Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

mh徒然草:“月の沙漠”の真実


さばくは砂漠ではなく沙漠じゃあないといけません。唱歌“月の沙漠”の作詞をした詩人“加藤まさを”は、学生時代に結核の保養のため千葉県の御宿(おんじゅく)海岸を訪れていたので、わざわざ砂浜を意味する“沙”の字を当てて“月の沙漠”としたようで、“月の砂漠”ではありません。
御宿海岸には記念碑が建っています。
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次のURLで“月の沙漠”をお楽しみください。
https://www.youtube.com/watch?v=asOHTQU2Ekg
月の沙漠をはるばると、旅の駱駝(らくだ)が行きました
金と銀との鞍(くら)置いて、二つならんで行きました

金のくらには銀の甕(かめ)、銀のくらには金の甕
二つの甕はそれぞれに、ひもで結んでありました

先の鞍には王子さま、あとの鞍にはお姫さま
乗った二人はおそろいの、白い上着を着てました

ひろい沙漠をひとすじに、二人はどこへいくのでしょう
朧(おぼろ)にけぶる月の夜を、対(つい)の駱駝はとぼとぼと
砂丘を越えて行きました、だまって越えて行きました
・・・・・・

“月の沙漠”は、mhの世代の人たちなら誰もが知っている、何度も歌ったことがある曲でしょう。曲というよりも歌というか、愛唱歌というべきかもしれません。歌詞に感動して好きになった人が多いと思いますからね。

で~歌に登場する王子様とお姫様ですが、砂漠の王国の王様の息子である王子とその妻のお姫様ってことですね。確かに、砂漠の国には今も王国が沢山残っています。昔は、イギリスだって、中国だって、インドだって、エジプトだってそうでした。かつて、力の強い男が武力を持って他を制圧し、土地を我が物として、王になり、王国を創りました。王として君臨すると、クーデターなどで転覆されない限り、代々、一つの家系が国を統治し続けています。日本だって平安時代には天皇が国を統治し、太平洋戦争で負けなければ、今でも天皇が実質的な元首でしょう(現在でも元首ですが象徴元首で権限はありません)。

今年の二月に訪れたモロッコもKingdom of Moroccoで、れっきとした王国です。中継地だったドーハDohaはカタール国State of Qatarの首都ですが、首長が実質的な王として実権を握っています。

砂漠の王国の盟主ともいえるサウジアラビア王国Kingdom of Saudi Arabiaのアラビア語の意味は「サウード家によるアラビア王国」です。サウジアラビアはご承知の通り砂漠の国で、経済は原油で成り立っているのですが、原油が枯渇すれば王の地位も危うくなりますので、重要な代替策として投資を加速すると王子の一人が発言していました。原油で得た莫大な資金を世界の株式市場で運用する割合を増やし、得た利益を国民に分配し、国民の反感を鎮(しず)めようというのです。そもそも、原油は王家が汗水たらして働いて創り出した物ではなく、武力を使って敵対部族を殺戮(さつりく)し、土地(砂漠です)を奪ってみたら、原油が眠っていたことが判り、棚ぼたでお金持ちになって、原油売却で得た富を王家が独占しているのですから、国民から反発されぬよう、原油売却益の一部は国民に分配せざるを得ない訳ですね。

こう考えると、唱歌“月の沙漠”の王子とお姫様も、対抗する部族を殺して成り上がった野蛮な家系でぬくぬくと育ち、国民の富を搾取している人たちだと言えますが、歌の中では、幻想的で、哀愁を帯び、ロマンチックで、寂し気で、控えめな二人として登場しているのです。

2月に訪れたモロッコ王国ですが、大きな都市には必ずMarjane(マージェイン?)と言う名の大きなスーパーマーケットがありました。mhがツアー・メンバーと訪れたマラケシュのMarjaneは巨大なモールMallで、地下を含めて4(3?)階建てで、各階の床面積は100x200m位いでした。そこには、イスラム教徒の一般市民なら飲めないはずのビールもワインも売られていました。ブティック、ブランド・ショップ、洒落た飲食店、大型電化製品店、芸術品展示販売店などが通路の両脇に並び、凡そ豊かな人々だけがショッピングを楽しむモールに思われました。
で~モロッコに恐らく数十店舗あるMarjaneは王家が所有し、運営しているんですね。Marjane以外にはスーパーマーケットらしきものは無いようです。そして、どういう訳か、お釈迦様が仰るように因果応報で、訳は必ずあるのですが、Marjaneの中では写真撮影は禁止です!

月の沙漠を行く2人は、王室での贅沢三昧な生活に飽(あ)き、甕(かめ)に黄金や宝石を一杯詰めて、王国を捨て、二人だけの世界を探して旅に出たのじゃあないかと思いますが、二人がいなくなった王国では、大臣が実権を握り、大臣の息子がその実権を継承して次の王国を築くことになるでしょう。王国に石油があれば国民を宥(なだ)められますが、どうなんでしょうか。どんな砂漠にも石油が眠っているんでしょうか。そうも思えるし、そうでない砂漠もあるようだし。そう思うと、ひねくれた性格のmhには、砂漠の王国の王子様もお姫様も砂上の楼閣に暮らす不幸せなお金持ちに思われ、“月の沙漠”は、人間の哀愁(あいしゅう)を子供達に暗示する唱歌なのかも知れないと思ったりするのです。

(完)

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アーサー王の不思議


覚えていらっしゃるでしょうか。ブログ「聖杯の不思議」で登場したイングランドの伝説の王アーサーを。聖杯Holy Grailが保管されていたことがあると言われるアーサー王の居城キャメロットCamelotが何処にあったのかについても、ある見解が提示されていました。

で~今回ですが~
アーサーの遺骨を探す2人の男にスポットを当てたYoutube「The Search for King Arthur's Bonesアーサー王の遺骨を求めて」をご紹介しましょう。

読者諸氏の理解の一助とすべく、今回の重要な舞台となる2拠点の情報をご披露しておきます。

ティンタジェル城Tingtagel Castle とグラストンベリー大修道院Glastonbury Abbeyです。
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ティンタジェル城Tingtagel Castleは北コーンウォールの、アイリッシュ海Irish Seaに突き出た四角な岬にあります。
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岬にある城跡の向うに見える崖はブリテン本島です。
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Wiki:ティンタジェル城(Tintagel Castle)
イギリス、コーンウォールのティンタジェル沿岸部に所在する遺跡。この地はもともとローマ人の居住地であったが、城砦そのものは13世紀からのものである。この城跡はアーサー王伝説に関連されたものとして考えられ、観光地として人気も高く、イングリッシュ・ヘリテッジによって管轄されている。

アーサー王はイギリスでは人気者なんですねぇ。

で、もう一つの重要な場所グラストンベリー大修道院Glastonbury Abbeyです。
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広い敷地に修道院跡が残っています。
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で~修道院の建物跡の中に・・・
具体的には上の写真の一番奥に見える小さな掲示板の場所にアーサー王の墓の跡があるんです!!!
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掲示板の記事は・・・
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SITE OF KING ARTHUR’S TOMB:アーサー王の墓の場所.
「1191年、アーサー王と彼の王妃の遺体が聖マリア礼拝堂Lady Chapelの南側で見つかったと言われた。1278年4月19日、彼らの遺骨はエドワード1世とエレナ王妃の立ち合いの下で、この地の黒大理石の墓に移された。この墓は1539年の修道院解体まで残っていた」
てことは、今は残っていない???

しかし・・・
話はそれほど単純ではありません。なんせ、アーサー王と言えば、日本なら古事記に現れる大国主(おおくにぬし)とか日本武尊(やまとたける)のような人物です。その墓からその骨が見つかったとなれば、大事です!!!

何はともあれ、フィルムの内容をご確認下さい。
・・・・・・・・・・・・
Myth Hunters神話探求者たち
The Search for King Arthur’s Bone
アーサー王の骨を求めて
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彼は英国で最も有名な人物だ。アーサー王!円卓の騎士の伝説の指導者だ。全能の剣エクスカリバーで武装し、その名は名誉と勇気と共に語られている。
歴史家クリストファー・ギドゥロウ「彼は伝説の人物で、戦の指導者で、卓越していた」
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20世紀。2人の考古学者がアーサー王の骨の探求を開始した。一人は事実に基づいて調査を進める科学者で、この調査のために嘲笑され、孤立するかも知れないリスクを承知していた。
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歴史家ティム・ホプキンソン「彼は賢明だという評判を得ていた人物だ。」

もう一人は、超自然現象に憑(と)りつかれていた男だった。
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ティム「ブライ・ボンドは、かなりの変人だった。」

その調査は、彼らを英国の暗黒の中世の中でも最も暗黒な部分への旅に引きずり込んだ。これはアーサー王の墓を探す物語だ。
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アーサー王は英国軍人の歴史で最も有名な人物の一人だ。伝説によれば、彼の華々しい統治は西暦6世紀のものだ。
考古学者ケン・ダーク「アーサーの最も知られているイメージは煌(きらび)びやかな鎧(よろい)を纏(まと)い円卓に着いている姿だ。英雄的な騎士で、特に聖杯Holy Grailの探求をしたことで知られている」
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アーサー王は正に伝説のスターと言える。若いアーサーが石から剣を引き抜いたとか、魔法使いのマリードと共に不思議な冒険をしたという有名な話が伝えられている。
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しかし、アーサー王の本当の姿は謎に包まれている。というのは、彼が生きていた6世紀は暗黒時代の真っただ中だったからだ。
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この時代に関して知られているのは2,3の僅かな事実だけだ。英国の人々は島の外からの侵入者によって攻撃を受けていた。伝説によれば、アーサー王は英国の保護者であり、覇者(はしゃchampion)だった。しかし、彼の物語は戦いの最中での果敢な死と共に終わる。
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考古学者ケン・ダーク「アーサーはウィンザーと烈しく争っていて、ライバルとの劇的な最後の闘いで致命傷を受けた。」
クリストファー「致命傷を負ったアーサーは、治療のためアヴァロン島に連れていかれた。それが、我々が聞いている彼に関する最後の物語だ」
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アヴァロン島は、あらゆる謎の中でも最も不思議なものだった。アーサーが最後に眠りについたこの場所が、一体どこにあるのかを知る人はいない。
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ケン「近代の学者たちのほとんどは、歴史的な観点ではアヴァロン島の存在を疑っているだろう」

しかしアーサーが死んで6百年後の1191年、イングランド西部のグラストンベリー大修道院の僧侶たちが驚くべき発見をした。アーサー王の墓を見つけたのだ。
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クリストファー「これは中世において最も祝福された発見の一つだったに違いない。」
墓には、骨がアーサー王のものだと示す鉛の十字架があった。
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クリストファー「僧侶たちが鉛の十字架の上の文字を見ると“ここにアヴァロン島で有名なアーサー王が眠る”と書かれていたのだ!」
グラストンベリー大修道院の僧侶たちは、自分たちの修道院こそがアヴァロンだと信じた。アーサー王の死の謎は解けたと思われた。
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クリストファー「僧侶たちは“アーサー王は実在していた。我々は彼の墓を掘り当てた。彼は他の有名な王と同じように、墓に葬(ほうむ)られていたのだ”と考えたはずだ」

しかし、現代の歴史学者たちには、僧侶たちの話が真実であるはずがなかった。何故なら、1539年、グラストンベリー大修道院は、カソリック教会と争うヘンリー8世(注)によって完全に破壊されたのだ。アーサー王に関する遺骨や、墓だと示す十字架など全ての痕跡は失われてしまったようだ。
(注)ヘンリー8世と教会は、ヘンリーの離婚と再婚を巡って抗争しました。

以降20世紀になるまで、学者たちにはアーサー王が生きていたという確固たる証拠は残されていなかった。
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クリストファー「アーサー王が実在したということに関しては多くの懐疑的な意見があった。彼に関する現実の記述があると思われてはいなかったのだ」
ケン「アーサーと呼ばれる歴史的な人物が存在したことを確認できる証拠は何もなかった」
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しかし、1908年、アーサー王は実在していたと固く信じる男がいた。彼は、信じるだけではなく、それを証明しようと動き出したのだ。優れた建築家フレデリック・ブライ・ボンドは、自分だけが、破壊されたグラストンベリー大修道院跡のどこかにあるアーサー王の最後の眠りの場所を追跡することが出来ると信じていた。
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クリストファー「アーサー王の存在を証明するか、証明できないかは、具体的な遺品が見つかるかどうかに係っている」
ティム「もしアーサーの遺品を見つけることが出来たら考古学者としての名声を得ることができるだろう」

ブライ・ボンドは、大修道院の所有者“イングランドの教会”を説得して、グラストンベリー大修道院跡地の発掘の許可を得た。しかし、何らかの証拠を手に入れておく必要があった。
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ティム「彼にとっては見逃せない千載一遇のチャンスだっただろう。まだ誰も手を付けていない有名な場所で、彼だけが踏み込んで調査できるのだから」
1900年代の初めは、考古学という科学分野は、産声(うぶごえ)をあげたばかりの時代だった。ブライ・ボンドはグラストンベリー大修道院における組織的な調査に建築的な手法を活用した。
修道院に残されていたのは、わずかな壁だけだった。従って、ブライ・ボンドの最初の仕事は、隙間を埋め、大修道院の全貌に関する詳細な配置図を作成することだった。
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ティム「ブライ・ボンドは配置図の作成に取り掛かった。毎日、図板に向かい、現場で発見した結果を図に記入していった。とても基本的な作業だが、このような作業がそれ以前になされたことがなかった」

この見事な大修道院には、いくつかの大きな建造物があった。ブライ・ボンドはそれらを図面に表すことが出来た。そして、歴史に関する記録は、どの場所でアーサー王の遺骨を見つけられるのかという謎を解く手掛かりのようなものを彼に与えてくれた。
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1191年に墓を見つけた後、僧侶たちはアーサーの遺品を重要な訪問者たちに公開することに不安を抱いていた。そこで、遺品を最も大きい、最も重要な建物である修道院教会の秘密の場所に仕舞い込んでしまったのだ。
クリストファー「1278年、遺品は極めて重要な訪問者のエドワード1世と彼の妻カスティール王妃に贈呈するために持ち出された。王は修道院教会の中心部に黒大理石の墓を設け、そこに遺品を収納した」
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アーサー王の墓の位置に直結するこの物語はブライ・ボンドも読んだに違いない。しかし、完全に崩壊した遺跡が並ぶ場所の中で、何処に修道院教会があったかを特定するのは困難だった。ブライ・ボンドにとって問題だったのは、失われている教会の外壁を図に表し、その中心にある墓の位置を特定することだった。その答えを得るため、彼は数学を活用しながら、長年、魅惑されていた発想に頼ることにした。
ティム「彼が最も好んでいたのが数学だった。特に、数学的なパズルや数、これらの相関などが好きだった」

ブライ・ボンドは、グラストンベリー大修道院の建築家たちは秘密の数学的暗号を使っていたはずだと考えた。大修道院での測定結果は、建物の配置が、聖書の時代から建築家に受け継がれてきた、考え抜かれた数字配置に従っていることを示していた。
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ティム「彼の測定結果に従うと、数字の繰り返しやパターンが現れていたという。これは単なる偶然以上のもので、建物の基礎や配置は、この考えに従って幾何学的に行われていたというのだ」

ブライ・ボンドは古代の建築家がしばしば“魔法陣magic square”と呼ばれる数字パターンを使うことを知っていた。全ての正方形は6列と6行を持っている。暗号を解くためには、ブライ・ボンドは各列、各行の合計が同じ値になるよう、数で埋めねばならなかった。正しいパターンを見つけようと何百回も試した後、ついに答えを見つけた。秘密の不思議な数字は111だ!
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ブライ・ボンドは、これが何を意味するかを完璧に理解していた。111x8は888インチで、74フィート(約22m)だ。彼は、秘密を探し当てたと考えた。古代の建築家は修道院を一辺が74フィートの正方形に沿って配置したのだ。ブライ・ボンドは自分が描いた配置図を実際に当て嵌めてみることで、それが正しい事を証明しようと決意した。きっと、修道院の失われた建物をひとつずつ明確にすることができるはずだ。

発掘作業者は、彼の指示に従って、正確に74フィートの長さの溝を掘っていった。
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すると直ぐに、これまで誰もその存在を知らなかった礼拝堂の基礎の石に行き着いた。それは、4百年もの間、忘れ去られていたものだった。しかし、ブライ・ボンドの図面は、その場所を指し示していたのだ。失われた礼拝堂は、まさに最後の74フィートの正方形の中に当て嵌まっていた。
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(mh上の図の一番右の四角にLost Chapelと書かれています)

ティム「ブライ・ボンドは忘れ去られていた礼拝堂と呼んでいた。修道院の隅に追加された重要な建物だったからだ。その痕跡は地上には全く残っていなかった。“付け足した建物”とも呼べるものだった」
英国の偉大な建築家の一人は、失われた礼拝堂など存在していなかったと言った。しかし、ブライ・ボンドは1週間もしないうちに、それを掘り当てた。しかも彼は、その大きさまで事前に予測していたのだ。
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ティム「ブライ・ボンドは基礎を掘り当て、続いて大きな建物も見つけた。つまり彼は、当時の著名な建築家の指摘が間違いだったことを証明したのだ」
教会関係者は驚いた。“彼は発掘を始める前に何を見つけるかを予告し、それを見つける男だ!”

ティム「礼拝堂の跡を見つけたことで彼は考古学的な力も持っていると見なされるようになった」

ティム「ブリストルの大僧正など大勢の見物客が大修道院を訪れるようになった。大僧正は“どんな方法を使って見つけたのですか?一鋤(ひとすき)の土も無駄にすることなく掘り当てるなんて信じられません”とコメントしている」
失われた礼拝堂はブライ・ボンドの74フィート区画図の中の最初の区画に当て嵌まっていた。
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その後の発掘で、アーサー王の墓があった場所としてはかなり大きな修道院教会だったことが判明した。場所は当初の予測に完璧に一致していた。

教会は大きな建物で、幅は1区画、長さは5区画だ。ブライ・ボンドは、そのどこでアーサーの骨を掘り当てられるかを知っていた。教会の中心だ!
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ティム「情報を集め終わると、彼はその場所を測定して定め、芝turfの中に鋤(すき)を刺して掘り始めた」
もしブライ・ボンドの計算が正しければ、大理石の墓は直ぐ見つかるはずだ。
やがて彼は探していたものを見つけた。特徴のある、それらしい黒い石の欠片(かけら)だ。
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1539年、ヘンリー8世によって破壊された墓の残骸だ!もし、アーサーの遺物が墓に残されていたとすれば、それは、この辺りにあるはずだ!

しかしブライ・ボンドが信じられなかった事は、作業者たちが、骨の一欠けらも見つけることが出来なかったことだ。ブライ・ボンドの独創性の全てをもってしても、アーサー王の探求は失敗に帰すことになった。
彼の大きな後退は、教会の主任が、数字に対する彼の奇妙な執着に不信を持ち始めたことだった。
ティム「彼は数字に基づいて作業を進めていたが、数字が発掘で重要な意味を持っているという学術的な根拠はなかった。それはとても異常なやり方だった。」
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教会の建設で魔法陣を使うのは数秘術(すうひじゅつ:オカルトの手法の一つ)のように思われた。その手法は超常現象的paranormalで、場合によれば悪魔主義に結びついた詐術だ。
ティム「それはとても疑わしい響きを持っていた。彼は委員会で疑いの眼(まなこ)で見られるようになった」
教会の忍耐は尽きかけ、ブライ・ボンドは、即座に、よい結果を見つけ出さねばならなくなった。彼は新しい計画を立てた。12世紀の僧侶たちがアーサー王の遺物を見つけた場所で、実際の墓を探すのだ。
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それが、僧侶たちが残していた骨を見つける最後のチャンスだ。

そうなると、ブライ・ボンドが描いた図面は全く役に立たなかった。その墓は大修道院の敷地のどこにでも在り得たからだ。敷地は22万平方フィート(2万平方m)もある。
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墓を特定しようと考えたブライ・ボンドはやけくその手段を受け入れる準備が整っていた。
ティム「ブライ・ボンドは象徴的な数字を使う手法に大きな自信を持っていた。なんとかして、この手法で墓の位置を探そうと必死だった」

そして、ブライ・ボンドはオカルト(occult神秘現象)に目を向けた。
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ジョン・バーカットと言う名の霊媒師psychicの助けを借りて、ブライ・ボンドは死者と交信しようと考えた。降霊式では自動記録という超常現象手法を使う。
ティム「数枚の白紙の用紙を準備し、心を鎮(しず)めてテーブルに向かって座り、空中に向かって質問したり、用紙の上の方に質問を書いたりしてから、霊媒師にペンを握らせ、そのペンを用紙の上に持って行く。ブライ・ボンドは自分の右手を用紙に、左手はペンを持つ霊媒師の右の手に添える。すると、暫くためらうような動きをした後、霊媒師の手が動いて用紙に何かを書き始める」
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霊媒師の記述は、見えない力に導かれて行われているように思われた。ブライ・ボンドにとっては、お告げとも言えるものだった。古代の大修道院の僧侶たちが彼に秘密を語っているのだ。
ティム「彼は、僧侶たちの霊を信じた。多くの人は全く手段を失うと、馬鹿げたことをしでかすものだ。ここを探せ、あそこを掘れ、などとのお告げがあった」

ヨハネスという名の僧侶の霊が最も関心を示してきた。彼の霊はブライ・ボンドが大修道院の図を作成するのを後押ししていた。
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霊は数学的な地形作成手段にも関心を持っていた。ヨハネスの霊に完全に魅射られていたブライ・ボンドはアーサー王の墓の位置を質問した。すると、ヨハネスの霊は驚くべき啓示を示した。大修道院の地下深くに、もっと古い、別の教会があるという。アーサーの骨の探索を進めるのなら、ブライ・ボンドはグラストンベリー大修道院の暗黒時代の過去の深くまで掘り進んでいかねばならなかった。
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ティム「グラストンベリー大修道院の最も古い部分は“古い教会”と呼ばれていた。とても古く、どのくらい古いのか、誰が最初に建てたのか、知る人はいなかった」
ヨハネスの霊によれば、古い教会は、現在は、中世に建てられた聖母マリア礼拝堂Lady Chapelが立っている場所にあるという。そこは、既にブライ・ボンドが地図で位置を確定していた所だった。
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アーサー王の墓は建物の外の、古代の集団墓地の中だったのだ。ブライ・ボンドはその位置を探り出すために彼の数学的知識を応用できると悟った。
ティム「その当時も同じ建築構想が使われていたなら、過去に遡って地形や建物を調査すれば、最初の教会の形を見つけ出すことが出来るかも知れない、とブライ・ボンドは考えた」
ブライ・ボンドは古い教会の周りに発掘範囲を描いた。まだ数字の6に固執していたので、6角形の発掘範囲を設定した。集団墓地とアーサー王の墓は象徴的な形の中になければならない。
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発掘を始めると、ブライ・ボンドは自分の目を信じることが出来なかった。どこを掘っても骨が見つかる!彼は数世紀に渡る大修道院の住民が眠っている古代の集団墓地を掘り当てたのだ。アーサー王の墓を特定するのは時間の問題だった。
ティム「彼はアーサーと彼の妻グイネヴェルGuinevereが初めて埋葬された墓を発見したと確信していた。数か月の発掘できっとアーサー王の最初の墓を掘り当てられるはずだと思った。
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しかし、ブライ・ボンドは最も大きな勘違いをしていたのだ。1918年、彼は「記憶への門Gate of Remembrance」という本を発行した。
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グラストンベリー大修道院における超常現象を使った彼の調査の詳細と、死者の僧侶との降霊式の様子を解説したものだった。このニュースは“イングランドの教会”を通じて野火のように広がった。
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ティム「これが混乱を巻き起こしたのは容易に想像できるだろう。ブライ・ボンドは有能な建築考古学者ではないとの告発が行われた。“どうしてこのような男が有能であろうか。指揮したのがブライ・ボンドではなくて中世の僧侶で、霊がブライ・ボンドを操(あやつ)って発掘させていたなどという馬鹿げたことは信じられない!”」
教会の見方では、ブライ・ボンドは悪魔に操られた、キリスト教徒ではない考古学者だった。教会関係者にとって決め手となったのは合計が111になる6つの列の合計が666だったことだ。野獣の数だ!
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ティム「この瞬間、発掘は打ち切られ、教会の支援は受けられなくなった」

ブライ・ボンドによるアーサー王の骨の探求は終わった。恐怖を感じた教会が発掘を打ち切ったのだ。1923年、ブライ・ボンドは大修道院から追い払われた。
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しかし、新たな英雄がこの探索を引き継ぐべく待ち構えていたのだ。1908年、グラストンベリー大修道院の発掘場所を訪れる好奇心の強い8歳の少年がいた。物心がついた時から、アーサー王の探求を引き継ぐ運命を持っていたようだ。
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名はアーサー・ラリー・ラドフォードArthur Ralegh Radford。発掘中に彼とも会っていたブライ・ボンドは、彼の中にあるカリスマ的な精神力を見抜いていた。
ティム「ブライ・ボンドは若いラドフォードに強い印象を与えたようだ」
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少年は古代の僧侶や伝説の王に関するブライ・ボンドの幻想的な話に興奮した。
ティム「ラドフォードを発掘場所に連れていく時、ボンドはいつもサーカスの団長のようだった。発掘作業はボンドが愛するもの、彼の感情そのもので、全てに彼の情熱が伝わっていた。それが少年の心に訴えることになったのだろう」
やがて若いラドフォードはアーサー王の墓を見つけようと決意するようになった。それは、暗黒時代の英国に関する指導的な考古学者に成長した彼の活動を通して打込む探求になっていく。
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クリストファー「ラドフォードは、過去に対する我々の恐怖は何らかの考古学的現実を含んでいるという考えに憑(と)りつかれていた」
しかしブライ・ボンドの超常現象的手法で時間をつぶすことはなかった。彼は自分の考えで行動する男だった。注意深くて論理的で、体系的だった。懐疑的で、何よりも確固たる証拠を必要とした。
フリストファー「ラドフォードは夢や見えない力に導かれることなど決してない男だった」
ケン「ラドフォードはとても現実的で、真面目な学者だった。とても厳格で、方法論的だった」
クリストファー「彼は正統の考古学者で、影を追い求めることなど無かった」
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しかし、ラドフォードですらグラストンベリー大修道院での発掘の許可を得ることは出来なかった。“英国の教会”はブライ・ボンドの悪い体験の後、心配の方が優っていたのだ。

そこでラドフォードは調査の焦点を切り替えることにした。アーサー王が死んだ場所から、彼が誕生した場所に!グラストンベリーから160Kmほど離れた、風が吹きすさぶティンタジェルTintagel島だ。
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アーサー王の伝説の切っ掛けとなった魅惑的な物語が生まれた所だ。

物語はこう始まる。
アーサー王の父ペンドラゴンはコーンウォールの伯爵の妻と恋に落ちた。
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何が起きているかに気付いた伯爵は、妻をコーンウォールに連れ戻し、ティンタジェルの最も安全な場所に閉じ込めた。
そこなら安全だと考えた伯爵は妻を一人で残しておくというミスを犯した。しかし、ペンドラゴンは、城に侵入する不思議な方法を見つけ出した。彼は不可能な仕事を成し遂げるため魔術師マーリンに依頼すると、マーリンは魔法を使った。マーリンはペンドラゴンの姿を伯爵そっくりに変えた。ペンドラゴンは、誰にもとがめられることなく城に入ることが出来た。
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彼は伯爵夫人と共に一夜を過ごし、朝、城を離れ、本物の伯爵に追いつくと殺してしまった。伝説によれば、アーサー王が生まれたのは、この結果だ。その夜、最も有名な男アーサー王が宿された。
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ほとんどの考古学者はこの伝説を真面目に捉(とら)えていない。しかし、ラドフォードはティンタジェルの名が明確に示されていることに興味をそそられた。ティンタジェル島から伝説が始まったからには、それなりの理由があるはずだ。
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“火のないところに煙は立たないThere’s no smoke without fire”という考えは合理的なはずだ。この伝説に従って調べていけば、5世紀、6世紀のアーサー王の時代の遺跡が見つかるはずだ。

ラドフォードは、ティンタジェルが6世紀のアフィリアン(mhアーサーの王国ログレスか?)王国の一部に違いないと考えた。そして、確固たる考古学的証拠を持って、それを証明しようと考えた。しかし、彼は自分自身を笑い者にする危険を冒したのだ。どの考古学者も、6世紀、島には住民はいなかったと考えていた。
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クリストファー「ラドフォードがティンタジェルで発掘を始めた時、学問的見地からは、暗黒時代のティンタジェルには何もなかったと考えられていた」
ラドフォードは、その見方は全くの間違いだと証明したいと考え、ティンタジェルの過去を求めて、これまでの誰よりも深く発掘を始めた。

そして、隠されていた暗黒時代の世界を掘り当てた。長方形の建物で、宗教的な様相で配置されていた。
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ケン「彼は、6世紀の修道院を示す一連の特徴を示していると考えた」
廃墟を掘り進めながら、ラドフォードは修道院が間違いなくアーサー王の6世紀のものだと示すことが出来る証拠を見つけた。
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それは、特殊な様式の容器で、それまでイギリスで見つかっていなかったものだ。
クリストファー「彼はティンタジェルでの発見に興奮していたと思う。見つけ出した沢山の容器の破片は、その近辺で造られたものではなかった」
容器は東地中海から来たものだった。ティンタジェルが単なる修道院ではなく、国際的な交易の要衝だった証拠だ。
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ケン「5世紀や6世紀において、ティンタジェルは明らかに東地中海の容器を運搬している交易人と接触していた。ラドフォードが発見したのは洗練された6世紀の世界だったのだ」
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ラドフォードはこれらの容器を“ティンタジェル陶器Tingtagel Ware”と名付けた。この容器は、6世紀には何もなかったと誰もが考えていた島が、既に繁栄していたことを示していた。

ケン「1930年代に、地中海から輸入されていた陶器をラザフォードが発見したことは、5世紀、6世紀の英国の考古学に関して、ある種の変換点となった」
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クリストファー「ラドフォードは十分な調査をした上で、豊かで洗練された国際的世界が暗黒時代のイギリスに存在していたという具体的な証拠を発掘したのだ。それは、これらの容器を評価できる人間にとっては、間違いなく、画期的で先駆者的なものだった」
アーサー王伝説を追跡したラドフォードは、誰もが疑っていたことを証明したのだ。
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ティンタジェルは、伝説のアーサー王が示していたように繁栄していた6世紀のイギリスの一部だった。ラドフォードはアーサーの王国を明らかにしたと考えた。次に彼が欲したのは、アーサー本人に関する証拠だった。
クリストファー「しなければならない仕事はただ一つ、アーサー王の伝説の残りがある土地での発掘だった」
グラストンベリー大修道院の発掘を始める準備は整ったとラドフォードは考えた。古代の遺跡のどこかに埋まっている謎を見つけるのだ。
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1951年、教会の権威者はついに、ラドフォードに発掘許可を与えた。彼がしなければならないのはアーサー王の墓を見つけることだけだ。
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ラドフォードは名探偵のように彼の仕事に取り組んだ。彼は12世紀からの重要な目撃証言を法医学分析した。
クリストファー「1191年、グラストンベリー大修道院の外で一体、何が起きていたのか?」
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中世の僧侶たちは、発見した墓がアーサーのものかを確認するため、ウエールズのジェラルドという名の歴史家を召喚していた。そこで、ラドフォードはジェラルドの証拠を子細に調べてみようと考えた。

証拠品Aはアーサー王自身だ。ウエールズのジェラルドは“骨は堂々たる戦士のもののようだった”と表現していた。
クリストファー「脛骨(けいこつshinbone)がとても大きく、眼窩(がんかeye socket)も英雄的指導者のように大きく、想像するに背の高さはストッキング(靴)を履いて立つと7フィート(210cm)くらいだとジェラルドは解説していた」
ラドフォードにとって決定的だったヒントは頭蓋骨に残っていた深い傷跡だった。
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それは伝説で言われている、アーサー王が戦いで受けた致命傷に合致する。
クリストファー「遺体には体から頭まで、幾つかの傷跡が残っていた。多くの傷は、完治した。しかし最後の傷は大きなもので、治ることはなく、これが彼を死に至らせたのだ」

証拠品Bはかなり異質なものだ。女性の骨で長い髪がまだ頭蓋骨にへばりついていた。
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それは王妃グイネヴェルGuinevereのものだ。
クリストファー「僧侶の一人はロマンティックな情熱に打ちのめされて手が震え、つまんでいた髪の毛を振り落としてしまうと、髪の毛は暗闇の中へ消えて行ってしまった」

そして最後の証拠品Cは鉛の十字架だ。
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遺骨がアーサー王と彼の妻のものだと示していた。ジェラルドは十字架に記された文字を写し取っていた。
クリストファー「彼らが鉛の十字架に記された説明を見た時、次のように書いてあったと彼らは言っている“ここにアヴァロン島の、有名な王アーサーが二番目の妻グイネヴェルと共に埋められ、眠っている”」
ジェラルドは僧侶たちがアーサー王の墓を見つけたことを確信した。

しかし、ラドフォードは懐疑的にならざるを得ない理由を持っていた。グラストンベリー大修道院の解体以降、鍵となるこれら3つの証拠は消え失せている。ラドフォードは、ジェラルドの話に関して、全く異なる解釈を考慮せざるを得なかった。アーサー王の墓の発見は仕組まれた詐欺話かも知れない!
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クリストファー「これらの証拠については、いつの時代でも、卑劣な手の込んだ証拠偽造だろうとの噂があった。僧侶たちが発見に関する全てをでっち上げたということは十分にあり得ることだ。似たことは、中世の謎の犯罪で頻繁に行われていた」

僧侶たちが詐欺を働く動機とすれば、資金的な問題だったかも知れない。彼らは土地の権利を自分たちが持っていると証明しようとしていたのだ。
クリストファー「グラストンベリー大修道院は12世紀、この地方で最も広大な土地の一つだったことを頭に入れておかねばならない。僧侶たちがその地を所有する正当な権利があるかどうかを証明するのは僧侶たちにかかっていた」
アーサー王の骨を手中にすれば、僧侶たちは、王が彼等にお墨付きを与えてくれたと言い張ることができる。
クリストファー「もし彼らがアーサー王の墓を見つけることが出来たなら、それは承認印とみなし得た」

僧侶たちの話を聞く限り、アーサー王の墓の発見は余りに都合が好過ぎた。ウエールズのジェラルドは僧侶たちから虚偽証拠だと知らされていなかった犠牲者かも知れない。
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クリストファー「僧侶たちは都合よく遺体を発見することができ、それをウエールズのジェラルドに見せたのだ。彼は広報者として都合が好い人間だった。指名され、グラストンベリーに招待され、僧侶たちと話し、彼らの発見品を見た」

ジェラルドが書き写した鉛の十字架に書かれていた文字は、全ての中で最も卑劣なものだろう。近代の考古学者たちは、その記述形式から、12世紀のものだと割り出した。正に、僧侶たちが偽物を作ったと考えることが出来る!
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クリストファー「彼らは、当時の状況に合わせ、もっともらしい偽物の何かを造ることが出来たはずだ。僧侶たちは本当に信頼できる人物だったのか?それは誰にもわからない」

ラドフォードは、僧侶たちが真実を話していると信じた唯一人の考古学者だった。彼は鉛の十字架に記されていた文字の記述形式は12世紀よりももっと古い可能性があり、十字架そのものも本物ではないかと考えた。しかしジェラルドの話が真実だと証明するには、ラドフォードは、今も残っているはずの、たった一つの証拠を見つける必要があった。墓そのものだ。
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それは大修道院の最も古い集団墓地の中のどこかに埋まっているはずだ。フレデリック・ブライ・ボンドのおかげで、彼は、何処から調査すればよいかを理解していた。
クリストファー「ラリー・ラドフォードは大きな利点を既に持っていた。ブライ・ボンドの調査の跡を辿(たど)ればいいのだ。ブライ・ボンドのおかげで、彼は発掘の全体計画を組み立てることが出来た」
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ラドフォードは発掘場所を大修道院の古い教会の周辺に絞った。イースター教会(?)の跡だ。中世の僧侶ジョハネスの魂に導かれたブライ・ボンドが40年前に発掘した所と同じ場所だった。しかし、ラドフォードはもっと科学的な方法を考えていた。彼の発掘チームの一員だった考古学者ピーター・ポインツ・ライトは、ラドフォードの情熱に強い刺激を受けていた。
考古学者ピーター「彼はいつも直感的な性格だったのだ」
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ラドフォードに追い立てられながら、発掘チームは大修道院の古代の集団墓地の中を深く掘り進んでいった。しかし、彼らも、ブライ・ボンドと同じ問題を抱えることになった。つまり、沢山見つかる墓の中からどれがアーサーのものかを特定しなければならなかったのだ。ラドフォードの長年の経験は、問題解決に当たって天才的な手法を生み出した。
ピーター「彼の知識の深さは、全ての分野で発揮されていた」
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ラドフォードの調査は重要な歴史的事実を見つけ出した。古い教会の場所は、今は中世の聖マリア礼拝堂が占有していた。アーサー王はその3番目の窓の南側に埋葬されている。彼の墓は巨大な2つの柱の間だ。
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ピーター「柱の一つの高さは7.8m、もう一つは6m以下の高さだった」
大修道院が破壊された後、柱は盗まれてしまった。しかし、ラドフォードオは、この大きさの建物なら何らかの痕跡を残しているはずだと考えた。そこで幅18mの溝を掘って探してみることにした。
ピーター「そこで、我々は、それらしき場所を探し始めた」
溝を注意深く掘り進む作業は1週間を要した。すると進展があった。かつてアーサーの墓の位置を示していた柱は地中に柱跡の穴を残していたのだ。
クリストファー「その穴は、どこから堀り進めればよいかという地点をラドフォードに示してくれた」
2つの柱跡の間で、土が荒れた場所が見つかった。それは空にされた墓跡だ。まさにラドフォードが言い当てていたものだ。
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ピーター「まさに遺体を埋めていたと思える跡だった」
ラドフォードが指摘していた場所には、目的の場所を掘り当てたと思わせる更なる証拠があった。小さな石の欠片だ。12世紀に僧侶たちが掘り出したものと同じ石に違いない。
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クリストファー「ラドフォードたちは、僧侶たちと全く同じ場所を発掘していたのだ」

1191年、僧侶たちがアーサーの墓を掘り当てた時、大修道院は再建工事中だった。建設用資材の石は、辺り一帯にあったはずだ。ラザフォードは、墓の中に落ちた、幾つかの資材用の石を見つけたのだ。それは、工事が行われていた時、墓が開けられていたことを明確に示していた。
ピーター「当時建設中だった聖マリア礼拝堂の建築用資材の欠片があった。作業中に欠片は散らばり、墓の中に入り込んでいたのだ」
クリストファー「穴の中には埋め戻すために使われたかの如くに、沢山の石の欠片があったのだ」
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石の欠片は、1191年、僧侶たちが墓を掘り起こしていたことを明確に証明していた。しかし、依然として彼らの話がでっち上げである可能性は残っていた。ラドフォードは、その墓跡が12世紀よりも古いことを示す、更なる証拠を必要としていた。

溝を詳しく調べた彼は、それを見つけた。土を詰めるために設計された壁の基礎があったのだ。
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ラドフォードは、直ぐに、その目的を大修道院の歴史の記録の中で発見した。1191年よりも古い時代、10世紀の大修道院の院長が、有名な人物の墓を敬うため、集団墓地全体の高さを持ち上げていたのだ。
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クリストファー「ラドフォードが見つけたのは、アングロサクソンの時代、墓地の見直しが行われ、全体が持ち上げられていた、その痕跡だったのだ」
アーサーの墓は掘り上げられ、1191年に僧侶たちが再び発見した時、墓は埋め直されていたものだったのだ。

ラドフォードは、鉛の十字架は、10世紀に埋め直された墓から出土したものだと確信した。アーサー王の墓であることを明確に示すため、十字架も埋め戻されていたのだ。12世紀の僧侶たちが十字架を造り上げたのではなかったのだ。
クリストファー「この理論は、アーサー王が生きていた6世紀と、1191年のアーサー王の墓の発見の時期との間に、何かが行われていたということに基づいていた」
12世紀の僧侶たちが真実を語っていたことを示す証拠を手にしたラドフォードは、全てを公表しても良い段階だと考え、BBC英国放送協会のインタビューを受けることにした。
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ラドフォード「僧侶は “ここにアヴァロン島の有名なアーサーが眠る”との記述がある鉛の十字架を棺の中で見つけたと言いました。その事実は長年、支持されていませんでした。私の考えでは、記述形式や十字架の形から考えて、12世紀以降のものではなく、10世紀以降のものです」
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もしラドフォードが正しいのなら、僧侶たちはアーサー王を掘り当てていたのだ。王は6世紀に教会を建てていたのだ。
ラドフォード「12世紀においては、教会や修道院の創設者をその建物内に造られた墓に埋葬することが伝統でした。同じことがアーサー王についても行われていたことに、私は一点の疑いも持っていません」

ピーター「ラドフォードは、アーサーの遺体は重要なものだったので、新しい埋葬場所に移されたのだと言っていた」
ラザフォードはウエールズのジェラルドの話が正しいことを確信していた。僧侶たちは墓を掘り当てていたのだ。そしてラドフォードがそれを見つけた。1191年、それは確かに起きていたのだ。石の欠片がそれを物語っていた!十字架はアーサー王だったことを示していた。ラドフォードはそれが偽物でないことを示すことが出来た。彼が見つけ出せずにいたのはたった一つの証拠だった。アーサー王の最初の墓が6世紀のものだったと示すことが出来るティンタジェル陶器だ。
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ケン「ラドフォードは地中海から輸入された容器を5世紀及び6世紀を特定できる重要な品として使っていた」
クリストファー「彼が墓の発掘の結果、見つけられなかった2,3の証拠の一つがティンタジェル陶器の欠片だった。当初はそこに在ったはずだが、どこかに消えていた。それさえ見つかっていたら、彼が、煙を出している拳銃を見つけただけではなかったことを証明できたのだ」

ラドフォードは、彼が見つけ出した証拠が全て状況証拠でしかないことを知っていた。発見した墓がアーサー王のものであることを直接的に示すものはなかった。

ラドフォード「ここが1962年と63年に私が発掘した場所です。そこから誰かを掘り起こしたことがある大きな穴をみつけました」
インタビューアー「誰かですか?」
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ラドフォード「私はアーサーだと考えています。がそれを証明することは出来ません」

ラドフォードはアーサー王の存在を証明しなかった。しかし、90歳になった彼はティンタジェルを訪れている。
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まだ失われているはずの決定的な証拠の断片を見つけ出したいと望んでいたのだ。彼は1998年に亡くなった。その瞬間まで調査研究を続けていた。
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クリストファー「私は個人的には、ラドフォードに味方したいと思っている。彼は彼の理論やアーサーの伝説の中に、まだ多くの隠れているものがあると語り続けている」

しかしラドフォードの理論は最後の捩じれを抱えていた。彼の死から10年後、考古学者たちがグラストンベリー大修道院での彼の発見を再評価した結果、ラドフォードが大修道院の土の中からティンタジェル陶器を掘り出していたことを発見したのだ。
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ラドフォードはそれに気付いていなかったが、彼はグラストンベリーが6世紀に遡ることを証明していたのだ!多くの専門家がまだアーサー王の存在を信じていない時期、ラドフォードは、グラストンベリーが暗黒時代の王国の中心地だったと確信していた。
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そこは英国最大の伝説が眠る場所だったのだ!
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The Search for King Arthur's Bones
https://www.youtube.com/watch?v=k4xJXdaiu28
・・・・・・・・・・・・
で~、結局、グラストンベリー大修道院はアーサー王と同じ6世紀頃に造られたものだったとの結論ですが・・・

ローマ帝国は5世紀初頭まで英国を支配していましたし、教会も造っていますから、グラストンベリー大修道院が6世紀のものであったとしても、それがアーサー王の墓があった場所だと断言するには不十分だということは衆目の一致するところでしょう。

大英帝国と言えど、かつてはローマ帝国に管轄され、その後は侵入してきたアングロサクソンの血を引き継いでいる歴史を持っていますから、5,6世紀は、ブリテン島のオリジナル、つまり、ストーンヘンジを建てた生粋(きっすい)のイギリス人の影は薄く、文字通り暗黒時代だったでしょう。これでは余りに情けないと思った、気位の高い英国人の先祖たちが、英国生まれの英雄アーサー王がアングロサクソンに反旗を翻した武勇伝を捏造(ねつぞう)したのではないのでしょうか。疑い深いmhに言わせれば、アーサーは伝説の中の人物でしかなく、現在の大半のイギリス人も、きっと、そう思っているはずです。だからこそ、アーサー王の物語は英国においても時代錯誤になりつつあるのだろうと勝手に推察しています。

翻(ひるがえ)って、我が日本はどうかと言うと・・・
ブログ冒頭で触れた大国主ですが、彼の墓や遺骨を真面目に探した人物がいるかネットで調べたら、わずかですが、情報が見つかりました!大国主の墓は九州の西都原(さいとばる)に沢山見つかる古墳の中の、たった一つある四角な墓だっていうんですね。

あるネット記事の一部をそのままお伝えすると
「西暦210年の半ば頃、オオクニヌシは日向の西都原(さいとばる)で亡くなった。五十五歳前後であったようである。タギリヒメとアマテラスの悲しみようは大変なものであった。そのため彼らは西都原の地に、日向では異例の「方墳」の墓陵を彼のために造り、そこに埋葬した。方型の墓陵を造るのは、出雲式であった。日向式は、円形の墓陵である。西都原には、全体で千数百個を超えるおびただしい数の古墳があるが、これらはすべて日向式の「円墳」か「前方後円墳」である。」
とのこと。

で~Wikiを調べると~
Wiki:西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)
宮崎県のほぼ中央に位置する西都(さいと)市の市街地西方を南北に走る、標高70メートル程度の洪積層の丘陵上に形成されている日本最大級の古墳群である。3世紀前半~3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されている。
(中略)現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている」

おぉ!確かに、311個もある古墳の中に、たった一つ、方墳(正方形の古墳)があります!!!
常心塚古墳(じょうしんづかこふん)と呼ばれ、国指定史跡です。
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で~古墳の前の看板には「見つかった須恵器(すえき:日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器)破片から7世紀前半頃のもの」とあります。大国主との関係はなさそうです。

Wiki「出雲大社」によれば、出雲大社の祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)ただ一人(一神)です。九州で愛人が丁重に埋葬した人(神)が出雲の神社に祀られているってのは、どうなんでしょうかねぇ。

古事記や日本書紀の内容は旧約聖書同様、全て虚偽とも言えるし、中には真実があるとも言えるでしょうが、虚偽と真実の境界は曖昧です。こんな調子ですから、出雲大社といえば、今の若者には縁結びの神社ぐらいにしか思われず、大国主命は忘れ去られているでしょうから、イギリスの伝説的英雄アーサー王への英国民の関心だって薄れているはずだとmhは思うのです。
(完)

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mh徒然草111:今なぜ、ベーシック・インカムか?


Wiki:ベーシック・インカム(basic income)
最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという構想。
(中略)
一方で、この考え方・思想に対しては古代ローマにおけるパンとサーカス(注)の連想から「国民精神の堕落」など倫理的な側面から批判されることがある。所得給付の額次第では給付総額は膨大なものになり、国庫収入と給付のアンバランスが論じられたり、税の不公平や企業の国際競争力の観点が論じられることもある。

注:パンとサーカス(羅: panem et circenses)
詩人ユウェナリス(西暦60年 - 130年)が古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。愚民政策(注)の例えとしてしばしば用いられる名言であり警句である。

注:愚民政策(ぐみんせいさく)
人民の関心を政治に向けさせないことを目的として、意図的に人民を愚民化させるという政策。一般的には人民が好み、熱中し続けるような娯楽を提供し続けるという方策がとられている。

つまり、ベーシック・インカムとは、全ての国民に、無条件で、最低限の生活が可能なお金を毎月支給する制度です。ここ1,2年、経済学者などが盛んに取り上げるテーマの一つのようです。

で~昨日の8月26日付けネット記事に次のニュースがありました。

見出:月6万円強の最低所得保障、フィンランドが試験導入へ
AFP時事 8月26日(金)
フィンランド政府は25日、全国民に毎月一定額を支給する「ベーシック・インカム(最低所得保障)」制度を試験的に導入する方針を明らかにした。労働年齢の国民から無作為に選んだ2000人を対象に、月額560ユーロ(約6万4000円)を給付する計画だという。政府によると給付額は、昨年5月に就任したユハ・シピラ首相の公約に従って決定した。実業家出身のシピラ首相は、ベーシック・インカムの導入が雇用促進や社会福祉制度の簡素化につながるかどうかを検証したい考えだ。ベーシック・インカムをめぐってはスイスで6月、成人国民全てに毎月2500スイスフラン(約26万円)、未成年に同625スイスフラン(約6万5000円)を支給する制度の導入可否が国民投票にかけられたが、反対多数で否決されている。

そういえばスイスの国民投票のニュース、聞いた気もします。確認したら、投票は行われ、77%が導入反対で23%が賛成ということで廃案になりました。BBCニュースによれば、賛成者は、スイスの全ての仕事の50%は報酬がゼロで、これを是正したいと主張しているとか。報酬ゼロの仕事とは、介護、家事、異なる社会(何のことか不明ですが)での仕事などだと言います。スイスにも少ないとは言え生活困難な貧困者がいて、この対策も導入理由にされているようです。

ネット上では日本の経済評論家や経済学者のコメントが見つかりますが、ベーシック・インカムに否定的な意見がほとんどです。判りやすい一つの否定理由は、「一律にお金を渡すのだから国民年金や社会保障制度などの業務は廃止されるか、極端に簡素化出来るが、年金や社会保障事業に関与している人は失職するから反対するだろう」というもの。つまり、いろいろな利害関係があって、国民の総意とはなりえないだろう、というものです。仮に年金担当者が失業しても、雇用中でも貰っていたベーシック・インカムは失業しても貰い続けられるわけですから、餓死することはありません。中には、仕事をやめて、国の手当てで、のんびりダラダラ暮らしたい、という怠(なま)け者も出てくることでしょう。

日本の評論家や学者の意見をmh流に大胆に纏めると“理想的なシステムだとも言えるが、社会は混乱し、貧乏人はもっと貧乏になるだろう”という結論です。

私もこの結論は正しいと思います。しかし、不思議なのは、何故、荒唐無稽とも思えるベーシック・インカムという発想が、今、世界で話題になって真面目に検討され出しているのかということです。

スイスでは有権者の5%(10%?)が賛同したので条例に従い国民投票が実施されたということのようで、政治家がベーシック・インカムの導入を自発的に提案したためではありません。しかし、フィンランドでは、新首相の独断かも知れませんが、試験運用を始めることにしたんですねぇ。大胆というか、無謀というか、勇気ある決断というか、どういうかは別にして、正直、驚きました。

仮に、一部の経済学者が言うように、ベーシック・インカムが理想的なシステムだとしても、日本が世界に先駆けて導入する国になるとは到底考えられません。やっぱ、思想や言論が自由で教育水準が高い国か、逆に、思想言論が統制されていて教育水準が低い国でなければ、実施してみようなんていう発想は生まれないと思います。スイス、フィンランドは前者の、自由で教育水準が高い国に属し、その上、裕福で資金的な余裕もあるから話題になっているのでしょう。

ベーシック・インカムとは異なりますが、サウジアラビアやブルネイ王国では、類似の社会保障が実施されています。電気や水などのインフラ、教育費、医療費ばかりではなく、住居までも国が無償支給しています。有り余る石油資源から生まれる富を独占して国のトップに居座り続けている王家は、国民の不満が爆発しないよう、盛りだくさんの社会保障を用意して体制の維持に努めているのです。これこそ「パンとサーカス」と言えるでしょう。

しかし、何で今、“ベーシック・インカム”などという、mhに言わせると馬鹿げた発想が世界で話題になっているのでしょうか?

mhの見解を手短かに纏めれば次の通りです。
「貧富の差は拡大し、貧困者がさらに貧困になってテロを起こし、難民になって社会秩序を乱し始めている。しかし、政治家や経済学者は、貧困を撲滅する現実的な手法を見いだせていない。貧困者の解消には、貧困者を抹殺するか、“パンとサーカス”しか対策がない。」

政治家や経済学者は貧困者とは対極の人々です。彼らには貧困者の思いは判りません。そんな彼らが考え出す貧困者対策はうまく回転せず、手詰まりになってきた挙句(あげく)がベーシック・インカムという経済策を生むことになったのでしょう。

しかし・・・
貧困者がなくなると、元貧困者と、対極する政治家や裕福な人々との格差が消滅していくわけで、それは政治家や裕福な人々が本心から望む世界ではないでしょう。やっぱ、格差があり、自分がその中で有利な位置を占めることこそが政治家や裕福な人々の願望です。勿論、そう考えていない政治家や裕福な人も多いでしょうが、全てを捨てて人生を楽しむといった、お釈迦様のような生き方は、我々凡人には難しいのも事実です。となれば、以前もブログで述べたように、自分は、自分の家族は、貧困にならない対策をするっていうのが、人情というものです。しかし、使えるお金が僅かでも、心が豊かでありさえすれば貧困を超越できると思います。ご検討下さい。

Chicago - Hard to Say I'm Sorry
https://www.youtube.com/watch?v=60yigBeBCK4
(完)

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聖杯の不思議


聖杯は英語ではHoly Grail又はHoly Chaliceと言われています。

Wiki:聖杯
下記の事物を指す。
1.キリスト教の儀式である聖餐に用いられる杯。カリス(Chalice)。
2.キリスト教の聖遺物のひとつで、最後の晩餐に使われたとされる杯(Holy Chalice)。
3.中世西ヨーロッパの聖杯伝説に登場する杯(Holy Grail)。

イエスと弟子たちの最後の晩餐に使われたものと信じられている聖杯はいくつか存在する。
1. エルサレム近くの教会にあったとされるもの
7世紀、ガリア(フランス一帯の旧名)の僧が聖地巡礼のさいに、エルサレム近くの教会でそれを見て、触れたと証言している。銀でできており、把っ手が2つ対向して付いていたという。現在の所在は不明。

2. ジェノヴァ大聖堂にあるもの
1101年にカイサリア(ローマ皇帝カエサルに因んで名づけられた都市;パレスチナなど近東に3箇所あった)で発見されたと伝えられる。対角37cmの6角形で、杯よりも鉢に近い。エメラルドでできていると信じられていたが、ナポレオン・ボナパルトがイタリアを占領したときパリに運ばれ、後に返還されたときには割れており、緑色のガラスであることが分かった。ウォラギネの『黄金伝説』(13世紀)で触れられていたものと思われている。
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mh;手前に欠けた部分が見えています。

3. バレンシア大聖堂にあるもの
イエスの弟子ペトロがローマに持込むが、弾圧の危険に聖杯はいったんピレネーに難を逃れる。その後スペイン内を転々とした後バレンシアに持ち込まれたと伝えられる。直径9cmの半球状、高さ17cm。暗赤色のメノウでできている。1960年にスペインの考古学者は、紀元前4世紀から1世紀にエジプトかパレスチナで作られたもので、時代的に合うと主張した。
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4. メトロポリタン美術館にあるもの
1910年にアンティオキア(シリアの古代都市;ローマに並ぶシルクロードの西の起点とも言われる)で発見された。外側は鋳物で装飾が施され、内は銀の2重構造になっている。聖杯ではないかとの触れ込みで、1933年のシカゴ万国博覧会(第2回)で展示された。その後の研究によれば、6世紀にアンティオケイアで作られたものとされる。杯ではなく教会で照明用に使われたものと思われる。
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仏教徒であるmhにはHoly ChaliceもHoly Grailも大差はなく、キリストが十字架にかかる前夜、12人の使徒と飲みかわした時に使われた杯をもって聖杯と呼ぶものだと思っていました。この聖杯(?)が十字架の上でキリストが流した血を受けとめたという話もあります。

で~、この聖杯は今も残っているらしい、という話が現在だけではなく、キリストが十字架にかけられて以降、折に触れて話題になっているんですね。ハリウッド映画の「インディアナ・ジョーンズ;最後の聖戦」ではヒットラーの命令で聖杯を探しているナチス親衛隊と聖杯を巡る争奪戦を繰り広げ、洞窟に行き着きます。そこには沢山の杯と、聖杯を守り続けている一人の十字軍戦士がいたのです。
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で~ジョーンズJrは本物の聖杯を選び出し・・・
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以降の話は省略しますが、とにかく、十字軍によって長年守られている聖杯があったってことですね。で~この話は、聖杯伝説を参考にして作られたものだと思います。

Wiki:聖杯伝説
一般には騎士道文学での聖杯を追い求める物語全般をあらわす。15世紀の中世西ヨーロッパに武勲詩からの発展として成立した。騎士の武勲や恋愛を含んだ貴種流離譚的な要素を持ち、現在でもヒロイック・ファンタジーの要素として文学や絵画の表現に好んで取り上げられている。内容からキリスト教的背景をもつとされるが、キリスト教の教義の一部とされたことは一度もなく、したがってギリシャ・東ヨーロッパなど正教会が優勢な地域では本項で扱う聖杯伝説は存在しない。

日本の仏教にも日蓮宗や曹洞宗、天台宗など、いろいろな宗派があるように、キリスト教にも宗派があります。
簡単な区分としては次の通りで、西方教会Western Christianity、東方教会Eastern Christianityに二分されます。
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プロテスタントProtestantismとは、ローマ教皇庁を中心とするカトリック教会の改革を求めるマルティン・ルターらによる宗教改革運動(抵抗するprotest)の結果生まれたものです。簡単に言えば反体制派ですね。

で~聖杯伝説に着目すると、カソリック教会Catholic Churchでは伝説は存在し、正教会Orthodox Churchでは存在しないとWikiに説明されています。

主な宗派の教えの要点を対比した表があります。
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これを見ると・・・
結局、どう違うのか、お釈迦様を崇拝するmhには理解不可能です。

キリスト教の宗派の違いも理解できないmhがお送りする「聖杯の不思議」が読者諸氏を納得させられるかどうかわかりませんが、まずは兎に角、フィルムに出来るだけ忠実に従って聖杯探求物語をご紹介いたしましょう。

・・・・・・・・・・・・
不可思議な時代の痕跡を求めて・・・魔力を持つ剣は本当に存在したのか?
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寓話の中のキャメロット城はどこにあるのか?
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アーサー王とは?円卓の騎士とは?キリスト教徒にとって最も神聖な遺物である聖杯を収蔵していた伝説の“聖杯城”はどこにあったのか?

The Holy Grail:聖杯
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我々の旅はドイツ南西部の山岳地帯から始まる。そこで、考古学者たちがケルト人の王子の墓を見つけた。彼は凡そ2千5百年前に埋葬された。遺体のそばで副葬品が見つかった。豪華な青銅の容器だ。
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聖杯探求の第一歩はケルトの不思議な世界に我々を連れていく。

ケルトは東からヨーロッパにやって来た。ドナウ川渓谷やアルプスに沿って西に移動し、ヨーロッパの山岳地帯に入り込んできた。彼らは文化、儀式、伝統も持ち込んだ。アジアで既に飼いならしていた馬をヨーロッパに連れて来た。青銅より耐力がある鉄も持ち込んだ。
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ケルトの時代、王子とともに彼の所有物を埋葬するのは伝統だった。死者の所有物は神々への捧げ物だったのだ。目には見えない死者の魂があの世でも生き続ける時に何不自由ないようにと考えたのだ。
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儀式の中や葬儀では、祈祷師は宝石類を、そして最も重要な捧げ物でもある剣をも神聖な湖に投げ込んだ。
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考古学者たちは、神聖な湖で見つけた数百の物の中から、ケルトの長剣の修復をしている。
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ローマ人は剃刀(かみそり)のように鋭い鉄製の刃を恐れていた。ローマ人は短剣を使っていた。それは接近戦で効果的だった。しかしケルトの長剣は敵から離れたままで突き刺すことが出来る武器だった。マンス(?地名)のロマノ・ドイツ中央博物館でケルトの墓で見つかった長剣が検査されている。剣は曲げられている。
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後で使えないよう、意図的に形を変えられていたのだ。ケルトの長剣からイクスカリバーExcaliburの神話が生まれた。魔力を持つ、どんなものにも負けない武器だ。
(イクスカリバー:アーサー王の不思議な剣)

魔力は容器にも宿っていた。人々が飢えに陥った時、“豊富な角horn of plenty:食べ物が詰まった角”は特別な意味を持っていた。角に満たされている食物はいくら食べても減ることは無かった。
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鉢(はちbowl)、甕(かめjug)、杯chalice、大釜cauldronなども全て不思議な力をもつ容器だと考えられていた。
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歴史家アッシェ博士「初期の杯grailの物語は詩で、アーサーと彼の騎士たちが不思議な容器の大釜を捜し求めるという内容だ。ケルトの古い神話によれば、大釜は不思議な力を持っていた。そして生まれたのが中世に採り上げられた聖杯探求物語だ。その時、容器はキリスト教の遺物に取って替えられた。背景に邪教(paganケルトの信仰)があったことは間違いない。」

ケルトの伝説によれば、伝説のアーサー王は不思議な大釜を探して謎の旅に出発した。彼の危険に満ちた旅は死者の王国がある地下世界に繋がる湖から始まる。
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王国は地下の中心にあると信じられていた。アーサーは地下世界の守備兵によって侵入を阻(はば)まれるが、彼らを欺き、幽霊や悪魔を退治して地下世界の軍隊を打ち負かしただけではなく、不思議な容器を奪い取る。伝説によれば、容器を所有したアーサーは生と死の支配者になる。
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歴史家クラウディン女史「聖杯物語の一つでは、不思議な大釜は永遠の命を約束する“豊富な角”のひとつだったと言われているの。ケルトの“神の光の剣”も英雄に与えられるのよ。主人公が、ある特別な物によって力を獲得するという物語は全てケルトの土地から生まれたのよ。」

ケルトは、自然が神だと信じていた。植物、動物、そして岩さえも人間と話すことが出来た。自然界の全てが魂を持っていた。
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近代の御伽噺(おとぎばなし)の中に現れる妖精fairy、仙女elf、魔法使いsorcererは自然の中で暮らしていると信じられていた。彼らは人々の運命を取り仕切っていた。祈祷師はかけ離れた世界と接触することが出来た。

ケルトは定期的に謎の茂みに集まっては祈りの儀式を行っていた。祈祷師やドゥルーイズは、詩人や賢人でもあり、疾病を治す力さえ持っていた。
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魔術師たちは正義を成す者たちを祝福し、悪魔たちを呪った。彼らの権威と呪文(じゅもん)をもって自然の力を鎮(しず)めた。ケルトの信仰の奥深くに根付いていたのは、戦士は死後に復活できるという概念だった。ケルトは冷酷な戦士だった。男も女も戦では野性的で、手加減することは一切なかった。彼等は、敵の頭を切り落とすのが習慣だった。
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首を斬られた戦士は決して生まれ変わることは出来ないのだ。
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この野蛮な儀式は聖杯の物語にある種の光を当ててくれるかも知れない。紀元前1世紀のこの容器に刻まれたケルト的なレリーフは聖杯の物語の手掛かりを与えてくれる。
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左側の王子は無傷の兵士を頭から容器の中に漬けている。
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下では兵士たちが死者の王国を逃れて命を復活している。彼らの後にキリスト教たちがそうしたように、ケルトは死からの復活を信じていた。シュツッツガルドの近くのハフトホーヘンでの王子の墓の発見は考古学者たちを驚かせた。
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王子の墓で、青銅の大釜と巨大な飲み水用の容器を見つけた。人間一人を入れられる大きさだ!
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歴史家シャーファー博士「人類の歴史の中で、飲むことdrinkingは特別な役割を持っていた。多くの儀式において、飲むことは不思議な役割を果たしていた。特に不思議な容器を持つケルトで、その傾向が強かったことを我々は知っている。容器は再生とか特別な力をもたらした。この伝統が聖杯という考えに繋がっているのだ。滋養を与え、再生をもたらしてくれる容器だ。」
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ケルトが勢力を失った後も不思議な容器の概念は生き続け、聖杯の物語が生まれた。聖体拝領communionの儀式では、キリスト教徒は最後の晩餐を思い起す。キリストが、血を象徴するワインで杯chaliceを満たした時、杯とワインは永遠の命の象徴になった。
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イエス・キリストの最後の日に行われた出来事は広く知られている。彼が十字架に架けられたことは語り継がれ、記録され、数えきれないほど人の話題になってきた。しかし、よく知られていない話もある。その一つに聖杯が現れる。伝説によればローマの指揮官ロン・ギーナスは銛(もり)でキリストの脇を刺した。著名な商人でキリストの親戚だったアラマシアのジョセフ(mh洗礼者ヨハネ)は最後の晩餐で使われた杯chaliceに、キリストから流れ出る血を集めた。多くの人々は、この杯が聖杯Holy Grailだと信じている。
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作家マルカール「全ては教会側が主張していることだ。我々がGrailと呼んでいる容器は、アラマシアのジョセフがイエスキリストの血を集めた容器だ。十字架から滴り落ちて来た血だ。キリストはアラマシアのジョセフの家系の人間だった。これらの伝説や伝承がGrailの神話の元を形成し、飽くなきGrailの探求がアーサー王の騎士たちによって行われることになった。王の騎士たちは単なる戦士でしかなかった。しかし、彼らはその考えを必要としていたのだ。それはGrailで象徴された完成への探求だ。」

伝説によれば、アラマシアのジョセフは杯を保管していたが、キリストに従う者として逮捕され監獄に入れられた。
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釈放された時、彼は生まれ故郷を捨て、古代の地中海ルートに沿ってローマを経由し、南フランスに到着した。彼はマリー・マグダレンを含むキリストの弟子達と共にロングドックに落ち着いたと考えられている。その時、聖杯はヨーロッパに一緒に移動したのだろうか?
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考古学者ベルトラン「考古学的見地からは、ジョセフのような有名な人物がイスラエル独立祭Passoverのようなお祭りで使われた容器を持ち出したことは考えられる。」
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ヨーロッパに到達した聖杯が何処に保管されていたかを知る者はいない。多くの異なる意見がある。古くから信じられている話の一つによれば、ジョセフと、もしかするとキリスト自身が(!)英国を訪れ、その時に聖杯も持ってきたという。ジョセフはイングランド南部の海岸に到着し、現在のグラストンベリーにやってきた。
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彼はそこで余生を過ごし、英国で初めての教会を建てたという。ベネディクティン大修道院abbeyの遺跡が残る場所は、この国でも最も神聖な場所の一つだ。そこに聖杯が保管されていたことがあるかも知れない。
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歴史家アッシェ「聖杯物語にはいろいろなバージョンがある。しかし、イングランドでは、杯は磔(はりつけ)の後に、ここ、グラストンベリーに持ち込まれ、その後、失われてしまったのでアーサー王の騎士たちがそれを探しに出かけたと言われている。」
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この時点から聖杯は伝説のアーサー王と彼の騎士たちと密接な関係を持つことになった。
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5世紀のローマ帝国軍の英国からの撤退は、残されたローマ系英国人に惨事をもたらした。かつて南のローマ系英国を守っていたヘイドリアン長城を北の野蛮人たちが越えて侵略してくるのを止めることができるものは何もなかった。
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組織的な防衛戦力を失って国は混乱に陥った。

しかし、たった一人の王だけは軍を編成し、ケルトに対抗した。アーサーだ。
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絶え間なく続く戦いで、アーサーは侵略者たちを打ち破り続け、平和と安定に満ちた栄光の時期が続いた。アーサーの偉業は伝説となった。彼は英国の黄金時代を象徴する男だった。暗黒時代の混乱が続く時期には、アーサーのような人物が、またはアーサー本人が戻ってきてくれることを人々は望んだ。

北コーンウォールの端に、ティンタジェル城が立っている。
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遺跡の城壁は後世に造られたが、基礎はアーサー王の時代まで遡(さかのぼ)る。
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いつのものかは定かではない。しかし、ケルトの王が西暦470年頃、ここで生まれたと信じられている。城の下の岩壁にはマーリンの洞窟と呼ばれる、伝説の魔術師の名がついた場所がある。
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彼は若いアーサーの師匠だった。当時、多くのケルトはキリスト教に改宗していた。しかし、邪教の伝統は、まだ彼らの考え方を支配していた。古い信仰から新しい宗教への改宗はゆっくりとしたものだったのだ。
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聖杯神話では、邪教とケルトの要素がキリスト的要素と混じり合っている。不思議な力を持つイクスカリバーの剣はケルトのものだ。伝説によればイクスカリバーはどんな敵をも打ち負かした。石からイクスカリバーを引き抜いた者は英国の支配者になれるのだ。
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アーサーの場合、この伝説は真実だった。剣は彼に勝利に次ぐ勝利をもたらした。アーサーの人生の終わりに、彼の忠実な部下の一人は、ケルトの伝説に従って、イクスカリバーを神聖な湖に投げ込んだ。
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聖杯の探検が始まることになったアーサー王の伝説の城キャメロット。歴史家たちは、この城がどこに、本当に存在していたのか、議論を続けている。
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歴史家アッシェ「我々はキャメロット城について注意深く検討している。アーサーの時代、それは英国の首都にあったと考える人々がいるが、そうではない。アーサーに関する全ての物語の中では、キャメロットは彼の居城で、そこには彼の前も彼の後も、人々は暮らしていない。従って、キャメロットは映画の中以外には存在していない。5世紀の暗黒時代の見事な中世の城であろうとも、それがキャメロットであることはない。しかし、アーサーが居城を持っていたことは十分考えられることで、そこがケブリーCadbury城と呼ばれていたと考えられる十分な根拠がある。」
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イングランドの南側にあったというケブリー城・・・
人工の土塁で囲まれたこの場所は、この一帯で最も大きな丘の上の砦だ。考古学的な証拠によれば、アーサーが統治していた5世紀、ここには大きな、見事な建物が造られていた。それがキャメロット城だったのだろうか?
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山地の多いウェールズの北西のディーナスブランドには、もっと新しい時代に造られた城の跡がいくつか残っている。何人かの歴史家によれば、キャメロット城があった場所としては理想的だという。
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イングランドの中央にあるこれらの城は我々が持っているキャメロット城のイメージに近い。
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しかし、明らかに言える一つのことがある。後の世のアーサー王のサガ(歴史書)の作者たちは、キャメロットの城を夢のある姿で書き記しているが、それはアーサー王の時代の城からかけ離れているということだ。当時の城は丸太で作られ、木の柱で組まれた塀で囲まれていた。
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生活レベルは貧弱で、建設で使われた道具は原始的だった。もしキャメロット城が存在していたとすれば、それは無垢の木材の寄せ集めの構造物だったのだ。

伝説によれば、人生の最後の時、アーサーは妖精と共に船に乗り、神話の島アヴァロンに旅立つ。魔法の剣イクスカリバーや謎の城キャメロットと同じように、アヴァロンは実存したのか、それとも想像上の場所なのか、は誰も知っていない。アヴァロンがあった正確な場所は人々の記憶から薄れていった。
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伝説の島アヴァロンのイメージに合致する多くの場所がある。例えばコーンウォールの南のマイケルの丘がそうだ。ブリタニーの海岸の沖にあるこの島はアヴァロンなのか?
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勿論、その他にも多くのそれらしい場所がある。しかし、歴史家はアヴァロンの位置に関する重要な鍵が、その名前の中にあると考えている。
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歴史家アッシェ「アヴァロンAvalonと言う名はアプルappleやアプルプレイスapple placeを意味している。つまり林檎が育っている土地だ。神話上のアヴァロンは、林檎が豊富で、人々は不滅immortalで、妖精の住む場所だと考えられる。ある伝説によれば、そこはアーサーが最後の闘いの後に訪れた場所で、彼は今もそこで、不滅で、生き続けていると言われている。他の伝説によれば彼はグラストンベリーに埋葬されたのだから、丘が散らばっているこの辺りこそがアヴァロンだと言う。」

13世紀、グラストンベリーの僧侶たちは彼の墓の印を発見した。
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それには“ここにアーサーが眠る”と書かれていた。今日、これはグラストンベリーの墓を訪れる人々から料金を採ろうと狙った偽物だったというのが一般的な考えだ。アーサーと彼の騎士団は、英国が救援を求めてきたら直ぐに立ち上がれるように準備しながらエルドンの丘に眠っていると考えている人々もいる。
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アーサーの時代から5百年以上たった11世紀、フランスの影響を受けた英国の宮廷courtは興味深い芸術を創り出した。宮廷作家たちがアーサーと呼ばれる王と聖杯探索について書き始めたのだ。
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聖杯物語で書かれている、これから語る章には歴史的な証拠はない。全くの神話世界の話だ。伝説の円卓の世界だ。円卓は気高い騎士たちで囲まれていた。彼らは聖杯の探求に命を捧げていた。
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エリートの仲間に入るために、騎士たちは、新しい騎士道と価値観に合わせなければならなかった。
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歴史家クラウディン「当時は黄金時代で、正義と寛容な男たちの時代だったのよ。物事は平等に分配され、徳は敬われていたの。そして超自然的なものとの繋がりが大切で、そのことによって更に自分を高めていたの。(mh;異訳です!何を仰っているのか聞き取れません!)」
アーサーのお気に入りのランサーロットという名の騎士は、誰もが知る男だった。
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彼は完璧を目指す男で、神聖な目的のために身を捧げていた。しかし、ランサーロットも完璧ではなかった。伝説によればランサーロットはアーサー王の妻グイネビア王妃との激しい恋に落ちた。それは初めから、悪い運命に導かれた邪悪なロマンスだった。彼は聖杯の探求を投げ出してしまった。
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ランサーロットの裏切りはキャメロットの世界を混乱させた。情熱的で不法な恋は、徳と高潔を求める騎士道精神に反するものだ。この反道徳的行為は騎士道世界を脅かすものだった。キャメロット宮殿では、不忠義は最悪の犯罪だ。
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ランサーロットとグイネビアにとって、彼らの行為の結果は致命的だった。アーサーは妻に死罪を宣告した。
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ランサーロットは落伍者となり、騎士の社会から追放された。後悔の念に打たれたランサーロットは、イングランドの北にあるこの修道院で晩年を過ごし、そこはランサーロット修道院として知られることになる。
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アーサーはイエス・キリストと彼の使者たちを思い描きながら、彼の天命に従い続けていた。円卓の騎士たちは不思議な社会を構成していた。その第一の騎士として、アーサーは聖杯の探求を騎士たちに命令した。
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作家マルカール「みんなが王の右手に座っていた(mh誰もが同じ立場だったという意味のようです)。そして誰もがこの社会の中での自由を持っていた。それは階級がない社会を創ろうとする試みだった。完全に理想的な、完全にユートピア的なものだ。それはまるでアーサー王の伝説の作者たちが人間社会の中での兄弟的な関係や、各自が自由に振る舞っても全員が集団を維持する社会が可能であることを示そうと望んでいたかのようだ。」

しかし、円卓の騎士たちを形成することをアーサーに決断させたのは何だったのだろうか?
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物語が書かれた時、ヨーロッパは悲惨な敗北を受け入れることを強いられていた。聖地エルサレムがついにイスラム教徒たち侵略者の手に落ちたのだ。屈辱を味わった十字軍は希望を失くして故郷に戻った。彼らの夢は崩れ、自信は揺らいでいた。人生に新たな価値を必要としていた。彼らは、それを聖杯の探求の中に見つけたのだ。
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アーサー王と円卓の騎士たちは聖杯を見つけることはなかった。もし聖杯がヨーロッパに辿り着いていたとしたら、今どこにあるのか?

ローマで見つかる記録によれば、聖杯は3百年間、イタリアにあったという。聖ローレンスという僧が保管者だった。混乱の時代、彼は盗難や破壊から聖杯を守っていた。3世紀の終わり頃、聖ローレンスは聖杯を、イタリアからスペインのピレネーの東側の彼の故郷に持ち出したと考えられている。
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ピレネー山脈の急斜面の下には沢山の洞窟があり、そこに隠されたのではないかと考えられている。隠すには完璧な場所だ。山は自然の障害物だ。
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この時点以降、曖昧だった聖杯の歴史は、より正確な追跡が可能になる。

歴史家シャーファー博士「もし、我々がこの場所から聖杯の旅を辿るとすれば、中世からローマ、ローマからここピレネーのウイスカ、ここから南の山岳斜面で孤立した場所、だ。その可能性は高い。というのはこの辺りで難民が見つかっているのだ。」
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中世において、新しい信仰がピレネーの両側から現れ、これが人々の巡礼を動機づけた。高地の峠を越えて巡礼路が造られるようになった。サンティアゴ・デ・コンポステラSantiago de Compostelaへ続く道だ。
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(mh:巡礼路の地図を挙げておきましょう)
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古代のこの巡礼路は今日でも使われていて、ヨーロッパ中から信者を惹きつけている。沢山の教会が巡礼路に沿って点在し、過去からの物語と共に巡礼者たちを魅了している。
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神聖な物語の中の聖杯はこの地で大切にされていたのだろうか?

12世紀の始め、十字軍の遠征隊は崩壊していた。
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伝説によれば聖地から戻って来た兵士たちはキリストの血が入っているという不思議な瓶(びん)を持ち帰った。
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この容器が聖杯なのだろうか?
作家マルカール「西暦1200年頃、全質変化(注)の教義は教会によって承認されていた。従って、杯の中のワインは正にキリストの血で、聖杯ロマンスは夢物語ではなかった。従って、他の場所でも聖杯ロマンスは生まれていた。後継者たちもその神学を受け継いでいった。こうして、元々は邪教徒のケルトから生まれた聖杯神話は、キリスト教徒の考えになり、聖餐(せいさん)での神聖な杯が生まれたのだ。」
(注)全質変化、化肉transubstantiation:
聖餐式の儀礼でふるまわれるパンとワインには、イエス・キリストの肉と血と魂と神性が変化して宿っているとされている。全質変化とは、その云われの理由となったプロセス。

しかし、誰もがローマの新しい神学を受け入れたわけではなかった。ローマから離れたピレネー山脈の麓の山にモンシガー砦が立っている。
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ここには難民だったと考えられているキリスト教の信奉者たちがいた。彼らはキャサラーズかピューアと呼ばれていた。キャサラーズはローマの考えを迷信的だと見なしていた。彼らは富の獲得に染まっていたカソリック教会の聖職者を排除し、代わりに貧困と単純な信仰への回帰を説いていた。
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伝説によれば、キャサラーズは秘密の宝物、恐らくは聖杯、を守り、モンシガー砦に隠していた。

異端者キャサラーズを壊滅するため、ローマ教皇は十字軍を派遣した。西暦1244年の春、2百人以上のキャサラーズは火炙(あぶ)りによって殺害された。それは、聖杯がより安全な場所に移される前の出来事ではなかった。
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今日までキャサラーズが守っていた宝物が聖杯だという証拠はない。包囲された砦から、どんな方法でその宝物が持ち出されたのかについても謎のままだ。
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スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに続く巡礼路に小さな教会がある。その棚には何世紀もの間、聖杯があったという。
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12世紀、多くの聖杯ロマンスが書かれた。1210年、ドイツ人のナイトテンプラー(テンプル騎士団)のバルフ・フォン・アシェンバッハはモンシガーへの冒険に関する美しい詩を書いた。
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彼は聖杯を、不思議な力をもつ石だと考えていた。“豊富な角”の神話のように、この石は食べ物と永遠の若さを与えてくれた。彼の知識はキヨトと呼ばれる男から得たものだと考えられている。キヨトはギエムの別の表記だ。我々はこの不思議な名前を持つ人物を探し出そうと思った。その追跡は我々をスペインのトレドに導く。
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トレドは当時、科学と文化の中心地だった。何世紀にも渡る遺産は、町の大聖堂に残されているアラビア語、ヘブライ語、ラテン語で書かれた記録や本古文書の中に集められていた。
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その中に聖杯の物語を初めて書き記した作家の証拠があった!12世紀の書類の中で、我々はフランス南部出身の代書人を見つけた。
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彼は、“ナボンのギエム”と言う名で署名していた。ラテン語ではナベロン・インスキロウムだ。もし彼が全ての情報の出所元だとすれば、彼こそが聖杯の元々の物語の作家で、不思議なキヨトに違いない。書類はアルフォンセ1世の妻ウラッカUrraca王妃の命令で書かれたものだった。
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12世紀の中頃、アルフォンセ1世はアラゴンとネヴァラを治めていた。聖杯への尊敬が最初に最高潮に達していた時期だ。キヨトの記録に従い、我々は更なる手掛かりを求めて東スペインに向けて旅を続けた。これは小さな町ウエスカにあるサン・ペドロ・オヴィアホ教会だ。
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アルフォンセ1世は静かに瞑想するため、この地を度々訪れていた。この地でも聖杯は長い間、敬われていたことを我々は知っている。アルフォンセ、ラテン語でアンフォーティエスという名はアンフォータスと関係がある。そしてアンフォータスは聖杯物語の中の王の名だ。アラゴンとネヴァラの王は聖杯の守護者の歴史的な人物モデルだったのか?支配者自身や彼の王国が聖杯の伝説の中で生き続けていたのだろうか?
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更にもう一つの類似性がある。アルフォンセ1世が致命的な傷を癒そうとして人生の終わりに城に戻ると、聖杯王のアンフォータスが終わりの無い苦しみから救い出される時を待っていた。彼らに救済をもたらすことが出来る男が一人いた。後に聖杯の保護者となるパーシヴァルPerchevalだ。パーシヴァルは、聖杯物語の中で、アンフォータスの不思議な城を見つける前に何年もの間、旅をしていた。
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パーシヴァルの名は、我々を再びスペインに引き戻す。スペイン人の伯爵が騎士パーシヴァルのモデルだったかも知れない。
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伯爵は王の従弟で、パッシュ・ダバー、又はパーシヴァルPerche valという異名を持っていた。そして、彼は伝説上の人物ではなかった。彼の名はこの家系図に現れている!
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しかし、聖杯物語で現れる場所との関係はどうだろう?見捨てられたこの礼拝堂には、武器のように掲げられた十字架が壁に刻まれている。
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それはエルサレムで神聖な遺骨箱を守っていて、聖杯の保護者になったテンプル騎士団の象徴だ。

歴史家シャーファー「ここで私たちはある素晴らしいものを見つけた。聖杯城と関係でパーシヴァルも使っていたと言われる、いくつかの庵(いおり)の跡だ。庵があるということは、聖杯城もあったということだ。」
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聖杯城はこの近くにあったと考えられている。自然の中に潜み、簡単には見つからない場所に。我々は半径20Kmの範囲でそれらしい場所を探した。中世においては、城は力と支配の象徴だった。それが遠かろうとも、尊敬を集められる場所に建てられていた。
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歴史家シャーファー「城は遠く離れた所からでも眼につく場所に建てられた権力の象徴の建物だった。しかし、城を探すのが不可能で、見ることができないとなると、それはあまりに逆説的で矛盾している。これらを考慮し、中世の人々に対する強い印象から考えると、見ることが出来ない城とすれば想像することすらできない。しかし、物語は全て意味がない空白でわずかな真実さえも含んでいないとは思えない。どこへ続いているのか全く分からない道をさまよい歩いていたら、突然、目の前に城を見つけるということなのかも知れない。」

スペインのピレネー地方の人里離れた谷間に、完璧に隠れている城がある。聖杯城サン・フォアン・デラペイのような修道院だ。
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致命的な傷を負ったアルフォンセ1世が連れていかれた場所だ。内庭は印象的だ。
歴史家シャーファー「ここの石碑には興味深い模様が刻まれている。キリスト教の象徴として錨(いかり)が使われる。パーシヴァルも城で象徴として使っているが、ここでは墓が掘り返されないように配慮したからではないかと考えている。(??)」
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スペインのバルセロナの図書館の台帳には聖杯に関する更なる証拠がある。砦のような修道院と、そこに保管されていた贈り物に関する記録だ。贈り物については、半分はスペイン語、半分はラテン語で記されている。カレス・ラパ・ディウムChalice lapa Deum、つまり“石の杯”だ。
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この石の杯はサン・フォアン・デラペイの礼拝堂にあったと記されている!

サン・フォアン・デラペイ大修道院の最も古い場所には、岩から削り出された洞窟がある。聖杯を隠すには理想的な所だ。
歴史家シャーファー「我々は聖杯が、この場所に保管されていたと考えている。岩壁に彫られた部屋の祭壇に。」
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バルセロナ図書館の台帳の中で言及されていた礼拝堂は、この洞窟の上に造られていた。造りはまるで寺院のようだった。この洞窟が、パーシヴァルが捜し続けていた部屋だ。聖杯に関する書物で城の中の寺院と表記される場所だ。

物語によれば、多くの冒険の後、パーシヴァルがとうとう聖杯城に辿り着いた時、彼は聖杯を掲げながら歩く人々の行列を目撃していた。行列を率いていたのは聖杯をもつ巫女(みこ)だった。
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彼女の後ろの侍従は、キリストの脇を刺す時に使われた銛(もり)を持って従っていた。刃からは血が滴り続けていた。
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女の侍従もいた。彼女は、洗礼者ヨハネ(ジョセフ)の頭が置かれていたと思われる大皿を持っていた。
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この時、パーシヴァルは傷ついたアルフォンセ1世を苦悩から救済することはなかった。アルフォンセがこの城を3度目に訪れた時、パーシヴァルは救済を行った。
歴史家シャーファー「ここが聖杯の行列が通っていた場所だと言われている。巫女は聖杯王アンフォータスの前に聖杯を置いた。」
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「王が退位するとテンプル騎士団が聖杯を保護した。つまり、ここが、今も伝説の中で存在している聖杯城サン・フォアン・デラペイの物語が歴史の中で始まった場所だと我々は考えている。」

我々は、聖杯探求の旅の終りに近づいている。我々の旅の最後の目的地はスペインのバレンシア(mh地中海岸の都市)だ。
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大聖堂の脇にある礼拝堂にはカピラ・デル・サントカリーという名前が付いている。“聖杯の礼拝堂”だ!
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カソリック教会は、聖杯が神聖な物語のものであると公式に認めてはいないが、聖杯はこの地でおよそ6百年の間、崇(あが)められている。祭壇の上方には防弾ガラスで保護された祠(ほこら)がある。その中に、バルセロナ図書館の書類の中で語られている容器がある。カリス・ラパ・ディアム、石の杯、つまり聖杯だ。
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考古学者アントニオ・ベルトランは杯を調査し、そのルーツを追跡することが出来る。
ベルトラン「今日、我々が目にしている杯はサン・ホアン・デラペニアで組み立てられたものであることは間違いない。黄金細工は恐らくビザンチンの職人の仕事だ。上方の容器は中近東で造られたものだ。恐らく、アレキサンドリアかアンティオクで造られた物だろう。考古学的証拠から、紀元前1世紀後半から紀元後1世紀前半の作品であることは間違いない。下側には石で造られた脚部があるが、そこにアラビア語が書かれている。それは間違いなく、この杯がサン・ホアン・デラペニアに届けられる前に書かれたものだ。」
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聖杯物語によれば、奇妙な表記 “ラプシット・イクセレス”が現れた時、かろうじて読み取れるアラビア文字の言葉の意味は分かっていなかった。

パーシヴァル物語の中で、ヴォールフレンは聖杯を“ラプシット・イクセレス”と呼んでいた。これが偶然とは思えない。彼が聖杯だと書き記した石はバレンシアの聖杯の石の脚部だったのだ!
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我々は旅の終わりに到達した。聖杯探求の旅はこれで終わりだ。この旅は我々を東から西に、ケルト時代からキリストの時代に導いた。しかし、我々の物語には現実の結論はない。聖杯は、寓話(ぐうわ)と現実の間で、幻想と歴史の間で、ぼやけたまま永遠に明確に見えてこないだろう。
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聖杯は、人によって異なる意味を持ち続けるだろう。明らかな事は、最初に物語が書かれて8世紀以上もたった今日でも、聖杯とアーサー王は我々の想像を掻き立て続けているということだ。聖杯探求はこれからも続くのだ。
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Discovery Channel The Holy Grail
http://www.dailymotion.com/video/x2jbdux

で~皆さんは、聖杯伝説とはどんなものか、お分かりいただけたでしょうか?5世紀のイングランド人だと言われる不可思議な男アーサー王の物語が世に広まると、聖杯Holy Grailがヨーロッパに知られるようになったっていうんですね。で、このアーサー王の居城キャメロットは、どこにあったのか、分かっていないんです!聖杯物語を文字道理に理解すれば、アーサーは死者の国に旅立ち、魔法の剣イクスカリバーを岩から引き抜いて全能の力を獲得し、ケルトの攻撃からイングランドを守ったっていうんですねぇ。

聖杯とか魔法の剣イクスカリバーとか、魔力を持つ品物で、ふと三種の神器を思い浮かべました。

Wiki三種の神器
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。
三種の宝物とは、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。

で~この三種の神器は壇ノ浦の闘いで源氏に追われた6歳半の安徳天皇(あんとくてんのう)がお付きの女に抱きかかえられ船から身を投げた時に海底に沈んでしまうのです。勾玉と鏡は源氏の兵士によって引き揚げられたものの、剣は見つからなかったようです。そうじゃあない、全部見つかったって話もあるらしいですね。この剣は、スサノオ(素戔嗚尊)が出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時、尻尾から見つけた物だって言われています。

三種の神器は皇位継承における重要な神器ですが、その出所も不可解で、天皇すら見たことがないとなれば、聖杯Holy Grailの存在も胡散臭いと思いますが、聖杯の話がヨーロッパでは持て囃(はや)されていたということは、キリストに関する事象をパロディだと考えることがタブー視されているのじゃあないかと思います。日本の天皇についても、あまり深く考えると、右翼や、靖国参拝を続ける国会議員から非国民呼ばわりされたりして馬鹿らしいから、真面目に取り上げて議論する風潮はありません。

しかし・・・聖杯のありかを探求questするYoutubeを何本か見た感想ですが、現代のキリスト教徒はイエスの血を受けた聖杯の存在を真面目に信じているようには思えませんでした。mhは三種の神器が今もあるのかどうかなど、全く関心がありませんでしたから、およそこの種の話は、神話とか伝説とみなされるのが一般的だと思いますが、世の中には、そう考えない人が結構大勢いて、魔力を秘めた聖杯や三種の神器が、今も、ある場所に実存すると信じているとすれば、それはそれは恐ろしいことだと思います。
(完)

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mh徒然草: テロ事件が多いですね


今日は4月9日。ストックホルムで自動車がデパートに突っ込み、4人が亡くなったというニュースが流れていました。2週間ほど前の3月23日、ロンドンのビッグベンに続くウエストミンスター橋で歩道を暴走した車は5人を轢(ひ)き殺しました。4月3日、ロシアのサンクトペテルブルクでは、走行中の地下鉄車両内での爆破で14人が亡くなっています。

犯人はいずれも自爆するか警察に射殺されていますが、最近の傾向として、爆弾など専門知識が必要な武器ではなく、誰でも使えて目立たない凶器の自動車を使ったテロが増えているようだとの指摘がありました。

これら3件のテロはいずれもイスラム過激派の影響をうけた男たちが起こしたもので、テロリストは自決するか、射殺されるかしていていますから、当初から死を覚悟の蛮行だったのでしょう。

現在、世界で行われている、テロと呼ばれる、何の関係もない人たちを殺害する蛮行は、イスラム過激派だけが行っているように思われます。被害者はみんな非イスラム教徒ですが、蛮行の引き金は、宗教ではありません。軍事介入への報復です。ロシアは旧ソビエト連邦同盟国に介入する傾向が強くなっています。また、アメリカとロシアは、シリア国内を爆撃してシリア国民やシリア兵士を殺害していますが、このような他国への軍事攻撃がテロとも戦争とも呼ばれないのは片手落ちでしょう。アメリカやロシアの兵器や戦闘機に殺された人々は、自分が、突然、死ぬことになるとは夢にも思っていなかったはずで、彼らからしてみれば、アメリカ軍もロシア軍もテロリストです。

日本はテロとは無関係のように思いがちですが、無関係の人を殺す事件が全く無かったわけではありません。秋葉原でのトラック突入事件や、オーム真理教の地下鉄サリン事件はテロと呼んでもよいでしょう。これらのケースでは、事件を起こした人たちは自決してはいませんが、イスラム過激派同様、自決覚悟の国家的テロは大々的に行われていたことを忘れるわけにはいきません。太平洋戦争末期、敵に向かって突進し、自爆して死んでいった5800人の若者がいます。ゼロ戦や人間魚雷回天に乗り込んで、、一人で敵艦や敵軍基地に突入していきました。

イスラム過激派の思想に染まった若者はアッラーに命を捧げているつもりでしょうが、仏教徒というよりも無神論者と言った方が正しいmhは、なんでそんなつまらない理由で、人を殺すだけじゃあなく、自分も死ななきゃいけないの、と不思議に思うのですが、日本人も国家権力に洗脳され、5千人を超す若者が天皇に命を捧げて死んでいったんですから、テロや自爆は、イスラム教徒の専売品じゃあありません。

それにしても、イスラム教徒の自爆テロは多いですね。この原稿をPCで叩いて作っている今も、新しいニュースが飛び込んできました。カイロのコプト教キリスト教会内の爆発で25人も亡くなり、同時期にエジプト第二の都市アレクサンドリアでも爆発事件があったようで、イスラム国ISが犯行声明を出したようです。

テロを失くすためには何をすべきか?

いつもなら無責任な答えを明快に申し述べるmhですが、アメリカのトランプ大統領に同調し、世界からイスラム教徒を抹殺することが一番だ、とは思いません。世界平和を目指すことがテロ撲滅への道だと思います。そのためには、まず、武器を減らし、紛争を減らし、貧富の差を減らすという、至極当たり前のことをやらねばならないと思うのですが、今の世の中は、その逆の方向にシフトしています。この傾向が続く限り、テロが増えていくのは、お釈迦様の仰る通り、因果応報でしょう。

数日前にアメリカが行った、シリア軍基地への50発を超す巡航ミサイル・トマホークの打ち込みは、シリア国軍がサリンを使用したことへの報復だとアメリカ政府は声高(こわだか)に言っていて、アメリカ国民の過半数は、政府の決定を支持しているようです。我が日本国の安倍首相はというと、攻撃が公表されると即座にトランプ大統領に電話をし、大統領の決断を支持すると表明しました。

しかし、mhは、日本滞在中のシリア人がTVインタビューに応えた言葉に、深く考えさせられました。
“日本には何もしないでほしい”

行路難
https://www.youtube.com/watch?v=iWIwXhbj6cI

(完)

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エル・ドラドの不思議Prt-2


コロンビアの首都ボゴタ(コロンビアの中心の白文字です)
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その北北東約30Kmに今回の舞台の一つ、グワタビタ湖があります。直径約200m。
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湖畔の北東には湖水が流れ出す川のようなものが・・・
実はこの川は・・・
詳細はこのブログでご確認下さい!

Google Earthによれば湖面の標高は2584m。ボゴタは2555m。日本の浅間山山頂(同2568)とほぼ同じです。
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で~グワタビタ湖と伝説の都市エル・ドラドの関係とは何か?
それはこれからYoutube 「The Search For El Doradoエル・ドラドを探して」でご紹介しましょう。なお、以前にエル・ドラドに関するブログをご紹介していますので、今回はPart-2とさせて頂きました。

・・・・・・・・・・・・
16世紀初め、スペイン人の冒険家たちを満載した船は、新大陸の富を略奪しようと、幾たびも大西洋を渡った。コンキスタドールたちは、何よりも、ある一つの噂話に魅せられていた。エル・ドラドと呼ばれる、黄金で出来た秘密のインディアン都市があるという。
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黄金を手に入れる欲望を抱えたスペイン人たちは、未開のジャングルや高地の奥深くまで分け入り、彼らを驚愕させ、彼らに衝撃を与える世界に出会った。
コンキスタドールの話は過去のものになった。しかし、失われた都市の探求は決して終わっていない。そして今、エル・ドラドの真実に光が当たろうとしている。エル・ドラドの探求は恐らくこれで完了するのだ。

“神のため、栄光のため、そして黄金のため”というのがコンキスタドールの合い言葉だった。彼らは、1500年代を通じてずっと、現地人から価値のある何かを奪い取ろうとして中央アメリカや南アメリカに流れ込んで来た。彼らが最も欲しがっていたのは黄金だった。
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新世界の富に眩惑させられていたカソリックの征服者たちにとって、現地で見るインディアンの生活の様子は期待外れだった。ミイラになった祖先たちに指揮されている軍隊を持つ現地人の文化とは一体なんなんだ?子供達は生贄として太陽に捧げられている!神々は黄金の像とともに崇められている!

インディアンもまた強欲なヨーロッパからの敵兵たちに当惑させられていた。コンキスタドールの黄金に対する暴力的なまでの欲望は何からきているのか?彼らは黄金を食べて生きているのではないのか?インディアンたちは、幾度となく、憤慨しては、捕えたコンキスタドールの喉(のど)に溶けた黄金を注ぎ込んだという。
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しかし、現地人の抵抗もスペインの火器の前には無力だった。次から次へと侵略者たちによって村や町は陥落していった。1520年代、ヘルナンド・コルテーズはアズテク帝国を転覆させた。その凡そ10年後、フランシスコ・ピサロはペルーのインカを支配し、その当時だけで6トンものインカの黄金を略奪した。
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インディアンたちの帝国が征服され、彼らの富が略奪されるにつれ、もっと多くの富が手に入れられるだろうとの噂が根付いていった。草を抜いてみれば根の先まで黄金で出来ているような都市や王国があるのではないのか?

彼らがこれまでに見つけた物を考えると、何だって考えられる、と歴史家マイケル・フランシスは言う。
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マイケル「ペルーにはまだ知られていない所があって、探せば何だって見つかると彼らは考えていたんだ。別の王国が、黄金に溢れた神秘的な王国があるって。その考えが何十年もの間、人々をその気にさせ、何度も何度も、黄金を見つけようと探検が行われていた。」

コロンビアのカリブ海に面したカルタヘナCartagena港は、かつて、多くの探検の起点になった場所だ。
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16世紀は、忙しい所だった。ここからスペインに戻る全ての船には、インディアンの黄金が満載されていなければならなかった。黄金に飢えたコンキスタドールたちは、富を掴むことを夢見てスペインからやってくると、ここで下船して新大陸に入っていった。
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1536年、エル・ドラドの手掛かりを与えてくれるかも知れない一つの探検隊がカリブ海の海岸を発っていった。エル・ドラドの探検隊の多くは軍の指揮官によって統率されていたが、この探検隊を指揮していたのは法律家で、ゴンザロ・ヒメネ・カサダという男だった。
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彼は陸を横断するルートを採ってインカの黄金の土地を目指した。地図にも無かったマグダレナ川に沿って南下し、南米の内陸に向かって進んでいった。
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まだヨーロッパ人の誰もが探検したことがない黄金都市が隠されている場所はこのルートのどこかにあったのだろうか?
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カサダが率いていた多くの兵士たちは何も見つけなかった。数週間すると探検隊の4分の3の600人が病や飢え、日射病やインディアンの攻撃で死んでしまった。
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16世紀のコンキスタドールたちの世界では、死者を弔うため時間をかけることはしなかった。当時のスペインの歴史書によれば“最後のあがきで突き出された手は、時には大地の上にそのまま残され、黄金を求めて旅を続ける男たちに最後の別れを送っているかのように見えた。”
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ケサダは、戻ろうかと考えていた。黄金は見つからないし、黄金の王国もない。探検隊は枯渇し、落胆し、ペルーへ到着する機会も減るばかりだった。そんな時、偶然、インディアンの集団に出会い、ケサダは直ぐに考えを変えた。彼らは塩の塊と複雑な模様が織り込まれた布を運んでいた。
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洗練された製品だ!
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マイケル「ケサダたちには、それが文明化された社会の証拠に思えた。どこで手に入れたのかとインディアンに訊くと、東にある山岳地帯の方向を指さした。そこでケサダはマグダレナ川沿いのルートから山岳ルートに切り替えて高地を目指した。」
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ケサダと彼の疲れ切った探検隊は数か月かけてアンデスを登り、美しい高地に辿り着いた。そこには多様な自然が溢れていた。ケサダはその一帯をニュー・グラナダと呼んだ。スペイン人たちにとって驚きだったことに、一帯は十分に開拓され、ムイスカMuiscaと呼ばれる人々が大勢暮らしていた。
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スペイン人が出会ったムイスカ文明は、既に数千年も前に生まれていた。エル・ドラドの人々なのだろうか?儀式で沢山の黄金を使っているようだ。
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以降、ムイスカ文化は長い間、歴史から消え失せ、ケサダが最初に出会ったムイスカの世界の痕跡は今ではほとんど残っていない。4世紀前のスペインの歴史書の中に残されているだけだ。
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マイケル「ある意味で本当の悲劇は、インディアン自身が残した記録が全くないことだ。全て、スペイン人の目を通して翻訳され、理解されたものしかない。しかし、その中からも、昔のインディアンたちの微かな声を聴き、彼らの様子を垣間見ることはできる。」

コロンビアの人類学者カール・ランゲバエクも、失われたインディアンの文明に魅せられている一人だ。
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宝物を執拗に探していたコンキスタドールたちが偶然、初めて出会ったという高度な社会を理解しょうと、ムイスカの領地でいろいろな角度から調査している。
カール「インディアンたちは、この辺り一帯をエラ・フロラド(?)と呼んでいた。彼らは間違いなく、黄金を使っていた。ここは、コロンビアの他の社会と比べても、大勢の人々が暮らす一帯だった。棲み着くと人口は急速に増えたようだ。」
エル・ドラドへの鍵をムイスカが持っているなら、ささやかであろうとも、その印が足元の下に残っているはずだ。考古学者たちは、時々、ムイスカの土器や織物を地中から見つけている。
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しかし、彼らの世界のほとんどは失われたままだ。ムイスカはいろいろな物を壊れやすい材料で造っていたので、多くが大地の中で形を失ってしまったのだ。
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時々、古代の家の柱の穴の跡が見つかっている。これらと、スペイン人の記録とを突き合わせてみると、16世紀のムイスカの生活の驚くべき一面が見えてくる。木や竹で作られ、屋根は長い葦で覆われた家々が立ち並ぶこの一帯はこのように見えていたらしい。
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コンキスタドールは、家が沢山並び、近くの村人や物品の交流で賑わっている様子を見て驚き、人々のことをムイスカMuiscaと呼ぶことにした。
マイケル「巣に群がる蜂を思い浮かべたようだ。辺り一帯に人や家が群がっている。人々がまるでハエのように見えのだろう。ハエのスペイン語はモスカmoscasだ。この言葉からムイスカと名付けられた。」
ムイスカのテリトリーは、当時としては、人が密集する場所だった。凡そ50万のインディアンがオランダと同じ面積に暮らしていた。ケサダの士気も上がったに違いない。こんな大きな社会で、こんなにも文明化しているとなれば、その意味するところは黄金だ!
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そこは、スペイン人を魅惑し、ルートを変えることになった複雑な織物と塩の塊の産地だった。疲れ切った探検者たちには、塩さえも黄金に見えていたかも知れない。彼らは持ってきたものは全て食べ尽くしていた。尿さえも乾かして命綱のミネラルとして口にしていた。しかしムイスカは山ほどの塩を持っていた。文字通り、ムイスカには塩の山があったのだ。
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これは最近の岩塩採掘トンネルで、岩塩で出来た大きな丘深くまで掘られている。
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当時、インディアンは丘の上で、別の方法で岩塩を採取していた。スペイン人はムイスカの岩塩採取作業を見ていた。丘から湧き出る塩水を沸騰し、持ち運びが容易な塩の塊にしていたのだ。
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旅で出会った人々は衣服らしい衣服は身に付けていなかったが、ここムイスカでは、人々が複雑に織りこまれた外套(がいとう)を着ているのを見てスペイン人は感激した。
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しかし、彼らが渇望していた黄金は、見当たらなかった。

170人まで減少し、弱り衰えてしまっていた一行は更に南を目指した。そしてムイスカの社会に入ってから数週間後、コンキスタドールたちは、初めて、捜し求めていたものを垣間見る感激に出くわした。
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マイケル「屋根の天辺に黄金が吊り下げられていたのではないかと思っている。風が吹くと、金属音が響き渡り、心がかき乱されたことだろう。“ここは第二のペルーだ。とうとう別の黄金都市を見つけたのだ”って。」
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とうとう、スペイン人たちは求めていた富の確証に辿り着いたのだ!ここのインディアンは住居を黄金で飾っている!もっと沢山の黄金が見つかるはずだ!
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ケサダと彼の一行は失望してはいなかった。ムイスカの領地の奥深くで、コンキスタドールたちは美しい黄金の飾りで囲まれた場所を見つけた。これが噂の黄金の王国なのだろうか?
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ムイスカの金工芸の例は僅かだが今も残っている。スペイン人たちは、見つけた金工芸は全て溶かし、金塊にして持ち出していた。しかし、残されていた金工芸から、ムイスカは黄金を持っていただけではなく、それを見事な芸術品に仕上げる技術を持っていたことが判る。
オロ博物館員ジュアニタ「驚くべきことに、その工芸品はとても繊細で、今でも、そんなに薄くて繊細な品物を造るのは不可能かもしれないくらいなのよ。」
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それはスペイン人だけではなく、現代人にも驚きの金細工だったのだ。ヨーロッパでルネッサンスの時代、ムイスカは既に金細工の手法を開発し習得していた。彼らの特徴はロストワックス法だ。製品の形をワックスで造り、これを粘土のケースで固める。
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その後、粘土の中のワックスを溶かして出来た空洞に、溶けた金を流し込む。この技術は、黄金の飾りを作るためだけではなく、インディアンに固有の製品を作るためにも使われていた。
この人形figurineはトゥーホスと呼ばれているもので、ムイスカの世界を黄金で描き出したものだ。
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こういった小さな黄金の製品は、黄金に対するコンキスタドールたちの欲望を更に磨き上げていったに違いない。
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しかし、コンキスタドールたちにはトゥーホスがムイスカの文化を表現していることなど関心がなかった。もし、関心を持っていたなら、彼らはエル・ドラドの謎を解く鍵を手にしていたかも知れない。黄金のハンモック、子供たち、ムイスカの祈祷師、
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枠で囲まれた輿(こし)に乗った黄金の族長、ムイスカの戦士。

ジュアニタ「この像は頭飾りをつけているわ。頬(ほほ)からは飾りが釣り下がっていて、首や胸にも飾りが付いているの。」
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ムイスカは黄金の槍投げ機のレプリカも造っていた。
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彼らは、黄金に飢えたコンキスタドールたちの侵略を止めようと槍投げ機を使ったようだが、対抗することは出来なかった。スペイン人略奪者たちは、更なる黄金を、エル・ドラドを求めて攻め込んで来たのだ。
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多くの軍勢を連れてやってきたスペイン人のクエサダは、ムイスカの領地の南部にサンタフェ・デ・ボゴタという町を造った。数世紀後、ボゴタは8百万人が暮らすコロンビアの首都になっている。
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近代的な大都市が横たわるこの谷間は、ケサダがやって来た時、既にムイスカが大勢暮らす一帯だった。スペイン人の記録によれば、この谷には見事な建物があったという。木造の王宮だ。しかし、それがどんなに黄金に輝いていたとしても、ボゴタはエル・ドラドではなかった。仮に沢山の黄金があったとしても、ケサダがやって来る前、ムイスカの族長によって神に捧げられ、大半は無くなっていた。

ケサダは落胆したが、多くの黄金があるとの新たな噂に引かれ、ボゴタから北に向かって再び出発した。彼は別の部族長の首都だったトゥーンハーという町を攻撃し、略奪した。そしてソガモーサに向かった。
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そこはムイスカの人々にとって最も神聖な都市だった。

占領者たちの歴史書によれば、神聖な都市ソガモーサで、ムイスカの領土で最も大きな建物を見つけたという。
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ムイスカの太陽の寺院で位の高い祈祷師が住む場所だ。そこには一般のムイスカ人は入ることが出来なかった。呪いが身に降り懸かると恐れられていたのだ。しかし、それがコンキスタドールたちの侵入を止めることは無かった。太陽の寺院には、夢に見ていた通り、黄金があった。
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黄金はムイスカの神聖な世界の中心にあるものだったのだ。建物の壁に沿って座っていたミイラたちは黄金や宝石で飾り立てられていた。
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木の柱は黄金の板で巻かれていた。

コンキスタドールたちは黄金を略奪し終えると寺院に火を放って焼いてしまった。ボゴタ以降、略奪を続けてきたケサダたちは黄金を馬に積み込める形の大きさにした。トゥーンハーの町からだけでも、彼らは現在の市場価格で6億円相当の黄金を略奪していた。しかし、それで満足することはなかった。黄金都市はどこだ?黄金の金鉱はどこだ?
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マイケル「彼らは信じられない程の大量の黄金を集めた。記録によれば、その後20年間、彼らはこの地で黄金探しを続けたようだ。」
今や、エル・ドラドの探求にはインディアンの金鉱までもが含まれるようになっていたのだ。

実際、ケサダは鉱山を発見していた。その鉱山は今日も稼働している。しかし、それは彼が見つけようとしていた鉱山ではない。エメラルド鉱山だ。
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一人の歴史記録家は、その時のコンキスタドールたちの喜びの様子をこう書き記している。“これまで、世の中にはエメラルドに関する多くの意見があった。しかし、どんなキリスト教徒も異端な王子も、このようなエメラルドの鉱山があることは知らないだろう。”
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スペイン人たちは熟練したムイスカ人が木の棒を使って岩肌から巨大なエメラルドを掘り出し、水の流れの中で磨くのを見て、目を見張った。この処理方法は、エメラルド鉱山の廃棄物の中からエメラルドを探している人々が今日でも行っている。
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ムイスカのエメラルドの源を見つけ出した後、コンキスタドールたちは金鉱探索を続けた。その後、多くの時間をかけたが、間違った場所を探しているのではないのだろうかと考え始めるようになった。しかし、エメラルドはヒントを持っていたのだ。何故ならエメラルドは岩塩の塊や綿織物と共にムイスカが黄金を獲得するシステムの一部だったからだ。スペイン人にも御馴染みのシステムだが、当時の南アメリカの人々には特別だったかもしれない。市場だ!
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マイケル「歴史家たちは、現地の人々が商人として物々交換の手法に長けていることを最初から褒め称えていた。人々は物を交換することに幸せを感じていた。こういう人たちが戦いを好むわけはない。交易している時、彼らは幸せだったんだ。」

この市場は、スペインの占領以前から続いている。ここにはムイスカの黄金の出処に関するヒントだけではなく、人々の考え方に関するヒントもある。
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人類学者カール「“現地の人々は肌が黒く背が低い。南アメリカ社会では、人々は真っ直ぐの黒髪と黒い目を持っている。女性はとても美しい”とスペイン人占領者たちは記録に残している。」
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ここでは、ムイスカの子孫は明確に見分けられる。スペインの占領で彼らの文化は破壊されたが、ムイスカの身体的な特徴は今も残っている。
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4世紀半前のこのような市場で、スペイン人は、カリブ海や太平洋の海岸との交易でもたらされた貝殻、干し魚など、それまで目にしなかった製品に出会っていたことだろう。
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そして、ここで、彼らは黄金も見たかも知れない。しかしそれはムイスカの金鉱で採れたものではない。コンキスタドールたちは、ムイスカが黄金を交易で手に入れていたことにやっと気付いた。100Km西のマグダレナ川の渓谷に暮らす人々が皿を使って、川から採取していたのだ!ムイスカが交易で黄金を得ていたということは、彼らの黄金には限度があるということだ。コンキスタドールが抱いていた黄金の王国の夢からは程遠い。

ケサダが黄金を略奪した後でも、ボゴタの一帯には無限の富があるという噂は消えることはなかった。何が、エル・ドラドの夢を生き延びらせることになったのだろう?
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その答えは16世紀から17世紀にかけてのスペインの歴史書の中で見つかるかも知れない。というのは、その中では、黄金の王国が奇妙な強調を持って描かれているからだ。
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エル・ドラドの伝説は、歴史家フェルナンド・デ・オヴィエドの作品の中で初めて現れた。
“OVIEDO CONQUISTA DE LAS INDIAS:オヴィエド;インディアスの征服”
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ケサダによるムイスカ領地の占領から4年後の1541年に書かれた部分で、オヴィエドは初めて聞いた話として記している。それは王国についてのものではなく、王についての話だった!
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“インディアンの話によれば、その族長はとても金持ちで偉大な支配者だった。彼は、毎日、粘々(ねばねば)したものを身に塗って体を清めていた。それには黄金の粉が混ぜられていて、彼はそれを足の先から頭の頂まで塗っていたのだ。彼は輝いて、偉大な芸術家が作った黄金の像のように見えた。もし、この部族長がこんなことをしているとすれば、彼は高品質な金を沢山埋蔵した金鉱を持っているに違いない。”
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オヴィエドの話の出処がどこかは誰も知っていない。しかし、エル・ドラドはその時点から、場所だけではなく、人物にも関係するようになった。黄金の族長が見つかれば、黄金都市があるはずだ。最初の探検が始まると、これに続くように次々に黄金の報酬を求める探検が続くことになった。
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1569年、ケサダも新たな悲惨な探検を行っている。この探検では1千5百人ものスペイン人兵士やインディアンの荷運び人足(にんそく)が死んでいる。その10年後、80歳に近いケサダは夢を実現することなく死んだ。

それから凡そ半世紀後、スペインの歴史書は“新たな世代のコンキスタドールたちも、どこを探せばよいのか判っていないようだ”と記している。しかし、エル・ドラドを見つけることが、その黄金の部族長を見つけることだとすれば、その族長も加わったインディアンの儀式は黄金への道を示しているはずだ。
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“この族長の領地には湖がある。年に数回、見事に仕上げられた筏(いかだ)に乗った族長は湖に乗り出す。彼は裸だが、体は足から頭まで、沢山の黄金の粉が混ぜられた粘々したテルピン油で塗られている。”
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オヴィエドから80年後に書かれた歴史書の中で、黄金の部族長がまた現れた。この記録によれば、彼が黄金で覆われていただけではなく、彼や彼の部下たちは湖畔に立って黄金やエメラルドを湖に投げ込んでいる。
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そして儀式の締めくくりでは部族長も湖に飛び込むのだ。

この儀式はグワタビタ湖で執り行われていた。ムイスカ領地の高地でボゴタから東に50Kmの所にある湖だ。グワタビタの湖底には膨大な黄金があるのだろうか?
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エル・ドラドの探求は新たな目的地となった湖とともに再び息を吹き返した。今日のグワタビタ湖は穏やかで平和な所だ。しかし、いつもそうだったわけではない。エル・ドラドを見つけることに憑(と)りつかれた新時代の宝探したちが、かつてのコンキスタドールたちを上回る数でグワタビタ湖に押し寄せた。最初に現れたのは、初期のボゴタに定住した男だ。ワイン商人アントニオ・デ・セイプルヴェイダは1580年代に、湖の水を抜こうと試みた。工事につぎ込んだ人数は驚くべきものだった。セイプルヴェイダは8千人のインディアンたちに命じて深い溝を掘らせた。
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それは暫くの間は上手くいった。実際の所、水位は20mも低下した。しかし、溝が崩壊し、多くの作業者が死んだ。セイプルヴェイダ自身もその事故で死んだ。彼はグワタビタ湖の丘の麓(ふもと)に埋葬された。

この壊滅的な事故にも拘(かか)わらず、宝を求める豪傑が続き、およそ4百年の間、グワタビタ湖は、発掘や水中遊泳探索や穿孔の対象になっていた。以降、わずかな黄金は見つかったが、それで誰かがひと財産を稼げるものではなく、エル・ドラドの夢を細々と生き延びらせる程度のものでしかなかった。

1904年、ある英国の会社が水門とフィルターを使って湖の水を抜くことにした。
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この試みは成功した。しかし、湖底の泥の層は柔らかく、その上を歩くことは出来なかった。数日後には乾燥してコンクリートのように固くなってしまった。ドリルで壊そうと道具を準備し終えた頃には、湖にはまた、水が溜まり出していた。そして、結局、この計画も放棄されることになった。

その後の何回かの失敗の後、1965年、コロンビア政府は“グワタビタ湖は手を付けずにそっとしておかねばならない”と宣言し、以降、全ての調査は禁止されてしまった。
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グワタビタ湖は黄金の部族長と彼の宝物で一杯の儀式に関する確かな証拠を提供することは無かった。エル・ドラドを探求する仕事は終わってしまったかに思われた。すると1969年、ボゴタの南の高地の洞窟の中で妙な物が見つかった。黄金の筏(いかだ)と、その中心には見事な黄金の部族長がいる!
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彼は、公式の冠と儀式用の面を付けた付添人たちに囲まれている。全員が前を向いている。明らかに、重要な儀式を執り行っているのだ。
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この発見に続くようにして、第二の、これに似た筏がムイスカの領地で見つかった。歴史家たちが書き残した説明を具体化する、触れることが出来る証拠がとうとう見つかったのだ!これらの証拠は噂の後ろに真実が潜んでいたことを示しているかのようだ。エル・ドラドの黄金の部族長は、実存していたのだ!しかし、この黄金は何だろう?その答えはムイスカの失われた神話と魔術の世界の中にある。

ヴィア・デ・レイヴァはムイスカの北部にある小さな植民地時代の町だ。スペイン人定住者が到着して直ぐに造られた町で、その後、今日まで、手が付けられずに残されている。
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この町の周囲は強烈な日の光にさらされるインヘア・ニートと呼ばれる灼熱の砂漠地帯がある。そこに、ムイスカの奇妙な儀式場の跡が残っている。沢山の石が立っている奇妙な場所だ。
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しかし全てが残されていた訳ではない。この場所の目的は謎のままだ。スペイン人の記録にも何も残されていない。彼らがやって来る前に、既に放棄されていたようだ。今日残されているものだけから、この場所を建設するためにムイスカがどれほどの努力を注入したのかを想像することは難しい。しかし、残っているものからどんな構造物があったのかを仮想すると、その規模は驚くべきものだ。
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何故、この場所が造られたのか?どんな儀式が行われていたのか?エル・ドラドの黄金と結びつくどんな手掛かりを持っているのだろう?

最も可能性がある理論によれば、インヘア・ニートでは月や星や太陽を敬う儀式が行われていた。多くの古代人は天体には神々がいると信じていた。スペイン人の記録から、ムイスカも同じではないかと思われる。
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人類学者カール「スペインの記録には、ムイスカは太陽を信仰していたと明記されている。言語からも太陽の重要さが判る。“スー”という太陽を表わす言葉は沢山残っている。」
スペイン人によって火を放たれ燃え落ちてしまったソガモーサの神聖な寺院は太陽を祀るものだった。寺院の中には大量の黄金があった。
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ムイスカは太陽神の力が黄金の中に秘められていると考えていたのではないだろうか?英国人人類学者ニック・サンダースは、十分、可能性があると考えている。
ニック「黄金は、いろいろな意味で太陽の力を代表している。太陽の精神的な要素として、太陽の輝きとして、太陽の恵みの光として、黄金はムイスカの力と強く結びついていたのだ。」
インヘア・ニートと太陽の本当の関係は謎のままかもしれない。しかし、この場所は太陽とムイスカの黄金の関係を暗示している。それは豊穣を示すものだ。インヘア・ニートの石柱の何本かは間違いなく、巨大なペニスを表現している。
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考古学者たちによれば、これらの遺跡は西暦880年頃に造られたという。農業や豊かな実りがムイスカにとって重要なものになりつつあったのだ。これが、ムイスカが黄金や神々を重視するようになった理由ではないのだろうか?
ニック「ムイスカの信仰で重要なのは、神に対する人々の献身の度合いだった。自然を正常に機能させるには、人々の努力が必要だと考えていた。その献身には生贄(いけにえ)も含まれていた。」
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ムイスカが行っていた献身の中で最も驚くべきことは人間の生贄だ。黄金の像はムイスカが行っていた生贄の一例を表現している。生贄の目的で育てられていた少年が柱の頂に載せられ、彼に向けて吹き矢が放たれていた。
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少年の血は容器に集められ、太陽に捧げられた。

小さな子供達は、重要な建物の建設工事の時も生贄にされていた。穴に埋められ、その上に建物の柱が建てられていた。
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ニック「最も重要な捧げものは人間の生贄だった。人間社会で魂が関係する場所ならどこでも、神を養うためのこのような生贄が繰り返され、地上における人々の生活を補強していたのだ。」
ムイスカの生贄の様子を示す像を見る限り、アステカなど、他のアメリカ原住民の生贄の方法とはかなり異なるようだ。ムイスカにとって、もっと一般的な捧げ物は黄金だったのだ。
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彼らが黄金を捧げていたことは、南アメリカの中でも特殊な行為だ。彼らは、神への贈り物として、それを投げ捨てたのだ。スペインの歴史書に黄金の捧げ物がどのように残されていたかが記録されている。
歴史書“捧げ物の大きさに応じた容器に黄金や宝石を入れたら、粘土で蓋をし、それを神聖な場所に埋めた。”
このような捧げ物が隠された神聖な場所はムイスカの領地のあちらこちらに散らばっていた。それらの多くはクーカと呼ばれる祭壇で、大抵、自然の中に隠れるような場所にあった。
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歴史書“これらのインディアンたちは信心深く、苦労して獲得した富は秘密の聖地に捧げられた。聖地は全て、分からないように隠された。”

マイケル「野原や、洞窟や、丘の上や、森の中に聖地が隠されていた。それがスペイン人を激怒させた。探すのが困難だ。どこにでもあるはずだが、それがどこなのか分からない!」

これらの神聖な場所を楽に探し出せないと判ると、スペイン人の黄金に対する執着もしぼんでいった。それから4世紀後、これらの場所には、そんなに多くの宝物が捧げられていないようだと判ってきたが、見つかったいくつかの捧げ物から、ムイスカの黄金に関する姿勢を垣間見ることができる。
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ニック「神への捧げ物として黄金を投げ捨てる方法は、我々にはとても奇妙に思われる。が、それは画一化された西洋的な発想だ。原住民の発想では、捧げ物は自然界や、精霊が棲む大地への返礼なのだ。それらは何かを生み出し、住民たちに戻って来る。そうして世の中は巡り続けているのだ。」

ムイスカの神聖な世界はエル・ドラドの黄金を指し示すヒントの始まりだった。しかし、ムイスカが神々に捧げ物をしていた場所は他にはないのだろうか?
あった!埋葬地だ!
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ムイスカの太陽の寺院のように、埋葬地にもムイスカを導いていた指導者たちのミイラ化された遺体が残っている。遺体は火の上にかざされて乾燥させられていた。いくつかは完全な姿で見つかっているが、幾つかのミイラでは、内臓が取り除かれていた。人類学者レリーペはムイスカのミイラの専門家だ。
レリーペ「体の中に捧げ物が入っているミイラも見つかっている。エメラルドや黄金や綿織物などで飾られたミイラもある。」
ムイスカの人々が祖先との風変わりな関係を続けていた証拠はこれだけではない。
レリーペ「スペイン人の記録によれば、ムイスカが戦いに臨む時、指導者のミイラを輿に載せ、一緒に連れていたという。指導者のミイラは社会的に強い力を持っていたのだ。」
ミイラが持っていたという力や、ミイラへの捧げ物は、コンキスタドールたちにとっては、理解しがたいものだった。
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レリーペ「ムイスカの人々は、祖先たちは生き続けていると信じていたんだ。遺体を保存していたのは死を否定していたからだ。死という概念は無かった。」
ムイスカの祖先に対する考えの中に、エル・ドラドがどこで見つかるのかについての手掛かりがあるのだろうか?

ニック「我々西洋人には、精神的世界と具体的世界の間に明確な境界線がある。具体的世界は我々の日常の生活で、精神的世界は、それとは全く別の世界だ。しかし、ムイスカ人や南アメリカの人々は、全く逆の見方をする。具体的世界は幻影のようなもので、精神的世界は力に満ち、影響力が大きく、そこから全ての豊穣(ほうじょう)が提供される。従って、その世界こそが彼等にとって関心事だったのだ。」
これらの啓示はエル・ドラドの探求に対して妙な、新たな捩(ね)じれを与えた。ムイスカが信じている、どこにあるのかわからない、物資と精神の2つの世界の境界線への迂回路だ。どのようにすれば、長年失われている人々が感じていた現実的世界の中に入って行けるのだろう?

ここで再び、ムイスカの黄金の土器が語りかけてくる。妙な、不思議な姿の中に秘められている物語だ。独特なポーズで座っている男、
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祈祷師が掴んでいる小さな容器、鳥のイメージ・・・
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これらはかつて、そして今でも世界中で行われている原住民たちの黒魔術(shamanismシャーマニズム)の習慣の証拠だ。黒魔術を行う時、人々はしばしば、不思議な薬の助けを借りてトランス状態に入る。
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黒魔術で黄金が使われたのだろうか?その関連は幻覚の中に現れている。これらの小さな容器はポポロと呼ばれるもので、ムイスカのエリートたちが、コカの葉とワインを混ぜる時に使っていた。
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混ぜたら、口に入れてよく噛む。その後で気分を変える薬を摂取するのだ。この薬は、しばしば、樹皮から抽出され、粉にして水と共に飲む。時には植物の種を鼻から吸い込むこともあった。
儀式の間、座り込んだ祈祷師は精神集中しながら目の前の光景をじっと見つめる。
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ムイスカの黄金の作品では、祈祷師の姿が、鳥として表されているようだ。幻覚剤が作用している時、ムイスカの祈祷師は、自分が鳥になって精神的世界を飛び回っているように感じていた。その状態の時、彼らは精神的な存在物と交信して未来を語ったり、人々に不思議な魔術を施したり、病を治療したり出来る。

この体験の中には、更にあるものが含まれている。黒魔術とエル・ドラドの関係はムイスカの土地のあちらこちらで見つかる不思議な岩絵の中に現れている。
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ここにあるのは神聖なデザインだ。
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同じようなものはムイスカの土器や織物の中でも表現されている。

現地人研究者「これらのデザインのいくつかは幻覚の第一段階で現れるものだと考えている。幻覚には何段階かあり、第一段階では、一連の光のパターンが現れる。それは我々が岩芸術や土器の中で見かけるものだ。」
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幻覚に陥った祈祷師が精神的世界の中で鳥のように飛び回っている時、彼は、自分の体が光り出し、目が眩むほどの輝きの中に飛び込んで行くように感じる。この感覚については17世紀のスペインの歴史書が述べている。ムイスカの祈祷師が薬を飲んで幻覚を感じている様子はまるでポパレシズム(?)のようだと言う。
歴史書“祈祷師たちは死に近づくと、空に舞い上がるという。月は恐ろしい輝きを帯び、地上の5倍の大きさで見えてくる。”
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ムイスカの命と黄金に対する考え方は、幻覚の中での体験として現れてくる。光り輝いているのは、神聖なものが物質の上に溢れ出ている証拠のように思われていた。
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ニック「現地人の社会で輝いているものといえば、太陽、月、石の結晶、黄金、貝殻、塩の粒などだ。それがどんな物質だってかまわない。光り輝くものなら何でも重要だった。」
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もしムイスカがこのような考えを持っていたとすれば、いや、間違いなく彼らはそう考えていたのだが、黄金は沢山ある輝くものの一つで、輝くものは価値があった。それは物質的な価値ではなく精神的な価値だ!
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このことを示す他の証拠もある。歴史書に記されたムイスカの神話の一つによれば、黒い鳥が口から火を吹き出すと、その火は太陽になったという。“鳥”と“輝き”という点から見れば、極めて黒魔術的だ。
別のムイスカの創造神話では、エル・ドラドは更に明確に描き出されている。“光が創造主シュミナグアによって創られ、神聖な湖に注がれた時、水の中からバッシュウェイが小さな少年を抱きかかえて現れた。”
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“少年が成長すると彼女は彼と結婚した。彼らが旅をすると人間が地球上に溢れて来た。時が立つと彼女と愛人は海蛇となり、湖に戻っていった。”
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この神話は、神聖な場所の中に、もっと神聖な場所が、つまり高地の湖があるというムイスカの信仰を表わしている。ムイスカの黒魔術の考えに従えば、湖は考慮すべき重要性を秘めているようだ。
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ニック「湖は地下の世界への精神的な入口だと考えることができる。光り輝く湖面は鏡のように太陽光を反射する。そこに物を投げ込めば、水の下にある精神的世界に入って行くのだ。」
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こうして、エル・ドラドを探す旅はムイスカの神聖な湖と伝説の黄金の部族長から再び始まることになった。ムイスカの儀式は啓示と言えるだろう。
ニック「いろいろな考え方ができると思う。もっともあり得るのは、男が光り輝くレジンで塗られていたということだ。祈祷師が精神的な力を得て半透明になった光景だとも言える。頭から足の先まで黄金で輝く男は完璧な精神的な力の塊だ。」
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「彼は水に飛び込む。この世と精神的な世界との境界である光り輝く湖面から下の世界に入って行くのだ。そこは豊穣と、光り輝く精神と、力の源だ。」
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これこそが探し求めていたエル・ドラドだ!文字通り翻訳すれば“黄金の男”だ。エル・ドラドとは黄金の男に与えられた名だ。エル・ドラドの黄金とは彼の体の上で輝く小さな黄金の粒だ。この儀式は物質的な富と何の関係も持っていない。見える世界と見えない世界の接触なのだ。ケサダとスペイン人の黄金ハンターたちは全く勘違いをしていた。彼等にとっては、黄金で覆われた部族長は莫大な富の象徴でしかなかった。
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こうした全くの誤解から、エル・ドラドの黄金の王国の伝説が生まれることになった。出会うことになった古い世界と新しい世界で、黄金の意味は全く異なっていたのだ。関わった人々には負担が大きい誤解だった。
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スペイン人はムイスカの世界に暴力や欲望だけではなく、インディアンたちが抵抗力を持っていない、古い世界の病をも持ち込んだ。50万人以上いたと考えられるムイスカの人々は、1世紀のうちに10万人ほどになってしまった。ゆっくり、しかし確実に、ムイスカ文明は謎を残したまま忘れ去られていった。“エル・ドラドはどこにあったのだろうか?”
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The Search For El Dorado | Ancient Voices
https://www.youtube.com/watch?v=5J-Bnv-rpBI

(補足)
フィルムを翻訳中に閲覧不能になってしまいました!で、見つけ直したフィルムは3分割されていて、巻頭と巻末は尻切れトンボです。“エル・ドラドはどこにあったのだろうか?”と結んでおきましたが、閲覧可能時に見たmhの少々頼りない記憶によれば、このような締めくくりになっていたはずです。そのことについては間違いありません、多分。

実は、ブログ「エル・ドラドの不思議」(2015・2・9)でエル・ドラドの場所をご紹介済みです。それは、アマゾンのジャングルの中だというものでした。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-114.html
しかし、今回の湖説の方が、専門家には圧倒的に受け入れられているようです。近くから黄金の筏(いかだ)にのった黄金の男も見つかっていますからね。

しかし、人間の欲というものは際限がありませんねぇ。黄金を手に入れるためにコンキスタドールたちは大勢のインディオを殺したのです。黄金を盗みに南米にやってきたコンキスタドールたちにはインディオは邪魔者でしかなく、存在する価値すらなかったってことでしょう。

スペイン人というのは恐ろしい人々ですねぇ、と言いたいところですが、たった数十万円のために人を殺す日本人もいますから、強欲な人間はどこにでも、いつの時代にも、存在するってことでしょう。こんな残虐行為を最小限に抑えているのは刑法だけです。刑法が適用されない時代や場所では、人間は鬼にもなりえるという証拠がコンキスタドールの蛮行だとも言えますから、人間とは本当に危なっかしい動物だと思います。
(完)

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mh徒然草130;神はいるか?


ブログ“世界の不思議”のネタをYoutubeフィルムで探してると、宗教をテーマとしたものが多く見つかります。このブログの公開予定は4月7日で、今日は2月8日ですが、“世界の不思議”は6月分の投稿を終えていて、その中には、キリスト教関連のものが多いんです。

で~mhはと言いますと、何度もお伝えしているように無宗教なんですね。お釈迦様を尊敬していますが、だからと言って、お釈迦様が今もどこかにいてmhを見守ってくれているなんて思っていません。神さまが天国にいて見守ってくれているって思っている人は、イスラム教徒には特に多くて、キリスト教徒にも結構いて、仏教徒にも少なからずいるとは思いますが、日本人に限れば、神さまや仏様が、どこか別の世界にいて見守ってくれていて、善いことを積み重ねて死ねば、天国で神さま仏様にお会いでき、永遠に幸せに暮らせると本当に思っている人は極めて少ないと思います。

しかし、恵方巻を食べる人は多いようですね。スーパーやコンビニでは準備に追われたというニュースが1週間ほど前に流れていました。女房殿と買い出しにスーパーに行った時も、冷蔵ブースに積まれているのを見ました。こんなに沢山の恵方巻を仕入れて、売り切れるのかしら?と他人事ながら心配したのですが、ネット記事によれば、恵方巻を食べる日(節分?)を過ぎると、売れ残った恵方巻は捨てられてしまうようですね。恵方巻の起源も曖昧(あいまい)で、いろいろ噂はあるようですが、江戸時代以前のものはなく、商魂たくましい大阪商人が創り出した行事のようです。で~まんまと商人の思惑に踊らされて恵方巻を食べる人が増えて来たのですが、その多くは、神様や仏様の存在を信じてはいないでしょう。なのにどうして、恵方巻を食べてゲン担ぎしたくなるのでしょう。恵方巻が運を運んでくれると思っている人は、まさか海苔巻きが運を運んでくれるとは思ってはいないでしょうから、運を運んでくれるのは、きっと、神さまだと無意識の内に思っていると思うんです。で、どんな神さまが?神さまを信じていないのに恵方巻を食べた人には答えられません。

くどくど申し述べましたが、つまり言いたい事は、神様や仏様を信じていない人が恵方巻を食べているのは理解不能だということです。

しかし、無神論者なのに験(げん)を担ぐ人は多く、例えばmhが愛用しているスーパーに買い出しに行く時、ある角を曲がると50m先に信号が見え、その向うが目的のスーパーなのですが、いつも一緒に行く我が女房殿は、角を曲がるとスーパー前の信号が青になってることが多いって言うんです。角を曲がった時に青だと、その信号に辿り着いた時、次の青が終わって赤に切り替わるタイミングのため、待たされるんですね。それが嫌(いや)で、角を曲がって信号が青なら走っていって、次の青で渡ろうってな、つまらない考えを抱くことになります。

女房殿の行動は験担ぎと同じじゃあないのかと思うんですが、無神論者のmhもそういわれれば青の時が多いかな?なんて思ったりしますが、そんな馬鹿な事があるわけはなく、信号に到達した時に青になっている確率は、相手方の自動車道路が60秒、当方の歩行者用は15秒だから、15÷(15+60)=20%で、角を曲がった時に歩行者用が青になっている時の方が少ないのは当然だと思います。

こんな冷静な分析をするmhも、お正月には近くの神社に初もうでしたり、旅行に行ったら、パワースポットでは何事かをお願いしたりしてますから節操がありません。「苦しい時の神頼み」で、偉そうなことを言っていても、いざとなれば神様にすがるのが人間ってものなのでしょうか。で、イスラム教徒は、毎日5回、神さまにすがるんですね。キリスト教徒は日曜日には教会に行ってイエスにすがっていたはずですが、その習慣は薄れているようです。仏教徒になると、慶弔がなければお釈迦様にすがることはありません。

苦しい時に神にすがるのが人間だとすれば、神への依存心の強さは「イスラム教徒>キリスト教徒>仏教徒」と言えるでしょう。お釈迦様を尊敬しているmhに言わせると、神さまに依存する機会が少なくて済む仏教徒はイスラム教徒よりも幸せな人生を送っているはずです。すがってみたところで、気は休まったとしても、事態は変わらないのです!

で~今回のブログの題が何だったのか、忘れてしまったので確認すると・・・神はいるか?だったんですね。で~その結論ですが、神はいないが、験を担ぐこともあるから、一概には断定できないなぁってことじゃあないかと思います。

WIND BENEATH MY WINGS (Lyrics) - BETTE MIDLER
https://www.youtube.com/watch?v=jorJh8DTMVM

(完)

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マヤ崩壊の不思議


ブログ「マヤを殺したのは誰だ!」では、西暦9百年代のマヤ文明の衰退は、レディ・シックス・スカイが仕掛けた権力闘争が原因だろうという仮説をご紹介いたしました。
<Lady-Six-Sky>
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詳しくお知りになりたい方は次のURLでご確認下さい。
http://blog.livedoor.jp/mysteryhunter/archives/31441382.html

10世紀の崩壊の後、マヤは若干持ち直すのですが、1千5百年代にやってきたスパニッシュ・コンキスタドールによって息の根を止められます。
(コロンブスのアメリカ発見は1492年と言われています。)

で、今回は、西暦9百年頃のマヤ文明の崩壊とも言える衰退の原因はレディ・シックス・スカイが仕掛けた戦ではなく、環境の変化が原因だとするYoutubeフィルムをご紹介しましょう。
環境の変化?
それはどんな環境の変化だというのでしょうか?信頼できる説なのでしょうか?ブログを読んでから、読者ご自身でご判断ください。

・・・・・・・・・・・・
今から1千2百年前、大惨事に襲われ、世界的にも見事な文明のひとつが消滅してしまった。
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何百万もの人々が死んだ。その一部は残酷に殺戮(さつりく)されていた。この大惨事は何故起きたのか?それは今も謎のままだ。
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Ancient Apocalypse:古代の黙示録
The Maya Collapse:マヤの崩壊
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これは真実を追い求める一人の男の物語だ。
ディック・ギルDick Gillは、素晴らしいマヤの社会が崩壊した原因を発見しようと、何年もの間、一人で調べ続けている。
中央アメリカの熱帯雨林の奥深くに隠されている失われた都市ティカール。今も人は住んでいない。
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しかし、1千2百年前、ティカールはマヤ文明の中心だった。世界でも偉大な都市の一つで、10万人が暮らしていた。彼らは信仰心が厚く、太陽や月や大地や風や火や雨など、数十の神々を敬っていた。祈祷師は超人的な指導者で、神々が棲む天空の世界と意思疎通することが出来た。
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今日の我々がマヤ人と呼ぶ人々は中央アメリカのメキシコ南部で暮らしていた。森林や草原にはいくつもの都市や町が生まれていて、信仰・芸術・学問の中心になっていた。
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マヤが成し遂げたことは驚異的と言えるだろう。彼らは独自の文字を発達させ、天文学や数学を習得していた。
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しかし、同時に、神々を宥(なだ)めるため、人間の生贄を差し出すなど、残忍になることも出来た。9世紀、マヤ文明は繁栄していた。しかし、栄光の最中、何か恐ろしい事が起きたのだ。
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それから百年もしないうちにマヤは全て消え去ってしまった。ティカールなど多くの都市は永遠に放棄された。考古学者たちは謎に包まれたままだ。凡そ2千年も続いてきた文明が、こんなに短期間に消えてしまったのは何故なのか?
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この問題を解き明かそうというディック・ギルの仕事は1968年、メキシコでの休暇が彼の人生を変えた時から始まった。
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ディック「私は磁石に引かれるように、この謎に憑(と)りつかれた。何故、マヤが崩壊したのか、全く思いもよらなかった。しかし、調べてみようと思った。メキシコから家に戻り、マヤについて調べてみるつもりだと家族や友人に話した時、それは面白い考えだねって言ってくれた。」
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故郷のテキサスの人々はみんな笑った。というのは、ディックは、このような謎に取り組むタイプの人間だとは思われていなかったのだ。

ディック「マヤ文明の崩壊について初めて注意を向けた時、私は銀行家だった。考古学界では全くの部外者だった。考古学者たちは彼を冷笑した。自分たちがまだ判っていないことについて銀行家が話せることがあるとでもいうのか?と言ってね。」
しかし、運命は巡って来た。彼の家族が運営していた銀行が破産したのだ。
ディック「それで、私は銀行業を諦(あきら)め、マヤに何が起きたのか?という長年の謎を解き明かす作業を始めることにしたのだ。」
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その作業を進めるため、ディックは大学に戻って考古学を研究した。彼は、マヤの謎を解くために人生を捧げることに決めたのだ。まずしなければならないことは、その被害の大きさを明確にすることだった。一体どのくらいの人々が消えてしまったのか?
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ディックはそれを聞くことが出来る人間を知っていた。ディックを元気づけてくれた最初の考古学者の一人であるフレッド・ヴァルデーズだ。フレッドは魅力的なマヤ寺院や宮殿には目もくれず、蚊の多い熱帯雨林の中でチーム・メンバーたちと調査を続けていた。マヤの一般人が暮らしていた住居跡を探していたのだ。
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フレッドは石の基礎の数から何人がその場所で暮らしていたかを見積もっている。その結果に彼自身が驚かされていた。
フレッド「とても驚くべきことに、大勢の人々が中心都市から離れた場所でも暮らしていたのだ。何百万人もが暮らしていたことについては疑う余地はない。」
しかし、今から1千2百年前、突然、住居の建築は打ち切られた。
フレッド「この場所に住んでいたマヤ人たちは、この場所に住み続けることに執着していた。基礎の石から判るように、古い基礎の上に新たな基礎を組み上げて家を作りなおしている。一番上の石の層が最後の基礎だ。その後、この場所は放棄されている。」
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何が起きたというのだろうか?

集団移住した痕跡はない。他の場所で人口が増えたということもない。これがフレッドに恐ろしい結論を導かせることになった。
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フレッド「80から90%の人々は、その時代に死に絶えたのだ。マヤのほとんどの人々が多分、死んでしまった。彼らが生まれたこの土地で。」
1千1百万人が滅んでしまった可能性があると言う。そんなにも多くの人々が、そんなにも短い期間に滅んでしまう、どんな理由があるというのだろう?
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ディックの探求は冷厳な発見を受けて、大きな哀れを帯びることになった。

1980年、アメリカ人考古学者のトム・ヘスターと彼のチームは古代マヤの宮殿の近くで発掘作業をしていた。
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ヘスター「発掘を始めると、私の考古学人生の中でも、とても劇的な場面に遭遇した。」
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女性研究員「首の骨の最上部を見ると、後ろから一撃を与えられていることが判ります。」
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ヘスター「何だ、これは!と思った。今まで、こんな状況を誰も見たことがないだろう。」
彼らはマヤが崩壊した時期に起きた残酷な殺戮の証拠を見つけたのだ。
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女性研究員「この骨に残っている傷跡は、武器として使われた斧(おの)が顎(あご)の下から耳の後ろに向けて振り下ろされていたことが判ります。」
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ヘスター「体が付いていない頭蓋骨を見るのは、とてもショッキングだ。」
女性研究員「この骨は6歳の子供のものです。目の縁(ふち)に切傷痕があります。顔全体ではなく、顔の一部だけが取り除かれているんです!」
ヘスター「我々は30の遺体を見つけた。10人は男、10人は女、そして10人は子供だ。私が驚いたのは、頭蓋骨の多さだ。」
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女性研究員「もっとも残酷な殺害は、赤ちゃんで、6ヶ月でした。殺戮者は首に一撃を加えましたが切り取ることはできませんでした。そこで今度は、首の後ろからも一撃を与えました。そして頭の後ろから前に向けても力強い一撃を。残忍で恐ろしい仕業としか言いようがありません。」

これらの殺害では、儀式として行われた人間の生贄の跡は見受けられなかった。なんらかの大惨事の衝撃の最中にあった社会で行われた、異常で残酷な殺戮ではなかろうか。
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ディック「マヤの消滅の理由が何であろうとも、それは何百万人もの人々の消滅を説明でき、かつ、マヤ地域全体に係るものでなければならない、と感じていた。東西南北に渡ってそれぞれ数百Kmの範囲で起きていた事象でなければならない。私はこれまで、数多くの説明に出会っている。それは戦争だったり、病だったり、農業生産性の後退だったり、植物の病気だったり、信仰上のいざこざだったり、とにかく沢山の説明があった。」
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ディックは当時のどんな理論にも納得がいかなかった。どの説明もマヤ崩壊の速度と規模を満たしていない。別の理由があったのに違いない。学会が無視してきた何かだ。
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ディック「そこで私は自然災害に目を向けることにした。この偉大な文明が短期間に終末を迎えることになる理由を説明する自然災害とは何だろう?」
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この時、ディックの頭の中には、ある一つの災害が思い浮かんでいた。彼自身がよく知っている自然の威力だ。
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ディック「私はテキサス人だ。旱魃(かんばつ)がどんなものかを知っている。大きな被害を受けたことがある。1950年代で私が子供の頃のことだ。テキサスは恐ろしい旱魃に襲われ荒廃してしまった。父はサン・アントニオの近くの高原地方に私を連れて行った。動物たちが死んでいくのを見たのを覚えている。灼熱地獄のようだった。旱(ひでり)は連日、終わりがないかのように続いた。それを止めることなど誰にもできなかった。旱魃は何の前触れもなく始まり、終わりが来た時も突然だった。本当に劇的な体験だった。その体験は私の記憶の中に強く焼き付いていて、明確な理解を与えてくれる。旱魃は、過酷で破壊的な力を持っているってね。」
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マヤが渇水だったと、懐疑的な考古学者に説得するのは困難なことだとディックは悟った。彼の理論は一つの大きな、そしてかなり明確な問題を抱えていたのだ。ティカールがあるのは熱帯雨林の中心だ!
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ディック「多くの同僚が、マヤの低地の多くで旱魃が起こり得る可能性を受け入れることに難色を示したのはよく理解できる。ここティカールは、周りを見ればわかるように、樹木が生い茂り、鸚鵡(おうむ)は木々の間を飛び交っているし、大嘴鳥(オオハシ)は枝に群がっている。今日も嵐のような降雨があったばかりだ。こんな所で、恐ろしい旱魃か起き、そのために偉大な文明が吹き飛ばされてしまったと説得するのはとても大変なことだ。誰でも受け入れがたいだろう。反直感的counterintuitive過ぎるよ。」
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しかし現代から得られる手掛かりは、ディックの考えがそれほど奇抜なものではないかもしれないことを示している。ここでは、1千2百年前の大惨事を生き延びた数少ないマヤ人の子孫たちが雨の到来を祈念している!この密(ひそ)かな儀式は毎年、乾季の終わりに執り行われる。
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女たちが神への貢物を準備している間、男たちはマヤ文化とキリスト教が混ざり合った儀式を行う。彼らの祖先がしていた通りの方法で、間違いなく雨を降らせてくれるように神に祈るのだ。
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ディックは古代マヤが恐ろしい旱魃に襲われた証拠を求めてティカールに戻った。湖や川から離れたティカールの人々は、1年間に4,5ヶ月降り続く夏の雨だけを拠り所にしていた。ディックは町全体が水を溜める設計に基づいていたことに気付き、喜んだ。広場や通りには傾斜が付けられ、雨水を何十もの貯水池に流し込むよう工夫されていた。
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現地人ガイド「ティカールに暮らす人々の重要な問題の一つは水だったんです。ここには川や湖や地下水がありません。その問題に対応するため・・・」
ディックは、レフィーノ・オルティゾという現地人ガイドを雇って付近を調べることにした。オルティゾは町の隅々まで知っていた。
ガイド「ここにあるのは貯水池です。ティカールにある最も大きな貯水池の一つです。」
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ガイドはディックをティカールの隠された場所に案内した。そこには大きな貯水池がジャングルの中に潜(ひそ)んでいた。
ディック「どのくらいの深さですか?」
ガイド「頂上から底まで約33mです。」
ディック「どのくらいの量の水が溜まっていたんでしょう?」
ガイド「およそ4百万リットルです。辺り一帯に降った雨がここに貯められていました。雨が降らなければ、大きな問題が起きていたと思います。」
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ティカールでは乾季における飲み水の水源は貯水池だけだった。雨季の雨が貯水池を満たすことがなければ深刻な問題に直面していたはずだ。
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しかし、旱魃が発生したのだろうということについて、ディックは更なる証拠を必要としていた。そこで彼はメキシコシティを訪れることにした。うれしいことに、そこで彼は、町の気候に関する入念な記録の中に、探していたものを見つけることが出来た。
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ディック「記録を調べたら、前の世紀(mh20世紀です)に大きな旱魃があったことが分かった。具体的には1902年、1903年、1904年に起きている。とても稀な、大きな旱魃だ。ここに残されている数百年の記録の中から、そんな現象が現実に起きていたことを見つけられたなんてとても幸運だ。」
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3年間続いた旱魃は、決定的な旱魃が起こり得るということだけではなく、現実に起こったという証拠をディックに提供してくれた。
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ディック「本当に特別な瞬間だった。恐ろしい旱魃は少なくとも一回は起きていたはずだ。2回かも知れない。そんな時にマヤが消滅していったんだ。」
しかし、この100年間で起きた一つの破壊的な旱魃だけで、彼の理論の全てを証明することは出来ない。もっと時間を遡(さかのぼ)って調査しなければならない!

メキシコの歴史をもっと掘り下げるため、ディックは考えもしていなかった場所を訪れねばならなかった。町の刑務所だ!
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そこに残されている古文書の中に、手書きの一風変わった本があるのだ。いくつかは16世紀まで遡る古い本だ。
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記録「ひどい旱魃だ。食料は何もない!」「水をもらえずに死んだ者がいる!」

数か月かけて調べた結果、古代マヤの中心地だったメキシコ・ユカタン半島で悲惨な旱魃が起きていたことをディックは発見したのだ。
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ディック「本の中に残されている記事はメキシコシティやマドリッドにいる上役に報告するためにスペイン植民地の役人が書き記したものだ。例えばここには“助けて下さい!”と書いてある。1795年、穀物の収穫は悲惨な状態だった。食糧不足で、過去にも起きていた大量死がまた繰り返されるのではないかと恐れ、助けを求めている!」
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ディックは、自分が追い求めている方向が正しいことを確信した。

今や彼はひどい旱魃が何度か起きていた証拠を手にしていた。しかし、それだけでは十分ではない。9世紀に遡った旱魃の記録は見つかっていないのだ!

ディックは全く新しい方向から調べてみることにした。彼は気象学を研究し、何百もの報告書の中からマヤの崩壊に光を当ててくれる記録がないか探し始めた。
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ディック「私は気象現象が他の場所から隔離されて起きるものだとは思わない。気象現象は世界的な関連の中で起きるのだ。そこで私は世界中での古代の気象記録を調べ始めた。マヤが消滅した頃、世界でどんな気象変化が起きていたのかを掴むためだ。北アメリカ、南アメリカ、オーストラリア、アジア、ヨーロッパなどから記録を集めて調べてみた。」

ヨーロッパからの記録の中で大きなヒントが見つかった。“北スウェーデンにおける年輪史学、質量バランスと植物領域の変動”という妙なタイトルの報告書だ。彼が着目している時代、つまりマヤが崩壊した1千2百年前と同じ時期に、スウェーデンの樹木の年輪が、例外的ともいえる寒気の到来を示していた。
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しかし、ヨーロッパでの凍(こご)えつくような寒気が中央アメリカの旱魃と関係あるのだろうか?専門家たちはとても懐疑的だった。

ディック「まず私がしたことは著名で信頼できる気象学者に接触し、これらにどんな関係があるのか訊いてみることだった。しかし、その時まで、誰も、このような記録を見たことがなかったのだ。これでは駄目かも知れないと直ぐに思った。私が受け取った手紙は一つだけだった。“あなたの考えには飛躍がありすぎ、勘(かんhunch)としか言いようがない”というんだ。人々は勘を持っていて勘に頼るものだ。これが私の勘だって思った。私はその勘を頼りに調査を進めているんだって。」
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ディックはまた記録の分析に戻った。調べ始めるに当たり、最適な視点は、ヨーロッパと中央アメリカの気候を関係づけている北大西洋の高気圧の形態だった。それは目がくらむような大変な作業になった。
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ディック「私は何千ページもの、数字だけが並ぶ記録を調べた。ページごとに、並んでいる沢山の数字の中から、最も大きな数字を見つけ出す。調べなければいけないページ数は何千もある!気が遠くなる作業だった。」

彼は2年を注ぎ込んで、20世紀の記録についてチェックした。しかし、そこで発見したものは“啓示revelation”と言えるものだった。
高気圧がある場所は穏やかで安定した気候と関連している。北大西洋には通常、特にヨーロッパの近くに滞在している高気圧系がある。
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多くの場合、この高気圧系は北大西洋に定着していた。しかし、20世紀のある時期、中央アメリカの方向にシフトしていたのだ!
ディック「その時、マヤ文明があった中南米一帯でひどい旱魃が起きていた。しかも、北極では20世紀における最低温を記録している!」
つまりディックが見つけ出したのは、大西洋を挟んだ2つの気象系は関係していたということだった。
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彼はついに、自らの理論を確実に出来ることになったのだろうか?
それを語ることが出来る人間はたった一人だった。気象モデル家のトニー・ブロッコリーだ。
トニー「私はコンピュータを使って世界の気象を変えることが出来る。極地や蒸し暑い熱帯になど行く必要がない。オフィスの椅子に座り、快適な環境の中でシミュレーションを行うのだ。キーボードを叩けば、例えば太陽を強く、明るくすることもできるし、アフリカの熱帯雨林の雨がどうなるか、合衆国の中西部の旱魃がどうなるかを言い当てることが出来る。」
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トニーは、彼の仮想世界の中で彼独特の世界気象の全貌を見ることが出来る。

トニー「この図はある年のある時期における世界中での降水分布を表わしている。1月の例で、特徴的なのは、雨の帯が熱帯全体に広がっていることだ。これを2,3、4月と順に見ていくと、雨が北方向にずれていくのが判る。6,7,8、9月になると雨は中央アメリカまで北上している。」
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トニーは雨の帯が中央アメリカに近づかない時、旱魃が起きているかも知れないと言う。
赤道上に雨の帯がある状態から始め、気温を少し下げていくと、効果は劇的だった。雨の帯は南に押し下げられ、中央アメリカに到達しない。
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その結果は旱魃だ!
トニー「熱帯の雨の帯の位置に関係する比較的小さな変化で、中央アメリカで大雨が降ったり、旱魃が起きたりすることが十分考えられる。」
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ディックは、確信を深めた。旱魃がマヤを破壊したのだ!

彼の理論への支援はもっとも驚くべき所からやってきた。凍(こお)りつく北極地だ。
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古代の気象に関する専門家ポール・マヤスキーは異例な気象状況が起きたというディックの考えに強い興味を持った。ポールはオフィスで温まっているよりグリーンランドの凍(い)てつくような場所を好むタイプで、そこで氷の中の化学物質を分析しているのだ。氷の塊の美しさは何年もの積み重なりで生まれる。こうして積み重なった氷の層は過去の気候に関する確実な証拠を閉じ込めて保存している。
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ポール「今、部屋の外に出たら、曇りだとか、寒いとか気付くだろう。それでも、大洋が嵐だったら温室ガス濃度は分からない。しかし、氷の塊は昔に遡って多くのことを教えてくれる。過去の部屋の外の空気の様子まで判るんだ。」
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ポールは氷の塊から、世界の気象に関する正確な歴史を構築していた。ディックの旱魃理論を耳にした時、彼は持っていた9世紀の記録を調べてみることにした。北半球における劇的な気象変化の証拠を見つけることは出来たのだろうか?
ポール「最初に調べたのは、アンモニアの記録だ。アンモニアは大気中に含まれる化学物質で、植物の状況を知ることが出来る。沢山の食物があれば、恐らく暖かくて湿度が高くて、大気中のアンモニアは多い。少なければ、例えば旱魃だったかも知れない。植物は少なく、大地は乾燥していただろう。」
1千2百年前の氷を調べたポールは驚いた。
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ポール「びっくりする程アンモニアの低下が起きていたんだ。こんな乾燥状態は恐らく3千年に一度だろう。」
氷の塊はディックの“勘”を裏付けてくれた。マヤが崩壊したまさにその時、北半球は乾燥し、寒い時期だった。マヤの一帯で旱魃が起きてもいい状態だったのだ。
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しかし、考古学者たちは、まだ信用していなかった。もし、そのような激しい旱魃が起きていたとすれば、何故、マヤの記録の中に残されていないのか?
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マヤ遺跡の彫り物の中には支配的な王国や神々の偉大な戦いの様子がマヤ文字で記録されている。しかし旱魃については何も語っていない!
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ディック「そこで私はマヤが旱魃について何か書き残していないか調べてみることに決めた。記念碑や建物の中には、旱魃の記録が見つかっていない。しかし、もし旱魃がマヤの日常生活で考えられる現象だったなら、どこかに記録されていたはずだと思った。」
すると彼は、幸運に出くわした。マヤ人によって書かれた極めて少ない本に出合ったのだ。スペイン人による破壊を免れた数少ない本の一つだ。
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ディック「私は、この貴重な本の中で、マヤ人が旱魃について何か書き残していないかを調べてみた。すると、最後のページの隅に、見つかった。この文字は旱魃を表わすヒエログリフだ。彼らは旱魃について記していた。旱魃は日常生活の中でも起こっていたのだ。これがその証拠だ。」
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それは正に彼が捜していた過去からの声だった。

しかし、彼が捜し、積み重ねて来た全ての証拠にも拘わらず、彼の理論は、今もって、考古学者たちから疑問視されていた。

ディック「旱魃がマヤ崩壊の答えであるという考えは、私の多くの同僚や考古学者たちにとって信じがたいものだった。進歩的な文明の崩壊の原因というものは、複雑な説明が必要なのだと言うのがその時点での考えだった。単純な、例えばそれは旱魃だ、という考えは、あまりに単純すぎるというんだ。“単純人Simpleton”が提案した単純simpleな意見じゃあないのかって言われた。」
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しかし、ディックが心から捜し求めていた最後の手掛かりは、直ぐそこまでやって来ていたのだ!
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それは正に青天の霹靂(へきれき)とも言えるものだった。ある発見が3人の地質学者geologistによって行われた。彼らはマヤの歴史に特別の関心を持っていたわけではなかった。
フロリダ大学の3人のチームは、お気に入りの場所での気象関連の歴史について調べてみようということになり、メキシコのユカタンを訪れた。
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メンバー「基本的な考えは、ユカタンの気象がどうだったのか、過去の数千年の間、どのように変化していたのか、を調べてみようかというものだった。特に関心があったのは、雨の変化を知ることだった。」
彼らの関心の焦点は湖の底だった。泥が過去の気候の秘密を抱え持っている!
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彼らは湖底に沈殿した泥の塊を各層ごとに採取し数千年分のサンプルを取得した。
メンバー「沈殿物は環境に関する情報を捕(とら)えて保存しているんだ。花粉や、貝、木の葉、小枝なんかをね。」
ボーリングを進めていると、ある沈殿層に驚くべき結果が見つかった。激しい旱魃の痕跡だと直ぐ気付いた。
メンバー「ある部分の泥の塊の中に見事なジプソン層(?)があった。それは極度な旱魃状態を示すもので、過去のある時期、湖の水位がとても低かった証拠だ。」
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研究室に戻って調べてみると、新たな驚きがあったのだ。

ボーリング層からは小さな貝殻が見つかった。
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水中の貝殻には2種類の酸素が閉じ込められている。重い酸素と軽い酸素だ。雨が多い時は軽い水素が支配している。重い水素が多ければ乾燥していたことを意味する。貝殻を分析して彼らは驚かされた。重い酸素がある時期に急増している!過去の7千年で最悪の旱魃が起きていたのだ!
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しかし、この黙示録的な旱魃が正確にいつ起きたのかを知る手段が無かった。すると、また幸運が起きた。泥の塊の最も乾燥した部分から、必要としていたものが見つかったのだ。一つの種(たね)だ。
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研究室に送って炭素年代測定してもらった。
メンバー「その結果を初めて見た時は正(まさ)にに“ユリカ(注)”体験だった。この旱魃が偶然、9世紀に起きたマヤ文明の崩壊と一致していることに気付いたんだ。」
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(注:“ユリカ”は風呂に入っていたアルキメデスが王冠の堆積を求める方法に気付き、風呂を飛び出して裸で通りを走りながら発した言葉で“分かったぞ!”という意味です。)

ディック「そのニュースを聞いた時、私はとても救われた気分だった。これこそが私の理論を支持してくれる最後の証拠だと思った。私の理論を初めて提案した時、物理的な証拠は何もなかった。でも今は“見てごらん、証拠はここにある”って言えるようになったんだ。とても興奮している。」
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ディック「私の理論が単なる理論だった間、同僚や考古学者たちは懐疑的だった。その理由は私にもよくわかる。しかし、マヤの湖の底から確固たる証拠を掴んだ今なら、多分、とうとう、人々は私の理論を真面目に考え始めてくれるだろう。」
凍りつく北極圏から熱帯の中央アメリカまで、希少なスペイン語の書類から、古代マヤの本まで、ディックは世界中から手掛かりを集めることが出来た。しかし、彼に最終的な科学的証拠をもたらしてくれたのはメキシコの湖底の泥の塊だった。それはマヤ文明が恐ろしい自然の力で破壊されたという証拠だ!
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それは身が引き締まるようなシナリオだった。旱魃の影響が現れ始めると、マヤの人々は彼らを支配していた祈祷師たちに目を向けるようになった。祈祷師たちは、超人的な力と神々との直接的な接触を使ってマヤを救済しなければならなかったはずだ。しかし、彼らは無力だったのだ。次に起きたことは30人の男女や子供の残酷な殺戮だった。
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頭蓋骨に残されている歯を詳細に調べてみたら、ある家族のものだった。いくつかの歯はヤスリで磨かれ、先が尖(とが)っていた。
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ある歯には貴石が嵌め込まれていた。
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女性研究員「マヤの社会では、この歯は身分を象徴していたの。身分の高い人が、自分が誰かを示すためにやっていたの。普通の人には、この習慣はなかったのよ。」

殺害された家族は上流階級の祈祷師だったかも知れない。彼らは役割を果たすことが出来ず、神を宥(なだ)めるための捧げ物として虐殺されたのだろう。

殺害の後も、逆上と残忍性が続いた。
女性研究員「これは若い女性の頭蓋骨よ。焼かれているの。黒い部分があるのは、頭がまだ新鮮な時に低い温度で焼かれた証拠よ。死の直後だと思うわ。」
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マヤの人々の中に芽生え、拡大していった恐怖から人々を救いだしてくれるものは何もなかった。神々は彼らを裏切り、彼らの貯水池は干上がっていった。飲み水は無くなり、農作物の収穫も失敗した。食料は何もなかった。そしてマヤの文明は破壊されてしまったのだ。
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ディック「旱魃が一帯で激しくなっていた時、その影響はあまりに強大で、人間はあまりに非力で、どんな回避策も打つことが出来なかった。旱魃を避けるために出来ることは少ない。宗教的な儀式も十分じゃあない。旱魃を避けて田畑で出来ることは少ない。旱魃が襲ってくると、それは人々の責任じゃあなく、彼らが出来ることは無く、彼らは犠牲者で、問題の加害者じゃあないんだ。」
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今日、この古代の黙示録を生き残ったマヤの人々は、彼らの祖先たちがやっていた儀式を続けている。しかし、彼らは、かつて繁栄していた都市には戻らない。そこは永遠に放棄されたのだ。
ディック「ある種の満足感は感じている。マヤに何が起きたのか、とうとう理解することが出来たからね。しかし、人間として考えれば、マヤの人々に起きたことはとても恐ろしい出来事だったんだ。その出来事がマヤの文明に最後をもたらすことになったんだから。」
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Ancient Apocalypse - The Maya Collapse
https://www.youtube.com/watch?v=bjj0HznCYgA&nohtml5=False

ブログ「エジプト第一中間期の不思議」では、旱魃でナイルの水量が大幅に減り、飢饉が起きたことがエジプト帝国崩壊の原因だという仮説をご紹介しましたが、今回もまた旱魃だったと言う訳です。

実は、文明の崩壊は旱魃で起きる可能性が高いとの専門家の見方があります。文明が発祥するのは、凡そ、川が流れている場所です。川の水を引いて田畑を作り、穀物を収穫することで、安定した生活が確保されると文明が芽生えます。旱魃で川の水が大幅に減少すれば、古代の脆弱な文明は有効な回避策を打てずに崩壊してしまうのは道理と言えるかも知れません。
幸いにして海で囲まれた我が国は、旱魃が起きづらく、念のため、大量の海水を淡水に変えて農業に使う技術を確立してでもおけば、旱魃で崩壊する心配は無用です。何度も言いましたが、海で囲まれた島国の日本は旱魃ばかりでなく、国境紛争からも程遠い恵まれた国だと思います。しかし、北方四島、竹島、尖閣諸島では、近隣諸国ともめていますから、世の中、簡単な理屈で測ることは出来ませんねぇ。日本文化の崩壊が訪れるとすれば、その原因は戦争ということでしょうか。
(完)

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