Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

アレキサンダー大王の不思議

今回は都市国家ギリシャを統一して東方遠征に乗り出したアレクサンドロス3世Alexander the Greatについてご紹介しましょう。
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「栄光の快進撃を実現し、戦士で、王で、歴史に燦然と輝く伝説の男、アレキサンダー大王!14歳でマサドニアンMacedonian(注)戦士に、18歳で一軍の将に、20歳で王になった男。22歳になった紀元前334年、戦いに飢えた4万の戦士たちを指揮して東方遠征を始め、2千年を過ぎた今日にも残る様々な伝説を創り、しかもいまだに歴史学者の間に論争を巻き起こしているアレクサンドロス3世!」

(注)マサドニアン:「マセドニア Macedonia または Macedonマセドンと呼ばれた古代国家の」という形容詞。日本語ではマケドニアと呼ばれる古代国家です。ややっこしいですねぇ。

「冷酷な母から生まれ・・・(見辛いですが蛇を抱いてます!)
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優れた哲学者に師事し・・・
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凶暴な戦を好む父の背を見て育ち・・・
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若干32歳でペルシャ帝国、エジプト帝国、さらにはインドの一部まで手中に収めた男!」

との物々しい鳴り物入りで始まる2時間15分のYoutubeフィルムを含め、3本見ました。一番面白そうなフィルムのストーリーにそって彼の逸話や偉業をご紹介ようと思ったのですが、どれも一長一短で、その上CG(Computer Graphics)が多く、これを皆さんにご披露するのもなんだろう(?)と思いまして、今回はmhのオリジナル・ストーリーでご紹介させて頂くことにしました。勿論、史実や遺跡など「事実」「歴史」「真実」を出来る限り採用し、個人的な推定は排除するつもりです。どんな仕上がりになるのか・・・楽しみです。
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Wikiアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王):
父:ピリッポス(フィリップ)2世 、母:オリュンピアス。出生紀元前356年7月20日マセドニアの町ペラ Pellaで生まれ、紀元前323年6月10日(満32歳、正確には33歳の1ヶ月前)メソポタミア流域の古代都市バビロン で亡くなりました。

大王以外の別号としては「コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主」「エジプトのファラオ(!)」「 ペルシャのシャーハンシャー (大王の中の大王という意味でしょう)」でもありました。

配偶者:ロクサネ、スタテイラ、パリュサティス(の3人)。
子供:アレクサンドロス4世、ヘラクレス(非合法の息子)
息子のアレクサンドロス4世は王妃ロクサネの嫡子で、アルゲアス朝最後のマケドニア王です。「紀元前323年~紀元前309年(享年14歳)」で「在位同じ」とありますから、父アレクサンドロス3世がバビロンで死んだ年に生まれ、直ぐに即位した、形だけの王と言えるでしょう。
もう一人の息子ヘラクレスはペルシャ遠征中にバルシネという女との間に生まれた、いわゆる妾の子です。バルシネの最初の夫はロドスのメルトン(傭兵)で、ある時はアレクサンドロス3世の敵、またある時は配下でもありました。

父フィリップ2世が暗殺された紀元前336年、アレキサンダーは20歳で王になりました。東方遠征の2年前でした。当時のマセドニア王国(マケドニア、Macedon)の版図です。首都Pellaは「MACEDON」の直ぐ下に記されています。彼が生まれた町でもあります。
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Wiki:マケドニア(マセドニア;王国)
「紀元前7世紀にギリシャ人によって建国された歴史上の国家である。現在のギリシャ共和国西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と・・・(省略)にまたがる地域にあった。(つまり上の地図のピンクの領域です。)北西ギリシャ方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。」
<マケドニアの国章>
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Wikiで「マケドニア」と入力すると古代のマケドニア王国に繋がりますが、ご承知のように、今日、ギリシャの北にマケドニアという国があります。
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正式には「マケドニア共和国」で、古代はマケドニアと呼ばれた地域の北西部に位置しています。
マケドニア共和国の国旗は古代マケドニアの国章を引き継いでいます。つまり「太陽」です。
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アレキサンダー大王の父フィリップ2世は軍人として優れた能力を持ち、都市国家ギリシャの統一に向けた戦で成果を上げていました。彼の軍隊が使った槍「サリッサ」は当時の槍の2~3倍の長さで、独特の戦術で使われて威力を発揮しました。勿論、息子のアレクサンドロス3世も東方遠征でこの槍を戦いの最前線で利用し、連戦連勝、破竹の勢いで侵攻していったのです。
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Wiki:サリッサsarissa or sarisa
その頃のギリシャで使われていた槍が2.1- 2.7m程度だったのに対し、サリッサはおよそ4.0- 6.4mと倍以上の長で、敵兵より長いリーチを取れた。その上、後ろの兵士の槍もより多く突き出すことができるという優れたものであった。穂先の反対側の先端には石突きが付いているが、これは、構えるときに安定を保つためのものであると同時に、槍が折れた際に武器として使用する予備的装備でもあった。
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ところでアレキサンダー大王、即ちアレクサンドロス3世、の息子のアレクサンドロス4世は、父が死んだ年に生まれ、形だけとは言え王に即位しましたが、3世がいるなら2世だっているのでは?と思って調べたら、やっぱりいました。

Wiki:フィリップ2世Philip II of Macedon (382–336 BC )
「ピリッポス(!)2世(アレクサンダーの父)は、アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウスである(在位紀元前359年 - 紀元前336年)。フィリッポス2世とも表記される。アミュンタス3世の子で、アレクサンドロス2世(ここに3世の前の2世が出てきました!)、ペルディッカス3世の弟で・・・以下省略」
「フィリップ2世は、ギリシャの弱小国だったマケドニアに国政改革を施し、当時先進国だったギリシャ南部の諸ポリスにも張り合える強国に成長させた。カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、コリントス同盟の盟主となってギリシャの覇権を握った。」
ギリシャを統合したカイロネイアの戦いで、アレクサンドロス3世は父の配下の将として戦果を挙げています。

一方、母親のオリュンピアスは、フィリップ2世の4番目の妻でした。狂乱的な蛇崇拝のディオニューソス信仰の熱烈な信者で、1世紀の伝記作家プルタルコスは、オリュンピアスが蛇と寝ていた可能性を示唆しています(Wiki)。それでブログ冒頭で紹介した彼女の映像に蛇serpentが出ていたんです!

フィリップ2世には、踊り子ピリンナとの間に生まれた庶子アイダリオス(フィリップ3世)がいました。アレクサンドロス3世の兄でもありました。しかしアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、アイダリオスの力を恐れ、毒を盛ったんですねぇ。一命は取り留めたもののアリダイオスは知的障害者になり、事実上王位継承の資格を喪失します。

実は父フィリップ2世の死についても疑問があるようです。ギリシャを統一したフィリップ2世は、ペルシャ遠征に向かう前に開催した戦勝祈願の宴席で、彼の男妾に刺され、死んでしまいます。刺した男妾は、アレクサンドロス3世の手下によって、その場で取り押さえられ、殺されてしまいました。本当に男妾がフィリップを刺したのか?なぜ刺したのか?といった肝心な事は闇に葬られてしまい、ひょっとするとフィリップ2世の暗殺は息子アレクサンドロス3世が仕組んだのではないか、という噂も残っているのです。

アレクサンドロス3世は父の配慮でアテネから招かれたアリストテレスを師とし、弁論術、文学、科学、医学、哲学などを学びました。アリストテレスは哲学者プラトンの弟子です。
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アレクサンドロス3世が東方遠征に出かけた翌年、アリストテレスは古巣のアテネに戻っています。

アレクサンドロス帝国/マケドニア王国(帝国)
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この図は過去のブログで何度か登場していますが、アレクサンドロス3世が紀元前334~323年の、たったの12年の遠征で獲得した領土です!マケドニア、ペルシャ帝国、エジプト帝国、インド西部を版図としました!

それではアレクサンドロス3世の東方遠征の足取りと出来事を、順を追って辿ってみましょう。
<紀元前334年(22歳)>
ダーダネルス海峡(古名:へレスポイントHellespoint)を渡る!いよいよ東方遠征の開始です。
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北の黒海側にはボスポラス海峡(現イスタンブールの海峡)がありますが、南のルートを採ったんですね。小アジア(トルコ)を地中海に沿って南下する思惑だったようです。
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百艘のトライリーン(3段オールの戦艦)に分乗して海峡を渡りました。この時、小アジアを統治していたペルシャ帝国の軍勢は手を出しませんでした。

その後、南のトロイに寄ったとの話もあるようですが、いずれにしても東方に移動し、グラニコス川で初めてペルシャ軍と対峙します。戦いはマケドニア軍が仕掛けました!先陣を切ったのはアレクサンドロス3世が指揮する右翼です。
戦力と損害は次の通りです。マケドニア軍の大勝と言えるでしょう。
      マケドニア軍    ペルシャ軍
戦力   重装歩兵10,000   軽装歩兵20,000
      軽装歩兵10,000   ギリシャ人傭兵5,000
      騎兵5,000       騎兵10,000
損害   戦死者115 – 350    歩兵3,000
      負傷者1,150 - 1,380   騎兵1,000
      ないし3,500 - 4,200   捕虜2,000

その後エフェソスのアルテミス神殿を訪れ神殿の修理を命じています。実はアレクサンドロス3世が生まれた日、御神体のアルテミスがお祝いのためにマケドニアに出かけて留守の最中、神殿は火災で燃え落ちました!ブログ「世界の七不思議:アルテミス神殿」でも解説していますのでご確認ください。

ひき続いてハリカルナッソスを訪れました。こちらもブログ「世界の七不思議:ハリカルナッソスのマウソロス霊廟」をご覧ください。

<紀元前333年>
ハリカルナッソスでの作戦を完了するとゴーディオン(トルコ共和国首都アンカラ)に向かいました。マケドニア軍の強さを伝え聞いていたゴーディオンのペルシャ軍守備隊は簡単に降伏し恭順を示します。
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マケドニア軍は南下を開始し、イッソスIssosを征圧しました。負傷兵を置いて更に南下すると、これを見たダリオス3世Darius IIIが率いるペルシャの精鋭軍が北からイソスに回り込み、残っていた負傷兵の手を切り取ってしまいます。二度と武器を持てぬようにとの意図からです。

これを知ったマケドニア軍は直ぐにイソスに戻り、ピナルス川The Pinarusを挟んで両軍が布陣を張ることになりました。
赤はペルシャ軍、青はマケドニア軍を表しています。
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紀元前333年10月、ペルシァ軍の騎兵が川を渡ってマケドニアの将パルメニオンの部隊に襲い掛かり、火ぶたは切って落とされました。
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パルメニオンが数で優勢なペルシァ軍の攻勢に耐えていると、アレキサンダーはすかさず精鋭歩兵部隊を率いて川を渡り、敵の中央部隊を包囲しながら攻撃しました。アレキサンダー自身に攻撃されたダリウスは慌てふためいて戦場から逃走します。アレキサンダーは休むことなく、敵右翼の背後にまわりこみ、これも攻撃しました。ペルシァ軍は5万もの死者を出した上に王が逃走したので、とうとう全面退却を始めます。しかし、マケドニア騎兵は夜になるまで追撃し、ばらばらに敗走するペルシァ軍を掃討してしまうのです。

イソスの戦いの様子を描いたモザイク画がイタリアのナポリ国立考古学博物館に保管されています。左には馬に乗るアレクサンダー、右にはシャリオット(馬戦車)に載るダリウスが描かれています。
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この絵は「ファウンの家House of the Faun」と呼ばれるイタリア・ポンペイの大富豪の家にありました。
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実は昨年11月、ポンペイを訪れた時に私も上の写真の風景の中に立ったのです!子供の像が立つ、噴水だったと思われる場所の直ぐ向うに柱で囲まれた敷石の小さな広場が見えますよね?その敷石はモザイク画で、そこには次の男がいたのです!
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それを見た時、私は直観しましたねぇ「アレキサンダー大王だ!」勿論、写真に収めたのですが、イタリア旅行のブログでもご紹介したように、カメラがバスの中に置いていた鞄もろとも盗まれてしまい、証拠は残っていませんが、もしあなたもポンペイに行ったとすれば、この庭園に寄ってモザイク画のアレキサンダーに対面したでしょうから、私が嘘をついていないことは納得して戴けるでしょう!!!

いやな思い出がぶり返して妬(や)けになったという訳ではないのですが、ここで不思議な質問です。
<不思議な質問1>
「学校の歴史の教科書にも載っている、あの有名なアレキサンダー大王のモザイク画と同じものが、何故、イタリアのナポリで見つかるのか?」
本来ならマケドニアとか、アテネとか、アレクサンドリアとか、アレキサンダーゆかりの地で見つかるべきでしょう?一体全体、何故、イタリアのナポリなのか???

私の持ち合わせている、かなり自信がある答えを、ここでご披露すると皆さんの楽しみを奪ってしまうでしょうから、後ほどお教えしましょう。

さて、ダリウスは無事逃げ出すことが出来たのですが、戦線の後方のテントに居た彼の母・妻・2人の娘はマケドニア軍に捕らえられて捕虜になってしまいました。後日、ダリウスは彼女らを取り戻そうと和睦を申し出ます。
「既にマケドニア軍が占領した国土に加えて莫大な黄金の身代金を渡すので親族を返してほしい。」
アレキサンダーは拒絶します。「負けた者が条件をつけて和睦を申し出るのは筋違いというものだ。今は私がアジアの王なのだ!」

ここで続けて、妬けのやんぱち、不思議な質問です!
<不思議な質問2>
「捕えられたダリウスの母、妻、娘たちは、その後、どうなったか?」

こんな質問、いくら考えたって何の情報もないあなたに答えられるわけはありませんねえ。調べればすぐに判ることです。私が調べておきましたからブログの最後でお教えしましょう。ロマンチックでその上ドラマチックとも言えますが、作り話の定番とも言えそうな結末を迎えます。

<紀元前332~331年>
イソスIssosの戦いに勝利したマケドニア軍は地中海沿岸を南下し、タイロス Tyros 、ガザGazaを経由してサハラ砂漠にあるアモニン寺院(Amonin Temppelli:シワSiwaの町にあります)を訪れ、アレクサンドリアAleksandria(Alexandria)を創り、いよいよ、ダリウスが待つメソポタミアのガウガメラGaugamelaに向かいます。
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タイアー(Tyre,タイロスTyros)の戦い:紀元前332年
紀元前2500年、フェニキア人の都市として成立したタイアーは植民都市カルタゴを建設した有力都市でした。紀元前585年、新バビロニア王ネブカドネザル2世の遠征軍に包囲され13年間にわたり抵抗した後、服属すると、ペルシャによるバビロニア併合に伴いペルシャの支配下に入りました。そこに紀元前332年、アレキサンダーの東征軍が攻め込んできたのです。
町は直ぐに占領されてしまいますが、沖合1kmの、町と同じ名の、要塞化されたタイアー島に立て籠もって抗戦しました。十分な海軍力を持たなかったマケドニア軍は、島に物資が送り込まれないよう、敵船が寄港する港を封鎖してから陸と島を結ぶ突堤(!)を造り始めます。
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島の城壁内からの敵の攻撃を避けながら、やっとの思いで突堤を完成させると、強力な射出装置で城壁の一ヵ所に突破口を造り、そこから城内に侵入して敵を一網打尽にします。突堤の建設を含めて7ヶ月に渡った戦いのタイアー側戦死者は8,000人で、陥落後さらに2,000人が殺害され、3万人のタイアー市民が奴隷として囚われたといわれています。後にアレキサンダーの許しを得てタイアーは再建されるのですが、政治的にも経済的にも弱体化し、かつての繁栄が戻ることは有りませんでした。

アモニン寺院(Amonin Temppelli:シワSiwaの町にあります)
エジプトに入ったアレキサンダーはペルシャに統治されて不満が溜まっていたエジプト人に解放者として歓迎され、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を貰います。
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ルクソール(Luxor)のTemple of Amenhotep IIIに残るファラオのアレキサンダー「メリアムン・セテプエンラー」

その後、彼はサハラ砂漠にあるオアシス都市シワSiwaを訪れるのです。次のGoogoe Earthで判るように、泉とよぶより湖と呼んだほうが適当と思われるオアシスの町です。
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そこにエジプトでも由緒のあるアモン神殿があるのです。
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一人で神殿に入ったアレキサンダーに神の神託(オラクルoracle)が下ります。
「お前はアモンの息子だ!」
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彼は本当に神の声を聞いたのか?それは彼が知るだけで他の誰にも判りません。真偽は別にして、彼からこの話を聞いた家臣たちは、事があれば彼を「ゼウス・アモン(Zeus-Ammon:いずれも宇宙や太陽を司る神)の息子」と呼ぶようになり、死後に造られたコインの肖像には、アモン神のように、頭に羊の角(つの)2本が描かれたのです。
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またここで不思議な質問です。
<不思議な質問―3>
「アレキサンダーはシワSiwaの神殿で神の神託を本当に受けたのだろうか?」

都市アレクサンドリアの設立:
紀元前332年、ラコティスRhacotisという名の町をアレクサンドリアと改名し、マケドニアの建築家ディノクラティス(Dinocrates)をプロジェクト・リーダーにして都市の建設に着手しました。
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今では地中海の真珠と呼ばれる人口450万人の大都市ですが、古代でも地中海で、いや世界でも一番輝いていた都市と言えるでしょう。ブログ「世界の七不思議:フェロス灯台」で紹介した灯台が造られた交易港でもあり、当時、世界一の蔵書量を誇る図書館には地中海沿岸だけでなくアジアからも知識や哲学を探求する著名な研究者たちが訪れていたのです。

ガウガメラGaugamelaの戦い
紀元前331年、エジプトからペルシャに戻った4万7千のマケドニア軍は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダリオス3世指揮下のペルシァ軍を破ります。戦いで敗れたダリウスは腹心の部下たちと逃亡する途中で部下のベッソスに殺害されました。ベッソスはペルシャ王位を継承しますが、同僚スピタメネス(バクトリアの豪族出身者)の裏切りで暗殺されます。スピタメネスはベッソスの遺体をアレキサンダーに献上して一旦は降伏します。その後、反旗を翻すのですが、仲間に暗殺されてしまいました。ダリウスの怨みとアレキサンダーの怒りが、心無い男たちに相応(ふさわ)しい結末を準備したとも言えるでしょう。
アレキサンダーが若いので敵将が侮(あなど)り、彼を騙(だま)そうと、つまらぬ画策を弄したのかな?とも思います。

<紀元前331-323年(8年間)>
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ペルセポリス焼失:
ダリウス亡き後のペルシャ帝国を制覇するのは赤子の手を捻(ひね)るようなものでした。
またここで脱線ですが「赤子の手を捻る」という譬(たと)えは随分残酷なので、故事でもあるのかな?と思ってネットで調べてみたのですが、「抵抗する力のない者を相手にする。きわめて容易なことのたとえ。」としか見つかりません!mhの見立てでは使われ始めたきっかけは、弱い者いじめをする人を諌(いさ)めるためだったのではないかと思います。「あなたねぇ、赤子の手を捻るようなことをしちゃ駄目だよ!」ってな具合です。それが深い配慮も無く、極めて容易な事の譬えとして乱用され出した、と考えます。

で話をペルセポリスの焼失に戻しますと、当初、アレキサンダーは宮殿を焼き払うつもりはなかったようです。大した抵抗を受けず、ペルセポリスをやすやすと陥落すると、宮殿内の宝物を持ち去りました。部下たちにも報奨をあげなければいけませんからね。一仕事を終えて宮殿内で宴会をしていた時、酔っ払った部下の一人が勢いで「ペルシャを完全に粉砕しよう!宮殿は燃やしてしまおう!」と騒ぎ出し、「それもよかろう」となって火が点けられたようです。なんとも運命のめぐり合わせが悪かったとしか言いようがありません。
(ペルセポリスのパノラマ写真)
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バクトリア王国制覇
ペルセポリスを陥落したアレキサンダーは北に向けて軍を移動し、カスピ海近くまで北上すると東に移動し、バクトリアに入りました。そしてこの地に彼の名を冠する町Alexandriaが沢山生まれることになりました。次の進軍ルート図にも5つのAlexandriaが現れています。
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勿論、最も有名なAlexandriaはエジプトに残された町であることは論を待ちません。

アレキサンダーに征服されたバクトリアは、アレキサンダー亡き後のマケドニア帝国の崩壊を経て、紀元前250年頃、ギリシャ人が統治するグレコ・バクトリア王国Greco-Bactrian Kingdomになります。以降、この王国で仏教が繁栄したことについてはブログ「ガンダーラの不思議」でご紹介しました。しかし、この王国を治めていたギリシャ人の絶対数が少ないことや、周囲の遊牧民族からの度々の攻撃などによって、王国は西暦150年頃には自然消滅します。その後は北方遊牧民のクシャーナ朝Kushan Empireに飲み込まれていきました。

アレキサンダーの死
インド征圧に乗り出したマケドニア軍ですが、遠征を始めて既に10年、インドのハイファシス川Hyphasis River に到達したところで,部下たちはこれ以上の東征はできないと言い出します。アレキサンダーは、インド全体、更には中国も手中にして世界制覇を目指していたようですが、一人で戦いを続けることはできません。已む無くマケドニアに戻ることに合意しました。

インダス川河口からは陸と海上の2つに軍勢を分けて西に移動し、ひとまずバビロンに落ち着きました。
ここからはWikiを引用します。
「アレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシャ、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシャ人を積極的に登用するなど、ペルシャ人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシャ帝国の後継者を宣し、ペルシャ王の王衣を身にまといペルシャ風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。」
「バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、蜂に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日に死去した。」
彼の死については毒殺説もあるようですが、根拠が薄く、重視されていないようです。
なお彼の最後の遺言は部下の質問「大王亡き後は、この帝国はいかにいたしたらよろしいでしょうか」に対して行われたもので「最も強い者に与える」と答えたようです。そんなこともあって、権力闘争が続くことになり、マケドニア帝国は短期間で歴史から消え去ることになりました。

アレキサンダーの墓はどこにあるのか?
考古学者の間では大きなミステリーで、未だに結論が出ていません。信頼できる史実が少ないことが原因ですが、ネットやYoutubeの情報に限れば次の通りです。
1) バビロン:死んで直ぐに埋葬された。
2) マケドニア:遺体は戻され、バルカン半島の生まれ故郷のどこかに埋められた。古代のロイヤルファミリーの墓が見つかっています。アレキサンダーの石棺はまだ見つかっていません。
3) エジプト・アレクサンドリア:考古学者の間では最も支持されている説です。生まれ故郷のマケドニアに向けて運ばれていた遺体は、エジプトを統治していたギリシャ人によって、シリア辺りで行先をエジプトに変更させられました。ナイル下流の町メンフィスの寺院に埋葬され、数十年ほどしてから、当時のエジプト帝国の首都でアレキサンダーが愛した町アレクサンドリアに埋め直されたといいます。信憑性は別にして、この辺りの経緯を記した資料も残っているようです。
ブログ「クレオパトラの不思議」でもご紹介しましたが、ギリシャ人が統治していたアレクサンドリアの町の地下には水の確保を目的とした地下室や、埋葬目的の寺院が沢山ありました。
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アレキサンダーの遺体も、その後のクレオパトラの遺体も、地下の寺院で眠っている、と言うのです。
4) エジプト・シワSiwa:アレキサンダーが太陽神の息子だとの神託を受けた町で神として埋葬されたという考えでしょう。
5)エジプト・バハリヤ・オアシスBahariya oasis
アレクサンドリアの南約320kmの砂漠の中の村です。
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1996年、オアシスの村バハリヤで、驢馬(ろば)が何かに躓(つまず)きました。掘ってみると幾つもの黄金の棺桶が出土したのです。
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以降「黄金のミイラの谷」と呼ばれているようです。
あのDr.ザヒ・ハワスZahi Hawassによれば、近くの古いアモン神殿の壁にファラオ「アレキサンダー」のレリーフがあるので、彼の墓もあるのではないだろうか、とのことです。
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しかし、アレキサンダー大王たるものの遺体が他のギリシャ人と一緒の部屋や穴の中に眠っているというのは考え辛いのか、剛腕で名を馳せているザヒ博士も、流石に「ここに間違いない!」とは仰っていません。

アレクサンドロス3世、またはアレキサンダー、またはアレキサンダー大王、の生涯を駆け足で辿るブログは彼の墓に関するお話しの終了をもって完結となりますが、もう一つ残っている疑問がありました。

皆さんは次の大理石の胸像は誰だと思いますか?
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そう、勿論、アレキサンダー大王ですよね?しかし、何故、これが彼の胸像だと言われているのか?胸像のどこかに彼の名が記されているとでもいうのか?定かではありませんが、恐らく彼の名は記されていないと思います。もし記されていたら、その印の写真証拠などが解説付きで現れていて、記憶力が悪いmhも覚えているはずです。

名前が記されてもいないのに、この像がアレキサンダー大王のものだと言われる所以(ゆえん)はなにか?そもそも、この胸像は何処で見つかり、今はどこにあるのか?

どうですか?皆さんは判りますか???

実は、胸像が見つかったのはエジプト・アレクサンドリアです。造られたのは紀元前2-1世紀。大英博物館British Museumが所有しています。像の特徴からヘレニズム時代Hellenistic eraのものに間違いないようです。

Wiki:ヘレニズム(Hellenism)
ギリシャ人(ヘレネス)の祖、ヘレーン(女神)に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシャの文化が融合した「ギリシャ風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス3世(大王)(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。

大英博物館Websiteの解説によると次の通りです。
「征服王の若さあふれるイメージ:記録資料(場合に寄れば資料と呼べない物かも知れない)によればアレキサンダーは、彫刻家リシッポスLysipposや画家アペレスApellesなど、有名な芸術家にだけ、自分の姿の像や絵の製作を許していた。代表的なポーズと言えるものは発見されてはいないが、貴石やコインに描かれた肖像を含め、多くの素材で彼の姿が表現されている。これらの肖像は全て、彼の死後、かなりの年月を経過してから製作されたもので、いずれも凡そ似た雰囲気を持っているものの、その様相は様々である。アレキサンダーの肖像は、いずれの場合でも、髭(ひげ)を綺麗に剃った顔で表されている。彼以前のギリシャ人は髭を付けていたことから見ると革命的な変化と言える。この、高貴な人物でも髭を付けないというファッションは、ローマ皇帝ヘイドリアンHadrianまで、凡そ5百年の間、ヘレニズム時代の全ての王やローマ皇帝の間で流行した。頭に布のバンドを巻き、それを最も重要な冠としたのはアレキサンダーからであり、これはヘレニズム時代の王の象徴となった。英雄として表現されるアレキサンダーの古い時代の肖像は、大英博物館の胸像のように死後かなりの時間が経過してから造られたことから、更に成熟した男として現されている。そして時代が新しいものほど若く、しかし恐らく神々しい特徴を持っている。髪は長く、少し前屈みで少し目を上に向けている力強い姿は、記録に残されている記述に一致する。
写真の像は、紀元前331年にアレキサンダーによって造られた町アレクサンドリアで見つかったものだ。この町には彼の墓がある(と断言していました!!!)。アレクサンドリアは永く続いたヘレニズム王朝の一つプトレマイオス朝の首都だった。プトレマイオス1世(紀元前305-282)の時代から、アレキサンダーは神として、また王朝の創始者として崇拝されていた。」

さて、それでは最後になりますが不思議な質問とmhの回答をご確認下さい。

<不思議な質問1>
「教科書にも載っている有名なアレキサンダー大王のモザイク画は、何故、イタリアのナポリで見つかっているのか?」

mh回答:
実はオリジナルの絵はマケドニアに残っていたのです。このマケドニアはローマ共和国(ローマ帝国になる前のローマ)の属国になったんですねぇ、アレキサンダー亡き後で!
紀元前215年に始まった第一次マケドニア戦争、その後の第二次、第三次、第四次マケドニア戦争を経て、紀元前148年、マケドニアはローマ共和国の完全なる属州になりました。その後、ローマ人にも崇拝されていたマケドニアンの大王アレクサンドロス3世に関する資料はローマに持ち出されてしまったのでしょう、これはmhの推察です。持ち出された資料の中には絵画や、ひょっとするとモザイク画もあったのです。モザイク画は綺麗に復元され、ローマの執政官たちのリゾートだったナポリ及びその近くのポンペイで復元されて残された、というのがmhの到達した結論です。

<不思議な質問2>
「捕えられたダリウスの母、妻、娘たちは、その後、どうなったのか?」

mh回答:
丁重に保護されていました。次の絵は画家セバスチアーノ・リッチSebastiano Ricciが歴史書に残された逸話をもとに描いたもので、戦場に残されていたペルシャ側のテントにいるダリウスの家族と面会する場面です。同僚の将軍ヘファイスティオンHephaestionと二人で訪れたアレクサンドロス3は、伏せて慈悲を乞うダリウスの母シスガンビスSisygambis、アレキサンダーを頼るような眼で見つめるダリウスの妻スタテイラ1世Stateira I、その後ろに控える2人のダリウスの娘スタテイラ2世Stateira IIとドライプテイスDrypteisたちに、丁重な挨拶をしています。
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伏せて黄色いガウンを着ているダリウスの母シスガンビスは自分の近くに立つ将軍ヘファイスティオンがアレキサンダーだと勘違いして、彼に向かい、命乞いをしています。直ぐにアレキサンダーは隣に立つ男だと気付き、狼狽しました。するとアレキサンダーは彼女に言ったのです「母上殿、あなたは間違ってはいませんよ。この男もアレキサンダーです。」

その後、この家族はアレキサンダーと共に旅を続けます。ゴーガメラGaugamelaの戦いでは、軍の後方の移動式の家に居ました。息子のダリアス軍の騎馬兵がマケドニア軍を攻め、近くまでやって来ても、ダリアスの母シスガンビスは慶びませんでした。彼女はイソスの戦いで家族を捨てて逃げた息子を許していなかったのです。ゴーガメラの戦いの後でダリアスが殺されると、アレキサンダーは葬儀のために彼の遺体を母親の元まで送り届けました。葬儀の席で、彼女は言いました「私はたった一人、息子を持っている。その息子とはアレキサンダーで、ペルシャの全ての王です。」
アレキサンダーが死んだのを聞いた彼女は部屋に閉じこもり、なにも食べませんでした。悲しみと断食の中でアレキサンダーの死後4日目に亡くなったとのことです。ダリアスの妻は紀元前332年、出産の時に亡くなりました。父親はダリアスではないだろうとのこと。娘の一人スタテイラStateira IIはアレキサンダーの妻になり、もう一人の娘ドライプテイスDrypteisは彼の盟友ヘファイスティオンの妻になりました。

<不思議な質問3>
「アレキサンダーはシワSiwaの神殿で神の神託を本当に受けたのだろうか?」

mh回答:
無神論者のmhですが「彼は神託を受けたに違いない!」と結論します。この理由を正確にお伝えするとしたら、数時間を割(さ)いてその根拠をご披露しなければなりません。それでは皆さんもお困りでしょうから今回は、そして恐らく今後も、これについて触れることは控えたいと思います。えぇ?それじゃあ不思議な質問の答えにはならないでしょう!って仰るんですか?そこまで仰るのなら、理由の一端をご披露しましょう。
「そもそも神とは何か?」これが回答に到る最大のポイントです。この質問に答えられるのなら、その存在、つまり神はいるのか?という質問についての答えは簡単に得られます。私は無神論者ですが「神は存在する!」と言い切る自信がありますから(???)、アレキサンダーが神託を受けたと言うのなら、それは事実であろう、と結論するのです。
(完)
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