Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ガンダーラの不思議

今回はYoutubeフィルム「ガンダーラ;仏教の夜明けGANDHARA, THE RENAISSANCE OF BUDDHISM」をご紹介しましょう。

実は、このブログ情報は5月初旬に収集したもので、原稿の作成開始、つまりこの瞬間、は6月2日です。6月19日から「パミール高原大横断旅行」に出発しますが、このブログで取り上げられているバクトリアやガンダーラも関係がある旅なのです!
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6月の旅はパキスタンの首都イスラマバードに飛んだら、後は車でインダス川流域を遡ってフンザHunzaを経由し、中国のカシュガル(喀什)まで8日間、前後の飛行機移動3日を含めると11日の旅で、今回のブログで取り上げられている地域の東側を掠(かす)めてヒンドゥクシュ山脈の麓を移動し、カラコルム山脈を越えるのです!!!いやぁ、心は既に現地に飛んでいて、今回はどんな不思議に出会えるのかと、期待に胸を膨らませています。

で、今回のブログに出てくる重要な国「バクトリアBactria」について詳しい情報をお教えしましょう。
「バクトリア(Bactria)はヒンドゥクシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域(地方)の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。」
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上の地図でも判るように、古代にバクトリアと呼ばれた地域はパミール高原とヒンドゥクシュ山脈の間の盆地にあったんですねぇ。昨年訪れたウズベキスタンのサマルカンドSamarkandも、砂漠を流れていた川アムダリアAmu Darya(Oxus)も地図に出ています!懐かしいです。

Wikiによれば、ペルシャ文明に大きな影響を与えたゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、バクトリアの人だという伝説があるとのこと。この点については諸説あり、まだ定かではないようですが、少なくともペルシャのアケメネス朝時代、バクトリアの首都バクトラ(どこにあったか特定困難)がゾロアスター教の中心地の一つであったことは明らかだとのことです。伝説によれば、開祖ザラスシュトラはアレクサンドロスの侵入より258年前の人で、70歳で死んだといわれているので、紀元前6世紀ごろの人物となり、ペルシャではアケメネス朝の初期にあたります。

上の地図に戻って、地図の北(上)側と南(下)側をよく見ると緑の文字で「Alexandriaアレクサンドリア」なる地名があるではありませんか!これは勿論、マケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロスAlexander the Great)の遠征で造られた町です。

次の地図はアレクサンドロス帝国の最大版図(はんと)です。アレキサンダー大王の遠征は紀元前334年に始まり、紀元前323年、32歳(正確には32歳と11ヶ月)でバビロンで死ぬまでの12年間。たったの12年でこんなに広大な帝国を獲得したのです!
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アレキサンダー大王の遠征は、その約2百年前の紀元前5百年頃にインドで生まれ、彼の遠征の後にバクトリアに伝えられた仏教に大きな影響を与えることになりました。恐らく、アレキサンダー大王なくして、日本の今日の仏教はなかったと言えるでしょう!!!?

「アレキサンダー大王の遠征と日本仏教の関係とは?」

それはこのブログで紹介されています!
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「ガンダーラ;仏教の夜明けGANDHARA, THE RENAISSANCE OF BUDDHISM」

今日、10億人以上の男女が自分たちを仏教徒だと認めている。
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2千5百年前にインドで生まれた仏陀の言葉は、当初は僅かな僧侶の間だけで語り伝えられていた。
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その3百年後、バクトリアで仏教はギリシャの文化と融合した。
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以降、仏教は精神的、文化的な基礎となり人々の間に広められていく。
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(mh:タイトルはフランス語で「ガンダーラ;仏教の起こり」。日本とフランスの共同制作のようです。)

紀元前6世紀のある日の夕方、菩提樹の下で瞑想していた釈迦牟尼、正確には聖人、は突然、何が全ての物事の源なのかに気付いて仏陀となった。仏陀、つまり悟った人The enlightened Manだ。
宗教というよりは現実的な哲学とも言える彼の教えは、弟子達によってインド、ヒマラヤ地方に広められていった。
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弟子達は、質素な服を纏(まと)い、民衆の慈悲(施し)を受け、仏陀と共に暮らしながら彼の教えを学んだ。仏陀の死後、弟子達によって伝えられた教えを学ぶ修行僧達は、人里離れた場所で暮らしながら多くの時間を瞑想して過ごした。
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瞑想は森羅万象の神髄を理解するためだ。こうして彼の教えはインドやスリランカに広がっていった。

西インド、ボンベイ近くのアジャンターは古い仏教遺跡の一つだ。誰もが目を見張るであろうモニュメントが全長5百mに渡って半円状に残されている。
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大勢の修行僧が岩肌に洞窟を掘って修行場としていたのは1千年以上も昔のことだ。
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中でも最も古い洞窟のフラスコ壁画は2千年以上も前の紀元前2百年に遡(さかのぼ)る。表面の汚れを慎重に取り除くと人の顔やカーラチャクラ(時輪)が現れる。カーラチャクラは仏陀の像が造られる前の仏教のシンボルの一つだった。
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(mh:カーラチャクラKalachakraは正確には「時輪(Kala時間Chakra輪)」で、インド仏教・後期密教の最後の経典のこと、とWikiにありました。詳細情報はブログの最後に載せておきます。)

次の図では人がカールチャクラに手を伸ばしている。
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昔、仏陀を表す時は、仏陀の姿を描かず、蓮、馬に乗った人影、木(菩提樹?)などで表現していた。カールチャクラもその一つだ。しかし、紀元前2世紀になると仏陀の姿が描かれるようになった。
近くの洞窟には仏像が岩に掘られている。
(mh:ブログの最後に「平山郁夫 絵画集:仏教伝来」(5分)を挙げます。BGM付です。馬に乗る人も現れます。しかし、好い絵ですねえ。心が和(なご)みます。お楽しみに。)
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これらの仏像はカールチャクラの絵が描かれた時代より3百年後のものだ。人々が、もっと具象化された信仰対象を望むようになったから現れた!仏陀像の出現は仏教の歴史の中でも劇的な変化であり、革命とも言えるだろう。
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釈迦が亡くなると8人の弟子は遺骨を分けて持ち帰り、ストゥーパを建てて保管した。それでインドには8ヶ所の聖地が生まれることになった。
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その後2百年をかけて、弟子達は布施(ふせ)を受けながら旅をして、インド大陸全体に仏陀の教えを広めていった。
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その次の数世紀で、仏教はパキスタンやアフガニスタンにも伝わることになった。そこにはガンダーラGandharaがあった。
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ガンダーラは、マケドニアのアレキサンダー大王の遠征後、その軍隊の子孫たちが現地人の王国を植民地化して暮らした地域だ。ギリシャ人やエジプト人を祖先にもつ人も多かった。このガンダーラでギリシャの思想や芸術と仏教の融合が起きた。ギリシャ人が統治したガンダーラの町アイ・ハヌムAi-Khanoum。
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バクトリア帝国の主要都市だった。当時この地には新しい文化が生まれていた。地中海生まれの技術を現地人の好みに合わせて造り変えた文化だ。
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グレコ・バクトリアン・アート(語義:古代ギリシャとバクトリアの芸術)は建物や彫像や絵画に現れ始めていた。帝国はギリシャ系の支配者によって平和裏に統治されていた。最も有名な支配者はマナンダーだ。紀元前2世紀、バクトリア帝国の王だった。
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この地に仏教徒が宣教のために訪れた時、バクトリアの王マナンダーは宣教師の一人ナガシーナという聖人に質問している。
「どうしたら苦悩から逃れることができるのか?死を克服する悟りはどうすれば得られるのか?」
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王と宣教師による300を超える問答は中国語に翻訳され、数百年の間、仏教の教えの基本を知る教材になった。
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2人で行われたこの一対一の面談は、仏教とギリシャ哲学の偉大な出会いとも言えるだろう。
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ノルウェーの“科学と文学”アカデミー(Academy of Science and Literature)に当時の経典が保管されている。
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数年前、アフガニスタンのバーミヤン洞窟で見つかったものだ。バーミヤンはガンダーラの西の果ての町だ。見つかった経典は椰子(やし)の葉などに書かれ、仏陀や弟子達の生活や教えが記されていた。
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インドの言語の「コロストフィー」で書かれていて、紀元後2世紀頃のものもある。
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世界中の学者が集まって解読が行われている。脆(もろ)くて壊れ易いのでデジタル・カメラでコンピュータに取り込み、モニター上で切り貼りしながら元の状態に復元しようとしている。
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「ガンダーラでは沢山の仏像は見つかったが、文字で書かれた「仏陀の教えそのものを伝える資料」はほとんど見つかっていなかった。今回、バーミヤンで、断片的な資料だとはいえ1万点以上もの古い記録が発見されたのは驚くべきことだ。仏教が栄えていた時代の生の資料を21世紀の我々が今まさに目にしている!この発見はきっと大きな成果を生むことになるだろう。」

翻訳を進めている教授リチャード・ソロモンは2つの特別な言葉を見つけた。
「6つ」の「徳(完成)」だ。6つの徳は次の諸行によって生きていても体得することが出来る。
道徳morality, 忍耐patience、謙虚humility、粘り強さtenacity、瞑想meditation、6つ目は、この宇宙の下(もと)で自己とは何かを直感することintuit of understanding oneself under the universe。
最初の4つは仏教が生まれた時からあった概念だ。最後の2つは後に生まれ、成就fulfilment と覚醒enlightenmentのためのものだ。

導いてくれる僧侶がいなくても、一人深く瞑想しさえすれば、誰だって悟りを得ることが出来る。これがマハヤーナ仏教(大乗仏教:大きな乗り物、内的な体験)の基本となっている。
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大乗仏教のこの教えは仏教に変革を起こすことになった。
そして6世紀には中国では禅が生まれ、朝鮮や日本に伝えられた。
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仏教への関心が人々の間で高まると、新たな必要性が生まれて来た。それはここにも記されていた。
「私は仏陀を見たい!」「私は仏陀の声を聴きたい!」
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人々のこの要望への対応がバクトリア王国の渓谷ガンダーラで始まった!
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アレキサンダー大王の後継者たちによって統治された王国グレコ・バクトリア。その中の町ハッダHaddaはアフガニスタンの現在の首都カブールKaboulの東に位置している。
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ここで10もの仏教寺院、1万5千もの仏像が発見され、急に脚光を浴びるようになった。ガンダーラが仏教の聖地だった証拠と言えるだろう。
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しかし、不幸にも多くの仏像は写真でしか見ることが出来ない。バーミヤンの大仏と同様にタリバンの犠牲になってしまったのだ。
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これらの像は紀元前100年頃のものだ。
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グレコ・ブディスト(古代ギリシャと仏教の融合)の仏像が現れ始めた所だ。
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タージー教授はここでの調査の責任者だ。
(mh:タージー教授!懐かしい人の再登場です!彼はアフガニスタン人ですがタリバンの暴力を逃れてフランスに移住し、タリバンが政権を去った今、年1回(?)、故郷に戻って遺跡調査をしています。ブログ「バーミヤンの不思議」(12月22日)でご紹介しました。)
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「仏像の脇にはギリシャの神や英雄が控えている。」
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「典型的なアイオニアン(注)だ。」
(注:イオニアIonia:エーゲ海に面した、アナトリア半島(現・トルコ)南西部に古代に存在した地方のこと)

「笛を捧げようとしている女神はヘレニズム・スタイルで現されている。」
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ギリシャ神話のヘラクレス(注)を連想させる像・・・
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(注)ヘラクレス
ギリシャ神話の半神半人の英雄。ギリシャ神話の主神で全知全能のゼウス(!)が他人の女房に産ませた子で、ギリシャ神話に登場する多くの英雄たちの中でも最大最強の存在です!

仏陀の左の男・・・
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タージー教授は言う「アレキサンダー大王に違いない!」
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「アレキサンダー大王だと言われる像の顔と瓜二つだ!」

ギリシャ神話の神々と仏陀の出会いは新たな芸術を生み出すことになった。グレコ・ブディスト・アート(Greco-Buddhist Art)だ。
バクトリアの都市遺跡アイ・ハヌムで発掘を続けているベルナード教授がフランス語で何か言ってます。
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ヘレニズム・・・その他はチンプンカンプンで全くわかりません。
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画像から推定すると、ギリシャ像の着物のヒダの形が仏陀像の服にも採用されていると言ってる???
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仏教とヘレニズムの出会いは仏教信者が望んでいた仏陀の像を生み出した。だから生まれたばかりの仏陀像はどれもギリシャ神話の若き英雄アポローン(注)の雰囲気を漂わせている。
(注)アポローン:オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子
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紀元前145年、ガンダーラがあったバクトリア帝国は、北のインド系遊牧民の国クーシャン帝国(Kouchanクシャーナ朝)に統治されることになった。
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しかし、野蛮で残虐な騎馬民族の彼等は、どういうわけかバクトリアに伝わるグレコ・ブディスト形式の芸術を破壊することはなかった。おかげでガンダーラ方式の仏教寺院はバーミヤン、ハダー、ラニガットなどに残ることになった。
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多くの寺院や修道院が続々と造られていった。
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ここラニガットでは1900年前、この辺りで最大の寺院が造られた。
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15m以上の高さの建物だった。
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多くの仏像も見つかっている。クーシャンの時代も、仏陀の顔はアポローンと同じだ。
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日本からも考古学者がきていて、ガンダーラと日本仏教の関係を調べている。
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グレコ・ブディストに加えて、2,3世紀に造られたと考えられている像を見つけた。
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像は等身大で、ベルトやハート形の垂れ飾りを身に着けている。
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クーシャンの王か貴族の像の可能性が高い。仏教が拡大するためには不可欠だったクーシャンの支持が有ったことが、この辺りにも感じられる。
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クーシャン王国(mh日本ではクシャーナ朝と呼ばれます)はカニシカ1世の時(2世紀半ば)に全盛期を迎えた。

遊牧民を先祖にもつクーシャンは他国へ侵攻する時ばかりではなく、普段の生活の中でも馬を駆けていた。クーシャンの時代から続く勇壮な競技ブシュカシでは1つの毛皮を馬に乗った男たちが取り合う。
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幼い時から勇ましく育てられ、成長すると手ごわい兵士になった。馬を見事に乗りこなしながら弓を射る彼等はクーシャン帝国の勢力を拡大していった。
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彼等は、雪を頂くヒンドゥクシュ山脈を越える危険な遠征も成し遂げて南に進出していった。
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そうしてカブールやガンダーラ、更にはインドの北部一帯も征服した。

クーシャン帝国は4世紀の間続いた。それまで戦いに明け暮れていた中央アジアには平和が訪れた。
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紀元後1世紀、中国の漢は3つの帝国が世界にあることを確認している。自分自身の漢帝国、ローマ帝国、そして中央アジアに位置し、地中海と中国を結ぶクーシャン帝国だ。
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クーシャンは征服した土地の文化や宗教を取り入れ、人々はそれまでの遊牧とは全く異なる生活を送るようになった、着ていた服を除いて。
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カニシカ王が着ていた典型的な中央アジア・スタイルの服とレザーのブーツ。
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服の裾には3つの手法で王のタイトルが刻印されている。
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南インド;偉大な王、ペルシャ;王の中の王、中国;天国の息子、
これはクーシャン帝国とこれら3つの地域との強い関係を示していると言えよう。
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クーシャンがバクトリアにやって来た時、彼等は仏教と同時にゾロアスター教も発見することになった。紀元前9世紀頃にザラスシュトラ(ゾロアスター/ツァラトストラ)によって生まれた宗教だ。
ゾロアスター教は世界で初めての一神教だった。ユニークな、そのうえ心優しい神「アフラ・マズダー」の存在を説いた。
(Wiki:アフラ・マズダー (Ahura Mazdā):
ゾロアスター教の最高神。宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。)
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生きとし生ける物全てへの愛と純粋な思想や行為を説いた。動物の生贄を禁じていた。火を純粋の象徴として敬っていた。
新婚の2人は火の間を歩いて穢(けが)れを取り除く。ゾロアスターの教えに沿ったものだ。
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ゾロアスター教と仏教の共存にギリシャ文明が加わって新たな様式が創り出された。
アポローンの顔をした仏陀の肩から立ち上る炎・・・
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コインに刻印されたカニシカ王の肩からも炎が・・・
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タージー教授がまたフランス語で何か言っています!
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歴史学者エドワードはクーシャンが仏教を重視したのは安定した統治を長く続けるためだったと考えている。
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今度はロシア語で何か言っていますが・・・
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クーシャンは紅海・アラビア海ルートで地中海一帯やエジプトと交易し、ヒンドゥクシュ山脈を越えタクラマカン砂漠にそったシルクロードを使って中国と交易していた。
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インド国境に近いパキスタンのラホール博物館には沢山のコインが保管されている。
クーシャンの統治で政情が安定していた証拠だとも言える。
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ローマのコインをモデルにして同じ重さで造られたので交易には都合が好かった。
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今度は女性がウルドゥー語(パキスタンの国語)で何か喋(しゃべ)ってます。何を仰っているかは別にして、なかなかエキゾチックで魅力的ですねぇ。
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カニシカ王の政治的な賢さはコインの裏側にも現れている。表は王自身の姿だが、裏には統治していた多くの民族の神が刻印されているのだ。

これはシバ神が刻印されたコイン。シバはインド・ヒンドゥ教の神だ。
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マイトラ像のコインもあった。イランの人々が信仰する太陽の神だ。
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そしてアネモス。ギリシャの「風を司る神」だ。
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このように幾つもの宗教が崇拝されていた中で、仏教はクーシャンの最大宗教として繁栄し中央アジアにも広がりを見せていた。
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アムダリア(アム川)の北、ウズベキスタンとアフガニスタンの国境近くのダルバディンテペ。昔、テルメズと呼ばれていた地域だ。バクトリアとサマルカンドを結んでいた。
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そこでロシアの考古学者がクーシャンの家や墓の発掘をしていると多くの金塊や宝石が出て来た。
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ブレスレット、ネックレス・・・
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ウズベクの考古学者は特に墓で見つかったコインに着目している。
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「コインを口に入れたギリシャの埋葬習慣と同じだ!クーシャンの人がどのように死を考えていたのか解き明かしてくれるかも知れない。」
彼は多分ウズベク語(ロシア語か?)で何か喋っています。
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仏陀の教えはクーシャンを経由して中国に伝えられ中国語に翻訳された。
「宝物を死後まで持ち続けても意味はない。布施とするのが6つの徳よりもずっと優れた行為(功徳くどく)といえよう。」
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死への畏敬はクーシャンの人々に布施の習慣を植え付けた。布施をした人たちの像はガンダーラの仏教聖地で沢山見つかっている。
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ストゥーパにも布施をした人の像が刻まれるようになった。
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死後に幸福を獲得するという考えはクーシャンの人々の関心事になっていた。最近ガンダーラで見つかった経典にもはっきりと書かれている。
「父や母、そして全ての家族の幸せを望んでいる。現世でも、そして来世でも。」
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仏教は布施を強要していないが、クーシャンの人々は死後の幸福が現世の布施で決まると信じた。そしてこの伝統は人々の間に広まっていった。
その証拠が見つかっている。ラネガットのストゥーパの隣で見つかった、小さな丸い溝が幾つも加工された石。
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布施のコインを受け取るためのものだ。(mh:一種のお賽銭箱ですね。)
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ストゥーパは釈迦の骨を埋めた8つの聖地のものに似せて造られた。
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発掘を進める考古学者は予期していなかった妙な構成に驚いた。大きなストゥーパを囲んで小さなストゥーパが沢山造られている!
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結局40もの小さなストゥーパがあった。一ヵ所に纏(まと)めて造るにしては多すぎる!
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調査するとその形成過程が徐々に判ってきた。
まず、最初のストゥーパが聖地の中心に一つ造られた。
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その周りに大きさが異なるストゥーパが次々に建てられていった。
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最後に最初のストゥーパに手が加えられ・・・
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15mの高さのストゥーパが完成した。
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こうしてラニガット寺院の規模は拡大していったのだ。

仏教を持ち込んだ先人たちの熱意によってバクトリアには寺院、ストゥーパ、仏像が造られていった。
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しかし仏教の繁栄はクーシャンの人々やその文化スタイルによって支えられ変貌していく。
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ガンダーラの中心都市だったパキスタンのペシャワール。
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カニシカ王の帝国はこの町を冬の首都とした。シルクロードはここから中国に繋がっていた。
伝説は言う。「かつて王は世界最大のストゥーパを小さな丘の上に建てた。」
最近、遺骨が入っていたとされる骨壺が見つかった。
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カニシカ王の像が刻まれている。西暦425年に漢に征服されるまでの4百年間における仏教とクーシャンの強い繋がりを示す証(あかし)だ。
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仏教は、山脈を越え、砂漠を越え、中国そして日本に伝えられていく。
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1世紀、仏僧は中国で仏教を広め始めた。当時は駱駝のキャラバンだけが旅をする方法だった。
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記録によれば中国西域の旅は厳しかった。漢は旅を安全に行えるようハンシャン(天山?)山脈まで500kmごとに砦を造った。
2世紀になると大勢の仏教徒が中国まで旅をするようになり、仏教は儒教、道教に次いで中国第三の哲学になった。3つの哲学は互いに影響し合い、少しずつ変化を遂げていく。
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カラコルム・ハイウェイ(mh:私も6月末に通ります!)
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今でもブンジャブと中国の接点だ。キャラバンは昔も急な坂道を上り、4千mを超えるこの峠をインダス渓谷に沿って頻繁に往来していた。
道路の脇の岩に絵が描かれている。
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ストゥーパや仏陀の像が描かれた岩絵が多い。
僧侶や巡礼や職人たちが通ったことが判る。
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彼等によって仏教は中国に運ばれた。
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そしてとうとう、仏教は海を渡り、日本に伝えられた。
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奈良・東大寺。春の到来を祝う祭りだ。
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神聖な炎が点けられた。不純と慾を燃やし尽くす火だ。
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ゾロアスター教と仏教の出会いの名残、精神と文化の融合のユニークな証・・・
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仏教は2千年以上前にインドで生まれ、ギリシャ思想と接触した。それは最も美しい東洋と西洋の出会いだったと言えるだろう。
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以上でYoutubeフィルムの紹介は終わりです。
フィルムを楽しみたい方は次のURLからどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=G3bsxanBi_c

最後にいくつか補足情報です。

東大寺の「お松明」「お水取り」
3月1日 - 14日 修二会は11人の練行衆と呼ばれる僧侶が精進潔斎して合宿生活を送り、二月堂の本尊十一面観音に罪を懺悔し、国家安泰、万民豊楽等を願うもの。内陣の中では過去帳読誦、走りの行法、韃靼の行法などの行事が行われる。二月堂の上でたいまつを振り回す「お松明」は3月1日以降連日行われる。若狭井から水を汲み本尊に備える「お水取り」は3月12日深夜(13日未明)に行われる。2007年の修二会は1255回目になる。

Takht Bhaiタクト・バイ遺跡(仏教修道院跡);パキスタン
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クーシャン帝国(クシャーナ朝)最大版図
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仏教の広がり(解説図)
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日本への仏教伝来
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mh:上の年表は読み辛いと思いますのでWikiの抜粋を挙げておきます。
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。

小乗仏教と大乗仏教
まずは小乗仏教の解説です。
「上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、小乗仏教)は、仏教の分類のひとつ。上座仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、とも呼ばれる。釈迦生前の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難であった。午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、戒律に従わず、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。
戒律の変更については、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していた(mh御釈迦様は寛大だったんですねぇ)が、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について弟子達の間で意見が分かれた。また、その他幾つかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。」
そして大乗仏教が生まれてきます。
「戒律遵守に関する考え方の問題を収拾するために会議(結集、第二結集)が持たれ、議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)との決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部(現在の大乗仏教を含む)が発生した。大衆部と、戒律遵守の上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。厳密ではないが、おおよそ戒律遵守を支持したグループが現在の上座部仏教(小乗仏教)に相当する。
その後、部派仏教の時代、上座部からさらに分派した説一切有部が大きな勢力を誇った。新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの説一切有部で、大乗仏教側は説一切有部を「自己の修行により自己一人のみが救われる小乗仏教」と呼んだとされる(mh:ってことは、大乗仏教が戒律に厳しい仏教を小乗仏教と揶揄したようです)。大乗仏教は北インドから東アジアに広がった。」

法輪
「輪」とは古代インドの投擲武器であるチャクラムのことである。人々が僧侶から説かれた仏教の教義を信じることによって自らの煩悩が打ち消されるさまを、その破邪の面を特に強調して、転輪聖王の7種の宝具の1つであるチャクラムに譬(たと)えた表現である。

そこから、仏教では教義(法輪)を他人に伝えること(転)を転法輪と言うようになり、特に釈迦がサールナート(仙人堕処)鹿野苑(施鹿林)で元の修行仲間5人に最初に教義を説いた出来事を初転法輪と言う。

法輪は仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用された。また、中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されている。

チャクラム(チャクラ)は古代インドで用いられた投擲武器の一種。日本では戦輪、飛輪や、円月輪とも呼ばれ忍者が使用した。真ん中に穴のあいた金属製の円盤の外側に刃が付けられており、その直径は12-30cm程。投擲武器としては珍しく斬ることを目的としている。
投げ方は二通りあり、円盤の中央に指をいれて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法がある。
ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌも右腕にこの円盤をもつとされている。
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卍(まんじ)
ヒンドゥー教や仏教で用いられる、吉祥の印である。現代の日本では仏教を象徴する記号としてよく知られる。同様の記号は世界各地にあり、西洋では太陽十字からも発生した
サンスクリット語ではスヴァスティカまたはシュリーヴァトサと呼ばれ、英語の swastika もこのサンスクリット語に由来する。日本語の「まんじ」は漢字「卍」の訓読みとされているが、由来は漢語「卍字」または「万字」の音読みである。

左卍と右卍(卐)があり、現代の日本では左卍が多く用いられている。漢字では卐は卍の異体字である。

かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。日本、中国等の芸術において卍はしばしば繰り返すパターンの一部として見られる。日本では、寺院の象徴として地図記号にも使用され、家紋の図案にも取り入れられている。まれに忍者を表す場合にも使われる。
最も古い卍は、新石器時代のインドで見られる。一方、ドイツのハインリッヒ・シュリーマンはトロイの遺跡の中で卍を発見し、卍を古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボルと見なした。

ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の胸の旋毛(つむじ)、仏教では釈迦の胸の瑞相が由来で、左旋回の卍は和の元といわれ、右旋回の卐は、力の元といわれる。

グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)
ヒンドゥクシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシャ人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシャ人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリア王国とする。
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アイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のタハール州にあったギリシャ人による古代都市で、アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディア(ギリシャ語版、英語版Eucratidia) の可能性もある。"Ai-Khanoum" という名称はウズベク語で「月の婦人」の意。位置はアフガニスタン北西部のクンドゥーズ州内であり、オクサス(Oxus、現在のアムダリヤ(川))とコクチャ川(英語版)が合流する地点にあり、インド亜大陸の玄関口にあたる。
アイ・ハヌムは約2世紀に渡り東洋におけるヘレニズム文化の中心地だったが、エウクラティデス1世の死後間もない紀元前145年ごろ遊牧民月氏の侵入によって壊滅した。
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(上:Ai-Khanoumアイ・ハヌム(ギリシャ遺跡);パキスタン北部)
以上で長い付録解説は終わりです。最後に平山郁夫の絵画フィルム「仏教伝来」をお楽しみください。映像時間は約5分。きっと気に入ってくれると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=2Oba_TPcmz0
(完)

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