Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

契約の箱とエチオピアの不思議

エチオピアについては「シバの女王の不思議(7・06)」「ソロモンの黄金の不思議(7・27)」でもご紹介しましたが、アフリカ大陸でエジプト/スーダン(エジプト文明)に次いで早くから文明が花開いた国なのです。
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「肥沃な三角地帯」の一端のエジプトとは青ナイルで繋がっているし、島伝いに幅20Kmの紅海を渡ればイエメンですから、エジプトや中東アジアから、早々と文明が伝えられたのでしょう。

今回はエチオピア帝国の発祥を辿(たど)る2010年1月オン・エアーのBBC4ch番組をご紹介します。
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アフリカ・・・人類発祥の大陸・・・約10億人が暮らしている。
多様な種族、文化、自然に満ちた所だが、世界の他の地域と比べると知られていることが少ない。しかし今、それは変わろうとしている。最近の数十年をみると、考古学者が最も研究に注力する場所になっているのだ。
歴史はあるが記録されたものは少ない。しかし、金や芸術や伝説や種族社会が昔の出来事を伝えてくれる。
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私の名はガス・カセリー・ヘイフォードGus (Augustus) Casely-Hayford。イギリスの芸術歴史家Art Historianだ。これからアフリカの失われた王国Lost Kingdomについて調べていこうと思っている。
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今回はエチオピアだ。
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1974年、エチオピア王国は長い歴史にピリオドを打つことになった!2月に起きたエチオピア軍のクーデターで9月には皇帝ハイレ・セラシエ1世Haile Selassie Iが帝位から引き摺り下ろされた。彼は3千年の歴史をもつ帝国の最後の皇帝となったのだ。
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今はエチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopiaとなっている。しかし、人々は王国の栄誉を忘れてはいない。首都アジス・アベバの広場にはメネリク2世Menelik IIの銅像が立っている。エチオピア独立の象徴だ。
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彼が皇帝だった時代、ほとんどのアフリカ諸国は欧州の植民地だった。しかし、彼はエチオピア軍を指揮して、1880年から1896年にかけて行われたイタリアとの戦いに勝利し、アフリカで唯一の独立国としての地位を確立した。
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その勝利は他のアフリカ諸国に波及し、独立運動がアフリカ大陸に広がっていくことになる。
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しかし、私が今回知りたいのは、14世紀にエチオピアで書かれた本「ケブラ・ナガストKebra Nagast(The Glory of Kings王たちの栄光)」に載っている、3千年続いた王国の発祥についてだ。何がこの国を創ったのかだ。シバの女王や「契約の箱Arch of the Covenant」との関係だ!
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(上と下の映像を合わせて翻訳本の表紙になります)
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「紀元前950年に歴史が始まった」と記されている。イスラエルの王ソロモンと、マケダMakedaの女王、判り易くはシバの女王、という輝かしい両親の息子が初代の皇帝メネリク1世Menelik Iとなり帝国が設立されたという。

つまり、旧約聖書とエチオピアの王室や宗教との関係は、王室の正当性を裏付ける重要な要素だと言える。しかし、ケブラ・ナガストKebra Nagastに書かれていることは事実だろうか?本当にエチオピアはソロモンやシバとの関係があるのだろうか?
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私には皇帝と話すチャンスは全く残されていない。しかし助言者は見つかった。
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エチオピア正教会の先代の総主教アブネ・パウロスAbunePaulos氏だ。彼は王国と宗教の関係を知っている。
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「キリスト教の誕生より1千年前、エチオピアは旧約聖書に書かれている指示を受け入れ、1千年の間、これに従ってきた。我々はユダヤ教も受け入れたしキリスト教も受け入れた。もう3千年の間、旧約聖書に従っているのだ。」

つまり信仰と皇帝は同じ時期に発生していると言っている。また彼に寄ると「十戒」が書かれたタブレット(石板)が入った「契約の箱Arch of the Covenant」はエルサレムJerusalemからこの地に運ばれている、ソロモンの息子メネリックによって!!!
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「契約の箱とソロモンの子孫は同時にこの地にやって来た。契約の箱は我々と共にある!このエチオピアに!」
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仮にそれが事実ではないとしても、旧約聖書とエチオピアの人々との関係はとても強いようだ!

しかし問題はある。契約の箱はとても神聖で恐れ多く、誰も直接、見ることは出来ないのだ!その上、メネリックがソロモンとシバの息子だと言う証拠は残っていない!にも拘わらず、この伝説はエチオピアの人々の心に強く刻まれている!

私の旅はアジス・アベバAddis Ababaから始まる。ハラーHarar、タナ湖Lake Tana、それから北に行って・・・
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ゴンダーGondar、ラリベラLalibela、デブレダモDebreDamo、アクソンAksun、そして最終目的地イェハーYehaへ続く。
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ハラーHararの町だ。古くから栄えている。ユダヤ教徒が住んでいたが今はイスラム教徒の方が多い。エチオピアには飢饉や旱魃がつきものだが、ここでは穀物が豊富で、他にも面白いものが売られている。
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乳香frankincenseだ。寺院や教会でも使われている。
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「コーヒーを沸かす時、火にくべる(注ぎ足す)といい香りのコーヒーが出来るよ。」
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この2千年の間、エチオピアは遠く地中海の北や東まで乳香を輸出し、他の品物と交換してきた。

コーヒーは9世紀になって初めて、この地で栽培された。

これはチャー(?)でこの一帯で好く嗜(たしな)まれている。
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「刺激が強く、噛んでいると頭が冴えて興奮し、眠気は吹っ飛ぶんだ!」
宗教的な陶酔を得るためイスラム教のお祈りでも使われるという。

しかし、最も驚いたのは、この町にイスラム教徒が多いことだ。イスラム教はナイルを遡ったり紅海をよこぎったりしながらエチオピアに伝わった。そして17世紀にはキリスト教徒と共に立ち上がり、皇帝と対峙(たいじ)したこともあった。
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私はタナ湖を横切って、当時のエチオピアの首都ゴンダーGondarに向かうことにした。
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16世紀、ポルトガル人たちは2つの目的でエチオピアにやって来た。一つはイスラム教徒達の貿易ルートを乗っ取るため、もう一つはプレスター・ジョン(注)の不思議な噂を確認するためだ。彼等は、この地でジョンを見つけたと考えた節がある。
(注:Wikiプレスター・ジョン ( Prester John):アジア、あるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する。)
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ポルトガル人が見つけたのはプレスター・ジョンではなく本物のキリスト教国だったという訳だ。しかし、ポルトガル人もエチオピア軍に滅ぼされ、エチオピア王国は外部と隔離された歴史を歩み続けた。

エチオピアには数千年間、変化していないものが多い。このパピルスのカヌーもその一つだ。
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タナ湖の北のゴンドーGondorは17世紀にはエチオピアの首都だった。
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1635年、趣のある形をしたこの城の主ファサラーダスがエチオピアを統治していた。
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キリスト教とイスラム教の両宗教を拠り所とした王で、モロッコやマリなど、アフリカのどの王国よりも古い時代にこの見事な城を築いた。当時、町には6万人が暮らしていた。4百年前だから大都市の一つだろう。
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王は権力を誇示するためにこの城を造ったのではない。ソロモン王や旧約聖書と王室との関係を示して王位の正当性を誇示しようとしたのだ。その証拠が城の中に残っている。
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天井に「ダビデの星Star of David」が描かれている!
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王室がソロモンの子孫だとすれば、ソロモンの父David(デービッド;ダビデ)の星は王室と強い関係があると言える。当然、皇帝ファシラダスFasiladasもソロモンの子孫ってことになる。

他にも旧約聖書と関係するものが残っているのだろうか?

記録によれば、オランダ人は城がインドのものと類似していると見ていたようだ。確かに、そんな雰囲気もある。しかし、ここに妙な建築技術が使われている。木製の梁(はり)だ。普通、石の建造物では木の梁は使わない。
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機能的に考えれば不要だし、その上、ここでは必要以上に長い!どこかの建築物の外観を真似たのだろうか?
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キリスト教会と皇帝との関係は強かったはずだ。ゴンドーの町に古い教会が残っている。
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ファシラダス皇帝の後継者が建設したものだ。
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中の絵画は、ヨーロッパの教会や、アフリカのミッション系教会で見かける絵と全く異なっている。
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絵は漆喰の上に書かれている。
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息を飲むような素晴らしい出来栄えだ。
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天井に描かれた神は、床で礼拝する人々を見守ってくれているかのようだ。
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他にソロモンやシバ、旧約聖書との関係を示すものは無いのだろうか?

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日曜の朝、ゴンドーの東の丘の教会を訪れた。ある儀式を見るためだ。
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僧侶が信者の前で聖書を読んで聞かせている。
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アラビア語とも関係ある古代エチオピア語で書かれている。旧約聖書に使われ、ソロモン王も話していたヘブライ語と似ている。
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今、この言葉を話す人は誰もいない。しかし、聖書を読んで聞かせることが儀式の本題ではない。一番大切な物は岩山の岩窟にある。蜂の巣だ。
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そこから採取された蜂蜜は、外で待っている信者に分け与えられる。
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蜂蜜はエチオピアの一般食品の一つだ。テッジとよばれる料理の材料にもなる。しかし、ここの蜂蜜は神聖で、どんな病も治癒する力があるらしい。
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蜂蜜は地中海でも中東でも食されているが、エチオピアでは特別な意味がある。ミツバチの群れが飛ぶときに発(た)てる音が古代の王の息子の名になった。ラリベラLalibelaだ。この王と同じ名が付けられた町がゴンドーから南東200Kmに造られている。エチオピアのどの町よりも重要な意味を持つという。

ラリベラにある11の「岩の教会Rock Church」の一つ、聖ギオルゲス教会Biete Giyorgis (Church of Saint George)だ。固い岩山を彫って造られた!
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見事としか言いようがない!教会を造るために注ぎ込まれたエネルギーの大きさに畏敬の念すら感じる。
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この教会の建造に携わったのは皇帝ラリベラだ。しかし歴史書ケブラ・ナガストKebra Nagastによると、王ラリベラはソロモンの血統を引いた皇帝ではない!だからこそ彼は、教会の建設に注力し、宗教的な力を背景に政権の正当性を擁護しようと考えたのだろう。

教会への入口と、上方に設けられている窓は少し変わった形のようだが・・・
今日は日の光が当たっていないが、もし当たっていたら、建物は輝いて見えるのではなかろうか。
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(mh:ナイルの源流を訪ねるフィルムで光が当たる教会の映像がありました。)
(タイトル:Mystery of the Nile: The Gift of Ethiopia)
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(次はGoogleEarth写真。下の方に見えている、岩に掘られた黒い筋(すじ)の道を通って教会に行きます。)
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「兎に角、中を見せてもらおう。」
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ダビデの星と十字架が梁のアーチに彫られている。
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ギリシャ風のアイコンが彫られた所もあって、中世の文化の全てが凝縮している印象もある。
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何百年も前から、大勢の人がエチオピアの各地から巡礼でラリベラの11の教会を訪れている。エチオピア以外の国からもやってくる。王ラリベラがエチオピアに重要な足跡を残したことは間違いない。

この石の教会「Biete Medhane Alem (House of the Saviour of the World世界の救世主の家)」は少し大きい。壁には、これまでにも見かけた奇妙な形の窓が彫られている。帝国の起源と関係があるのだろうか?
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上のキノコ型の窓の形は日の出を表現していると考えられている。下の窓はいろいろな種類の十字が組み込まれている。
なんでこんな形の窓が造られたのだろう?
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その上、窓の四隅には木の梁のようなブロックの突起が加工されている。岩から削り出された建物だから建築上は何の意味も無く、装飾のためとしか考えられない。この教会よりも古い時代の建物を真似たのではなかろうか?それはきっと、ラリベラの人々にはとても重要な建物だったに違いない!
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王ラリベラはソロモンの血を引いていない。だからこそ、自らの正当性を擁護(ようご)しようとして、昔の重要な建物に似せてこれらの教会を造ったのだ!もっと調査する必要がある。更にエチオピアの奥地に行ってみよう。

この辺りは世界でも古くから人々が暮らしている場所だ。
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考古学者は4百万年も前に人類が暮らしていた証拠を見つけた。この高地では3千年前に既に人々が住み着いていたことが確認されている。サハラ周辺で初めて農業に牛を使ったのもこの一帯だった。
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今も続いているということは、他の場所と隔離されていると考えることもできる。その上、この辺りは海抜3千m地帯だ。
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次に行くところは、世界でも類がない所だろう。切り取られた丘「デブレダモDebreDamo」だ。
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デブレダモはエチオピアでも最も古い建築物の一つだ。6世紀、テーブル・マウンテンの上に建てられた修道院Monasteryだ。
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人々の暮しから隔離された所で、行くのには山羊の皮で作ったロープをよじ登るしかない!
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(GoogleEarthより)
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ここがデブレダモDebreDamoだ!
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この修道院が造られた時、1千人の僧侶が暮らしていたと言われている。現在は凡そ3百人だ。男ばかりで女が来ることは許されていない。
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キリスト教徒だけが暮らす社会としては世界で最も古いものだと言われている。ラリベラより5百年程前の6世紀頃、ガバメスガル皇帝によって造られた。
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岩壁の側面に足場(ランプ)を組んで建築材料や労働者を運び上げたが、建築が終わると足場は解体され、デボラダモは再び下界と切り離された。僧侶たちは俗世界から離れて祈りに専念するのだ。きっと昔からのものが変わらずに残されているはずだ。

翌朝・・・
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お祈りの時間に合わせて修道院に入ると昔から続く独特な礼拝が行われていた。
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教会の中には、これまでに見たことがある形があった。ゴンドーGondorの城の木製の梁やラリベラLalibelaの岩の教会の窓に似ているが、今回のものは正真正銘の木で作られている!
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きっと、これがオリジナルに近いのだろう。

この教会は木と石を組み合わせて造られている。
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横に走る木の梁の所々には丸い木が突き出ている。
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この木はモンキー・ヘッドと呼ばれ、ダンベルのように両端が膨らんでいて、壁の内と外で横に走っている木の梁の間に詰められた石の力で梁が膨らまないように抑えている。
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モンキー・ヘッドと名付けられた所以(ゆえん)は壁の内側から見れば直ぐに判る。サルの頭のようだ!
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この見事な木の組合せ構造のおかげで、石組みの建物は永い間、崩れずにいる。
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このような構造は2千年の間、この辺りで使われていたのだろう。ひょっとするとソロモンやシバの時代まで遡るのかも知れない。

次の目的地はAksunアクソンだ。古代エチオピアで最も多くの人々が暮らしていた首都だ。
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デボラダモが造られた時、アクソンは既に大都市だった。歴史書「Kebra Nagast」によれば2千年前に既に繁栄していた町だ。ローマ、ペルシャ、中国、そしてアクソンが当時の世界の4つの偉大な帝国だったと別の歴史書でも書かれている程だ。

そして、このアクソンに、ソロモンとシバの息子が3千年前に持ち帰った「契約の箱」があると言われている!
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エチオピア人は、この塀(へい)で囲まれたサンタマリア教会群の一画に、ユダヤ教やキリスト教の源、十戒Ten Commandmentsが書かれた石板(タブレット)が入った「契約の箱Arch of the Covenant」があると信じている。
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1974年まで、Archアーク(契約の箱)はエジプト王朝の正当性を示す証拠だった。(mh日本なら三種の神器です。)

Archアークはとても神聖なので、誰も近づくことも、見ることも、触ることも許されていない。そのArchアークが、あの礼拝堂に在ると言うのだ!だから、ここから先には行けない。
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もしArchアークがそこになければエチオピア正教会とエチオピア帝国の正当性は崩れてしまうのだ。
(Google Earthより:Arch of the Covenantがあるとされる礼拝堂Chapel)
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しかし、Archアークだけがエチオピア王国の正当性を裏付けるものではない。この礼拝堂の近くには4世紀に王アザーナが建てた教会の跡がある。
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アザーナがエチオピアの最初のキリスト教会を造ったと考古学者は考えている。考古学者が自信を持ってそう断言する根拠は彼の時代に造られた硬貨だ。
左の古い硬貨では、上の方に古代宗教を象徴する三日月と太陽がデザインされている。右の新しい硬貨では、これがキリスト教を象徴する十字架に変わっている!キリスト教への改宗がアザーナ王の時代に行われた証拠だ!
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この硬貨は、4世紀、エチオピアがサハラ周辺で初めて硬貨を使った証拠でもある。

硬貨以外にもキリストとの関係を示すものがある。皇帝が建てた石碑stelaだ。固い花崗岩で造られている。高さ30mで重さ500トンの石碑もある。1~2世紀に造られ、当時、最大の石のモニュメントだっただろう。
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石碑の表面には、テーブル・マウンテンのデボラダモ修道院で見たダンベルのようなモンキー・ヘッドの丸太と、四隅に突起がある窓が何度も繰り返して彫られている。
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ガイドの説明によれば、窓と床の繰り返しを示しているという。高層住宅だ!石碑は皇帝があの世で暮らす住居だったのだ!
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しかも、石碑の頂きは「日の出」の形をしている!
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今回の一連の旅は、やはり繋(つな)がりがあった。エチオピアの歴史は脈々と後世に伝えられていたのだ。
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石碑が建っているのは2千年前に皇帝が住んでいた場所で、従って以降の皇帝の発祥の地と言える。しかし、もっと古い、ソロモンやシバと関係する証拠は残っていないのだろうか?

ガイドはもう一つの証拠に案内してくれた。それはこの石の建物の中にある。
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記念碑だ!4世紀、旅行者達に皇帝の力を示すため、アクソンのキリスト教徒の王イザーナによって建てられた、軍隊の栄光と勝利の記録だ。
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使われているのはサビアン文字だ!

サビアンはサウジアラビアの南のイエメンとここエチオピアだけで使われていた。8世紀にはエチオピアでは完全に消滅したと考古学者は考えている。しかし、初めて出現したのは紀元前1千年頃、つまりソロモンやシバの時代だ。シバがこの地を統治した時代から14世紀後、この石碑が建てられたと言う事になる。
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アクソンの文化の源流は32Km離れた町にあると考えられている。そこに行ってみよう。
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イェハーYehaだ!旧約聖書と関係がある町かも知れない。キリスト教が伝えられる前の寺院の跡がある。
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ここでお祈りが捧げられていた。
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ここは生贄(いけにえ)の儀式が行われていた場所だ。血はこの溝に流し込まれた。
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いつ造られたのか明確ではないが、考古学者たちは、恐らく紀元前5百年頃のもので、エチオピアで一番古い建造物だと考えている。ギリシャのパルテノンより古く、ローマのコロシアムより1世紀以上前に造られた。ユダヤ教の旧約聖書と関係していた場所かもしれない、との思いが頭を過(よぎ)る。エジプト正教会の発祥の源かもしれない。

今回の旅の始めに、先代の総司教アブネ・パウロス師が私に語ってくれたことを思い出す。「従って我々はユダヤ教を受け入れた。その次にはキリスト教を受け入れた。これらを全て足せばエジプトの宗教の歴史は3千年なのだ。」
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イェハーYehaで最も興味がある場所は遺跡の直ぐ脇のキリスト教会だ。そこに重要なものが残されている。ソロモンとシバとエチオピアを関係づけるものだ!
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これは香を焚(た)く台だ。どの教会にも属さないものだ。キリスト教以前の宗教シンボルの三日月と太陽が彫られている。考古学者によると紀元前5世紀のものだという。シンボルの下には文字が・・・
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そして、同じ時代の石・・・
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いずれもサビアンの文字が彫られている!旧約聖書、ソロモンやシバの女王との関係があった証拠だ。3千年前のものではないが、そんなにかけ離れた時代でもない。2人の間に生まれた息子がエチオピア帝国を創った証拠だと考えることだって可能だろう。
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今回の旅では確実な証拠は見つからなかったが、ソロモンの流れを汲む宗教の歴史がエチオピアに残っていることが確かめられた。3千年もの長い期間、同じ系統の宗教が引き継がれ、今も続いていることは驚きだ。
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エチオピアは外部から隔離されながら、3千年の間、政治的にも宗教的にも独立した国家を維持し続けて来たのだ。
確かに帝国は数十年前のクーデターで消滅してしまった。しかし、宗教、文明、人々の生活、伝統の歴史は今も生き続けている!
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Lost Kingdoms of Africa 2 of 4 Ethiopia
https://www.youtube.com/watch?v=rrQB9GHrmCs

<「契約の箱Archアーク」に関する長~い補足>
エチオピアと、ソロモン・シバとの関係を裏付ける「契約の箱Arch of the Covenant」(アーク)とはどんなものなのか、仏教徒のあなたも十分な知識を持ち合わせていないでしょうから、mhが調べた結果を簡単にご紹介しましょう。

そもそも、箱の存在は旧約聖書に記されていたことで話題に上るようになりました。この旧約聖書は、紀元前6世紀ころ、バビロンに幽閉されていたイスラエルの民が、故郷のイスラエルやエルサレムの町などで崇拝していた神を偲びながらヘブライ語で巻物に書き記した物語というか、宗教教本でした。その巻物の記述の中に「モーセMoses」という男が出てきます。
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モーセ像(ミケランジェロ)

実はmhは、今まで「モーゼ」だと思っていたのですが「モーセ」の方が一般的のようで、あら、どうして、と狐につままれたような気分です。暇なので調べたら、モーゼは英語Mosesの発音から来ていて、モーセ又はモーセスはギリシャ語またはヘブライ語の発音から来ているようで、原典に近い後者の方が適当だろうとその筋の人が考えたことから「モーセ」が主流(?)のようです。

Wikiによれば「モーセは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者」とあります。つまり、旧約聖書が造られる7世紀ほど前に生存していた人間で、神ではありません!

「出エジプト記Exodus」によればモーセはエジプトで悪政に苦しめられていたユダヤ人を引き連れてエジプトを脱出する、つまり「出エジプト」するんです!紀元前13世紀のエジプトといえばツタンカーメンTutankhamunよりも1世紀も後の、王ラムセス2世RamesesII(在位;前1279 - 1212年頃)の時代です!そう考えると、エジプトの歴史は古いんですねぇ!

で、紀元前13世紀の大半の期間でラムセス2世(!?)がファラオでしたから、彼に虐げられていたユダヤ人をモーセが率いてエジプトから脱出する物語が、旧約聖書の「出エジプト記」だと言っても良いでしょう。英語版の解説では、モーセが連れ出すのはユダヤ人ではなく、イスラエル人Israelitesとなっていました。脱出後、イスラエルを建国する人々だからでしょう。元々はユダヤ人で、イスラエルと呼ばれる土地で暮らす人がイスラエル人だと考えると好さそうです。

ところで、何故、モーセがエジプトからユダヤ人を逃してやることになったのか?それは神の指示があったからなんですねぇ!「エジプトで困っているユダヤ人を私が定める約束の地イスラエルに逃がせ!」との指示があったんです!

モーセが引き連れていったユダヤ人の数は記録では60万人の男Israelitesと、その妻や子供達、さらにはユダヤ人ではない人もいて、総勢2百万人だったと言います!当時のエジプトの推定人口は1千万人以下ですから、エジプトで暮らしていた人の20%以上を引き連れて脱出したってことになります!紅海を横切ってエジプトからシナイ半島に逃れるのですが、神が手助けしてくれました。海水を押しのけて逃げる通路を創ったんです!2百万人とモーセは水が切れた海の底を歩いてシナイ半島に逃げました。エジプト軍がこの道を通って追跡してくると、神は海水で道を元の様に埋め尽くし、エジプト軍は溺れ死ぬんです。この辺りは皆さんも聞いたことがあるでしょう。

で、シナイ半島に逃げたモーセは40日間、「シナイ山Mount Sinai」(標高2285m)の山頂に滞在します。Google Earthで北方向から見たのが次の写真です。手前の黄色ピンは聖キャサリン修道院、その奥の黄色ピンがMount Sinai、そのずっと遠方に海、右側の川のようなものは紅海、です。
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つまり「シナイ山」という山は現存しています。旧約聖書でも多分「シナイ山」と記されているでしょうから、紀元前6世紀には既にシナイ山と呼ばれる山があったと考えられます。しかし、モーセがこの山に来た時は旧約聖書が書かれた時期より7世紀も前ですから、その時も「シナイ山」と呼ばれていたかどうかは定かではありません。実はいつ頃からそう呼ばれるようになったのか判りませんが「モーセの山」と呼ばれる山があって、それが今では旧約聖書の「シナイ山」ではなかろうか、と考えられて命名されたのではないかと思われます。

モーセが居たであろう現「シナイ山」頂で真夜中に撮影された映像をご紹介しましょう。教会があります。
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教会がよく見えるのは撮影用照明の影響でしょう。右に青く見えるのは、何らかの目的で青い照明が教会の近くに点灯しているためだと思います。

次は教会と反対方向の光景です。麓(ふもと)の町の灯だと思いますが随分明るく輝いています。小さな町なので明るすぎる気がします。何か別の理由があるのかも知れません。
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で、モーセがシナイ山に滞在していると、また神の声が聞こえてきて、十戒Ten Commandmentsという10の戒めを、授(さず)かりました。後まできちんと残るよう、わざわざ神が自らの指でこれを石板に書き記しました。この石板は2枚で構成されているようです。その後で神は、2枚の石板を入れる箱を造るよう指示し、その寸法や材質、装飾などの細かい仕様をモーセに伝えます。モーセはそれを製作専門家に伝え、彼らが造ったのが「契約の箱Arch of the Covenant」という訳です。木製で、金張りされ、人が箱に触(ふ)れると焼け死ぬので、箱に持ち運び用の棒を付け、守護神として翼のある智天使(チェルビンcherubin)も2人(?)付けられました。
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(フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱)
つまり、箱(Archアーク)は、持ち運びできる棒が付き、神の教え「十戒」が神の指で記された石板2枚が入った箱で、重要なのは箱ではなくて中身です。

で、このArchアークは、モーゼから3世紀ほど後の紀元前11~10世紀に現れるイスラエルの王デービッド(ダビデ)からその息子ソロモンに引き継がれ、聖地エルサレムの丘の寺院の「聖なる場所の中の聖なる場所Holy of the Holies」に保管されるのですが、その後は「一体全体、どこに消え失せてしまったのか定かではない」とされています。箱に触ると炎で焼かれ、箱を直接見ると目が潰(つぶ)れる、恐ろしい代物ですから、簡単に盗まれたり、焼失したりしてしまうはずはなく、どこかに残っているに違いない!と考える人は多いようで、3千年を過ぎた今でも、この箱を探す人々がいると言われています。

ところが、今回のブログで紹介したように、エチオピアの町アクソンの礼拝堂に本物のArchアークが保管されているって言うんですから驚きです!!!ブログで紹介されている14世紀のエチオピア歴史書ケブラ・ナガストKebra Nagastによれば、ソロモンとシバの間に出来た子で、後にエジプト初代皇帝になるメネリク1世Menelik Iが、皇帝になるになる前、シバがソロモンから譲り受けたという息子の証の指輪を持ってエルサレムを訪れ父ソロモンに表敬訪問しました。その帰路、ソロモンの命令で同行することになったエルサレムの貴族の息子が、Archアークを盗んで持って来たのです!彼等は喜び勇んで紅海を渡り、エチオピアに向かいました。Archアークが無くなったことに気付いたソロモンは追跡するのですが、時既に遅く、いまさら盗まれたとは言えないので、皆に口止めしてから偽(にせ)のArchアークを造り、神殿に奉納したのです!!!

全く信じられないような裏話です。しかし、現在の考古学の結論では、「出エジプト記の記述内容を裏付ける証拠はほとんど見当たらないので、全て作り話だと考えざるを得ない」とのこと!!!となると裏話の反対の表話は作り話ってことになります。

ってことは・・・モーセは架空の人物で、エジプトから大挙して逃れたというのは作り話で、十戒も存在せず、従ってArchアークも造られていなかった、ってことです。そうなってくると、王ソロモンの存在すら怪しくなりますが、紀元前10世紀頃から紀元前6世紀頃までエルサレムという町が存在していたのは間違いないようなので、ソロモンもシバの女王もいたと想像している方が、浪漫があって楽しいし、個人的にはこの2人または似た人物は必ず実在していたと思います。

シナイ山の麓(ふもと)には聖キャサリン修道院Saint Katherine’s Monasteryがあります。3世紀に建てられ、世界遺産にも指定されている寺院で、今も修道士が暮らしています。シナイ山は背景の山の奥です。
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修道院の中の風景です。観光客で溢(あふ)れています!
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この修道院を訪れるYoutube「失われたアークを探してDigging for the Truth Season 1, Episode 04 Hunt for the Lost Ark」で、インタビューされた僧侶が「一時期、ここにArchアークはあった」と言っていました。「信じよ、されば救われん!」ということでしょう。
(完)
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