Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

銀のファラオの不思議


前回のブログ「ピラメスの不思議」で、ピエール・モンティ氏Pierre Montetはナイル・デルタの町タニスTanisでとんでもない勘違いをしたが、その時、銀のファラオを発見していたとお伝えしました。

銀のファラオとはどんな人物か?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

勿論、このファラオはラムセスや彼の都ピラメスと全く関係ありません!って言うと思ったでしょ。ところが、全くその逆です。大いに関係あるんですねぇ。

勿論、ピラメスだと勘違いしたモンティが発掘を進めたタニスTanisが、やっぱりピラメスだった、ってことじゃあ決してありません。しかし、銀のファラオはピラメスやラムセス二世と強い関係があるんですね。だから、ピラメスの残骸が見つかった町タニスで発見されることになったんです。

で、銀のファラオとは一体全体、何者なのか?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

これ以上、堂々巡りをしていると読者諸氏から“いいかげんにしろ!”ってお叱(しか)りを受けるでしょうから、さっそくYoutube「The Silver Pharaoh」をご紹介いたしましょう。
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5千年以上の間、墓盗賊たちはエジプトの古代のファラオの墓を略奪していた。20世紀までに考古学者が発掘した全ての王室の墓は盗難に遭っていた。たった一つを除いて!
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(mh:1922年にハワード・カーターが王家の谷で見つけたツタンカーメンの墓も盗掘されているのです!宝石の一部などが抜き取られていました。副葬品自体は幸い無事だったのです)

その墓には想像を超える絶品が残されていた。ファラオの棺(ひつぎ)だ。
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全て銀で造られ、ツタンカーメンの墓で見つかった宝に匹敵する。しかし、その発見は第二次世界大戦で破壊される恐れがあった。
エジプト学者サリム・クライム「このような素晴らしい発見が、悪い時期に行われたなんで、信じられないわ」
想像を絶するこの発見は解明されないままだった。しかし、今、専門家チームの調査によって銀のファラオは姿を現した。彼はエジプトの歴史の中で最も混乱していた時代を生きていたのだ。

考古学者ピーター・ラカヴェラ博士「当時は内戦があり、国は南北に分断されていた」
専門家チームは、墓と、それを囲む見事な都市を再調査し始めた。
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ファラオの遺骨を初めて詳細に調べた結果は驚くべきものだった。
解剖学者フォージ・ガバラ博士「私の調査で、新たな発見があった。言葉に出来ない程、興奮している」
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専門家チームは、最初に墓を発見した発掘隊が見つけた遺品からエジプトの歴史の中でも最も不可思議な時代における謎を覆っているベールを取り除くため、素晴らしい宝物が秘めているメッセージを解読しようとしている。それは銀のファラオの時代からのメッセージだ。
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1940年2月、アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで流血の火ぶたを切って落した。戦争における最初の残虐な一撃は、直ぐに世界を包み込んでいくだろう。
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同じ時期、エジプトはまだ戦場から隔離されていた。ナイルに近い発掘現場では、フランスの考古学者チームが10年以上に渡る発掘作業を続けていた。彼らは戦争が本格化する前に仕事を完了させようと必死だった。
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チームを率いていたピエール・モンティ教授は、驚くべき発見を既に公表していた。ほとんどの人が知らない時代のファラオを見つけていたのだ。
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彼がここで発見したものは、古代エジプトの歴史を書き変えるだろう。彼は紀元前1千年頃の、エジプトの歴史における最も不可解な時期を解明する手掛かりを探し当てていた。それは短期間ではあるが、古代エジプト3千年の歴史における暗黒時代だった。
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エジプトの偉大なピラミッドは、第4王朝と呼ばれる時代、ファラオのクフによって建てられていた。第18、19王朝のツタンカーメンやラムセス大王といった最も知られているファラオは、クフより1千年以上も後の時代にエジプトを統治していた。最後のファラオのクレオパトラは、更に1千年後に統治していた。
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ピーター・ラカヴェラ博士はエジプト学者で、膨大なエジプトの歴史を紐解くため、記録資料やヒエログリフなどの証拠を活用している。
ピーター「もし時間軸に沿ってエジプトの歴史を考えるなら、ピラミッドを造った人物たちよりもクレオパトラが我々にとって一番身近な存在だ」

歴史学者たちは、エジプトは少なくとも170人のファラオによって統治されていたと考えている。その数からして、全てのファラオについて確認するのは困難な仕事だ。
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70人のファラオの墓は今もって発掘されていない。彼らの墓は、現代の都市ルクソールLuxor、古代のテーベにある王家の谷か、現代のカイロにある古代の首都メンフィスMemphisか、ひょっとするともっと北の、ナイルが支流に分かれて海に向かうナイルデルタなど、ナイルの近くにあるエジプトの古代墓地のどこかにある。
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エジプト学者にとって、政治的な混沌や対立があった時代を調べ、その空白を埋める作業は特に難しい。今日では中間期Intermediate Periodと呼ばれる5百年の間、対立する統治者たちは支配を巡って戦っていた。それはエジプトの暗黒の時代だった。
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ピーター「中間期には経済の崩壊、内戦があり、帝国は南北に二分され、外敵侵略の恐怖もあった。こうした国内の不和は考古学者たちにとっては都合が悪い。偉大な記念碑は建てられることがないし、歴史的出来事を記録したものや、個人を讃える石像も造られることがなく、人々は生き残ろうと右往左往していた時代で、考古学調査を進める上での手掛かりが少ないのだ」
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考古学的証拠の欠乏は、その時代を研究するには、更に多くの調査が必要だということを意味する。しかし、世界でも良く知られている物語の中で手掛かりが見つかることもある。
旧約聖書の中のデイビッドとゴリアテの闘いは、エジプト暗黒時代の紀元前1020年頃だと学者たちは特定している。聖書では、この時代の紀元前950年頃、ファラオが聖なる地イスラエルを侵略したと記している。
ピーター「この壁には旧約聖書でチューシャックと記されているシェションク1世(Sheshonk I)がソロモンの寺院に忍び込み、契約の箱をエジプトに持ち帰ったと書かれている」
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聖地におけるエジプトが関係する思わせぶりな物語は、ピエール・モンティの関心を捉(とら)えた。
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1928年、彼はナイルデルタのタニスで発掘を開始した。そこは既に別の考古学者たちが発掘を終えていた場所だった。しかし、重要なものがまだ砂の中に埋められているとモンティは考えていた。
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彼の感が正しかったことは直ぐに証明された。1930年代を通じ、彼は巨大な寺院の残骸を掘り当てた。石に残されていた記録はエジプトの最高神アムンを祀る寺院だったことを示していた。寺院複合体は煉瓦で造られた重厚な壁で守られていた。
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そこには発見されるのを待っている墓があるかもしれない、とモンティは考えた。ハリウッドは、失われた契約の箱がタニスに埋葬されているのではないかとすら想像していた。そして、インディアナ・ジョーンズのように、モンティはナチスNazisの恐怖にも対応しなければならなかった。
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モンティがエジプトの砂漠で調査をしている間、ヨーロッパは戦争の瀬戸際にあり、アドルフ・ヒトラーが、いつでも突撃隊を派遣できる状態で威圧していたのだ。
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考古学者サリマ・イクラム教授「モンティは、とても沢山の、彫刻された寺院建造用部材とかそういう物を見つけていたけど、世界の注目を浴びる、本当に素晴らしいと言えるものは、まだ見つけていなかったの。そこに持って来て、ヨーロッパでは戦火の足音が迫っていたから、いつも落ち着かなくて、研究に集中できる状態じゃあなかったのね。だから彼は、当時、信じられないほど緊張していたはずよ」
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タニスにおけるモンティの発掘が、寺院複合体の全体に関して完了しようとしていた時、発掘チームが泥の煉瓦壁がある場所を掘り当てた。
サリマ「彼らは、寺院の南西の角地のこの場所で発掘していて、巨大な墓地複合体の天井を掘り当てたの。」
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「その時、考古学的な偉大なものかもしれないと思ったモンティの心臓は烈しく鼓動していたはずよ」
モンティは直ぐに天井に明けた穴から墓の中に入って行った。暗闇の中で、彼は一連の墓の概要を理解することが出来た。
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しかし、心配していた最悪事態が直ぐに確認された。
サリマ「この部屋に入って来た時、モンティは気落ちしたはずよ。何故って、部屋には、あるはずのない穴があって、彼がやって来る前に墓泥棒がここに入り込んでいたのが間違いなかったからよ」
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そこは紀元前850年頃の王室の墓だった。
サリマ「壁に残されている記録によれば、この墓はオソルコン2世(Osorkon II)のものよ。彼は第22王朝のファラオだったの。彼の親族も、ここに埋葬されていたの」
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「だからここは、重要な場所で、意義のある発見だけれど、とても完璧な王室の墓とは言えない状態だったのよ」
モンティは、まだ荒らされていない墓が見つかるチャンスは少ないと感じていた。
(mhピエール・モンティの実物写真です)
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完全な状態のファラオの墓を見つけた考古学者はいなかった。しかし、彼は調査を放棄しなかった。
サリマ「モンティは発掘作業者たちに範囲を広げて発掘するよう指示したの。そしたら見つけていた墓から3mの所で新しい発見があったのよ!」
信じられないことに、彼らは荒らされた墓地複合体の直ぐ隣で第二の墓地複合体を見つけた。
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モンティは信じられない気分だった。今度の墓は完全なようだ。
墓泥棒が見過ごしている可能性はあるのだろうか?
サリマ「墓泥棒たちは第一の墓地複合体での盗掘に成功したので、数m離れた所にあった墓を見逃してしまったのよ!多分、彼らはここに大きな墓があるなんて考えてもいなかったのね。でも驚くべきことよ。だって、墓泥棒たちって、地形を把握する能力が強くて、考古学者たちよりもずっと上手に墓を探し出すことができるんだから、その彼らが見落とした墓をモンティが掘り当てるなんて驚きとしか言いようがないわ」
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モンティは、誰が埋葬されているか全くわかっていなかった。しかし、前室に入ると、答えが現れて来た。
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サリマ「モンティがここに立った時どんなに興奮していたか想像してほしいわ。壁に王室の名前があるのよ。“パン・バーク・パースン・ミューツ”っていうのは“星が、神アムンが愛する町で輝いている”って意味ね。」
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「そして彼は、別の王室の名前も見つけたの。それは間違いなく王室の人物の名前よ。“神アムンによって選ばれた偉大な者”ってあるわ。つまり、この場所はファラオの墓ってことよ。状態は完璧だったみたいね。そして、そのファアオの名はギリシャ語でスセネス1世(Psusennes I)として知られているの」
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モンティは、スセネス1世についてほとんど知っていなかった。大勢いるファラオの中でも、どんな生活をし、どんなことを成したのか知られていない人物の一人だ。
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彼は中間期に生きていた。
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エジプトの暗黒時代で、権力は2人の統治者によって二分されていた。スセネスはこの混乱が始まった時代、デルタの都市タニスから北エジプトを統治していた。

しかし、南エジプトの実権や富は、古代の首都テーベにあった。
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記念碑的寺院や財宝をもつテーベの統治者が南エジプトを管轄していた。
(mh;中間期には、エジプトはメンフィスMemphis辺りで南北に分割されていて、ナイル上流側はテーベThebesを首都とするアメン大司祭国家Theban High Priests of Amunが、ナイルデルタ一帯はタニスTanisを首都とする第21王朝が、それぞれファラオを設けて併存していました)

北エジプトの王はどんな人物だったのだろう?戦闘王とか重要な王だったなら歴史に名を刻んでいるはずだ。もしスセネスの墓が完璧に残っていたら、モンティの発見はエジプトの物語にぽっかりと空いていた空白を埋めることが出来るかも知れない。
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墓室への入口は、大きくて固い花崗岩のブロックで完璧に塞がれていた。ブロックを削り、穴を明ける、忍耐のいる作業が続いた。そして6日後、モンティはやっと墓室に入ることが出来た。そこには彼が期待していた全てがあった!
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サリマ「モンティは、墓が千一夜のような素晴らしい富で一杯だったと言っているの。きっと、そうに違いないわ。だって、床には沢山のフィギュリーン(figurine人形)や宝石や、貴金属があったのよ」
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モンティは、3千年前に財宝がこの墓に仕舞われて以降、自分がそれらに触る最初の人物だと気付いていた。

モンティが墓に入って直ぐに撮影された写真は彼が見たそのものを示している。
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しかし、ミイラやそれを収めた棺(ひつぎ)が見当たらないようだ。それはファラオの墓の典型的な所、墓室を埋め尽くすほどに巨大な石棺の中にあった。石棺には彫刻が施されていて、ヒエログリフで覆われていた。今日、その巨大な蓋は、ここエジプト博物館で展示されている。
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巨大な石棺の中には別の石棺があった。これも装飾が施されていた。
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モンティたちはファラオの本当の棺(ひつぎ)を見ようと、花崗岩の蓋を注意深く持ち上げた。

この発見がニュースになると、モンティは重要な訪問者を迎えるようにとの連絡を受けた。エジプト王本人だ。
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モンティはエジプト王が信じられないような素晴らしい発見を全て見るまで、最も重要な発見であるスセネスの棺を封印したままで残しておくことに同意した。王はモンティの調査行為を完璧に支援していた。王は探検者の服装で発掘サイトを訪れた。
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モンティは、王に、3千年前にエジプトの王だった男のサインとも言えるカトゥシュを指し示した。
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しかし、エジプト王ファールーク1世は財宝を見たがっていた。彫刻に関心はなかった。王は、他の発掘サイトでしばしば感じたものと全く異なる特異な雰囲気があることに気付いていた。そして彼は失望することはなかった。
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棺は人間の形で、よく見つかる黄金ではなく、銀を鍛造して造り上げたものだった。このような棺は、それまで、また、それ以降も見つかってはいない。そこに横たわっていたのは、エジプトの混乱の暗黒時代に生きていた、ほとんど知られていない統治者だ。しかし彼の墓とその絢爛(けんらん)は大きな権力を持つファラオだったことを示していた。
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銀の棺の中にあったものは、このファラオが誰だったのかという謎を深めることになった。ミイラが着けていた“死の面Death Mask”は金塊で造られていた。
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とりえのない時代の戦士王でもないし、地域の権力者でもなく、巨大な富と権力を持っていた人物のはずだ。
ピーター「黄金や銀だけではなく、沢山のラピスラズリも発見された。全て5千Km離れたアフガニスタンから輸入されていた貴重品だ。」
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「だから信じられないほど高価で、信じられないほど価値が高いものだった」
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財宝にはパラオのカトゥシュが刻まれていた。星はタニスの町の上空で煌(きら)めいているスセネスを表わしている。
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これらの価値は金属の重量だけで単純に決まるものではなく、職人の質も考慮されねばならない。
ピーター「見事に製作され、見事にデザインされた、間違いなく、その素晴らしい美しさを正当に評価できる個人のためのものだ」
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見つけた財宝を注意深く調査するため、モンティには数か月が必要だった。しかし、彼はその贅沢な時間を持つことは出来なかった。

彼は人生で最大の発見をした。しかし、時期が最悪だった。彼の母国があるヨーロッパでは、ヒトラーの軍隊がフランス国境に迫っていた。侵略は数週間のうちに行われる!ナチスの攻撃はいつ起きても不思議でなかった。
モンティは心臓が張り裂けるような決定をすることになった。妻と小さな3人の娘は彼と共にエジプトを訪れ、新たな発見のたびに家族全員で喜び合っていたこともあった。しかし、今、彼らはフランスに戻っている。自分だけ残り続けて仕事を完了すべきか?それとも仕事を止めて家族の元に戻るべきか?
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モンティは決断するまでに時間を使うことは無かった。財宝を箱に仕舞い込むと、発掘場所を閉鎖するよう指示した。仕事は停止され、彼はフランスの家族のもとに急いだ。その時、第二次世界大戦は始まったばかりだった。5年間は、エジプトに戻れないだろう。
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財宝は直ちにカイロに移され、博物館の倉庫に保管された。それは考古学における重大な瞬間のひとつだった。その時、モンティによるスセネスの発見は世に知られる機会を失ったのだ。
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サリマ「ヨーロッパは戦争に突入していて、エジプトでの考古学的な発見に注意を払う人などいなかったの。そのため、今日でも私たちはモンティの素晴らしい発見について、ほとんど知っていないのよ。」
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ツタンカーメンが20年早く発見された時、世界中でトップニュースになった。彼のミイラが詳しく調べられた時、そこにはカメラが持ち込まれていた。
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それはカイロ大学の解剖学教授ダグラス・デイリーが指導した壮大な出来事だった。
(mhデイリー氏は左から2人目です)

1940年、デイリー教授は別の招待を受けた。北エジプトで見つかった興味深い発見物を調べるよう要請されたのだ。スセネスという名の、よく知られていないファラオの遺体、または少なくとも彼の一部だ。
サリマ「スセネスはナイルデルタに埋葬されていたの。とても湿度が高く、湿った環境の場所よ。他のファラオたちは王家の谷に埋葬されていたけど、そこは砂漠の中にあるの。デルタに埋葬されると、湿っているおかげで、遺体は分解されやすいのよ。だから、デルタに埋められていたミイラを調べるのはとても大変なの」
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デイリーは、今日から見ると、かなり簡単な検査をしていた。簡単に、スセネスは老人になって死んだとだけ報告していた。しかし、もっと重要な証拠を見逃していた。
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デイリーが検査を終えると、遺骨は再び埋葬されることになった。王室の墓ではなく、大学の古物倉庫の奥深くに!
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3千年も墓に入っていたスセネスの遺骨は、更に70年の間、調べられることもなく、公開されることもなく、倉庫に仕舞われ続けていた。しかし、今、デイリー教授の後継者で解剖学者のフォージ・ガバラ博士が、骨の検査を再開した。
ガバラ博士「私は言葉で表現できない程、感激している。この骨の詳細について公表されている資料はない。」

最初に行われた検査の証拠は残っていた。小さな骨はデイリー教授の古いタバコケースの中に仕舞われていた。
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柔らかい遺留物は捨てられていたが、スセネスの骨は、彼がどんなファラオだったのかについて多くの情報を提示していた。彼は立つと5フィート半(165cm)近かった。体のつくりは頑強(がんきょう)だった。
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デイリーも書き残しているように、スセネスは年を取ってから死んだ。平均寿命が35歳くらいだった時代だったが、彼は多分80歳に近かっただろう。歯の摩耗wear and tearは“ピニオン?”が在ったことを裏付けている。
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しかし、ガバラ博士の調査の結果、驚くべき新たな情報が王の背骨の部位である7つの頸椎(けいつい)から現れた。
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ガバラ博士「これは私の検査から現れた新たな発見だ。この脊椎(せきつい)は王が生きている時期に壊れ、曲がっていたようだ。デイリー教授は何もコメントしていなかったが私がそれに気付いた。これは“ショウファー・ディフラクション(?運転手回避?)”と呼ばれるものだ。つまりこの王は長く座っているタイプではなかったことを示している。このディフラクションは通常、上肢(じょうし)を使う激しい労働をしていたことを意味する」

スセネスの怪我の原因は今も判っていないし、不透明のままだ。しかし、他のファラオも烈しく働いたり運動したりしていたことが知られている。例えばツタンカーメンはチャリオットに乗って頻繁に狩りに出かけていた。そして、恐らく、その時の事故で足を折っている。トトメス3世(Thutmose III)はエジプトで偉大な戦士王の一人だ。闘いの日々を送っていた。しかし同時に熱心な庭師だ。外地に遠征すると珍しい植物を持ち帰り、王宮の庭に植えていた。

タニスTanisで何がスセネスを忙しくさせていたのかは謎だ。
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学者たちは今それを想像しているだろう。スセネスの破壊された脊椎(せきつい)は時間をかけて直っていた。しかし、背骨には慢性的な病の証拠があった。
ガバラ博士「この王は楕円形をしている背骨の靭帯(じんたい)の骨化の過程で、結合組織の病を持っていた(??)。デイリー教授もこれを指摘していたが、原因については無視している」
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スセネスの骨を初めて詳細に調べた結果は、彼の生活への洞察(どうさつinsight)を提供してくれた。そして、これまでで初めて、スセネスがどんな外見の男だったかを法医学芸術家が予測することが出来るようになった。
マリッサ「特に面白いのは、彼の頭を見ると、彼の右目の位置が左目と比べると少し高いことよ。眼窩(がんか)も右の方が高いわ。だから左の頬の骨も高いの。これは表情に反映されていたはずだわ」
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マリッサ・ドレインは表情特定心理学psychology of facial identificationの学位を取得していて、FBI(連邦捜査局)で法医学的再構築を研究していた。3千年前に死んだ男のスケッチは銀のファラオを甦(よみがえ)らせた。
マリッサ「スセネスよ。ここにいるのが!」
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マリッサ「彼は抜きん出て頑強な肉体を持ち、頭は大きくて体はかなり短いの。でも、体を、何か肉体的な運動で使うことにためらいは持っていないのね。更に、彼は沢山の上下の歯を失っているの。だから顎は、しっかり閉じることができて、ピーナッツを砕いているような様子をしているの。強い意志を感じさせる口の形で、何でもお見通しだよっていう感じの顔つきだったと思うわ」
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死が近い時期、彼は背骨に極度の痛みを感じていたはずだ。そして歯の膿瘍(のうよう;出来物)が激しかったので、上あごに大きな孔が出来ていた。
ガバラ博士「ここに膿瘍でできた空間がある。感染した上あごには孔があいている」
彼は少なくとも人生のある時期、大きな肉体的苦痛を抱えていた。しかし、彼の死について骨は何かを示しているのだろうか?
ガバラ博士「私が骨を調べた範囲では、死に至る明確な原因は見当たらない。狭心症とかいった病気で死んだのかもしれない。骨は彼がかかっていた病を示しているが、死の理由については語っていない」

医学的な履歴を持っていたのにも拘わらず、スセネスが極めて長寿だったという事実は“とにかく彼は強く生き抜いた男だった”とエジプト学者たちに語りかけている。
サリマ「彼が強靭な体をもち、長く生きたという事実は、間違いなく、統治者としての成功に貢献したはずよ。彼は、46年間というとても長い期間、必死に国を治めていたの。ツタンカーメンはティーンエージャーで死んでしまったわ。だからスセネスのような人物なら、何か偉業を成し遂げていたはずよ」
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46年に渡るスセネスの統治は、彼を、エジプトのファラオの中でも最も長いファラオにしている。墓から見つかった財宝や彼の体の遺物は多くの新しい情報を産み出してくれた。しかしなお、エジプト学者たちは、紀元前1千年頃の混乱の時代を理解するのに苦労している。
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スセネスのようなファラオたちは王国の南にいた強敵と権力を分け合わねばならなかった。
ピーター「この暗黒時代のエジプトの歴史が、ファラオたちが最も権力を得ていた時代の次に訪れたというのは皮肉と言える」
実は、スセネスを悩ませた混乱は、あらゆるファラオの中で最も権力があったファラオによって2百年も前に既に始められていたのだ。
ピーター「エジプトはラムセス二世、つまりラムセス大王の時代に最高潮に達していた。彼は多くの建造物を造った、エジプトの歴史の中でも最も偉大な建設者だった。それに、彼は百人を超える多くの子供を持っていた」
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ラムセスの前のエジプトには2つの拠点があった。テーベThebesとメンフィスMemphisだ。ラムセスの留まるところをしらない野心はナイルデルタに彼自身の全く新しい首都を造らせた。彼はそこをピラメスPi Ramesses“ラムセスの家”と呼んだ。しかし、新しい都市が将来のファラオたちにとって何を意味するのかを彼が見届けることは出来なかった。
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ピーター「ナイルデルタは、ラムセスが植民地化して彼の偉大な首都を造るまで、エジプトにとって本当に国境のような場所だった。都市の建設は、あたかも、何かを投げて釣り合いを失うようなものだった。ラムセス大王のように強大な求心力をもつ統治者は体制を堅持できたが、力が弱い統治者ならナイルデルタはエジプトの領土ではなくなっていただろう」

テーベやメンフィスに次ぐ第三の権力拠点を造ることで、ファラオは政治的な抵抗の余地を産み出してしまっていた。そして、事件はテーベで始まった。
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ファラオに挑戦できる力を持つただ一人の人物は、カルナック大神殿を管轄するエジプト最高位の祈祷師だった。
ピーター「高位の祈祷師という言葉は誤解を生みやすい。何故なら彼は、単なる宗教家ではなかったからだ。彼は寺院を通じて事業をしていた。重要な政治的なリーダーで、軍隊に命令することすらできた」
祈祷師たちは、死んだファラオの記憶を生き永らえさせるため、予めファラオから十分な報酬を得ていた。
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ピーター「王は寺院よりも国を重視していた。一方、寺院で暮らす祈祷師は、王の魂を維持し、王の建てた記念碑を維持し、王の記憶を生き永らえさせていた。それこそがエジプト王の基礎になるものだったのだ」
サリマ「王は祈祷師たちの歓心を勝ち取るため、彼らに魚釣りや狩りをする権利を与えたの。鉱山で採掘する権利やナイルに沿って交易する権利すらもね。だから彼らは沢山の富を得ていったのよ」
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ピーター「彼らは時代と共に、どんどん豊かになり、ついには、なぜ我々が王になってはいけないのかと考えるようになったのだ」

スセネスの統治が始まる少し前の時代、高位の祈祷師たちは権力を求める行動playに出た。
ピーター「この壁には、高位の祈祷師がファラオとほぼ同じ大きさで描かれている」
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「他の祈祷師たちは、高位の祈祷師の足元で、背が低く描かれている。それ以前のエジプトでは、相対的な立場を示すため、どの祈祷師もファラオより背が低く描かれていた。しかし、この絵で判るように、高位の祈祷師はファラオと同等の多大な権力を得ていたのだ」

祈祷師たちが彼らの権威を表面に押し出し、エジプトが二分割されると、5世紀続く混沌(こんとん)の中間期が始まった。高位の祈祷師はエジプトの南を手中にし、ファラオは前衛地frontierである北のデルタに追いやられてしまった。北と南のチェック・ポイントはメンフィスに近いナイル上に設定された。
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とすれば、スセネスは、どんな手法で北の狭い一帯を王に相応(ふさわ)しい領域に変えていたのだろう?

調査員たちは、その手掛かりを見つけようと、スセネスの墓で見つかった財宝を調べ直すことにした。重要な証拠は、パテラと呼ばれる、小さな、重要とは思えない銀の皿に刻印されていた。
考古学者たちは、直ぐに、星と鳥が描かれたスセネスの御馴染みのサインに気付いた。しかし、このカトゥシュには、更に多くの絵文字が並べられていたのだ!
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ヤスミン「パテラに刻まれたカトゥシュの説明は“完璧な神、二つの土地の王、高位の祈祷師アムン、神々の王、アムンに愛されるスセネス”と読めるわ。これが重要なのは、スセネスが北部における高位のアムン神の祈祷師という肩書を持っていたという事実が判るからよ」
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彼が権力を持っていたことを理解する鍵はハイログリフの中にあったのだ。スセネスはファラオ以上の男だった。高位の祈祷師でもあったのだ。ついに彼の驚くべき蓄財の秘密は現れた。
ピーター「伝統的に、ファラオは税金から富を獲得していた。エジプト北部では少ない農夫たちが農作物のある割合をファラオの富のために税として収めていた。しかし、神殿の壁画で見たように、高位の祈祷師はファラオよりも豊かだった。そこで、スセネスは2つの収入源を組み合わせることにしたのだ。つまり寺院の富とファラオの伝統的な富の両方を自分のものにした」
しかし、スセネスはどんな方法で、このような確固たる立場を獲得したのだろう?それは、エジプトを統治してきた家族の家系図を見ると、はっきりしてくる。家系図の一番上にいるのは、南の祈祷師が反乱を引き起こした時期の家長だ。高位の祈祷師で、権力を握っていた男パネジェム1世(Pinedjem Iファラオ名)だった。
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ピーター「パネジェムは紀元前1070年頃、ここカルナック神殿の高位の祈祷師だった。彼には4人の息子があり、そのうちの3人は高位の祈祷師の地位を継承した。残る1人がスセネスで、彼は北エジプトのタニスに行き、ファラオ(スセネス1世)になった。しかし、彼は、同時に北エジプトにおける神アムンのための高位の祈祷師の肩書も与えられていたのだ」
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スセネスは頭が切れる政治家で、家系の団結力を利用することにした。
ピーター「スセネスは、弟がカルナックの高位の祈祷師を継承した時、自分の娘を嫁としてテーベに送ったという記録がある。こうして、エジプトの北と南の関係は強化されていた」
戦略的同盟によって親族の結束を固めることで、スセネスの家系はエジプト全土を手中に収めていた。

これが家長のパネジェム(Pinedjem I)だ。彼のミイラはテーベThebesで見つかった。
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スセネスの母ヘンターウェイHenuttawyもテーベで埋葬されていた。
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二人のミイラは乾いた砂漠の気候の中で保存されていた。

再びスセネスの石棺に話を戻すと、石棺は、彼の家族がどんなに大きな勢力をもっていたかを示す証拠を調査員たちに提供することになった。スセネスの名前に並んで花崗岩に刻まれていたのは、全く異なった王室の名前だった!
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ヤスミン「このカトゥシュには、興味深いことに、ハザペンマートって書いてあるの。第19王朝の王メルエンプタハMerneptahよ!古代エジプトについて知っていなくても、この人物はスセネスじゃあないことは判るはずよ」
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メルエンプタハはラムセス大王の息子だ!彼はスセネスが王位に就任した時より凡そ150年前にテーベで埋葬されていた。その墓は開けられ、石棺がタニスに運ばれたのだ!それは家族からスセネスへの贈呈品だった。
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ピーター「石棺は、王家の谷から、砂漠を横切って運ばれなければならなかっただろう。そして、ナイルを下って北のデルタまで運ぶため、大きな船に載せられた。統治者たちは間違いなく友好関係をもっていた。でなければ、北と南を分ける国境を船で移動することはできなかったはずだ」
スセネスは、彼の家系が、歴史上で高貴なラムセスの家系の流れを汲んでいると示そうとして、石工に命じて、王家の谷から運んできた石棺に刻まれていたカトゥシュの隣に自分のカトゥシュを刻ませたのだ。
ピーター「メルエンプタハの石棺を使うことによって、彼は自分とラムセス大王を関係づけ、永遠の生命のために、エジプトの偉大な過去の統治者たちとも関係づけたのだ」
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銀のファラオの墓を巡る物語は混乱や闘争ではなく、もっと異なる何かによって残されている。政略結婚や重要な同盟関係で繋がっていた彼の家系を通じ、スセネスは、望み通り、富と権力を獲得した。しかし、疑問は残っている。彼はそれをどのように利用したのだろう?

最近の発見は、スセネスが、古代の最も驚くべき業績の一つにおける影の功労者だったことを証明している。石のブロックを一つずつ移して大都市を移設したのだ!
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ラムセス二世の伝説の首都ピラメスが在った本当の位置は、考古学における、世界の大きな謎の一つだった。50万人が暮らす都市で、古代世界で最も大きい都市の一つだったが、砂の中に消失していた。
サリマ「その都市は、何十年もの間、エジプト考古学における聖杯だったの。ピラメスを探せ!ってね」

スセネスの墓が発見される前の1930年代に、ピエール・モンティは多くの古代の叙事詩をタニスで掘り当てていた。その時、彼は驚くべき可能性を疑い始めていた。自分は、考古学の聖杯を見つけたのではなかろうか?
サリマ「モンティは失われた都市ピラメスを見つけたと完璧に確信していたの。そこで報告書の中でタニスとピラメスは一つで、同じものだと書いたの。そう考えた理由は、タニスで彼が見つけた石のブロックのどれを見ても、丁度、これと同じようなラムセス二世の名前が見つかったからよ」
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「カトゥシュで、ラムセス二世の王名(注)よ。これと同じカトゥシュがタニスのあちらこちらでも見つかったので、モンティは、こここそがピラメスだ!って確信したの」
(注:エジプトのファラオは王名と即位名をもっています。ラムセス二世は王名で、即位名はウセルマアトラー・セテプエンラー。因みに、ツタンカーメン(Tutankhamun)は王名で、即位名はネブケペルウラーです)

モンティや世界中の考古学者たちにとって、この発見は単に王家の墓を掘り当てることなどとは比べ物にならない重要な意義を持っていた。
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しかし、モンティは一つの決定的なミスを犯していた。

地上を見る限り、彼の理論は理にかなっていた。なぜならタニスTanisは河岸の都市だったし、古代の記録によれば、都市ピラメスもナイルの河岸にあった。しかし、エジプトのデルタでは、ナイルは、いつも同じ場所を流れているわけではない。多くの支流を持っているが、その流れは時と共に場所を変える。ある場所が泥で埋まると別の場所に水があふれだすからだ。
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1970年代、考古学者たちはモンティの発見に疑問を投げかけた。彼らはピラメスが在ったというタニスから20Km離れた小さな場所に注目した。そしてモンティが見逃していた、長年失われていたナイルの支流の証拠を見つけた。
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サリマ「彼らは、その場所で発掘を始めたの。そしてラムセスの時代の多くの土器の隠し場所(キャッシュcache)を掘り当てたのよ。そこで地中探査レーダーを持ち込んで、一帯を調べてみることにしたの。すると、地下から巨大な都市が現れたてきたのよ」
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都市の基礎、かつてナイルが流れていた場所の痕跡など、ラムセスの失われた都市の幽霊とも言える映像がレーダー走査の結果の中で全て見て取れた。
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そこには寺院も、軍施設もあった。

サリマ「彼らはラムセス二世の厩舎(きゅうしゃ)跡も見つけたの。それはとても大規模な厩舎で、何百頭もの馬が飼われていたのに違いないわ。馬の訓練でよく使われたと思われる場所には、沢山の馬の足跡も見つかっているの。間違いなく、ラムセスのものとしか考えられない、信じられない程に大きな複合都市があったのよ」

今日では、都市の痕跡すら地上に見ることはできない。広大な建物群は完全に消えていたのだ。しかし、そんなにも広大な都市が、どうして、こうも完璧に消えてしまうのだろう?
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今日、考古学者たちは、ここを流れていたナイルの支流がひどく泥で埋め尽くされ、流れを変えてしまったことを知っている。都市ピラメスは文字通り高く(?high)なり、乾き切ってしまった。生命の維持は不可能になった。記録は、紀元前1047年にスセネスが王に就任した頃、この危機が起きていたことを示している。そこで、彼はピラメスの偉大な記念碑を全て解体し、タニスに移すことにした。スセネスは、首都を建てるほどの力は持っていなかったかも知れないが、都市を救ったのだ。
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サリマ「それがどんなに大きな仕事だったか考えてみてよ。アメリカのワシントンDCに在るホワイトハウスやリンカーン記念堂を、記念碑を、バルティモアBaltimoreまでの道のりの半分ほど運ぶのよ」

レーダー走査がなかったら、スセネスの驚くべき業績は現れてこなかったかも知れない。モンティは、結果としては、確かに、ラムセスの伝説的都市の偉大な叙事詩を発見した。
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しかしそれは、スセネスが元の場所から移したものだったのだ。
ここで発見された遺物とレーダー走査の結果を照らし合わせた考古学者たちは、ピラメスの寺院が、モンティがタニスで見つけた寺院と同じ形で造られていたことを確認している。
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スセネスは都市の全てを、一つずつpiece by piece移設する力を持っていた。そして、ここタニスから、彼は、ファラオとして、また高位の祈祷師として、信じられない程に強大な権力を行使していた。
サリマ「都市をある場所から別の場所に移せたのは、スセネスが労働力や組織力や優れた官僚組織を持っていたという明確な証拠よ。彼は新しい都市に命を吹き込む機智と熱意を持っていたの」

スセネスの富と、権力と、長期にわたる統治は、彼にファラオが行わねばならない最も重要な決断を計画する贅沢を与えてくれた。死後の世界にどう対応したらよいのか?
墓に持って行くものの選択は重要事項だった。しかし、とエジプト学者たちは不思議がる。何故、彼は棺に銀を選んだのだろう?純銀100Kgが使われている!
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古代エジプト人には、黄金は全く錆びることがないので“神々の肉”として知られていた。神と同じように、永遠の輝きを持っていた。一方、銀は色が淡く、控えめに輝いていることから“神々の骨”と呼ばれていた。古代エジプトには天然の黄金は埋蔵されていたが、銀はほとんどなかった。従って、初期の王朝では、銀は金より貴重だと考えられていた。しかし、スセネスの時代までには、外地との交易ルートを開発し、商人たちは銀を取り扱うようになっていた。紀元前1千年には、銀の価値は金の凡そ半分まで低下していた。しかし、スセネスが最高品を手にする余裕があったのは間違いない。彼の財宝のいくつかはツタンカーメンの財宝と比べても劣らない。
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考古学者で銀細工師のジョン・プリヴィットは何故、スセネスは銀を選んだかという疑問について調べている。
ジョン「銀は比較すると安価だったかもしれない。金ほどには高価ではなかった。しかし、加工は、手間がかかる上に高度な技術を必要とする。銀は金よりも固い金属で、金と比べて展性(てんせい;延びやすい性質)が低いからだ。その都度、加熱して結晶構造を柔らかくしないと加工が困難だ。この加工過程を何度も繰り返すとなると時間や労力や燃料が必要になる。銀の細工は金を細工する場合よりも多くの負担がかかるのだ」
スセネスが高い品質や芸術性を望んでいたのは明確だ。あの世に一緒に持って行くのだから費用は度外視していた。
棺の体の部分は、銀を叩いて延ばした薄い繊細なシートで出来ていたので、墓から出す際に、一部が損傷していた。
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頭の部分では銀はもっと厚い。鼻や口の周りの思わせぶりな痕跡は、鋳型(いがた)を使って鋳造してから叩いて形を整えたことを暗示している。
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エジプト人は古い昔に貴金属の鋳造技術を習得していたことが知られている。鋳造した後の表面は、このような外観を呈している。
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スセネスの細工師たちは、これを叩き、磨きながら彼らのファラオに似せていった。その工程では数百時間の骨の折れる作業が必要だった。

今日、銀の棺はエジプト博物館の偉大な財宝の一つだ。それは、ピエール・モンティの素晴らしい発見を永遠に思い出させてくれるだろう。第二次世界大戦の後で、彼はいくつかの新しい発見をした。
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しかし、それらの中には、銀のファラオほどに眩(まぶ)しいものは一つもない。1966年、ピエール・モンティは死んだ。発掘した都市がピラメスと信じたまま。しかし、スセネスの墓の発見という彼の素晴らしい成果は、考古学における重要な切っ掛けmomentとして残るだろう。スセネスは、ラムセス二世やツタンカーメンのような名声を楽しむことは決してないだろう。しかし、彼の星は天空で輝いている。
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調査員たちはモンティが始めた仕事を引き継いで、エジプトの暗黒時代を考え続けている。

サリマ「スセネスは信じられないほどの男だったのよ。ある場所から別の場所に首都を移し、墓泥棒も横行していた荒廃の時代に素晴らしい墓を自分のために造ったのだから。彼の価値は再評価されるべきだし、わたしたちは、第21王朝の記憶すべきこのファラオにもっと注意を払わなければならないと思うわ」
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スセネスは、手が込んだ埋葬地を造るよう指示したことで、不滅への切符を買うことが出来たと信じていたかも知れない。3千年後の今、我々は当時を振り返って、“彼は正にその通りにした”と言うのだ。
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The Powerful Black Pharaoh That Is Called..SILVER ??
https://www.youtube.com/watch?v=9HMK7yih8eE

Wiki: Psusennes Iから得た情報です。
Gold burial mask of King Psusennes I, discovered in 1940 by Pierre Montet
第二次世界大戦が始まった1940年にピエール・モンティが発見したスセネス1世の黄金の埋葬用の面
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Gold and lapis lazuli collar of Psusennes I
スセネス1世の黄金とラピスラズリの首飾り
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カイロ博物館/スセネスでみつけた財宝もご紹介しておきましょう。
金とラピスラズリで作られた腕輪にはスセネスのカトゥシュがあります。
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胸飾りと首飾り;ラピスラズリやその他の玉石が使われています。
いずれにもスセネスのカトゥシュが付いています。
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首飾り
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スセネスの墓に黄金の副葬品が見つかったのは、彼の死後に誰かがこれらの品々を遺体と一緒に埋葬したからですが、その人物は何故、そんなことをしたのか?スセネスに限らず、エジプトのファラオは、いやいや、ファラオに限らず、古今東西、全ての権力者の墓には、庶民から見れば目の玉が飛び出るような金銀財宝・貴石・芸術品などが遺体と共に埋められています。何故、そうなったのかについては、幾つかの理由があると思いますが、根底には、死後も別の世界で生き続けるという思想があるからでしょう。我が尊敬するお釈迦様は、副葬品を所望(しょもう)していませんから、人類の歴史の中で名を残している統治者などとは異質の人物です。お釈迦様すら黄金の副葬品を所望しなかったのですから、mhも死後の世界での生活を配しなくて済むようになったということはありがたいことだと思います。そうでなければ、mhは、今頃、必死に、資産を金の延べ棒に替え、死んだら必ず遺体と一緒に埋葬するよう、頼りない子供達に強く遺言し、子供達が遺言を守ってくれるかどうか、心配しながら死んでいかねばならないのですから、とてもやっていられません!

で~日本人でも、黄金の副葬品を所望しながら死んでいく人って今でもいるんでしょうかね?今上天皇の明仁(あきひと)は従来の伝統を破り、火葬で埋葬してほしいと侍従に伝えているようですから、多分、埋葬品は質素な、愛読書とかそういった全く個人的なものばかりではないかと思いますが、天皇を除く日本国民の中にも、黄金の副葬品を所望している人がいるのか?戦国時代、秀吉や信玄が財宝を密かに地中に隠したっていう都市伝説のような話が伝わっていますが、それが事実としても、彼らの財宝はあの世の生活のためではなく、この世に残る子孫の繁栄を願ったものでしょうから副葬品ではなく埋蔵金と呼ばれています。今も見つかっていないようですから、埋蔵した意味が失われているってことで、冷静に考えれば埋蔵はされていなかったと考えるのが合理的でしょう。

埋蔵して残さねばならない資産を持つ人は、持たない人と比べて余計な心配を抱えていると言えますから、そんな心配をしなくて済むmhは幸せ者です。

(完)

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mh徒然草: お年寄りの一人暮らし


高齢化や晩婚化が進み、一人暮らしのお年寄りが増えているようですね。団地内で朝、散歩をしていると、徒歩20分の地下鉄の駅の方向に一人で黙々と歩いていく、リュックサックを背負った高齢者によく出会います。mhのように、部屋に閉じ籠(こも)ってブログ作成に追われているより、外に出て、歩いて、いろいろ見て回って、レストランで日替わりの食事を楽しんだり、スーパーで買ったお弁当を公園のベンチで食べたりする方が、肉体的にも精神的にも知的にも良いのは間違いないでしょう。

しかし・・・一人で歩いている姿は、どことなく寂し気です。やっぱ、家族や友人など、You raise me upではありませんが、応援団をもっていないと人間は寂しくていけないなぁと思います。その点、mhは、口うるさいという難点はあるものの、いつも気を使ってくれる女房殿がいますから、幸せ者だと思いますが、時には、この幸せを逃れて、アフリカや中国などに旅をして一人になりたいと思ったりしていますから、一概には言えないのですが・・・やっぱ、一人ではなく、誰かと繋がりながら、助けたり助けられたりして生きる方が幸せだろうと思うのです。

で・・・リュックサックを背負って毎日、一人で、どこかに遠出しているご老人ですが・・・私も、不幸にして女房殿が先立てば、そうなるのでしょうが・・・でも、思うんですが、一人暮らしをしているよりも、老人ホームに入って、同じ境遇の仲間と共同生活をし、時には仲間と外出したり、一人で図書館やダウンタウンに出かけたりして自由な時間を過ごす生活の方が楽しいのではないでしょうか。私なら断然、老人ホームの生活を選ぶと思います。しかし、一人で暮らす人が多いんですねぇ、世の中は。

お釈迦様が仰る通り、因果応報で、それなりの理由があるわけですが、もしそれが、入りたい老人ホームが見つからないということなら、日本の福祉は不十分です。防衛費よりも老人ホームを増やしてほしいと思います。で~老人ホームの加入申し込み状況を調べてみようかとも思ったのですが、ずぼらなmhの重い腰は上がらず、幼稚園や保育園に入るのも大変なんだから、老人ホームはもっと大変じゃあないの?ってな当てずっぽうな推論をもって結論することになってしまいました。

年を取って思うのですが、一人で楽しめる趣味を一つや二つは持っていないと、老後を幸せに暮らすのは難しいでしょう。それがリュックサックを背負って外出することでも好いと思いますが、また繰り返しになるのですが、時には話が出来る相手を持っていないと寂しくていけません。ブログ三昧(ざんまい)のmhとしては、口うるさい女房殿には元気で長生きしてもらい、もし、当方が愚痴をBGMのように聞き流せる心境になれたらしめたものです。

IAN & SYLVIA
Song For Canada Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=GOVWBybPNuk
(歌詞)
How come we can't talk to each other any more?
Why can't you see I'm changing too?
We've got by far too long to end it feeling wronged
And I still share too much with you

Just one great river always flowing to the sea
One single river rolling in eternity
Two nations in the land that lies along its shore
But just one river rolling free.

How come you shut me out as if I wasn't there
What's this new bitterness you've found?
However wronged you were, however strong it hurt
It wasn't me that held you down.

Why can't you understand I'm glad you're standing proud
I know you made it on your own
But in this pride you've earned, I thought you might have
learned
That you don't have to stand alone

Lonely northern rivers come together till you see
One single river rolling in eternity
Two nations in the land that lies along its shore
But just one river, you and me
(完)

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ピラメスの不思議


ピラメス???

初めて聞いたと思われる方はブログ「ラムセス2世の不思議」を読み直して頂かねばなりませんが、時間がかかりますから、今回はパスして頂いてもよろしいですが・・・
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-187.html

“ピラメスPi Ramesses”は“パイラムセス”とも読まれているようですが、意味するところは“ラムセスの家”で、ラムセス2世(ラムセス大王;紀元前1303 ―同1213)が創った都の名前です!

で~都ピラメスは何処にあったのか?

エジプトと言えばナイルですね。ビクトリア湖から地中海に向けて流れる世界有数の大河です。mhもルクソール(旧テーベ)から上流のアスワンまで4泊5日のクルージングを楽しませて頂きました。一生の思い出の一つです。

で~ナイル中流の都市ルクソールLuxorは、古代はテーベThebesと呼ばれ、ナイル東岸にはカルナック神殿、西岸には王家の谷をもつ、エジプト帝国の偉大な都の一つです。都といえば、ナイルデルタが始まるメンフィスMemphisも有名です。カイロの中心から約20Km南(ナイル上流方向)にありました。
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で~エジプト帝国3千年の歴史の中で、最も偉大なファラオと言っても好いラムセス2世の都はというと~
テーベではなく、メンフィスでもなく、ピラメスPi Ramessesなんですね。

で~何処にあったのか?

ナイルデルタで、ナイル川の最も東側の支流の河岸にあったってことは古代の記録から判っていたようです。しかし、長い間、その場所はベールに包まれていました。で、比定されたのは3千年後。つまりつい最近なんですね。タニスTanisという町の南20Kmにありました!
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ピラメスが見つかった町の名はカンターQantirといいます。
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Google Earthで見つけた上の写真では、ラムセスのカトゥシュ(楕円の中に名を記したもの)が肩に彫られた巨像が横たわっています。ここはタニスTanisです!

えぇ???カンターQantirじゃあないの???

カンターでもピラメスでもパイラムセスでもありません!!!タニスです!

ピラメスPi RamessesがタニスTanisではなく、カンターQantirに在ったと比定されることになった経緯を
Youtube: Lost Cities Of the Ancients ; The Vanished Capital Of The Pharaoh
“古代の失われた都市:ファラオの消えた都”
でご紹介いたしましょう。
・・・・・・・・・・・・
古代エジプトの全ての不思議の中で、ラムセス二世の首都ピラメスは一際目立つ存在の一つだ。
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ラムセスは自分の都市造りに、富をふんだんに注ぎ込んだ。しかし、古い昔、その都市全体も、宝物も、地上から消え失せてしまったのだ。
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この考古学上の不思議なパズルが3千年後に解き明かされるまで、失われた都市ピラメスは伝説の中に埋もれ続けていた。何故なら、ピラメスが再び出現した時、それは間違った場所にあったのだ!
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ラムセス大王はその場所に都を造っていなかった。ラムセスが生きていた時代、そこには町などなかったのだ。

これは、どのようにして都市が失われ、数千年後に全く違う場所に出現することになったのかという、奇妙な物語だ。

エジプト:紀元前1250年
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今から3千年以上も昔、エジプトは歴史上に大きな足跡を残した建設の主Master of Builderのファラオによって統治されていた。
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ラムセス二世は古代世界で偉大な王だった。60年に渡りエジプトを統治し、百人を超える子供の父親でもあった。彼は帝国全土に寺院や記念碑を建てた。

しかし、彼の心にもっとも強く刻まれたであろう傑作は、自分にちなんだ名前の都市ピラメスPi Ramessesだ。
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巨大な砦のような王宮は、訪れる人々が感銘を受けるように設計されていた。都市はラムセスの野心的な創造物の一つだった。古代エジプトと地中海とを結ぶナイルの要衝に造られ、古代世界のハブ港としても繁栄していた。
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貴族や職人や奴隷など、30万人の富豪や貧しい人々たちが暮らしていた。商人が遠方からやってきては交易をしていた。都市の中心には、数千人の兵士やチャリオットや騎兵が常駐する巨大な守備軍基地が造られていた。数百のチャリオットと馬が常備され、王はピラメスから軍隊を率いて遠征していた。
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ラムセス二世は都市建設の手を弛(ゆる)めることは無かった。毎年、大きな像が町中で造られていた。彼が統治していた間、職人や労働者は帝国中から集められ、新しい像や記念碑の建設に充てられていた。王の権力の中心だったピラメスは、永遠に続く都市に思われた。
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しかし、造られてから2百年後、都市の全てが消滅してしまったのだ。以降、数千年間、ピラメスは全く失われたままだった。都市の運命は伝説の中に埋もれ続けていた。ピラメスを発見しようと近代の考古学者たちは競い合った。しかし、そこには考古学上の奇妙な捩(ね)じれが準備されていたのだ。
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20世紀が始まるまで、エジプト学者たちは不思議に思い続けてきた。偉大なファラオの全ての都市は発掘されていた。但し、ピラメスを除いて!
アイダン・ドドソン博士「ピラメスは見事な都市で、エジプト学者の全てが見つけたいと望む聖杯のようなものだった」
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ラムセスが、彼の都を、伝統的な権威の象徴のカルナック神殿やルクソール神殿があるテーベThebesの近くに造らなかったことは、古代の記録から誰もが知っていた。
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彼は大ピラミッドが建てられている現在の首都カイロの近くのメンフィスにも首都を造らなかった。その代り、自分が育った場所、青々としたナイルデルタ、に首都を造ったのだ。
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ナイルが分岐し、地中海に注ぎこむ所だ。記録によれば明確だ。彼は、デルタの中の、最も東寄りのナイル支流の河岸に都を建設した。とすれば、ピラメスを探し出すのは簡単だと思うかも知れない。しかし、そう考えるのは間違いだ。
アイダン博士「ピラメスを探す上での問題の一つは、当時、デルタの最も東側を流れていた支流が既に消えてしまっていたことだ」

昔から、デルタを流れるナイルの支流は、しばしばコースを変えていた。ラムセスの時代に最も東を流れていた支流は消え失せ、その位置は簡単には分からない可能性が高かった。支流の位置がわからないまま、デルタの東側で、ピラメスの遺跡を探さねばならない。
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しかし、幸運なことに、考古学者たちは、ピラメスがどんな所だったのかを古代の記録から知っていた。
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アイダン博士「まず、ピラメスは守備軍基地の都市だった。ラムセス軍がパレスタイン(中近東の古代国家)に遠征する拠点で、大規模の兵士やチャリオットが常備されていたはずだ。更には、多くの像や記念碑も建造されていた」
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ラムセスは石から像を彫りだし、磨き上げる労働者や職人や石工の生産ラインを持っていた。ピラメスには数百のファラオ像があった。石像のいくつかは20mの高さだった。
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次の特徴だが、ラムセスの名を記(しる)したカトゥシュが都市の重要な記念碑に彫られていたはずだった。カトゥシュは、それが誰のものかを物語るブランドのようなものだ。
アイダン博士「これがラムセスのカトゥシュだ。丸い太陽を頭に載せて椅子に座っている鷲が、太陽神ラーだ」
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「椅子の下の右側のマークは“メス”、隣の2つのマークは“スー”と読む。つまり“ラーメススー”となる。上の一番左のマークは偉大な神アムンだ。従って全体で“神ラメス”、“神に愛されているラムセス”となる。」

アイダン博士「ピラメスに大寺院があったことは判っている。特に、アムン神を祀るものだ。ラムセスが暮らしていた町なら寺院がなければならない」
そして、勿論、ラムセス自身が棲む王宮があった。
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アイダン博士「ファラオが棲んでいる王宮については、我々は多くの情報をもっている。長い通路と大広間があり、壁は漆喰で塗られていただろう。誰が見てもラムセスの王宮と判る構造物だったはずだ。」

もし、ピラメスと思われる所を見つけたなら、これらの重要な要素がそこで見つかるはずだ。当然のことだが、それらは、ラムセス二世の時代のものでなければならない。これら全てを見つけたなら、ピラメスを探し当てたと言える。

ラムセスの都市がついに発見されることになる物語の始まりは、1920年代に遡(さかのぼ)る。
考古学者たちはファラオの失われた宝物を探してエジプトの大地を訪れていた。どこかでピラメスが発見されるのを待っているはずだった。
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彼らは、ラムセスの失われた都市を求めて人里離れたデルタの東側を歩き回っていた。誰も訪れたことがない場所で自分がピラメスを探すのだ!

一人の男がその挑戦を始めようとしていた。ピエール・モンティPierre Montetはフランスで有数の考古学者だった。歴史に名を残す発見をしたいと考えていた彼は、探検隊を編成し、ナイルデルタを訪れた。彼はナイルの奥深くに、それまで十分に調査されたことがない奇妙な場所があるという話を聞き、重要な遺跡かもしれないと考えたのだ。失われていた宝物かも知れない!
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モンティの目的地はタニスTanisだ。ナイルデルタの北東で、人里離れた、月の表面のような所だった。
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モンティが大地に残されていた遺跡に近づいた時、見事な、失われていた世界を見つけたのではないかという気分は高まった。
モンティ「重要な遺跡のようだな」
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しかし、タニスはモンティが期待した以上のものだった。古代のナイルはどこかに消えていたが、残されている遺物は全てラムセスの都ピラメスと整合していた。見た全ての場所で、彼はラムセス大王を示す証拠を見つけることが出来た。
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モンティ「カトゥシュには“アムン(神)のラムス”とある!」
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これこそが、ピラメスであることを確認する決定的な証拠だった。
モンティが初めて訪れたタニスは、疑いもなくラムセス二世の失われた都市で、それは彼の足元に横たわっていた。
しかし、その場所は、後日、モンティが考えもしなかった理由で有名になる。
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タニスに残されていたものは、エジプト学におけるモンティの名を確固たるものにする。1年もしない内に、彼は本格的な発掘を始め、彼の指導のもとで作業は精力的に進められた。雑誌を発行し、遺跡はアムン神を祀る寺院だと公表した。作業が進むにつれ、モンティの名声と評判は世界中に広がった。彼のチームが発掘すればするほど、ラムセスの像やオベリスクが出土した。全ての品物は、ここが間違いなくラムセスの都市であることを示していた。
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記録によれば、ラムセスは、彼の統治を通じて、都ピラメスで自分のイメージをもつ巨像を造り続けていた。像を造るための労働力も十分に備えていた。間違いなく100以上の像がピラメス中に建てられていた。従って、モンティが多くの像を見つけ出したのも当然といえる。像の多くは巨大で、そのいくつかは数千トンもあった。長く姿を留められるよう、固い御影石で造られていた。遺跡を発掘すればするほど、モンティはタニスがピラメスだと確信していった。彼は、当時の都の様子さえ思い浮かべることができた。
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アイダン博士「ピエール・モンティは当時、偉大なフランス人発掘家だった。遺跡から当時の姿を想像する鋭い能力を持っていた。しかし、タニスには、何か奇妙なものを感じていた」
それは正しい。タニスには何かおかしな点があったのだ。タニスで見つかる石や像が語っていないことだった。モンティはそれに気付くのを拒否していた。
部下「何か妙な感じですね」
モンティ「数千年経(た)っているんだから、少し変でも当然だろう。・・・反論でもあるのかい?」
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同僚「そういう訳じゃあないんですが・・・本来ならあるべき欠片が見つかっていないし・・・妙な感じがするんです」
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数千年も経過しているのだから像の一部が見つかっていなくても異常という訳ではない。しかし、タニスで見つかる物は、全て、取ってつけたような感じなのだ。最初から在ったという雰囲気が感じられない。それが、この地を奇妙に思わせていた。

すると、新たな発見があった。それは、ピラメスがどこか別の所にあったと感じさせるものだった。
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モンティ「見せてみろ」
部下「彼らはこの破片を30Km離れた場所で見つけたと言っています」
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モンティ「カトゥシュは間違いなくラムセス二世のものだな。しかし、このタニスにはピラメスを示すカトゥシュが山ほどある。石像やオベリスクだってある。我々がピラメスの上に立っている証拠だ。カルナックと同じように大きい寺院だってあるんだから。さ、発掘の仕事に戻って!」
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モンティは、残りの人生の間、ラムセスの偉大な都市ピラメスをタニスで発見したと確信し続けていた。実際の所、彼は発見していたのだ!タニスに残っていた遺物はラムセスの見事な都市のものだったのだ。しかし、彼の発見には妙な捩じれがあった。何故なら、そこはラムセスが町を造った所ではなかったのだ。
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モンティがその不思議を知ることはなかった。それは60年後、科学の力によって明らかになる。

ピエール・モンティは1966年に死んだ。その同じ年、オーストラリア人考古学者マンフレッド・ビータックManfred Bietakは、モンティの発見を調べてみようとタニスを訪れた。そして彼はついに、ラムセスの失われた都市に関する秘密を解き明かすことになる。
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タニスでビータックが感じたのは奇妙さだった。論理に欠けている!
ビータック「これらは確かにピラメスの遺物だ。しかし、間違った場所で見つかっているんだ」
彼はそれを証明出来る証拠を持っていた。
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ビータックは古代のナイルの流れに関心を持っていた。タニスを訪れた時、彼はピラメスの妙な事実に気付いたのだ。彼は、ファラオの時代におけるナイルデルタでの川の様子を地図上で示したいと考えていた。
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今日では、デルタには2つの支流がある。
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しかし、支流は、何度もコースを変えていたことが判っている。歴史を通じ、ナイルはデルタのあちらこちらに流れを振っていた。昔の支流は水が涸れ、乾ききって、姿を失ってしまっている。ナイルの支流が運んでくる多くの土が河床に堆積すると、海へ続く別のルートを見つけ出そうする水が、流れの方向を変えてしまうのだ。時には、河岸を越えて、全く別の方向に流れ出すこともあった。

古代の水流の跡を調べる唯一の方法は、地上での等高線contourを調べることだった。
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古代の河床の位置の兆候は等高線地図の中に残されているはずだ。専門家ならば、今は乾燥しきっていても、昔、川が流れていた場所を探し出すことが出来る。等高線地図を分析することで、ビータックは古代にナイルデルタの東部を流れていた全ての支流を一つの地図上に描き出すことが出来たのだ。過去数千年の間に水が流れていた支流の跡は沢山見つかった。
ビータック「これがその地図だ。古代から現代までの全ての流れのルートが判る」
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地図はピラメスを示す証拠の一つになるはずだ。都市がどこになければならないかを示している。古代の記録によればピラメスは最も東を流れる支流の河岸にあった。ビータックの仕事はラムセス大王の時代に最も東を流れていた支流のルートを確定することだった。そのためには、全ての支流がいつの時代のものか年代特定しなければならない。その作業を土器で行うのだ!

古代エジプトでは、都市や居住区はナイルの河岸に造られていた。
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デルタにおいてもナイル支流の水の流れは飲料水や生活排水や運送に欠かせなかった。古代の町のように、ピラメスにも人で賑(にぎ)わう通りや居住区があり、そこには何トンものゴミや土器の破片が捨てられ、残されていた。その土器が見つかれば、年代が推定できる。つまり、都市があった時代が判るのだ。古代に流れていた全ての支流の付近で土器を見つけ出せば、どの支流に、いつ頃、水が流れていたのかを言い当てることが出来る。
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全ての土器や陶器は、それが造られた時期に応じた特徴を持っている。粘土の種類、製造方法、焼き固めたり釉薬を施したりする手法は、全て固有の時代を指し示す。
ビータック「陶器を調べるだけで、30年から50年の精度で造られた時代が判る」
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つまり、支流の地図と彼が持つ陶器の年代に関する知識を組み合わせれば、ビータックは、いつ、どこをナイルの支流が流れていたかを正確に言い当てることが出来た。更に、陶器の量は、どこに最大の居住区があったかも教えてくれる。彼は多大な努力を注入してデルタにおける土器の情報を収集していたのだ。

ピエール・モンティが予想したように、タニティク支流として知られるナイルの支流の一つは、モンティがピラメスを見つけたタニスTanisの近くを流れていた。
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問題はビータックがその支流の時代を年代特定した結果だ。支流にそって見つかった土器はピラメスの時代のものではなかった。タニティク支流はラムセス大王の時代、存在していなかったのだ!
ビータック「つまり、タニスはピラメスではあり得ない!」
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ビータックが見つけた事実は驚くべきものだった。タニスではラムセス大王の時代の土器は見つからなかった。彼の死から2百年後の土器ばかりだった。ピエール・モンティがタニスで見つけた遺物が全てピラメスの物であったとしても、そこに偉大なファラオが彼の都を建てることなどできなかったのだ!

モンティが発掘を進めていた当時、タニスで多くの土器が見つかっていた。モンティは、見つかった全ての像やオベリスク同様、土器もラムセス二世の時代のものだろうと思っていた。だから土器を詳細に調べなかった。もし調べていたら、モンティはタニスの奇妙な事実に気付いていただろう。ラムセス大王の時代、タニスには偉大な都市は無かったのだ。
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ビータック「ここにはラムセスの都市は無かった。しかし、残されていたものは全てラムセスと関係するものだ。だから問題が起きたのだ」

タニスで見つかった記念碑も、建物も、像も、疑いもなくピラメスのもので、ラムセスが造ったものだ。奇妙なパラドックスだ。素晴らしい都市が何故、造られもしなかった場所に出現したのか?最初に造られた場所は、一体全体、どこだと言うのか?
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ビータックは興味を持った。モンティが残したパズルを解かねばならないとまで思うようになった。ピラメスの本当の位置を見つけるのだ!地図のおかげで、彼はそれを探し出す手段を持っているといえた。見つかった土器の情報から、一つの川が突出していた。全長100Kmのペルージア支流Pelusischerだ。
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この古代の支流に沿って、ラムセス大王の時代の土器が見つかっている。ラムセスの時代、この支流がデルタの最も東で、活発な流れだったのだ。従って、ピラメスは、今は失われているペルージア支流の河岸になければならない。

この時点からビータックはドイツ人考古学者エドガー・プッシュEdgar Puschとチームを組んで都市を探すことにした。
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プッシュ「ここがタニス。で、ピラメスではないことは判っている。そして、ここにペルージア支流を見つけている。その流れに沿って、ピラメスの時代の土器を発見している。特にカンターQantirの一帯で見つかった土器の量は多い」
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実は、彼らはカンターがピラメスではないかと推定する手掛かりをモンティの調査から得ていたのだ。モンティが発掘調査していた時、彼はカンターで発見された石の欠片を見ていた。そこにはラムセスのカトゥシュが彫られていたが、無視したのだ!

ここがカンターだ。タニスの30Km南の地点だ。ここが失われた都市ピラメスなのだろうか?
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プッシュが初めてカンターを訪れた時、そこには見るべきものは何もなかった。像も、オベリスクも、寺院も、見当たらなかった。失われた偉大な首都だったことを示すものは何もなかった。
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プッシュ「最初にこの地を訪れた時、ショックを受けた。地上には何も見るべきものが見えなかった。どこから手を付けたらよいかを示すどんな手掛かりも無かった」
カンターはエジプトでも最も肥沃な地帯の一つだ。隅々まで開拓され、古代世界の全ての証拠は地上から消え失せていた。考古学的には焦土と同じ状態だった。
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プッシュ「我々がここで発掘を始めた時、何も見つけられないだろうと誰もが言っていた。全てが破壊されていて、何も残っていないと」
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しかし、この地のどこかに、ビータックが提案したように、エジプト考古学の聖杯が横たわっているとプッシュは考えていた。ラムセス二世の失われた都市ピラメスが!
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彼らは発掘を開始した。どんな小さなヒントすらも見逃さないよう、注意して発掘を進めた。奇跡的にも発掘から3日目、地表から10cmの所でプッシュのチームは興味深い証拠品を見つけた。
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これらの削り加工されている奇妙な品々は、カンターが、何処にでもある場所ではなく、彼らが捜しているもの全てを秘めた場所だと暗示する、地中から現れた最初の決定的な証拠だった。しかし、その時は、それらの品物が何なのか誰も判っていなかった。
プッシュ「当時、我々は、これらの欠片(かけら)を“壊れた容器の欠片”とか“壊れた花瓶の欠片”などと呼んでいた」
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発掘を続けていくと、次々と不思議な欠片が見つかった。そして遂に、素晴らしい品を発見した。
プッシュ「馬の頭に着ける一式の完璧な形の金具だ」
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「青銅を使ってエジプトで造られたもので、実物が見つかったのは初めてだ。完璧な状態なので、昨日、造ったように見える」
その金具を見つけた場所を発掘していくと、別の驚くべき発見があった。
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プッシュ「石を組み合わせた奇妙なものを見つけた。2つ並んでいた。オスの馬がこの上に立ち、穴に小便をする場所だと判った。つまり馬のトイレだ。ここに写真があるが、当時の馬と同じ大きさのミュール(muleラバ)を二頭、連れて来たところ、右側のミュールは、まさに、穴に向けて小便をしたんだ」
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6列で、各列に10の馬小屋があった跡も見つかった。各馬小屋には複数の小型の馬が飼われていた。厩舎(きゅうしゃ)は460頭の馬の住家だったのだ。そんな大きい厩舎なら軍事施設の一部としか考えられない。馬はファラオの軍隊の重要な必需品だった。
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そして厩舎があった時期はラムセス大王が生きていた時期と一致する。

何百もの不思議な品物の発見が続き、いくつかは完全な形で見つかった。それが決定的な重要証拠となった。
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プッシュ「これらが何に使われていたものかに我々が気付いたのは偶然だった。例えばこの石の節(ふしnode)はツタンカーメンのチャリオットの馬に固定される側の部品と同じだ」
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見つかった何百もの石の節は、ラムセスのチャリオット軍隊で馬とチャリオットを一体化して安定するために使われていた部材だったのだ。馬の数と結び付ければ、意味することはたった一つだ。古代の記録が、ピラメスにはチャリオットの軍勢が駐在していたと言っていたように、発見された規模から考えると、ここは正にラムセス二世の失われた都にふさわしい。
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軍の駐屯地を発掘するだけでビータックとプッシュは1年を要した。都市ピラメスは広大だ。この速度で発掘を続けたら数百年かかる。そこで彼らは新しい技術に目を向けた。土を掘り起こさなくても、カンターに眠っているものを知ることが出来る。電子電磁走査器で、時代の先端を行く技術だ。
プッシュ「誰も、それが上手く機能するとは考えていなかった。ま、折角だから、準備してやってみようか。そんな感じだった」
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古代の施設の壁や基礎は地中に何らかの痕跡を残している。電子電磁走査器は電磁波を地中に侵入させ、異物を感知する。もしピラメスの基礎がこの平地の下に残っていれば、土を掘ったりしなくても、通りや建物や壁の痕跡を見つけ出す。

当初、地中を走査して調べても何も見つからないのではないだろうかと、誰もが考えていた。しかし、それは間違いだった。
プッシュ「結果を見て、みんなが目を疑った。地中から建物が並ぶ様子が浮かび上がって来たんだ!その日のことは忘れられない」
走査器は地下数cmに建物の痕跡が広がっていたことを示していた。
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プッシュ「ここには壁が走っている。通りの跡が見えるし、建物も、沢山並んでいる」
初日の1日だけで、2平方Kmをも調べることができた。この方法の調査としては世界一の速さだっただろう。調査を進めていくと、カンターの野原の下から、数千年を経た後の広大な都市ピラメスの基礎が現れ始めたのだ。
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プッシュ「この広い一画で最も興味深いのは、中央辺りにある巨大な構造物だ。4万1千平方mもある!」
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「中心にある建物の中には沢山の部屋が連続して並んでいる。柱も全て対照的に配置されている。この構造物の機能は恐らく寺院だろう。」
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寺院は古代エジプトでは生活の中心だった。巨大な柱が並ぶ広間や壁や飾り物が人々を威圧していた。
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プッシュ「これは西側で走査して調べた結果だが、直線的に伸びている通りに沿って、高級住宅街が広がっている。この一画は壁で囲まれていて、南側にはペルージア支流があった」
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そこは豊かな人たちの居住区だった。この一帯のナイル支流に面した部分で、将軍や貴族の名前が彫られた玄関の鴨居(かもい)も見つかっていた。
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プッシュ「東側の走査結果を見ると、小さな建物が密集している一画がある。建物を隔てる路地は、直線的でもないし、格子状でもない。身分の低い人や職人が暮らす住居や仕事場があった区画だと思われる」
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高級住宅街とは対照的に、小さな住居が密集し、入り組んだ、狭い通りが一帯に広がっていたのだ。
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プッシュ「つまり町の西と東で大きな違いがあったんだ」

建物が配置されている面積の規模から、ここがピラメスであることは間違いない。特に、一つの構造物はとても見事なものように思われるのだが、電子電磁走査器では検査できない領域に広がっていた。
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現代のカンターはデルタの典型的な町で、小さな家が雑然と集合し、配置されている。その町の周辺での走査結果から考えると、今の町は、ラムセス二世の王宮の上にあるのだ。

過去の記録によれば、ラムセスの偉大な王宮は広大だった。都市の中心にあり、記念碑で装飾され、彼の統治を祝福していた。外周を囲む壁は光り輝くタイルで覆われていた。
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電子電磁走査で浮かび上がって来たピラメスは、かつて、偉大な構造物が並ぶ都市だったことが明確になって来た。

ラムセスの偉大な力がどのように及んでいたかは、他の遺跡から垣間見ることができる。
アイダン博士「ラムセスの偉大な寺院はピラメスから失われてしまった。しかし、彼がルクソール寺院に建てた塔門(パイロン)やカルナック神殿や、後年に建てたハーブ寺院を見ると、その当時、支配的な都市だったピラメスがどんな様子だったかが想像できる。
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電子電磁走査は、広大な都市の中を走る、建物が何もない場所の様子から、もう一つの秘密を明らかにしていた。空白の場所はナイルに繋(つな)がる多くの運河や湖や水路の場所を示していた。
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この事実はピラメスが特徴的な都市だったことを教えてくれるジグソーパズルの最後のピースだった。

町には広大な寺院があった。川の近くには裕福な人たちが暮らすビラがあった。町の周囲では、うねりながら伸びている通路の両側に小さな家が密接して配置されていた。そしてファラオのための王宮もあった。
しかし、ラムセスは都市をデルタに造ることで、従来とは全く異なる都市を造り上げていた。ナイルと繋がる運河や水路が張り巡らされたピラメスは、当時のベニスとも言える都市だったのだ。
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しかし、ビータックとプッシュがカンターで本物のピラメスを発見したとすれば、ピエール・モンティがタニスで見つけたのは何だったのだろう?
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アイダン博士「カンターで見つかったものがピラメスの跡だと判った時、ならばタニスは何だったのかと不思議に思うのは当然だ。そこにはピラメスから来たとしか考えられない遺物が残っているのだから。それらはタニスで何をしていたというのだろう?偽物なのか?地球外生物がバラまいた物だとでもいうのだろうか?」
ピラメスは見つかった。しかし、同時に2つ存在していたように見える。タニスには建物が残っている。基礎はカンターで見つかる。どうしてこんなことが起きたのだろう?その答えは興味深い。

ラムセス大王は都市の場所を古代ナイルのペルージア支流の河岸に選定した。
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都市はピラメスと名付けられ、支流の慈悲を受けて繁栄した。しかし、ラムセス二世の死から150年後のある日、運命は変わったのだ。川底が高くなったペルージア支流は方向を変え、当時のベニスを水のない都市のまま残すことになった。
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ビータック「ペルージア支流は、ラムセスの時代、ここを流れていたが、流れが変わり、水はタニティク支流に流れ込んでしまったのだ」
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流れていた支流が失われてしまったことはピラメスにとって大惨事を意味した。かつて見事だった大都市は世界から隔離され、放棄されることになったのだ。その代わり、ラムセス大王の死後、後継者が奇妙なことを決断する。
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3千年前、古代のエジプト人がピラメスに何をしたのかという謎に対するヒントは、思いもしていなかった場所から現れた。現代のカンターの草原の真ん中に隠されていたのだ。
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ラムセスがピラメスで建てた多くの巨像の一つの足だ!それ以外の部分はどこか別のところにある!

タニスTanisでは足が無い巨像が沢山見つかっていた。
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それは古代のエジプト人が信じられない行動をとった結果だった。足はカンターQantirに残されていたのだ。彼らは彼らの都市を移したのだ!ナイルの支流がその時に流れていた場所に。
ビータック「ピラメスは放棄され、タニティク支流の河岸に新しい都市が造られた。それがタニスだったのだ」
これが、ピラメスが2つの場所に同時に現れることになった謎を解く唯一の可能性だ。ラムセスの死からおよそ150年後、ピラメスの付近を流れていた川は方向を変え、都市の機能は停止した。意に反して見事な場所を放棄することになった人々は、都市をナイルが流れる場所に移すことにした。ピラメスの建物や像は一つずつ解体されていった。それはかつて建設された偉大な都市を甦(よみがえ)らせようという記念碑的な仕事だった。最大の石像の重量は数千トンもあった。数百人の労働者が木製の橇(そり)を使って一つの石像を運んだ。
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像やオベリスクのような記念碑は塊のまま倒され、寺院などの建物は部材に解体されて運ばれた。現実に行われていた作業に関する記録が残されないので、都市の移転にどのくらいの期間が費やされたのか、何人くらいが事故で死んだのかなどは判っていない。
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いずれにしても、巨大なジグソーパズルのように、ラムセスの偉大な都市は解体され、新たにデルタの東側を流れる支流の河岸に運ばれ、再組立てされたのだ。
アイダン博士「ピラメスは死に、ピラメスの石を使って、新しい町がデルタの東側に生まれることになった」
ピラメスの全ての像やオベリスクや寺院などの石材を使って造られたタニスは、新しいファラオの故郷に生まれ変わった。
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しかし、全ての偉大な都市や文明と同じように、タニスも、ある時期に崩壊し、歴史の中で色あせていった。3千年後に発見されると謎を生み出したが、考古学者たちは、今、やっとその解明を終えることが出来たのだ。
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Lost Cities Of the Ancients : The Vanished Capital Of The Pharaoh
https://www.youtube.com/watch?v=CFd0Afs-6YI

次の写真はGoogle EarthでみつけたTanisの遺跡です。
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像やオベリスクにはラムセス二世のカトゥシュが彫られた物が多いので、上の写真の像もラムセスかも知れませんが、後述するように、そうではない可能性も若干あるのです!?

英語版Wiki:Pi-Ramessesには次の記事が見つかります。
「ピラメス(ラムセスの家)は、第19王朝のファラオ“ラムセス二世”によって古代のアヴァリスAvarisの近くのカンターQantirに造られた新しい首都だった。セティ一世(mhラムセス二世の父)の夏のパレスとして使われ、ホルエムヘブ(mh第18王朝の最後のファラオ)の下で働いていたラムセス一世(mh第19王朝最初のファラオでセティ一世の父)によってその基礎が造られていた可能性がある」
ピラメスはラムセス二世だけの町じゃあなかったんですね。

で、畑の中で見つかったラムセス像の足の写真もありました。
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ネット記事によれば、1970年代にオーストリア人考古学者マンフード・ビータックによってQantieの調査が始まり、1999年までに75,000平方mの電子電磁走査を完了したとありました。
現在も発掘は他のメンバーに引き継がれて進んでいるようで、最近の様子は次の通りです。
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カンターQantirで発見されたラッカーで上塗りされた煉瓦にはラムセスのカトゥシュが刻まれています。
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カンターQantirがピラメスPi Ramessesだったのは間違いないと考えてよいでしょう。

YahooとGoogleのホームページで、“ピラメス”“パイラムセス”で検索しても、ラムセスの都を示す何の情報もヒットしません。ウィキ「ラムセス」にはラムセス二世の記述がありますが、ピラメスについては全く触れられていません。日本から遠く離れたアフリカの、今から3千年も前の一時期、1百年だけ首都として存在し、その後、直ぐに失われてしまった都市ピラメスに関心を示した日本人は、mhと、このブログの読者だけかもしれません。

で、次回のブログですが・・・
タニスをピラメスと早とちりして面子を失ってしまったピエール・モンティ氏の名誉挽回のお話をお送りしようと思います。
実は、モンティ氏は、タニスを調査していた時に“銀のファラオThe Silver Pharaoh”を発見していたのです!ファラオって言うんですから、王ですね。勿論、ラムセス二世のミイラを発見したわけではありません。彼は大勢の子供達と一緒にテーベThebesの王家の谷The Valley of The Kingsに眠っていましたから。

銀のファラオとはどんな人物か?
彼は何をしたのか?
何故、銀なのか?

それは次のブログでご紹介致しましょう。
(完)

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mh徒然草124: 入院してきました。


今日は12月10日(土)。3泊4日の親不知抜歯入院から戻ったところです。初日は午前10時に病院にいき、入院中の生活や手術の流れの説明を受けただけで、入院室のベッドに案内され、本を読んだり、音楽を聞いたり、TVを見たりしてダラダラ過ごしました。

翌朝は朝食も水も禁止で、点滴です!手術室に入ったのは11時35分。点滴の針を介して麻酔薬が注入され、酸素マスクのようなものを付けたことまで覚えていますが、気が付いたら自分の病室のベッドに戻っていたという有様で、1時間半の記憶は全く残っていません。

で~全身麻酔が効いている間は無呼吸なんですね!知りませんでした!実は、全身麻酔の手順を事前に専門医が説明してくれていた時、医師の携帯に電話が入り“呼吸が始まらないんですが”とのこと。マッサージを続けるよう指示したので“心臓マッサージ?全身麻酔に罹る(かか)と“あの世”にいる状態と同じなのか?!”と一瞬ドキリとしました。が、後で美人の薬剤師(千晶さんと言います)が来たので、確認すると、“そんなことはありません!心臓は動いていますよ!”とたしなめられ、理解した次第です。でも、肺呼吸は止まるんですから、それは奇妙な時間と言えるでしょう。

で、以前もお話しましたが、病院には老人が多いです。入院患者の5人に4人は65歳以上ではないでしょうか。
病院に棲み着いているような雰囲気の人もいました。点滴だけで食事を摂らない人も大勢いました。私が入った6人部屋にも、点滴だけで暮らすお年寄りの男性がいて、時々、ベッドを区切るカーテン越しに看護婦との話が聞こえてくるのですが、介護保険に加入していないようで、看護婦が気遣っていました。知人が見舞いに来たのですが、病人の体調がよろしくないようで、話題は少なく、見舞客は“そりゃぁ大変だねぇ”と同情するばかりで、慰めようもないといった空気が伝わってきました。

ベッドで夕食を摂った後、暇つぶしに病院内を散歩していると、80歳くらいの御婦人が、ロビーに設けられた待合室のテーブルで夕食を食べていました。一緒にいた40歳くらいの若者は息子さんだと思いますが、帰宅する前に工事現場から病院に寄った様な服装で“こぼすといけないからお椀は手に持ったほうがいいよ”って言って、その後は母親が食べる様子を暖かく見守っていました。母親の方は、息子から言われるまま、そうだね、っていう感じで一言も話さないのですが、二人を見ていた私の心は温まりました。

カーテン一枚を隔てた、私の直ぐ隣のベッドでは、恐らく40台の男性が、これまた点滴だけで過ごしていましたが、連日、午後6時ころになると若い女性がやってきて、仕事の話をしていました。病人は、職場では信頼されているようですが、若くして入院となると、重篤な病かもしれません。で、この男性、鼾(いびき)がすごいんです。病気と関係があるとしたらと思うと、寝不足のmhも複雑な気分でした。

入院中の患者同士で会話して時を過ごしている様子は全く見かけません。みんな、ポツンと一人で過ごします。入院が長い人は少なく、人の入れ替えが多いことが理由かも知れませんが、ベッド室で、お互いの病気の話をしても楽しくないし、カーテン越しに聞かされる他の入院患者も気が滅入(めい)ってしまうでしょうから、患者同士で会話することはありません。こんな調子で長期間入院していれば、本やTVにも飽きて、結局、寝て過ごすことが多くなります。

落ち込んだ雰囲気から救ってくれるのは、看護婦の訪問です。“体温と血圧を測りましょう”、“気分はどうですか?”、“トイレに行った?”、“オナラ出た?”、“血圧、少し下がったみたいね”などという埒もない内容ばかりですがホッとさせられる瞬間です。

入院された体験があるなら、健康がいかに重要か、お分かり頂けるでしょう。入院なんかするものじゃあありません。楽しいことなんか何もありません。点滴だけで生き延びる人生なんて意味がありません。入院などしなくて済むよう、普段から健康第一で過ごすことが大切だと痛感しました。

しかし、誰しも、不運にも入院し、点滴だけが命の綱になる可能性を持っています。そんな時、生きている喜びを感じるのは看護婦など病院のスタッフとの会話だけかも知れませんが、もし、家族や友人が時々見舞いに来てくれるとしたら、入院生活を耐え凌ぐことが出来るでしょう。家族も友人もなければ、入院中のほとんどの時間は苦痛でしかないと思います。誰も、そんな時間を過ごしたくないでしょうから、元気なうちに家族か、友人を持つようお薦めしておきます。あなたさえその気になれば、家族や友人を持つことなどたやすいはずです。

短い入院生活でしたが、人間は一人では生きていけないことを再認識させられました。ブログでYou raise me upという歌をご紹介しましたが、このYouを持つことが、ひょっとすると人生で一番重要なことじゃあないか、と思いました。

Frank Sinatra: Strangers In the Night
https://www.youtube.com/watch?v=nHuko5BCFzA&list=RD3un5f6qLi_k&index=28

(完)

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力の本の不思議


“力の本The Book of Power”とは?
・・・・・・・・・・・・
Myth Hunters:神話ハンター
The Nazis and the book of power:ナチスと力の本
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1944年、戦時中のイタリアの瓦礫の中、ドイツのエリート軍団は特別な任務を帯びていた。彼らはナチスの残虐なSS(ナチス親衛隊)のリーダ“ハインリッヒ・ヒムラー”の命令で派遣されていた。
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イタリアが連合軍の手に落ちる前に貴重な宝物を見つけ出すためだ。彼らが捜していたのはアーリア人種に関する聖書とも呼ばれ、ナチス・ドイツNazi Germanyの最も恐ろしい政策を正当化するだろう本だった。
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作家ガイ・ウォーカ「その本は人々の間には差があるという考えに対して学術的な正当性を提供するものだ。」
作家クレブス「これは、かつて“我々の祖先は純粋で、他の人々とは似ていない”ことを示すものだ。」
ウォーカ「ある人種が劣っているという考えを創造してしまうと、劣った人種を抹殺するために殺戮し始める合法性を手に入れることになる。」
その本はとても重要だと考えたヒムラーは、熱心に追い求めた。これはナチスが探し求めた“力の本The Book of Power”の真実の物語だ。
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1933年1月、アドルフ・ヒトラーAdolf Hitlerはドイツ首相として内閣を組閣した。
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しかし、彼の権力は見かけほど盤石(ばんじゃく)ではなかった。ナチ党は過半数に到らず、国は分裂していた。ヒットラーは統一の必要性に責められていた。
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ウォーカ「20世紀の中旬、国内が分裂していた小さな国は、どうすれば統一できたのだろう?人々を統一するには、神話を創り出すことだった。」
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ドイツ国民統一の願いを秘めたナチスの神話は、彼らが他のどの人種よりも優れた人種“アーリア人”の子孫であるという考えに基づくものだった。
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(mh:Wikiによればアーリア人とは、広義には中央アジアのステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループで、狭義にはトゥーラーン(ペルシア語で中央アジア付近の地域)を出自としたグループを指すとあります。“前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われ、その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れ、それぞれが次第に独自の文化を形成していった。”)

ナチスは、アーリア人は、全ての文明が生まれた場所、つまりプラトンによって始めて記録された神話の都市アトランティス、から発祥した人種だと主張していた。
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先史時代、北ドイツ平原に棲み着いたアーリア人は、背は高く、亜麻髪の戦士たちで、文明を創造する才能を特異的に保有していたとナチスは考えていた。ヒットラーは、ドイツ人が、この超人アーリア人の直接の子孫だと信じていた。
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オックスフォード大学リアンノン女史「ナチスは、ドイツ人民が、長い年月をドイツで暮らしてきた文明の揺り籠的な人種であるという考えを必要としていたのよ。」

ナチスは、古代のギリシャやローマが地中海を席巻するよりも古い時代に、ドイツ人の祖先が偉大な北部ヨーロッパの文明を生み出していたと主張していた。
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リアンノン女史「この考えは、歴史を出来る限り遡って“自分たちが最初に文明を創った”とか“他よりも進歩している”とか“この世で最も合法的な存在だ”とすることで、世界における地位を認めようと望む時の傾向のように思えるわ。」
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このアーリア人神話で、ドイツ国民を一つの旗の下に集められるとナチスは信じていた。
ウォーカ「あらゆることはドイツ人民が世界で最も優れているという考えを植え付けることに結びついていた。」
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それらしい噂はあったものの、卓越した人種がいたという確実な証拠は存在していなかった。しかし、ナチスの考えを支持する古代の書類は存在していると言われていた。その本は数千年前、ドイツで暮らしている人々について語ったもので、ナチスは、その本が自分たちの理論を全て証明してくれると考えた。“ゲルマニアGermania”と呼ばれる本で、およそ2千年前、ローマで書かれたものだ。
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西暦1世紀、ローマ帝国は最盛期を迎え、帝国はアフリカや地中海から英国まで広がっていた。
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しかし、ヨーロッパ大陸の北部のゲルマニア人は、ローマ人が打ち破ることができない人々の集団で、ゲマーナンと呼ばれた。
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西暦9年、ローマの最も有名な将軍クインテリアス・ヴァレスは、ゲマーナンを打ち破ろうと3つの軍団を率いて出征した。
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獰猛(どうもう)な戦士王ハーマンの指揮の下、チュートバーの森でローマ軍と直接対決したゲマーナン軍は、全能のローマ帝国軍を壊滅的なまでに打ちのめした。ローマの三軍団は全て消滅してしまったのだ!
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リアンノン女史「この戦い以降、ジャーマニー(現ドイツ)はローマ帝国に対して有利な立場を維持できたの。西暦89年のこの惨劇で、将軍クインテリアス・ヴァレスが三軍団を失ったからよ。」
この被害は余りに大きかったので、ローマ皇帝オーガスタスは、ゲマーナンは猛々(たけだけ)しくて押さえつけることができないと認めた。
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リアンノン女史「オーガスタスは、これ以上、ジャーマニーを攻めるのは止めようと決めたの。この考えは強力なメッセージとなって以降の皇帝に語り継がれていったのよ。ゲマーナンは誇り高くて恐ろしい人々だって。」
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ナチスは、近代のジャーマン人(ドイツ人)はハーマン王の強力な戦士たちの直系の子孫だと主張している。そして、“ゲルマニア”という本には、彼らの祖先が卓越していたという証拠が書かれていると信じていた。
伝説の本“ゲルマニア”はジャーマンによって書かれたものではない。西暦98年頃、ローマ帝国の上院議員で雄弁家のコーネリアス・タシトゥスCornelius Tacitousが書いた。
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クレブス「彼は、当時、熟達した雄弁家の一人で、模範的ともいえる政治実績を持っていた。帝国の代議員でもあり、偉大なローマ人歴史家と考えられていた人物だ。」
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タシトゥスは、ローマの歴史の中でも最も廃頽(はいたい)敵な時期に、この本を書いた。彼の作品では、皇帝タイベリアス、クロディアス、ネロなど、ローマの指導者のあさましい統治の詳細についても描いている。
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しかし、“ゲルマニア”の中では、ゲマーナンを称賛していた。
リアンノン女史「彼は、自由人の感覚を強く持っていたゲマーナンほどローマ帝国を困らせた人々はいないと言っていたの。」
本“ゲルマニア”で、タシトゥスはゲマーナンが敬っていた神々、王を選び出す方法、戦で使う武器、若者を有能な戦士に育て上げる厳しい訓練など、ゲルマニアの文化のこまごまとした部分まで称賛していた。
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リアンノン女史「彼らの特徴は質に重きを置いていると考えられていて、それがローマ人から称賛を買っていたの。例えば、彼らの純潔や、お金や利益などには関心を持たないといった真面目さなどをね。」

ゲルマニア「ゲルマニアでは声を出して笑う人はいないし、不正を働くことが当然だという人もいない。王は生まれに応じて、将軍は実力に応じて選出した。いかなる国民も娯楽やもてなしにのめり込むことはない。」
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タシトゥスの記述が自分たちの祖先のイメージに合致しているように思ったナチスは、ドイツ国民にこの考えを広めることに熱心になった。
リアンノン女史「ナチスによって理想的なタイプとして提供されたのが、ある種の純粋さをもち、ローマ人とは異なる方法で物事をやり遂げる人々だったのよ。」
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クレブス「ゲルマニアの伝統は、高貴な野蛮人の栄光とも言えるものとして捉えられていた。」
タシトゥスは、全能のドイツ人について、それ以上のことも記述していた。
彼は、ゲマーナンは物を射抜くような青い目と、ブロンドの髪と、立派な体格を持っていると書き記した。
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簡単に言えば、彼らは完璧なアーリア人だった!
ナチスにとって本“ゲルマニア”は、ドイツ人民が他のどの人種よりも優れた、全能の人種の子孫であるという証拠であり、ドイツ人がアーリア人から発祥していることを直接結びつけてくれるものだった。そしてタシトゥスの言葉は特に、ある一人のドイツ人に共感を与えていた。
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1924年、若くして養鶏業に失業した農夫ハインリッヒ・ヒムラーは長い旅の電車の中で“ゲルマニア”を読み、タシトゥスの言葉に感銘を受けていた。
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クレブス「彼は、2千年前にローマ人歴史家が書いた本の中に、自分が既に信じていたものを見出し、確信を持った。」
“ゲルマニア”を読んだ若きヒムラーは日記に書き記した“私は私たちの祖先の高尚な純潔と気高さという栄光の思いで打ちのめされた。”
作家クレブス「彼は“ドイツ人が再び、このようになるように望む”と日記に書き記した。彼は強く感銘を受けたのだ。」
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その後、ヒムラーはナチス・ドイツで最も権力をもつ男の一人にまで登りつめる。
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ウォーカ「1930年代、ヒムラーはナチス(Third Reich“第三王国”)で極めて重要な人物になる。彼はとても過小評価された人物だった。というのは、口数が少なく、物静かで、眼鏡をかけた読書好きな男のように見え、髪は短かった。昔、養鶏家だったということは奇妙に思われたようだ。しかし、彼を過小評価するのは間違いだ。ナチスの統治の中で着実に権力を獲得し続け、高い地位に登りつめたのだから。」
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ヒムラーは、恐怖の準軍事組織を使い、ナチス国家の多くを統括することになるナチス親衛隊“SS”の最高責任者になった。そして “ゲルマニア”の中で描かれている戦士たちをイメージしながらSSを仕立て上げていった。
クレブス「いろいろな表現があるだろうが、例えば彼は、1924年に自分の日記の中で決意したことをSSの最高責任者として実現しようとしたとも言える。彼はSSがドイツ帝国の将来の先陣を切る組織だと考えていた。」
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しかし、それ以上のものだったのだ。ヒムラーは、タシトゥスの言葉が単にSSのための教訓だとは捉えていなかった。タシトゥスの言葉は全ての真のドイツ人のためのものだ!
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クレブス「タシトゥスの“ゲルマニア”は聖書に例えられる。ドイツ人が持つ全ての思想だ。つまり、全てのドイツ人のモラルは鼓舞され、祖先のように高貴に勇敢になるように高められるべきだと考えたのだ。」
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ヒムラーはナチス・ドイツがタシトゥスによって描かれたゲルマニアのようになることを望んだ。“ゲルマニア”で描かれているように、子供たちは、彼らの指導者に忠誠を誓うように教えられた。この場合はアドルフ・ヒトラーだ。
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ゲルマニア「指導者は勝利のために闘う。彼の家臣たちは指導者のために戦う。」
学校の生徒は、レスリングや武器訓練などを通じ、彼らの祖先の戦士のようであれと教えられた。
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ゲルマニア「裸の若者たちは、自分たちの命を脅かす剣や槍の中でも踊れ!体験は彼らに技を与え、技は優美を生み出す。」
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大勢の子供を産んだ女性には十字勲章が与えられた。多産はゲルマニアの社会でも称賛されていたのだ。
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ゲルマニア「子孫は両親に再び力をもたらしてくれる。」

ドイツ人民は、近接している国家の土地はかつてゲルマニアの種族の故郷で、従って自分たちの物であるというナチスの政策を教えられた。
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しかし、それだけには留まらなかった。ヒムラーはタシトゥスを使って、全てのナチスの政策の中で最も悪魔的な所業を正当化するのだ。

1935年、ナチスは最初の、多くの人種法を打ち出した。“ドイツの血統と名誉の保護の法律”と呼ばれたこの法律は、ナチスの反ユダヤ政策の不吉な第一歩だった。
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クレブス「それはアーリア系ドイツ人とユダヤ系ドイツ人の結婚を禁止している。」
これは“ゲルマニア”の中のある一節に基づいていた。
ウォーカ「ナチスにとって“ゲルマニア”の重要な文は、ゲマーナンは純潔で、他の人種や人々との混血はなく、同種の人民だ、というものだった。」
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クレブス「タシトゥスは、彼らは他の人々と混血しなかったと書いていた。つまり、彼らは先住民であるだけではなく、純潔で、他のどんな人々とも異なっていたのだ。」
ナチスはタシトゥスの言葉を使って、考えもつかなかった恐怖を世界中に広める政策を正当化しようとしたのだ。
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“Judentum ist verbrechertumユダヤ教は犯罪です ”
ウォーカ「それは人種差別に対する考えに学術的な正当性を与えた。ある人種が劣っているとの考えを創り出してしまうと、ある人々の命はそのほかの人々の命よりも価値が低いと思うようになる。一旦、そう考えてしまうと、人々を殺し始めることの正当性を獲得することになるのだ。」
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別の表現をするなら、ドイツ人の“ゲルマニア”の解釈と、ナチスの死のキャンプとの間には、直接の関係があるということだ。タシトゥスの本の解釈のおかげで、1千1百万人を超える人々がナチスによる大量虐殺を受けることになる。
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クレブス「それは、本の中の一節が持つ力が影響を及ぼすことになった悲惨な結果だ。」
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この思想はナチスのイデオロギーにとって極めて重要だったため、ヒムラーは本物の本“ゲルマニア”を入手しようと熱望していた。
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しかし、それには問題があった。タシトゥスのオリジナルの本に何が起きたのか、誰も知らないのだ。そこで、ヒムラーはSS(ナチス親衛隊)の中の最も怪奇で最も不吉な部門の一つに目を向けた。1935年、ヒムラーによって組織された、アーナナーバ(Ahnenerbe;ドイツの公的研究機関の名)という名で知られる機関だ。
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SSナチス親衛隊の中の、ドイツ軍人で構成されている他の部門とは異なり、アーナナーバは学術研究者が集まる研究部門だった。
ウォーカ「もしナチスが知的刺激や学術的な行動をどのように操(あやつ)っていたかという古典的な例を欲しいのなら、アーナナーバを調べるのが一番だ。これはヒムラーによって設立された研究機関で、ドイツ人の深淵(しんえん)に関するあらゆる記述や証拠を調査することを目的としていた。アーリア人種の神話やドイツの文化をどのように構築するかを検討するのが仕事だった。」
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アーナナーバは、歴史を書き変え、ドイツ人民が他の全ての人民よりも優れているとヒムラーが確信するのを助けることが仕事だった。
クレブス「アーナナーバの研究員は本物の有識者で、研究者で、科学者で、リアルクランズ(?)と共に作業をしていた。」
ウォーカ「およそ100人の様々な分野の学術者と、その数と同じくらいの助手がいた。つまり2百人くらいの規模で、形のない学術的な資料を集めてSSの悪事を正当化する仕事をしていた。」
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ヒムラーの命令を受けたアーナナーバは、タシトゥスの失われた書物を調べ始めた。すると直ぐ、問題に直面した。タシトゥスの原本は既に存在していなかったのだ!ローマ帝国の崩壊と、その後の数世紀に渡る暗黒時代に、重要な書類の多くは失われていた。
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しかし、一縷(いちる)の希望は残されていた。アーナナーバは、本が、ローマの火災の手を逃れ、歴史上のある時点で、一つの完璧な写本が造られていたことを発見した。
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しかし、この写本も失われていた。
リアンノン女史「古典の本を見つけるのはとても難しく、際(きわ)どい作業なの。でも私たちは、今では“ゲルマニア”を読むことができるのよ。それは昔、写本されたものよ。」
15世紀の中頃、イタリアを旅行していた学者が南ドイツの修道院で一文字一文字を写し取って“ゲルマニア”の見事な写本を作ったと言われている。この写本はアッシーナス・コーデックスAesinas Codex(アッシーナス写本)と呼ばれて知られていた。
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クレブス「それこそがハインリッヒ・ヒムラーが手に入れようと望んだものだった。オリジナルに近いものであればあるほど、ドイツの過去に近いと言えるからだ。」

アーナナーバは直ちにアッシーナス写本を手に入れる作業に取り掛かった。
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世界中のそれらしい場所を調べ上げた結果、いい知らせをヒムラーに届けた。1936年、アーナナーバは、彼が切望していた本が見つかったと報告した。

アッシーナス写本はイタリア東部にあった!
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2百年の間、イタリアのエリオ・バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵の私的図書館の膨大な資料の中に埋もれていたのだ!
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伯爵の息子「私の父は3つの家を持っていた。」
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一つは今も残っているこの場所だ。」
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「他の一つはパレス・アレシノ(?)で残る一つはパレス・イエイジー(?)だ。」
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クレブス「アッシーナス写本はイエイジーのパラッオー(パレス?)に保管されていた。でも、みんな、そんなことは全部忘れていたんだ。」

伯爵の図書館はカサノバの手紙やシセロの書物など、他にも沢山の重要な書類を保管していた。
クレブス「従って、アッシーナス写本が見過ごされていたのは無理もない話だ。」
その結果、エリオ・バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵は、アッシーナス写本がナチスにとって重要だなどということには全く気付いていなかった。
息子「それはこの図書館にあった。誰が買い集めた物か、どんなに重要なものか、誰も気にしていなかったんだ。」
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しかし、この状況は直ぐに変わることになる。

1936年、イタリアはベニート・ムッソリーニBenito Mussoliniによって統治されることになった。
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ヒットラー同様、彼もファシストのリーダだった。この残忍な大衆主義の政治家populistは1922年のクーデターでイタリアの実権を握り、自分のことをエ・ドゥチェ“リーダ”と宣言していた。
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実権を握っていたドイツ総統のヒトラーは、イタリアの共謀者に注意深く言い寄った。ヒムラーの要請を受けたヒトラーはイタリアの独裁者に、写本を入手しナチス・ドイツに提供してくれるよう要請した。ムッソリーニは二つ返事で合意したようだ。
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息子「もしヒトラーがその写本を強く望んでいたとすれば、それを提供するのは好い結果をもたらすだろうとムッソリーニは考え、我が家から写本を手に入れようとしたようだ。」
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ヒムラーは、その写本を自らの手で握るのは時間の問題だと考えていた。

1936年、彼は意気揚々とナチス党大会に戻るつもりでいた。そこには数十万人の党員が集結するのだ。
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タシトゥスの言葉を引用したパネルが飾り付けられた巨大なドイツ的な部屋が造られていた。入り口のドアの上にはヒットラー自身の言葉が掲げられていた。
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“ドイツ人は忠誠心に富み、調和の美徳を持っている。”
“新しい国家はその徳の上に建てられた。”
しかし、ヒムラーはバルデスキー・ヴァリアーニ伯爵の頑固さを計算にいれていなかった。

ムッソリーニ政府の使者が伯爵の豪邸Villaでの打合せのために派遣され、アッシーナス写本を供出するよう伯爵に要請した。
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しかしバルデスキー・ヴァリアーニ伯爵は命令されることに慣れていなかったのだ!
息子「ムッソリーニはヒトラーに贈呈するために写本を欲しがっていた。しかし、私の父はファシストが好きではなかった。ムッソリーニが好きではなかった。」
伯爵は、ムッソリーニは馬鹿馬鹿しい男だと考えていた。もったいぶった成り上がり者の要求を詳しく聞くこともないまま、本の提供を拒否した。
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息子「それはムッソリーニを喜ばせなかっただろう。勿論ヒットラーもね。でも、私は父の態度を自慢に思っているよ。」
ヒムラーはムッソリーニの失敗に激怒した。さらに悪いことに、本を入手しようというヒムラーの執念に対するヒトラーの関心は薄れていたのだ。
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クレブス「ヒトラーは“ドイツ人の過去に魅惑されている学者肌の人間はわけがわからないよ、それがナチス・ドイツの設立にどんな貢献するというのだろう”といった非難を何度か個人的に話していたようだ。」
ウォーカ「ヒムラーはこの神話に入れ込んでいたが、ヒットラーは、それはあまりにかけ離れた発想だと思っていた。それは必要ではないと考えていた。彼の頭にあったのは政策と権力だけだった。」
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しかし、ヒムラーは諦めることはなかった。彼は自分の使者をバルデスキー・ヴァリアーニ伯爵のもとに派遣し、圧力をかけ続けた。
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息子「彼等にとって本はとても力強い意味を持っていたので、何度かやってきて、本を提供するよう要請してきた。」

2年間も圧力をかけ続けられ、伯爵は譲歩した。ドイツ人は本を手に入れることは出来なかったが、見ることは許された。戦争が勃発する直前、司書が本を梱包してローマに送った。
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そこでヒムラーのために写真撮影することになったのだ。本はローマでヒムラーの使者に渡された。
クレブス「アーナナーバから派遣された人物がイタリアでアッシーナス写本を見る許可を与えられた。彼はそれを写真撮影することが出来た。」
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アーナナーバは撮影した写真を基にナチス版のアッシーナス写本を作った。ヒムラーはその写本の序文を自ら記した。
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“未来は祖先の蓄積を理解する者のみに許される。”

しかし、ヒムラーにとって、これだけでは十分ではなかった。手にしたのはファクシミリで送付されたものだ。彼はオリジナルを手に入れようと決意した。そして、ある日、そのチャンスが訪れた。

1939年、ヒトラーは世界を戦争に巻き込んだ。ムッソリーニのイタリアはドイツの最も重要な同盟国になった。
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二人の独裁者は西側諸国やロシアと戦いを始めた。流血の4年の後、戦争の流れはファシスト同盟に逆らい始めた。1943年、連合軍はイタリア南部に上陸した。
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ベニート・ムッソリーニはイタリアの内乱で失墜し、以降、イタリアは連合国側に味方することになった。
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南フランスを支援するため、ヒトラーはドイツ軍をイタリアに送らざるを得なくなった。ヒムラーはバルデスキー・ヴァリアーニ家からアッシーナス写本を取り上げる好機だと思った。ドイツ軍の進撃に合わせ、ヒムラーは彼が管轄するSS部隊をその地域に送り込んで本を探させることにした。しかし、その本はどこにあるのだろう?
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バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵は3つの場所に建物を持っていた。町にある二つのパラッチー(パレス)と田舎にある一つの豪邸Villaだ。写本はその中の一つにあるはずだ。または、そのどこにもないかも知れない。

最初、ヒムラーの軍隊は、イエイジーの町の郊外にあるヴァリアーニ伯爵の主な住居である豪邸Villaに派遣された。
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息子「ムッソリーニはもう死んでいた。その後でドイツ人が来た。そして自分たちで本を探し始めた。」
しかし、ドイツ軍は豪邸内を探した結果、本が全く残っていないことに気付いた。
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その数日前、伯爵は家族を守るため、豪邸からパレスの一つに家族を移していた。しかし、ヒムラーの軍勢はある一つのことを発見した。伯爵の召使いたちは価値のある全ての物を豪邸から数Km離れた伯爵の別の建物、イエイジーの町のパレス、に移したという。伯爵の宝物はドイツ軍の目を逃れるため、農作業用の荷馬車に載せられ、畑で収穫した作物で隠されて密かに持ち出されていたのだ。
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アッシーナス写本はその宝物の中に含まれていたのではないだろうか?ヒムラーの軍はイエイジーの町のパレスに向かって急いだ。

息子「彼らは“本はどこだ!”と召使いたちに訊きまわった。言葉が通じなかったということもあるだろうし、当時、命は今ほど大切ではなかったということもあるかも知れないが、彼らは上手く聞き出せなかったようだ。」
結局、ヒムラーの軍は、ここでも何も見つけられなかった。
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ゲルマニアの写本も、ヴァリアーニ伯爵の家族も。

ヒムラーのSSナチス親衛隊は注意を伯爵の第三の資産に向けた。30Km離れたオズモーの町のパレスだ。
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息子「家族はオズモーに移っていた。そこが最も安全な場所だと考えたからだ。」

オズモーの隠れ家では、バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵の家族はドイツ軍の恐怖に怯えている人々を目撃していた。
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息子「人々は殺されたり銃で撃たれたりしていた。それを見て子供たちは泣いた。」

勿論、ヒムラーの軍隊はパレスにもやって来た。
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彼らはドアを激しく叩いた。
息子「ドアが壊れるんじゃあないかと思った。その後、部屋に入って来た。」

その時、家族は地下室に潜(ひそ)んでいた。
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ヒムラーの兵士たちは家中を探し回った。しかし地下室への入口を見つけることは無かった。
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バルデスキー・ヴァリアーニの家族は命を長らえることが出来た。そして写本も。

1945年5月8日、6年続いたヨーロッパでの戦争は終わった。
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ゲルマン文化に基礎をおいて建設された千年続く国家というナチの夢は無に帰した。ヒトラーはベルリンの地下室で拳銃自殺した。ヒムラーはイギリス軍拘置所から盗んだシアン化合物のカプセルを飲んだ。
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ニュース「このルネバーグの家でヒムラーは自殺しました。ドイツ人犯罪者の中で最も卑劣な人物は毒を飲むという仕業を成し遂げたのです。」
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戦争の終結と共に、神出鬼没だったアッシーナス写本は実態を現し始めた。この本が本当にナチスの殺人政策を正当化したのだろうか?それはともかく、写本はどこにあったのだろう?
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一つの不可思議は簡単に解決した。写本はヒムラーの軍隊が最初に探した場所から移されてはいなかったのだ。
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バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵の豪邸Villaには秘密の部屋があった。
息子「その部屋には囮(おとり)の窓が付いていた。それは外から開けることができない窓だった。」
囮の窓がある部屋への入口はワードローブ(wardrobe衣装ケース)で隠されていた。
息子「ドアは安全を配慮したもので、家具で保護されていた。だからドアは簡単には見つからないんだ。」
ドアの内側の部屋には何の変哲もないケースがあった。
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その中に、洗濯物に包まれた、ヘムラーが熱望していたものがあった。タシトゥスのゲルマニアだ!
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ナチスの恐怖が去ると、バルデスキー・ヴァリアーニ伯爵は本を隠し続ける必要は無くなった。イタリア政府は、その本を国宝と認定した。その後20年間、伯爵はイエイジーの町の図書館で本を展示公開した。
息子「毎年、イタリア政府は検査官を派遣して、本が間違いなく保管されているか確認した。」
ある年、検査官は伯爵にフローレンスに移しても好いかと訊ねて来た。
息子「1966年、フローレンスから検査官がやって来て、フローレンスで展示したいがいいだろうかと言ってきた。」
伯爵は本を持って一人でフローレンスに向かった。到着すると、地下室の金庫に一晩、本を保管した。翌日、それを検査官のところに持って行くつもりだったのだ。しかし、災難が起きた!
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息子「その夜、フローレンスで洪水が起きたんだ。」
1966年11月4日、フローレンスで最悪の洪水が起きた。水はヒムラーが決して見ることが出来なかったものを見ることになった。
息子「洪水になった。金庫は耐水になっていればいいのにと思った。そうでなければ、インクは水に溶けて、本がゴミになってしまう。結局、最初の2,3ページと最後の2,3ページが大きく損傷してしまった。これらのページは全体が黒くなって、何が書かれていたのかは読み取れる状態ではなかった。」
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宝の写本は永遠に破壊されてしまったかのように思われた。

数か月かけて、高い費用を投入し、忍耐強く修復作業を行った結果、洪水による損傷は改修できた。今日、アッシーナス写本はローマのビブリテッカ・ナショナーレで保管されている。
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およそ2百年間、この本を所有した後、バルデスキー・ヴァリアーニ家はみんなに公開されるべきだと考えたのだ。
息子「この本は公開した方がいいって考えた。それで国立図書館に本を寄贈した。」

タシトゥスの最も古いバージョンの本が世界中の専門家たちに調査されるようになると、ヒムラーが宣伝していた古代ドイツ人と大きく異なる姿が現れ始めた。

まず、タシトゥスは、ヒムラーが主張していたようにはゲマーナン(ゲルマニア人)を羨(うらや)んではいなかった。
クレブス「タシタスはゲマーナンのいくつかの特徴をとても否定的に評価していた。彼は特にゲマーナンの飲酒癖について語っていた。」
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ゲルマニア「一日中、昼も夜も酒を飲んで過ごすことは誰にとっても恥ではなかった。彼らの口論は、ささいな悪口程度で済むことはなく、怪我を負ったり血を流したりする結果になることが普通だった。」
リアンノン女史「彼らは大酒のみで、昼間から大宴会を開いていたと表記されていたの。」
ゲルマニア「彼らはゴロゴロと寝そべっては怠けていた。何もしないくせに、暴れ回るというのは奇妙な性格の組合せと言える。」
クレブス「タシトゥスは彼らがギャンブル中毒に罹(かか)っているようだと明確に記述している。基本的には怠け者だとも言っている。」
ゲルマニア「彼らは、大抵、だらだらと時を過ごし、寝て過ごすことが多く、しょっちゅう宴会を披(ひら)いては飲み食いしている。大胆で戦好きだが、何もしない。」
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リアンノン女史「ある種の単純な社会だけれど、それなりにはまとまっていたのよ。」
実際の所、タシトゥスの表記は、ヒムラーが主張していた完璧なアーリア人の社会からは程遠いものだった。
ゲルマニア「どの家でも子供達は裸で不潔で、誰に対しても、直ぐに悪事を働いていた。」
アーナナーバが、タシトゥスの記述の中から“ドイツ人の高貴なアーリア人祖先”というヒムラーの理論を支持するのに都合が良い部分だけを取り上げていたことが徐々に明らかになって来た。
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クレブス「アーナナーバは、理想からほど遠い記述を、理想に合わせるよう滅茶苦茶に、勝手に解釈していたのだ。」
リアンノン女史「彼らは注意深く選んで、わずかに書かれていた“青い目やブロンドの髪をしている”という人種的な純潔の部分を勝手な発想で拡大解釈して、自分たちが望んでいた結論に結び付けていたのよ。」
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ナチスはタシトゥスのもう一つの重要な記述を隠し続けていた。タシトゥスは自分が記述に残したゲマーナン(ゲルマニア人)を見たことが無かったことはほぼ明らかな事実だった。彼の記述には何の証拠もなかったのだ。彼のいくつかの記述が作り事だったのは間違いない。
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リアンノン女史「彼の記述を終わりまで読むと、ゲマーナンは人間の顔を持ち体は動物だったのではないだろうか、という幻想的で奇妙なイメージを持つと思うわ。」
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「こんな調子だから、写本の内容は作り事ばかりじゃあないんだろうかって誰も警戒するはずよ。」

ヒムラーもまた、別の事実を意図的に無視していた。現在のドイツ人はゲマーナンの直系の子孫ではあり得なかった。
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クレブス「ナチスがゲマーナンについて言及する時、古代のドイツ人とか古いドイツ人だとしていた。しかし、それは根拠がなく、論理の飛躍だった。」
リアンノン女史「ゲマーナンは今日、我々がドイツ人だと考えている特定の人種ではなかったの。人々の集団の全体に与えられていた呼び名だったの。」
クレブス「ナチスはドイツ人の祖先がゲマーナン種族だと誤解していた。簡単に言えば、ドイツ人の祖先はドイツ人でしかなかったのだ。」
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ヒットラーのドイツ人は多くの異なる人々の子孫で、古代の単一の人種の子孫ではなかったというのが真実だったのだ。
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クレブス「古代にはドイツ国家といえるようなものはなく、多くの人種が劇的に何度も何世紀もかけて入れ替わっていた。だから、簡単に言えば、彼らみんなが祖先なのだ。」
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しかし、ヒムラーは、真実や、タシトゥスが記述したことや、ドイツ人の本当の起源については無関心だった。彼は、アッシーナス写本が悪質で人種差別的なナチスの政策を推進する助けになることだけを望んでいたのだ。そして悲劇的な事実は、写本のオリジナルを手にしないまま、タシトゥスの言葉をナチスの虐殺政策を支持するために使ったことだ。その結果、何百万人もが殺されることになったのだ。
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What Is The Book of Power ??
https://www.youtube.com/watch?v=PuleoZAKoME&t=104s

Wikiによれば、当時、ドイツ人の人類学者ハンス・ギュンターは“紀元前2千年頃、初期のアーリア人が中国や日本を含むアジアの大半を占有していた”、“仏陀はアーリア人の子孫だ”、“ヒットラーのイデオロギーは仏陀の思想に関係している”と主張し、ハインリッヒ・ヒムラーは彼の調査機関アーナナーバにこの正当性の調査を指示しています。ヒットラーの考えが、我が尊敬するお釈迦様に通じていると、何をもって主張したのか定かではありませんが、空恐ろしいことをナチス・ドイツは考えていたんですねぇ。どんな生まれや人種であろうと、人間は平等で、その言動だけが、評価を左右するものだというのがお釈迦様の教えではないかと思いますので、ヒットラーとお釈迦様が通じるものがあるなどという馬鹿げた主張は、お釈迦様の教えを全くしらない人間が考え出した屁理屈以外の何物でもありませんが、そんな屁理屈を真面目に、実際には悪用しようと、考える人間がいるということは恐ろしいことです。

しかし、中国や韓国では、こんな恐ろしいナチスだったドイツ人の方が日本人よりも受け入れられているんですから、やっぱ、ドイツ人は日本人より優れた人種かも知れないなぁと考えるmhにはハインリッヒ・ヒムラーの霊が乗り移ってしまったのでしょうか。恐ろしいことです。
(完)

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mh徒然草:慰安婦問題合意のゆくえ


今日は5月11日(木曜)です。
昨日、韓国では文在寅(ムン・ジェイン)氏が新大統領に就任しました。TVで流されていた経歴によれば、朝鮮戦争から逃れ、対馬近くの島に隔離されていた両親から生まれ、貧しい暮しの中で苦労しながら司法試験を通過した人物とのこと。彼の主張をTVで見聞きしていると、立派な人物のように見受けられました。苦労を経験した人は苦労している人の気持ちを理解でき、従って韓国の民主化は進み、貧富の差は縮小し、日韓関係も改善するだろうというのがmhの見立てですが、マスコミや政府には、日本に不都合な人物で、今後のトラブルが予測されるとの見方が多いようですね。

例えば岸田外相に言わせれば“最終的かつ不可逆的”な慰安婦に関する日韓合意については、文大統領は見直しが必要との考えを持っているようで、以前ブログでもご紹介しましたが、mhの考えも、元々から、韓国民にとって納得できるものじゃあないだろうと思っていましたから、やっぱりね、って感じですが、マスコミや日本政府の見解は、韓国に非があるという立場のようです。

2015年12月28日に韓国で行われた日韓両外相共同記者会見での両外相の発表内容を外務省ホームページで見つけましたので確認してみましょう。
そして重要な点は、合意事項は、外相の記者会見での発表事項であって、これ以上でもこれ以下でもないということです。つまり、記者会見で発表された内容に関する合意文書はないし、発表されなかったことは、当然ですが、何の合意もないということです!国家間の約束事で、記者会見声明以外に公式文書がないっていうのはかなり異例じゃあないかと思います。なんでそうなったのか?お釈迦様が仰るように因果応報で、かならず理由はあるんですが、今回はそれを探求する旅は見送って次に進みます。

肝心の記者会見での声明を、外務省のホームページに掲載されている全文でご紹介しましょう。くどいよのですが、これ以上でもこれ以下でもありません。

1 岸田外務大臣
 日韓間の慰安婦問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,日本政府として,以下を申し述べる。
(1)慰安婦問題は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。
 安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。
(2)日本政府は,これまでも本問題に真摯に取り組んできたところ,その経験に立って,今般,日本政府の予算により,全ての元慰安婦の方々の心の傷を癒やす措置を講じる。具体的には,韓国政府が,元慰安婦の方々の支援を目的とした財団を設立し,これに日本政府の予算で資金を一括で拠出し,日韓両政府が協力し,全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復,心の傷の癒やしのための事業を行うこととする。
(3)日本政府は上記を表明するとともに,上記(2)の措置を着実に実施するとの前提で,今回の発表により,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。
 あわせて,日本政府は,韓国政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。

2 尹(ユン)外交部長官
 韓日間の日本軍慰安婦被害者問題については,これまで,両国局長協議等において,集中的に協議を行ってきた。その結果に基づき,韓国政府として,以下を申し述べる。
(1)韓国政府は,日本政府の表明と今回の発表に至るまでの取組を評価し,日本政府が上記1.(2)で表明した措置が着実に実施されるとの前提で,今回の発表により,日本政府と共に,この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。韓国政府は,日本政府の実施する措置に協力する。
(2)韓国政府は,日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し,公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し,韓国政府としても,可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて,適切に解決されるよう努力する。
(3)韓国政府は,今般日本政府の表明した措置が着実に実施されるとの前提で,日本政府と共に,今後,国連等国際社会において,本問題について互いに非難・批判することは控える。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html

これを補足する情報をWikiから抜粋すると次の通りです。
「日韓両政府は2015年(平成27年)12月28日の日本の岸田文雄外務大臣と大韓民国の尹炳世外交部長による外相会談後に行われた共同記者発表で、慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認すると表明し、岸田外相は「当時の軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、日本政府は責任を痛感している」と強調、「安倍晋三首相は日本国の首相として、改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験され心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に心からおわびと反省の気持ちを表明する」と語り、尹外相は「両国が受け入れうる合意に達することができた。これまで至難だった交渉にピリオドを打ち、この場で交渉の妥結宣言ができることを大変うれしく思う」と述べ、韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億円拠出し、両国が協力していくことを確認した。会談では、日韓両政府が今後国際連合などで、慰安婦問題を巡って双方とも非難し合うのを控えることも申し合わせが行われた。この合意の内容については、日韓で公式な文書を交わすことは行わず、日韓の両外務大臣が共同記者会見を開いて発表するという形式で行った。」

外交文書が交わされない不可解な手順を踏んでいる約束ですが、外相として公の場で発表した以上、両国には内容を守る義務があるのは、誰が考えても当然でしょう。

で~どちらかと言えば日本は守っています。日本に必要な具体的な行為は、韓国が設立した財団に事業資金を支援するだけですからね。金額は声明文中にはありませんが、10億円だったようです。一方、慰安婦像の撤去を含めた、過剰行動を見直す、という韓国側の約束は実現していません。最善は尽くしているのでしょうが、結果としては匙(さじ)を投げてしまった感すらありますから、外相声明に照らし合わせてみる限り、韓国の対応は誠意に欠けていると思います。

そもそも、mhに言わせれば、合意内容もさることながら、合意に至る経緯が不透明ですね。何よりも、慰安婦と言われている人々との間で事前の討議が十分行われた上の外相会見じゃあないんです。慰安婦たちは会見の後で合意事項の説明を受けたんですね。

で、大統領が変れば、いや、大統領が変らなくても、両国の考え方や事情が変れば、合意事項の破棄、見直しをするのは問題ないと思います。記者会見声明にも、合意事項の見直しや破棄は認めないという制約はありません。およそどんな国家間の合意書にも、その最終項あたりに見直し条項が付記されていて“片方が見直しまたは放棄を要求したら、双方で見直し協議をし、要求から半年経過後でも、見直し合意に至らなければ、当初の合意事項は全て破棄される”といった約束がなされるのが普通です。今回の合意では、見直しついて何の制約も設定されていませんから、どちらかが見直したい、破棄したい、と相手に伝えたら、その瞬間に、従来の合意は実質無効、または破棄されても手続上の問題は何もないと言えるでしょう。

で~新大統領は、大統領選の公約で、この慰安婦合意を見直すか破棄すると宣言しました。他の対立候補も全員が同じ見解でしたから、日本側も、選挙後には慰安婦問題の合意について韓国から見直し・破棄の申し出があるだろうくらいのことは当然、想定しています。

しかしです。次のようなネット記事があるんですね。
見出:「反日」文大統領に日本政府は・・・
フジテレビ系(FNN) 5/10(水) 18:38配信
「2015年の慰安婦問題に対する日韓合意について、文在寅(ムン・ジェイン)新大統領は見直しを訴えてきた。日本の政府高官は、「再交渉には、1mmも応じる用意はない」と話していて、こうした要求には取り合わない構え。日本政府は、日韓合意をアメリカが評価する声明も出し、二重の鍵をかけていた。この合意は日韓関係の基盤であると新政権にあらためて主張していくことにしている」

“韓国からの再交渉の要求がきても応じない”って言っている日本の政府高官が誰かは知りませんが、こんな阿呆な人物が高官を務めている政府は無能と言えるでしょう。日本の合意などなくたって、韓国は見直しを申し込めるし、それを日本が門前払いするなら、韓国は一方的に合意を破棄すると通達すれば済むわけですからね。その時は、既に使ってしまっただろう日本政府からの支援金10億円は、日本から要求があれば返却しなきゃあいけないと思いますが、大した額じゃあありません。

日本がぐずぐずしていたら、文大統領は、10億を返却し、慰安婦合意は一旦、全てなかったものとする、と言ってくるんじゃあないかと思います。それは外交的に見ても異常とは言えません。日本が再交渉を認めないなら、その行為こそが異常です。

日本の外交姿勢は、特に韓国に対して、異常だと思います。韓国人を馬鹿にしている、見下している、と言えるのではないでしょうか。でなければ「再交渉には、1mmも応じる用意はない」なんて発言が日本政府の高官から出る訳がありません。そんな日本人が外交官として韓国と折衝しても、お釈迦様にお伺(うかが)いを立てるまでもなく、相手の心を開くことも掴むこともできないのは自明の理といえるでしょう。
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Sergio Mendes & Brasil 66 - Mas que nada
(introduced by Eartha Kitt / Something Special 1967)
https://www.youtube.com/watch?v=BrZBiqK0p9E
「マシュ・ケ・ナダ(Mas Que Nada)」は当時のサンパウロのスラングで「まさか」「なんてこった」「やなこった」等と言う意味。スペイン語の「Más Que Nada(最高)」と言う意味と混同されている。
(完)

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ピラミッドの不思議-2


カイロのギザGizaに並ぶピラミッド。
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形は正四角錘で真正ピラミッドtrue pyramidと呼ばれます。真正ピラミッドが生まれるまでには、幾つかの風変わりな“ピラミッド”が造られました。

ピラミッドの発祥を促(うなが)したのは巨大な長方形の墓“マスタバ”です。
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地面に垂直に彫られた深さ10m位の竪穴の底の横穴が墓室でした。
“マスタバ”はアラビア語で“ベンチ”です。エジプト帝国は紀元前525年、アケメネス朝ペルシャに、紀元前332年にはアレキサンダー大王に征服されてギリシャ系プトレマイオス朝に、更には紀元前30年にローマ帝国が征服すると、西暦639年にはイスラム教徒に征服されてウマイヤ朝の一部に編入されました。この時、“マスタバ”という名がつけられたのです。それまで、エジプト人は何て呼んでいたかっていうと・・・
それは後で判ります。

マスタバを6段積み上げた次の階段ピラミッドstep pyramidがエジプト最初のピラミッドです。
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第3王朝ファラオのジェセルDjoserによってサッカラに建設され、最初のピラミッドになりました。

その後、もっと高くそびえるピラミッドを造ろうとした王が出現しました。今回のブログの主人公のスネフェル(Sneferu)です。彼は第四王朝の創始者で、初めて階段ピラミッドを建てた第三王朝のジェセルから数えて4代後のファラオでした。

スネフェルがマイドゥーム(メイダムMeidum)に造ったメイダム・ピラミッドMeidum Pyramid”です。
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ピラミッドと言うより塔のようですが、実は“塔”は崩れやすかったので、それを覆うようにして石が積み上げられ、ピラミッド状になっていたのですが、その外装の石組が崩壊してしまったのです。
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次にスネフェルが造ったのが屈折ピラミッドBent Pyramidです。
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マイドゥームの塔ピラミッドから約45Km北のダシューアDahsurに造られ、今もほぼ、昔の形のまま残っています。

しかし、若干、問題が残っていたのです。そこで、このピラミッドから北2Kmに“赤いピラミッドRed Pyramid”を造りました。それが、今も残る、エジプトで初めての真正ピラミッドなのです。
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表面の白い石灰石は剥がされ、赤い花崗岩が見えています。

次は彼の息子チオップス(クフ)が造ったギザの真正ピラミッドで、エジプトでは最大です。
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使われている石の大きさと量は、いずれも赤いピラミッドの数倍ですが、クフの父スネフェルの方がピラミッド建設では沢山の石を使っていたのです!つまり、スネフェルのおかげで、エジプトのピラミッドは人類史上で燦然(さんぜん)と輝くモニュメントになったと言えるのです。

今回は、真正ピラミッドの生みの親、スネフェルの活躍をYoutubeからご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
ピラミッドは偉業と言えるだろう。ミイラ処理されたエジプトのファラオを永遠に守る墓だった。4千年後の今日でも謎を含んでいる。一人の男がいなかったなら、ピラミッドは存在していなかったかも知れない。
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人里離れたエジプトの砂漠の中で、彼は、エジプトで初めての真正ピラミッドを建てるために、大きな課題を乗り越えた。彼のピラミッドを調べると、その天才ぶりは明らだ。今日ではあまり知られていないが、彼はエジプトのファラオの中でも最も偉大だった。彼とはスネフェルSneferuだ!
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The Great Egyptians偉大なエジプト人たち
Sneferu: The King of the Pyramidsスネフェル:ピラミッドの王
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エジプト学者ボブ・ブライアー博士(Bob Brier)は、更に登らないと頂上に到達しない。
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彼が探求しようとしているのは、ギザの大ピラミッドのような、息をのむ程に素晴らしく、壮大な構造物の建設を指揮した男だ。

ボブ「誰もが大ピラミッドを見て感激します。私が最も感心するのは、その高さです。40階建てビルと同じ高さまで登りましたが、頂上はまだ先です。」
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「エッフェル塔が完成するまで、このピラミッドは地球上で最も高い構造物でした。人々はピラミッドの大きさだけでなく、建築精度にも驚嘆するでしょう。基礎部の面積は13エーカー(約4千㎡/acre)もあります。4つの面は完璧に磁石の方向(東西南北)を向いています。しかし、このような構造物が造られる前に、大きな技術問題が解決されていなければなりませんでした。古代のエジプト人建設者たちは完璧ではありませんでした。失敗や、災難や、問題があったのです。これらの難題を解決した男こそ、ファラオのスネフェルです。これから彼が、ピラミッドの建築方法を教えてくれるでしょう」
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エジプトの歴史の中で、スネフェルは伝説のファラオだった。彼の名は、ナポレオンやアレキサンダー大王が今日の我々にとって有名なのと同じくらい有名だっただろう。しかし、運命の不思議によって、今日、彼はほとんど知られていない。その理由は観光客の大集団が訪れている、彼の息子たちや孫たちによってギザに造られたピラミッドに在るのかも知れない。実際の所、ギザに並んでいるピラミッドは偉大なピラミッド建設時代の最後の作品とも言えるもので、数代前の祖先の技術を引き継いだ職人たちの、想像を絶する努力の賜物(たまもの)なのだ。

スネフェルが建てたピラミッドは訪れる人もなく、人知れず立ち続けている。ギザに立つピラミッドと大体同じくらいの大きさだが、これらは初代のものだ。この場所でピラミッドの建設技術が生まれた。
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しかし、ピラミッドはスネフェルについて何も語ってくれない。彼がどんな外見をした男なのかを知るため、ボブ・ブライアーはカイロにある観光客であふれたエジプト博物館を訪れた。
ボブ「ここが、この博物館で私のお気に入りの場所です。私以外には誰もここにいませんが、歴史的に素晴らしいものがあるのです。」
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「これは世界で初めてのカトゥシャです。ファラオの名前を囲む不思議な楕円です。中にスネフェルと書かれています。」
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「彼は我々が個人的な逸話をもつ最初のファラオです。彼は人間で、私たちは個人的に彼を知っています。アリストテレス(羅: Aristotelēs、英:Aristotle)やプラトン(Plato)より2千年前の男ですが、神話の人物ではありません。人間です。彼がどんな外観だったのかは知ることが出来ます。これは玉座に座っているスネフェルです。」
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「理想化された人物画ではありません。永遠を見つめているファラオでもありません。実際の外見に似せて描かれたものです。顎(あご)を見て下さい。後退しています。どこにでもいそうな人物に見えます。しかし、彼は偉大なことを成し遂げた偉大な男なのです。彼は世界の歴史におき、偉大な建設事業を成し遂げました。スネフェルがいなかったら、ピラミッドは生まれなかったでしょう。彼はファラオですが、地上の神でもありました。そして、神として、彼は人間の心が想像し得る最も素晴らしい墓を必要としていました。彼はピラミッドを必要としていたのです」
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エジプトで最も大きい6つのピラミッドは、全て、ある時代の1百年以内に建てられた。偉業と言ってよいだろう。初期の未熟な文明の中で、銅製の工具だけを使い、マイドゥームMeidum、ダッショーアDahsur、そしてギザGizaにピラミッドを建てるため、1千万個以上の石を切り、運び、正確な位置に据え付けた。1個の石の平均重量は2トンもあった。
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1百年の間、毎日、昼も夜も、3分毎に、1個の大きな石のブロックを移動することを想像してほしい。エジプト人はこの仕事を成し遂げたというだけではなく、車輪を使わずに行ったのだ。車輪を使ったとしても砂漠の砂に埋もれて動きがとれなかったことだろう。全てのブロックは橇(そり)やローラーでピラミッドの最終場所まで運ばれた。信じられないことに、漆喰mortarは全く使われていない。積み上げられた石のブロックは完璧に配置され、寸法は1mm単位の精度さだった。
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エジプトには70以上のピラミッドがある。毎年、数百万人の観光客が訪れるのは、後継者たちのピラミッドだ。しかし、エジプトの人里離れた砂漠にあるのは失敗作だ。放棄しなければならなくなった、見事な残骸だ。
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スネフェルは真正ピラミッドtrue pyramidの建設に初めて成功した。
この、人に知られていない天才は、エジプト文明の初期において国を統治していた。クレオパトラがシーザーを招待し、スネフェルが造ったピラミッドを見せたのは完成から既に25世紀(2千5百年)後のことだ。つまりスネフェルは最初の偉大なエジプト人だったのだ。
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ハリウッドは“石の運搬が滞(とどこお)ると残虐(ざんぎゃく)な監督者に鞭(むち)で打たれる奴隷たちがピラミッドを造った”というエジプトに関する我々の先入観について責任があるかも知れない。
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実は、ピラミッドを造ったのは奴隷ではなく自由な労働者たちだった。だからスネフェルの事業も驚くほど素晴らしいものになったのだ。彼は、自分のピラミッドを造るため、数十年の間、数千人の労働者を組織し、賃金を払い続けた。農夫たち数万人を選び出して、幾つかの組に分け、様々な作業場所に派遣した。しかし、何故、世界でも最初の大建築事業がエジプトで生まれることになったのだろうか?

古代エジプトは、固有の利点を持っていた。毎年、アフリカの、遠く離れた山岳地で溶けた雪は、北の地中海に向けて流れた。ナイルの膨らんだ水は平地に溢れ、ピラミッドの基礎部まで到達していた。
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しかし、エジプト人にとって、ナイルの洪水は神秘的な出来事だった。南から栄養豊かな土壌を運んでくる川は、最初は赤くなり、植物が育つ平原を流れると緑に変る。水位が10mくらいになると、水は引き始め、平原には穀物を育てるのに理想的な肥沃な土壌が残された。
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砂漠を緑に変えるのはナイルだけだった。ナイルが無ければエジプトは不毛の砂漠で、スネフェルもピラミッドを建てることは出来なかっただろう。
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ナイルの水を平地に行き渡らせるため、村人たちは共同で灌漑水路を造った。そうして肥沃なナイル谷に最初の国家が生まれた。ナイルのおかげで、エジプトは無限に広がる平原を作り、穀物や亜麻や野菜など、人々が必要とする全ての物を生産することが出来た。この平原でエジプトの共同作業の余裕が生まれることになった。
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それは巨大な建設事業に必須の条件だった。不足していたのは偉大な指導者だけだった。そしてスネフェルこそ、その支配者だったのだ。

スネフェルは野心的なファラオだった。他国への野心を持った最初の王でもあった。古代エジプトでは、他国へ旅することは、大胆で危険な冒険だと考えられていた。もしエジプト人が祈祷師や儀式もない外地で死ぬと、ミイラ化されることがなく、あの世での永遠の生活への希みは失われてしまうのだ。

しかし、スネフェルはこの慣習を無視した。彼は北のレバノンから大きな杉cedarを、東のシナイ半島からはトルコ石や鉱物を、南からは黄金を手に入れるため、軍隊を交易目的の遠征に送り出した。スネフェルの統治下で、エジプトは強力な国際的勢力になったのだ。

スネフェルはトルコ石を採掘するためにシナイ半島へ遠征したことで有名だ。このような冒険的遠征には巨大な組織が必要だった。5百人と沢山の驢馬(ろばdonkey)を東の砂漠に連れていくには、紅海を渡るための30隻の船と、1日当たり50トンの食物が必要だった。

紅海を渡った後、彼らは、驢馬に荷物を載せ、5日の間、ワディマガラの採掘場に向けて困難に満ちた旅をした。トルコ石を求めて山にトンネルを掘る作業も危険に満ちていたが、しかし、もっと大きな脅威は敵対的なベドウィン(砂漠の遊牧民)だっただろう。スネフェルと彼の軍勢はシナイ半島で働く鉱夫たちの安全を維持する必要があった。
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ボブ・ブライアーは、何か見つけられないかと考え、シナイ半島の採掘場を訪れた。砂漠の真ん中の山肌に刻まれた船は、奇妙に見えるかも知れない。
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しかし、船は遠征に重要なものだった。人々はそれを記録に残した。この遠征は冒険とも言える危険なものだった。この絵を描いた人物は、他の人々にも、そのことを伝えたかったのだ。彼らは初めて紅海を横切って異国の地にきた。故郷に戻れる機会は少なかっただろう。それで、彼らは、どこへ行っても、その場所に何らかの記録を刻んでいたのだ。
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山の頂上付近の洞穴で鉱夫たちは寝起きしていた。彼らは女神ハトホル (Hathor)を祀る寺院を造った。
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トルコ石の女神だ。寺院の建設作業では、発掘は中断された。しかし、優しいスネフェルはそれを許可した。その上、彼は石工を派遣し、石碑を造らせていた。彫刻された石碑が並ぶ広場も造られた。その石碑は今日でも昔と同じように立っている。この石碑には遠征に送り出された男たちの名前だけが並んでいる。しかし、こちらの石碑には、もっと面白い苦難と勇壮にあふれる話がある。ファラオの宝物係の男が、彼の遠征について記していた。
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冬は発掘の季節だった。彼はシナイの砂漠の熱について言及している。
“我々は第二の季節の第三の月にこの地に到着した。”
つまり彼らは夏の真っ盛りに旅をしていたのだ。続けてこう記している。
“夏の山では肌に焼き鏝(こて)を当てたような暑さだ。”
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つまり、この鉱夫は奴隷ではなかったようだ。彼らは王スネフェルのため、貴重なトルコ石を持ち帰ろうと、喜んで危険を冒してこの地にやってきたのだ。

鉱夫たちがシナイから持ち帰ったトルコ石は見事な仕上がりの首飾りを飾る象嵌細工の部品となり、女王ハタフェレスHetepheresへの贈り物になった。
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スネフェルはピラミッド建設者や冒険者だったというだけではない。芸術の支援者patronでもあった。彼の王室の工房は、像、絵画、宝石、家具の分野で、見事な傑作を創り出していた。スネフェルの時代に作られた芸術品は、素晴らしいものだったため、以降、2千5百年のエジプト文明の中で標準とされる技術になった。マイドゥームMeidumに残されている鴨の絵は、今も自然の鴨そのもので、4千年前のものとは思えない。
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スネフェルの息子の像は、石で造られた最初の偉大な人物像で、これを凌(しの)ぐものはないだろう。高質な石灰石を使って彫られた祈祷師アンカフAnkhhafは、彼が立派で思慮深い男であることを示している。肉付きがよいことから、彼が成功者の一人だと判る。
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アンカフAnkhhafの兄弟のヘミエヌは脂肪の塊のようで、豊かな暮らしをしていたに違いない。
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カイロ博物館にはスネフェルの別の息子のラフォテップRahotepがいる。隣に並んで座っているのは美しい妻ネフレだ。
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石の結晶stone crystalで出来た目は、前で立ち止まって彼らを眺める何千人もの観光客たちをじっと見ている。妻ネフレの像はエジプトの女性がしばしば鬘(かつら)を付けていたことを示している。額には、鬘からはみ出ている彼女の髪が見えている。
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スネフェルが彼の妻のために造った家具は古代エジプトで造られた最も美しいものの一つだ。
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簡素の極みとも言える傑作だ。すっきり浮き出ている線は真っ直ぐで、優雅でもある。ここには黄金に輝く飾りはなにもない。女王の称号を記した落ち着いた金細工のヒエログリフがあるだけだ。
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女王の宝物の一つの天蓋付ベッドは、あの世での生活を楽しむため、彼女の墓室に置かれていた。
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古代エジプト人は復活主義者ressurrectionistだ。死体は死後に立ち上がり、次の世界で生き続けると信じていた。そのため、遺体を保存しようと、複雑な信仰儀式のミイラ化処理が70日もかけて行われていた。
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墓泥棒からミイラを守ることは決定的に重要だった。もし墓室に入って来た墓泥棒がミイラを壊してしまうと、死者はあの世で存在することは出来ない。完璧な体なしでは、永遠の生命への望みは絶たれる。それは古代エジプト人には我慢ならない惨事なのだ。

ミイラ処理が終わると、念入りに造られた墓がこれを永遠に守っていた。このような初期の墓はマスタバと呼ばれていた。墓室は地下の岩盤の中に造られ、その上を煉瓦(れんが)で造った巨大な構造物で覆っていた。古代エジプト人は、これを“永遠の家”と呼んでいた。

このマスタバはこれまで造られた中で最も大きなものの一つだ。
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盗掘に遭わぬよう見事な工夫がなされている。ボブ・ブライアーがその様子を調べようとしている。地下の墓室に繋がる通路は全く無い。
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ボブ「私は墓室に向かっています。唯一の手段、つまり墓泥棒が造った穴を通っていくのです。それしか方法がありません。彼らは煉瓦にトンネルを掘り、地下の岩にも孔を掘り、この墓室に入り込んだのです。」
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ボブ「ここは恐らく王子か王女など、重要な人物の墓室でした。この棺(ひつぎ)は歴史上初めて遺体を収め、蓋をされましたが、それでも盗難にあっていたのです。ここに墓泥棒が蓋を開けるために使った木づちmalletが残っています。」
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「埋葬が終わるとこの墓室には石の屋根が付けられました。そして何万トンもの煉瓦を積み上げ、その上を石で覆ったのにもかかわらず、盗難に遭ったのです。スネフェルは大きな問題を抱えていたのです。」

彼のジレンマは墓泥棒を止めさせることが不可能に近いということだった。彼の時代でさえ、彼の妻の墓で盗難が起きていた。
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墓室の中の通路をどんなに複雑に造ったとしても、墓泥棒たちは必ず宝物を探し当ててしまう。何故?墓泥棒は、大抵、墓を造った人物だからだ。

墓泥棒対策は、どこに墓室があるか墓泥棒が知っていても入り込めない程に巨大な墓を造ることだった。それをしてみたのはスネフェルが最初ではない。既にサッカラSaqqaraで行われていた。
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サッカラの階段ピラミッドはスネフェルが子供の頃に完成した。それは彼に深い印象を与えたに違いない。階段ピラミッドはそれまでに造られた中で初めての巨大な石組み構造体だったからだ。
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現代の文明では、ある期間をかけて、巨大な構造物を完成させる事業が行われている。この方法は古代エジプトでは行われていなかった。しかし、ある時、突然、先例のない階段ピラミッドが造られることになった。エジプト人が石を加工することを学び始めた沢山の状況証拠がある。石工たちは当時、すでに完成していた寺院の、パピルスの葦を束ねたものや、泥の煉瓦で造られた柱や壁を、単純に真似て造っていた。忠実に真似て、それらを石で造ったので、建物としては全く意味をなさないものが出来た。例えば、開閉できない扉が造られた。葦で造られていたブラインドが石で造られ、上下に動くことはなかった。
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しかし、兎に角、こうして、石で造られた建物が生まれ始めたのだ。階段ピラミッドが造られるようになってから2千年後、ギリシャ人たちはエジプト人から石を使って構造物を造る方法を学んだと、自慢げに言ったほどだ。

階段ピラミッドはファラオのジョセフのために設計された。彼の建築家は王のために大きな埋葬場所を造ろうと考え、大きなマスタバを設計したのだ。マスタバの上に小さなマスタバを重ねていくことでウエディングケーキのような効果を生み出すことにした。
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世界で最初の石造りの大型建築物だったため、建造者は多くの新たな技術課題に直面した。それまで、石で組み立てる技術を十分に取得できていなかったのだ。ピラミッドに使われた石は粗雑に切り出されたままの表面で、石の上に積み上げられたが、不安定で、直ぐに崩れてしまいそうだった。
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この問題は、外面を内側に傾けることによって解決した。この手法のおかげで石の重さで不安定になりピラミッドが崩れてしまうことは防ぐことが出来た。

完成した階段ピラミッドは、それまで世界が見たこともない素晴らしいものだった。恐らく、どの構造物より10倍も高かっただろう。何万人もが20年程かけて組み上げた。噂になり、エジプト人の自慢にもなった。階段ピラミッドは若いスネフェルに強い影響を与えたに違いない。彼は、いつか自分のために造ろうと夢見ただろう。

彼がファラオになると、マイドゥームでその機会が訪れた。
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これを見ただけで、明らかに何かがおかしいと気付くが、それが何かははっきりしない。建物はピラミッドというよりも塔に似ている。
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ここには答えが判らない疑問が沢山残っている。墓室の壁は何故、表面が磨かれずに粗いままなのか?ファラオの棺はどこにあるのか?
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墓室には棺を持ち上げるための4千年前の杉の梁が今も残っているが、使われた形跡はない。その上、墓室そのものが使われた証拠がないのだ。
にも拘わらず、建築上の問題を解消しようとした形跡がある。このピラミッドでは、エジプトで初めて、墓室が地面より高い所に造られている。墓室を地下ではなく、ピラミッドの内部に造ることで一つの大きな問題が発生した。上方のピラミッドの全重量が墓室に加わって天井が崩壊するのをどんな方法で防げばよいのか?

スネフェルは、墓室の壁の石のブロックを上にいくに従って墓室の中央側に近づけることでこの問題を解決した。墓室の一番上では、両側のブロック同士の間隔は数cmになっている。それが答えだった。こうして歴史上で初めてのコルベル型の天井が造られたのだ。
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マイドゥームのピラミッドは奇妙な外観を呈している。それは、建設に理由がある。当初、階段ピラミッドを造る予定で建築は始まった。しかし、完成が近くなった時点で、何度か拡張が行われたのだ。恐らく、ファラオが死ぬ前に完成しないと考えたからだろう。
8段のピラミッドが完成した時、スネフェルの体調は問題がなかった。そこで、建設は継続された。ピラミッドの階段部は滑らかな白い石灰岩で埋め尽くされ、最初の真正ピラミッドが造られようとしていた。しかし、マイドゥームのピラミッドの基礎に致命的な問題があった。外装の石はピラミッド本体に強固に固着できなかったのだ。
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内部に造られていた階段ピラミッドの表面が滑らかだったため、外に積み上げた石が崩れるという、歴史上で初めての惨事が起きた。これが妙な外観になってしまった理由だ。内部の構造が急斜面になっているのは大崩壊が起きたからなのは一目瞭然だ。そして、我々が今、見ているのは5千年に渡る破壊行為の結果なのだ。
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スネフェルは彼のピラミッドを放棄せざるを得なかった。基礎の近くに残る小さな礼拝堂の大きな石碑には文字が刻まれることはなかった。
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墓室の壁は仕上げられず、棺を設置するための杉の梁も使われないまま残された。

このピラミッドがスネフェルのために造られたものだと知ることが出来るのは凡そ1千年後に書かれた落書きのおかげだ。書記のアンカパカリ・セニトがピラミッドを訪れ、そばに残っていた礼拝堂の壁に“私は王スネフェルの寺院を見るためにやって来た。その中にいると天国にいるような感じだ。太陽は輝いている。神よ、新鮮な湖に雨を降らせよ、香を王スネフェルの寺院の屋根の上まで届かせよ。”と書き残していたのだ。
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スネフェルの息子の建築家がスネフェルの前まで来て“20年かけた作品が廃墟になってしまい、墓として使い物にならなくなりました!”と報告している場面を想像してほしい。スネフェルは大きな人間だったことが語り伝えられている。彼は、激怒することなく、マイドゥームでの建造は諦めて新しい場所を探すよう指示したのだ。
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埋葬の地を必要としていたスネフェルは、マイドゥームの崩壊したピラミッドよりももっと野心的な構造物を建てようと直ちに動き出した。それは、彼が放棄したピラミッドの2倍以上の堆積を持つものだった。世界中のどんなものより燦然と輝く記念碑になるはずだ。建築家たちは実地体験を積んでいた。そこでダッショーアでは最初から真正ピラミッドを計画した。
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以前の失敗で学んだので、今度は、大きな石で外装を造ることにした。内側のピラミッドの石と安定して組み合わされるようにするためだ。更に、石のブロックをピラミッドの中心に向けて傾斜するように設置した。この手法は効果があり、今日でも多くの外装の石が残ることになった初めてのピラミッドになった。
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ボブ「ここに興味深い落書きがあります。スネフェルが死んで数百年後、ワイノーという名の祈祷師が来て、自分の名前を書き記しました。スネフェルを敬っていたのです。ヒエログリフには祈祷師の姿が描かれていて、その前にある水差しからは水が流れ出ています。浄めの水です。つまり、水差しの後ろの男が祈祷師ワイノーだという意味です。」
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入口からピラミッドの中に下るトンネルは70mも続いている。あらゆるピラミッドの中で、長くて、通るのが最も難しい通路だ。両側の壁は滑らかに仕上げられ、手を触れると驚くほど冷たく感じる。通路の床にはスネフェルの墓室の瓦礫(がれき)を取り出すため、1950年代に発掘者たちが使ったレールが残っている。通路は棺をピラミッドの中心部まで下げ入れるために設計されたものだ。
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通路が岩盤の下に到達すると、滑らかだった岩のブロックは表面が粗いものに変る。そこから更に45mも岩盤の下を進んでいかなければならない。
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すると、高さが12mもあるコルベル型の部屋に入る。腰を曲げて長い通路を通って来たが、やっと背中を伸ばすことが出来る。しかし、まだ墓室に到達したというわけではない。そこは単なる前室で、墓室に行くには竪穴に下げられている縄梯子を登らねばならない。縄梯子を登り切ると、今度は木製の長い梯子を上る。
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最上階がスネフェルの墓室の階だ。梯子の両脇の壁はコルベル型で、上に行くほど間隔は狭い。古代の墓泥棒が造ったトンネルを這うように抜けながら、やっとスネフェルの墓室に繋がる通路に到達した。この通路を通って、4千年前、スネフェルの遺体は墓室に運ばれていったのだ。驚くことに、新鮮な空気が流れ込んでいる。まだ見つかっていない通路があるためだろうと考えている研究者もいる。
ボブ「やっと墓室に着きました。スネフェルは、いくつもの惨事に遭いましたが、ピラミッドの建設を諦めることはなかったのです。このピラミッドが完成した時、この部屋は世界でも最も素晴らしいものだったでしょう。天井の高さは17mもあります。コルベル型の壁が上まで続いています。」
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「しかし、問題がありました。部屋の壁は、上方のピラミッドの巨大な重量で動き始めていたのです。床に杉の梁がのこっています。」
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「4千年前、石の壁が動き始めた時、これらの梁がこの部屋に持ち込まれました。彼らは、このピラミッドでも問題を抱えていたのです。壁が壊れ始めたので、ピラミッド全体が崩壊しないよう、梁を持ち込んで壁を支えたのです。」

ダッショーアのピラミッドは当初、真正ピラミッドの計画だった。しかし、墓室内部の問題が発覚すると、スネフェルの建築家たちはピラミッドの角度を54度から43度に減らすことに決めた。こうして屈折ピラミッドが生まれたのだ。角度を減らしたことで、古代の建設者たちはピラミッドの完成に必要な石の量を減らすことになり、墓室の天井に加わる加重も減少した。これらの対策にもかかわらず、ピラミッドは不安定で、スネフェルの遺体を収容することはできなかった。
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スネフェルは歴史上で最も大きいピラミッドを2つも建てたが、いずれも使い物にならなかった。それでも彼は諦めなかった。老いていくファラオに残された時間は減っていた。彼は死ぬ前にきちんとした埋葬場所を造らねばならなかった。

エジプト人にとって、屈折ピラミッドは自慢できる成果だ。マイドゥームMeidumでは、塔ピラミッドの崩壊があり、近くで新たなピラミッドを造ることを諦めたが、今回は、屈折ピラミッドから1Kmもしない(注)場所に最後のピラミッドを造ることになった。今日では、太陽の光を浴びると赤く見える。
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(注:Google Earthで確認すると2Km離れています。)
これを見る限り、赤いピラミッドは成功したように思われる。墓室は安定していた。歴史上で初めての真正ピラミッドだ。しかし、生存中に埋葬場所を完成させるため、調整が必要なこともあったのだ。このピラミッドは屈折ピラミッドより小さい!傾斜角は安全を見て43度で造られた。しかし、スネフェルはとうとう、技術的な課題を解決することが出来たのだ。そして、この赤いピラミッドに彼のミイラは安置された。
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彼の死から数世紀後、スネフェルを守る最高位の祈祷師は、彼が、生命と繁栄と安定を維持できるよう、この場所でスネフェルの魂に捧げ物をしていた。

スネフェルと彼の建築家たちは、重要なピラミッド建設技術を学んだ。マイドゥームMeidumの塔ピラミッドでは外装用の石をピラミッドにしっかり固定する必要性を学んだ。屈折ピラミッド建設では、その学習を正確に実行したため、今日でも外装の石は良い状態で残っている。屈折ピラミッドで、コルベル型天井を使って内部に大きな空間を造る方法を発見し、その後にどんな問題が起きるかも学んだ。スネフェルのピラミッド建設のおかげで、エジプト人は、大きな石を切り出し、運搬し、きちんと積み重ねる技術を発展させ、この技術がマイドゥーム、ダッショーア、そしてギザのピラミッドに引き継がれていったのだ。
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固い絆(きずな)でつながったスネフェルの家系は見事な業績を成し遂げることになった。スネフェルは少なくとも5人の息子を持っていた。彼らと共にスネフェルの家系は発展を続けた。息子の何人かは建築家になった。一番有名な建築家の息子はアンカフAnkhhafだ。彼はギザで二番目に大きいピラミッドの建設を担当した。
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彼の兄弟のヘミエヌは、兄弟でファラオになったチオップスCheops(mh;クフの別称です)を補佐した。大ピラミッドを建てたのは、恐らくヘミエヌだろう。
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息子のラメイサはピラミッド建設に携(たずさ)わらなかったが、軍隊に所属し、最高位の祈祷師になった。
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スネフェルの家系は歴史上でも最も成功した家族の一つだろう。

父親がピラミッドに憑(と)りつかれていたことは、息子たちに強い影響を与えていたに違いない。息子たちはマイドゥームのピラミッド、屈折ピラミッド、赤いピラミッドを通じて、父のスネフェルと共に生きてきた。父親の仕事ぶりは間違いなく息子たちに引き継がれていったのだ。

スネフェルの最も有名な息子はチオップス(クフ)で、彼の後継者だ。世界の七不思議の一つになった大ピラミッドを建てたことで今日でも知られている。大ピラミッドは疑いもなく、スネフェルが息子に残した遺産だ。スネフェルの経験がなければ、造られることは無かっただろう。
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スネフェルの3つのピラミッドに共通する一つの特徴がある。コルベル型の天井だ。墓室の上方の石の重量を分散する天才的な解決策は、後の全てのピラミッドでの墓室建設を可能にした。マイドゥームで注意深く採用され始め、ダッショーアのピラミッドでは見事な天井を形成し、チオップスの大ピラミッドの大ホールではその頂点を極めることになった。
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いつの時代でも、構造物の内部に造られる最も大きな空間の天井の一つであるコルベル型天井は、普通、4mから6mの高さだ。しかし、大ピラミッドのこの空間では9mで、実際はもっと高いのではないかと感じられるほどだ。
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墓室では、チオップスは父の偉業を凌(しの)いでいた。しかし、彼は、上方の加重から墓室を守る独特の解決法を見えないように隠している。
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天井を覆っている花崗岩は加重を分散する方法なしでは、その上のピラミッドの重さを防ぐことはできない。チオップスが採用した解決法を見るには、小さな穴を抜けて大ホールの最上階まで行かねばならない。
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ボブ「ここに、墓室の天井が崩壊しない秘密があります。私が今いる所は、墓室の真上です。この小さな空間は、下の墓室の天井に加わる圧力を取り除く目的で設計されました。」
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「私の上には床があり、その上には、この場所と同じような小さな空間があります。そしてこれらの空間の最上階の天井には2つの巨大な石がVの字を逆にした形で設置されていて、墓室に加わる圧力の多くを受けとめているのです。」
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「それはあたかもコルベル型の天井を流線形にしたようなものです。スネフェルが見たら、きっと感心するでしょう。」
圧力を吸収する空間は見事に機能していた。建設から5千年後の今でも、墓室は完璧で、見た所、どこも傷んでいない。もし墓泥棒が見つけることがなかったら、チオップスのミイラは今日でも、この墓室に残っていただろう。
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スネフェルは彼の息子チオップスに世界最大のピラミッドへの道を遺しただけではない。エジプトの外部との交易で、彼の息子が次の世にいくための大きな財産も準備したのだ。

古代エジプトでは、輸送は船か驢馬(ろば)に頼っていた。驢馬は短い距離に、船は長い距離に使われていた。1954年、大ピラミッドのそばで埋められていた船が見つかった。全長はおよそ45mだ。
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この船はチオップスが造ったものだが、彼の父スネフェルがレバノンから持ち帰った木材が使われている。船が見つかった時、解体されていて部品の状態だったが、杉の板は昔と同じ強度を持っていたため、船を再現することが出来た。木材のいくつかはとても大きなもので、今日、同じものを造ることは不可能だ。理由は単純で、こんなに大きな杉の木は、今では残っていないのだ。
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典型的な古代エジプトのデザインで、木材はロープで結び付けられて一体化している。水に浮かべると、木材が膨潤し、ロープは縮むので隙間が埋まり、船に水がしみ込み辛くなるのだ。
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マストも帆もなく、オールだけが推進力を得る手段だ。しかし、この船の目的は何だろう?ファラオが生きていた時、この船は何のために使われていたのだろう?彼が最後の旅に出る時、この船はどんな役目を果たしたのだろう?

この謎を解くため、チオップスの船と全く同じ形の長さ2mのモデルがアメリカで造られ、ロングアイランドの海軍構造研究所でテストが始まった。
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モデルの船は航跡をほとんど残すことなく、水の上を滑るように移動することが出来た。オリジナルの船ではマストや帆が使われていた形跡がないので、オールだけが移動手段のようだ。しかし、コンピューターを使った解析によれば、船を動かすために必要な推進力をオールで得ることは不可能だと判明した。オールは近代のヨットで安定性や方向性を確保するキール(keel竜骨)の役目を果たすだけのものでしかなかったのだ。とすれば、船はどんな方法で水の上を移動していたのだろう?

儀式用の船は、しばしば、牽引(けんいn)され、遺体を乗せてナイルの東岸から西岸に移動していたと伝えられている。4千年前の人々は、スネフェルの息子を乗せた船が大ピラミッドに造られた最後の安息の場所に向けてナイルを進んでいくのを見たはずだ。
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ファラオが死ぬと、彼の遺体はナイルを渡り、現在、スフィンクスが建っている場所の近くで下ろされた。
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そこから、直ぐ近くの寺院に運ばれ、細心の注意を払いミイラ処理された。死から、正確に70日後、ミイラ処理されたファラオは主通路causewayを通って寺院から彼のピラミッドに運ばれた。
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古代の儀式に則(のっと)り、経文を唱える祈祷師に導かれながら、遺体は人類が造った最も見事な記念碑の心臓部に運ばれ、そこに収められた。

ピラミッドを建造した偉大な時代は、スネフェルの家族が権力を握っていた間だけだった。
彼の息子は大ピラミッドを造った。そしてその直ぐ隣に、彼の孫が二番目に大きいピラミッドを造った。その後、このような記念碑の建設に必要な動機とエネルギーは薄れ、以降に造られたピラミッドは貧相な類似品ばかりだ。
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古代エジプト人はスネフェルの時代を振り返り、黄金時代だったと考えるようになった。スネフェルの死から7百年後、第12王朝のファラオたちはダシューアDahsurの、スネフェルの遺跡の近くに彼らのピラミッドを造った。
これはアメンエムハト三世が造った煉瓦のピラミッドの跡だ。
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今では浸食が進み、崩壊が激しい。スネフェルの家族が造ったようなピラミッドが再び造られることはなかった。後のエジプト人たちは、偉大な事業を自慢する時“スネフェルの時代以降、あんなに見事な物を見ることはできなくなった”と言うのだ。
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The Great Egyptians - Episode 1: King of the Pyramids (History Documentary)
https://www.youtube.com/watch?v=T4cA6oGwzvk&t=2008s

先週のブログ「ピラミッドの不思議」では、ピラミッドが造られることになった普遍的な理由は太陽に対する畏敬の念であるとのmhの見解をご披露させて頂きました。エジプトではファラオが、あの世での生活を維持するため、遺体を永遠に保存する手段として造られたことになっています。この考えは間違いではありません(?)が、なんであの世の生活を心配し出したのかと言えば、この世があったからです。もし、この世が無かったら、つまり、生まれてこなかったら、あの世の心配などする必要はありません。

夕には西に沈む太陽が、翌朝には生まれかわって東の空に現れるのを見て、ファラオは、ピラミッドに一縷(いちる)の望みを託すことにました。私も太陽のように、生まれかわりたい!

しかし・・・お釈迦様も仰ったように、形あるものは滅びるというのが真理です。太陽でさえも、その輝きは有限なのです。
(完)

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mh徒然草127:トロより赤身?

今日は1月5日。モーニングショーで東京築地のマグロ初セリ価格は、この正月が最高額で、1匹7420万円だったとのこと。落札者は寿司チェーンの“すしざんまい”で何年も続いて最高額で落札しているというので、ネットで調べたら次の通りでした。
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http://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1760963.html

2013年には、1億5千万円で落札していますから、最高値というのは、史上最高値ではなかったんですが、それにしても高いマグロです。念のため、mhが愛用しているスーパーの今週の売り出し価格を調べたら100gr159円ですから、築地落札価格の220分の1です。

なんで、築地の初セリの価格は高いのか?専門家の話によれば、今年は3者が最高額を競り合ったようです。で、価格が吊り上がったのでしょう。景気が良くなったからとの見方もできるようですが、景気が悪いので“景気づけ”で競り上げたという見方もあると言ってましたから、景気と落札価格の相関は不透明です。一番の理由は宣伝効果らしいですね。落札者“すしざんまい”の名前が世に知られ、お客さんがたくさん来てくれれば元が取れるという思惑です。

高値のマグロは全て大間産ですが、大間で獲れたからといって体全部がトロで出来ているってことは無いでしょう。mhはトロより赤身が好きな典型的な(?)凡人ですが、念のためWikiでトロを調べてみました。
Wiki:トロ
トロは、寿司のネタ等として使われるマグロの特定の部位の呼称。脂質の含量が高い腹部の身を指す。語源は肉質がトロリとしている事からで、この語の定着以前は脂身である事からアブと呼ばれていた。かつての日本、特に江戸時代以前では、マグロといえば赤身を指し、赤身に比べ品質が劣化しやすいトロの部分は上等な部位とは考えられておらず、切り捨てられるか、せいぜい葱鮪鍋などにして加熱したものが食べられていた。それは猫もまたぐと言われていた程であった。定かでは無いが、当時の苦学生が捨てられていた脂身の多いトロを貰って食べてみると美味だったらしいというエピソードも。今日では動物性脂肪の旨みが広く知られるようになったことと、保存・輸送技術が向上したため新鮮でおいしいトロが食べられるようになり、トロといえば高級品といったイメージがある。価格も近代になってから急激に上がり、現在では赤身の2倍以上の値段がつく。吉野昇雄『鮓・鮨・すし-すしの事典』によれば、吉野鮨本店の客が「口に入れるとトロッとするから」と命名したという。
特に、よく脂の乗った部分を「大トロ」、やや劣るものを「中トロ」と称する。大トロ・中トロ以外の部分は「赤身」または単に「マグロ」と称して、「トロ」とは別物とされる。一般に背肉より腹肉のほうが、後部肉より前部肉のほうが、内層肉より表層肉のほうが脂質の含量が高い。一般的に「大トロ」は腹肉前部、「中トロ」は腹肉後部である。昨今ではマグロの完全養殖により、「全身がトロ」などという個体も作れるようになった。

トロは、猫も跨いで通ったっていいますが、恐らく新鮮でも、脂っぽいからといって猫は見向きもしないのではないかと思いますが、食通の方なら刺身や寿司はトロに限るってことになるのでしょう。

仮に新鮮なトロがあってもmhは新鮮な赤身の方を選びます。人の価値観や食感は、それぞれで、トロに拘(こだわ)る人は奇人だと言うつもりはありませんが、食べなれているせいか、赤身の方が美味しいと思います。トロを食べたがる人は、多分、お金持ちでしょうから、羨むべき部類の人が多いのでしょう。しかし、たいした資産も持たないmhでも、赤身の刺身を食べていれば幸せだと思えますから、幸せって、意外に身近にあるんだなぁって思います。

話をマグロの初セリに戻すと、モーニングショーの専門家によれば、落札金額の9割は、マグロを釣り上げた漁師に入るようです。最近、気象異常のせいだと思いますが、スーパーの野菜が高くなりました。売価の9割が農家に入るなら良いのですが、どうなんでしょう。毎日食べる野菜は縁起物ではありませんから、初セリのマグロと異なり、流通費、保存費、店舗利益の比率が高く、生産者に入るお金は5割以下ではないかと思います。となれば百姓をするより漁師になってマグロを狙う方が利益率は高いのではないかと思いますが、漁師の方が百姓よりお金持ちだっていう話はなさそうですし、漁師や百姓がサイド・ビジネスで株式投資しているって話もあまり聞きませんから、大半の漁師や百姓は報われていないのではないかと思います。

一生懸命に働く人が、もっと幸せに暮らせる世の中は来るのかしら、とトロより赤身が好きなmhは思いました。

追記:
1月5日のTV報道ステーションによれば、初セリのマグロの値が高かったのはマグロの餌のスルメイカが少なかったのが原因らしいですね。スルメイカの漁獲量は例年の1/3。で、偶然ですが、築地で売り上げたマグロの量も1/3だったようです。海水温が例年より高く、冷水が好きなスルメイカが南下してこなかったので、青森の大間でマグロが少なかったという理屈のようです。競(せ)り落とした“すしざんまい”の社長は、“競りで、強敵がいたから予想以上に値が吊り上がっちゃった”と言っていました。

Frankie Valli & The Four Seasons - Sherry Baby
https://www.youtube.com/watch?v=V3A9S79-gZs
(完)

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ピラミッドの不思議


今更ピラミッドの不思議などと言うのは、おこがましいのですが・・・
こちらにも事情がありまして・・・
で、改めてピラミッドのオサライとも言えるYoutubeフィルムをご紹介させて頂くことに致しました。

Wiki:ピラミッド(Pyramidアラビア語: هرم‎ハラム)
エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称であり、また同様の形状の物体を指す。なかでも最も有名なものはエジプトにあるギザの大ピラミッドをはじめとする真正ピラミッド群で、その形からかつては金字塔(きんじとう)という訳語が使われていた。エジプトのピラミッドは世界でもっとも有名な遺跡の一つとされており、現代においても「金字塔」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない後世に永く残る立派な業績(偉大な作品や事業)などを表す代名詞となっている。

ピラミッドと言えば、何んと言っても、エジプトのギザにあるクフ王のピラミッドでしょう。世界七不思議の一つで、mhのブログ「世界の七不思議7:ギザの大ピラミッド」でもご紹介させて頂きました。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-75.html

ピラミッドをWikiで調べると次の資料が見つかります。
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高いものから順に3つご紹介すると・・・
1位:柳京ホテル(リュギョンホテル)
平壌ピョンヤンのホテルで高さ330m。3枚羽根ロケット型。
2位:ザ・シャード(英語:The Shard)
ロンドンの超高層ビルで、先頭高さ310m。
3位:トランスアメリカ・ピラミッド(Transamerica Pyramid)
サンフランシスコの超高層ビルで、高さ260m。
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しかし・・・
これらをピラミッドと呼ぶには抵抗がありますねぇ。それは何故か?やっぱ、ピラミッドじゃあないからでしょう。
とすれば、ピラミッドとは何でしょうか?
それを解説するYoutubeフィルムをご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
それはどんなところにもあります。中央アメリカのジャングルの中にも、エジプトの砂漠の中にも、中国の人里離れた場所にも。みんな、驚くほどに似ています。何故でしょう?それはピラミッドの大きな謎です。その答えを見つけるために、世界の隅々まで行って調べてみましょう。私についてきて下さい。楽しいですよ。
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編集:ボブ・ブライアーBob Brier(エジプト考古学者)

質問です。私は今、どの国にいるのでしょうか?
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ヒントを与えましょう。最初のヒントですが、私は今、世界最大のピラミッドの中にいます。第二のヒントは、5Km以上のトンネルがあるピラミッドです。
もう直ぐ第三のヒントです。これ(mh階段)がそうです。これは古代に造られた巨大なピラミッドの内部の遺物です。
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さて、何処にいると思いますか?エジプト?違います。メキシコです。

ピラミッドは世界のどこにでも見つかります。これから、みなさんが信じないかも知れないピラミッドをご紹介するつもりです。
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エジプトにピラミッドがあることは誰でも知っています。しかし、実際には世界中にあるのです。中国からメキシコまで、イラクから中央アメリカまで、数百もあります。メキシコにはエジプトよりも沢山のピラミッドがあることを、あなたはきっと知らなかったでしょう。
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しかし、何故、世界中の古代文明はピラミッドを建てていたのでしょうか?その上、これらのピラミッドには妙なことがあります。どれも驚くほどに似ているのです。
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例えばメキシコの太陽のピラミッドとエジプトの大ピラミッドは、ほとんど同じ形の基礎を持っています。
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それだけが共通点という訳ではありません。2つとも太陽、月、星によって向きが定められているのです。

これはどうでしょう。インドネシアの水田から立ち上がっているピラミッドです。
(mhジャワ島中央部の都市ソロの近くにあります)
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その姿は、数千Km離れたメキシコのピラミッドと双子のように似ています!
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どうしてこのようなことが起きたのでしょうか?数万Kmも離れた場所で暮らす古代の人々は何故、こんなにも類似した形のピラミッドを建てたのでしょうか?
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その答えを見つけるには世界中のピラミッドを詳しく調べてみなければなりません。最初の調査地はエジプトです。

この大ピラミッドに何度登ったのか覚えていない位です。しかし、登るたびに感銘を受けます。
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昔、ここを訪れたヴィクトリア時代の観光客は誰もがこのピラミッドに登りました。しかし、現在は特別な許可を得ないと登れません。大勢の人が亡くなったからです。エジプトに行っても、登ろうと思わないでください。
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今見えるこの光景は、古代エジプト人が見たものではありません。ピラミッドが完成した直後は、登ることが不可能でした。頂上まで、滑らかな石灰岩で表面が覆われていていたのです。頂上には黄金に輝くキャップ・ストーンがありました。見事な光景だったでしょう。
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しかし、クフ王は我々に感銘を与えようとして、このピラミッドを造ったのではありません。ピラミッドは特別な目的を持っていました。別のピラミッドに行ってみましょう。

地上の形を見る限り、ピラミッドのようには見えません。
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しかし、その下にピラミッドの中心部があるのです。地下に造られた理由があるのです。ピラミッドは墓なのです。ソーソセタス王のミイラを守るために造られたのです。その場所に行ってみましょう。
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19世紀、この墓の発掘者は王の墓室を探していました。それを見つけた時、とうとう宝を探し当てた!と思ったことでしょう。しかし、次の瞬間、喜びは失望に変わりました。蓋(ふた)の石はずれて中が見える状態でした。彼よりも早く、盗賊がやってきていたのです。盗賊が梃(てこ)を使って蓋を開けた跡が残っています。
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ここに梃を当てて石櫃(せきひつ)の蓋をずらしたのです。盗賊が残していったたった一つの物をお見せしましょう。彼らの似顔絵です。
これはエルビスのように見えます。完璧なもみ上げです。古代エジプトでこのような絵を見たのは初めてです。
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盗賊はロックンローラーのように見えます。盗賊は価値のある全ての物を盗み出しました。しかし、ここにあったであろう物が何かを考えるため、別の墓をご紹介しましょう。
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私はアメリカ・ボストンの美術博物館Boston Museum of Fine Artsにいます。お見せしたいものは王の物ではありませんが、それととても近いものです。エジプト帝国の州の統治者の一人が所有していたものです。ここに彼がいます。名前はジュフリナークです。
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彼の前にいる小さな人物は召使いです。召使いが持っている容器には炭が入っています。その炭に神を敬う時のように香を振りかけています。今日の教会の儀式の一種のようです。統治者をよく見ると、首に何かが巻かれています。ネックレスです。彼が日常使っていたネックレスはというと、こちらにあります。
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盗賊たちがしばしば取らずに残していくものは、彼等にとって価値がないものです。例えば、ここにある木製の模型です。
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ジュフリナークは60もの模型を持っていました。王なら何を持っていたでしょうか?

私のお気に入りの物をお見せしましょう。これは召使いたちの行列の模型です。一番後ろの女性はジュフリナークの鏡を持っています。
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傷がつかないようケースに仕舞われています。その鏡に映っていた顔をお見せしましょう。これがジュフリナークです。少なくとも、彼の頭です。
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宝物を探していた盗賊は体は壊してしまいました。ご承知のようにミイラはとても脆(もろ)いのです。曲がらないので直ぐに壊れてしまいます。しかし、頭は残っています。脇には、まだ髪の毛が残っています。顔に巻かれたリネンの布には眉毛が描かれて残っています。しかし、一つ欠けているものがあります。脳です。このミイラは脳を除去した最初のミイラの一つです。脳が除去されているので保存状態がよいのです。

他の貴族の墓地のように、ジュフリナークの宝物は略奪されていました。しかし盗賊も時々、盗み忘れることがあります。1894年、考古学者モーガンは、古代の宝物を求め、カイロから30Km南のダッシューアで崩壊したピラミッドの地下を発掘していました。モーガンはダッシューアの2つの大きなピラミッドは既に盗掘されていることを知っていました。そこで彼は、小さな、よく知られていない方のピラミッドを発掘してみたのです。モーガンは既に盗掘されていた小さな墓室をいくつか発見しました。2千年前に石棺の蓋を開けようとして盗賊が使った木製の棒はその場所に残されていました。
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モーガンがこの場所に辿り着いた時、石棺の下の地面が荒されているのに気付きました。掘ってみたら宝物が見つかりました。彼は王の宝石の隠し場所を掘り当てたのです。

その当時、彼の発見はエジプトで行われた最も素晴らしいものでした。
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これはツタンカーメンの墓の発掘の30年前でした。モーガンの発見は、砂漠の中で宝物を運ぶ彼の姿と共に新聞を飾ることになりました。
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それまで誰も、こんなに見事なエジプトの宝物を見たことがなかったのです。王室の宝石、頭飾り、首飾り、腕飾りなどでした。
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さて、ここまで私は、みなさんにピラミッドの謎を解くための2つのヒントをお教えしました。ピラミッドは何故、似た外観を持っているのか?

第一に、エジプト人はファラオの墓としてピラミッドを造りました。
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第二には、今日、ピラミッドは登ることができますが、古代では不可能でした。表面は滑らかで足掛かりとなるものは無かったのです。これを忘れないでください。

私が既に言ったように、エジプトにピラミッドがあることは誰もが知っています。それではこれから、ピラミッドがあるとは思ってもいなかった場所にご案内しましょう。

これは1947年3月28日のニューヨークタイムズの見出しです。
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<米軍用機は、西安の南西の人里離れた山岳地の中で巨大な中国のピラミッドを見つけたと報告してきた。>

マリー・シーアン大佐colonelは愛用の軍用機で飛行中にピラミッドに気付きました。彼はその高さは3百mだと報告しています。エジプトの大ピラミッドの2倍の高さです。飛行機のパイロットは、ピラミッドは西安の60Km南西にあると言いました。

西安は素晴らしい都市です。中国の首都だった頃に町を守っていた城壁は今でも残っています。古い物と新しい物が見事に混在する都市です。
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ここはイスラム広場です。小さな店が並び、筆から中東アジアの料理まで何でも売られています。イスラム教徒がここにいるのは、古代のシルクロードの終着点だったからです。
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アラブ商人たちはこの町に棲み着きました。彼らの子孫は今でもイスラム教徒です。しかし、私がここに来たのはシシカバブを食べようと思ったからではありません。ピラミッドへ連れて行ってくれるパイロットを探すためです。

彼は、それが西安の南西にあると言いました。町からは随分離れた場所です。アメリカ人の大佐たちが見たピラミッドは大きいと言いますから、それは、兵馬俑もある秦の始皇帝のピラミッドではないのでしょうか?
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しかしそんなことがある訳はありません。秦の始皇帝陵は西安の北東で、パイロットが見たピラミッドは西安の西ですから。今なら、沢山のハイウェイが走っているので、簡単に行ってみることが出来ます。もし空港へ行く道を選んだら、間違いなく、その場所に行けるでしょう。

やってきました。向うに古代の墓が見えます。2千年ほど前のものです。
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しかし、我々が捜しているものはもっと大きなものです。あの方が捜しているものに近そうです。
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これが、パイロットが見つけた物かも知れません。漢王朝の墓です。現地の農夫たちは親族が亡くなると彼らの皇帝の墓の近くに埋葬しています。彼等にとって、それはなんの不思議でもありません。共産主義の中国は長い間、外部には閉ざされていたので、西洋人が中国人のピラミッドについて知っていないだけです。

本当に大きな墓です。飛行機からでも見えたはずです。
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この一帯にはピラミッドが連なっています。
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漢王朝のピラミッドは高さ凡そ60mです。エジプトの大ピラミッドの半分ほどの高さです。しかし、その造りはエジプトのものとは大きく異なっています。頂は平です。違いはそれだけではありません。このピラミッドは自然に出来た丘のように見えます。しかし、そうではありません。人工の丘です。全て、人が積み上げたものです。


中国のピラミッドはエジプトのものと異なり、石や泥煉瓦を使って造られてはいません。湿った土と藁(わら)を型の中に強く押し込んでから乾かして造られています。それで十分な耐力があるのです。実際の所、中国の万里の長城の多くは、この方法で造られました。
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石が手に入る場所は少なかったので、長城の多くは土で造られ、それが何千年も過ぎた今でも残って立っているのです。藁の層は今でも見ることが出来ます。空から見たというピラミッドは今も残っていて、エジプトのピラミッドとは全く異なっていたに違いありません。しかし、そのピラミッドは、エジプトのピラミッドと同じで支配者の墓でした。素晴らしい宝物が埋蔵されていることでしょう。当時、支配者は翡翠(ひすい)の鎧(よろい)を着て埋葬されていました。
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墓はアメリカ人大佐が言ったように3百mの高さはありません。上空から見たので勘違いしたのでしょう。しかし、私は3百mの高さの中国のピラミッドを皆さんにご紹介することが出来ます。これらは唐王朝の墓です。彼らは皇帝の墓の近くに埋葬されることを望んでいました。あの地平線の向うにある数百mの高さの巨大ピラミッドの近くに!!!?
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しかし、あなた方も気付いたと思いますが、あれは人工のものではありません。自然にピラミッドの形になったものです。
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新しい皇帝もピラミッドを建てたいと望んでいました。しかし同時に、彼らは費用の削減も希望していたのです。そこで彼らは山の側面から数百mのトンネルを掘って墓を造ったのです。皇帝は今でも、あの山のどこかで眠っています。入り口が何処にあるのかを知る人はいません。しかし、今でもその墓には見事な宝物が埋葬されていることでしょう。

皇帝の墓は今も見つかっていません。しかし、彼の愛妾ウェイの墓を見れば、皇帝の墓がどんなものかを知る手掛かりになるでしょう。
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大きさは皇帝のものと比べ物にならない程、小さいものです。しかし、綺麗に仕上げられています。中を見てみましょう。
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間の抜けたような顔のこの男は、農夫です。こちらの大きな鼻をした男は中国人ではありません。モンゴル人です。この馬を皇帝の愛妾ウェイのもとに贈り物として持って行くところです。
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この女性は侍女です。二重顎(あご)で、当時のファッションでした。太っているのが好まれていたのです。
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愛妾ウェイは皇帝にとって特別な女性でした。奥方の女王が死ぬと、愛妾ウェイが昇格して中国のファースト・レディになりました。これがウェイの棺です。家の形に造られました。屋根、扉、小さな窓もあります。
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愛妾ウェイは特別でした。従って、これはとても重要な墓です。生前と同じように出来るだけ皇帝に近い場所に墓を造ったはずです。

唐王朝の皇帝たちはピラミッドのような形をした山や丘に埋葬されました。中国であれ、エジプトであれ、メキシコであれ、どんな文化においても、ピラミッドの形が選ばれているのです。それは何故でしょう?注意して調べれば、その答えを見つけることが出来るでしょう。次の調査先はメキシコで、ピラミッド都市のテオティワカンです。
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これはテオティワカンの“死者の通り”です。通りに沿ってピラミッドが並んでいます。右にあるのは太陽のピラミッドで正面は月のピラミッドです。太陽のピラミッドはアメリカでも最も印象的なピラミッドでしょう。
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しかし、このピラミッドがこの地に建てられた理由を考古学者たちが発見したのはつい最近のことです。それを知るためには、ピラミッドの地下深くに入って行かなければなりません。

発掘者たちがこのトンネルを最初に見つけた時、入り口は瓦礫で完全に塞がっていました。
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彼らが中に進んでいくと、このような通路を22も見つけました。それらは全て塞がっていました。
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何を守るための通路なのか全くわかりませんでした。宝物は見つかりませんでした。盗賊が持って行ってしまったのです。しかし、発掘者たちは中央アメリカでも最も神聖な場所に到達したことに気付いたのです。だから、その上に太陽のピラミッドが建てられたのです。

何故、小さな洞穴が神聖なものだと考えられていたのか判りますか?洞窟はあの世への入口だったのです!
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つまり太陽のピラミッドは地下世界への入口を守っていたのです。それがこのピラミッドの秘密だったのです。地下に造られた井戸はしばしば、飲料水の唯一の源でした。つまり生命の源です。
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あなたが目にしているのは自然現象です。この世界で、毎日起きています。これらの場所が神聖だと考えても全く不思議ではありません。ここは神々の棲む場所です。
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私ですらも祈りを捧げたくなる場所です。
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(mh:セノーテと呼ばれる地下の池です。地表に明いた丸い穴から差し込む日光が水面で反射しています。)

太陽のピラミッドから遠くない場所に、もう一つ、謎のピラミッドがあります。
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ぞっとするものです。百人以上の生贄が、この“羽の生えた蛇のピラミッド”から見つかりました。一つの埋葬場所からは、考古学者は戦士の服装をし、両手を後ろで縛られた9人の若者の遺骨を発見しました。
生贄にされた人をご紹介しましょう。この骨は羽の生えた蛇のピラミッドで見つかったものです。歯をよく見て下さい。完璧です。
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人生の真っ盛りとも言える若者の骨です。人々が生贄に最適だと考えた人物だったのです。

これはネックレスです。別の犠牲者が身に付けていたものです。
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貝殻を削って造られています。しかし、その外観は人間の歯のようです。彼らは最高に着飾って埋葬されていたのです。これ以上の贅沢品はなかったでしょう。

何故、彼らは生贄にされたのでしょう?羽の生えた蛇のピラミッドがその答えを持っています。このピラミッドはケツァルコアトルQuetzalcoatlに捧げられたものでした。創造の神です。自らの血で人間を創った神です。
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テオティワカンのピラミッドは、王の遺体を守るために造られたエジプトや中国のものとは異なっています。メキシコのピラミッドは空に向かって伸びる階段を持っています。
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最上階の広場で祈祷師たちは儀式を行っていました。生贄は神への債務の支払いであり、生贄の血は貨幣として王国の繁栄のために使われたのです。

さて、大ピラミッドで提示した手掛かりをまだ覚えていますか?何故ピラミッドがどれもみんな似た形をしているのか?何故エジプトのピラミッドには階段が付いていないのか。メキシコのピラミッドは全て、階段を持っています。それでは、今から上に登ってみましょう。
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メキシコには沢山のピラミッドがあります。驚くべきはその数だけではありません。世界で最も大きなピラミッドがあるのです。
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私が今どこにいるか?と聞いた最初の質問を覚えていますか?何Kmも続くトンネルの中で質問しました。そこはメキシコのチョルーラです。世界最大のピラミッドです。底面面積は45エーカー(1エーカー≒4千平方メートル)もあります。エジプトの大ピラミッドの3倍です。スペイン人がメキシコを征服した時、彼らはピラミッドの上に大聖堂を建てました。ピラミッドだと気付いていなかったのです。
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さて、みなさんは世界で最大のピラミッドがどこにあるのかを知りました。関連質問ですが、最初に空まで届くような建物を造った国はどこでしょうか?ヒントを与えましょう。聖書に記されていたピラミッドの名前です。創世記を見るとその名前を見つけるでしょう。
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そう、“ バベルBabelの塔”です。

古代のバビロニア、現代のイラクです。塔は、今は存在していません。2千年程前にアレキサンダー大王が破壊してしまいました。しかし、16世紀の画家が残した絵があります。
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それを見る限り、ピラミッドのようには思えません。しかしピラミッドだったのです。大きな底面と小さな頂上を持っています。しかし、これは芸術家が想像して描いたものでしかありません。もし、実際のものがどのように造られていたのかを見たいのなら、いろいろ調べてみなければなりません。それでは調査の旅に出てみましょう。

これはバベルの塔が建てられた場所に残っている全てです。残されているのは泥を積み上げた丘と基礎だけです。
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しかし、少なくとも塔の大きさや底面の形は想像することが出来ます。更に詳しく知るため、160Kmほど南の古代都市ウルに行ってみましょう。古代都市の中心に、人々はピラミッドを造りました。
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彼らはこれをジグラットZigguratと呼んでいました。イラクで最も保存状態のいいジグラットです。バベルの塔の推定高さの半分しかありません。バベルの塔がどのくらい高かったのか、想像できるでしょう。それではウルのジグラットを参考にしてバベルの塔を再現してみましょう。古代の基礎と泥の台地から基礎の面積は7エーカーだと判ります。そして瓦礫から、塔が煉瓦で造られていたことを知っています。ウルのジグラットから、バベルの塔が階段状だったことが判ります。塔は7段で、90mの高さで聳えていたと思われます。
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最上階にはピラミッドの神聖な場所がありました。神に近いその場所には寺院が造られました。寺院の壁は青い釉薬で焼き固められたタイルで覆われていました。そしてケーキの砂糖飾りのように、青銅で造られた巨大な牛の角が寺院の四隅に付けられていました。
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巨大な塔には下から伸びた階段があり、青いレンガは厚く塗られた白い漆喰(しっくい)と競うようにして輝いていました。各段を囲むように造られた手すりの上部には青いタイルが張り付けられていました。遠くから見れば高くそびえる巨大な砦のように見えたでしょう。
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エジプトのピラミッドと比べても同等の大きさがあったのではないかと考えられています。とても素晴らしい建物だったと思うでしょう?でも神はそう思わなかったようです。聖書によれば神は塔を破壊してしまったのです。何故なら人神が棲む天国に人間が到達しようとしたからです。神は人間たちの言葉をめちゃくちゃにし、お互いに話が出来ないようにしてしまいました。だから今でもある人々が意味解らないことを言う時、彼らはバブリングbabblingしている(ぶつぶつ聞き取れないことを言う)と言うのです。

ジグラットが世界のピラミッドの中でも特徴的なのは間違いありません。聖書も考古学も、どんな目的で造られたのか、詳細を明確に出来ていないのです。しかし、南アメリカにはもっと大きな謎を持つピラミッドがあります。みなさんは普通なら海岸の近くでピラミッドを見るなんて考えもしてはいなかったでしょう。しかしペルーの北部の海岸は、あなた方が思っているような土地ではありません。
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海岸の直ぐ近くは世界でも最も乾燥した砂漠です。そして丘の向うにはカズマ谷Casma valleyがあります。そこでセチン・アルトSechin Altoを発見しました。ペルーの全てのピラミッドの祖父とも言える古いピラミッドです。そのピラミッドは大き過ぎて、遠くから見ると山のようです。
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しかしそれは人工のものです。空から見ないと、その本当の大きさは分からないでしょう。しかし、ペルー人が何故、こんなにも大きなものを造ったのでしょうか?
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その質問に答えるのは簡単ではありません。とても昔のピラミッドだったので、当時の人々は記録手段を発明していなかったのです。まるで陶器を作るかのようにして造られたのです。これがそのピラミッドです。数千年の間、アメリカでも最も大きな構造物でした。基礎の面積はフットボール場の15倍あります。エジプトの大ピラミッドよりもずっと大きく、このピラミッドについて詳しく知っている人はいません。
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見た所、岩を積み上げたようです。パンアメリカン大学の発掘隊は世界で最大の考古学的な謎を明らかにしようとしています。
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3千年前、ある文明はセチン・アルトSechin Altoを作ろうと決め、6千万個の石を動かしたのです。中には1トンを超える石もありました。でも、誰が作ったのか、何故造ったのかは分かっていないのです。トムとピエゾロスキーはセチン・アルトの謎を解こうと、10年近く、調査を続けています。私には彼らが考古学の本当の英雄のように思えました。彼らは最も困難な考古学的謎の一つに取り組んでいるのです。そして彼らは、宝石などの宝物は見つからないだろうことを知っています。セチン・アルトを作った人々は金属を持っていませんでした。従って、ピエロゾスキーが黄金を見つけることはないでしょう。彼らへの報奨は階段の跡を見つけることでしょうか。
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何トンもの石の下から発見しました。このピラミッドが建てられた理由のヒントを与えてくれます。

この部分はピラミッドの他の部分からは異なっているのですが判りますか?岩は使われていません。人々は6千万個の石を運んできてこのピラミッドを造りました。しかし、それだけではなかったのです。これが何か判りますか?天日煉瓦の円錐です。
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このピラミッドの内部は、このような円錐煉瓦から出来ているのです。よく見れば、線が見えます。3千5百年前、この円錐を作った人の指先の跡です。このピラミッドを造った人に関して我々が持っている証拠の全てです。

ピエロゾスキーたちにとっては、宝物といえるのは、些細な物ばかりです。誰か判らない人々が造った手工芸品の人形やお面など些細なものです。
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埋葬場所は見つかっていません。従って遺骨も見つかっていません。しかし、近くにある博物館にはとても特別なものがあります。

ここにミイラがあります。見つけ出して以降、全くそのままで保管されています。
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砂漠に埋葬され、バクテリアに侵される前に急速に水分が抜けてしまっていたのでもう劣化しないのです。彼女は恐らく30歳くらいでしょうが、歯はいいようですが、1本抜けています。抜け跡の穴は完璧な形で残っていますから、死後に抜けたのでしょう。他には・・・膝を見ると布が巻かれていた跡が残っています。
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つまり、埋葬された時、体には水分があったという証拠です。つま先を見ると、紐で足の指を結んでいます。
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埋葬の儀式が行われていたのです。しかし、このミイラが特別なのは、ペルーでしか見かけないことなのですが、手を見て下さい。極めて古代に行われていた刺青(いれずみ)が残されています。ここにも特別なものがあります。この女性はジャガーのような刺青をしています。
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こんな刺青を私は見たことがありません。このミイラは恐らくピラミッドを造った人々よりも2千年後のものです。儀式の痕跡や膝の布の跡からそうだと判るのです。従って、このミイラからはピラミッドを造った人々に関する情報は得られません。

つまり我々は何故、人々がピラミッドを造ったのか、まだ判っていないのです。この文明の名前すら知りません。しかし、彼らに何が起きていたのかを知るヒントはあります。ピラミッドから2Kmほど離れた場所にピラミッドを造った謎の人々たちの最後がどのようにして始まったかをしることが出来るものが残されています。

これが何か判らないでしょう。消化器官の全体です。これが食道esophagus、
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胃、腸intestine。不運な男がここで体内をさらけ出していたのです。体を半分に切り裂かれた人々もいます。それを喜んでいる様子はありません。
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四角で積み上げられたブロックがあります。アパートではありません。脊髄vertebrae、つまり人間の背骨spineです。ここにはいくつか頭があります。目玉が掘り取られています。目玉は空に向かって積み上げられています。これらの恐ろしい体の隣には恐ろしい兵士が描かれています。
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誰かが戦で大負けをしたのです。私の想像では、負けた彼らが幻のピラミッド建造者です。兵士たちの力には対抗できなかった人々は殺され、彼らの文明は終わったのです。

彼らが何故ピラミッドを建てたのかは解りません。しかし、ペルー人は、その後2千年の間、ピラミッドを建て続けていたことは分かっています。何百も建て、ペルー独特の奇妙な血の儀式のために使っていました。この儀式については後に説明しましょう。

これから、あなた方は行ったことがないだろう、ある場所に連れて行きましょう。恐らく、その場所について聞いたこともないのではないでしょうか。
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その場所は太平洋にあります。マン・マドールman-madolと呼ばれる場所です。ニューヨークから行くには、飛行機を5回乗り換え、24時間かかりました。でもまだ目的地に到達していません。太平洋に浮かぶポナペPonapeと呼ばれる島に到着しただけです。グアム島から東に1600Kmのところにあります。
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もうニューヨークのブロンクスにいないというのは奇妙な気分です。ここは私が訪れた中でも最もパラダイスに近い場所でしょう。ポナペ島はどの場所からも数百Km以上離れ、外界から守るかのような危険なサンゴ環礁で囲まれています。この辺りの海の様子を知らなければ、島に無事に到着することは出来ないでしょう。
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そこから海を良く知った人物が操縦する高速艇をチャーターして45分程、高速で海岸に沿って移動すると、目的地のマン・マドールに到着します。
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そこは浅瀬にあるのでアウトリガーカヌー(横に浮子が突き出た木彫りの船)に乗り換えます。するとやがて遺跡が目に飛び込んできます。
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これまで私が見たことがない古代の建築物です。壁はアメリカの丸太小屋のようですが、実は大きな溶岩石柱で造られているのです。
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そして外海に面した浅瀬には、海の力から島を守るように石で造られた巨大な波消しがあります。

1千年前、石の棒は、火を起こして岩を温めてから水を掛けて冷やす方法でポナペの山から切り出され、船で最終目的地まで運ばれてきたのです。これらの全ては、人口2万5千人の太平洋上の小さな孤島で行われました。しかし、石で造られた壁が最も驚くべきものだということではありません。この辺りの小さな島は全て人工の島なのです。この一帯が浅瀬だと言ったのを覚えていますか?マン・マドールの建造者たちは石の棒を筏(いかだ)で運んで島を造り上げたのです。
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“どのくらいの数の島があるのですか?”
“92です。全て人が造った島です。”

マン・マドールの人々は金属製の工具を使わないで、地上で最も素晴らしい記念碑を創造したのです。人工の島は数百ある浅い運河で隔てられています。ここは石器時代のベニスと言えるでしょう。
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何世紀もの間、島々は夫々(それぞれ)、宗教が異なる部族が暮らしています。私の友人になったトーマスは鰻(うなぎ)族です。何世代もの間、鰻は彼の家族にとって神聖なものでした。
“3匹いますね。捕まえられますか?”
“勿論です。”
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鰻とピラミッドって関係があるのか?と疑っているのではありませんか?全てのピラミッド建設プロジェクトでは、人々に動機付けするために宗教を必要としていたのです。古代イラクのジグラット、エジプトのピラミッド、中国の皇帝陵。これらは全て信仰が必要だったのです。

ここはマン・マドールで最も神聖な場所でした。かつてどれほど多くの鰻がこの水溜りにいたのか、誰も知らないでしょう。
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祈祷師たちは、海に繋がるトンネルを通って古代からあるこの水溜りにやって来る巨大鰻に亀の肉を捧げていました。

しかし、信仰は物語の半分でしかありません。偉大なピラミッドや墓を造るためには、他にも何か必要です。力強い支配者です。ここはマン・マドールのある権力者の墓です。
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彼の家系は対立していた部族を統一し、労働力として使って王宮や墓を造ったのです。これはあらゆる場所に共通する話です。エジプトのピラミッドでも、太平洋上のマン・マドールでも同じです。強力で冷酷な支配者が記念碑を建てたと考えて良いでしょう。

さて、何が大きな構造物を造らせたのかは解りました。しかし、偉大なピラミッドの謎はまだ判らないままです。世界中のピラミッドは何故、形が似ているのか?ここまで来ると、みなさんも何となく答えが見えて来たのではないでしょうか。
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ピラミッドはペルー、中国、エジプト、インドネシアなど世界中にあります。どうしてこれら全てのピラミッドの形が似ているのか?これには2つの理由があります。神と物理法則です。
ピラミッドを造った文化は、彼らの神が天国にいると信じていたのです。天に向かって昇っていく構造物を建てる以上に神に近づく良い方法があったと言うのでしょうか?神に近づくためにバベルの塔は造られました。
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神にちかづくため、高い構造物を造ったことは理解頂けるでしょう。しかし、その構造物は何故、ピラミッドだったのか?それには物理法則が関係しています。古代エジプト人、アステカ人、中国人も、我々全てが同じ物理法則で管理されています。ピラミッドは古代の摩天楼でした。しかし、鉄骨などの近代的な建築材料がない時代、人々は直線的に立ち上がる摩天楼を造ることは出来なかったのです。従って、古代世界において見事な構造物を造ろうと思ったら、広い面積を持つ基礎と、上に行くほど細くなる頂を持つしかありませんでした。つまりピラミッド形というわけです。石のブロックを使って高さ120mの柱を建てようとしても実現不可能です。柱が高くなればなるほど、基礎の石には上の石の重量が加わって壊れ、柱は倒れてしまいます。上手(うま)く造る秘訣(ひけつ)は上に載る石の重量をいくつかの石に分散させることです。そこで、石の一つ一つは、他のいくつかの石の上に載せられた形をとることになります。
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それこそが、ピラミッドで採用されている方法なのです。
つまり、もし高い建物を造って神の場所に到達したければ、物理法則が導き出す方法は一つで、ピラミッド形なのです。
古代世界では、世界中、どんな場所でも人々は同じ形のピラミッドを造りました。人々は同じ手法で同じ技術課題を乗り越える必要があったのです。ところで、大きなピラミッドが同じ大きさなのは何故でしょうか?それについてはある考え方があります。一人の支配者ならどのくらいの大きさの構造物が建てられる限界だったのかという問題だったのです。

しかし、まだピラミッドの謎を解き明かしてはいません。大きさと形だけが、古代世界におけるピラミッドの類似点ではありません。例えば、世界中の古代建築家はピラミッドを磁石の4方向に向けて造っています。
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中国人は、悪霊の影響は北からやって来ると考えていました。そこで、これを避けるようにピラミッドを造ったのです。メキシコの太陽のピラミッドは、北から15度東方向に傾くように配置されました。何故かというと、太陽は5月、雨季が始まる時期にピラミッドの上から昇るようにしたのです。エジプト人たちは別の考えに基づいてピラミッドの向きを決めていました。彼らは死後の永遠の命にこだわっていたのです。北極星は位置が変わりません。ファラオはこの星と共にいようと望んだのです。

マヤでは時間、日付、暦にこだわっていました。それで彼らはピラミッドを天の方角に向けることにしたのです。マヤのピラミッドは、世界中のどこにも見られない配慮がなされています。不思議な見世物を織り込んだのです。
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年に2回、見事な光景を見るため、世界中からの観光客がメキシコのチチェン・イツアに集まります。マヤ人は偉大な数学者でした。数字のゼロを発明しました。そしてこのピラミッドには数字で書かれた暗号が秘められています。ピラミッドの4つの面には夫々91段の石段があります。
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91x4は364です。頂上にある寺院を足すと1年365日の暦になるのです。石段の脇にあるテラスの段数を数えてみましょう。石段の両脇には9段あります。合計で18段です。マヤの暦における月数と同じです。つまり1年の日数と月数がピラミッドの中に盛り込まれているのです。ピラミッドは便利な暦だったと言う訳です。

しかし、これで見世物が終わった訳ではありません。ピラミッドの向きが注意深く決められているおかげで、年に二回、春分と秋分の日、とても不思議な現象が起きるのです。階段をうねり下る蛇が影の中に浮かび上がるのです。
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古代マヤが演出したマジックショーと言えるでしょう。

メキシコから地球半周したインドネシアのピラミッドを覚えていますか?
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形はメキシコのピラミッドと瓜二つです。どうしてこうなったのかという問の答えは簡単です。それを知るには、近くでよく見なければなりません。

メキシコのアステカ時代のピラミッドは人間の生贄を見せつけるために造られました。従って、幅の広い階段が造られていたのです。
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犠牲者が登っていく様子が観客から良く見えました。その後、最上段の寺院の前で、鼓動している犠牲者の心臓は切り出されたのです。ピラミッドは恐怖の見世物のために造られていたのです。

インドネシアのピラミッドは平和目的のものです。狭い階段は祈祷師だけが登るためのものでした。
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ここでは血なまぐさい行事は行われていませんでした。生贄用の祭壇もありません。優しい神のために造られた記念碑です。

それではいよいよ最後の問題です。アステカとインドネシアのピラミッドは、何故、世界中のピラミッドは似ているのか?という偉大なピラミッドの謎に対する答えを持っています。その答えは・・・ピラミッドは似てはいないのです!
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最初見た瞬間、双子のように見えます。しかし、これまで調べて来たことを注意深く配慮すれば違うことに気付くのです。ピラミッドについて調べれば調べる程、それらが似ていないことが判るのです。それぞれの文化は夫々の考えに従って異なる目的のためにピラミッドを建てました。エジプトのピラミッドは表面が滑らかです。その頂では儀式などは行われません。
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メキシコでは逆です。彼らはピラミッドに階段を付け、頂上では生贄を捧げていたのです。
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夫々、異なっているのです。

最も変わっているものをお見せしましょう。インドネシアはピラミッドがあるような場所には思えません。世界最大のイスラム国家です。イスラム教徒はピラミッドではなく、モスクでお祈りします。しかし、この場所の人々は近在の他の社会とは隔離されています。
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彼らはヒンドゥ教徒です。イスラム教に改宗した歴史は持っていません。私がお見せしたいのはヒンドゥ教徒の彼らの祖先が建てたピラミッドです。
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この上の方にはとても不思議な場所があります。ここはヒンドゥ教寺院です。もしピラミッドを見たいのなら、素晴らしい門を抜けて更に山の上に登って行かなければなりません。
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ヒンドゥ社会の人々は今もこの場所でお祈りを捧げています。
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で、ピラミッドはどこにあるかというと、全ての門と全ての寺院を通過した最後の場所にあるのです。
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インドネシアの人里離れた山の上でも、神々の住む場所に近づきたいと望む人々はピラピッドを建てたのです。

さて、これで偉大なピラミッドの謎解きは終わりました。世界中のピラミッドは夫々、大きく異なっているのです。しかし、一つだけ共通するものがあります。どのピラミッドも空高くそびえようとしています。
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エジプトのピラミッドはファラオの墓でした。しかし、その頂は天頂を指しています。古代メキシコでも人々は神々が生贄を見ることが出来るようにピラミッドを建てました。バビロン人がバベルの塔を建てた時、彼らは天上に届くようにと建てたのです。どれもみんな同じです。不可能なことを可能にしようとしていたのです。空まで届く建物を造ろうとしていたのです。

古代を越えるまで、長い時間が必要でした。4千年の間、エジプトの大ピラミッドは地球上で最も高い構造物でした。
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私は今、階段を上っています。今の高さは120m。やっと135mに到達しました。大ピラミッドと同じ高さです。19世紀になって初めて、古代を越える大きな構造物が造られたのです。それがこの美しい塔です。4千年と鉄骨を使って、アイフルEiffelがこの塔を建てました。エッフェル塔La tour Eiffelです。目的は兎に角、高い所に到達するためでした。
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The World In Ancient Black Kemet ?? (Part 1)
https://www.youtube.com/watch?v=qF1GpKkLIy8&t=1038s

ネットによれば日本にもピラミッドがあると主張する人がいます。奈良の三輪山がそうだという記事もありましたが、大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山)の間違いでしょう。
(大和三山の一つ:畝傍山)
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で、日本中に沢山あるという人もいるんですねぇ。
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http://ikuno.lolipop.jp/piramido/nihon/nihon/index.html

しかし・・・
日本のピラミッドと言われる所は、人が造り上げたという証拠がありませんから、どうなんでしょう。ピラミッドじゃあないと思いますが・・・。

人は何故、ピラミッドを建てたのか???

mhの意見では、建てようと発議した人に訊かないと建てた理由は解らないというのが正解ではないかと思います。ピラミッドを建てたからといって、人々の暮しが良くなるわけはなく、結局は一人の王や祈祷師など、権力者のためだった訳で、その人が何故、建てたいと思ったのかは、その人だけが知っているのです!

でも、一つだけ普遍的な理由を挙げるとすれば、太陽に対する畏敬の念でしょう。人間は生きるも死ぬも、太陽と共にあると言えます。太陽があればこそ、食物は育ち、人間の命は育まれました。太陽が消滅すれば、人間は生きてはいけません。だから太陽は人間にとって最も大切で、太陽が良く見える場所を造ろうという思いがピラミッドの発端だとmhは思います。

人間が生きていくために必要なものというのなら、大地だって、水だって、空気だって、植物だって、動物だって、同じように重要なはずなのに、何故、太陽なのか?

お釈迦様じゃあありませんが、太陽でなければいけない理由があるんですねぇ。

それは何か????

太陽はいつもそこにあるわけではありません。夜になると、いなくなっちゃうんですね。だから、太陽は、いつもそこにある大地や水や空気なんかより、ずっと身に染みて、ありがたみがあるのです。
(完)

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