Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

カーセッジCarthageの不思議

今回はYoutube で見つけたEngineering an EmpireシリーズからCarthageをお贈りしましょう。
番組のプレゼンテイターはピーター・ウェラーPeter Wellerです。どこかで見た顔でしょ?
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Wikiによると1947年6月24日生れ。mhの7日後輩です!
肩書きにはシラキュース大学って書かれていますが、大学の教授???
まさか~!!!
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そう、ハリウッド映画のヒット・シリーズ「RoboCopロボコップ」の主人公です!
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2006年、59歳の誕生日に、長年のガールフレンドで女優のシェリー・ストゥSherri Stoweと結婚しました。
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で、Youtubeフイルムに現れる彼の肩書が何故「シラキュース大学」かですが・・・57歳の2004年、論文「ローマとルネッサンス」で米国ニューヨーク州シラキュース大学の修士号を取得し、2007年まで古代史を教えた、とWikiにありますから、ご紹介するフィルムの撮影時期がこの頃だったのではないかと思います。

ところでブログの題にある「カーセッジCarthage」って何???

実は英語のCarthageは日本語で「カルタゴ」。つまり、チュニジア共和国Republic of Tunisiaの首都チュニスTunisにあった古代の都市です。ブーツ形をしたイタリアのつま先にある石がシシリー島。その石が蹴られると飛んでいく先、北アフリカの地中海岸にある都市がチュニスです。
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古代都市国家カーセッジは現チュニスの中心から約15km北東、海を臨む丘に造られました。
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町の直ぐ南には、当時は地中海最大の港があり、軍艦や商船など多くの船が出入りしていました。港は独特な形で造られていました。面影は今も残っています。
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カーセッジ(カルタゴ)は紀元前8世紀後半以前に建国が終わっていますが、更に数百年以上前に出来ていたとの伝説もあるようです。紀元前149年に始まった戦争で都市が全焼し壊滅するまで5百年以上に渡り地中海の雄として君臨していました。

ご紹介するフィルムは、この町の建立から滅亡までを駆け足で辿(たど)ります。
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Youtube: Engineering an Empire(帝国の設立)
Carthage(カーセッジ/カルタゴ)
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カーセッジがあったのはチュニジアの北の端だ。今は2百万人が暮らすチュニスにあった。
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紀元前4世紀、カーセッジはその巨大な海軍力で地中海を席巻していた。しかし、国の起源は地中海の東海岸にあったフェニキアPhoeniciaの都市タイアTyreから始まる。
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タイアには王女ダイドーDidoがいた。
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マター王の美しい娘だった。夫は野心的なフェニキア人だったが彼女の弟ピグメリアンに殺される。弟は己の実権を確実にすべく王女ダイドーの命も狙った。
弟の手から逃れるため彼女は同志と共に船で地中海を移動して、遊牧民が暮らす北アフリカの岬に到達した。今のチュニジアだ。
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そこで彼女は一匹の牛の皮で囲える土地を買う契約を現地の王と結んだ。契約が終わると、彼女は一匹の牛の皮を細くて長い紐に切り開き、その紐で囲った広い土地を自分のものとした。
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彼女は賢いだけでなく狡(ずる)い女だったとも言える。こうして土壌が肥えた実りの土地にカータダッシ、つまり新しい都市が造られることになった。
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そこは海を臨み、川もあり、城塞都市を造るのには最適な場所だった。
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商取引も盛んに行われるようになり、カーセッジは繁栄していった。
伝説によれば、土地を分譲した王アラバスは、美しく賢いダイドーに魅せられ、結婚を申し込んだ。
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しかし、彼女は弟に殺された夫を愛し続けていたので、自ら用意した火葬用の火に身を投げて焼身自殺する。
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彼女の灰から、偉大な帝国カーセッジは生まれた。狭く囲まれた町から、海に向けて踏み出していった。住民は開拓者でもあり現実主義者でもあった。新しい考えを取り入れる広い心があり、たゆまない改革を進めていった。

町は商業都市として急速に発展を遂げる。
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その後の2百年で、北アフリカの地中海沿岸だけでなく、コルシカCorsicaやイビーザIbizaなどの地中海の島々を勢力圏に加えていった。紀元前640年、地中海最大の帝国だっただろう。
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紀元前7世紀末には、貿易ネットワークを拡大し、巨大な富を築き上げていた。町の人口は30万人に増大し、当時最大の都市の一つだった。
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狭い土地に多くの人が住む、今のニューヨークのような町だった。地中海沿岸全域に影響を及ぼす力を持つ都市国家に成長していた。

町には一攫千金を夢見る人々が引き付けられるように集まってきた。
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大勢の人が暮らせる町の建設事業が推し進められた。頑丈な建材が使われ、狭い土地の中で建物は上に向かって伸びていった。
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そして6階建てのアパートも造られた。
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成功したければカーセッジに行け、と人々が集まってきた。

建材用の花崗岩はチェニス湾のエルハアリアと呼ばれる所で切り出した。
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無尽蔵の花崗岩があった。花崗岩は加工や組み立て工事が容易だ。
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岩にチゼル(たがね)で小さな穴を点線状に幾つも明け、木の棒の先を打込んで水をかけて膨潤させ、割れ目をつけて切り出していた。
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こうして採掘した建材などでダイナミックな町を造り上げていった。
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人々が町に住み続けるには、いつでも水が使える必要がある。カーセッジでもこの対策が行われていた。
中の水が染み出さないよう2重構造の水槽が沢山造られた。
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全戸はパイプや側溝で水槽に連結され、水槽に蓄えられた雨水が供給できるようにしていた。
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下水道やパイプを使った上水道も造られていた。いずれも当時、他に類を見ない革新的なシステムで、それこそがカーセッジの完成度の高さを示すものだった。
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紀元前6世紀には見事な寺院や眩(まばゆ)いばかりの宮殿、多層階の建物が造られた都市国家になっていた。
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しかし、カーセッジの発展に逆行するように、カーセッジの従兄とも言える都市タイアは紀元前574年、バビロニア人によって滅ぼされ、カーセッジは一人で残されることになる。
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カーセッジの船団はアフリカの海岸線を渡り歩きながら海を制覇し、帝国を拡大していった。紀元前520年、60隻の戦艦団はハーキュリーの柱に到達した。ジブラルタル海峡と呼ばれる場所だ。
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偉大なナビゲータ(水先案内人)と呼ばれたハンノ提督が海軍を指揮していた。
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地中海全体を管轄することでカーセッジの権威を高めようとしていたのだ。彼は後のバスコ・ダ・ガマやクリストファー・コロンブスの先駆けだったと言ってもいいだろう。

彼は交易で拡大を図るのではなく、地中海沿岸に多くの町を確保してはカーセッジの人間を送り込んで統治する手法を採った。
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紀元前600年には、コルシカ、サーディニア、バレリック諸島がカーセッジの勢力下におかれていた。
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カーセッジの町の港は「技術の大理石」とも言える卓越した施設で、カーセッジの頂点と言えるだろう。
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記録が不十分だが歴史は古く、ハンノの時代(紀元前6世紀)に造られたと思われている。
最盛期は紀元前2世紀だろう。
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港はカーセッジの一部でもあり、心臓でもあり、呼吸に必要な肺でもあり、全てでもあった。軍事と商業を司っていた。

金属の鎖で開閉される幅21mの入り口が設けられていた。そこを入ると2つに区切られた船着場があった。
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第一の船着場は貿易人や商人の船のためのもので、停泊する船と町との間の荷物の搬送が容易なように直線状のアーケードが入り口から奥まで左右に設けられていた。
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第二の円形の船着場は軍事目的だ。連続した30の舫(もや)い場が対照的に配置されていた。
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更に140の補助的な舫い場が放射状に配置され、合計220隻の船が停泊できた。
最近発掘された、船の修理用の長い陸揚げ場は当時の港の栄光を偲(しの)ばせる。
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ここに軍港があった!その面影はほとんど残っていない。
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「港の中央にあった円形の舫い場が造られていた場所は、向うの島だ。高い建物の上ではトランペットが船の出入りを告げる大きな音を出していた。そこからは全ての船の出入りが監視出来た。」

2世紀の間、カーセッジは地中海を統治した。ここを訪れる船は海から港の建物を見て、これがカーセッジか、と感嘆したという。
しかし、地中海をはさんだ北では強力なライバルが軍事力を備えつつあった。ローマだ。
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2つの巨大パワー、カーセッジとローマは、その間にある地中海の宝石と呼ばれるシシリー島を巡って対立を起した。この美しい島シシリーは、軍事的、商業的に重要な位置にあった。シシリーを管理できれば、地中海の重要な地位と富を手にできる!ローマにとってシシリー島は自分の喉に向けられた槍の矛先だ。「そこからカーセッジを追い出しておかねばならぬ!」

ローマとカーセッジはシシリー争奪戦の体制を整えた。紀元前3世紀、共和制ローマがシシリーに侵攻した。
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シシリーはカーセッジに助けを求めた。カーセッジは直ちに軍を派遣する。「道を明けろ!ここは我々の島だ!」
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2つの軍の出会いは以降、何度か行われた戦いの幕開けとなった。ローマがカーセッジをピュニカPunicaと呼んでいたのでピューニック・ウォー(Punic Warポエニ戦争)と名付けられることになる。
紀元前264年、第一次ピューニック・ウォー(ポエニ戦争)は始まった。
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17年たっても勝敗は決着せず対立が続いていた。
カーセッジ軍はカリスマ的指導者ハミルカー・バルカが海軍提督として戦いを指揮していた。戦いの全てを把握し理解し作戦を実行していた。
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紀元前247~242年、彼は大軍と共に勝利を確信しながらシシリーに攻め込んでいた。彼はローマ軍を圧倒するに十分なトライリーン(trireme三段櫂船(さんだんかいせん))という名の強力な軍艦を持っていたのだ。トライリーンはギリシャで発明された軍艦だが、カーセッジは船の漕ぎ手のスペースを改造し巨大にしていた。
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オールは左右で3段に分かれていた。
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この船の主な戦術は、敵船の側舷に突っ込んで沈めることだった。そのため、ブロンズ製の槍のような舳先(へさき)があり、高速で移動することができた。
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標準のトライリーンは長さ66m、幅3~5m、船員は420人だった。
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全てを含めると、トライリーンの規模は100トン以上だった。

普通、船同士の戦いでは、敵の船に体当たりしたら兵士が敵の船に乗り移り、刀や槍で戦う方法が取られていた。しかしトライリーンは高速で敵の船に体当たりしたら直ぐ敵船から離れ、また敵船に突進し直して船ごと沈めてしまう戦法を採っていた。1隻沈めたら、直ちに別の敵船めがけて突進して行った。船の殺し屋ともいえる戦艦だったのだ。
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勝れた技術をもつ天才的なカーセッジの船大工は、効率よくトライリーンの建造を進めていた。予め船の各部品を作業場で作り、ドックに持ち込んで船に組み上げた。
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こうして短期間で船を造ることが出来たので、1隻沈んでも、直ぐに次の船が水平線から現れるという具合だった。

ローマ軍は次々にやって来るトライリーンで痛めつけられて劣性だった。しかし、座礁したトライリーンを解体して持ち帰り、製造方法を盗んだ。ローマがカーセッジのトライリーンと同じコピー船を造り始めるとローマとカーセッジの破壊力は対等になった。
紀元前241年3月10日、2つの艦隊がシシリーの西海岸近くのアーゲイテス島で出くわして歴史的な戦いが始まった。

カーセッジは船の数では優っていた。しかし彼等の船はシシリー島で戦っているハミルカー軍の兵糧や他の支援物資を積んでいたのだ。重く、動きが遅いカーセッジの船は次々にローマの船によって沈められ、勝利はローマにもたらされることになった。
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カーセッジにとっては戦術的な悲劇だった。3万人が捕虜になり、支援の兵士や物資が届けられなかったハミルカー軍は降伏を強いられ、カーセッジに戻るはめになった。その結果、地中海覇権の針は明らかにカーセッジからローマの側に振れていった。勝利したローマはシシリー島だけでなく、カーセッジが統治していたシシリーとアフリカの間の島々、コルシカ島、サーディニア島、を獲得した。
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ローマはカーセッジに更なる打撃を与えるため多額の貢物も要求した。

戦いは一段落したが、カーセッジはまだ諦めてはいなかった。紀元前237年にハミルカー・バルカをスペインに送った。彼の軍は9年を費やし原住民を打ち破り、エブロ川Ebroまでをカーセッジ帝国の一部として取り込んだ。
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紀元前228年、ハミルカー・バルカは野蛮な原住民との戦いで戦死した。しかし、彼の死でカーセッジの覇権が途絶えることはなかった。

9歳の息子は父のスペインでの戦いを見て育った。生前、父は息子にローマへの憎しみを永遠に忘れず、ローマを滅ぼすことを約束させていた。
この息子こそ偉大な将軍ハンニバルだ!
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父の仇(かたき)をとることに心を燃やしたハンニバルは共和制ローマを縮み上がらせることになる。

紀元前211年、共和制ローマの北の国境の外でハンニバルは兵を挙げた。以降、ローマは、機敏で、残忍で、聡明な敵の将軍ハンニバルに脅かされた。ローマの悪夢の始まりだった。
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ハンニバルがローマ帝国に攻め入ることが出来たのは魔法を使ったのではなく、天才的な戦術によるものだ。ある学者は言う「私が知る限り、彼は偉大な将軍の一人などと呼べる人物ではない。歴史上で最も偉大な将軍だと断言できる。」
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彼の知恵は父から受け継がれたローマへの怨みから生まれた。
紀元前221年、26歳の時、長年の怨みを晴らす力を手に入れる。カーセッジの将軍に就任したのだ。

彼は世界でも類を見ない戦いを開始する。ローマが制海権を握る地中海は彼にとって検討の対象外だった。陸路を進軍しアルプスを越えてローマに攻め込む戦術を立てた。圧倒的な数の兵士を有するローマに少ない兵士で勝利するためには、ローマ帝国の心臓部まで味方の兵を減らすことなく移動し、敵の胸元で戦いを挑むのだ。

紀元前218年、9万人の兵士、12千の馬、アフリカで捕えて連れて来た37匹のアフリカ象と共にスペインの領土を出発した。象は数世紀も前から戦争に活用されていた。しかし地中海の北で育ったローマ兵は象を見たことが無く、対抗戦略を持ち合わせていない。だからハンニバルは象を連れていったのだ。
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10月までに6百マイルを走破し、フランスのローム川で敵に相対することになった。対岸には敵兵がハンニバルたちを待ち受けていた。
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ローム川は一年中で一番水が少ない時でも川幅は100m、水量が多い時には200mもあった。
敵に打ち勝つには、まず川を打ち負かさねばならない。

彼は部下に命じて木を伐採させ、ロープで繋ぎあわせて長さ60m幅15mの筏をいくつも造り、1頭から2頭の象を一つの筏にのせて渡河(とか)を開始した。象がかもしだす気迫(psycheサイキ)で敵兵を威嚇したのだ。
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象たちが対岸に到着すると敵はパニックに陥って退却してしまった。この戦いに要した日数はたった9日だ。ハンニバルの戦術が卓越していた証拠といえる。

ハンニバルは進軍を続けアルプスの麓に到達した。
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冬はそこまで来ていた。兵たちは飢え、疲れていた。山に登るにつれて新たな苦難に立ち向かわねばならなくなった。アルプスは正に巨大な壁だった。
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ハンニバルはそれを越えるのではなく、その中を通り抜ける戦術を採った。
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この戦術はローマ人を驚かした。誰だって軍勢がアルプスを越え、象までも引き連れて攻め込んでくることなど想定していなかったのだ。
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ローマ帝国の歴史家ジビーの記録によれば、ハンニバルは、文字通り山を動かしたのだ!崖の割れ目に木を詰めて燃やし、炎で岩を加熱して膨張させてから加熱したビネガー(酢)を流し込んだ。岩は溶け、簡単に破壊できるようになったので、そこに道を造った。
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「これが事実だとしたら、そして私はそれ以外には方法は無かったのではないかと考えているが、ハンニバルは何と天才的な将軍だったんだろうか!」
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雪のアルプスを越えたハンニバル軍にとって緑の平地が広がるイタリアはまるで自分たちを歓待してくれているように思えただろう。

紀元前216年8月2日、ハンニバル軍は北イタリアでバロー将軍が率いるローマ軍に出会った。
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夜が明けると、ハンニバルは5万の軍勢を率いて戦場にでた。9万のローマ軍はハンニバル軍を殲滅しようと全勢力をハンニバル軍の中央に向けて襲い掛かった。
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これは致命的な失敗だった。ハンニバルは隠していた歩兵団を使い、後ろから襲い掛かった。完全に包囲され、ローマ軍は立ち往生した。
3500人はかろうじて逃げ延びた。1万人が捕えられ、7万人が戦場で死んでしまったのだ。
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第一次世界大戦の戦場で起きたような大惨事だった。ローマ軍は悲惨な敗北を喫したのだ。
しかし、ハンニバルは、この大勝利を効果的に生かすことができなかった。
彼は13年を使ってローマを少しずつ包囲していったが、ローマは粘り強かった。新たな武器を使ってハンニバル軍に対抗した。
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紀元前204年、ローマは反撃に出た。将軍スキピオが散り散りになっていた兵を集めてハンニバルが留守にしているスペインに攻め入り、留守を守っていたカーセッジ軍を打ち破った。そして、休む間もなく矛先をアフリカのカーセッジの本拠地に向け、攻撃を始めた。イタリアにいたハンニバルは自国を守るために呼び戻された。戦場でハンニバルとスキピオは出会い、話し合うことになった。
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何が話されたかは記録がないので判らない。紀元前202年にもザーマの戦いでこの2人は出会っている。
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ハンニバルは打ち負かされ、捕えられ、カーセッジからトロイに送られ、幽閉された。
彼は父の仇を打つことが出来ないまま、トロイで自殺して一生を終えた。それは第二次ピューニック・ウォーの終焉だった。

戦いに負けたカーセッジには更に多くの貢物が課され、スペインや地中海の島々は没収された。以降、ローマの許可なくしていかなる戦いもしてはならない、と約束させられた。
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紀元前150年、シーザーの祖祖父でもあり執政官でもあったマーカス・ポーシアス・ケイトーはローマ帝国の拡大を進めていた。ケイトーは元老院で演説を行うときに常に、全く関係無い話題であっても、「ともあれ、私は、カルタゴは滅ぼされるべきだと思う」と末尾に付け加えた。彼の頭の中にはたった一つしかなかった、カーセッジだ!
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カーセッジはシシリーに近く、独立都市で存在し続けるとローマにも悪い影響を与える、と固く信じていた。「完璧に消滅しておかねばならぬ。」

かつての同盟国だったニューミディアNumidiaがカーセッジの領土を取り込んで新たな国家としてカーセッジの後方に生まれていた。
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「カーセッジはニューミディア軍に対抗する必要が出ていたが、ローマの許可なくしてはいかなる戦いも出来ないことになっていた。」
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ローマは調査団をカーセッジに派遣した。その一人がケイトーだった。ケイトーはカーセッジが戦いの後、復興を遂げ繁栄し始めているのを見た。ローマに帰ると指導者たちに進言した。
「私は何度だって言う。カーセッジは破壊しておかねばならないのだ!」

結局、ローマは大軍団をカーセッジに送り、こう告げた。
「お前たちは町を完全に放棄して明け渡さねばならない!」
しかし、カーセッジはこの指示を拒絶し、戦いを選んだ。その結果、第三次ピューニック・ウォーが始まることになった。

ローマには大きな問題があった。カーセッジは世界で最も強固な城壁で囲まれた難攻不落の城塞都市だったのだ!城壁の基礎の一部は今も残っている。
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紀元前149年、この強固な城壁は都市の最後の希望だった。
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都市の守備は3つの城壁で成っていた。カーセッジの住民が最も信頼を寄せていた防御システムだ。全長は37Kmだった。一番内側の城壁は大きな石で組み上げられ、町を取り囲んでいた。高さは13m、幅9mで最も強固な城壁だった。
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その外側には石で組み上げられた城壁が、一番外側の海寄りには、掘った土を盛り上げた壁があった。

一番内側の最強の城壁には15の塔が180mの間隔で配置され、監視兵が常駐して監視に当たっていた。
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城壁の中には通路があり、兵士が往来していた。
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2万の兵士と300頭の象もいた。
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世界で最善と言えないにしても、当時の地中海の5大都市では最高の防御体制が整備されていた。
ローマ兵に対抗するカーセッジの指揮官はハスドルーバルだった。
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市民も防衛に協力した。カタパルト(投石器)用のロープを造るため女性は髪を切って供出した。
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牢獄にいた男たちは兵士として使った。年を取り引退していた刀鍛冶(かなたかじ)も若者に交じって武器の製作を手伝った。2ヶ月の共同作業で6千の楯、8千の刀、3万の槍、1200隻の船、6万のカタパルト・ミサイルを造った!

彼らの集結された努力にもかかわらず、ローマ軍の規模はこれを圧倒していた。
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都市は完全に孤立していた。崩壊の運命に面していたのだ。城壁の周囲はローマ軍とその同盟軍で完全に埋まっていた。カーセッジに味方するものはなく、たった一人残されて戦うことになったのだ。
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堅固な城壁がローマの侵入を跳ね除けてくれることをひたすら願っていた。

カーセッジはローマの攻撃を3年間、跳ね除けた。ローマ軍が砦の壁から侵入してくる最後の時でも砦の上まで到達するのに7日かかった。
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都市の中の街路のあちらこちらで戦いが始まった。
狙撃兵が最後まで抵抗を続けた。彼等にてこずったローマ軍は町全体を焼き尽くす。
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勇敢にも残って戦い続けていた数千のカーセッジ人は焼き殺された。都市の人口は50万から5万になった。生き残った人は奴隷として売られ、以降、故郷に戻ることは無かった。
Wiki:第三次ポエニ戦争
「紀元前149年から紀元前146年。大カトの主張が通り小スキピオをしてカルタゴを滅亡させた。ローマ軍は住民のほとんどを殺すか奴隷にした。さらにローマ人のカルタゴへの敵意は凄まじく土地を塩で埋め尽くし、不毛の土地にしようと試みたとされる。」

紀元前146年、大火でカーセッジは完全に破壊したが、その後、また復活する。この復活はローマ人が行ったものだ。円形劇場も造られている。
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3世紀には商業都市として新たな町が生まれた。
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「ローマによって滅ぼされたカーセッジにいると、ダイドーや、ハンニバルや、大勢のカーセッジ市民たちの声が今も遺跡の中から聞こえてくるようだ。」
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Engineering an Empire: CARTHAGE
https://www.youtube.com/watch?v=HetYXwtCCho

最後にWikiの逸話を2つ。

「第二次ポエニ戦争でローマを裏切りハンニバル側についたシチリア島のシラクサでは防衛にアルキメデスも参加しており、彼の発明した兵器はマルケッルスらローマ軍に損害を与えた。シラクサ陥落に際してはマルケッルスはアルキメデスは殺すなとの命令を出していたが、彼とは知らなかった配下の兵によって殺されている。アルキメデスは殺される直前まで地面の上に図形を描いて計算をしていたが、1人のローマ兵がこれを踏むと、「わしの図形を踏むな」と叫び、その兵士に殺されてしまった。このとき彼は円周率の計算をしている最中だったといわれる。」

Wiki:ハンニバル・バルカHannibal Barca(紀元前247 - 183年)
カルタゴ(カーセッジ)の将軍。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカは「雷光」という意味である。
第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた。2000年以上経た現在でも彼の戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高い。
(完)

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