Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ヒッタイトの不思議

緊急追記(11月8日19:20)
ミャンマーの総選挙の投票は数時間前に打ち切られました。BS5チャンネル「いま世界は」はmhが毎週見ている番組ですが、最初にこのニュースがありました。結果は2週間後に判明するようです。投票には、日本を始めとして30か国から国際監視団が送り込まれ、公正な投票が行われるようチェックしていたとのこと。結果は、ある記事によれば即日開票され明日9日には大勢が判明とありました。「いま世界は」では2週間後と言っていましたが、こちらの方が現実的な線かと思います。
投票を終えたミャンマーの人にインタビューすると、民主化が進むことを期待している、というコメントばかり。ってことはスーチー女史率いる野党が大勝するのでしょうか?
mhの意見はこの見解に否定的です。軍事政権はスーチー女史の野党が過半数を撮る結果はどんな手段を使ってでも拒絶する、と予言しておきたいと思います。トルコの総選挙もやり直しの結果、与党が過半数を取りました。ミャンマーでは選挙そのものが否定され、次回の選挙は未定、という結果になると思います。さて、皆さんの予想は?

ヒッタイト・・・
いつか、どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き・・・
「ヒッタイト」は、いつ、どこで生まれた、何を指す言葉なのか???

「ヒッタイト」は、ヒッタイト王国(帝国)及びその住人を指す言葉です。その国は、いつ、どこで、どのように生まれ、どんな文化を持ち、どんな王が統治し、いつ、なぜ消滅することになったのか?
Youtube、Wiki、ネットで得た情報を駆使してご紹介しましょう!

予めお断りしておきますと、ご紹介するYoutubeフィルムは放映時間1時間55分で、これまでブログで取り上げたフィルムの2倍というmhブログ史上最長作品です!!!気が短く忍耐力に乏しいmhに不向きだなぁ、と半ば諦めて観始めたのですが、雄大な叙事詩Epicで叙情詩Lyricとも言えるストーリー展開と、なかなか解像度が高い綺麗な映像に魅入られ、必死にナレーションを翻訳し、Wikiで内容確認し、映像をスクリーン・コピーしてブログ原稿を作成する作業は足掛け3日、実質丸二日を要しました!そして今、更に実質1日かけて原稿を見直している所です。きっと大作になるはずです!!!

フィルムが長い分このブログも長く、分割公開にしようかとも考えましたが、それではヒッタイトの魅力が十分伝わらないと思い直し、皆さんにも時間を割いていただいてこのブログを読んで頂くことにしました。2時間のフィルムを集大成したブログは、1時間ないと読み切れません!このブログはパスするか、いや、読んでみようと思われるのなら何回に分けて読むか、それとも一気に読むか、方針を決めて頂いて次に進むことをお薦めします。
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さて・・・
読んでみようと決心されたご奇特なお方のみ、いよいよ以下にお進みください。
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ハットゥシャ(英語Hattusa)に残るライオン門
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「ヒッタイト」という言葉を、誰が、いつ使い始めたのかを考えていると、「日本」という名は誰がいつ使い出したのか?なぜNihon やNipponではなくJapan なのか?という疑問が湧きあがりました。何か共通する理由があるのではないだろうか?

まず「日本」について調べてみました。
Wiki「日本」によると、中国大陸の南部から稲作を中心とする民族が、現在の日本の、大陸に近い島、九州か出雲辺りではないかと思いますが、に流れつき、後日、弥生人と呼ばれるようになります。この弥生人が各地に「クニ」という政治・生活集団を作り始めました。クニが一つしかなければクニを意識する必要はないのでしょうが、複数のクニが生まれてくると、他のクニを意識し始めるのは、お釈迦様ではありませんが世の習いです。そこで、「○○のクニ」とか「XXのクニ」という呼び方が生まれました。その一つが「ヤマトのクニ」です。朝鮮半島とのつながりも強く、百済(くだら)や新羅(しらぎ)にも出兵して任那(みまな)を勢力下に置くなど、当地だけではなく海の向うの大陸でも勢力を持っていたのですが、西暦663年、百済復興のために朝鮮半島に援軍を送った白村江(はくそんこう)の戦いで、新羅と唐の連合軍に打ち負かされ、以降、朝鮮への影響力を失います。
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朝鮮半島には伽耶(かや)などの小国もあったのですが、実質的には高句麗、新羅、百済による三国時代が到来し、西暦918年に統一されて高麗(こうらい)となりました。初代国王は王建(太祖)と言われています。この「高麗コウライ」がKoreaという言葉になったんですねえ。

話を我が日本国に戻しますと、白村江の戦いで敗れたヤマト王権は、中国の唐王朝と外交関係を結ぶに当たり、対等な関係を意識させるため中国の「唐」「皇帝」に対し、当方の国号を「日本」、国王の称号を「天皇」としたのです。つまり「日本」は、ヤマトの官僚が決めた言葉です。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺ヤマタイ」となっていたのですが、これを嫌って独自の呼び方、つまり「日本/太陽が昇る土地」を制定したのでしょう。

西暦1271年から24年間、アジアを旅したマルコ・ポーロは、イタリアのジェノヴァGenovaの刑務所に投獄され、そこで知り合った小説家ルスティケロ・ダ・ピサに自分の旅行体験を語りました。これが「Book of the Marvels of the World世界の驚異の本」、日本語では「東方見聞録」、という本となって出版されました。
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「Delle meravigliose cose del mondo, 1496年版:世界の不思議」

この本の中で、日本が「黄金の国・ジパング(ZIPANG/ZIPANGU)」として登場したのがJapanの初めなんですねぇ。
では何故、マルコ・ポーロは日本をZIPANGと呼んだのか?それは勿論、彼が接触した中国人がそう呼んでいたんですねぇ。漢字「日本」は、今でこそ中国語で「Rebenリーベン」と発音しますが、マルコが中国に居た頃の元王朝では「Zibenズーベン」と読まれていたのです。つまり、中国人がZibenとかZipangと呼んでいたので、Japanと呼ばれることになったということです。

「中国」は「中華」など「中心にある国」という意味を持つ名前ですが、英語ではChinaと呼ばれるのは"Qinチン"つまり秦(シン)がヒンドゥ語でCinaになり、これがペルシャ語でChinとなったのですが、16世紀にインドに派遣されたポルトガル人の小説家の役人が、報告書でChinaを使ったのが初めだと言われています。ブログ「iaの不思議」でもご紹介しましたが「○○にiaまたはaを付けて○○人の土地」とするのは古代ギリシャやローマ帝国の習慣でしたから、ChinからChinaという言葉が生まれたのも頷(うなず)けます。

それでは、いよいよ「ヒッタイトHittite」です。
「ヒッタイト帝国Hittite Empire」紀元前1600年頃―紀元前1178年頃
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上の地図(ドイツ語表記)は紀元前1400年頃の領土を示すもので、青がヒッタイト帝国Reich der Hethiterです。南にエジプトÄgypten、東にアッシリア帝国Assyrishes Reichが、西のギリシャあたりにミケーネ文明圏Mykenischer Kulturkreisと記されています。

ヒッタイト帝国の版図はシュッピルリウマ1世Suppiluliuma Iとムルシリ2世Mursili IIの時代(紀元前1350年―紀元前1295年)が最大でした。
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で・・・地図の(Ankara)の近くにHATTIという地方名があり、その右の黒い丸●の下に小さな字でHattusa(ハットゥシャ)という町の名が記されています。おぉ!いずれもHittiteと似た名ではないですか!!!

実は、この一帯はハッティHattiと呼ばれていたのですが、近代の考古学者たちが、ヘブライ聖書に現れている「ヒッタイトHittite」いう土地がハッティHattiだろう、と大した根拠もなく考えてしまったので、以降、ヒッタイトHittiteと呼ばれているのです。

Wiki「ヒッタイト帝国」によると、紀元前16世紀~紀元前1180年までの約4百年間、およそ40人の王(皇帝)によって統治された国で、首都ハットゥシャHattusaの遺跡は世界遺産です。

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今から180年前の西暦1834年、トルコ中央部・・・
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ボガズカレBoğazkaleという小さな町の丘で、古代の町の跡が見つかった。
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この不思議な町にはレリーフやヒエログリフが彫られた城壁や住居跡が残っていた。
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その後40年程、町のことは忘れ去られていた。
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しかし、シリアなど、周辺で同じヒエログリフが相次いで見つかり出すと、この町への関心が高まってきた。
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大きな帝国の一部ではないのか?
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西トルコから北シリアまで広がる文化圏だったようだ!
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1876年、ロンドンで考古学者が驚くべき発表をした。
「小アジアAsian MinorにヒッタイトHittiteという帝国があった!」
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確かにヘブライ聖書にはヒッタイトという名の民族が記録されているが、沢山いた民族の一つで、大して重要ではないと無視されてきた。そのヒッタイトがアナトリア(小アジア)に帝国を造っていたとは!!!
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1906年、発掘は始まった。楔形文字cuneiformで書かれたタブレットが沢山見つかった。音節syllableを左から右に書く表記方法は英語やドイツ語と同じだ。タブレットにはアケーディアン(注)言語が楔形文字で記されていたものもあった。古代の国際語の一つだ。
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(注:アケーディアン:ギリシャのペロポネソス半島の中央にアルカディアArcadiaという地名があります。ヒッタイトよりも数百年以上後に生まれた土地の名のようで関係はなさそうですが・・・結局、アケーディアンがどこで生まれた言葉かは申し訳ありませんが不明です。)

従ってアケーディアンと楔形文字の両方を理解する考古学者ならタブレットに描かれた内容を読み取ることが出来る。発掘を続けていくと驚くべき内容が書かれたタブレットが見つかった。エジプトとヒッタイトの関係が記されている!
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カーデッシュの戦いの後でラムセス2世Ramses IIとハットウシリー3世Hattusillis IIIが締結した平和条約だ!

以降6年間で数万を超えるタブレットの断片が見つかった。
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その結果、ここが単なるヒッタイトの町ではなくハットゥシャHattusaと呼ばれる首都だったことが判った。
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しかしタブレットの多くにはアケーディアンと異なる言語が楔形文字で記されていた。ヒッタイト語に違いない!ヒッタイト帝国を知るためにはこの言語の解読は必須だ!
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楔形文字に詳しい言語学者ベッドリック・ロズニーはヒッタイト文字の解読に精力を注いだ。
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1915年、彼は、ヒッタイト語がインド・ヨーロッパ語族の一つで、英語やドイツ語に似ていることを掴んだ。
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そしてある日「パンBread」という単語を特定した!
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パンなら「飲む」とか「食べる」という言葉と一緒に使われることが多い!こうしてロズニーは古いインド・ヨーロッパ語のヒッタイト語の解読に成功する。これを機に考古学者たちは、アナトリアでのタブレットの収集と分析にエネルギーを注ぎ込み出した。次々に見つかるタブレットには都市、王、王妃などの名前、神々への祈りの言葉や信仰儀式の様子などが記されていた。
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手紙や法律などの記録も解読するに至ると、古代ヒッタイトの様相が急速に明らかになってきた。
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3千年の沈黙の後、ヒッタイトの男や女が物語を語り始めたのだ。
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紀元前18世紀、アナトリア(トルコ半島)は混沌の中にあった。多くの部族が争いを繰り返していた。敵に征服されぬために敵を征服する戦いが続いた。
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その中でハティアンHattianと言う部族が頭角を現した。彼等は紀元前17世紀ころ、彼等よりも前、恐らく紀元前2千年代、に住み着いていたインド・ヨーロッパ系部族のハティアンHattianを征伐し、先住民のハティアンHattianの名とその文化を継承した部族だと考えられている。この部族が今で言う「ヒッタイトHittite」になったのだ。
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新しい征服者がどこから来たのかは今もって判っていない。いずれにしても、紀元前1650年頃、ヒッタイトのリーダーは付近の町を統一し、王国を打ち建て、自分が住む町をハットゥシャHattusaと命名した。「ハットゥシャの人」という意味の「ハットウシャリー」から生まれた名だ。

王は近隣の都市国家を征服し、東アナトリアと北シリアを短期間で勢力下に置いた。どの部族も降伏しなかったので、全て戦(いくさ)で平定するしかなかったようだ。
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特に初代の王はライオンのように獰猛で、領土拡大の戦いに血眼だった。
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戦いを繰り返し、ヒッタイト王国は拡大していった。シリアに深く攻め入った戦いではシリアと他の民族との連合軍に敗れ、引き下がることもあったが、戦は概ねヒッタイトに有利に展開した。

ハットウシャリーの王が死に臨んで残した言葉がタブレットに残されている。
Wash my corpse well, 私の屍(しかばね)をよく洗え。
Hold me to your bosom. 私を懐深く抱け。
Keep me from the earth! 私を土で汚してはならぬ!(?)
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20歳の息子が父を継いで王になると、父の望みだったシリアの併合を成し遂げ、さらに南のバビロニアにも軍を進めた。紀元前1595年頃、チグリス川を渡ってバビロンに攻め入った。ヒッタイトの攻撃でバビロン王国は崩壊する。
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ヒッタイトの文明は彼らの祖先が滅ぼした部族ハティアンHattianから生まれたものが多かった。
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この土器には結婚式の様子が描かれている。
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王や王妃のシール(Seal印章)も造られた。
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粘土のタブレットに捺印され残っているシールは多い。
次のシールでは中央に王のエンブレム(emblem紋章)、周辺に楔形文字が配置されている。
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ヨーロッパ文明よりも1千年前に、既に容器に物語を残していた。
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この土器には牛の上で遊ぶ子供が描かれている。
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ハティアンHattianの神話はヒッタイトの神学Theologyの基礎を形成していた。
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宗教は人々の生活に密着していた。
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太陽の女神と、女神の胸にいる嵐の神は、戦と農業の神として敬われていた。
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人間の姿をした神
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ヒッタイトは、占領した土地で敬われていた神々を受け入れていった。その結果、ヒッタイト王国には多くの神々が異なる形で存在することになる。
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逆にヒッタイトの神々も周辺に影響を与えている。後に現れるギリシャのゼウスやローマのジュピターもヒッタイトの神との関係が強い。
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このような神々に対する態度から、彼等は「数千の神々を崇める人々」とも呼ばれた。
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宗教の中心には王がいた。王は神の使いだった。
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紀元前1590年頃、ムルシリ1世Mursili Iは勝利の遠征から帰国した。
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しかし義理の弟に暗殺されてしまう。そこから王国の混乱が始まった。以降65年間、多くの王は前任者の暗殺者だった。王国は弱体化し分裂していった。
(次の写真は玉座です!本物だと思うんですが・・・)
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紀元前1525年、テリピヌTelipinuが王になると帝国の再建が始まった。ある時、ライバルは彼の妻と息子を殺害する。この殺人者は逮捕されたが、処刑されずに国を追放された。テリピヌは暗殺の繰り返しに終止符を打ち、王国の平穏を優先することにしたのだ!
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テリピヌは王位継承のルールを定めた。「我亡きあとは第一王妃の息子を王とする。第一王妃に息子がいなければ第二王妃の息子を王とする。息子がいなければ、第一王妃の娘の夫を王とする。」
後にテリピヌ法典と呼ばれる王位継承に関する法律は、ヒッタイトの歴史でも重要な掟(おきて)として後世に伝えられていく。ヒッタイトの法律は報復retributionより貢献contributionに重きを置くことにしたのだ!

テリピヌ法典は、結婚や農業など生活の隅々まで網羅していた。
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「全てはこの法によって裁かれねばならぬ。従わぬ者がいれば、その者の頭は首から切り離されるであろう。」
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テリピヌは、隣接するキズワトナ国と戦争放棄条約を結んだ。特に彼の代、このような講和条約は広く進められた。戦いではなく、互いを認め合う形で平和を獲得していったのだ。しかし、その平和は一時的なものだ。ミタンニMitanniやエジプトが必ずヒッタイトを我が物にしようと攻めてくるはずだった。王は、これに備えて軍備を強化することも怠らなかった。

ヒッタイトの日常生活を伝えるレリーフは沢山見つかっている。
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しかし、より正確な情報はパレットに記録されたテキストから得られる。農業に関する記事が多い。王国にとって重要事項だった証だろう。

冬になるとヒッタイトの国土は雪に埋まった。隣町に行くのも命がけだ。
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厳しい冬と不作が続けば飢饉が起きる可能性は高かった。
穏やかな季節になると人々は商品や作物を持って町に来ては商いをした。
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町に来ると、人々は簡易役所に出向き、納税の品々を納めた。
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町はバザールと税務署とストック・マーケットが一つになった交流の場だった。配偶者を見つける場所でもあった。

結婚では男は女の家に支度金を渡す義務を負っていた。女は場合に寄れば離婚を申し出る権利があった。地方で問題が解決できなければ、訴訟は首都ハットゥシャの宮廷裁判所に持ち込まれた。
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首都では、寺院、住居、砦が400エーカー(≒1.2Km四方;1エーカー≒4千平方メートル)に渡って広がっていた。トロイやアテネよりも広い町だった。
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全長数Kmの城壁に取り囲まれた王宮は侵略不能に思われた。
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首都ハットウシャはヒッタイト王国の要(かなめ)だった。
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町は下の町と上の町の二つで構成されていた。
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王宮も住居も砦も全て完備された完全な首都だった。
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石の加工技術も習得していた。時には15トンの石が建築に使われた。
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粘土のパイプを使った高度な水利システムも採用されていた。これは近くの泉から町まで水を引くパイプだ。
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水は人工池に集められてから住居近くの泉に送られていた。
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下水道も完備していた。
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石で覆われた町を囲む城壁も造られていた。
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18m毎に避難通路が設けられ、兵士が警備する主門は8つ造られていた。
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危機が迫ると、城壁の外に暮らす住民は城壁内に移動した。
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王宮には過去の出来事や法律などの記録が、タブレットに記されて保管されていた。事があれば、記録を参考に対処した。
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数百年の歴史や法律が全て保管され、先例を参考に現在や未来の問題を解決しようとする姿勢は、ヒッタイトの特徴ともいえる。勿論、新たな出来事も全て記録され残されていった。
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「すべてが順調で問題ない。君の家も奥方も。」「弟よ。当方は問題ない。そちらの様子を出来るだけ早く伝えてほしい。」といった庶民の手紙も見つかっているが、遠くバビロニアなどから届いた情報はヒッタイトの文化や宗教に影響を与えたはずだ。事実、ババロニアの独特な神話の影響が見受けられる芸術もある。
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それらは後世に引き継がれ、ギリシャ神話やヘブライ聖書にも残されている。
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紀元前1400年、テリピヌの死から1世紀後、ヒッタイト王国は平和と繁栄を享受していた。しかし、それは永くは続かなかった。エジプトがミタンニMitanniやアルザワArzawaと軍事同盟を結び、ヒッタイトを攻撃してきたのだ!
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三方からの攻撃はヒッタイト王国の土台を揺るがすものだったが、北からの攻撃と比べれば些細な物だ。
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アナトリアの黒海沿岸(後のポントス王国)の有力民族だったキャシュカKaskaが北の国境から攻め入ってきた。首都ハットウシャは手薄い防御のまま、この攻撃に晒(さら)されることになったのだ。四方から一挙に攻め込む敵に立ち向かう力は残されていなかった。
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ヒッタイト王国は崩壊し、生き残ったわずかな人々は、アナトリア中央部の狭い土地でひっそり暮らすしかなかった。悪夢と言って済ませられる程度を遥かに超えた悲惨な状況だった。

この時、敵対していた国々はヒッタイト王国が消滅したことを確信したのだ。エジプトのファラオ・アメンホテプ3世Amenhotep III(在位:紀元前1386年―1349年)は同盟国にこう手紙を送った。「全ては終わったと聞いている。ハットウシャの国は完全に滅び去った。」

しかし、彼等はみんな間違っていた。数年後、一人の男が灰の中から立ち上がり、それまで以上に強力なヒッタイト王国を造り上げるのだ!王の中の王King of Kingsとして知られることになるヒッタイトの偉大な王シュッピルリウマ1世Šuppiluliuma Iだ。
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彼は戦士だった。その上、注意深く、自らが建てた計画で全てを進めることができる卓越した戦術家で、政治家でもあった。実は、彼の父トゥドハリヤ2世が死ぬと、シュッピルリウマの兄が王位を継いでトゥドハリヤ3世になったのだが、シュッピルリウマはこの兄を暗殺して王位に就いた。彼は王位継承に関するテリピヌ法典を犯したのだ!

王となったシュッピルリウマは直ちに西のアルザワArzawa、北のキャシュカKaskaを討伐(とうばつ)し、ハットウシャはヒッタイト王国の首都として再生した。その後、時をおかずに南に進軍してシリア連合軍を打ち破り、北シリアをヒッタイトの管轄下に組み込むことにも成功する。
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南東のミタンニ王国Mitanni Kingdomだけが残っていた。
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シュッピルリウマは直ちにミタンニへの攻撃を開始したが敗退する。そこでミタンニの南のバビロンと婚姻外交で同盟を結び、ミタンニに圧力をかけてからミタンニの首都ワシュカンニWashukanniに攻め入ると、ミタンニ王トゥシュラッタは戦わずに逃亡した。
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こうしてシュッピルリウマは軍事的な成果を着々と収めていったが、政治的・経済的な成果も多い。シリアの都市ウガーリットUgaritとは同盟条約を結んだ。
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これにより商業ルートを確保すると、ヒッタイト王国とその国王の名声は高まった。
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ウガーリットは以降2世紀に渡ってヒッタイトの収入の多くを産み出した。
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しかし、シュッピルリウマの最大の宝は何と言っても強力な軍隊だろう。歩兵と戦車隊で構成されていた。
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歩兵は槍と矛、または青銅の剣と斧、で武装していた。厳しい掟で管理され、1千5百Km以上も遠征することもあった。

ヒッタイトの誉れ高い精鋭部隊と言えば戦車隊だ。どの帝国の戦車隊よりも強力だった。
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戦車上の兵士は、どんな弓よりも遠くまで矢を射ることが出来る弓を使った。敵はヒッタイト戦車隊の轟(とどろ)きを聞くだけで逃げ腰になった。
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メソポタミアへの勢力拡大を図るため、シュッピルリウマは、バビロン王の娘を妻として迎えることにした。しかし問題があった。彼は既に結婚していたのだ。妻は女王の称号も持っていた。こんな彼がバビロンの王女と結婚するために採った解決策は単純だ。王妃を追放したのだ!
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バビロンの王女は、やってくると直ちにヒッタイトの王妃に収まった。
シュッピルリウマ1世Suppiluliuma Iは20年ほどヒッタイト王国に君臨していた。帝国の領土はかつての広さを取り戻していた。
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シュッピルリウマの国は帝国と呼べる国になっていた。しかし、ミタンニの都市カーカメッシュKarkameshは依然として彼に歯向かい続けていた。紀元前1327年、シュッピルリウマはカーカメッシュを包囲する。町の陥落を待っていると通信士がエジプトからの手紙を持ってきた。それは古代史における大きなミステリーとなる。

「私の夫は死んだ。私には息子がいない。聞くところ、あなたは大勢の息子を持っている。もし一人の息子を贈ってくれたら彼は私の夫となるだろう。今は夫がなく、心許なく、心配は絶えない。」
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手紙を寄こしたのはエジプト王妃アンケセナーメン。亡夫というのは少年王ツタンカーメンだ!
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何故、エジプトの王妃がヒッタイトの息子との結婚を望むのか?疑いを拭いきれない彼は部下をエジプトに派遣して事実を確かめることにした。
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カートメッシュを征服すると、シュッピルリウマは首都カットゥシャに戻り、エジプトからの連絡を待っていた。

翌年、部下がアンケセナーメンからの怒りの手紙を持ち帰った。
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「私があなたをだまそうとしているのではないのか、と何故あなたは言うのか?息子を持たぬ私がどうして身を守ることが出来よう。あなたの国以外には私を守ってくれる国はない。あなたにだけ私はお願いしているのだ。あなたは多くの息子を持っていると聞いている。私に一人ほしい。彼は私の夫になるであろう。エジプトで彼は王になるはずだ。」

出来過ぎた話だ。しかし、もし事実なら、もしヒッタイトの息子がエジプト王になるなら、ヒッタイトは世界で最も偉大な帝国との評価を得ることが出来る!

部下の説得もあり、シュッピルリウマは息子をエジプトに贈った。
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息子が無事エジプトに着いたと知らせてくるのを彼は待っていた。が、何の何の音沙汰もない!やっと数週間後、部下が戻って来た。息子はエジプト帝国の領土に入ったところでアンケセナーメンのライバルに暗殺されたと言うのだ!
「神よ!何故、このようなことが起きたのだ!エジプトを叩きのめすのだ。」

ヒッタイト軍は直ちに出陣し、シリアに築かれていたエジプトの町を破壊して多くの捕虜を首都ハットウシャに連行した。これが悲惨な結果を招くことになる。
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捕虜たちは恐ろしい伝染病(プレイグplague:ペスト)を持ち込んだのだ!病は直ぐ国中に拡散し、人々は次々に死んでいった。そうしてヒッタイトは荒廃していく。
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紀元前1322年、22年間、王国を統治していたシュプリルーマは伝染病で死んだ。シュプリルーマから王位を引き継いだ息子も同じ年に伝染病で死んでしまう。

王位は最も若い息子ムルシリ2世Mursili IIに引き継がれた。彼は中央アジアで最もパワフルで、しかしもっとも脆弱な帝国を引き継ぐことになったのだ。
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ムルシリ2世の代、王国は戦闘力も経済力も疲弊していた。周辺国は侵攻体制を整えてスキを狙っていた。しかし、ヒッタイトにとって最大の問題は伝染病だった。まだ収まっていなかったのだ。

王ムルシリは神の加護をひたすら祈った、人々を伝染病から救ってほしいと。
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しかし何も起きなかった。神がヒッタイトに与えた罪に関する「神託Oracle」が記録されている。
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「ムルシリ王の父シュッピルリウマは王位を略奪しようと兄を殺し、その上、エジプトを攻撃した。いずれも嵐の神の許しを得ずに!」

ムルシリは神に許しを請う祈りをひたすら続けた。
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そのお陰もあったのか、20年間猛威を振るった伝染病はやっと終息した。
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しかし、今度は別の問題が生まれていた!

義理の母で、バビロンから嫁いだシュッピルリウマの妻タワナアンナ(Tawananna:皇太后の称号)は政治に口を挟むようになっていた。彼女はムルシリの最高助言者としての地位を獲得していた。
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その彼女が王ムルシリの妻との間で問題を起こし始めたのだ。

ムルシリ王の支えとなってシリアやバビロンの町を統治していた兄弟が次々と死ぬと、王の権力は急速に弱体化していた。
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そんな時、彼の妻も突然の病にかかってしまう。ムルシリは妻の回復を神に祈ったが病から1年で彼女は死んだ。王の失意は救い難かった。

薄汚い手段が採られたのではないのか?と多くの者が疑いを持っていた。ムルシリは、義母タワナアンナが黒魔術で妻を殺したのではないかと考えるようになった。
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当時、黒魔術はヒッタイトの社会の中で密かに蔓延(はびこ)っていたのだ。
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神託を仰ぐと、タワナアンナは有罪と出た!毒を盛った可能性がある!ムルシリは義母を王宮から追放した。

ムルシリの身辺に起きた一連の悲劇を思うと彼の辛い心境は同情に値する。結局、ムルシリは若くして王位を息子に譲り、身を引いた。
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その当時、ヒッタイト周辺では東のアッシリアが目を離せない動きをしていたが、問題は何と言ってもエジプト帝国だった。
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ムルシリの死から16年後の紀元前1279年、そのエジプトで最強の王が就任する。ラムセス2世Ramses IIだ!
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野心家のラムセスはシリアにおけるエジプトの勢力を強化したいと考えていた。シリアは父セティ1世Seti Iも力を入れていた土地だ。紀元前1275年、ラムセスはシリア奪取のためヒッタイト侵攻に着手した。
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ラムセスは考えていた。「エジプトの力は高くヒッタイトの力は低い。今こそ征服の時だ!」
当時、ヒッタイトの統治者でラムセスのライバルはムワタリMuwatalliだった。ヒッタイト帝国第22代の王でムルシリ2世の長男だ。
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しかし、実力や人気が高かったのは弟のハットウシリーだ。ヒッタイトで二番目の権力を持ち、ムルシリ2世の最も若い息子だった。

紀元前1274年、カーディッシュKardeshはヒッタイトの勢力下にあった。
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シリアの立場は、つねに曖昧だった。カーディッシュKardeshは戦略的な場所で、ヒッタイトとエジプトの接点だった。カーディッシュを制したものがシリアを統治する。

エジプトとヒッタイトの両国は武器や戦車を整備し、戦の準備を進めていた。そして、エジプト王ラムセスはついにカーディッシュに向けて進軍を始める。過去にない壮大な規模の軍勢だった。
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対するヒッタイト軍もシリアに進軍した。指揮官はハットウシリーだった。
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ラムセスは、留守中のエジプト本土をヒッタイトが攻撃する場合に備え、軍の半分を後方のエジプト側に配置し、残りの半分を率いてカーディッシュに向かっていた。
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エジプトを発って1ヶ月後の紀元前1274年5月、ラムセス率いるエジプト軍の先陣はカーディッシュまで16Kmに迫っていた。既にヒッタイト領だ。しかし敵軍は見えない。

シャブトゥナShabtunaでオロンテス川(Orontes)を渡ろうとしていたラムセスは2人の遊牧民を捕えた。彼らによるとヒッタイト軍は160Km北にいると言う。「エジプトの大軍を見て恐れおのき、首都ハットウシャに戻ろうとしているようだ!」
この時、遊牧民は嘘をついていた!
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そうとは知らず、翌日、ラムセス軍は渡河を始める。
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そしてカーディッシュKardeshの西のアモンAmonに陣を張った。
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エジプト師団リーRE、ターPTAH、セトSETHはラムセス軍から南に離れて進軍していた。
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カーディッシュの町で、ラムセス軍の兵士が偶然、2人のヒッタイトのスパイを逮捕した。
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拷問にかけると「ヒッタイト軍は既に連合軍を率いてやってきた。今はカーディッシュの北で戦闘態勢を敷いて待機している。」と白状した。しかしこれも嘘だったのだ!ラムセスは彼の後方から進んでくる師団に注意するように伝令を送ったが遅かった。その時には既に、ヒッタイト軍は南からエジプト軍に襲い掛かろうとしていたのだ!
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(次の映像がカーディッシュの戦場の今の様子かと思いますが・・・)
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ヒッタイトの先鋒はエジプト軍に襲い掛かった!
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エジプト軍は奇襲に浮足立った!
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運よく攻撃を逃れたエジプト兵士はラムセスに状況を報告した。ラムセスを救えるとしたら、それは奇蹟だけだったろう。ハットウシリーと兄ムワタリは戦場にいて勝利を確信していた。しかし、ラムセスに奇蹟が起きる!

エジプト軍が全てを捨てて退却を始めるとヒッタイト軍は略奪に走った。
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そうこうしているうちにラムセスの後方から進行していたエジプトの援軍が到着し、ヒッタイト軍の側面から襲い掛かった!
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両軍とも戦車chariotを温存していたので、いずれに勝利が転がり込むのか予断を許さない戦いが続いた。その混乱の中からラムセスは戦車で抜け出し、逃げるようにエジプトに引き上げ始めた。ヒッタイト軍はラムセスを追跡してエジプト領土に深入りすることを諦めた。

カーディッシュの戦いで、ヒッタイトは掴みかけた勝利を逃した。大きな痛手も受けた。しかしエジプト軍の損害はこれを上回っていた。軍の半分を失ったのだ。戦いの結果、ヒッタイトはアムルと、今のダマスカスのアーバを領土として取り戻した。その後、16年間、両者の緊張は続く。

ラムセスはカーディッシュの戦いの記録をルクソールのカルナック神殿や南のアブ・シンベル神殿に残している。
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お蔭でエジプトが考えたカーディッシュの戦いの顛末(てんまつ)は知ることができる、手前勝手な記録も若干残ってはいるのだが。
「私ラムセスは出会う敵、全てをなぎ倒した。敵は言った。彼は人間ではない!数十万の兵士を打ち破るのだから!」
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しかし20世紀に見つかったヒッタイトのタブレットには、この戦いのもう少し正確な記録が残されている。しかも戦いの後の悪夢についても!

戦いを終えて首都ハットウシャへの帰途にあったハットウシリーは、ローワズアンティーアの町に宿泊した。彼等の神イシュタに戦いのお礼をするためだ。そこで祈祷師の娘と出会った。
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25歳の彼女は神イシュタの世話を任されていた。若く、上品で、そのうえカリスマ性も持ちあわせた女性で、名はプドゥヘパPuduhepaと言った。神が準備してくれた出会いだった。

彼等は結婚し息子や娘も出来た。プドゥヘパは妻で、献身的な母であるだけではなく、ヒッタイトの歴史で最も有名な女になる。
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カーディッシュの戦いから2年経った紀元前1272年頃、ヒッタイト王ムワタリが死ぬと、息子ウルヒ・テシュプ Urhi-Tesubがムルシリ3世Mursili IIIとなって王位を継承する。新王の叔父ハットウシリーは北部ヒッタイトを任された。
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しかし二人の関係は当初から複雑だったのだ。叔父ハットウシリーの実力を恐れていたムルシリ3世は、就任から7年目にハットウシリーの土地と資格を剥奪した。

王の仕打ちに対するハットウシリーの反応は速かった。「7年間ヒッタイトのために貢献してきた私を王は破滅させようとした!私はもう王の指示には従わない!」彼は北部で軍を編成し、内戦の末、甥(おい)のムルシリ3世を失墜させ、自らが王ハットウシリー3世Hattusillis IIIとなった。

この時、ハットウシリーは結果としてテレピヌが打ち建てた王位継承に関するテレピヌ法典を犯すことになった。自らの行為を正当化しようとした証拠が残っている。「ハットウシリーの弁明」と呼ばれる一種の自叙伝だ。
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「ウルヒ・テシュプ Urhi-Tesubは、私に対する神の加護に気付くと嫉妬した。彼は私に悪意を働いた。私から全てを奪い取った。それだけでは飽き足りず、カラドニアまで攻め入ってきた。そこで私は彼を罰することにした。」

紀元前1267年頃・・・ヒッタイト王国の東方ではアッシリアが勢力を得ていた。南のエジプトではラムセスが12年の統治を果たし、国は安定していた。ヘブライ聖書では、モーゼが神ヤハウェの指示に従ってエジプトから人々を引き連れて逃亡を進めていた時期だ。そしてハティHattiの地ヒッタイト帝国では、ハットウシリーがハットウシリー3世となり、妻プドゥヘパPuduhepaは王女として夫を支えていた。ヒッタイト帝国は平和と繁栄の中にあった。

ハットウシリー政権の特徴は近隣諸国と強い友好関係を築き上げることだった。妻プドゥヘパも王を補佐し、他国の王室間の結婚を仲介して関係改善を進めていた。彼女は自分の署名で他国の王たちと手紙の交換もしている。
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4百年の歴史からヒッタイトでは多くの神が生まれていた。どんな小さな町も独自の神を崇めていた。
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神々の名のリストには終わりがなかった。
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信仰心が篤いプドゥヘパは夫と相談し、神々のリストを整理して格付けを進めた。
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紀元前1260年頃、ハットウシリー3世の治世10年目頃、アッシリアAssyriaはヒッタイトにとって解決しなければならない問題になっていた。
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アッシリアを攻撃するに当たり、ハットウシリーはエジプトと不可侵条約を結んでおきたいと考えた。条約が締結できればヒッタイト帝国の安定と権威は高まる。

エジプトのラムセスも同じ思いでいた。紀元前1259年、数十年の敵対関係の後、ハティHattiの王とエジプトの王は平和条約を締結する。条約のヒッタイト版はアケーディアン言語で書かれ、王ハットウシリーと王妃プドゥヘパの印章Sealが付記されてエジプトに贈られた。この条約文はヒエログリフに翻訳され、カルナック神殿の壁に残されている。

エジプト版もアケーディアン言語で書かれ、首都ハットウシャに送られた。今はイスタンブール考古学博物館にコピーが展示されている。
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この、3千年前の世界初の平和条約のレプリカは、1970年、ウ・タント事務総長の時代、トルコ政府からニューヨークの国際連合に寄贈され、今も安全保障会議室入口の壁に飾られている。
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「エジプト王である私ラムセスは、ハティ王のハットウシリーにこれを贈る。彼は私の兄弟で、私は彼の兄弟だ。彼は私の平和(Peace)で、私は彼の平和だ。我々は兄弟の関係を結ぶ。それは過去のどの関係よりも素晴らしい。」
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この条約でヒッタイトとの紛争に終止符を打ったラムセスは、以降、国内の安定に勢力を注いだ。アブ・シンベル神殿の建設にも着手した。
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エジプト帝国とヒッタイト帝国の手紙の交換は数百通に及んだ。うち凡そ50通は王妃プドゥヘパ宛てだった。
「私エジプトの王妃ナファタリはヒッタイトの偉大な王妃プドゥヘパにこう伝える。あなたは平穏にくらしているか。私のほうはとてもうまくいっている。」
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ハットウシリーの妹に関する面白いやりとりもあった。「ハットウシリーからエジプトの偉大な王へ。私の妹に子供ができるようにならないものだろうか。」「私の兄弟ハットウシリーよ。兄弟の妹は50歳か60歳ではないのだろうか。エジプトのどんな薬をもってしても子供は難しいだろう。」

ヒッタイトの王妃プドゥヘパは、ラムセスを自分の義理の息子に出来れば両国の平和がさらに確実になると考えていたが、その調整は首都ハットウシャで起きた大火で遅れていた。
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「あなたは娘を私の所に贈ってくれると言ってくれたが、まだ彼女はエジプトに到着していない。誰かが怒っているのだろうか?」

後日、娘はエジプトに贈られてハーレムで暮らすことになり、ラムセス2世はハットウシリーの義理の息子になった。この出来事もアブ・シンベル神殿の入口の壁に残された。
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ヒッタイトとエジプトは個人レベルの親密な関係を築き上げていった。王同志は兄弟と呼びあい、王妃同志も姉妹と呼びあった。公的な手紙の交換では得られない関係だった。

ハットウシャリーの晩年、彼はアッシリアを平定していた。そしてアズリカヤという大きな寺院の建設が首都ハットウシャで始まった。
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建設の一部は息子トゥドハリヤ4世Tudhaliya IVにも引き継がれている。

紀元前1240年、ハットウシリーは重篤な病の床にあった。ラムセスに手紙を送り、エジプトの神の神託をほしいと頼んでいた。
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プドゥヘパは毎日、神に祈りを捧げていた。
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「太陽の神アリンナよ、我が女神よ。我が願いを聞き届けよ。あなたの息子ハットウシリーは病の床に在ります。もし誰かがハットウシリーに不幸が訪れるよう神に祈っているとしたら、その祈りがハットウシリーに及ばないようご尽力下さい。」
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「我が夫に今後も何年も何カ月も何日もの命を与えて下さい。」

しかし・・・彼女の祈りは聞き届けられなかった。
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ハットウシリーの死は古代の偉大な結婚の終わりとして記されることになった。プドゥヘパは後を継いだ息子トゥドハリヤ4世を補佐したが、彼女もすでに高齢になっていた。

ハットウシリーの死は偉大なヒッタイトの歴史の最後を飾るものと言えるだろう。
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トゥドハリヤ4世の統治の代、王国はアッシリアからの驚異に晒(さら)されていた。そこに旱魃(かんばつ)と飢饉が重なった。王にはこれらに対応する力がなかった。そしてハットウシャリーの死から30年後、450年間続いたヒッタイト帝国は謎を残して消滅する。ハットウシリー3世の死から4人の王がいたことは記録に残されていたが、その記録も突然途切れてしまうのだ。
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紀元前1200年頃、アッシリアの攻撃から逃れるため、王や住民は首都ハットウシャHattusaを放棄して各地に散って行ったと考えられている。
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ハットウシャは、その後二度と以前の栄光を取り戻すことは無かった。
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ヒッタイト帝国の崩壊はアナトリアにおける青銅器時代の終わりをもたらした。それは以降3世紀続く暗黒時代、その後の鉄器時代という、新しい時代の始まりだった。ヒッタイト王国の土地は、ギリシャ、ローマ、ビザンチン、トルコに引き継がれていく。

東洋と西洋の架け橋となるアナトリアで生まれたヒッタイト帝国は5百年で消滅したが、散り散りになった人々は生き続けていた。南西部の高地、ユーフラテス川沿いの都市国家、北シリアなどにはヒッタイト風建築遺跡がある。
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ヒッタイトはアナトリアで貴重な文明を育んだ。外交が戦いよりも大切なことを示した。シュッピルリウマSuppiluliumaやテリピヌTelipinuやハットウシリーHattusillisやプドゥヘパPuduhepaの声が今もこの地の隅々から聞こえてくる。ハットウシャHattusaの遺跡はヒッタイト帝国の盛衰を今も語り続けているのだ。
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以上をもってYoutube「Forgotten Empires The Hittite Kingdom忘れ去られた帝国;ヒッタイト王国」を終わります。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。時間がありましたら、次のURLからご自身でヒッタイトの魅力を味わられることをお薦めします。私は、ここで一休みさせて頂きましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Ve9QE7Or6v0
(完)
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