Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

王家の谷の不思議

昔、ナイル中流の町ルクソールLuxorはテーベThebesと呼ばれ、エジプト帝国の首都で宗教、経済、政治の中心でした。「王家の谷The Valley of the Kings」と呼ばれるファラオたちが眠る集団墓地は対岸の砂漠にあります。
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近くには、谷を見下ろすように聳(そび)える「Al Qurn(角)」、愛称「ピラミッド山Pyramid Mountain」があります。Al Qurn(ピラミッド山)は標高420m。次の写真の撮影場所は標高160m程度ですから、山の高さは260mになります。
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「王家の谷」の北東上空から南西を望むと次のGoogle Earth映像が得られます。
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中央の黄色ピンが「東の谷East Valley」の中心で、その奥の黄色ピンがピラミッド型の山Al Qurnです。左(ナイル)側の崖の下には黄色ピンの「Hatshepsut Templeハトシェプスト葬祭殿」があります。中央の「東の谷」の右、つまり西側には、白い道がうねりながら手前からAl Qurnに続いています。実はこちらは「西の谷West Valley」と呼ばれ、5つの墓が見つかっています。観光客に公開されているのはアメンヘテプ3世の墓だけですが、ツタンカーメン死後、彼の妻アンケセナーメンと結婚して王位を継いだアイAyの墓もあります。

しかし何といっても「王家の谷」といえば「東の谷」でしょう。墓は60程見つかっています。
the East Valley of the Kings
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1922年、探検家ハワード・カーターが発見したツタンカーメンの墓KV62は、上の図の「中央広場」にあります。若干22歳で死んだ王の墓はみすぼらしい程に小さく、壁の装飾は他と比べたら無いに等しいと言っても好いでしょう。棺も小ぶりでした。
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しかし、黄金のマスクや装飾品、豪華な家具など、見つかった貴重な副葬品は、カイロ博物館の主要な展示物です。その量は抜きんでていて、他のどの墓の副葬品も比類できるレベルではありません!業績のほとんどは側近の指導によるもので、若く、実権を持たぬ王の墓で、なぜ莫大な副葬品が見つかったのか?お釈迦様も仰るように、因果応報、原因があるからこその結果なのです!
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その理由を明確に記したものは見つかっていないので推定の域にありますが、ほぼ間違いないでしょう。彼の父アクエンアテン(アメンホテプ4世)との“関係”です。アクエンアテンは巨大な権力を持つ王でした。昔からの信仰を禁じ、唯一神アテン(Aten太陽の神)だけを崇めるよう神官たちに命令していました。

次の写真が唯一神アテンのシンボルです。
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アクエンアテンが死んで、後を継いだ少年王ツタンカーメンは、重臣や神官に諭(さと)されながら、昔の宗教、つまり多神教に回帰していきます。そしてツタンカーメンが死ぬ(暗殺かも知れません)と、重臣たちはこの親子の存在を抹殺しました!ツタンカーメンの黄金の副葬品の多くは父アクエンアテンのものです。ツタンカーメンの死後、重臣や神官は王名表を操作して親子の名を抹殺し、父王が強要した邪教、唯一神で太陽神のアテン、が二度と日の目を見ることのないよう、親子が使っていたすべての物を息子のミイラと共に小さな墓穴に埋めてしまったのです。次の写真はツタンカーメンの墓のCGです。たった十数段の階段の先に小さな部屋が4つあるだけの墓でした。
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アクエンアテンとその息子ツタンカーメンの存在が確認されたのは近代になって考古学的調査が進んでからです。

昔、王(ファラオ)の墓はマスタバと呼ばれる台形をしていました。
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それが段々と豪華になり、ピラミッドが生まれました。
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しかし、今から3千5百年程前にピラミッドの建設は終息し、第18王朝のアメンヘテプ2世Amenhotep II(在位紀元前1551―1524)、ハトシェプストの父トトメス1世Thutmose I(同1524-1518)の代から、凡そ450年の間、全ての王はテーベ近くの「王家の谷」に埋葬され続けたのです!

その理由は、ピラミッドのほとんど全てで盗掘が横行し、死後の平穏が損なわれていたからで、盗掘を避けるためだったようです。ピラミッド建設の資材や労力の負担が大きかったことも理由かも知れません。結局、首都テーベ近くの、監視が容易で、人里離れた不毛の谷に墓を集中することにしたのです。

墓を守る見張りも常駐させました。その住居跡が谷を見下ろす尾根に残っています。
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尾根の数か所で見張れば谷全体を監視でき、不審者はすぐ発見できます。

谷の近くにはデル・エル・メディナDeir el Medinaと呼ばれる町が在りました。ピラミッド山Al Qurnの、王家の谷と反対側の山裾です。
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この町は、ツタンカーメンの墓の発掘が行われていた1922年、別の発掘隊によって発見されました。出土した土器や石灰岩の欠片には住民の生活が事細かく記されていて、王家の谷の管理や墓穴工事や内部の装飾などに携(たずさ)わる人々の町だったことが判りました。
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この町の住民は、王家の谷のどこに、どんな副葬品があるか、熟知していました。生活が苦しくなると、墓の盗掘に加わったようです。逮捕されると、盗みに使った手ということで、棒で叩き潰されたり、切り取られたり、時には斬首(ざんしゅ)されていたようです。

墓穴の奥には玄室があって、数10トンもある石棺sarcophagusが安置されました。
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中に収められる遺体には死後の幸運を願うお守りがリネンの包帯と共に巻き付けられていました。
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(上の銀のお守りは「アンク (Ankh):エジプト十字」で「生命」の意です)

死後の世界で何が必要になるかは前もっては判りません。そこで、思いつくもの全てが副葬品として埋葬されました。黄金、娯楽品、寝具、装飾品、さらには目覚めた時に空腹を満たす食糧、ビール、ワインも。身の回りの世話をしてくれる召使の人形シャプティも箱に詰めて埋葬されました。
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こうして紀元前1500年頃から450年間、全ての王は王家の谷に埋葬され、墓は70基ほど見つかっていますが、複数の遺体が埋葬された墓もあり、結局、数百のミイラが眠っていたようです。

しかし、第20王朝最後のラムセス11世Ramesses XI(~紀元前1070年)が王家の谷に埋葬され、エジプトが第三中間期と呼ばれる衰退期に入ると、王家の墓はパタッと使われなくなりました。力を蓄えていた宗教集団の司祭が実権を握り始めたのです!司祭たちは、王家の谷に埋葬されていたミイラを可能な限り見つけ出し、谷の外に新たに掘った穴に集団埋葬しました。盗掘で安らかな永眠が妨げられないようにとの配慮からのようですが本当の理由は不明です。以降、司祭が王になったり(!)、地中海沿岸では「海の民Sea People」に多くの町が襲われたり、リビアやヌビア(スーダン)の部族長が国王になったりして、エジプトは混沌とし、王家の谷は忘れ去られてしまいました。

これで盗掘が一段落した訳ではありませんでした。紀元前670年にはアッシリア人が、その後、ギリシャ人やローマ人がエジプトを侵略し、彼等の中には王家の谷を訪れ、墓穴に入って残っていた宝物を持ち出したり、記念に、と言って壁面に落書きしたりする者も多かっのです。こうして王家の谷の墓は荒(すさ)んでいきました。
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しかし、侵入者による墓の損傷は、自然の猛威と比べれば僅かなものでした。数百年ごとに降る大雨で、水や土砂が谷底に押し寄せ、多くの墓が水や瓦礫で埋まっていきました。
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こうして暫くの間、墓の中の王の霊はまた静かに眠ることができたのですが、隠れた遺跡を見つけ出す者はいつの世にもいるのです。遺跡を見つける者だからといって学者タイプとは限りません。イタリアのサーカス団で強力(ごうりき)役のジョバンニ・ボルゾーニは1816年にエジプトを訪れました。
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彼には若干の水力学の知識がありました。持ち前の感と水力学の技術を活かし、王家の谷で探索を始めます。そして1817年10月16日、ある墓の中に入ったのです!
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それは、王家の谷の中でも最高の墓と言えるでしょう。入り口から玄室まで100mも通路が続くもので、壁の装飾も見事でした。
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セティ1世Seti Iの墓でした。彼は王国を建て直し、絶大な権力を持った王です。
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玄室の天井は、高さ6mで天空の様子が描かれていました。
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墓に在った黄金の小さな置物やお守り、石像などをイタリアに持ち帰った彼は、自分の発見を自慢しました。

彼が持ち帰った宝物を見せてもらったり、自慢話を聞いたりした人々は、我も我もとエジプトを訪れ、宝探しを始めます。
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おかげで墓は荒らされ放題!見事な壁画も傷つき、豪華な埋葬品や石像は盗まれてしまいました。これに怒(いか)ったエジプト政府は、1858年、部外者の発掘禁止令を制定し、以降は政府の管理下で発掘が行われるようになったのです。

以降、特記すべきは、何んと言ってもツタンカーメンの墓の発掘でしょう。1922年でした。次の写真には彼の墓が写っているのですが・・・
中央正面はラムセス6世の墓の入口。で、ツタンカーメンの墓は、手前の、広場にある囲いの下です。
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彼の墓を入口側から見ると次の通りです。
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奥で列をなす観光客はラムセス6世の墓に入ろうという人達で、ツタンカーメンの墓を見学する人達は手前の、階段の下にいる人達です。人数はラムセスの墓の見学者と比べたらわずかなものです。既に説明させて頂きましたが、ツタンカーメンの墓は規模が小さく、内部の装飾も少なく、黄金を持ち去られた今となっては見る価値が低いというか見るべきものが少ないのです。

それに引き換え、ラムセス6世の墓は絢爛豪華です。内部を見てみましょう!入り口から真っ直ぐ、少し下りながら伸びる通路の真ん中あたりで撮影されたGoogleEarth写真です。
まずは奥の玄室に向かう通路
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その場所の天井
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入口側通路
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左側の壁
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右側の壁
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ツタンカーメンの墓の発見で、王家の谷での大発見は打ち止めだろうと思われていましたが、70年後、新たな大発見がありました。1979年からレーザー・カメラを使った調査が始まりました。
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カメラを使うと3次元で墓穴のディメンションや、壁・天井の壁画を取り込むことができました。この作業はエジプト政府が考古学者ケント・ウィークEgyptologist Dr. Kent R. Weeksの指導の下で進めた「テーベ地図作成プロジェクト(Theban Mapping Project)」と呼ばれるものです。
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主な目的は王家の谷に掘られた全ての墓の正確な地図を作ることでした。
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古い墓穴では通路が左右に折れ曲がったものもありますが、新しいものは大体、入り口から玄室に向かって真っ直ぐ下る通路が掘られています。
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山の上から撮影した次の写真の中央右側の広場にツタンカーメンの墓KV62が見えているのですが、その20mくらい奥(北側)にはアブシンベル神殿を造ったラムセス2世の墓KV7があり、観光通路を挟んでKV5と番号が付けられた墓がありました。
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KV5の通路は瓦礫で埋まり、内部調査は困難を極めたのですが、地中貫通レーダーで調べたら空洞が見つかりました。
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1995年、側壁で隠されていた通路に入ると一番奥にラムセス2世が立っていたのです!
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通路の両側には沢山の部屋と、更なる通路もありました!
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それはあたかも地下に埋められた大きな宇宙船のようでした。
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ツタンカーメンの墓と比べるとKV5の規模が判ります。
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結局、新たに見つかった部屋数は130余で、更に見つかりそうです。ラムセス2世の像があることから、一族の墓にするつもりだったようで、男や女の棺も見つかっています。ラムセス2世自身は90歳まで生きたのですが、合計で50人程いた息子の多くが彼より早く死にました。娘たち、さらには孫たちを考えると、玄室は200くらい造っておかねばと考えたようです。

2006年、このKV5の入口から数mのところに竪穴が見つかりました。発見したのは別の考古学者です。竪穴に続く横穴に、7つの棺と沢山の甕(かめ)がありました。
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「王家の谷には、まだミステリーが隠れている」とYoutubeは結んでいます。
Youtube: Secrets Of The Valley Of The Kings
https://www.youtube.com/watch?v=BqaJrSWwXmA
(完)

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