Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ティンブクトゥの不思議

今回は、西アフリカ・マリ共和国の古都ティンブクトゥTimbuktuに纏(まつ)わる物語をご紹介しましょう。

ティンブクトゥはギニアGuineaの山脈を発してギニア湾に注ぐ全長4,180Kmの大河ニジェールNiger川の中流域に広がる砂漠の町です。
03101.png

ニジェール川は水量が多く、底が浅いボートなら上流から下流まで数千Kmを移動できるので、昔から、人や食料、動物、特に砂漠では大切な塩、そして今回のキーワードの黄金、を運搬する物流路として使われています。川辺では農業や牧畜を営めるので昔から人々が住み着く町が点在し、ガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国といった国家が興亡を繰り返しました。

次の写真は古都ティンブクトゥの現在の町並みです。
03102.png

今回のブログの主人公はマンサ・ムーサ(مانسا موسى‎ Mansā Mūsā)です。マンサとは王の意で、マンサ・ムーサはマリ帝国10代目の王でした。彼の時代に帝国は最盛期を迎え、莫大な黄金も蓄えられていたのですが、彼はこれをあることのために使ってしまうのです!

それではYoutube「Digging For The Truth – Timbuktu」をお楽しみ下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アフリカのエル・ドラドとして知られた古都ティンブクトゥ。
03102a.png
この町の伝説は1324年に始まる。
03103.png
巨大なキャラバンがカイロを目指していた。マンサ・ムーサが率いる6万人(!!!???)がメッカ巡礼に旅立ったのだ!
03104.png
13トンの黄金(注)を持って!
(注:現在の金価格は1grで約5千円ですから13トンだと・・・650億円!)

メッカに向かう途中の国々でこの一行に出くわした人々は、これまで名前も聞いたことが無い王が莫大な黄金を持ち運んでいるのを知って驚いた。この黄金のために、エジプト・カイロの金相場は数年間に渡って完全に破壊されてしまったという。

この話はヨーロッパにも伝わった。1375年にスペインで製作されたアフリカの地図には玉座に座るマンサ・ムーサが金塊を手にしている絵が描かれていた。
03105.png

金に目がくらんだヨーロッパ人探検家が大勢やって来た。
03106.png
彼らのほとんどは砂漠の中で死に絶えたり、土着の盗賊に殺される羽目になったという。
03107.png

マリ共和国の現在の首都バマコの近くにある村の村長はマリ帝国の子孫だ。活きた歴史書の彼は口伝(くでん)のマンサ・ムーサ物語を楽器の音にのせて語ってくれた。
03108.png
村民や子供達も楽しそうに聞いている。
03108a.png
私(レポーターのHunter Ellis)には意味が判らなかったが、彼の表情や口調から、どんな内容が語られているのか想像できて楽しめた。
03109.png
1265年から1645年まで続いたマリ王国の物語を村長は語ったようだ。王国は当時、モンゴル帝国に次ぐ広大な国だった。
03110.png
1235年には市民の権利を保証する憲法も出来ていた、マグナ・カルタ(注)の20年後だ!

(注:Wikiマグナ・カルタ(大憲章)
イングランド王国のジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であったが、このとき、ジョン王が「王の権限を制限する文書(マグナ・カルタ)」に承諾を与えて事態の収拾を計ったことで制定されることになった。)

マリ帝国の憲法は口で語られ、文字では記されなかったから多くの人が知ることにはならなかったらしい。
ところで、通訳でガイドのブブカによれば、村長が語った物語にはマンサ・ムーサは登場していなかったらしい!!!彼がマリの黄金を持ち出したことで王国は破産状態になったため、人々は彼のことを好く思ってはいなかったからだという。700年後の今ですらマンサ・ムーサの名を語ることはタブーに近いらしい!そんなことは考えてもいなかったので驚いた!

ブブカがパンファンと呼ばれる特別な場所を紹介してくれた。
03111.png
13世紀、ここで王たちに帝王学教育が行われていたという。マンサ・ムーサも勉強したらしい。
03112.png
神聖な場所とされ、発掘調査は禁止されている。間近で見ることすら憚(はばか)られる場所で、今回は特別に許可してもらったらしい。
03113.png

ところで、マンサ・ムーサはどこで黄金を手に入れたのだろう?今でも金の採掘が行われているナレナという村があるという。行って見よう。

ガイドは金鉱の村に行く前にすることがあると言う。
03114.png
尊敬と善意を示すため、プレゼントを買うのだ。
「60ドル!」「40ドルでどうだ?」「なら50ドルだ!」ということで、結局50ドルで子羊を買った。
03115.png
車の中に乗せると小便で汚れるので屋根に乗せて運んだ。羊も快適だろう。
03116.png
途中で奇妙な形の岩山に出くわした。村は近いらしい。
03117.png
金鉱の村についた。早速、リーダーと撮影交渉する。
03118.png
マンサ・ムーサの時代から続いている金鉱で、今も2千人の人々が金の採掘で生計を建てているという。
03118a.png
一つの縦穴を掘り尽くすと、1mくらい離れた場所に次の穴を掘る。辺りを掘り尽くしたら数Km離れた場所に村全体を移して金の採掘を続けている。
03119.png
数週間前、ある女性が1日で10オンス(注)の金を見つけたらしい。数千ドルの儲(もう)けだ。
(注:1オンスは16分の1ポンドで約28.35グラム)

今でも金はマリ共和国の重要な輸出品だ。毎年60トンを輸出する。多くの金は近代的な設備で採掘されるが、この村ではバケツと盥(たらい)を使う昔からの方法だ。この方法でもマリ全土になると毎年数トンもの金が採掘されているらしい。

これを聞いて元気を得た私は竪穴に入って金を探してみることにした。
「ところでこの竪穴は中で作業しているうちに崩壊しないの?」
「そうだなぁ、雨季だと時々そんな事故があるけど、今日は大丈夫だよ。」
03120.png
深さは60ft(18m)ある。穴の周りの壁は滑りやすい。楽な仕事ではない。
03121.png
中はとても暑い!110F(43℃)だ!それに酸素も少なくて息をするのも苦しくなる。
03122.png
穴の底で掘った土砂はバケツで引き上げてもらう。
03123.png
大きな岩を取り除き、小さな粒の土だけ盥にのこしてから水で泥を洗い流す。
03124.png
何もない??いや、あった!とても小さな金の粒が!労働の報酬だ!
03125.png
2杯目のバケツからは1.5grの金が見つかった!40ドル相当だ!
03126.png
こんな方法でも何千人かで毎日作業すればマンサ・ムーサが持っていた莫大な量の金塊も採れそうだ!
しかし、村から500kmも離れた町ティンブクトゥがこの金で有名になるというのも不思議だ。

ここはマリ共和国のハイウェイとも言えるニジェール川沿いの港。
03127.png
町には食料、衣服、スパイスが豊富だ。昔は金も沢山あった。
03128.png
それをティンブクトゥに運ぶのだ、船で!
03129.png
ニジェール川は西アフリカでは重要な交通路だ。命の川だ。マリを豊かな国にしてくれた。
03130.png
全長2600マイル(4160Km)で5ヶ国を流れている。マンサ・ムーサの時代、マリ帝国中がこの川で結ばれていた。
北からは駱駝のキャラバンがティンブクトゥに物資を運んできた。
03131.png
南からは川を伝って船で金などがティンブクトゥに運ばれた。おかげでティンブクトゥは国際商業都市として栄えることになった。
03132.png
運ばれたのは物資だけではない。文化も運ばれてティンブクトゥで交流が行われていた。
03133.png
ニジェール川をティンブクトゥに向けて下っている途中、船から美しい建物を見ることが出来た。
「あれがこの村のモスクなのか?」
03134.png
とても美しい!
03135.png
カヌー・レースをしている人々に出会った。隣の町と競争しているらしい。毎年、国の大会も開かれるという。
03136.png
ティンブクトゥへのカヌーの旅は230マイル(370Km)も続く。時間たっぷりの船旅だ!
03136a.png
川岸には緑も多い!
03137.png
あの船の大きさを見てくれ!
03138.png
大勢の人々がこの川に依存していることが判る。屋根も人や荷物で一杯だ!
03139.png
昔、金が川に沿って北に運ばれたのには理由がある、と船長はいう。
「塩と交換するためだ!ティンブクトゥでしか塩を得ることができなかった。」
03140.png
3日間ニジェール川をボートで下って、やっとティンブクトゥ近くの港に到着した。町に向かって暫く歩く。
03141.png
道で出会う車は少ない、落ち着いた町のようだ。
03142.png
世界遺産のモスクやマドラサ(イスラム教修道院)もある。
03143.png
砂漠が多いマリでは脱水症に罹(かか)りやすいという。マラリヤや猩紅熱(しょうこうねつ)なども流行(はや)っている。いずれも血液中の水と電解質(electrolyte)が欠乏すると罹(かか)り易い。
私の血液を確認してみよう。スペクトル分析器で直ぐに結果が判る。
03144.png
平常値で問題なかった!

しかし、砂漠の国で暮らす人は塩分の欠乏で病に罹りやすい。
03145.png
そこで重要なのが塩だ。ティンブクトゥの600km北の町タオウデンニに岩塩田があった。7百万トンも眠っているらしい。
03146.png
採取された岩塩はマリ帝国の首都に運ばれた。岩塩の板は1枚60ポンド(約30Kg)ある。4枚を1頭の駱駝にくくりつけて運ぶ。
03147.png

大体、駱駝40頭で1隊商を構成していた。
03148.png
当時、塩は同じ重さの金と同等の価値があると言われ、「白い金」とも呼ばれていたらしい。
こうして北から運ばれた塩はティンブクトゥで金塊と交換されていたのだ。
03149.png
キャラバンは塩以外にも重要な物を運んできた、知識だ!
03150.png

マンサ・ムーサも、メッカ巡礼から帰国した時、沢山の本を持ち帰った。
03151.png
建築家や学者も中近東から連れてきた、モスクや大学を造るために! 彼が造った建築物のいくつかが今も残っている。
これは彼がティンブクトゥに造ったマドラサ(イスラム修道院)だ。
03152.png
今でも子供達が勉強する場となっている。
03153.png
男の子も女の子も一緒だ!平等と多様性が同居しているのは昔からだという。
03154.png
ティンブクトゥには10万人が住んでいた。そのうちの2万5千人が学者だったという!つまり、ここは知識の町だったということだ。
03155.png
イスラム教だけでなく、天文学、数学、歴史、薬学などを学ぶために人々は集まった。
03156.png

ティンブクトゥの黄金時代は過去のものだ。
03157.png
でも、いくつかの宝はまだ残されているという。
ティンブクトゥに暮らす、ロイヤルファミリーの子孫で学者の家を訪ねた。
宝物はこの部屋に残されている。
03158.png
古代の経典や教本だ。
03159.png
16世紀から残されているものが多いという。シリアのダマスカスやイラクのバクダッドで千年以上も前に作られた本もある。

このような書籍は彼の家に山ほどあるという。しかし、外からやって来る征服者たちから守るために地中に埋めて隠したり、虫に食われたりしたために劣化が激しい。
03160.png
その上、製本されていないので、ページがバラけると本の体裁が無くなる。そこで、これらの書籍を少しずつ図書館に移し、整理して保管しているという。
03161.png
このような図書館はティンブクトゥには沢山あるらしい!書籍の多くはイスラム国に関係するものだが、アリストテレスやプラトン、ピタゴラス、などのギリシャの哲学者に関して書かれたアラビア語のテキストもある。世界のどこにも残っていないものも多いという。
03162.png
これらの書籍を研究するグループができ、書籍の整理やデジタル化が始まっている。
03163.png
今までなら見ることすら困難だった書籍が、世界中の誰もが簡単に読めるようになるのだ。
03164.png
これらの書類の解読が進めばアフリカの歴史は書き変えられるかも知れない。

ここに「マンサ・ムーサ」と書かれている!
03165.png
マンサ・ムーサの旅行記は今、目の前にあるのだ!皇帝もきっと天国で自慢しているに違いない。

Digging For The Truth - Timbuktu (Full Documentary)
https://www.youtube.com/watch?v=yDr0J12sKRc

以上がYoutubeフィルムですが、泥で作られたモスクの写真をいくつかご紹介しましょう。
ティンブクトゥのモスク
03166.png
??のモスク(Google Earthで見つけましたが、どこの町か失念しました!)
03167.png
ジェネのモスク
03168.png
ディアファラベのモスク
03169.png
Google-Earthの衛星写真をみると、緑が多いかどうかが判ります。ティンブクトゥは砂漠にある町で、ニジェール川の恩恵で農耕もできるようですが、十分な収穫は期待できないようです。
03170.png

「Wikiトンブクトゥ(ティンブクトゥ)」
かつては10万人以上の人口を数えたトンブクトゥも、交易形態の変化や衰退により2000年代には5万人あまりに減少。かつての規模から比べれば、少し大きな村といった規模となった。ただし、現在も砂漠地帯の中の物資の集散地点であることは変わらず、岩塩や手工芸品などの取引が行われている。市内は日干し煉瓦で出来た家々が並び、ひどい貧困に見舞われている状況にある。また、周囲の砂漠化が進行し、町が砂漠に埋もれる危険性も指摘されている。

近年、周辺が世界遺産に登録されたこと、パリ・ダカール・ラリーの通過地になっていたこと(開催年によってはコースから外れることもあり)から、次第に知名度が高まり、観光客も増えつつあるが、インフラは依然として整っておらず、ホテルのキャパシティも小さい。

イスラム系武装組織が街を占拠すると、組織が自家発電により電気と水を供給するようになったが、フランス空軍の空爆により組織が撤退すると電気と水の供給が停止した。」

(完)
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する