Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草129:保険勧誘が盛んです!


今日は1月27日。春一番のような温かい強風が関東を吹き荒れていますが、TVワイドショーの気象予報士が言うことには、春一番の条件を2つ欠いているとのこと。
Wiki「春一番」によれば
1)立春から春分までの間に、
2)日本海を進む低気圧に向かって、
3)南側の高気圧から
4)10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、
5)前日に比べて気温が上昇する。
とありますが、今日は立春前で、低気圧は樺太(サハリン)上空にあり、1)と2)の条件を満さないから春一番ではなく、低気圧の位置は北に寄っていて3、4月頃のようらしいです。北海道でも日中は5~7℃で、雪が融け、今夕にぶり返す冷え込みで道路が凍結して事故が増えるのでは、と心配する人が多いようです。札幌大通り公園では雪まつりの準備が進んでいますが、既に出来上がっていた雪像が溶けて崩れないか心配している人もいました。

Wiki「立春」(りっしゅん、英: Imbolc)
二十四節気の第1。正月節(旧暦12月後半から1月前半)。
現在広まっている定気法では太陽黄経が315度のときで2月4日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から1/8年(約45.66日)後で2月5日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の雨水前日までである。
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で~暇を持て余しているmhは、今週、ブログ“世界の不思議”を2つも投稿し、まだ1月27日なのに5月29日までの4ヶ月分のストックを積み上げた今、2月中旬から10日間のモロッコの旅をどう楽しもうかな、なんて考える余裕が生まれ、至福の時間を過ごそうとしているところですが・・・
せっかちなmhですから、滞っているmh徒然草の投稿ブログを作らなきゃあと思い立ち、ネットブラウジングnet browsingしながらネタ探しを始めると・・・
トランプ大統領の指先外交(“Twitterで勝手なことを言いまくる”の意)でメキシコ大統領との首脳会談中止を決断とか、韓国の地方裁判所が下した対馬から盗賊が持ち逃げした仏像の“韓国所有の正当”の裁定、など、猫も跨いで通る、ブログのネタにもならない腐った出来事しか見当たりません。

で~最近、少し気になっていた保険勧誘について徒然なるままに書き綴ろうかと、キーボードを叩き始めたのですが・・・
若干というか、かなり無理がありそうですが、やむを得ません。続けましょう。

で~確か10日ほど前の1月中旬、入院保険や生命保険の約款(やっかん)が難しくて、老人が正当な保険金を受け取れないというニュース(朝日新聞で見たと思うのですが、mhの記憶はいつも曖昧です)を眼にしたmhは、“そう言われてみればTVコマーシャルの中にも保険勧誘ものが多いなぁ”って感じています。勧誘の電話も月に2,3回、かかってきますから、やはり保険の勧誘傾向は高くなっているとみて間違いでないでしょう。

で~何故そうなったんだろう?って思ったんですが、お釈迦様が仰るように、因果応報で、理由があるんですね。

まず、高齢者が多くなったことが挙げられるでしょう。年金をもらって、そこそこ幸せに暮らしてはいるものの、病気で入院でもすれば、途端にお金に困ってしまうだろうから、保険に入っとかないと駄目かも、って思う老人が増えているんですね、きっと。

さらには、保険会社の収入源は、保険料総額と保険金総額の差額だと思いますが、それ以外に、集金した保険料を株とか債券で運用しているんですね。しかし、株や債券はトランプ大統領の指先一つで右往左往し、売り買いが活性化して証券会社やウォール街のファンド会社は大儲けするんでしょうが、株や債券を買った生命保険会社にとっては安定した収入源ではなくなってしまいました。そこで、本来の収入源である保険業での利益を確保しようとして、大勢の人を加入させて保険料総額を増やし、保険金の支払いは厳格化して、差額の利益を増やそうと画策していると推定できます。特に老人は、後述するように、保険会社にとっては、最高のターゲットです。

で~ある大手保険会社がTVでも宣伝している医療保険は・・・
70歳の場合、月6千6百円の保険料で、入院なら1日5千円の入院給付金、手術は1回10万円の手術給付金がもらえます。注意書きには、入院後に退院し、180日以内に再入院すると、1回の入院とみなされ、重複して入院給付金が支払われることは無い、とあります。入院の理由ですが、mhのように親不知の抜歯は支給非対象で、7疾病じゃあなけりゃあ駄目なんですね。
7疾病とは1.ガン(悪性新生物・上皮内新生物)2.糖尿病3.心疾患4.高血圧性疾患5.脳血管疾患6.肝疾患7.腎疾患です。

で~注意書きの意味するところは何か?
考えてみたんですけど、はっきりしません。
もし、健康診断でガンが見つかったとすると、恐らく、次のステップは精密検査でしょう。精密検査なしで即入院するケースはガンの場合はないと思われます。で、精密検査では数日の入院が必要かもしれません。その後、結果が出るまで自宅待機となります。つまり3,4日の検査入院が終わったら、一旦、退院します。検査結果は1,2週間後に出て、手術が必要となれば再入院になります。で~手術を終えて3週間で退院し、自宅で経過を見ていたら、どうも進展が今一つよくないようだから、再入院して再検査と再手術だってことになるかも知れません。

この例では検査入院(3,4日)、退院して数週間後に手術入院(3週間くらい)、退院して数か月後に再手術入院(1ヶ月くらい)と、入院が3回、手術は2回行われるのですが、もし、最初の検査入院で保険金請求をしてしまうと、2回目以降の手術入院では入院保険金(1日5千円)がもらえない恐れがあります。この辺りについては保険会社の記述だけで正確に判断するのは困難ですね。証券会社も銀行もそうですが、この種の約款(やっかん)は、顧客が簡単に理解できないよう作成しているのでは?と疑わざるを得ないほどに難解です。

疾病保険に加入して毎月6千6百円を収めても、交通事故入院なら保険金はもらえないし、7疾病で入院したとしても、1日5千円しかもらえないし、保険金受給対象の入院日数は再入院だとどうなるのかも不透明だし、保険金請求資料の作成は老人には難しいだろうし、もしmhの奥方が先に逝ってしまい、mhが85歳になっていて、その時でも自動継続契約で毎月6千6百円(80歳が契約最高年齢のようです。保険料は8千7百円とありますが、まさか年齢と共に保険料がUPしていくってことはなく、契約時の6千6百円が据え置かれているはずですが、それは明記されていません。)を口座自動振り込みしているとすれば、痴呆症にかかっているかもしれないmhは、保険金の請求なんて、思い付かないし、誰も気に掛けてくれないでしょうから、結局、死ぬまで、死んでからも解約契約するまで、保険料は差っ引かれ、保険金を受け取ることはないって事態は十分に考えられます。

また手術ですが、親不知の抜歯で4泊5日の入院費用が8万5千円ですから、ガン摘出手術などでは数十万、場所が悪ければ1百万円するかもしれませんから、1回だけ10万円の手術給付金を貰っても、焼け石に水のようなもので、大して助けにはなりません。

ということで、mhは保険嫌いで通していますが、女房殿はオマジナイ代わりに掛け捨ての共済保険に加入して30年。現在の保険料は月1600円ですが加入当初は月3千円ほどだったはずで、累計で30年x12ヶ月x2千5百円≒45万円を掛け捨てたことになります。mhなら“タクラマカン砂漠周遊駱駝の旅(15日)”を楽しめる金額です。

高齢化が進んで老人の数が増え、入院するのは老人が多く、老人の保険料は高く、老人ほど保険金請求能力が低いとなれば、老人をターゲットにした保険ビジネスが盛んになったのも、お釈迦様が仰るように、因果応報と言わざるを得ません。

で~読者諸氏は、どうされていますか?銀行口座から自動引き去り型で保険金を納入している方は、解約するか、せめて自動振り込みをやめることをお薦めしますが、あなたが倒れて入院すると保険料の送金が滞り、保険金の受給権を失う恐れがありますから、銀行自動振り込みを継続するしかないかも知れません。こうして死後も銀行口座が閉鎖されるまで、保険料は引き去られ続けるのです。恐ろしいですねぇ、保険は!それでもまだ続けるか、それともやめるか。決断はご自身の責任でお願い致します。

The Beatles - Help - with lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=cueulBxn1Fw
(完)

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カホキアの不思議


カホキア (Cahokia) は、アメリカ合衆国の中央を流れるミシシッピ川中流にあります。ミシシッピ川河口の町ニューオリンズNew Orleansからは直線で1千Km上流です。

そこにはミズリー州state of Missouri(州都Jefferson City)の大都市セントルイスSaint Louisがあります。カホキアは、その対岸(東岸)に残っている遺跡ですが、川一つ挟んでミズリー州からイリノイ州State of Illinoisになっています。

カホキアには、土を積み上げた小山というか高台のようなものがあるんです。一番大きいのが“僧の丘Monks Mound”と呼ばれ、次の写真で奥に見える2段の長方形の丘です。
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9平方Kmに、半円丘の小山を含め、土を盛り上げて造った山が80あるようですね。最盛期には16平方Kmに120の大きな丘が造られていたとWikiにあります。

Monks Mound:高さ30m
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これらの小山は、いつ、誰が、何の目的で造り、なぜ放棄されていたのか?

mhのブログの愛読者なら直ぐ答えが判るかも知れないのですが、慌(あわ)てて結論を出すこともないでしょうから、じっくりとこのブログを読んで頂き、時間があれば、最後にYoutube(15分)でご確認下さい。英語ナレーションは聞きやすく、ヒアリングの訓練にもなると思います。

・・・・・・・・・・・・
Cahokiaカホキア
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City of the Sun太陽の都市
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もし時間を遡ることが出来たのなら、この場所の謎を解き明かすことができるだろう。どんな計画に基づいて、どのように造られたのか?人々にとってどんな意味があったのか?
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今なら、我々はカホキアに関する全ての手掛かりを見ることができる。メキシコよりも北にある最も広い考古学的な土地に、アメリカで最大の面積の記念碑的な巨大な丘と、あるパターンで長く連続的に続いている小さな小山を。
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カホキアのような場所は他には見当たらない。我々は、今もその謎を調べ続けている。カホキアと似た当時の都市が全く見つかっていないため、どんな人々が何のために造ったのかを調べるのは大変な仕事だ。
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この谷間Valleyは豊かで、自然が満ちていた。肥沃な土壌は北アメリカ大陸で最も偉大な川によって運ばれ、堆積し、多様な植物種plant speciesを育てていた。
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川や、洪水で生まれた平地や小さな森は、いくつかの異なる野生動物の生息地を造り上げていた。そこは、1万2千年前に移り住んできた人間の生息地にもなった。
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1千年前、ここの住民は文化を生み出した。我々は彼らをミシシピアンと呼んでいる。丘を造った男や女たちだ。
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古代の人々のように、彼らは唐茄子(squashスクヲッシュ)、向日葵(ひまわり)、その他の種子作物を育てていた。野生の植物、魚、その他の動物も重要な食料だった。しかし、人々にとって大きな事業は農業だった。
例えばミシシピアン社会が玉蜀黍(とうもろこし)を育て始めると、必要以上の余剰分の収穫も可能だった。
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玉蜀黍はこの地で豊かに実ったのだ。収穫効率は高かった。玉蜀黍は保存が可能なので、不作時の予備として、何年分も保管することが出来た。こうして安定的な食料供給を確保していたので、多くの人々がカホキアを永住地とすることが出来た。
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また、ミシシピアンは余剰収穫物を肉、道具、衣服、その他の製品と交換していた。
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このことは、ある人々は農耕する必要が無かったことを意味する。彼らは、道具の製作など、別の活動に専念することが出来た。
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そうして、玉蜀黍や他の農作物は食糧以上のものになり、これらは社会の全てを活性化していた。

指導者は様々な目的のため、玉蜀黍の分配を要求していただろう。彼の使者は集団から生まれた余剰品を、銅や貝殻など、貴重で異国的な製品と交易していたかも知れない。
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ミシシピアン社会はこのようにして五大湖からメキシコ湾まで、大西洋からオザーク高原まで、何千Kmも広がるネットワークの上で交易した。
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ネットワークの中の全ての集団はミシシピアンの伝統の一部だった。

大きな集団は、高くて平らな頂きを持つ丘を造り上げた。土を盛り上げた丘の上には寺院や、その他の建物が造られていた。
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ミシシッピ川とミズーリ川が合流する低地一帯では、さらに親密なネットワークが存在していた。玉蜀黍(とうもろこし)平原の縁(ふち)の、二三の家で構成される集団などの小さな部落は、より大きな村と、村は更に大きな、数千人の住民から成る社会と繋がっていた。
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そして、これら全ての中心はカホキアだった。

カホキア。偉大な丘。広大な記念碑的な広場plaza。住居は見渡す限り広がっていた。
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カホキア。そこは富と防衛をあわせ持つ権力の場所だった。数百年の間、繁栄した。
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カホキア。多くの拠点が堂々と、その上、十分に工夫されて配置されていた。各々の拠点はそれぞれの機能を持っていた。
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競技や儀式や大集会のための大きな広場があった。全長数Kmの木造の柵は中央の儀式区画を守っていた。我々が“ウッド・ヘンジWood Henge”と呼ぶ、ユニークな太陽の暦(こよみ)もあった。
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トウモロコシやその他の作物畑は2万人を養うに十分な広さで、余剰の収穫も確保できていた。丘を造るために土を掘った所は溜池に使われた。身の丈程の土塁は都市の境界を確定していた。頂が平らな丘の上には建物が造られていた。円錐状の埋葬用の小山もあった。そして、ある一つの丘は、他のどの丘よりも、ミシシピアン社会のどの建造物よりも大きかった。この土で作られた大きな丘はコミュニティの中心に位置していた。
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そこは、一帯で一番高い場所で、リーダが暮らしていた。そこからリーダは大地を支配し、天と会話した。彼の富は測ることが出来ず、彼の知恵は深淵で、彼の権威は疑いの余地がなかった。
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リーダは天上界と地上界の間の精神的な力のバランスを維持する責任があった。そして、恐らく、それ以上に困難な役割は、人々の間の秩序と調和を維持する責任があったということだろう。

彼に捧げる奉仕は、神に対する奉仕と同じだった。最も賢い助言者と共に、リーダは彼の寺院の場所ともなる偉大な丘の建設を指導した。
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数千人の建設作業者にとって偉大な丘を造る作業は忠誠心や信仰の現れだった。段状の丘を造るため、人々は大地を石の鋤(すき)で掘り、一度に15から20Kgの土を編んだ籠に詰め、300年以上をかけ1千5百万回も、背に担(かつ)いで運んだ。
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彼らは偉大な丘がどんどん大きくなるのを眺めては満足していた。

カホキアは活気に満ちた、忙しい町だった。人々は道具やその他の品物を作り、使っていた。彼らは食糧を確保し、準備し、家やその他の建物を建てた。彼らは、大量のゴミや、犯罪など、都市生活のあらゆる副産物と格闘していた。彼らは子供を育て、病人を看護し、死人を埋葬していた。
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カホキアの人口が増加するにつれ、複雑性も拡大していた。初期には、一つの家族は自分たちが必要とするものだけを準備していただけだろう。
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しかし複雑化してくると、生き残るため、他の部族と交易し、共に働かねばならなかった。現代の我々の社会と同じように、関係は家族を越えて拡大し始め、コミュニティの中で相互関係のネットワークを作りだしていた。カホキアの人々にとっては、毎日が身体や、精神や、魂への挑戦だった。

どこの、どの時代の人類とも同じように、見える部分や見えない部分、知っている自然や知らない自然など、自分たちの世界を理解するための一助として、ミシシピアンは神話や信仰を使った。
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彼らが信じていたことのヒントは、彼らが行っていた儀式や彼らが使っていた象徴の中に見つけることが出来る。
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種は播(ま)かれた。死んで去っていった友のように、芽を出して新しい植物になり、実を付け、収穫される。そしてまた種となって播かれるのだ。
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死は生の後に起き、生は死の後に起きる。それは決して終わりの無い繰り返しだ。
地中の蛇を考えてごらん。
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古い殻(から)の中から新しい殻を付けて現れてくるまで見えないんだ。

太陽を見てごらん。火や生命を与え、完璧な期待通りの円弧を描いて天空を横切る。
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季節を表わすために太陽を使いなさい。昼と夜の長さが同じ瞬間を記録に残すために使いなさい。くりかえす生命の長さを測るために使いなさい。

今日、我々は無限の好奇心を持ってカホキアの昔を振り返ることが出来る。
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現代では、新しい科学や新しい技術や新しい発想がこの谷を数百年の間支配していた文明を理解する手助けになっている。しかし、なお多くの不思議は解き明かされないまま残っている。多くの発見が成されないまま残っている。例えば、13世紀の終わりから14世紀の始めのある時期、カホキアが衰退し始めたのはなぜかを知っている人は誰もいない。我々が知っているのは、終わりはゆっくり訪れたということだけだ。何年もの間、カホキアの権威と権力は挑戦を受けていた。
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栄養不足や流行病が大きな問題になっていたことは知っている。恐らく、気候変化は収穫を縮小し、人口増を抑制しただろう。または階級闘争とか、部族の間、または外部との争いが衰退に影響しているかも知れない。これらの謎は今も残されたままで、神聖な火がまだくすぶり続けている間に、想像力を働かせて昔の様子を考えるよう我々を駆り立てている。
“昔、地球は豊かで、私の人々は大勢いた。沢山の火が我々を温めていた。我々は玉蜀黍(maizeとうもろこし)を植え、雨や太陽光の祝福を受けられるよう祈った。”
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“我々は遠くまで旅をし、沢山の土産を持ち帰った。綺麗な家や偉大な寺院も見た。”

“どこへ行っても、我々は我々の故郷の偉大さを讃える歌を勇壮に歌った。何故なら、この地ほど素晴らしくて尊厳(そんげん)なものはどこにもないからだ。
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“ここではトウモロコシは何処よりも良く育ち、走者はどこよりも早く走り、建物は天まで届くほどに高くそびえている。高貴な太陽は最も明るく輝いている。”
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Cahokia - City of the Sun
https://www.youtube.com/watch?v=GAXBA2Pt9wE

別のフィルムで見つかった資料を添付しておきましょう。

まずは現在のカホキアの近くの風景です。
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見つかった貝殻の首飾り。
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土偶
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隼の形で敷き詰めた貝殻の上に横たわる遺体が見つかっています。
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丸い小山は多くが円墳だったようですね。

カホキアが滅亡したのは14世紀の初期ですから、日本では鎌倉時代後期です。そう考えると、日本は長い歴史をもっていると言えますが、それは中国という古代文明国家の恩恵でしょう。中国から文化が流れてくることがなければ、日本の今の発展は無かったはずです。

(完)

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mh徒然草128:進退伺の意味?


ネットで見つかる進退伺書の雛形(ひながた)を自民党員だった小池百合子氏にあてはめると次のようになります。

自由民主党幹事長(自由民主党都連会長?)殿
平成28年○月○日
自由民主党
小池百合子
「党進退伺」
平成28年Ο月Ο日、都知事選に立候補することに致しました。この行為は自民党都連の方針に反したものであり、不祥事と非難されても仕方ないものです。
<辞表を添付しない場合>
この度の不始末は、全て党員である小池に原因があるのは明白であり、 その責任を負いたいと存じますので、進退についての指示を賜りたくお願い申し上げます。
<辞表を添付する場合>
つきましては、いかなる処分であれ、謹んで服する覚悟でございますので、 ここに自民党脱退届を添えて、今後の進退についてのご決裁をお待ち申し上げます。

で~小池都知事は今も自民党員なのか?

見出:宙に浮く小池百合子都知事の「自民党進退伺」 下村博文都連会長は「引き継ぎない」「小池さん本人が判断」
産経ニュース2017.1.12 22:36更新
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「東京都の小池百合子知事が昨年の都知事選出馬にあたり、自民党に提出した「進退伺」をめぐり、今夏の都議選を控える中で腹の探り合いが続いている。同党都連の下村博文会長は12日、報道陣に「(石原伸晃)前会長から引き継がれていない。党本部を含め(進退伺に)対処するつもりはない。(離党は)小池さん本人が判断すること」と述べるにとどめた。一方の小池氏も「首を切る切らないは、あちら(自民党)の問題」などと出方をうかがっている。
 都議選をめぐって小池氏は現在、主宰する政治塾「希望の塾」などから30人超の候補者擁立を目指しているほか、公明、民進両党との関係を深めている。さらに勝敗ラインを「(支持勢力で)過半数を目指すのは当たり前」と語るなど、最大会派自民への攻勢を強めている。
 また、小池氏は出演したテレビ朝日の番組で平成29年分の自民党費について「払っていない」などと述べ、期限だった28年末までに支払っていないことを明らかにした。
 党規則では原則、未納確定時点で除名となるため、自民関係者からは「これも都議選に向けた小池流の揺さぶりだろう」との指摘が出ている。」

恐らく、小池女史は自民党脱退伺に辞表は添付していないでしょう。つまり、自民党を脱退するつもりはありませんが、もし脱退せよということなら脱退いたします、という立場だと思われます。
そして自民党規則によれば28年12月中に党費未納が確定すれば除名で、小池女史は未納だって言ってますから、現時点(1月14日)では自民党員であってはいけないはずです。

しかし、自民党は、進退伺を受理していないのでコメントしようがない、というんですねぇ。

自民党都連会長だった石原氏の意向に反して、勝手に都知事選に立候補し、自民党推薦の候補を破って当選した小池女史に対し、自民党や自民党都連から何のお咎(とが)めも無く、進退伺は引き継がれていないので対応しようがないなどと、今の都連会長の下村氏は、寝ぼけたことを言っています。

しかし・・・
TVニュースショーに出てくる政治専門家によると、これが二人の大人の対応だといいます。簡単に言えば、お互いに本音は解っているけど、白黒つけるなんて子供じみた馬鹿なことはしないようにしましょうね、っていうことのようですねぇ。

で~本音とは何かと言うと、小池女史と自民党の損得の都合です。政治家持前の狡(ずる)さを、二人は、白昼堂々とさらけだしているんですね。

小池氏は自民党を脱退しろと言うなら脱退しますが、私から脱退するとは言いませんよ、って言ってるんです。
片や下村都連会長は、進退伺を引き継いでいないから対応しようがない、って言っていますが、それは白々しい嘘でしかありません。引き継いで知っているけれど、自民党の脱退は、まだ認めていませんよ、って言ってるんですね。つまり、小池女史の思うようにはさせない、ってことです。

いずれにしても、小池女史は進退伺を出し、離党でいいですよ、と言っているのに、自民党は離党を認めていなくて、小池女史も離党するとは言ってない。そして、これが大人の対応だっていうんですね、政治専門家は!

単純なmhに言わせれば、小池女史も下村氏も、政治専門家も、結局は政治屋で、狐とタヌキ。信用できる人間ではありません。

考えてもごらんなさい。自民党を離党してからすべきことをしておきながら、自民党のまま居座わろうという小池女史も、居座らせるつもりはないが、暫くは、飼い殺ししておこうと考える自民党も、眼中にあるのは自分の利益だけです。都政や国政など二の次です。

こんな、ご都合主義が大人の対応だとすれば、日本の政界は腐っているとしか言いようがありません。トランプ次期大統領は暴言を吐いていますが、自分に正直です。アメリカ国民は、大人の対応をする政治家にはうんざりしていたので、問題があるのを承知で正直なトランプ氏を選んだんですね。

それにしても・・・
政治家って、なんでこんな嫌な人ばかりなのでしょうか?それは、恐らく、当選回数が多くて大人の経験を積み重ねた高齢政治家が政界を牛耳っていて、若手政治家をも操っているからです。若手政治家も、数年すれば高齢政治家の考えに染まり、国政よりも次の選挙での当選だけを考える人間に成り下がっていきます。

この悪循環を断ち切るには、高齢政治家を国会から締め出すしかないのですが、日本人の多くは、どういう訳か、お釈迦様が仰るように理由はあるはずで、類は友を呼ぶからなのでしょうか、ずる賢い政治家が好きなんですね。その上、日本は高齢化してきて、若い人と異なる評価基準で投票する老人が増えている上、馬鹿らしいからって考えて投票しない若者が増えています。となると、今回の進退伺のような、訳の分からないことが、ますます増えていくのです。そうして、政界は、狡(ずる)い人たちの世界となり、それが世襲され、狡い人たちの家系が税金で私腹を肥やす場所になるのです。

この風潮を変える方法の一つは、戦争で負けることでしょう。特に島国の日本は自浄作用が働かないので、太平洋戦争で負けて日本軍国主義が挫折したように、中国やロシア、米国などなどの他国から、軍事的または経済的、または食料や地下資源などの供給断絶で国全体が打ちのめされるまで政界は腐り続けていくばかりです。

私などは、どう頑張っても、あと30年位しか生きていないので、その間だけよければ、後のことなど心配する必要はないし、心配したからと言ってどうなるものでもないのですが、私の子供や孫が苦労したり虐(しいた)げられたりする世が来るのを看過することは出来ません。

で~mhに出来ることと言えば・・・
選挙では青雲の志をもつ若手に投票することですね。足腰がしっかりしているうちは、投票所に出向き、一番若い人に投票しようかなって思っています。70歳を過ぎたら、投票所に行って、一番若い候補者に投票する!そうそう、70過ぎたら自動車運転免許証の返納もお忘れなく。私は6月に70ですが、この2月に返納するつもりです、女房殿と一緒に。

追記:
小池女史の進退伺を巡る対応について、マスコミは小池氏も自民党も批判していません。マスコミは小池女史にべったりで、ならば彼女の行動を否定する自民党をもっと批判しても好いと思いますが、しないんですね。昨日(1月14日)トランプ次期大統領の初めての記者会見があり、4、5年前、トランプ氏がロシアを訪問した際、バラク・オバマ大統領が宿泊したこともある部屋に宿泊し、女性を連れ込んでいた証拠をロシアの秘密警察(旧KGB)が握っているとの噂があり、これを取り上げたCNNなどのマスコミには質問させないという場面がTVで流されました。日本のマスコミも自民党批判は徐々に薄れ、小池女史にべったりで、日本国民が真実を知らされるチャンスは減る方向にシフトしているのではないかと感じます。情報統制が強くなれば、国家の独裁制が強くなることを意味します。日本が、ロシアや中国や北朝鮮のような国になることは独裁者になりたいと思う人を除けば誰も望んでいないと思いますが、トランプ氏のような独裁者の資質を持った人物が、かつては自由の象徴だったアメリカ合衆国の大統領になるのですから、日本だって独裁政権が生まれる可能性は大いにあります。既に生まれていると言ってもいいのかも知れません。何度も言いましたが、政府が独裁化すれば、向かう方向は他国との対立で、その結末が悲惨であることは歴史が証明しています。日本のマスコミも毅然と、公正に、対応してほしいと思います。

Lobo - I'd love you to want me
https://www.youtube.com/watch?v=rUCX9EddXj8

(完)

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ヴァイキングの不思議


ブログ「エーゲ海の黙示録の不思議」で紀元前1200年頃、エーゲ海を中心に暴れ回った“海の民Sea People”をご紹介しました。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-269.html
クレタ島に生まれていた華麗なミノア文明の崩壊や、小アジアのヒッタイト帝国の衰退などに一役かったと考えられている海の民ですが、1百年後、どこかへ消え去り、歴史から忘れ去られました。

今回は、似た運命を辿(だど)った“ヴァイキングViking”をYoutubeからご紹介しましょう。

ご参考ですが、“ヴァイキング”と聞けば食べ放題の料理を思い浮かべる方にお教えしておきましょう。“ヴァイキング料理”は和製英語で、日本以外では日本人が多いハワイや韓国あたりでしか通じない言葉です。デンマークを旅した料理家が、様々な料理を一つのテーブルに並べてビュッフェ形式で提供するスウェーデン起源のスカンジナヴィア料理“スモーガスボード”を日本で広める際、北欧といえばヴァイキングだろうってことで命名した、とWikiにあります。

で~ヴァイキングVikingはというと、古ノルド語で vikingr(フィヨルドvikから来たもの)らしいです。

北欧と言えばヴァイキングくらいしか知らないmhですが“どういう人?” って聞かれても“海賊じゃあないの?”としか答えられません。海賊の英語はpirateでVikingじゃあないんですねぇ。さてヴァイキングって何者なのでしょう?

皆さんの中にも私と同じレベルの知識しか持ち合わせてない方が多いと思いますので、今回ご紹介するYoutubeフィルムで彼らの盛衰と、彼らが遺した物を勉強し、友人とヴァイキング料理を楽しむ時があれば、知識をひけらかして見直させてあげましょう。

御参考:ヴァイキングが活躍した領域図
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・・・・・・・・・・・・
今から12百年前、寒く厳しい北海からヴァイキングは生まれ出て、解き放たれた獣のように、彼らの存在など思いもしていなかった世界へ拡散していった。
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彼らはフィヨールドfjordの多い土地からやって来た。現在のスカンジナビアで、家畜を飼うには厳しく、敵対する恐ろしい部族が多い土地だった。彼らは、スカンジナビアの生まれ故郷に埋めた宝物と、横暴で勇敢な探検と侵略に満ちたサーガ(注)を遺した。

Wiki:サーガ(Sagaサガ)
中世アイスランドで成立した古ノルド語(古北欧語、古アイスランド語とも)による散文作品群の総称。同時代に書かれたエッダ詩がゲルマン民族の神話や英雄伝説を題材にしているのに対し、サーガはノルウェーやアイスランドで起きた出来事を題材にしたものが多いことに特徴があり、約200点が現代に伝わっている。
(mh羊皮紙に書かれています。)

1880年、ノルウェイの考古学者たちは驚くべきものを発見した。それは過去への窓を開け、ヴァイキングがどのように生き、そして死んだのかを初めて明らかにすることになった。彼らは容器の破片や、妙な道具や、宝石や、木製の像なども見つけた。
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専門家「それは驚くべき発見だった。角が付いた兜(かぶと)やヨーロッパに伝えられていた剣(つるぎ)を身に付けて虐殺や略奪の文化を持っていたヴァイキングを、当時のヨーロッパの人々のように高度で芸術的な文明をもつ人々に変えたのだ。」

スカンジナビアの多くの発掘場所で掘り出された一つの物は、ヴァイキングが普通の、北方の人々だったということを示していた。“墓の船”だ!
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埋葬地に埋められていた“墓の船”からは、あの世への旅に必要な品物も一緒に見つかった。

mh:1880年に見つかった墓の船。以降、いくつも見つかりました。
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専門家「彼らは何処へ行くにも船を使った。彼らが産み出した、とても素晴らしい船で、発見された船を見た時、誰もが驚嘆した。それは、帆を立てて航海する優れた海兵船で、取り扱いに優れ、水深10cm程度の川でも引きながら移動できた。」
専門家「ヴァイキングが遺した沢山の素晴らしい人間的なものの一つは、遺体を船と共に埋葬したことだろう。永遠の旅に出る船に、あの世での暮らしに必要な物を詰めて故人を送り出したのだ。しかも、これらがとても良い状態で残されていたんだ。」
精巧な埋設品から見つかった不思議な野蛮人は誰だろう?彼らに暗黒時代(注)を支配させることになったものは何だろう?
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Wiki:暗黒時代Dark Ages
ヨーロッパにおいては、西ローマ帝国滅亡後からルネサンスの前までの中世を指す。

物語は700年代後半のノルウェイから始まる。
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専門家「我々は、ヴァイキングが海に出て攻撃を仕掛けるようになる前に、どんな暮らしをしていたのかを示す証拠を持っている。農業や牧畜をしながらのんびり暮らす傾向が強い人々で、村や部族などの集団で暮らしていた。集団には統治者としてのリーダがいて、時には集団の間で戦いも行われていた。ヴァイキングたちの生活は、生き残りを賭けたものだっただろう。気候は他のヨーロッパと比べて寒く、時には極寒の中で留まっていることすら困難だった。この点は彼等にとって重要な問題だった。」
ヴァイキング時代の夜明け時は、ノース人(注)にとっては家族を中心とした農園が経済基盤だった。

Wiki:ノース人(Norsemen、Norse)
北欧全体に広がった古代スカンディナヴィアの人々(主にノルウェー人)で、ヴァイキングにも含まれる。

農業や牧畜に携わる人々で、暖かい季節は穀物や野菜を育てたが、家畜への依存が高かった。しかし、北の地での平穏な暮らしにも終わりが来た。ヴァイキングの人口が増え、さらに肥沃な農耕地が必要になって来たのだ。
緊張は満ち溢れだしていた。
その結果、ヴァイキングの種族間で、暴力沙汰が起きることになったのは当然の帰結だった。強い者は弱い者を攻撃し、斧や剣で農夫たちを襲った。土地争いは全くの無法状態の中で繰り返された。
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専門家「王というのは基本的には広大な農場を持っている男だった。王は支援者や農夫や奴隷たちを抱えていた。王がどこかを攻撃しようと言い出せば、他の誰もが彼に従い、攻撃を始めた。ヴァイキングが村を襲う時、彼らは持ち出せるものは全て持ち出していた。攻撃は決して洗練されたものではなかったが、極めて効率的だった。」

しかし、あるヴァイキングが異なる道を歩み始めた。全く別の土地で富を得ようと考えたのだ。家を造る技術や道具は別の仕事に向けられた。北の湾の海岸で船が造られることになった。
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この船が彼らの生活を一変することになる。ヴァイキングのロングシップlong-shipだ!

mh:ヴァイキングのロングシップは“船の墓”で発見され、再現された船はオスロのViking Ship Museumに展示されています。
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mh:美しいフォルムですねぇ。性能も良かったでしょう。
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この卓越したロングシップは革命的な設計の船で、以降3世紀に渡り、ヨーロッパや更にはその外界をも席巻して、歴史を変えることになる。ロングシップにはヴァイキングの代々を通して伝えられた建造技術や航海技術が注ぎ込まれていった。
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専門家「ロングシップが無ければヴァイキングも無かっただろう。その技術は素晴らしいもので、おかげで彼らは歴史の中に足跡を残すことが出来た。船を造ることを学ぶようになった時代には、彼らは既に北大西洋を航行できる優れた海兵に育っていた。船は彼らが遠洋まで出かけられる手段になっていた。彼らは1ヶ月か6週間程度で船を作り上げていた。小さな川でも大海でも、同じ設計の船が使えた。川をさかのぼってロシアやヨーロッパの内陸部に侵入するには、少し小型にしておけば十分だった。軽くて、少し持ち上げて引っ張れば浅い川でも移動させることができた。これらの特徴はとても重要だった。軽量の船は稲妻のように素早く走ることができ、追いつくことが出来る船はどこにもなかった。」

専門家「ロングシップはかつての地中海の船のように、沿岸で使われるものではなかった。ノルウェイからスコットランドまで、フェロー諸島(注)からアイスランドまで、アイスランドからグリーンランドまで、沿岸用の船なら不可能な、危険に満ちた大海を航海することが出来た。この航海は他の人々にヴァイキングへの恐怖を抱かせることになった。ヴァイキングはそれを現実のものにする技術を持っていたのだ。」
船は喫水が浅く、適用が広く、当時の技術の“玉石”とも言えるだろう。
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Wiki:フェロー諸島
スコットランドのシェトランド諸島およびノルウェー西海岸とアイスランドの間にある北大西洋の諸島

ヴァイキングの集団を導く王や政府はなかった。ノース人の村は夫々が独立し、それぞれが王を持っていた。女子供を村に残し、仲間と共に船で外洋に出ていった。彼らは後に略奪者になり、それに相応(ふさわ)しい武装をするようになっっていった。彼らの最初の犠牲者の中に、793年6月に攻撃を受けたリンダスファーンLindisfarneの修道院僧たちがいる。
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リンダスファーンは強い信仰と、宝物を持ち合わせていた、ブリテン島で最も神聖な場所の一つだった。
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専門家「修道僧たちは竜の彫り物を付けた船が海からやって来るのを見て、ミサを告げる鐘を激しく打ち鳴らした。ヴァイキングは嵐のように襲ってきた。僧侶たちを殺害し、全ての宝物を持ち出した後で火を放った。」
専門家「僧侶たちは地獄に落された。よく言われているように、悪魔たちが解き放たれて彼らを襲ってきたのだ。ヴァイキングが戦士だというのは疑いようがない事実だ。彼らは脅迫と暴力という脅威を引き連れていた。侵略者で戦士だった。」
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専門家「彼らは驚くほど恐ろしく、驚くほど強欲で、驚くほど手際が良かったと私は思う。つまり、彼らは野蛮人だが、戦いでは規律に則って敵に襲いかかったのだ。」
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専門家「ヴァイキングは戦う機械のようなもので、筋肉隆々のスカンジナビア人で、しばしば毛皮の下に鎧(よろい)を付け、各人がナイフや剣や戦い用の斧(おの)などの簡単な武器を持っていた。中でも斧は最も恐ろしい武器だったと語り伝えられている。彼らは斧を使い慣れていて、敵に向かって投げ、致命傷を与えていたのだ。」
海岸線に沿って造られていた多くの修道院は彼らの恰好の餌食だった。そこには沢山の宝物が保管されていたし、僧侶たちが反抗することはなかったからだ。
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西暦8百年の後半に記録され始めたアングロサクソンの歴史書は5世紀から11世紀における英国の歴史に関する主要な情報源だ。そこに侵略者ヴァイキングがもたらした恐怖が記されている。
歴史書「暴力に満ちた男たちは、略奪と殺戮を用いて、リンダスファーンにあった神の教会を悲惨なまでに破壊した。」
西暦793年に行われた僧侶や宝物に対するこの攻撃は、歴史的な一歩だった。ヴァイキングによる、海からの最初の大きな攻撃だった。
リンダスファーンや英国の海岸線に造られていたその他の、攻撃に対して脆弱(ぜいじゃく)な僧院への襲撃は、ほんの始まりでしかなかった。8世紀の終わりになると、ヴァイキングの攻撃はもっと大きな報酬を求め始めたのだ。ヨーロッパの主要な都市は、ノース人たちに攻撃され、資産を奪われてしまうのではないかと恐れるようになった。
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リンダスファーンの略奪から50年程した9世紀の中ごろになると、ヨーロッパには奪い取れる沢山の富があるとの噂が広まり、ノース人たちは家族や村で結託してロングシップを造るようになった。海を横切るための出費を節減しようと考えたのだ。
専門家「スペイン人は黄金を求めてアメリカ大陸に渡ったが、ヴァイキングが探し求めたのは銀だった。彼等にとっては銀が重要で、彼らの持ち物や、修道院の宝物の多くで銀が使われていた。」

ヴァイキングの集団は、束ねる支配者がないまま、海を越えて活動を始めた。船の集団が大きくなっても、指導者は無く、そのため、一旦、敵の殺戮が始まると、留まるところがなかった。ヴァイキングの集団からリーダとなるべき男の名が噂されるようになると、彼らの野心も噂され始めた。ヨーロッパは彼らが略奪するために、そこに在るようなものだった。
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専門家「ヨーロッパは言わば妙な大陸で、数少ない大河が流れるアメリカ大陸やアフリカ大陸などとは異なり、縦横に流れる川を伝えば船でどこへでも行くことが出来た。」
川を使った大きな攻撃の一つは悪名高いヴァイキングの指導者ラグナー・アディ(?)によって西暦845年に行われた。120捜の船はセーヌ川を遡(さかのぼ)り、リンダスファーンの伝説を上回る攻撃をパリに仕掛けた。
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町に到着する前、ラグナーたちは捕えたフランンス人捕虜を恐怖の結末に追い込んで、敵の力を削いでいた。
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専門家「彼らは基本的にテロリストだった。敵に恐怖を与えて自分たちの動きやすい環境を作った。彼らは、出来るだけ恐れられるような振る舞いをした。“子供好き”と呼ばれた有名なヴァイキングがいる。彼は赤子を空に向かって投げ、落ちてくるところを剣で突き刺していたのだ。良い人間がすることであるわけがない。」

現地の僧侶ハーマン・ダリアスは“セーヌ川やロアール川に沿ってヴァイキングの虐殺と破壊は数十年続いた”と書き残している。
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船の数は増え、ヴァイキングの攻撃は終わりなく続いた。どの場所でもキリスト教徒たちが大量殺戮(さつりく)と略奪と焼き討ちの犠牲者だった。ヴァイキングは行く先々を征服し、彼らに逆らう者は無かった。
専門家「ヴァイキングの大船団がセーヌ川を下り、パリに近づいた時、大都市にはフランスの王が暮らし、十分な防御態勢も持っていた。対抗すれば壊滅できたかもしれなかったのだが、金を渡して追い払う方を選んだフランス王チャールズ・ザ・ブール(?)は、ヴァイキングの指導者ラグナーに6トンの銀と金を与え、出て行ったら二度と戻ってこないよう伝えた。
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これは逆の結果を生むことになった。土地や品物が豊富にあるとの噂が広まり、北ヨーロッパでの略奪行為は更に浸透していった。西暦710年から1100年にかけ、ヴァイキングはあらゆる主要な河や流れを辿(たど)って、ヨーロッパ大陸の中心まで侵攻した。しかし、ヴァイキングを待っている新しい世界があったのだ。
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ノルウェイ人はヴァイキングの歴史の中で、恐らく最も華々しい章を書き上げたと言えるだろう。恐れを知らない探検者として西に航海した彼らは、アイスランドとグリーンランドを植民地化したのだ。この植民地化で、2人の伝説的なノルウェイ人ヴァイキングの物語が生まれることになった。“赤毛のエイリーク”と、その息子レイフ・エリクソンだ。
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900年代の終わり頃、赤毛のエイリークはこの過酷な土地の最初の入植者になった。情熱的だったエイリークは、アイスランドでの生活を3年で打ち切り、西に向かって出航するとグリーンランドの東海岸で定住を始めた。
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専門家「彼は、この土地を宣伝することにした。海岸の近くの土地にしか暮らせる場所は無かったのだが、この地を“グリーンランド”と呼ぶことにしたのだ。実際、そこは緑に覆われていた。グリーンランドにやって来て、そこを故郷にするものもいた。しかし、地の果てとも言える場所で、生活は楽ではなかった。土地は耕して畑にするには厳しかったが、漁業には向いていた。獣の肉も手に入れやすかった。そうはいっても、やはり過酷な土地だった。」
エイリークが指導者だった間、ノース人の農業社会は、この隔絶した土地で細々と生き残っていた。故郷のアイスランドの習慣に従い、あらゆることは村人全てが招集され、討議して決められていた。
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そこでは村人なら喋る権利を与えられ、村の防衛や、生活に関する問題が議論された。この集団討議形式の中からエイリークの息子レイフ・エリクソンが頭角を現した。
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父と同様、レイフ・エリクソンは探検に憧(あこが)れていた。西暦1000年、彼は出帆した。
専門家「エリクソンは噂を辿(たど)ってみることにしたのだ。別のヴァイキングが残していた話だ。西に旅をし、グリーンランドの他の村を経由した後、風に流されてコースをはずれ、甘美な土地に到達したらしい。彼はグリーンランドは緑でもないし甘美でもないと言ったという。」
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専門家「この話はとても魅力的だ。専門家たちの意見が分かれている話でもある。しかし、私は西暦1000年にアメリカがヴァイキングによって発見されたのは間違いないと考えている。レイフ・エリクソンが造ったニューファンドランドの村で調べた炭素年代法によれば、造られたのは丁度、西暦1000年だった。その後、さらに南に移り住んだ人もいたはずだ。」
グリーンランドから移住して定着する試みは失敗に終わっている。ニューファンドランド入植地はたった10年続いただけだ。しかし、コロンブスが語り草となる旅をする500年前に、ヴァイキングは東半球と西半球を結び付けていたのだ。
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ニューファンドランドで冬を過ごしたレイフ・エリクソンは、グリーンランドに戻ると、島の住民たちに少し変わった新しいことを持ち込んだ。彼らは、ロングシップを造る道具を使って、新しい宗教のための、でこぼこした十字架を作ることになったのだ。
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専門家「彼らは変わる決心をしたようだ。レイフ・エリクソンがノルウェイに行くと、王はグリーンランドの植民地をキリスト教に改宗するよう依頼した。エリクソンはそれを自分の義務として進めることにしたのだ。」
ヴァイキングの影響が広がり始めると、今度は、周辺の世界がヴァイキングの文化を形づくるようになっていた。ヴァイキングの指導者たちは部族統一の手段としてキリスト教を使うことを思いつく。究極の目的は、支配を容易にするためだ。リンダスファーン攻撃から200年後の11世紀になっても、ノース人は王や、統一という考えを持っていなかった。統一を考えることになるきっかけになったのはキリスト教だったのだ。

しかし異教を信じる人々に古代の神々を忘れさせようとしたキリスト教徒のヴァイキングは抵抗に遭っていた。
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専門家「支配者や王たちはキリスト教を受け入れていた。そのほうが人々を統治するのに都合がよかったからだ。彼らは人々にキリスト教を押し付けていった。しかし、そこで大きないざこざが起きた。多くの人々はキリスト教が好きではなかった。古いやり方を捨てたくなかった。」

専門家「あるキリスト教宣教団が島にやってきて、改宗を進めたが、多くの人々は懐疑的なままだった。そこで、彼らは、キリストと、異教の神だというヴァザーカと言う名の男のいずれが強い力を持っているのかを調べることにしたのだ。ヴァザーカは、頭が少しおかしな男だった。キリスト教徒は言った。“我々は火を燃やす。あなたたちも火を燃やしてくれ。もしヴァザーカがあなた方の火の中を通り抜けられたとしても、私たちの火の中を通り抜けられなければキリストの勝ちだ。しかし、彼があなた方の火の中を通り抜けられなければ、あなた方の異教の負けだ。”」
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「これと似た話は旧約聖書の中で見つかる。宣教師はそれをうまく利用したのだ。ヴァザーカは簡単に自分たちの火を通り抜けたが、キリスト教徒の火を通り抜けることはできなかった。これを見た誰もが、キリスト教が正しい宗教だと信じたのだ。」
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ノルウェイでは、ヴァイキングの統一の重要な触媒が、一人の小さな男の子の運命の中に現れた。ハロルド・ハードラダはノルウェイの王ロウラの腹違いの兄弟だった。ハロルドにも王位継承権があるのは明らかだった。彼は15歳で、ヴァイキングの内紛で敗れた側のメンバーだった。しかし彼は復讐のために戻って来て、敵の血で彼自身の歴史を記すことになる。
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ヴァイキングは殺人的なペストのようにヨーロッパ中に拡散していた。
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最初に陥落したのは武装していない修道院だった。しかし、ヴァイキングは直ぐに、大陸の奥深くまで恐怖を持ち込んでいた。当然、ヴァイキング同士の衝突もあった。内紛を止めるものは無かった。1030年のノルウェイ北部のフィヨールドの町スティクルスタッドStiklestadの闘いは、現在のデンマークを統治していたヨット大王とノルウェイの王ロウラの間で行われた。そして内戦の灰の中から、若い兵士が頭角を現した。ハロルド・ハードラダだ。
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王ロウラの異母兄弟で王位継承権を持つ男だ。11世紀の中頃、ハロルドは成人していた。彼はノルウェイを導き、統一しようという野心を強めていた。しかし、その前に、彼は力を獲得しておく必要があった。
専門家「ハロルドは興味深い性格の持ち主だ。彼は若くしてヴァイキングの統治を始めた人物と言ってもいいだろう。16歳の時、彼の腹違いの兄弟を傷つけ、それが元で王は命を落としたが、彼自身は自由の身のままだった。」
ハロルドは北の地から追放され、スウェーデンに向かった後にキエフKievに辿り着いた。繁栄していた商業都市で現在のユークレインUkraineだ。1031年、彼はスウェーデンのヴァイキングのやり方に倣(なら)い、東方の異国の品物を取りあつかうようになった。
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スウェーデン人のヴァイキングは元々、侵略者としてやってきたのだが、その当時は既に商人として定住していたのだ。
商取引を通じ、キエフの町はノース人の社会を東方の広い世界と結び付けていた。各地からのお金も集まっていた。小さな仏像などの珍しい品物も取り扱われていた。ハロルドは略奪品を売りさばける市場が無ければ、自分たちの力には限界がくることを、この時に悟ったようだ。
専門家「ヴァイキングは何百年もの間、交易で生計を立てていた。修道院にいって容器や書物を奪っても、それを家に持ち帰っていたわけではない。どこか別の場所に持って行き、自分がほしいものと交換していたのだ。」
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物品は交易の一部でしかない。ヴァイキングは人間も取引していた。奴隷商人は襲撃で捕まえた男や女を交換していた。

キエフでの経済に関する体験学習にもかかわらず、ハロルドは市場で富を蓄えることはできなかった。彼は、戦士として復活し、王になるための技術を学ばねばならなかったようだ。
西暦1038年、頑強な男に成長していたハロルドは、略奪に飢えながら、ヴァイキングの優れた戦士たちを引き連れていた。
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外国の統治者たちの代理としてヨーロッパの東側で戦い、ノルウェイに戻って王位を奪回するための富と権力を獲得していった。

ハロルドは、シシリー島で伝説的な機智を現した。
専門家「ハロルドの統率については、彼の蛮勇もさることながら、狡猾(こうかつ)さによって特徴付けられる。その上、卑劣で、これこそがヴァイキングの大きな特質であり、彼らが好む方法だった。ハロルドの戦術の一つは、町にやって来ると、町を取り囲み、部下たちに町の中や外を行きかう小さな鳥を掴まえさせ、タールを付けた糸を鳥に取り付け、火を点けて町に飛んでいかせ、鳥の巣から火事を引き起こしてから攻撃を仕掛ける方法だ。」
ハロルド王のサーガ(記録詩文)の中で、13世紀のアイスランド人歴史家スノーリ・ストールソンはこの方法がシシリーを征服するのに効果的だったと記している。“人々が町からでて慈悲を乞った”と彼は書いている。彼らは町の終わりの日がきたことについて軍とその指導者たちを反抗的に罵(ののし)った。ハロルドは許しを求める人々の命を助け、町を彼の統治下においた。
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追放されてからおよそ15年後、ずる賢いハロルドは、ぼろぼろになっていた生まれ故郷ノルウェイを我が物にすることができるだけの評判と富を抱え持つ男になっていた。西暦1046年、彼はスカンジナビアに戻った。彼の軍隊は王に相応しい資財と野心は持っていたものの、まだ王というタイトルは獲得していなかった。ノルウェイの王位継承権を持っていた彼は、それを武力で訴える準備が整っていた。
専門家「しかし、問題は、既に彼の甥が王位についていたことだ。そこで、卓越した政治的な能力を持っていた彼は、ある取引を主張した。共同で統治しようと申し出たのだ。それは上手くいった。すると甥は1年で死んでしまう。死因は我々には判っていないのだが、ハロルドが甥の王を死に追いやったのではないかと言われている。ハロルドは勿論、これを否定している。いずれにしても彼はノルウェイの王に復帰できることになった。」
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1047年、権力を掴んで凡そ1年後、ハロルド・ハードラダはノルウェイの王になると権力を使ってヴァイキングたちを統治した。彼の軍隊は非情だった。反抗する村や人々は抹殺(まっさつ)し、野ざらしのまま放置した。彼の主張は単純だった。“屈服か、さもなくば死だ!”
その結果、彼に敵対していた人々は全て、不忠の代償として究極の報奨である死をもって支払う羽目になった。
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ハロルドのサーガには、王は、自らの言葉で、自らの飽くなき非情を祝ったと記されている。
“私は悔いることなく殺害した。殺害の全ては私の記憶に残っている。反逆は、それが私を打倒してしまう前に、どんな手段を使ってでも、完璧に潰しておかねばならない。暴動という樫の木は小さな団栗(acornどんぐり)から成長するのだ。”
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反逆が全て握りつぶされると、祝賀の日々が続いた。王ハロルドの忠誠な部下たちは彼の“長い家(注)”を埋め尽くし、気前よく祝賀会が催されていた。
(注:“長い家”は文字通り、ヴァイキングの長い家を指します。例を載せておきましょう。)
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専門家「もしお金や黄金を豊富に持っていたら、ヴァイキングの仲間の中では力を得ることができる。何故なら、それを人々に分け与えることで軍隊を編成し、仲間に食べさせることが出来、彼らを黄金で飾り立ててやることができるからだ。それは人々が望んでいることだった。宝物を沢山持っていさえすれば、重要人物になれたのだ。だからハロルドは王室に沢山の宝物を蓄えていられるよう、いつも気を配っていた。」
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“長い家”の大きな部屋の中でヴァイキングの政治的な決定は行われていた。忠誠が形成され、権力が培(つちか)われていた。ハロルドはキエフの町での体験を生かし、あらゆる品物を取り扱う町を海岸に造った。町の名はオスロOsloだ。
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偉大な港になる運命を持った町だった。ハロルドは、交易はヴァイキングを結び付け、望んでいた富や平穏をもたらすと考えていた。オスロの市場はヴァイキングの村から届けられた小麦や野菜、毛皮、反物などで溢れていた。ヴァイキングのロングシップは知られている世界の全てから品物を運び込んできた。胡椒、黄金、繊維、玉石、それに奴隷も。土器やガラス器はドイツと、装飾品はフランスと、硬貨はアラブ諸国と交易して入手した。オスロが発達し繁栄するにつれ、ヴァイキングは凄腕の商人になっていった。この交易社会の日常生活の様子は彼らの墓から見つかる黄金や、装飾された剣や、装飾品などから判る。しかし、この交易センターの繁栄もハロルドの食欲をわずかに満たすだけだった。彼は更なる富と権力を望んでいた。
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専門家「ハロルドは次の大きな目標を決めた。英国だ。彼は船に乗り、勿論、沢山の船と共にだが、反抗的な英国を攻め立てることにした。」

英国を見据えながらも、貪欲なハロルドは、彼のロングシップが行ける所を全て自分の帝国に組み込むことを思い描いていた。昔、難民だった彼は、今や驚くべき勢力を獲得し、敵対する人々の間で政治的な影響力を持つまでになっていた。彼は既に、もっとも困難なヴァイキングの強敵たちを征服していた。彼の侵攻は大した抵抗を受けることなど無いはずだった。英国とその富の全ては彼にとっては簡単に手に入れられるはずだった。しかし、ハロルドを待っていたのは、手ごわく、統制された軍隊だった。彼が立ち向かおうとしていたのはこれまでに出会ったどの敵よりも強力だった。
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1066年9月末、英国の町ヨークに、緊急のニュースが届けられた。ヴァイキング王ハロルド・ハードラダの軍が近づいている!英国人はハロルドが残忍だとの噂を聞き知っていた。彼を止めることができるのは、素早い行動と果敢な勇気だけだ。
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ハロルドは海岸線の占領から始めた。一連の激しい戦いの後、彼の勝利は見えてきた。ヨークはハロルドに降伏したように思われた。ハロルドは軍と共に町から10Kmほどのスタムフォード橋に向かった。彼はヨークの統治者たちが敬意を払い、貢物として捕虜を渡してくるだろうと期待していた。
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実際、ハロルドは英国の北部は既に自分のものだとの確信を強くしていたので、後ろに大軍を引き連れながら、身の回りはわずかな部下で固めて、先頭を切って進んでいた。
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しかし英国人は簡単に怯(ひる)むことはなかったのだ。英国の王ハロルド・ゴドゥインソンはヴァイキング軍を分裂させようと二手に分かれて森の中を進軍していた。剣士たちは鎖帷子(くさりかたびら)を纏(まと)い、射手たちは十分な矢を携(たずさ)えていた。
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専門家「ハロルドのサーガによればこうだ。“英国軍が現れた時、ハロルドたちは非常に驚いた。敵の鎧(よろい)は真昼の太陽の光を反射して輝き、どんどん近づいてきた。彼らは何者だ?近づいてくるにつれ、何者か分かった。”」
ヴァイキングのハロルドのサーガによれば、“それは武器を跳ね返す氷の板のように見えた”という。ハロルドはここで致命的な決断をした。一旦退却して残りの部隊の到着を待つ代わりに、戦うことを望んだのだ。

英国軍は、戦いのある時点で、一旦、後退した。ハロルドは勝った!と感じ、彼の軍も陣形を崩してしまった。
専門家「ある物語が残っている。一人の兵士が橋の上に立ち、攻めくる英国軍を跳ね除けていた。中世では軍団の兵士の数はそんなに多くないのが普通だったのだ。」
ハロルドのサーガによれば、ハロルドは次のように言って彼の軍勢を立ち直らせたという“戦場では堂々と胸を張り、刀剣で敵の頭蓋骨を粉砕せよ。”
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専門家「橋の上の兵士は敵を追い払ったが、彼が突き倒されると、橋を渡って来た英国軍はハロルド軍に攻めかかり、熾烈な争いが始まった。ヴァイキングは必死に戦ったが、次々に倒され、彼らの血は英国の土の中にしみ込んでいった。」
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ヴァイキングのサーガはこの戦いを振り返ってこう言っている。“争いに鋭い指導者の心臓は冷静に脈打っていた。偉大な王は最後の力を発揮して雷の如き戦いを挑み、血に染まった彼の剣は次の敵に襲い掛かって死をもたらしていた。”しかし、戦いの最中、一本の矢がハロルド・ハードラダの喉を射抜いた。
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ハロルドの援軍は1日遅れで到着したが遅すぎた。数の上で大きく負けていたヴァイキングは敗走を強いられた。その日の夜には、ヴァイキングの敗北は決定的になっていた。ハロルド・ハードラダは大きな野心を抱え、数千人の兵士とともに1066年の9月に英国にやって来たが、そこで味わったのは敗北と彼の死だった。
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専門家「ハロルドはノルウェイから軍勢を乗せた270捜の船でイギリスに攻め入ったが、戻れたのはたった30捜だけだった。」
この争いに続く数十年の間も、ヴァイキングは散発的な攻撃を続けていたが、ハロルド・ハードラダほどに帝国設立に近づいた男はいない。

新たなヨーロッパの歴史が始まった。1066年にハロルドが死ぬまでには、ヴァイキングの影響力は世界の文化や貿易や歴史の中に深く根付いていた。ヴァイキングの子孫たちも世界に同化し、先祖が植民地化した土地のなかに吸い込まれていた。広まっていたキリスト教による統一の力は、戦いで負けたこと以上にヴァイキングの終焉をもたらしていた。
専門家「ヨーロッパの歴史の本質は変わった。ロシアは今はロシアだ。ヴァイキングの土地はロシア系バイキングの土地になっている。ノルマンディーは今はノルマン人の土地になっているが、ノルマン人はヴァイキングだ。ノルマン人は英国を征服した。つまりヴァイキングの遺産はヨーロッパの歴史の中に拡大していったのだ。」
戦士として、定住者として、探検者や交易人として、ヴァイキングは驚くほどに社会的かつ政治的な変化をもたらした人々だった。地球的な経済成長やヨーロッパの強化に拍車をかけ、それと同時に、国家的な特徴を創り出し、造船や航海の技術を進歩させた。彼らの残忍な攻撃は、ヴァイキングに“野蛮人”という長く続く噂を与えることになったが、富と統治の好機を探求しながらも、ヴァイキングが西洋の文明化を破壊することはなかった。むしろ、彼らは、文明を豊かなものに変えたのだ。
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The Vikings : Who Were They ?
https://www.youtube.com/watch?v=EPtBcbFDyWo

結局、ヴァイキングが求めていたものは、家族が安住できる土地だったんですね。その土地は生まれ故郷のスカンジナビアに見つからなかったので、他人の土地を奪うしかなかったわけです。土地を奪うため、必要なら殺戮したんですね。同じ殺戮は、戦国時代の日本でも行われました。定住できる環境を求め、権力を追求し、これを阻(はば)む人々を殺すのは、国際法がない時代の常套手段でした。

歴史で学んだ人類は、領土や権力を求めて、他人の資産を奪うことを禁止するようになりましたが、それもほんのつい100年程前のことで、それまでは帝国主義や植民地主義がはびこり、弱者をいじめ、殺害していたんですから、人間とはいかに野蛮な動物なのかとつくづく思わされます。

それにしても、ヴァイキングが生まれたノルウェイなどのスカンジナビア諸国は、今は福祉大国で、日本などよりもずっと豊かな国になっています。はっきりした理由はわかりませんが、少ない人口で大きな領土を確保しているため、一人当たりの取り分が多いことが一因ではないかと思います。

グリーンランドはデンマーク王国の自治領で独自の政府も置かれているようですが、最初に住み着いたヴァイキングは壊滅したようですね。原因は気候変化で、小氷河期のために農業が壊滅したことが原因だと別のYoutubeで紹介されていました。Wikiで調べると、グリーンランドの公用語はデンマーク語ではなく“グリーンランド語”です。英語world(世界)はデンマーク語でverden、人間は英語でhuman、デンマーク語でもhumanですが、グリーンランド語ではinuitイヌイットと言います。ってことは、住民はエスキモーってことですね。

北アメリカのニューファンドランドにはヴァイキングが暮らしていたというLong Houseも沢山見つかっています。
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この住居は放棄されたようですが、住民の全員がグリーンランドに戻ったのではなく、南に移動したり、カナダに暮らすエスキモーと混血した人もいる、という説があります。青い目で金髪のエスキモーを見たと言う人もいるようですが、グリーンランドやニューファンドランドでヴァイキングとエスキモーの混血があっても不思議はありません。

(完)

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mh徒然草:築地はどこへ行くのか


今日は3月9日。久しぶりに豊洲移転を巡るドタバタ騒ぎを採り上げてみようかと思います。

今回の騒動では築地の関係者は困窮しているはずで、その責任の大半は都庁や都知事が負うとしても、マスコミの無責任な報道姿勢にも問題があると思います。視聴率稼ぎのために都民をミスリードしたり翻弄(ほんろう)したりするのはいい加減にしてほしいですね。

で、話を本題に戻しますと、本年1月に行われた第9回豊洲水質調査の結果、ベンゼンが環境基準の79倍の所が見つかり、これまで検出されなかったシアンが検出されたヶ所もありました。従来と大幅に異なる結果に驚いたのはmhだけではなかったでしょう。過去の検査に過失か隠蔽(いんぺい)があり、正義の味方の小池都知事がそれを白日にさらしたと思った方も多いのではないでしょうか。

第9回の検査結果を受けて行われた専門家会議のYoutube(東京都HP;4時間近くの実況記録)がみつかりましたので、mhが気になった点だけご紹介しましょう。
会議は1月14日に行われました。
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公開で築地市場関係者が大勢、詰めかけていました。
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豊洲予定地は幾つかの街区に分割されていて、合計で2百を超える地下水採取・測定用井戸があるようです。
で~例えば第6街区の井戸別の砒素の測定値の推移を示すグラフが次の通りで、例えば右上の井戸A19-4では第9回のみが環境基準値から飛び出しています。
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傾向として第9回の検査結果で砒素が全体として増加していて、この傾向は他の街区でも同じでした。

ベンゼンについてですが、第5街区の濃度推移は次の通りです。一番左上が第1回検査結果で一番右下が第9回のものです。
第一回結果を見ると、ベンゼン濃度が低い方(下側)に青い線が集中しています。青い線の長さは井戸の数を示し、縦軸の一番下のNO(検出せず)に16か所の井戸が相当しています。
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しかし、右下の第9回の検査結果ではベンゼン濃度が>0.50-1.0(0.50以上1.0まで)の井戸が1ヶ所出現しています。一番下のNO(検出せず)の井戸数は13か所、その上の濃度0.001-0.005には21か所が相当しています。ベンゼンについては第9回の検査結果が最も悪くなっていて、特に1ヶ所で環境基準の79倍のベンゼンが見つかったのです。この傾向は他の街区も同じです。

単純に言えば、過去数年間に行われてきた8回の検査と比べ、本年1月の検査結果では汚染物質が大量に増えていることが判明し環境基準を大幅に逸脱する場所も見つかったのです。

で、いろいろ議論しているうちに、1ヶ月ほど過ぎた2月末、第9回の検査方法が従来と異なっていたことが判明したのです!測定業者が検査方法を変えたのは都の担当者からの指示だったといいますが、これが結果に大幅な影響を与えることは少し知恵があれば誰でも判るはずなのですが、公表されることはなく、関係者を混乱させて1ヶ月過ぎた2月下旬、やっと知らされました。具体的にどのように変わったのかは大方の人はご承知だと思いますので省略しますが、ご関心があれば次のURLでご確認下さい。
http://www.asahi.com/articles/ASK34640QK34UTIL00K.html

結局、検査はやり直すことになり、今月(3月)中には、結果が出ることになっています。今回は豊洲だけではなく築地についても検査するようです。どんな結果がでて、どんなことが起きるのでしょう。

mhの予測では、築地と豊洲でほぼ同じ、悪いとは言えないまでも、余り好くない結果がでると思います。築地も豊洲も隅田川河口の水辺にあり、土壌への川水や海水の浸透が多いので、これらの水が含む汚染物質の影響を大きく受けています。加えて、東京ガスが使った公害物質は事業撤退から10年くらい経過した現在、海水や雨水で洗い流されて濃度が薄まっているでしょうから、築地も豊洲も地下水中の公害物質は大差ないはずです。
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で~もし、築地の水質検査結果が環境基準値を5倍以上超えていたなら、健康を害するからといって築地が即、閉鎖されるかというと、そんなことは起きません。“これまでも魚市場としてやって来たのだから、止めなきゃならないほど危険とは言えない”という訳の分からない理屈で営業は続行されるでしょう。しかし“豊洲と比べて築地は安全”という神話は崩壊し、築地の市場関係者はある程度の、ひょっとすると結構大きいダメージを被るのです。

1週間ほど前、元東京都知事の石原慎太郎が“座して死を待つことはできない”と言って記者会見し、“小池都知事はいたずらに豊洲移転を遅らせているが、維持費は莫大で、その責任を取る必要がある”と逆襲していました。近々、都の百条委員会で石原氏や東京ガス関係者も証言するようですが、責任逃れの発言に終始し、それを追求する根拠や意志に欠けている委員たちが重大な結論を得られるとは思えません。仮に何かが判ったとしても、そのことで築地移転問題が改善し、困惑し被害を受けている築地市場関係者が救われることはありません。いや、むしろ、被害は拡大することになるでしょう。

そもそも魚市場で重要な水は、水道管を通って奥多摩から運ばれているので、築地も豊洲も同じです。大気の様子だって、同じです。地下水が汚染されていても、魚が地下水に晒されることはないのですから問題ないのです。よって、築地が安全だとすれば豊洲だって同じように安全なわけで、危険だから豊洲に移らないという理屈は元々、成り立っていないのです。

にも拘らず、都の不手際で水質検査のやり直しや、責任のなすり合いが行われ、築地の身体検査もされるはめになって食の安全にボロがあることが判明し、築地の建物の老朽化で不都合が出始めたりして、築地の市場関係者は大打撃を受けるのです。その一方では、騒ぎを大きくしている東京都職員や小池都知事は、自分の収入に影響がなく、都民の税金だけが無駄に浪費されていきます。今回だけは老害を撒き散らす石原元都知事の言う通りというのは皮肉ですが、それもこれも、東京都や小池都知事が撒(ま)いた災いと言えるでしょう。東京都民の皆様、ご愁傷様です。築地の関係者の皆さんは、東京都にきちっと損害請求をするよう、一致団結して頑張ってください。

追記:3月16日
昨日(15日)の朝、第9回の検査条件がそれまでと異なるため、再検査を行っているが、その検査方法は第9回と同じで、一体全体、都庁は何を調べようとしているのか?というニュースがTVで流されました!
えぇ???って驚いたmhは、真偽や経過を確認しようと、暇に任せてネットをチェックしたのですが、本件に関する記事は見つかりませんでした。mhの早とちりかも知れませんが、真実は追って明らかになるでしょう。
しかし、昨日(?)の都議会での自民党と小池都知事のやり取りを見ていたら、豊洲は安全性には問題がないという見解が1ヶ月も前に、都から出されていたのですが、小池都知事がこれを公表させなかったっていうんですねぇ。豊洲は危険だという情報操作をしたのではないかと思います!
それにしても、都庁も小池知事も、なんとしてでも豊洲は危険だと言いたいようで、そんなことから、追加の試験も第9回と同じ手法でやろうってことになったのではないかとmhは邪推しています。こんな調子だと、築地の検査は行われずに、豊洲だけが話題になる可能性もありますね。
いつも言っていますが、政治家って自分のことしか考えないんですねぇ。都民や築地の漁業関係者が被る損害は、mhの予測のように、拡大し、継続するのです。豊洲選定の経緯には胡散臭い点はありますが、現在の混乱の責任が小池都知事にあるのは間違いないと思いますねmhは。早く、豊洲移転に方針を切り替えるべきだと思います。

Sugar Sugar - The Archies
https://www.youtube.com/watch?v=JywK_5bT8z0
(完)

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マルコ・ポーロの不思議


英語・イタリア語でMarco Polo、中国語では马可·波罗、馬可·孛羅などと表記される、イタリア・ベニスの商人です。1257年に生まれ、1324年に亡くなりました。17歳の時、父と叔父に連れられて中国への旅に出て、戻ったのは24年後でした。その後、結婚し、幸せな一生を終えました。

実は、マルコが子供の時、父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロは2人で中国を訪れ、フビライ・ハンに会っています。“宗教や文明などを中国で広めたいので、100人のキリスト僧侶を連れてきてほしい”とのフビライの要請を受けてイタリアに戻った兄弟は、わずかに2人の僧侶と、17歳になっていたマルコを連れて再び中国を目指しました。僧侶たちは旅の厳しさに恐れおののき、途中で逃げ戻りますが、マルコは父や叔父と共に中国まで旅をして、フビライ・ハンにも会い、20年程中国で暮した後、父や叔父と共にベネチアに戻りました。

往路は陸のシルクロードを辿り、フビライの都に着くまで数年かかったようです。
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帰路は海を辿り、現在のイランからは陸路でベニスに戻っています。
上の地図でLanzhouは蘭州、Beijingは北京、Chengduは成都。Hangchow(?)は杭州(Hangzhou)でしょうか。台湾の隣だとすれば泉州かも知れません。

Youtubeフィルムではマルコは元王朝の首都“キサナドゥ”に行ったことになっています。mhの世代の方なら“キサナドゥの伝説”という曲を聞いたことがあるでしょう。御参考にURLを上げておきますが、mhの趣味の曲ではありません。
キサナドゥの伝説 ザ・ジャガーズ
https://www.youtube.com/watch?v=G_FK8fktKtY

中国元王朝の夏の都だった上都(Shangduシャンドゥ)をイギリスの詩人がXanadu(ザナドゥ/キサナドゥ)と呼んで以来、桃源郷(ユートピア)の代名詞になった所で、北京の北250Kmに廃墟が残っています。一辺が1Kmの外壁の中の、一辺が4百mくらいの城壁に囲まれた所が王宮かと思いますが、フビライはゲルで暮らしていたかも知れません。
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夏(7月)のキサナドゥ風景
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日本人なら、マルコ・ポーロと聞いて直ぐ思いつくのは「東方見聞録」でしょう。この本は、ヨーロッパの人々に、アジアに対する憧れを植え付けたようです。本の中で“黄金の国ジパング”も紹介されていますが、彼自身が日本を訪れたことはありません。実は、彼は中国にすら行っていないという意見もあるようです。根拠は、有名な万里の長城について何の記事もないとか、マルコの名が記された記録が中国で見つかっていないとか、記述に多くの矛盾がある、などです。しかし、マルコの中国への旅は間違いないというのが大方の見方です。中国の王宮内部や、町の記述など、見た者、行った者でないと書けない内容があるというのがその理由です。中国の宝物をベネチアに持ち帰り、それを元手に商人として成功したとも言われています。

旅行記の題名についてWikiに次の記述があります。
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(Delle meravigliose cose del mondo, 1496:世界で素晴らしい事)
「原題は不明である。日本および韓国においては一般的に『東方見聞録』という名で知られているが、他国では『世界の記述』("La Description du Monde"、"Le Devisement du monde")、『驚異の書』("Livre des Merveilles")などとも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。諸説あるが、マルコ・ポーロがアジアで見たものの数をいつも「100万」と表現したからとも、100万の嘘が書かれているからとも、マルコ・ポーロの姓"Emilione"に由来するともいう。英語圏やスペイン語圏、中国語圏などでは『マルコ・ポーロ旅行記』("The Travels of Marco Polo"、"Los viajes de Marco Polo"、"馬可・波羅游記")の名でも知られる。」

旅行記の内容に“嘘”と思われる記述があっても不思議はありません。ご承知かもしれませんが、この旅行記は、マルコがベニスに戻ってから、記憶だけを頼りに書かれたんですね。しかも、書いた人物はマルコ本人じゃあなくて恋愛小説家ルスティケロ・ダ・ピサという男だったんです。小説家が話を面白おかしく脚色した部分も多いとWikiにもあります。

しかし~
マルコの旅はmhに浪漫への憧(あこが)れを呼び戻してくれました!暖かくなったら、是非、どこかに出かけたいと思います。

それではYoutube「Biography: Marco Poloマルコ・ポーロ伝」をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
イタリアのベニス。ヨーロパで最もロマンティックな都市の一つだ。
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7百年前、ここで生まれた男が何年もの外国への旅から帰った時と全く変わっていない。男の名はマルコ・ポーロ。
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ベニスとジェノバの闘いが起きなかったら、マルコの旅について知られることは無かったかも知れない。1298年、44歳の時、マルコは捕えられ、ルスティケロという名の恋愛小説家と共に投獄された。
監獄の中でマルコ・ポーロが冒険談を語ると、それを記録したルスティケロが、驚き、疑念をもっただろうことは誰でも想像できるだろう。
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マルコの話はルスティケロをもってしても、でっち上げるのが難しい程の奇想天外なものだった。マルコは“イタリアに戻るまで大王フビライ・ハンの私的な補佐役として凡そ20年を中国で過ごした”と言うのだ!
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当時、中国はヨーロッパから最も離れた神秘的な場所だった。マルコの話を聞いたルスティケロは本にしようと考えて書き記し始めた。
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小説家ブレイン「マルコが本を遺すことになったのは、ゴーストライターと一緒に収監されていたからだ。歴史的に見れば、幸運な収監だと言えるだろう。」
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本は当初“世界の記述”と呼ばれ、その後“マルコ・ポーロの旅”、さらには広く“イル・ミリオーネIl Milione”とも呼ばれていた。
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その内容は、あまりに幻想的で、人々は作り話だろうと考えていた。
マルコの旅より「王宮の外では4万人を超える招待客が宴会に招待されていた。その日、偉大なハン(王)は10万頭を超える見事な馬を贈り物として受け取ったのだ。」
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誰もがマルコの説明を文字通り受け取り、何の疑問も持たなかったのだろうか?当時、ヨーロッパで最も豊かで大きな都市のベニスがたった10万人だったのに、中国では何百万人もの人々が豊かに暮らしていたというのは本当に事実だろうか?フビライ・ハンなどという野蛮人が、そんなにも魅力的な、文明化された暮しをしているなどということがあるのだろうか?
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しかし、当時、マルコの見事な記録は信じられ、西洋と東洋の関係の将来に影響を与えていたかも知れない。マルコについてほとんど明らかでなく、また初期の本が残されていないにも拘わらず、旅行や冒険の話に関して彼に比類する男はいない。

Marco Polo: Journey to the East :東方への旅
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13世紀、マルコ・ポーロが生まれた時、世界は大きな混乱と好機の中にあった。神聖なローマ帝国では2つの都市が経済的、政治的な富を支配していた。
西のイタリアではベニス。
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東ではコンスタンティノープルで、現在のトルコのイスタンブールだ。
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もし文盲の戦士チンギス・ハンの興隆がなかったなら、教会の影響はさらに東まで広がっていただろう。ハンの異教徒タタール軍は、数年でペルシャ、中央アジア、ロシア大半、さらには最も価値がある中国を征服してしまっていた。チンギスと彼の後継者たちは、世界の歴史の中でも最大の帝国の設立を宣言した。
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1254年。イタリアのベニスで、マルコ・ポーロは裕福な商人の家庭に生まれた。彼は商人になるよう期待されていた。
歴史学者ニコラ博士「ベニスの商人としての典型的な教育は14,15歳くらいまで続いた。その間、読み書きや、算術と呼ばれていた代数や、さらには簿記など、商取引に必要な基本的な知識を彼は学んでいたはずだ。」
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マルコの母は、彼が少年の時に死んだ。父ニッコローは仕事で家を離れていた。父の長年の不在は中国への壮大な旅が理由だった。中国で、ニッコローと彼の弟マッフェーオはフビライ・ハンに歓待されていたのだ。恐らく、そのような栄誉を与えられたヨーロッパの商人は彼らが最初だろう。フビライは彼らに妙な命令を与えて祖国に送り返した。
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斬新な王フビライはキリスト教を更に知りたいと望んでいて、ポーロ兄弟にエルサレムの神聖な墓地の油と共に、1百人の僧侶を連れ戻るよう指示したのだ。ベニスに戻った兄弟は、1274年、フビライの要求を満たすため、再び中国に戻る準備を整えた。彼らは17歳のマルコも一緒に連れていくことにした。
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少なくとも数年の旅になるはずだった。しかし、ベニスを離れる時、結局23年間もの不在になることを彼らは想像していただろうか?
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作家ティモシー「当時の商人の考え方は、今とは全く異なっていた。ベニス商人の時間概念では、他国で何年も過ごすことは当然のことだった。」
命を賭けて再び旅をする兄弟や若いマルコに対し、偉大はフビライはどんな報奨を与えることが出来たのだろう?
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フビライはポーロ兄弟にモンゴル帝国内での通行の安全を保証する特別な通行証を発行していた。
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しかし、どんな通行証を持っていようとも旅は危険に満ちたものだった。
歴史学者「都市ベニスの生き残りは住民の事業にかかっていたので、マルコたちの旅は、愛国的な面も持っていたが、ヨーロッパで拡大しつつあった東洋の製品に対する需要に対応したものでもあった。その結果得られる利益は魅力的な額だったのだ。」
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つまり、愛国主義と利益の2つのため、ポーロ兄弟はエルサレムに向けて出発し、神聖な墓から油を手に入れた。僧侶については、集められたのは1百人ではなく、たった2人だった。キャラバンの旅の厳しさから、この僧侶たちは直ぐに旅を放棄してしまった。しかし、マルコにとっては、偉大な旅が始まることになったのだ。
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中東の風景、喧噪、臭いは、それまでマルコが想像したことがなかったものだった。全ての新鮮な体験はティーンエージャーのマルコに信じられない程の印象を与えた。
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マルコの旅より「この一帯よりも遠い所まで旅をしたいと思うなら、誰でも、最低7日の間、果てしない平地をたどらねばならない。しかしまた、時々、小さな椰子の茂みを駱駝で通り抜けるのは旅する商人にとっては大きな楽しみでもあった。」
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歴史学者「マルコ・ポーロはとても頭がよく、観察力に優れていた。彼が記憶していた様々な体験の詳細は本に記され、確認され、その正確さは驚くべきものだ。それは彼が普通の人間ではなく、卓越した知能をもっていた証拠だ。彼の聡明さは疑う余地がない。」

ポーロ兄弟たちの最初の問題は、ペルシャのホルムズHormuzの港に到着することだった。そこで北京に向かう船に乗るつもりだった。
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しかし、彼らは商人であって旅人ではない。いつものように商いをしながら旅を続けていた。キャラバンを組むには大金が必要だ。競争相手の商人たちは無法者の集団のようなものだった。
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作家「未知の土地に入り込んだら、ガタピシャ音を立てる台車を引き連れていると、警備兵たちに呼び止められ、交渉しなければならない。そこで、駱駝などの動物に荷物を載せ換える必要がでてくる。そうなると、少ない量で、価値のある品物だけを運ばざるを得ない。ポーロ兄弟たちが運んだ、最も価値がある品物は宝石類だった。服の中に隠して持って行くことも出来た。」
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マルコの旅より「ガズヴィーンを出発すると、8日間、砂漠の旅が続き、全く水を見ることは無い。果物も、どんな種類の樹木も見当たらない。水が見つかったとしてもまずくて飲めるものではない。」
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歴史学者「キャラバンがしなければならないことと言えば、駱駝に沢山の水を飲ませることだった。人が水不足になったら、駱駝から水を取り出して、自分たちの喉を潤すのだ。」
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本の中で、マルコは、地形や人々の習慣だけではなく、伝え聞いた物語も記していた。それらの多くはあまりに異国的でかつ信じられない内容だったため、マルコの同時代の人々は本の内容のほとんどを作り話だろうと考えた。イランの北部の山岳地帯に住む野蛮な無法者の老人が、山の砦で一帯を統治していたという話は、本の中に書かれていた信じられない話の一つだ。
小説家「その男が兵士を集めようと考えると、まず兵士になれそうな男たちを彼の土地の谷間に掴まえて連れてきて、そこの美しい庭で美しい女たちと楽しいピクニックを開き、その後で、彼らを砦に連れて行き、もしお前たちが私に従うならいつだって、今回のように楽園に連れて行ってやるといって、彼らを政治的な殺人者として使った。彼らはハシイシと呼ばれていたという。このハシイシからアサシンassassin(刺客)という言葉が生まれることになった。つまり、マルコの話には強い信憑性(しんぴょうせい)があると考えていい。」
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最初の数千Kmの旅の間、マルコは、このような恐れや不安について何も記録に残していない。これから訪れる中国の魅力的な文明を聞かされていた彼は、どんな困難にも情熱を削がれることはなかった。しかし、ポーロ兄弟たちがホルムズの港に到着すると、彼らを乗せて中国の港に行ける船が見つからなかった。そこで、海ではなく陸路を採ることにした。
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そして結局、マルコは中央アジアや中国の、異国情緒あふれ、息をのむような繁栄や地形や習慣を書き記す最初の西洋人になる。
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ジェノバにおける監獄の湿った部屋の中で、マルコはルスティケロにフビライ・ハンに会うまでの3年間の思い出話をしている。その時が、マルコの偉大な旅が始まった時でもあった。
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マルコが刑務所でルスティケロに話したことは、20年も昔に起きたことを記憶だけに頼ったものだった。
マルコの旅より「そこは寒い土地だった。山々の頂では大気はとても澄んで爽やかで、そこに暮らしている人々は風邪にかかったと思われる人も直ぐに回復しているようだった。マルコ・ポーロも丘を登りながら1年ほどこの国で病に罹ったが、回復することができた。」
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作家「マルコはアフガニスタンのどこかで病気になったようだ。それを治すため、彼は山に登らなければならなかった。そこにはパミール高原や中央アジアがある。下ればゴビ砂漠だ。そこでは旅人を死の国や砂嵐や高温や冷気や渇きに引っ張り込む化け物が彷徨(さまよ)っているという言い伝えがある。長い、厳しい旅だったはずだ。そしてとうとう彼らは中国に到達した。」
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中国は、チンギス・ハンによって征服されるまで何世紀もの間、よそ者に対して完全に閉ざされていた。
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13世紀になると、後継者たちは6千万人が暮らす土地によそ者を招待するようになった。ベニスを離れてほぼ4年。マルコたちはとうとう、世界最大の帝国の支配者フビライ・ハンの王宮に入ることになった。彼らは、エルサレムから運んできた神聖な油をハンに贈呈した。
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マルコの旅より「いよいよ、偉大なハンとの出会い、統治者としての彼の重要な業績について語る場面になった。」
歴史学者「私が思うにフビライ・ハンは13世紀における偉大な人物だ。彼は単なる征服者ではなかった。祖父のチンギス・ハンのように乱暴に領土を奪い取るのではなく、文明的な発想、高い教養を持ち、異なる多様な宗教に寛容で、卓越した人物だった。」

マルコは、チャンドゥ、またはザナドゥとして知られる夏の王宮で初めてフビライ・ハンに会った。
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そこは中国がいかに進歩した国かを、マルコの説明から初めてヨーロッパ人が知ることになった場所だろう。
マルコの旅より「大理石の巨大な王宮では、内部の大きな部屋や小さな部屋の全ては金箔で輝いていて、王宮の周辺を取り囲む城壁は25Kmもあった。泉や小川は豊富な水であふれ、様々な草が庭に植えられていた。その庭で、偉大なハンは鷹狩用の鷹の餌となる、あらゆる種類の鹿類を飼っていた。」
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ゴーストライターだったルスティケロが、ジェノバの牢獄で聞いたマルコの話のどこまでを信用していたか、我々は分かっていないが、兎に角、彼は書き記した。そして次の記述こそが、彼にとってはマルコの話の信頼性を判断する究極の試験だった。
マルコの旅より「マルコが王宮に長く滞在するようになる前に、彼は4つの言語を習得していた。彼の賢さに気付いたハンは、到着するまでに6ヶ月を要したというカリジョンという名の国への使者として彼を派遣した。」
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21歳になったばかりで、以降17年の間、フビライ・ハンの特使として奉公していたというマルコの話でルスティケロはマルコを信用することになった。マルコはフビライの目となり耳となり、チベット、ビルマ、インド、さらにはジャワまで出かけていった。
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作家「マルコにはそのような資質があったのだ。結局の所、彼は外国人で、とても優れた観察者で、商才もあった。フビライ・ハンは自分に更なる富をもたらしてくれるだろう、商業的に価値のある情報を欲していたのだ。」
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中国におけるマルコの冒険の記録は、今日の歴史学者にとっては価値がある。しかし、何人かの懐疑主義者は彼が中国に到達したのかどうかについて疑問を持っている。マルコの本を別にすれば、中国ばかりではなくヨーロッパにおいてさえも、彼の旅に関係する証拠は見つかっていない。
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歴史学者「マルコが本当に中国に行ったのかについては、今も続いているいくつかの論争がある。モンゴルが中国の宋王朝にしかけた戦いで、彼や父、叔父は中国では重要人物だったと言っている。残念ながら、その戦いはマルコが中国に到着する3年前に起きた。しかし、このような間違いや矛盾にも拘わらず、他の沢山の点から、私はマルコが中国に行ったことについて微塵も疑っていない。」
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マルコの時代、フビライ・ハンの広い帝国を理解することは、西洋人にとっては不可能とは言わないまでも難しいことだった。
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偉大なハンがどのように情報を集めたのか、軍司令官たちをどのように統括していたのか、何百万もの出来事が何百万平方Kmもの帝国の中でどのように管理されていたのか、を詳細に解説しているのは、マルコがそれを知っていた証拠といえるだろう。
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マルコの旅より「ポストは40Kmから50Kmの間隔で地方に続く全ての重要路に設けられていた。そして各々のポストには3百から4百頭の馬がすぐにでも出発できるよう待機して、近くには豪華なゲルが建てられていたのを通信使は見ている。」
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マルコは進歩的な通信システムについて5ページを使って説明していた。1日400Kmを移動し、帝国中に1万か所ものポストがあり、昼夜にかかわらず稼働していた。このシステムこそが帝国を管理するハンの重要な手段だったのだ。

マルコの本の記述の多くは伝聞だが、間違いは少ない。ハンの情報通路の信憑性を疑う歴史家はいない。
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しかし、マルコ自身についてはどうだったのだろう?この点になると歴史家は、彼の風貌について語る多くのものを持ち合わせていない。心理的な描写となるとそれ以下だ。彼の存命中に肖像画が描かれていたとしても、今は何も残っていない。彼の本の中にも、彼の考えを示すものは少ない。その点で、この本は本来のジャーナリズムに基づいた最初の偉大な作品の一つと言えるかも知れない。同時に、係(かかわ)ったことや自分自身に対して正直で、肉と血を持つ生身(なまみ)の勇敢な若者の作品でもある。
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もしマルコが初めて報告した東洋の習慣が13世紀のベニス市民の不信を買っていたとしても、彼の説明は、先例がない程正確だった。
マルコの旅より「遠く離れた地からやって来た人がこの国を通過する時、地元の婦人たちは娘たちを20から40ある宿泊場所に連れてきて、そこにいる旅行者に娘と一緒に寝てほしいと依頼する。」
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作家「マルコが言っている内容は、旅行者たちは特に女たちにとってある意味で素晴らしかったということだ。女たちは広く男を体験できたということだろう。この話は別の伝統でも証明されている。こういった慣習は中国の新疆ウイグルで、今でも部分的に生き残っている。17歳から24歳くらいの若者が訪れるとしたら、この国は素晴らしい所だということをマルコは示しているのだろう。彼が訪れた時は、そんな年代だったから、楽しい場所だと思ったに違いない。」
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時がたつにつれ、マルコは異国情緒あふれた東洋への関心を深めていった。彼の鋭い観察も衰えることは無かった。驚くべきは、彼が、全てのことを興味深く、重要だと見なしていたことだ。
マルコの旅より「もっと語って聞かせよう。その都市の南には周囲50Kmの池があり、周りを大きな、これ以上はないと思われる豪華な建築の王宮や大邸宅が囲んでいた。池には娯楽を求める人々を載せた、終わりの無い艀(はしけ)の行列が続いていた。この町の人々にとっては、これらは彼らの技術や交易の賜物以外のものではなく、一日のある時期を家族の女性たちと、または雇った女性たちと池の周りで楽しんでいた。」
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歴史学者「マルコ・ポーロは人口3百万人の都市杭州に完全に魅せられていた。杭州では運河や湖や公園やレストランが見事に配置され、当時、ベニスや他のヨーロッパのどんな都市よりも洗練された町だった。」
現在の杭州は工業中心だ。ここが、マルコが長々と褒(ほ)めちぎった理想的な大都市だったとは思えない。
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しかし、マルコが初めて目にし、ルスティケロが書き記した内容に誇張や装飾があると非難される時、それらは、いつもその場所の本質を捕えていた。学者たちは杭州がかつては文明化された都市の生きたモデルであるというマルコの評価に同意している。
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作家「マルコ・ポーロは、現代なら人類学者か民族学者の旅行者だと考えられると私は思う。彼は人々の生活様式や習慣にとても関心を持っていた。商人として土地の特徴が現れる生産物に注意を配りながらも、社会的な習慣や、どんなものを食べているのか、どんな建物に暮らしているのかなど、そこで暮らす人々をとてもよく観察していた。彼の目には、それらがとても興味深く映っていたのだ。」
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マルコは個人的な評論をほとんど説明していない。東南アジアの人食い人種さえも人道的な非難を受けていないし、その儀式の内容も中国には報告されていない。
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マルコの旅より「彼らの他の習慣としては、もし、優れた礼儀正しい男に出会うと、自分たちの家に招待し、夜になると彼を殺した。それは金品を奪うためではない。その客人が持っていた好い魂や卓越した優美を自分たちの家の中に残そうと考えてのことだ。」
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作家「これは民族学者には知られている習慣の一つで、とても小さな集団で行われていた。フビライ・ハンが、後にこの慣習を禁止したという事実が伝えられている。」

マルコは観察したこれらの残虐な習慣について個人的な評論を加えていないが、東洋の野生動物王国に関すること細かな解説は、間違いなく直接的な接触によって導かれたものだ。
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植物や草木などの解説も事実に基づいたものだった。彼の本で伝えられる多くの情報は、西洋人の読者にとって物珍しく、かつ驚くべきもので、それを消化し確認するのには数世紀が必要だった。

しかし、イタリアを離れておよそ20年すると、マルコもポーロ兄弟も望郷の念に駆られ、中国を離れたいとの希望を関係者に訴えるようになった。
歴史学者「彼らは元王朝の特使として重要な仕事や特別な任務に係わっていた。外国との仲介やラテン語とかその他の言語の書類を翻訳してハンを助けていた。ハンは彼らを重宝にし、中国から離れさせたくなかった。」
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偉大な王ハンがどんなに文化的な考えの男であったとしても、彼に強要することは誰も出来なかった。

マルコは30代の後半だったが、依然として独身のままだった。彼は大した憂いも無く楽しい旅を続けていただろう。封印された金属の書類入れの中にフビライからの信任状を入れ、モンゴル兵も引き連れていた彼は、どんな被害も受けなかったはずだ。その上、彼は中国で初めて発明され、帝国のどこでも通用する紙幣を渡されていた。
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マルコのこのような贅沢な旅は、今日の旅行者の誰もが羨(うらや)むはずだ。

彼は万里の長城を訪れる機会を持つことは無かった。それはフビライの祖先たちを中国から遠ざけていた城壁だった。しかし、彼は遠くインドまで訪れている。
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マルコの旅より「彼らの中にはヨギ(Yogi行者)と呼ばれる人々がいた。ヨギは他の人々よりも長生きで、150歳から200歳くらいまで生きた。年をとっても体は丈夫で、どんな所にでも歩いて行き来できた。偉大な禁欲と健康的なものだけを食べるという極端な節食のおかげだ。」

とうとうマルコはフビライ・ハンに呼び出された。ハンはマルコ一家が彼に奉仕してくれるよう要求した。もし重要な荷物に付き添ってくれるのならイタリアに戻るチャンスを与えると提案したのだ。彼らの帰国の旅は2年を要した。中国のザナドゥを訪れる旅と比べると半分の期間だ。しかし、その旅は大きな危険を伴うものになった。不運や災難に満ち、マルコ・ポーロしか生き残らなかったのではないかと思われるほどだった。
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それは1292年のことだった。フビライに面会し、仕えるようになって既に17年経っていた。マルコ一家はコカ・チン姫に付き添ってペルシャまで行ってほしいとの要請を受けた。そこで彼女はモンゴル人の統治者と結婚することになっていたのだ。
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ベニスに戻る唯一の認められた機会だった。

マルコ一家と中国との特殊な歴史的な関係は、いよいよ終わりを迎えることになった。
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マルコは、船旅を提案した。その方が早く戻れる。中国の羅針盤はヨーロッパのものよりも進歩していたので良い印象を持っていたのだ。彼らは、600人の同行者と100人の船乗りと共に中国の海岸を離れた。
作家「マルコ・ポーロにしてみると、行きは陸路で、帰路は海路だ。つまり完璧な組み合わせで、後世の歴史家にとっても、とても幸運だっただろう。」
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しかし、この船旅は、病やひどい嵐などで亡くなった数百人には幸運とは言えない。姫と何人かの側近とポーロ一家は無事にホルムズに到着した。生き残ったのは彼らを含め、たった18人だった。
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マルコはこの船旅の恐ろしさについて、簡単に説明しているだけだ。その後、トルコで受けた因縁の逸話についても何も記述に残さなかった。実はトルコでは軍の事務官が、マルコたちが持ち運んできた富の4分の3を取り上げてしまったのだ。
歴史学者「マルコたちが17年をかけて中国で蓄えた富のほとんどが失われてしまった。我々がそれを知っているのは、ベニスで見つかった行政が書き記した書類からだ。」

マルコとルスティケロだけが知っている理由から、マルコの旅の話は彼がベニスに戻る前で終わっている。
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マルコの思いや、23年後に故郷に戻ったマルコが将来に何を期待していたかは、読者の想像に委ねられた。

失われたものを補うのは楽ではなかった。
歴史学者「マルコの家族の人々ですら、中国からもどった3人を受け入れるのは大仕事だった。3人は、ベニスの言葉を喋ることも困難だった。イタリア語よりもペルシャ語やモンゴル語の方が得意になっていたのだ。衣服は東洋のもので、顔つきもすっかり変わっていた。彼らも、すっかり変わってしまっていたので、ベニスの生活を受け入れるのに苦労したはずだ。」
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マルコは40歳を過ぎたばかりで、まだ先のある男だった。彼は何をするつもりだったのだろう?

彼を待ち受けていた環境は、彼を更なる冒険に引き込むことになった。ベニスに戻って直ぐ、彼はベニスの軍船の上にいた。彼が市民としての商人だったのか、兵士だったのかは歴史家も判ってはいない。
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彼は敵ジェノバに捕えられ、1年間、投獄された。

彼のゴーストライターが書き残した旅の話の中で、マルコは何年も生き続けた。本の中に現れてくる人々や場所は、ヨーロッパ人が想像することすら困難なものだった。そして、あり得ないことだが、彼はこの本が歴史の中でどれほど価値があるか考えたこともなかった。冒険に満ちた人生を形に残せただけで十分満足していたのだろう。

1年の投獄生活の間に本が完成し、マルコとルスティケロが釈放されると、本の手書きのコピーが世間に広まった。
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“マルコ・ポーロの旅”は人気を博し、フランス語、イタリア語、ラテン語でも出版された。活版印刷技術が現れるのは百年以上も先の時代だった。しかし、マルコの“千一夜物語”は特にベニスでは人々の間で話題に上り、彼はセレブの仲間入りをした。彼の語った物語はあまりに面白かったので、事実ではなく、作り話に違いないと多くの人々は考えていた。“イル・ミリオーネ(百万)”はある出版元がつけた本の名前だが、読者たちが内容の信憑性に関して受けた印象を反映したものだ。
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作家「マルコが中国について語る時はいつでも、数字がとても巨大だった。そこで人々は、この男は数千とか数百万とか、いつも大袈裟な話をすると思っていた。勿論、この傾向は中国では今も変わらない。TVの台数にしても、その他の何であろうとも、中国の人々は巨大な数を口にする。」

当時の信頼できる情報源によれば、マルコは結婚し、3人の娘を育て、事業を続けた。彼の本の内容に対する疑念に対しては愚痴をこぼすこともなかった。
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作家「本を読んでみれば判るが、物事を純粋に見る人物のセンスが感じられる。そこに座ってビールを飲みかわしながら20年間をどのように過ごしたのかについて静かに語り合っているのがマルコだという雰囲気がある。」
監獄を出て、マルコは25年の間、生きた。その間、彼の偉業に対する非難も尊敬も彼に訪れることは無かった。しかし、それが訪れるであろうことは間違いない。今日、多くの人々は、彼が世界の歴史に影響を与えたと考えている。

ほんの7百年前、誰も船で世界を一周したことがなく、地球上の陸地や海を表わす地図すらなかったということを、宇宙時代の現在に生きる我々が想像することは難しい。
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作家「マルコの本は情報を提供したことで大きな功績を生んだと思う。謎と好奇心の源になり、後世の人々は、彼が記録に残した場所が本当に存在しているのか調べてみようと思って旅立っていった。マルコ・ポーロは情報の金鉱のようなもので、以降、何世紀もの間、この金鉱は発掘され続けた。」

今日のベニスで、マルコ・ポーロに関する記念碑のようなものを見つけることはできない。
彼はこの建物で暮らし、死んでいったと考えられているが、誰も確信を持ってはいない。
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彼の家族は遺体を聖ロレンゾ教会に埋葬したが、今から2百年前、掘り起こされ、どこかに移されてしまった。それがどこかも分かっていない。このような状態で、マルコが遺したものは重要だったと言えるのだろうか?

マルコの死から2世紀後、クリストファー・コロンブスはスペインのイザベラ女王の前で東洋への大胆な遠征に対して資金援助してくれるよう訴えた。
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彼は、東ではなく西に向かって出航し、大西洋を横断して東洋に行くと言ったのだ。誰も思いつかない発想だった。
歴史学者「クリストファー・コロンブスはマルコ・ポーロの本のコピーを持っていた。それは1485年の終わり頃に印刷されたもので、幸いにも、代々伝えられ、今でも残っている。そこにはコロンブスが手書きしたメモが残されている。」
mh:Wikiで見つけたコロンブスのメモが残る本です。
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マルコが残した東洋の富に関する手記はコロンブスの想像力を刺激したのだ。アジアを求めて西に出向したコロンブスがアジアに到達できず、代わりにアメリカを発見したのは誰もが知る所だ。
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マルコの本が想像力を掻き立てることがなければ、アメリカの発見という偶然は、もっと後の時代に別の理由によって行われたに違いないと多くの専門家は考えている。

コロンブスという名前は探検や航海の天才と同義語になった。しかし、マルコ・ポーロの名前が同じように語られることは無い。
作家「コロンブスとマルコの違いは、とても印象的だ。コロンブスは自分の国の旗を立てるために出かけていった。マルコはそのようなことに関心を持っていなかった。ベニスの旗のことなんか考えたことすらなかっただろう。コロンブスは、行く先々で、土地に新しい名前を付けた。一方、マルコは、原住民がその場所をどう呼んでいたのかに注意を払い、それをそのまま使った。つまりマルコの辿った道を誰でも同じように辿ることができるのだ。コロンブスは原住民を野蛮人だと見下していた。しかし、マルコの説明によれば、モンゴル帝国は、平穏な旅や見事に運営されている都市や清潔さが確保された輝かしい所だった。」
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パスタやピザや火薬を中国から持ち帰ったのがマルコだと主張するいくつかの神話があるが、これは全く根拠のないものだ。学者たちは、このような間違った概念が彼の偉業を小さく見せてしまったと考えている。
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歴史学者「中国では、フビライ・ハンは官僚的だったと考えられているが、マルコ・ポーロは、観察力や知力や聡明の男だと言っている。そうでなければ、マルコの本で書かれているようなことは起きるはずはない。彼の本は、東アジアと接触したいというヨーロッパ人の欲望に大きな影響を及ぼすとともに、東アジアがどんな場所なのかについて初めてヨーロッパに示すものだった。」

1324年、67歳で、マルコは自宅で死んだ。彼は商人として多くの富を得た。しかし、当時の最も人気がある本の作者として得たものは何もない。
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本は別にして、彼の遺書は多分、今に残る唯一の書類だろう。
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その中で彼は豊富な富を彼の家族に分け与え、他の誰もが語ったことがない知識を遺した。
作家「遺書には、ささやかだがすばらしいことが記されている。彼は奴隷を解放すると言っている。タタール人で、モンゴルから連れて来た男だ。恐らくマルコの召使いで、旅先で見つけ、ベニスまで連れて来たのだ。更に素晴らしい話は、彼が死に臨むベッドの上で言い残した言葉だ。ベッドの周りに集まって来た人々が“あの話は全て嘘なんでしょ?”と言うと、マルコはこう言ったという。“私は私が見た半分も話していないよ。”」
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Biography: Marco Polo
https://www.youtube.com/watch?v=gTUMT3EZfpo
<御参考>
マルコが中国からベニスに連れて来たという召使はタタール人だと言いますが、タタール人とは「ロシアのヴォルガ川中流域(イデル=ウラル地方)に居住するテュルク系民族。」とWikiにあります。モンゴル兵が攻め入って帝国に併合していますから、マルコはタタール人召使いを中国で雇うことになったのでしょう。

東方見聞録はネット上で文庫本が販売されています。娘に頼んで入手してもらおうかと思っていますので、このブログが公開される前に読み終えていたら、簡単に感想を述べさせて頂こうかと考えています。
で~Wiki「東方見聞録」によれば、マルコの旅の本に、途中の町や中国の町の名前が記載されているようで、もしマルコが旅をしなかったとしたら、とても知り得なかったはずだと素直なmhは信じてしまいますが、それでも懐疑的な学者がいるってことは、どういう訳なんでしょうか。お釈迦様も仰るように、因果応報。かならず、その理由はあるはずなので、それを調べてみるのも面白いかもしれませんが、資料が入手できるかなど、調査に伴う不都合ばかりが頭に浮かんで、ずぼらで根性無しのmhが取り組めるテーマではないなぁ、と断念することに決めました。
(追記)
娘が全訳「マルコ・ポーロ東方見聞録」(青木一夫訳)を贈呈してくれました。定価2千円で新品で帯付ですが、アマゾンで6百円程度だったようです。で~親不知の抜歯手術入院中に半分は読破しましたが・・・白状すると、面白くありません!次から次へと新たな場所での新たな事象が紹介されています。よくまあ、こんなに豊富な情報を覚えていたものだと感心させられます。地名や人名や、物の名前まで、何度読んでも覚えきれない固有名詞が次から次に出てきて、キャパシティーが小さいmhのと頭ではとてもついていけません!途中で匙(さじ)を投げ、チパング島の話(日本に関する記事です)を見てみると、黄金が屋根から家の中まで敷き詰められているとのこと。これを略奪しようと、大汗(フビライです)は二人の将軍に兵を授けて、中国の2つの港(名前は省略しますが、片仮名の固有名詞が記されています)から出港させました。彼らは上陸を果たすのですが、都からはほど遠い場所で、嵐がきたので、船に戻って沖で待機していたら、多くの船が沈んでしまい・・・と凡そ1ページに渡って詳細な説明が続きます。

こんな調子で、中国の町や近隣諸国の様子が事細かく語られているのですが、どこまで信用できるのか、懐疑的になりました。しかし、専門家の多くは、記事の内容を見る限り、本人が中国に行ったとしか考えられないと言っていますから、中国で聞いた日本の話やインドの話でしょうし、当時、日本やインドの詳細を語る知識を持つヨーロッパ人なら中国を訪れたと考えても間違いないということでしょう。これが全て嘘八百だとしたら、大した山師だと思います。
(完)

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mh徒然草113: 死刑制度は廃止すべき?

産経新聞 10月7日
「殺したがるばかどもと戦って」 
――瀬戸内寂聴さん発言に犯罪被害者ら反発――
「日本弁護士連合会が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。会場には全国犯罪被害者の会のメンバーや支援する弁護士らもおり、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発した。
日弁連は7日に同市内で開く人権擁護大会で「平成32年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を提出する。この日のシンポジウムでは、国内外の研究者らが死刑の存廃をめぐる国際的潮流について報告。瀬戸内さんのビデオメッセージはプログラムの冒頭と終盤の2回にわたって流された。」

国際的な潮流に合わせて、日本弁護士会としては死刑廃止を総意としたいようですが、被害者の心情をないがしろにするものだ、と廃止に反対する弁護士もいるようです。瀬戸内寂聴氏は何があろうとも人が人を殺してはならないとの立場のようで、それを強烈に主張したわけです。

そして翌10月8日のネット記事です。
見出:日弁連、「死刑廃止」を宣言。賛成は7割弱、反対意見も
反対の意見として「被害者遺族が犯人を殺してもいいのか。死刑の廃止はむしろ秩序を乱す」という発言もあったとありました。

世界の潮流は死刑廃止なのか?ネットで調べたら、Amnesty Internationalの死刑廃止に賛同する記事がありました。
2012年時点で141ヶ国が死刑制度を採用していない、2010年の結果によれば、10万人当たりの殺人被害者数の少ない順にオーストリア、ノルウェー、スペイン、これに日本が4位で続いている、とQ&Aに書かれています。
死刑を認めている日本は世界でも殺人が少ないのですが、日本より安全な上位3ヶ国は、いずれも死刑制度廃止国です。

被害者の家族の心情は理解できるが、加害者が死刑になれば、被害者の家族の心が休まるというものではないはずだ。
死刑制度は政府により悪用され、時には誤審により冤罪を産む。
人はいかなる理由があろうとも人を殺してはならない。
死刑を廃止したからといって必ずしも殺人は増えない。

これが死刑廃止を提案する根拠だと言います。

で~突然ですがmhの考えをご披露すると・・・
やり方は工夫するとして、死刑は廃止した方がいいと思います。

もしも自分の家族が殺されたとしたら、そんな流暢なことを言ってはいられないはずだ、と考えられる向きの方もいらっしゃるかもしれません。確かに、そうかもしれません。それは正しいかも知れません。
しかし、犯人が死刑になったことを知ったら、自分が新たな殺人を犯した気分になって後悔するのではないかと思います。ほぼ間違いなく、そう思うと思います。

例えが悪いのですが、日本帝国に戦争を仕掛けられ、殺されたアメリカ人、韓国人、中国人、東南アジア人は、戦争が終わって、日本人を、少なくとも日本軍兵士を、全て殺す正当な権利はあったのでしょうか?そうだとすれば、その正義は実施されるべきだったのでしょうか?

中国では麻薬密売人ばかりでなく、反政府運動者も国家騒乱罪で死刑になりえます。北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)は、態度が不遜だとの理由から側近を死刑にしています。フィリピンのドゥテルテ大統領は、麻薬売人を死刑にしています。いずれも、その国の法規に照らし合わせれば合法でしょう。しかし、やり過ぎです。中国からは政府による拘束を逃れるため、タイなどに亡命する人権活動家やその支援者は多いようです。金正恩もドゥテルテもまともな人だとは思えません。

ところが、ドゥテルテ大統領の9月の純満足度(満足度から不満度を引いた数値)は64%との記事がありました。麻薬を扱うのは悪人で、悪人は死刑でよい、というドゥテルテ大統領の考えは異常だと思いますが、フィリピン国民の多くはこれを支持しています。第二次世界大戦前のドイツ国民や大東亜戦争突入前の日本国民も、同じような考えだったのでしょう。人間とは、そういう異常な心境になりえる生物だと思います。

昭和15年、大東亜戦争の直前の日本で、中国との戦争は直ちにやめるべきだ、アメリカへの攻撃は控えるべきだと考えていた日本人は恐らく30%以下で、半数以上は満州や中国、東南アジアへの日本帝国軍の進出を勇ましく、頼もしく感じ、アメリカは許さない!と憤っていたと想像します。

しかし、もし昭和15年、現在の日本国憲法があり、第9条で戦争の放棄がうたわれていたら、大東亜戦争は起きなかったのではないでしょうか。中国への武力進出もあり得なかったはずです。

戦争と殺人は異なると思われるかも知れません。しかし、戦争は国家による、理不尽な大量虐殺だと言い換えることができます。そして死刑は、国家による、被害者家族による、行き過ぎた殺人ではないのだろうかと思うのです。

もしアムネスティAmnestyの記事にご関心がおありでしたらは次のURLで。
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html

で、今回の歌ですが・・・
Tom Jones- green, green grass of home
「思い出のグリーン・グラス」
死刑囚が故郷の緑を思いながら歌う曲です!歌詞とmhの訳を挙げておきます。
The old home town looks the same as I step down from the train.
古い生まれ故郷は変わらないように見える、電車から降りた時。
And there to meet me is my mama and papa.
そしてそこで私に会うのは母さんと父さんだ。
Down the road I look and there runs Mary, hair of gold and lips like cherries.
道の向うを私が見ると、そこをマリーが走ってくる、金髪でサクランボのような唇の。
It’s good to touch the green, green grass of home.
故郷の緑の草に触れるのはいいものだ。
Yes, they’ll all come to meet me, arms reaching, smiling sweetly.
そう、みんなが会いに来てくれる。手を差し出しながら、優しく笑いながら。
It’s good to touch the green, green grass of home.
故郷の緑の草に触れるのはいいものだ。

The old house is still standing, tho’ the paint is cracked and dry.
古い家はまだ建っている、ペンキは割れ剥がれ、乾いているけれど。
And there’s that old oak tree that I used to play on.
そして、あの古い柏の樹がある。その上で私は遊んだものだ。
Down the lane I walk with my sweet Mary, hair of gold and lips like cherries.
小道を歩く、私の大好きなマリーと一緒に、金髪でサクランボのような唇の。
It’s good to touch the green, green grass of home.
故郷の緑の草に触れるのはいいものだ。

Then I awake and look around me, at the four grey walls that surround me.
すると私は目が覚め、私の周りを見回す、私を囲んでいる4つの灰色の壁を。
And I realize, yes, I was only dreaming.
そして私は気付く、そうか、私は夢を見ていただけだ。
For there’s a guard and there’s a sad old padre. Arm in arm, we’ll walk at daybreak.
監視人がいる、悲し気な老人の神父がいる。手を組んで私たちは夜明けに歩くだろう。
Again I touch the green, green grass of home.
また、私は故郷の緑の草に触れるのだ。

Yes, they’ll all come to see me in the shade of that old oak tree as they lay me neath the green, green grass of home.
そう、みんな来て、私に会ってくれる、あの古い柏の木の陰で、その時みんなは私を故郷の緑の草の下に横たえるのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=kPCe3bQHUdg
(完)

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黒いファラオの謎(第2弾)


2015年1月のブログ「エジプトBlack Pharaohs(黒いファラオ)の謎」では、ヌビアNubiaとよばれる、エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方で生まれた黒人王が遺した遺跡やヌビアの文化をご紹介しました。

今回はその第2弾として、Youtube「Rise of the Black Pharaohs黒いファラオの台頭」から、2人の考古学者の活動を通じて黒いファラオが残した遺跡を中心にご紹介しましょう。

彼らの活動サイトは、王家の谷があるナイル中流のルクソールLuxorから1千Km上流の古代都市エル・クルルElKurruとナパタNapataです。
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かつて黒人の王国クシュKushの首都だったナパタには高さ98mの神聖な岩山があります。
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岩山の名はゲベル・バルカル(Gebel Barkalバルカル山)。
右側の岩壁をよ~く見て頂くと4人のファラオの像が???
左側には、コブラが頭を天に向けているような岩が???
手前には神殿の跡が残っています。

そして、山の向う側300mにはピラミッド群があります。
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ゲベル・バルカルから15Km下流のエル・クルルには1辺が40~50mのピラミッドの跡が残っています。
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紀元前1500年頃、ルクソールから遠征してきたエジプト第15王朝のファラオのトトメス3世はクシュ王国を支配下に置いたのですが、第25王朝(紀元前747-656)になると、クシュを拠点としていた王ピアンキ(Piankhi)が、ナイル下流に遠征し、エジプトのファラオになりました。この王朝はヌビア王朝とも呼ばれ、栄光あるエジプトが黒人に乗っ取られた不名誉な時期とされています。

それではYoutube「Rise of the Black Pharaohs黒いファラオの台頭」をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
古代エジプト。偉大なピラミッドの大地。目を見張るような工芸品。凛然(りんぜん)たるファラオ。そして絶大な帝国。
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エジプトは全ての古代文明の頂点で、図像iconographyや文明のカリスマを介して我々の心を捉えて来た。
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しかし、古代エジプト人が彼らの力を世界に宣言したように、彼らは彼らの統治に関するショッキングな秘密を埋めて隠してしまった。それは歴史から消されてしまった。それは、主人であるエジプト人を打倒し、ファラオとしてエジプト人を統治した、南からやってきた成り上がり者の王国の物語だ。
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これらの征服者たちは、クッシャイト(クシュ人)で、現在のスーダンに暮らし、建設作業者や金細工者や戦士の文明を持っていた。
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ジェフ・エンバーリング教授「クシュがエジプトを占領できたという事実は、デービッドとゴリアテの物語(注)といえる。」
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mh:エンバーリングは背景のピラミッドと共に現れる重要人物の1人です。

(注:“デービッドとゴリアテ”のデービッドとはダビデで、旧約聖書に現れる紀元前1千年頃の男です。ゴリアテという大男をシュリング・ショットで仕留め、新たなイスラエル王になりました。息子は有名なソロモン大王です。)

しかし、今日、クッシャイトは全く忘れ去られている。理由?それは肌の色だ。彼らは黒褐色のアフリカ人だ。
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古代エジプト人には貶(けな)され、植民地時代の考古学者には野蛮人だと中傷されていた。
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考古学者ティム・ケンドル「エジプト人には、彼らは王の足元に跪(ひざまず)く人々に見えたのだ。」
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(彼は背景の岩山と共にフィルムに現れる重要人物の1人です。)
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エンバーリング「それはある種の人種プロファイリングとでも言えるだろう。」

今、何世紀も続いていた愚弄の後に、素晴らしいクシュの興隆(こうりゅう)は、ついに日の目を見ようとしている。エジプト人よりも啓蒙されている考古学者たちは、砂の中から、そして空から、彼らの歴史を掘り出そうとしている。科学はエジプトを跪(ひざまず)かせた黒いファラオの秘話を明らかにしようとしている。
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Rise of the Black Pharaos黒いファラオの台頭
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ここは北スーダンのクシュ王室の埋葬地のエル・クルルだ。
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クシュにおける“エジプトの王家の谷”で、クシュの多くの統治者がここに埋葬されている。彼らの生活や、彼らがどのようにしてエジプトを占領したのかを調べるための僅かな場所の一つだ。それが考古学者たちを惹きつけている。
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ジェフ・エンバーリングはクール1と呼ばれるピラミッドで、埋葬されている王室の墓を明らかにしようとして50トンの土砂を掘り起こしていた。彼らは、その穴の中で、このピラミッドと、クシュ王国を建設した王を特定できるものを見つけたいと考えている。

エンバーリング「我々がまず見つけたいと思っているのは、王の名前だ。出来れば更に、ピラミッドに残されているだろう付加的な情報を見つけて、2千年以上昔の歴史のどこに、この遺跡が嵌め込まれるのかを知りたいと考えている。」
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クッシャイトは記録をほとんど残していない。その上、墓や寺院のほとんどは破壊されている。クール1も例外ではない。
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過酷な気象と石泥棒によって破壊される前、ピラミッドは今の4倍の高さで聳えていた。
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この崩れた巨大なピラミッド跡は数奇な過去を持っている。今から凡そ1百年前、アメリカ人考古学者ジョージ・ライズナーは多くのクシュの記念碑的遺跡や多くの重要な王たちの墓を発掘した。
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エンバーリング「ジョージ・ライズナーはクシュの考古学に関する卓越した先駆者だった。彼は1908年に調査を始め、1930年代まで続けた。当時はとても厳しい環境だったが、基本的な年表を確立した。考古学的時期だけではなく、クシュの王の順序も見つけ出し、それは今日、我々が参照している重要なものだ。」

エル・クルルでは、ライズナーはクール1を除く全てのピラミッドの地下に到達した。しかし、クール1では、彼を恐れさせるものがあったのだ。ピラミッドの天井が崩れ、秘密を中に閉じ込めてしまった。
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近くの洞窟では、作業者5人が死亡した。ライズナーは祖国アメリカに戻った。ジェフ・エンバーリングも同じことが自分にも起きるのではないかと時々思っていた。
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エンバーリング「ライズナーの記録によれば、エル・クルルでの発掘の季節の終わりに2週間の休みをとった。その時、医師があまり心配し過ぎない方がいいと助言した。そこで彼は考え直して、別のピラミッドの発掘に取り掛かったんだ。リスクのない仕事はないって考えてね。」

勿論、リスクなしでは成果は得られない。そしてライズナーは別の王室埋葬地を発見することにした。その結果は驚くべきものだった。
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ライズナーは黄金や宝石や素晴らしい工芸品の倉庫を発見したのだ。あの世での生活を豊かにするために、クッシャイトの王と共に埋められていた精緻な最高傑作品だった。
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エンバーリング「考古学者なら、かつて王だった人物の墓で黄金や銀で出来た想像できないほどに豪華な品物を見つけるのは心が躍る夢のようなことだろう。歴史や宗教や彼の地位や威信なんかが残されているんだ。想像すだけでも素晴らしいことだよ。」
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エンバーリングの最初の啓示は黄金の宝物ではなくて、大きな地下階段だ。王の埋葬用通路として十分な大きさだ。しかし、彼の注意を引いたのは小さな特徴だった。
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エンバーリング「この通路は記念碑的なもので、地下に向かって固い岩を掘って続いている。深さは8m以上ある。底には当初の入口があるが、その上に、奇妙な孔がある。略奪者が掘った孔だ。」

エンバーリングは事情をよくしった男たちの仕業だと考えている。
エンバーリング「ほとんどの人は元々の入口の高さが5mもあるなんて知らないはずだ。その上に穴を明けていたんだ。その向うに天井部の空間があることを知っていた人物の仕業に違いない。」

問題は、略奪者がどこまで入り込んだか、何を残したままにしているかだ。エンバーリングは、直ぐにそれを見つけるだろう。彼は既にライズナーが放棄した洞窟を発掘し終えている。
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エンバーリング「ここはピラミッドの第二の部屋だ。しかし、天上が壊れているので今は部屋にはなっていない。略奪者たちが第三の部屋を目指して穴を掘っていた時に天井が崩れたのではないかと思う。」
エンバーリングは発掘チームが事故に遭い、新たな犠牲者にならぬよう、予め手を打つことにした。彼の同僚の技師ナシオが造った鉄骨の支柱で部屋の天井を支持した。
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これで王の発掘を始められる。成功すれば植民地時代の有名な考古学者ライズナーがやり残した部分の歴史を書き記すことが出来る。

スーダンに居た間、ジョージ・ライズナーはアフリカ人のもてなしを受けながら、豊かな地方の文明の中で発掘していた。
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彼はアフリカの歴史を地中から引っ張り出していた。しかし、当時の人種優越性という植民地の妄想(もうそう)は、彼の科学的な判断力を跛(ちんば)にしていた。発掘したピラミッドに畏敬の念を持っていたにも拘らず、彼の周りで見かける黒いアフリカ人の祖先が、それを造ったと信じることを拒否していた。彼の偏見は彼の目をも曇らせていただろう。
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1916年、彼が偉大なクシュの王の美しい黒御影石の像を発見した時、彼は、それがクシュの人物の像とは思えないと主張した。クシュの王やクシュの全ての記念碑的建物の建設者たちは白色系の肌を持つ外部の人間だと考えていたのだ。
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レイチェル・ダン准教授「スーダンの人々がどんなことが出来るかを考えるのは彼のような考え方の人物にとって挑戦のようなものだったと思うわ。発見したものをみて、彼らが造ったなんてとても信じられなかったのよ。」
クッシャイトに関するライズナーの記録は、人種的な信仰がどんなものかを見せる窓のようなものだった。
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ライズナーの手記
“貧しく、孤立した結果の民族だ。二グロとエジプト人の混血で、砂漠を流れる河岸で生まれ、あまりにかけ離れ、余りに貧しく、彼らよりも優れた、強い民族なら関心すら示さない。”

クッシャイトを扱(こ)き下ろす人物は、ライズナーで終わりでも始まりでもなかった。つい最近まで、ほとんどの考古学者は、しばしばヌビアとも呼ばれるクシュはエジプト帝国の属国以上のものではないと考えていた。平和時には黄金の、戦争時は奴隷の提供元だと思われていた。
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それが、クッシャイトとしばしば変わり易い関係を持っていたエジプト人によって最初に作られたイメージだった。その関係は2つの国の誕生まで遡(さかのぼ)る。
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スーダンのカルマKermaはエル・クルルから凡そ210Kmナイルを下ったところにある。
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その中心的なものはデフーファ(Deffufa)だ。“煉瓦の一枚岩”を意味する。
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太陽を敬う寺院で、エジプト人が最初にピラミッドを造り、イギリス人がストーンヘンジを造った、紀元前2千5百年頃のものだ。考古学者サラ・ディ・ムハンマドによれば、そのことがデファーファをアフリカで最も古い建物にしているという。
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サラ「デフーファは古代都市カルマの中心に立っている。カルマは地球上で最も古代の都市の一つだ。勿論だがアフリカで一番古い。」
デフーファはアフリカで最も古いレンガ造りの例でもある。エジプトに比類する、高度な建築技術が既にあったことを示している。
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カルマの周囲にはアフリカで最も古い埋葬地がいくつかある。
これらの考古学的証拠は、良き隣人として知られていたエジプトがファラオによって統一されていた紀元前2千年には、既にこの地に成熟していた文明があったことを示している。
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まず、二つの新進気鋭の国が現れ、互恵関係を築き上げたのだ。
レイチェル「それは、しばしば交易に基づいた関係だったの。エジプトの墓に描かれて残っている証拠によれば、スーダンから来た人々がエジプトに貢物を運んできているのよ。豹の毛皮や猿や貴石なんかをね。」
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ナイルにおけるその位置関係から、カルマはエジプトと準サハラ地域との間で黒檀、象牙、異国情緒あふれる動物などの交易中継地として繁栄した。しかしクシュを興隆させたのは黄金だった。
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クシャンはナイル谷で金の採掘をしてエジプトに売っていた。エジプト人は宝石や貴金属には貪欲(どんよく)だった。金箔の棺は言うに及ばず、葬儀用の仮面はツタンカーメンで有名だ。

サラ「クシュは黄金の土地として伝統的にエジプト人に知れ渡っていた。エジプトの黄金の多くはヌビアからのものだった。この辺りや東の砂漠やカルマの東で採取されたものだ。」
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エジプト人は、クッシャイトは弓に長(た)けていて、彼らを“弓人”と記録に残し、傭兵として使っていた。エジプトの闘いの様子を示す資料ではクッシャイトの豪勇ぶりをレスラーとして描いている。この伝統は今日のスーダンでも繁栄している。
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エジプト人が知らなかったことは、クシュの軍隊の本当の力が、ある日、エジプト人に襲い掛かって来ることだった。クッシャイトの来襲は当初、小規模だった。境界を越えて彼らの領土を拡張するだけだった。エジプト人はクッシャイトの侵略を非難していたが、そのうち、戦(いくさ)が始まった。
考古学者たち「エジプト人はクッシャイトを浅ましい、野蛮な人々だとして描いていた。捕えられた彼らは縛り上げられ、王の足元に跪(ひざまず)かされていた。どこにでもいる人々の様子で描かれ、エジプトの王が彼らの髪を握り、棍棒で頭を叩き割られる様子で描かれていた。」
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このようなエジプト人の見方は、彼らがクシュを領土に取り込む考えを正当化するものだった。紀元前1500年頃、エジプトのファラオのトトメス1世は高まる緊張を取り除くため、初めてクシュを侵略し、黄金を直接獲得する道を拓(ひら)いた。
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彼の軍勢は神聖な山“ゲベル・バルカル”と呼ばれる場所まで南征した。
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この山の南東端には高さ75mの尖(とが)った岩が天を突くように聳(そび)えている。クッシャイトにとっては、間違いようのないファラオの形だ。創造と豊潤の象徴だ。
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しかし考古学者ティム・ケンドルによれば、エジプト人はこの岩山にもっと重要な意義を見出していた。
ケンドル「エジプト人がこの岩山を力強くて重要なものだと考えたのは、そこに大きな尖塔のような岩があって、それがいろいろな宗教的なことを思い起こさせたからだ。例えば、まず思いつくのは、鎌首を持ち上げたコブラの姿だ。更には直立しているオシリス王の姿だ。オシリスはエジプトで最初の神秘的な王だ。」

コブラは一つの鍵だろう。エジプト神話によれば、コブラは王位と強い関係がある。王を守護するため、多くの女神はコブラの形で現れている。
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ツタンカーメンなどファラオの王冠の上にコブラが現れているのはそのためだ。
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ケンドルは侵略戦争に同行してきた恐らく身分の高い祈祷師が、この岩を見て王との関連を見出したのではないかと考えている。彼の目には巨大な信仰対象に見えたのだ。
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ゲベル・バルカルは神の中の神アムンが誕生した場所と考えても好い程に重要だと思われた。
ケンドル「ここは王が誕生すべき場所で、その王はクシュを統治する権限を与えられたと考えた。」
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そう考えられるようになると、ゲベル・バルカルには急速に神聖なエジプト芸術への道が開かれた。ここではラムセス二世が神アムンに捧げ物を差し出している。アムンは山の中で玉座に座っている。
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この絵はゲベル・バルカルでの様子を示しているとしか考えられない。尖った岩山はエジプトを示す白い冠を付けた大きなコブラとして描かれている。

この絵はアブシンベル神殿の中で見つかった。ラムセス二世がクシャとの国境の近くに建てた神殿だ。ラムセスはゲベル・バルカルを訪れ、岩山に感化され、自分自身の4つの像でアブシンベルを飾り付けたとティム・ケンドルは考えている。
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ケンドル「アブシンベル神殿では入口の4つの巨大な像が有名だ。ラムセスはゲベル・バルカルを訪れた時、岩山の正面の岩壁に4つの巨像を見つけたのではないだろうか。」
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「長い間、人々は岩肌に4つの像が彫刻さえていたと信じていたが、実際は全く自然の造形で、人々が造ったものではない。」 

ラムセス以外のファラオたちもゲベル・バルカルの岩陰に寺院を建てて敬った。エジプト人は、この山の神秘な力を信じ、王位に就くために訪れていたのだ。
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ケンドル「寺院で何が行われていたのかは分かっていない。しかし、ここがエジプト帝国の植民地だった頃、ファラオたちはここを訪れ、寺院の中の神アムンの像の前で、ファラオと神オシリスが、父と息子のように一体化したのではないかと考えている。オシリスは神話の中の最初のエジプト王だ。ファラオは更に寺院の奥深くに入り、階段を上って玉座の上に座り、王となって寺院の外のポーチに立ち、現人神(あらひとがみ)として群衆に祝福されたのだろう。」
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何世代も語り継がれている内に、ゲベル・バルカルの伝説は大きくなり、クシュにおけるエジプトの影響力も拡大していった。クッシャイトもエジプトの宗教を容認し、神アムンを敬い、彼らの主人を真似て、ピラミッドの建設も始めた。
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ケンドル「私は、クッシャイトが最初のエジプトの属国になったと本に書いたことがある。しかし、現実はそんなに単純なものではないと思う。何故なら、クッシャイトは長年をかけて積み上げられた世界観を持っていたからだ。彼らはその中で完璧に適合していた。」
エンバーリング「クシュは最初にエジプトに占領された。しかし生き残ったんだ。クッシャイトはエジプト文明に適合せざるを得なかった。つまり、これを近代のアメリカ用語でいえば、彼らは “やり過ごすpass”しかなかった。」

3百年間、エジプト人はクシュを支配し、人々にアムン信仰を強要した。ゲベル・バルカルで原理主義者ファーバーが言ったという:山に宗教的な輝きが起きた時、エジプトには火が放たれ、クッシャイトがファラオに変わるだろう。
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エル・クルルのクール1では、ジェフ・エンバーリングとその発掘チームは、1百年前ジョージ・ライズナーを跳ね除けていた岩壁を抜け、その向う側まで到達していた。発掘の季節の最後の時期だったが、エンバーリングは大した発見ができずにいた。しかし突然、彼らの努力は予期していなかった発見によって報われた。
エンバーリング「我々は大量の土を取り除いてきた。これまで2つ目の部屋と思われる場所まで到達した。そして、その奥にある第三の埋葬室への入口を発見したのだ。これが、第三の部屋への通路で、最後の部屋だ。」
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最後の部屋なら埋葬品の宝物か王の遺骨が収納されているはずだ。
何カ月も発掘作業をしているムハンマドは、宝物まであと一息のところにいる。
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ムハンマド「ここを造ったのは私たちの祖先だ。私の文化や文明は彼らから生まれた。私は彼らの一部なんだ。我々はもっと早く、祖先を見つけ出し、彼らから学んでいなければならなかった。」

発掘チームはクール1の墓を造った王に関して既に一つの重要な手掛かりを理解していた。王は、この場所を注意深く選んでいたのだ。ピラミッドの脇に小さな一つの部屋だけの墓を造っていた。そこには、かつて全てのクシャの王の重要な品物が治められていた。この台の上には、かつて王ピアンキの遺体が置かれた。エジプトを占領した黒いアフリカ人の王だ。
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(mhピアンキは第25王朝(ヌビア朝)の初代ファラオです。)

エジプトがクシュに侵攻した8百年後の紀元前7百年、エジプトは既にクシュから引き揚げていた。ツタンカーメンやラムセス二世などの新しい王国は既に混沌の中に沈んでしまっていた。リビアの戦闘王は北エジプトを支配下に置こうと戦を仕掛けていた。アムンの祈祷師たちは南北エジプトを統一しようと希望していた。祈祷師はアムンの信仰が破壊されてしまうことを恐れていて、分断されている帝国の国々を統一することこそが信仰の存続に重要だと信じていたのだ。そこで以前の植民地でアムン信仰に同化していたクシュに救いを求めるという驚くべき手段をとった。
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その時、アムン信仰に熱狂していた若い王ピアンキは祈祷師の要請以上の諸行に出る準備が出来ていたのだ。彼はアムンが味方してくれているとの信念に力付けられて、リビアの王を追い払うことを約束した。ビアンキは宣言した“神は王を創った。人々も王を創った。しかし、アムンは私を王にした。”
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彼の軍勢はナイルに沿って北に向けて移動しテーベThebesに到達した。
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彼は軍勢に命じた“弓を絞り、矢を放て。北の土地の人民に私の指を味わせるのだ!(指とは矢のことだと思いますが・・・)」
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ピアンキの敵は直ぐに降伏を申し入れてきた。

ピアンキは直ちにナイル下流の町メンフィスemphisに襲い掛かった。
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「慈悲を見せてほしい!」とリビアの王は許しを乞うた。「私はあなたの顔を恥ずかしくて見ることが出来ない。私はあなたの炎の前に立つことはできない。私はあなたの強さに怯(おび)え、震えている。」

エンバーリング「クシュがエジプトを征服できたという事実は、まさに“デイビッドとゴリアテの物語”だ。エジプトには巨大な都市や巨大な寺院があり、大勢の人々が暮らしている。一方クシュは小さな町が分散しているだけの国だ。クシュが強力な軍事力を持つことが出来たのはなぜか、我々は今調べているところだ。」
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この勝利がどんなに信じがたいものであろうと、ビアンキと彼の後継者たちはエジプト第25王朝を創ることになった。彼らは現代のハルツームから地中海まで広がる土地で富を支配し、強力な国家だったアッシリアやギリシャと対抗できるようになっていた。
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ピアンキはアムンを信仰し成功を収めた。彼の占領の業績を岩に彫り残したものの中に、アムン自身が新しいファラオに王冠を被せる場面がある。
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全ての神の母と呼ばれる女神ムーンが見守る中で、ビアンキはアムンの前で跪いている。ピアンキは神の中の神アムンに簡単な捧げものを差し出している。
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羊の頭をしたアムンは、彼に言う“私はお前が母親の子宮の中にいる時から、お前はエジプトの王になるのだと言っている。」
そしてアムンはピアンキに下エジプトの赤い冠と、上エジプトの白い冠を与える。分断されていた土地の統一の印だ。
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ピアンキの戴冠式の石碑は敬虔な国家に力強いメッセージを発することになった。当時では最高の宣伝だっただろう。
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サラ・アーメッド「政治的な力はいつも宗教信仰と結びついていた。王は人民を統治する権利があり、王は信仰心が強いということを人々に信じさせるためだ。王たちはこれを使って全てを支配した。黄金の発掘場所、貿易通路など全てをだ。今も同じ傾向があると私は思っている。我々は同じことを永遠に続けているんだ。」

ピアンキはクシュを出てから、彼の若い弟シャバカに王位を譲るまで、凡そ12年間、エジプトを支配した。
シャバカはエジプトの首都メンフィスを引き継ぐため、北に遠征した。彼はエジプト新王朝の最盛期以来で最大の建設時代を切り開いた。
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シャバカと先代の兄ピアンキは強力で慈悲深い指導者との評判を得た。
ケンドル「彼らは慈悲深く、寛大だということで有名だった。例えば彼らは罪人を惨殺することは無かった。彼らは罪人を許した。罪人は運河の建築作業をした。2人は古代の王としては全く独特の人物だったのだ。」
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ピアンキとシャバカの意気揚々とした統治は帝国から遠くれている敵と戦った王タハルカへの道筋を確立した。紀元前7百年頃、彼はアッシリア人の攻撃から、エルサレムとそこにあるソロモン寺院を助け出しているのだ。この行為は旧約聖書に記録され、ヘブライ経典研究者たちはタハルカを人民の救世主として褒め称えている。
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しかし、アッシリアン(アッシリア人)はその無念を晴らすため、タハルカが治めていた土地に侵攻し、タハルカをテーベまで押し戻した。タハルカが死んだ時、彼は祖先たちのようにエル・クルルに埋葬されることは無かった。その代わり、彼は自分のピラミッドをニューリNuriの近くに造った。
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ティム・ケンドルは、彼がそうしたのは迷信を信じたからだろう考えている。エジプトの新年の日、ゲベル・バルカルからこのピラミッドを見るとタハルカのピラミッドの後ろから太陽が昇る。それは新たな生命と復活を象徴するものだ。
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ケンドル「新年から三か月半後、タハルカのピラミッドの上に立ってゲベル・バルカルを眺めれば、太陽は岩の尖塔の上に沈むんだ。」
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「尖塔は神オシリスのように見える。日没は神々の死を象徴している。それはまさにナイルの終わりで、芳醇の終わりで、神が死のうとしている時だ。だから彼は、新年に生まれ変わり、3ヶ月半後に死に、ナイルも死に、そうして毎年生まれ変わるんだ、何百万回もね。」
タハルカはここにピラミッドを建て、永遠に残るゲベル・バルカルとの繋がりを持たせた、とケンドルは言う。

生存中もタハルカは神聖な山と彼自身の関係を強く持っていた。聳え立つ尖塔の岩肌に記念碑的な彫刻を彫るよう指示していたのだ。1987年、ティム・ケンドルはそれを初めて見た男になった。
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(mhティム・ケンドルが彫刻を発見した時の写真です。)

ケンドル「1930年代、あるイギリス人の事務官が双眼鏡で岩山の肌を調べていて、尖塔の、とても近づくことが出来ないような所に古代の作業の跡をいくつか見つけた。私は登山家ではなかったが、どうしても知りたいと思い、登山の訓練をしてから登ってみることにした。今は、もう一度やってみるつもりはないけどね。」
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写真家と一緒に尖塔に上る仕事は楽ではなかった。報告書を作成するために、彼は写真が必要だった。
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(mh上の写真も当時のものです。)

ケンドル「我々が1987年に登頂した時、得られた結果は、現在の判断基準からすればとても原始的なものだった。幸運にも2人のプロの登山家と連絡が取れ、岩山に登って私がやり残した仕事をしてくれるよう頼むことが出来た。」
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mh:以降、若い女性2人がそそり立つ尖塔の頂きに登り、降りてくるまでのシーンは省略させて頂き、ロッククライミングの様子や彼女たちが撮影した写真をご紹介させて頂きます。
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岩肌には土木工事の跡が残っていた。大きな穴が硬い岩に明けられている。
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これらの穴は、かつて木製の梁を支え巨大な足場を作っていた。作業者たちはクレーンを使って材料を持ち上げていた。
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2千6百年前に行われた工事では大きな飾りが岩肌に残された。タハルカの華々しい業績の記録だ。そこには黄金の板が取り付けられ、光り輝いて人々の目を引いていたはずだとケンドルは考えている。
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とうとう、全てが結びついた。ティム・ケンドルが破壊されていた岩肌に残された記録から読み取ったのは、タハルカの神性と彼をエジプトから追い出すことになったアッシリアへの挑戦的な業績を讃える飾りだった。彼はアッシリアンを“ベドウィン”と呼んでいた。
“私はタハルカだ。良き神でエジプトの上と下の王だ。私は永遠に生き続ける。私はアジアのベドウィンを壊滅し、リビアの砂漠の住民たちを打ち負かした。”
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タハルカは、悔い改めずに戦いを続けていた戦闘王だったが、死ぬ時、エジプトのほとんどは彼の支配下には無かった。彼の後継者たちはそれに気付いていなかったようで、タハルカは2つの国家のファラオだったと信じ、主張していた。

そして紀元前593年になると、クシュの仰々しい宣言に飽き飽きしていたエジプトのファラオのフサムテク二世は軍隊を引き連れ侵攻してきた。
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フサムテクは返さねばならない借りを持っていた。数年前、クッシャイトのファラオはプサムテクの祖祖父を殺害していたのだ。フサムテクの目標は第25王朝を歴史から葬ることだった。彼の軍勢は、見つける全ての像を破壊し尽くし、クシュの記念碑的建物の壁に彫られた歴史的な名前を削り去った。それはクシュへの究極の侮辱だった。クッシャイトの冠の神聖なエジプトのコブラの象徴さえも叩き壊した。
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歴史の書き換えは今日でも続いている。
ケンドル「カイロのエジプト歴史博物館の正面を見ても判る。2階の壁にはエジプトの全ての王朝が大理石のパネルで掲げられている。」
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「その中でたった一つ除外されているのが第25王朝だ。」

エル・クルルの発掘場所に話をもどそう。第三の部屋、墓室の発見は誰もを興奮させていた。しかし、発掘許可の期限があと2日で切れてしまい、ジェフ・エンバーリングはアメリカに戻らねばならない。王の遺骨、宝石類、王の名前、などはこの岩の直ぐ向うにあるかも知れないのだ。それを発掘するには来年まで待たねばならない。
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エンバーリング「今とても興奮している瞬間で、同時に、落胆している瞬間だ。今、残されている時間と資源では、今年は、責任をもって、安全に発掘をすることはできない。200トンもの砂を掘り起こしてここまで来たのにもかかわらず、目的を果たせなかったのはとても残念だ。しかし、来年、またここに来て、素晴らしい発見をしたいと希望している。」

しかし、エンバーリングは全く手ぶらで故郷に帰るわけではなかった。彼は近くの発掘場所に招待され、最新技術の友達を連れて訪れることになった。
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ここはズーマ村だ。高貴な人物の埋葬場所でタハルカが死んでから凡そ1千年後に造られた。
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帝国の黄昏(たそがれ)の時期だ。アフリカの敵対国がクッシャイトを消し去ろうとしていた時期だった。その直ぐ後には、キリスト教が一帯を変革する。

ズーマでは同僚の考古学者が考古学的な拠点を見つけていた。白い砂岩の構造はクール1とは異なっている。
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奥の穴は下の細いトンネルに続いていた。埋葬の部屋のようだ。いよいよロボット・カメラの登場だ。
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破壊された品々は、他の墓と同じように侵入者がいたことを示している。しかし考古学者にとっては手掛かりが一杯の宝の倉庫だ。
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mh:で~墓の内部の調査でロボット・カメラが使われ、遺骨や土器の撮影をしますが詳細は省略し、カメラで撮影されたいくつかの写真だけご紹介しましょう。
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ズーマが造られるまでには、エジプトの影響は遠のき、クシュの王は偉大なピラミッドの墓を造らなくなっていた。
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黒いファラオたちの統治が1百年続いていた時が王国の最盛期だったのだ。しかし、その短い期間、アフリカの負け犬だった彼らは巨人を倒し、古代世界の偉大な帝国の中に自分たちの場所を確保していたのだ。
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そして今、スーダンにおける科学的な作業が進んでいるおかげで、黒いファラオの王国は陰の中から光の当たる場所に歩き始めている。永遠に。
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Rise of the Black Pharaohs
https://www.youtube.com/watch?v=ck-PYLgESuA
・・・・・・
エル・クルルにおけるジェフ・エンバーリング教授の発掘は今も続けれれているようです。
2015年のレポートが見つかりました。エル・クルルのピラミッドの地下室で御影石の石碑をを発掘したのです!
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クシュ王国の慣例によれば、石碑には埋葬されている王の名前が彫られているようですが、この石碑には何も彫られていませんでした。石碑ならヒエログリフを彫刻してから、地下の墓室に持ち込むはずでしょうから、石碑ではなく、石棺を置く台だったのかも知れません。

てなことをグズグズと考えている理由は、何年も発掘を続けているエンバーリング教授の努力は、このまま実ることは無いかも知れないという思いが生まれたからです。このピラミッドは何らかの理由で建設途中で放棄された可能性だってあるわけですから。

これまで、世界中で、沢山の考古学的発見が行われてきましたが、その陰には、発見につながらなかった多くの努力があるのだろうなぁと改めて感じました。しかし、考古学に限らず、偉大な発見は、多くの成果につながらなかった努力の上に成り立っているのだろうなぁとも思います。そこに何かがあると判っていたら、それを最初に発見したからといっても大した意味がありません。どこに何があるのか明確ではないからこそ、考古学の醍醐味(だいごみ)があると言えるのでしょう。

(完)

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mh徒然草126: オリンピックの費用負担


今日は12月23日ですが・・・
森・小池のコンビで進めているオリンピック会場の決定は、もめています。野球やヨットなどの会場を提供する千葉、埼玉、神奈川に費用負担を求めたいと考えている小池知事に自治体は“筋違いだ!”と嚙みついています。
・・・・・・・・・・・・
見出し:五輪費用負担「話が違う」、東京以外の開催自治体から不満続出
記事:(映像の内容と同じです。)
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6225058
22日、千葉と埼玉の知事の不満が爆発しました。東京オリンピック・パラリンピックの競技会場を抱える2つの県。もともと負担する必要がないはずだった開催費用の負担を求められたためです。
22日、千葉県の森田知事の会見。
「初めのお約束と違うわけでございます。組織委員会でまかなえない場合は東京都。それで駄目なら国で相談することになっているのだから、それをやってもらわないと」(千葉県 森田健作知事)
埼玉県の上田知事も「このところ、きな臭いにおいとか煙が出ていて、非常に不快感を持っています」
批判の的は、21日、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会が試算した大会の総経費の負担について。最大で1兆8000億円に上る開催費用。仮設施設の費用などとして試算するおよそ2800億円のうち、2000億円の一部が競技が開かれる自治体に拠出を求められる可能性があるのです。
しかし、仮設施設の建設費は組織委員会負担という原則だったはず。
横浜市の林文子市長「仮設の負担についても、各自治体でというのは筋が違う」
これについて、小池知事は22日「関係自治体は準開催都市とお呼びしたい。御用聞きではありませんけれど、国と組織委員会ともに真摯に協議を開いていく」と、横浜市や千葉市などを「準開催都市」と呼び、負担を求めたい思いをにじませた。
東京都の小池知事「都税を他のことに使うということは、法律的にかなりハードルが高い。3者(都、政府、組織委)で協議を重ねていきたい」
しかし、自治体のトップの怒りはおさまりません。
埼玉県の上田清司知事「何ら正式に一つも話がない中で、煙や臭いだけは妙に出てくるというこれはけしからん話」
東京都以外の競技開催自治体は、26日、当初の計画どおり組織委員会が全額負担するよう求める共同要請をするとしています。
・・・・・・・・・・・・
この記事に対するFacebookのコメントの上位1位から3位は次の通りです。
1位:そんな話ならもう開催しなくていいんじゃないか
2位:そもそも、費用は話が違う。組織委員会が増えた費用全額負担するのがよい、税金を使わず。と、言ってみたくなる。
3位:「話が違う」なんて誘致の段階からそんなのばっかじゃん。

で~常々思っているんですが~Facebookからのコメントは、短文で、分かりやすい意見表示が多いですね。ポピュリズムを煽るプロパガンダのようです。問題提起はするが、解決策は示さないのがポピュリズムの先導者の特徴です。

確かに・・・
千葉や埼玉、そして我が横浜市は「そんな話なら、会場の提供はお断りします」って言っても良いかも知れません。小池都知事は「こんなに多額の都民税を使うのなら東京オリンピックは返上しますって言ってもいいかも知れません。それが一番、大衆には判りやすい結論です。

しかし、それで話がまとまるとは思えないし、最善の施策だとも思えません!

東京都はオリンピック開催候補地として手を挙げました。それが国際オリンピック委員会で認められ、晴れて開催都市になれたのです。都民は大喜びしたはずです。しかし、豆腐じゃあないけど、一兆、二兆、三兆と都民税が使われるので、これじゃあ嫌だ!って小池都知事は言い出したんですね。それは嫌かも知れません。オリンピックを東京に招致することに決めたのは小池都知事ではありませんしね。

だったら、小池都知事は「私が決めたことではない、こんな杜撰(ずさん)な計画は、都民のために放棄します」って言えばいいのに、そうはせず、費用の一部を他の自治体に負担してもらおうって考えているんですね。

しかし、オリンピックを招致したのは東京都ですから、例えばヨット会場なら、神奈川県の江の島を使わず、都内に会場を新設すればいいのです。それが筋っていうものでしょう。しかし、東京都でヨット会場を新設しようとすれば、会場整備で莫大な費用が掛かります。それが江の島を使わせてもらうことで大幅に節約できるわけですから、江の島に謝礼金を渡すべきだと思いますが、そうせずに、経費は自前でやってほしい、って考えているわけです。

オリンピックは東京都が希望して開催権を得ました。都民もそれを望んでいます。都知事がすることは、出来るだけ少ない費用で、競技に支障を起さず、都民や日本国民や世界中の人々を楽しませる大会を企画することで、費用を他人に押し付けることではありません。

森JOC会長は、レジェンドだから、ケチケチせずに良い施設を造るべきだとの考えですが、数千億円のお金を負担するのは森氏ではありません。彼は数十万円の税金を納めているはずですが、オリンピック用として負担するのな、恐らくその零点数%、つまり数百円だけです。森氏は、誰のお金をつかっていると思っているのか。その上、彼は、多分2千万円くらいの報酬を国税からもらっています。小池都知事も1千3百万円ほどの報酬を都税からもらっています。

このお二方は、まじめに経費の節減を検討してほしいと思います。そして、会場を提供して支援してくれる自治体に費用負担を強いるのをやめてほしいと思います。それが出来なければ、オリンピック招致を放棄するのではなく、お二方がオリンピック事業からはずれ、別の人にお願いすべきでしょう。

NOTHING'S GONNA CHANGE MY LOVE FOR YOU
(with lyrics) - GEORGE BENSON
https://www.youtube.com/watch?v=Tr97MQiqW38
(完)

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