Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

バーバー王国の不思議

今回は「BBCアフリカの失われた王国」シリーズ第2弾「モロッコのベルベルBerber王国」です。
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番組プレゼンテイターはイギリスの芸術歴史家Art HistorianガスGus (Augustus) Casely Hayford。
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第一弾「契約の箱とエチオピアの不思議」は11月23日にポスト・アップpost upしました。まだご覧になっていない方は先にこちらを見て頂いた方がいいかもしれません、なんてったって物事、順序ってものがありますからね。

私事で恐縮ですが、10月に訪れたエジプト・ナイルの次のアフリカでの旅行先は、大手旅行会社がパックを組んでいるエチオピアかモロッコを想定しているのです。理由は単純で、帝国を創った歴史があること、一人旅追加料金込みでも比較的安いことです。

で~、Youtube「モロッコのベルベルBerber王国」を観たのですが、それも2,3回も観たのですが・・・どうもmhの頭に判り易い形で飛び込んできてくれないんですねぇ。聞きなれない固有名詞が多く、モロッコの生い立ちの最初から紹介してくれる方式では無く、途中だけを切り取った番組で、モロッコの歴史に何の知識も持ち合わせていない硬い頭のmhには、一体全体、何を話しているのか、全く掴みどころがないんです。弱りました!このフィルムはブログ候補からはずそうか、と何度も考えました。

しかし・・・近い将来の旅行先候補を調べない訳にはいきません!
で、mhの硬い頭でも理解できるよう、最初に関連情報を調べ、フィルムをこれにはめ込んでmh流ストーリーを作りあげ、これに従ってご紹介することに決めました。そこまでは思考過程や手順に落ち度はないと思うんですが・・・

調べていくと、更に調べなければいけないことが芋ずる式にズルズルと出てくるんです!またまた弱りました。やっぱ、縁が無かったとあきらめようか・・・しかし、何度もYoutubeを見ている内に、モロッコには是非行ってみたくなってきたので、また思い直し、どうぜ時間はこぼれるほど余っているのだから、この際「mh流モロッコ王国のバーバー編」を纏めてみようと覚悟を決めました。 

で、ベルベル王国よりもずっと昔、凡そ2千年遡(さかのぼ)ったところから、話を始めたいと思います。
とても長いので、mh流に簡略化(手抜き)させて頂きます。

Wik:モロッコの歴史:
紀元前814年に現在のレバノンから到来したフェニキア人がカルタゴを建設すると、彼等はモロッコ沿岸部にも港湾都市を築いた。一方で内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。

紀元前146年に第三次ポエニ戦争でローマ軍に敗れたカルタゴは歴史から消滅する。
カルタゴは実は第二次ポエニ戦争でローマに敗れ、都市カルタゴに封じ込められ、ローマの許可なしに軍事行動を起こしてはならぬ、との屈辱的条件を飲まされていたのですが、カルタゴ自身は、地中海と、ヌミディアという小国とで完全に囲まれていたんです。このヌミディアが、カルタゴが弱体化したことにつけ込んで攻めてきたので、カルタゴは武器で対抗したんですねぇ。気持ちは十分判ります。で、この武器を使ったことを口実に、かねがね「カルタゴは潰さねばならぬ」と考えていたローマが仕掛けた戦が第三次ポエニ戦争なのです。

カルタゴは強大なローマ軍によって全滅しました。この時、小国ヌミディアはローマの属国になる代わりにカルタゴが管理していた地中海沿岸の土地の権利を認めてもらったんですね。これがマウレタニア王国で、次の地図で黄色い部分です。これには東側の紫の部分、つまりカルタゴがあった元ヌミディアの領域は含まれていません。こちらは、クレオパトラで有名なエジプト・プトレマイオス朝の権利になったんでしょう、多分。
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で、マウレタニアは独立しようとローマ帝国に小競り合いを仕掛けたりしていたのですが、西ローマ帝国が衰退すると、西暦429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島からアフリカに入り込んできました。その百年後のユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)の時代、東ローマ帝国に編入されてしまいます。

暫くは東ローマ帝国の下で平穏にすごしたのですが、イスラムの嵐が吹くことになりました。サラセン帝国が勢力を拡大してきたのです!!!

実はサラセン帝国っていうのは昭和20年台に生まれたmhの耳になじむ名前なのですが、今ではイスラム帝国って言われることが多いようですね。ムハンマドが開祖のイスラム教を信じる人々が創った帝国で、発祥地は勿論、今のサウジアラビアのメッカです。
Wiki「イスラム帝国」に掲載されている版図を見て頂くと理解がしやすいと思います。
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ムハンマドの時代に既にアラビア半島全域を掌握しています!な~に、大したことではありません。この辺りは砂漠ばかりで人が住んでいる場所は限られていたんですから、駱駝で行けるところなら全てイスラム帝国になってしまったんですね。帝国は日々、どんどん拡大していきました!!!

で正統カリフ時代には、西はエジプト、東はパキスタンまで拡大し、ウマイヤ朝の西暦750年には西のモロッコがイスラム(サラセン)帝国の勢力に入ることになったのです。つまり東ローマ帝国が弱体化して、アフリカはイスラム帝国の思いのままになってしまったんですね。最大版図ではジブラルタル海峡を越え、イベリア半島の大半もイスラム帝国になったんです。

しかし・・・お釈迦様も仰るように、栄枯盛衰は世の習いで、世襲によって統治者が堕落し、イスラムの教えを軽視しだしたことに腹を立てた貧しいイスラム教徒達が起こした西暦750年のアッバース革命で、ウマイヤ朝は滅び、アッバース朝がとってかわりました。で、アッバース朝の執拗な追跡からスペインに逃れた、中東レバノン生まれ(!)のアブド・アッラフマーン1世は、持ち出した莫大な黄金に物を言わせ、スペインの地に「後ウマイル朝(西暦756年-1031年)」を創りました。

で~、この「後ウマイル朝」の初期、スペイン・ゴルドバに造られたのが世界遺産にもなっているメスキータです!
コルドバのメスキータ(聖マリア大聖堂)
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メスキータ (mezquita) は、スペイン語でモスクという意味の普通名詞ですから、「コルドバの聖マリア大聖堂 (スペイン語: Catedral de Santa María de Córdoba)」と言わないと、世界遺産のモスクを指すことになりません。
で、このモスクはキリスト教会としても使われるのですが、その辺りを解説し出すと、このブログが長くなりすぎるので今回は省略します。詳しく知りたい方は次のURLのWiki「メスキータ」でご確認下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%BF

それでは、いよいよYoutube「モロッコのベルベルBerber王国」を、と行きたいところですが、もう一つ、解説しておきたいと思います、フィルムでは触れていないことですから。

日本語でベルベル、英語でBerber(バーバー)って何のことか、ご存知ないでしょう?お教えしましょう。それは、モロッコに王国を築くことになった民族が使っていた言葉の呼び名、及びその言葉を話す人々です。ギリシャ人が名付けたもので「わけのわからない言葉を話す者、ことばがわからない人」を意味します。

で~、現在、モロッコの人はどんな言語を使っているのか?これも長くなりそうですが、そろそろフィルム紹介を始めろという怒りの声が届き始めてきそうですから、大雑把に紹介します。
モロッコの公用語はアラビア語とベルベル語です。
これがアラビア語の文字
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緑:アラビア語が唯一の公用語
青:アラビア語がいくつかの公用語の一つ
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モロッコに限って話すと、アラビア語では学校の第一言語として正則アラビア語が教えられていますが、日常生活ではアラビア語モロッコ方言が使われていて、他のアラビア語圏の人とは意思疎通は困難なようです。かつてフランスの保護領だったので第二言語としてフランス語が教えられているようです。スペインに近いところでは日常生活でスペイン語も話されています。

次はベルベル語の文字です。
ティフィナグtifinagh文字(アルファベット)
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なんだか少し、シバの女王の国で使われていたサビアン文字Sabaeansに似ているような・・・

ベルベル語は次の地図の紫の地域で使われています。モロッコも含まれます。
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どんな言葉か?と問われても答えられません。Wikiには「現在、主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されているアフロ・アジア語族の言語。」とありますが、それが何を意味するのか・・・
ベルベル語話者は「ベルベル語」という呼称を好まないようで、それはベルベルがギリシャ語で「言葉がわからない人」を意味するバルバロイに由来することにあるようです。で、自分たちは「タマジグト(タマジグ)」と呼んでいるようです。

さて、これで晴れて、とうとう、Youtube「The Berber Kingdom of Moroccoモロッコのバーバー(日本語;ベルベル)王国」の始まりを宣言します!
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サハラ砂漠・・・
世界でも最も過酷な気候の地の一つ。
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途轍(とてつ)もない莫大な量の砂が大地を埋め尽くしている。完全に不毛の、砂以外には何もない場所のように思われる。
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しかし、この地から砂漠の遊牧民たちがアフリカの北西部一帯を変えようと立ち上がった。サハラからスペインまで広がる帝国を創るためだ。

一人の男によって始まった王国は帝国となり、数世紀の間、繁栄することになった。帝国は高度なアイデアと優れた手工芸品を産み出した。彼等はバーバーBerber(日本語:ベルベル人)と呼ばれる。彼等はアフリカを変えたのだ。
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世界の他の場所と比べ、アフリカやその過去については知られていることは少ない。
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しかし、記録が残されていないからと言って、アフリカで生まれ発達したものが何もないということではない。
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アフリカ独自の手工芸品や文化、信仰は着実に生まれ、育まれていた!
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今回は砂漠から立ち上がったバーバーBerberが創り上げた見事な文化、国家、そしてその国家が次の国家にとってかわられた様を紹介しよう。

「モロッコに生まれたバーバー人の王国:The Berver Kingdom of Morocco」
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21世紀のモロッコ・・・
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近代的なイスラム国家だ。国王はムハンマドの子孫だと主張している。
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彼は、文化と同様に多様性に富んだ自然や歴史を持つモロッコを統括している。
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大西洋や地中海に面した海岸・・・
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アルプスとほぼ同じ標高の、雪を抱いた山々が連なるアトラス山脈
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そして国境周辺に広がる乾き切ったサハラ砂漠・・・
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モロッコで広く話されている言葉はArabian Europe語(ヨーロッパ系アラビア語?)だ。
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しかし、凡そ半分の人はバーバー語(ベルベル語)を話す。アフリカ固有の言葉だ。
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1千年前、この地モロッコはバーバー人の土地だった。
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アトラス山脈を境として、北と南に農夫や商人や遊牧民などの異なるバーバーが異なる小国を造っていて統一された国家ではなかった。
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しかし、みんな同じイスラム教徒だった。
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彼等の子孫は昔の習慣に従い、勿論、イスラムの教えにも忠実に暮らしている。
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しかし11世紀の中頃、一人の男が全てを変えた!コーランを熱心に学んでカリスマ的な説教師になり、グループを導いていった。
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彼のミッションは堕落したイスラム教になれてしまった人々に、厳格で正しいイスラム教を教えることだった。
(mh:本当でしょうか?方便ではないかと・・・)
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彼の名はアブダーラ・イビン・ヤシーンAbdallah ibn Yasin。イスラムの中心地(注)でイスラム教の何たるかを学んだことがある男だ。
(mh:英語版Wikiによれば、ヤシーンがイスラム教を学んだ場所はメッカなどではなく、現在のモロッコの大西洋に面した町ティズニットTiznitのようです。)

彼はサハラから彼のミッションを開始した。そしてアフリカ北西部を変革していくことになる。

1054年、アムラビットAlmoravid(日本語:ムアービト)と呼ばれる数千人の遊牧民がシジルマーサSijilmasaを目指していた。シジルマーサは、当時のアフリカで重要な商取引ルートにある都市の一つだった。アムラビットのミッションはシンプルだった。「ジハードJihad(注)」だ!今なら反西洋過激派Anti-Western Extremistsの「聖戦」を思い浮かべがちだが本来はそうではない。厳格なイスラムの教えを取り戻すことが目的の行為だ。
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mh:ジハードJihadはよく聞く言葉なので、ここで改めて簡単に解説しておきます。
ジハードはイスラム教徒(ムスリム)の義務の一つとされている行為で、本来は「努力」「奮闘」を指し、ムスリムの主要な五行に続く「六番目の行」とも言われます。
この「努力」には「神聖」ないし「戦争」の意味は含まれていないのですが、『クルアーン(コーラン)』の中で「異教徒との戦い」「防衛戦」を指すことにも使われていて、これが異教徒討伐や非ムスリムとの戦争をあらわす「聖戦」(「外へのジハード」)の意に転じたとのこと。
五行もこの際、確認しておきましょう。
1. 信仰告白(シャハーダ):
「アッラーフ(Allāhアッラー)の他に神は無い。ムハンマドは神の使徒である。」と証言すること。
2. 礼拝(サラー):
一日五回、キブラに向かって神に祈ること。マスジド・ハラームを例外として必ずキブラを示す壁の窪み・ミフラーブがある。
3. 喜捨(ザカート):
収入の一部を困窮者に施すこと。
4. 断食(サウム):
ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと。
5. 巡礼(ハッジ):
経済的・肉体的に可能であれば、ヒジュラ暦第十二月であるズー=ル=ヒッジャ月(巡礼月)の8日から10日の時期を中心に、マッカのカアバ神殿に巡礼すること。

ここがかつての商業都市シジルマーサSijilmasaだ。
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5万人を超える人々が暮らしていた。
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アフリカでも最も大きなオアシス地帯の一つだ。
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今は灌漑も行われ、昔よりも広大な土地で子孫たちが生活している。
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その土地には泥で造られた都市の遺跡が眠っていた。
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この建物群はアムラビットAlmoravid王国(日本語:ムラービト朝)の最初の町となった。
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この町の何がアムラビットを引き付けたのか?
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この地で考古学調査をしているエレット・ロス博士が語ってくれた「ここはモロッコの商業ルートのハブ(複数の周辺を中心で束ねている所)だった。大きな都市で広大なオアシスでもあった。ここで取り扱かわれていた商品は、穀物、手記、本、馬で、最も重要な品は南のサハラを越えて運ばれてくる黄金だった。マリ、セネガルなどで採取されたものだ。黄金のコインがここで鋳造され、主に東方に輸出されていた。エジプト、アラビア、中央アジア、そしてインドまでも。」
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シジルマーサを完全に統治下に収めることに成功すると、アムラビットは南に軍を派遣した。黄金の搬送ルートを押さえるのだ。数千Kmも南下し、商業都市アウダフストAwdaghustを包囲し陥落させた。黄金ルートを確保したことで、アムラビットは割の好い貿易を手中にした。
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しかし、この成果はもう一つの重要な成果無しでは成し遂げられなかったのは間違いない。水の確保だ。この過酷な気象条件の中で、水は全ての生物にとって生き残るために必要なものだった。
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バーバーは、水を見つけ、運ぶ方法を知っていた。砂漠の地下を使うのだ!
これがカターラと呼ばれる、古代のバーバーが活用した灌漑システムだ。
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mh:カターラと番組プレゼンテイターのガスが言っていますが、一般的にはカナート(アラビア語: qanāt)と呼ばれる、乾燥地域に見られる地下用水路です。アフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、新疆などではカレーズ、北アフリカではフォガラ(foggara)といわれています(Wiki)。

数キロに渡ってカターラは広がっている。その下には水を運ぶ、複雑に張り巡らされた地下トンネルが続いている。
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バーバーはこうして、貴重な水を確保することで厳しい環境の砂漠で生き抜いた。

強力な軍隊と黄金を確保したアムラビットは、精神の支えであるイスラム教を錦の御旗に王国の設立と拡大に着手した。
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その時点で、アムラビットのジハードは止めようがない動きに昇華していた。
「自分たちのイスラム教を他のすべてのバーバーたちにも広めるのだ!」
それは、4千メートルのアトラス山脈を越えて勢力を拡大することを意味していた。山の向うにはもっと生活に適した、繁栄を謳歌できる場所があるはずだった。
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当時、アトラス山脈を越えて移動することは楽ではなかったが、ある渓谷があり、そこを通るルートが使われることが多かった。
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今は放棄され誰も暮らしていないエビン・エスイン(?町の名です)を通るこの道は「Road of thousand Casbahs多くのカスバ(城塞)がある道」と呼ばれていた。
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ここは、カスバの一つだ。道の両脇に残っている砦のような建物は、商人たちが所有していた。黄金やシルクも砂漠を越えて運ばれ、ここを通って行った。そんなこともあって、この辺りは盗賊が横行する危険な所だったので、商人たちは砦を造って身を守る必要があった。この頑丈な建物を見ると、当時の生活ぶりが目に浮かんでくる。
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アムラビットAlmoravidは400匹の騎馬軍団、800匹の駱駝軍団、2000人の歩兵集団となって、この峠を越えて進軍した。
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峠を抜けた彼等は今まで暮らしていた砂漠とは全く異なる環境で暮らすことになった。昔からそこに住んでいた人達にはアムラビットは宗教的異端者の集団と映っていた。
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最初に住み着いたのはアトラス山脈の北側の山麓にあったアグマットAghmatという小さな町だ。
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アグマットは、周辺の種族を制圧するための新しい指令本部の町になった。
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これまで、アグマットで彼らがどんな生活をしていたのかを知ることは困難だった。理由は簡単だ。どこにアグマットがあったのか誰も知らなかったのだ。失われた都市だと思われていた。しかし、その都市は間違いなくあったのだ、ここに!私の直ぐ足元に!
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これは浴場の跡だ。彼らがどのように水を使っていたのかが判る。
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フランス人(?)の考古学者アドラフィリが案内してくれた。
「ここはモロッコで最も古いHamam(トルコ語で風呂)のひとつだ。」
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水には2つの使い方があった。最初に公共の建物や個人の家で、3日後は灌漑用に使われた。
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1千年も前の遺跡がほとんど無傷で発掘されたのは信じられないような奇蹟といえる。しかも驚くほど大きな浴場だ。500平方メートルもある。円筒状の天井の造りも見事としか言いようがない。
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湯沸しの方法に関する卓越した知識がなければこんな大きな浴場の管理はできないだろう。しかも石とモルタルで組み上げられた壁には水や湯を蓄える力があったのだ。
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ここにはあふれんばかりの冷水と温水が流れていた。冷水は建物の中に導かれた炎で加熱されていた。
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ここには文化的な生活があった。人々はここにきて体を清め、肉体的にも精神的にもリラックスすることが出来ただろう。
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水が少ない砂漠の民アムラビットにとっては、ここは水の寺院だったに違いない。もっと端的に言えば「水の場所」だった。
アムラビットは徐々にアグマットでの快適な生活を享受するようになった。しかし問題があった。砂漠の民にとって、町は軍事的な観点からは好ましくなかった。3方向を山や丘で囲まれ、一方向だけ開けている。広い所で戦うのが得意だった彼等には、攻撃には脆(もろ)く見えたのだ。
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十数年後、アムラビットは新たな安住の地を求めて移動を始めた。もっと広々とした領地を求めて。

アムラビットのDNAには「サハラ(砂漠)」が埋め込まれていた。平で広々とした土地が適していたのだ。彼等はアトラス山脈の麓から32Kmの、バーバーの言葉で「神の土地」と名付けた場所に住み着くことにした。マラケシュMarrakechだ!
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1070年にマラケシュに住み着き、「ジハード」の準備体制は完璧に整った。マラケシュも急速に都市としての体裁を確立していく。
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リーダーは住民から税金を徴収し、見返りとして安全を約束した。
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アムラビットAlmoravidのジハードは止まることは無かった。イーブン・イエッスン(多分アムラビットのリーダーです)が死んでも、王国の建設と拡大は続けられた。
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説教者イブン・ヤーシーンの死後、新しい男がジハードを引き継いだ。彼の名はユースフ・イブン・タシュフィーンYusuf ibn Tashfin。他の誰よりもアムラビットの勢力の拡大に貢献した。小さな王国を帝国に育て上げたのだ。
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タシュフィーンの帝国建設はマラケシュから始まった。まず水が引かれ・・・
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町を巡る城壁を造って人々を守った。
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この通りはタシュフィーンの時代からあった。今も当時の雰囲気が残っている。
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野菜や果物を売る店には所せましと店が広げられている。
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香辛料も売られている。
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歴史に詳しい教授に町の通りを案内してもらいながら訊いてみた。
「ところでタシュフィーンってどんな男だったんですか?」
「背が高く、親しみやすく、ハンサムだった。強く、偉大な人格も備えていた。」
「彼はマラケシュをどう変えていったんですか?」
「王宮を建てた。商業、行政、を核とした首都の建設も精力的に進めたんだ。町は今と同じくらい賑わっていただろう。」
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城壁の修理や増強は何度も行われた。
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バブザカラー(?)という名の当時の門が今も残っている。巨大だ!
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しかし、装飾は驚くほど単純だ!
(mh:単純という表現は、後で出てくる次の王朝の門と比べるための伏線です!)
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アムラビットAlmoravidの文化はシンプルなのが特徴だ。サハラから来たイスラム教徒で、「単純」と「美」の調和を好んだのだ。この門を通る時、人々はアムラビットの精神に触れ、彼等と共に暮らしていることを感じたことだろう。(mh:次の王朝の門でも、これと似た解説が行われていました。)

首都は出来上がった。いよいよ帝国の設立に着手する時だ!
アムラビットの軍勢は北に進軍し、次々と都市を陥落していった。東の町アルジアーズAlgiersも手中にした。アルジアーズは今のモロッコより東の都市だ。(mh:モロッコの東はアルジェリアで、アルジアーズっていうのは現在の首都アルジェのことです!)
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シジルマーサを獲得して26年が経過していた。

しかし次のアムラビッドのジハードは誰もの想像を超えたものだった!
北へ・・・ジブラルタルを越えてヨーロッパに進出したのだ!

8世紀初頭、地中海を挟んだスペインやポルトガルには、北アフリカと同じイスラム国家が出来ていた。そこはアランデルースと呼ばれていた。 
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コルドバの地で繁栄していた。豪華な王宮や見事に手入れされた庭も造られていた。
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ところが11世紀になると、弱体化していたイスラム系国家はスペイン北部のキリスト教都市国家からの侵略に悩まされ始めていた。
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モスレムのリーダーたちはアムラビットに加勢してくれるよう頼み込んできた。
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「スペインの地で退廃してしまった(decadence)イスラム精神を改めるのなら協力しよう!」

mh:で~次の映像が現れます。この場所は・・・既にブログ巻頭部で紹介済みです。
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後ウマイル朝(西暦756年-1031年)時代に建てられた、モスクと教会が合体したメスキータ(モスク)で、アムラビットに言わせれば正にデカダンス(退廃)の象徴だったことでしょう。
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アムラビット軍はイベリア半島を攻め上り、スペイン北部のザラゴザZaragozaもキリスト教徒の手から奪回した。
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こうしてアムラビットはモロッコ周辺とスペインにまたがる大帝国を創り上げることになった。
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過去において、北西アフリカで、一つの精神の下でこのように大きなイスラム系の帝国が創られたことはなかった。鼓動を続ける帝国の心臓はマラケシュだった。
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マラケシュの広場ジャマ・エル・フナJemaa el-Fnaaに集まる人々は物を交換するだけではなかった。
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情報や、イスラムの教えに関する知識の交換も行っていた。南ヨーロッパや、砂漠を越えて中東から流れてくる物語もあちこちで語られる、活気溢れる広場だった。
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12世紀の初め、広場は帝国のニュースの発信源になっていた。1106年、この広場に流れたニュースは極めて重要だった。ユースフ・イブン・タシュフィーンYusuf ibn Tashfinが死んだのだ!
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亡くなったのが80歳を超えていたとはいえ、彼一代で偉大なバーバー人の帝国は築き上げられたのだ。
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戦士で偉大な王だったタシュフィーンが死ぬと、23歳の息子アリー・イブン・ユースフAli ibn Yusufに権力が引き継がれた。そして、全く異なった時代が始まる。
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息子アリーは生まれてこのかた、砂漠の暮しについて全く体験がなかった。王宮で大切に育てられ、贅沢な生活を送ってきた。
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アリーは1万3千箱に詰まった銀と、5千4百箱に詰まった金を相続していた。贅沢三昧な暮らしをする条件はそろっていたのだ。
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新しいリーダーはマラケシュを更に美しい都市に変えていった。新たな王宮も建てられた。しかし王宮は都市の美化計画の一部でしかなかった。
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彼はスペイン・アンダルシアの美をマラケシュに取り込んだ。しかし、彼の壮大な計画が明確に現れたものはどこにも残されてはいなかった。

そして1952年・・・荒廃した建物の下からこれが現れた!
クッバ・ バアディンKoubba Baadiynだ!
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(mh:フィルムで何て言ったのか聞き取れなかったのでモロッコ観光名所25選から見つけ出しました。第25位でした!観光客には内部は公開されていなかったようです。勿論、外は見ることが出来たと思いますよ、上の写真のように。しかし、この建物の素晴らしさは中に入らないと判らないんです!!!)

この建物は、当時のマラケシュの文化がどんな雰囲気だったのかについてのヒントを与えてくれる。
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モハメッド教授は言う。「アムラビット時代のマスターピース(傑作)だ。アンダルシアから連れてこられた建築家が宝石ともいえるこの建物を建てた。」
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ここを訪れた人々は、床の水槽で身を清めてからモスクに向かった。
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裕福な人々は、こうした豪華で芸術性に満ちた建物を、マラケシュのあちらこちらで造り上げていたはずだ。
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とても装飾性に富んだデザインだ。このような設計の建物がアフリカに造られたのは、マラケシュが初めてだった。
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見事な曲線は、何の変哲もない建物の外観と両極をなしている。
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アリーは何も欲していなかった、最高のもの以外は!
Ali wanted nothing, but the best!

アリーは父親とは全く異なるタイプの人間だった。帝国のリーダーとしての資質は欠けていた。しかし、彼は重要な役割を果たした。というのは彼の時代に建築技術が花開き、人間的な物、例えば詩などの文学も生まれた。砂漠から生まれたアムラビットの文化とは全く異なる新たな文化を創ったのが彼だった。

しかし・・・首都の華麗な建物や文化の始まりともに、帝国の終末が始まっていた。マラケシュからも望める山々の中で、アムラビットより強力な勢力が形成されていたのだ!
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実はアムラビットは山奥の領地には関心が薄かった。それが、山岳地帯で改革集団が勢力を拡大するのを助長することにもなった。彼等はアルムハッド Almohad(日本語:ムワッヒド)と呼ばれる。「神による再統一を信じる人々」だ。
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リーダーの名はモハメッド・イブン・トゥマルトMuhammad Ibn Tumartだ。アムルハッドはアムラビットと異なり砂漠の民ではない。山岳地帯のバーバー人だ。リーダーのトゥマルトは数十年、イスラム教の教えを学んでいた。(mh:メッカに巡礼に行っているとWikiにありました。)

ここはティメルTinmelという名の村だ。トゥマルトが革命を始めた所だ。
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モロッコの地は、既にイスラム教国だった。従って、トゥマルトはもう一度イスラム国に変えようとした訳ではない。アムラビットのイスラム信仰が堕落していることを非難したのだ。
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彼は自分の政治的な野心には正当性があるとしてアムラビットを糾弾するために立ち上がったのだ。
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堕落したアムラビットAlmoravidに制裁を与えねばならぬ。そして我々アルムハッド Almohadの思想に従った大帝国を築くのだ!
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1113年、アルムハッド軍はティメルTinmel を発ってマラケシュを目指した。長い戦いになるはずだった。
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マラケシュに到着するとアムラビットAlmoravidが籠る城壁を取り囲んだ。
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アムラビットはアルムハッドの攻撃を予測して城壁を強固なものに補強していた。しかし、強固な城壁であるほど、中に籠るアムラビット軍が敵を打撃する力は衰退していたとも言える。
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アルムハッドが城壁内のマラケシュ中心部に入るには20年を要した。そして1147年、アムラビット朝(日本語:ムラービト朝)はついに終焉を迎えた。

マラケシュを陥落したアルムハッド Almohadは、アムラビットAlmoravidが造った重要な建物を次々に造り変えていった。

これはカトゥビア・モスクだ。本を売っていた男の名カトゥビアの名が付けられている。
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マラケシュの重要な建物でもある。
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伝説によれば、以前のモスクは正確にメッカに面するように造られていなかった。それで破壊され、この建物に造り変えられた。
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実際、マラケシュ全てのモスクは、こうした理由で壊されて造り直されることになった。そのことで自分たちアルムハッドの信仰だけが正統であると町の住民に示したのだ。
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このメッセージは、マラケシュを訪れる時に、人々に伝えられることになった。これは新たに造られた町に入るためのモーハッド門だ。
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1185年、アルムハッドの王が造ったものだ。アムラビット王朝が建てた門はシンプルなデザインだった。
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しかし、アルムハッド王朝の門ではイスラム固有の神聖さを強く打ち出すために装飾の上に装飾を施している!
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アムラビットの美術感と比較するとアルムハッドのそれは壮大で印象的だ。しかし、これらの2つの考え方のいずれもがバーバー王国の歩みだと言える。なにはともあれ、アルムハッドは、こうしてマラケシュを整備し、更なる帝国の拡張の拠点としていったのだ。
東は現在のリビアまで帝国の領土となった。イベリア半島にはマラケシュに次ぐ第二の首都セヴィレSevilleも造った。
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アルムハッド王朝は地中海全域で影響力を持つようになった。その思想は「手から手」にも伝えられていた。これを示す証拠はマグレの銀行に残っていた。

アムラビットとアルムハッドの2つの王国が地中海一帯に影響を与えたコインが保管されている。この金のコインはアムラビット王朝のものだ。
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中央には丸い円の中にイスラム教を讃える文字が刻印されている。このコインはスペイン、ポルトガル、ドイツ、英国、遠いところでは中国でも使われる程の影響力があった。当時のUSドルのような意味もあった。

アルムハッドもアムラビットのコインの影響力を引き継ぐことになった。出回った銀貨だ。
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中央の、ジハードの正当性を主張する文句が刻印された部分は正方形でアムラビット王朝のコインのような円形ではない!

その後、彼等はさらにジハードの思想を主張するためのコインを造っている。中央の正方形だけのコインだ!
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これらのコインが出回ることで王国の勢力はアムラビットの時代よりも更に強固なものになった。
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(mh:アルムハッド王朝のコインは、勿論、銀貨だけではありません。金貨もありました。)
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Coin minted during the reign of Abu Yaqub Yusuf

バーバー人の勢力はアルムハッド王朝で最盛期を迎えた。そして、世界でも類がない、華麗な庭園が王宮の一部として造られた。アグダル庭園Agdal gardenだ。
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およそ1千エーカー(約4百万平方m=2Km四方)の広さを持ち、オレンジ、レモン、フィッグ(イチジク)、アプリコット(杏子)、ヤシの木が植えられていた。
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30Km以上離れたアトラス山脈の水を引いて灌漑し、大きなプールも造った。この庭園はとても贅を凝らした美に満ちていると私は思う。貴重な水をふんだんに使って王朝の権力を顕示している。
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人々は貴重な水を満々と蓄えた広大なプールの縁で憩い、花々を観賞し、アルムハッド王朝がもたらした文化的、経済的な繁栄を堪能した。
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数百年の年月が過ぎた今でも、ここにいると、当時のままの優雅な時が流れている気分になれる。
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14世紀の末期、王朝はこの庭園に代表されるように、平穏と繁栄を享受していた。全ては秩序を保ち、規則正しく、順調に推移していた。

イスラムの哲学者イブン・カドゥーンはバーバー人の王国はこの庭園のようだと書いている。
「この庭園の中で王朝は車輪を回し続けていた。王国が無ければ正義はない。軍隊が無ければ王国はない。税がなければ軍隊はない。福祉が無ければ税はない。正義が無ければ福祉はない。」

マラケシュの380Km北の町フェズFezは、このシステムが上手く回転し、バランスが取れた国家運営が行われていたことを示している。
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このメディーナMedina(スペイン語で旧市街、広場などの意)は昔の面影をそのまま残している。
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フェズは帝国の偉大な都市の一つだ。
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サトウキビ、綿、金銀、陶器、銅器、それに情報が取引される、世界に向けて開いていた貿易センターだった。
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フェズの大学にはアフリカだけではなく地中海の対岸からも学者達が集まっていた。
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メディーナMedina(旧市街)の中心に残る神学大学Theological Collegeで今はも勉学が行われている。アルムハッド王朝時代、何百人もの者学者達が訪れては学んでいた。そこに貴重な本が残されている。
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金粉が使われたこの本はコーランの解説書だ。
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息を飲むような見事な美しさだ。
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この大学では、主に歴史、哲学、薬学、神学が教えられていた。

また次の本はアンダルシアの哲学者イブン・メシッドが書いたものだ。彼は古代ギリシャと中世ヨーロッパの思想に詳しかった。
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本のタイトルは「優れた法学者への入門書」だ。
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イスラム法の精神と理論について書かれている。
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「我々が信じるイスラムには次のような諺がある」
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「知識の分野には境界などはない。」
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「真実の探求はアラブやイスラムの世界の中だけに留まっていてはならぬ。」
(mh:どのイスラム教徒もこのように考えてくれたら世界はもっと平和になるでしょう。)
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神学校の外では銅板を叩くハンマーの音が鳴り響いていた。フェズのメディーナMedina de Fezは動き続けていた。
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372の製粉工場、9082の店、47の裁縫工場、188の陶器工場があった。まさに工業の中心都市だった。
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メディーナの一角にこの都市と同じくらい古い場所がある。
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世界でも抜群の品質のレザー(なめし皮)工場だ。貴重な本の羊皮紙や、貴重品を包むものとして使われていた。
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今でも当時のままの製造工程に従って大量のレザーが造られている。染料には植物が使われている。
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自然の素材だけが使用されている、昔と同じように。
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アルムハッドは、知的にも経済的にも、帝国を世界のどこにも負けない地位に成長させた。
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12世紀の終わりにはラバトRabatの海岸に砦が造られていた。海からの侵略を防ぐと共に、帝国軍の海外遠征拠点でもあった。
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ラバトのような軍港は帝国の生命線だった。
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こうして、ラバトの町は軍事面での中心地として拡大していった。見事な門も造られた。
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1195年、ある事業が始まった。400もの石柱が立っている広場!ラバトの全ての軍隊が終結できるくらいの広さがある。
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アフリカ西部で最大のモスクか、はたまた全イスラムの世界とも言うべき所だったのだろうか。ローマ風の建造物の面影もある。

実は、ここは、世界最大のモスクになるべき場所だったのだ。しかし、その夢は実現されなかった。
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あのミナレットの頭部がないのも、石柱の上に屋根がないのも、建設開始から4年後の1199年に王ヤアクーブ・マンスールAbu Yusuf Yaqub al-Mansurが死んでしまったからだ。
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モスクは完成を待たずに放棄され、王の夢は果たされることは無かった。
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mh:Google Earthで入手したHassan Tower, Rabatの写真です。
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ヤアクーブ・マンスールは最後の偉大な王だった。彼の死と共に帝国の衰退が始まった。おひざ元のマラケシュの繁栄に影が差し始めると、海を隔てたイベリア半島における勢力の衰退が加速的に進行し始めた。

アンダルシアではキリスト教徒がイスラム教徒のジハードを跳ね除け、アルムハッドの排斥が進められた。
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そしてとうとう、アルムハッド王朝はイベリア半島で力を失ってしまう。そればかりか、北西アフリカにおいてさえも王朝の権威は衰退していったのだ。
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エルファイーズ教授に訊いてみた。
「アルムハッド Almohad王国の急速な衰退の原因はなんでしょうか?」
「まず、キリスト教徒との対立で完全に打ち負かされ、地中海を越えた地域での権力を完全に失ったことが大きい。地中海沿岸での勢力を失い、貿易による富の獲得が不可能になった。国民は福祉を与えてもらえないのなら税金は払わない、ということになる。それが帝国の崩壊を加速した。かつて帝国を繁栄に導いた車輪は逆方向に回り始めたのだ。その回転は止まらなかった。帝国は崩壊に向けて進んでいった。」
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1269年、アルムハッド王朝は終焉を迎えた。アムラビット王朝からアルムハッド王朝に引き継がれて続いていたバーバー人の王国は終わってしまったのだ。

16世紀、モロッコ王国は復活する。しかし、この広大は王宮は別の王朝によって作られた。
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イスラムの教えに従ってこの地を統治することになったのはバーバー人ではない。アラビア人だ。イスラムの教えが王国の骨格だった。
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しかし今回はイスラムの開祖ムハンマドの教えを直接受けてきた人々が、バーバー人が造り出したモロッコを統治することになったのだ。
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アラブの王朝は現在も権力を維持している。

アラブ人による統治が始まって5百年後の現在、多くの人はモロッコがアラブの国でアラブの歴史を持っていると信じているようだ。
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しかし、この地は、バーバー人の王国だった。それは間違いなく、アフリカ人によって創られていたのだ。アラビア人のものではなかった。

この地で生まれた砂漠の遊牧民の集団が、誰もなしえなかったことを成し遂げていた。イスラムの旗の下に全てのバーバー人を集結し、統治し、ヨーロッパへも進出を果たす偉大な帝国を創っていたのだ。

Lost Kingdoms of Africa Series The Berber Kingdom of Morocco
https://www.youtube.com/watch?v=ZYo8FEYkfFs


(完)

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