Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ソロモンの黄金の謎


ソロモン王・・・ディビッド(ダビデ)の息子
最初の偉大なイスラエル王国の統治者・・・
エルサレムで最初に寺院を造った男・・・
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聖書によれば、ソロモンは最も賢かっただけではなく、全ての王たちの中で最も金持ちだった。しかし、その富はどこからきていたのだろう?神話は金や銅の素晴らしい採掘坑について語っている。とすれば、それらは何処にあったのだろう?
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考古学者たちはソロモンの証拠を求めて調査してきたが、何も見つけていない。
「これまでの所、聖書を除けばソロモンに関する証拠は何もない」

最近、ヨルダンの砂漠で、岩盤に掘られた深さ30mの竪穴や、坑夫や古代の精錬の跡が見つかっている。
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「ここには工業的なレベルで行われていた金属製造の跡が重なるようにして残っている」
これがソロモン王の採掘坑なのだろうか?そこで見つかった骨はソロモン王のために働いていた坑夫なのだろうか?
ソロモンの時代からの新たな発見物が、古代都市や初期のヘブライ語の記述の最初の証拠が、ついに、偉大な聖書の中の王の真実の世界に手掛かりを与えてくれようとしている。
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NOVA・ナショナルジオグラフィック特別番組“ソロモン王の採掘坑を探して”がこれからで始まる。
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・・・・・
以上が予告編trailerで、これからご紹介するのが本編ですが・・・
内容の割りには長いフィルムだと思います。同じ説明が念を押して繰り替えされ、少々興ざめするかも知れません。
ということで、時間とご関心が少ない方は、巻末のmhコメントに移動して頂いても、mhとしては不平を言える立場にはありません。

それでは・・・時間とご関心のある方。以下にお進みください。
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Quest for Solomon’s Mines“ソロモン王の採掘坑を探して”
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ソロモン・・・聖書の中では、華麗なイスラエル王国の、賢い統治者だ。古代の近東Near Eastの星だ。
聖書“ソロモンに敬意を表すべく、世界中から彼に会いに来た人々は、神が彼の心に仕込んだ知恵に聞き入った”
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闘士で父親のディビッド王が創った王国は、ソロモンの下で新たな勢力と、新たな繁栄の高みに到達した。
聖書『ソロモン王は、知恵と富に関して、地上の全ての王たちを凌(しの)いでいた。彼らはソロモンに金銀製品や、服や、武器や、調味料などの貢物(みつぎもの)を持って来た』
巨大な富に加え、ソロモンは偉大な建築者だったと聖書は伝えている。エルサレムでは、有名なソロモン寺院を建造した。
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新たに統一されたイスラエル王国の精神的な中心とも言える契約の箱Ark of the Covenantを保管する建物だった。
3千年後の今も、彼は聖地エルサレムの偉大な3つの信仰の中で言い伝えられている。
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ユダヤ人はソロモンを愛している。彼が最初の寺院を造ったからだ。キリスト教徒にとっては、彼は旧約聖書の中で最も賢い王だ。イスラム教徒もまた、彼が自分たちの宗教で偉大な預言者スレイマン(アラビア語でソロモン)だと主張している。しかし、ソロモンや彼の偉大な王国についての決定的、考古学的証拠は何も見つかっていない。彼の王宮や寺院の痕跡も、彼の膨大な富の源も。彼が生きていた紀元前10世紀は謎のままだ。
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テルアビブ大学フィンケイ・ステイン「我々が知っていることはある。しかし、それはパズルのようなもので、その多くは暗闇の中にある。勿論、手掛かりを与えてくれるものもある」
多くの学者たちは、ソロモンが本当に偉大な王だったのか疑っている。
カリフォルニア大学トマス・レヴィー「考古学者や聖書学者たちはディビッドとソロモンが華麗な王だったのか、それとも単なる部族長だったのか、今も論争を続けている」
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もし、彼らが偉大な王だったとするなら、彼らはどこで富を手に入れていたのだろう?
今、これまでで初めての挑発的なprovocative発見が、この質問に答える手助けをしてくれるかも知れない。古代の採掘坑が見つかったのだ。そこに掘られている竪穴はヨルダンの砂の下深く続いていた。更には遺体も見つかった。坑夫たちなのだろうか?彼らの主人は誰だったのだろうか?

ソロモン王の採掘坑については聖書では触れられていない。
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しかし、何世紀もの間、伝説の材料になり、19世紀の冒険物語で人々に持て囃(はや)され、3つよりも少なくない(h;4本以上の!)ハリウッド映画になった。
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これらがソロモン王の本当の採掘坑なのだろうか?聖書に記されていた富の源なのだろうか?
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新しい発見は、聖書の中の歴史的説明のいくつかに対する信憑性を提供し、古代世界に関する我々のイメージを書き変え、ソロモンの時代に全く新しい光を投げかけている。

ソロモンの世界に関する我々の探索は、イスラエルではなく、ずっと東に離れた所から始まる。
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ペトラ・・・今から2千年以上も前、ヨルダンの高地に造られた古代の交易中心だった。ペトラ周辺の山地には、エドムEdomと呼ばれる古代王国の遺跡が残っている。10年以上に渡り、考古学者トム(トマス)レヴィーはエドム王国の発展過程を調べ続けている。
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旧約聖書の創世記Genesisによれば、エドム人で、ジャコブJacobの弟のエサウEsauが古代イスラエルに先立って、ある王国を創造した。エドム人たちの痕跡はペトラの上の、山の頂きや丘陵に張り付くようにして残っている。
レヴィーはエドム王国に隠れている富の源を知りたいと望んでいる。彼の調査は、丘陵から、死海の谷間の焼け付くような砂漠盆地に彼を導いてきた。彼が捜していた手掛かりを見つけたのは、古代イスラエルとエドムの間の、人が住んでいない土地だった。ワディ・フェイナンと呼ばれる一帯に、
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謎を秘めた様子の、黒い岩で覆われた谷間があった。黒い岩は固形化したスラグslag、つまり金属精錬で産まれる廃棄物だ。
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その小山が沢山残っている!近くには、岩を掘りぬいた多くの竪穴が、丘の地下深くを走るトンネルに続いていた。そして、そこかしこで印象的な青緑色の岩が見つかった。
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天然銅の見間違うことがない証拠だ。スラグ、採掘坑、銅。これらから判ることは、この場所が古代の銅鉱山で精錬場だったということだ。恐らく、エドム王国に隠れていた富の源だろう。

レヴィー「多くの学者たちはエドム王国を活性化していたのは、そこを通る交易路だろうと考えていた。しかし、私は金属生産や鉱石採取が鍵となる要素だったのではないかと考えている」
地元の人たちはそこをキルベット・エン・ナハスと呼んでいる。
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レヴィー「アラビア語で“銅の遺物”だ。周りを見れば、一帯が黒い、工業的なスラグの小山で覆われていることが判る」
トム・レヴィーは、このサイトで10年ほど発掘を続けている。彼は古代の精錬工たちがどのように銅鉱石から純銅を取り出し、その溶融過程で産まれたスラグを廃棄していたかを見せてくれた。スラグの層は古代の銅製造が数百年続いていたという驚くべき事実の記録でもある。
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レヴィー「本当に興奮している。見てくれ。私の目の前に、まるでこの地における金属生産の歴史が書かれた本のページのように、何層もの工業規模の金属生産の跡があるんだ」

トム・レヴィーは、金属生産がエドムだけではなく古代イスラエルの発展に重要な役割を演じたと考えている。儀式や装飾のため、武器や道具として使われた金属は、単純な農業社会を王国に変えた。
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古代の人々は青い石から不思議な新しい物質が造れることを発見した。加熱されると、その物質は柔らかくなり、展性も生まれる。錫(すず)を混ぜ、冷やしてから磨けば、不可思議な光沢を持つ(mh青銅です)。石器時代はこの瞬間に終わり、金属の時代が始まったのだ。
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トムの生徒エレズ・ベン・ヨセフは、どのようにして、これらの銅生産技術が初めて発達を遂げたのかを探し出そうとしてきた。今それを再現しようとしている。
ベン「見ればわかるように、まずは地中に穴を掘る。ここにあるのが銅鉱石だ。それを細かく砕いたら、銅が沢山ある欠片を選び出す。作業は見かけほどには簡単じゃあない」
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古代の精錬作業者たちは炭火の温度を1200℃以上に高める方法を必要としていた。銅が鉱石から分離する温度だ。それを得るのに、彼らは、火吹き筒を使っていた。
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ベン「3人で吹き続けるんだ」

ベンと彼の友人たちが2時間吹き続けると、溶融の兆しが表れた
ベン「青い炎がみえるだろ?溶融過程が始まったことを示す良い兆候だ」
火床から坩堝(るつぼ)を取り出すと、彼らはその底に銅の雫(しずく)が無いか探した。
ベン「あった!これだよ。こんなものができるんだ」
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友達「ここにもある。」
ベン「小さいけれど、金属だよ。銅の色をしている」
とても小さな塊(かたまり)を得るにしては作業が大変だ。しかし、何千年もの間、人々はこの方法で銅を精錬していたのだ。

製造が困難なのが、銅が儀式用品や装飾品に限定されて使われていた理由だろう。しかし、トム・レヴィーがキルベット・エン・ナハスで見つけたのは、このような小さな集団の少量生産ではなかった。
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何年もの発掘の結果、サンディエゴのカリフォルニア大学からやってきた彼の調査隊は、大量生産の痕跡を見つけ出した。銅製造工場とも言えるだろう。その場所はとても広いので、理解し易い風景を入手しようと考えた彼らは、ヘリウム風船にカメラを付けて空に上げた。
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空中から撮影した写真は、古代工場の様子を明確に見せてくれた。城壁や門のような砦もある。それに、管理棟のような建物、塔、そして寺院も。この場所は広大だった。
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巨大な壁や建物、スラグの小山は10ha(ヘクタール=100㎡)に及んでいた。
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1千人もの作業者が、昼夜を問わず働き、銅の溶融炉の稼働を維持し続けていた。
エレズ・ベン・ヨセフはこれらの精錬所の一つを発掘している。
ベン「銅の精錬技術の様子を一歩ずつ明確にしていくことが、私たちの宝物のようなものだ」
今、ベンが掘り出そうとしているのは精錬者の仕事の最終部で、羽口(はぐち)と呼ばれる火吹き筒の“吹き出し部”だ。
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そこから製錬炉の中に向け“ふいご;ベロー”から空気が送り込まれる。
ベン「ふいごの筒に付けられたノズルだ。この一帯で綺麗な形で残っている羽口の一つだ」
ふいごの火吹き筒が偉大な発見とは思えないだろう。しかし、ベンにとっては、大規模な精錬を可能にした技術革新の決定的な証拠だ。
ベン「この羽口は掘り出すつもりだ。こちらから掘った方がいいかも。壊さないよう気を付けてやってくれよ」
「やったな。とてもいい羽口だよ。ここにノズルの跡が見える」
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「でも全体はスラグで覆われているんだ。これが取り付けられているのは炉でも最も温度が高い場所なんだ。よく見ればスラグの中に小さな結晶が出来ている。本物の銅だ」

スラグの下面には、焼き粘土の層で慎重に作られたノズルが残っている。
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この工程はノズルが炉の1200℃に耐えるために必要だった。新型の軸状の精錬炉は、炉内に安定的に空気を送り込む足踏みふいごで加熱されていた。
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ベン「紀元前第二千年紀の間、このような見事な軸状の炉が導入され、ここでの銅生産工程は想像以上に効率的だったんだ」
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昼夜を問わず働き続ける人がいれば、銅は工業的規模で生産が可能で、事実、生産されていたのだ。

環境学者のジョン・グラッタンは古代の汚染を探している。汚染の程度で、この地における銅生産の規模が判るのだ。
グラッタン「私は、この測定器で、環境の中における金属量を測定し、どの場所が汚染されているかを地図化している」
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「ここで見つけた小さなサンプルでは、1百万中(parts per million;ppm)7千個くらいの銅が検出されている。安全な場所での土に含まれている銅の7千倍ほどだ。銅の質が悪くなかったなら、下の方のデータを見ると・・・極端に高い、危険な位のレベルの鉛lead、亜鉛zinc、砒素arsenicが検出されているんだ。この狭い場所限定のデータとしてね」
最先端state-of-the-artのX線蛍光装置を使って、ジョン・グラッタンは、キルベット・エン・ナハスにおける古代の銅精錬の規模を強く裏付ける証拠を見つけた。工業レベルで生産されるようになると、銅は、もはや装飾品ではなかった。道具、武器、そして建物などで決定的に重要な普及品になっていたのだ。
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貴重な金属に対する需要は爆発的に増え、死海の谷間を力強い工業拠点に変えていった。
ジョン「我々は最も初期の産業革命をここで見つけたんだ。我々が見つけたのは近代世界の誕生だ」

しかし、この産業革命を推し進めるために、人々は、必要とする何トンもの銅のための鉱石をどのようにして獲得していたのだろうか?
キルベット・エン・ナハスを囲む、銅が多く含まれた丘では、15以上の採掘坑が見つかっている。
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発掘隊の副隊長でヨルダン人考古学者のムハンマド・ナジャールは、その一つを調査している。
ナジャール「竪穴は今から3千年前のものであることが判っている」
多くの竪穴は地下深くの銅鉱石層に到達するため、30m以上の深さがある。近代の登山道具を使っても、下りるのには危険が伴う。
ナジャール「穴の上り下りは楽じゃあない。恐らく、古代の坑夫たちは、竪穴の底の広場で何カ月も暮らし続けていただろう」
ナジャールもレヴィーも、坑夫たちは奴隷だっただろうと考えている。
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レヴィー「賃金を貰ったとしても、誰もがしたがる仕事ではない。工業生産レベルで採掘するには、何らかの強制労働制度が存在していたはずだ」
地下深くの閉所恐怖症を引き起こしそうなトンネルの中に閉じ込められ、坑夫たちはキルベット・エン・ナハスの製錬炉で使うための、銅を含んだ岩を叩き割っていた。

地上では、数珠繋ぎされた駱駝が銅鉱石を精錬場に運ぼうと待ち構えていた。
レヴィー「OK!じゃあ、みんなで鉱石を受け取りにいこう」
銅鉱石供給体制を理解しようと考えたトム・レヴィーは駱駝隊を編成した。
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レヴィー「私の後ろにある採掘場で採った鉱石を、友人の遊牧民たちの駱駝を使って実際に運んで、それがどういうことなのか、これから実験しようとしているんだ」
一匹の駱駝なら凡そ150Kgの鉱石を運べることは判った。しかし、ここで採れる鉱石は平均で10%の銅を含んでいただけで、残りの90%は役に立たない岩だ。ということは、純銅15Kgのためには、駱駝一匹に鉱石を目一杯、積まなければならない。
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このことは、今から3千年前、このような駱駝隊が水無川(ワジ)の砂漠の道を毎日通っていたことを意味する。全ての駱駝が、最も広大な銅精錬場所で、死海の谷間にあるキルベット・エン・ナハスを目指していた。

スラグの小山の面積規模は、ここが銅精錬で使われていた期間に5千トンの銅が生産されたことを示している。
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この地域の全てに供給しても余る量だ。古代イスラエル全域から得られた銅物質の放射能分析の結果は、銅がワディ・フェイナン地域で採れたものだということを示していた。

金属学者アミハイ・マザール「現在のイスラエルでは、紀元前12世紀末及び11世紀に見つかった銅物質の金属学的研究の結果、銅の出所はワディ・フェイナンだと証明されている」
恐らく、この銅はソロモンが彼の寺院を建てたエルサレムにも到達していた。
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レヴィー「聖書によれば、寺院は数トンの銅を含む貴金属を必要としていたようだ。そして、エルサレムにとって最も身近にある銅の出所場所は、ここから3日の駱駝の旅の距離にあるワディ・フェイナンだ」
聖書『そして神の声がソロモンに語り掛け“お前がこの家を建てるなら、そして、もしお前が私の全ての戒律を守るなら、私は私の子供イスラエル人と共に住み、私の民たちのことを見捨てないだろう”と言った。そこでソロモンは、その寺院を建てた』
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寺院の外室に、彼は念入りに彫刻された像と巨大な何本もの柱を配置した。そして聖書によれば、それらは輝く銅で覆(おお)われていた。
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聖書『聖域である内室に、彼は神との契約の箱を置いた。そして彼は、その箱を純金で覆った』

もしソロモンの寺院と彼が暮らしていた王宮が存在していたのなら、それらは多くの銅を必要としたはずだ。
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とするなら、死海の谷間にあった、急増する銅工業を管轄していたのは誰だろう?確かなことが一つある。それは進歩した社会だったはずだということだ。
マザール「銅生産には多くの異なった活動が含まれていた。鉱石を採掘し、それを溶融し、配送する。そのためには管理力も必要だ。これらを可能に出来たのは高度な社会だけだったはずだ」
レヴィー「精錬場は古代王国のような高度なものによって管理されていなければならなかった。とすれば、どんな王国だったのか?という疑問が生まれてくる」
キルベット・エン・ナハスは3つの王国の間の、人が住んでいない土地にあった。
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その3つのいずれも、銅生産を手掛けることは出来ただろう。西には古代イスラエルが、東にはエドムが、そして南東の遠くには、地域での偉大な権力だったエジプトがあった。

レヴィー「私が向うで座っていると、同僚のナジャール博士が手を激しく振って、何かを見つけた!って言ったんだ。それはエジプト製のスカラベ(カブト虫の飾り)だった!」
(mh掌(てのひら)に1cmほどのスカレベが載っています)
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スカレベは、一時、エジプトがこの地で何か重要なことをしていたと示している。更には、近くにエジプト寺院もんこっている。
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これらの証拠に基づけば、ソロモンに先立つ数世紀の間、エジプト人が死海の谷間における銅工業を管理していたのは明らかだろう。
ベン「ここにエジプト人たちがいたのは間違いない。紀元前13世紀には、彼らは既に採掘坑を稼働させ、管理していた」

そして紀元前12世紀になると、不可解な出来事が古代の近東Near Eastを動揺させた。そこにあった全ての偉大な文明が崩壊したのだ!
ナジャール「紀元前12世紀頃、銅器時代の全ての政治的な組織体が崩壊した。最初に北でヒッタイトが、西ではマイセニアンが、そしてついにはエジプト帝国が崩壊し、大きな空白の時期が生まれた」
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(mhブログ「エーゲ海の黙示録の不思議」でご紹介しました。海の民Sea Peopleです!)

この政治的な空白の時期に、新しい勢力が現れた。
フィンケルステイン「基本的に“真空”と言える時期だった。この崩壊が大きな帝国を壊滅させ、何か新しいものに道を譲ったのだ」
キルベット・エン・ナハスの一帯では、その何か新しいものは、古代イスラエルでありエドム王国だった。
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トマス・レヴィーは、これら2つの王国だけが銅の採掘坑を管理することができた候補だと考えている。採掘坑に近いエドムの方が可能性は高いだろう。
精錬場の近くにおける新たな発見は、それを確かなものにしてくれるかも知れない。見つかったのは古代の埋葬地だ。
レヴィー「ここにあるのは円形の墓場で、真ん中にあるのは側面には石を貼り、上は蓋の石で蔽(おお)った水槽cist墓だ。日が暮れるまでに、蓋石を取り除(の)けたいと思っている」
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レヴィー「やっと真実が判明する瞬間がやってきた。石を除けてみよう。中には風で運ばれた堆積物がある。この墓は堆積物で一杯のようだ」

彼らは失望しているようだ。この墓を明けたのは彼らが最初ではなかったのだ。
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レヴィー「どうも、昔、墓は荒らされたようだ。蓋石を持ち上げて、美しい原始的な墓を見たいと望んでいたけど、それは次の機会までお預けだ。考古学には忍耐が付き物だからね」

しかし、直ぐ、いいニュースが飛び込んだ。初めて、骨が見つかったのだ!
レヴィー「どうも頭蓋骨みたいだ。あちこちで無くなった骨があるようだ。多分、原始的な骸骨だろう。とても素晴らしい発見だ」

レヴィーの発掘チームは、3千年の間、蔽(おお)っていた砂を注意深く取り除き、骸骨を掘り出す作業を開始した。そして、とうとう、完全な形の骸骨が現れた。
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レヴィー「完璧な形で残っている骸骨だ。前かがみで、胎児のような姿勢をしている」
この人物は採掘坑と関係があるのだろうか?もしそうなら、歯と骨は銅精錬の兆候を暗示する銅や鉛を含んでいるだろう。骸骨から採取した試料を叩き潰して溶媒に溶かし、質量分析計で化学組成を分析した。その結果を、銅革命が起きる前の骸骨の結果と比較する。
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分析官「埋葬地で見つかった遺物は先史時代の骨に対して4倍の銅と鉛を含んでいる」
レヴィー「この結果は我々が見つけた人物が実際の精錬活動に関与していたことを意味しているだろう」
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仮にこの人物が銅関連の労働者の一人だったとしても、墓には、彼の民族性を示すものが見つからなかった。しかし、埋葬地から出土した手工芸品や、その近くで見つかった土器類は、その答えを準備していた。
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ここに埋葬されていたのは、この土地一帯の人々だった。
ナジャール「我々はここで見つかった陶器や、その他の発見物を分析している。ここに残っているのはエドム人(エドマイト)のものだ」
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キルベット・エン・ナハスの労働者たちが恐らくエドム人だろうという発見は、採掘坑複合体の年代確定に関する仮説を裏付けているように思える。

レヴィー「今の学者たちが賛同しているように、紀元前7世紀頃のものじゃあないかと思っている」
この紀元前7世紀という年代は、ここで何が行われていたかに関するレヴィーの最初の理解にとって決定的だった。
彼はエジプトが、この近辺の偉大な帝国と共に、紀元前12世紀に崩壊してしまっていたことを知っている。聖書の中で記述された内容に沿った王の時系列年代によれば、ソロモンのイスラエルは紀元前10世紀に繁栄した。エドム王国の勃興(ぼっこう)は伝統的な考えによれば紀元前7世紀だ。つまり、キルベット・エン・ナハスで見つかった証拠はエドムを指し示していて、精錬複合体が紀元前7世紀のものだというのは辻褄(つじつま)が合っている。
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その年代の確認を手助けしてもらおうと考えたトム・レヴィーは、オックスフォード大学から放射性炭素分析の専門家トム・ハイマンを連れて来た。彼らは見張り台とスラグの小山で年代分析に使える小枝、炭の欠片、坑夫が吐き出した棗椰子(なつめやし)の種など、有機物の資料を探し出した。

ハイマン「正確な年代を確実に調べるには、時代的に連続している資料を採取する必要がある」
レヴィー「つまり、ここに堆積している地層の全てから試料が必要だってことだね?」
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試料の連続性は年表chronologyの作成を可能にしてくれる。全ての年代は一貫している必要がある。そうでないと、その連続性が疑われることになる。

トム・ハイマンは見つけ出した試料をオックスフォード大学の研究室に持ち帰った。放射性炭素年代測定を近代の統計的分析と結びつけると、誤差30年の正確度で年代を割り出せる。結果は本当に驚くべきものだった!
ハイマン「先行試験結果がこれだ。この画面を見る限り、現時点で明らかことは、試料が全て紀元前10、11世紀に合致しているということだ」
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つまり、採掘坑は紀元前7世紀ではなく、それより3,4世紀も以前に運営されていたことになる!

ハイマン「この結果から、高い信頼性で、この場所が紀元前11、10世紀には稼働していたと言っていいだろう。それについては疑問の余地は全くない」
この年代測定結果は調査隊に変化球を投げて来た。広く受け入れられている考古学的年表に従えば、紀元前11,10世紀には、この採掘坑を統括出来ただろうエドム人の王国は存在していなかった。このことは、知っていたよりも古いエドム王国があったという証拠なのだろうか?もしそうだとすれば、ディビッド王のエドム征伐という聖書の記述に信憑性を与えてくれることになる。
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レヴィー「聖書はディビッドがエドムを征服し、この一帯で、例えばキルベット・エン・ナハスの砦のような、確固たる統治を確立したと記している」
聖書『彼はエドム全域に守備隊を駐在させた。そして全てのエドム人はディビッドの部下になった』

レヴィー「我々がキルベット・エン・ナハスで見つけた砦は古代イスラエルで見つかった他の砦と似ている」
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それは、ディビッドがエドムに侵入し、そこの銅を手中に収めたということなのだろうか?もしそうだとすれば、ソロモンは、これらの採掘坑を継承したはずだ。
しかし、ディビッドとソロモンの王国は死海の谷間の銅工業を統治できるほど十分に発達していたのだろうか?
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ソロモンの王国に関する聖書の記述は、王国がその当時、力を備えていたと言っている。死海の谷間を管理する上で問題はなかったのかも知れない。
聖書『そして、ソロモンはユーフラテスからフィリスタイン(Philistines注)の土地に到るまで、そしてエジプトとの国境に到るまでの全ての王国を統治した』
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(注:フィリスタインは上の地図でピンクの部分です。日本語Wikiによるとペリシテ人、あるいはフィリスティア人の国となります。ややこしいですねぇ)
しかし、この20年間に関していえば、考古学者たちは、その物語に疑いを投げかけている。考古学者たちは、数十年以上、紀元前10世紀のディビッドとソロモンの偉大な王国の証拠を捜し求めているが、ほとんど何も見つかっていなかったのだ!2,3の手掛かりはある。紀元前9世紀に刻まれた記述によれば、アラム人(古代オリエントの遊牧民)の王が“ディビッドの家”との戦いに勝利したとある。
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ディビッドがいたという証拠と見ることが出来るが、必ずしも偉大な王国があったことを示してはいない。

エルサレムに見つかる遺跡にディビッドの都市のものだと言われているものもあるが、今もって決定的な年代は確認されていない。何人かの考古学者たちは、もっと新しいものだと考えている。
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同じような不透明さは聖書に記されたソロモンの王国にも付きまとっている。

ディビッドとソロモンが存在していたことを疑う人はいない。彼らがキルベット・エン・ナハスのような銅工業を指導できる偉大な王だったという証拠がないだけだ。ある人たちは彼らは部族長に毛が生えた程度でしかなかったのではないかと考えている。
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もし、その考えが正しければ、聖書はなぜ、ソロモンを華麗な王国の統治者だと書くことになったのだろうか?それは恐らく、ソロモンの物語が世代を継いで口頭で伝えられたからだろう。その過程で物語が紡(つむ)ぎ上げられていったのだ。
『ソロモン王は大勢の外国の女たちと結婚した。その中にはファラオの娘もいた。彼は700人の王妃と300人の愛人を持っていた』
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ナジャール「ソロモンに関する聖書などの古書を読むと、王国の大きさや、その繁栄、エルサレムに保管された金銀財宝などについての記述が、極端に誇張されていることは間違いない。ソロモンが1千人の妻を持っていたという記述は、当時、およそ1千人の人々がエルサレムに住んでいたという意味ではないかと私は思っている。つまり1千人の妻を持つことは、とても難しいはずだからね」

結局、ディビッドとソロモンは偉大な王だったのだろうか?それとも部族長だったのだろうか?この議論は40年もの間、熱く続いている。しかし、驚くべき新たな発掘場所における発見が、その問題をついに解決する助けになるかも知れない。
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キルベット・キヤファKhirbet Qeiyafaと呼ばれる、古代イスラエルとフィリスタインの土地の境の、若いディビッド王がフィリスタインの巨人ゴリアテを打ち破ったと聖書が言う正にその場所で、考古学者ヨシ・ガルフィンケルは砦のように造られた古代の居住区の発掘を続けている。そこに残っている重厚な壁は建築作業が高度に組織化されていた証拠だ。
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ガルフィンケル「ここにあるのがキルベット・キヤファの町の城壁だ。試算によれば20万トンの石がこの町を城塞化するために必要だった」
これは決して部族の陣地ではない。この重厚な城塞化は高地の部族などよりずっと発達した政治的な組織の印に思われる。
他にも気になる証拠は、水差しのような土器の握り部に残されている親指の跡だ。
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しばしば、国家調達の紋章として使われる印だった可能性がある。
ガルフィンケル「ここに、とても見事な跡が見受けられる。陶器職人が陶器を焼き釜に入れる前に、親指の跡を付けたものだ。この印は、この容器が個人用のものではなく、王室調達品だと示すために付けられたんだ」

更なる証拠は、ここが初期のイスラエル人の都市だったことを示していた。居住区のゴミの山の中で見つかった動物の骨の中で、ガルフィンケルと彼の調査チームは興味深い欠落(けつらく)に気付いたのだ。
ガルフィンケル「動物の骨がある。これはその歯と下顎(したあご)の骨の一部だ。多分、羊か山羊だろう。この遺跡で見つかるのは、羊、山羊、それに牛の骨だけだ。で、豚の骨は見つかってはいない」
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フィリスタインの居住区では豚の骨が一杯見つかっている。とすれば、キヤファでは、既にイスラエル人の豚に対するタブー(taboo禁則)が広まっていたという印なのだろうか?ガルフィンケルと彼の発掘チームは、この場所で見つかった有機物の遺物を年代測定していて、興奮は高まっていた。
ガルフィンケル「炭素年代測定によれば、この場所は紀元前11世紀から紀元前10世紀の初期のものだ。つまり、まさにディビッド王の時代のものなんだ」
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もしキヤファがイスラエルの都市だったのなら、これまで発見された中で最も古い都市になる。他の発見は、そこがイスラエルの領土だということを、もっと劇的な方法で暗示している。その発見は、夏休みの間、ここで発掘の作業していた10代の男によってなされた。
オデド・ヤイル「それを見つけた時、また土器の一部が出て来た、と思っただけだった。私と、友達のサンヨは土器の欠片を山ほど掘り当てていたんだ。しかし、その中にこれがあったんだ。上に何かが書かれていた。オストラコンと呼ばれる土器の欠片だったんだ」
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オストラコンとは、塗料で表面に書き物がされている土器のだ。
ガルフィンケル「そのオストラコンは綺麗な幾何学的な形をしていた。とても奇妙だった。何故なら土器の破片は通常、もっと小さくて、そのうえ、幾何学的な形をしていない。その日の午後、土器の欠片を洗っていたら、表面に何かが書かれていることに気付いたんだ。で次に気になったのは、何語で書かれているかってことだった」
オストラコンの上の色彩は薄れていて、判読はほとんど不可能だった。

ガルフィンケルがそれを解読するには、書いてある文字が明確に読めなければならない。そこで、そのオストラコンをカリフォルニア州サンタ・バーバラのグレッグ・ベアマンに送った。彼は独特な映像技術を使うことができる。
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ベアマン「土器やパピルスといった物の上に描かれたものが良く見えないのは、何かが描かれている素地が何らかの変色を起こしているからだ。例えば色が暗くなっている。すると暗い文字を暗い素地の上で見ていることになり、人間の眼で判読するのは難しい。真夜中に黒猫を探しているようなものだ」

光波長分析システムは、何百もの異なる波長を使ってオストラコンの表面の映像を取り込み、描かれているものと素地の間のコントラスト(対照)が最大になる場所を見つける手法だ。
ベアマン「これは365ナノメートルの波長で撮った例だ。全く何も見てとれない。何も描かれていないかのように見える」
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「つまり、この波長では、土器とインクは基本的に同じ量の光を反射しているので、何かを見つけ出だすことはない。波長を長くしていき、青の領域の、例えば500ナノメートルにすると、描かれているものが見え始める」

多くの異なる波長で撮影された映像を組み合わせ、処理することで、ベアマンは記述の明確な映像を得ることが出来た。
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オストラコンのレプリカ(複製)はUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のビル・シュニードウィンドに送られた。
シュニードウィンド「これが、我々が入手した最も重要な初期のアルファベット記述のサンプルだ」
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「我々がこの時代の記述について語る時は、3文字、4文字、または5文字しかない場合が多い。しかし、この例では5行もあったんだ!」
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文字はカナン語Canaanite(注)だった。最初のアルファベット式記述法で、ヘブライ語や英語など他の多くのアルファベットを産み出す元になった文字だ。
(mh:英語Canaanはカナン、あるいはカナアンで、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えるとした“契約の土地”のこと)

しかし、記述が何を言っているのか解読するのは難解だった。エルサレムでヨシ・ガルフィンケルと一緒に仕事をしている古代記述の専門家たちには、文字がでたらめに描かれているように思えた。上下が逆のような文字もある。正しい向きで描かれているのも、横に寝ているのもある。
古代記述の専門家「Aは“アレフ”と読まれ、英語のAと同じだが、それが正常な姿勢と、上下が逆なもの、横になったもの、の3種類の姿勢で描かれているんだ」
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文字の一つ一つを言葉としてまとめる作業に四苦八苦しながら、専門家たちは興奮が収まる様子もなく、議論を続けている。
古代記述の専門家「これは間違いなくヘブライ語だ!“アリタシュ;それをするな!”」
彼らは別のヘブライ語も見つけ出した。“エヴェン;崇拝”だ。それに“ショファー;判定”、“ネカーマ;報復”、そして“メレク;王”
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記述はカナン文字だが、言葉はヘブライ語だ!
シュニードウィンド「つまり、ヘブライ語の記述だったと言う訳ではないのだが、ヘブライ語に変換できるものだったということだ」

このことは、見つかったオストラコンが、体系化する過程の中でヘブライ語の記述が生まれる様子を示す、歴史的なもので、記憶されるべき証拠の極みだと言えることを示している。
古代記述の専門家「ここにあるオストラコンは、これまで発見された中でも最も古いヘブライ語の記述だと言える」
しかし、他の誰もが知りたがっているのは、何を言っているのか?ということだ。

この質問に答えるのは容易ではない。シュニードウィンド「ヘブライ語は母音を使わずに記述されていた。不十分な、母音がない記述のことを想像してほしい。一つの単語を読むだけでも沢山の方法があるんだ。その言葉は名詞かも知れないし、動詞かも知れない。多くの人が混乱するんじゃあないだろうか」
古代記述の専門家ハガイ・ミスガヴは慎重だ。
ミスガヴ「このオストラコンに書かれているのは、記述であって、名前のリストではないと言えるかも知れない。ここには文章が書かれているのだろう。恐らく司法だとか道徳といったものに関する文章だ」
キルベット・キヤファで見つかったオストラコンの記述の本当の意味は、解読されないかも知れないが、その重要性は否定できない。つまり、これはソロモンの世紀におき、砦のような都市で、記述がヘブライ語の極めて初期の手法で書写(しょしゃ)されていたことを示しているのだ。
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キルベット・キヤファでの発見は長年続けられているソロモン王に関する論争の解決を示している。オストラコンに描かれたヘブライ語の記述のように、ソロモンのイスラエル王国は体系化の初期段階にあったのだ。小さな王国が、さらに大きな王国になろうと足掻(あが)いていたのだ。

このことは我々が確かだと考えている、紀元前10世紀の、いくつかの事実の一つと整合する。聖書は、ソロモンの死から5年間後、エジプト軍が侵攻してきて、ソロモンの王国は破壊されたと記している。
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聖書『レホボアン王になって5年目、エジプト王シーシャックがエルサレムに対抗しようと1千2百のチャリオット(馬戦車)、6万の騎兵、そして数えきれない数の歩兵をエジプトから引き連れ、進軍してきた』
多くの学者が、聖書に書かれているシーシャックによるイスラエル侵攻が、古代エジプトの都市テーベに残る巨大なレリーフの中で裏付けられている主張している。
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繋がれた捕虜たちや城壁の絵を含んだレリーフはシーシャックが荒しまわった場所を表わしている。
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アミハイ・マザール「この攻撃はエルサレムの直ぐ北の高原地方を横切るように意図されていたものだったことを我々はしっている」
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「シーシャックよりも前に、そこまで侵攻したファラオはいない。先人のファラオたちは、いつでも海岸線に沿って侵攻していただけだ。このことはシーシャックが強くエルサレム一帯まで進軍したがっていたことを意味する。恐らく、ソロモン王国がこの地区におけるエジプトの利益を脅(おびや)かしていたのだろう」

もし、そうだとすれば、シーシャックの攻撃はソロモンの王国は力を付けていたという、説得力ある証拠の最後の断片だ。もし古代イスラエルが部族長の土地だったなら、シーシャックが手を煩(わずら)わせてまで侵攻する必要があっただろうか?
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恐らく、これは勃興(ぼっこう)した王国を平定するため、古代の近東Near Eastへ向かった“祈祷師の進軍”だ。そしてキルベット・エン・ナハスにおけるシーシャックの目的の一つが、死海の谷間での銅生産だった証拠だろう。

スラグの小山の断面の中に、トマス・レヴィーは、毎年、規則正しく積み重ねられたスラグの層を見つけている。しかし、スラグ層は、ある所で見られなくなる!
レヴィー「ここで見られるのは、紀元前10世紀末における金属生産活動の打ち切りだ」
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薄い層は精錬場での作業の終息を示していた。レヴィーは生産の打ち切りがシーシャックが侵攻した時期に対応していると考えている。学者たちは、シーシャックの遠征の詳細について論争しているものの、ある一つの件については全員が同意している。
テルアビブ大学フィンケルステイン「当時の銅供給について調べることは、決定的に重要だ。これを管理するか専売化する者は誰であろうと権力を得ることが出来たはずだ」
そうだとすれば、これらがソロモン王の採掘坑だったのだろうか?
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レヴィー「キルベット・エン・ナハスにおける発掘で、我々はついに聖書に登場する人物や、彼らがエドム人か、それともディビッドやソロモンのような初期のイスラエル王だったのか、に関する説明を見つけたのではないかと期待している。しかし、それは期待ってことだけどね」
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恐らく、異なる王国が権力を握るにつれて採掘坑の管理者は入れ替わっていったのだろう。誰が採掘坑を管理していたとしても、ワディ・フェイナンから送られてくる銅が、辺り一帯で取引され、エルサレムに到達していただろうことを我々は知っている。
アミハイ・マザール「ある日、エルサレムに在った寺院で使われていた銅製品を見つけるかも知れないと思っている。その銅はキルベット・エン・ナハスから送られてきたものだと判るはずだ」
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一つ確実なことがある。キルベット・エン・ナハスとキルベット・キヤファにおける発見は謎の紀元前10世紀、つまりソロモンの世紀に対する我々のイメージを変化させたということだ。それは、壁で囲まれた都市や、書記たちや、繁栄する銅工業を管轄する能力をもつ王国が生まれ来る時代だった。ついに、ソロモン王のイスラエルとエドムという謎の王国は、その時代を変革したものの長い間忘れ去られていた金属革命と共に、陰の中から現れ始めている。
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History Documentary Unknown Secret of King Solomon Stories
https://www.youtube.com/watch?v=YfpMLXPkkY8
・・・・・・・・・・・・
Youtubeフィルムでも再三、触れられているように、ディビッド(ダビデ)とその息子ソロモンが名前と共に初めて歴史に現れるのはヘブライ聖書の中です。二人が生きていたのは紀元前10世紀ですか、その1千年以上も前には、エジプトでヒエログリフが、メソポタミアでは楔形文字が使われていて、粘土板(タブレット)などに歴史を刻んで残しています。従って、エジプトとメソポタイアの間にあったイスラエル王国で、ディビッドやソロモンが文字を使っていなかったということは考え辛く、恐らく楔形文字が使われていたんじゃあないかとmhは思うのです。

しかし・・・当時の出来事や王の名が楔形文字などで記された粘土板は、古代イスラエルで見つかっていないんですねぇ。これが『ソロモン王がいたのかどうか、イスラエルの大地は語っていない』とフィルムでも言っていた所以(ゆえん)です。

紀元前10世紀、辺り一帯に権力を及ぼし、誰もが羨(うらや)む富も、1千人もの妻も手中にしていたソロモンの王国が文字を持っていなかった???
とても信じられません!!!
よって、気が短くて単純なmhは、ソロモンの王国など無かった、彼は、バビロンに幽閉されたイスラエル人の妄想が産んだ、伝説や神話の中の人物だ!と結論します。

ソロモンの名声がシバの女王を呼び寄せたってことですが、これもほら話でしょう。ソロモンがそんなに賢い男で、名声がアラビア半島の先端かアフリカ大陸のエチオピアに在ったと言われる、これまた謎の王国シバまで届いているというのに、ソロモンの王国に文字が無かった???エルサレムで、当時に文字が刻まれたタブレットが見つかっていない???何度も繰り返して言わせて頂きますが、とてもあり得ません。しかし、ソロモンの王国などはなかった、と考えれば腑に落ちます。

更には、メソポタミアやエジプトに、ソロモンの名が記された記録が残っていないということも、ソロモンと呼ばれる人物は実在していなかったというmhの理論を支持していると言えるでしょう。

しかし・・・マルコ・ポーロも中国の記録には登場していないようですから、どうなんでしょうかねぇ。
マルコ・ポーロもソロモンも、実在していた人物だと考える方が浪漫(ロマン)がありますから、世の中、真実だけを述べるのは、無粋(ぶすい)に過ぎるのかも知れません。“真実なら口に出して良いということではない”という深い教訓に思いを馳せたところで、ソロモン談義は打ち切らせて頂きましょう。

実は、次回も、謎の民族の話を予定しています。聖書は謎だらけですね。その謎を解明しようと考古学者たちが努力しているっていうんですから、何んと言って慰めればよいのか、言葉が見つかりませんが、考古学者たちの思いはmhなどとは別の所にあって、結構、楽しんでいるのではないかと思います。ご愁傷様というより、羨ましいって言った方が当たっているでしょう。
(完)

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mh徒然草:老人が多くなりました。


同じ内容の記事を何度も、つい最近も、投稿したように思いますが、もう忘れてしまっているのですから、いかんとも致し方なく、今回も埒もない戯言(たわごと/ざれごと)にお付き合い頂かねばなりません。

今日は7月11日の火曜日。いつものスーパーの卵売り出し日で、女房殿と二人、10個入り卵を119円x2個ゲットしてきました。毎週火曜日の卵売り出し日には開店10時から、入り口に人が群がっていることは、たしか、以前もお話ししたという記憶が、この時点になって沸々と甦ってきました。平日の午前中、スーパーに買い出しにくる人たちに老人が多いのは、お釈迦様が仰るように因果応報(?)です。若い人の多くは、mhの年金を確保すべく、この暑いのに汗水流して会社や工事現場などで働いてくれているのですから。

で、バナナ売り場にいくと、今回は男性のお年寄りが二人、山と積まれたバナナを全て、指先で固さ確認していましたから、バナナが腐る指跡を付けるのは女性のお年寄りばかりじゃあないことを改めてご報告させて頂きます。スイカ売り場ではお年寄りの男性が、8分の1程に切って並べられたものから一番大きそうなものを選んでいるんですが・・・20個ほど並んだ棚の前で、一個ずつ、比較しては交換するんですが・・・スイカ同志をぶつけて、形を崩したりしていました。悩んだ挙句、1つを籠に入れたのですが、“この調子だと、また直ぐに戻って来て、別のスイカに交換するかもしれないなぁ”って感じました。

スーパーのレジで清算待ちする人は、今日は5箇所のレジとも2,3名でしたが、いずれもお年寄りばかりで、レジの清算係の女性と会話を楽しみながら、小銭を数えながらの清算ですから、時間がかかるのはいつも通りですし、スーパーの前の信号を斜めに渡ったり、赤信号なのに横断したりするお年寄りも再確認いたしました。

で~mhはって言いますと・・・
赤信号を渡るのは止めることに致しました。急いで帰っても、ブログを作るか、ミステリー小説を読むか、昼寝をするだけですから、1分を惜しむ必要は全くないし、他の人や幼い子供の目の前で、赤信号を平然と横断するのは、さすがにはしたないというか、見苦しいなあ、と還暦を迎えて、やっと悟った次第です。

で、お伝えした気もするんですが、はっきりしないので念のため今回もお伝えしておきますと、自動車の免許証はこの2月、女房殿と一緒に返納して身分証明書代わりの運転経歴証明書に替え、今後は運転しないことにいたしました。赤信号の横断もやめたことで、mhが交通事故で死亡する確率は大幅に低下したことになります。

話は飛びますが~
横浜市の老人福祉の一環の、市営地下鉄・市内を走行する全バスの乗車パスをゲットしました。乗り放題で、費用は年間7千円ほどです。で~女房殿が徒歩で地下鉄の駅そばのストレッチ・ジムに出かけた後、mhは市バスで反対方向のJR駅に向かいました。駅近(えきちか)のドン・キホーテで週末のビールのつまみ用のスルメと、女房殿の毎朝のヨーグルト用の干し葡萄を買うと、女房殿が通っているジムの近くまで市バスで戻り、待ち合わせ場所のレストラン“サイゼリア”に。4,5組が空席待ちをしていましたが、予約リストに“大人2名・禁煙席”と記入し、10分ほどして席に着くと、いつものランチメニューを予約して、女房殿がやってくるまで、ドリンクバーの飲み放題の飲み物をガボガボ飲みまくっていましたが・・・

7月の11日の平日、午後1時近くで、外気温は30℃を越えた猛暑ですが・・・
バスも、レストランも、お年寄りが多いです。レストランでは、外回りの仕事をしている雰囲気の若い女性が昼食を摂っている姿を見受けましたが、バスでは乗客の90%、そしてこのレストランでは客の80%が老人です。で~食べ終わって清算しようとレジに行くと、お年寄りの客4人が揉(も)めていました。

お年寄り6人程で来ていてボックス席2ヶ所を占めて食事をしていたようですが、請求書2枚で、6人ほどが、自分が食べた分だけ個々にお金を払っていたんですね。で~レジで対応していたのは、これまた65歳くらいの女性ウエートレスで、この店の常連のmhが見かけたことがない新人です。

で、なんの勘違いか手違いがあったのか、清算機に入力し直そうっていうんですが・・・
うまくいかず、その上、大勢が口出しするものですから、不慣れなお年寄りの女性ウエーターは“混沌”として手の打ちようがないって様子でした。

mhの後ろにも清算待ちの客が並び出したのに気付いた若いウエィターが来てくれ、mhが清算を終えたのは2,3分経ってからです。レジで2分以上待つっていうのは、やってみれば判りますが、なかなか忍耐がいるんですね。で~mhはっていいますと、にこやかな顔をしながら、黙って、じっと佇(たたず)んで、待っていましたから、段々と人間が出来て来たなあって思ったりします。

これまた何度も申し上げさせていただきましたが、年を取ると、頭の回転は遅くなり、これに反比例して、自己主張は強くなり、そのくせ動作は緩慢で、お構いなしにルールを破るなど、他の人から見れば醜(みにく)い人間になってしまうんですね。頭や体が思うに任せないようになれば、それだけで他人に迷惑をかけることになる訳ですが、他人の主張に耳をかさず、自分の考えに固執し、他人に迷惑をかけることを平気で行うとなると、嫌われるのは当然と言えます。しかし、そういうお年寄りはというと“人から嫌われたってど~ってことない!”って考えている人が多いですから、手の施しようがありません!他人の立場や都合や意見を尊重し、愛される老人にならねば、と自分を戒(いまし)めていますが、成人用肺炎球菌予防接種の案内が届いても、女房殿が必ず接種を受けるよう強く勧めても、“病院に行って悪い病気を貰う確率の方が高い!”と言い張ってグズグズと接種を延ばしているmhは、やはり醜い老人の領域に足を踏み入れてしまったのでしょうか。

この原稿を校了しようとしていた7月12日、ネットに次の記事がありました。
【高松市の家具インテリア店の上りエスカレーターで10日、車いすの妻(79)と付き添いの夫(81)=いずれも同市=が転落し、後方にいた別の女性が巻き込まれて死亡したと香川県警が11日、発表した。妻はあばら骨を折るなどの重傷、夫は左腕に軽傷。県警が事故の詳しい状況を調べている。事故は10日午前10時40分ごろ発生。夫が車いすの妻を2階から3階に向かうエスカレーターに乗せていたところ、降り口付近の段差でバランスを崩し転倒した。夫婦の後方にいた渡辺清美さん(76)=同市=が巻き込まれ、エスカレーターの中段付近まで転落。全身を強打し、同日夜、搬送先の病院で死亡が確認された】

車いすの79歳と81歳の老夫婦は、今後、贖罪(しょくざい)の人生を送ることになりますが、亡くなられた夫人やその家族の悲劇も思うと、何んとも言い様がない、悲しく、やりきれない出来事です。これを他山の石とし、自分のミスで他人を傷つけたり殺したりしないよう、また他人のミスによる事故に巻き込まれないよう、気を付けねばならないと再確認しました。

神々の詩(歌詞は縄文語らしいです。既に投稿済みか?)
https://www.youtube.com/watch?v=_qtfW6ihnPE
(完)

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アレキサンダーの墓


Wiki:アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日)
通称アレクサンドロス大王(Alexander the Great)は、アルゲアス朝マケドニアMacedonia王国のバシレウス(ギリシャ語で“王”)である。また、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシァにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシァ語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。その他にはイスカンダルなどと呼ばれている。
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いろいろな呼び方があるってことは、偉人の証(あかし)でしょうが、イスカンダルと呼ばれるのは何故か?
お釈迦様が仰るように因果応報で、Wikiに次の説明があります。
「イスカンダルIskandar はアレクサンドロス大王を指すアラビア語・ペルシア語の人名である。もともとは Aliskandar であったが、語頭のal-が定冠詞と勘違いされal-iskandarと呼ばれるようになった。ただし、現在でもアラビア語では定冠詞をつけて al-Iskandar と言うのが普通である。kとsが入れ替わった理由は不明である」
つまり、kとsが入れ替わる前は“Aliksandarアリクサンダル”だったんですね。
蛇足ですが、イスカンダルと言う名をどこかで聞いたような、と思われる方は、アニメ『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』で耳にしたかも知れません。アニメに登場する架空の惑星、及び、同惑星に栄えた文明や国家の呼び名として使われています。

で~アレキサンダーがどんな男だったのかは、mhブログ「アレキサンダー大王の不思議」でご紹介済みです。ご関心とお時間がありましたら次のURLでご確認下さい。
http://mysteriousquestions.blog.fc2.com/blog-entry-176.html

今回は“アレキサンダーの墓”を探求questするYoutubeを紹介します。
御参考としてお伝えしておきますと“バビロンで死んだアレキサンダーの遺体は部下のペルディッカスが王都ペラ(マケドニア)へ移送途中、同僚のプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたとされているが、その墓は未だに発見されていない”とWikiにあります。
・・・・・・・・・・・・
エジプト・・・
答えられていない疑問の土地・・・
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見つかっていない財宝・・・
1世紀を越えて捜し求められている謎は、今、解かれようとしている。新しい世代の専門家や考古学者たちが、アレキサンダーの墓を探して動き出したのだ。
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全能の戦士は、全能の帝国の中心に埋葬された。それから2千年、新しい調査や新しい発想によって、アレキサンダーの失われた墓は、ついに発見されるのだろうか?
Egypt Unwrapped:エジプトの謎を暴く!
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歴史によれば、アレキサンダーがエジプトにいたのはたった6ヶ月だ。しかし、この6ヶ月は、その後の何世紀にも及ぶ歴史を塗り変える出来事の連続だった。今日、多くの考古学者たちがアレキサンダーの足跡を辿(たど)っている。彼は、訪れた場所の全てを永遠に変えてしまっていたのだ。
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考古学庁責任者ザヒ・ハワス「アレキサンダーの足跡はとても重要だ。エジプトのどんな場所においても、彼の足跡の一つ一つは、全て何らかの意味を持っていた」
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アレキサンダーはエジプトの様々な場所を訪れていた。彼がやってくる数世紀も前には既に存在していたルクソールLuxorのカルナック神殿から、砂漠の真ん中にある神聖な場所まで。そして、古代のファラオが眠る場所から、今も彼の名前で呼ばれている近代都市アレクサンドリアまで。
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我々はアレキサンダーの遺体がここサッカラに一時、眠っていたことを知っている。
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その後、遺体はエジプトの中を旅している。死から22世紀を過ぎた今、彼の最後の場所、彼が眠っている墓、を特定することは出来るのだろうか?
考古学者・作家ニック・サウンダー「彼の墓を探そうとした時、何から手を付ければよいのか?どの場所から調べたらよいのか?我々はその地図を持っていない。あるのは伝説や寓話や宣伝文句だけだ」
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我々がアレキサンダーについて知っていることは、全て神話というベールで包まれている。
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しかし、いくつかの明確なこともある。彼はファラオとなったが、エジプト人ではない。マケドニア王国の金髪のギリシャ人だ。そして紀元前332年にエジプトを訪れた時、彼は偉大な国家が力を失っていることに気付いた。エジプトはペルシャ軍に占領され、その管轄下にあったのだ。アレキサンダーが他国軍を国外に追い出してエジプトを解放すると、人々に歓待された。ペルシャ統治を生き延び、権力を握っていた祈祷師たちは、直ぐに彼に対する支持を表明した。
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エジプト古物博物館長ロバート・スティーヴン・ビアンキ博士「アレキサンダーがエジプトに軍勢を率いて来た時、エジプト人は将来を不安視していた。しかし、彼は自らのエジプト統治を受け入れる引き換えに、当時の権力者だった祈祷師たちが勢力を維持することを認めたのだ」
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(mh:ビアンキ氏が館長を務める博物館があるのは東京です!)
ビアンキ博士は20年もの間、アレキサンダーと彼の墓の追跡を続けている。彼によれば、その作業はエジプトでこれまで建てられた中で最も巨大な寺院複合体の壁画から始まるという。
カルナック神殿は上エジプトのルクソールの、ナイル河岸に建てられている。アレキサンダーがカルナックに来た時、そこは宗教的、政治的な中心だった。
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何世代にも渡り、ファラオたちは神殿を拡張し続けていた。その一つ一つは権力と、神への敬意と、威信の現れだ。
ビアンキ博士「彼がカルナック神殿を訪れた時、神殿は既に2千年の歴史を持っていた。ツタンカーメン、アメンホテプ三世、ラムセス大王、など、エジプトの歴史における主要なファラオは、神殿に自らの印を彫り残している。古代エジプトの歴史を語る上で極めて重要な遺跡だ」
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ビアンキ博士は、アレキサンダーがこの寺院の歴史の中でどのように画策したかを示してくれるという。それは、寺院複合体の中の小さな寺院の建物の壁に彫られたヒエログリフだ。アレキサンダーは、彼の名前をファラオとして記していた!
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(mh楕円の中にヒエログリフで書かれているのは必ず王の名です。カトゥシュと呼ばれる表記法です)
その直ぐ近くには、彼よりも以前のファラオの名が記されている。
ビアンキ博士「ヒエログリフや、王や神を象徴するホルス、牛、フクロウなどが彫られていて・・・その後にトトメス三世のカトゥシュがある。
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アレキサンダーはこの寺院を改修し、自分の名前を壁に残したのだ。それは全能の先人トトメス三世に対するアレキサンダーの敬意を表すためだった。
ビアンキ博士「偉大な戦士への尊敬の念を示すとともに、アレキサンダーのエジプト統治が、代々続いていたファラオの統治を正当に引き継いだものだと誇示するためでもあったんだ」
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当時、あるファラオが別のファラオの記念碑を乗っ取り、先人のファラオの名を消し去ることは稀(まれ)ではなかった。しかし、この寺院では、ファラオで、かつ有能な将軍でもあったトトメス三世との関係を強めたいと望んで、アレキサンダーは自分の名を彫ることにした、とビアンキ博士は信じている。
ビアンキ博士「トトメス三世は偉大な戦士だった。そこでアレキサンダーは自分とトトメスとを融合させていたんだ。トトメス三世を彼の精神的な祖先だと感じていたのだろう」
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アレキサンダーはこの壁画の中で、自分がエジプトの王であると主張している。彼はエジプト人に受け入れられるよう自分を変えていった。まず、ギリシャ人の王だった彼は、エジプトの合法的なファラオになった。
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すると、エジプトを統治しようという野心が、彼を掻(か)き立てる。彼は軍勢を引き連れ、危険が待ち構えるエジプトの奥地に向かった。

アンドリア・ケイはアレキサンダーの足跡を辿ってナイル西部の砂漠を移動している。
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世界でも最も人を寄せ付けない場所の一つだ。アレキサンダーは無意識の内に、死後、自分の体がどうなるか確かめようとしていたのだ。彼の未来とエジプトの未来と結びつけようとしていた。彼は、自分が死ねば、部下たちはここに墓を建ててくれるだろうと確信していた。

エジプト学者アンドリア・ケイ「どちらを向いても何百Kmも先まで砂丘が続いているわ。ここで目的地の方向を正しく示すのは至難の業よ」
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エジプトの西部砂漠はナイル河岸からリビア国境まで640Kmに渡って広がっている。
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紀元前4世紀、アレキサンダーが部下を連れて沙漠を横切った時の厳しさは想像を絶するものだっただろう。
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彼が砂漠に踏み込む数年前、砂嵐が数千人のペルシャ軍を破壊していた。砂漠での危険と厳しさは膨大だったはずだ。ここでは雨が降ることは無い。それでも、アレキサンダーは砂漠を旅したのだ。
ザヒ・ハワス「兵士たちは喉の渇きを訴え、死ぬ者も出始めた。すると雨が降って、兵士たちはそれを飲んで生き延びることが出来た。道に迷うと、どこからともなく蛇が現れて道案内をしてくれた」
この種の物語は、アレキサンダー生存中も人々の間で囁(ささや)かれていた。しかし、彼が探し求めていたものはもっと神秘的な立場だ。
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ケイ「彼は何日も馬に揺られて砂漠を進んでいったの。GPSなんかない時代だから、感だけを頼りに320Kmも移動していったのよ」
アレキサンダーは砂漠の中のオアシスの町シーワSiwaを目指していた。エジプトでも、最も隔離されている居住区だ。シーワは、当時も今のようにオアシスの町だった。広大な砂漠の中に浮かぶ、自然の泉で満たされた島のような所で、アレキサンダーの時代も神聖な場所だとされていた。エジプトで最も強力な神アムンが生まれた場所だ。
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エジプトの伝統によれば、アムンは羊だ。同時にファラオたちの父でもあった。エジプトにおけるアレキサンダーの遺産に関する専門家のアンドリア・ケイは、アレキサンダーが何を考えてこの場所に来たかを明確に知っている。
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彼は人間と神との間の存在になろうとしていたのだ。既にアレキサンダーはファラオになり、エジプトの町は彼の前で跪(ひざまず)いていた。次はアムン神の謁見(えっけん)を受ける時だ。
“神託の寺院”の跡は今も残っている。
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アレキサンダーは常に親衛隊と共に行動していた。時には、隊の規模は小さいこともあったが。しかし、アムン神の寺院がある丘の麓に着くと、親衛隊をそこに残して、彼は一人で丘に登っていった。
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ケイ「寺院はとても涼しく、静寂な、洗練された、厳かな場所だったの」
伝統に従って、アレキサンダーは一人で神聖な部屋に入った。
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ここが紀元前331年のある日、彼が立っていた場所だ。
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ケイ「まさにこの位置で、彼は神の言葉を聞いたのよ。神の像があったはずよ。カルナックでも見た羊の顔をしていたと思うわ。祈祷師は、この通路の裏側に隠れていたの。そしてアレキサンダーが神と話しをするのを聞くことが出来たの」

人間と神の像との話し合いがどんなものであったにしろ、アレキサンダーは彼が知りたかったことを聞き出していた。その瞬間、彼はマケドニアの王フィリップ二世の息子ではなくなった。新たな父を持ったのだ。
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ビアンキ博士「彼はアムンの息子になったと主張した。自分は神の加護を得た人間で、帝国を統治する合法的な地位を与えられた男なのだと」
3千年以上もの間、エジプトのファラオはエジプト人だった。しかし、今、ギリシャ人が玉座に着いた。新しい体制が、新しい時代が始まったのだ。

アレキサンダーは6ヶ月後にエジプトを離れ、再び戻ることはなかった。そして8年後、数百Km離れたバビロンで謎の死を遂げた。
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しかし、エジプトとの繋がりが失われることはなかった。彼の遺体はエジプトに運び戻された。彼の命のない体を手にする者は、エジプトを統治する権利を獲得できる。
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今日なら、彼を再び発見しさえすれば、考古学の中でも最高の栄誉を獲得できるのだ。

アレキサンダーはエジプト全域を手中にした。ファラオになり、エジプトの神の中の神アムンの息子だと宣言した。エジプトと自分とを強固に結びつけ、死んだ後でさえエジプトを統治することになった。
ビアンキ博士「彼の遺体を所有する者が、エジプトを所有し、権力を所有するという伝統があった」

アレキサンダーの遺体は今、どこにあるのだろうか?それは考古学でも最大の関心を呼び起こすことになった。多くの学者が、その謎を解きたいと考えている。ニック・サウンダー博士もその一人だ。彼は20年もの間、アレキサンダーの墓を探し続けている。
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墓を見つけるには、アレキサンダーの遺体をエジプトに持ち帰った男から手掛けなければならないと彼は考えている。
サウンダー博士「彼の遺体は一種の道具だった。後継者の将軍たちには象徴的な武器として使われた。かれの遺体を手にすることが権力を手にすることだった。彼の遺体を使えば正当な後継者になれたんだ」
アレキサンダーは後継者を指名していた。将軍ペルディカスだ。
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彼は遺体を埋葬する役目を言い渡されていた。彼がミイラ化した遺体をどのように使おうとしていたのかについては記録が残っていない。恐らく彼は、マケドニアにあるアレキサンダーの父の墓の近くにアレキサンダーの墓を造ろうとしていたのだろう。しかし、その機会を得ることは出来なかったのだ。
別の将軍プトレマイ(プトレマイオス)は、アレキサンダーの遺体が象徴的な価値を持っていると考えていた。彼はペルディカスから遺体を盗むと、エジプトに持ち帰ってしまった。
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サウンダー「プトレマイは一か八かで、ミイラ化されていた遺体を盗んでエジプトに逃げた。彼はエジプトの正当な王位継承権を手に入れようとしたのだ。遺体を巡ってペルディカスとプトレマイはナイル河岸で壮絶に戦い、プトレマイはペルディカスを打ち破った」
闘いに勝利したプトレマイは3百年続く王朝をエジプトに打ち建てた。
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王朝の基礎となったのは、アレキサンダーの遺体だった。プトレマイは最初、エジプトの中心、エジプトの首都だった町に遺体を運んで埋葬した。
サウンダー「彼が、エジプトの宇宙の中心とも言えるメンフィスにアレキサンダーの遺体を持ち込んだのは間違いない。アレキサンダーにはメンフィス以上に相応(ふさわ)しい場所はなかったんだ」
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そこは2千年以上も人々が暮らし続けていた所だ。この地には、かつて寺院や王宮が溢(あふ)れていた。
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紀元前4世紀のメンフィスはエジプトの政治の中心で、同時に、埋葬地としても重要な場所だった。何世紀もの間、エジプト人たちは、この砂漠に遺体を埋葬していた。そこはサッカラSaqqaraの大墓地として知られている。プトレマイはサッカラにアレキサンダーの遺体を運び込んだとサウンダーは考えている。
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サウンダー「王の生と死の基本がここにある。東には生者の町で首都のメンフィスが控えている。そして太陽が沈む西には砂漠が広がる死者の国がある」
サウンダーが歩いている道はサッカラの大墓地に進む行列通りだ。
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その先の行き止まりにはエジプトで最も古いピラミッドがある。階段ピラミッドだ。
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エジプトの古代に続くことを暗示するかのような配置と言える。だからプトロメイがこの地にアレキサンダーを埋葬しようとした、とサウンダーは考えている。アレキサンダーなら、昔、エジプトのファラオが埋葬されていた場所に埋められたはずだ。
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サウンダー「それはプトロマイの計算だったんだ。アレキサンダーの遺体の埋葬を国家行事にし、プトロマイがアレキサンダーの後継者で、従ってエジプトの正統な統治者であるということ、それに、エジプトの古代から伝わる信仰や伝統を守る男であるということ、を示したんだ」

プトレマイがアレキサンダーの遺体をこの地に運んだという証拠はあるのだろうか?調べれば調べる程、この地とエジプトの新しい王朝との関係を見つけることが出来るとニック・サウンダーは主張する。
サッカラでは、死者の道は岩に刻まれ、迷路のように折れ曲がるトンネルに続いている。
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そこは、アレキサンダーやプトロマイより1千年以上も前に造られた墓で、ファラオだけではなく動物のミイラも収められていた。
ここは牛の墓だ。生存中は崇(あが)められ、死後はミイラ化されて埋葬されていた。トンネルに収められている花崗岩の棺は60トン以上もある。
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当時、プトロメイの子孫たちは、セラぺスという、旧来とは異なる、自分たちの神を敬っていた。彼らの都市アレクサンドリアを守るための神だと考えられている。サウンダーはアレキサンダーの魂との関係もあったのではないかと考えている。彼らはここに来てアレキサンダーを敬っていたという。
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サウンダー「アレキサンダーがアムン神を自分の守護神だと示したのは政治的にも宗教的にも賢いやり方だと思う。このことによって、彼はエジプトにおける古代からの神、特にミイラ化された牛と自分とを関係づけた。彼は、この地にもやって来ていた。神に接見し、そのことで政治的な影響力も獲得していたのだ」
論理的には、この場所こそがアレキサンダーの墓だったとの結論が導かれる。しかし、他に何か証拠はないのだろうか?

死者の道から数mに明確な手掛かりを見ることが出来る。半円形に並べられた像は19世紀にフランス人考古学者マリアッテによって発見された。
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重要な点は、これらの像がこの場所にふさわしくないということだ。像は大きく破損しているが、明らかに言えることが一つあった。像はギリシャ式だったのだ!
サウンダー「像を詳細に調べたマリアッテは奇妙なことに気付いた。像はギリシャ人哲学者たちだったのだ。エジプトで採れた石灰石で出来ていた。何故、このようなものが造られたのだろう?像は何を表わしているのだろう?」
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マリアッテは像がギリシャの重要な人物を表わしていることに気付いていたが、これらの疑問に答えを見つけ出そうとはしなかった。これらの像がこの場所とどんな関係を持っているかが判ったのは、つい最近のことだ。ギリシャとエジプトの文明の融合を表わすだけのものではなかった。像の人物一人一人はアレキサンダーとの強い繋がりを持っていたのだ。

ホーマー(Homerホメロス)は“イーリアス”と“オデュッセイア”の著者だ。アレキサンダーはホメロスが書いた書の中の戦士に憧(あこが)れていた。ピンダーはギリシャの偉大な詩人の一人だ。彼の言葉はアレキサンダーの祖先達を称賛していた。プラトンは西洋における哲学の巨人だ。彼はアレキサンダーの教師を務めていたアリストテレスの師匠でもあった。
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サウンダーは、これらの像を寄進したのはプトロメイだと確信している。
サウンダー「プトロメイがこれらの像の製作を指示した理由の一つは、像の人物たちが、アレキサンダーが知っている世界と強い繋がりを持っていたからだろう。像はギリシャの哲学や文学の指導的な人物ばかりだ。アレキサンダーの墓に奉納するには最適だ」
サウンダーはアレキサンダーがサッカラに埋葬されたと確信している。
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しかし、話はこれで終わりではない。証拠によれば、ここで見つかった彼の墓は空だった。広く信じられている、古代ギリシャのホセイニアスの記録によれば、アレキサンダーの遺体は、プトロマイによる埋葬から30年後、北に、アレキサンダーが創った町に運ばれたと言う。エジプトで新たに繁栄しはじめた都市アレクサンドリアだ!
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ローマの皇帝たちも訪れたというアレキサンダーの墓は、この町にあるのだろうか?
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アレキサンダーは彼の王国の30もの都市に自分の名前を付けていた。彼の墓を追跡しているニック・サウンダーは、その中でも最も偉大な都市アレクサンドリアを訪れた。
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しかし、この都市を造ったのはアレキサンダーではない。後継者のプトロマイだ。エジプトにおけるギリシャ都市として造られた。戦術、経済、文化。全てが新しい王国の創造に注がれた。
紀元前280年、プトロマイの息子はアレキサンダーの遺体を南のメンフィスからアレクサンドリアに移した。そのことで、彼は、アレクサンドリアを古代で最も有名な都市にしたのだ。
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サウンダー「当時なら、誰でもアレキサンダーの墓がどこに在るかを知っていた。そこは、長い間、旅人を惹きつける場所になっていた。アレキサンダーの光り輝く墓を訪れるのだ!と。今日でも多くの人々が、彼の亡霊の魔術に触れようと思い、または彼の墓を求めて、アレクサンドリアにやってくる」
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1世紀に渡って、墓探しTomb Hunterは引きも切らずにアレクサンドリアに押し寄せている。彼らは“アレキサンダー馬鹿fools of Alexander”と呼ばれている。
サウンダー「彼らはみんな、アレキサンダーが何処に眠っているか知っていると考えてやってくる。しかし不幸なことに、その墓は、彼らの手が届くところにはない。それが“アレキサンダー馬鹿”の結末だ」

古代の記録によれば、西暦3世紀まで、世界が知っている最も偉大な人物のようになりたいと強く望んだローマ帝国の後継者たちが墓を訪れていた。
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サウンダー「みんながアレクサンドリアを訪れて、アレキサンダーの墓に参拝したいと望んでいた。偉大なギリシャ人のアレキサンダーの後継者だと標榜(ひょうぼう)する人たちは、スーパー・ヒーローを見たがっていたのだ」

しかし、西暦5世紀末、西ローマ帝国が崩壊すると混乱と暗黒の時代が続き、アレキサンダーの墓は消えてしまったのだ。今日のアレクサンドリアは、墓があった当時の面影をほとんど残していない。
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何世紀にも渡る再建築で、古代の町は人通りの多い道路のずっと地下深くに押し込まれてしまった。現在、町の人口は4百万で、墓が失われて1千6百年も経過している。伝説は、半分は事実かも知れないが半分が虚偽で、結局は曖昧(あいまい)だ。
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ザヒ・ハワス博士はアレクサンドリアのナビ・ダニエル・モスク(El Nabi Daniel Mosque)にやってきた。1百年以上の間、墓探したちで賑(にぎ)わっている場所だ。
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1850年頃、シュリジーという名のギリシャ人通訳がモスクの中で驚くべきものを見つけた。
ザヒ・ハワス「彼は地下への通路を見つけると下りていった」
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「そして、彼にはアレキサンダー大王を埋葬していたように見えた場所を発見した。彼が現実に見たのはアーチ状の天井と棺を置くように造られていた部屋だ」
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シュリジーの話は広く信じられ、1958年まで、そここそがアレキサンダー大王の墓だと考えられていた。
ザヒ・ハワス「考古学者たちは長年調べてみたが、アレキサンダーの墓だと示す証拠は何も見つからなかった。しかし、アレキサンダーの墓だと思えたら、どんな場所でも調べてみることは大切なことだと思う」

そうは言うものの、もし、アレキサンダーの墓を探し当てたとして、どうすればそれに気付くと言うのだろう?
考古学者たちは、かつてマケドニアの古代の首都アイガイ、現在はギリシャの町ヴェルギナVerginaに残る王家の墓を調べることで、アレキサンダーの墓の様子を思い浮かべることが出来るという。
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アレキサンダーの先人たちが埋葬されていたその墓は、2千年以上も人の眼から隠されていた。
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入り口はギリシャの寺院と似ている。
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入り口の上のフレスコ画はマケドニアでは典型的だった狩猟風景を描いている。墓室には鎧(よろい)や宝石、マケドニアの紋章が付いた黄金の棺などの財宝が収められていた。
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考古学者たちは、財宝はアレキサンダーの叔父など、彼の家系のものではないかと考えている。埋葬されていた人物が誰であれ、アレキサンダー家系の貴人だったのは間違いない。描かれている狩りする若者はアレキサンダー自身の可能性もあるという。
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とすれば、アレキサンダーは、彼が創設した町アレクサンドリアの地面の下に隠れている、マケドニア風の墓に埋葬されているのだろうか?
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今でも、古代アレクサンドリアの断片を垣間見ることは可能だ。アレキサンダーの遺産の一部で、世界でも最も広大な地下空間の一つが残っているのだ。
サウンダー「ここは町の地下に残されている貯水システムだ」
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この貯水施設には年2回、洪水で溢れたナイルの水が引きこまれて蓄えられ、町の繁栄を支えていた。建築技術には目を見張るものがある。この空間に入ることは古代世界との接触そのものだ。しかし、ここにある何物も、アレキサンダーの埋葬についての手掛かりを与えてくれはしない。
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サウンダー「地下の構造物はアレキサンダーの時代に近づけてくれるが、アレキサンダーの墓を探すには地上に残されているものを手掛かりとするしかない。地上を調査し、当時の都市の様子を把握し、どの様な意図で町が構成され、アレキサンダーの墓はどこに造られたかを推察するしかない」
アレキサンダーの墓について我々が知っていることがある。数世紀の間、その墓は謎からはかけ離れた物だったということだ。それは旅人を引き寄せる名所だった。多くのギリシャ人が巡礼で墓を訪れる文化すらあった。墓は都市の一部で生活の一部だった。
考古学者エドワード・ルイスは当時の典型的な寺院複合体を訪れている。彼は、アレクサンドリアの初期、墓が持っていただろうエジプトとギリシャの文化をあわせ持つ側面をこの遺跡の中に見出している。
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そしてそのことが、生活する上でどんなに重要だったのかについても気付いている。
ルイス「いろいろな点で、この複合体は祝宴のために造られているように思われる。食べ物を持って家族で訪れるなど、ピクニックのようなことが行われていたはずだ」
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エジプトとギリシャの双方の建築を融合したファサード(前面飾り)は、アレキサンダーの墓がどのような様子だったかについての手掛かりを与えているかも知れない。
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エジプト風のスフィンクスはギリシャ風石柱Doric columnの前に座っている。ギリシャの町ヴェルギナの墓を思わせるマケドニア風の騎手のレリーフが描かれている。
ルイス「最盛期は、もっとカラフルだった。墓の隣に真っ赤なレリーフが描かれていて、恐らく赤以外の色も使われていたと思う」
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「その構造や装飾は、アレキサンダーの墓の様子を表わしていると考えている」
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勿論、この墓はアレキサンダーのものとするには余りに質素だ。規模や造られている場所から、身分の高い家族のものだろう。

古代の情報によれば、アレキサンダーの墓はスーマSumaにあると言う。壁で囲まれた一画だ。これまでの分析によると、その規模は広大だ。
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若い墓探しTomb Hunterのアンドリューズ・チャグは、この10年間、我々も持っているアレキサンダーの墓に関する情報の断片をつなぎ合わせている。
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チャグ「私はこれまで判っている色々な情報を集めてジグソーパズルのようにつなぎ合わせ、どこから、どう考えるべきかを検討し続けてきた。古代都市の中で、何が何処に配置されていたのか?それらはどんな外観をしていたのだろうか?って」
チャグの調査はここアレクサンドリアの最も古いアウシャット・ネクロポリス(墓場)で再開した。
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紀元前3世紀からのもので、1893年に考古学者ジョアナ・ディスによって初めて発見され、話題になった場所だ。チャグを惹きつけたのは、そこが明らかにギリシャの影響を受けていると思われたことだった。これを根拠に、彼は、拡大解釈を進め、アレキサンダーだけではなく、クレオパトラの墓も、見つけた!と主張した。
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しかし、この主張は懐疑的だとする人々によって直ぐ、猛烈に批判されることになった。
チャグ「場所が不適当だとか、外観が高貴な人物のものとは思えない、といった非難がカイロの新聞に掲載された」

しかし、このネクロポリス(集団墓地)は、調べるべき一つの手掛かりを持っているかも知れない。これらの柱はかなり崩壊が進んでいるが、チャグは、アレキサンダーの墓と関係がある何かを語りかけていると考えている。
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チャグ「これは葬儀用のモニュメントのようで、私が特に関心を持っているのは、その形が古典的なモウゾレアム(mausoleum霊廟)に似ているということだ。我々が知っているモウゾレアムは高くて、長方形で、階段ピラミッド状の屋根を持つ建物だ」
アレクサンドリアの初期の住民は、古典的なギリシャ形式の墓を造っていた。従って、アレキサンダーがどこに埋葬されているのかを知りたければ、初期の形式のモウゾレアムを探さなければならない、とチャグは考えている。モウゾレアムとして広く知られているのは、世界七不思議の一つの霊廟だ。
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高さは42mで、大理石を削って造られていて、石像が飾り付けられ、ピラミッド型の屋根があった。アレキサンダー三世の時代の建物だ。
チャグ「世界には沢山のピラミッド型の古代のモウゾレアムがあるが、多くは世界の七不思議の一つに挙げられているハリカルナッソス(mhトルコの地中海岸の町)の“マウソロス霊廟;モウゾレアム”をモデルにしているように思える」
現代の墓探したちTomb Huntersは都市の中心にある墓の形式について、強い考えを持っている。新しい考え方が出始め、いよいよ最後の段階が近づいているのかも知れない。彼らは、ついにアレキサンダーの墓の位置を特定できるのだろうか?
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サウンダー博士は町の外観から、古代の風情が残っている一つの場所に関心を持っている。そこはジグソーパズルの決定的なピースかもしれない。
サウンダー「そこにはX印のような目印がついている訳ではない。町全体は当時からは全く変わってしまったんだから。しかし、唯一残っているものがある。地理的な特徴で、それはあの半島だ」
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「半島の位置は2千年前から変わっていない。この半島が、墓をどこで探せばいいかについての手掛かりをずっと我々に与えてくれているんだ」
“王宮内宮”と呼ばれるロキーエス(?)半島はかつてファラオの住居があった場所だ。
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現在でもプトロマイ時代の都市のレイアウトを決定するために活用出来る。王宮があった半島には、今は頑丈な石柱が立っている。その近くに彼らの権力の源だったアレキサンダーの墓があったのだろうか?
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サウンダー「ここは当時、地中海世界で最も力強い王国の中心だったところだ。大理石で造られた王宮は金銀で装飾され、石像が並んでいた。そこでは王家の貴人や召使いたちが贅(ぜい)を尽くして暮らしていた」
サウンダーは、その王宮から、もっと大きな公共で公式的な建物に続く道を歩いている。今日、この一帯は、アレクサンドリアで最も有名な建物の歴史を引き継ぐ最新の構造物がある場所だ。アレクサンドリアの図書館だ。
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そこでサウンダーは、墓の特定の助けになるかも知れない、この地区に関する古代の記述を見つけようとしている。
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古代地理学者ストゥラボStraboの記述:“人々がソーマSomaと呼ぶ場所は王宮施設内の一部だった。高い壁で囲まれ、中には様々な場所があって、王やアレキサンダーの埋葬地もそこにあった”
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多くの学者は、ギリシャ人地理学者ストラボの情報が最も信頼できると考えている。彼の証言は彼自身が目撃した内容だった。
サウンダー「彼は、このアレクサンドリアを紀元前24年に訪れている。今我々がいるこの図書館の周辺を歩いて調べまわり、その際にアレキサンダーの墓を初めて間近に見て、それを記録に残している」
ストラボの記述に沿ってサウンダーは現在のアレクサンドリアのマザリータMazaritaという名の交差点にやってきた。
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彼は、ここにアレキサンダーの墓があったと考えている。もし彼が正しければ、ここは6百年間、大勢の巡礼者が訪れていた場所だ。
サウンダー「今は昔の面影が全く残していない場所を見るのは奇妙な感覚だ。通りにはワインや食料や肉などを売る人たちが大声を張り上げ、大勢の通行人が通っている。しかし、当時なら壁に囲まれていて、アレキサンダーやプトロマイ王室の墓など、大理石で造られた大きな霊廟が配置されていた場所なんだ」
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サウンダーは、ここに墓が造られたのは、極めて当然だと考えている。
サウンダー「ここが権力の中心地だ。従って、アレキサンダーがいなければならない」
しかし、問題なのは地理学者ストラボの記述だけが唯一の手掛かりだということだった。墓に関する他の人たちの記録を見ると、その位置については記述が曖昧だ。
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記述“プトロマイはアレクサンドリアの中心地に記念碑的な建物を建てた。そして彼はそこに祖先とその母と、そしてマケドニア人の王アレキサンダーも共に埋葬した”
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アンドリューズ・チャグは10年を費やして、古代の情報源を調査した。それらを全てつなぎ合わせれば、墓に辿(たど)り着くことが出来ると確信している。
チャグ「私が思うに、同じ時期に起きていた些細な事の全てを見つけ出し、それらの関係を調べることが重要だ」
彼は情報の中の重要な鍵は、アレキサンダーの墓が町の中心で、道路が交差する場所の近くにあったことだと考えている。古代のアレクサンドリアの地図は残されていない。しかし、全くないわけではない。19世紀、町が近代化する前に作られた地図がある。
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これを現在の地図に重ねてみると、どこを探せばよいか判るとチャグは主張している。

チャグ「私は、町のこの辺りが一番可能性が高いと思っている。道路が交差していた地点だ。古代の地図には、一帯の詳細が書かれている」
しかし問題があった。チャグが指摘する交差点はストラボが示した地区から400mずれていることだ。
チャグ「アレキサンダーの墓もあったという、壁で囲まれたソーマSomaはとても華麗で、広大だったはずだ。従って、王宮にも接し、更には交差点をも含んでいたんだろう」
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チャグの理論によればアレキサンダーの墓地複合体は王宮地区と町の中心の交差点の間で広大な一画を占めていたはずだという。どんな墓であろうと、大帝国を打ち建てた男の墓なら広すぎるということはないだろう。チャグはこの考えに基づいて町を調べ直してみた。

これはかつて町を囲んでいた城壁の一部で、町の北西部に残っている。
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アレキサンダーの墓が失われて1百年後に建てられたものだと学者たちは考えている。チャグは、この遺跡が最初に造られた城壁の一部だと言う。“アレキサンダーのソーマSoma”の城壁だと言うのだ。
チャグ「城壁はみすぼらしい石灰岩を沢山積み重ねて造られている。石の縁には切り欠きの跡が残されているが、それはプトロマイ時代の石壁の形式だ。私には、この壁が“アレキサンダーのソーマSoma”の物理的な証拠の一部だとしか考えられない」
もしチャグが正しければ、この壁はアレキサンダーの墓を囲むソーマの壁を想定する起点として使える。
チャグ「壁は南に6百m、西に8百m伸びていた」
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[広大な囲いの中のどこかに、見事なモウゾレアム霊廟が建てられていて、その地下に古代において最も魅力的だった王の墓室があった」
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チャグの理論は事実を整合させた見事な着想だと言える。ストラボが残した古代の情報と、チャグが指摘する墓の位置との差は彼の理論でうまく解消されている。欠けているのは、パズルを解き終えるために必要な確固たる考古学的証拠だ。今のアレクサンドリアで、そういった考古学的な証拠類を見つけ出すことは至難の業だ。
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更には、この考えと矛盾する理論もある。ザヒ・ハワス博士は、チャグが墓があったという場所から1百mほど離れたラテン墓地と呼ばれる場所に来ている。
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1905年、ここで4つの巨大なアラバスター(石膏と方解石からなる白い鉱物)が見つかった。今は元の墓になるよう再組立てされている。
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古代エジプトの伝統によれば、アラバスターはアムン神の石だ。ハワス博士は、アラバスターを使ってアレキサンダーの墓を造ったのかも知れないと考えている。

ザヒ・ハワス「アレキサンダー大王はアムン神の息子だった。とすれば、アラバスターで造られた建物の中で、アムン神に護られていなければならないだろう。墓室の中の壁の表面はとても滑らかだ」
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「高貴な人のためには典型的な手法だ。高僧や王以外には、このような贅沢な建物を造る余裕はなかっただろう」
外装の仕上げは粗いままだ。ザヒ・ハワス博士は、アレキサンダーの先人たちの墓の近くの地中に埋めて造られた墓だったからではないかと考えている。
ザヒ・ハワス「墓の造りに着目すれば、墓は地中にあったので外装は未完成だが、正面は完全にマケドニア風だと言える」
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この墓と、アレキサンダーの家系のために創られたと多くの人々が信じているマケドニアの墓とは、驚くほど似ている。
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建物の前面飾り(ファサード)はいずれも寺院の様相だ。ここがマケドニア人の王アレキサンダーが永眠していた場所なのだろうか?墓は多くの巡礼者たちが訪れ、ローマ帝国の皇帝も表敬する処だった。ハワス博士にとって、この階段は最後の頼りとも言える証拠だ。
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ザヒ・ハワス「この階段が人々を墓に導いていたのかも知れない。階段を下りていくと墓室への入口が待ち構えている。人々はそこで捧げ物をしていただろう。私は、この墓の位置と造りから、偉大な人物、例えばアレキサンダー大王、の墓だった可能性はあると思う」
ここは失われたファラオ、アレキサンダー、の墓かも知れない。2千年前、墓は人工の丘で埋められていたのかも知れない。墓室への入口は、マケドニアの騎士の絵が施されていた。
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そこを入って中に進んでいくと、第二の部屋があり、そこに歴史上で最も尊敬されている王の棺が置かれていたのかも知れない。

他の人たちは、この墓について別の見方をしている。
ニック・サウンダー「重厚で、独特の造りで、謎めいている建物だ。しかし、アレキサンダーの墓ではない」
サンダーの反応は他の多くの学者たちと同じものだ。
サウンダー「アラバスターの建物は高貴なギリシャ生まれのマケドニア人のためのものだったという考えは正しいと思う。見事なモニュメントだったはずだ。しかし、この墓がアレキサンダーのものだったという考えは、どうみても精査に耐えられるものではない」
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またもや問題は墓がある場所だった。墓の場所は町の中心だと言えるだろうか?それに規模も問題だ。アレキサンダーに相応(ふさわ)しい広大な墓といえるだろうか?
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近年の発掘によっても新たな証拠は見つかっていない。確固たる証拠に欠けていては、どんな墓でもアレキサンダーの墓だと言えることになってしまう。

アレキサンダーとアレクサンドリアの繋がりは名前以上のものであることを我々は知っている。アレキサンダーは町を創設した。しかし、町が生まれ始めたのを見た訳ではない。彼は、当時、世界で最も影響力を持つ町にまで繁栄したのを見ることはなかった。そして、彼の墓は、22世紀に及ぶ歴史の下の何処かに隠されてしまったのだ。
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最後に一つの捩じれtwistがある。最新の理論によれば、仮に墓を見つけても、そこも空(から)で遺体はないと言う。宗教上の激動で、遺体はアレクサンドリアから持ち出されてしまったはずだと言うのだ。アレキサンダーは最後の旅をしたのだろうか?西部砂漠の、黄金のミイラの谷と呼ばれる場所に移され、埋められたのだろうか?
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古代の記録によれば、4百年以上の間、アレキサンダー大王は彼が創設した偉大な大都市アレクサンドリアに造られた偉大な墓に保管され人々に公開されていたという。しかし西暦4世紀の終わりに始まった一連の宗教変革がエジプトを鳴動させた。最初にキリスト教、その後にイスラム教が影響を与えることになった。アレキサンダーへの信仰は、地下に押しやられ、彼の偉大な墓は忘れ去られ、破壊されることになった。とすれば、失われた彼の遺体はどうなったのだろう?
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サウンダー「一つの可能性として、彼の遺体は、グレコローマン(ギリシャ・ローマ)式の密かな信仰となって西ローマ帝国の流れを汲む限られた人々の間で守られていたという考えがある」
多くの学者たちはアレキサンダーの墓は空にされ、遺体は安全な場所に移されたと信じるようになっている。ザヒ・ハワス博士はその痕跡を追って、アレクサンドリアから320Km離れたバハリヤという名のオアシスを訪れた。
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1996年、ここで彼の調査隊のメンバーの一人が引き連れていた驢馬が、地中に埋まっていた、エジプト考古学の中でも最も驚くべき発見物の一つに躓(つまず)いた。
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直ちに発掘を進めてみると、辺り一帯が埋葬地だったことが判明した。墓のいくつかは豪華で、今では“黄金のミイラの谷”と言う名で知られている。
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エジプト人には馴染(なじ)みが薄いオアシスで、エジプトの伝統とは異なる埋葬が行われていたようだ。何かに引き付けられ、大勢の人が埋葬される場所になっていた。
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ザヒ・ハワス「ローマ人がいる。ギリシャ人もいる。ベドウィン(砂漠の遊牧民)もいる。エジプト人もいる。みんな丁寧に埋葬されている。この黄金の墓地に、みんな一緒に眠っているんだ」
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サウンダー「何千人もの異教徒の遺体を隠すには極めて適当な場所だと言えるだろう」
人里から遠く離れた砂漠の中に眠っているのはどんな人々だったのだろう?その答えは、この寺院の中にあるのかも知れない。
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この一帯で最も古い建物で、外観はとても慎(つつ)ましやかだが、内壁には古代の偉大な戦士が描かれている。神でファラオでもあると主張していたアレキサンダーだ!
ザヒ・ハワス「この人物がアレキサンダー大王だ。立った状態で、手には捧げ物のようなものを持っている。彼の前にはアムン神が立っている」
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アレキサンダーはアムン神が自分の父だと主張していた。寺院は大墓地necropolisの中心にある。エジプトの都市からは遠く離れたこの地で、アレキサンダーを神とする異教が護られていたのだ!
ザヒ・ハワス「黄金のミイラの谷がある場所が重要だ。それは寺院のすぐ前に広がっている。ここを訪れた人は、寺院に参拝し、捧げ物をした。建物のそばには、捧げ物が入っていた土器の残骸の山が残っている。この場所の様子から、アレキサンダーを敬う異教が長い間続いていたことが判る」
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ここバハリヤが17世紀の終わり頃まで祈りをささげる所だったことを示す証拠はある。今から4百年前も、人々はここでアレキサンダーを神として敬っていた可能性はあるのだろうか?
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サウンダー「エジプト人がキリスト教徒になった時、砂漠の中のバハリヤは無視されていた。そこで、アレキサンダーを神と慕う人々が、バハリヤの寺院に集まり、儀式を行っていたのではないだろうか。このことは、初期のギリシャ人キリスト教徒がアレキサンダー大王と不可思議な関係を持っていたことを暗示している」
我々は、まだ発掘されていない多くのミイラがバハリヤの砂の下で眠っていることを知っている。その数は恐らく数千を超えるだろう。アレキサンダーの遺体も埋葬されていると考えることも可能だろう。
ザヒ・ハワス「現時点で明らかなことは、ここに埋葬されている人々はアレキサンダーの近くで眠りたいと思っていたということだ」
アレキサンダーの墓は見つからないかも知れない。しかし、明らかになったことは、彼の埋葬地は一つではなかったということだ。それは、多くの肩書を持ち、多くの業績を成し遂げ、絶大な力を持っていた偉大な男に相応しいことかも知れない。
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我々は彼が最初にメンフィスに埋葬されたことを知っている。恐らくサッカラのネクロポリスだ。その後、彼は北のアレクサンドリアに造られた墓に移されたことは明らかだ。彼が眠っていたのは古代都市の中心地だった。そして、偉大な帝国が崩壊した後も、彼に対する信仰は生き残っていて、遺体は崇拝の対象として密かに守られていた可能性はある。彼の遺体が見つかるまで、人々はそれを探し続けるだろう。
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ビアンキ「歴史を変えた男を探し出せたとしたら、こんなに素晴らしいことはないだろう。彼が世界で行ったことは、見事という言葉では表すことが出来ない」
恐らく墓探しTomb Hunterたちは、その栄光を掴(つか)む寸前まできているのだろう。墓が見つかるまで、彼らの探索は休むことなく続けられるに違いない。死から23世紀たった今も、アレキサンダー大王は抗しがたい力を及ぼし続けている。
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サウンダー「彼は、人間の魂の、何か特別なものを代表している。それは例えば時代を超えた欲望であり、永遠の命かも知れない。それが我々を惹きつけ、彼を探し続けさせているのだ」
National Geographic Egypt Unwrapped 5of8 Alexander the Greats Lost Tomb
https://www.youtube.com/watch?v=hnznjmITg7w
・・・・・・・・・・・・
“黄金のミイラの谷”と呼ばれるネクロポリス(埋葬地)にアレキサンダーの遺体は移されていたのでしょうか?
バハリヤ・オアシスは地中海岸の町アレクサンドリアの南300Km,ナイルからは200Kmの砂漠の中のオアシスです。
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駱駝で旅をすれば、時速8Kmx10時間/日として、ナイルまたはアレクサンドリアから3~4日の旅でしょうか。ミイラ化された遺体を黄金の棺に入れて、運べない距離ではなさそうです。とりあえず、そこまで行けば、水は入手できますから生命の危険も低いでしょう。
で~バハリヤにあるアレキサンダー寺院の現在の様子ですが・・・
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確かに、控えめで、ここがアレキサンダー神を祀る総本山だったとは考え辛いですねぇ。手前には祈祷師たちが暮らしていたかもしれない部屋がいくつか見受けられますから、ギリシャ人やローマ人が、サハラの奥深くまで遺体を移動して埋葬していたとすれば、総本山の寺院といえども、こんなものだったのかも知れません。見つかった黄金のミイラを見ると、高貴な、裕福なギリシャ人が埋葬されていたのは恐らく間違いないでしょう。

しかし・・・だからと言って、アレキサンダーの遺体がバハリヤに在る、または在った、とは言えないでしょう。Wikiには、639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによってエジプトは征服されたとあります。この時、アレクサンドリアの墓にあったアレキサンダーの遺体はイスラム教徒によって廃棄された可能性が高いと思いますね。
それにしても、ムハンマドが死んだのは西暦632年ですから、イスラム教はあっと言う間に拡散したんですねぇ。そして、そこに根付いていた宗教を破壊していったと考えると、トランプ大統領でなくても、否定的な立場になる気持ちは判ります。しかし、キリスト教徒もアメリカ大陸でインディアンやアステカ人、インカ人を殺戮していますから、アレクサンドリアの墓にあったミイラを破壊したのは、キリスト教徒かも知れません。

しかし、神さまって恐ろしいなあと思います。mhは無神論者ですが、キリスト教であれ、イスラム教であれ、文句を言うつもりはありません。しかし、それを押し付けられるのは御免被ります。やっぱ、神を信じるのは、程ほどであるべきでしょう。
(完)

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mh徒然草:老後を楽しく暮らすには


(7月1日作成)
ブログ“mh徒然草”に載せる音楽を探していたら、ディズニーの漫画映画“Up”の画面とともにWestlifeが歌う“My Love”がありました。mhも3年ほど前、Youtube英語版で“Up”を観賞させて頂きました。
物語の粗筋は、幼馴染で冒険好きのカールCarlとエリーEllieの二人は結婚して愛情あふれる生活を送るが、老いて最愛のエリーが亡くなると、一人寂しく暮らしていたカールは決断し、風船で吊り上げられた家に乗ってラッセルRussellという名の少年と南アメリカのパラダイス滝(エンジェル滝)に飛び、幼い時にエリーと追い求めていた冒険談に登場する男に出会うと、波乱に富んだ体験をするっていうものです。

このブログの末尾に歌と映画のURLを載せておきます。映画は、音声や映像に問題があるものばかりなので、いくつかURLを載せておきました。ご関心がありましたらお試しください。

で~
本題に戻って~
老後を楽しく暮らすには、ってことですが~

映画“Up”でもそうですが、夫婦で楽しく暮らせればそれは一つの幸せの在り方だと思います。しかし、必ずどちらかが先立つんですね。先立った方は、それで終わるからいいんですが、残る方は、一人で残りの人生を楽しむ方法を見つけておかなければなりません。

子供がいれば、老後も一人ってことはないのかも知れませんが・・・Upのカールとエリーの間に出来た子は生きて生まれることはなかったんで、エリーは落ち込みました。が~カールが慰め、気を取り直して二人で楽しく暮らしていたのです。で~子供は子供の生活があるわけですから、やっぱ、老後は長生きした方が一人で暮らすと思っていた方がよいでしょう。

てことは・・・
老後でも一人で楽しめることを見つけておくのが老後を楽しく暮らす要点ってことになりますが・・・
世の中はそんなに単純じゃあありません!

歳を取ると、気が短くなり、自分勝手になり、忘れっぽくなって、夫婦で暮らしていても、諍(いさか)いとか、口喧嘩(くちげんか)が多くなり、映画“Up”のカールとエリーのように、仲睦まじく暮らす夫婦は少ないですね。これは残念ながら間違いないと思います。幸い仲睦まじく暮らせても、どちらかが先立ち、片方が残されます。

女房と一緒にいる時はじっと耐え凌ぎ、女房が死んだら一人で楽しもう、ってな考えでいても、女房の方が先立つとは限りません。従って、老後を楽しく暮らす方法となると、夫婦が楽しく暮らす方法、及び、一人残されても楽しく暮らす方法、の2つを考えておかなきゃあいけないことになります。

で~まずは、夫婦が楽しく暮らす方法ですが~
重要な事がいろいろありますが、物覚えが悪いmhは、一点主義です。自分の考えを捨てて相手に合わせる。これが最善だと断言できます。それ以外は、結局、最後は口論になっちゃうんですね。

世の中の人間を、自分の考えを主張し相手を従わせる人間と、自分の考えは主張せずに相手に従う人間の2つに分けて考えてみましょう。勿論、その他のケースとして、自分の考えを主張しても相手に従う人間、自分の考えは主張せずに相手を従わせる人間、もありますが、このタイプの人間は、今回の検討対象から外しても結論は変わらないので省略します。

で、自分の考えを主張して相手を従わせる人間は、もし連れ合いがいつも従ってくれなら問題ありませんが、そうじゃあない場合も必ず発生し、その時は言い争いになるんですね。しかし、従う人間なら、絶対に問題は起きません。意見が違ったら、相手に従えば済むんですから。つまり、はた目からは頼りなくても、従う人間になった方が幸せになれるってことです。

次に、一人でも老後を楽しく暮らす方法ですが~
健康は重要です。しかし、いつかは病気になるでしょうから、その時でも幸せに暮らせる方法が必要になります。で、はたと行き詰ってしまいました。実は別の答えを準備していたんですが、それより優れた方法に、今、気付いたんで、はたと行き詰ったってわけです。
その優れた方法とは何か、って言いますと・・・“今は楽しいなぁ!”って思うことですね。病気の時だって、今は楽しいなぁって思えばいいんです。生きていることだけで楽しいって思えれば、それが究極の答えだと言えるでしょう。で、これはお釈迦様の教えそのものじゃあないかって気がするんです。恰好よく言えば、“あらゆる欲を捨てる”ってことですね。

しかし・・・“言うは易く行うは難し!”
で~欲は捨てるよう努めるとしても、捨てられない時はどうしたら良いのか?

この場合の対応策は、ケースバイケースで、事態によって異なるんですね。で、どんな事態にも役立つことはっていいますと・・・
事態に応じて最善の策を考える力、つまり頭脳、を鍛えておくことだと思います。

老後を楽しく暮らす要点を纏めるとこうです。
1)他人の言う事に従う。
2)欲は捨てる。
3)頭脳を鍛える。
この3つのうちの一つでも習得したら、あなたは人生の達人として、健(すこ)やかな時も病める時も、一人の時も複数の時も、楽しい老後を過ごせるでしょう。

Westlife - My Love (With Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=WHyzxVlOI98&index=31&list=RDlX0ws6y7p5g
Up(Adventures with Carl and Russell)
映像・音声が綺麗な部分のみ2件
https://www.youtube.com/watch?v=wTDP-A--BhE
https://www.youtube.com/watch?v=9yjAFMNkCDo
映画全体3件
https://www.youtube.com/watch?v=5EaNDOEIpxw
https://www.youtube.com/watch?v=u3uSIl1-v8E
https://www.youtube.com/watch?v=iOz7xU0CyC0
(完)

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モーゼズの杖の不思議


モーセと聞いても解らない世代の方は、モーゼと聞けば“あぁ、あのひとね”って気付くんじゃあないでしょうか。英語ではモーゼズMosesと発音されているようですね。で、今回はモーゼズで通させて頂きますが・・・

旧約聖書の中でも最初に書かれたトーラは、モーゼズが神から聞いた言葉をモーゼズ自身が書き記したと考える人たちがいるようで、日本では“モーセ五書”とも呼ばれ、5つの書から成っています。
トーラの五書は、既にご紹介したはずですが、mhも忘れていますから、ここでおさらいしておきましょう。
1) 創世記Genesis(ヘブライ語の原題は「初めに」の意)
天地創造、アダムとイブ、ノアの方舟(はこぶね)、バベルの塔など
2) 出エジプト記Exodus(ヘブライ語の原題は「名」)
モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語
3) レビ記Leviticus(ヘブライ語の原題は「神は呼ばれた」)
祭司のための規定集と民に向けた規定集
4) 民数記Numbers(ヘブライ語の原題は「荒れ野に」)
(エジプトを出国して紅海を渡りシナイ半島に到着後) シナイ山における人口調査や、ヨルダン川に辿り着くまでの旅の様子や出会った人々の姿を記述。
5) 申命記Deuteronomy(ヘブライ語の原題は「言葉」)
40年にわたる荒野の旅をふりかえり、神への忠実を説く。
シナイ山で神から与えられた十戒を説く。
来るべき死への準備をし、ヨシュアを自らの後継者に任命する。

つまり、5書の第一巻ともいえる創世記を除く4書はモーゼズが主体の内容で、神の教えもモーゼズを介して記述されているのですね。で、モーセ五書とか、モーゼが書いたなんて言われている訳です。

今回のブログ「モーゼズの杖の不思議」ですが・・・杖がどんな奇蹟を起こしたかではなく、その杖が見つかった!っていう、びっくり仰天の不思議なんです。モーゼズが生きていたのは紀元前16世紀または同13世紀と言われ、はっきりしていないんですが、かなり遠い昔だったのは確かです。その不可思議な人物モーゼズがいくつかの奇跡を引き起こす時に使った杖が見つかった???

それでは早速、見つけた!と主張する人の話を聞いてみましょう。
・・・・・・・・・・・・
モーゼズの杖。それは聖書の中で、最も畏敬の念を鼓舞する奇蹟のいくつかを創造した。
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イクスター大学フランシェスカ・スタヴラコポウロウ教授「それはとても力強い儀式的な道具だったの」
それは蛇に変身し、ファラオを驚かした。それは、最初の大量破壊兵器の一つだった。それはエジプトで大きな災厄をもたらした。
オックスフォード大学ハイウェル・クリッフォード博士「神の力を行使する道具の一種だった」
それは紅海Red Seaを2つに切り裂き、そしてファラオの軍勢を溺れさせた。
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しかし、神の力をもつこの道具は、どうなってしまったのだろう?ある一人の男は、それがどうなったのか知っていると信じている。
フィリップス「モーゼズの杖は歴史上、最も強力な手工芸品artifactだ」
彼は、その有名な杖が古代都市を経由し・・・今の社会まで旅をしていると主張する。その杖は、タイタニックの事故を生き残ったのかも知れない。そして彼は、それが今、どこにあるか知っていると信じている。彼は正しいのだろうか?
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Secrets of the Bible 聖書の秘密
The Staff of Moses モーゼズの杖
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イギリスのバーミンガムBirmingham。2000年1月1日。
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そこは英国第二の大都市だ。図書館や博物館の宝庫のような都市で、英国でもっとも頑強な歴史探偵家の一人が暮らす町でもある。新しい千年紀の初日、グラハム・フィリップスは彼の次の挑戦について熟考している。フィリップスは神話の調査官とも言える男だ。これまで伝説を追い求めてきた。契約の箱Ark of the Covenantがある場所からアーサー王のキャメロット城があった場所まで。これらの話は、学術的な研究者たちは取り扱う事を喜ばないし、時にはしり込みする。しかし、フィリップスが解き明かしたいといつも考えていた物語がモーゼズだった。
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フィリップス「モーゼズはイスラエル人の宗教の創設者だ。彼がそれを始めたようにすら思われる。そこで、私は彼について調べてみようと決心したんだ」
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フィリップスは、特にモーゼズの杖に強く興味を引かれた。頑丈な杖は古代の単なる歩行補助具ではなかった。自然を手懐(てなず)け、帝国を彼の前に膝(ひざ)ませた武器だった。もし、モーゼズの物語が真実なら、その杖は今も残されているかも知れないとフィリップスは考えている。ひょっとすると、どこか、その辺りに!彼はそれを辿(たど)ってみようと決心した。
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フィリップスは調査を開始した。モーゼズはヘブライ人だが、エジプトで産まれたことが聖書から確認された。ヘブライ人たちは奴隷として働かされるために、エジプトに連れていかれていたのだ。
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オックスフォード大学ハイウェル・クリッフォード博士「モーゼズはエジプトの土地で、危険と脅威の中で産まれた。ヘブライ人たちの比率が増えてくると、エジプトの権威者たちは彼らが軍事的な脅威になるかも知れないと考えるようになった」
全てのヘブライ人の男の子供に対する死刑判決がファラオによって承認された。子供の命を心配したある母親は、子供を籠の中に入れ、ナイルの草むらの間に隠した。
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草むらの中で水に浮いている小さな籠の中に赤ん坊を見つけたファラオの娘が、自分の養子として育てることにしたと言われている。
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作家デイヴィッド・ロール「つまり彼は、2つの側面を持つことになった。セミテック語Semiteを話すヘブライ人であるとともに、エジプトのファラオの王宮における王子でもあったのだ」
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モーゼズはエジプトの王子として育てられたが、自分がヘブライ人の血を引いていることは忘れなかった。ある日、彼は人生を永遠に変えることになる決断をする。

クリッフォード「モーゼズが歩いていると、エジプト人がヘブライ人の一人を痛めつけているのを見た。彼は、そこに行き、エジプト人を殺してしまった」
身に危険が及ぶのを恐れ、モーゼズは東のミディアンMidian(mh聖書に記述された土地でアラビア半島の北西)に向かって逃げた。
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モーゼズはその後の40年を砂漠の中に身を隠して生き抜いた。

フィリップスが読んだ聖書によれば、ある日、モーゼズは既に老人になっていたのだが、神の声を聞いた。
クリッフォード「モーゼズが自然の荒涼のただなかにいると、藪(やぶ)で火で燃え盛っていた。その火は尽きることなく燃え続けていた」
炎の中から神がモーゼズに語り掛けた。神はモーゼズに持っている杖を地面に捨てるように言った。言われた通りにすると、不可思議にも、杖は蛇に変身した。神はモーゼズに、蛇の尾を掴(つか)むよう伝えた。彼がそうすると、蛇は元の杖に戻った。
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以降、この杖はモーゼズの超自然的な武器となった。

フィリップス「旧約聖書の中で語られていることに関して我々が信じるべきことは、モーゼズの杖は歴史の中で最も強力な工芸品だということだ」
神はモーゼズに、エジプトに戻ってヘブライ人たちを“約束の土地”に導くよう伝えた。モーゼズはエジプトに行き、ファラオに許可を求めたが、ファラオはヘブライ人たちがエジプトを離れることを禁じた。するとモーゼズは彼の杖を使ってファラオを恐れさせた。
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スタヴラコポウロウ教授「モーゼズは儀式の専門家で、ヘブライ人たちがエジプトを去れるよう、ファラオを威圧する、どんな不思議な手品も出来たのよ」
彼はファラオの前で杖を蛇に変えたのだ。
フィリップス「そしてモーゼズは言った“私はこの杖でもっとすごいことが出来る”と。彼は杖を使ってエジプトに10の災厄を起こした」
死んだ魚、死んだ牛、虱(しらみlice)、蠅(はえ)、そして蝗(イナゴlocust)・・・
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モーゼズは雹(ひょう)と暗闇の災厄を解き放った。
クリッフォード「エジプトの国家は組織的に解体されてしまった」
これらの災厄は全ての中で最も恐ろしい災厄への序章だった。最初に生まれた男子の死だ。
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クリッフォード「この時、ファラオとその家族の崩壊が始まったようだ」
ファラオはついに折れた。そして、聖書が言う出エジプト記Exodusが始まる。ヘブライ人たちはついに自由になった。
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しかし、ファラオは前言を翻(ひるがえ)す。ヘブライ人たちはファラオの軍隊と紅海で挟(はさ)まれて身動きできなくなった。するとまた、モーゼズの杖が助けの手を差し伸べる。それは旧約聖書の中でも最も見事といえる力の誇示だ。
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モーゼズは杖を使って紅海を分断したのだ。ヘブライ人たちは逃げ延びたが、追ってきたファラオの軍勢は、戻って来た水でおぼれてしまう。
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聖書によれば、紅海の分断の後、モーゼズとイスラエル人たちは、40年という長い年月の間、荒涼とした土地の中を彷徨(さまよ)った。そしてヨルダンを通り、約束の地に辿り着こうというところでモーゼズは死ぬ。彼の杖も、歴史から消え去ってしまった。
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謎を調べているグラハム・フィリップスにとって、杖が見失われているのは聖書の中の大きな謎の一つだ。地上のどこにモーゼズの杖はあったのだろう?
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フィリップス「我々はモーゼズの杖に何が起きたのか知っていない。聖書によれば、杖は彼と一緒に埋葬されただろうと推察できる」
ジョージワシントン大学エリック・クライン教授「多くの人々は、彼は杖と共に墓に埋められているという考えを受け入れることはできるだろう。普通、イスラエル人は身の回りの品物を遺体と一緒に墓に埋葬する。小さな甕(かめ)とか、小刀(こがたな)、ビーズや首飾り、スカラベ(カブト虫のお守り)などだ」
フィリップスがしなければいけないことは明確なようだ。モーゼズの墓を見つけるのだ。そうすれば、恐らくそこで、彼は杖を見つけるだろう。
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フィリップス「私は不思議な墓の探求に関する2,3の本を書いていたので、モーゼズの墓だって見つけられるんじゃあないかと思った。手を尽くしてモーゼの墓を見つけようって決心した」

フィリップスは、モーゼズの墓は彼が死んだ場所の近くにあるはずだと予測した。しかし、その場所はどこか?彼は聖書を読み直すことにした。モーゼズが埋葬された場所について何か記述があるはずだ。
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最初に見つけた記述は“今日まで、誰も彼の墓地について知らない”とぶっきらぼうに言っていた。フィリップスは調査を始めたばかりの段階で、固い壁に突き当たってしまった。しかし、モーゼズの墓地が忘れ去られてしまったとは信じられなかった。聖書の申命記Deuteronomyと民数記Numbersを読んでみたら、彼が調べることができる他の記述箇所があった。この2つには期待できる同じ内容が書かれていた。モーゼズの弟アーロンの埋葬地について書かれている!
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フィリップス「申命記Deuteronomyと民数記Numbersの中で2回も、モーゼズは弟アーロンの近くに埋葬されたと書かれていたんだ」

アーロンはホー山Mt. Horに埋葬されたと言う。兄弟が近くに埋葬されるのは極めてあり得る話だ。
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フィリップス「モーゼズもホー山の近くの何処かに埋葬されていなければならないはずだ」
幸運にもフィリップスはホー山の正確な位置を知っていた。杖を探すには、ヨルダンに行く必要がある。
フィリップスは首都アンマンに飛び、そこから車で南の沙漠に向かった。アーロンが埋葬されていると言われるホー山は“ジェベル・ハルーン”と言う名前でも知られている。
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山はヨルダンの最も有名な遺跡で薔薇(ばら)の都市ペトラを睥睨(へいげい)している。
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デイヴィッド・ロール「ペトラは世界の偉大な不思議の一つだ。美しく、見事な寺院や墓が、赤い砂岩の中に刻まれている。秘密の場所で、隠れるように造られていて、そこに行くにはシークと呼ばれる細い渓谷を通り抜けねばならない」
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これらの華麗な砂岩の構造物はナバテアという名で知られる文明によって造られた。モーゼズの時代から1千年ほど後の、紀元前3世紀から造られ始めたものだ。

フィリップスは、目の前にある遺跡の大きさに打ちのめされていた。面積は広大だ。ここでモーゼズの墓を探すのは草の山の中から1本の針を探すようなものだ。
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フィリップスは大地の中で、この場所とモーゼズを結び付ける特徴のようなものがないか探し始めた。
すると突然、フィリップスは“ワディ・ムサWadi Musa”に出くわした。“モーゼズの谷”だ。
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デイヴィッド・ロール「モーゼズが生涯の一時期、この地にいたというアラブの伝統がある。エジプトから約束の地へ彷徨(さまよ)う物語の中でペトラはある役目を演じている」
つまりフィリップスはモーゼズの足跡を辿っているということだ。この地をモーゼズの物語と結びつける、もっと別の印がないのだろうか?少し進んでいくと、フィリップスは聖なる泉に出会った。
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それは“エイン・ムサ”と呼ばれている。“モーゼズの泉”だ。
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フィリップス「モーゼズが彼の杖で岩を突くと、奇蹟の泉が生まれたと言い伝えられている。おかげで砂漠の中を歩いていても、イスラエル人たちが喉(のど)の渇(かわ)きで死ぬことは無かった」
調査の方向は間違っていないと確信したフィリップスだが、まだ、ヘブライ人たちの墓に似たものを探し出してはいなかった。彼は、記念の石とでも言うような、もっと明確な手掛かりを必要としていた。しかし仮にそれを見たからといって、どうすればそうだと彼に判ると言うのだろう?

グラハム・フィリップスはモーゼズの杖を求めて調査を進めている。モーゼズの杖は、彼がそう望めば、蛇に変化することが出来た。
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ホー山の麓(ふもと)で、フィリップスは、モーゼズの墓に関する聖書の記事を読み直してみた。すると、これまで見逃していた細かな点に気付いた。申命記には“モーゼズがベス・ピオールBes-Peorに向かって埋められている”と書かれている!
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フィリップス「ベス・ピオールの文字通りの意味は“蛇の家”だ。“蛇の場所”という意味もある。つまり蛇がいる場所だと言っているのだ」
民数記はもっと有望だ。それによれば、イスラエル人たちが自然の中で暮らしていた時、モーゼズは不思議な蛇の飾りiconを造った。
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クリッフォード「モーゼズは蛇を使って神の力を発揮していたのだ」
フィリップスは蛇の像を求めて古代の谷を詳しく調べてみた。すると、ホー山の影の中に、奇妙な作り物を見つけた。大きな像で、蜷局(とぐろ)を巻いた蛇のようだ!
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フィリップス「私はこここそがモーゼズが埋葬された場所だとの思いに打たれて立ちすくんでいた。聖書によれば、“今日まで、誰もモーゼズの墓場がある場所を知らない”という。でも私はその場所に立っていたんだ!墓はその直ぐ近くになければならなかった。私はとても感激していた。私の人生における最高の瞬間だった」
フィリップスは、その近くに墓のようなものが見当たらないか、探してみた。そこに杖があるはずだと思っていた。蛇のモニュメントの周りには、沢山の穴が掘られていた。
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一人では調べきれない。発掘することなどはとてもできない。ペトラはヨルダンの国宝だ。もし脆弱(ぜいじゃく)な砂岩を傷つけたら、大きなトラブルに巻き込まれることだろう。彼の探求は、やるせない結末を迎えることになった。フィリップスは、これまで、誰よりも自分が、モーゼズの墓を特定できる一番近い所まできていると感じていた。しかし、結局、不可思議な杖は、これまでのように不可解なままになってしまうのだ。不本意だったが、彼はイギリスに戻った。
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バーミンガムに戻ると、フィリップスはモーゼズの杖を探し出すため、他に何が出来るかを考えてみた。
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彼は手元においていた本を調べ直すことにした。彼の調査で疑問が残っていた一点は、鍵となるヒントの翻訳だった。ベス・ピオール、つまり蛇の家という解釈は、他の人々に共有されていた訳ではない。
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ケンブリッジ大学マーティン・ワーシントン博士「ヘブライ語における“ピオール”はバール・ピオールとか、ベス・ピオールとかはピオールの家とか神のピオールとかを指す。しかし、私が知る限り、ピオールが蛇を指す言葉とは思えない。正直なところ、私はその考えには懐疑的だ」

フィリップスはその疑いを晴らす手段は持っていない。偶然か計画的かは別に、彼はペトラで、伝統がモーゼと繋がっていることを示す幾つかの特徴を確認している。現場でそれを調べることが出来ないのなら、バーミンガムの図書館や博物館など、自宅になるべく近い場所で手掛かりを得られないだろうかと考えた。
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彼の生まれ故郷の町は手工芸品や歴史的な書物などを持つ宝箱だ。ひょっとして先人の探求者たちがモーゼズの墓を見つけていないだろうか?
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調べていると、ある一つの記事がフィリップスの眼を引きつけた。それは奇妙な墓の解説書だった。2人のイギリス人冒険家の日記だ。
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絵師のデイヴィッド・ロバーツと、彼の友人ジョン・キニーアのもので、彼らは19世紀にペトラを訪れていた。旅先の様子はロバーツの風景画に残されていた。
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フィリップス「1839年、ヨルダンのペトラで、彼らが様々な古い墓を発掘していたことに私は気付いた」
彼らは蛇のモニュメントの後ろ側を調べていて、ある墓を発見したようだ。
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フィリップスによれば、ロバーツとキニーアは墓が特別なものだとは考えなかった。フィリップスは読み続け、彼らが遺体の痕跡を見つけたかどうか確かめてみたが、見つかっていなかったようだ。フィリップスが、その報告書を図書棚に戻そうかと思った時、彼らがあるものを見つけたと記述した文に気付いた。それは骸骨ではなかった。もっと好いものだ。黒く塗りが施された木製の杖だ!
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フィリップス「杖が見つかっていたんだ!杖だとすればモーゼズが紅海を分割した、その杖じゃないのか?」
しかし、彼らは、見つけた杖をどうしてしまったのだろう?

2000年7月3日。グラハム・フィリップスがモーゼズの杖の探求を初めて6ヶ月が経過していた。19世紀の冒険家ロバーツとキニーアのペトラに関する報告書のおかげで、彼はついに一連の手掛かりを集め終えていた。
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あとは、彼らが見つけたという杖の行方(ゆくえ)を追跡すればいいだけだ。杖に何が起きたのかを追跡しようと、パズルの断片をつなぎ合わせてみた。それによれば、キニーアは杖をイギリスに持ち帰ったようだ。しかし、彼の元に長く留まってはいなかった。フィリップは、杖が骨董蒐集家ジョン・ウィルソンの手に落ちたと言う。ウィルソンはその杖をデヴォン伯爵に売ったとフィリップスは考えている。伯爵は、イギリス南西部のサザンプトンSouthamptonにあるパウ・ドゥルハム城で杖を保管していた。
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そして1912年、杖は再び売り渡された。今回はアメリカ人の骨董蒐集家スタンリー・メイ氏に。
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フィリップス「デヴォン伯爵夫人の当時の日記によれば、アメリカ人で伯爵家の友人でもあるスタンリー氏は滞在するために城を訪れ、伯爵が所有していた多くの古物にかなりの興味を持った」
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「そして伯爵が彼に譲った工芸品の一つが、その杖だった」

フィリップスは、杖を追って1839年のペトラから1921年のサザンプトンまでの全ての道程(みちのり)を辿ってきた。そして1912年4月12日、メイは杖とその他の財宝を手にアメリカ合衆国に向かう船に乗ったようだ。するとフィリップスは驚くべき発見をする。それは、その船にとっての処女航海で、最後の航海だったのだ!
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海運歴史家ティム・マルティン「スタンリー・メイ氏にとって不運だったのは、彼が旅をしようと選んだ船がタイタニックTitanicだったんだ」

フィリップス「杖がタイタニックに載ったことまで追跡した時、私はどこでタイタニックが沈んだのかを知っていた。これで終わりだと思った。ずっと追跡してきたが、今や大西洋の底に杖はあるのだって」
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フィリップスは新たな疑問に向かい合うことになった。メイ氏の家族はどうなったのだろう?彼らは生き延びたのだろうか?そして、その時、杖も一緒に持っていたのだろうか?
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あらゆる望みをかけて、フィリップスは記録を調べてみた。掛け率は悪いことは知っていた。
マルティン「タイタニックにいた2000人以上の人の内、3分の2はおぼれ死んだ。そしてたった7百人の生き残りが救助船カルパチアCarpathiaによって救い出された」
メイ氏の家族の名は生存者リストに記載されていなかった。フィリップスは死亡者リストも調べてみた。そして、奇妙なことに気が付いた。死亡者リストにも名が見つからない!
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メイ氏は、何らかの理由で、この悪夢の悲劇を回避できたのではなかろうか?
フィリップスは、船が沈んだ時、メイの家族は乗船していなかった事を発見した。
マルティン「信じられない程に幸運なことに、スタンリー・メイはニューヨークには向かっていなかった。タイタニックは向かっていたのだが。メイ氏の家族はクイーンズタウンで下船していた。彼らは南アイルランドで1週間のドライブ旅行をしようと考えたのだ」
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スタンリー・メイと有名な人物たちは“氷の死”を避けることになった。とすれば、杖は今どこにあるのだろう?
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フィリップスは、次々と変わる出来事が信じられなかった。杖が現代まで生き残っていたことは聖書における奇蹟だった。
フィリップス「杖は生き延びていた。大西洋の底にあったのではなかった。私が次にしなければならないことはメイの家族がその杖で何をしたかを見つけ出すことだ」
フィリップスは自信をもって杖の追跡を再開した。タイタニックの惨事から1年後、メイは著名な英国人考古学者エドワード・アイルトンに杖を売ったようだ。
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アイルトンは1940年に死んでいる。彼の手工芸品類は梱包され、船でニューヨークに送られ、メトロポリタン美術館に贈呈された。結局、杖はアメリカにあるのだろう。
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しかし、フィリップスが調査を続けていると、幾つかの手工芸品は、別の場所に送られていたことに気付いた。ある一つの品物は大西洋を渡らず、まだイギリスに留まっていた。“祭司のための杖”とある!杖がどこにあるのかを探し当てたフィリップスは仰天した。バーミンガム博物館だ!
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フィリップス「そこで、私は文字通り大急ぎで階段を駆け下りて玄関を飛び出すと、建物と博物館を分けている広場を横切り、博物館の階段を駆け上がってエジプト展示室に飛び込んだ」
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「これだ!っと思った。1830年代に蛇のモニュメントの近くで見つかった杖だ。それが今も、展示されている!私が正しければ、そして私の全ての調査が間違いでなければ、そして勿論、私はそうだと信じているのだが、私は、モーゼズが紅海を分断するために使ったと聖書が言っている杖を見ている!と感じていた。驚いたという言葉は不適切だろう。驚愕(きょうがく)したと言った方がいい」
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杖は美しかった。長さは135cmで黒く塗られ、その上に白くヒエログリフが書かれていた。これがモーゼズの杖なのか?
フィリップスが最初にしたことは、ヒエログリフの翻訳だった。ヘブライ語ではなく、エジプトのヒエログリフだった。それに気付くと疑いが芽生えた。フィリップスは、ヒエログリフが杖はファラオの娘の執事か召使いのものだと言っていることに気付いた。その男の名はトゥトゥモーセスだ。
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杖の記述はモーゼズについて何も触れていない。
ブリストル大学アイダン・ドドゥソン博士「棒に書かれている文字を読んでみると、それば王家の王女の執事でモーザーと呼ばれる人物のものであることは明らかだ」
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間違った名が記されたのではないのだろうか?それとも、モーゼズとトゥトゥモーセスは同一人物なのだろうか?

エルサレム。今から2千5百年前、ここでモーゼズの物語が書き記された。
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しかし、その物語は、西暦1世紀、ユダヤ人歴史家ジョセィーフェスによっても記録されていた。彼の記述によれば、モーゼズは単に王子だっただけではなく、ファラオの軍の将軍でもあった。エジプトの歴史を調べてみたグラハム・フィリップスは、この記述に適合する将軍を見つけ出した。
フィリップス「私はジョセィーフェスの記述に適合する人物を将軍の中で探してみた。一人見つかった。紀元前1360年に生きていた男で、単に将軍だっただけではなく、ファラオの家来としても活躍している。彼の名はトゥトゥモーセス(mh日本語Wikiではトトメス)だ!」
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全くの偶然かもしれない。しかし、フィリップスはモーゼズとトゥトゥモーセスの間の更なる直接的な類似点を見つけた。手掛かりは、出エジプト記に書かれている物語の中にあった。

モーゼズはイスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し、紅海を横切ってシナイ半島の荒涼に辿り着いている。フィリップスには出エジプト記の時期が重要な問題だった。聖書学者の多くは、それが紀元前14世紀の中頃に行われたと考えている。驚くべきことに、フィリップスはトゥトゥモーセスもエジプトを離れたかも知れないということを発見した。しかも、歴史の中で全く同時期に!
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フィリップスは、トゥトゥモーセスのために準備されたと彼が考えている墓の中でその証拠を見つけたのだ。
フィリップス「アメンホテプ4世の家来と言われるトゥトゥモーセスの墓は、イタリア人考古学者ジオヴァンニ・ベルゾーニによって王家の谷で発見された」
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フィリップスによれば、ベルゾーニは墓がトゥトゥモーセスの遺体を埋葬していなかったことに気付いたという。ベルゾーニが気付いたことに関するフィリップスの解釈は、議論を呼ぶものだった。
ドドゥソン博士「ジオヴァンニ・ベルゾーニはトゥトウモーセス王子の墓を発見してはいなかった。ベルゾーニは自分の発掘成果を脚色して発表したのだ。彼が何の墓を発見したのかについて我々は正確に知っている。それはトゥトゥモーセス王子のものではない」
フィリップ「トゥトゥモーセスの墓は見つかっていないと人々が主張するのは、トゥトゥモーセスの遺体が彼の墓と言われる場所で見つかっていないからだ。しかし、見つかった墓は、彼のために準備されたものだ」
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トゥトゥモーセスの遺体がない墓は、ある手掛かりをフィリップスに与えてくれた。
フィリップス「極めて身分の高い、ある人物のために準備された、その上、使われたこともなく、盗掘もされていない墓が見つかったということは、その人物が何らかの手段で辱(はずかし)められたことを明確に示している。その辱めとは多分、追放だろう」
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フィリップスは、恐らくトゥトゥモーセスがエジプトの神に従わなかったので追放されたのだと疑っている。トゥトゥモーセスは自分の名前から“トゥトゥ”という月の神の名前を取り去り、単にモーセスと変名してイスラエル人たちの神を擁立(ようりつ)したのではないのだろうか?
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トゥトゥモーセスが消え去った時期は紀元前1360年だ。それは多くの人にとっては出エジプト記と同じ時期だ。フィリップスにとってみれば、それは単なる偶然の一致以上のものだった。
フィリップス「トゥトゥモーセスが間違いなくイスラエル人たちを自由な身に導いたという決定的な証拠はない。しかし、彼らが自由に向けて飛び立ったのはトゥトゥモーセスが歴史から消えた時期と完全に一致しているという、極めて確定的な状況証拠はある」

全てが繋がって意味を持つようになった。どちらの男も王室で育った。二人とも軍の司令官だった。二人とも同じ時期にエジプトから消え去った。フィリップスには、トゥトゥモーセスとモーゼズが同一人物としか考えられなかった。
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フィリップス「それに気付いた時、私は愕然(がくぜん)とした」
フィリップスは、バーミンガム博物館に保管されている杖こそがモーゼズの杖だと確信している。しかし、彼の確信を共有するエジプト学者はいない。
ドドゥソン博士「トゥトゥモーセスという王子は存在していた。彼は軍隊の司令官だった。しかし、トゥトゥモーセスは第18王朝において極めて一般的な名前だ。同じ名前のファラオは4人いて、多くの王子も同じトゥトゥモーセスという名を持っていた。従って、しばしば、一人の個人を他の一人または大勢と取り違える可能性は高いのだ」
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フィリップスは自分の発見に強い確信を持っていた。そこで彼は他の人たちからの支援を得ようと考えた。彼は杖の現在の保管人であるバーミンガム博物館に接触してみた。しかし、彼らもまた、フィリップスの主張に納得しなかった。
フィリップス「バーミンガム博物館の学芸員たちは、保管している杖がモーゼズのものだとは全く保証してくれていない。それはそれでいい。しかし不幸にも、彼らはその杖が1950年よりも古い物だと関係づける記録すらも持っていない」
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博物館側は杖のこれまでの履歴が明確ではないことを認めている。理屈上では、それはヴィクトリア時代の贋作(がんさく)の可能性だって高い。
フィリップス「ひょっとすると最初の発見者のロバーツとキニーアが作り出したものかも知れない。彼らはペトラとか、そういった場所にすら行っていないにも関わらず、作った杖を他人に売りつけたのかも知れない」
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フィリップスが望んだのは、杖に関する真実を確定することだけだった。本物か?それとも偽物か?彼は杖の木材の年齢を確定する炭素年代測定を望んだ。
フィリップス「もし炭素年代測定で杖の木が紀元前1360年から1350年頃のものだと判れば、この杖が紅海を分割した杖かもしれない、と人々は積極的に支持してくれるだろう」
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炭素14によるテストが実施されるまで、多くのエジプト学者はフィリップスの主張に懐疑的なままだろう。
ドドゥソン博士「本件に関して断言できるのは、何人かのエジプト学者たちが言っている誤解に基づいているということだ。私が知っている限りの証拠に基づいて言うなら、杖は存在しない」
しかし、もしフィリップが正しくて、この杖が紀元前1350年まで遡るものだとすれば、バーミンガム博物館は世界でも最も価値がある聖遺物の一つを持っていることになる。
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フィリップス「もし、あなたはモーゼズの杖を見つけたのかと問われたら、私の心からの叫びは、Yesだろう」
何人かの人々にとっては、この杖が辿った歴史は聖書の中のモーゼズの杖と同じ程度の奇跡のように思えることだろう。この杖は更なる驚きをも隠し持っているのだろうか?
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Has the Staff of Moses been discovered?
https://www.youtube.com/watch?v=5chAaAApvW0
・・・・・・・・・・・・
バーミンガム博物館に展示されている件(くだん)の杖です。
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どんな説明書きが付されているか、ネットでは見つかりませんでした。

エジプトはトルコやヨルダン辺りまで、何度も軍事遠征していますから、奴隷としてイスラエル人を連れ帰った可能性は高く、イスラエル人たちが集団脱走して故郷に向かった可能性も高いと思います。脱走のリーダーは仲間から尊敬され、モーゼズと呼ばれる人物になって聖書に書かれた可能性も高いと思いますが、モーゼズという名はエジプトでも結構、一般的だったかもしれませんから、リーダーの名は、やっぱモーゼズかモーセスだったかも知れません。

しかしですね、その彼が持っていた杖で紅海を切り裂いたってなことは、とても信じられません。杖は持っていたかも知れませんね。何故って、死んだ時、彼はかなりの老人だったわけで、杖なしでは歩行不可能だったことは十分考えられます。この辺りの話に尾ひれがついて、ヘブライ聖書のトーラが出来上がったんじゃあないのでしょうか。

しかし・・・モーゼズなる人物が3千年以上も前に使っていた杖が、バーミンガム博物館にある杖だとは思えませんねぇ。黒地に書かれた白いヒエログリフが綺麗すぎます。いくら乾燥地にあったからといっても、劣化せず、あんなにもきれいに、くっきりと残されているはずはないと思います。

木材の炭素年代分析ですが、博物館が実施したっていう記事はネットでは見つかりませんでした。無視しているんじゃあないかと思います。

それにしても、グラハム・フィリップス氏が、彼の仮説というか物語というべきだと思うんですが、その物語を、見事に辻褄合わせしていることに感服させられました。きっと皆さんも同じ思いでしょう。しかし、彼が並び立てている証拠のどれがどこまで真実なのかについては、多くの疑念が残っています。本件については彼の著書“The Moses Legacyモーゼズの遺産”を読めば、もう少しクリアーになるかも知れません。
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2002年4月11日付BBCニュースによれば次の通りです。
An ancient staff in a British museum may be connected to the Biblical figure of Moses, a new book claims.
イギリスの博物館における、ある古代の杖は、聖書の中の人物モーゼズに関係しているかも知れない、とある新刊書が主張している。

さて、皆さんのご感想やいかん。
(完)

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mh徒然草: 韓国の方がおかしいか?

(6月25日作成)

日本もですが、韓国の方がもっとおかしいのではないかと・・・

6月20日、韓国の文大統領は米ワシントン・ポスト紙のインタビューで、慰安婦問題について「(解決するためには)日本政府がその行為について法的責任を受け入れ、公式に謝罪することだ」と発言しました。(mh河野談話で謝罪し、それを追認したんじゃあ不十分ってことなんでしょうか?)
これを聞いた日本外務省は22日、在韓日本大使館の鈴木秀生次席公使が韓国外交省の鄭炳元(チョンビョンウォン)東北アジア局長に電話し、「2015年末の日韓合意で『最終的かつ不可逆的解決』を確認している」と申し入れたっていうんですね。

更に22日のロイター通信のインタビューで文大統領は「日本は、慰安婦問題を含む韓国との歴史問題を解決するための十分な努力をしていない」と指摘したので、翌日、日本外務省幹部は在日韓国大使館次席公使に電話し、日本政府の立場を伝えたといいます。

文氏は他の大統領選候補と同様、大統領選挙中から慰安婦問題に関する日韓の『最終的かつ不可逆的解決』を見直す立場で一貫しているのですが、日本に問題提起せず、海外メディアに愚痴っているんですね。前大統領の朴氏の時から、ネットで韓国の“告げ口外交”が話題になっていましたが、韓国って妙な外交をするんだなぁ、というのがmhの第一印象です。

文氏の発言には若干の伏線があって、彼ばかりがおかしいわけじゃあありません。
安倍首相の特使として韓国を訪れた自民党の二階幹事長は、6月10日の韓国メディアとのインタビューで「日本はお金を支払った。最初から再交渉しようというような愚かな話をすることは、国際的には通用しない」と答え、その後、韓国議員らとの会合でのあいさつで、日韓の関係改善を妨げる動きについて「一握りの悪巧みをする連中は見つけたら撲滅しましょう」と述べているんですね。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/11/japan-korea_n_17037268.html
これじゃあ、文大統領を恫喝(どうかつ)しているも同じです。だから文氏がアメリカで告げ口した、ってことじゃあないとは思いますが・・・
それにしても、二階幹事長もおかしいですが・・・
文大統領の対応はもっとおかしいと思いました。

慰安婦問題については、いろいろな問題はあるとはいえ、『最終的かつ不可逆的解決』を日韓両政府(外務大臣)が宣言したんですから、卑怯な物言いだとは言え、それを守るべきだと言う二階氏の発言は“一寸の虫にも五分の魂”で、間違った指摘ではありません。
が、文大統領の、所謂(いわゆる)“告げ口外交”は頂けませんねぇ。文大統領は、外交に不慣れでしょうが、そんな時こそ、筋を通すことが大切で、正々堂々と日本に見直し要請すればいいじゃあないかと思います。そうしないってことは、恐らく、見直しするか、とすればどう見直すか、などについて韓国政府の方針が決まっていないので、愚痴っているってことでしょう。それは戯言(たわごと)でしかなく、日本としては正式な提案があるまで静観していればいいと思います。

対馬の仏像盗難問題では、多くの韓国民すらもおかしいと思っている、仰天の判決が韓国地裁で出ていますし、竹島(独島)問題は、国際司法裁判所での仲裁を拒否するなど、自分の都合が悪いところは蓋(ふた)をするか、自分の考えだけを主張する一方で、相手の都合が悪いところを声高に非難する、妙な体質が韓国にはあるんじゃあないかと邪推せざるを得ません。

ま、こういった傾向は、韓国ばかりじゃあなく、日本だって、他の国だってあるのですが、日本に対する韓国の態度は異常だと思います。それは、日本による韓国併合の怨(うら)みを今も忘れ切れずにいるからじゃあないかと思いますが、太平洋戦争が終わって70年以上過ぎてもまだ拘(こだわ)り続けるってのは、韓国の未来にとっても良いこととは思えません。その辺りを文大統領はどう考えているんでしょうねぇ。

このブログの公開予定は一カ月半後の8月11日ですが、その時点でも韓国政府から不可逆的解決の見直し提案が正式になされていなければ、韓国政府は内心では不可逆的解決を認めていると思います。とすれば、韓国民の情緒に合わせたご都合主義を捨てて、未来志向の関係を目指すべきでしょう。
もし、見直しを望んでいるのなら、早く日本政府に正式提案すべきです。その時、“1mmたりとも譲らない!”ってな、つまらぬ発言を日本が繰り返すとしたら、日本は世界の笑い者になることでしょう。しかし、正式提案はせず“告げ口外交”を続けているなら、笑い者になるのは韓国です。

Delilah - Tom Jones ( with lyrics )
https://www.youtube.com/watch?v=2FCiyeyuF0g
(完)

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夏王国の不思議


今回は前置き無しでYoutubeフィルムをご紹介しましょう。
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伝説によれば中国最初の王朝である夏は、紀元前2千年の少し前、自然災害から生き残った人々によって設立された。
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当時、黄河は、何年もの間、土手を決壊しては恐ろしい洪水を引き起こし、僅かな人たちだけが生き延びていた。この大洪水に立ち向かった一人の男がいた。彼は、直ぐに地域の指導者に指名され、最初の偉大な東洋文明の創始者になる。禹(う)または大禹(だいう)と呼ばれる男だ。
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長い間、この寓話は、後世の王国の権力者たちの中央集権を正当化していた。伝説に従えば、夏王国が全ての中国人に共通の祖先だ。しかし、2001年、考古学者たちは紀元前2千年に洪水により荒廃した都市の残骸を発見した。年代は伝説に一致する!洪水で運ばれた泥水に埋まってしまった犠牲者たちの遺体の発見は、伝説が事実に基づいていたことを示していた。
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すると次の単純な疑問が生まれてくる。洪水が起きていたなら、夏王国の人々も存在していなかったのではないのだろうか?この伝説の王国を追跡しようと考えて中国文明の源まで遡った考古学者たちは、新石器時代の偉大な文明を再発見し、4千年前の謎を解くことになった。

国家権力を掌握するには、しばしば、国の歴史を探索する必要にせがまれるが、中国もその例外ではない。秘密を明らかにする魅力には終わりはない。これまでで初めて、中世の王国が中国文明の最も古い起源への旅の扉を開けている。
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そこから、伝説の向うへの、2千年の古代を遡る旅が始まる。偉大な王国を発見する旅だ。それは快い芸術作品でもあり、繁栄していたにも関わらず死に絶え、消滅していた文明でもある。これまで知られていなかった見事な色彩に包まれている秘密の中国の中心部への旅は、多くの文化に影響を及ぼすだけではない。古代に生まれた偉大な国家の起源への旅路とも言えるだろう。
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中国の起源
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近代中国の歴史は今もなお、その文明や言語の多様性にも拘わらず、またはそれゆえに、書き続けられている。
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中国はその特異性を主張しようとさえしている。小学校でさえも、生徒たちは中国史の勉強をしている。
先生「これは何て読むのかな?」
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生徒たち「ホアシャー」
“華夏ホアシァー”の語源は知られていない。夏シァーという名は黄河の谷に沿って定住していた最初の王の家系だ。中国の人たちが領土に関心を示し出した頃、この家系が、古代の歴史における国家の発祥元になったと考えられている。しかし、夏王国の存在はこれまで証明されていない。前漢時代の紀元前1世紀、偉大な歴史家司馬遷によって書かれた記録書“史記”によれば、黄河谷の中流に拠点をおく、連続する3つの王国があった。
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それらは、紀元前2000年から同1600年の夏XIA、同1600年から同1050年の商SHANG(mh殷とも呼ばれます)、そして同1050年から同221年の周ZHOUだ。
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伝統的な歴史家たちによれば、これら3つの王国が、黄河にそった中国文明の揺り籠の地で、文明化された社会を創り上げた。20世紀初めに中国人たちによって行われた発掘では、初期の青銅器の記念すべき発見があり、商と周の存在が確認された。
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そして、ほぼ同じ時期に、西洋人たちも中世の王国を興味を持って調べていた。フランス人のエドヴァーク・シャバーンは司馬遷の記録を翻訳した。中国人で骨董収集仲介人のルー(魯?呂?)は中国芸術との関連で、西洋人たちに良く知られるようになった。ルーは1920年、パリのど真ん中にパゴダを建てた。
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フランス人考古学者たちは、文字記録の最初の例(mh甲骨文字)という新たな宝が見つかると、ますます中国への関心を持つようになった。

フランス人講師オリヴィエ・ヴェンチャー「中国で文字が現れたのは紀元前13世紀の中頃、つまり商王朝の終わり頃だ。この時期の記録の証拠のいくつかを我々は持っていて、それらは商の時代に関する司馬遷の年表との相関を裏付けている。その一方で、それ以前、つまり商王朝の初期については、記録証拠は全く持っていない。我々が頼れるのは考古学的な遺物だけだ」
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書き記された証拠が何もなければ、新石器時代の終わりに続いて勃興(ぼっこう)した王朝の間を結ぶ真の失われたリンクとも考えられている商王朝の存在を確定することは困難だ。考古学的な発見のみが謎を解く助けだった。

しかし、1937年、全ての発掘作業は中断されてしまった。日本による占領で、中国の多くの地域は悲惨な戦争に引きずり込まれてしまったのだ。
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考古学などが重視されることはなかった。
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発掘予定地は休眠していたが、中華人民共和国が設立する1949年以降、考古学は国家事業として取り上げられるようになり、マルクス思想主義者たちと共に進められることになった。発掘作業は再開され、しばしば、黄河から遠く離れた場所で、新しい文化が出土した。しかし中国の共産主義者たちは長年、その多様さのために懐疑的になっていた。
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彼らによれば、中国は一つでなければならなかった。中国の文明と呼べるものは、野蛮な周辺部族を統括し始めるようになる前に中央平原で発達したものでなければならない!

1995年、政府は古代中国の年表を科学的に確立するため、そして夏王国の存在を確かめるため、大プロジェクトを発足させた。
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学者「考古学的な発掘や調査を通じて夏王朝の存在を証明することは、中国人民が、自分たちのルーツを知りたいという憧憬を高める実存する拠り所を獲得することでもある」
プロジェクトは考古学や植物学や天文学の分野における著名な専門家たちの集団だったが、ある種の愛国主義から隔離されていた訳ではない。“夏”を見つけるためには、その源まで戻り、司馬遷によって記録された伝説を裏付ける発見が必要だ。
史記『いまからかなり昔、大地は偉大な洪水の下に埋められていた。いろいろ試みたが、王は荒れ狂う川の流れを落ち着かせることは出来なかった。人々は悲惨な状況のなかで暮らしていた』
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『ある日、一人の若者が選ばれ、川の流れを管理する試みを進めることになった。彼は禹(う)と呼ばれていた男だった。何よりもまず人々のためになることを優先していた禹(う)は、職責を貫徹するため、部下たちを彼の大地の全域に派遣し、大洪水を止めようとした。厳しい治水作業のために彼の若い体は弱体化し、老人のようになってしまった。立ち続けていることすら困難になっていた。しかし、体の痛みにも拘わらず、禹(う)は洪水と闘い続けた』
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『そうして13年が過ぎ、禹(う)はついに川を支配できるようになった。洪水は大地に押し寄せなくなり、人々は繁栄し始めた。彼を慕う支援者に推され、禹は王に収まり、最初の王国“夏”の創始者になった』
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大禹(だいう;偉大な禹)は中国の様々な地方に残る多くの伝説の中で、主な登場人物となって今も生き続けている。四川省のロン・シー・シャン村の住民は中国に56ある少数民族の一つのチェン族だ。
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彼らの“呪術師の踊り”の一つは、ある記念すべき時代以降、世代を継いで受け継がれている。踊り手は片方の足から別の足へと跳ね回る。
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その足運びは悪霊を払い除け、繁栄を運んでくると考えられている。伝説によれば、その振付は激しい洪水に立ち向かって足を痛めてしまった大禹(だいう)への敬意を払うために考え出されたという。
祈祷師「我々は夏王国の物語を代々受け継いでいる。時が始まって以降、我々は、最大の尊敬を捧げ続けているので、大洪水の災害から守られている」
大禹への尊敬は四川省を越えて、遠くまで伝えられている。
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洪水の管理者を記念する碑は、川の中州(なかす)や公園や十字路など、中国全域に建てられている。それらは最初の王朝の創始者の偉業を証言するもので、中国の歴史の中の守護神として傑出した人物と、中国人との繋がりを作っている。
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宣伝文句によれば、大禹は中国人の共通の祖先と言われる夏王国を思い起こさせてくれる人物だ。科学者たちの目標は明確だった。夏王国の伝説を現実の物に変えることだ。

20世紀を通じて行われた考古学的な発見は、新石器時代の終わりから始まったいくつかの文化を明らかにすることが出来た。これらの文化の発展は、中国の地形を形成した偉大な河川と密接に繋がっていた。国の中央を流れる黄色い川“黄河”と揚子江だ。揚子江デルタでは、紀元前3400から同2250年の間、固有の文化が発達していた。良渚(Liangzhuリヤンチュー)文化だ。
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それは当時、最も力強かった文化の一つだ。1936年に始まった発掘で姿を現した。
レポーター「ここが最新の発掘場所で、良渚(リヤンチュー)で見つかった城壁です。私は今、見事に保存されていた遺跡の前に立っています」
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「土で造られた壁ははっきりと見て取れます。これは良渚(リヤンチュー)文化における最初の城壁で揚子江デルタに建造されていました」

数年以上に渡る発掘で、今から5千年前の、この巨大な構造物は地中から姿を現した。遺跡は新石器時代から続いていた社会の力を見せつけている。ビン・リウ教授は発掘責任者だ。
ビン・リウ教授「この発掘サイトでは、4つの壁の一つ、北側の城壁が、最も綺麗に残されている。ここにあるのは石の基礎だ。地面や石を詳細に調べたところ、石はここから数Km離れた山から運ばれたものだと判った。4mに渡ってその石が残っている。城壁は、今残っているものよりも高かったと考えている。建築物の様子から、人手による伝統的な工法で造られていることが判った」
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外壁は全長7Kmあった。町は750エーカー(3平方Km)に広がっていた。発掘サイトで出土した土器類の数は住民の人口や彼らの日常生活を垣間見せている。
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住民は農業で生計を立てていた。稲作が中心だったことは、発掘中に見つかったカルボニル基を多く含む穀物の存在が示している。
ビン・リウ教授「良渚(リヤンチュー)文化は現在から3400年から2300年前に都市を発展させていた。その時期はエジプト王朝と同じだ。我々は規模にも注目している。町は当時のエジプトの町と同等の大きさだ」

発掘サイトでは、考古学者たちは時間を遡る旅をしている。
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彼らは繁栄していた町の過去を解読した。ある地層は決定的な情報を提示していた。
考古学者「私が今立っている地面で良渚(リヤンチュー)の住民が暮らしていた。町の最後の時期、この地面から、最近の地層のここまで、洪水の土砂が町を埋めてしまったんだ」
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「この地層の厚さが、洪水の大きさを示している」

洪水で運ばれた泥の層は、数回に渡る洪水で都市全体が覆われていたことを示していた。
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重大な気候変化が紀元前3千年から同2千年の間にあったことが今日では判っている。気温が下がり、雨量は劇的に増え、洪水が起きて都市や、その財宝を飲み込んでしまった。良渚(リヤンチュー)の身分が高い人々の墓で、考古学者たちは琮(そう;コングcong)を見つけている。
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儀式用の筒で、準貴石の翡翠(ひすい)で出来ている。これらの品々や墓の存在は、良渚(リヤンチュー)の貴族が持っていた富や権力の豊かさを科学者たちに語っている。琮(そう)の正確な機能は謎だ。しかし、この翡翠の筒は、滅多に見つからない珍しい品物で、極めてわずかなエリートだけが所有していたことを示している。表面に施されている装飾は1千年後に現れた商王朝の青銅器とよく似ている。
Wiki;琮
起源は良渚文化まで遡り、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる。良渚文化では璧(注)と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが伺える。
注:璧(へき)
古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。
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璧の起源は良渚文化まで遡り、当時は琮と共に神権の象徴として扱われていた。

ビン・リウ教授「先史時代、翡翠は装飾品として使われるのが一般的だった。そして紀元前3千年頃、権威の象徴として、高貴な人々が儀式で使うようになると、翡翠はある種の社会的な地位を獲得し、権力や上流階級の象徴になった。更に近年になり、孔子などのような高貴な人物が翡翠に更なる社会的意義を与えるようになった。美しい緑色の単なる石だった翡翠は、変化の過程の中で、中国人にとって尊敬の対象になり、歴史的、政治的な象徴になっていった」

広大な中華人民共和国の西の端(はし)にある新疆(しんきょう)自治区の住民は、今でも山を掘り、人気や価値が衰えていない石を探している。
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古代から、これらの発掘場所は、見つかる中でも最も素晴らしい翡翠を供給し続けている。
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石の流通市場も繁栄している。ある店では、最も見事な石の価格は過去10年で100倍になったという。
男「これは本物のホータン(和田)翡翠です」
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レポーター「いくらくらいの価値がありますか?」
男「6千ユーロ(70万円)位でしょう」
もし翡翠の欠片(かけら)と普通の小石を見分けられるなら、儲(もう)かる商売だ。新石器時代の終わりには、既に石の取引が行われていた。
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地元住民は販売網と、硬い翡翠を加工する技術を創り出し、完成させた。良渚(リヤンチュー)文化と翡翠工芸は最盛期にあった。紀元前2千年、揚子江デルタで発達した高度に階層化された社会で、高官たちは広大な領土を管轄していた。彼らが宗教儀式を主宰していたことも確かだろう。
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しかし、自然災害に対してはどうすることも出来なかったのだ。紀元前2250年、良渚(リヤンチュー)文化は消滅した。従って、この文化が最初の王朝の文化に同化することは出来なかったはずだ。夏王朝を見つけるには、別の場所を探す必要がある。

1928年、考古学者たちによって初めて確認された龍山(ロンシャンLongshan)文化は北部中国を中心としていた。
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紀元前2500年から同1700年の間、この文化は、中国人が今も自分たちの文明の元々の揺り籠だと見なしている黄河谷に浸透していた。見える範囲全てに広がっている大地は遠くから運ばれてきた黄土loessで出来ている。
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中央アジアの沙漠から風で運ばれてきた堆積物だ。冬、人々は土壌を安定させようと試みる。文明は、それを産み出した土地によって、はっきりと定義される状態にはなっていなかった。大地では北部中国の主要穀物の黍(きび)を育てることが出来た。近年、龍山新石器文化の生まれた場所であるタンゼン地区で重要な発見があった。9つの大きな墓から重要な埋葬品が現れたのだ。死者は彩色された土器と共に埋葬され、遺体は翡翠の小片で装飾されていた。
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考古学者たちは、古代中国における金属工業の芽生えを示す、いくつかの青銅品も掘り出している。発掘作業は今も、サイト全域で続いている。
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最近の50年間で、考古学者たちは、貴重なものや日常用品を含む何トンもの土器類を収集していた。しかし、最も新しい発見は科学者社会で大きな驚きを呼んだ。
ヌー・フー教授「我々はみんな驚いた。それは、その時点では予想していなかった、考えられないような発見だったんだ。そんなにも古代文明がこのようなものを造り上げることが出来るなんてね。それから言えることは、とても異例なことだ」
2003年、ヌー教授の班は奇妙な構造物を掘り出した。ある考古学者たちは、世界で最も古い天文観測所ではないかと考えている。
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それは東方向に日の出を眺めることが出来る、神聖な山の西斜面の麓(ふもと)に造られていた。建築的な配置はというと、細心の注意を払って定義された中心軸の周囲に、半円状に並べられた、少なくとも4mの高さを持つ14本の柱で構成されていた。太陽が山の後ろから昇ると、光は柱の間から差し込む。
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光線と影の方向は季節や日付で変化した。この構造物は、春分や秋分equinox夏至や冬至solsticeなど、今でも近代の暦を決定している天体現象に従って造られた、まさに4千2百年前の太陽系の観測所だ。

この暦のおかげで、龍山の人々は、この地で生き残るために必須な、重要な穀物の黍(きび)の種蒔(ま)きの日程など、農業年における重要な時期を確定することが出来た。
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ヌー教授「王は天体の動きに関する情報を独占することで臣民を管理することが出来た。もし王に従わなければ、王は、いつ種を植え付ければよいか、収穫すればよいかを教えなかった。つまり王は人々を飢えさせる手段を持っているだけではなく、人々を救済する手段も持っていたということだ。こうして王は人々を統治下に保っていた」

しかし、最新の発見によれば、その力は脆かったことが判っている。貴族たちは暴力的な反抗に対面しなければならなかった。考古学者たちは穴に投げ込まれた骨を見つけている。犠牲者たちの何人かは拷問にかけられていた。
女性の遺骨が牛や豚の骨で一杯のゴミ捨て場の跡で見つかった。彼女の歯や骨の分析結果は彼女の食慣習を示していた。彼女は豊かな人々に属していたが、それは彼女の斬首(ざんしゅ)を止めることは無かった。彼女を攻撃した人物は、牛の角を彼女の腹部に差し込んでいた。
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ヌー教授「彼女は殺される前に拷問にかけられていた。集落は反乱を引き起こしたのに違いない。人々は彼らを抑制する者たちに対抗して立ち上がったのだ。他の高貴な人たち同様、この高貴な女性も殺害することで、役人たちに復讐したのだろう。殺したら遺体はみんなゴミ捨て場に投げ込まれた」

紀元前3世紀の後、黄河と揚子江の流域で発達したいくつかの民族集団は接触を持つようになった。この交流が技術的な進歩と文化の変革をもたらしたのだが、龍山文化も良渚(リヤンチュー)文化も、伝説の夏王国と同化することは出来ない。(mh;つまり2つの文化が消滅した時期と場所が、夏王朝が設立された時期と場所に重なっていないってことです)

1958年、新しい文化の遺物が河南省のアーリートゥ(二里頭erlitou)で見つかった。
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これは謎を解く鍵となり得るのだろうか?

1973年と1983年の発掘では多くの発見があった。現在の村や川から少し離れた場所で、考古学者たちは木材と、叩き固めた土で造られた、堂々とした構造物の残骸をいくつか見つけた。それらは王宮の跡だった。
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遺跡の規模は普通ではなかった。どんな文明もこれほど進んだ住居を持っていない。すると、直ぐに最高の発見が現れた。
「そこを離れて!」
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「注意しろよ!落ち着け!俺に任せろ!」
「問題ないよ。心配するな」
沢山の小さなトルコ石(turquoiseターコイズ)が敷き詰められた不思議な姿が現れた。龍だ!
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中国文明における重要な象徴の一つだ。この伝説上の動物は20世紀初頭まで、中国の皇帝の権威を具象化していた。現在の中国人は、今でも権力を表わすこの寓話の中の動物を尊敬している。アーリートゥ(二里頭)の龍は発見された中でも最も古い例だ。
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考古学者たちは、トルコ石が埋め込まれた球状の眼を持ち、怪獣の顔に似た、この青銅のプラーク(plaque飾り)が何なのか、特定出来ないでいる。
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それは遺体の胸の上で、小さな青銅の鐘の隣に置かれていた。同じ合金は二里頭で見つかった最も重要な部品の一つを造るのに使われていた。背の低い三つの足がついたアシュウェイ(爵;しゃく)と呼ばれる容器だ。
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フランス人考古学者「紀元前2千年頃、沢山の青銅の品物が製造された。二里頭文化は中国における最初の青銅器文化ではない。実は第三千年紀の終わりには幾つかの文明があり、それらは新石器時代のものだと考えられているのだが、青銅の品を製造している。我々は、それらの品物を幾つか持っている。大きな品物ではない。二里頭の文化との違いは、二里頭では青銅製品の製作が新たな段階に入っていたということだ。そして、彼らが造り始めたのがバージー(盛酒器?)だ。
この製品は二里頭文化の洗練度を示す証拠だ。しかし、この町が夏王国の首都だったのだろうか?
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一つの研究が二里頭を統治していた王の力を表している。平尾義光教授は青銅合金を造るために錫(すず)と一緒に使われた銅の鉱石の出処を追跡して求めていた。銅は常にわずかな比率で鉛(なまり)を含んでいる。
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鉛の量は、その鉱石が採取された場所によって定まっている。4千年後の今でも、分析すれば銅鉱石が採れた省を正確に特定できるのだ。調査結果はどこが二里頭の職人たちに鉱石を提供したかを示していた。最も遠方の鉱山は遼寧省だった。二里頭からは1千6百Km以上離れている。

平尾教授「鉛の分析は、二里頭が地域での権力を持っていただけではなく、夏のような王国を形成するのに十分な力を既に持っていたことを示すことが出来た。影響力は広い地域に及んでいたのだ。遠く黄海の北の湾の向うからも鉱石を運び込んでいたという事実は、二里頭の人々が他の地域の人々と同盟形態を作り上げる能力を持っていたことを示している」
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二里頭の影響力と権力は都市城塞の外にまで拡大していたようだ。しかし、一つの疑問はまだ解かれないまま残されている。二里頭はどのように繁栄していたのだろうか?他の文化がまだ新石器時代の終わりの状態に留まっていて、自然災害で悩んでいたというのに。
この疑問に答えるため、環境調査計画が立ち上げられた。科学者たちは地下1mから3mまでの土壌のコア・サンプルを採取して調査を進めた。
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彼らは4千年ほど前の種子の残骸を探しているのだ。
調査結果は驚くべきものだった。主要な2種類の黍(きび)を見つけた。一つはその特徴から“foxtail狐のしっぽ(粟あわ)”と呼ばれるものだった。
(mh:ネットで見つけた“狐のしっぽ”です)
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2種類ともこの地で昔から栽培されていた。しかし、それが全てではなかった。土壌は小麦の種も含んでいた。普通、ここから遠く離れた、中国北西部の、黄河谷の上流で見つかるものだ。大豆も見つかった。つまり多様な穀物が栽培されていたのだ。そして遂には、米の種も見つけ、科学者たちは驚かされた。
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ずっと南の揚子江デルタから二里頭に持ち込まれた植物だ!最も農業が盛んな場所では、人々は一種類の穀物だけを育てる傾向がある。しかし、ここで住民が育てているのは、5種類よりも少なくはない。この多種類栽培polycultureが違いを産み出したのかも知れない。
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植物考古学者ジジュン・ジャオ「例えば、ある土地が定期的な旱魃(かんばつ)に襲われていた場合、そこの農夫たちは“狐のしっぽの黍”を育てる。黍は乾燥に強いからだ。もし降り続く雨で土地に水が満ちているなら、人々は米を育てることが出来る。このように何種類かの穀物を育てていれば、人々はいつも、何がしかの収穫が確保できる。つまり全ての自然災害に対して安心できるのだ。高度に進んだ農業システムを持つ社会だけが、気候変動に対抗できるというわけだ」
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二里頭の村の農夫たちは今でも祖先によって使われていた5種類の種を植えている。農作地では穀物の種類を次々に変える方式(転作・輪作)が採用されている。毎年、夏になると、米を植えるため、一定の面積の麦畑は収穫後に水浸しにされる。
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その他の麦畑には大豆が植えられる。いずれの場合も麦の茎は肥料となるよう畑に残される。この方法のおかげで、新石器時代の町は発達し、当時で最も大きな都市の一つになった。しかし、その都市の様子はどんなだったのだろう?

いくつかの建物の基礎の発見と土地調査はCGI(Computer Graphic Image)を使った再現を可能にしてくれた。町全体には考えていたよりも多くの種類の場所が広がっていた。
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農夫たちが住む小屋は、普通、7平方m足らずだった。彼らは都市区画の外で村を形成していた。
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そこから遠くない所には塀で囲まれた建物があった。そこは専門家たちが青銅を溶融する作業場だった。それまでとは異なり、二里頭文明での製造規模は大きかった。東側には高貴な人々が暮らす家が並ぶ地区があり、その中央には王宮と、王室の家系に繋がる祖先たちを祀るための寺院があった。
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これらは回廊(colonnades)や外壁で囲まれていた。それは王や祈祷師や役人のための、政治的、行政的な中心といえる町だった。考古学者たちは、町の人口は2万人くらいだったと考えている。当時なら世界でも最大の町の一つだ。
フランス人考古学者「当時の中国の建造物は木材と、突き固められた土で造られていた。従って一般的には、構造物の耐久性は良くなかった。しかし、その痕跡は地中で見つけることが出来る。テラスの上に造られた建物は突き固めて圧縮された土で造られていて、その土には屋根を支える木の柱が埋め込まれていた」
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黄土は風によって中央アジアから運ばれた細かな堆積物で、中国建築の中では、木材と共に、基礎的な材料として使われている。農夫の家や王家の家、更には、最初に造られた砦の壁も黄土だけで出来ている。時には粘土が混ぜられることもある。突き固めて圧縮されると細かい粒子は石のように固い塊(かたまり)になる。今日でも中国北部の農夫たちは耕地の周辺の壁を同じ方法で造っている。
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木材の枠の中に押し込まれた黄土は乾燥すると固くなり煉瓦と同じ特性を獲得する。

科学者チームのリーダであるスー教授は、都市のレイアウトは政治体制に関する多くの情報を与えてくれると言う。考古学者たちは建物が、建築上のある特徴を持っていたことに注目している。それは新石器時代の文化では見られなかったものだ。王宮都市は囲まれた地区内にあり、厳格な階層社会だった。
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入り口は南に設けられていた門で、王宮広場は回廊で囲まれていた。大きく支配的な建物が遊歩道を監視するように設けられていた。スー教授には、構造の荘厳さが、そこに暮らす王家の政治的な力を反映しているように思えた。彼らが、司馬遷が史記の中に書き残した夏王国の人々なのだろうか?
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スー教授「考古学的な見地からは、二里頭が古代中国の王国の首都だったことは明白だ。中国最初の重要都市だったと言っても間違いないだろう。多くの専門家は夏王朝の首都だと確信している。彼らは二里頭が夏だと考えている」

スー教授は、二里頭の王室の居住区の造りや配置は、その後に建てられた全ての王宮に影響を与えたのではないかと考えている。彼は、その考えを確かめるため日本を訪れた。日本と中国の科学者がこの問題について行う初めての共同作業だ。打合せは京都大学で行われた。
岡村教授は新石器時代後期に関する専門家で、特に二里頭に精通している。二人の専門家は二里頭と、その後に生まれた王国における王宮の主要な建物の類似性を調査していた。
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岡村教授「王宮を取り囲む回廊があるようですが、間違いなかったですね?」
スー教授「間違いありません。この設計は周囲の回廊を統合していて、中国の歴史の中で、以降に造られたいくつかの王宮の建物の形式ととても似ています」
岡村教授「私も、中国で以降20世紀までに採用された建設計画と、ほとんど違いはないと思います」

二里頭の建設計画を更に調べてみると、それが以降の計画における基本になっていることが明らかになった。北京にある明王朝時に建てられた紫禁城の鳥瞰図はその仮説を確認してくれている。
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主用な王宮は周囲を囲む城壁の一部で、入り口は南に向いている。建物自体の構造も二里頭のものと類似している。
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建物を取り囲む広大な回廊は皇帝が散歩する遊歩道のような趣(おもむき)を呈している。二里頭の住民たちは、4千年続く建築様式を発明したと言えるだろう。

フランス人考古学者「二里頭には、王宮内のいろいろな広場を取り囲む建物の原理に関するとてもよい例が見つかっている。今日でも我々が王宮で目にするものと同じだ。最もよい例が紫禁城なのは間違いない。更には、北京地区の一般住居についても、同じ伝統的な設計が使われていると言えるだろう。つまり、住民の家も中庭を囲むようにして造られているのだ(mh胡同フートンと呼ばれる旧式住宅です)。新しい技術が芽生え、二里頭時代には無かった材料も使われてはいるが、構造原理は二里頭で見つかったものと同じだ」

二里頭の住民が、古代の歴史家が言及していた夏王国の人々だと言える記録はない。しかし、住民は間違いなく、それまでの祖先たちよりも力強い文化の中で暮らしていた。二里頭の農夫たちは繁栄的な農業体系を創り出していた。金属業者は遠く離れた場所から鉱石を輸入し、洗練された青銅製品を造っていた。
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彼らは中国の冶金を特別な、高品位で、体系化された芸術工芸に変革していた。力と権力を表現するため、青銅は二里頭で既に重要な役目を演じていた。
フランス人考古学者「我々が確信しているのは、青銅の製造と、二里頭の、特に上流階級が持っていた権力との間の繋がりだ。古代の重要な価値観から見ると、青銅は、他の何よりも、上流社会との関係が強かったことは明白だ。特に、二里頭での青銅の製造が、主に儀式との関係で使われる青銅製の容器に向けられていたということはとても重要な点だ」

ある考古学者たちは、二里頭の王が、王宮での儀式を初めて思い付いたのではないかと考えている。その儀式とはどんなものだったのだろう?
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20世紀初頭まで、壮大な儀式は皇帝が家臣との繋がりを強化するものだった。この儀式を調べることで、考古学者たちは二里頭での儀式がどのように行われていたのかを想像することが出来た。
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夜明けになると、貴族や周辺の村の指導者たちは王宮広場に入ることを許される。彼らが多くの捧げ物を持ってきたのは疑う余地はないだろう。彼らが回廊で囲まれた中央広場で神妙に待ち構えていると、ついに王がそこにやって来る。
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手には純粋な翡翠を彫って造った笏(しゃく)のような刀剣を持っている。
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この翡翠の刀剣は、神聖なもので、恐らく西方の山岳地帯の人々からその発想を取り入れたと思われる。このような信仰の象徴を他の地域から取り入れることで、王は自分の権力を強化していた。
そして、参列者たちに向かって、王は突然、黄金のように光り輝くあるものを持上げる。それはアジュウェィと呼ばれる礼拝用の容器で、他の文明から生まれたような形状をしている。最後に、十数人の役人が台上の王に加わると、当地の穀物から作られた酒を王から分け与えられる。
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この儀式は二里頭の社会の中で、階層社会を創り上げていた。それは町の人々を主宰する社会的、政治的な骨格を象徴していた。

スー教授「夏王国は人々との関係を重視していたと思う。基本的には、神が持つ力は王の力よりも影響は小さかっただろうと考えている。儀式が魂の力を強めるために行われていたのは明らかだ。しかし、彼らは、神性を崇(あが)める代わりに、祖先たちを丁重に敬っていたのだ。これは夏王国が神よりも祖先たちに関心を持っていたことを意味する」
儀式を目撃している人たちは世の中の全ての頂点にいる王位の優越性を悟っていた。儀式はまた、組織の中でメンバー間の連携を強める要素も持っていたように思われる。
スー教授「二里頭文化は、とても広い地域まで及んでいた。しかし、間違いなく言えるのは、それが軍事的な支配力の結果ではなく、もっと穏やかな文明によるものだったということだ。つまり文化の力だ。夏王国の首都として、二里頭は極東における最初の文化的な中心地だったのだ。

中国人たちは今でも偉大な禹に敬意を払おうとカイ・フン開封の町にある寺を訪れる。
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ここでは伝説の中での印象は歴史的な現実と融合している。神話の向うで大禹は近代中国の創設者を象徴しているのだ。
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しかし、記述で残された証拠がないため、二里頭文化が夏王国だと断定することは難しい。そうはいっても、はっきりしていることもある。二里頭文化は、新石器時代の終わり頃の社会と、商や周という王朝の間にある“失われたリンク”だということだ。我々の近代史よりも2千年前、二里頭の王たちは統治体系を産み出し、支配体制の慣習や宗教を確立した。彼らの力は貴人の意向を象徴する青銅器を介して具体化された。こうして二里頭文化は、文明の発生を告げた。その後、紀元前1600年頃、商王国が黄河流域で産まれた。
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商は、青銅器技術を極致まで高め、神事で使われる文字(mh甲骨文字)を発明した。
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紀元前1045年になると周が商に取って代わった。周は近隣との連携を固め、封建制度を創り出した。
(封建制:上位の君主が、臣下に対して、その領地支配を認め、爵位を与え、臣従(貢納・軍事奉仕等)を義務づける社会制度)
この時期、中国は勿論、まだ中国とは呼ばれていない。しかし統一の動きは始まっていた。黄河や揚子江の中央平原という揺り籠の中で、全ての要素が一体化して、将来の偉大な権力の歴史は始まることが出来たのだ。
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China's Beginning - Xia Dynasty
https://www.youtube.com/watch?v=qXrkF5Nd4i8&t=22s#t=74.6176646

・・・・・・・・・・・・
補足情報です。
Wiki:夏の実在性
従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。
しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』を証明された事と、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』を混同してはならない。
現代の中国歴史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている。
(mh難解な記述ですが、夏王国が実在した証拠はないが、夏と呼べそうな文化や都市はあったということでしょう。夏王朝は伝説でしかないかも知れないのに、中国人としては、エジプト文明に対抗できる古い昔から、中国に王朝があったと考えたい気持ちは理解いたします。当然ですが、夏王朝の創始者と言われる禹なる人物も、王朝の存在同様、朧(おぼろ)のままです。日本でも、全国に銅像が立つ人気者の日本武尊(やまとたける)がいます。記紀の中でしか存在していないにも関わらず、実在していたと考える人が多いのでしょうか。それとも国粋主義者たちの陰謀でしょうか)

Wiki:殷(いん:紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)
中国の王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

Wiki:甲骨文字(こうこつもじ)
中国・殷(商)に行われた漢字書体の一つで、現在確認できる最古の漢字。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜(せんぼく)とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。殷後期の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。
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mh:甲骨文字が沢山見つかった殷墟は二里頭から200Km北東ですが、いずれも黄河の近くで、広い中国の中では同一地区と言えるでしょう。

主な青銅器と名称は次の通りです。
爵(しゃく:温酒器)      虎卣(こゆう:虎の形の盛酒器)
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鼎(てい;煮食器);饕餮(とうてつ)文様です。 銅戈(どうか;武器)
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尊(そん;盛酒器)          觚(こ;飲酒器)
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觚について、論語に次の言葉がありますね。
子曰、觚不觚、觚哉、觚哉、
子の曰わく、觚(こ)、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。
「觚」はもともと角のある杯を言うのに、今では「觚」と呼ばれるものは角が取れて丸くなっている。これでは觚といえようか。觚といえようか。
(そんなふうに、有名無実化している物事が、多いことよ)

孔子は卓越した思想家ですが、その教えは、古い仕来りや体制を守ることが基本ですから、皇帝や天皇には好都合です。中国政府は、国の宣伝のため、世界中に孔子学院を広める運動を進めていましたが、この運動は最近、下火のようですね。お釈迦様が仰るように、因果応報で、奉(たてまつ)るべき皇帝を滅ぼした裏切り者の共産党が孔子の教えを広めるのでは、後ろめたくて、それがもとで、今では孔子は忘れ去られつつあるのではないかと推察します。mhが大切にしている孔子さまの言葉は、以前ご紹介したことがあるとは思いますが、改めてご披露しておきましょう。
「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」
詩経という古い教本には三百もの教えがあるが、之(これ)を一言を以(もっ)て蔽(おお)うなら、思いに邪(よこしま)無しと言えるだろうね、って孔子様が仰ったんですね。ここでも、詩経という古い教えが基本です。しかし、思無邪(しむじゃ)は、人として生きていく上で、きっと一番大切なことでしょう。
(完)

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mh徒然草: 季節外れの野菜を作れば


今日は6月23日。初夏です。いつものスーパーに女房殿とショッピングに行ったんですが、キャベツが1玉99円で、ここ数か月の最安値でした。99円で売り出されたのは、2ヶ月程前で、以降、週2、3回いくのですが、99円の時が多いです。旬なんでしょうね。

で~このキャベツですが~
少し前は250円くらいしていたんですね。キャベツと言えば、玉子と並んで、“安くて栄養があって、一年中、手に入る健康食品の代名詞”みたいなものですが、大雑把なmhには“やっぱ冬はキャベツの旬じゃあないから250円が相場じゃあないの?”ってな感覚しかありません。どうなんでしょうねぇ。平年の月別キャベツ価格推移グラフでもあれば、はっきりするんですが・・・

ハウス栽培が普及した今日、高地でキャベツを作るなら、夏は自然気候で、冬はハウス内で栽培できるでしょうから、やっぱ1年中、大量に、安く、キャベツを栽培できるんじゃあないかって思うんですが、TVを見ると、嬬恋高原の広~い畑の中、ハウスなどではなく青空の下で、キャベツを収穫している若夫婦なんかが出てくる健康食品のコマーシャルがTVで流れていたような記憶が朧(おぼろ)にありますから、キャベツのハウス栽培は少ないんじゃあないでしょうか。

しかし、季節をずらしてキャベツ、西瓜(スイカ)、苺(いちご)など、野菜を次々に途切れなく栽培すれば、旬の時期の2倍以上の価格で1年中、複数の野菜を売り続けられるわけですから、温湿度や日照を管理できる栽培工場みたいなものを造って、大雨や旱魃(かんばつ)や冷夏、暖冬があっても、計画生産、計画出荷する体制を整えたら、きっとべら棒な利益が得られると思うんですが、あまり普及していないようです。日本には小規模・小資産の農家が多く、対応能力がないためでしょう。ならば政府主導の“国営農場”ってことも考えられますが、政府が関与すると、市場への対応や、体質改善にほころびが出て、大金をつぎ込んだ計画が頓挫(とんざ)するのは目に見えていますから、やっぱ民間主導でやらなきゃあならないと思いますが、農業の大型化・近代化が進むと、弱小農家がつぶれちゃうからといって、政府は規制をかけていて、農業改革は一向に進みません。

しかし、考えてみたら、いろんな手立てを尽くして、冬にわざわざ夏野菜のスイカを作らなくても、南半球で栽培したスイカを輸入するって手もありますから、季節外れの野菜を同じ場所で1年中、作り続けるビジネスが絶対に儲かるとは言えません。

更には、最近はフリーズドライ(冷却乾燥)技術がありますから、ひょっとしたらキャベツだって何だって、野菜は旬に大量収穫してフリーズドライすれば、1年中、安い価格で手に入れることができる時代が来ていると思います。我が家も、コーン、枝豆、ブロッコリー、ニンジン、ホウレンソウ、ポテトなどの冷凍食品のお世話になり重宝しています。果物も同じで、オレンジや林檎、桃なども、濃縮還元とか加熱滅菌してジュースにしておけば、1年中、いつでも安い価格で摂取出来ます。

そう考えると、季節外れの、付加価値の高い野菜や果物を作る労力は、フリーズドライや濃縮還元などの技術に押されて、なかなか実を結ばないかもしれませんが、温室で育ったものでも、生の野菜は、フリーズドライ品よりずっと新鮮でおいしいのは間違いないですから、高級品志向のお客さんが500円のキャベツを買うってな市場もあるわけで、事業として成り立つ部分もあるんじゃあないかと思ったりもします。

地球温暖化で野菜栽培環境は年々変化しています。これに合わせて作物の種類を変えるとか、温湿度管理型栽培を導入するとか、フリーズドライの技術を組み合わるとか、海外から大量輸入するなどの対策が考えられ、これによって季節外れの野菜や果物を楽しめるチャンスが増えているのですが、いずれも日本の小規模農業では対応不可能です。このままでは、収穫量は減少して輸入やフリーズドライが増加する傾向をたどり、日本農業は衰退して野菜の価格は上昇の一途をたどることになります。

農業の自由化・大規模化を許容する政策は急務だと思います。“若者が農業から離れていくのを止めない限り、日本の農業の将来はない!”とmhが言ったら、尊敬するお釈迦様も“それは因果応報というもので、自然の流れですよ”と仰って賛同してくれるはずだと確信しています!

The Seekers - Georgy Girl – 1966
https://www.youtube.com/watch?v=htnwnRR_ufs
(完)

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