Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

モーゼズの杖の不思議


モーセと聞いても解らない世代の方は、モーゼと聞けば“あぁ、あのひとね”って気付くんじゃあないでしょうか。英語ではモーゼズMosesと発音されているようですね。で、今回はモーゼズで通させて頂きますが・・・

旧約聖書の中でも最初に書かれたトーラは、モーゼズが神から聞いた言葉をモーゼズ自身が書き記したと考える人たちがいるようで、日本では“モーセ五書”とも呼ばれ、5つの書から成っています。
トーラの五書は、既にご紹介したはずですが、mhも忘れていますから、ここでおさらいしておきましょう。
1) 創世記Genesis(ヘブライ語の原題は「初めに」の意)
天地創造、アダムとイブ、ノアの方舟(はこぶね)、バベルの塔など
2) 出エジプト記Exodus(ヘブライ語の原題は「名」)
モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語
3) レビ記Leviticus(ヘブライ語の原題は「神は呼ばれた」)
祭司のための規定集と民に向けた規定集
4) 民数記Numbers(ヘブライ語の原題は「荒れ野に」)
(エジプトを出国して紅海を渡りシナイ半島に到着後) シナイ山における人口調査や、ヨルダン川に辿り着くまでの旅の様子や出会った人々の姿を記述。
5) 申命記Deuteronomy(ヘブライ語の原題は「言葉」)
40年にわたる荒野の旅をふりかえり、神への忠実を説く。
シナイ山で神から与えられた十戒を説く。
来るべき死への準備をし、ヨシュアを自らの後継者に任命する。

つまり、5書の第一巻ともいえる創世記を除く4書はモーゼズが主体の内容で、神の教えもモーゼズを介して記述されているのですね。で、モーセ五書とか、モーゼが書いたなんて言われている訳です。

今回のブログ「モーゼズの杖の不思議」ですが・・・杖がどんな奇蹟を起こしたかではなく、その杖が見つかった!っていう、びっくり仰天の不思議なんです。モーゼズが生きていたのは紀元前16世紀または同13世紀と言われ、はっきりしていないんですが、かなり遠い昔だったのは確かです。その不可思議な人物モーゼズがいくつかの奇跡を引き起こす時に使った杖が見つかった???

それでは早速、見つけた!と主張する人の話を聞いてみましょう。
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モーゼズの杖。それは聖書の中で、最も畏敬の念を鼓舞する奇蹟のいくつかを創造した。
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イクスター大学フランシェスカ・スタヴラコポウロウ教授「それはとても力強い儀式的な道具だったの」
それは蛇に変身し、ファラオを驚かした。それは、最初の大量破壊兵器の一つだった。それはエジプトで大きな災厄をもたらした。
オックスフォード大学ハイウェル・クリッフォード博士「神の力を行使する道具の一種だった」
それは紅海Red Seaを2つに切り裂き、そしてファラオの軍勢を溺れさせた。
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しかし、神の力をもつこの道具は、どうなってしまったのだろう?ある一人の男は、それがどうなったのか知っていると信じている。
フィリップス「モーゼズの杖は歴史上、最も強力な手工芸品artifactだ」
彼は、その有名な杖が古代都市を経由し・・・今の社会まで旅をしていると主張する。その杖は、タイタニックの事故を生き残ったのかも知れない。そして彼は、それが今、どこにあるか知っていると信じている。彼は正しいのだろうか?
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Secrets of the Bible 聖書の秘密
The Staff of Moses モーゼズの杖
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イギリスのバーミンガムBirmingham。2000年1月1日。
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そこは英国第二の大都市だ。図書館や博物館の宝庫のような都市で、英国でもっとも頑強な歴史探偵家の一人が暮らす町でもある。新しい千年紀の初日、グラハム・フィリップスは彼の次の挑戦について熟考している。フィリップスは神話の調査官とも言える男だ。これまで伝説を追い求めてきた。契約の箱Ark of the Covenantがある場所からアーサー王のキャメロット城があった場所まで。これらの話は、学術的な研究者たちは取り扱う事を喜ばないし、時にはしり込みする。しかし、フィリップスが解き明かしたいといつも考えていた物語がモーゼズだった。
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フィリップス「モーゼズはイスラエル人の宗教の創設者だ。彼がそれを始めたようにすら思われる。そこで、私は彼について調べてみようと決心したんだ」
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フィリップスは、特にモーゼズの杖に強く興味を引かれた。頑丈な杖は古代の単なる歩行補助具ではなかった。自然を手懐(てなず)け、帝国を彼の前に膝(ひざ)ませた武器だった。もし、モーゼズの物語が真実なら、その杖は今も残されているかも知れないとフィリップスは考えている。ひょっとすると、どこか、その辺りに!彼はそれを辿(たど)ってみようと決心した。
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フィリップスは調査を開始した。モーゼズはヘブライ人だが、エジプトで産まれたことが聖書から確認された。ヘブライ人たちは奴隷として働かされるために、エジプトに連れていかれていたのだ。
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オックスフォード大学ハイウェル・クリッフォード博士「モーゼズはエジプトの土地で、危険と脅威の中で産まれた。ヘブライ人たちの比率が増えてくると、エジプトの権威者たちは彼らが軍事的な脅威になるかも知れないと考えるようになった」
全てのヘブライ人の男の子供に対する死刑判決がファラオによって承認された。子供の命を心配したある母親は、子供を籠の中に入れ、ナイルの草むらの間に隠した。
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草むらの中で水に浮いている小さな籠の中に赤ん坊を見つけたファラオの娘が、自分の養子として育てることにしたと言われている。
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作家デイヴィッド・ロール「つまり彼は、2つの側面を持つことになった。セミテック語Semiteを話すヘブライ人であるとともに、エジプトのファラオの王宮における王子でもあったのだ」
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モーゼズはエジプトの王子として育てられたが、自分がヘブライ人の血を引いていることは忘れなかった。ある日、彼は人生を永遠に変えることになる決断をする。

クリッフォード「モーゼズが歩いていると、エジプト人がヘブライ人の一人を痛めつけているのを見た。彼は、そこに行き、エジプト人を殺してしまった」
身に危険が及ぶのを恐れ、モーゼズは東のミディアンMidian(mh聖書に記述された土地でアラビア半島の北西)に向かって逃げた。
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モーゼズはその後の40年を砂漠の中に身を隠して生き抜いた。

フィリップスが読んだ聖書によれば、ある日、モーゼズは既に老人になっていたのだが、神の声を聞いた。
クリッフォード「モーゼズが自然の荒涼のただなかにいると、藪(やぶ)で火で燃え盛っていた。その火は尽きることなく燃え続けていた」
炎の中から神がモーゼズに語り掛けた。神はモーゼズに持っている杖を地面に捨てるように言った。言われた通りにすると、不可思議にも、杖は蛇に変身した。神はモーゼズに、蛇の尾を掴(つか)むよう伝えた。彼がそうすると、蛇は元の杖に戻った。
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以降、この杖はモーゼズの超自然的な武器となった。

フィリップス「旧約聖書の中で語られていることに関して我々が信じるべきことは、モーゼズの杖は歴史の中で最も強力な工芸品だということだ」
神はモーゼズに、エジプトに戻ってヘブライ人たちを“約束の土地”に導くよう伝えた。モーゼズはエジプトに行き、ファラオに許可を求めたが、ファラオはヘブライ人たちがエジプトを離れることを禁じた。するとモーゼズは彼の杖を使ってファラオを恐れさせた。
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スタヴラコポウロウ教授「モーゼズは儀式の専門家で、ヘブライ人たちがエジプトを去れるよう、ファラオを威圧する、どんな不思議な手品も出来たのよ」
彼はファラオの前で杖を蛇に変えたのだ。
フィリップス「そしてモーゼズは言った“私はこの杖でもっとすごいことが出来る”と。彼は杖を使ってエジプトに10の災厄を起こした」
死んだ魚、死んだ牛、虱(しらみlice)、蠅(はえ)、そして蝗(イナゴlocust)・・・
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モーゼズは雹(ひょう)と暗闇の災厄を解き放った。
クリッフォード「エジプトの国家は組織的に解体されてしまった」
これらの災厄は全ての中で最も恐ろしい災厄への序章だった。最初に生まれた男子の死だ。
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クリッフォード「この時、ファラオとその家族の崩壊が始まったようだ」
ファラオはついに折れた。そして、聖書が言う出エジプト記Exodusが始まる。ヘブライ人たちはついに自由になった。
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しかし、ファラオは前言を翻(ひるがえ)す。ヘブライ人たちはファラオの軍隊と紅海で挟(はさ)まれて身動きできなくなった。するとまた、モーゼズの杖が助けの手を差し伸べる。それは旧約聖書の中でも最も見事といえる力の誇示だ。
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モーゼズは杖を使って紅海を分断したのだ。ヘブライ人たちは逃げ延びたが、追ってきたファラオの軍勢は、戻って来た水でおぼれてしまう。
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聖書によれば、紅海の分断の後、モーゼズとイスラエル人たちは、40年という長い年月の間、荒涼とした土地の中を彷徨(さまよ)った。そしてヨルダンを通り、約束の地に辿り着こうというところでモーゼズは死ぬ。彼の杖も、歴史から消え去ってしまった。
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謎を調べているグラハム・フィリップスにとって、杖が見失われているのは聖書の中の大きな謎の一つだ。地上のどこにモーゼズの杖はあったのだろう?
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フィリップス「我々はモーゼズの杖に何が起きたのか知っていない。聖書によれば、杖は彼と一緒に埋葬されただろうと推察できる」
ジョージワシントン大学エリック・クライン教授「多くの人々は、彼は杖と共に墓に埋められているという考えを受け入れることはできるだろう。普通、イスラエル人は身の回りの品物を遺体と一緒に墓に埋葬する。小さな甕(かめ)とか、小刀(こがたな)、ビーズや首飾り、スカラベ(カブト虫のお守り)などだ」
フィリップスがしなければいけないことは明確なようだ。モーゼズの墓を見つけるのだ。そうすれば、恐らくそこで、彼は杖を見つけるだろう。
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フィリップス「私は不思議な墓の探求に関する2,3の本を書いていたので、モーゼズの墓だって見つけられるんじゃあないかと思った。手を尽くしてモーゼの墓を見つけようって決心した」

フィリップスは、モーゼズの墓は彼が死んだ場所の近くにあるはずだと予測した。しかし、その場所はどこか?彼は聖書を読み直すことにした。モーゼズが埋葬された場所について何か記述があるはずだ。
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最初に見つけた記述は“今日まで、誰も彼の墓地について知らない”とぶっきらぼうに言っていた。フィリップスは調査を始めたばかりの段階で、固い壁に突き当たってしまった。しかし、モーゼズの墓地が忘れ去られてしまったとは信じられなかった。聖書の申命記Deuteronomyと民数記Numbersを読んでみたら、彼が調べることができる他の記述箇所があった。この2つには期待できる同じ内容が書かれていた。モーゼズの弟アーロンの埋葬地について書かれている!
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フィリップス「申命記Deuteronomyと民数記Numbersの中で2回も、モーゼズは弟アーロンの近くに埋葬されたと書かれていたんだ」

アーロンはホー山Mt. Horに埋葬されたと言う。兄弟が近くに埋葬されるのは極めてあり得る話だ。
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フィリップス「モーゼズもホー山の近くの何処かに埋葬されていなければならないはずだ」
幸運にもフィリップスはホー山の正確な位置を知っていた。杖を探すには、ヨルダンに行く必要がある。
フィリップスは首都アンマンに飛び、そこから車で南の沙漠に向かった。アーロンが埋葬されていると言われるホー山は“ジェベル・ハルーン”と言う名前でも知られている。
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山はヨルダンの最も有名な遺跡で薔薇(ばら)の都市ペトラを睥睨(へいげい)している。
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デイヴィッド・ロール「ペトラは世界の偉大な不思議の一つだ。美しく、見事な寺院や墓が、赤い砂岩の中に刻まれている。秘密の場所で、隠れるように造られていて、そこに行くにはシークと呼ばれる細い渓谷を通り抜けねばならない」
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これらの華麗な砂岩の構造物はナバテアという名で知られる文明によって造られた。モーゼズの時代から1千年ほど後の、紀元前3世紀から造られ始めたものだ。

フィリップスは、目の前にある遺跡の大きさに打ちのめされていた。面積は広大だ。ここでモーゼズの墓を探すのは草の山の中から1本の針を探すようなものだ。
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フィリップスは大地の中で、この場所とモーゼズを結び付ける特徴のようなものがないか探し始めた。
すると突然、フィリップスは“ワディ・ムサWadi Musa”に出くわした。“モーゼズの谷”だ。
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デイヴィッド・ロール「モーゼズが生涯の一時期、この地にいたというアラブの伝統がある。エジプトから約束の地へ彷徨(さまよ)う物語の中でペトラはある役目を演じている」
つまりフィリップスはモーゼズの足跡を辿っているということだ。この地をモーゼズの物語と結びつける、もっと別の印がないのだろうか?少し進んでいくと、フィリップスは聖なる泉に出会った。
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それは“エイン・ムサ”と呼ばれている。“モーゼズの泉”だ。
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フィリップス「モーゼズが彼の杖で岩を突くと、奇蹟の泉が生まれたと言い伝えられている。おかげで砂漠の中を歩いていても、イスラエル人たちが喉(のど)の渇(かわ)きで死ぬことは無かった」
調査の方向は間違っていないと確信したフィリップスだが、まだ、ヘブライ人たちの墓に似たものを探し出してはいなかった。彼は、記念の石とでも言うような、もっと明確な手掛かりを必要としていた。しかし仮にそれを見たからといって、どうすればそうだと彼に判ると言うのだろう?

グラハム・フィリップスはモーゼズの杖を求めて調査を進めている。モーゼズの杖は、彼がそう望めば、蛇に変化することが出来た。
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ホー山の麓(ふもと)で、フィリップスは、モーゼズの墓に関する聖書の記事を読み直してみた。すると、これまで見逃していた細かな点に気付いた。申命記には“モーゼズがベス・ピオールBes-Peorに向かって埋められている”と書かれている!
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フィリップス「ベス・ピオールの文字通りの意味は“蛇の家”だ。“蛇の場所”という意味もある。つまり蛇がいる場所だと言っているのだ」
民数記はもっと有望だ。それによれば、イスラエル人たちが自然の中で暮らしていた時、モーゼズは不思議な蛇の飾りiconを造った。
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クリッフォード「モーゼズは蛇を使って神の力を発揮していたのだ」
フィリップスは蛇の像を求めて古代の谷を詳しく調べてみた。すると、ホー山の影の中に、奇妙な作り物を見つけた。大きな像で、蜷局(とぐろ)を巻いた蛇のようだ!
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フィリップス「私はこここそがモーゼズが埋葬された場所だとの思いに打たれて立ちすくんでいた。聖書によれば、“今日まで、誰もモーゼズの墓場がある場所を知らない”という。でも私はその場所に立っていたんだ!墓はその直ぐ近くになければならなかった。私はとても感激していた。私の人生における最高の瞬間だった」
フィリップスは、その近くに墓のようなものが見当たらないか、探してみた。そこに杖があるはずだと思っていた。蛇のモニュメントの周りには、沢山の穴が掘られていた。
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一人では調べきれない。発掘することなどはとてもできない。ペトラはヨルダンの国宝だ。もし脆弱(ぜいじゃく)な砂岩を傷つけたら、大きなトラブルに巻き込まれることだろう。彼の探求は、やるせない結末を迎えることになった。フィリップスは、これまで、誰よりも自分が、モーゼズの墓を特定できる一番近い所まできていると感じていた。しかし、結局、不可思議な杖は、これまでのように不可解なままになってしまうのだ。不本意だったが、彼はイギリスに戻った。
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バーミンガムに戻ると、フィリップスはモーゼズの杖を探し出すため、他に何が出来るかを考えてみた。
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彼は手元においていた本を調べ直すことにした。彼の調査で疑問が残っていた一点は、鍵となるヒントの翻訳だった。ベス・ピオール、つまり蛇の家という解釈は、他の人々に共有されていた訳ではない。
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ケンブリッジ大学マーティン・ワーシントン博士「ヘブライ語における“ピオール”はバール・ピオールとか、ベス・ピオールとかはピオールの家とか神のピオールとかを指す。しかし、私が知る限り、ピオールが蛇を指す言葉とは思えない。正直なところ、私はその考えには懐疑的だ」

フィリップスはその疑いを晴らす手段は持っていない。偶然か計画的かは別に、彼はペトラで、伝統がモーゼと繋がっていることを示す幾つかの特徴を確認している。現場でそれを調べることが出来ないのなら、バーミンガムの図書館や博物館など、自宅になるべく近い場所で手掛かりを得られないだろうかと考えた。
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彼の生まれ故郷の町は手工芸品や歴史的な書物などを持つ宝箱だ。ひょっとして先人の探求者たちがモーゼズの墓を見つけていないだろうか?
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調べていると、ある一つの記事がフィリップスの眼を引きつけた。それは奇妙な墓の解説書だった。2人のイギリス人冒険家の日記だ。
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絵師のデイヴィッド・ロバーツと、彼の友人ジョン・キニーアのもので、彼らは19世紀にペトラを訪れていた。旅先の様子はロバーツの風景画に残されていた。
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フィリップス「1839年、ヨルダンのペトラで、彼らが様々な古い墓を発掘していたことに私は気付いた」
彼らは蛇のモニュメントの後ろ側を調べていて、ある墓を発見したようだ。
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フィリップスによれば、ロバーツとキニーアは墓が特別なものだとは考えなかった。フィリップスは読み続け、彼らが遺体の痕跡を見つけたかどうか確かめてみたが、見つかっていなかったようだ。フィリップスが、その報告書を図書棚に戻そうかと思った時、彼らがあるものを見つけたと記述した文に気付いた。それは骸骨ではなかった。もっと好いものだ。黒く塗りが施された木製の杖だ!
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フィリップス「杖が見つかっていたんだ!杖だとすればモーゼズが紅海を分割した、その杖じゃないのか?」
しかし、彼らは、見つけた杖をどうしてしまったのだろう?

2000年7月3日。グラハム・フィリップスがモーゼズの杖の探求を初めて6ヶ月が経過していた。19世紀の冒険家ロバーツとキニーアのペトラに関する報告書のおかげで、彼はついに一連の手掛かりを集め終えていた。
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あとは、彼らが見つけたという杖の行方(ゆくえ)を追跡すればいいだけだ。杖に何が起きたのかを追跡しようと、パズルの断片をつなぎ合わせてみた。それによれば、キニーアは杖をイギリスに持ち帰ったようだ。しかし、彼の元に長く留まってはいなかった。フィリップは、杖が骨董蒐集家ジョン・ウィルソンの手に落ちたと言う。ウィルソンはその杖をデヴォン伯爵に売ったとフィリップスは考えている。伯爵は、イギリス南西部のサザンプトンSouthamptonにあるパウ・ドゥルハム城で杖を保管していた。
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そして1912年、杖は再び売り渡された。今回はアメリカ人の骨董蒐集家スタンリー・メイ氏に。
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フィリップス「デヴォン伯爵夫人の当時の日記によれば、アメリカ人で伯爵家の友人でもあるスタンリー氏は滞在するために城を訪れ、伯爵が所有していた多くの古物にかなりの興味を持った」
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「そして伯爵が彼に譲った工芸品の一つが、その杖だった」

フィリップスは、杖を追って1839年のペトラから1921年のサザンプトンまでの全ての道程(みちのり)を辿ってきた。そして1912年4月12日、メイは杖とその他の財宝を手にアメリカ合衆国に向かう船に乗ったようだ。するとフィリップスは驚くべき発見をする。それは、その船にとっての処女航海で、最後の航海だったのだ!
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海運歴史家ティム・マルティン「スタンリー・メイ氏にとって不運だったのは、彼が旅をしようと選んだ船がタイタニックTitanicだったんだ」

フィリップス「杖がタイタニックに載ったことまで追跡した時、私はどこでタイタニックが沈んだのかを知っていた。これで終わりだと思った。ずっと追跡してきたが、今や大西洋の底に杖はあるのだって」
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フィリップスは新たな疑問に向かい合うことになった。メイ氏の家族はどうなったのだろう?彼らは生き延びたのだろうか?そして、その時、杖も一緒に持っていたのだろうか?
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あらゆる望みをかけて、フィリップスは記録を調べてみた。掛け率は悪いことは知っていた。
マルティン「タイタニックにいた2000人以上の人の内、3分の2はおぼれ死んだ。そしてたった7百人の生き残りが救助船カルパチアCarpathiaによって救い出された」
メイ氏の家族の名は生存者リストに記載されていなかった。フィリップスは死亡者リストも調べてみた。そして、奇妙なことに気が付いた。死亡者リストにも名が見つからない!
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メイ氏は、何らかの理由で、この悪夢の悲劇を回避できたのではなかろうか?
フィリップスは、船が沈んだ時、メイの家族は乗船していなかった事を発見した。
マルティン「信じられない程に幸運なことに、スタンリー・メイはニューヨークには向かっていなかった。タイタニックは向かっていたのだが。メイ氏の家族はクイーンズタウンで下船していた。彼らは南アイルランドで1週間のドライブ旅行をしようと考えたのだ」
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スタンリー・メイと有名な人物たちは“氷の死”を避けることになった。とすれば、杖は今どこにあるのだろう?
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フィリップスは、次々と変わる出来事が信じられなかった。杖が現代まで生き残っていたことは聖書における奇蹟だった。
フィリップス「杖は生き延びていた。大西洋の底にあったのではなかった。私が次にしなければならないことはメイの家族がその杖で何をしたかを見つけ出すことだ」
フィリップスは自信をもって杖の追跡を再開した。タイタニックの惨事から1年後、メイは著名な英国人考古学者エドワード・アイルトンに杖を売ったようだ。
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アイルトンは1940年に死んでいる。彼の手工芸品類は梱包され、船でニューヨークに送られ、メトロポリタン美術館に贈呈された。結局、杖はアメリカにあるのだろう。
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しかし、フィリップスが調査を続けていると、幾つかの手工芸品は、別の場所に送られていたことに気付いた。ある一つの品物は大西洋を渡らず、まだイギリスに留まっていた。“祭司のための杖”とある!杖がどこにあるのかを探し当てたフィリップスは仰天した。バーミンガム博物館だ!
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フィリップス「そこで、私は文字通り大急ぎで階段を駆け下りて玄関を飛び出すと、建物と博物館を分けている広場を横切り、博物館の階段を駆け上がってエジプト展示室に飛び込んだ」
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「これだ!っと思った。1830年代に蛇のモニュメントの近くで見つかった杖だ。それが今も、展示されている!私が正しければ、そして私の全ての調査が間違いでなければ、そして勿論、私はそうだと信じているのだが、私は、モーゼズが紅海を分断するために使ったと聖書が言っている杖を見ている!と感じていた。驚いたという言葉は不適切だろう。驚愕(きょうがく)したと言った方がいい」
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杖は美しかった。長さは135cmで黒く塗られ、その上に白くヒエログリフが書かれていた。これがモーゼズの杖なのか?
フィリップスが最初にしたことは、ヒエログリフの翻訳だった。ヘブライ語ではなく、エジプトのヒエログリフだった。それに気付くと疑いが芽生えた。フィリップスは、ヒエログリフが杖はファラオの娘の執事か召使いのものだと言っていることに気付いた。その男の名はトゥトゥモーセスだ。
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杖の記述はモーゼズについて何も触れていない。
ブリストル大学アイダン・ドドゥソン博士「棒に書かれている文字を読んでみると、それば王家の王女の執事でモーザーと呼ばれる人物のものであることは明らかだ」
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間違った名が記されたのではないのだろうか?それとも、モーゼズとトゥトゥモーセスは同一人物なのだろうか?

エルサレム。今から2千5百年前、ここでモーゼズの物語が書き記された。
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しかし、その物語は、西暦1世紀、ユダヤ人歴史家ジョセィーフェスによっても記録されていた。彼の記述によれば、モーゼズは単に王子だっただけではなく、ファラオの軍の将軍でもあった。エジプトの歴史を調べてみたグラハム・フィリップスは、この記述に適合する将軍を見つけ出した。
フィリップス「私はジョセィーフェスの記述に適合する人物を将軍の中で探してみた。一人見つかった。紀元前1360年に生きていた男で、単に将軍だっただけではなく、ファラオの家来としても活躍している。彼の名はトゥトゥモーセス(mh日本語Wikiではトトメス)だ!」
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全くの偶然かもしれない。しかし、フィリップスはモーゼズとトゥトゥモーセスの間の更なる直接的な類似点を見つけた。手掛かりは、出エジプト記に書かれている物語の中にあった。

モーゼズはイスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し、紅海を横切ってシナイ半島の荒涼に辿り着いている。フィリップスには出エジプト記の時期が重要な問題だった。聖書学者の多くは、それが紀元前14世紀の中頃に行われたと考えている。驚くべきことに、フィリップスはトゥトゥモーセスもエジプトを離れたかも知れないということを発見した。しかも、歴史の中で全く同時期に!
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フィリップスは、トゥトゥモーセスのために準備されたと彼が考えている墓の中でその証拠を見つけたのだ。
フィリップス「アメンホテプ4世の家来と言われるトゥトゥモーセスの墓は、イタリア人考古学者ジオヴァンニ・ベルゾーニによって王家の谷で発見された」
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フィリップスによれば、ベルゾーニは墓がトゥトゥモーセスの遺体を埋葬していなかったことに気付いたという。ベルゾーニが気付いたことに関するフィリップスの解釈は、議論を呼ぶものだった。
ドドゥソン博士「ジオヴァンニ・ベルゾーニはトゥトウモーセス王子の墓を発見してはいなかった。ベルゾーニは自分の発掘成果を脚色して発表したのだ。彼が何の墓を発見したのかについて我々は正確に知っている。それはトゥトゥモーセス王子のものではない」
フィリップ「トゥトゥモーセスの墓は見つかっていないと人々が主張するのは、トゥトゥモーセスの遺体が彼の墓と言われる場所で見つかっていないからだ。しかし、見つかった墓は、彼のために準備されたものだ」
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トゥトゥモーセスの遺体がない墓は、ある手掛かりをフィリップスに与えてくれた。
フィリップス「極めて身分の高い、ある人物のために準備された、その上、使われたこともなく、盗掘もされていない墓が見つかったということは、その人物が何らかの手段で辱(はずかし)められたことを明確に示している。その辱めとは多分、追放だろう」
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フィリップスは、恐らくトゥトゥモーセスがエジプトの神に従わなかったので追放されたのだと疑っている。トゥトゥモーセスは自分の名前から“トゥトゥ”という月の神の名前を取り去り、単にモーセスと変名してイスラエル人たちの神を擁立(ようりつ)したのではないのだろうか?
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トゥトゥモーセスが消え去った時期は紀元前1360年だ。それは多くの人にとっては出エジプト記と同じ時期だ。フィリップスにとってみれば、それは単なる偶然の一致以上のものだった。
フィリップス「トゥトゥモーセスが間違いなくイスラエル人たちを自由な身に導いたという決定的な証拠はない。しかし、彼らが自由に向けて飛び立ったのはトゥトゥモーセスが歴史から消えた時期と完全に一致しているという、極めて確定的な状況証拠はある」

全てが繋がって意味を持つようになった。どちらの男も王室で育った。二人とも軍の司令官だった。二人とも同じ時期にエジプトから消え去った。フィリップスには、トゥトゥモーセスとモーゼズが同一人物としか考えられなかった。
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フィリップス「それに気付いた時、私は愕然(がくぜん)とした」
フィリップスは、バーミンガム博物館に保管されている杖こそがモーゼズの杖だと確信している。しかし、彼の確信を共有するエジプト学者はいない。
ドドゥソン博士「トゥトゥモーセスという王子は存在していた。彼は軍隊の司令官だった。しかし、トゥトゥモーセスは第18王朝において極めて一般的な名前だ。同じ名前のファラオは4人いて、多くの王子も同じトゥトゥモーセスという名を持っていた。従って、しばしば、一人の個人を他の一人または大勢と取り違える可能性は高いのだ」
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フィリップスは自分の発見に強い確信を持っていた。そこで彼は他の人たちからの支援を得ようと考えた。彼は杖の現在の保管人であるバーミンガム博物館に接触してみた。しかし、彼らもまた、フィリップスの主張に納得しなかった。
フィリップス「バーミンガム博物館の学芸員たちは、保管している杖がモーゼズのものだとは全く保証してくれていない。それはそれでいい。しかし不幸にも、彼らはその杖が1950年よりも古い物だと関係づける記録すらも持っていない」
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博物館側は杖のこれまでの履歴が明確ではないことを認めている。理屈上では、それはヴィクトリア時代の贋作(がんさく)の可能性だって高い。
フィリップス「ひょっとすると最初の発見者のロバーツとキニーアが作り出したものかも知れない。彼らはペトラとか、そういった場所にすら行っていないにも関わらず、作った杖を他人に売りつけたのかも知れない」
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フィリップスが望んだのは、杖に関する真実を確定することだけだった。本物か?それとも偽物か?彼は杖の木材の年齢を確定する炭素年代測定を望んだ。
フィリップス「もし炭素年代測定で杖の木が紀元前1360年から1350年頃のものだと判れば、この杖が紅海を分割した杖かもしれない、と人々は積極的に支持してくれるだろう」
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炭素14によるテストが実施されるまで、多くのエジプト学者はフィリップスの主張に懐疑的なままだろう。
ドドゥソン博士「本件に関して断言できるのは、何人かのエジプト学者たちが言っている誤解に基づいているということだ。私が知っている限りの証拠に基づいて言うなら、杖は存在しない」
しかし、もしフィリップが正しくて、この杖が紀元前1350年まで遡るものだとすれば、バーミンガム博物館は世界でも最も価値がある聖遺物の一つを持っていることになる。
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フィリップス「もし、あなたはモーゼズの杖を見つけたのかと問われたら、私の心からの叫びは、Yesだろう」
何人かの人々にとっては、この杖が辿った歴史は聖書の中のモーゼズの杖と同じ程度の奇跡のように思えることだろう。この杖は更なる驚きをも隠し持っているのだろうか?
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Has the Staff of Moses been discovered?
https://www.youtube.com/watch?v=5chAaAApvW0
・・・・・・・・・・・・
バーミンガム博物館に展示されている件(くだん)の杖です。
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どんな説明書きが付されているか、ネットでは見つかりませんでした。

エジプトはトルコやヨルダン辺りまで、何度も軍事遠征していますから、奴隷としてイスラエル人を連れ帰った可能性は高く、イスラエル人たちが集団脱走して故郷に向かった可能性も高いと思います。脱走のリーダーは仲間から尊敬され、モーゼズと呼ばれる人物になって聖書に書かれた可能性も高いと思いますが、モーゼズという名はエジプトでも結構、一般的だったかもしれませんから、リーダーの名は、やっぱモーゼズかモーセスだったかも知れません。

しかしですね、その彼が持っていた杖で紅海を切り裂いたってなことは、とても信じられません。杖は持っていたかも知れませんね。何故って、死んだ時、彼はかなりの老人だったわけで、杖なしでは歩行不可能だったことは十分考えられます。この辺りの話に尾ひれがついて、ヘブライ聖書のトーラが出来上がったんじゃあないのでしょうか。

しかし・・・モーゼズなる人物が3千年以上も前に使っていた杖が、バーミンガム博物館にある杖だとは思えませんねぇ。黒地に書かれた白いヒエログリフが綺麗すぎます。いくら乾燥地にあったからといっても、劣化せず、あんなにもきれいに、くっきりと残されているはずはないと思います。

木材の炭素年代分析ですが、博物館が実施したっていう記事はネットでは見つかりませんでした。無視しているんじゃあないかと思います。

それにしても、グラハム・フィリップス氏が、彼の仮説というか物語というべきだと思うんですが、その物語を、見事に辻褄合わせしていることに感服させられました。きっと皆さんも同じ思いでしょう。しかし、彼が並び立てている証拠のどれがどこまで真実なのかについては、多くの疑念が残っています。本件については彼の著書“The Moses Legacyモーゼズの遺産”を読めば、もう少しクリアーになるかも知れません。
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2002年4月11日付BBCニュースによれば次の通りです。
An ancient staff in a British museum may be connected to the Biblical figure of Moses, a new book claims.
イギリスの博物館における、ある古代の杖は、聖書の中の人物モーゼズに関係しているかも知れない、とある新刊書が主張している。

さて、皆さんのご感想やいかん。
(完)

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mh徒然草: 韓国の方がおかしいか?

(6月25日作成)

日本もですが、韓国の方がもっとおかしいのではないかと・・・

6月20日、韓国の文大統領は米ワシントン・ポスト紙のインタビューで、慰安婦問題について「(解決するためには)日本政府がその行為について法的責任を受け入れ、公式に謝罪することだ」と発言しました。(mh河野談話で謝罪し、それを追認したんじゃあ不十分ってことなんでしょうか?)
これを聞いた日本外務省は22日、在韓日本大使館の鈴木秀生次席公使が韓国外交省の鄭炳元(チョンビョンウォン)東北アジア局長に電話し、「2015年末の日韓合意で『最終的かつ不可逆的解決』を確認している」と申し入れたっていうんですね。

更に22日のロイター通信のインタビューで文大統領は「日本は、慰安婦問題を含む韓国との歴史問題を解決するための十分な努力をしていない」と指摘したので、翌日、日本外務省幹部は在日韓国大使館次席公使に電話し、日本政府の立場を伝えたといいます。

文氏は他の大統領選候補と同様、大統領選挙中から慰安婦問題に関する日韓の『最終的かつ不可逆的解決』を見直す立場で一貫しているのですが、日本に問題提起せず、海外メディアに愚痴っているんですね。前大統領の朴氏の時から、ネットで韓国の“告げ口外交”が話題になっていましたが、韓国って妙な外交をするんだなぁ、というのがmhの第一印象です。

文氏の発言には若干の伏線があって、彼ばかりがおかしいわけじゃあありません。
安倍首相の特使として韓国を訪れた自民党の二階幹事長は、6月10日の韓国メディアとのインタビューで「日本はお金を支払った。最初から再交渉しようというような愚かな話をすることは、国際的には通用しない」と答え、その後、韓国議員らとの会合でのあいさつで、日韓の関係改善を妨げる動きについて「一握りの悪巧みをする連中は見つけたら撲滅しましょう」と述べているんですね。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/11/japan-korea_n_17037268.html
これじゃあ、文大統領を恫喝(どうかつ)しているも同じです。だから文氏がアメリカで告げ口した、ってことじゃあないとは思いますが・・・
それにしても、二階幹事長もおかしいですが・・・
文大統領の対応はもっとおかしいと思いました。

慰安婦問題については、いろいろな問題はあるとはいえ、『最終的かつ不可逆的解決』を日韓両政府(外務大臣)が宣言したんですから、卑怯な物言いだとは言え、それを守るべきだと言う二階氏の発言は“一寸の虫にも五分の魂”で、間違った指摘ではありません。
が、文大統領の、所謂(いわゆる)“告げ口外交”は頂けませんねぇ。文大統領は、外交に不慣れでしょうが、そんな時こそ、筋を通すことが大切で、正々堂々と日本に見直し要請すればいいじゃあないかと思います。そうしないってことは、恐らく、見直しするか、とすればどう見直すか、などについて韓国政府の方針が決まっていないので、愚痴っているってことでしょう。それは戯言(たわごと)でしかなく、日本としては正式な提案があるまで静観していればいいと思います。

対馬の仏像盗難問題では、多くの韓国民すらもおかしいと思っている、仰天の判決が韓国地裁で出ていますし、竹島(独島)問題は、国際司法裁判所での仲裁を拒否するなど、自分の都合が悪いところは蓋(ふた)をするか、自分の考えだけを主張する一方で、相手の都合が悪いところを声高に非難する、妙な体質が韓国にはあるんじゃあないかと邪推せざるを得ません。

ま、こういった傾向は、韓国ばかりじゃあなく、日本だって、他の国だってあるのですが、日本に対する韓国の態度は異常だと思います。それは、日本による韓国併合の怨(うら)みを今も忘れ切れずにいるからじゃあないかと思いますが、太平洋戦争が終わって70年以上過ぎてもまだ拘(こだわ)り続けるってのは、韓国の未来にとっても良いこととは思えません。その辺りを文大統領はどう考えているんでしょうねぇ。

このブログの公開予定は一カ月半後の8月11日ですが、その時点でも韓国政府から不可逆的解決の見直し提案が正式になされていなければ、韓国政府は内心では不可逆的解決を認めていると思います。とすれば、韓国民の情緒に合わせたご都合主義を捨てて、未来志向の関係を目指すべきでしょう。
もし、見直しを望んでいるのなら、早く日本政府に正式提案すべきです。その時、“1mmたりとも譲らない!”ってな、つまらぬ発言を日本が繰り返すとしたら、日本は世界の笑い者になることでしょう。しかし、正式提案はせず“告げ口外交”を続けているなら、笑い者になるのは韓国です。

Delilah - Tom Jones ( with lyrics )
https://www.youtube.com/watch?v=2FCiyeyuF0g
(完)

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夏王国の不思議


今回は前置き無しでYoutubeフィルムをご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
伝説によれば中国最初の王朝である夏は、紀元前2千年の少し前、自然災害から生き残った人々によって設立された。
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当時、黄河は、何年もの間、土手を決壊しては恐ろしい洪水を引き起こし、僅かな人たちだけが生き延びていた。この大洪水に立ち向かった一人の男がいた。彼は、直ぐに地域の指導者に指名され、最初の偉大な東洋文明の創始者になる。禹(う)または大禹(だいう)と呼ばれる男だ。
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長い間、この寓話は、後世の王国の権力者たちの中央集権を正当化していた。伝説に従えば、夏王国が全ての中国人に共通の祖先だ。しかし、2001年、考古学者たちは紀元前2千年に洪水により荒廃した都市の残骸を発見した。年代は伝説に一致する!洪水で運ばれた泥水に埋まってしまった犠牲者たちの遺体の発見は、伝説が事実に基づいていたことを示していた。
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すると次の単純な疑問が生まれてくる。洪水が起きていたなら、夏王国の人々も存在していなかったのではないのだろうか?この伝説の王国を追跡しようと考えて中国文明の源まで遡った考古学者たちは、新石器時代の偉大な文明を再発見し、4千年前の謎を解くことになった。

国家権力を掌握するには、しばしば、国の歴史を探索する必要にせがまれるが、中国もその例外ではない。秘密を明らかにする魅力には終わりはない。これまでで初めて、中世の王国が中国文明の最も古い起源への旅の扉を開けている。
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そこから、伝説の向うへの、2千年の古代を遡る旅が始まる。偉大な王国を発見する旅だ。それは快い芸術作品でもあり、繁栄していたにも関わらず死に絶え、消滅していた文明でもある。これまで知られていなかった見事な色彩に包まれている秘密の中国の中心部への旅は、多くの文化に影響を及ぼすだけではない。古代に生まれた偉大な国家の起源への旅路とも言えるだろう。
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中国の起源
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近代中国の歴史は今もなお、その文明や言語の多様性にも拘わらず、またはそれゆえに、書き続けられている。
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中国はその特異性を主張しようとさえしている。小学校でさえも、生徒たちは中国史の勉強をしている。
先生「これは何て読むのかな?」
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生徒たち「ホアシャー」
“華夏ホアシァー”の語源は知られていない。夏シァーという名は黄河の谷に沿って定住していた最初の王の家系だ。中国の人たちが領土に関心を示し出した頃、この家系が、古代の歴史における国家の発祥元になったと考えられている。しかし、夏王国の存在はこれまで証明されていない。前漢時代の紀元前1世紀、偉大な歴史家司馬遷によって書かれた記録書“史記”によれば、黄河谷の中流に拠点をおく、連続する3つの王国があった。
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それらは、紀元前2000年から同1600年の夏XIA、同1600年から同1050年の商SHANG(mh殷とも呼ばれます)、そして同1050年から同221年の周ZHOUだ。
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伝統的な歴史家たちによれば、これら3つの王国が、黄河にそった中国文明の揺り籠の地で、文明化された社会を創り上げた。20世紀初めに中国人たちによって行われた発掘では、初期の青銅器の記念すべき発見があり、商と周の存在が確認された。
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そして、ほぼ同じ時期に、西洋人たちも中世の王国を興味を持って調べていた。フランス人のエドヴァーク・シャバーンは司馬遷の記録を翻訳した。中国人で骨董収集仲介人のルー(魯?呂?)は中国芸術との関連で、西洋人たちに良く知られるようになった。ルーは1920年、パリのど真ん中にパゴダを建てた。
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フランス人考古学者たちは、文字記録の最初の例(mh甲骨文字)という新たな宝が見つかると、ますます中国への関心を持つようになった。

フランス人講師オリヴィエ・ヴェンチャー「中国で文字が現れたのは紀元前13世紀の中頃、つまり商王朝の終わり頃だ。この時期の記録の証拠のいくつかを我々は持っていて、それらは商の時代に関する司馬遷の年表との相関を裏付けている。その一方で、それ以前、つまり商王朝の初期については、記録証拠は全く持っていない。我々が頼れるのは考古学的な遺物だけだ」
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書き記された証拠が何もなければ、新石器時代の終わりに続いて勃興(ぼっこう)した王朝の間を結ぶ真の失われたリンクとも考えられている商王朝の存在を確定することは困難だ。考古学的な発見のみが謎を解く助けだった。

しかし、1937年、全ての発掘作業は中断されてしまった。日本による占領で、中国の多くの地域は悲惨な戦争に引きずり込まれてしまったのだ。
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考古学などが重視されることはなかった。
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発掘予定地は休眠していたが、中華人民共和国が設立する1949年以降、考古学は国家事業として取り上げられるようになり、マルクス思想主義者たちと共に進められることになった。発掘作業は再開され、しばしば、黄河から遠く離れた場所で、新しい文化が出土した。しかし中国の共産主義者たちは長年、その多様さのために懐疑的になっていた。
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彼らによれば、中国は一つでなければならなかった。中国の文明と呼べるものは、野蛮な周辺部族を統括し始めるようになる前に中央平原で発達したものでなければならない!

1995年、政府は古代中国の年表を科学的に確立するため、そして夏王国の存在を確かめるため、大プロジェクトを発足させた。
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学者「考古学的な発掘や調査を通じて夏王朝の存在を証明することは、中国人民が、自分たちのルーツを知りたいという憧憬を高める実存する拠り所を獲得することでもある」
プロジェクトは考古学や植物学や天文学の分野における著名な専門家たちの集団だったが、ある種の愛国主義から隔離されていた訳ではない。“夏”を見つけるためには、その源まで戻り、司馬遷によって記録された伝説を裏付ける発見が必要だ。
史記『いまからかなり昔、大地は偉大な洪水の下に埋められていた。いろいろ試みたが、王は荒れ狂う川の流れを落ち着かせることは出来なかった。人々は悲惨な状況のなかで暮らしていた』
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『ある日、一人の若者が選ばれ、川の流れを管理する試みを進めることになった。彼は禹(う)と呼ばれていた男だった。何よりもまず人々のためになることを優先していた禹(う)は、職責を貫徹するため、部下たちを彼の大地の全域に派遣し、大洪水を止めようとした。厳しい治水作業のために彼の若い体は弱体化し、老人のようになってしまった。立ち続けていることすら困難になっていた。しかし、体の痛みにも拘わらず、禹(う)は洪水と闘い続けた』
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『そうして13年が過ぎ、禹(う)はついに川を支配できるようになった。洪水は大地に押し寄せなくなり、人々は繁栄し始めた。彼を慕う支援者に推され、禹は王に収まり、最初の王国“夏”の創始者になった』
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大禹(だいう;偉大な禹)は中国の様々な地方に残る多くの伝説の中で、主な登場人物となって今も生き続けている。四川省のロン・シー・シャン村の住民は中国に56ある少数民族の一つのチェン族だ。
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彼らの“呪術師の踊り”の一つは、ある記念すべき時代以降、世代を継いで受け継がれている。踊り手は片方の足から別の足へと跳ね回る。
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その足運びは悪霊を払い除け、繁栄を運んでくると考えられている。伝説によれば、その振付は激しい洪水に立ち向かって足を痛めてしまった大禹(だいう)への敬意を払うために考え出されたという。
祈祷師「我々は夏王国の物語を代々受け継いでいる。時が始まって以降、我々は、最大の尊敬を捧げ続けているので、大洪水の災害から守られている」
大禹への尊敬は四川省を越えて、遠くまで伝えられている。
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洪水の管理者を記念する碑は、川の中州(なかす)や公園や十字路など、中国全域に建てられている。それらは最初の王朝の創始者の偉業を証言するもので、中国の歴史の中の守護神として傑出した人物と、中国人との繋がりを作っている。
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宣伝文句によれば、大禹は中国人の共通の祖先と言われる夏王国を思い起こさせてくれる人物だ。科学者たちの目標は明確だった。夏王国の伝説を現実の物に変えることだ。

20世紀を通じて行われた考古学的な発見は、新石器時代の終わりから始まったいくつかの文化を明らかにすることが出来た。これらの文化の発展は、中国の地形を形成した偉大な河川と密接に繋がっていた。国の中央を流れる黄色い川“黄河”と揚子江だ。揚子江デルタでは、紀元前3400から同2250年の間、固有の文化が発達していた。良渚(Liangzhuリヤンチュー)文化だ。
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それは当時、最も力強かった文化の一つだ。1936年に始まった発掘で姿を現した。
レポーター「ここが最新の発掘場所で、良渚(リヤンチュー)で見つかった城壁です。私は今、見事に保存されていた遺跡の前に立っています」
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「土で造られた壁ははっきりと見て取れます。これは良渚(リヤンチュー)文化における最初の城壁で揚子江デルタに建造されていました」

数年以上に渡る発掘で、今から5千年前の、この巨大な構造物は地中から姿を現した。遺跡は新石器時代から続いていた社会の力を見せつけている。ビン・リウ教授は発掘責任者だ。
ビン・リウ教授「この発掘サイトでは、4つの壁の一つ、北側の城壁が、最も綺麗に残されている。ここにあるのは石の基礎だ。地面や石を詳細に調べたところ、石はここから数Km離れた山から運ばれたものだと判った。4mに渡ってその石が残っている。城壁は、今残っているものよりも高かったと考えている。建築物の様子から、人手による伝統的な工法で造られていることが判った」
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外壁は全長7Kmあった。町は750エーカー(3平方Km)に広がっていた。発掘サイトで出土した土器類の数は住民の人口や彼らの日常生活を垣間見せている。
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住民は農業で生計を立てていた。稲作が中心だったことは、発掘中に見つかったカルボニル基を多く含む穀物の存在が示している。
ビン・リウ教授「良渚(リヤンチュー)文化は現在から3400年から2300年前に都市を発展させていた。その時期はエジプト王朝と同じだ。我々は規模にも注目している。町は当時のエジプトの町と同等の大きさだ」

発掘サイトでは、考古学者たちは時間を遡る旅をしている。
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彼らは繁栄していた町の過去を解読した。ある地層は決定的な情報を提示していた。
考古学者「私が今立っている地面で良渚(リヤンチュー)の住民が暮らしていた。町の最後の時期、この地面から、最近の地層のここまで、洪水の土砂が町を埋めてしまったんだ」
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「この地層の厚さが、洪水の大きさを示している」

洪水で運ばれた泥の層は、数回に渡る洪水で都市全体が覆われていたことを示していた。
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重大な気候変化が紀元前3千年から同2千年の間にあったことが今日では判っている。気温が下がり、雨量は劇的に増え、洪水が起きて都市や、その財宝を飲み込んでしまった。良渚(リヤンチュー)の身分が高い人々の墓で、考古学者たちは琮(そう;コングcong)を見つけている。
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儀式用の筒で、準貴石の翡翠(ひすい)で出来ている。これらの品々や墓の存在は、良渚(リヤンチュー)の貴族が持っていた富や権力の豊かさを科学者たちに語っている。琮(そう)の正確な機能は謎だ。しかし、この翡翠の筒は、滅多に見つからない珍しい品物で、極めてわずかなエリートだけが所有していたことを示している。表面に施されている装飾は1千年後に現れた商王朝の青銅器とよく似ている。
Wiki;琮
起源は良渚文化まで遡り、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる。良渚文化では璧(注)と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが伺える。
注:璧(へき)
古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。
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璧の起源は良渚文化まで遡り、当時は琮と共に神権の象徴として扱われていた。

ビン・リウ教授「先史時代、翡翠は装飾品として使われるのが一般的だった。そして紀元前3千年頃、権威の象徴として、高貴な人々が儀式で使うようになると、翡翠はある種の社会的な地位を獲得し、権力や上流階級の象徴になった。更に近年になり、孔子などのような高貴な人物が翡翠に更なる社会的意義を与えるようになった。美しい緑色の単なる石だった翡翠は、変化の過程の中で、中国人にとって尊敬の対象になり、歴史的、政治的な象徴になっていった」

広大な中華人民共和国の西の端(はし)にある新疆(しんきょう)自治区の住民は、今でも山を掘り、人気や価値が衰えていない石を探している。
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古代から、これらの発掘場所は、見つかる中でも最も素晴らしい翡翠を供給し続けている。
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石の流通市場も繁栄している。ある店では、最も見事な石の価格は過去10年で100倍になったという。
男「これは本物のホータン(和田)翡翠です」
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レポーター「いくらくらいの価値がありますか?」
男「6千ユーロ(70万円)位でしょう」
もし翡翠の欠片(かけら)と普通の小石を見分けられるなら、儲(もう)かる商売だ。新石器時代の終わりには、既に石の取引が行われていた。
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地元住民は販売網と、硬い翡翠を加工する技術を創り出し、完成させた。良渚(リヤンチュー)文化と翡翠工芸は最盛期にあった。紀元前2千年、揚子江デルタで発達した高度に階層化された社会で、高官たちは広大な領土を管轄していた。彼らが宗教儀式を主宰していたことも確かだろう。
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しかし、自然災害に対してはどうすることも出来なかったのだ。紀元前2250年、良渚(リヤンチュー)文化は消滅した。従って、この文化が最初の王朝の文化に同化することは出来なかったはずだ。夏王朝を見つけるには、別の場所を探す必要がある。

1928年、考古学者たちによって初めて確認された龍山(ロンシャンLongshan)文化は北部中国を中心としていた。
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紀元前2500年から同1700年の間、この文化は、中国人が今も自分たちの文明の元々の揺り籠だと見なしている黄河谷に浸透していた。見える範囲全てに広がっている大地は遠くから運ばれてきた黄土loessで出来ている。
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中央アジアの沙漠から風で運ばれてきた堆積物だ。冬、人々は土壌を安定させようと試みる。文明は、それを産み出した土地によって、はっきりと定義される状態にはなっていなかった。大地では北部中国の主要穀物の黍(きび)を育てることが出来た。近年、龍山新石器文化の生まれた場所であるタンゼン地区で重要な発見があった。9つの大きな墓から重要な埋葬品が現れたのだ。死者は彩色された土器と共に埋葬され、遺体は翡翠の小片で装飾されていた。
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考古学者たちは、古代中国における金属工業の芽生えを示す、いくつかの青銅品も掘り出している。発掘作業は今も、サイト全域で続いている。
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最近の50年間で、考古学者たちは、貴重なものや日常用品を含む何トンもの土器類を収集していた。しかし、最も新しい発見は科学者社会で大きな驚きを呼んだ。
ヌー・フー教授「我々はみんな驚いた。それは、その時点では予想していなかった、考えられないような発見だったんだ。そんなにも古代文明がこのようなものを造り上げることが出来るなんてね。それから言えることは、とても異例なことだ」
2003年、ヌー教授の班は奇妙な構造物を掘り出した。ある考古学者たちは、世界で最も古い天文観測所ではないかと考えている。
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それは東方向に日の出を眺めることが出来る、神聖な山の西斜面の麓(ふもと)に造られていた。建築的な配置はというと、細心の注意を払って定義された中心軸の周囲に、半円状に並べられた、少なくとも4mの高さを持つ14本の柱で構成されていた。太陽が山の後ろから昇ると、光は柱の間から差し込む。
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光線と影の方向は季節や日付で変化した。この構造物は、春分や秋分equinox夏至や冬至solsticeなど、今でも近代の暦を決定している天体現象に従って造られた、まさに4千2百年前の太陽系の観測所だ。

この暦のおかげで、龍山の人々は、この地で生き残るために必須な、重要な穀物の黍(きび)の種蒔(ま)きの日程など、農業年における重要な時期を確定することが出来た。
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ヌー教授「王は天体の動きに関する情報を独占することで臣民を管理することが出来た。もし王に従わなければ、王は、いつ種を植え付ければよいか、収穫すればよいかを教えなかった。つまり王は人々を飢えさせる手段を持っているだけではなく、人々を救済する手段も持っていたということだ。こうして王は人々を統治下に保っていた」

しかし、最新の発見によれば、その力は脆かったことが判っている。貴族たちは暴力的な反抗に対面しなければならなかった。考古学者たちは穴に投げ込まれた骨を見つけている。犠牲者たちの何人かは拷問にかけられていた。
女性の遺骨が牛や豚の骨で一杯のゴミ捨て場の跡で見つかった。彼女の歯や骨の分析結果は彼女の食慣習を示していた。彼女は豊かな人々に属していたが、それは彼女の斬首(ざんしゅ)を止めることは無かった。彼女を攻撃した人物は、牛の角を彼女の腹部に差し込んでいた。
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ヌー教授「彼女は殺される前に拷問にかけられていた。集落は反乱を引き起こしたのに違いない。人々は彼らを抑制する者たちに対抗して立ち上がったのだ。他の高貴な人たち同様、この高貴な女性も殺害することで、役人たちに復讐したのだろう。殺したら遺体はみんなゴミ捨て場に投げ込まれた」

紀元前3世紀の後、黄河と揚子江の流域で発達したいくつかの民族集団は接触を持つようになった。この交流が技術的な進歩と文化の変革をもたらしたのだが、龍山文化も良渚(リヤンチュー)文化も、伝説の夏王国と同化することは出来ない。(mh;つまり2つの文化が消滅した時期と場所が、夏王朝が設立された時期と場所に重なっていないってことです)

1958年、新しい文化の遺物が河南省のアーリートゥ(二里頭erlitou)で見つかった。
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これは謎を解く鍵となり得るのだろうか?

1973年と1983年の発掘では多くの発見があった。現在の村や川から少し離れた場所で、考古学者たちは木材と、叩き固めた土で造られた、堂々とした構造物の残骸をいくつか見つけた。それらは王宮の跡だった。
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遺跡の規模は普通ではなかった。どんな文明もこれほど進んだ住居を持っていない。すると、直ぐに最高の発見が現れた。
「そこを離れて!」
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「注意しろよ!落ち着け!俺に任せろ!」
「問題ないよ。心配するな」
沢山の小さなトルコ石(turquoiseターコイズ)が敷き詰められた不思議な姿が現れた。龍だ!
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中国文明における重要な象徴の一つだ。この伝説上の動物は20世紀初頭まで、中国の皇帝の権威を具象化していた。現在の中国人は、今でも権力を表わすこの寓話の中の動物を尊敬している。アーリートゥ(二里頭)の龍は発見された中でも最も古い例だ。
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考古学者たちは、トルコ石が埋め込まれた球状の眼を持ち、怪獣の顔に似た、この青銅のプラーク(plaque飾り)が何なのか、特定出来ないでいる。
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それは遺体の胸の上で、小さな青銅の鐘の隣に置かれていた。同じ合金は二里頭で見つかった最も重要な部品の一つを造るのに使われていた。背の低い三つの足がついたアシュウェイ(爵;しゃく)と呼ばれる容器だ。
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フランス人考古学者「紀元前2千年頃、沢山の青銅の品物が製造された。二里頭文化は中国における最初の青銅器文化ではない。実は第三千年紀の終わりには幾つかの文明があり、それらは新石器時代のものだと考えられているのだが、青銅の品を製造している。我々は、それらの品物を幾つか持っている。大きな品物ではない。二里頭の文化との違いは、二里頭では青銅製品の製作が新たな段階に入っていたということだ。そして、彼らが造り始めたのがバージー(盛酒器?)だ。
この製品は二里頭文化の洗練度を示す証拠だ。しかし、この町が夏王国の首都だったのだろうか?
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一つの研究が二里頭を統治していた王の力を表している。平尾義光教授は青銅合金を造るために錫(すず)と一緒に使われた銅の鉱石の出処を追跡して求めていた。銅は常にわずかな比率で鉛(なまり)を含んでいる。
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鉛の量は、その鉱石が採取された場所によって定まっている。4千年後の今でも、分析すれば銅鉱石が採れた省を正確に特定できるのだ。調査結果はどこが二里頭の職人たちに鉱石を提供したかを示していた。最も遠方の鉱山は遼寧省だった。二里頭からは1千6百Km以上離れている。

平尾教授「鉛の分析は、二里頭が地域での権力を持っていただけではなく、夏のような王国を形成するのに十分な力を既に持っていたことを示すことが出来た。影響力は広い地域に及んでいたのだ。遠く黄海の北の湾の向うからも鉱石を運び込んでいたという事実は、二里頭の人々が他の地域の人々と同盟形態を作り上げる能力を持っていたことを示している」
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二里頭の影響力と権力は都市城塞の外にまで拡大していたようだ。しかし、一つの疑問はまだ解かれないまま残されている。二里頭はどのように繁栄していたのだろうか?他の文化がまだ新石器時代の終わりの状態に留まっていて、自然災害で悩んでいたというのに。
この疑問に答えるため、環境調査計画が立ち上げられた。科学者たちは地下1mから3mまでの土壌のコア・サンプルを採取して調査を進めた。
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彼らは4千年ほど前の種子の残骸を探しているのだ。
調査結果は驚くべきものだった。主要な2種類の黍(きび)を見つけた。一つはその特徴から“foxtail狐のしっぽ(粟あわ)”と呼ばれるものだった。
(mh:ネットで見つけた“狐のしっぽ”です)
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2種類ともこの地で昔から栽培されていた。しかし、それが全てではなかった。土壌は小麦の種も含んでいた。普通、ここから遠く離れた、中国北西部の、黄河谷の上流で見つかるものだ。大豆も見つかった。つまり多様な穀物が栽培されていたのだ。そして遂には、米の種も見つけ、科学者たちは驚かされた。
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ずっと南の揚子江デルタから二里頭に持ち込まれた植物だ!最も農業が盛んな場所では、人々は一種類の穀物だけを育てる傾向がある。しかし、ここで住民が育てているのは、5種類よりも少なくはない。この多種類栽培polycultureが違いを産み出したのかも知れない。
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植物考古学者ジジュン・ジャオ「例えば、ある土地が定期的な旱魃(かんばつ)に襲われていた場合、そこの農夫たちは“狐のしっぽの黍”を育てる。黍は乾燥に強いからだ。もし降り続く雨で土地に水が満ちているなら、人々は米を育てることが出来る。このように何種類かの穀物を育てていれば、人々はいつも、何がしかの収穫が確保できる。つまり全ての自然災害に対して安心できるのだ。高度に進んだ農業システムを持つ社会だけが、気候変動に対抗できるというわけだ」
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二里頭の村の農夫たちは今でも祖先によって使われていた5種類の種を植えている。農作地では穀物の種類を次々に変える方式(転作・輪作)が採用されている。毎年、夏になると、米を植えるため、一定の面積の麦畑は収穫後に水浸しにされる。
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その他の麦畑には大豆が植えられる。いずれの場合も麦の茎は肥料となるよう畑に残される。この方法のおかげで、新石器時代の町は発達し、当時で最も大きな都市の一つになった。しかし、その都市の様子はどんなだったのだろう?

いくつかの建物の基礎の発見と土地調査はCGI(Computer Graphic Image)を使った再現を可能にしてくれた。町全体には考えていたよりも多くの種類の場所が広がっていた。
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農夫たちが住む小屋は、普通、7平方m足らずだった。彼らは都市区画の外で村を形成していた。
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そこから遠くない所には塀で囲まれた建物があった。そこは専門家たちが青銅を溶融する作業場だった。それまでとは異なり、二里頭文明での製造規模は大きかった。東側には高貴な人々が暮らす家が並ぶ地区があり、その中央には王宮と、王室の家系に繋がる祖先たちを祀るための寺院があった。
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これらは回廊(colonnades)や外壁で囲まれていた。それは王や祈祷師や役人のための、政治的、行政的な中心といえる町だった。考古学者たちは、町の人口は2万人くらいだったと考えている。当時なら世界でも最大の町の一つだ。
フランス人考古学者「当時の中国の建造物は木材と、突き固められた土で造られていた。従って一般的には、構造物の耐久性は良くなかった。しかし、その痕跡は地中で見つけることが出来る。テラスの上に造られた建物は突き固めて圧縮された土で造られていて、その土には屋根を支える木の柱が埋め込まれていた」
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黄土は風によって中央アジアから運ばれた細かな堆積物で、中国建築の中では、木材と共に、基礎的な材料として使われている。農夫の家や王家の家、更には、最初に造られた砦の壁も黄土だけで出来ている。時には粘土が混ぜられることもある。突き固めて圧縮されると細かい粒子は石のように固い塊(かたまり)になる。今日でも中国北部の農夫たちは耕地の周辺の壁を同じ方法で造っている。
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木材の枠の中に押し込まれた黄土は乾燥すると固くなり煉瓦と同じ特性を獲得する。

科学者チームのリーダであるスー教授は、都市のレイアウトは政治体制に関する多くの情報を与えてくれると言う。考古学者たちは建物が、建築上のある特徴を持っていたことに注目している。それは新石器時代の文化では見られなかったものだ。王宮都市は囲まれた地区内にあり、厳格な階層社会だった。
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入り口は南に設けられていた門で、王宮広場は回廊で囲まれていた。大きく支配的な建物が遊歩道を監視するように設けられていた。スー教授には、構造の荘厳さが、そこに暮らす王家の政治的な力を反映しているように思えた。彼らが、司馬遷が史記の中に書き残した夏王国の人々なのだろうか?
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スー教授「考古学的な見地からは、二里頭が古代中国の王国の首都だったことは明白だ。中国最初の重要都市だったと言っても間違いないだろう。多くの専門家は夏王朝の首都だと確信している。彼らは二里頭が夏だと考えている」

スー教授は、二里頭の王室の居住区の造りや配置は、その後に建てられた全ての王宮に影響を与えたのではないかと考えている。彼は、その考えを確かめるため日本を訪れた。日本と中国の科学者がこの問題について行う初めての共同作業だ。打合せは京都大学で行われた。
岡村教授は新石器時代後期に関する専門家で、特に二里頭に精通している。二人の専門家は二里頭と、その後に生まれた王国における王宮の主要な建物の類似性を調査していた。
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岡村教授「王宮を取り囲む回廊があるようですが、間違いなかったですね?」
スー教授「間違いありません。この設計は周囲の回廊を統合していて、中国の歴史の中で、以降に造られたいくつかの王宮の建物の形式ととても似ています」
岡村教授「私も、中国で以降20世紀までに採用された建設計画と、ほとんど違いはないと思います」

二里頭の建設計画を更に調べてみると、それが以降の計画における基本になっていることが明らかになった。北京にある明王朝時に建てられた紫禁城の鳥瞰図はその仮説を確認してくれている。
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主用な王宮は周囲を囲む城壁の一部で、入り口は南に向いている。建物自体の構造も二里頭のものと類似している。
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建物を取り囲む広大な回廊は皇帝が散歩する遊歩道のような趣(おもむき)を呈している。二里頭の住民たちは、4千年続く建築様式を発明したと言えるだろう。

フランス人考古学者「二里頭には、王宮内のいろいろな広場を取り囲む建物の原理に関するとてもよい例が見つかっている。今日でも我々が王宮で目にするものと同じだ。最もよい例が紫禁城なのは間違いない。更には、北京地区の一般住居についても、同じ伝統的な設計が使われていると言えるだろう。つまり、住民の家も中庭を囲むようにして造られているのだ(mh胡同フートンと呼ばれる旧式住宅です)。新しい技術が芽生え、二里頭時代には無かった材料も使われてはいるが、構造原理は二里頭で見つかったものと同じだ」

二里頭の住民が、古代の歴史家が言及していた夏王国の人々だと言える記録はない。しかし、住民は間違いなく、それまでの祖先たちよりも力強い文化の中で暮らしていた。二里頭の農夫たちは繁栄的な農業体系を創り出していた。金属業者は遠く離れた場所から鉱石を輸入し、洗練された青銅製品を造っていた。
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彼らは中国の冶金を特別な、高品位で、体系化された芸術工芸に変革していた。力と権力を表現するため、青銅は二里頭で既に重要な役目を演じていた。
フランス人考古学者「我々が確信しているのは、青銅の製造と、二里頭の、特に上流階級が持っていた権力との間の繋がりだ。古代の重要な価値観から見ると、青銅は、他の何よりも、上流社会との関係が強かったことは明白だ。特に、二里頭での青銅の製造が、主に儀式との関係で使われる青銅製の容器に向けられていたということはとても重要な点だ」

ある考古学者たちは、二里頭の王が、王宮での儀式を初めて思い付いたのではないかと考えている。その儀式とはどんなものだったのだろう?
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20世紀初頭まで、壮大な儀式は皇帝が家臣との繋がりを強化するものだった。この儀式を調べることで、考古学者たちは二里頭での儀式がどのように行われていたのかを想像することが出来た。
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夜明けになると、貴族や周辺の村の指導者たちは王宮広場に入ることを許される。彼らが多くの捧げ物を持ってきたのは疑う余地はないだろう。彼らが回廊で囲まれた中央広場で神妙に待ち構えていると、ついに王がそこにやって来る。
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手には純粋な翡翠を彫って造った笏(しゃく)のような刀剣を持っている。
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この翡翠の刀剣は、神聖なもので、恐らく西方の山岳地帯の人々からその発想を取り入れたと思われる。このような信仰の象徴を他の地域から取り入れることで、王は自分の権力を強化していた。
そして、参列者たちに向かって、王は突然、黄金のように光り輝くあるものを持上げる。それはアジュウェィと呼ばれる礼拝用の容器で、他の文明から生まれたような形状をしている。最後に、十数人の役人が台上の王に加わると、当地の穀物から作られた酒を王から分け与えられる。
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この儀式は二里頭の社会の中で、階層社会を創り上げていた。それは町の人々を主宰する社会的、政治的な骨格を象徴していた。

スー教授「夏王国は人々との関係を重視していたと思う。基本的には、神が持つ力は王の力よりも影響は小さかっただろうと考えている。儀式が魂の力を強めるために行われていたのは明らかだ。しかし、彼らは、神性を崇(あが)める代わりに、祖先たちを丁重に敬っていたのだ。これは夏王国が神よりも祖先たちに関心を持っていたことを意味する」
儀式を目撃している人たちは世の中の全ての頂点にいる王位の優越性を悟っていた。儀式はまた、組織の中でメンバー間の連携を強める要素も持っていたように思われる。
スー教授「二里頭文化は、とても広い地域まで及んでいた。しかし、間違いなく言えるのは、それが軍事的な支配力の結果ではなく、もっと穏やかな文明によるものだったということだ。つまり文化の力だ。夏王国の首都として、二里頭は極東における最初の文化的な中心地だったのだ。

中国人たちは今でも偉大な禹に敬意を払おうとカイ・フン開封の町にある寺を訪れる。
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ここでは伝説の中での印象は歴史的な現実と融合している。神話の向うで大禹は近代中国の創設者を象徴しているのだ。
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しかし、記述で残された証拠がないため、二里頭文化が夏王国だと断定することは難しい。そうはいっても、はっきりしていることもある。二里頭文化は、新石器時代の終わり頃の社会と、商や周という王朝の間にある“失われたリンク”だということだ。我々の近代史よりも2千年前、二里頭の王たちは統治体系を産み出し、支配体制の慣習や宗教を確立した。彼らの力は貴人の意向を象徴する青銅器を介して具体化された。こうして二里頭文化は、文明の発生を告げた。その後、紀元前1600年頃、商王国が黄河流域で産まれた。
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商は、青銅器技術を極致まで高め、神事で使われる文字(mh甲骨文字)を発明した。
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紀元前1045年になると周が商に取って代わった。周は近隣との連携を固め、封建制度を創り出した。
(封建制:上位の君主が、臣下に対して、その領地支配を認め、爵位を与え、臣従(貢納・軍事奉仕等)を義務づける社会制度)
この時期、中国は勿論、まだ中国とは呼ばれていない。しかし統一の動きは始まっていた。黄河や揚子江の中央平原という揺り籠の中で、全ての要素が一体化して、将来の偉大な権力の歴史は始まることが出来たのだ。
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China's Beginning - Xia Dynasty
https://www.youtube.com/watch?v=qXrkF5Nd4i8&t=22s#t=74.6176646

・・・・・・・・・・・・
補足情報です。
Wiki:夏の実在性
従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。
しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』を証明された事と、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』を混同してはならない。
現代の中国歴史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている。
(mh難解な記述ですが、夏王国が実在した証拠はないが、夏と呼べそうな文化や都市はあったということでしょう。夏王朝は伝説でしかないかも知れないのに、中国人としては、エジプト文明に対抗できる古い昔から、中国に王朝があったと考えたい気持ちは理解いたします。当然ですが、夏王朝の創始者と言われる禹なる人物も、王朝の存在同様、朧(おぼろ)のままです。日本でも、全国に銅像が立つ人気者の日本武尊(やまとたける)がいます。記紀の中でしか存在していないにも関わらず、実在していたと考える人が多いのでしょうか。それとも国粋主義者たちの陰謀でしょうか)

Wiki:殷(いん:紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)
中国の王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

Wiki:甲骨文字(こうこつもじ)
中国・殷(商)に行われた漢字書体の一つで、現在確認できる最古の漢字。古代中国で生まれ発達してきた文字(漢字)と獣骨を用いる占卜(せんぼく)とが結びついて文字記録となったものである。亀甲獣骨文字、甲骨文ともいう。殷後期の考古学資料が小屯村(殷墟)で大量に出土した。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた。
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mh:甲骨文字が沢山見つかった殷墟は二里頭から200Km北東ですが、いずれも黄河の近くで、広い中国の中では同一地区と言えるでしょう。

主な青銅器と名称は次の通りです。
爵(しゃく:温酒器)      虎卣(こゆう:虎の形の盛酒器)
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鼎(てい;煮食器);饕餮(とうてつ)文様です。 銅戈(どうか;武器)
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尊(そん;盛酒器)          觚(こ;飲酒器)
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觚について、論語に次の言葉がありますね。
子曰、觚不觚、觚哉、觚哉、
子の曰わく、觚(こ)、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。
「觚」はもともと角のある杯を言うのに、今では「觚」と呼ばれるものは角が取れて丸くなっている。これでは觚といえようか。觚といえようか。
(そんなふうに、有名無実化している物事が、多いことよ)

孔子は卓越した思想家ですが、その教えは、古い仕来りや体制を守ることが基本ですから、皇帝や天皇には好都合です。中国政府は、国の宣伝のため、世界中に孔子学院を広める運動を進めていましたが、この運動は最近、下火のようですね。お釈迦様が仰るように、因果応報で、奉(たてまつ)るべき皇帝を滅ぼした裏切り者の共産党が孔子の教えを広めるのでは、後ろめたくて、それがもとで、今では孔子は忘れ去られつつあるのではないかと推察します。mhが大切にしている孔子さまの言葉は、以前ご紹介したことがあるとは思いますが、改めてご披露しておきましょう。
「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」
詩経という古い教本には三百もの教えがあるが、之(これ)を一言を以(もっ)て蔽(おお)うなら、思いに邪(よこしま)無しと言えるだろうね、って孔子様が仰ったんですね。ここでも、詩経という古い教えが基本です。しかし、思無邪(しむじゃ)は、人として生きていく上で、きっと一番大切なことでしょう。
(完)

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mh徒然草: 季節外れの野菜を作れば


今日は6月23日。初夏です。いつものスーパーに女房殿とショッピングに行ったんですが、キャベツが1玉99円で、ここ数か月の最安値でした。99円で売り出されたのは、2ヶ月程前で、以降、週2、3回いくのですが、99円の時が多いです。旬なんでしょうね。

で~このキャベツですが~
少し前は250円くらいしていたんですね。キャベツと言えば、玉子と並んで、“安くて栄養があって、一年中、手に入る健康食品の代名詞”みたいなものですが、大雑把なmhには“やっぱ冬はキャベツの旬じゃあないから250円が相場じゃあないの?”ってな感覚しかありません。どうなんでしょうねぇ。平年の月別キャベツ価格推移グラフでもあれば、はっきりするんですが・・・

ハウス栽培が普及した今日、高地でキャベツを作るなら、夏は自然気候で、冬はハウス内で栽培できるでしょうから、やっぱ1年中、大量に、安く、キャベツを栽培できるんじゃあないかって思うんですが、TVを見ると、嬬恋高原の広~い畑の中、ハウスなどではなく青空の下で、キャベツを収穫している若夫婦なんかが出てくる健康食品のコマーシャルがTVで流れていたような記憶が朧(おぼろ)にありますから、キャベツのハウス栽培は少ないんじゃあないでしょうか。

しかし、季節をずらしてキャベツ、西瓜(スイカ)、苺(いちご)など、野菜を次々に途切れなく栽培すれば、旬の時期の2倍以上の価格で1年中、複数の野菜を売り続けられるわけですから、温湿度や日照を管理できる栽培工場みたいなものを造って、大雨や旱魃(かんばつ)や冷夏、暖冬があっても、計画生産、計画出荷する体制を整えたら、きっとべら棒な利益が得られると思うんですが、あまり普及していないようです。日本には小規模・小資産の農家が多く、対応能力がないためでしょう。ならば政府主導の“国営農場”ってことも考えられますが、政府が関与すると、市場への対応や、体質改善にほころびが出て、大金をつぎ込んだ計画が頓挫(とんざ)するのは目に見えていますから、やっぱ民間主導でやらなきゃあならないと思いますが、農業の大型化・近代化が進むと、弱小農家がつぶれちゃうからといって、政府は規制をかけていて、農業改革は一向に進みません。

しかし、考えてみたら、いろんな手立てを尽くして、冬にわざわざ夏野菜のスイカを作らなくても、南半球で栽培したスイカを輸入するって手もありますから、季節外れの野菜を同じ場所で1年中、作り続けるビジネスが絶対に儲かるとは言えません。

更には、最近はフリーズドライ(冷却乾燥)技術がありますから、ひょっとしたらキャベツだって何だって、野菜は旬に大量収穫してフリーズドライすれば、1年中、安い価格で手に入れることができる時代が来ていると思います。我が家も、コーン、枝豆、ブロッコリー、ニンジン、ホウレンソウ、ポテトなどの冷凍食品のお世話になり重宝しています。果物も同じで、オレンジや林檎、桃なども、濃縮還元とか加熱滅菌してジュースにしておけば、1年中、いつでも安い価格で摂取出来ます。

そう考えると、季節外れの、付加価値の高い野菜や果物を作る労力は、フリーズドライや濃縮還元などの技術に押されて、なかなか実を結ばないかもしれませんが、温室で育ったものでも、生の野菜は、フリーズドライ品よりずっと新鮮でおいしいのは間違いないですから、高級品志向のお客さんが500円のキャベツを買うってな市場もあるわけで、事業として成り立つ部分もあるんじゃあないかと思ったりもします。

地球温暖化で野菜栽培環境は年々変化しています。これに合わせて作物の種類を変えるとか、温湿度管理型栽培を導入するとか、フリーズドライの技術を組み合わるとか、海外から大量輸入するなどの対策が考えられ、これによって季節外れの野菜や果物を楽しめるチャンスが増えているのですが、いずれも日本の小規模農業では対応不可能です。このままでは、収穫量は減少して輸入やフリーズドライが増加する傾向をたどり、日本農業は衰退して野菜の価格は上昇の一途をたどることになります。

農業の自由化・大規模化を許容する政策は急務だと思います。“若者が農業から離れていくのを止めない限り、日本の農業の将来はない!”とmhが言ったら、尊敬するお釈迦様も“それは因果応報というもので、自然の流れですよ”と仰って賛同してくれるはずだと確信しています!

The Seekers - Georgy Girl – 1966
https://www.youtube.com/watch?v=htnwnRR_ufs
(完)

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