Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アタカマの不思議


今回はYoutube:Atacama Driest Place On Earthをご紹介しましょう。

アタカマ???地上で最も乾燥した場所???

で~ここまで聞いて、そこがどこの何なのか全く思い及ばない方は、このブログで学習して頂き、いつまでも忘れないでほしいと思いますが・・・
包み隠さずにいえば、このmhも“アタカマ”の響きに馴染みは感じたものの、さて、何だったっけ?と記憶は朧(おぼろ)です。勿論、いろいろ調べましたから、今なら、詳しい情報をゲットしている訳ですが、いつまで覚えていられるやら。

アタカマ砂漠と聞けば、あぁ、あそこね、って方もいらっしゃるでしょう。南米・チリにある、地上で最も乾燥した、つまり年平均で最も湿度が低くて降水量が少ないと言われている砂漠です。水分が少なく、おまけに人が暮らす都市や町から離れているので、空気は澄み、TVなどの電波障害も小さくて、電磁波で宇宙を観測するアルマ天文台ALMA Observatoryが造られることになり、2013年頃から稼働を始めています。
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「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(Atacama Large Millimeter/submillimeter Array、 ALMA、アルマ、アルマ望遠鏡)とはチリ・アタカマ砂漠に建設された大型電波干渉計である。
2002年から建設が始まり、2013年3月13日に完成記念式典が行われた。2014年6月に全てのアンテナが到着した。略称のALMA(アルマ)とは、スペイン語で「魂」や「いとしい人」を意味する単語である。
日本・台湾・アメリカ合衆国・カナダ・ヨーロッパの国際共同プロジェクトである。アンデス山脈中の標高約5,000mの高地砂漠(アタカマ砂漠)に高精度パラボラアンテナを合計66台設置し、それら全体をひとつの電波望遠鏡として観測可能な開口合成型電波望遠鏡として活用する。観測に用いる波長帯は1cm(31.3GHz)から0.3mm(950GHz)である」

で~ある星雲をアルマ電波望遠鏡と欧州南天天文台VLT望遠鏡(可視光)とが捕えた画像を並べると次の通りです。
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関心がある方は次のホームページでご確認下さい。
http://www.almaobservatory.org/

それではアタカマの不思議をYoutubeフィルムでご紹介いたしましょう。

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地球・・・
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45億年前に生まれ、今も進化を続けている。大陸は移動し、衝突し、火山は噴火し、氷河は成長し、後退し、地殻は様々な不思議な形で褶曲し、地質学的な謎の痕跡を残している。

今回は、調査員たちが地上で最も乾燥している場所、チリChileのアタカマ砂漠Atacama Desertを探検する。
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この不毛の大地はアメリカの“死の谷Death Valley”より50倍も乾燥している。今、科学者たちはこの砂漠がどのように造られたのかというパズルを解くため、活動中の火山や聳(そび)え立つ山脈、大洋などから収集した断片(ピース)をつなぎ合わせようとしている。彼らが見つけ出した手掛かりは、地球形成の窓も開いてくれるのだ。
How the earth was made;地球はどのように造られたか?
The driest place on earth;地上で一番乾燥している場所
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地球は青い、大量の水を蓄えた惑星だ。しかし、チリ北部の荒れ果てた土地では、一滴の水すら見つからないだろう。西は太平洋と海岸近くの火山、東はアンデス山脈の間にあるアタカマは世界で最も乾燥している砂漠だ。
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長さ1千Km、幅は平均160Kmの細長い沙漠で、面積はアイオワ州とほぼ同じだ。その沙漠で、今、科学者たちは、どのようにして砂漠が形成されたのかを見つけ出そうとしている。
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調査は、キラグアという長閑(のどか)な町から始まる。
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僅かに残されている緑のオアシスは唯一の生命線で、細い流れを形成し、水は、アンデス山脈から太平洋まで、500Kmをくねくねと曲がりながら流れている。
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町は政府の公式降雨量観測所でもある。地質学者ジョン・ヒューストンは地上で最も乾燥した場所が一体、どのくらい乾燥しているのかを確認しようと町を訪れた。
マリッサ「これは雨量計で、毎日の雨量を測るものなの」
ヒューストン「そうですか。この器具で、どのくらいの雨量が記録されているんですか?」
マリッサ「この15年間で、年平均で1mm以下です」
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政府の科学者であるマリッサ・ビラにとって、それは大して驚くべきことではない。
ヒューストン「1mm以下ですか!」
マリッサ「そうです」
ヒューストン「毎年、そうだったんですか?」
マリッサ「いいえ、3年間だけです。他の年は雨が検出されませんでした」
ヒューストン「信じられませんねぇ」
マリッサ「全くです」

年平均降水量は0.8mmで、コーヒーカップを満たすには1世紀もかかる!これを他の沙漠と比べるとどうなるだろう?
ヒューストン「ここにメスシリンダーがある。これを使って年間降水量をお見せしよう。これが一杯になるまで水を満たした状態が凡そサハラにおける雨量だ。この半分ほどだと130mmで、アメリカ合衆国のモハーヴェ砂漠(Mojave Desertカリフォルニア州、ユタ州、ネバダ州、アリゾナ州にまたがる砂漠)の年間降水量になる」
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「で、アタカマ砂漠の中心での年間降水量はというと、こうだ!逆さにしてメスシリンダーの底にへばりついている水量しかない!」
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「つまり、この砂漠は地上で最も乾燥しているということだ」

何故、アタカマが、そんなにも雨が少ないのかを明らかにするため、ヒューストンはオアシスを後にして、砂漠に向かった。南アメリカ大陸に沿って長々と続くパンアメリカン高速道路の脇で、彼は最初の手掛かりを見つけた。
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ヒューストン「今、南回帰線(南緯23.4度)にいる。世界でも最も重要な緯度の一つだ」
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「そして、何故アタカマ砂漠がこの場所にあるのかを説明する決定的に重要な要素でもあるんだ」
世界の沙漠のほとんどは、2つの特別な緯度線を跨(また)いでいる。南半球では南回帰線Tropic of Capricornがアタカマ、アフリカのナミブ、カラハリなどの砂漠を通過している。北半球の北回帰線Tropic of Cancerは、広大なサハラのまさに中心を通っている。
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地球上のこれらの特別な緯度では、大気は極めて乾燥しているのだ。
ヒューストン「これは旋回式湿度計と呼ばれる測定器だ。大気の相対湿度を測ることができる」
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「ここの相対湿度は・・・10%だ。実質的にはゼロに近い値だ。湿度がこんなに低い所は世界でも極めて稀(まれ)だ」

西暦17百年代初頭、科学者は、回帰線一帯の大気が乾燥している理由に気付いた。アメリカに向けて帆走するヨーロッパの船は大洋横断の推力を貿易風(mh亜熱帯高圧帯から赤道低圧帯へ恒常的に吹く東寄りの風)に頼っていた。
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しかし、英国人気象学者のジョージ・ハドレィは、真北に向けて吹かなければならないはずの風が、何故、西に向けて吹くのか不思議に思っていた。彼の研究が科学者たちを導き、地球の周りで、大気がどのように循環しているかを理解させることになった。赤道Euatorでは、湿度の高い大気が太陽で加熱され上昇する。この暖かい大気は赤道から流れ出ると直ぐに水分を雨として降り落とす。
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2つの回帰線に到達するまでには、大気は水分のほとんどを失うので、下の大地では、雨はほとんど降らない。しかし、よくわからないのは、何故、アタカマでは他のどんな場所よりも僅かな雨しか降らないのか?ということだ。
科学者たちは、アタカマが、どのように生まれたのかを理解することによって、この謎を解こうとしている。その手掛かりを求め、ヒューストンは本当の沙漠の中深くまで入って行く。人に荒されぬよう保護されているこの場所は、1970年代、地質学者たちが全域調査をしている時に発見された。
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しかし、そこで発見されたことの重大さは、1998年まで気付かれなかった。このボロボロの岩盤は、アタカマの起源に対する重要なヒントの一つだ。
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それは石膏gypsumと呼ばれる繊細な岩だ。簡単なテストで、石膏がどんなに脆(もろ)いかが判る。
ヒューストン「この岩に水を掛けるだけで、グズグズになるのが判る」
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「つまり、石膏の岩に水を掛けると溶けるということだ。直ぐにバラバラになってしまうんだ」

その石膏が硬い岩層の状態で残っているということは、岩層が形成されて以降、大量の雨は降っていない、と科学者たちに語っている。とすれば、次に調べるべきことは、その年代だ。この場所がいつ乾燥したのかを割り出すことだ。

石膏から直接、その年代を得ることは出来ない。しかし、石膏岩層の近くの層から見つかった化石を分析すると、砂漠の驚異的な年齢が明らかになった。驚くべきことに、アタカマは1億5千万年前に形成されていた!
ヒューストン「ここの石膏はとても特別なものだ。もし年間5mm以上の降水量があったら、溶けて流れてしまっていただろう。まだ残っているということは、ここが世界でも最も古い沙漠だということを示している」
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恐竜たちが繁栄して絶滅し、ヒマラヤ山脈が形成され、人類が生まれている間も、アタカマは1億5千万年以上、ずっと砂漠だったのだ!
石膏岩盤はこの砂漠がどのように形成されたかを解き明かす鍵も持っている。この白亜質の鉱物は、砂漠ではなく、水中で形成される。石膏は浅い、暖かい、亜熱帯の水の中で、溶けた状態で存在している。熱によって水が蒸発すると固化する。
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従って、小さな一つの岩の存在は、アタカマが砂漠になる前、海底だったことを示す重要な証拠だ。
ヒューストン「ここにある、何の変哲もないように見える岩の一片は、この砂漠全体がかつては水の底だったことを示している。従って、アタカマ砂漠の、この場所にある石膏は、アタカマ砂漠の全ての歴史を理解する決定的なものなんだ」
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これまでの調査で、科学者たちは証拠をつなぎ合わせて、どのように?いつ?砂漠が形成されたのかを調べた。
アタカマが南回帰線近くに位置していることは大気が乾燥していることを意味する。雨はほとんど降らない。石膏岩盤の周りで見つかった化石は、砂漠の年齢を明らかにした。石膏は水の中でのみ形成されることから、アタカマがかつて水面下にあったことを示している。

次に科学者たちは、アタカマがどのように大洋の底から現れて全くの沙漠になったのかという謎を探検する。彼らは、どのようにして地上で最も乾燥している場所が造られたのかを調べることで、噴火の証拠を見つけ出す。
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今から1億5千万年前、アタカマ砂漠は海底で、大洋の水の下にあった。しかし、今日、砂漠のある部分は海抜3千mという高地にある。どうしてそうなったのかを見つけ出そうと、科学者たちは砂漠の東の端を調べてみた。
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この奇妙な大地は南半球で最も広大な間欠泉geyser平原だ。
女性科学者「ここがエル・タティオEl Tatio間欠泉平原よ。周りには沢山の温泉や間欠泉が見えているわ。蒸気が多いのは、大気が冷たくて水が暖かいからなの。泡立って吹き出している泉もあるのよ」
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沸騰している水は地下深くで加熱されたものだ。
女性科学者「エル・タティオの間欠泉の熱い水は、地下に熱い岩の塊がある証拠よ。さらには、この盆地の周辺が火山で囲まれていることも示しているの」
ここでは地球は激しく活動している。溶融した岩石は地表に噴き出して火山を形成している。
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火を噴き上げる火山や沸騰している間欠泉は砂漠の地下深くで起きている“激しい乱れ”の証拠だ。
この地下では、ピザpizzaの下に入って行くスパチュラ(薬さじspatula)のように、太平洋地殻が南アメリカの下に押し込まれている。
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この地質学的な動きは“沈み込みsubduction”と呼ばれるものだ。
女性科学者「太平洋プレートが大陸の地殻と衝突し、重い太平洋プレートが、大陸の地殻の下に滑り込んでいるの。その動きを続けているので、温まっていくのね。大体、地下100Kmまで潜っていくと、太平洋プレートの岩は溶けてしまうのよ」
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地下100Kmの一帯は溶融圏と呼ばれている。溶けた熱い岩は押し上げられて活火山を形成し、これがエル・タティオの間欠泉平原を取り巻いている。この一連の工程が科学者たちに、何が砂漠を大洋から持ち上げたのかに対する手掛かりを与えてくれる。
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更なる手掛かりは、砂漠の反対側にも見つかる。地質学者たちは、海岸にあるこれらの丘が、かつては火山だったことを知っている。
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今日では、完全に死火山だが、最近の科学的な調査で、これらの火山は1億9千5百万年前に初めて噴火したことが判っている。それは太平洋プレートが初めて南アメリカの下に押し込まれることになった年代を示す重要な証拠の一つだ。
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その時は、砂漠も、チリの全ても、水の底だった。長い時間をかけて、溶融部分はどんどんと大陸側に押し込まれていき、最初に海岸近くでの火山爆発を引き起こした。溶融部分が砂漠の下を通過すると、新しい地殻を形成して厚くなり、大地を押し上げ、アタカマ砂漠がゆっくりと現れ出した。5千万年前、この同じ地殻の動きがアンデス山脈を隆起させ始めた。
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今日、溶融部分は220Km内陸側にあり、これによって溶融した岩は火山を誘発し、そしてエル・タティオの間欠泉を活発化させた。
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しかし、アタカマ砂漠の下を通過する時、これも残していた。世界で最も広大な銅の露天掘り鉱山のチキカマータだ。
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火山形成工程が銅鉱床をこの場所に集中させたのだ。しかし、それをここに閉じ込めていたのは砂漠の独特な気象だった。
「チリ北部のこの辺り一帯には世界で最も広い、最も重要な銅資源のいくつかが造られているの。それにはとても乾燥した気候が大きく関わっているのよ」
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「地球表面の多くは水で造られたけれど、ここでの降水はほとんどないので、水が地表に溜まっていることはほとんどないの。おかげで浸食も起きないわ。だから銅鉱床も完全な姿で残っているのよ」
その結果、この不毛の荒れ地は地球でも最も価値ある場所の一つになっている。
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砂漠がどのように海から隆起できたかという謎は解明することが出来た。間欠泉は潜り込んでいく太平洋プレートが地下深くで溶融し、熱い岩が出来ている証拠だ。活火山の存在は、太平洋プレートの上に載っている大陸プレートの動きを示している。絶滅した火山は、二つのプレートの衝突が海岸で始まり、内陸側に押されて沙漠を海面上に隆起させたことを示している。
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次の段階は何がこの古代の海底を地上で最も乾燥した砂漠に変えたのかを明確にすることだ。2百年に渡る歴史を探索して、ペンギンたちを砂漠の縁まで運んできたものが何かという謎々を解くのだ。
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アタカマ砂漠は興味深い。なぜなら地上で最も乾燥した場所だからだ。砂漠が乾燥していているのは当然だが、アタカマは独特なのだ。カリフォルニア州の“死の谷Death Valley”より50倍も乾燥している。そこより熱いからではない。死の谷の気温は、43℃もあるが、アタカマでの日中平均気温は27℃なのだ。
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何が、アタカマという隔離された土地を、普通の沙漠から世界でもっとも乾燥した場所に変えたのかに関する調査は広々とした大洋から始まる。
ヒューストン「アタカマに関して奇妙な事の一つは、ここでも見られるように、ペンギンが海辺にいることだ」
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「ペンギンが冷たい水を好むのは誰でも知っている。しかし、この海岸の気温は暖かい。本当に理解に苦しむ。事実、ここの海水の温度は、今測ってみると・・・13℃だが、海岸での大気温度は27℃だ」

これらのペンギンは、2百年以上も前、探検家アレキサンダー・フォン・フンボルトによって初めて記録に残された。
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この海岸に沿って船で移動していた時、彼は、海洋生物の多様性の大きさに気付き、不思議に思った。
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海水温度を測定した結果、彼はそれを理解した。海水は予想より11℃も冷たかった。ペンギンのような海洋生物には完璧な温度だ。それから数世紀後、探検家の名にちなんでフンボルト海流と名付けられた、チリのこの帯状の一帯を流れている海水が、アタカマを地球で最も乾燥した場所にしたのではないか?と気象学者たちは考え始めた。
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ヒューストン「フンボルト海流は遠く南極から流れ上り、冷たい海水を運んで来る。その海水が、今のように、霧が立ち込め、重い雲が垂れ下がる天候を作っているのだ」
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冷たい海水は、海面の上の大気を冷却し、海岸にへばりついている冷たい雲の塊を形成する。一方、上空から下降してくる亜熱帯の熱くて乾燥した空気は、冷たく重い雨雲の上に居座り、雲を下方で押し留めている。
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気象学者たちはこれを“反転層inversion layer”と呼ぶ。高度9百mで閉じ込められ、上昇出来ない雲は、高地の砂漠で雨を降らせる。
ヒューストン「反転層は海の近くに溜まっている湿気が内陸側に移動するのを妨げていると思う。結果として、フンボルト海流は、この海からはずっと高地に見えているアタカマ砂漠の乾燥に影響を与えているのだ」
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しかし、フンボルト海流によって生まれたこの反転層は、本当にアタカマを世界でも最も乾燥した砂漠に変えたのだろうか?

クエブラダ・アローマQuebrada Aroma(アロマ峡谷)と呼ばれる荒れ果てた場所の北端の沙漠で、地質学者ローラ・イーブンスターはこの謎々を解く手掛かりを探している。
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彼女は、砂漠がこんなにも乾燥し始めた年代を確定しようとしている。
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モハーヴェ砂漠など、他の沙漠では多くの雨が降ることは少ないが、一旦、降り出すとそれは劇的だ。嵐は大雨と洪水を運んで来る。しかし、ここクエブラダ・アローマではそんなことは決してない。今でも、いつも完全に乾き切っている。

洪水を引き起こしただろう大雨が降ったかも知れない最後の年代を確定するには、岩がどのくらいの期間、妨げられずに同じ場所に留まっていたかを知ればよい。
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ローラ「簡単な例で説明しましょう。大雨が降ったとして、代りにペットボトルの水を砂漠の斜面にかけてみます。すると、石の塊が砂の上に浮かび上がって来て、表面を転がり、水が引くと、表面に残されます」
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クエブラダ・アローマの地表には岩がゴロゴロしている。ローラは岩を砕いて、水が最後に洪水となって大地を流れた時代についての証拠を浮かび上がらせるのだ。
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ローラ「私たちがここでしていることは、岩を叩いて割り、割れ面が黒い色をしていないか、そして出来れば、捜し求めている黒い鉱物がそこにないかを調べることなの」
見つかる小さな黒い結晶鉱物は輝石pyroxeneで、決定的な証拠になる。
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というのはそれが“顕微鏡的で地質学的な時計”になるからだ。

石の化学的な性質は長い間、宇宙線を浴びると変化する。
ローラ「太陽からは幅が狭い波長帯で放射線がくるだけで、大半の宇宙線は夜空に見える全ての星からやって来るの。その宇宙線が石にすることというのは、基本的には石を“焼く”のね。太陽で肌を焼くように。つまり宇宙線が空から降り注いで石に当たり、石を料理しているのよ」
宇宙線で岩が料理されると、輝石は崩壊し、ヘリウム3と呼ばれる気体を作りだす。
(ヘリウム3:通常のヘリウム原子(陽子2、中性子2)より中性子が1個少ない)
ローラ「どのくらいのヘリウム3が岩の中にあるのかは測定できるの」
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「その量が多い程、長い間、宇宙線や太陽輻射に晒(さら)されていたと言えるのよ」

形成されるヘリウム3の気体は顕微鏡的な微少量でしかない。そこで、ローラは、採取したサンプルを1万Km離れたスコットランドのグラスゴーにある研究室まで持って行く。
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ローラ「ここではレーザ光で岩の中のガス溜まり部を加熱して岩の結晶を気化するの。すると、気体のヘリウム3は岩から離れ出て、この複雑な装置を通過して、質量分析計に導かれるの」
このデータを分析することで、彼女は、その石が動いた最後の時期を知ることが出来るのだ。
ローラ「私たちが持っているサンプルの中で最も古い石では、2千3百万年なの」
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「つまり、アタカマ砂漠のある地点では、石が水で動かされることなく2千3百万年の間、同じ場所にあったということよ。アタカマ砂漠は表面が荒されずにいる世界で最も古い場所の一つで、表面の石は人類が生まれる前からそこにあったのよ。つまり石は信じられない程古い時からそこにじっとしていたのよ」

ローラは砂漠の中に2千3百万年もの間、乾燥し切っていた場所があることを発見した。この事実は調査における決定的な手掛かりだ。というのはフンボルト海流の誕生時期と一致するのだ。南アメリカは、かつて南極と地続きだった。しかし、凡そ2千5百万年前、2つに割れた。
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海峡が生まれ、凍るように冷たい水は一部は極地を囲むように流れ出し、一部は海岸に沿って北に流れていった。
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北に流れ出した冷たい海流が“反転層inversion layer”を形成して海岸部に雨雲を閉じ込め、アタカマを世界でも最も乾いた場所にゆっくりと変え始めたのだ。しかしフンボルト海流だけが乾燥の原因を作ったわけではない。砂漠がどのようにして、こんなにも乾燥するようになったのかを見つけ出そうという探求は、皮肉にも、地上で最も湿った場所と対立することになる。
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アタカマの反対側にはアマゾンがある。しかし、雨林帯に降る雨はアタカマ砂漠の近くまではやってこない。アマゾンとアタカマ砂漠の間には広大なアンデス山脈地帯が横たわっているからだ。
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地質学的証拠によればアンデスが最後に大きく隆起したのは今から数千万年前だ。山は雨雲が砂漠に到達するのを妨げていて、これは“雨の影の効果rain shadow effect”と呼ばれている。そしてこれが、アタカマ砂漠を地球上で最も乾燥している場所にした最後の要素だ。
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何がアタカマをこんなに、信じられない程に、乾燥した場所に変えたのかに関する証拠は沢山見つかった。
フンボルト海流が雨が降らない気象体系を創り出した。ヘリウム3は乾燥への工程が今から2千3百万年前に始まったことを示している。アンデスが既に1千万年前には砂漠を乾燥させていた。

これらの調査結果は決定的に思われる。アタカマは何百万年もの間、不毛の、全く雨が降らない土地だったのだ。しかし、次に起きた出来事は、この結論を吹き飛ばすようなものだった。小さく、鋭くて固い石が、この地に古代文明が在ったことを示したのだ!
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しかし、人々はどのようにして、世界で最も乾燥した砂漠で暮らすことが出来たと言うのだろうか。

アタカマ砂漠はこれまでのところ、地上で最も乾燥した場所だ。証拠をつなぎ合わせた結果、科学者たちは、この場所は、数百万年もの間、極度に乾燥していたと考えている。しかしグアナクエロスGuanaquerosという人里離れた場所で、古代環境学者クラウディオ・ラトーレはこれまで以上に複雑な姿を描きだすことになる、とても興味深い発見をした。
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ラトーレ「これは驚くべき発見物だ。ナイフのようなもので、壊れたので破棄されたのだ。多分、今でも何かを切ることができるだろう」
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訓練されていない目には、単なる岩の欠片(かけら)に見える。しかし、ラトーレはそれが道具として機能することを知っている。彼は何百もの似た石を見つけている。それらはかつて、古代の人々がここで暮らしていたことを表わす手掛かりだ。
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ラトーレ「これは人々が単に、一時的に暮らしていただけではないことを示している。人々は生活し、仕事をし、岩を叩いて割ってこのような道具を造って、身近な資源を活用しながら、この地にへばりついて暮らしていたのだ」
生命維持には水が必須で、従ってどんな植物も動物もそして人間もここで生き延びるのは不可能に思える。ラトーレは、この15万平方Kmの沙漠のある場所は、かつて、もっと湿っていたのではないかと疑った。数百万年前ではなく、人類が大地を歩いていた時代に。

1997年、彼はその証拠を探す旅を始めた。彼は今日、その旅を再現してくれている。気象の変化は岩の中でも見つけることが出来る。ラトーレは崖の地層をひとつづつ調べて、ついに決定的な証拠を発見した。
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ラトーレ「ここが実際に、興味深い物語が出現した場所だ」
この白亜の岩はダイアトマイト(珪藻土)と呼ばれている。岩は、綺麗な水中にのみ生息する、顕微鏡的な生命体の藻類が、潰れ化石化した残留物で出来ている。
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ラトーレ「岩が我々に語っていることは、ここには湿った土地が在ったと言うことだ。このワナクエロスの地を今日見渡すならば、こんなに乾いている場所はないというのに」

しかし、過去のある時期、砂漠の表面には水が有ったのだ。ラトーレの次の仕事は、それがいつだったのかを見つけ出すことだった。放射性炭素年代測定は年代の割り出しでは最も正確な手法の一つだ。しかし、この手法を適用するには有機物のサンプルが必要だ。そこでラトーレは手掛かりを求めて沙漠を綿密に調べまわった。
ラトーレ「私たちがしたのは砂漠を歩き回り、見つかった小さな穴や割れ目の全てをのぞき込んでみることだった。そして偶然、信じられないものを見つけた」
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彼は、この調査の中で、偶然、しかも幸運にも、最も重要な証拠の一片に出くわした。洞穴の奥に、大きな巣があったのだ!それは小さな哺乳類mammalの、数世代にも渡る数千もの糞で出来ていた。
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小さな塊の大きさや形は、チンチラというネズミの一種だとトーレに告げていた。
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そして、その巣は彼が捜していた決定的な手掛かりをも含んでいた。有機物の物体だ!
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ラトーレ「それは我々が見つけ出した最も驚くべき発見の一つだった。巣には草が一杯あったんだ!今、辺りを見渡しても、草など見つからない。生態系の重大な変化があったのだ」
草は昨日、刈り集められたもののように、新しく、形もそのままのようだ。しかし、巣から採取した草を炭素年代測定したラトーレは驚くべき事実を発見した。草は1万1千年以上も前の物だったのだ。
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ラトーレ「私が手にしているのは生態系の例だ。過去において水が増えていたとしか考えられない、かなり明確な証拠だ」

巣は、ここで植物や哺乳類が生存していたという強烈な証拠だ。生存していたのは彼らだけではなかった。厚い巣の層の下の別の層で、小さな手作りの道具が沢山みつかった。
ラトーレ「過去からの情報を伝えてくれるこれらの小さな、固い、鋭い石が層の底に見つかったんだ」
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アタカマのある地域は、2千3百万年の間、常に乾燥していた。
しかし、この新たな証拠は、ワナクエロスなど、別の地域では、1千1百年前は、環境が異なっていたことを示している。
ラトーレ「それは化石化されているスナップショットのようなものだ」

多様な生態系が短期間だが生命を産み出していたのだ。その気象が続いていた時期、植物が成長し、湿地は広がっていた。
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小さな哺乳類が繁栄し、生き続けていた。ビクーニャ、ラマ、それに人間も、この豊かな環境の中で暮らすことが出来たことを意味していた。
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ラトーレ「些細(ささい)な通俗的な発見だったが、今日なら厳しい気候のアタカマ砂漠で、人々が、昔、入植して暮らしていたことが判る手掛かりを得ることが出来て、とてもよかった」

ネズミの巣の年代は科学者たちに水がどこから来たのかについて、現実味のある理論を与えてくれた。今から1万1千年前、最後の氷河期は終わりを迎えていた。地球の気候は変わりつつあった。
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アンデスの高地で降った多くの雨は川となって流れ下り、ある場所では、水のたまり場ができて湿地を形成していたが、別の場所は、数百万年も水に触れないまま残されていた。
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しかし、そのたった1千年後、気候は再び変化し、川は干上がり、草は死に絶え、ネズミや人間たちは消えていった。そして今は、地下水の一滴すら、乾燥し切った大地のなかに吸い込まれている。
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ラトーレは、水がどのくらい深い所にあるのかを見せてくれようとしている。
ラトーレ「地表にあった湿地に対してどのくらい大きな変化が起きたのかを解り易く示す、簡単な実験をしてみよう。これは井戸で、今から、この石を落としてみよう」
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「石が水面に到達した音が聞こえるまでの時間を調べると・・・およそ4秒だ。地下水のレベルは地表から凡そ60mと判る。これはかなり乾燥している土地であることを示している。完全な砂漠で、どんな植物もどんな野生動物もいない、地表を流れるどんな水も存在しない場所だってことだ」

地上で最も乾燥したこの土地での調査は、驚くべき方向転換を示した。道具は人間がここに暮らしていたことを示している。ダイアトマイト(珪藻土)は過去に湿った気候が在ったことを表わしている。ネズミの糞や草は多様な生態系が今から1万1千年前に在ったことを示している。

しかし、この驚くべき砂漠はもっと多くの秘密を抱えているのだ。我々が住む惑星の最も極端な環境の一つの中における生命だけではなく、恐らく、別の惑星の表面での生命にも関係するものだ!
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今日、科学者たちは、アタカマ砂漠はこれまでで一番、乾燥しているのではないかと疑っている。そこで、彼らは、水の源になりえるものがここには全く残されていないかどうかを調べている。NASAの科学者アファンソ・ダヴィーラは、水があるなら、ここにも生命があるチャンスが残されていると考えている。しかし、彼が初めて砂漠を訪れた時、その兆候は全くなかった。
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ダヴィーラ「始めてこの地を訪れ、3千Km以上を車で走破したが、キャンプ地に戻って来て考えるに、私は一匹の昆虫すらも車のフロントガラスにぶつかるのを見ていなかった。こんなことは世界中のどんな場所でもあり得ないことだ。このことは生命にとってどんなに厳しい環境かを示す良い例だと思う」

1960年代以来、NASAの科学者たちは砂漠の土壌の浅い部分でバクテリアの生命の存在を探し回っている。今までの所、まだ何も見つかっていない。しかし2005年、奇妙な白い大地に出くわした。
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そして偶然、ダヴィーラの同僚の一人が、石を拾い上げ、叩き割ってみると、全く予想していなかったものを発見したのだ。
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ダヴィーラ「ここに緑の層が結晶の中に見事に見えている」
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顕微鏡で調べてみると、この淡い緑の斑の正体がはっきりした。
ダヴィーラ「驚くべきことに、我々は岩の中に残っていた緑の微生物microorganismを見たんだ」
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「それは大きな驚きだった。何故なら、微生物が地球で最も乾燥した場所にいるなんて誰も考えたことがなかったんだ」
全くの偶然で、岩の中に隠されていた生命を彼らは発見したのだ。
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ダヴィーラ「この白い岩は塩化ナトリウムsodium chlorideだ。岩塩haliteとも呼ばれている。アタカマ砂漠でよく見つかる鉱物で、世界中の台所で使われるミネラルの食塩と全く同じものだ」
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塩はバクテリアを殺して食物を保存することが出来る。しかし、奇妙なことに、ここアタカマでは、緑の微生物の居住区を隠し持っていた!彼らがどのように生き延びていたのかを見つけるため、ダヴィーラは幾つもの湿度センサーを砂漠に配置した。
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その結果、砂漠の大気の平均湿度は10%程度だが、特例的に75%くらいまで上がることが判った。この一時的な水蒸気の増加が唯一の水で、この水こそが生命を育てているのだ。
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ダヴィーラ「塩の明確な特徴は大気中から水蒸気を引きつける能力だ。そして塩の塊の中で水溶液を形成する」
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大気中から塩の中に吸い込まれた水分こそが、微生物が岩の中で取り込むことができる水なのだ。
ダヴィーラ「生命はとても頑丈(がんじょう)なもので、適応力もあり、我々が地球上で見つける極めて極端な環境でも順応できるんだ」
NASAは、アタカマ砂漠におけるこの発見が火星における生命に関する何かを明らかにすることが出来ると考えている。1976年、ヴァイキング着陸船が火星の薄い大気の中に水を検出した。2008年には、NASAの火星探査機オービターは火星の表面で塩の証拠を見つけた。
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人類が火星に到達する時、彼らは火星の土壌の中にではなく、岩の中で、火星の生命を探すことになるかも知れない。
ダヴィーラ「不幸にも、人類が火星を歩くのを我々が見るのはかなり先のことだ。それまでは、アタカマ砂漠に来て、地上で生命を理解する手掛かりを持つこの種の岩の研究し、太陽系の別の惑星における生命の可能性を調べるつもりだ」
地球上で最も乾燥した砂漠における偶然の発見は、ある日、先端を行く科学者が火星の岩を砕いて小さな地球外生物を発見することも可能だと示したのだ。
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どのようにして地上で最も乾燥した場所が造られたのかに関する調査は終わった。それは1億5千万年にも渡る、素晴らしい地球の物語を明らかにしてくれた。水中で形成される石膏は、砂漠がかつて水の底だったことを示している。熱間欠泉は砂漠の下の強い火山活動が大地を海底から隆起させたことを示している。小さな輝石の結晶は、最初にできた砂漠一帯は2千3百万年前に完璧に乾燥していたことを示している。ネズミの巣は、氷河期の終わりに、砂漠の中で繁栄していた小さな生命が生存できる場所があったことを示している。塩の中の小さな緑の有機生命体は、この地でさえも、生命はしがみつくようにして存在できることを示している。
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今日、この場所は地上でも独特な一帯だ。間違いなく完璧な砂漠だ。そしてそれがどのように形成されたのかの探索は地球がどのように造られたのかという物語の中で新たな章に光を当てたのだ。

Atacama Driest Place On Earth
https://www.youtube.com/watch?v=HG-OVCOiFm0

補足資料です。
アタカマにあるLaguna(潟) Colorada
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“塩”の沈殿などで、とても浅いラグーンでしょう。水は鉱物イオンを含んだ色をしています。

アタカマ砂漠は次の地図で黄色い地域で、平均標高は2千m以上です。
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周辺を囲むオレンジ部は乾燥地帯で、アタカマ砂漠ではありません。

南回帰線直下で標高2306mのSalar de Atakama アタカマ塩湖
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塩湖の表面は、こんな感じ。
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塩湖には妙なものが・・・長い方は5Kmもあります。
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電池で使われるリチウムLiの精製プラントです。塩湖を走る白い線は道路。

Wikiアタカマ砂漠;概要
東西の幅は平均160kmに満たない一方、南北の広がりは1000kmあり長大な盆地状をなす。アンデス山脈と海岸の山地によって湿った空気が遮断されているため世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。不毛で岩塩や石灰の堆積層で覆われている所が多く、銅・銀・ニッケル・リチウムなどの鉱物資源に富んでいる。天然の硝酸ナトリウム(チリ硝石)の産出は世界最大であり、1940年代初期まで大規模に採掘されていた。また、世界最大のリチウム産地である。代表的な寒流であるペルー海流(別名フンボルト海流)が作る西岸砂漠の一つである。約5000もの地上絵がある。この地上絵はナスカのような巨大な地上絵ではなく、また斜面に描かれている。
(アタカマの岩絵)
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(完)

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mh徒然草: 元気なお年寄りが多くなりました。


今日は6月22日です。

2週間程前のことです。朝起きたら腰の右側でギックリ腰のような鋭い痛みを感じ、歩くのもままなりませんでした。インドメタシン1%入りのシップを貼って辛抱していたら4日目には嘘のように痛みが失せて、目出度し目出度しと思ったのも束の間、その2日後、少し腰をかがめながら、女房殿の足をマッサージしてやったのがよくなかったんだと思いますが、同じところに同じ痛みがぶり返し、また数日間、這(は)うようにして家の中を歩く始末で、日課だった電気掃除機掛けも免じてもらって数日後、やっと痛みがなくなりました。

で、朝の散歩も中断し、手や腰に力を入れないよう、注意して動き回っているんですが・・・いつものスーパーへの買い出しは、これまで通り、女房殿に付いて出かけています。

しかし、平日、お昼頃、どこを歩いても、どこに行っても、お年寄りが多いですねぇ。バスに乗ってもお年寄りばかり。スーパーやレストランも8割方は60歳以上で、5割方は70歳以上でしょう、データの収集分析はしたことがありませんが。

で~外出した時に出会う老人や、レストランに入ると見かける老人は、みんな元気なんですね。遊歩道では、半ズボンの老人が汗を流してランニングしていますし、交差点では信号無視して、元気に道路を走り回っています。スーパーでは歩き回って、バナナや林檎は並んだものを全て素早く指で押しては固さを確かめ、レジでは清算の列に素早く割り込んで来たりするんですが・・・

例えば、レジで精算する時、その対応が遅いんですねぇ。“2547円です!”って言われてから、財布の中を覗き込み、千円札を1枚ずつ数えながら現金皿に置くと、次に硬貨を数えながら現金皿に置くんですが・・・
動作が一々、遅いんです!五円玉がなくても、一円玉を数えながら出すんですが、6枚しかなかったりすると、1円玉を全部戻してから10円玉に置き換えるんですが・・・
動作が一々遅いんです!
mhはっていいますと、スーパー専用の現金チャージカードを持っていて、レジとは別の機械で1万円単位で事前にチャージしておくんですね。そうすれば、清算はワンタッチで完了です。
みんな、チャージカードで精算すればいいのに、って常々思っていますが、特にお年寄りはチャージしないんですね。レジの従業員と話したり、小銭を数えたりする時間を楽しみにしているんじゃあないかってmhは邪推しています。

清算の列にならんでイライラしながら、財布から小銭を数えながら出しているお年寄りを見ていると“なにやってんだよ!早くしろよ!”ってな声が後ろから、かかったりするんですね。声がする方を見ると、やっぱり、お年寄りです。

元気なお年寄りが多くなったのは事実だと思いますが、体力だけが年相応よりも少し若々しいだけで、判断力や観察力や五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)は年相応に、時にはそれ以上に悪化しているくせに、自意識が強くて意固地ですから、手の付けようがない、嫌われ者の条件は十分そろっているんですね。

さてさて、こんなブログを書いているmh自身も、自分は決してそうじゃあないって自意識は持っていますが、嫌われ者で邪魔者の老人のお仲間に入り始めているって自覚も時々持ったり、持たされたりしていますから、これから先、何にどう気を付けて生きていくべきか、謙虚に考え直さねばならない!と思います。

思うに、年を取ったら、“体力をつける暇があるなら、脳力を維持することに時間を使え!”じゃあないでしょうか。体力の方は女房殿にくっついてスーパーに買い出しに行く程度でいいでしょう。勿論、腰の様子が落ち着いた今は、電気掃除機担当と食器洗い担当は従来通り、引き継ぐ覚悟でいます。

Have You Ever Seen the Rain-Rod Stewart
https://www.youtube.com/watch?v=lMiJvj6gFg4
(完)

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バベルの塔の不思議

バベルの塔とはどんな塔だったのか?
大勢の画家がその様子を描いていますが、Wiki“バベルの塔”には3人の画家の名がありましたので、彼らが描いたバベルの塔をご紹介しましょう。
16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家ピーテル・ブリューゲルの絵
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19世紀のフランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレの絵
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17世紀のフランスの画家アタナシウス・キルヒャーの絵
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17世紀のフランドル(注)の画家ヨース・デ・モンペルの絵も英語版wikiにありました。
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(フランドル;旧フランドル伯領を中心とする、オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)

“バベルの塔”は旧約聖書の創世記の中で記されているのですが・・・
“火のない所に煙は立たぬ”と言いますから、実在していたとして・・・
誰が、いつ、どこに建てた塔か?

この3つの問に対する答えを見つける一番手軽な方法は、バベルの塔を建てた人物を特定することでしょう。さすれば、その人物が生存していた時代と活動していた場所が判り、凡そいつ、どこら辺りに建てられたのかも判るというものです。

過去にブログでご紹介したYoutubeフィルムの中では、バベルの塔はメソポタミアの古代都市バビロンにあったと紹介されていました。今も残る塔の痕跡が衛星写真で確認されたのです!

次の衛星写真は古代都市バビロンの現在です。
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町の南側に見つかった、一辺が50mほどの正方形の敷地にバベルの塔が立っていたと断言しました。
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塔の形はジグラットと同じだったと思われています。
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しかし・・・
底辺の一辺が50mの正方形のジグラットの高さは・・・
せいぜい100mで、高くたって200mを越えてはいなかったでしょう。鉄骨を使った現代建築技術を使えば、東京スカイツリーのように600mを越える塔も造れますが、バベルの塔は、煉瓦を積み上げて造られていたはずですから、高さはせいぜい100m程度だったはずです。

高さ100mとはいえ、当時なら超高層建造物だったのは間違いありません。しかし、神が棲む天国に到達する高さと呼ぶのは大袈裟(おおげさ)でしょう。紀元前2千5百年代に建てられたエジプト・ギザのクフの大ピラミッドでさえ、底辺の一辺は230mもありますが、高さは当時でも147mで、“天に届くような”という形容詞は使われていないと思います。このことから類推すると、古代都市バビロンに残る一辺が50m程のジグラット跡にバベルの塔が在ったとするのは無理筋ではないかという気がします。

Wiki“バベルの塔”に見つかる要点は次の通りです。
<バベルの塔>
*旧約聖書(ヘブライ聖書)の「創世記」中に登場する巨大な“塔”。
*正確には「バベルの塔」という表現は旧約聖書には現れず、"the city and its tower都市とその塔"もしくは"the city都市" と表される。バベルはアッカド語で神の門を表す。
*旧約聖書によればバベルはヘブライ語のbalal(ごちゃまぜ)から来ているとされる。
*旧約聖書の「創世記」11章におき、ノアの物語の後でアブラハムの物語の前に現れ、その記述は次の通りである。
“全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアル[シュメールと音が似ていることが、よく指摘される]の地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベル(mhごちゃまぜ?)と名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。”

mh流に纏め直すと
1) バベルの塔はバベルという名の町にあった塔だと考えられる。
2) バベルの町はシュメール、つまりメソポタミア、辺りの平地に造られた。
3) 塔の建設材料は煉瓦で、アスファルトも接着用に使われたかもしれない。
4) 建設作業者たちは建設途中で急に別々の言語を使い出し、統制がとれなくなって、塔が完成されることはなかった。
となります。

で~Wikiによれば、偽典(ぎてん)と呼ばれる、旧約聖書の正典・外典に含まれないユダヤ教・キリスト教の文書に、“二ムロドNimrod”という、神とも悪魔とも例えられる人物がバベルの塔の建築を指導したと書いてあるようです!
Wiki“ニムロド”には次の記事があります。
*ニムロドは旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章でクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。
*聖書の記述を解釈している偽典“ミドラーシュ”によれば、二ムロドは、よりネガティブな人物として想定されている。それは彼の名前が即、神に対する反逆を表明しているからである。つまり「ニムロド」とはヘブライ語で「我々は反逆する」を意味している。狩人としての彼の行為もまた、凶暴かつ残虐的に描写されている。なかんずくバベルの塔の建造においてはその企画発案者と見なされており、ミドラーシュには、バベルでの偶像崇拝を拒絶した青年時代のアブラハムを炉に投げ入れるよう命じる場面が詳述されている。この逸話は一神教徒アブラハムと偶像崇拝者ニムロドとの間に起きた神学的な闘争として、アブラハムの信仰心について語る際によく引用されている。
*古来、伝説上、ニネヴェを建設したとされるニムスとニムロドを同一視する説があるが、最新の研究では、アッカドの狩猟農耕の神と讃えられたニヌルタ、あるいは、王名にその名を冠したトゥクルティ・ニヌルタ、あるいは、『シュメール王名表』にウルクの初代王として記録されているエンメルカルなどがニムロドと見立てられている。

これらをmh流に纏め直すと
5) バベルの塔を建設したのは二ムロドNimrodである。
6) 二ムロドはヘブライ語で「我々は反逆する」を意味することから、造語の可能性もある。
7) 二ムロドは、最近の研究によればウルクUrukの初代王エンメルカルEnmerkarだった可能性がある。
ウルクUrukはバビロンBabyloneから数百Kmも南に離れている古代都市です。

ここまでくると、勘の良い読者諸氏は“二ムロド、つまりエンメルカルがウルクにバベルの塔を建てたんじゃあないのか?”って思われるかもしれません。正にご指摘の通りの主張をする人物が登場するYoutubeフィルムをこれからご紹介しましょう!!!???

Wikiから容易に立てられる仮説“バベルの塔を建てたのがエンメルカルで、建てた場所はウルクだ!”を主張するのはデイヴィッド・ロールDavid Rohlです。彼は、2016年11月28日公開のブログ“エデンの園の比定”で採り上げたYoutubeフィルムでプレゼンテータを勤め、彼の理論に従って、エデンがあった場所を“比定していました”。
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で~今回ご紹介するYoutubeフィルム“TOWER OF BABEL - A FACT OR BIBLICAL MYTHバベルの塔;真実か、聖書の中の神話か?”でロールRohlはWikiから簡単に推定できる仮説を紹介するんですね。そんなこと、誰でも予測つくじゃないの!って思ったmhは浅はかでした。mhが周辺情報を探(さぐ)っていると判ったんです。“エンメルカルがウルクにバベルの塔を造った!”と最初に主張した人物こそがデイヴィッド・ロールだったのです!

フィルムの終段では、エジプト文明に関するロールの持論も紹介されています。“ロールの新年代表New Chronology (Rohl)”として英語版のWikiでも紹介されていますが、この持論がバベルの塔の比定においても、根底に流れているんですね。

ロールの主張とは何か?信憑性(しんぴょうせい)はあるのか?それはご自身でご確認下さい。mhの感想は最後にご紹介させて頂きます。
・・・・・・・・・・・・
バベルの塔・・・聖書の中の最も奇想天外な物語の中の一つ・・・
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ロンドン・キング大学ジョナサン・ストークル博士「バビロニア人は、この巨大な、寺院でもある塔を建てた。それは天国にも届いていた」
それは人類が成し遂げた最も偉大な事業といえる。
ロンドン大学マーク・アルタウィール博士「それがどんな姿に見えるか、凡その想像はできるだろう。途轍(とてつ)もなく巨大なものだったはずだ」
しかし、神はバベルの塔が造り上げられるのを止めてしまう。
ロンドン・キング大学アーロン・ローゼン博士「神は人類が塔を造り上げてしまう前に打撃を与え、作業を止めてしまうんだ」
神は人類を混乱させるために言語を創り上げる。
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聖書専門家ライオネル牧師Reverend「人々は異なる言語で会話が出来なかった。従って、お互いの考えを理解できなかった」

多くの学者たちにとって、バベルの塔は架空の話でしかない。
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オックスフォード大学キャサリン・サウスウッド教授「私には、本当は塔についての話ではないように思えるわ」
ストークル博士「現実の歴史を我々に伝えるために書かれたものではなく、何故、物事が、今のような形で存在するのかを説明するために書かれたものだ」
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しかし、一人の男は、塔が存在していた証拠を見つけ出そうと何年をも費やしてしている。
デイヴィッド・ロール「それは伝説のように捉えられている。歴史的事実には基づいていなくて、神話なのではないかとも考えられている」

彼は、この伝説的な建物が、今日、どこにあるかを知っていると主張している。現代のイラクの、戦いの傷跡が残る砂漠の隅だ。
ロール「旧約聖書の創世記に基づけば、バベルの塔は古代メソポタミアにあったと思われる」
彼はこの塔の建設作業が突然、停止されたことも証明できると信じている。
ロール「驚くべきことは、彼らが塔を建てていた時、それが完成することがなかったことだ。建設は放棄され、塔は塵(チリ)となって消えている。まさにバベルの塔の物語そのものだ」
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もし、彼が正しいなら、これまで世界が見てきた中で最も偉大な文明のひとつの興隆を説明できるかも知れない。
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ロール「人類は一つの場所から別の場所へと移り住むものだ。移り住んで、そこにあった社会を変えていく」
しかし・・・彼はバベルの塔が神話以上のものだと証明することが出来るのだろうか?

エジプト。世界がこれまで目にした最も偉大な文明のひとつが生まれた最初の土地。
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古代エジプトは進歩し繁栄していた国でファラオや王の土地だった。ピラミッドやヒエログリフが生まれた。その文明は、何世紀もの間あらゆる年代の人々を魅了してきた。
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その中に、1950年代、英国マンチェスターの少年だったデイヴィッド・ロールも含まれていた。
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ロール「7歳の時、私は第一王朝から最後の王朝までのファラオの名前の一覧表を書いていた。統治していた期間なども並べてね。つまり、私は少し変わり者で、認められてはいなかった。そのことが9歳になった時にエジプトに行きたいって駄々をこねた理由だと思う」
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エジプトの旅は魅惑的だった。おかげで、彼はその古代文明の虜(とりこ)になってしまった。彼は王家の船に乗ってナイルを下った。夜が明けた頃、船はアブシンベル神殿のそばに停泊した。2つの巨大な神殿が山に刻まれていた。
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少年だったデイヴィッド・ロールは見事な光景の中にたった一人で入って行くことを許可された。
ロール「9歳のほんの小さな男の子が、神聖な中でも最も神聖な場所Holy of Holiesに歩いて入っていったんだ。道には川の向うに昇っていた太陽の光が差していて、少年だった私の影は寺院の中心の、神聖な中でも最も神聖な場所に向かって伸びていた。それがエジプトにはまり込む切っ掛けだった」
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しかし、成長すると、ロールは古代の歴史は置き去りにしてしまった。ミュージシャンになり、次には音楽プロデューサーになって成功を収めた。
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1970年、80年代には最も大きなバンドのいくつかとも仕事をした。しかし、ロールの心は、古代の歴史と共にあったのだ。35歳になると、彼は音楽の仕事を止め、古代の歴史に関する学術的な研究を始めた。
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ロール「私は最終的にはロンドン大学に進んでエジプトの考古学や歴史について偉大な教授たちの何人かに教えを受けた。胸躍る素晴らしい時間だった。しかし、最も重要なのは、交易tradeの道具について学んだことだろう。おかげで私は、その知識や、体験や、方法論を私のアイデアに適用できるようになった」
ロールは学術的環境の中で力を付けていった。謎を解くのが最高の楽しみになった。
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ロール「私は謎解きが大好きだ。不思議な、普通じゃあないことを探し出しては、その答えを見つけようとしてきた。現在判っているエジプトの歴史では、王が統治していた年代について多くの混乱がある」

ロールはエジプトの王朝の年表を数百年も変える理論を産み出した。
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その理論はある出版関係者の眼を引いた。エジプトの古代史に関するロールの新鮮な見解は国際的なベストセラー賞を受け、多くの言語に翻訳されている。
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ロール「私は、自分のアイデアを取り入れながら物事をどう進め、どう調べればよいのかを理解していた。そのおかげで、歴史家、作家、TV番組の提供者にもなれた」
ロールは、古代史に関する彼の大胆な見解について、世界中での評判を短期間で勝ち取っていた。そして歴史の謎解きに対する彼の執拗な欲求は、どんどんと時を遡り、聖書の最初の書物である創世記に到達した。
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ロール「創世記の時代まで遡って、古代の資料を調べることがとても恐ろしいのは明らかだ。何故なら、我々はその時代に生きていないのだから。伝統的な伝説や伝統的な歴史を調べるのとはわけが違うんだ」
しかし、ロールはそこで留まってはいなかった。全くその逆で、彼はその挑戦に興奮していた。創世記の物語の舞台の多くは古代メソポタミアで、そこはユーフラテス川とチグリス川の間の豊かな土壌の土地だ。今日のイラク、シリア、トルコを含んでいる。
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しかし、古代、メソポタミアは文明の揺り籠cradleだった。それは紀元前3千5百年以上の昔まで遡る。聖書によれば、そこでエデンの園、ケインとエイブル(Kane and Abel)、ノアの洪水の物語が生まれた。
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(注:ケインとエイブル;カインとアベルとも言う。アダムとイブの息子たちで、兄ケインが弟エイブルを殺害する事件は人類最初の殺人だと言われている)
しかし、メソポタミアはまた、彼が謎を解くことが出来ると考えている一つの物語が生まれた場所でもある。伝説のバベルの塔だ!
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バベル!地上に造られた最初の偉大な都市。その中心では信じられないような塔が建設途中だった。
ライオネル牧師「我々が創世記の中で見る聖書的な説明によれば、支配者は天国まで届く塔を建て始めたようだ」
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聖書は言っている;“ある時偶然、人々は一体となった。彼らは一つのものとして行動した。そして彼らは全員が一つの言葉を話した”
ローゼン博士「町と塔を建てようという人々の願望のどこかに間違いがあるとは思えない」
共同作業は人々を天国へ近づけていった。その時だった。神は人々の行為に気付き、直ぐに行動した。神は、人々が何を造っているかを見ようと、天国から下りてきた。
ライオネル牧師「神はこの行為を承認しなかった。彼は人々が天国に上って来て、神々や天使たちが何をしているのか聞きまわり、邪魔したりするのを望まなかった」
神は、人類は信用できないと考えていた。
ローゼン博士「人々が天国に上ってきたら悪さをするだろうと神は疑っていた。そして勿論、人類の性質の弱点や、悪事に走る特性は、創世記の、もっと最初の章で確定されていた。神はバベルの塔もその現れだと疑ったのだろう」
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神は直ちに行動に出た。彼は言葉を混乱させたのだ。
ライオネル牧師「神は人々にバベルの呪いをかけることにした。そうすれば人々は異なる言葉を話し始め、お互いが何を言っているのか判らなくなる」
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すると、バベルの人々は、散り散りになって世界に散って行ってしまった。共同作業で示されていた調和は崩壊し、バベルの塔は放棄されてしまった。
ローゼン博士「それは偉大な、行動的な先制攻撃だ。神は我々人類が何かをしようとして立ち上がる前に我々を打ちのめすことに決めたのだ」
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ロールは、この見事な建造物がかつて存在していたという証拠は見つからないのではないかと疑っていた。
ロール「バベルの物語におけるある一つのことは、それが建物、つまり構造物だということだ。とすれば、創世記の物語、例えばアダムやイブとか、ケインによるエイベルの殺害といった、考古学的には確認できない話と異なり、考古学はバベルの塔を見つけられるはずだ。塔とか寺院といった実体のあるものなら見つけられる」
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ロールは古代エジプトの謎を解明し、既に名声を得ていた。今度はバベルの塔の本当の位置という、聖書の中の最も古い謎の一つを解くことになるのだろうか?
しかし、聖書の謎に関する明確な証拠を見つけることが難しいことをロールは知っている。
ロール「創世記のことを考えるなら、当然のことだが、ある意味では歴史以前まで遡らなければならない。何故なら、その出来事はまさに“先史時代prehisitoric”のものだからだ」
事実、聖書学者の多くは、その探求を諦めるよう、ロールに強いるだろう。彼らは“創世記の中では決して証拠を見つけられない!”と言うに違いない。それは物語であって、書かれている以上のものではないのだからと。
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キャサリン教授「創世記の11章に書かれているバベルの塔の物語の調査で共通しているのは、世界はなぜ今のようになっているのかを説明する物語として、それを理解するってことなの。11章は、人々は何故、そんなにも多くの言語を話すのかについての説明なのよ。私が言いたいのは、その物語のおかげで、我々は近代の多くの言語を手に入れることになったっていうことよ」
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しかし、ロールは聖書学者たちの懐疑論に反対している。
ロール「私は聖書を他の古代の記述と同じように扱うべきだと考えている。聖書はある意味では物語化されたものだということは誰もが知っている。それは物語であって現実のものではない。そのようなことは、古代の記述の全てでも見つかることだ。とするなら何故、我々は聖書を他の古代の記述とは異なる発想で取り扱わなければならないというのだろう」
ロールは迷うことなく、彼のバベルの塔に関する調査を始め出した。彼はそれがいつ建てられたのか、どこで、誰によって建てられたのかに関するヒントを求めて、聖書の記述を詳細に調べてみた。
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誰も創世記に書かれている物語の正確な年代を知っていない。因習によれば、それらの出来事は紀元前第三および第四千年紀に起きている。つまり紀元前2千年から4千年の間に起きているのだ。我々に知られている他の場所で言えば、その時期は古代エジプトの黎明期に当たる。しかし、同時に、地上で最初の都市文明“古代メソポタミア”が生まれる時期でもある。メソポタミアはシュメリア、アッシリア、バビロニアといった帝国の発祥地だ。もし、バベルの塔がどこかにあるとすれば、それは肥沃なメソポタミアのどこかに違いない。

ロールは、バベルの塔を探す上での場所と時期に関する大雑把なアイデアを描き終えた。しかし、正確な地点と時期を見つけるには、もっと多くのデータが必要だ。聖書におけるバベルに関する章は、そのために役立つどんな情報をも持っていない。そこで彼は、その章よりも前に書かれている“国の一覧表the table of nations”と呼ばれる章の中にヒントを探すことにした。そこにはノアの3人の息子の子孫たちが並んでいる。
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ストークル博士「聖書によれば人類はこの3人の子孫で、全ての国も、この3人に結びついている。物語では、これらの人々が生まれていたと言っているだけで、彼らの詳細は分かっていない」
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しかし、ロールは、その章の中でバベルに関する記述を見つけて驚いた。バベルという名の町の創設は“ニムロドNimrod”と呼ばれる人物に託されていたのだ!ノアの子孫だから、彼が生きていたのは紀元前3千年紀だろう。
ロール「我々は、ここで創世記の中の重要な人物の二ムロド王に出くわすことになった」
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「二ムロドは大洪水の1、2世代あとに出現している。彼は聖書の中ではバベルの塔と関係していない。聖書が言っているのは、二ムロドは神の前では優れた狩人だということだけだ。二ムロドは聖書の中では最初の“グレポデット(?)”つまり“偉大な王”と記されている」
ロールは、興味をそそられた。二ムロドはバベルの創設を託されている。しかし、バベルの塔については説明がない。二ムロドは塔の建設技師でもあり得るのだろうか?
ロールは、この人物に関する更なる情報を探してみたが、聖書にはそれ以上の何も書かれていなかった。
ストークル博士「二ムロドはクシュの息子で、偉大な狩人で全能の英雄だったと記録されている。それが彼について我々が記録の中で知っている全てだ」
ロール「彼は記録の2行の中で明らかにされているだけで、それ以上のことについては判らない。このニムロドとは誰だろう?」
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エルサレム。聖地。
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バベルの塔の物語が最初に書き記(しる)されたのは正確にいつだったのかを知る人は誰もいない。多くの専門家は紀元前1千年紀、つまり紀元前5百年から紀元前1千年の間だと言っている。しかし、ロールは、それから何世紀も後になって物語が再び書き記されていたことを見つけていた。西暦94年頃、ユダヤ人の歴史家が“ユダヤ人の古代antiquities of the Jews”を書いていた。
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ストークル博士「“ユダヤ人の古代”はユダヤ人歴史家ヨセフィスJosephusが書き残したもので、基本的には、ユダヤ人が何故いまのようなユダヤ人になっているかをローマ人に語るためのものだ」
(mhご参考:紀元前63年頃から数百年に渡り、現イスラエルはローマ帝国の属州で、イエスを磔(はりつけ)にしたのはローマ兵です)
ロールは歴史家ヨセフィスが自分たちの歴史を編集するため、古代の文献を頼りにしていることに気付いた。聖書同様、ヨセフィスはバベルがどこに在ったのかについては語っていない。しかし彼は二ムロドをバベルの塔の建設と直接的に結び付けていた!
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ロール「ヨセフィスは“二ムロドはバベルの塔を建てた王だ”と言っている。つまり、我々は二ムロドとバベルについての関係を手に入れたのだ。そしてヨセフィスは、神が人類を破壊するために新たな大洪水を引き起こした場合を想定して、ある種の逃避の目的で、二ムロドがバベルの塔を建てた、と語っている。つまり人々は塔の頂きまで登れば洪水を免(まぬが)れることが出来たのだ」
ついにロールは聖書の中の人物とバベルの塔との関係を手に入れた。恐らく二ムロドがバベルの塔を建てたのに違いない。
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しかし、それは彼が肉と血を持つ、現実に存在したメソポタミアの王である場合に限られる。

オックスフォードの中心には、聳え立つ尖塔や多くの大学の建物の間に隠れて、アシュモリアン博物館Ashmolean Museumがある。
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その古物部門には、シュメリアと呼ばれるメソポタミア南部で見つかった多くの品々を含む古代の歴史から得られた宝物が保管されている。ロールは“粘土の柱clay prism”に焦点を合わせた。
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高さは凡そ20cmで、紀元前1800年頃のものだ。
各々の面には楔形文字cuneiformでメソポタミアの古代の記録が刻まれていて、“シュメリア王の一覧表list”と呼ばれている。メソポタミアにおける最初の文明国家シュメリアを統治した全ての王が記録されているのだ。
ロール「シュメリアの歴史の最も初期に遡ろうとするなら、シュメリア期における王の一覧表を見るというのは極めて合理的な考えのはずだ」
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「おまけにその一覧表はあるのだ。その中に聖書に記されていた二ムロドという王を探すことが出来るはずだ。王の表には彼の名が記録されていなければならない」

しかし、ロールは、一覧表の内容は注意深く考えねばならないことを知っている。
ストークル博士「シュメリア王の一覧表には、実在していなかった王国の記述もある。権力の移行は平和裏に行われていて王として記録されないこともある。だから、これを基に判断するのは難しいのだ」
ロールは王の一覧表を細心の注意を払って調べていった。しかし、王二ムロドについて書かれた記事を見つけることは無かった。が、別の王の名前を見つけた!彼は二ムロドと同じように紀元前3千年紀に統治している。
ロール「私は、とても興味深い人物を見つけた。シュメリアの伝統に従うと、彼は洪水から1世代後に出現している。王の名は“エンメルカルEnmerkar(英語:エンメーカー)”だ!」
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王の一覧表によればエンメルカルは紀元前2700年頃から1百年間、統治している。
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そして、ウルクUrukという名の都市を設立したと記されている。バベルBabelという名の都市ではない。

ロールが調査を進めると、エンメルカルの生涯の詳細を記した更に多くの古代の記録が見つかった。
ストークル博士「エンメルカルはバビロンの神話や伝説に現れる人物で、彼にまつわる多くの物語が知られている。メソポタミアで統治していた王の一人として記録に現れている」
ロールにとって、エンメルカルは場所も時代もピッタリの人物だ。しかし、名前は違う!二ムロドとエンメルカルの間に関係があるのだろうか?それはパズルとも言えるものだった。ロールはそれを解きたいと思った。エンメルカルと二ムロドは、ひょっとして同一人物ではないのだろうか?
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ロールはエンメルカルという名前を分解してみることから始めた。
ロール「エンメルカルEnmercarの最後の部分“カーcar”はシュメリア人の言葉によれば“狩人”で、“狩人のエンメル”となる。それは、優れた狩人と言われる二ムロドNimrodと極めて似ている!」
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ロールは興味をそそられた。聖書から得られる名前とシュメリアの記録から得られる名前は、両者とも王で、両者とも狩人だ!そして両者とも紀元前3千年から2千5百年の間の統治者だ!狩人エンメルがバベルの塔の建設者ではないのだろうか?

トーラ。ヘブライ語の聖書だ。
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古代ヘブライ語で書かれた巻物で、世界中の全てのシナゴーグ(synagogueユダヤ教会堂)で使われている。
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ロールは、ヘブライ語の記述がバベルの塔の謎解きを手助けしてくれるのではないかと考えている。古代のヘブライ語の記述では、普通とは異なり、子音consonantだけが書き記(しる)される。
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ケンブリッジ大学マーティン・ワーシントン博士「古代ヘブライ語では、近代のヘブライ語もそうだが、一般的に母音vowelは使わない。時々、翻訳の曖昧性が生まれるが、普通は問題ない」
古代、名前がどのように記述されるかを理解したロールは、歴史的な混同が起きている可能性に気付いた。古代ヘブライ語で記述される“狩人carエンメルEnmer”と“二ムロドNimrod”の間には、何らかの関係があるかも知れない!ロールは彼の理論を確認してみることにした。
ロール「エンメルENMERから母音を覗けばNMRが残る。“有能な狩人NMR”だ」
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同じことをNIMRODでやってみるとNMRが残る。完全な一致だ!但しDを除けばだが。
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文字Dだけが二ムロドと狩人エンメルを結び付けるのを阻んでいる。二ムロドは余計な子音をひとつ持っている!
ロール「エンメルがニムロッドと唯一異なるのはDを持っていないということだ」
それは些細な問題のように思われる。しかし、子音は言葉の意味を変えてしまうことも可能だ。ロールは更に調査しなければならなかった。
ヘブライ語の原語で書かれた聖書の中には、多くの“語呂合わせpun”が使われている。二ムロドの場合、余分なDはその前にある名前NMRを動詞に変化することがある。NMRの場合は“rebel(レベル:反抗する)”だ。
ストークル博士「二ムロドという名前は”We shall rebel我々は反抗するつもりだ”とか“We will rebel我々は反抗するだろう”という動詞として解釈できる可能性がある。従って、古代イスラエル人が二ムロドと呼ばれる人物の物語を聞いたなら、その話の中には反乱と呼べるものがあるのではないかと思うだろう」
ロールは、このことが二ムロドは名前ではなく、単なる言葉遊びを意味していると考えた。そうだとすれば、二ムロドと狩人エンメルは同一人物を表わしていると考えられる。
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ロール「我々は二ムロドが、洪水を起こして人類を破滅しようとする神に反抗して、塔を建てた人物であることを知っている。だから、エンメルという名前の中のNMRにDを加えて二ムロドNIMRODにしたのだ。“我々は反抗しなければならない”と!」
「聖書の中では有能な狩人ニムロッドがいて、シュメリア人の記述の中には狩人エンメルがいるが、私は彼らが同一人物だと思う」
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少年の時からデイヴィッド・ロールは古代世界を理解するために彼の人生を捧げて来た。彼は今、バベルの塔を建設した謎の人物をついに特定することができたと考えている。彼がしなければならない全ては、塔そのものを見つけることだけだ!

バビロン。不思議と美に満ちた古代都市。その都市は紀元前2千年頃に初めて出現した。最盛期だった紀元前1500年から500年まで、そこは古代世界の偉大な不思議の一つ“空中庭園”がある場所だった。
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そしてバビロンは古代の大都市だった。
ストークル博士「バビロンは偉大で巨大な国際都市として描かれている。例えれば現在のロンドンやニューヨークと似た都市で、世界における国際的な中心だった」
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古代の多くの歴史家にとって、バビロンはバベルの塔があった場所として最もふさわしい場所だ。バビロンという名の響きはバベルと似ている。ロールはバビロンが印象的な建造物の生まれた場所だったことに気付いた。巨大な古代の塔寺院、ジグラットだ。
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アルタウィール博士「バビロンには、我々が存在していたことを知っている、最も高い構造物の残骸が残っている。それは古代世界におけるジグラットだ」
多くの専門家はこの形式の構造物がバベルの塔に完璧に一致すると考えている。
アルタウィール博士「我々はアルメニア人が残したジグラットを説明する記録から、それがどんな外観をしていたか知っている。7段の建物で高さは91m近かった」
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多くの学術研究者もまた、このバビロンの塔が旧約聖書の中の創世記の作者たちにとって最後の場所になっていたと考えている。紀元前6世紀、ユダヤ人の作者たちがバビロンに捕囚され、ジグラットがある都市が言語の起源に関する物語を吹き込んだのだろうという。
しかしロールは学会の見解を受け入れることを拒絶している。彼はバベルの塔がバビロンに在り得たはずがないと考えている。ロールはエンメルカルがバベルの塔を建てたと信じている。エンメルカルはバビロンよりも少なくとも1千年前には王だった男だ。
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ポール「バビロンはエンメルカルよりも1千年程後になってから造られた都市だ。従って、地上で最初に造られた塔、つまり最初のジグラットをバビロンで探すのではあまりに遅すぎる」
ロールにとっての疑問は、バビロンにはなかったとすれば、バベルの塔はどこに在ったのか?ということだった。
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ロールは、旧約聖書の記述はバベルを、音が似たバビロンと間違えたのではなかろうかと疑った。
ロール「この都市は3つの言語で名前を持っていた。だから混乱しやすかったのだ。ギリシャ語の“バビロンBabylon”に似た名前だったかも知れないし、メソポタミア北部の地域で生まれたセム語派(注)のアルカディア語で、旧約聖書の言語の“バビィルーBabylu”だったかも知れない。三番目の呼び方はシメリアンで、全く異なった言葉だ。バビロンはシュメール語で“ノンキーNUN KI”という名を持っていた」
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(セム語派;アフロ・アジア語族に属するとされる言語で、サウジアラビアからモロッコにかけて使われている)

シュメール語の“ノンキー”は“支配的な都市”を意味する。
ストークル博士「地名はシュメール語で書かれがちで、しばしば、都市の特徴を表わす傾向があった。“ノンNUN”は“支配的なmighty”で、“キーKI”は“場所”という意味として知られている。バビロニアで屈指の都市はバビロンだ。従ってバビロンは“ノンキーNUN KI”と呼ばれていたと考えられる」
しかしロールはノンキーと呼ばれる別の支配的な都市を見つけた!
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ロール「つまり、同じ名前で呼ばれる2つの場所がある。北のノンキーと南のノンキーだ」
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メソポタミアにおいて南のノンキーはバビロンよりも数千年も古い都市だ。その都市はエリドゥERIDUという別の名前でも知られていた。
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恐らく、バベルの塔はバビロンではなく、エリドゥに在ったのだ!

ロールは、手を尽くして、古代都市エリドゥについて調べてみた。聖書に記された都市バベルのように、エリドゥは最初の都市として有名だった。
ロール「シュメールの資料によれば、地上における初期の都市はエリドゥだと記述されている。そこは天国から最初に王位を授けられた場所だと言われている。従って、その後に造られたバビロンよりもずっと古い」
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アルタウィール博士「そこは人々が最初に定住した、重要な都市だったように思われる」
ロール「最初は村人が棲んでいて農業とか、牧畜などをしていたはずだが、その後、エリドゥで都市文明が始まった。そここそが全てが始まった場所なのだ」
ロールにとって、エリドゥはバベルの塔があった場所として最高の条件を備えた場所だ。しかし、だとしたら、何故、“エリドゥの塔”として知られていないのだろう?

ロールは聖書の作者たちが2つのノンキーNUN KIで混乱していたと考えている。
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2千年後に、彼らがバベルの塔の物語を書き記した時、そこには新たに生まれた都市バビロンが在った。
ロール「聖書の記録者や創世記の編集者たちは、彼らが聖書を編集するために読んだ記事の中のNUN KIという都市は“バビロンNUN KI”であって、南の、ペルシャ湾の近くの、もっと古いNUN KIは想定されていなかったのではないかと思う。それで、塔は“ノンキーの塔”ではなく“バベルの塔”と名付けられたのだ」
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ロールは全ての証拠がエリドゥこそがバベルの塔が在った場所であることを示していることを確信した。
今、彼に必要な全てのことは、塔そのものの証拠を見つけることだ。

20世紀を通して、メソポタミアは数えきれないほどの考古学的な調査が行われた場所だった。目的は、この地における古代遺跡について発見出来るもの全てを発見することだった。
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この時期、イラク人考古学者たちはジグラット又は塔寺院の遺跡を見つけている。ロールは、それがエンメルカル王の時代に存在していたことに気付いた。
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アルタウィール博士「それは明らかに巨大な構造物で、当時としては最大の寺院の中に在った。その一画には、恐らくいくつかの寺院があり、幾つかの場所については発掘され確認されている」
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ロールはこの寺院こそがバベルの塔の遺跡ではないかと期待した。

しかし、問題があった。聖書は“神が言語を混乱させた後、バベルの塔は放棄された”と明言している。
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しかし、この寺院跡には放棄されたことを示す証拠が何もない!
アルタウィール博士「もし、この寺院跡がバベルの塔と一致すると言うのなら、関心事の一つは、この寺院がどのくらいの期間、人々によって使用されていたかということだ。私の感じでは、この寺院は徐々に長い期間をかけて廃墟になっている。完成した構造物で、未完成のものだとは思えない」
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ロールは困惑していた。エリドゥの寺院はバベルの塔が在った場所としては完璧だった。但し、その建物が放棄されていなかったと言う事実を除いて!
ロールは寺院の調査記録を調べ直してみた。すると、その発掘報告書の中に奇妙な個所があることに気付いた。寺院No1の後方の“高台の広場platform”だ。
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ロールには、それが最初の層というか、もっと大きな寺院の基礎の“最初の段”のように思えた。
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ロール「最初に大きな基礎の“段”が造られ、そこから上に、どんどんと階段状に積み上げられていったんだ。頂上に造られている神の家まで続く階段も設けられた、人工の山のような寺院だった。この寺院は、辺り一帯で生まれた最初の大きな塔寺院だったはずだ」
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「そして、驚くべきことは、寺院は建て始められたものの完成する前に放棄され、その後、全てが塵となって消えてしまったことだ。残ったのは基礎の段のようなものだけだった。これはバベルの塔の物語と全く似ている。2つの寺院とも完成していなかったんだから」
ロールは確信した。エリドゥに残されていた高台こそが伝説のバベルの塔の遺物だ!
ロール「物事がきちんとあるべきところに収まり、ある種の達成感のようなものを私は感じた」
ロールはエリドゥの建物遺物こそがバベルの塔だと考えている。しかし、もし聖書にあるバベルの物語のクライマックスに関して説明出来なければ、十分満足できるとは言えない。言語の混乱と、その後に人々が散り散りに去っていったことだ。
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自由の女神。20世紀、何百万人ものアメリカへの移民が最初に目にした光景だ。
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これらの移民がきたことで、アメリカは今日の超大国に変身した。そして女神像の後ろには、何百もの超高層ビル群で飾られたマンハッタンがある。超高層ビルは近代版の天国を目指す塔だ。
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ロールは、今から数千年前も、移住や入植が今日のように広く行われていたことを知っている。
ロール「人々はある場所から別の場所へ移動するものだ。彼らは移住し、その場所で社会を変えていった。例えばアメリカへ行く人々は大西洋を横切り、新しい発想をアメリカに持ち込んだ」
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「同じ類(たぐい)のことが古代世界でも起きていたのだ」
バベルの塔での言語の混乱は人々の入植によって起きたのではないかとロールは疑っている。
ロール「バベルの塔の放棄にひき続いて起きた国家の分散は何故起きたのだろう?しかし、言葉の混乱という考えに行き着いてみると、多くの言語や他国の人々が一つの地域に入り込んできたからかもしれない、と考えられる」

ロールはエリドゥの繁栄に魅かれて大勢の入植者たちがやってきたと考えている。
ロール「異なる言語がやってきて、会話の混乱が生まれた。人々は異なる言語を話し、お互いを理解できなかった」
しかし、会話の混乱がどうして人々の分散を産み出すことになるのだろうか?ロールは、この件も説明がつくと考えている。多分、入居者たちは、かなり攻撃的な人種だったのだ。
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ロール「彼らは元々その地に暮らしていた人々よりも原始的だっただろうし、好戦的だった。元々から言語の文明を持って暮らしていた人々の生活は、入植者たちによって崩壊され、その結果、住み慣れた地を出ていくことにしたのだ」
ロールには、出来事を整然と説明できる理論だった。ならば、彼らは一体、どこに行ってしまったのだろう?
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メソポタミアから数千Km離れた場所に、エジプトの宝石とも言える場所の一つがある。ナイルの東に広がっている東部砂漠Eastern Desertだ。
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そこに、デイヴィッド・ロールにとって、古代エジプトの、偉大な、隠されている宝物の一つがある。エジプト第一王朝の時代からの岩絵だ。
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ロール「私は専門家のチームと共に、東部沙漠に出かけては、あらゆる調査を続けていた。ナイル谷と紅海の間で我々は岩絵を見つけている」
何度か訪れた探検の中で、ロールは素晴らしい発見をしている。
ロール「我々は何千もの岩絵を発見している。そして、その中には何百もの船の彫り絵がある」
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ロールに謎をかけたのは船の絵だった。船の絵は、普通、海や川や湖の近くなど人々が集まる場所に描かれている。しかし東部砂漠の岩絵の船は最も近くにある水の場所からでも数Km以上離れている。船の絵はバベルから散ってしまった人々について悩んでいたロールの心を捉えた。
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ロール「ナイル川と紅海の間に残されていた船の岩絵は“これらの船は乾燥し切った砂漠の中で何をしているのだろう”という思いを起こさせた。これらは紅海からナイルに向かって砂漠を横切る、どこか別の所からやってきたよそ者たちの船で、彼らはナイルの住人たちの土地を奪い取ったのではないのだろうか?」
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古代エジプトはメソポタミアから来たよそ者たちによって築かれたという考えは奇妙に聞こえる。しかし、ロールはエジプト学に関する初期の研究を覚えていた。大きな謎の一つは偉大なエジプト文明が何もないところから生まれ出たように思えることだった。
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ロール「この時、エジプトは進歩し始めていた時だった。古い社会で古い秩序で、王政とか首長制もあったが、高度なファラオの文明は、まだ生まれていなかった」
エジプト学者の何人かは、ファラオはよそ者だったかもしれないと提案している。
ロール「エジプト学には、エジプトの外から入って来た人々がファラオになったという考えがある」
しかし、もしバベルの全能の塔の建設者たちが移住したとするなら、何故、エジプトだというのだろう?

ロールは、その答えはナイル川の環境的な安定性にあると信じている。
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ロール「もしあなたがメソポタミアから来た交易人だとすれば、エジプトに来て、この川を見る。川は人を抱き込むように優しく、適切な時期に土壌を上流から持ち運んできて、穀物を栽培できるようにしてくれる。きっとあなたは、ここに住み着きたいと思うはずだ。もう故郷には戻りたくなくなるだろう。そこには土壌も、それを運んで来る大水もない。全てが上手く機能しているこの場所に住みたい。ここの人たちと交易するのではなく、この地に移住し、定住しよう。私は進んだ技術を持っている。この地を支配しよう!」
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ロールは、古代エジプト文明が持っている独特な特徴は、2つの文化が出会うことによってのみ出来ることを知っている。そして、ロールの考えによれば、エンメルカルの統治とエリドゥのジグラットの時代はエジプト第一王朝の発生時期と完全に一致する。
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ロール「文化が生まれ出たのはアフリカだが、その中には外部から入って来た要素も含まれている。内部と外部の二つのものが混じり合って独特のファラオ文明が出来たのだ。アフリカ人とメソポタミア人の2つの人々が一体化したものがエジプト文明だという考えに問題があるとは思えない。そう考えるのは私には楽しいことだ」
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しかし、ロールはこの理論が反論を呼ぶことを知っている。従って、広く受け入れられるためには、メソポタミア人がエジプトに来ていたことを示す確固たる証拠が必要だった。
ロール「エジプトにおけるメソポタミア人に関する証拠は沢山見つかるだろう。そのような人々がエジプトにやって来た証拠を私は見ている。従って彼らがやって来たのは間違いない。しかし、エジプト人がメソポタミアで暮らしていた証拠は何もない。人々は明らかに、一方向に移動していて、その方向の移動だけだった。当時、エジプトでは文明の突然の興隆が起きている。それまでどこにもなかった煉瓦造りの構造物が突然、造られるようになった。ラピスラズリは、アフガニスタンからやって来た」
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「何故、それは突然、この時期、エジプトで出現したのか?訪れたメソポタミア人によって取引されたのだ。メソポタミア人とエジプト人との間に接触があったことは誰も否定できない事実だ。その接触がどの程度の強さだったか?いつ頃エジプトの国家、ファラオの国家が形成されたのか?というのは、別の疑問だ。この疑問については、我々は問い続けねばならない」
ロールは、エジプトへの移住がバベルの塔が建てられた場所に関する彼の理論を支持していることに満足している。古代史を研究していると、証拠はしばしば、地上にわずかにしか残されていないことをロールは知っている。そして彼の結論のいくつかは大胆不敵な関係を頼りにしている。その結果、多くの学術研究者たちは彼の手法を認めていない。
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ストークル博士「彼がこれらの事柄について考えたのは素晴らしいことだと思うが、彼の理論は、我々が古代世界を理解するために必要な事柄について明らかにしてくれない多くの部分を持っている。そうは言っても、彼は恐ろしい程に合理的とはいえない部分を提示している。というのは、彼の理論に従ってみようと思っても、理論における大きな飛躍があり、それが埋まらないのだ」
アルタウィール博士「多くの小さな発想の上に、更に多くの発想を組み上げていこうという挑戦は難しい。議論に上がる全ての小さな前進に対しても十分な証拠を示すことが必要だ。そうしないと更に大きな議論における批判に耐えることが出来ない」

ロールはこのような反応があるだろうことは、彼の発見を公開する時点で予測していた。
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ロール「批判に対処する最善の方法は、兎に角、そこから歩き去ることだ。理論を書物にして出版すれば、それは世の中に存在しているわけで、後は、人々に議論してもらうのだ。その議論に少し時間を与え、もし証拠が見つかったら、反論すればいい」
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幼い時から、デイヴィッド・ロールはエジプト考古学に取りつかれていた。彼はエジプトの年表を再評価して名を上げた。そして今、彼は謎のバベルの塔を特定したと主張している。彼は、聖書から、そして古代メソポタミアとファラオ時代のエジプトから、その塔を建てた王を特定し、塔があった場所を発見した。
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手掛かりをつなぎ合わせ、バベルの塔がイラク南部のエリドゥに在ったことを示した。
ロール「孤立し、一人で何かを見つけ出そうとする時、人はもっと大きな構図を描く必要がある。そして、その中の全てを結び付けなければならない。全てが一つにまとまった時、役に立ちそうな仮説が得られる。その時、何かを確信できれば、その時こそ、達成感を得ることが出来るのだ」
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TOWER OF BABEL - A FACT OR BIBLICAL MYTH
https://www.youtube.com/watch?v=PmgPDyNNvYQ
・・・・・・・・・・・・
デイヴィッド・ロールが唱えた“ロールの新年表New Chronology (Rohl)”については英語版Wikiがあります。とても長い解説で、これをmh流に纏めると・・・
現時点で最も一般的な古代エジプトの年表では、初代のファラオのナーマーが第一王朝を設立したのは紀元前3100年頃となっていますが、ロールの新年表では、これを350年ほど、近代の方向にずらします。つまりナーマーの王朝が始まったのは紀元前2750年とするのです。以降の王朝も2百年から350年ほどずれていくのですが・・・
およそ350年ずらすと、特にエジプトの第19王朝(前1293~)から第25王朝(~前656)の出来事とヘブライ聖書に書かれた出来事が時代的に整合するっていうんです!聖書の記事だけではなく、古代ギリシャ史やトロイの木馬の事件もピッタリ合うらしいです。勿論、これはロールの個人的な感想です。
この主張は、証拠が曖昧(あいまい)だとの理由から多くの考古学者は認めてはいないのですが、この観点で書き上げたロールの出版物は人々の歓心を得て、彼はベストセラー作家になったというわけです。

私は全く見ないのですが現在放映中のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では、井伊直虎は女だったとし、女優の柴咲コウが演じていますが、実は男だった!という説が巷にあるようですね。新たに発見された書状を紐解くと、そうとしか考えられないと言うのです。この説はWiki井伊直虎にも併記されていますが、現時点では広く認められてはいないようです。

旧約聖書に限らず、昔のことについては、判明していない事項も多く、否定する証拠が無ければ、あらゆることが真実だった可能性があるというのは“真の命題”と言えるでしょうから、ロールの説が全くの作り話だと否定することは出来ません。神は実在しないとするmhの見解は、状況証拠に基づいたものであって、神が実在する可能性を完璧に否定できていないのが現状ですから、世の中、いろいろな見方があるほど発想が豊かになるという例じゃあないかと思います。

で~バベルの塔がどこにあったとmhが考えているかというとですね、正直なところ、分かりません!
しかし、敢(あ)えて言えば、現在、古代都市バビロンがあった場所に残る、一辺が50mの土地にあったはずのジグラットのような塔が、バベルの塔じゃあなかったかと思います。

旧約聖書の編者たちがバベルの塔について明確にした点は僅かです。そのポイントは、冒頭でふれましたが、建てていた途中で放棄され、その理由は人々の言語が混乱して共同作業が放棄されたからなんですね。で~放棄されたのは“バベル”であって、塔だけではなく、塔が建てられていた町全体です。つまり、完成されたかったのは町全体でした。

とすれば、建設途中で放棄され、歴史と呼べるようなものを持っていなかったはずの町の噂が、放棄されてから2千年後になって、バビロンに幽閉されていた旧約聖書の編者たちによって突然、記録されることになったというのは余りに不自然です。よってロール氏の説は無理があると思われます。

完成されなかった都市や、そこに在った塔の物語は、作り話と考えるべき性質のものでしょう。話を作ろうとしたら、実在する事象や具体的な伝説・神話といった、明確なものを参考にするのが一般的でしょうから、バベルのモデルとなった実在していた都市がどこかを考えればよいわけです。で~まず思い付くのは、編者たちが幽閉されていた都市バビロンですね。そこにはジグラットはありました。衛星写真によれば、どうも周辺には堀が在って、水が張られたようです。とすれば、美的には良かったでしょうが、地盤が柔らかくて大きな建物を建てるには不向きだったことでしょう。バビロン市民は、そこにジグラットを建て始めましたが、建設途中で崩れるトラブルが多発し、これはどうもまずいぞ!ってことになったんですね。今更、基礎からやり直すわけにはいかないし、ってことで、神の意向に沿わなかったんだろう、ってな理由をでっちあげ、触らぬ神に祟りなしとして、崩れたまま放置したのです。この話をバビロンで聞いたか、または放棄に到る様子を目撃した旧約聖書の編者たちが、バビロンの名を出すと差しさわりがあるからバベルという名を使って、塔のある町の物語をでっち上げたのです。子細を書くと、バベルがバビロンを示していることがばれてしまうので、ぼやっとした、簡単な解説に留めた、ってことだと思います。

で、mhのこの“理論”をサポートする証拠ですが・・・全くありません!
妄想だ!との非難があるのは承知していますが、そう断言できる証拠が示されていない以上は、真実の可能性もあるわけで、時間と資金の余裕があれば、メソポタミアを訪れ、記録や遺物を調べて自説の理論武装をしたいと思いますが、ヘブライ語やシュメール語は全く判りませんし、資金は欠乏していますから、反論証拠が出てくるまで、じっと待ちたいと思います。反論証拠がない状態では、mhの仮説は正しい!と信じても良い正当な権利がmhには残されているわけで、当分、謎を解いた満足感に浸(ひた)っていられるというわけです。なお、言語の混乱ですが、旧約聖書の編者たちはヘブライ語を、バビロンの人々はシュメール語を話していたはずですから、編者たちは日常的に言語上の困難を持っていたわけで、その鬱憤(うっぷん)を作り話の中で晴らすことにした、というのが真相でしょう。

で~みなさんはバベルの塔についてどんな意見をお持ちでしょうか。
それは実在したのか?とすれば何処にあったのか?
(完)

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mh徒然草:イランがシリアにミサイル攻撃?

昨日の6月18日、現地時間の夜、イランがシリアをミサイル攻撃しました。
AFP通信によれば次の通りです。
<イランがシリアにミサイル攻撃:テヘラン襲撃への報復>
【6月19日 AFP】イランの革命防衛隊は18日、シリア北東部デリゾール県に向けて複数のミサイルを撃ち込んだ。首都テヘランで今月7日に起き、17人が死亡した襲撃に対する報復としている。この襲撃ではシリアなどで活動するイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明を出していた。地元メディアによると、イランが国外でミサイル攻撃を実施したのは1980~88年のイラン・イラク戦争以来30年ぶり。
イランの最高指導者アリ・ハメネイ師はこれに先立ち自身のウェブサイトに掲載した声明で、シリアとイラクで殺害された人を含む犠牲者の家族の名誉のため、イランは「敵に懲罰を与える」と言明していた。
革命防衛隊の声明によれば、中距離ミサイルがイラン西部のケルマンシャー、コルデスターン両州から発射され、国境を越えてシリア北東部デリゾール県の「テロ拠点」に撃ち込まれた。「多数のテロリストを殺害し、武器を破壊した」としている。
地元テレビ局は、複数のミサイルが夜間に空に向けて発射される様子を放送した。
テヘランでは7日、銃で武装した男や自爆犯らが国会議事堂と故ルホラ・ホメイニ師の墓廟を襲撃した。
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イラン国営テレビが公開した、イラン西部からイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」がシリアに持つ拠点に向けて革命防衛隊が発射したとされるミサイル。(2017年6月18日公開)。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170619-00010004-afpbbnewsv-int

シリアというイスラム国家(イスラム系87%キリスト系12%)で暗躍するイスラム教徒の造反分子ISISを、イスラム国家のイラン(イスラム系99%)が、イスラム国家のイラク(イスラム系99%)の上空を横切って飛ぶミサイルで攻撃したということで、仏教国家(神道国家?)の日本で暮らす無神論者のmhには全く関係ない“対岸の火事”ですが・・・

イランは北朝鮮からミサイル技術を入手し、自国で改良しながら、並行して核開発も進めています。核爆弾の小型化は、近い将来、北朝鮮やイランで実現する可能性がありますから、次は核ミサイルが使われることになるのでしょう。

mhはインドネシアに駐在した経験があります。キリスト教徒10%の穏健なイスラム国家(イスラム系87%)ですが、現地でイスラム教を非難する言動をとらぬよう、強く助言されました。ビールを飲みながら現地人従業員と歓談していて、“イスラム教って、改宗すると死刑っていうのは、穏やかじゃあないよね”ってなことを言うと、どんな災難が降り懸かって来るか判らないんですね。
【Wiki:イスラム教の棄教】
イスラム法上では、棄教者は原則として死刑とされている。ただしハナフィー派とシーア派では女性の棄教者は死刑ではなく終身禁固に処するべきという意見が主流である。

エジプト、モロッコ、トルコ、イラン、ウスべキスタン、パキスタンなどなど、イスラム国家に旅行する機会があったら、現地では絶対に、イスラム教の悪口を言わぬよう、お気を付けください。彼らが信仰している神に対する侮辱ですから、大きな罰を受けるかも知れません。

で~イランにミサイル技術供与をしたと言われている北朝鮮ですが、韓国もそうですが、日本は朝鮮人の祖国を我が物顔に私物化し、搾取した実績を持つ国ですから、報復する権利はある、ということで、核の弾頭化が成功すれば、いつでも日本に核ミサイルを打ち込んでくる可能性があります。事実、金正恩は“日本は火の海となるだろう”とTVニュースで公言していましたから、笑って無視していられる状態じゃあなくなりました。

自国が攻撃されない限り、他国を攻撃しないという原則はどの国も同じだと思いますが、例えば我が国の場合、日本人のISISメンバーが生まれて、その人物がロシアでテロを起こしたら、日本はロシアから攻撃される可能性もあるし、イラクで日本の自衛隊がアメリカ軍と一緒にISISの兵士を殺害したら、イランなどのイスラム国家から攻撃される可能性もあるし、北朝鮮からは、今日だって攻撃される可能性があります。例え、国連で、加盟国すべてが、先制攻撃をしない条約に賛同したとしても(あり得ませんが、例え話です)、攻撃する側には、いつだって、独自の、正当な理由があって、どんな条約も先制攻撃を止めることは出来ません。日本国憲法ですら、日本政府にないがしろにされている状態ですから、ましてや他国が国際条約を無視することなど、当然、起こり得ることです。

で~他国からのミサイル攻撃を回避する方法ですが~
日本が核武装し、核ミサイルを世界中のどこにでも打ち込める力を付けて威圧し、他国からの攻撃を抑制することじゃあないでしょう。北朝鮮を何十回も壊滅できるミサイルと核兵器を持つアメリカでさえ、北朝鮮の核攻撃対象国なんですからね。

じゃあ、どんな方法があるかっていうんですか?

我が尊敬するお釈迦様にお伺いを立てたいところですが・・・
mhが思うに・・・
日本が他国から攻撃されないためには、世界から武器弾薬を減らすことを世界の国々と共に進めていくしかありません!つまり核兵器を世界からなくすことです。

しかし・・・
日本は中国や北朝鮮に歩調を合わせて軍拡しているんですね。軍拡は世界中で進んでいて、トランプ氏は核の増強を図るってなことを言っているし、困ったものです。やっぱ、人類は破滅に向かって進み続けているのでしょう。
“いかなる生物も他の生物によって絶滅しなければ、自滅によって絶滅する”ってな生物絶滅則がmhによって定義されるようでは、ダーウィンは何を研究していたんだ!ってことになっちゃいますね。

で~人類が破滅に向かって進んでいるのを止められないとするなら、我々が採るべき対策はなんでしょうか?

自分のことは自分で守る!ってなことになります。

そういえば、日本でシェルターが市販されているという話を聞いた気がしたのでネットで確認すると・・・
見つかりました!
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“資産運用の前にシェルターを!”ってなキャッチコピーのTVコマーシャルが流れる日も遠い将来ではありません。で、シェルターで命を長らえたとして、ほとぼりが冷めた頃に外に出るとどんな光景が広がっているんでしょうかねぇ。その時は、宇宙服みたいなものを身に付けていなきゃあいけないでしょうから、外出するのも大変です。

CCR-Have You Ever Seen The Rain? Lyrics
https://www.youtube.com/watch?v=xDGuyGPJ_JE

(完)

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テオティワカンの不思議その2


今回はメキシコのピラミッド都市テオティワカンの不思議の第二弾です。メキシコシティの北東40Kmのテオティワカンの太陽のピラミッドはmhも登りました。
(月のピラミッドから撮影)
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月のピラミッドにも登りました。
(太陽のピラミッドから撮影)
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しかし、羽の生えた蛇のピラミッドは、時間が無くて自分の眼で確かめられませんでした。全く残念です。
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ピラミッドを飾っている羽の生えた蛇
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この蛇はケツァルコアトルとも呼ばれ、創造の神、文化・農耕・風の神で、人の姿で表されることもあります。
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で~今回ご紹介するYoutubeフィルムは、間が悪いことに、mhが見逃した“羽の生えた蛇”のピラミッドに纏(まつ)わる発見が主要テーマなんですね。読者諸氏もメキシコシティを訪れれば、きっとテオティワカンに行くはずです。その時はぜひ、このブログと、以前ご紹介した“テオティワカンの不思議”を事前に見直して学習して頂けると、現地での楽しみも倍増するでしょう。

なお今回のYoutubeフィルムのナレーターは多くのYoutubeドキュメンタリーに登場している、魅力的な声の持ち主で、聴きやすい英語で語ってくれます。スーパーも付いていますので、是非、一度、ご自身でご確認下さい。

・・・・・・・・・・・・
神秘的なゴーストタウン・・・
それは2千年前まで遡る。今日の近代的なメキシコの中心部に残るこの古代都市を建設した人々については、ほとんど知られていない。
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メキシコ人考古学者セルジオ・ゴメス・チャヴェス「テオティワカンにおける1百年に及ぶこれまでの古学的な調査で、我々は未だに統治者の墓を見つけていない!」

しかし、テオティワカンの秘密を解こうとしている科学者たちは、都市の中心に続く、隠されていたトンネルを発見した。
ゴメス「私はとてもびくついていた」
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誰がこの広大な大都市を築いたのだろう?そして何故、そんな力を持った人々が、痕跡を残すことなく消え去ってしまったのだろう?これらの質問に対する答えは地下深く眠っているかも知れない。
ボストン大学の考古学教授デイビッド・カルバルロ「地下で見つかる物は全て、とても重要で神聖なものばかりです」
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アメリカにおける最初の巨大都市の下に隠されていた不可思議な世界への驚くべき旅がこれから始まろうとしている。科学者たちは、そこで文明の起源の全てを明らかにする答えを見つけるかも知れない。
ゴメス「それは私の生涯における最大の冒険だ」

Secrets of the Dead; Teotihuacan’s Lost Kings
死者たちの秘密;テオティワカンの失われた王たち
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14世紀。アステカ帝国の近郊。
コロンブスが新世界に到着する1百年前、アステカ人は中央アメリカ全域を統治していた。スペイン占領前の、最後の偉大な文明だった。アステカ人の戦士たちが南に冒険の旅をしていると、彼らは驚くべきものを発見した。巨大なピラミッド、広大な古代都市の遺跡、完全に放棄されたゴーストタウンだ!
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彼らは確信した。この場所を造ることが出来たのは神だけだ!
彼らはそれをテオティワカンと呼んだ。“神々の都市”だ。そしておよそ7百年後の今日でも、彼らの疑問に対する答えは見つかっていない。誰が、この見事な都市を造ったのだろう?
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一人の男が、答えを見つけたと信じている。メキシコ人考古学者セルジオ・ゴメス・チャヴェスだ。
ゴメス「私はテオティワカンで34年間、調査している。そして今、神々の都市の謎を解きつつある」
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都市は2千年以上も前のものだ。月のピラミッドは“死者の通り”という主要道路の北の端に横たわっている。その近くに聳(そび)えるのは世界で三番目に大きい太陽のピラミッドだ。都市の建設者たちは記述された記録を残していない。残っているのは文明の残骸だけだ。

ゴメス「アステカ人たち自身が“この都市は神々によって造られた”と信じていたのは容易に想像できる」
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2003年10月、ゴメスは駆け出しの考古学者だった。彼の仕事はテオティワカンの3つのピラミッドの中で一番小さい、羽の生えた蛇のピラミッドの大きさや位置を確定することmappingだった。
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(mh右の白いのは発掘チームのテント、その左は大きな祭壇、その左がピラミッド)

彼は、その日の仕事を始めようと、事務所からピラミッドに向かって歩いていた。
ゴメス「当時、この辺りでは沢山の雨が降っていた。10月初旬のとても寒い日だった。突然、何人かの同僚が歩いてきて“雨が羽の生えた蛇のピラミッドの前に割れ目を造った”と私に言った」
羽の生えた蛇のピラミッドに駆けて急いだことをゴメスは今も覚えている。少し掘ってみると、底のない井戸のように見える竪穴が見つかった。
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ゴメス「トンネルを下りていく時、私は体の中に恐怖が湧き上がってくるのを感じた。まるで自由が利かなくなったようだった。腰の周りをロープでしばって下に降りていく勇気が私にあったなんて今でも理解できない。何が起きるか、全く予想できなかったんだから。私の心臓は激しく鼓動していた。そこから逃げ出したいくらいの気分だった。しかし、下に降りると、直ぐ、横に続くトンネルの開口に気付いた。考古学者なら誰でも、そんな瞬間が来るのを夢見ているはずだ。研究作業は予測できない事態によって左右されている」
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ゴメスは隙間の中に這(は)って進んでいった。暗くて2フィート(0.6m)先すら見えなかった。
ゴメス「進んでいくと、壁に触れた。とても滑らかで、その感じから直ぐに、気付いた。自然に出来た壁じゃあなくて、人の手によって造られたものだって。それは古代の建造物の一部だったんだ。しかし、そこから先に進むことは出来なかった」
セルジオ・ゴメスは行き止まりだと思われる所に到達した。トンネルは瓦礫で埋まっている。彼はその瓦礫の向うに何があるのか知りたいと思い、3D(三次元)レーザースキャナーを持ち込んだ。
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数十万のレーザーが壁で跳ね返ると装置に戻り、前方にある物体を図形化する。3D映像はトンネルが直線的に続いていることを示していた。都市の真ん中に建っている羽の生えた蛇のピラミッドに向かって真っ直ぐ!
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羽の生えた蛇のピラミッドはテオティワカンの真ん中に位置し、中心の目印とも言える建造物だ。そのピラミッドの下まで真っ直ぐ続いているトンネルなら、きっと何らかの意味を持っているはずだ。
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ゴメス「それで私は確信したんだ。トンネルは、一番奥の、ピラミッドの真下で、何かを、誰かを埋めてから塞がれたんだと。埋めれれているのは統治者か王かも知れないと思った」
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ボストン大学の考古学教授デイビッド・カルバルロはゴメスの結論に賛同している。彼はテオティワカンで17年間、都市の居住区に特化して調査している。
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カルバルロ「これは集合住宅の一例です」
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「人々が棲んでいただろう場所で、家庭的な建物や住居空間に関するアイデアを提供してくれます。今いる場所は中央広場で、多くの部屋が広場の周りに配置されている傾向があります」

居住空間の壁の上に、カルバルロは神々や祈祷師たちや世界の創造の場面やパラダイスを描いた壁画の残骸を見つけている。
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それらはテオティワカン人が建物の直ぐ近くに残していた唯一の記録だ。
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カルバルロは、居住区の床下で、ピラミッドの下のトンネルに光を当ててくれるかも知れない何かも発見している。古代の骨だ。住居の床下の墓に死体を埋めるのはテオティワカンにおける一般的な埋葬儀式だった。遺骨自身は、この謎の都市に暮らしていた人々の起源について、さらに多くのことを示していた。
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研究所ではカルバルロと、同僚の生物学的考古学者レベッカ・ストーリーが、いくつかの遺骨を検査している。
カルバルロ「これはトラジンガ地区にある共同住宅地の地下の埋葬地で見つかった遺骨の例です」
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男の遺骨だった。一緒に見つかった工芸品から、科学者たちは、都市の近郊の居住区の指導者だったかも知れないと考えているが、調べてみるべき事項はまだ残っている。
ストーリー「彼はテオティワカンで死んだの。でも、我々が抱えている興味深い疑問の一つは、彼がどこで暮らしていたかということなの。彼はずっとテオティワカン人だったのかどうかということよ。それが問題になってくると、遺骨分析の最も興味深いことの一つで、彼らが子供やティーンエージャーだった時、どこで暮らしていたのかをテストすることになってきたの。それを知る秘密は歯にあるのよ」
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「歯は幼児の時から成人になるまで成長を続けているの。そして一旦形成されたエナメル質はずっと残っていて、変化することはないのね。幼児の時に飲んだ水はエナメル質の中に混じって残っているのだけれど、その水は、地理や気候などで異なる同位体元素上の特徴を持っているの」
調べた結果は驚くべきものだった。
ストーリー「彼の歯を調べたら、テオティワカンのものとは全く異なる特徴があったのよ!」
異なる数十の遺骨で行われた同位体の検査も同じ結果を示していた。この情報から、カルバルロとストーリーはテオティワカンの数万人の一般市民は中央アメリカの別の土地から来た人たちだとの結論に達した。

ストーリー「彼らは移住してきた人たちだのよ!」
今では、カルバルロは、人々が、どこか別の場所で起こった大惨事を受けてテオティワカンにやってきたということを知っている。
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カルバルロ「1世紀の中頃から終わり頃に起きたポポカテペトル火山の爆発の規模は、火山学者たちに言わせるとVEI-6でした。
(VEI:Volcanic Explosivity Index火山爆発指数)
ある見解によれば、同じ強度の歴史的な噴火爆発はインドネシアで起きていて、その音はオーストラリアでも聞こえたといいます」
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叙事的な規模の大惨事だったのだ。
カルバルロ「火山爆発の後、空は長い間、噴火で発生した灰のために煤(すす)けて暗く、太陽光や農業にも影響を与えました。それは火山の近くで暮らしていた人々にとって黙示録(アポカリプス)のような出来事だったはずです。死者も多く、神々が怒って引き起こしたのだと人々は考えたでしょう」
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住居は破壊され、家畜は死に絶えた。火山から噴出する物質で大気や土壌は毒性を帯びてしまった。人々は出来るだけ早く、北に向かって逃げ出すしかなかった。彼らは谷間に避難場所を見つけると、そこに住み着くことにした。
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カルバルロ「彼らがテオティワカンに来た時、恐らくまだ地獄のように燃えている場所を離れて、パラダイスとも言えるこの地に来たのです。それはまた、ポポカテペトル火山が見える場所からの素晴らしい脱出でもありました。テオティワカンからは、恐ろしい火山は見えなかったのです」
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非難者たちにとって、火山から100Km離れた、この安全な場所は、全く新たな出発の地となった。穏やかな気候と肥えた土壌は農業には完璧だった。そして、彼らはその土地に、全アメリカで並ぶものがない見事な都市を究極的に建設することになる。

カルバルロ「噴火した地域からやってきた避難者たちはテオティワカンで再びやり直そうと考えたことでしょう。彼らは壊されてしまった秩序を過去のものとし、全く新しい秩序を打ち建てるチャンスを掴んだのです」
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トンネルに話を戻すと、ゴメスの調査隊は羽の生えた蛇のピラミッドに向かって30m以上も掘り進んでいた。彼らは狭いトンネルの中で背中が痛くなるような発掘作業を続けていて、400トン以上の土壌や瓦礫を取り除いていた。
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セルジオ・ゴメス「このトンネルの中での毎日の仕事では多くの危険に出くわした。トンネルはまた、我々の健康へのリスクも抱えていた。事実、トンネルにある種のガスが流れ込んでいるのにも気付いたほどだ。調べたら、ガスはラドンで、長い間、健康を害する危険がある」

トンネル内部の条件は困難で危険なものではあったが、科学者たちには良い事もあった。
ゴメス「高い湿度はトンネル内部で保存効果を持っていた。これは我々にとって、本当に好都合だった」

トンネルで発掘を続けていくと、数百の工芸品を発見した。木槌(きづち)、チゼル、ハンマー・・・
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木製の工具はこの特殊な条件の中で保存されていた。
ゴメス「これらのものは信じられない程に特殊で特異なものだ。なぜなら、そのいくつかは、テオティワカンの歴史の中で、これまで見つかったことがないものだからだ。そのことは我々にとってとても重大なことだ。何故なら、それらによってテオティワカンの歴史はこれまで知っていたよりも古いことが明らかになるし、いつの時代のものか、どんな属性を持っているのかを知ることができるのだから」
分析の結果、工具は西暦150年頃のものだと判明した。地上の建築物が造られた時代と全く同じだ。
ゴメス「このような木製の工具は石のハンマーと共にトンネルを掘るために使われた。その痕跡は今もここに残っている」
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「ここにも別の穴がある」

テオティワカン谷の岩は火山性だ。発掘するのはとても難しい。
ゴメス「当時、彼らは金属製の工具を持っていなかった事を思い起こさなければならない。トンネルの建設では、木材とか加工された骨などを使うしかなかった」
するとゴメスは、彼をこのトンネルを造った人々に直接的に接触させてくれるあるものを見つけた。およそ2千年前の古代の作業者の一人が残した手の跡だ!
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手をふれれば、過去に触れることが出来る!
ゴメス「考古学者として、この瞬間は信じられない体験だ。今から2千年前、ここで働いていた人の手に触れているような気分だ!」

そして、それは単なるトンネルだけの話ではなかった。ここの人々は都市の全てを素手で造っていたのだ。
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カルバルロ「ここの住民たちは労働用の動物や車輪を持っていなかったことを考慮しなければいけません。人々は荷物を背中に載せて運び、埋めたり組み上げたりして古代世界でも最も大きい記念碑のいくつかを造り上げたのです」
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更に感慨深いのは、彼らが、とても短い期間で都市建設を成し遂げたことだ。テオティワカン全域の建物を調べた結果は、都市がたった200年ほどで造られたことを示していた。基本的な建設資材や手法も使わず、アメリカに車輪が導入される1千年以上も前に!
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建物の表面に残る塗料の跡は、別の驚きを与えてくれる。
カルバルロ「テオティワカンは色で塗られた都市だったんです。素晴らしい壁画で満ちていて、白い漆喰やメキシコの別の土地からやって来た色素pigmentで覆われていました」
当時、都市は壮麗だっただろう。色彩が主要な建物を飾り立てていた。みすぼらしい避難場所として始まったものが、全くの変貌を遂げていた。
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2世紀には、テオティワカンは中央アメリカで最も大きな、最も重要な大都市になっていた。カルバルロとゴメスには、神々を敬うために古代の住民がこの都市を建てたのは明らかだった。特に一つの神、つまり羽の生えた蛇ケツアルカトルを敬うためだ。
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カルバルロ「中央メキシコや中央アメリカの他の土地には、もっと古い時代にこの神を表現したものはあります。でも明確な信仰の形となって最初に現れたのがテオティワカンでした」
数百年後にアステカ人たちがケツアルカトルと呼び始めた羽の生えた蛇は、創造の神で、命そのものの兆(きざ)しだ。首の周りに生えた羽根とガラガラヘビの尾を持ち、半分が鳥で、半分は蛇だ。古代のテオティワカン人は羽の生えた蛇を敬うため、およそ260個の石の頭をピラミッドの上に造っている。
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テオティワカンでは、羽の生えた蛇が最も重要な神だったことは明らかだ。しかし、住民には、創造の神は、また、命を奪う神でもあった。何年もの間、科学者たちは多くの隠された部屋を月のピラミッドの中で見つけていた。そこには、生贄にされた動物の骨が残されていた。
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動物を生き埋めにし、その周りにピラミッドを建てたのに違いない。
カルバルロ「埋められていた動物は、ピューマやジャガー、オオカミやコヨーテなどの人食い動物や、鷲などの猛禽類、そして死んだ兵士たちの魂と共にいた動物でした。多くの場合、これらの動物が生きたまま埋められたことが明らかになっています。例えば、彼らのいくつかは檻(おり)に入っていました。檻に使われた木の梁の残骸も残っていました」
しかし、ピラミッドの建設者たちの生贄は動物で終わることはなかった!
カルバルロ「主要なピラミッドでは、人間もまた生贄の一部として捧げられていました。生贄になった遺骨の多くでは、腕は後ろ手に縛(しば)られ、喜んで生贄にされたのではないことを示しています。彼らが生きたまま、埋められていた部屋に入って行ったのかどうかは別の疑問として残されています。部屋に入る前、彼らは棒で殴られていたかも知れないし、薬を飲まされていたかも知れません。月のピラミッドで見つかった例では、彼らは生き埋めにされていました」
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「寺院での生贄は、奉献(ほうけん)の行為でした。その空間を神聖にし、新たなピラミッドや寺院の建設の期間を神聖なものにする必要があったのです。そのため命を捧げました」
全ての遺骨がトラウマの跡を残しているわけではないが、古代人の生贄の慣習は、さらに偉大なもののためなら喜んで殺人を犯す文化があった証拠だ。
レベッカ・ストーリーは月のピラミッドで見つかった頭蓋骨の一つを調べている。それは若者のものだ。
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彼女は、どのように儀式が行われたのかを説明してくれた。
ストーリー「彼は首を切り取られているの。どうして判るのかというの?頭の直ぐ下の、首の脊髄の一つからよ。そこには首を切られた他の例と同じ痕跡があるの」
頭は脊髄の最初の骨の直ぐ下で切り離されていた。骨は、この残虐な儀式について更なることを彼女に語っている。
ストーリー「この人物は恐らく頭が切り取られる前に別の方法で殺されているわ。頭蓋骨に傷の痕(あと)が3箇所残っているけど、この程度では死因にはならないわ。頭の後ろのこの辺りとこの辺りを誰かに切られているわ。下顎骨(かがくこつ;下あごの骨)にも傷痕があるの。つまり、この辺りも切られたってことね」
しかし、彼女は首の切断が死因だとは考えていない。
ストーリー「彼は多分、心臓をやられて生贄にされたのよ。心臓をやれば沢山の血を採ることが出来るし、それが人間を生贄にする一般的な方法だったの」
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「テオティワカンには心臓が祭壇に載っている絵がいくつか残っているの。だから、彼の心臓も取り出されていたと考えるのは自然だわ。その瞬間、彼が死んだってことね。首はその後で切り取られたのよ」
月のピラミッドの異なる地層から、合計するとおよそ40人の生贄が見つかっている。ゴメスのトンネルが続いていると思われる羽の生えた蛇のピラミッドでは、更に多くの生贄が見つかった。儀式的に行われた200もの生贄が巨大な埋葬場所に対照的に埋められていた。
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カルバルロ「近代的な考えでは、人間の生贄は極めて悲惨なものです。しかし、生贄であり続けるためには神から食料を与え続けられるという、ある種の強い契約的な発想を持つ宗教体制があったことは考慮されなければなりません」

トンネルに話を戻すと、そこでは多くの発見があり、作業は少しずつ進展を見せていた。
発掘チームはトンネルの入口から24m以上入った所に、より深い窪みと思われるものを見つけていた。その窪みを掘っていると、驚くべきものが見つかり、ゴメスは直ぐに呼び寄せられた。
貴重な翡翠(ひすい)の工芸品が埋まっていたのだ。
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ゴメス「我々は沢山の鎖(くさり)と、とても価値がある品物を見つけた。それらはテオティワカンにとって重大な価値を持っているに違いないと考えている。何故なら、それらは遠方からこの地に運ばれてきたものだからだ」
この種の翡翠はテオティワカンから1千Km離れたガテマラだけにあるものだった。
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ゴメス「この品物を持っていたものが誰だとしても、その人物は身分が高かったはずだ。何故なら、彼らは翡翠を輸入できたんだから」
身分が高い人々だけがこのような価値のある品物を所有していたと思われるので、重要な人物の持ち物だったはずだ。そして次に見つかったものは彼らがどんなに重要だったのかを明確にしてくれた。黒曜石obsidianの小刀だ。
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ゴメス「テオティワカンでは、黒曜石はとても重要な役目を演じていた」
珍しい石の小刀はしばしば道具として使われたが、最も確かな用途は儀式における殺人だ。
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ゴメス「この小刀は滅多(めった)には見られない発見だ。信じられない程の出来栄えで、使われた跡は見当たらない。とても重要な捧げ物の一つとして、この場所に故意に置かれていたのだ」
考古学者たちは、この生贄用の小刀は、それに相応(ふさわ)しい身分の人物と共に、ここに埋められたと考えている。その人物とは祈祷師だ。

カルバルロは貴重な緑の黒曜石が見つかる場所を訪れようと出発した。彼は古代のゴーストタウンからおよそ50Km北のエル・チーコ国立公園を目指している。
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彼はそこで、黒曜石の指導的な専門家の一人のアレハンドロ・パストラーナに会った。パストラーナはテオティワカンのための古代の黒曜石炭鉱を見つけた男だ。ここが生贄用の小刀が掘り出された場所だ。高い品質の緑の黒曜石が見つかる世界でも唯一の場所だ。
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パストラーナ「ここに黒曜石の小片が埋まっている。黒曜石は溶岩が10%以上の水と共に急速に固体化する時にだけ出現する」
生の状態では岩は何の変哲もないが、パストラーナはその価値を表現する方法を知っている。
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パストラーナ「石片を欠(か)いて品質を調べてみましょう」
カルバルロ「とても緑なのが判ります!欠いたばかりの状態ではとても鋭い刃をしていますね」
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「わぉ!自然界の中では最も鋭い物質かも知れません!この刃ですが、とても滑らかで、もし拡大して見たら、外科用のメスscalpelは、黒曜石と比べれば粗すぎるでしょう」
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メスのように鋭い黒曜石はアメリカの金属として知られていた。科学者たちは、価値のあるこの緑の黒曜石を、北はアリゾナ、南はガテマラやベリーズまで、中央アメリカの至る所で見つけていた。テオティワカンは最も望まれていたアメリカの品物をコントロールしていたのだ。それはテオティワカンを経済的な権力拠点にした。
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発掘チームはというと、テオティワカンで作業を続けていた。窪みの向うへ30mほど入ったトンネルの奥で、彼らはまた別の素晴らしい発見をした。そこには沢山の巨大な貝殻が隠されていた。
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これらの貝殻は儀式の殺人の時に笛として使われていたようだ。恐らくテオティワカンで行われる神聖な殺人儀式を見るよう、人々を召集していたのだろう。
ゴメス「トンネルの中には、捧げ物として、数百の大きな貝殻が置かれていた。それらの多くはカリブ海から来たはずだ。輸入されてテオティワカンに来て、トンネルの中に保管されていたのだ」
幾つかの貝殻には例えば鰐(わに)など、神聖な動物の絵が描かれている。
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これらの貝は価値が高いもので、祈祷師たちだけが手に入れることができたはずだ。
考古学者たちは、貝殻について関心を持っていた最中も、更に多くの工芸品を見つけ出し続けていた。
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彼らが見つけ出した物の品質やその量は考古学上の驚きだった。
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ゴメス「我々は4万点を超える緑の石で造られた品物を見つけた。その中のおよそ4千点は翡翠だった。翡翠は全てガテマラのモタグア川辺りから来たものだ」
カルバルロ「私たちはテオティワカンが中央メキシコから更に遠い場所まで勢力を拡大していたことを知っています」

これらの希少で高価な品々がトンネルの中に埋められていたのだから、都市は極めて豊かだったことは間違いない。
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そしてこの考えは、別の発見によっても支持されているように思われる。

カルバルロ「3世紀になると、テオティワカンの建設の焦点は大きく変化しています。巨大なピラミッドや記念碑から、この広い都市の人口を収容する居住区に向けられていました」
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それは、絶頂期において、テオティワカンの指導者が巨大な住宅建設計画を始めたかのようだった。一般市民のアパートさえ、豪華な造りだった。建物は火山岩で組み立てられていて、内部には台所が備えられ、個室の寝室も設けられていた。アパートには機能的な排水システムもあった。
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カルバルロ「当時、この都市は古代世界における最大の都市の一つでした。テオティワカンの人口は10万人を超えていました。ロンドンは、16世紀になるまで、その数に達していないんです」
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そして科学者たちはある驚くべきことに気付いた。
カルバルロ「この付近一帯には砦のようなものがありません!都市は谷間の平野に造られていますが、外部には解放されていて、しかし外部から都市を攻撃するという、いかなる恐怖の証拠も見つかっていないのです。戦を書き記した記録がないし、都市の壁画などの芸術品の中にも、外部との武力抗争の明確な証拠は見つかっていません」
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それはテオティワカンの人々が完全な平和の中で暮らしていたことを意味するのだろうか?いや、必ずしもそうではない。
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1千Km離れた現在のメキシコ南部に、ティカールTikalという古代都市がある。
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かつて手ごわいマヤ部族によって統治されていた。
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マヤ人たちは、この石碑に自分たちの歴史を記録していた。
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ドイツ・ボン大学のニコライ・グルーベは、マヤ文字を解読できる、世界でも数少ない人物の一人だ。彼はテオティワカンの謎に光を当てる、あるものを見つけている。
ニコライ「極めて詳細なマヤの暦を基礎にして、我々は歴史上のいつの時点で何が起きたのかを正確に示すことが出来る。この長い記録文の最も興味深い箇所は、石碑の中央部辺りのここに書かれている」
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「フーリーヲッチ・インカウィール・フィアッカ・カモンテール・ヤーヒーオチワハフ・チョプトップチチャップ。まずは日付から始まっていて、西暦378年1月15日で、絵文字の記録によれば、この時期に部外者たちが西方からやって来た。そして興味深い記述はこれだ;その同じ日、ティカールの王は“水に入った。”水に入るというのは死の表現だ。つまり王は死んだのだ。この死が単なる事故ではないのは明らかだ」
説明文は外部からの侵略を描いたものに思われる。西の方からティカールに侵略してきた外部の軍隊だ。彼らはマヤの王を殺害し、彼ら自身の統治者を立てた。
ニコライ「記念碑のこの面に、新たに就任した王のヤシュナインを見ることが出来る」
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「彼は西暦379年に権力の座に就いた。彼は、それまでとは全く異なる服や装飾で身を包んでいて、マヤのスタイルではない。手にはスピアー(槍)の投擲具(とうてきぐ)を持っている」
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そして、この特殊な武器こそ、侵略者たちや彼らの王を特定するのに役に立つ。
カルバルロ「スピアー投擲具“アトゥラトゥル”は銛(もり)とか槍(やり)を投げるために使われる道具です。手で投げるよりも、ずっと速い速度で投げることができ、当時の投擲具の中では優れた代表格でした」
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ニコライ「西暦370年代において、中央アメリカで槍の投擲具を使う唯一の文明はテオティワカンだった。従って、我々は、ヤシュナインが、テオティワカンから来たテオティワカン人の王で、権力の座に就き、南方のマヤにおいて、新しいテオティワカン系の王国の創始者になった、と考えている」
ヤシュナインはマヤの言葉で“緑の鰐(わに)”を意味する。マヤ人が彼の名を書き記したということは、彼が強力な支配者だったことを示している。
ニコライ「外来者たちは古代のマヤ文化に深い衝撃を残した。彼らはマヤの建築を変え、新しい形式の衣服、新しい陶器、新しい壁画の様式も持ち込んだ。一般的に言えば、芸術が、ある時突然、変化したのだ。その変化は芸術だけではなかった」
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マヤは更に、占領者たちの神々をも取り入れた。羽の生えた蛇だ!テオティワカンの創造の神だ。マヤ人はそれをククルカンと呼んだ。チチェン・イツアにあるマヤの有名な寺院の石段は、侵略から6百年以上も後に造られたものだが、テオティワカンにおける羽の生えた蛇の典型的な象徴だ。
(mh春分と秋分の日没時、石段を下る蛇が現れます)
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カルバルロ「マヤの王たちはテオティワカンやその象徴と一体になることで、権威を引き継ごうとしたのです。このことは、ドイツのカイザル(注)が昔のローマに倣(なら)おうとしたことと似ています」
(注;ドイツに生まれた神聖ローマ帝国の皇帝の称号はカイザルでした)
ニコライ「ティカールが占領された時に中央アメリカの歴史の中で劇的な変化があったのは、恐らく、テオティワカンの影響力を、北の限界としては現在のメキシコとアメリカ合衆国の国境まで、南についてはホンジュラスまで拡大しようとする勢力拡大政策の一部だったと思う」
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しかし、マヤを従えることになったテオティワカン人指導者の“緑の鰐”とはどんな人物なのだろう?彼は拡大政策におけるリーダーで、アレキサンダー大王とかナポレオンのような人間だったのだろうか?ゴメスと彼の発掘チームはトンネルの行き止まりで、彼の墓を発見することが出来たのだろうか?それは胸が躍る可能性だ。
(羽の生えた蛇のピラミッドを上から見た光景)
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今、トンネルはとても狭くなっている。その先に何があるのかを探索するため、ゴメスはロボットを送り込んだ。
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ゴメス「トンネルは最初の場所からは少なくとも3m下っていることが判った。それがなぜかは判っていないが、突然、我々の目の前には壁が現れ、そして、道は下に続いていたのだ」
考古学者たちはゆっくり進んでいった。

ゴメス「最初、我々は地理レーダーがトンネルの行き止まりで部屋のようなものを見つけてくれるのではないかと思っていた。しかし、ロボットが中に入って行くと、そこには一つの空間ではなく、3つの広い場所があることが判った。従って、今、我々はトンネルの一番奥には、3つの主要な空間があることを知っている」
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3つの空間はそれぞれが10平方m以上で、十字架の形に配置されていて、ピラミッドの真下で何かを示しているようだった。
ゴメス「これら3つの空間の配置は羽の生えた蛇のピラミッドの縦軸に完全に一致している。どんな方法で彼らが、数m上に造られているピラミッドの中心軸と空間の場所とを一致するように算出したのかは判っていない」
トンネルの行き止まりに造られていた空間はテオティワカンの地理学的な中心の下にあり、ゴメスはその理由についての理論を持っている。
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ゴメス「そこは地下世界と天国が出会う場所なのだ」

作業者たちは最初の空間で発掘を始めた。瓦礫を30cmほど取り除くと、新たな驚くべき発見があった。完全な状態の像だ!
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ゴメス「我々は衣装についての知識を持っているので、その像が女だと直ぐ判った。像はとても重要な要素を象徴している。豊穣(ほうじょう)と結びついていると考えていいだろう」
すると彼らは、別の像も見つけた。
ゴメス「女の像の直ぐ脇で、我々はそれよりも小さい男の像を見つけた」
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「2つの像の隣には、別の女の像もあった。これらの像の全ては中心を向いているように見える。その中心というのは正しく、地下世界と天国の間をつなぐ想像の道に繋がる地点なのだ」
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「だから私は、これらの像は見張りの役を果たし、この特別の場所を守るために、ここに置かれたのだと思う」
ゴメスは4人の守護神はトンネルの中で、何か重要な物を守っていると考えている。彼はこの配置で彼らの視線が部屋の中心の軸を見ているように思われることに興味をそそられている。

発掘を続けている彼らは、更に多くの工芸品を見つけたが、ゴメスは、いずれも何らかの捧げ物だろうと確信している。更に発掘を続けたが、新たなものは見つからなかった。
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ゴメス「我々は人間の骨を見つけられるのではないかと考えていた。そこが何らかの支配者の埋葬場所だろうと考えていたのだ。骨が一つも見つからなかったことに驚いている」
ゴメスたち発掘チームは失望したに違いない。しかし、彼はまだ、都市の中心の下にある、この複雑に設計された場所が何の意味も持っていないとは信じることができない。彼とカルバルロは、何かを見過ごしていないか確かめるため、もう一度、その空間に二人で行ってみた。そして壁を調べていると、水位線のようなものに気付いた!
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ゴメス「テオティワカン人は、永久に水で満たされているようにするため、トンネルの最後の部分を他よりも深く掘ったのだと私は思う」

しかし、何故、古代の建設者たちは意図的に地下水層の下を掘り、トンネル内部の窪みの空間を井戸のように水で満たしたのだろう?地下水は、この空間ににじみ出て、地下の人工湖を創り出していたのかも知れない。
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とすれば何故、彼らは創造の神である羽の生えた蛇のピラミッドの真下に湖を造ったのだろうか?

ゴメスは住宅地域で見つかっている壁画を思い出した。するとある考えが湧き上がった。
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ゴメス「壁画はある山のイメージを表わしている。その内部から流れ出ているのは、地下世界からの水だ。地下世界は、豊かで、全てのものが溢れ出る豊潤な場所だ」
この絵がゴメスにトンネルの中で見たものを思い起こさせた。絵は、テオティワカン人が信じていた、世界の創造の方法を表現しているのではないのだろうか?
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ゴメス「羽の生えた蛇のピラミッドは神聖な山を表わしていて、トンネルは水が流れ上って来る地下世界を代表しているのかも知れない」

この考えは、そんなにかけ離れたものではないだろう。他の多くの古代文明においても、ピラミッドは山を象徴するために造られている。
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ゴメスが正しいとすれば、羽の生えた蛇のピラミッドは神聖な山を象徴している。そして地下の湖は生命の起源の象徴で、ピラミッドの下から永遠に水を流し続けている。
ゴメス「カルバルロ!これを見てみろよ」
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(mh;実は右の壁には星のように光る小さな粒子が散らばっているのです)
ゴメスはトンネルの壁に施された金属物質の痕跡を見つけた。黄鉄鉱pyriteで、偽の黄金として知られる鉱物だ。

ゴメス「とても印象的だ。まるで、壁や天井などトンネルの全てがこの鉱物の粉で覆われているかのようだ。この粉で全て覆われているトンネルが、照明の灯に照らされた時のことを想像してみろよ。きっと信じられない光景だよ」
それは恐らく、星が煌めく夜空のように見えることだろう。
ゴメス「これはきっと、彼らの宇宙を描いたものだよ。これでやっとこのトンネルの意味や重要性が判ったよ」
ゴメスには、謎の断片は結びついて、ついに最後の姿を現していた。工芸品は、創造の神だけではなく、生命そのものの源に対する捧げ物で、その素晴らしい品々の全ては地下18mの場所にあった。ここはテオティワカンの祈祷師たちが捧げ物をした場所だ!とゴメスは考えている。
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そしてこの空間は生命がどのように始まったのかに関する彼らの思想を表わしている。星が輝く空をもつ神聖な湖は、彼らの劇的な儀式の舞台として使われていたのだ。
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ゴメス「テオティワカン人はこのトンネルやピラミッドの下の空間の中に地下世界を創造した。しかし、ここでは、地下世界を死の場所と見る代わりに、創造の場所として見ていたのだ」
テオティワカン人は神々を讃えるためにピラミッドを建設し、彼らを敬うために彼らの宇宙に似せた地下空間を造ったのだ。
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しかし、その時、神々は再び人々に歯を剥(む)いた。再び、火山がテオティワカンの運命を制御し始めたようだ。西暦536年、超大火山のイロパンゴ山がエルサルバドルで噴火爆発し、火山爆発による新たな冬が訪れた。テオティワカンは数百Km以上も離れていたのだが、煙や火山灰は何日もの間、太陽を隠し続けた。農作物は腐って、都市はもはや人々を養うことは出来なかった。
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カルバルロ「主要な寺院の近くや死者の通りに並ぶ建物を見ると、6世紀の中頃から末頃、大規模な焼き討ちが起きています。その痕跡は建物の表面や、床に落ちた天井の梁などの腐食しやすい材料の上に残されています」
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カルバルロには、それが外部からの攻撃だったとは思えなかった。都市の郊外ではこのような損傷が見つかっていないのだ。
カルバイロ「都市の中心部で狙い撃ち的な焼き討ちがあったのです。死者の通りの周りの百を超える建物は燃やされてしまいました。その結果を見ると、反乱のようなものだったのかも知れません」

カルバルロは、今回も守ってくれなかった神々を人々が排除したのかも知れないと考えている。それで、人々は自分たちの都市の神聖な中心地に火を放ったのではないのだろうか。その後、直ぐ、都市は荒れ果ててしまった。
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カルバルロ「国家は崩壊し、都市はもはや印象的な場所ではなく、神話の中の王国になっていったのです」
経済的、政治的な勢力中心だった都市はもはや存在していなかった。しかし、その遺産は何世紀も生き続けることになった。
ニコライ「テオティワカン崩壊の後も、マヤ人たちは彼らの信仰の中で、テオティワカンの神々を尊敬し続けた」
それはマヤ人たちが消えてから数百年もの間、スペイン人による占領まで、アステカ人たちも同じだった。
テオティワカンは中央アメリカの歴史における最高の地点だった。そして、その謎は今日まで解かれないままだった。
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ゴメスと彼の同僚たちは都市の存在の根源を明らかにしたように思える。
ゴメス「それがこの発見を特別な物にしてくれるのだ。彼らの宇宙観や宗教を理解することで、今では我々は古代の中央アメリカの人々に関してさらに理解を深められるようになったのだ」
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National Geographic - Teotihuacan's Lost Kings Secrets of the Dead Documentary HD
https://www.youtube.com/watch?v=kWhj1qKXA6o
・・・・・・・・・・・・
小生のブログを愛読してくれている読者諸氏なら、今回の情報は、羽の生えた蛇のピラミッドの下のトンネルに関係するものを除けば、ご承知の内容ばかりでしょう。しかし、今回のブログでは映像が美しいので、テオティワカンの素晴らしさを十分、堪能して頂けたのではないかと思います。まだ行かれていない方は、テオティワカンと、ついでにマヤ遺跡も、ご自身の眼で見て頂きたいと思います。ツアーに参加すれば30万円、お二人なら一人25万円でお土産も買えるでしょう。mhは2月に自動車運転免許証を返上しました。車を断てば、年間30万円位の捻出は容易(たやす)いですよ。
(完)

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mh徒然草: お金は貯めるべきか?


今日5月1日の朝日新聞朝刊2面に「苦悩する韓国」の見出しで
就職難:公務員一般職国家試験倍率46倍
受験熱:家庭教師代、月30万円
高齢化:6割が無年金、貧困深刻
の3項目を挙げて近況が紹介されていました。

韓国の賃金格差は大企業と中小企業で2倍以上あるため、大企業か公務員を第一志望とする人が多く、大学受験にも熱が入るようです。高齢化が日本より急速に進む一方で、年金制度が始まって30年しか経っていないことから、高齢者の6割は年金受給資格がなく、老後も就労を望む人が多いのですが、雇用率は低く、生活苦で自殺する高齢者の割合はOECD加盟国中トップで、10万人当たり毎年55.5人が自殺していると記されていました。日本(人口1億2千万人)に当て嵌めると年間7万人弱、1日当たり180人の高齢者が自殺している勘定になり、ちょっと信じられない数です。

念のため日本の自殺者数をネットで調べてみたのですが、自殺の判定基準が曖昧(あいまい)というのも妙なんですが、その数は不透明です。しかし、どのデータを見ても韓国よりは少なそうですね。
Wiki:国の自殺率順リスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%87%AA%E6%AE%BA%E7%8E%87%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

年金を受け取ることが出来ない高齢者が6割いるなら、生活苦から死を選ぶ高齢者は多いというのは納得できます。日本では国民制度への加入は国民の義務ですから、ほとんどの人が若い時分から積立てていて、年金を受け取れない高齢者は1割以下だと思いますが、それでも時々、老人の餓死がニュースになっていますから、日本人の老後は安泰!と言う程ではありません。そこで、稼げるうちにお金を稼いで貯金しておこうと考える人が多いわけですが・・・

老後資金についてネットで調べると、一人3千万円が必要のようです。余裕を持って暮らしたければ1億円との見解もありました。もし、子供が2人いて、二人にも老後のお金を残してやろうかなどと考えたら、一人3千万円必要ですから、高齢者夫婦は自分たちも含め、2億6千万円の貯蓄が必要ってことになります。そんな大金もっていないよ、って仰られる方は多いでしょうが、それくらいならある、って方もいらっしゃるでしょう。

いずれにしても、近くない、恐らく10年以上は先の将来のためにお金を貯めておこうと考えられる方は多いのではないかと思いますが~そのお金をどんな形で貯めておくと好いでしょうか?

円で貯める。
外貨でためる。
株式で貯める。
不動産で貯める。
金・ダイヤモンドで貯める。

先はどうなるか判らないから、円と、外貨と、株式と、不動産と、金・ダイヤモンドを、ある比率で織り交ぜて貯めるという選択肢もあります。

mhはっていいますと、円と外貨を7対3位の比率で持ってはいますが~
思ったんですが~お金を貯めようと考えるのは、止めた方がいいかと。
お金は使うためにあるんだから、有効に使う事を考えた方が好いんじゃあなかろうか。

とmhが言うと思った方は不正解です。

じゃあ、何が好いんだ?と仰られるでしょうが~

上手く答えられないんですが~
お金を貯めようと考えない方が好いんじゃあないかと思うんですね。

幸せな人生を送るために必要な物を1つ挙げよ、と言われたら、あなたはお金を挙げますか?

そうじゃあないでしょう。前にもブログに書かせて頂きましたが、1つだけ挙げるとしたら、それは“あなたのことを思ってくれる人、幸せや不幸を分かち合える人”だと思います。1人でなく、その数は多い程、好いのは勿論のことです。
そしてもう一つ、大切な事を挙げるとしても、それはお金じゃあありません。健康です。良き友、良き仲間、良き家族、そして、その上に健康さえあれば、貯金のことなど考える必要はないんですね。この考えは、なにもmhに限ったことではなく、多くの人が同じ思いでいるようです。お金じゃあありません。人生の友と健康。これがポイントです。

韓国人も、良き隣人を持つように振る舞えばいいと思うんですが、北朝鮮や、中国と仲が良いようではないし、だからといって日本と仲良くしようと思う政治家は少ないようですから、気の毒な国民だと思います。日本は、トランプ大統領には問題が多くても、アメリカとは仲良くしようと努めています。韓国や中国とも友人になればもっと住みやすい国になるはずですが、今の日本にそんな動きがないのは残念です。

モルダウ「わが祖国」より;指揮カラヤン
https://www.youtube.com/watch?v=2Sp4JyDNNr8
『わが祖国』は、ベドルジハ・スメタナの代表的な作品で6つの交響詩からなる連作交響詩。第二曲がチェコスロバキアの首都プラハを流れる川“ヴルタヴァVltava(独語/英語Die/The Moldau)”で、日本では“スメタナのモルダウ”で知られています。ヴルタヴァ川はプラハから北に流れ出ると、ドイツ平原でラベ川に合流して北海に注ぎます。
(完)

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アフリカ;否定された歴史


今回はYoutube「AFRICA :A History Deniedアフリカ:否定された歴史」をご紹介しましょう。
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アフリカの歴史と言えば、まず思い浮かぶのはエジプト文明です。世界四大文明のひとつで、ヨーロッパ文明より一足早く成長を遂げていたようです。アフリカ人には見事な文明を創る知力があるはずがないという偏見を持っていたヨーロッパの人々は、メソポタミア辺りから流れ込んだ部外者がエジプト人を統括して文明を創り出したのだろうと考えました。
(ラムセス六世の墓;王家の谷)
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しかし、ロゼッタ・ストーンの解析によってヒエログリフが解読され、発掘調査も進んだ今日では、砂漠化の進行で、サハラの遊牧民が、それまで湿潤地だったナイル河岸に移住して、5~6千年程前にエジプト文明を産んだことが明らかになっています。エジプト文明はアフリカ人が独自に作り出したものだったのです。

そもそもヨーロッパ人がアフリカ人を蔑視するのは、15,16世紀頃、ヨーロッパ人が入植して棲み着くまで、エジプトを除けば、アフリカには文字を使う文化がなかったことが主因でしょう。

處で、日本で文字が使われ始めた時期ですが・・・
mhが調べた範囲では西暦4,5百年頃だと思われます。西暦600年、遣隋使の小野妹子が持参し皇帝の煬帝(ようだい)に上奏した聖徳太子作成の国書に“日出處天子致書日没處天子;ひいづるところのてんし、ひぼっするところのてんしにしょをいたす”と書いてあったようですから、少なくとも西暦5百年後半には知識人の間で漢字が使われています。これが最も古い、日本人が文字を使っていた証拠でしょう。その後、50年程してから編集が始まった万葉集にも万葉仮名と呼ばれる漢字が使われていますから、その時期には漢字が広く普及していたことになります。しかし、それ以上のことは記録も残っていないため不透明です。こんな調子の日本は、欧米から見れば、アフリカ同様、新しい歴史の国、言い換えれば文明後進国となるのでしょうか。

ヨーロッパ人によるアフリカ人蔑視は、15世紀半ばに始まった大航海時代に続く植民地化で固定概念になりました。17世紀に南アフリカに入植したオランダ系移民はアフリカ人の主人となり、彼らの子孫は、現在でも富裕層を形成して黒人系南アフリカ人の上に君臨し続けていて、アフリカーナー( Afrikaner)と呼ばれています。

次の黄金の犀(さいrhinoceros)の像は南アフリカ共和国で発見されました。
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掌(てのひら)に乗るサイズです。金属なので造られた年代推定は困難なのですが、発見された場所を調べた結果、1075年~1220年のものだと判明しています。
この黄金の犀を造ったのはどんな文明か?
その文明は何故、失われてしまったのか?
造ったのは無能なアフリカ民族ではなく有能なヨーロッパ人では?
としたら何故、南アフリカ共和国で見つかったのか?

最初の2つの質問に対する答えは今も不透明な部分が多いようですが、後の2つの質問の答えは明快で、勘の良い読者諸氏は既にお気付きでしょう。

それではYoutubeフィルムでアフリカの失われた歴史をご確認下さい。
・・・・・・・・・・・・
アフリカの歴史の多くは失われている。アフリカは忘れ去られた王国の土地と言えよう。
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中世には、アフリカの偉大な帝国は、象牙や黄金をヨーロッパに供給してルネッサンスを加熱した。
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その後、数世紀に渡ってアフリカから多くの富を得ていたアラブ人やヨーロッパ人たちは、共謀してアフリカ大陸やその偉大な遺産を否定し続けている。
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アフリカ:否定された歴史
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白人の探検家たちは、黒い大陸からの搾取を正当化するため、黒いアフリカ人たちがMad Hadson(?)の邪教以上のことが出来ると信じることを拒絶し、白人の植民地主義者たちはアフリカの失われた文明は白人の祖先によるものだと主張した。
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アフリカ人歴史家アリ「西洋世界には、間違いなく“アフリカ人は歴史を持たない人々だ”という深く根付いた考えがある」
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「かつて私が学んだオックスフォード大学の、近代歴史学の先端をいく教授たちでさえ、私がイギリスにいた時、大衆に向けてこう演説した。“多分、今後なら、アフリカの歴史があるかも知れない。しかし現時点では、彼らの歴史は無い。あるのは、アフリカにおけるヨーロッパ人の歴史だけだ。その他は暗黒だ。そして暗黒は、歴史学の研究テーマではない”」

偉大なアフリカ文明は、口伝という伝統に頼り、権力者や種族間紛争など、古代の伝説を語り継いでいくものだった。
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これらの伝説は世代から世代に受け継がれる過程で、徐々に記憶から消えていき、王の名前すら忘れ去られてしまった。記述による記録がなかったので、アフリカの過去における強力な帝国も、その土地同様、脆(もろ)かった。

今から8百年前、南アフリカの、ジンバブエとの国境近くの、この荒れ果てた土地は、そういった王国の一つだった。
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彼らの文明の、目に見える証拠は全て、失われてしまっていた。しかし、現地で暮らす人たちは祖先のつぶやきを介して、かつて偉大な王や王妃が、藪(やぶ)の大地から高く突き出た崖の上に埋葬されていたことを知っている。
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その埋葬地は、下から運び上げた数千トンの土で出来ていた。埋葬される前、王家の人々の遺体は財宝で飾られた。

8世紀後の1932年、黄金に飢えたアフリカーナの探検家が現地の村人を説得して、祖先の埋葬地のマプングブウエMapungubwe に連れていくよう説得した。今日、探検家の孫のアーンスト・フォン・グラーンが当時の旅を再追跡している。
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アーンスト「私の祖父は宝探しだった。彼はいつも黄金を見つけることに関心を持っていた。彼は、およそ5年間、ここで探索した」
マプングブウエでは、何世紀も続いていた迷信が王家の埋葬地を墓泥棒から守っていた。ガイドを務めた現地人は、盲目になってしまうと恐れ、神聖な丘を見ることすら拒んだほどだ。
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アーンスト「現地のリンダ人たちは、その丘をマプングブウエと呼んでいた。“ジャッカルの丘”という意味だ。悪霊が棲み着いていると考えていたんだ。近くに行けば判るが、垂直にそそり立つ崖で囲まれていて、登るのは不可能に思える。しかし、祖父たちは狭い路を見つけ出して登り始めた」
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すると探検隊は、崖の表面に掘られた窪みを発見した。窪みは、トンネルのような狭い通路を伝って丘に登るための梯子の役目を果たしていた。大きな石が落ちてきて彼らを押しつぶすという罠(わな)が仕掛けてあるのではないかと怯(おび)えながら、しかし何事もなく丘の上に到達した。そして、彼らは正に南アフリカの王室の財宝を掘り出すことになる。
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アフリカの歴史における別の面での重要な章で運命づけられているように、発見された黄金の遺物は溶かされてしまうのが普通だった。探検隊の当初の考えもそうだった。しかし、この時は、幸運にも、最後の瞬間、フォン・グラーンJr(息子)は良心の呵責(かしゃく)に襲われたのだ。

発見されたものの中には、黄金の笏(しゃく)と黄金の犀(サイ)があった。ツタンカーメンの財宝と比べたら取るに足らない小物だ。長く忘れ去られていた過去との繋がりを示すものはほとんどなかった。しかし、プレトリアの歴史学の生徒だったフォン・グラーンJrは、これらの手工芸品の重要性に気付き、大学に寄贈することに決めた。
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発見物は救済されたものの、大学の考古学部門の金庫に保管され、公開されることはなかった。後に同じ場所で発見された陶器は、かつてマプングブウエに多くの人々が暮らしていたことを示していた。
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今日まで、プレトリア大学は数少ない考古学者たちだけに、これらの発見物へのアクセスを認めただけで、広く人々に知られることは無かった。
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これらはサハラの南における最も重要な手工芸品だ。今回、いやいやながら撮影のために特別に公開してもらったが、撮影が済むと直ぐ金庫に戻された。また埋もれたままになるかも知れない。
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これらの遺物が秘密にされている理由はアパルトヘイト(注)に基づくものかも知れない。
(注:特に南アフリカ共和国における白人と非白人の人種隔離政策)

オランダ系定住者たちは、黒人と白人はおよそ同じ時期にこの地にやってきたので、領地内の物件については平等の権利があると主張していた。炭素年代法によってマプングブウエが西暦1200年以前の古さだと判明すると、白人系アフリカ人は驚いたが、彼らは黒人たちが自分たちの祖先より4百年以上も前にこの地にやって来ていたことを信じようとしなかった。アフリカーナの科学者たちは何度もマプングブウエを調べ直した。恐らくアフリカ南部で最も多く炭素年代測定が行われただろう。しかし、結果はいつも同じで、西暦1200年だった。
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アリ「多くの白人系定住者がいた。彼らの主張の多くは“この地の多くは、いずれにしてもアフリカ人の誰もが自由にできるもので、我々はアフリカ人と同じ時期にやってきたのだから、黒人系アフリカ人が白人系アフリカ人よりも多くの要求ができるということはなく、白人系は黒人系と同じ権利を持っている。だから何百年も前にあったものは、鉱山のようなものもそうだが、白人系アフリカ人にも十分な権利がある“というものだったんだ」

しかし、マプングブウエの文明は、古代の、繁栄した、黒人が創造したものだった。その人々に何が起きたかは謎に包まれたままだ。彼らは牛の群れを連れ、遠く北の青々とした牧草地が広がる涼しい高地に移動したのかも知れない。または他のアフリカの王国の祖先になったのかも知れない。

マプングブウエの発掘からわずか1百年後、リンポポ川から300Km反対側に、最も偉大なアフリカの帝国の一つグレート・ジンバブエが発見された。
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ヨーロッパが中世を迎えていた時、アフリカ南部はグレート・ジンバブエ王国が統治していた。彼らの王は高さ7.5m、厚さ4.8mの巨大な城壁で円形に囲まれた王宮から指示を出していた。
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この王国について知られていることは少ない。今では王の名すら忘れ去られている。我々が知っているのは、彼らが数千頭の牛を飼い、象牙や黄金をアフリカの東海岸で暮らすスワヒリ語族の商人に供給していたということだけだ。それは、アフリカにおける世界との貿易ネットワークの最初の繋がりだった。今日のジンバブエ共和国は名前を古代王国から引用している。ジンバブエは“偉大な石の家”を意味する。つい最近まで、国の本当の歴史は白人によって否定されていた。彼らは黒人系アフリカ人が、こんなにも壮麗な記念碑的構造物を創造することなどできないと確信していたのだ。

数百年の間、ヨーロッパ人はアフリカの暗い野蛮な内陸のどこかにあるはずの、信じられない程に豊かな失われた白人系の文明を見つけることを夢見ていた。
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ドイツ人探検家カール・マルクKarl Mauchは、リンポポ川北部の未だ探検されたことがない地域に古代の石の遺跡があるという話を聞き、何カ月間も現地を歩き回り、ついにこの素晴らしい夢に出会うことになった。
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カールの手記「1871年9月5日、火曜日、私は明らかに丸い構造物を遠くない場所に見つけた。それはモルタルを使わず、小さな花崗岩だけを組み上げて造られていた」
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「外壁の直径はおよそ45mで、現地人は、この遺跡をジンバブエと呼んでいた」

マルクはその遺跡の見事さと洗練された美しさに驚愕した。しかし、原始的な黒人系アフリカ人にはとてもこのような壁を造ることは出来ないと信じていたので、きっと、今は消滅してしまった白人系種族の作品だろうと考えた。

カール「最後に私は塔のような構造物の前で立ち止まった」
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「その塔はほとんど損傷なく立っていた。私は現地住民から、“40年程前から住んでいるが、その時点では誰も暮らしていなかった”と聞いていたので、かつては白人が暮らしていたはずだと確信した」

彼はノートにアフリカの手工芸品をスケッチした。
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しかし、この都市が黒人によって造られたと信じることは拒絶していた。そして彼はついに、彼の理論を証明すると信じられる証拠を見つける。
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カール「私は通路の上の木製の梁(はり)から破片を切り取った。私の鉛筆の木材と比べると、杉cedar材で、レバノンから送られてきたものに違いないと思った。フェニキア人だけが、その杉をここまで運んで来ることができたはずだ。ソロモンは王宮の建物に多くの杉材を使っている。だから、この建物はエルサレムにあったソロモンの建物を真似て建てられたものだ。これを造った偉大な女性はシバの女王以外に考えられない!」
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カール・マルクによれば、この場所は旧約聖書に記された黄金の都市オフィルOphirだ。シバの女王の物語は聖書の中で初めて語られている。黄金や貴石など素晴らしい贈り物を駱駝に積んだ謎の白人女王はエルサレムのソロモン王を訪れた。彼女は絹のガウンの下に包まれた美しい肢体を道具に王を誘惑した。王が望む全てを彼に与えたという。
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カール・マルクはシバの女王がグレート・ジンバブエの女王で、こここそが彼女の王宮だと結論付けた。
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マルクの人種差別的な理論は大英帝国の勢力拡大を目論んでいた白人系定住者たちに効果的な宣伝文句として使われた。旧約聖書の時代、この地に白人が棲んでいたというどんな証拠も、この地域における彼らの新しい搾取を正当化してくれる!
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1890年の半ば、英国人の富豪事業家セシル・ローズは、ローデジアを創立した。
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国は、多数を占める黒人がジンバブエと名を変える1980年まで白人によって統治され続けた。
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ローズはダイヤモンドと黄金が豊富な土地を数千Kmに渡って掘り起こしてしまった。その中にはグレート・ジンバブエも含まれている。彼は、それがフェニキア人の王宮だったと主張し、最も価値のある作品ともいえる遺跡そのものも乱暴に破壊しつくしてしまったのだ。
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考古学者ピーター・ガーレイク「グレート・ジンバブエの最も大きな悲劇の一つは、建物の基礎がフェニキア人の謎の中心だと信じられ、大勢の人々によって徹底的に掘り返されたことだった。おかげで人が暮らしていた証拠の全てが破壊されてしまった」
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この歴史的な破壊行為vandalismは、かつてこの地の保護責任者だったピーター・ガーレイクを今もなおイラつかせている。この時の破壊があまりに大規模だったので、本当の歴史がほとんど永遠に失われてしまったのだ。
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しかし、1929年、英国人考古学者による大規模な遠征がグレート・ジンバブエをシバの女王の胸から解き放つ試みを行うことになった。女性の遠征隊責任者ガートルード・ケイトン・トンプソンはグレート・ジンバブエの謎をきちんとonce and for all解きあかそうと決意を固めていた。
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ガーレイク「ケイトン・トンプソンは希代の女性だ。考古学の知識は深く、男同等に発掘作業に取り組んだ。恐らく彼女は最初の女性考古学者の一人だろう」
しかし、数週間の発掘の後も、場所の年代を特定する十分な証拠は見つからなかった。士気が落ちた発掘隊は、他に調査する価値がある場所がないか探してみることにした。ケイトン・トンプソンはまだ手が付けられていない場所を見つける必要があると考え、友人を説得して飛行機から付近一帯を調べることにした。
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王宮の丘(アクロポリス)上空を離れて飛んでいると、地図に書かれていない道が丘から続いていることに気付いた。草木が生えて道が隠されていたのでこれまで気付かなかったのだ。その道は別の城壁の囲いに繋がっていた。そして彼女はついに、白人の手がついていない場所を探し当てた。
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仕事は翌日から始まり、とうとう必要としていた証拠を見つけ出した。調査の結果、古代のバンツー人たちは、11世紀、ヨーロッパで中世の時代、グレート・ジンバブエを建設していたことが判明した。しかし、彼女の報告書は白人系ローデシア人の間で話題になることは無かった。
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ガーレイク「ガートルード・ケイトン・トンプソンの仕事は学会で高い評価を得たが、現地に暮らす白人系移住者の考えを変えることは出来なかった。彼らは、原住民は野蛮で、偉大な建造物を造ることなど出来る訳がないと信じ込んでいたのだ。結局、発見から50年にも及ぶ研究をもってしても、グレート・ジンバブエは外部の力を得て造られたものだという考えが変ることはなかった」
ケイトン・トンプソン女史は“啓蒙されていない人々がいる。彼らは元々が小作農で、小さな頭脳の持ち主でしかない!”と皮肉を込めた記述を残している。それから何年も経った後も、ローデシアの公的な旅行ポスターには、黒人の召使いが白人のシバの女王の前に跪(ひざまず)くように描かれている。
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グレート・ジンバブエは白人の人種優越性の象徴として使われたのだ。今日でも、同じイメージが新しい国家ジンバブエの象徴になっている。
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アリ「アフリカ人国家の主張の合法性を覆(くつがえ)す試みは“この土地はあなた方のものである以上にとは言わないが、それと同じくらい我々のものだ”というものだった。もし我々がデモを起こしたなら、こう主張するだろう“これらの壁を見よ、あなた方の主張を覆す証拠だ、なぜなら、これらの壁は何百年もの間ここにあるのだから、これらはアフリカ人によって建てられたのだから、あなた方より何世紀も前からアフリカ人がここにいたと無言で証言しているのだから、あなた方はそれを受け入れるべきだ、証人はここに横たわっているんだから、それでも、アフリカ人によって造られたものではないと言うのか?”」
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何世紀もの間、グレート・ジンバブエは架空の歴史を押し付けられてきた。しかし、この偉大なアフリカ王国はどんな国だったのだろう?14世紀、この王国が最盛期だった頃、グレート・ジンバブエは繁栄した都市国家metropolisでアフリカの中でも特異な存在だった。当時、ロンドンと同じ大きさを誇っていた。1万8千人が数平方マイル(1マイル=1.6Km)に押し詰めるように集まって暮らしていた。偉大な石の城壁の内側には、サハラの南のアフリカで最も古いと考えられる都市文明があった。
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喧騒は圧倒的なものだったはずだ。何百もの台所から立ち昇る料理の煙は空を暗くしていただろう。王国は数千Kmも広がり、それぞれの支配者をもつ何百ものジンバブエという町を含む帝国の首都がグレート・ジンバブエだった。グレート・ジンバブエの中では、王は死んだ後でも長い間、影響力を持っていた。祖先の霊は支配者として、かつ霊的な助言者として、存在感を持ち続けていた。

今日、現地で暮らすショーナ人はグレート・ジンバブエを建造した人々の子孫だと考えられている。近代のショーナ文化においても、祖先の霊は今もなお、霊媒がアクロポリス(丘)遺跡の下の洞窟で行う儀式を通じて人々に接触していると考えられている。
ジンバブエ国務大臣スタン・ムディンゲ「ショーナ人は信仰深い人々だ。祖先は死んでも永遠に去ってしまうことはないと強く信じている。それどころか、霊媒を介して、生きている今の人々を罰したり、激励したりし、霊の教えに従えば不幸から免れることができると考えている」
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ジンバブエの大臣スタン・ムディンゲはショーナ民族の祖先について研究している。
スタン・ムディンゲ「支配者の魂、特に死んでしまった支配者の魂が、最も権力を持っているという考えがある。魂は媒体を持っていて、いつでも人間の姿で現れて力を及ぼすと信じられている」

王国を見下ろすアクロポリスの丘の上には、囲われた神聖な場所がある。
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そこで何が行われていたのか、我々は想像することが出来る。
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困難な事件が起きると、王はここにやって来て、彼の祖先に貢物(みつぎもの)を捧(ささ)げ、霊の導きを求めた。霊媒者は自らをトランス状態にし、古い昔に死んでしまった支配者の霊を乗り移らせた。王と、国の創立者たちとの超自然的な繋がりは彼らの文化の根底だった。自分の霊媒者を通して、王は王国のその他のグループの霊媒者たちに影響を及ぼした。王は彼に挑戦する誰に対しても、軍事力に加え、力強い精神的な影響を及ぼしていた。
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大臣スタン・ムディンゲ「統治するためには巨大な軍事力は必要じゃあなかった。人々を安心させ、心理的に統括して彼に従わせていたんだ」
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これらの巨大な石の鳥はその力の象徴で、神聖な場所から回収されたものの一つだ。
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大臣スタン・ムディンゲ「アフリカの、この辺り一帯で最高の成果を上げた文明だった。彼らが積み上げた富が、グレート・ジンバブエのような巨大な構造物の建造を可能にしたんだ。彼らが残した物を見ると、今でも彼らの偉大さを尊敬せざるを得ない」

グレート・ジンバブエは熱心な人々によって数世紀をかけて建造された。
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1百万個もの石が削って形を整えられ、外壁の建設に使われている。各々の部族は毎月、7日をリーダに捧げ、この記念碑を彼らの王やその親族のために造り上げた。

城壁を造り始めた人々は、当初、このような花崗岩が露出した場所にきて石を切り出していた。
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数世紀に渡って、人々は石を切り出しては、石壁の修理を続けていた。それは今日でも続いている。花崗岩を火で加熱し、亀裂の辺りに水を掛けると、石が割れる。それをハンマーで注意深く叩いて形を整えて建築用石材にする。
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彼らがどのようにして石の城壁を建設したのかを理解するのは容易だが、何故、造ったのかについては様々な主張があり、今も論争が続いている。“偉大な囲いgreat enclosure”は砦(とりで)だったのか?王宮だったのか?
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聳え立つ石壁の間の狭い通路についてはいろいろな説がある。
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女の成人式female initiation ceremonyを覗(のぞ)こうとする男たちを排除するものだと考える人も多いが、もっともありえるのは、王室の日常生活のプライバシーを完璧に守るためだったというものだ。
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しかし、巨大な円筒の塔については謎のままだ。
ガーリック「ヴィクトリア時代の調査員たちは、これが性的な象徴だろうと考えていた。つまり石で造った男性器で、従って、この場所へ立ち入ることは制約されていたはずだと。しかし、その形や装飾を見ても、この考えを支持する明確な証拠は何もない。穀物などの食材を保存しておくための建物ではないかとの考えもある。この考えは王国の指導者は人民に食料を供給していたという説を支持している」
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西暦1300年頃、この建物が造り上げられた時期、には経済成長が著しかった。富の源は牛だ。族長の地位は彼が保有する牛の数に基づいていた。豊かな男は多くの牛を所有し、従って多くの妻を持つことが出来、妻たちは主人のために多くの子供を産んだ。子供たちは労力となり、より広い耕地を耕した。
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仕事量が少ない乾季になると、農夫たちは金鉱夫になった。
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細く長い穴の中で黄金を求めて更に地中深くに掘り進む作業は勇気が必要で、危険が伴うものだった。多くの人は鉱山ではなく、川で皿を使って砂金を採る方を好んだ。黄金は王の専売品だった。彼は鉱夫たちの賃金として牛を持って支払い、獲得した黄金でアフリカ東海岸のスワヒリ語族の商人と交易した。
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グレート・ジンバブエの最盛期、統治者は東アフリカの貿易港への黄金と象牙の流通を管轄していた。この交易のおかげで、古代世界における最も華麗ないくつかの都市がアフリカの東海岸に沿って造られることになった。
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14世紀、アフリカのスワヒリ語族が棲むアフリカ東海岸は、異国情緒あふれる場所になっていた。アラブ人の船乗りたちは、“世界でも活気や物に溢れ、華麗で見事に建造された町があった”と書き残している。
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この船旅はアラビアンナイトのシンドバッドの伝説や冒険を産む切っ掛けになった。運ばれてきたペルシャ絨毯(じゅうたん)はアフリカの象牙や黄金と交換された。
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商人たちは、インド、アラビア、更には極東からもやって来て、アフリカ内陸部との繋がりをもつ唯一の仲介者だったスワヒリ商人を介して取引きした。スワヒリ人たちはダウーツと呼ばれる船を造り、独特の航路を通じて遠くの港まで航海していた。
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海を管轄することで、彼らは、辺り一帯の商流を全て統治下においていた。

港では、毎年、何百捜もの船が、中東に送り戻してくれるモンスーンが訪れるのを待っていた。10世紀までには、黄金や象牙や石英は地中海まで溢れ出ていた。ギリシャやローマ時代以来、ほかの地では見られないほどの規模の商流だった。この繁栄した海岸線には、現在のソマリアからモザンビークにかけ、約3千Kmに渡って港や都市が続いていた。貿易網はアラブからインドや中国にまで広がっていた。
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15世紀にはスワヒリ人は麒麟(きりん)を中国に輸出し、皇帝の庭に集まった見物人たちを驚嘆させていた。

外部の文化との接触によって、アラビアやインドの伝統の影響を受けた国際的な社会がアフリカ東海岸に創り出されることになったのだが、このような国際的な成功にも拘わらず、アフリカのこの地でも、否定された歴史を被(こうむ)っている。
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混乱は最初のアラブ商人やイスラム教の導入に遡(さかのぼ)る。スワヒリ人は1千年前にイスラム教を受け入れていた。そのおかげでアラブとの相互信頼や商取引が創造された。
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祈りへの呼びかけはアラブからの貿易人とアフリカ商人とを共にモスクに呼び込んだ。彼らは手足を清めた後に中世のヨーロッパの大聖堂と同じように大きいモスクに入っていった。
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しかし、謎なのは、かつて偉大だったこの都市を始めに造ったのは誰かということだ。アラブ人か?それともアフリカ人なのか?
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考古学者マーク・ホートンはアフリカ東海岸のゴーストタウンについて調査している。彼は町の起源について革新的な考えを持っている。
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マーク「1920年代、初めてこの地に来てジャングルで覆われた町の遺跡を見た時、考古学者たちは、当然、町がアラブ人によって建てられたと考えた。石で造られ、装飾も施された墓石や、家々や王宮があり、トイレやミフラーブのあるモスクやミナレットなどはアラブ人が造ったに違いないことを示していた。しかし、私は、彼らの解釈が間違っていたことを今は知っている。ここにある都市群はアフリカ人社会のものだ」

町の建設に使われた材料はサンゴの堆積層から切り出されたものだ。
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つい最近まで、アラブ人定住者がアフリカ人奴隷を使って彼らのモスクや王宮を造ったと考えられていた。ここでも、アフリカ人が恒久的な建物を造れるとは信じられていなかったのだ。しかし、現在では、この貿易帝国の設立にスワヒリ人が積極的に関わっていたこと、これらの珊瑚の都市を造ったのが豊かなスワヒリ商人で、アラブ人ではなかったこと、が判っている。
簡単に説明するには複雑すぎる話なのだが、18世紀には、海岸線にあった多くの都市が衰退していて、アフリカ東海岸はザンジバル島(注)に暮らすアラブの王によって統治されていた。
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(注:ザンジバル島はタンザニア沖合の島です)
アラブ人の領土だと主張するための正当性を支持するため、彼らは、アフリカ人がスワヒリ文明の発展の中では単なる傍観者でしかなかったと主張した。
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10年の間、マーク・ホートンはスワヒリ人を支援しながら彼らの歴史を書き変え、正当な遺産を主張する手助けをしている。ホートンにとって、この孤立した建物はスワヒリ人たちを裏切った証拠物だ。それは“不思議な建物”と呼ばれている。
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マーク・ホートン「この大きな建物はスワヒリ人に対する決定的な侮辱だ。西暦1880年、イギリス人によってザンジバル島のアラブのサルタン(mhスルタンとも)に贈呈された。イギリス人は、東アフリカ一帯を統治しようと目論んでいた。彼らにとって不都合だったのは、そこがスワヒリ人が数千年も棲み着いていた場所だったことだ。そこで彼らは、スワヒリ人は歴史を持っていなくて、あるのはアラブの歴史だけだと考えることにしたのだ。そのため、この建物をザンジバル島のアラブの首長に与えることによって東アフリカの歴史に新たな混沌を創り出すことにした。つまり、この地にスワヒリが暮らしていたという考えを抹消しようとしたのだ」
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ホートンは、昔から棲み着いていたのは誰かを見つける唯一の方法は発掘だと考え、タンザニア海岸沖のペンバ島における初期のアフリカ人の定住の証拠を見つけることにし、彼が伝説の都市カンバルーだと考える場所に作業者たちを率いていった。10世紀のアラブの記録によれば、カンバルーはスワヒリ海岸における最初のイスラム都市だ。従って決定的に重要な場所といえる。
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アフリカの最高の伝統に従って、ホートンは木に登り、下にいる妻のケイトに発掘場所を指示した。
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彼らはこれから、完全に崩壊し消え失せているモスクだった場所の床部を掘り起こすのだ。そのことで、イスラムがどのように東アフリカにやってきたのかを見つけられると期待していた。

古いアラブの伝説に、ある言い伝えが残されていた。ザンジバル島の考古学主任アブル・ジューマが発掘作業で疲れていた作業者たちをキャンプファイヤーに誘って、それを語って聞かせた。アラブ人探検家が書き残したものだという。
アブル・ジューマ「929年のことだ。アラブの船乗りたちはオマーンからアフリカの貿易港カンバルーに向けて航海していた。しかし嵐が、さらに南の海岸に船を引き連れていった」
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「その海岸の部族は人食い人種だという噂があった。船乗りたちは命の心配をし始めた。アラブの商人たちは海岸に連れていかれ、王の前に跪(ひざまず)かされた。しかし、幸いなことに、王が関心を持っていたのは物々交換だった。
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「取引ならアラブ商人にとっては、お手の物だった。王はアラビアの宝石類に目を奪われた。そこで彼らはプレゼントを交換し合い、船乗りたちは胸をなでおろした。その場所を離れる時が来ると、彼らは王を自分たちの船に招待した。船に乗り込んだ王を見てアラブ人の船長は考えた。“このアフリカ人は奴隷市場で高く売れそうだ。”そこで、彼らは王を乗せたまま直ちにアラビアに向けて出港してしまった。船がオマーンに戻ると王は奴隷として売られてしまった。その翌年、アラビア語を習得した王は、コーランを学び、敬虔なイスラム教徒になっていた。ある日、彼は主人のもとから逃れ、数千Kmを歩いて故郷に戻った」
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「数年後、彼を裏切ったアラブの船長が、新たな船団を率いて再びカンバルーにやって来た。そして、船は再び南に流され、以前と同じ場所に漂着した。そこで、アラブの商人たちは昔、彼らが奴隷として売ってしまった王を見て驚き、命乞いをした。“商人たちよ。ここから去れ!”と王は言った」
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「“私がお前たちを許すのは、イスラムの教えを学んだことで、私や私の人民をイスラム教徒にすることができたからだ。イスラム教徒がやってくることがあれば、我々はこれからも兄弟として取り扱うだろう。”しかし、今回は、王は彼らを船まで見送ることはしなかった」

この物語が教えることは、スワヒリ人がイスラム教徒になり、奴隷として売り払われることがなくなったということだ。スワヒリの間にイスラム教が広がったということは重要な出来事だった。おかげでスワヒリ人がアラブの奴隷取引きから除外される保証ができたといえるだろう。
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物語におけるアラブ人船長の目的地カンバルーは、アフリカ東海岸の繁栄した貿易港だった。もしホートンが見つけた場所がそのカンバルーなら、石のモスクがあったこの床下には、アフリカ式で造られたモスクの跡があるはずだ。

この海岸には一時的な漁村があり、そこには木造のモスクがある。
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スワヒリ人は数千年の間、漁業シーズンだけ、ここで暮らしている。彼らはいつもモスクを建てている。スワヒリ人が最初に建てたモスクととても似た構造だという。
“これが木材で建てたモスクです。この辺りでは典型的な造りのモスクです”
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“で、後の時代に泥で造られ、更に後には石で造られるようになったんですね?”
“そうです。古いモスクの上に新しいモスクが造り直されていったのです”

豪雨がありマーク・ホートンの発掘作業は中断されたが、おかげで土が柔らかくなり、発掘は容易になった。石のモスクの下には2つの木のモスクの遺跡が見つかった。一つは別のもう一つの上に造られ、最も古い物は8世紀のものだった。
ホートン「ここが恐らくカンバルーがあった所だと考えている。歴史的な証拠から、カンバルーはイスラム教徒が住む南海岸における最初の町だった。私が今跪いている所こそが、恐らく、最初にイスラム教徒が訪れた東アフリカの場所のはずだ」

今日はムハンマドの誕生日でイスラムの祭りの日だが、ケニヤのラーム島ではアフリカで生まれた独特のお祝いが行われている。
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島々の間を帆走する種族対抗の船レースだ。海岸には人々が集って観戦している。
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イスラム教はアラビアからやって来たのかも知れないが、今ここで行われているのはスワヒリのお祭りで、スワヒリの方法で行われている。しかし、彼ら自身も、スワヒリ文明の起源はアラビアかも知れないと考えている。
アリ「ある種の混乱がある。スワヒリ人の中の多くのイスラム教徒はアラブによって特徴付けられていることを好む発想に侵されているのだ。そこで彼らは外部の人間の人種的傾向に対して、アフリカを否定したいと望む人間性を加えている(?)。従ってこれらのイスラム教徒は自分たちを理解する上で、疑似的な宗教的理由を持っているといえる(?)」
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「一方、西洋人の観察者たちは、アラブがスワヒリの文明化に影響を与えていたと考える人種的な理由を持っている。これら2つの要因が結びついて、混乱を産み出しているのだ」
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ラモーという町を造り出すには外部の力があったことは否定できない。木製の入口の複雑な文様はスワヒリの特徴だが、おそらく、今から数世紀前、インドの大工が訪れて、アフリカ人に手が込んだ彫刻手法を教えたのだろう。
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その後、スワヒリ人はこれを習得し、自分たちの文化に取り入れていった。そして恐らく、ペルシャ人が華やかなデザインを持ち込んで、家々の壁が彫り飾られるようになったのだ。今日ではスワヒリ人の彫り師たちは石膏に模様を彫るようになっている。

今から6世紀前、金持ちのアフリカ人商人は卓越した芸術家によって装飾されたヴィラ(高級住宅)を建てた。
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ラーム島(mhケニアの島です)は中世のベニスと同じくらい洗練されていた。これらの豪勢な家々はアラビアやインドとの交易の利益で造られたものだ。
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今日、多くの交易人たちは去り、経済は細々とした観光に頼っている。しかし、町の様子は、繁栄していた当時の様相を残したままだ。通りは今も驢馬(ろば)の通行で騒々しく、車が通るには細すぎる。
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当時の開口式下水道は、今もアリスの町を走っている。ラーム島の迷路のような通りはアフリカの東海岸に沿って残っている多くのゴーストタウンと同じ様相を反映している。16世紀には、何百ものこのような町々が廃墟と化してしまった。
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繁栄していた商業が何故終わることになったのかは明らかではない。誰もが交易で利益を得ていた。大陸内部の金鉱山の鉱夫、スワヒリ人の仲介者、船乗り、商人、そしてヨーロッパから中国までの中世の世界の消費者たちも。

恐らく、今日、協力的な王国同士が復興したり凋落したりしているように、対立し始めた商人の家族たちの富が、世代と共にすり減ってしまったからだろう。または黒死病が世界的な経済後退を引き起こし、アフリカの商品に対する需要が減少したからかもしれない。
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それはグレート・ジンバブエ王国やスワヒリ海岸に、栄光の時代の終焉をもたらした。西暦1500年代の終わりには、人々が暮らす建物は忘れ去られてしまった。しかし、彼らの文化的遺産はもっと悲惨な運命を辿った。
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アリ「どんな社会も、何を思い出として残したいかを選ぶ権利がある。しかしアフリカ人たちだけは、これまでずっと自らの歴史を完全に否定され続けている。思い起こしてほしい。現在判明している証拠によれば、アフリカは人類の祖先が生まれた大陸だ。世界で最初の人類が、初めて歩き始めた所だ。そう考えると、皮肉にも、人類の最初の住民が正当に理解される最後の人類になろうとしているように思える。我々アフリカ人は理解されないことに対して代償を支払い続けているのだ」

ヨーロッパからの入植者が初めてアフリカに来た時、彼らは白人族によって創造された幻想的な豊かさと美しさを持つ文明をアフリカで見つけようと夢想していた。驚くべきことに、この神話は現在も生き続けている。
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これが南アフリカの失われた都市だ。
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架空の失われた白人族たちの生きた記念碑だ。世界で最も贅沢なテーマパークの一つサンシティSun Cityの行楽地resortの一部だ。人工の浜辺は休暇中の白人系南アフリカ人で溢れている。
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片や、数千人の黒人系南アフリカ人労働者は、失われた白人族の夢が生き続けるよう働いている。しかし、夜になると彼らは丘の後ろに息をひそめるように隠されている小さな町に戻るのだ。
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恐らく何世紀も過ぎてから、未来の考古学者がこれらの娯楽施設を掘り起こして言うだろう“これは失われたアフリカ系白人族の遺跡だ!”と。その時こそ、彼らの主張は正しいと言えるかも知れない。
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How History Denied Ancient Africa ??
https://www.youtube.com/watch?v=kRA4-Rw0QXg&t=2734s

・・・・・・・・・・・
アフリカの文明がアフリカ人以外の人種によって造られたはずだとヨーロッパ人が考えたのは、アフリカの遺物や資源を搾取しても罪ではないという身勝手な理屈を正当化するためであって、全く酷い仕打ちと言えます。大東亜共栄圏と称してアジアに進出した日本人も似たことを行いました。欲にくらんだ人間が考えることは世界中どこでも、いつの時代でも同じですね。

現在のジンバブエ共和国は1965年、イギリス領のローデシアから独立して生まれました。その時の立役者だったムガベ氏は、首相として実権を握ると1987年には大統領に就任し、93歳の現在も世界最長老の国家主席として我が物顔に振る舞っています。経済の疲弊は凄(すさ)まじく、最高額の10兆ジンバブエ・ドル札は日本円でたった3百円程度というスーパーインフレに陥り、失業率は80%とのこと。年寄りが導くと国家も社会も家庭も破綻するのは間違いありませんが、年を取るほど、権力に縋(すが)りつくのが人間の醜い習性ですから、元気なうちに若者に全権を譲らなければいけないのに、そんなことはお構いなく死ぬまで居座り続ける例は、キューバのカストロ首相、中国の毛沢東主席、北朝鮮の金正日など、枚挙にいとまがありません。プーチン大統領や安倍首相も同じ道を辿ろうとしているとしたら我々もボケーっとしてはいられません。

フィルムで紹介されたマプングブウエの補足情報です。
Wiki:マプングブエMapungubwe
かつて南アフリカ共和国で繁栄した都市。シャシ川とリンポポ川の合流点に位置し、現在のボツワナやジンバブエの一部をも支配したショーナ王国の前身にあたる一集団が拠点としたことで、1050年から1270年に繁栄したと考えられている。マプングブエの都市遺跡は、国立公園にあり、遺跡としての価値と文化的景観が良好に残されているため、2003年7月に世界遺産として認定された。
(マプングウエの丘:高さ30x長さ300m)
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マプングブエが没落すると、その存在は1932年まで忘れられたままになった。1932年の大晦日に、地元の農家で発掘家でもあったESJ van Graanと、プレトリア大学卒業の彼の息子が、マプングブエの丘の頂上で大量の工芸品を発見した。彼らはその発見をプレトリア大学教授レオ・フーシェ (Leo Fouché) に報告した。このことが今日につながる発掘の扉を開いたのである。発掘された工芸品には黄金製のものが多くあったため、盗掘を恐れて発掘当初は秘密に行われた。

工芸品の年代は西暦1000年頃から1300年頃に及び、土器、中国産の青磁、黄色、青、緑のガラスビーズ、金箔が貼られたサイの像をはじめとする黄金の装飾品類、土偶、象牙や骨を加工した製品のような有機的な遺物、精錬された銅や鉄などを加工した製品など様々であった。
・・・・・・・・・・・・
で~南アフリカ共和国のプレトリア大学は2000年に博物館を新設しました。
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内部の展示室です。
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ここに黄金の犀が展示されています。3つ並んだ一番奥か??
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グレート・ジンバブエですが、調査に貢献した女性考古学者はこの人でした。
Gertrude Caton–Thompson( 1888 –1985)
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空中撮影されたグレート・ジンバブエ。
手前は丘の遺跡。右奥には“偉大な囲い”があります。
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“偉大な囲い”
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その中の中空の石塔
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(完)

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mh徒然草:独裁国家とは?

いろいろな定義がありそうですが・・・
mhの悪い癖は自分の拙(つたな)い知識や経験だけで物事を決めつけることだという自覚がありますので、ここはネット辞書で確認してみましょう。
【独裁国家】
個人、少数者または一党派が絶対的な政治権力を独占する国家体制のこと。
一個人、少数者または一党派が絶対的な政治権力を独占する国家体制のこと。
形ばかりの選挙などの民主的・合法的体裁をとることで専制政治(現代における専制政治の実例としてはサウジアラビアなどがあげられる)から区別される。

この定義によれば、中国もロシアも独裁国家じゃあないだろうかと思います。

で~森友学園、家計学園、共謀罪などの国会の動きを見ていると、日本も独裁国家になってきたのではないか?という危惧がありますが、それは間違いだといいます。何故なら、既に独裁国家だからだと。
今はブラックジョークの部類でしょうが、そのうち本物になる可能性が出てきました。

何度もブログで述べさせて頂いていますが、世界は、右傾化に向かって突き進んでいます。残念ながら、人間というものは、戦争の悲惨から立ち上がると、苦難を乗り越えた強者は独裁を目指し、戦争で終わるというサイクルを繰り返す動物として生まれて来たのかもしれません。この悪循環というか、人間の罪は、とても深いもので、簡単に解消できないことを先人も心得ていて、悪循環を断ち切る仕組み作りをしてきたんですね。その一つが三権分立じゃあないかと思います。

【三権分立】
権力の濫用を防止し、国民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法・司法・行政の三権に分け、それぞれ独立した機関にゆだねようとする原理。ロック・モンテスキューらによって唱えられ、各国の近代憲法に強い影響を与えた。

で~立法を国会、司法を裁判所、行政を内閣府が行うんですが、現在の様子をみていると、内閣府が立法も行っているんですねぇ。

ネットで確認したらすこし古いのですが次の記事がありました。
【安倍首相が国会で「私は立法府の長だから議会運営には口を出せない」と繰り返したことが話題になっている。先月も同じ失言をして、議場で指摘されるとすぐ「行政府の長」と言い直したので、これは単なる言い間違いだが、かなり大きな問題を含んでいる。
たしかに首相は行政府の長であって立法府に命令する立場にはないが、日本は議院内閣制である。国会が選んだ首相が内閣を組織するのだから、両者は一体であり、内閣が法案を出して審議日程や議事内容についても発言するのが当然だ。
ところが日本国憲法では、内閣には立法権がない。憲法第41条では「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定めており、内閣が立法することはできないが、実際には法案の8割以上は内閣提出法案だ】
http://agora-web.jp/archives/2019280.html

憲法に違反する施政も、憲法を曲げて解釈して正当化し、司法がそれを罰することができない日本は、独裁国家の必要条件が十分備わっています。

独裁国家が国民に悲惨な結末をもたらすことは歴史が証明しています。今、日本が見直さねばならないのは、憲法じゃあありません。三権分立の在り方です。

Donna Donna ~ Joan Baez ( Lyrics )
https://www.youtube.com/watch?v=gQ5Jl4wGNG4
(完)

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ロゼッタ・ストーンの不思議


大英博物館の重要な所蔵品の一つ“ロゼッタ・ストーンRosetta Stone”がどんな石かはご存知でしょう。
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mhも35年程前に大英博物館を訪れたことがあり、見ているはずですが、全く記憶がありません。でも、4,5年前だと思うんですが、上野の国立博物館の大英博物館展でレプリカをみました。

片面には3種類の文字が書かれています。
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一番上はエジプトの古代文字でヒエログリフhieroglyphです。神官やファラオが使う神聖な文字なので“神聖文字”と呼ばれています。その下は民衆文字;デモティックDemoticで、ヒエログリフを漢字とすればデモティックは平仮名(ひらがな)に相当します。一番下はギリシャ文字です。

元々、この石は次のような石碑の一部だったと考えられています。
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発見された場所がエジプトのアレキサンドリア東方約60Kmの町ロゼッタRosettaでしたのでRosetta Stoneと呼ばれることになりました。

この石を研究することによってヒエログリフが解読(Decodingデコーディング)され、エジプトの寺院や墓に残されていたレリーフやパピルスに書かれていた記述(テキスト)の内容が判り始めたことで、古代エジプトの歴史はやっと日の目を見ることになったのです。

ヒエログリフ解読の鍵となったロゼッタ・ストーンが大英博物館に所蔵されることになった経緯、ヒエログリフ解読に到る経緯、をまとめたYoutubeフィルム(作成1996年)をご紹介致しましょう。

で~ヒエログリフを解読した人物ですが~2人の名前が挙がっているようですね。mhが知っていたのはフランス人だけでしたが・・・
もう一人の人は・・・
線形弾性体におけるフックの法則:
ε = σ/E(ε:ひずみ,σ:応力,E:ヤング率)
の中の比例乗数Eに名前を採用されたイギリス人物理学者トーマス・ヤングです!語学の才能もあったんですね!
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トーマス・ヤング(Thomas Young, 1773―1829年)

突然で恐縮ですが~
「天は二物を与えず」という格言がありました。最近はあまり使われていないようですね。ネットで調べてみましたが、出所・出典は不明です。その代りと言っては何ですが、“三物も四物も持っている人がいる!”っていう僻(ひが)みのコメントは沢山みつかりました。確かに、美人/ハンサムで、頭が良くて、お金持ちの人は身近にも大勢いますから、「天は二物を与えず」は不適切な格言だとmhも思います。mhが思うには、「天はどの人にも最低1つは美点を与えていますから、二つないからと僻(ひが)んじゃあいけません!」という有難い教えじゃあないのでしょうか。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という似た響きの格言が福沢諭吉“学問のすすめ”の冒頭部にあるようですが、アメリカの独立宣言から引用した言葉だとの指摘がネットにありました。「天は二物を与えず」も、もしかするとそうかもしれませんが、その指摘は間違いだと再確認させて頂きます。

話が随分脱線してしまいました。それではYoutubeに戻って、ロゼッタ・ストーンのご紹介をいたしましょう。
・・・・・・・・・・・・
この石は何千年前もの謎を解く鍵だ。
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その暗号を解くのは不可能だと思われていた。しかし、一人の男が人生を捧げて秘密のメッセージを解読する。
それではこれから古代の謎をご紹介しよう
The Rosetta Stone
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<第一話:発見>
ロンドンの大英博物館には古代エジプトからの多くの古物が溢れている。

3千年前のミイラ、偉大なファラオの巨大な石像もある。しかし、他のどんなものよりも価値のある一品がある。古代エジプト展示室の入口に置かれている大きな石片stone-tabletだ。
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目立つ場所に堂々と展示されているので誰も見逃さないだろう。この石はロゼッタ・ストーンと呼ばれて知られている。いつの時代でも最も重要な宝物の一つだ。

ロゼッタ・ストーンとは何だろう?一見して何の意味も無いように見える石が、人類の過去における我々の考えを、どのように永遠に変えるのだろう?
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2千年の間、古代エジプトの歴史は時間という砂の中に埋もれていた。旅行者や学者は、謎の人々の存在に気付いてはいたが、彼らについて何も知っていなかった。
どんな人々が山のように巨大なピラミッドを造ったのだろう?どんな神々に、都市と同じように大きい巨大な寺院を捧げていたのだろう?何故、彼らは信じられない程に多くの宝物と共に死体を埋葬したのだろう?
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古代世界を訪れる人々は、いたるところで奇妙な絵や文字を眼にする。最初にギリシャ人がヒエログリフと名付けた文字は、寺院や記念碑や墓にも溢(あふ)れている。
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動物や人間の頭や、見知らぬ形の奇妙な絵が使われている。文字の多くは、動物の頭をした神々に供え物をするエジプト人の絵画を取り囲んでいる。
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エジプト人の死体すらも神聖な説明文が書かれた包装材wrappingや石棺と共に埋葬されている。この不思議なレリーフ(relief浮き彫り)は何を言っているのだろう?エジプト人は黒魔術の薬や強力な武器を手に入れていたのだろうか?文字は我々に聖書の中の謎に対する答えを提供してくれるのだろうか?
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必要なのは手掛かりだ。謎を解く鍵だ。古代エジプトの再発見にとって、不思議な謎の石片tabletの発見は始まりでしかない。

キリスト時代、古代エジプトは既に遠い過去の伝説になっていた。ギリシャやローマの歴史家たちは、かつて強大な文明が持っていた知識を想像するだけだった。
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数世紀が過ぎてヨーロッパはルネッサンスを迎えたが、古代エジプトは沈黙を守ったまま、再び世に出る時が来るのを待っていた。エジプトを目覚めさせるには最も強力な人物の登場が必要だった。戦(いくさ)の統率力と歴史に対する情熱が等しい男だ。
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1千7百年代末、フランスとイギリスは世界制覇を競って戦っていた。1798年、ナポレオン・ボナパルト将軍はフランス軍を率いてエジプトへ軍事侵攻することを提案した。ヨーロッパとアジアの間にあるこの交差路を統治できれば、交易を管理することができ、フランスは世界でも最も強力な国家になる。この時、29歳のナポレオンは既にフランス軍における伝説になっていた。
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イタリアに関するオーストリアとの戦いでの勝利は、彼とフランスを無視できない新勢力に押し上げていた。ナポレオンは、歴史と運命がエジプトを彼の次の報奨にしていることを感じていた。
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1798年7月1日、ナポレオン軍の船団はエジプトのアレキサンドリアに入港した。船には、3万8千の兵士と共に、フランスの最高の科学者や研究者167人も乗っていた。軍事遠征隊が学術的な興味を持っていたのは極めて特異だ。ナポレオンの計画はなんだったのだろう?
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何故、彼は古代エジプトに魅了させられていたのだろう?アレキサンダー大王と同じように、世界を征服する途中でエジプトを併合することが彼の運命だと信じていたのだろうか?
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自己中心的なナポレオンは、エジプトを帝国建立(こんりゅう)の単なる一歩以上のものと考えていた。彼はエジプトの伝説や勢力や歴史を知っていた。そこはファラオの土地だった。王は人民に神と崇(あが)められ、世界で最も偉大な文明を2千年の間、支配していた。
ナポレオンは王たちの秘訣(ひけつ)を学ぼうと決意していた。ジュリアス・シーザのように、エジプト人の感情と心hearts and mindを獲得できると思っていた。次のファラオになるつもりでいたのだろう。彼はフランスのエジプト学会のメンバーの一員として、エジプト探検に連れていく学者たちを個人的に選出していた。
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フランス軍が対抗勢力を追い払いながらナイルに沿って内陸に侵攻している間、学者たちはカイロに学士院Instituteを設立し、エジプトの調査を始めていた。
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この学士院はナポレオンの学術的探検の拠点になった。学者たちはエジプト全土に出向いて、墓を掘り起こし、記念碑に登り、目にした全てを調査し、スケッチを描き、絵画にした。得られた情報の価値は計り知れない程大きかった。ナポレオンは、その情報を絶えず自分の元に届けるよう指示していた。もし、謎に対する答えが判ったら、直ちにそれを知りたいと望んでいた。
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ナポレオンと彼の軍勢がエジプトの土地と古代遺物の併合を忙しく進めているのを、イギリスは黙って見てはいなかった。数週間後、イギリス海軍はフランス軍を攻撃し、船を破壊し、ナポレオン軍を2年の間、エジプト内に閉じ込めた。
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ナポレオン自身は包囲網を抜けてフランスに戻ったが、世界を制覇しようと言う彼の望みはくじかれた。見捨てられたフランス軍は生き残ろうとし、科学者や研究者たちは近代エジプト学を産みだそうとしていた。イギリス軍に攻められながらも、彼らは出来る限り、古代エジプトのコピーを採り、分析を続けた。
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休眠していた謎に対する答えを探すこれらの仕事を受け継いだのは、皮肉にも、科学者や学者ではなく、兵士だった。彼は全ての中で最も重要な発見をする。

イギリスによる長い包囲が続いていた1799年7月中旬、フランス軍はナイルが地中海に流れ込む近くの町ロゼッタで防衛を補強していた。アラビア人が造った古い砦を修復すべく、ピエール・ブシャール中尉の命令で兵士たちは城壁の修理を始めた。
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アラブ人は古代の寺院を解体して建築資材に転用していた。その際、ファラオの時代からの大きな石板tabletが気付かれないまま城壁に埋められてしまうことになった。フランス軍兵士たちが砦の壁を壊していると、その石板が倒れ出てきた。兵士たちは、直ぐ、価値のありそうな、奇妙な事に気付いた。石には3種類の文字が刻まれている!ギリシャ文字、デモティック(民衆文字)、そしてヒエログリフだ。
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元大英博物館員ハリー「その石は不思議な発見だ。大きな偶然という幸運だったと私は思う。そこにいる人物が賢明で、関心を持っていて、“おぉ、これはすごい物だ。ヒエログリフ解読の鍵になるかも知れないぞ!”と思ったことも幸いだった。もし知識のない人だったら、そのまま砦の石として使ってしまっていただろう。人々は“見つけたのが無知なイギリス兵ではなく学のあるフランス兵で好かった”とよく言っているようだけれど」
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石は高さ3フィート9インチ(114cm)で、幅2フィート4インチ(71cm)、重量は1500ポンド(680Kg)だった。フランスの将軍ジャック・マニューはカイロの学士院に送り届け、ギリシャ文字を翻訳するよう命令した。
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何を言っているのか?ギリシャ語はヒエログリフの翻訳に使えるのか?

この発見は直ちに大きな噂を呼んだ。ギリシャ語は理解できている。学者たちは直ぐに記事textを翻訳した。それはギリシャ系ファラオのプトロメイ(プトレマイオス)5世Ptolemy 5thの統治1年を祈念して王を讃える法令だった。
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mh:ここで碑文の全文をWikiからご紹介します
「父の王位を継いだ若き者、王の中で最も傑出したる者、エジプトの守護者、神々にどこまでも忠実に仕え、敵に対し常に勝利を収め、王国全土に文明をもたらした……不死なる統治者、プタハ(エジプトの創造神)に愛されたる者であるプトレマイオスは、その治世第9年にあたりこの勅令を発布した……祭司長、占い師、神殿の侍者、王の扇持ち、神殿の書記、各地の聖所で奉仕する神官は、プタハに愛されたる不滅の王プトレマイオスの即位を祝うため王国全土から招集された。……神なる両親から生まれ、自身も神である者、エジプト全土の聖所とそれに仕える者たちに対して寛大で、自ら歳入の一部を彼らの給与や食料に充て、神殿の繁栄に努める者、プトレマイオス。彼は治世中、すべての者が富み栄えるために民の税を軽くした。国家に対して債務を負っていた数他の者たちを、それから解放した。投獄されていた者、裁判を待っている者たちに恩赦を与えた。エジプトへの侵入を企てる者たちを撃退するために軍馬、歩兵隊、海軍を備え、国家安全のために膨大な経費や穀物を費やした……」

ギリシャ人が、紀元前3百年からキリストの数十年前までエジプトを統治していたことは知られていた。この石はどうして1千8百年以上もの間、生き残ったのか?他にも存在しているのか?
(mhほぼ同文の石はナイルデルタの別の町で見つかっています)

最後の行を読むまで、書かれている内容は重要な事ではないと思われた。“この法令は固い石でできた石碑の上に神聖文字と民衆文字とギリシャ文字で書かれるであろう。”
3つの文字の記述は同じ内容を言っているのだ!このニュースは直ぐにヨーロッパに伝わった。
カイロの学士院員「石が最初に人々の関心を引いたのは、おそらくヒエログリフ解読の鍵を与えるだろうという点だった。1799年8月コエドレジ」
mh:Wiki日本語版の翻訳ではギリシャ語記述の最後の部分が省略されているようです。ネットに次のギリシャ記述部の英訳がみつかりました。3つの文字の記述内容は同じだったのです。
This decree shall be inscribed on a stela of hard stone in sacred [that is hieroglyphic] and native [that is demotic] and Greek characters and set up in each of the first, second, and third [rank] temples beside the image of the ever living king.

しかし、ロゼッタ・ストーンはフランス人の手中に長く留まることはないかも知れない。イギリスの包囲網はやがて狭(せば)められ、フランスに降伏を迫るだろう。フランスの将軍はこの石をどんな方法で隠してイギリスの手に渡さないようにしたのか?
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交渉では、イギリス軍士官は石を渡すよう要求した。彼らはヒエログリフが軍事機密を含んでいると考えたのだろうか?この石は声を持ち、古代エジプトの長い沈黙を終わらせるのだろうか?

<第二話:獲得と解読の争い>

ナポレオンの2年に渡るエジプト軍事遠征は全く悲惨だった。9千人以上が殺され、フランス海軍はイギリスから壊滅的被害を受けた。残されていたフランス兵士たちは地中海岸に張り巡らされたイギリス海軍の包囲網によってエジプトに閉じ込められていた。しかし、科学的にも文化的にも、エジプト遠征は偉大で、今後も長い間、重要な出来事であり続けるだろう。
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これが近代考古学の誕生となり、過去への探求になった。更には、ロゼッタ・ストーンの発見で、エジプトの偉大な秘密はついに日の目を見るかと思われた。永年、沈黙を保っていた不思議な謎の土地への扉は、今や開け放たれようとしていた。ヒエログリフの解読はフランスとイギリスの軍隊によって熱意をもって見つめられていた。
エジプトに残っていたフランス人士官たちは古代のエジプト人たちの力と栄光を直接知っていた。明白な証拠は彼らの目の前に広がっていたのだ。ピラミッドや寺院は間違いなく偉大な、高度な文明によって建てられたはずだ。もし、ロゼッタ・ストーンが彼らの言葉の翻訳に使えるなら、エジプトの昔の栄光は蘇(よみがえ)り、フランスも復活するかも知れない。フランス人は、どれだけ早く石を解読でき、ヒエログリフを読めるようになるのだろう?イギリス軍が降伏を強要する前に暗号を解読できるのだろうか?
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軍の命令を受けて学士院の学者たちは解読を完了しようと作業を急いだ。ロゼッタ・ストーンには各々異なる表記方法で3つの文が書かれていた。
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上からハイログリフ、デモティック、そしてギリシャ文字だ。ギリシャ文字記述部によれば、石板には3つの文字で同じ情報が書かれている。ギリシャ語は簡単に解読できたが、幾つかの障害物が2つのエジプト式文字の翻訳に立ちはだかっていた。
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第一の関門は、最も重要なことだが、およそ2千年もの間、いずれのエジプト語も誰も話したり読んだり出来ないままでいたことだった。フランス人の学者たちは何も思いつかなかった。どんなエジプトの表記や言葉が何を意味するのか全く知ってはいなかった。表記はアルファベットのような表音phoneticなのか、それとも漢字のような表意pictorialなのか?何も手掛かりがないまま、彼らは一から取り組まねばならなかった。
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第二の関門は、石の上と両側が欠けていたことだ。一番上のヒエログリフ部が最も被害が大きく、たった14行の文しか残っていなかった。中間のデモティック部は32行の全ての文が残っているが右側で部分的に欠けている。ギリシャ部は54行から成っていた。挫折していたフランス人たちには、どの言葉が、どの行が、ギリシャ語のどの言葉や行に対応するのかを理解することができないまま、彼らに残された時間は無くなろうとしていた。
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ロゼッタ・ストーンの発見から2年後の1801年8月、フランスが降伏してエジプトをイギリスの物とすることを条件に、イギリスは包囲を終えた。引き上げ合意書の一部としてフランス軍士官たちの身の回り品の所有権は認められたが、カイロの学士院は発見物の全てをイギリスに引き渡さねばならないことになった。
フランス人学会員たちは激怒していた。イギリス軍士官たちは過去の伝説を傷つけるどんな権利を持っているというのか?エジプトは人類の遺産だ!それは、値の付けようがない貴重な財宝なのだ!
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ケンブリッジ大学エジプト学教授ジョン・レイ「アレキサンドリアでイギリスがフランスに降伏を強いた時、ロゼッタ・ストーンは既に有名になっていた。特にイギリスよりもフランスで有名だったと私は思う。しかし、それは明らかに戦争における盗品の一つとみなされていた。同時に、それはイギリスの勝利の見返り一つだともみなされていた。フランス人たちは石を手放すのを明らかに嫌っていた。そこでそんなものは持っていないかのように、石を隠そうとした」
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フランス人学士院員「あなた方は、私たちの絵やハイログリフのコピーなどの収集品を手に入れている。しかし、我々なくしては、これらの品々は死んだ言葉で、あなたがたも、あなた方の息子たちも、理解することは出来ない。ピラミッドが破壊されるようなことがあれば、我々は直ちに我々の所有品を破壊するだろう。そしてそれを砂の中にばらまいてしまうだろう。海の中に投げ捨ててしまうだろう。もしあなた方が目的を理解している知識人ならば、長い歴史の記憶を期待することができる。そしてあなたがたもアレキサンドリア図書館員になれるのだ。
1801年;フランスのカイロ学士院員」
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ナポレオンが逃げ戻ってしまった後のフランス軍司令官だったジャック・フランソワ・メヌー将軍は、ロゼッタ・ストーンをフランスの手元に残そうと試みた。石をエジプトから密かに船で持ち出そうという試みに失敗すると、ジャック将軍は石を布で包み、個人の所有物の中に隠した。もし検閲にあったら、個人資産だと説明すれば没収を免れるだろう。

フランス人たちがエジプトからロゼッタ・ストーンを持ち出そうとしていることを知り、英国軍のブライアン・ウイリアム・ハミルトンは、ギリシャからエジプトに移動した。
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彼は、世界の古物を見る目を持っていた。ギリシャにいた間、彼はアテネのパルテノン神殿からエーゲ海の大理石を手に入れる仕事に携わっていた。
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彼ならエジプトを王のための宝物が残されていないままにしておかないだろうとイギリス軍は知っていた。

ハミルトンとイギリス軍はジャック将軍が石を隠し持っているのではないかと疑っていた。アレキサンドリアに駐在していた将軍に会うと、石は自分のものだと強く主張した。しかしイギリス士官は頑固だった。銃口を突き付けられたジャック将軍はフランスがこの戦いで負けたことを認めた。彼は、イギリス軍はフランス軍よりも強く、石は破壊されずに、重要な賞品としてイギリスが手にする権利があると判断した。
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ハミルトンは、石が本物であることを確認し、イギリス軍はついに彼らの賞品を手中にした。ロゼッタ・ストーンは直ちに船に載せられ、1802年2月にイギリスに到着した。今やイギリスは過去への鍵を手に入れたが、フランスは石の記述部を紙に写し取った“コピー”を作っていた。誰が最初に謎を解読するかの競争が本格的に始まった。エジプトの権力と富の全てと共に、名声と栄光はその鍵を見つけた人物に与えられるだろう。多くの国が注目する中で、一流の学者たちが先を競って解読に取り組んだ。
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暗号を解読しようとしている競争相手はどんな進展を見せているのか?誰が取り組んでいて、どんな失敗をしているのか?ロゼッタ・ストーンはその答えを明らかにするのだろうか?

古代エジプトがフランスとイギリスによって再発見されている時、世界の別の場所では重要な出来事が起きていた。
1803年、アメリカ合衆国はルイジアナを買い取って国土を倍増していた。
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ルイス将軍とクラーク将軍はまもなく、2年に渡る探検をルイジアナという地図のない土地で行う。トーマス・エリジンはギリシャのパルテノンから彫像を集めてイギリスに送り、大衆の想像を捉(とら)えた。中国では、4千年後続いた王朝は週末に近づいていた。満州王国は最後の王国になるだろう。
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1800年代初頭、世界中の新たに探検された場所エジプトに関する報告書はヨーロッパやアメリカの大衆を驚かせていた。どんな発見も全て信じられないものばかりだった。全てが起こり得るように思われた。エジプトの財宝と謎に関するニュースが出回ると、誰もが貪欲に知りたがった。
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エジプト学教授ジョン「一般人には知られてはいなかったが、ヒエログリフが神々や、宇宙や、天文学の秘密を含んでいるだろうという考えはあったようだ。というのは、エジプトの品々は具体的ではっきりしていて、絵画的で、その上、寺院や宗教関連品とともに見つかっていたからだ。謎を含んでいるはずだという印象があった。ヒエログリフは普通の記述方式ではない。そこには文明があり、解読できたなら、これまで誰も考えもしなかった謎が語られることになるはずだった」

エジプトの言語を解く鍵を手にした今、全ての目はロゼッタ・ストーンの解読に向けられていた。1802年にロンドンに到着すると、ロゼッタ・ストーンのコピーはヨーロッパ中の大学に広がり始めた。
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解読競争が始まり、世界最大の“探偵の謎detective mystery”になった。その答えは宗教や科学や歴史に関する我々の見方を大きく変えるはずだった。聖書における我々の信仰はどのような影響を受けるのだろう?どんな不思議な薬や技術が見つかるのだろう?どうして、こんなにも進歩していた文明が滅びたのだろう?
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言語専門家たちは最初、3種類の記述の間にある関係を調べ始めたが、明確なパターンは現れなかった。壊れた石は、言葉や文章が一致する、どんな可能性をも排除しているかのようだった。ヒエログリフのどんな言葉も句も、正しく特定されることはなかった。この、全く不可能に思われる解読作業はどんな手法なら完結できるのだろう?そのための第一歩は何なのだろう?

どんな手掛かりにも裏切られた学者たちは、過去の中に助けを見出そうとした。エジプトの言語に関する最も初期の資料はホラ・ポウラ(?)が書いたギリシャ語の本だった。
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エジプト人祈祷師で、ヒエログリフの使い方と意味について幅広く記述していた。紀元前5世紀の彼の本“ハイログリフィカ”は将来の信仰に対する基礎になった。
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189の異なるヒエログリフの一つ一つについて、詳細な説明と神話上の意味を記していた。彼は、記号の一つ一つを特定して述べてはいたが、その記号を組み合わせて文章や文節を作ることについては触れていなかった。彼の発見の多くは正しいものだったが、いくつかの間違いも含んでいた。
エジプト学教授ジョン「例えば、母という言葉は禿鷹(はげたか)の絵で表されている。これは正しいに違いない」
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「しかし、彼は雄(おす)の禿鷹はいないから母を意味していると主張している。自然界には雌雄の禿鷹がいるのだから、彼の考えは間違っている。従って、ホラ・ポウラの説明は信用できない。つまり、彼が我々に語っているのは、謎に満ちた回りくどい説明でしかないのだ」

学者たちはロゼッタ・ストーンを解読しようと試みながら、中世から歴史家たちが発見したことも参考にしていた。
ヨーロッパがルネッサンス期に入ると、宗教的な影響力は、ヒエログリフが聖書の中の謎に対する答えを持っているという考えを支持していた。
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エジプト学教授ジョン「聖書を通じて古代エジプトを翻訳しようという動きの始まりと言えるだろう。例えばピラミッドを見て、それらが普通の王のための普通の墓ではなく、聖書にも示されている穀物倉庫で、7年の豊作の間に7年続く飢饉に備えて穀物を集めておくために造られたと考えた」
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「このような考えだと、謎はそのまま残り、その上、聖書の中の物語を反映した考えを通して検討しなければならなくなる」

学者たちはドイツ人数学者アタナシウス・カーチャーの仕事を調べ直した。
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彼は1600年代の中頃、ヒエログリフの権威として認められるようになった人物だ。先人のホラ・ポウラと同じように、カーチャーは各々のヒエログリフがある考え、ある概念を表わしていると考えた。
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が、ホラ・ポウラと異なり、記号を組み合わせて言葉や節を作った。更には、カーチャーは単なる想像に基づいて翻訳した。彼の空想的な解読は時の教皇ですら、“この人物はエジプトの言葉を読むことが出来る”と信じさせたほどだった。1世紀以上の間、ナポレオンの遠征の時期においてすら、カーチャーの研究は広く真実だと考えられていた。

ロゼッタ・ストーンを解読しようと最初に試みていた学者たちは過去の研究や作り話から、ヒエログリフは東洋の記述と同じように絵文字pictorialで、各々のヒエログリフは言葉や考えを表していると考えていた。
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しかし、過去に基づいたこれらの理論が放棄され始めるようになると、ロゼッタ・ストーンはついにその謎を現した。
1802年、フランス人のシルベスタ・デサシとスエーデンのヨハン・アカルバンは過去の考えをやめ、新たな試みを始めた。
エジプト学教授ジョン「彼らはヒエログリフを見て言った“ほかの文明は完全に普通の方法で記述している。エジプトが違う方法を使っていたとは思えない”」
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「そして彼らはいろいろなエジプトの記録を見てみた。寺院やオベリスクのヒエログリフばかりではなく、パピルスに書かれたものも調べてみた。そして言った“見てみろ。エジプト人は日常生活についても完璧に記述している。彼らの記述手段は恐らく合理的なものだったはずだ”」
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デサシとアカルバンは、デモティック言語(大衆文字)が西洋の記述方式を使っているという前提に従うことにした。“彼”とか“彼の”という題名詞や“ギリシャ”という言葉を含む、何度か現れてくるギリシャの言葉に着目し、これらの言葉が現れている位置は、ギリシャ記述とデモティック記述で同じだろうと考えて、デモティック記述の中からギリシャ語に相当する言葉を探し始めた。
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そして、これらの言葉がギリシャ記述に現れる時は、デモティック記述でも同じパターンで現れることを確認した。
ハリー・ジェイムス「これらの先駆者の成果は、記述が象徴表記(symbolic writing)ではないという証明に着手したことだ」
デモティック表記の翻訳に関するデサシとアカルバンの第一歩は期待が持てる着想だったが、彼らはヒエログリフの解読に失敗し、断念してしまう。
ロゼッタ・ストーンの発見から3年後、エジプトの秘密の窓を開くことは、誰もが考えていた以上に複雑だと判ってきた。ヨーロッパの偉大な頭脳はエジプトの謎は永遠に隠されたままだろうと考え始めていた。デサシとアカルバンの試みから10年以上の間、熱意のある努力は行われないまま時は過ぎていった。大古代エジプトに対する人々の憧(あこが)れは大きくなり続けていたが、ロゼッタ・ストーンは忘れ去られていた。ヒエログリフを解読しようと考える人々にとって、デサシとアカルバンの失敗は英気を削(そ)ぐものだった。
エジプト学教授ジョン「解読の動きに対しては、大きな報奨が期待できるがリスクも大きい、という雰囲気があった。栄光を得られるかもしれないが、完全に打ちのめされて終わるかもしれない。学者たちは心情的にかなり慎重になっていた。馬鹿にされても気にしないと考える人物が現れるのを待っていた」

次の話(第三話)では、英国の著名な科学者と、若く精力的なフランス人の学者との間で解読の鍵を見つけ出す競争が再燃する。英国の天才科学者はロゼッタ・ストーンの解読に夏休みを費やすことに決めた。彼はどのようにしてヒエログリフを最初に読むことになったのか?
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さらには、フランスの小さな町に住む少年が過去に光を当てる一人になるという魔術師の予言を巡る伝説を発見してほしい。
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<第三話:わかったぞ!>

ヒエログリフで溢れた多くの墓や寺院は発見され続けていたが、誰も古代エジプトの秘密を読み明かすことは出来ないように思われていた。この不思議な言葉は、永遠に埋められたままでいるよう運命づけられているかのようだった。
ロゼッタ・ストーンの発見から15年目の記念日が訪れ、過ぎていったが、解読についてのいかなる進展もなされないままだった。謎を解こうと試みた過去の失敗は、更なる真剣な取り組みを妨げているかのようだったが、2人の男が立ち上がった。それぞれが“自分こそ最初に鍵を開いた”と主張している。

1814年の夏、ロンドン出身の41歳の物理学者で言語学者はロゼッタ・ストーンのコピーを採って故郷に持ち帰った。彼はパズルを考えながら夏休みを過ごすことに決めていた。今回、ロゼッタ・ストーンは語り始めることになるのだろうか?
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エジプト学教授ジョン「トーマス・ヤングはイギリスが産み出した最も有名な人物の一人だ。彼の成果の一覧表を作ってみれば彼の素晴らしさは直ぐ判るだろう。彼は光の問題を取り上げ、それがどのように作用するかを調べ、光の理論を組立てた。それは多くの近代物理学の基礎になっている。人間の眼にも関心を示していた。色や感覚にも関心を持っていた。彼の眼に関する研究は近代の多くの光学の基礎にもなっている。彼は恐らく、イギリスが産んだ最も明晰な問題解決者の一人だ」

ヤングは古代エジプトを取り巻いている神秘主義はナンセンスだと強く感じていた。彼は他の人たちが発見しようとしていた宇宙の秘密を信じていなかった。彼をロゼッタ・ストーンに惹きつけたものは、問題であり、解かれていない謎だった。そして彼はそれを解読する機会を欲していた。
ヤングは言葉に図的に集中することから始めた。ギリシャ記述の中で2回以上現れる言葉に下線を引いた。次に、デモニック記述の中で、同じ回数だけ出現している文字のグループに下線を引いた。
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このような整合手法を使って、ヤングは86ものデモニック記述の翻訳を特定したのだ。その中には、“王”、“プトロメイ”、“エジプト”も含まれている。デサシとアカルバンは途中で止めてしまったが、ヤングはこの成功をきっかけに、解読作業を続けることになった。

エジプト学者たちは長年、いくつかの記号が楕円で囲まれた“カトゥシュ”に魅惑されていた。カトゥシュは特に寺院や墓で、多く使われていた。
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二三人のエジプト学者たちは、カトゥシュがファラオまたは王室の一員の名前を含んでいると考え始めていた。ヤングはこの考えを彼の理論に使い、カトゥシュがプトロメイの名を含んでいると考えた。
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この石碑は彼の名誉を讃えるものなのだから、彼の名前がハイログリフ記述のカトゥシュの中になければならない。更に、プトロメイはギリシャの名前だから、エジプト人は彼の名を表音文字で書かざるを得なかったと考えた。ヒエログリフが表意文字だったら、外国の名前や言葉が表意文字を含むことはないはずだ。

検討を始めて4年目、ヤングはプトロメイという名前の中のギリシャ文字をカトゥシュの中のヒエログリフの文字と一致させた。
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1818年、彼は石に話をさせる最初の男になった。ヒエログリフ記述は“プトロメイ”という最初の言葉を語ったのだ。
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彼の成功は英国海峡を越えたフランスでも人々の注意を獲得し始めていたが、もう一人の男が既にロゼッタ・ストーンの解読に取りつかれていた。
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ヤングが最初に勇気づけたかもしれないが、後に手助けしたことを後悔させることになる男だ。
エジプト学教授ジョン「トーマス・ヤングの仕事はイギリスだけではなく、他の国々においても良く知られていた。さらには、彼は自分の研究に関するコピーをヨーロッパ、特にパリの学者たちに送っていた。この一つをシルベスタ・デサシが見ることになった。ある日、デサシはそれを若いフランス人の男に見せた。男の名はジャン・フランソワー・シャンポリオンだ。
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ジャン・フランソワー・シャンポリオンの運命は生まれた時からロゼッタ・ストーンに結び付けられていたように思われる。フランスの伝説によればジャンが生まれる数か月前、彼の母を魔術師が訪れた。病気がちの夫人の眼を見つめながら、魔術師は過去が未来と繋がっているのを見たと言う。魔術師は、まだ生まれていないこの夫人の息子は何世紀も前の過去に光を与えるだろうと予言した。

1790年、シャンポリオンはフィジーアックという小さな町の本屋の息子として生まれた。
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彼が11歳でグレノーブルの学校で生活していた時、ナポレオンのエジプト遠征のニュースはフランス人の想像を捉えていた。シャンポリオンの兄ジャック・ジョセフはエジプトの栄光と謎に関するニュースを弟に読んで聞かせた。若いシャンポリオンがロゼッタ・ストーンのコピーをエジプト遠征に参加したことがある従弟(いとこ:注)から受け取った時、彼は魅せられてしまった。
(注:従弟かどうか不明ですが、コピーを見せたのはジョゼフ・フーリエのようですね、Wikiによると。フーリエと言えばフーリエ変換とかフーリエ級数で有名な、あの数学者です!ナポレオンと同行してエジプトに行き、カイロのエジプト学(士)院の書記として働いたようです)

この時、若いシャンポリオンはヒエログリフを読むことを人生の目標にしたのだ。それはロゼッタ・ストーンの秘密を解くことを意味する。若い時、それを念頭に彼は勉強を積み重ねた。やがて、他のことへの関心を失くしてしまう。言語学こそが彼を集中させる全てだった。彼の学習は東洋や中東の言語、特にコプト語、に注力された。
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コプト語はエジプトのキリスト教徒が話す言語で、ギリシャ文字で記述される。

エジプト学教授ジョン「14歳頃の時、彼が集中していたのは学校の勉強ではなく、エジプトのヒエログリフだった。彼は現代でいうマイナーな男で、神経質で、人付き合いも悪かった。彼はそれを治療する目的で学校から別の施設に送られた。その時、兄に宛てた、こんな手紙を書いている“ここはとても退屈です。中国語の文法本を送って下さい”。この話はシャンポリオンが偏執的な人間だったことを示している」
シャンポリオンの初期の研究はデモティック言語の解読とコプト語との関係に焦点を当てたものだった。彼は最初、ヒエログリフは象徴文字(表意文字)で、不思議な文字であって、普通の手段では解読できないと考えていた。
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しかし、ヤングとほぼ同じ時期に、シャンポリオンはギリシャの名前とカトゥシャとの関係を感じ始めていた。トーマス・ヤングの報告書が彼に届いた時、シャンポリオンは即座に、自分の考えが正しいことを悟った。シャンポリオンはヤングの研究を引き継ぎ、それを更に推し進めた。クレオパトラのカトゥシュとして知られていた資料をフィレイ寺院から手に入れた。プトロメイとクレオパトラは共通する文字を持っているのだから彼らのヒエログリフも似た傾向を持っているはずだ。シャンポリオンがヒエログリフの名前を比較してみると、P、L、O、の字が並んでいる!
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シャンポリオンは、外国の名前はヒエログリフの文字で表音的に綴(つづ)られているというヤングの理論が正しい事を証明した。扉は今や開かれた。シャンポリオンはそこを通り抜けて中に進もうとしていた。
エジプト学教授ジョン「シャンポリオンはヤングの考えが正しいことを確信した。ヒエログリフはギリシャ人の統治者の名前を記している。しかし、それはそれだけのことだ。後の時代に外国の名前を書くために使われたに過ぎないかも知れない。問題は、ヒエログリフが、さらに過去に戻った時点でも、同じような使われ方をしているかどうかだった」
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シャンポリオンは偉大なカルナック神殿に残されている記述のコピーを取り寄せた。その中には、王の名前が何度も現れていた。王の名は3つの印で書かれていた。一番上は太陽の丸Sun Discだ。シャンポリオンはコプト語を知っていた。古代エジプトにおける太陽の名は“ラーRA”と発音される。
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一番下の文字はトーマス・ヤングが特定している文字“S”だ。2つ並べて書かれている。

この時点で、彼は王の名前を手に入れた。始まりはRAで終わりはSだ。間の文字はなかなか不可解だ。ヤングも他の誰も解読してはいない。シャンポリオンはその文字をロゼッタ・ストーンの中から探し出した。何度か現れている!それが現れる時、対応するギリシャ語は、いつも“誕生する”という概念を示す言葉が使われている。シャンポリオンは“誕生する”に当たるコプト語を知っていた。“ミセME SE”だ。
これで彼は王の名前を手にしたことになる。RAで始まり、中間はME SE、終わりはSSだ!
エジプト学教授ジョン「シャンポリオンは古代のエジプトの王の名前を知っていた。有名な王ラムセスだ!」
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「彼は、この瞬間、全ての謎を解く鍵を見つけ出したのだ。コプト語の知識、トーマス・ヤングが解読したアルファベット、それに彼の古代エジプトに対する深い知識が加わり、ある日、解読が実現することになった。この日、彼はきっと言っただろう“分かったぞI got it!”と(注)」
(注:アルキメデスは何て言ったか覚えていますか?“Eurekaヘウレーカ!”です。ブログ“アルキメデスの失われた本”でご紹介しました)

シャンポリオンの努力に対するトーマス・ヤングの反応は複雑だった。彼は、誰かほかの人が彼の仕事に沿って動いてくれるのを見て幸せだった。しかしシャンポリオンが彼にもその報酬を分け与えるのを拒絶したことに憤慨した。シャンポリオンもヤングと同じ考えを持っていたのかも知れないが、彼の仕事は公表されなかった。ヤングは公表していたのに。

シャンポリオンがついに彼の研究成果を公表すると、パリ中の話題になった。
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フランス全体が、フランス人がヒエログリフを最初に解読したという事実を祝った。シャンポリオンは、どちらが早く解読したのかなどという論争には悩まされていなかった。研究に対する彼の熱意は、驚くべき強靭性と速度を持って継続されていた。彼は全てのファラオと、彼らが権力を持っていた年代に関する完璧なリストを編集しようと決心した。

1824年にはシャンポリオンは21の文字に対応するヒエログリフのアルファベット表を完成させていた。
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彼の仕事の全ては他の人たちが準備したエジプトの記述のコピーを使い、デスクワークで行われていた。もし彼がエジプトに旅をして、ヒエログリフを直接見たらどうなるのだろう?彼は本当にヒエログリフに語らせることが出来るだろうか?とすれば何を語るのだろうか?
<第四話:石が語る>

エジプトの過去への扉は開き始めていた。ロゼッタ・ストーンはついにヒエログリフを解読する鍵であることが明らかになりつつあった。しかし、それらは何を語るのだろう?どんな秘密や謎が明らかになるのだろう?
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ジャン・シャンポリオンが発見を公表すると、フランスで多くの賞賛を受けた。フランスの学会は、当初、“自分の部屋の中だけで暮らし、どこへも出かけて行かない気がおかしい憑りつかれた男”と考えていたが、今や、彼は突然、国家的な英雄になった。フランス政府はシャンポリオンにイギリス人のエジプト学者ヘンリー・ソウルの高価なコレクションの購入をアレンジするよう依頼した。1827年のベルン(?)博物館との共同研究の後、シャンポリオンは博物館のエジプト骨董品学芸員に指名された。
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しかし、シャンポリオンは博物館の収集品を増やすため、さらなることを考えていた。彼はエジプトを訪れたいと望んだ。1828年、イタリア・トリノ博物館の支援を受け、シャンポリオンはナイルに沿って遡る旅を企画した。この旅はナポレオン以来最大の科学的試みだった。
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ハリー「それはエジプトの記念碑と彼との初めての出会いだった。間違いなく、素晴らしい出会いだ。彼は精力的に歩き回ってカトゥシュを特定していった。記念碑が建てられた時代と、王たちの序列を特定することに努めた。何故なら人々は、当時、エジプトの歴史の全体枠を理解していなかったからだ」

シャンポリオンの旅は彼の解読手法が正しかったことを証明してくれた。寺院の壁に描かれたエジプトの言語を次々に読み解くことが出来た。ヒエログリフを翻訳しようと言う彼の努力は、それだけでエジプト学の一部門を創造することになった。エジプトはもはや沈黙の土地ではなく、過去から我々に語り始めていた。ラムセス、トトメスなどのファラオの名は伝説だったが、今やその原点は特定されることになったのだ。彼らがいつ統治していたのか、彼らがどの寺院で祈りを捧げていたのかは、今の我々は知っている。
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パリに戻ると、シャンポリオンは彼の仕事を続けた。今や彼はエジプトの決定的な歴史を書くのに十分な資料を手にしていた。しかし不幸にも、彼はそのチャンスを得ることはなかった。1832年3月4日、ジャン・フランソワー・シャンポリオンは死んだ。
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(パリPère Lachaise Cemeteryのシャンポリオンの墓)
エジプト学教授ジョン「シャンポリオンは彼の能力と仕事の進め方に疑いを持っていなかった。42歳で亡くなったが、死期が近い頃、彼が成し遂げたことの価値は理解されていて、フランスは彼のために、世界で初めてのエジプト学の教授を設定した。つまり、彼が死ぬ時には自分の仕事が認められたことを知っていたのだ。死後、シャンポリオンの仕事の多くは残されていたが、兄がそれを取りまとめ、家族の中の天才に対する記憶のため、レポートとして公表した」
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シャンポリオンはエジプトのファラオの歴史に注目していたが、他の人々は彼の資料をデモティックやヒエログリフを研究するために使った。寺院の壁に描かれている記述やパピルスの巻物の量は膨大だった。時が過ぎ、これらの解読が進むにつれて、古代エジプト人の社会的、政治的、経済的な歴史は理解され始めるようになった。しかし、多くの人々を驚かせたものは私的な記録だった。我々は古代エジプト人たちを見ることで自分たち自身を見るような思いにさせられた。
エジプト学教授ジョン「エジプト人は我々と同じだということが段々と明らかになって来た。彼らは銀行の管理者に手紙を書いていた。地方の税務署員に手紙を書いていた。日常の些細な事をお互いに手紙で知らせ合っていた。彼らは文学も持っていた。それは我々の物と大差はなかった」
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ロゼッタ・ストーンは古代エジプトや人々の歴史に命を吹き込んだ。ロゼッタ・ストーンが解読されてから既に170年以上たつが、埋められている謎の表面を撫(な)ぜた程度のことしか理解できていないと言えるだろう。1922年のツタンカーメン王の墓から見つかった見事な宝物から、1995年のラムセス大王の子供たちの墓の発掘まで、古代エジプトは、今でもまだ新しい、驚くべき発見を準備している。
(mhフィルム作成は1996年です)
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ナポレオン・ボナパルト、トーマス・ヤング、ジャン・フランソワー・シャンポリオンたちの甚大な努力を通じて、ロゼッタ・ストーンの謎は解けた。古代エジプト人の言語や謎は今や理解できるようになった。エジプトの過去への窓は今や完全に開かれたのだ!
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ANCIENT MYSTERIES "THE ROSETTA STONE"
https://www.youtube.com/watch?v=a40nkKmxAxc
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古代文明の文字解読については「マヤ暗号を打ち破れ」「ヒッタイトの不思議Part-2」でもご紹介しました。mhの拙い記憶によれば今回が3回目のはずで、それがヒエログリフだったわけです。

マヤ文字にしてもヒッタイト文字にしても神聖文字(ヒエログリフ)にしても、解読が必要になった共通原因があるのですね、お釈迦様が仰ったように!

で~その共通原因とは何か?

英語や日本語、日本語の源かもしれない中国語とかアルタイ語などは解読作業など不必要です。それを話し、記述する人が現存しているからですね。当たり前のことですが・・・

解読が必要な言語とは、完全に失われた文明で使われていた言語で、それを知る人が現存していないのです。しかし、
その言語を解読する“ロゼッタ・ストーン”と天才さえいれば、言語の解読は可能だということが証明されたのです。
(完)

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