Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

古代ギリシャの不思議

今回は「帝国を技術する:ギリシャ」(Engineering an empire; Greece)をお送りします。
ハリウッド映画「ロボコップ」で主役を演じたPeter Wellerピーター・ウェラーがプレゼンテイターのYoutube Film第二弾です。
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古代ギリシャ。西洋文明発祥の地。
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1千年以上もの間、パワフルでカリスマ的な人々が過去に類がない斬新なアイデアで自然を管理し、新たな技術を創造し、新たな文化を開花させた。巨大な石を組み上げて造られた建造物は神の仕業としか思えない出来栄えだった。これらの技術や文化は何人かのリーダーの指導力の結果として生まれ、帝国としての格調を持つレベルに昇華されたものだ。しかし、ギリシャが生んだ、この輝かしい文化と創造性もギリシャ人同士の戦いの中に埋没し、黄金時代は終末を迎えてしまう。その歴史を辿ってみよう。

紀元前480年9月、1.6Km程の狭い海峡の海は静かな朝を迎えていた。しかし、直ぐ歴史的な戦いが繰り広げられることになる。海は血で染まるのだ。
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都市国家の集合体だったギリシャは偉大なペルシャ帝国から直ぐ手が届く所にあった。
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当時、ペルシャは多民族多文化国家で、過去の歴史を見ても世界最大の帝国だった。
ペルシャの壮大な軍勢は今まさに水平線の彼方から攻め上ろうとしていた。15万の軍勢と700隻の軍船がギリシャを帝国の一部に組み込むべく攻めて来たのだ。

迎え撃つはギリシャ都市国家の同盟軍だ。
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ギリシャでは、何年も前から一人の男が軍勢を統括し、ペルシャ軍を迎え撃つ準備をしていた。彼の名はテミストクレス。
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(テミストクレス:紀元前525年頃~460年頃)
アテナイ(アテネの古い名称)の政治家で軍人でもあった。アテナイのエポニュモス・ アルコン(執政官)を務め、アテナイをギリシャ随一の海軍国に育て、ペルシャ戦争で勝利を導いた。
(1955年から使われていた旧100ドラクマ紙幣に肖像がありました。)

私はピーター・ウェラー。今、ギリシャの海岸にいる。この沖で世界の超大国ペルシャと都市国家ギリシャの海戦が行われた。ギリシャ軍のリーダーだったテミストクレスは、ギリシャ都市国家群の勢力を一つにまとめ、ペルシャを迎え撃つ体制を整えていた。ギリシャが持つ戦艦トライリーンの戦闘能力は抜きん出ていた。
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文化も信仰も言語も同じ都市国家の集まりだったギリシャは、互いに切磋琢磨して高い技術や戦闘力を持っていたのだ。しかし弱点もあった。己の都市国家の利益に終始する傾向があったのだ。
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そんなギリシャを取りまとめることが出来たのはテミストクレスだけだった。
彼はいつもアウトサイダーだった。
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しかし、彼はそれを武器としていた。都市国家間の利害の調整に奔走するようなことはしなかった。ギリシャとしての戦力を強化することだけに特化していた。

10年前、ギリシャのある都市国家がペルシャの小軍団に侵略されたことがあった。マラトンの戦いだ。しかし、この時はギリシャ連合軍が勝利を収めていた。
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テミストクレスはこの経験を今回のサラミスの戦いでも活かそうと考えていた。

Wiki:マラトンの戦い(英語:Battle of Marathon)
紀元前490年9月12日(諸説あり)に、ギリシァのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシャ王国の遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦い。

ペルシャは陸の戦いは得意だが海戦が苦手なことを彼は知っていた。ペルシャの宗教でも海水は悪魔だと見なされていた。

テミストクレスは200隻のトライリーン(trireme三段櫂船(さんだんかいせん))を建造し、訓練も積み、世界最強ともいえる海軍力を整えていた。全長39mで先端はブロンズ(青銅)で覆われ、高速で敵船に体当たりして沈めるのがこの船の戦法だった。
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62人が上段、中段と下段には夫々54人の漕ぎ手がいた。
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ご参考:実物大の復元船です。
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最下段のオール部は海面から50cmしかなかった。
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8~9ノット(秒速4~4.5m)という、当時では驚くべき速度でミサイルのように突撃した。漕ぎ手は好く訓練され、効率よく船を操(あやつ)っていた。ペルシャ迎撃の準備は数年という短期間で成し遂げられていたのだ。
(1ノット :1時間に1海里進む速さ。1海里(国際海里)=1852メートル。)

紀元前480年春、ペルシャの大軍はギリシャに向けて出発した。
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テミストクレスは、ペルシャ船団はギリシャの2倍との情報を入手していた。ずる賢い戦術家で作戦にも長けていた彼は、狭い海峡を戦場にする策を建てた。
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サラミス海峡だ。
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狭い所なら攻撃を集中できるので少ない船で敵を打ち破ることが出来る!
Google Earthのサラミス海峡情報です。
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彼は外交官や商人などから情報を集め、ペルシャが風の中での戦いを好むことを知っていた。間者を派遣して「ギリシャ軍はバラバラだ!」との噂を流すと、ペルシャ軍は直ぐにこの餌に食い付いた。早朝、奇襲しようとペルシャ艦隊が風に乗って海峡に進んでくると、そこには整然と並んだギリシャ艦隊が待ち構えていたのだ。
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3万4千の軍勢と200隻のギリシャ艦隊は、ペルシャ軍の艦船が入り込む隙間もない隊列で進んできた。ペルシャ軍は完全に罠にはまってしまったのだ。
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たった1日の海戦でペルシャ軍は惨敗を喫する。ペルシャが失った船は200隻。一方のギリシャは40隻だった。ペルシャ兵は溺れ死ぬか、近くの浜で待ち構えていたギリシャ兵に刺殺された。
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この戦いの後、テミストクレスはヒーロとして讃えられた。しかし彼の野心と欲望は敵を造ることになった。アテナイの毎年の集会ではオストラシズムと呼ばれる不人気投票が行われていた。もっとも破壊的で危険な政治家を選出するのだ。選ばれると10年間、追放される。
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Wiki:陶片追放(とうへんついほう、ギリシャ語: オストラキスモス)
古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。英語オストラシズム(Ostracism)という名称でも知られる。広義には集落や集団からの追放を指し、日本の村八分と近いものと解釈される。
オストラシズムに実際に使われた陶片。
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「ネオクレスの子テミストクレス」を意味するギリシャ語が刻まれている。

彼は政敵に嵌(はめ)られたのだ!追放された彼は二度とアテネを見ることは無かった。

Wikiによる後日談:テミストクレスはペルシャ戦争での功労を以って、必要以上に名誉と権力を欲したことから信用を失い、陶片追放によってアテナイを追われた。その後アルゴスに赴いたが、政敵によって反逆罪の罪に問われたのと、スパルタの将軍パウサニアスの反乱に加担したとの嫌疑をかけられたため、ケルキュラに落ち延び、エピロス、マケドニアを経由して最終的にペルシャに亡命した。ここで国王に謁見するが、会ったのはクセルクセス1世とするものとアルタクセルクセス1世とするものがある。その際、テミストクレスはサラミスの海戦直後に恩を売ったことを持ち出し、ペルシャ王から友好的に迎えられた。その後彼は一年間の暇乞いをしてペルシャの言葉と慣習を学び、その後あらためて小アジアのマグネシアを与えられた。彼はペルシャ王からアテナイ遠征のための艦隊を率いるよう命じられたが、祖国に弓を引くのを好しとせず、毒を飲んで自殺した。

紀元前1300年頃、古代ギリシャ語を話す人々がギリシャの主要な土地を支配していた。彼等はマイソニアン(Mycenaeanミケーネ人)と呼ばれる。
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彼等の戦や砦はギリシャの偉大な文明の一角を形成した。
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首都マイシーネイ(Mycenaeミケーネ)には150年を要して建造された砦があった。
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リーダーはアガメムノンと呼ばれる男だ。吟遊詩人ホメロス(英語Homer)の2つの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』Iliad and the Odysseyに記されている人物だ。
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この2つの叙事詩はギリシャ人にとっては聖書のようなものだった。本には、どのように生きるか、宗教とは、人間とは何か、が書かれていた。「ヘレンの誘拐」「アガメムノンによる10年間のトロイ戦争」、「トロイに侵入し破壊するための大きな木馬」という物語も記録されていた。
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アガメムノンがトロイ戦争で挙げた成果は英雄的とも言えるものだ。
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しかし帰国すると女房に殺害された。
(mh:女房の恋人に殺された、と3月20日公開のブログ「アトランティスはエーゲ海にあった?」で紹介しています。やっぱ将軍を女房が刺殺するってのは無理がありますから、愛人の男が!だと思います。指図は女房がしてますから、主犯ってことでよいかとは思いますが。)
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「トロイ戦争の物語は、最初は戯言(ざれごと)だと思われていた。しかしホメロスはやはり歴史家だった。物語は事実だったのだ。」
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ここがマイシーネイだ。首都だった。ホメロスが記録に残したアガメムノン王が統治していた所だ。
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マイシーネイの砦で最初に目につくのは城壁だ。マイシーニアンの高度な技術を示す、とても印象的な構造物と言える。
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10トンもの重さの石を組み上げて造られた城壁も残っている。石と石は全く隙間無く積み上げられている。
砦の中にライオン門と呼ばれる門がある。マイシーネイ砦の主門だった。
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基礎のアーチ状の石に載った2匹のライオン。頭は無くなっているが、昔は門の外に向けられていた。この門を入る人はマイソニアンのパワーを感じていたことだろう。
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ライオン像が収まっている円錐状の石組みはコーベル・アーチcorbel arch(または片持ち梁式曲線)という。
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横に、水平に積み上げられた石が倒れてしまわないよう、カウンターウェイトを載せて曲線を維持するのだ。
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マイソニアンの革新的な技術で、世界でも初めての建築様式だった。
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彼等はこの構造を建物内部にも取り込んだ。コーベル・ドームだ。
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用途は一つしかなかった。墓だ。
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マイソニアンには直線的な構造物が多い。従って、リーダーたちがあの世で暮らす家に円形の建物が採用されたのには特別の意味があったのだ。ドームはソロスと呼ばれていた。マイソニアンの技術の結晶だった。
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墓は砦の外の丘の斜面にいくつも造られている。

「これが墓に入っていくためのトレンチ(溝)だ。両側には見事に積み上げられた高い石壁がある。」
円錐状の建物内の石壁は研磨されて光り輝いていた。

3200年前、訪問者は見事に装飾されたトレンチを歩いてドームに向かった。入り口の両側にはジグザグ模様の柱が立っていた。
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両側の石壁の石は75cmの厚さがある。
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円錐ドームは33層の石のリングを積み上げて造られていた。完成後、壁は磨かれ、輝きを放っていた。
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石組みが終わると、外部は土で埋められ、土の圧力でドーム形状を維持した。
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完成した建物は半円状の丘のように見えた。
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コーベル・ドームの模式図です。
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Google Earthで調べると、コーベル・ドームの墓はマイソニアンの砦の外に複数個見つかります。
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天井が崩落し、大きな円形の窪みになったものもあります。
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しかし、この文明は紀元前1100年頃、突然、姿を消してしまう。新たな民族、例えばメソポタミアの騎馬民族、が攻めて来たという見方もあるが真相は謎のままだ。いずれにしてもマイシーネイの崩壊でギリシャ文明は消滅し、その後4百年以上の間、暗黒時代dark ageが続くことになった。

紀元前8世紀になると独立都市国家が出現し繁栄を極めた。都市はそれぞれの個性を築き上げ、経済的、軍事的、技術的な名声を競い合っていた。
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特にサモス島にはギリシャの技術の粋が残されている。山を動かし、市民のために水を引いたのだ。
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マイソニアン文明が消滅してから4百年後、スパルタ、アテネ、コリンズ、シーベスなど、百を超える都市国家がギリシャに出現していた。
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民主主義が生まれる前の古代ギリシャでは、これらの都市国家はタイラントと呼ばれる一人の統治者によって導かれていた。
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紀元前540年頃、ポリュクラテスという名のタイラントが東エーゲ海の島サモスにやってきた。
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ペルシャとエジプトという2つの大国の間で、どちらにも従属せずにギリシャ独自の地位を確保するには、小アジア(当時はペルシャが統治)に近いサモス島にギリシャの力を結集しておくことが重要だと、彼は考えていたのだ。
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ポリュクラテスは100隻の戦艦トライリーンを建造し、サモス近くの海域の覇権を確保した。以降、サモスはギリシャの栄光と権力を維持する重要な島となった。ひき続いて島に防御要塞を築いた。生活に必須の飲み水も確保しておかねばならない。そのための泉はあったのだが高さ270mの「カストロの丘」で町と隔たれていた。
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都市と泉をどのような水道橋で結ぶのか?丘を迂回して水道橋を造る案は選択肢には成り得ない。敵に破壊されてしまえばそれまでだからだ。
そこで技術者ユプリノスを呼び寄せて検討させた。彼はカストロの丘を貫通する水路を造る案を持ち出す!
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トンネルの建設は時間がかかりそうだ。防衛上、まずい!そこで工期短縮を図るため、丘の両側から掘り進めることにした。これには数学的、技術的な問題が伴っていた。少しでも方向や高さに差が出れば、2つのトンネルは途中で出会うこと無くすれ違う。それに、トンネルは水を運ぶ水路なのだから、適度な傾斜が必要だ。
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ユプリノスは自信を持っていた。彼の方針で、トンネルは丘の両側から、同じ高さで水平に掘り進められた。当時、高度な計測技術が無い中で、丘の中央で2つのトンネルを出会わせるのは難しかったはずだ。
ユプリノスはまず、丘の周囲を垂直な直線に沿って計測し、掘り進むべき方向、つまり直角三角形の斜辺の方向を算出した。
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1.8mx1.8mの主トンネルを貫通させ、その後、勾配をもつ水路(AQUEDUCT)に仕上げることにした。トンンネル内の工事は死と背中合わせの危険を伴った。
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しかし、若干の補正が必要だったものの、両側から掘り進んでいた工夫は、ユプリノスが見込んでいた通り、丘の中央で出会うことになった!
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その差は60cmしかなかった。トンネルの全長1050mに対し、誤差は1/8%以下だ。

この驚くべき技術が遂行された瞬間はギリシャの栄光の時だったのかもしれない。しかしポリュクラテスの政治的な運命は、それほど輝かしいものではなかった。
小アジアの海岸の近くの国を治めていたペルシャのリーダーは、彼がいる限りペルシャにとっては不都合が多い、ということで、彼を捕え、磔(はりつけ)にした。紀元前800~500年に出現した大勢のタイラントの中の一人でしかなかったのだが、ポリュクラテスは、過去にない卓越した統治力を発揮した。しかし、大勢の人民を一人のタイラントが統治する時代は変わろうとしていたのだ。

そんな中で、アテネは世界の歴史を変えようと歩み始めていた。これを推し進めていたリーダーがペリクレスだった。
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今も残っている、誰もが知る彼の功績がある。技術の粋を集めてアクロポリスの丘に建てられた寺院、パルテノンだ。世界の最高峰にある傑作の一つだろう。
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紀元前480年、テミストクレスがサラミス海峡でペルシャ軍を打ち破っていた。彼はアテネを助けただけではなく、それよりも25年前に生まれたばかりの民主主義を育てることに貢献したのだ。アテネでは一人の統治者(タイラント)による国家体制は終息し、豊かで軍事力も商業力も技術力も発想力も優れた国家になっていた。なかでも優れたリーダーがデモクラット(民主主義者)で卓越した知識者だったペリクレスだ。彼は芸術を奨励すると同時に軍事の充実にも注力した。
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彼はアテネの上流階級の出身だった。家系の力を背景に、リーダーに必要な政治的、軍事的な力を身に着けていった。
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若くしてストラティカルという政治や軍事のリーダー10人の一人に選ばれた。しかし彼は直ぐにアテネで最も権力と影響力をもつ政治家になる。
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彼は典型的な政治家で、自分が行う全ての行為には確信を持っていた。そしてそれが確実に遂行されるよう力を振るった。紀元前461年、彼はアテネのリーダーに選ばれた。テミストクレスが建造したトライリーン船団のおかげで、アテネは、地中海の東領域で他の追随をゆるさぬ軍事力を発揮した。
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ペルシャの力を排除した歴史があるにもかかわらず、周辺には侵略を図ろうとする蛮族が多かった。そこで紀元前478年、エーゲ海の都市国家と共に、相互協力防衛ラインを設立した。
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デロス同盟と呼ばれる、古代エーゲ海のNATOのような軍事同盟だった。

Wiki:デロス同盟(デロスどうめいDelian League)
アケメネス朝ペルシャの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイを中心として結成されたポリス間の軍事同盟。アテナイを盟主としてイオニア地方など主にエーゲ海の諸ポリスが参加した。(黄色が同盟国)
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「紀元前450年、アテネは議論の余地がない程に抜きん出たデロス同盟のリーダーとなり、獲得した富を町の巨大なプロジェクトに注入した。」
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当時、女神アシーナはギリシャ、特にアテネで崇拝された知力の神だった。
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Wiki:アテーナー(アシーナ)
日本語では主に長母音を省略してアテナ、アテネと呼び、表記される場合が多い。英語ではAthenaアシーナと呼ばれる。
知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシャ神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。アルテミス、ヘスティアーと並んでアプロディーテーの神力を及ぼさないギリシャ神話の三大処女神として著名である。
女神の崇拝の中心はアテナイであるが、起源的には、ギリシャ民族がペロポネソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシャの地に固有の女神だが、ヘレーネス(古代ギリシャ人)達は、この神をギリシャの征服と共に自分たちの神に組み込んだのである。

ギリシャにはアシーナを祀る多くの寺院があった。ペリクレスはこれらを遥かに凌ぐ壮大な寺院を造ることにした。パルテノンだ!
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ペリクレスはアクロポリスの丘にあった古く寂(さび)れたアシーナ寺院を基礎から造り変え、そこにパルテノン神殿を築いた。
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工事は数千人の工夫と、多くの技術者を要した。3千万ドラクマという、それまで類のない資金を投入した。今なら数十億ドル(数千億円)だ。
(mh:東京国立競技場の建て替えが話題になっていますが、そのお金があればパルテノン神殿が造れることになります。どっちの方が世界的な価値が高いかは、誰にも明白です。)
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この巨大な建物の工事は紀元前447年に始まった。フットボール競技場の2/3の長さだった。
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外側の寸法は長さ66mx幅30m。16Km離れたクオーリー山(石切り山?)から石材を切り出す仕事から始まった。
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3万トンの大理石が必要だった。これらの石を丘まで運ぶのは寺院建設に必要な労力の半分でしかない。
重さ10トン以上の石をどんな方法で積み上げるのか、技術者はその答えを準備しなければならなかった。しかし、答えは事前に出ていたのだ。
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紀元前447年7月、寺院の組立が始まった。完成した寺院はアテネこそが文化的にも政治的にも経済的にも最も優れた、民主主義を産み出した、最強の軍事力を備えた都市だということを証明するものだった。「アテネが世界のリーダーなのだ!」これを知らしめることがペリクレスの狙いとするところだった。
6つの柱と13の6角形の柱を各辺に持つそれまでの寺院とは異なり、8x17の八角形の柱を基本としていた。
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それは従来と比べて奇妙な印象を与える寺院だと言えるだろう。大きな寺院を建てようとしたら、柱の大きさや高さを大きくしてスケールアップすればそれで十分だ。柱の本数を変える必要はない。しかしパルテノンは違っていたのだ!

柱は11個の円柱を積み上げて造られた。その各々は微妙な曲線を描いていた。
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各々の円柱の端面には4つの同心円と、中央に一辺が10~15cmで深さ8~10cmの正方形の溝が掘られ、溝にはまり込む木製のプラグと金属製のピンが準備された。これらを使う事で円柱の複数の円柱の中心を完全に一致させて積み上げることができた。
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1本の柱に必要な11個の円柱は63~119トンの重量があった。これらを積み上げるため、円柱に4つのボス(boss)と呼ばれる突起が加工された。このボスにロープを懸(か)け、クレーンのような機械で吊り上げた。10トンの石はその百分の1の力(100Kg)で持ち上げることが出来た。
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建物にはモルタルのような隙間を埋める材料は使用されなかった。それを実現するには石同志が隙間なく密接しなければならない。そこで2つの長方形の大理石の石を強固に繋ぐため、両端がT型の金属ロッドが使われた。
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組み上げが終わると円柱のボスは綺麗に削り取られ、磨きがかけられた。

「パルテノンには直線はない」という言葉がある。それは人間の幻覚効果を狙ったものだった。床、柱、柱の上の三角形の梁、これら全ては直線とは言えない形で造られている。
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まずは基礎を見てみよう。よくみれば、水平ではない。中央部で少し膨らんだ流線型だ。
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また柱の各々には20の溝が掘られ中央方向に少し傾いていて、その上、内側にも傾いて立っている。
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この建築方法はインテイサスと呼ばれる。
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もし柱や床が完全に水平か垂直に造られていたなら下から見上げた建物は上が広がって見えるという不安定感を見る人に与えただろう。それを補正するため、柱は全て内側に傾けて建てられたのだ。
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パルテノン建設の主な目的は女神アテーナーの像を収容することだった。
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建物を造る費用とほぼ同等の費用が、女神像を造るために使われた。像の高さは10~11mで、大理石と黄金が使われた。その他にも100を超える実物大の人や動物の像が収められていた。壁には多くのレリーフが彫られていた。
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4年に一度、アテーナーを祝福する行事が行われていた。
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レリーフや像は塗料で鮮やかに装飾されていた。

パルテノンは単なる寺院ではなくアテネの栄光を象徴する建物だった。しかし国力を投入したこのプロジェクトを誰もが称賛していたわけではない。単なる個人的栄光を誇示するだけのものだという意見もあった。寺院に資材をつぎ込むのは馬鹿げているとの意見もあった。かのプラトンもこの寺院は好きではなかった。
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ペリクレスがアテネの支配力を強化すればするほど、彼の政敵は彼の行動に疑いの目を向けるようになった。やがて彼等はペリクレスの同僚を攻撃の材料にした。優雅で知的な女性アスペイジアだ。

アスペイジアはペリクレスの指揮下にあるアテネの議員団のメンバーだった。メンバーはタイラントと比べたら格下だ。しかし彼女は違った。
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ペリクレスは彼女をパートナーとして取り扱った。それで彼女は影響力を増すことになった。2人は誰もが知るカップルになり、あるスキャンダルによれば、公の場でキスしあう2人を見た人がいるという。それは古代アテネでは考えられないことだった。

建築からほぼ15年後の紀元前432年までに、パルテノン神殿は完成を見た。それはペリクレスが望んでいた通りの立派な建物だった。アテネの権力を象徴するものだった。しかし皮肉にも、寺院の完成と共にアテネの栄光は揺らぎ始める。永年の宿敵スパルタが頭角を現し始めてきたのだ。
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紀元前431年、スパルタはアテネに向けて出陣した。
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2年の間、アテネはスパルタと対等に戦っていた。しかし、見えない敵が現れる。
繁栄と共に外部から多くの人間がアテネに出入りするようになっていたためだろう、伝染病が流行して大勢の死んでしまったのだ。ペリクレスは60歳にならんとしていた。幸い伝染病からは逃れたが、伝染病と戦いの2つの重荷の中で紀元前429年に亡くなった。ペロポネソス戦争として知られるアテネとスパルタの血にまみれた残虐な戦いは更に25年続き、紀元前404年、アテネは崩壊した。

「ペリクレス時代の終焉はアテネの支配的な立場の終焉だった。それはギリシャ文明の終焉ともなっていく。」
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「皮肉なことに、この戦いの後のアテネを支配した2人の男はアテネの人間ではない。この2人は世界にも名を知られる男達だ。一人はマサドニアのフィリップ二世だ。もう一人は、彼の息子で、ナポレオンやジュリアスシーザをも凌ぐ帝国を築いた男、たった33年で世界を変えた男、自らを神だと宣言した男、すなわちアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)だ。」
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以上でフィルムの紹介は終わりです。
Greece: Engineering an Empire
https://www.youtube.com/watch?v=5d2-BmEa_YI

かの偉大な、世界における近代文明の魁(さきがけ)と言えるギリシャの興亡は、数人の英雄にスポットを当てながら、たった44分のフィルムで紹介されてしまいました。偉大なギリシャの5百年を45分で解説する、大雑把で中身が無いブログだったとのお叱りが聞こえてきそうです。

全くご指摘の通りで、今回はふれられなかった歴史や偉大な人物、文化、建物、神話などが山ほどありますので、必ずや近いうちにご紹介させて頂くつもりですが、ギリシャが歴史で名を馳せたのは、フィルムで紹介された紀元前5世紀頃までとも言えます。その後はアレキサンダー大王のマケドニア(これはギリシャの都市国家の一つだったのですが)に編入され、東ローマ帝国に統治され、オスマントルコの支配下に入るという歴史を経てから、やっと1830年になって、英国、フランス、ロシアの力を得てギリシャ王国として独立するまでの約1900年間、「ギリシャ」は完全に消えてしまっていたのです!

最後に古代ギリシャの都市国家名が記された地図を載せます。アルカディア、コリンス、・・・小アジア(トルコ)のエーゲ海に面した土地にもギリシャの影響が及んでいたのです。
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(紀元前750-490年のロドス同盟と同盟以外の都市国家を示す地図)
(完)

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