る量を残しています。
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一方、オバマ・ケアとよばれる健康保険制度は保険料Upを誘発するなど、多くの矛盾を抱え、問題を起こしています。イラクやシリアでの内紛もオバマ大統領によって好転したという気配は感じられません。

いつもアバウトなmhに言わせれば、オバマ氏はアメリカ大統領ならできたはずのことを何もしていないではないか、とすら思えます。

で~トランプ氏は、まだ大統領にならない11月から、既にいろいろ騒ぎ立てているんですね。オバマ大統領と違って、トランプ大統領はいろいろやってくれるのではないか?その多くはネガティブな結果を引き起こすのではないか、という不安というか疑心暗鬼が世界に拡散しています。

大したことはしなかったオバマ氏と、大きな問題を起こすかも知れないトランプ氏のいずれが世界にとって好ましい大統領と言えるでしょう?

一国のリーダー、特にアメリカのような超大国のリーダーは、何をするか、何をしないか、で世界を良くも悪くもすることが出来ます。しかし、何をすれば、どんな結果が起きるかは、世界が多様化し複雑化した現在、予想することは難しくなっています。よって、何もせずに、悪いことが起きたらそれを良い方向に変える努力をする、という受け身の姿勢のオバマ方式にも理があると思います。

トランプ氏が大統領になれば、内向きの政策を打ち出すようですから、アメリカは自国に閉じこもることになります。とすれば、残る国々は、アメリカが世界から消えたと考えて国際協調し平和と繁栄を追求すればよいのであって、恐れるに足りません。

つまるところ、アメリカがどうなろうが、日本は独立国として他国に翻弄されることなく、自らの将来を自ら築き上げていくことに邁進(まいしん)すれば良いのです。他国に振り回されることがあってはならないと思います。

とはいえ、資産の3分の1を外貨で保有しているmhには、為替がどうなるのか、という能天気な心配が残っていますから、トランプ氏には、常識的な範囲でドルの価値を維持し、mhの僅かな資産に大きな損失を与えぬよう、よろしくお願いしたいと思います。

で~ドルの価値ですが~トランプ大統領になるとアメリカの動向が読めなくなり、ドルの信用がなくなるだろうと考えていたとすれば、その読みは間違いです。素人(しろうと)の予測と逆に動くのが為替であり株価であるとお伝えしておきましょう。ドルは110円まで戻してきました。

Leaving On A Jet Plane - John Denver
https://www.youtube.com/watch?v=19ToC8pQrCY

(完)

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ジェデフレーの失われたピラミッドの不思議-1

カイロの西のギザの丘には3つのピラミッドが並んでいます。私も2015年10月に訪れさせていただきました。
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駱駝に乗る私の後ろに隠れて、ほとんど見えていないのが世界の七不思議の一つのクフのピラミッドで、半分ほど見えているのが息子カフレイのピラミッド、その右が孫のメンカウラーのピラミッドです。つまりクフ家というかクフ王朝(エジプト第四王朝)の3代のピラミッドが3つ並んでいるのです。

で、カフレイとメンカウラーのピラミッドの間には、写真では見えていませんがスフィンクスがあります。建てたのはカフレイだと言われていましたが、最近では、クフの息子のジェデフレーだとの説で確定しています。

クフの息子のカフレイは、同じくクフの息子のジェデフレーの次のファラオでなんですね。クフを継いだファラオはジェデフレーなんです。スフィンクスを建てたのもジェデフレーです。しかし、彼のピラミッドはギザではなく、ギザから北7.5Kmのアブ・ラワシュAbu Rawashにあるんですねぇ!
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この辺りについてはブログ「スフィンクスの不思議」でご紹介させて頂きましたので、もし時間がおありでしたら次のURLをご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-183.html

今回のブログでは、ジェデフレーに焦点を当てたフィルム「The Lost Pyramid of Djedefreジェデフレーの失われたピラミッド」を使い、彼のピラミッドを巡る不思議をご紹介しましょう。1時間30分と長いフィルムなので、2回に分けさせて頂きます。悪しからず。
・・・・・・・・・・・・
ギザの3大ピラミッド。いずれも今から4千5百年程前に建てられた比類のないピラミッドだ。
そこから8Km離れたこの場所で考古学者たちが調査を始めた。
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彼らはここが失われた第4の伝説のピラミッドの場所だと信じている。しかも、かつて他のどのピラミッドよりも高く、より壮大だったというのだ!
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ザヒ・ハワス博士「これは恐らく全てのピラミッドの中でも最も興味深いピラミッドだ。」
物語によれば切り殺され、ファラオの家系から抹殺された卑劣なファラオが建てたという。彼が犯した罪は口に出すのもはばかられるもので、彼の兄弟が彼の魂も含めて壊してしまったという。
歴史学者テッサ・ダンロップ「暗殺、近親相姦、誇大妄想狂、家系内の反目・・・」
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今、専門家チームが、真実を解き明かし、古代エジプトが建設した中でも恐らく最も突出した建物を再構築しようとしている。21世紀の科学を使い、彼らは失われたピラミッドを復活するために4千5百年前に遡ろうというのだ。
The Lost Pyramid
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エジプト。古代世界の最も偉大な不思議が生まれた土地。ギザの丘に立っているのは同じ家系の父、息子、孫の3人のファラオのクフ、カフレイ、メンカウレによって建てられた3つのピラミッドだ。
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彼らはエジプトの第4王朝で、他の王朝よりも偉大な王朝だ。

ザヒ・ハワス「歴史の中で最も強力な家系の時代が150年続いた。古代エジプトの栄光の時だ。私の考えでは、黄金時代だ。」
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紀元前25世紀、エジプトは地球上で最も進んだ文明で、ピラミッドはファラオの権力の究極的な象徴だった。それは墓で、記念碑で、不滅の命を得るためのものだ。ピラミッドの建設は、正確さと完成された技術を顕示していて、今日の我々でも、どのようにして建てたのか理解するのに苦労している。
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テッサ・ダンロップ「クフのピラミッドだけでも1個2トンもある2百30万個もの石のブロックが使われているの。それこそが、この4千5百年もの間、ピラミッドを人間が成し得た偉大な成果の一つにしているのよ。」
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毎年、これらの3つのピラミッドは9百万人以上の訪問者をエジプトに惹きつけている。
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しかし、8Km離れたアブ・ラワシュAbu Rawashと呼ばれる、第4のピラミッドの跡ではないかと思われる場所で、今、発掘が進んでいる。
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ザヒ・ハワス「ここを訪れる人はほとんどいない。誰も知らない場所だとしてきた。人々はいつでもクフのピラミッドだけを見る。」
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考古学者たちは、今では、この地に建っている構造物は、偉大なピラミッドと同じ時代に造られたと考えている。それは恐らく、全てのピラミッドよりも高くて壮大で、エジプト黄金時代で最高の輝きを持っていた。
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メンフィス大学ピーター博士「我々がピラミッドについて考える時は、いつでも第4王朝を思い浮かべる。なぜなら、最高のピラミッドで最も大きくて最も頑丈で、時間という試練の後、今も以前の姿を残しているのは第4王朝のピラミッドだからだ。」

アブ・ラワシュに残っているのは残骸だけだ。
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その直ぐ脇にはエジプト軍の機密保持地帯がある。許可を与えられた極めて限られた人の一人が考古学者マイケル・ヴァッロッギアだ。彼は1995年、この遺跡の存在について研究を始め、以来、その秘密を解き明かすために人生を捧げている。

マイケル・ヴァッロッギア教授「我々は古代の歴史からきている多くの情報を持っている訳ではない。多分新しい理論、新しい考えが必要だと思う。第一段階としては、当然のことだが、一帯の発掘作業が必要だ。」
秘密と安全保障というベールに覆われ、この微妙な発掘作業は10年以上をかけて少しずつ進んでいる。
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そして今、エジプト考古最高評議会事務総長Egypt Supreme Council of Antiquitiesザヒ・ハワス博士が専門家チームに調査のための立ち入り許可を与えた。彼らは発見したもの全てを歴史上で共有する。
ザヒ・ハワス「アブ・ラワシュは誰もの目から遠ざかっていた。何故なら、周辺に軍事地域にあったからだ。私以外には、誰も訪問することは出来なかった。」
残されている証拠を調査するチームは世界中から集まったエジプト学者や考古学者たちで構成されている。
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ブリストル大学アイダン博士「感激していることは、我々は特別の地質学者も含め、ほとんどの人々には知られていない記念碑を持っていることだ。まさに謎だ。訪れたことがある人も精々10人程度しかない。」
カイロ大学サリマ・イクラム教授「ほとんどの人には入ることが許可されていなかったの。これから私たちが中に入って調べられるっていうのは素晴らしいことだわ。特権でもあり名誉なことよ。」
ピーター博士「私はアブ・ラワシュを是非自分の目で見たいと思う。そのことがどんなにすごいことかは十分知っている。どんな状態なのか、どのくらい発掘が終わっているのか。」
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この調査チームはここに造られたものが何かを決定したいと望んでいる。それはピラミッドなのか?それとも別の、例えば寺院のようなものなのか?建設が始まって直ぐに放棄されたのか、それとも建物は完成したけれど破壊されただけなのか?

何故、誰がこのような不愛想なinhospitable場所に建てることを選んだのか、彼らは知りたいと望んでいた。
カイロのフランス国立研究所バシル・ドブレヴ博士「ボロジター(?)教授は賞賛すべき仕事をした。ここはエジプトで発掘をするのに最も困難な場所のひとつだ。風が強くて、寒くて、厳しい環境だ。」
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これらの問題はあるものの、アブ・ラワシュの位置には一つの大きい取柄(とりえ)があった。
ロンドン大学フェクリ博士「既に空に向かって立っている丘hillにあるんだよ。高台plateauの代わりに、丘の上に建てれば高いピラミッドになるんだよ。」
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もしここが伝説の失われたピラミッドの場所ならば、伝統によれば、ほとんど知られていないファラオのジェデフレーによって造られたはずだ。彼の統治について描かれた僅かな説明書きによれば、権力を得るために殺人を犯し、そのおかげで殺害された、乱暴で専制的な指導者だ。彼が生きていたのはエジプトの歴史の中でも暗く激動の時代だった。
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テッサ・ダンロップ「初期の歴史学者たちは、この物語の中に全てのことを盛り込もうとしたの。彼は殺人で、近親相姦者で、記念碑的な誇大妄想狂で、強大な、先例のない墓を造ったと言ったの。でも、それはまさに陰謀という悪酔いさせるカクテルだったのよ。」
「私は、ジェデフレーの失われたピラミッドの調査が、それを目の当たりにして調べることによって、どれだけエジプトについて知らなかったものを明らかにしてくれるかという魅力的な例だと思う。」
ここに造られたであろうピラミッドの最初の手掛かりは、この場所がジェデフレーと明確な関係があるという事実だ。彫刻されたファラオの多くのイメージが発見されている。そしてピラミッドは彼の家系の名刺のようなものだった。

彼の祖父は偉大な伝統を始めた。発掘場所から32Km南のダシューアDahshurには2つの特徴のある構造物が建っている。
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それらは記念碑的な建設計画が始まった時点を示している。屈曲ピラミッドと赤いピラミッドがジェデフレーの祖父スネフルの命令で造られた。
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建設では、他のどのファラオよりも多くの切り出し石を使っている。紀元前2589年頃に完成した時、これらのピラミッドは地上で最も高い構造物だった。
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その後、スネフルの息子で後継者のクフが、これを凌ごうとした。彼はいつの時代でも最大のピラミッドを造ったのだ。

スネフルのピラミッド建設は孫のジェデフレーが生まれた時には、進行していた。ジェデフレーは彼の人生で重要な部分を占めることになった3人の兄弟と共に育てられた。彼の最年長の兄ケイワブ、弟のカフレイ、妹ヘダフェリーだ。
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テッサ・ダンロップ「我々は人々がどんなに早く成長すべきかを忘れているわ。もし父がファラオなら、子供は生まれると直ぐにファラオの仕事を手伝わねばならないのよ。子供の時、もしあなたが息子で、特に重要な女王の息子なら、生まれたその日から父が死んだら統治の仕事に就任するということを知っているの。従って、訓練は小さい時から始まっているのよ。」

父クフのことを、ジェデフレーは恐ろしい父だと思っていた。エジプトの民話によれば、クフは人には愛されない専制君主で、自分の遺産に憑りつかれていた。一つの典型的な物語では、彼が自分のピラミッドを造るための石を獲得する冷酷な方法を述べている。
ザヒ・ハワス「我々はクフについては多くを知っている。何故なら、当時の人々が言っていたいろいろなことが記録され残っているからだ。娘の一人は娼婦で、父のピラミッドを造るために全ての愛人に建築物の石を壊して提供するように頼んでいる。」
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彼の子孫たちには、父クフが、子供たちも政治家のように、統治者のように、同時に建設者のように振る舞わせようとしているように思えただろう。
自分の墓を造りながら、クフは最大のピラミッドを造った。そして彼を継ぐファラオたちは彼を真似た。
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ジェデフレーはクフの王朝で、そのピラミッドが見つかっていない、たった一人の男だ。
テッサ・ダンロップ「ジェデフレーは自分のためのピラミッドを造ったかも知れない。彼は第4王朝の中間期における爆弾のような男だったの。祖父のスネフルは偉大なそれまでに最大のピラミッド建設者で、父はいつの世でも巨大なピラミッドの建設者よ。ジェデフレーは恐らく、王座に着いた最初の日から、自分自身の復活のための寺院、実質的には彼自身のピラミッドを造り始めたはずなのよ。」
考古学者たちは、この場所、ここに建設した人々に関する物語を明らかにするため、4千5百年という時間を遡らなければならない。彼らはこの地に建っていた構造物を建設者の目を通して見たいと望んでいる。彼らは、それがどのような方法で造られ、それがどんな宝物を抱えているのか知りたいと望んでいる。
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土地を精細に法医学的に検査し、見つけ出した手掛かりとなる古代の記録を通してのみ、彼らは失われたピラミッドを再構築することを期待できるのだ。

これは古代エジプトの偉大な功績である寓話(ぐうわ)の第4のピラミッドの遺跡かも知れない。
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エジプト学者の何人かはアブ・ラワシュのピラミッドは偉大なピラミッドの建設者クフの息子のものだと考えている。この突出した家系の物語は、今、書き換えられようとしている。
ザヒ・ハワス「私は、今日まで、いつでも、クフの家系について誰も正確に理解してなかっただろうと考えている。」
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考古学者のチームはこの地で10年以上も発掘を続けている。もし彼らが見つけたものが正しいのなら、我々がエジプトの黄金時代について知っていることを変えてしまうかも知れない。
テッサ・ダンロップ「これは失われたピラミッドなのか?そしてもしそうなら、何故、今、切株ていどのものしか残されていないのか?」

もしこれが、かつてはピラミッドだったとしたら、それがどのように見えたのか、明確な姿を構築することが出来るはずだ。何故なら、当時の全てのピラミッドは一連の手順書に従って造られているように思われるからだ。

最初の手掛かりはサッカラSaqqaraで見つかる。ここがエジプトで最も古くから知られているピラミッドの場所だ。
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以降に建てられた全てのピラミッドはここのピラミッドに従っている。造られた当時は極めて斬新なものだった。
テッサ・ダンロップ「これは階段ピラミッドstep pyramidで、私の好きなピラミッドなの。最初の石のピラミッドで、オリジナルの原型と言ってもいいわ。これから動き出して、エジプトで1百ものピラミッドが立ち上がることになったの。驚くべきことは時間差ね。このピラミッドが造られた時とジェデフレーとの間にはたった50年しかないの。」

階段ピラミッド以前には、ファラオはマスタバと呼ばれる単純な長方形の部屋の中に置かれていた。マスタバでは、埋葬場の上の地表に寺院が造られていた。
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階段ピラミッドは、基礎の箱のような形状を積み上げたものだ。
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テッサ・ダンロップ「これを見ているとどうして古代エジプト人が階段ピラミッドに移行したのかがわかるような気がするの。このピラミッドの形が発達してファラオの標準の埋葬地になっていったのよ。このピラミッドを見ればわかるけど、最初はマスタバとして始まったの。でもここにあるのは革新的で、マスタバを6つも積み重ねて天国まで届かせるかのように階段状にしたのよ。」

アブ・ラワシュで我々の考古学者チームが、何が造られたのかを捜し求めている一方で、その最大の手掛かりを持っているのは階段ピラミッドの下のトンネルだ。今までのところでは、5.6Km以上のトンネルが見つかっている。
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いくつかはファラオの王妃や子供たちの墓室に繋がっている。その他のトンネルは墓泥棒によって切り崩されている。
ザヒ・ハワス「今でもなお多くの埋もれた墓があり、それらは発掘されていない。」
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これらのトンネルの存在は、ピラミッドが何を意味するかについて我々に重要な何かを語りかけている。実際、トンネルは墓というより王宮の通路のようになっているのだ。ここは、あの世でのファラオの家なのだ。

ザヒ・ハワス「彼はピラミッドを王宮として設計したのだ。しかし、最も重要なのは、墓室が王宮の寝室のようになっていることだ。」
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墓室はピラミッドの頂点の真下にある。部分的に壊れてはいるが、今でも墓室の天井は王の石棺が置かれている床から30m以上の高さがある。
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ザヒ・ハワス「我々は今、これまでに造られた中で最も興味深い墓室の中にいる。5千年前、第三王朝の最初の王ジョセフがこの石棺の中に埋葬されていた。これがピラミッドの下で、そして同時にピラミッドの中で、どのように造られているかは見れば好く判る。アブ・ラワシュやギザやサッカラの後の全ての王朝は、トンネルや通路や大きな墓室という方法を全て踏襲している。この大きな墓室を見れば、アブ・ラワシュでも同じで、この長い部屋が短く切り取られ、ピラミッドの下に造られている。つまりそれは同じ考えで造られているんだ。」

アブ・ラワシュは、この特徴に似た空間を持っている。
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その上を覆うものは何もないが、20mの深さの溝があることはよく似ている。
サリマ「この溝は墓室に下る通路よ。花崗岩graniteで囲まれた通路なの」
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建設の間、部屋は広いトンネルで繋がっていた。作業が終わると、このトンネルは狭く造り変えられる。完成したピラミッドの中では、墓室への通路は出来るだけ小さくして残されるのだ。
サリマ「現実の通路は、石棺を搬入できる範囲で狭くなっていて、今みえているものよりずっと狭いのよ。驚くべき撤去と追加の技術と言えるわ。」
(mh;建設中は通路の幅が広い方が便利です。建設がほぼ完了した時点では通路の上には大量の石が積み上げられているので、通路の幅が広いと、通路の天井の石が上に乗っている石の重みで破損する危険があるので、通路は石棺が通過できる範囲で、小さく作り変えられるのです。)

一連の目印が石の側壁に見えている。それらは部屋が閉じられてから、周辺の発掘が行われていたことを示している。
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サリマ「この下には盗掘の穴があるわ。多分、この上に繋がっていて、白い石の切り傷部には通路があったのよ。」
エジプトの埋葬地に宝が多いことは、伝説にもなっている。黄金は墓泥棒にとっていつも約束されていた。
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サリマ「彼らは墓室に入ることを望んでいたのよ。何故なら彼らはそこが宝物で満ちていると考えたから、それがほしかったのよ。それで、ここまで穴をほってきたのね。」
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手作業でこのようなトンネルを掘るのには何週間もかかる。その上、墓泥棒は地図や計画書などはもっていないので盲目的に作業をする。現場で感で場所を選び、掘り始める。考古学者たちは、ここでもそれが行われていた明確な証拠を見つけた。
サリマ「ここで墓泥棒は間違いをしたわ。どんどん下に行き続けたので1,2週間の仕事がむだになっているわ。だから、誰かがとても怒っていたはずだわ。だって、墓室を完全に見失っていたんだから。」
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しかし、墓泥棒が掘り間違えて作業者の通路用トンネルに出てしまったという事実は、ここにあったのが墓室だったという証拠でもある。もしそうだとすれば、警備態勢を持っていたということになる。ギザの大ピラミッドの中を見ると、アブ・ラワシュの宝ものがどのように守られていたのかを知ることができる。

第一の防衛手段は簡単で、入り口を塞(ふさ)いで見えなくすることだ。ピラミッドの4面は同じ外観だ。従って1つしかない小さな入口を探すには一つで2トン以上もある何百もの石を取り除いてみなければならない。
ザヒ・ハワス「19世紀まで、この主要な入口は知られていなかった。墓泥棒は見つけることはできなかった。ファラオの夢は墓室が極めて安全な場所で、誰も内部に入ってこないということを知ることだ。」
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しかし、墓泥棒が王の富を盗もうとする意思は簡単には止められなかっただろう。アブ・ラワシュにもあるように、魔法の防衛のための警告が描かれているにもかかわらず、進入を試みた傷が残る石がある。
墓の建設者(王)は、更に頑固な防衛策を頼りとしていた。墓室に続く通路を登って来るどんな侵入者も、通路がすごく硬い花崗岩の石板で塞がれていることに気付くのだ。
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ザヒ・ハワス「この花崗岩の石版はこの石に当たるまで上から落ちてくる。石板は、3枚もあるんだ。そして王の墓室を永遠に封印する。」

しかし、現実には、この防衛手段も役立たなかった。ザヒ・ハワス「実際には、全てのピラミッドが封印されたままじゃあなかったんだよ。」

そしてギザの大ピラミッドのように、アブ・ラワシュにも間違いなく防衛のために置かれた大きな花崗岩の石板がある。これらも、辺り一面を掘る覚悟を決めた墓泥棒たちに対しては気休め以上のものではないようだ。
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サリマ「彼らは、もっと柔らかい石灰岩limestoneで造ったようね。だから通路に沿って掘り進んだけど花崗岩で邪魔されることはなく、そしてここで、今度は下に向けて掘りだしたら花崗岩に当たったのよ。で、その花崗岩を避けてその下に堀り進んでいったのよ。」
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手掛かりの全ては、ここがジェデフレーの墓室で、かなり昔、既に入り込まれていることを示している。何があったのか分からないが、結局、何も残ってはいない。
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サリマ「これはジェデフレォィが沢山の副葬品と共に、ここに埋葬されていたというかなり確実な証拠よ。そうでなければ、墓泥棒たちが荒す理由なんかないもの」

沢山の証拠はこの遺跡がピラミッドであったという理論を支持している。
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ここが忘れられていたファラオのジェデフレーの墓室だろうという十分な理由もある。しかし、まだ判っていないことは多い。そんなにも巨大なピラミッドをこうまで崩壊させるという全ての努力と労力を想像することは難しい。もしそれが復讐のためになされたのなら、彼は徹底的に嫌われていなければならない。彼は、口には出せないような罪を犯していなければならない。何が起きたのかを探し出すことだけが、失われたピラミッドの謎を解くことができる。

アブ・ラワシュ。カイロや偉大なピラミッドのギザから8Kmの隔絶した丘の上。
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そこは謎の場所だ。考古学者たちはここが本当に自分の家系によって歴史から消し去られたと考えられている背信のファラオによって造られたエジプトで最も高い場所かどうかを明らかにしようとしている。
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この遺跡について我々が知っていることの多くは、アブ・ラワシュで行われた最初の発掘から来ている。20世紀初頭にフランス人のエジプト学者エミル・シャセナーンによって作業は行われた。シャセナーンは、エジプト第4王朝の王で、偉大なピラミッドの建設者のクフの息子であるファラオのジェデフレーに最初に着目した近代の学者だ。

ザヒ・ハワス「ここは、我々にとって、4千5百年前に何が起きたのかを想像するのにとても重要だ。この王は謎だ。我々は彼に付いては何も知っていない。シャセナーンの発掘で、ジェデフレーという名前が初めて分かったんだ。」

古代の記録にはジェデフレーのことは、8年間、統治していたということを除けば、ほとんど残されていない。しかし、発掘を続けていくと、シャセナーンはそのファラオの破壊された像をいくつも発見した。彼は、徐々にエジプト黄金時代の秘密に関する手掛かりを得ているのではないかと思うようになった。
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ザヒ・ハワス「彼が見つけたのは、破壊された像だ。完全に壊されている。彼の3人の息子の像もだ。ジェデフレーの像は完全に破壊されているのだ。」
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古代エジプトの伝統によれば、王室の像は生き物だ。
メンフィス大学ピーター博士「死者の魂は、その像の中に棲んでいる。だから像を破壊するというのは、文字通り、彼のあの世での存在を破壊するということだ。地上だけではなく、あの世においても、永遠に人類とか人間でなくなるようにすることが出来るのだ。」
ということは、像を破損することは、像が示している人物を辱めるということだ。魂への攻撃なのだ。

ピーター博士「像は単なる装飾や記念のためのものではない。王の信仰を補助するものだ。だから信仰の像を破壊すれば、もう機能しなくなる。つまり誰も像の魂を感じなくなるんだ。像の人物はあの世でも死んでしまうということだ。究極の死を意味する。」
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考古学者たちは破壊された像は、何等かの凶悪な犯罪に対する罰に違いないと確信するようになった。誰かがジェデフレーを非難し、永遠の忘却に追いやろうとしていたのだ。
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サリマ「古代エジプトにおいて、誰にとっても、特に王にとって、最も恐ろしい事は、名前を傷つけられることだったの。もし名前を失くせば、自分自身を失くすのよ。完全に殺されることなのよ。例え遺体にどんなことが起きようとも、名前が魂の生存を保証しているの。」
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シャセナーンは第四王朝の歴史を詳しく調べ始め、事実に符合する答えを作り上げた。
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彼の見解によれば、偉大な王クフの後継者は最年長の息子のケイワーだが、彼は突然、記録の中から消え去っている。シャセナーンは、突然死と、その汚い手法を考えてみた。この死によって最も利益を得た者は誰か?王位継承リストの第2位にいたジェデフレーだ!
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ダンロップ「19世紀後半から20世紀初期の歴史家たちは、予測したのよ。“きっと、そうに違いない!ファラオを継ごうと考えたんだ!”って。その考え方は歴史的にも許容される方法ではないって。」
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条件証拠の一つがシャセナーンの理論に信憑性を加えることになった。彼の兄弟の死後、ジェデフレーは直ちに未亡人の王女で彼の妹だった女と結婚するのだ。
バシル・ドブレヴ「ジェデフレーは後継者を殺害し、権力を奪い、ギザから離れたという犯罪物語が生まれて来た。」

更に理論は続く。ジェデフレーがアブ・ラワシュで建築を始めると、今度は彼自身が異母兄弟に殺害される。この異母兄弟がギザの父のピラミッドの隣に自分のピラミッドを建て、秩序を回復する。
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彼はジェデフレーの名前やイメージや魂を破壊するという恐ろしい復讐を加える。
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これら一連の物語はシャセナーンの推論から生まれた。
「彼はこれらの壊れた像を発見し、“ジェデフレーは兄ケイワブを暗殺した後に王になったんだな”と言った。でも多分、弟カフレイによるクーデターで彼自身も権力から降ろされた。つまり彼は、隠れた存在にさせられ、一種の悪役になったんだ。」

自分の疑問に対する自分の考えを得たシャセナーンは、この物語についての関心を失くし、別の、もっと魅力的な発掘サイトに移って行ってしまった。以降の1百年間、アブ・ラワシュの遺跡は閉ざされ、放棄されていた。現在の考古学者たちの仕事は物語から事実を整理することだ。
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ザヒ・ハワス「アブ・ラワシュとジェデフレーについては、大勢の人が、いろいろな理論を持っている。しかし、最も重要な事は、この謎が今、明らかになり始めているということだ。」

しかし、いくつかの疑問にはまだ答えが出ていない。その中には、父が選んだギザの丘から8Km離れたこの場所に自分のピラミッドを建てるというジェデフレーの選択がある。シャセナーンやほかの歴史学者たちは、ジェデフレーが彼の家系から離れたためだと考えたが、今日のエジプト学者たちは別の説明を探し始めている。
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「新しい王が就任する時はいつでも、彼がしなければならない大きな決断は、自分の墓をどんな形にするか、どこに造るかだ。」

古代エジプトのファラオにとって、ピラミッドは自分が死んだ後の単なる墓ではなく、生存中では権力の誇示をするものだった。
「もし大きな都市を訪れたら、神である王の影響力と権力を示す象徴に必ず出会うのよ。そこは誰にとっても印象的な場所で、広さは数Kmもあるのよ。」
とすればジェデフレーの挑戦は自分の偉大さを石で示すことだ。彼が造るものは以前のファラオたちが造り上げたものと同等に壮大でなければならない。
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ブリストル大学アイダン博士「建築事業は、ファラオ間の競争みたいなものだったんだ。何かを新しくて、前のものより大きくしてという具合にね。大きさだけではなく、その質や場所も重要だったんだ。」
何人かの専門家たちは、ジェデフレーは単純な現実的な理由から丘を選んだのではないかと考えている。
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「彼が王位についたのは、多分20歳から25歳の時で、30歳には神に召されるかも知れなかったが、幸運なら35歳とか45歳までは生きたいと考えていただろう。彼は恐らく、大きなピラミッドを造るには年を取り過ぎていたのだ。」
アブ・ラワシュの構造物は手軽な手法shortcutだった。ピラミッドが建つ土地はギザの丘より既に120m以上高い。彼は石のブロックを1個置く前から既に優位advantageだったのだ。
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メンバーの一人はこの理論に反対している。建設場所を高い所に選んだのは、完全に異なる種類の建物のためだと主張している。
「我々がいる場所はエジプトの遺跡の場所で最も高いところだ。そこからは太陽に手が届くのだ。だから彼は、太陽にまで到達できるように、太陽を崇拝しようと考え、この地にこのような大きな基礎を造ったのだ。ジェデフレーは自分自身を“ラーの息子だ”と称したエジプトで最初の王だ。だから、彼はこの記念碑を太陽の神殿として造ったと私は思う。」
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ピラミッドと似て、エジプトの太陽神殿は巨大な記念碑的な建物だ。アブ・ラワシュの構造物は、ジェデフレーの統治以降、1世紀の間、エジプトに広まることになった太陽神殿の中で、最初の、巨大な神殿の残骸だという可能性もある。

その他の専門家たちは、これがピラミッドの墓だという考えを裏付ける確固たる証拠を見つけようと作業を進めていた。それを見つけたなら、彼らはエジプトの最も偉大な“失われた不思議”の一つの創造に着手できる。
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The Lost Pyramid of Djedefre
https://www.youtube.com/watch?v=qdkcnNCzbbM
(第一部完)

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mh徒然草121: 韓国の苦悩


今日は11月18日。韓国では朴大統領が友人の崔順実(チェ・スンシル)女子の傀儡(くぐつ)で、崔(チェ)女史が実質的に私物化している財団への寄付を大企業に要請したり、韓国の国家方針に崔(チェ)女史が関与していたことが明らかになったことから、韓国の民心は朴大統領から離れ、支持率は5%に低下して、大統領の辞任を求める何十万人ものストライキが起きています。

また、昨日は、韓国で国を挙げての大学“共通一次試験”が行われ、受験生やその家族だけでなく、後輩の高校生が、受験生にエールを送って試験会場に送り出すシーンがTVに流れていました。大学進学率は日本の50%に対して韓国では70%です。極端な学歴社会で、どの大学を卒用するかで、将来が大きく左右されるため、今回の試験は人生を決めるとすら言われています。

そうかと思うと、今朝のTVモーニングショーによれば、韓国の現代自動車や起亜自動車(キア)、鉄道会社などでは、従業員の親族を優先して雇用し、その枠を確保するためか、両親が非従業員だった人を解雇しているようですね、労働組合が関与して!韓国は就職難で、非正規雇用率は50%だと言います。日本も30%ですから、同情できる立場ではありません。韓国の就職環境は日本より厳しく、大学卒業後、何年も就活をしている人がいるようで、社会問題になっています。

ネットで次の記事がありました。
「韓国は「大学新卒者が5人集まれば正規雇用は1人だけ。3人は非正規、1人は無職」といわれるほど就職が難しいそうです。」

「韓国の全企業数に対してサムスン電子や、LGエレクトロニクスといった財閥系企業が占める割合は、わずか1%に過ぎません。しかし、主要財閥10グループの総売り上げは、韓国のGDPの約75%を占めています。その入社試験の倍率は少なくとも数百倍で、トップのサムスン電子に至っては700倍とも言われています。」

「秀才が集中するソウル大学ですら、就職率は50%に満たないそうです。韓国では三星(サムスン)、現代自動車、SK、LG、ロッテ、現代重工業、GS、韓進、ハンファ、斗山が10大財閥として韓国のGDPを率いています。」

就職が厳しい理由として次が挙げられていました。
「経済危機以降、韓国の企業は景気循環に対応できるよう、社員の数、とくに正社員の率を減らし、契約社員を多く雇用する形に変わりました。それが現在まで続いているのです。就職できたとしても、若者の多くが不安定な雇用に悩んでおり、20代の平均賃金はかなり低額です。彼らはその月額収入から「88万ウォン世代」と呼ばれています。日本円では6万円ちょっとの金額で、食べていくのがやっとの額です。」

mhも、韓国は、今、経済も政治も、苦悩の中にいると思います。
その原因は何でしょうか?

もし、衣食住が満たされていたら、自分のしたいことをしたり、家族とともにのんびり暮らしたりできるはずだから、それができないってことは、韓国では食料自給率が低いのではないのか?と思い、調べてみると農林水産省の資料が見つかりました。
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先進国の中で、韓国は・・・えぇ?42%しかありません!
おぉ!日本は39%で韓国よりも低い自給率です!

で、国民総生産GDPをWikiで調べてみたら、韓国は2014年38千USD/人・年で、日本は2016年に39千USDですから、ほとんど同じです!!!因(ちな)みにアメリカは57千、カナダ、ドイツは39千、オーストラリアは40千USD/人・年です。

しかし・・・
食料自給率も一人当たり国民総生産も日本とほとんど同じ韓国が、今、政治や経済で、日本よりも大きな問題を抱えているんですね。その理由については、ネットによれば、韓国人と日本人の価値観の差、考え方の違いではないかとの見解が多いようで、mhもきっと、そうじゃあないかと思います。

じゃあ、具体的に、韓国人と日本人はどのように考え方が違うのか?
あるネット記事ではこうありました。
<韓国人の性格>
国に対するプライドが高い。また非常に熱心に考え、よく議論し、争う。しかし、それらすべてが100%韓国の視野で、客観性に欠ける。
驚くほど人情が厚くて親切。また、それがどのくらい失礼かとか、不適切だとかは関係なく、自分の頭の中に浮かんだことはほとんど話す。
パーソナルスペースに対する認識が不足していて、非常に失礼な印象を与える。 韓国人はまた、非常に寛大なところがある。
<日本人の性格>
過度に集団行動を好む。礼儀正しくきちんと挨拶をする。秩序にこだわる。綺麗好き。美意識が高い。仕事が丁寧。時間や約束を守る。自己主張や自己表現が下手で、逆に、それが奥ゆかしく、日本人の美徳にもなり得る。治安が良く、災害時でも冷静だが、危機管理が甘いことも事実。細部までこだわる(例:整理整頓、ギフト包装など)。創造性に溢れている(例:アニメやオタク文化など)。宗教対立がなく、テロもない。貯金が好きで、倹約意識が高い(「勿体無い」という言葉に象徴される)。

mhの考えによれば、この中に、食料自給率や一人当たりGDPが日本に同じ韓国が、日本よりも大きな政治的、経済的な苦悩を抱えている理由があります。

それは・・・

韓国人は個人を優先し、日本人は集団を重視するという点でしょう。韓国民は遊牧民族の血を引き、日本人は農耕民族の血を引いていると言い換え得られるかもしれません。

更には、地続きで中国やロシアが控えている韓国の国防に関する悩みは、四方を海で囲まれた日本などより深刻です。日本が国防に資源の多くを投入することになれば、韓国と同じ政治・経済の悩みを抱える可能性は高いでしょう。確かに、中国は危険な国ではありますが、日本が対応を間違えなければ、尖閣諸島は別として、沖縄を含む日本国土に攻め入って来ることは考えられません。

韓国は他人や他国といつも競って、勝った、負けたと騒ぐ風潮が強いように思いますが、それが韓国を苦悩に追い込んでいると思います。どんな対立も必ず不幸をもたらします。外国と海で隔てられた日本は恵まれています。そんな日本が、中国の軍国主義に対立して軍備を拡充するのは、韓国と同じ苦悩を呼び込むだけで、正しい方向とは思えません。

Raindrops Keep Fallin' On My Head
https://www.youtube.com/watch?v=N18HZJLG9jg&index=28&list=RD3un5f6qLi_k

(完)

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ナイルの不思議prt-2-2/2


NILE River of Gods ナイル:神々の川
(前回のブログの続きです。)
・・・・・・・・・・・・

自然のイメージは寺院の建物のあらゆる部分に描きこまれている。
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並んだ2つのパイロン(塔門)はナイル谷を囲む高い崖を象徴している。これらの定型化された崖の間にある川はパイロンの内側にある魂の世界へ入って行く入口を意味している。

寺院は川の動物を神々に変身させ、賛美している。しかし、自然はその姿を象徴化されるとともに、真似られながらも敬われている。これらの柱はパピルス葦(あし)を表現している。
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どんな創造物も全く取るに足らないというものはない。太陽の下の全てのものは、エジプトの宗教の中でその地位を、芸術性を与えられている。エジプトの建造物は生命の形を、成長と結実の幾何学を秘めている。新しい成長の種莢(しゅきょう;種が詰まった莢(さや))や新芽は自然が再生する印だ。
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川の全ての生命を支配しているのは豊穣の神で緑色の顔をもつオシリスだった。手に持っている“牧夫の棒”と“穀物用の殻竿(からざお)”で、オシリスは牧夫や農夫の礼拝者に応えた。
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ファラオのラムセスはオシリスへの賛歌の中で言った“汝はナイルを収めよ。神と人間は汝から溢れ出るものから命を得ている”
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古代には、ナイルはデルタに入って5つの川に分かれていた。川の間では広大なパピルスの湿原が広がっていた。パピルスは重要なものだったので下エジプトの象徴になった。
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しかし、ここ、青ナイルの水源に近いところでは、パピルスを刈り集める仕事は危険が伴う悲惨なものだ。ちゃちなパピルスのカヌーに乗って生えているパピルスに近づきながら、河馬(かば)や鰐や蛇を驚かして追い払うために出来るだけ大きな声や音を立てる。
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パピルスは5mもの高さに育つ湿地帯の葦(あし)だ。茎は多くの空気溜まりで穴だらけで、そのため浮揚性が高く、ボートの材料には理想的だ。
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古代エジプトではパピルスは輸送以上の意味があった。言葉と思想の変換をする乗り物だったのだ。パピルスを叩いて平らな紐にし、纏(まと)めて圧力を加えることでエジプト人は最初の紙を作った。
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川の危険はしばしば皮肉たっぷりのユーモアで記録されていた。エジプト人は世界で最初に漫画本を作った。その巻物は長さ30mもあった。
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エジプトでは書家は官僚でもあり祈祷師でもあった。書家の仕事が統一された偉大な国家を生み出した。彼らは国家の歴史を記述し、神話を書き残し、政府機能を効率的なものにした。ファラオにとって情報は力だ。書家にこの力を与えたのはヒエログリフという言語だった。ヒエログリフの書物では自然から沢山の言葉を引用していた。
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言語が発達するにつれ、動物は自然から乖離し、単に音や文字を表すようになった。丸い太陽を付けた牛の神の角は“オオプOop”という音の印となった。
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自然から音の象徴への飛躍は以降の文字化の中心となった。
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ナイルは今も多くの人種と文化を支えている。ヌーア人ほど川と密接に暮らしている人はいない。例年の洪水が引くと、ヌーア人は牛と共に川辺に戻って来る。
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洪水による損傷の修復が終わると、女たちは自分たちの住家を自慢げに眺める。
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多くのアフリカの社会のように、ここでも女たちは重要な責任を担っている。彼女たちは家系の継続と、部族の文化の生き残りを保証する。牛の世話をする仕事に加え、女たちは母で、妻で、家の建築人でなければならない。ヌーア人には誕生、死、結婚などの大きな仕事も簡単なことだ。
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アヌクには4人の娘がいる。他のヌーアの少女たちのように、彼女らは10代の前半で結婚するだろう。念入りに仕上げられた玄関前のこの椅子は、婚期の少女がいる印だ。
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最も良く知られている飾りは水が流れる川に似せた波模様だろう。
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これが、エジプト人がナイルを描いたものだとしても驚くほどのことはない。この模様は水を表わすヒエログリフにも似ている。泥を使ってヌーア人の屋根の頂きの円錐も造られる。それは紋章で、それぞれの家のトーテムになっている。
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大人になったら、この少年たちは毎年、洪水で破壊された建物を修理しながら本物の村を作ることになるだろう。
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彼らの姉妹たちは大人になったらしなければならない仕事をすでに抱えている。彼女らは処女の印の腰ひもを取り去って将来の家のモデルに巻き付けている。
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この少女たちも、もうすぐ伴侶を見つけ、子供を産むだろう。
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古代エジプトの女たちは美人で知られていて、多くの詩は求愛のものだ。
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詩「愛されるというのは、こんなにも楽しいのか。あなたと川を下っていく。あなたの目の前で水浴びしてほしいと頼まれるのを夢見ている。」
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エジプトの村は一つの大きな家族のようなものだ。
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実際のところ、誰もが他の誰かと関係している。子供たちは成長したらどんな職業につくのか知っていないかも知れないが、誰と結婚するかについては多くの子供は既に知っている。
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古代エジプトでもそうであったように、多くの少女は小さい時に結婚する。ハンナは16歳で今日は彼女の結婚式だ。両親の自宅で自分の仕事をするのもこれが最後だ。心配はしていないが、自分の生活が全く異なるものになるだろうことを彼女は知っている。
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ハンナ「結婚したら全てが変わることは知っているわ。家庭の主婦になると、若い少女でいることとは全く変わるのよ。今までは自分がしたい事をしてきたわ。でも、夫の家で暮らすようになったら、何処へ行くにも夫の許可をもらわなきゃあないだろうし、もし駄目って言ったら、それまでよ。」
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ハナンは13人兄妹の一人だ。彼女の母ウム・カイリにとって、家族を食べさせ、衣服を用意してやるのはずっと続いている悩みだ。
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それは、ナイルに沿った村では普通の物語だ。そしてウム・カイリは娘が自分よりももっと豊かになるだろうという一つの希望を持っている。
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ウム「私は娘の幸せを祈っているわ。そして娘が彼女の夫に大きな繁栄をもたらしてくれることも望んでいるわ。彼女には私のようになってほしくないの。私には沢山の子供がいて、苦労が多いの。もし彼女が子供2人を持つとしたら、食べさせて学校にもやることが出来るわ。」

古代エジプトでは、結婚は“家を建てること”と表現されていた。結婚のいろいろな催し物の前に、ウム・カイリは娘の新しい家を調べようとしているところだ。花婿の母親が彼女を玄関で迎えてくれた。
花婿の母「ここが応接間で、居間sitting roomに続いているの。ここが居間で、こことここにカーテンが付くことになっているのよ。そして入口がここね。ここが奥座敷salonよ。ここにもカーテンが付くの。床には絨毯を敷くつもりよ」
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花婿の母「ここは私たちの土地よ。ずっと向うの地平線まで。」
「この牛は私たちの物よ。この水牛と驢馬(ろば)もそうよ。ここの全部が私たちのものなの。」
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古代エジプト人にとって一夫一婦制の結婚は神の指示の一つだった。
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ここには小人(こびと)の仕立屋のセネブの家族が表現されている。
(男の下半身は子供のように小さいのがわかります。)
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彼の子供たちは指を唇に当てた姿で表されている。伝統的な子供の印だ。エジプト人の人形師は男と妻の慈愛を祝福していた。
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結婚式までに、ハンナと彼女の母は、もらった持参金を使い果たした。ハンナの兄カイリは、持参金が派手に使われたことを花婿の家族に示さねばならない。
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ハンナの夫トウビー・アメッドは、カイリが若い二人の新しい家財道具を書き並べた書類にサインするのを覗(のぞ)いている。
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契約書へのサインが終わると、二人の持参家具は、家族や友人からのプレゼントと一緒に、村の中をパレードする。日常行われるこのような行事は、古代エジプト人たちのあの世での生活を形成した。若い二人が、彼らの新居に家具を持って行くように、ファラオ時代の祖先たちも、死ぬと日用品を墓の中まで持って行った。
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エジプト人はいつでも女性の美を理想化していた。召使いたちは女王が朝食をしている最中に、油が付いた女王の鬘(かつらwig)を整えている。女王だけでなく、どんな身分の女性たちでも宝石を身に付け、着飾っていた。
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古代の多くの習慣のひとつに、手飾りがある。結婚式での特別な儀式だ。
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中東からは金や銀、貴重な宝石などが輸入され、エチオピアからはコーヒという目の化粧が伝わって来た。
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「汝の妻を愛せ。彼女を食させ、衣服を与えよ。彼女をいつでも幸せにせよ。彼女がそれを好しとするまで。」
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ハンナの結婚式では、全ての人から祝福が与えられる。兄のカイリは贈り物と贈呈人のリストを参加者全てに聞こえるように読み上げる。
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古代のエジプト人にとって、結婚は文字通り、いつまでも続くものだった。彼らの友人たちは、この世における二人の長く、繁栄した生活を祈り、その幸せが死後の世界も続くことを期待し、信じていた。いつの時代でも、結婚の永遠性は、エジプトの偉大な時代の夜明けでもあった紀元前2千6百年頃に生きていた2人の廷臣ラホテプとノフレトの像の中にも捉えられている。
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ローマ人がエジプトを統治する紀元前30年までには、ファラオの世界は崩壊を始めていた。2つの大きなメムノンの巨像は、かつて偉大な寺院で残っている全てだ。
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キリストの前の1千年間、エジプト人は多くの侵略者から被害を受けていた。信仰の形態は完全なまま残されたが、侵略者たちはエジプトから搾取し、エジプトの文化を享受するためにやって来た。巨像の後ろに控えていた寺院は地震で崩壊した。今では、新しく来た人たちが、自分の印を残している。あるローマの皇帝は自分の名を石に刻んだ。それ以降、遺跡への心無い悪戯(いたずら)が続いている。
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ローマはエジプトを征服した。彼らは穀物を望んでいたのだ。しかし、エジプトは野生動物が多いアフリカへの入口でもあった。当時、ローマ帝国中の円形競技場では、大衆の娯楽のために多くの動物が切り殺されていた。都市ローマのコロシアムの公開初日には5千匹の野生動物が殺された。
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皇帝ネロの時代には、護衛兵が400匹の熊と300匹のライオンを1日で殺した。キリスト教徒や犯罪者たちは豹(ひょう)の餌(えさ)にされた。奴隷は奴隷を殺すよう強いられた。殺される動物たちは帝国領土外の遠い場所で捕獲された。エジプト人は自然を敬ったが、ローマ人は自然をないがしろにした。どんな生物も安全ではなかった。
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川は今もなおティシサットの滝で荒れ狂っている。しかし、山岳で暮らす象は絶滅して久しい。
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彼らを絶滅に追い込んだのは狩りばかりではない。生活の場所だった森林が失われたからだ。近くのタナ湖Lake Tanaでは、パピルスのボートのおかげで、樵(きこり)たちでも遠く離れた岸部まで出かけられる。
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エチオピアでは、誰もが木を燃料にして料理している。しかし、建築用木材への強い需要もある。今日、5千万人のエチオピア人が暮らしている。1950年の3倍の人口だ。多くの人は土地を離れて(外国で?)暮らしている。毎年、需要を満たすために多くの森で木が切り倒されている。
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既に森林の10分の1は消滅した。

これはユーカリeucalyptusの木だ。多くの場所では、料理用の燃料に使われているだけだ。ユーカリは成長が早いので、天然の森が伐採された後に植えられている。
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しかし、脅威にもなっている。水分を求めて延びる根が土壌を崩壊し、深刻な浸食をもたらす。ここに残されている自然の森の全ては一本のアカシアacaciaの木だけだ。周りのユーカリが野生生物の暮しを支援することはほとんどない。
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高地の多くでは森林の木は切り倒されて平原になっている。雨の後は、草や穀物で青々としている。しかし土壌を保持する木がないので、夏の風で大地はかき回され、表面の多くの土壌は川に向かって流れていく。
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しかし、エチオピア高地の周辺には、自然が生き残っている小さなオアシスが今も点在している。デブレ・リバノスDebre Libanos の修道院は、この地のエデンの園で囲まれている。古代のキリスト教の伝統が野生を絶滅から救っているのだ。
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ゲラダヒヒgelada baboonは、かつてエチオピア中に見かけられたが、今では極めて稀で、このように隔絶された森で見受けられるだけだ。
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巡礼は今も中世と同じように重要だ。祭日には農夫たちは修道院に向かう。
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キリスト教は、4世紀に、この地にやって来た。以来、エチオピア高地では圧倒的にキリスト教徒が多く、今日見受けられる伝統行事も、初期の教会で行われていたものだ。

彼らは今でも古代エジプトの寺院で行われていたように、祭司が演奏するシストラムという楽器に合わせて祈りを捧げている。
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エチオピア人は、エジプトのアレキサンドリアから高地の水源地まで、ナイルに沿ってリボンのように細く続くキリスト教徒の土地の中で、重要な部分を占めている。
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エジプトとエチオピアにおける教会は、何世紀もの間、主流のヨーロッパのキリスト教から隔離された共通の信仰で結びついている。
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両者の教会とも、勢力が強い修道院を伝統的に抱えていて、教会の精神的な指導者たちはいつも修道院から生まれている。現在の教会のリーダであるパウルス5世はエチオピアの多くの教会の長の中の最高位の存在だ。
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パウルス5世「エチオピアにおける精神的な生活はとても強力だ。修道院で暮らす人々の数は国全体でとても多い。修道院は古代から1千ほどある。」
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古代からある多くの修道院の中のいくつかは、青ナイルの水源のタナ湖に浮かぶ島にある。島々は、デブレ・リバノスのように天然の深い森で囲まれている。
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修道院が撤退する時は、いつの時代でも、自然を守るためだ。

エチオピアの修道院は、ヨーロッパの修道院と同じように、学問とキリスト教の偉大な中心地だ。
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混乱の時期でも僧侶たちは全ての教えや発想を残し続け、宗教だけでなく、歴史や文学など、文明を守ってきた。この羊皮紙の聖書には信仰を維持するための物語が描かれている。恐らく8世紀に僧侶によって作られた本だろう。イエス・キリストの情熱と死の物語だ。
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物質社会は僧侶たちにとっては大した関心事ではない。彼らには祈りと貧困と従順だけが社会なのだ。献身の聖域で暮らし、外界の錯乱から隔離されながら、正統派orthodoxの伝統は“自然を熟考すれば人はそこに神を見るだろう”と教えている。図書館と同じように、修道院は自然を保護している。何故なら、僧侶にとって自然は神が語りかけている本のようなものだからだ。
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今日、島々は重要な生物棲息地だ。多くの渡り鳥にとって冬季の生息限界地でもある。
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鳥の命への尊敬の念はエチオピア高地の住民たちも同じだ。根深い宗教伝統は、旧約聖書の中の“朱鷺(トキ)、鷺(サギ)、コウノトリ、水カキ足の鳥たちを食べてはいけない”という規則から来ている。食材に関するこの禁止令のおかげで国の830種の鳥類のうち96%もが保護されている。最近数十年間に起きた飢饉の時でさえ、タナ湖の鳥たちは平穏に過ごすことができた。自然と調和して生きることは神の近くで暮らすということだ。全ての僧侶は自然の生命のネットワークの中で暮らそうと努めている。

ここにいる人たちは4世紀にエジプトで定められた規則に従って今も生きている。
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後に中世ヨーロッパでも、修道院の生活に課されることになった規則だ。僧侶たちは修道院での生活に必要な全てのことを自分たちで行うのだ。この単純な生活様式は、僧侶たちが神への献身に集中できるようにしている。
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パウルス5世「誰も、自分に課された仕事が何であろうとも不平を言わない。それは全ての僧侶たちへの完全な帰順だ。従って彼らは、他の僧侶たちから頼まれれば、また他の僧侶たちが必要としていることなら、何でもやる。彼らは共同で生活する。一日一回、最小限の、簡単な食事を摂る。」
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食事は簡単なものかも知れないが、修道院は若い新参者のために、保護者の農民の家族なら誰も知らない保護策を準備している。ここでは、若い新参者はいつでも十分食べることが出来、面倒を見てもらえるのだ。
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デブレ・リバノスでは、公認の祈祷師の生活や瞑想は深夜にまで及んでいる。この古代の讃美歌hymn/psalmは何世紀も変わらずに響き渡っている。
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しかし、ある僧侶たちには、修道院の暮しは、まだ厳しさが不足しているようだ。彼らは仲間の僧侶から離れ、孤立して生活する。
パウルス5世「修道院でのとても厳しい生活も、まだまだ贅沢過ぎると考える人々がいる。そういう人々は共同体から離れて一人で暮らすことを好む。彼らは生きていくための最低限の接触だけをする。時々、誰かが水一杯とか、片手一杯の豆とか、そういったものを持ってくるだけだ。」

神父アテロは子供の時にデブレ・リバノスに来た。その後、修道院の上の洞窟で30年間、一人で暮らしている。
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わずかばかりの食事を持ってくる弟子達との接触も避けている。
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神父アテロが隠者になった時、彼は食べないことを誓ったが、体力が落ちて祈りが捧げられなくなった。厳格な祈りを毎日決まって行うことが、彼の生活を支配している。
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神父アテロ「木を植えるのは、子供を産むのと同じだ。我々は子孫を残す希望や望みを持たない僧侶だ。木を植えれば神は報酬や慈悲をもたらしてくれる。緑の植物はあなたが純潔で、温情で、肥沃だという象徴のようなものだ。緑の中で暮らしていると、ヒヒや猿や鳥たちと友人のようになれるのはそのためだ。野生の動物たちは神によって生かされているからだ。」
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パウルス5世「修道院での厳しい生活を過ごしている人々は、あらゆることに関与している。例え木が、石が割れて2つになる時でも、彼らが関与しているのだ。」
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僧侶は“自然の面倒をみる”という長く続いている伝統の相続人だ。アフリカではそれはファラオの時代まで、ヨーロッパではアシシAssisiの聖フランシスまで遡る。エチオピアでは修道院は悩める野生動物たちの最後の希望のオアシスなのだ。
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タナ湖の直ぐ北に古代都市ゴンドーGondorがある。エチオピアの昔の首都だ。城はエチオピア人の精神が高揚していた時代に造られた。
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その情熱は毎年行われるティムカトの祭りで今日でも感じることができる。祭りは洗礼者ジョンによるキリスト洗礼の再演だ。

ティムカトは水の尊厳を祝うもので、契約の箱Ark of Covenantのパレードと共に始まる。
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箱はエチオピアにおける最も神聖なイメージの一つだ。その中には、神がモーゼに与えた十戒がある。毎年、全ての教会から運ばれてきた箱のレプリカが、祭司を先頭にナイルの水を溜めている貯水池に運ばれていく。
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キリストがヨルダン川で洗礼したように、ゴンドーの人々も毎年、ナイル上流の水の中で洗礼する。中世の祭服を着た僧侶たちはエチオピア中からやってきて、毎年恒例の精神的な再生の祭りに参加する。

儀式は火が灯る蝋燭(ろうそく)が取り付けられた十字架を水に浮かべた時に始まる。
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ここでの洗礼は、原点の洗礼とは全く逆で、他愛がない。子供たちが神聖な水のしぶきを大人たちにかけて洗礼するのだ。その日はまさに洗礼の祭りだ。
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司教のショヌダは、ファラオの宗教と深く関係しているという。
ショヌダ「彼らはナイルを崇拝しているのだ。命の源として。我々は、水が命の源であることを聖書を読んで良く知っている。生きている水は他の物に命を与える源なのだ。」
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水は魂だけではなく、体にとっても好いものだ。ナイルの水源の近くには、村中の人々が悠久の存在でエネルギーでもある川に魅かれて集まっている。
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ここで彼らは病や、減退や、跛(ちんば・びっこ)が治るように祈る。これもお祭りのようなものだ。彼らは細かく砕いたパンを食べ、コーヒーを飲み、そして祈りをする。祈りの言葉は大気に満ち、治癒の霊を召喚する。そしてナイルの神への供え物が行われる。火と水と血で力強く促すのだ。
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カイロは長い間、イスラム教とイスラム芸術の偉大な都市の一つだ。最も大きなモスクの一つのスルタン・ハッサンSultan Hassanは13世紀に建てられた。
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この場所でさえ、古代エジプトの影響に気が付かないでいるのは難しい。モスクに入るということは神の存在の中に入るということだ。そこには過去の面影という以上のものがある。毎日行われる祈りは日の出を思い起こさせる。抽象的な模様は自然に基づいている。縞模様の入口は永遠の命に続いている入口だ。
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エジプト人として、アデルは豊かな遺産を引き継いでいることに気付いている。
アデル「私はイスラム教徒だ。しかし、アダム、アブラハム、モーゼ、ジーザス、モハメッドなど、全ての預言者を崇拝し、尊敬し、学んでいる。イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の誰に対しても好い人間でいようと考えている。他の宗教を尊敬しないのならイスラム教徒ではない。コーランにもそのことは書かれている。全ての宗教、全ての預言者を尊敬しなければいけないとね。」
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イスラム教とキリスト教はいつの時代でも、ナイルという、偉大な時間の川の終点の近くに立っている。しかし全ての信仰はいつでも永遠の命を求めて来た。
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この世をどのように生きるかが次の世での立場を決めると信じて来た。その考えはファラオの時代からほとんど変わることなく、我々に伝えられたものだ。
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数えきれないほどの墓絵が葬儀の行列を描いている。去っていく者たちの魂のために涙を流す泣き女たちも。
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墓は死者があの世で必要だろうと思う全てのもので埋め尽くされていた。サンダルもある。
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多くのミイラ化された動物の神々も墓の中に収められた。
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この男は砂漠の縁で6千年前に埋葬された。遺体は乾燥した砂のおかげで自然にミイラ化した。
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その当時でさえ、人々は日の入りの方向に向かって、次の世のための食糧とイメージとともに埋葬された。永遠への準備をするという伝統がとても強かったので、初期のファラオの時代には、死者の魂が宿るのを待つ彫像が一緒に墓に埋められた。ガラスの目は死者が新しい世界を見通せるようにしたものだ。
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記念碑のような墓はファラオのあの世での生活を確約するだけではなく、彼のライバルたちに彼の人民の精神を顕示するためのものだ。
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エジプト人にとって、この世で最も恐ろしいことは失念という思いだった。そのことで地下世界に入るための試験に失敗するかもしれない。

死から永遠まで続いているだろうと彼らが考えていた道は“死者の書”に記されている。
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“口を開ける儀式”では、ミイラの上に呪文を書き記していた。魂が旅を続けるために必要な、特に視力と会話力といった命の力を取り戻せるようにしたものだ。

次に魂は28の門を通過しなければならない。しかし、地下世界の守護神たちの向う側まで行くには、全ての呪文が完璧でなければならない。
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この絵は王室の書記アニーが、妻のトウトゥに付き添われて死後の旅にでるところだ。
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アニー「私から遠ざかれ。私はお前を知っている。お前の名を知っている。私はお前を守護する神の名を知っている。“空の愛人”というのがその名だ。」

守護神を満足させたら次の門に向かい、アニーの旅は続けられる。
彼はジャッカル神のアヌビスに導かれ、2つの真実の部屋に入って最終試験を受ける。彼の魂が、忘却の地獄に投げ込まれるか、パラダイスに入るのかが決まる。
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陪審の神に従いながら、彼は常に無罪であることを宣言する。
「私は盗みをしたことはありません。人に暴力を振るったことはありません。傷つけたことはありません。人を困らせたことはありません。私は神聖な牛を殺したことはありません。神が飼っていた鳥を絞め殺したことはありません。神々の湿原で魚を獲ったことはありません。流れを変えて水を止めたことはありません。ダムを作ったことはありません。水を汚したことはありません。」
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死者の言葉が真実であることを確認するため、彼の心臓は真実の秤(はかり)に載せられた羽根と比べられる。
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獣(けもの)のアムットは悪の心臓なら食い殺そうと待機している。知恵の神トトは真実を語るよう死者に宣告する。その後、死者が地下世界の神オシリスのところに導かれていくと、オシリスは死者をパラダイスに案内する。
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ナイルの土と水から、古代エジプト人は地球上のパラダイスを創造した。彼らの思いでは、それ以上のものはなかった。そこで彼らは、その中から最善のものを来世に持って行ったのだ。
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5千年の間、ファラオたちはエジプトの草原を見通して、目にしたものを楽しんだ。
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景色は全く変わってしまった。工業化された世界が到来したのだ。それでもなお、昔の農業も共に生きている。
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人々はますます田舎を離れ、都市に流れ込んでいる。近代社会では、男も女も自然から離れ、古代エジプトの信仰を形作った世界から離れて暮らしている。
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しかし、自然に満ちたパラダイスへの思いは残っている。どの時代においても、全ての社会、全ての宗教はエデンの園への回帰を熱望している。そこは我々の想像の中に生き続けている場所だ。そして今も、ナイルの上流で見つけることが出来る。
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“我々の最後は我々の始まりの中にある”と詩人エロットは言っていた。“そして我々の全ての探求の終わりは我々が探求を始めた場所に到達し、そこが初めての場所だと知ることだろう。”
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今日、ナイルに沿って我々が見出すものは、新しい共振resonanceを持つ古い思想だ。エジプト人の宗教の中心には“人間と動物は調和して生きねばならず、人間はそれらが全て継続することを保証する義務がある”という信念がある。それはナイルが神々の川だった古代の記憶の中で存続し輝いている考えだ。
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Discovery Nile Documentary | Nile River : River of Gods
https://www.youtube.com/watch?v=BeA4Scs_dVA
Wiki:
コプト正教会(Coptic Christianity、Coptic Orthodox Church):
伝承では1世紀(42年頃)にマルコがエジプト(アレクサンドリア)に立てた教会(アレクサンドリア教会)である。現在、エジプト・エチオピア及びエリトリア・アメリカ・オーストラリアを中心に、総計5千万人のコプト系キリスト教徒がいる。エジプトにおけるコプト正教会信者の割合は、統計上5%であるが、実数は1割であるともいわれる。20世紀にエチオピア正教会が分離したが、教理上の違いはない。

エチオピア正教会(Ethiopian Orthodox Tewahedo Church):
サハラより南で唯一、植民地時代以前から存在する教会である。エチオピアのほか、世界中で公称3600万人の信徒がおり、全東方諸教会中最大の規模を誇る。4世紀にフルメンティ(フルメンティウス)が、アクスム王国で布教したのがエチオピアにおけるキリスト教の始まりとされる。350年にアクスム王国はキリスト教を国教としている。

コプト教徒はエジプトでは人口の10%ですが、エチオピアでは63%です。恐らく6世紀では、エジプトもエチオピアもキリスト教徒が主力だったはずですが、エジプトについては、639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースに征服されてイスラム帝国に編入され、16世紀にはオスマン帝国に組み込まれてイスラム化が進んだのです。それでも今もなお10%のキリスト教徒(コプト教徒)が残っているというのは、どういう経緯があったのでしょう。

エチオピアは、イスラム帝国化されることなく、古代のエチオピア王朝が近年まで続き、キリスト教が残りました。なお、エチオピアには紀元前10世紀、シバ王国があり、女王(シバの女王)がイスラエルのソロモン王を訪ねたという逸話があります。また、シバの女王とソロモンの間に生まれたシバ王国の王子がソロモン王を表敬訪問した時に神殿からモーゼの十戒が収められている契約の箱Ark of Covenantをだまし取り、エチオピアに持ち帰って、今もアクスンAxumの教会に宝物として保管されているという逸話も残っています。興味がございましたらブログ「契約の箱とエチオピアの不思議」をご参照ください。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/43442870.html
(River of Gods Part-2/2完)

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mh徒然草120:天皇の生前退位は?


今上天皇明仁(あきひと、1933年〈昭和8年〉12月23日 )の意向を受け、生前退位を認めるか、とすればどんな法整備をするか、について第二回有識者会議が開かれ、その結果がネットで紹介されていました。

<生前退位>保守派が反対表明 2回目ヒアリング 
11月14日掲載
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上記6氏の年齢は上から86、69、60、71、89、74歳です。平均年齢は74歳になります。
で~記事によれば保守派が生前退位に反対って言うんですね。保守派とは何かをWikiで確認すると次の通りです。
Wiki:保守(ほしゅ)
正常な状態などを維持すること。古くからの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重して、それらの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方を保存したり、維持したりすること。保守の対義語は、革新である。保守とは、本来「伝統=現状」を維持すること、およびそうした社会的立場や政治的立場を指すが、「伝統」の意味するところが、非常に多様化した今日では、保守の内容も一様に定義できないものとなっている。

毎日、我が家に届く朝日新聞に第二回の有識者会議の記事が載っていました。それによれば、賛成派は「高齢となられた場合に退位することを認めるべきだ」という考えのようですが、反対派は「象徴天皇としての仕事をなされなくても、国と国民のためにお祈りくだされば十分だ(渡辺氏)」「国家の安定の根底は皇室の安定だ。終身天皇であらせられる方が安定度が高い(桜井氏)」とのこと。

第1回、2回で11人の有識者に意見を聞いた結果では、退位賛成4人、反対6人とありました。最終回の第3回の結果がどうなるか、それを受けて安倍政権がどう判断するか、は何とも予測がつきませんが、生前退位を希望する方向の“お言葉”を、TVを通じて天皇が公表した時、国民の大半は退位でいいんじゃあないのって思ったとのアンケート結果があったと記憶しています。mhも全く同感です。安倍政権も、天皇の意向に沿うかたちで、(高齢にもなられているから)早めに結論を出したい、との意向だったと記憶しています。

で~まずは有識者から意見を聞いている段階なんですが・・・
有識者と呼ばれる人の半数以上は、国民の感情とは異なるんですねぇ。今のままでいいって言ってますから!で、そういう意見の人はどうも保守派のようです。古くからの伝統や考え方を重視する人たちだから、変更はよくないって仰(おっしゃ)るのは当然といえば当然です。しかし、天皇明仁(あきひと)は退位したいと考えているのですから、それは駄目だって仰る保守派は天皇制度に反対なのかというと、実は全く逆で、桜井氏に言わせれば“天皇は国家の根底”です。象徴などという中途半端な存在ではなく、国の中心、指導者になるべきだと考えているのでしょう。

保守派には国粋主義者が多いようです。太平洋戦争開戦前の日本こそが、本来の国の姿だと考えているのだと思います。そこでは天皇が国の中心でした。天皇の言葉は神の言葉です。そのような保守派の人々が天皇明仁(あきひと)の退位の希望を退(しりぞ)けるのは理解不能です。彼らにとって天皇は国粋主義を貫く方便でしかなく、従ってもし不都合なことを天皇が言い出したら、無視するとの考え方のようです!

安倍首相は靖国神社詣(もう)でを控えていますが、それは外国への配慮であって、本心は靖国参拝をしたいんですね。それを知っている韓国や中国は、安倍首相を心から信用することはありません。靖国神社を国民の多くが参拝しやすいようにするには、日中戦争や太平洋戦争の開戦を決めた、東条英機など時の政府のトップの魂を、靖国神社から出し、国の命令で戦地に送られて亡くなった人たちだけを埋葬する案でよいと思うのですが、そんな話は、最近、全く聞かれなくなりました。言い換えれば、日中戦争や太平洋戦争では日本に非がないとの考え方の人が多いということです。

確かに、東条英機だけが太平洋戦争開戦を支持していたわけではなく、当時、日本国民の多くも鬼畜米英を叩きのめすべきだと考えていたのではないかと思います。となれば、開戦は国民全体の責任で、東条英機個人に責任を押し付けるのは間違いだと考える人もいるかもしれません。しかし、国民に鬼畜米英思想を吹き込んだのは東条英機内閣でしょう。いつまでも負け戦を引きずり、日本本土を焦土と化させたのも東条内閣です。東条内閣の責任は重大です。

Wikiによれば、安倍首相の祖父の岸信介氏は「1941年10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った」「1945年8月15日に戦争が終結した後に故郷の山口市に帰郷していた所を、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に拘置された」とあります。そのためではないでしょうか、安倍首相は、祖父を戦犯として裁いた東京裁判には正義がない、太平洋戦争や日中戦争は侵略戦争ではないと考えているようです。だから東条英機が合祀されている靖国神社詣では祖先の霊に対する大切な行事なのです。

有識者会議の結果を受けて天皇の生前退位をどうするかを決めるのが、衆参両院の議員の投票ならば、国民感情や天皇の意向を汲んで生前退位を認めるのではなかろうかと思いますが、国会に諮(はか)る法案をまとめるのは内閣です。恐らく安倍首相の意向だけで方針案が決まると思いますが、天皇の意向に沿って考えるという当初の気持ちは忘れずにいてほしいと思います。

日本人は思いやり精神に富んだ国民だと我々自身も思ったりしていますが、実態は、もっと泥臭く、利己主義と島国根性に染まった、反人道的な面も持っているのではなかろうかと思います。凡そ、どこの国の人々も多かれ少なかれ利己的だと思いますから結局は程度問題だと言えますが、出来るだけ人間的に、つまり他人に優しく、振る舞える日本人になりたいものです。

Rod Stewart - When I need you lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=MoFhf_u3_iU
(完)

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ナイルの不思議prt-2-1/2


2014年02月05日のブログで「全長が2千kmを超える大河は世界に41河川もあるのに、 ナイル川が一番長く、最も真っ直ぐに南から北に流れています! そのわけはなんでしょうか?」という問いへの答えをご披露させて頂きました。
ご関心がおありでしたら次のURLでご確認下さい。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/13963171.html
2015年10月には念願のエジプト旅行を果たし、ルクソールからアスワンまで4泊5日のナイル・クルージングを満喫してきました。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/46196838.html

世界最長の川ナイルについては、最近、アマゾンの方が長そうだ、との見解が出されているようですが、ギネスで再確認したら、依然としてナイルが最長の川となっていましたので、なんとなくホッとした気分です。

しかし、仮に世界最長でなくなったとしても、ナイルの魅力は全く損なわれることはないでしょう。それほどに、ナイルは多くの人を惹きつける魅力を秘めていると思います。

そのナイルの魅力を改めてお伝えしたいと思い、Youtubeを調べてみたのですが、見るべきものが多すぎてテーマを絞らないとYoutube化できないようで、ブログ化が困難なフィルムが多く、ナイルの紹介は見送ろうかとも思いましたが、今やらずしていつできるのか、という自責の念に駆られ、1時間40分のYoutubeフィルムをご紹介させて頂くことにしました。フィルムのテーマは“ナイルで生まれた神々”です。製作は1992~95年で20年ほど前で若干古く、映像が不鮮明で、フィルムのサイト名と字幕スーパーの英文が消せないため、見苦しいという問題を抱えていますが、なかなか面白い内容なので、楽しんで頂けるのではないかと思います。

字幕は全て翻訳したので、ブログを見て頂くためには、フィルムと同じ1時間40分程度が必要ですが、ブログとしては少々長すぎるので、2回に分けてお送りさせて頂きます。お楽しみいただければ幸いです。
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人間の歴史の始まり以来、人々はナイルに沿って住み続けている。
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最初の定住者たちは、生存の苦悩の中で、思いもしていなかった不思議な原始世界に直面した。アフリカの中心から地中海まで6400Kmを流れながら、ナイルは異なる多くの人種の生活や信仰を形成してきた。
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古代の生き方の木霊(こだま)は、今もなお、エチオピアの高地や、スーダンの広大な湿地や、エジプトの草原に響いている。
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今日の主要な宗教はイスラム教とキリスト教だが、いずれも、昔の信仰を借り、その上に立脚している。
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キリストより3千年以上も昔、ナイルが世界の最初の偉大な文明を立ち上げたのはエジプトのこの地だ。
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エジプト人の創造力は今日でもまだ生き残っていて、我々の想像力に働きかけている。エジプトは西洋の人間の生まれた場所だった。ここで初めて作物を栽培し、ナイルをエデンの園に変えた。
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古代エジプト人は石に刻まれた最初の記録言語を作り上げ、永遠に残るだろう記念碑の中で、彼らの信仰を祝福した。更には、宗教も創造した。
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その中では、人間と自然は調和しながら永遠に存在するのだ。自然の力の厳しさに気付いた人間は自然を神とした。
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NILE River of Gods ナイル:神々の川
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先史時代の深淵の中の、何もない所から、エジプト文明は突然、生まれ出た。人間が原始的な遊牧民から作物農夫になるには1百万年かかった。しかし、村が偉大な都市に変貌するのはたった数千年だった。
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エジプト人は今でも泥で造った煉瓦を使い建物を造る。彼らは、今も古代人が使っていた木製の道具を使って煉瓦を造っている。ナイルから引き込んだ水で野原を灌漑し、生活の糧を土地から得続けている。
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およそ5千年前、偉大なピラミッドは、洪水時には水没する平原の上に立ち上がり始めた。
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しかし、もっと昔、河岸の細長い湿地は、実り多い耕作地に変えられていた。農業は富を、富はエジプト文明を創った。
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これらの古代エジプト人は近代農業の先駆者だった。彼らは野生の草を河岸から集め、我々が今日知っている穀物を収穫するようになった。もし古代エジプト人がこの村の中へ迷い込んだとしたら、見るものの多くは、馴染みのあるものばかりだ。実際のところ、今でも、男も、そして女も、誰もが農業に結びついている。
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家庭内での仕事の分担は今も同じだ。女は粘土の釜でパンを焼く。彼らの遊びの起源すらファラオの時代に遡る。
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ナイルの川岸の村はもはや外界から孤立してはいない。農家は作物を育て、ヨーロッパに輸出している。多くの村人は都市まで、さらにはその向うまで旅をしている。

カイロ。この近代エジプトの首都は今から1千年前、将軍によって造られ、“アル・カヒラAl Qahira;勝利の都市”と呼ばれた。
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その位置はいつの時代でも重要だった。ピラミッドも近くに造られた。カイロは川がデルタ(三角州)に向かって分かれ始める地点で、ナイルを跨いでいる。1千5百万人が暮らす、アフリカで最も人口密度が高い都市だ。そうはいっても、多くの人々は心情的に田舎の伝統に結び付けられている。アデル・エル・アブドゥAdel El Abudもその一人だ。商人で地主の彼は、多くの時間をデルタの農園で農業をして過ごす。

アデル「私の家族の多くはカイロに暮らしています。兄弟は技師、医師などです。でも私は子供の頃から、いつも農夫でいたいと望んでいました。今ではその望みが果せたと思っています。」
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「エジプトでは、ナイル・デルタはとても広いという訳ではありませんが、最も肥沃な土地です。過去には、パピルスで一杯の沢山の湖がありました。私たちの祖先や祖父たちがデルタを整備してくれたおかげで、地上で最も肥沃な場所になったと私は思っています。」

ここの土は肥沃なので、2,3エーカー(4千㎡/acre)の土地を持っているだけでも、まともな暮らしが可能だ。アデルの家では50エーカーを所有し、管理者モハンマドと共に、その土地で作物を栽培している。アデルとモハンマドの家族は、彼らの祖父たちが土地を灌漑し、農業を初めて以降、共に働いている。
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アデルの畑の隣では、土地の村人が自活で消費する以上のコメを栽培している。収穫時の地域の共同作業は、昔の生活を思い起させる。
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古代エジプト人を解放したものは、生存に必要な収穫を越えた余剰な穀物だった。これがファラオの文明をもたらしたのだ。
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エジプト人はいつの時代も、素晴らしい建築能力をもつ民族の一つだった。ギザのピラミッドはこれまで造られた世界最大の石造建築物だ。
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このようなファラオの記念碑は、奴隷によって造られたという良く知られた神話がある。しかし、厳しい建築作業に携わっていたのは例年、洪水で土地を追われ、畑が水に沈んでいる3ヶ月の間、生活の糧を得たいと望んでいた農閑期の農夫たちだったというのが事実だ。
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これらのことを可能にしていたものは、ナイルの泥だった。
アデル「この黒い大地こそがエジプトを作ったのです。この農園を実りの多いものにしてくれます。黒い大地はエジプトの魔法です。良く言われるように“エジプトはナイルの贈り物”なのです。この堆積物を見て下さい。鉄分、亜鉛分、マンガンなどが豊富です。どんな植物も必要とする全てのもの、貴石のようなものです。ナイルは毎年、私たちに奇跡をもたらしてくれるのです。」
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この奇跡の源は6千4百Km上流の、世界で最長の川が流れ出す地点だ。実際のところ、ナイルは2つある。エチオピア高地に水源を持つ青ナイルと、中央アフリカのビクトリア湖に水源を持つ白ナイルだ。
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古代エジプト人たちは例年の洪水は神パピがもたらすものだとしていた。
“神パピに祝福あれ。大地から湧き上がれ。来たりてエジプトを潤せ。太陽神ラーが創った草原を水で埋め尽くし、乾いた大地を潤せ。”
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青ナイルが多くの泥や水をエジプトまで運んでくれる一方で、白ナイルは神パピの贈り物をもたらしてくれた。それは、エジプトの土壌を肥沃にしてくれる栄養という名の豊かなスープだ。熱帯アフリカの奥深くでは、エジプトの最初のファラオの時代と同じような姿のナイル谷Nile valleyを見ることが出来る。
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(mh:ナイルとその河岸は周辺の砂漠から一段低い場所で、かつ緑で覆われているので谷valleyと呼ばれています。)
そこには野生動物が溢れている。古代の絵から、この湿地帯で今日、我々が眼にする多くの動物が古代エジプト人にもなじみが深かったことが分かる。
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気候変化と狩りの圧力のせいで、今から1千年前、多くの動物はエジプトから追い出されてしまった。最初の犠牲者の一つは象だった。
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今から5千年ほど前の、初期の王朝のある時期に、象、麒麟(きりん)、犀(さい)がエジプトから完全に消えてしまった。しかし、象がいなくなった頃、エジプト人は自然から宗教を創り出した。
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彼らが神に祭り上げた多くの生物の一つが河馬(かば)だというのは驚きだ。豊満で母性的な雌(メス)の河馬は出産の女神タウェレトになった。しかし河馬は、夜になると畑を荒す嫌われ者でもあった。雄(オス)の河馬は混沌の神セスになった。

古代エジプトの気候は今よりも乾燥していた。ナイルから離れたサバンナでは豹(ひょう)や鹿の群れが見受けられた。
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地平線の向うまで見通す能力があるおかげで、麒麟は予知の能力があるとされた。
人類を支え、人を捕食する動物で満ちた世界を理解し、対応しようと、古代人は、全ての生物がお互いに意味をもつ神話や宗教を作り上げた。
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自然界に秩序を与えようとする人間の強い願望は、5千年前の火打石で造られたナイフの上に見ることが出来る。象牙の握り部には人間の世界と夢を図化した動物が彫刻されている。
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サバイバル・ナイフの握り部には40種以上の動物が描かれている。こうにして世界をカタログ化し、世界を管理しようと考えていたのだろう。

一つの動物が人の想像力を捕えていた。初期のエジプト人にとってライオンは王で、王はライオンだった。
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紀元前3千5百年の彫刻で、王は敵を食い殺している獰猛(どうもう)なライオンとして描かれている。
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投げ縄、槍、罠、弓と矢、は全て急速に高度化した武器の一部だが、それによって世界が危険から解放されたわけではなかった。アフリカの水牛は多分豹と同じくらい、多くの人々を殺しただろう。
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おかげで水牛は攻撃的な粗野な力の象徴になり、最初のファラオのナーマー王Narmerは儀式的な彫り物の中で水牛のように描かれている。描かれている内容は世界で最初の国家の出現だ。
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彼の上で睨(にら)みを利かせているのは一部は牛で、一部は水牛の神のような創造物だ。上エジプトの王ナーマーは水牛だ。反抗的なデルタの都市の城壁を壊し、敵を足で踏みつけている。これはエジプトの歴史における最も重要な記録の一つだ。王政が政府の形態を持っていることを宣言している。そして動物を象徴として、ヒエログリフ(絵文字)として使いながら、以降3千5百年続く表現方法を打ち建てた。ホロスは隼(はやぶさ)の神で王の別のシンボルだ。その王が、手に入れたナイル・デルタのパピルスの土地の上で睨みを利かせている。上下のエジプトを統一して出来上がった一つの国家は今も続いていて、2匹の神秘的な獣(けもの)が絡み合った頭によって祝福されている。
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動物の群れを追いかけていた遊牧民から定住者たちの王国へのエジプトの進展は、気候と地形の直接的な効果だろう。長い間、太陽と豊富な土壌の土地だった。エジプト人はそれを地上の楽園に替え、上手く活用したのだ。
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しかし、戦利品は平等に配分されず、限られた人々は贅(ぜい)をつくした暮しをしたが、多くのエジプト人はひどく貧しかった。当時、貧しい人々は砂糖、ワイン、薬の元になるナツメヤシの恩恵で暮らしていた。棗(なつめ)、無花果(いちじく)、ダーム椰子、その他の多くの果物の木がナイル河岸に立ち並んでいた。いくつかはエジプト起源の果物だが、多くは遠い土地から持ち込まれたものだった。
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ナイルは沢山の食糧を供給した。魚も豊富だった。湿地には鴨や水鳥が群れを成していた。
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それだけでは不服かのように、交易人たちが大陸のあちらこちらから異国の品物をナイルに沿って持ち込んで来た。熱帯アフリカからは金、象牙、黒檀(こくたん)、香料、毛皮が入って来た。
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まさに豊穣の土地だった。この木から採れる沢山の甘い棗(なつめ)のように、繁栄も訪れた。これらを見ていると、時々、何も変わっていないような気になる。

アデル「現在のエジプト人農夫と、歴史の中のエジプト人農夫には強い関係がある。例えば、“ノッタ”は今でも実を摘み、収穫し、果物を成熟させる決定的な日で、ファラオ時代からのカレンダーのようなものだ。更にノッタはエジプトに洪水が到着する最初の兆候でもある。エジプト人農夫はずっと、ノッタを神聖な日と考えて来た。」

命を吹き込む洪水を先駆けて知らせるのは神聖な鳥“朱鷺(とき;ibis)”だ。洪水の前触れの濁流に押されるようにして、彼らは夏の真っ盛りに飛来する。
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農夫たちはこの鳥を仲間のように見ていた。彼らは穀物を食いつぶす蝗(いなご)や鰐(わに)の卵を食べてくれる。書家が黒インクに筆を浸すように嘴(くちばし)を大地の中に突き刺す朱鷺は、知恵の象徴になった。そして多くの古代エジプト人にとって、知恵とは、水の再来という頼りがいのある予告だった。

エジプトの全ては洪水を待っていた。命の動脈からの注入を期待しながら。
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ナイル・デルタの3千2百Km上流にはエチオピア高原がある。
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何百万年もの間、高地は浸食され、水とともに流れ下った泥はナイル谷を埋めていた。
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毎年、春になるとモンスーンの雨が土地から溢れて川を膨らます。土を満々と含んだ水は今や最高水位だ。青ナイルの最上流にあるティシサットTissisat滝の水量は今、最大だ。
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エジプトに流れ下る水の5分の4はここを流れていく。そして、青ナイルの泥水は栄養分が多い白ナイルの水と合流し、一緒になってエジプトに流れていく。下流になるにつれ、流れは更に遅くなり、泥を沈殿させていく。

今日では、川は一連のダムによって管理されていて、泥の多くはエジプトに到着する前に沈殿し、水は青くなる。
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しかし、百年前までは、洪水は最高位になると谷全体を埋め尽くし、野生動物や人々を高地に追いやっていた。毎年、神ハピは全ての洪水平原を泥水で満たして再び新たな命を吹き込みながら報奨を約束していた。
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数か月後に水が引くと、跡には饗宴を残してくれる。偉大な自然主義者たちだったエジプト人は彼らが見たものを子細に記録していた。メイダムの古代の墓の絵では、前が白くて胸が赤い鴨(かも)の列が湿地に命を注ぎ込んでいる。
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しかし、湿地では、神聖な朱鷺よりも見事に収穫をむさぼる生き物はない。長くて曲線を描いている嘴(くちばし)は泥の中を深く探り、神出鬼没の餌食(えじき)を掴まえる。
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その賢さから朱鷺は知恵の神トトとして神殿に祀られている。朱鷺は今も数えきれないほどの寺院の壁の上で書家の筆の動きを導きながら生きている。この絵では、トトはファラオの名前を葉の上に描き記しながら生命の樹を支配している。
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トトがそうするまで、そのファラオは存在しない。これこそが言葉の力だ。
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エジプト芸術で最も驚くべきことは、細部にまで科学的な注意が払われていることだ。ヤツガシラhoppoeは鶏冠とともに描かれている。紫ガリニュール(バンの類の水鳥)はユリの中で隠れている。雑色の翡翠(カワセミ)は川の上で飛んでいる。
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定型化や抽象化からかけ離れたエジプト芸術は、しばしば自然の儚(はかな)い瞬間を表現している。このような穏健な手法で自然を捕えようという探求は、生物が死者に同行して死後の世界にいくという考えを生みだした。
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アスワンの町ほど熱心に洪水を待ちわびているところはなかった。
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この町で、エジプト人はナイロメターNilometerと呼ばれる装置を使い、初めて毎年、川の水位を測定し始めた。理想的な年には、洪水によって冬季と比べ8m水位が上昇する。それより1m高ければ村々は水害を被(こうむ)り、1m低ければ人々は飢えに襲われる。ダムが造られるまで、近代アラビア語が付いたこの目盛りが洪水を測定するために使われた。
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その隣にはファラオの時代からの、もっと古い目盛りが残っている。

水位を計る一方で、それに対処する知恵も生まれていた。灌漑用の水路が造られたのはファラオが現れる前だ。しかしシャドゥフshaduf(はねつるべ)の発明は農業を大きく革新した。
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片側にバケツ、反対側に泥のカウンター・ウェイトをつけたシャドゥフのおかげで、灌漑地は劇的に増加した。

紀元前3百年頃、ギリシャ人侵略者がサキアsaqiaを持ち込んだ。動物で駆動する水車で、水を連続的に汲み上げることが出来る。水をより良く管理することは、より広い土地を耕地に変えることを意味した。
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これらの古代の給水装置はとても効果的なので、構造は2千年の間、変わっていない。アデル・エル・アブドゥの農園で使われている水車が昔と変わっている点は、牛ではなくディーゼル・エンジンになったというだけだ。
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アデル「この方法は今から2千年前にローマ人によってエジプトに紹介された。そして今でも、灌漑では信じられない程に重要な装置だ。低い場所から、希望する高さの土地に水を汲み上げてくれる。」
アデルの農園の水車は12年に一度、交換が必要だ。構造はローマ人が考え出した原型とほとんど同じだ。
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技術と経済の関係は明白だ。新しい農業形態が上手く機能したので、ローマ人は増加した収穫を保管するため、食糧倉庫別の管理表を作らねばならなかった。このような装置は、エジプトをローマ帝国の食糧庫bread basketに変える手助けをした。余剰穀物量が膨大だったので、ローマでの税金は3分の2も減少した。“ナイルの賜物the gift of the Nile”のエジプトはローマの生命線になった。

エジプト人は穀物によって生まれた富を元に自分たちの文明を創った。大麦に加え、パンやビールを作るためのいくつかの穀物も育てた。
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大地は食糧以外のためにも拡大した。亜麻flaxが栽培され、これを織って作った見事なリネンから、軽くて風通しの良い服が生まれた。
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しかしファラオにとって最も重要だったのは穀物の収穫量だった。毎年、官僚の一群が農家の耕作面積を計測した。
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収穫量への依存が大きかったので、単純な課税方式が工夫された。それは耕作面積と、毎年、ナイロメターで測定される洪水の水位を関係付けたものだった。この方式で“耕作地の監督者”は、課税量を見積ることが出来た。

農家はまた、牛の数によっても税金を納めた。官僚の墓で見つかった彫像モデルは、広い敷地で牛を数える様子を表現している。農夫は監査官のビーズのように丸く開いた目の前で、牛の群れを通過させている。
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泥を土器用の粘土にするための泥踏み作業はエジプトにおける最も古い作業の一つだ。
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ナイルを語る時、泥の重要性は、どう表現しても言い過ぎることはない。泥はエジプトの農業で、同時に歴史でもある。

紀元前5千年もの昔から、泥から、穀物、油、ワインを蓄え、輸送するための土器が造られている。今日でもエジプト人は土器を様々な用途で使っている。そして多くの村では独自の陶工を抱えている。
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ファラオよりも古い時代について我々が知っていることの多くは、墓地から掘り出される土器から得たものだ。形状、釉薬、描かれている模様などは、古代エジプトでいつ頃、どんなことが起きていたのか、かなり正確に教えてくれる。今から5千年前、このような土器には死者があの世に持って行く食糧が詰まっていた。土器は細心の注意を払って描かれた動物や神々で飾られていた。
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最も初期のイメージの一つは牛の女神としての女性だ。両手が牛の角のように持ち上げられている。
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上エジプトのアンコリ牛ancoli cattleは牛の女神にとてもよく似ている。
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神の牛という考えはナイル谷Nile valleyに限定されたものではなかったが、今日でも、ここには残っている。

エチオピア高地とビクトリア湖の間には広大なパピルスの湿原が白ナイルを跨いで広がっている。
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アラビア人の貿易商たちはこの湿原をスッドSud、つまり邪魔者、と呼んだ。
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これは地球上でも最も広大な湿原で、熱帯アフリカとエジプトの間に人が踏み込むことができないバリアーを形成している。
スッドSudはヌーア人Nuerの故郷だ。彼らは完璧に牛に依存して暮らしている。ヌーア人無しで、牛はこの地では生存できなかった。そして牛無しではヌーア人も生存できなかった。
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アヌックの日常は、ほとんど変わらない。毎日夜明けになると、彼女は牛の糞で火を焚く。
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ヌーア人は永住の家を持たない。ナイルが洪水になると、牛を牽き連れて高い土地に移動する。水が引けば、湿地の中心に戻って来る。彼らの生活は古代エジプト人のように、ナイルのリズムに合わせて漂っている。
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ヌーア人は厳しい土地を選んで住み着くことは出来なかった。ここでは鰐(わに)が殺戮者だ。

しかしヌーア人にとって最大の敵は昆虫だ。スッドSudにはマラリア蚊とツェツェバエtsetse flyがはびこっている。

昆虫はヌーアの女たちの朝の仕事を察知する。
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アヌック「私たちは牛に灰をかけるの。そうすればツェツェバエを追い払えるのよ。煙もハエを追い払ってくれるわ。乳搾(しぼ)りが終わると、牛たちは湿地に行って草を食べ始めるの。そうしたら牛の糞を集めて、燃料にするために乾かすのよ」
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牛はヌーア人が必要とするほとんど全ての物を供給してくれる。乾燥した糞は料理に使われる。その灰は歯磨き粉として使われる。ヌーア人はこれ以上、牛と密接に暮らすことは出来ないだろう。古代エジプトには、これに似た、動物との近親感があったに違いない。ヌーアの女たちは穀物を育て、食材を準備するための全ての仕事にも携(たずさ)わっている。黍(キビ)や小麦は、ファラオの時代と同様、定番の食糧だ。粉ひき仕事は太古の時代から女たちの仕事で、今日でも、当時と同じようにきつい仕事だ。
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女たちはまた、全ての日常の仕事も担(にな)っている。
アヌック「草原で草を食べ終わって牛が戻ってきたら、乳搾りをして、バターを作るのも女の役目なの。」
小さい時から少女たちは、乳搾りの方法を教えられる。ヌーアの少女と牛との間には感動的とも言える思いやりが存在している。
何も変わってはいない。ファラオの時代以降、子牛は母牛の前足に結びつけられている。
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瓢箪(ひょうたんcalabash)は今も、搾ったミルクの理想的な受け皿だ。
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牛を愛する人々にとって、牛は本物の感情を持っている。彼らは、自然が子牛のために与えてくれた乳のいくらかを諦めねばならない時に牛が感じているはずの悲しみすらも感知する。
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牛はまた、ヌーアの少年たちの考えや会話をも支配している。彼らが成人すると、牛は花嫁を獲得するための通貨を恵んでくれる。ヌーアの社会では社会的地位は所有する牛の数で表わされる。
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部族の長老が部落の住民に語って聞かせるように、牛の地位は神によって既に定められている。

長老「人間と牛はお互いを必要としている。人間は神によって創造されると、世界に出かけるよう命令された。そして牛は、彼の後を追って歩くよう命令された。神はそのように命令した。神は創造主だった。神は牛を殺してはならぬと我々に話した。何故なら牛は神が創造したものだからだ。牛を殺してもいいのは、飢えで死にそうになった時だけだ。」

太陽が十分昇りきると、ヌーアの少年たちは牛の群れを連れて牧草地に出かける。彼らは群れを見張り、牛たちと話をしながら牛たちと共に対等に一日を過ごす。
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神聖な行事で、動物を生贄にするのは全く正しいことだと村の長老たちは言う。動物は神の創造物だからだ。結婚式や、成人式のために若者が森に出かけていく時、牛が生贄にされる。牛の生贄の仕事は決して軽々しく行われてはならない。ヌーア人は何故、動物を殺そうとしているのか、その都度、神に説明している。更に彼らはそれぞれの動物にも、何故、生贄にされねばならないのかを注意深く語りかける。

エジプト人の牛に対する強い愛情は、彼らの言葉の中にも記されていた。人間は太陽神が飼っている牛に例えられていた。
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牛の女神ハトはファラオの象徴的な母親で、エジプトの支配者たちは彼女の神聖な乳を飲んで育った。
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彼女はファラオと、ナイル河岸の王族の墓地を守護した。ギリシャ人がエジプトにやって来た時、彼らは直ちに女神ハトはギリシャ神話におけるアフロディーテ(美や豊穣の女神)だと理解した。
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その後、ローマ人の間で、ハトはヴィーナスVenusになった。そしてハトを祀る寺院は造り続けられた。エジプト人はしばしばハトに捧げ物をし、様々な方法で彼女を敬(うやま)った。最初のファラオよりもずっと昔から、彼らは牛の女神を奉(たてまつ)っていた。それは最後のファラオの後でもずっと続いていた。
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アデル「現代でも、ミルクや肉を供給してくれる最も身近な動物です。牛が神聖なものを持っているということはありません。でも、エジプト人は今もなお強く宗教に結びついています。女神ハトはもはや影響力を持ってはいませんが、ナイルはエジプト人の精神的な価値観を支配し続けているのです。」
アデル「2千5百年前、ギリシャ人歴史家ヘロドトスは“エジプト人は世界中で最も信心深い”と言いました。毎年、ナイルが洪水になるのを待ちわび、水量が増えても減っても惨事が起こり、自然を通じて宗教を生み、神と共に暮らしていたことに気付いたからでしょう。」

カイロのオールド・タウンにはモスクが密集している。
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最近の1千年の間に、カイロはイスラム文化と学問の巨大な中心地になった。今日、エジプトには5千万人のイスラム教徒が暮らしているが、7百万人ものキリスト教徒もいる。ほとんどはコプト教会に属している。
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7世紀に行われたイスラム教徒によるエジプト征服の前は、多くのエジプト人はキリスト教コプト派の信者だった。教会の家長的な教皇popeのショヌダは、コプト派の考えのいくつかは最も古い伝統に根付いていると信じている。
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ショヌダ「今でも、我々は教会でナイルのために祈りを捧げている。神が川の水の量を増やし、多すぎないよう、少なすぎないようにしてくれている。宇宙の中の自然から離れて暮らすことは出来ないからだ。我々はまた、植物や全ての生物や風や空のためにも祈りを捧げる。」
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古代エジプト人は、空の女神ナットが造る円形の屋根で守られた宇宙に神や人間が棲んでいると信じていた。
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人々はその外にある混乱から切り離されていた。ナイル谷の川底の下では、大地の神ゲブが永遠の日の出を与えてくれた。
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(mh:西に沈んだ太陽は、大地の神ゲブによってナイルの下を通って東に戻るので、翌日、また東から昇るという信仰)
ショヌダ「古代エジプト人は神そのものではなく、神のもつエネルギーを崇拝していた。彼らは太陽の神の力を崇拝していた。彼らはその力を太陽やナイルの水の中に見つけていた。だから彼らはナイル川と太陽を崇拝していたのだ。」
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太陽は最高位の神だった。神々や人間の命の源だった。夜明けは、いつでも、世界が始まった時と同じ創造の瞬間の再来だった。太陽が天に向かって旅を始める時、全ては太陽に道を譲った。

川の谷間の崖の上では、泣き叫ぶ狒々(ヒヒ)が新しい一日を前触れしている。古代エジプト人もヒヒの群れの上下関係制度が人間の社会を反映していることに気付いていただろう。支配的なオスはファラオの役目を演じ、選ばれたメスは王室のハーレムだ。
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太陽が他より傑出していることは数えきれないほどの墓の壁に描かれていることからも判る。
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太陽は隼(はやぶさ)の神ホロスによって中空に支えられている。ヒヒは礼拝のために両手を挙げている。ライオンは重要な天空の創造物で、しばしば太陽の守り神として描かれている。男も女も動物とともに礼拝している。全てが太陽の生命想像力を敬(うやま)っている。
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寺院ではヒヒは最敬礼をして立っている。
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鰐のソベックは太陽を支え、見返りとして隼の神ホロスが広げた羽根で守られている。
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夜明けになると、ハゲワシは羽根を広げて、太陽の熱を吸収し、飛び立つ準備をする。
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エジプト人にとっては、羽を広げることは礼拝行為を意味する。ナイルの谷の全ての生命は女神ネクベトの保護の羽根の下に配置されている。
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ハゲワシは“マトMut”としてヒエログリフ文字に付け加えられた。“母Mother”を意味する。
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鰐はかつてナイル全域で見受けられた。全長6m以上もある彼らは隠れたstealthy殺し屋だ。パカンと口を開けて、太陽に礼拝している。
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しかしこの姿勢は攻勢の象徴とも捉えられている。そのおかげで、鰐は混沌の神セトとなり、ホロス神の敵として描かれていた。

鰐は、ファラオの守護神として高い地位を認められていた。命の印を維持しながら、鰐の神ソベックは偉大なファラオのアメンホテプの保護者として立っている。
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Discovery Nile Documentary | Nile River : River of Gods
https://www.youtube.com/watch?v=qyD_H1ydj6k
(River of Gods Part-1/2完)

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mh徒然草112:野菜が高くなりました!


今年の8月は連日、猛暑日が続き、エアコンなしの我が団地の部屋では扇風機を総動員してフル稼働させていましたが、暑くて夜、目が覚めることがありました。東京湾の横浜大桟橋まで5Km、相模湾の江の島まで11Kmの小高い丘の上に立つ10階建て団地の10階ですから、夜も窓は開けっ放しで、綺麗な空気を部屋に取り込んではいるんですが、夜でも外気温が30度を超える日は、風に当たっていないと汗だくで、扇風機は一晩中、回りっぱなしです。エアコンを入れとけばよかったなぁ、って思ったりしましたが、人工的な環境より自然に近い方が健康にいいだろうという考えから導入を見送っていたものを今更方針変更するのもなんだし、って思ったり。で、結局、来年の夏になったら考えてみよう、と結論を先送りしています。

しかし、暑かったですねぇ。それが8月から台風が続けざまにやってきて、東北地方を直撃して北海道に抜けたり、伊豆諸島近海で発生した台風が沖縄方面に南下したかと思えばUターンして関東に大雨を降らせるなど、前代未聞の気象現象が続きました。今日は9月21日で、台風16号が関東にもやってくることになっていましたが、名古屋辺りで温帯低気圧に変わったようで、関東には大きな被害は起きないでしょう。

この夏は猛暑と豪雨で野菜の収穫が減り、キャベツ、玉葱(たまねぎ)、レタスなどの値段が高くなりました。この調子では葡萄や梨、林檎も例年の1.3~2倍くらいになるかも知れません。日本近海の海水温が高くてサンマが南下してこないようで、外洋にいる間に台湾、中国の大型漁船が一網打尽にしていることもあって、スーパーでの値段は一尾150円以上。脂がのった美味しいサンマは高根の花です。

野菜や果物、海産物の収穫が減少している主な原因は地球温暖化による気象異常でしょう。とすると、私たちの食物事情は温暖化の進行に合わせて悪化の一途と言えます。

地球の気温上昇速度は古代と比べて急速です。我々人類が、石油などの化石燃料を大量に燃焼するようになったからで、今、自然は未曾有の試練に晒(さら)されているのです。

今日のTVで仕入れた情報ですが、暑ければ汗をかいて体温を下げるという自然の摂理が私たちの体に働いて、北方民族と南方民族では汗腺の数が大幅に異なるようですね。インドネシア人は300万個ですがロシア人は180万個だといいます。日本人は230万個みたいです。沖縄生まれと北海道生まれでも、汗かき状態は異なるんですね。沖縄生まれの人は汗腺数が多いんです。人類は、というか、私たち現代の人も、自然環境に合わせて進化しているんですから驚きです。

野菜や果物もきっと自然に適合しながら変ってきたのではないかと思いますが、気象変化が、これまでの数十倍、数百倍の速さで起きているので、我々の体だけではなく、植物も、気象変化に適合できなくなっていると思います。従って、信州の林檎園は、これからは寒い地方にシフトしておかねばならないと思うんですが、林檎の樹を移すのは大変ですから、今の内から若木を北海道に植樹しておかないと20年後、信州の林檎農家は収穫減少で廃業せざるをえなくなる可能性があります。以前、ブログで山形のサクランボ農家が北海道に新たなサクランボ園を求めた話をご紹介しましたが、こういった大胆な施策は若い農家でないと出来ませんから、老人が多い日本の農業は縮小していかざるを得ません。

温度ばかりでなく、降水量も問題です。この9月、台風による豪雨で川が氾濫し、北海道のキャベツ、玉葱、ジャガイモなどの畑は水浸(みずびた)しで、収穫は期待できない!と農家の人がTVで嘆いていました。日本の農業の将来は厳しいなぁ、との思いを新たにしたところです。

こんな状態の中で、消費者として出来る自己防衛手段が何かないかしら、って考えているんですが・・・
どうも実践的なものを思いつかないんですねぇ。田舎で無人になっている農家を安く買って、家の前の畑でキャベツを作るって案もあり、そういう人も最近、多くなりましたが、ぐずなmhには出来そうにはありません。ということで、スーパーで買う量を減らし、買った食材は皮も捨てずに全て食するってな方法はどうだろうか、なんて考えています。mhが野菜炒めを作る時はキャベツは芯まで刻んで頂いていますが、ジャガイモについては、“皮をナイフでむかず、そのまま煮たり茹(ゆ)でたりした方がいいんじゃぁないの?”って女房殿に提案してみようと思っているところです。

地球温暖化で食糧生産環境が変化し、生産量が減少するのは日本に限られたことではなく世界中で同時進行していると考えるべきです。現代の人類は自然を破壊し続け、とうとう、その罰を自らが受ける段階に突入したのです。

これが誇張でない事を示すデータがあります。ってな決め台詞(せりふ)はmhのブログ「世界の不思議」で頻繁に登場してきますが“餓死者数は増加しているのです!”と言えないかしら?と思ってネットで調べると、国連の食糧支援機関(WFP; World Food Programme)の資料が見つかりました。それによると、世界人口は増加中にも拘わらず、栄養不足人口は減っているんですねぇ!食糧事情は世界的には改善しているんです!!!
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ということは・・・我々日本人は食糧を過剰摂取しているのでしょう。最近、メタボという言葉は死語に近いようですが、お腹が出ている人はまだまだ沢山見かけます。まずは食べる量を減らす!これが実践的な対応と言えそうです。ご検討下さい。

Unchained Melody Ghost Righteous Brothers
https://www.youtube.com/watch?v=a5MzKK3SpUs
(完)

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英国を救ったケルトの不思議―2


今から1500年程前、12人の僧侶の一団が船に乗り北アイルランドを発った。後ろに安全で文明化された場所を残した彼らが向かった先は、不安定で、危険で、敵対的な他所者の土地、ブリテンだ。
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彼らの旅は急速にブリテンの歴史の進路を変えることになる。何故なら、この12人の僧侶たちがブリテンを学問のない遅れた場所から文明と学問の場所へ改革する切っ掛けを創るからだ。

How the Celts Saved Britain:Salvation
ケルト人がどのように英国を救ったのか:救済
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6世紀の中頃だった。かつて強力で、豊かで、文明化され、キリスト教徒だったローマ帝国が崩壊して既に1世紀が経過していた。
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ヨーロッパでは混沌と紛争が続いていた。ローマの属州だったブリタニアにゲルマン系Germanic部族が侵入して、キリスト教やその他ローマ文明が残したものをブリテンから追い出していた。彼らは、今やブリテンの大半を制圧し、邪教の神々pagan godsは暗闇の中で社会を統治していた。
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しかし、ローマに占領された歴史がないアイルランドでは、キリスト教宣教師たちが、ローマ帝国崩壊後の古代世界の一つの遺産だったキリスト教を通じて、かつて野蛮だった土地を変革していた。修道院は島中に造られ、学問、技術、新しい文明を育んでいた。
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西暦563年、彼らがスコットランドの西海岸に上陸した時、天候は今日のように曇っていたのは疑いのないところだろう。
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見も知らない土地への旅で12人が危険の中にいたのも間違いない。当時は不安定の時代で、よその土地から訪れる者は捕えられるか殺される危険を抱えていた。しかし僧侶だった彼らは海岸を歩きながら、それ程は心配していなかった。彼らは、全く敵対的な他所の土地に来たわけではなかったからだ。実質的には、まだアイルランドの中にいたのだ。

何世代もの間、アイルランドの領域は拡大を続けていた。アイルランドのダルリエイダDalriada王国はアイルランド海Irish Seaを跨(また)いでいた。
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ゲイル人Gaels又はスコティScottyとして知られていた彼らは、新しい国に新しい名前を付けた。スコットランドScotlandだ。ダルリエイダはもう存在していないが、中心地は今のアーガイルArgyllだ。アーガイルは古代の起源を裏切った名で、ゲイル人Gaelsの海岸を意味する。私にとっては馴染みの場所だ。私の祖先の出身地で、子供の頃はよく遊びに来ていた。大抵、雨が降っていたが。
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12人のアイルランド人僧侶は丘の上の砦ディナン(?)を目指していた。ダルリエイダの王がいた所だ。彼らは何重にも巡らされた囲いや城壁を通り抜けて進んでいった。僧侶たちの指導者は既にアイルランドの教会で著名になっていた男だった。彼の名はコラムキラーColumbkilleでラテン語の別名コルンバColumbaで知られていた。
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コルンバとダルリエイダの王は、対等の立場にいたようだ。コルンバはアイルランドの上王の家系の男で、政治的な力を駆使できる族長の経歴を持っていた。しかし、教会の仕事に関与するようになると、40代前半で、カリスマ的な権力を得るようになった。貴族の生い立ちで裏付けられた彼の自信は効果があったはずだ。何故なら、今回のミッションでは外交的な技術が信念と同じくらい重要だったのだ。
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これは表敬訪問以上のものだった。コルンバは、王の土地での布教についての許可と保護を得る必要があったのだ。ダルリエイダが管轄していたのは、山岳地帯と海岸に挟まれた細い領地だった。山岳地帯の向うは敵地だ。
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許可と保護に加え、コルンバはもう一つのことを望んでいた。教会を建てる土地の提供だ。その要請は認められた。ダルリエイダの領土の端で、町から40Km離れた小さな島が与えられた。コルンバと彼の僧侶たちは、以降、ずっとそこで活動することになる。島の名はアイオナIonaという。
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フェリーに乗って島を目指していると、今でも、地球の果てに向かっている感じがする。フェリーを3回乗り換え、4時間の船旅をしてやっとここまできた。
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しかし、ここは物事の中心になった場所だ。コルンバと彼の従者たちが島に到着して居住地を建てると、数年の内に、繁栄を始めた。大勢の人が島に往来するようになったのだ。世界におけるキリスト教布教の拠点になったと言っても過言ではないだろう。

アイルランドン人の僧侶たちは、アイオナの浜を辿って、キリスト教に対する信仰だけではなく、新しい運命の種を運んできたのだ。
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「島は寒いですねぇ。ところでこの島における彼らの最優先事項は何だったのでしょうか?」
ウルスター博物館ボーク氏「まずは住家を建てることでした。そして教会を作ることです。何故なら、生存が確保出来たら、直ぐにお祈りを始めなければならなかったんです。」
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「修道院や教会が出来ると直ぐに、この場所が急成長を始めたんですね?」
「そうです。今残っている教会や修道院monasteryは、昔、修道院教会abbey churchが建っていた場所に造られたもので、昔の建物は木造でした。修道院のような建物は、この地方では、それまで造られたことはありませんでした。ここで人々は祈りだけではなく学問も、新しい技術も学ぶことが出来ました。新しい開拓地New Frontierだったんです。様々な人々がアイオナにやって来ました。教会は傘のようなもので、異なる政治的な背景をもつ人々を保護しながらキリスト教や新しい学問を広める役目を果たしていたのです。」
「コルンバは、どうして、様々な人々をそんなにも引き付けられたのでしょう?どうして、そんなに大きな社会に成長したのでしょう?」
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「彼のカリスマ性ではないかと思います。ここに来る人々は単に僧侶に告白するというだけではなく、コルンバの助言や判断を求めていました。そして共同体の一員に加わっていったんです。人々にとって彼は磁石のような人物で、自然に引き付けられていったんでしょう。アイオナは人里離れた辺鄙(へんぴ)な場所でしたが、中世の初期における宗教的、知的な生活の中心地になっていきました。」
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修道院社会が繁栄を始めると、コルンバはアイオナIonaの海岸の向うを見るようになった。そして、西暦560年の後半、キリスト教の力を新しい危険な土地でも獲得するための旅に出た。彼は内陸に歩を進めていた。
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内陸とは言え、船旅が最善の選択だった。一帯は深い森で覆われていて、地上の道を辿るのは不可能に近かったのだ。彼の道のりはまだ先だった。
ネス湖Loch Nessやグレイト・グレンGreat Glenを抜けて進んだ。目的地はスコットランドの反対側にあるインバーネスInvernessだ。
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アイオナからインバーネスまでは160Kmほどだ。グレイト・グレンに囲まれたスコットランドを移動するには、小さなボートが最善だっただろう。コルンバもボートを使ったはずだ。不毛の土地に道など無かっただろうし、水の上の方が安全だということもある。
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彼はダルリエイダ王国を発って以降、安全とは程遠い土地に踏み込んでいたのだ。見知らぬ土地、見知らぬ言語の中にいた。通訳を連れてきたので言葉の問題は無かったが、安全は最重要だ。ここは敵地ピクト人の土地Pictlandなのだ。

(mh:アイオナIonaはアイリッシュ海Irish Seaに浮かぶ小さな島で、インバーネスInvernessは北海North Seaに続くモレィ湾Moray Firthに面した町です。アイルランドでは“Inverは河口”、“Lochは湖”“Glenは谷”を意味し、ネス湖Loch Nessから流れ出るネス川River Nessの河口にInvernessの町があります。Google Earthで確認しましたが、小さな船なら、西のIonaから東のInvernessまで運河やネス湖を伝って移動できます。)

ピクト人はスコットランドの北と東を支配していた。コルンバには、彼らが原始的で野蛮な人々に見えていた。アイルランド人が文学を持っていたのに対し、ピクト人は奇妙な絵石pictorial stoneを彼らの土地に点在させていた。アイルランドが文明の中心に修道院を持っていたのに対し、ピクトの土地は未だに鉄器時代のままだった。
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アダムナンAdomnánという名の僧侶が纏めた“コルンバの伝記”は、ピクトの邪教に対するキリスト教の卓越性を示す奇跡の物語で溢れている。アダムナンが述べた奇跡の一つが、ネス湖の怪物monsterだ。土地の人たちは怪物が襲ってくるので困っているとコルンバに不満を漏らした。そこで、同行してきた僧侶の一人を湖に行かせてみると怪獣が現れた。コルンバは“その男を襲ってはだめだ!”と叫んだ。すると怪物は湖の底に戻っていった。住民は馴染みのなかったキリスト教の神の力にとても感銘を受けたという。
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<御参考>Wiki;ネッシー(英: Nessie)
スコットランドのネス湖で目撃されたとされる、未確認動物「ネス湖の怪獣 (Loch Ness Monster、ロッホ・ネス・モンスター)の通称。記録として残されている最古の記録は西暦565年、アイルランド出身の聖職者コルンバの生涯に関する伝記中で言及された、ネッシーの発見報告である。

アダムナンは、別の多くの奇跡についても述べているが、それは歴史ではなく、伝説と聖人伝が一体になったものだ。当時の新しい英雄たち、キリスト教の聖人たち、の周囲を神話で飾ろうと考えたのだ。しかし、ピクトランドのこの一帯を進むコロンバの旅や、彼と共にキリスト教を持ち込もうとすることの危険については、誰も、誇張する必要がないほどの真実であっただろう。
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危険を伴うコルンバの宣教missionはインバーネスで最も高まった。彼はそこで最大の挑戦に出会う。ピクトランドの邪教の王ブリディBrideiだ。

ここはグレイト・オドゥリックの砦の丘だ。ピクト人の王ブリディの強力な拠点だった。
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彼は、アイルランド系の国ダルリエイダと戦をしたばかりだった。従ってコルンバがここにやってきたのは、ライオンの住家に踏み込むようなものだった。コルンバが来た時、門は閉ざされていた。しかし、彼が十字を切ったら開いたと伝えられている。
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この力強い魔法で、彼は王からの尊敬を獲得したと伝えられている。
これらの奇跡のような物語を文字通り取るべきでないのは当然だ。ここで重要なのは、象徴主義symbolismなのだ。

エジンバラ大学エラスター博士「彼は間違いなく、ピクトの王を威圧しようとしていました。自分の力の方が王の力よりも強いことを示そうと試みていたのです。そしてピクトも彼の力を認めました。」
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「それで、土地を侵略して布教することと比べて、極めて簡単に、短期間にキリスト教をピクトの中に広めることができたわけですね?」
「そうです。王ブリディは他の部族の王たちと対立していました。キリスト教の力を使えば、大した苦労もせずに自分を有利な立場にすることが出来ると考えたのだと思います。」
「キリスト教が大きな奇跡を起こしてくれるのではないかと考え、自分たちの宗教を変えようとしたということですね?」
「キリスト教の神のもつ力を信じたのではないかと思います。ピクトはローマの影響を全く受けたことがありませんでした。しかし、キリスト教の神が持つ力には、感じるものがあったのでしょう。キリスト教を信じている人々の社会が自分たちの社会よりも進歩し、繁栄していることを知り、受け入れる気になったのだと思います。」
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大きな新しい考え“キリスト教”は敵を持っていた。ピクト社会の中にあり、昔からずっと邪教を広めて来た集団だ。私が言っているのは魔法使いwizardのことではない、ドゥルーイズDruidsのことだ。コルンバと、ドゥルーイズの影響を受けたロイキャンと呼ばれるグループの間で対立が起きた。コロンバはアイルランド系のゲイル人Gaelsの奴隷を解放するよう、彼らに要求したが、彼らはこれを拒否した。すると、コルンバは彼らに魔法をかけて解放させたという。この話は次の2つを示している。一つは、コルンバが断固として奴隷制度に反対していたということ。もう一つは、キリスト教の魔術の方がドゥルーイズの魔術よりも影響力が大きかったということだ。
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鉄器時代の人々だったピクト人にとって、キリスト教の魔術力は近代化、更なる繁栄、文明をももたらすものだった。

インバーネスから220Km南に残っているピクトの芸術品は新しい信仰が古い邪教信仰とどう置き換わっていったのかに関する興味深いヒントを提供している。
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ピクト社会の変化はスコットランドの東海岸のアブレンノン(?)に建っている複数の魅惑的な石碑に表現されている。向う側にあるいくつか石碑はキリスト教以前の先史時代を象徴するもので、この石碑の片面と同じだ。Z型の幾何学的な模様、狩りの様子、自然界のさまざまな題材、が彫られている。
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反対の面を見てみよう。支配的になった新しい宗教を示す大きなシンボルが上から下まで碑一杯に描かれている。下の両側には天使の姿も彫られている。
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大きな変化がピクトの社会で起きていた。宗教だけではなく、政策も、民族性すらも変わろうとしていたのだ。
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キリスト教はピクト人を新しい人々に変革していった。彼らの言語は薄れ、ゲイル語を話すようになった。アイオナから新しい宗教をもたらしたアイルランド人の僧侶のように。同時に、彼らは自分たちの名前も失い、ダルリエイダのゲイルにならって“スコットScots”と呼ぶようになった。
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コルンバが進めたピクトの改造のおかげで、今日、我々がスコットランドとして知っている地域の全域で、アイオナを教会の本山だと見るようになった。キリスト教はスコットランド全体を団結させる力を生んだ。それがスコットランド王国の形成の出発点になったことは間違いない。つまり、スコットランドはその起源をコルンバとアイルランド人に負っているのだ。
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アイオナは中世初期のスコットランドにおけるウエストミンスター修道院Westminster Abbeyになった。
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宗教と政治の力が結合した場所だ。教会における、この2つの力の密接な関係は、コルンバの時代にその起源を持っている。ここからそう遠くない場所で、コルンバは著名な客と一緒に儀式を行った。
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その儀式は、この地方ではとても重要なもので、ヨーロッパ全体にとっても意義のあるものだった。客はダルリエイダの新しい王エイドンのガベロンだった。
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(アドムナン“コルンバの伝記”より)「神聖なる人はアイオナに駆け付けた。到着すると聖コルンバは彼を王に任命した。聖コルンバはガベロンの土地の将来を予言し、彼の手をガベロンの頭の上に置いて王に任命し、彼を祝福した。」
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それは王制に対する考えの改革だった。それ以前はダルリエイダの指導者たちは邪教の祝福を求めていた。しかし、今度はキリスト教からの承認を求めたのだ。以降、何世紀もの間、ヨーロッパの全ての王国はこの出来事に倣(なら)うようになった。キリスト教の力は権力と表裏一体になったのだ。
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しかし、当時のコルンバにとっては、これは勝利だった。彼の威信と影響力は飛躍的に増大したのだ。

コルンバの教会が書き残したものはコルンバの膨れ上がった力と重要性に関するものばかりではなかった。アイオナは西洋芸術の完成品の一つと関係がある。“ケルズの本The Book of Kells”だ。
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(mh:ケルズKellsはアイルランドの修道院の名。聖コルンバの偉業を讃えるため、アイオナ修道院で作成が始まり、完成したのはアイルランドのケルズ修道院。アイルランドの国宝)
ケルズの本の原本はダブリンのトリニティ大学Trinity College図書館にある。それは余りに繊細な本なので残念だが撮影することはできない。しかし、幸運にもある人物がコピーを作っていた。
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とても重くてページ数も多そうだ。当時、世界でも最も大きくて厚い本だっただろう。中身を見ると判るが、修道院で書かれた本としか考えられないものだ。
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当時、修道院だけが、このような本を作るための資金と、決意と、技術支援力を持っていた。この本を作るには多くの写本家が何年もの時間を費やす必要がある。中世の歴史家の一人が“人間ではなく天使の作品”と言っているのもうなずける。
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本は宝石箱casketや羊皮紙の上に描かれていた4冊の福音書の絵の複製品だ。コロンバの死の何年も後、恐らくアイオナで描かれた。複雑に縒(よ)り合された、幾何学的で精緻な模様で、1ページ仕上げるのに何週間もかかったことだろう。
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本全体では300枚(600ページ)以上で、恐らく、何年もかけて作られたはずだ。実際の所、本は未完成のまま残されている。聖ジョンの肖像画では定型化された羽根ペンと、インク壺と、手にしている写本が、この作品を作った人物に敬意を示している。
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現代の写本家が、本の作り方について解説してくれた。
写本家ポール「驚異的ともいえる一品です。全てを包括していて、重厚で、刺激的です。」
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「これを作成するための組織の規模は考えられないほど大きくて広かったんでしょうね?」
「測り知れない程の仕事量ですからね。羊皮紙を手に入れるだけでも、大変だったと思います。150枚もの子牛の皮が必要でした。一つの皮から2枚の羊皮紙しか取れないのです。だから彼らは140匹から150匹程度の子牛が必要でした。子牛の群れ2つですよ!牛を殺し、皮をはぎ、洗浄し、なめすんです。300枚分も!ものすごい仕事量です。」
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「色についてはどうでしょう。どんな方法でこれらの色を手に入れていたのでしょう?」
「恐らく黄色が最も興味深い色です。」
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猛毒の物質から作られています。恐らく、この写本の中で使われている最も有毒な色素でしょう。砒素(ひそ)です。これは砒素の硫化物です。」
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「これを使って仕事をしたくはない代物です。修道院では大勢がこの毒で死んでいるはずです。色素として使う前にいろいろ調べないといけなかったはずですからね。大勢が死んだ後で、これが毒だと気付いたのではないでしょうか。」

「何ヶ所かで他とは異なる深みのある青が使われています。」
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「群青ultramarine blueはラピス・ラズリで、当時はアフガニスタンの鉱山からしか採れませんでした。つまり、そこから送られてきた石が使われているのです。誰かが、これを手に入れることができる誰と接触したのです。驚くほどに広いネットワークがあって初めて手に入れることができた色素です。」
「世界中に、複雑で、広い繋がりがないと、この本は創れなかったということですね。」
「芸術品として、本として、組織的な技術として、この本は見事な作品だとしか言いようがありません。」
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西暦597年にコルンバが死ぬと遺体はアイオナに埋葬された。邪教だったピクトの土地はキリスト教の恩恵を受けながら“キリスト教のスコットランド”への変革の道を歩んでいた。
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しかし、ブリテンの他の地方はどうだったのだろうか?

イングランドの北部(mhスコットランドの南部に接している場所です)に造られた長さ110Km以上のヘイドリアン長城は、かつてはローマ占領下のブリテンの威力を象徴していた。
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文明化されていない野蛮人ピクトから、文明化されキリスト教化されていたブリタニアBritanniaを守るために造られた。しかし、今では全く異なる境界線になっていた。その役割には劇的な逆転が起きていたのだ。

もしローマ人が振り向いたとすれば驚いただろう。長城の北は野蛮で暴力的な場所だった。しかし、今はキリスト教が法律、学問などを取り仕切る土地になっているのだ。その一方で、長城の南のこの地は、ローマ的でキリスト教的だったのに、全く、そうではなくなっていた。キリスト教は所々に残ってはいたが、ローマ属州だったブリタニアの大半は邪教徒サクソンの手中にあったのだ。

サクソン人は軍隊として、150年程前に、ブリテンの海岸に到着していた。
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歴史書は乱暴な戦士たちが、先住民のブリテン人を簡単に征服し、かつてのローマ帝国の属州ブリタニアを占領していく厳しい様子を描いている。国土には多くのゲルマン系の王国が生まれた。彼らは同じ祖先をもちながらも領土を巡り、絶えず紛争を繰り返していた。
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マンチェスター大学ライアン博士「当時の様子は、統一された英国のイメージは全くありませんでした。パッチワークのように、小さな王国や少数の人々の集まりから出来ていました。言語や文化のある一面には共通性がありましたが、その他の面では、それぞれが独立していたのです。」
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「これらの小さな王国間の関係はどんなものだったのでしょうか?」
「多くの場合、敵対関係にありました。かつて発展していた王国も別の王国に占領され、吸収され、大きな王国が生まれていきました。こんな状態でしたから、戦いはいつも行われていたという訳ではなく、時々、起きていたと考えられます。」
「キリスト教やその他の宗教という観点ではどうだったのでしょうか?」
「宗教的には邪教のままでした。しかし、邪教そのものも、キリスト教との接触で変化していました。6世紀の終わり頃まで邪教の寺院が造られたのですが、その後、邪教の一神教のようなものに変化しました。特にウォールデンが敬(うやま)われたようです。」
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「ウォールデンというのは戦いの神ですよね?」
「そうです。その類の神です。恐らく戦士の貴族や王族の社会が出現してきたためではないかと思います。」
「キリスト教に変化していないということは、アングロ・サクソンはキリスト教の発展を破壊していたということでしょうか?」
「というより、限界にあったのだと思います。学問がなくても出来ることはある程度はありましたが、学問は未開の土地を管理するにはとても重要な手段です。従って、それがない彼らは社会や王国の拡大の限界にあったんだと思います。」

アイオナの力は、邪教でサンクソン化したイングランドに焦点を当てていたと思うかも知れない。
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しかし、アイオナよりももっと離れた所から昔のローマ属州ブリタニアを見ている目があった。

ローマ帝国は消滅していたが、彼らが受け入れたキリスト教は教皇を戴いて都市ローマで生き残っていた。
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アイルランド系の修道院が独立的self-governingだったのに対し、教皇制は中央集権化されていた。ローマ帝国の官僚制と共に、ローマの野心をも受け継いでいた。
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ヨーロッパで着実に権威を拡大していたが、その影響はブリテンやアイルランドに到る直前で留められていた。新しい教皇で野心的な大グレゴリーGregory the Greatは、この状況を変えようと決意し、それを実現するため、ブリテンに使節団を派遣した。
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教皇に派遣されたアイル・オガスティンは西暦597年にブリテンのケントKentに上陸した。コルンバが死んだ年だ。
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彼はケントの王エセルバートと屋外で面談した。サクソン人は、室内ではキリスト教徒が黒魔術を使うのではないかと恐れていたのだ。しかし、王エセルバートはキリスト教について何も知っていなかった訳ではない。事実、彼の妻はゴール(フランス)の出身で既にキリスト教徒だったのだ。結局、彼は自分自身だけではなく彼の王国の人々をキリスト教徒に改宗することにした。ローマ使節団の目的は直ちに実現の道を進み出したかに思われた。オーガスティンと彼の使節団は、目的の達成は容易そうだと思ったはずだ。
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しかし、彼は直ぐ考え直さねばならなくなる。

使節団は北に移動し、ケントを過ぎてテームズ川を越え、エセックス王国に入った。首都はロンドンだった。そこに教会が建てられた。セント・ポール寺院だ。同じ場所に現在のセント・ポール大聖堂が建っている。
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セント・ポール寺院の建設は使節団の力が増しつつあったことを暗示する。しかし、ケントから北の地方に移動していくにつれ、サクソン人に新しい信仰を抱かせる仕事がどんどん難しくなっていくのがわかった。このことについて中世の歴史家は言っている“サクソン人は頑固で、キリスト教による精神的な利益よりも現実的な利益の方に関心を持っていた。”その一例だが、新たにキリスト教徒になったサクソン人の祭司は、戦いの結果が彼の立場に不利なものだったので、教会を冒涜(ぼうとく)したという。

我々は、歴史家ビードBedeの記録のおかげで、当時の出来事の詳細な知識を得ることが出来る。事実、彼の記録は英国で書き記された最初の歴史と言える。その中でローマの使節団の目的が、どのように瓦解(がかい)していったのかを記している。
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改宗の鍵となるはずだった東サクソンの王が死んだ。彼はキリスト教に改宗していたが、3人の息子は邪教徒のままだった。ある日、彼らはセント・ポールに殴り込み、父王が教会からもらって食べていたパンをほしいと要求した。司教はだめだと言った。何故なら、彼らは父と異なりキリスト教徒ではなかったからだ。しかし、これに納得しなかった3人の邪教徒の王子たちは、司教とその従者たちをロンドンから追放してしまったのだ。ロンドンは邪教に戻っていった。20年後、使節団がブリテンで改宗に成功したのはケントだけになってしまった。
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イングランドの北では、邪教をキリスト教に改宗させようとする別の試みが始まっていた。ノースアンブリア王国Northumbriaは、当時、最も強力なアングロ・サクソンの領土だった。王国は激動の中にあった。王は近隣の部族と紛争し、敵を殺害していた。キリスト教の枠組みは僅かに出来上がってはいたが、ロンドン同様、邪教の暗黒の中に戻りつつあった。西暦634年、ノースアンブリア王国の若い新王オズワルドは王国の中心とも言える、ここバンバーBamburghの難攻不落な砦に到着した。
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12歳の時、父が戦いで殺され、命からがら逃げて来たのだ。その後18年間、亡命生活を続けた。年月は彼を変え、ブリテンも変わっていた。何故なら、彼は当時、アイオナで過ごしていたのだ。キリスト教徒になり、邪教の王国をキリスト教の国に変えようと決意して、ノースアンブリアに戻った。彼はアイオナから司教にきてもらい、彼の支援をしてもらおうと考え、アイオナに従者を派遣した。一人の司教が来たが、直ぐにアイオナに戻ると、英国は文明化していなく、野蛮で、頑固だから変革はとても不可能だと報告した。
歴史家ビードの“英国教会と人々の歴史”には次のような記載がある。
「司教がここアイオナに戻った時、緊急会議が招集された。それは何をすべきかを決める会議ではなかった。しかし、一人の若い僧侶が、果敢にも彼の意見を述べた。」
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「 “みなさん。みなさんは、ここで学んだことや、しなければならないことについて、もっと厳格であるべきだと思います。簡単な宣教活動だけに注力すべきではありません。難しくても、神の言葉を伝えたなら、彼らは更に大きな神の愛情を受け入れるようになるでしょう。”」

部屋の中の誰もが若い成り上がり者を見て、誰か黙らせる者はいないのだろうかと思った瞬間かも知れない。しかし、彼の言葉は感動を与えたのに違いない。何故なら、彼は司教となり、その仕事を成し遂げることになったのだ。彼の名はエイデンAidenだ。彼がアイルランド人使節の最後の偉大な人になる。
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オズワルドの保護を受け、エイデンはリンディスファーン島に最初の教会を建設した。西暦635年、島は神聖な場所となった。
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リンディスファーンは訪問し易いアイオナとも言える。2つとも海で囲まれているのだが、リンディスファーンの場合、潮が引くと土手道causewayを辿って歩いていける、1400年前の僧侶たちのように。

東海岸の岬の先端にぶら下がるような場所で、厳しい気象条件に翻弄されながら佇(たたず)む教会に、審美的な感情をもつ僧侶なら間違いなく歓喜しただろう。アイオナの最初の建物のように、ここでも昔の教会はなく、その跡に新しい建物が建てられている。
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しかし、粗末な初代の教会から、急速に重要な場所として成長し、交易の場所であると共に、北イングランド(mhスコットランドの南に接しているイングランドです!)にキリスト教のメッセージを伝える核になっていった。オズワルドの牙城バンバーから数Kmと近く、オズワルドとエイデンの関係を強力に保つのにも都合のよい場所だった。オズワルドはエイデンの説教を英国の貴族たちに翻訳して伝えることもあったのだ。教会と王国の親密な関係はエイデンがミッションを成功させるための重要な要素だった。

王との密接な関係があったおかげで、エイデンはしばしば貴族から贈り物をもらった。彼は、そのような習慣は好きではなかったが、活用することにした。以前のコルンバのように、彼は奴隷制に反対だった。そこで貰った贈り物を奴隷を解放するために使った。解放された奴隷の多くはキリスト教に改宗した。また、オズワルドは邪教の貴族たちを率いて戦いに臨んだ時、“自分は勝利を約束してくれるコルンバの姿を見た”と話した。そして、戦いに勝利すると、キリスト教に改宗するよう貴族たちを説得した。こうして、キリスト教の布教は、トップダウンで進められていった。トップが改宗すれば、これに従う者たちも改宗していったのだ。
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奴隷や貴族たちが考えを変えていったことは容易に推定がつくが、その他の大勢の人々はどうだったのだろう?
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ドゥアラム郡のエスコーは邪教の国の中でも、最初に教会が建てられた所だ。
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「7世紀、ここでキリスト教が崇拝されることになったのは何故でしょうか?」
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オックスフォード大学フット教授「キリスト教はアングロ・サクソンの社会の中で、全ての身分の人々に大きなインパクトを与えたのです。そのひとつとして、キリスト教が永遠の質問に対する答えを与えてくれたことが挙げられると思います。何故わたしたちはここにいるのか、将来はどこにいくのかなどといった疑問に答えたのです。キリスト教はこの世における永遠の生命と救いを約束していました。永遠の世界は、今生きている世の中よりも平等主義的でした。社会的な身分差別は、邪教では永久に続きますが、キリスト教では消滅するのです。それが大勢の人に受け入れられる要因になったと私は思います。」
「つまり、あなたはキリスト教には大勢の人々に対する本当の支援があったと考えていらっしゃるのですね?」
「生まれた子供は誰もが洗礼を受けました。死ぬと誰もがこの教会で埋葬の儀式を受け墓地に埋められ、次の世に安らかに旅立ったのです。」
「邪教からキリスト教への改宗はどのように革新的だったといえるでしょうか?」
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「間違いなく基本的なfundamental変化だったと思います。生活の様式についても新たな方法を細かく定めていました。例えば結婚や葬儀をどのように考え、どのように振る舞えばいいのかも教えたのです。教会は石を使った建築技術も持ち込みました。羊皮紙に絵や文字を書く技術も教えました。イングランドにおける日常生活の全てが変わったんです。キリスト教への改宗は、最初の千年紀における、英国で最大の変革だったと言ってもいいと思います。」

しかし、英国のキリスト教が独自の変革を始めだすと、直ぐにアイルランド系のキリスト教と対立するようになった。ノーサンバーランドのヘクサン修道院Hexham Abbeyはアイルランド人がイングランドにやって来て40年もしないうちに建てられた。
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地上に残っているものの多くは、後年に建てられたものだ。しかし、その下には、驚くべき宝物が残っている。
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ローマ時代の建物に使われていた石を再利用して造られているのだ。サクソンの英国が石を使う建築技術に欠けていたことを示している。しかし、同時に象徴的でもある。
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当時、ヨーロッパ中でも素晴らしい建築物だっただろう。しかし、使われている石はここから5Kmにあった砦を壊して持ってきたものだ。例えばこの石は入口の梁(はり)に使われていたものだ。
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ローマの石を建築に再利用しながら、ローマの宗教や法律を英国に再導入したのだ。

事実、ヘクサンの教会は、書き記された法律を英国にもたらした技能者instrumentによって建てられた。ヨークYorkのウィルフレッドだ。
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マンチェスター大学ライアン博士「彼はアングロ・サクソンにキリスト教を広めた。更には文化や、書物化された法律も持ち込んだ。」
ウィルフレッドはリンダスバーンという男を教育し、リンダスバーンはローマを初めて訪れるサクソン人僧侶になった。彼は、そこで教皇に面会もしている。中央集権化されたローマの教会はウィルフレッドの合理的な発想に強く共感を与えたようだ。
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彼は儀式や規則に関するあらゆる疑問への参照を求める時、ローマを向くことが多くなった。そしてヨークシャーにあったアイルランド系の修道院を彼が引き継ぐことになった時、ローマの慣習に従わないからとの理由で、それまでの修道院長を追放した。そうして、英国の司祭や貴族たちがアイルランドのやり方よりもローマの方法を選ぶようになるにつれ、緊張は徐々に高まっていった。

西暦663年、事態はとうとうバンバーBamburghにまで及ぶことになった。キリスト教の最も重要な祭りイースターEaster(復活祭)の日程について議論されることになったのだ。
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ノースアンブリア王国の王は、かつて幽閉され、アイルランドの祭司と共にキリスト教を学んだことがある島で過ごしていた。彼の妻である女王はケントの生まれで、そこはローマの教えが普及していた。2つの伝統はイースターの時期に関して異なる考えを持っていた。知っているかもしれないが、当時、キリスト教徒はレントLent(禁断日)の間は性交が許されていなかった。
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イースターの日曜日に王が礼拝堂に来た時、彼は豪華な食事と、寝室で彼を待つ妻を期待していた。しかし、妻にとってのイースターは1週間後だった。イースター前の聖枝祭Palm Sundayだった彼女はサックロス(sackclothずた袋)を着ていて、次の一週間、結婚関係は問題外だったのだ。英国の歴史でこれが最後というわけではないのだが、マビーダの王のおかげで(?)危機が訪れることになった。

しかし、寝室の話より深刻な対立があった。アイルランド系の教会とローマの教会という2つの対立するキリスト教の権力闘争だ。

西暦664年、ヨークシャー海岸のウィトゥビー修道院はヨーロッパのキリスト教の分水嶺の様相を呈していた。
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イースター問題を決着するため、ノースアンブリアの王は“シノン(口論会?)”を招集した。シノンは、我々には難解な論理的な口論会のような不可解な印象を与える。しかし、今回はそうではなかった。トップ会談で京都会議とかG8会談のようなもので、大勢の人々から成る派遣団が参加していた。ローマ側はウィルフレッドで、田舎の少年だが、全てのキリスト教教会で同じキリスト教に統一することの重要性を信じていた。
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一方のアイルランド側はエイデンの後継者でリンダの修道院長コールマンだ。まずウィルフレッドが意見を述べたが、それは敵対的な口論会になることを予告していた。
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歴史家ビードによればウィルフレッドは言った「世界全体の考えに反対する僅かな人々は、ここにいるアイルランド人と頑固で固執的なピクト人だ。あなた方の父は聖人だった。しかし、彼らはアイルランドという辺境の地の人で、万人のためのキリスト教会が世界に広がる前の時代の人だ。」
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「かなり加熱した口論が行われたように感じますが、シノン(口論会?)では、いつもこのような表現をしていたのでしょうか?」
オックスフォード大学フット教授「アングロ・サクソン教会が作成した報告書の中でも最も暴力的なものでしょう。嵐が吹きまくるような、冷酷な乱暴な表現を多くの場面で採ったのでしょう。」
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「事実を反映しているのでしょうか。何か見返りがあったんでしょうか?」
「驚くほど沢山の見返りがありました。キリスト教の中心的な祭典であるイースターをいつ祝福するのかというのは、キリスト教の根幹でもあり、それはキリスト教の他の行事の日程にも重大な影響を与えます。アイオナとヨーロッパのどちらがキリスト教のこれからの主流になるかという重大な決定が行われた瞬間だと言えるでしょう。」

数日の審議の後、ノースアンブリアの王は彼の結論に達した。彼はローマの考えを採用することにしたのだ。
オックスフォード大学フット教授「彼はローマの教皇と緊密になることを決めたのです。教皇との書簡のやり取りも行っています。彼の決断は、今後永遠に、聖コルンバではなくローマ教会に従うというものでした。」
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「つまりローマはアイルランドよりも魅力的な連合対称だったということですね?」
「ローマ教会の信仰の仲間に入ることは英国の教会を西ヨーロパのキリスト教の王国の流れに乗せることでした。彼らの国は、時には英国がそう呼ばれるような“小さな島国”ではなく、ヨーロッパ大陸の一部を形成していたのです。イースターを大陸の日程と合わせることは、ヨーロッパの主流に合流するという決定だったのです。信仰の流れという意味においてですが。」
「コロンバに従ってきたアイルランド人の僧侶たちはどう思ったのでしょう?流れが全く逆転したわけですが。」
「大きな衝撃を受けました。これまで学んできた教えにも疑問を持ちはじめたのです。その結果、多くの僧侶は荷物を纏めてアイオナを去ることになりました。」
(mh:英国人のQueen’s Englishとでもいうのでしょうか。その上、フット教授(女性)は早口で、一体、何を仰っているのか、とても聞き取り辛く、主旨だけをご披露させて頂いています。悪しからず。)

私はアイオナに戻りながら、論争に負けた修道院長コールマンの旅の憂鬱を容易に想像することが出来る。
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アイオナに到着するまでに、彼は重大な結論に到達していた。彼は、政治的な後退に直面した今日の政治家が行うように、退任したのだ。ウィトゥビーでの“シノン(口論会?)”の結果、アイオナの教会の権威はかつてと同じではなくなった。私はその悲劇に、しかし、そのアイロニーによっても、打ちのめされている。アイルランド人はキリスト教の力を英国に持ち込んで来た。しかし、イギリス人はその力を使って彼らに対抗したのだ。

しかし、まだ最悪事態は訪れてはいなかった。

キリスト教使節の宣教の道であり、交易や思想が行きかっていた海は、今度は北からの侵略者を連れて来た。西暦700年代の後半、海賊が修道院を襲撃した。アイオナの修道院は何度も攻撃に会い、ある攻撃では院のほとんど全員とも言える68人の僧侶がこの海岸に連れ出されて切り殺された。
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それ以降、この地は“殉教者湾”と呼ばれるようになった。このような場面は英国とアイルランドで何度も起きた。アイルランドのキリスト教の偉大な時代は血なまぐさい終局を迎えてしまったのだ。
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"How The Celts Saved Britain" (part 2of2) Dark ages and the Celts - BBC 2009
https://www.youtube.com/watch?v=uIBkv7pU9Eo#t=1061.4635138

“ケルズの本The Book of Kells”
全680ページ(見開きにすると340ページ)で、Trinity College Dublinの電子本は次のURLで見ることが出来ます。
http://digitalcollections.tcd.ie/home/index.php?DRIS_ID=MS58_003v&#folder_id=14&pidtopage=MS58_130r&entry_point=1

アイオナ島Isle of Ionaは2x4Kmの小島です。
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(完)

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新年のご挨拶

新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと

万葉集最後の歌(4516番):大伴家持

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