Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

砂漠の王国の不思議

2014年1月26日「文明の起源は何か? (What is the origin of the civilization?)」でカラル遺跡についてご紹介しました。1994年、ペルーの首都リマの北140Kmで女性考古学者が偶然見つけたのは砂山ではなくてピラミッドだったのです。発掘してみると沢山のピラミッドが見つかりました!
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地中から出て来た漁獲網の綿糸のカーボンデイティングから、5千年前の文明だと判明し、メソポタミア文明やエジプト文明にも匹敵する古代文明が南米で見つかったことに世界中の考古学者たちが驚いたのです。
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詳細は2014年1月26日公開ブログ「文明の起源は何?(BBC-TVより)」をご参照ください。

しかし、ペルーと言えば、なんと言ってもインカ文明でしょう。その象徴「マチュ・ピチュ」は2014年1月21日にNational GeographicのYoutubeフィルムでご紹介させて頂きました。ウルバンバ川に囲まれた急峻な山の上に造られた、恐らく信仰の中心、皇帝のリゾート地だったのです。
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勿論、私も訪れさせて頂きました。遺跡の後ろに控えている神山ワイナ・ピチュWayna Picchuにも登りました。一歩踏み間違えれば、一瞬にしてウルバンバ川まで転げ落ちていたでしょう。
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マチュ・ピチュへの旅の起点はクスコです。標高3400mで、マチュ・ピチュより1000mも高いんです!
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クスコへはペルーの首都リマから飛行機で約2時間だったと思います。お昼前に到着してその日の観光を終えた夜、高山病で七転八倒!昼間に飲んだジュースか、サクサイワマンSaqsaywamanに行く途中の坂道で食べたトウモロコシが当たった可能性もあります。頭はキリキリ痛み、足はふらついて、その上、ひどい吐き気に襲われてベッドとトイレを何回も往復し、7千円前払いして予約していたフォークロア・ディナーショーどころの騒ぎではありませんでした。それでも翌朝は、なんとか回復し、マチュ・ピチュに向かうことができたのです。
<クスコの夜景>
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クスコはインカ帝国の首都でした。帝国は、初代皇帝パチャテクが即位した1438年から、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人コンキスタドールに皇帝アタワルパが処刑された1533年まで100年続きましたが、帝国になる以前は、現在のエクアドルの首都キト辺りから南下してきたケチュア族が12世紀頃に興したクスコ王国で、首都は同じクスコでした。

しかし、クスコ王国が生まれる2世紀以上も前の9世紀中ごろからインカ帝国に征圧される1470年頃まで凡そ600年続いた王国がペルーにあったのです。今回はその王国に関するBBC Documentary :Lost Kingdoms Of South America - Episode 4 「Kingdom Of The Desert砂漠の王国」をご紹介しましょう。

でぇ、今また思い出したのですが、5百年以上も栄えていたのにインカ帝国に滅ぼされた文明がもう一つありましたねぇ。2015年6月1日、ブログ「チャチャポヤの不思議」でご紹介したチャチャポヤ文明です!住民は「雲海の人々People of the Clouds」とも呼ばれていました。
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Lost Kingdoms Of South America - Episode 1 People Of The Clouds - BBC Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=GvGf0JIat0s

ここまできたら、フィルムの内容をご紹介する前に南米ペルーを中心に発達した文明の発祥地を確認しておいた方が良いでしょう。カラル、マチュ・ピチュ、クスコ、チャチャポヤ、そして首都リマ、更には、今回のブログの主題「チムーChimu(Chimor)王国」の首都チャン・チャンChan Chanをプロットしてみました。
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初期の人類と言われるアウストラロピテクス(猿人)がアフリカに現れたのは600万年前ですが、現代の人類の祖先と言われるホモ・サピエンス(Homo sapiens)が現れたのは20万年前というのが定説のようです。
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ホモ・サピエンスは、10万年前頃アフリカから拡散を始めました。ベーリング海峡(当時は地続き??氷原??)を渡って北アメリカ大陸に入ったのは1万5千年前。以降わずか1000年で南アメリカ南端に到達したと言われています。
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たったの1000年で北アメリカ北端から南アメリカ南端まで行ったってことは・・・やっぱ太平洋に沿って移動したとみて間違いないかと思います。海岸線には太平洋岸に沿って走るロッキー山脈やアンデス山脈から流れ出る川が沢山ありますから、生存に必要な水に不足しませんし、砂浜を含め、海の近くは基本的に平地ですから、移動も楽です。山が突き出していたら、小さな船で迂回する手段もあります。

こうしてアフリカを10万年前に出発したホモ・サピエンスの子孫は、5千年前に首都リマの北140Kmのカラルで文明を興し、更にはカラルの北360Kmのチャン・チャンで、1千年前に王国が誕生していたというのは、我が尊敬するお釈迦さまも仰るように、因果応報、つまり原因があったからこその結果であって、自然の摂理に適(かな)ったものでありました。

さてさて、いつものように長い前置きになってしまいました。ではEpisode 4 「Kingdom Of The Desert砂漠の王国」をお楽しみください。
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ペルー北部の海岸・・・太平洋とアンデスの間に広がる砂漠・・・
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この地に生まれ、450年以上繁栄した後に滅びた王国があった。その王国について知られていることは少ない。中心には都市があった。ここがその跡だ!
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都市の名はチャン・チャンChan Chan。産業と呼べるものが生まれる前の、言わば古代の都市だった。
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私はジャゴ・クーパー(Dr. Jago Cooper, British Museum)。南アメリカを専門とする考古学者だ。南米固有の信仰や神秘に富んだ禁断の地は、知れば知るほど深い歴史があることに驚かされる。
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ペルーの歴史の全てはインカとスパニッシュ・コンキスタドール(スペイン人征服者)の物語で語り尽くされると思われがちだが、忘れられている過去も沢山ある。

チムーChimu/Chimor王国は5世紀に渡り、太平洋とアンデスで挟まれた海岸線に広がるペルーの砂漠の北部一帯を統治していた。世界でも最も過酷と言われる気候条件と自然の中で!

人々は砂漠を農地に変えていた。
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砂漠にはオアシスを造っていた。黄金や銀も製造していた。信仰すべき神も持っていた。
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西暦900年から1400年にかけて帝国を築き上げた。何故、他の王国を侵略までして帝国になっていったのか?プレ・コロンビアン・アメリカ(注)でどのようにして都市を建てたのか?なぜ、この大都市は砂漠の中に消えていく運命を辿(たど)ることになったのか?
(注:プレ・コロンビアンというのは「コロンブスの前」ということで、アメリカ大陸がコロンブスによって発見される1492年より以前の時代を指します。)

「南アメリカの失われた王国Lost Kingdoms of South America」
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「砂漠の王国 Kingdom of the Desert」
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ペルーと聞くと直ぐ思い浮かぶのはインカだ。しかし、インカよりも古い時代、チムーChimu/Chimorという王国があった。15世紀には帝国になっていた。その版図(はんと)は太平洋とアンデスに挟まれた海岸にそって南北1千Kmに及んでいた。
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mh:王国と帝国の差
ネット辞書によれば「王国Kingdom:王を主権者とする国、帝国Empire:皇帝が支配する国家」と、味も素っ気もない解説が見つかりました。帝国の例に「大日本帝国」が出ていましたので、これから類推するに、異なる人種(日本帝国の場合は朝鮮人、満州人、台湾人、ミクロネシア人など)を併合した王国が帝国と呼ばれ、帝国の国王は皇帝(日本では天皇)と呼ばれる、ということかと・・・

ここでチムー王国の首都チャン・チャンをGoogle Earth写真でご紹介しておきましょう。
海岸の近くに首都の中心つまり王宮が集中していたようです。海岸線から黄ピンまで2Kmです。
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次の写真中央の砂漠と、農耕地を挟んでその左の小さな砂漠に世界遺産に指定されたチャン・チャン遺跡が残されています。
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複数あるうちの一つの王宮の拡大写真です。250mx400mの長方形の敷地は城壁で囲まれています。
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城壁の高さは概略10m。新しい王が就任するたびに、新たな王宮が建てられ、町に在る王宮の数は10を越えています。
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(フィルムに戻って・・・)
王国の記憶が末裔の原住民からさえも忘れ去られていた頃、この地に初めてやってきたヨーロッパ人は、この丘を登り、この光景を目にすることになった。
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町の跡だ!
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それがチャン・チャンだった。天日煉瓦(テンピレンガadobe)で造られた世界で最大の都市の一つだ。
(見えているのは山並みではありません、全て城壁です!!!)
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3万5千人が暮らしていた。
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彼等は10世紀に町の建設を始めた。そして5百年をかけ、町は都市に成長していった。
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城壁の高さは10m以上もある!
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城壁の中には10の神聖な宮殿があった。
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チャン・チャンはジグソーパズルのような建造物で造られていた。それは複雑な階級社会を象徴しているのかも知れない。
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西暦1530年代にスペイン人がやって来た時、彼等の関心は黄金と、住民にキリスト教を強制することだけだった。
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チャン・チャンでは発掘と保存作業が進んでいる。
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当時、階級社会の最高位にいたのは王族だ。選ばれた人、エリートだ。
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伝説によれば、チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという男によって創られたという。そして彼の子孫が歴代の王として君臨し続けた。
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チャン・チャンは全能の海とも言われる太平洋に面している!
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その海の向うは・・・地球を半周する距離にあるオーストラリア大陸だ!海はとてつもなく広く、人智は及ばない!

この海は何百年にも渡ってチムーの人々に海の恵みをもたらしてくれた。
針で魚を釣る人・・・その向うにはペリカンが・・・
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網で魚を獲る人・・・
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海の恵みを受けられるか、その日の天候は穏やかか。それは全て海の神が決めることだった。
(mh:また、ペリカンです!実はチムー王国の象徴的な鳥、つまり国鳥みたいなものでした。それは後で判ります。)
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今日の収穫はこれだ。黄色く見えているのはカチェーマcachemaという鯵(アジ)に似た小魚で、この辺りでは好く獲れる。
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南極から赤道に向かう寒流「南太平洋海流」が流れているが、周期的に暖かい海水になる(注)ことがあり、するとプランクトンなどの滋養が減って魚の群れは逃げていく。
(注:エルニーニョのことを言っています。)

全能の海は気まぐれだ。魚や貝だけを当てにしていては王国の人々は生きていけない。時には一匹も獲れないまま岸に戻らねばならぬことだってあるのだ。人々はそのことを痛い程、知っていた。生き残るためには、陸地での収穫に目を向けねばならない!
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ペルーの海岸線は砂漠ばかりで暮らしていくのは難しいだろうと思うかもしれない。しかし、命を支えてくれる自然も多いのだ。
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アンデス高地からは多くの川が海まで流れ下っている。この川の水が人々の生活を支えているのだ。川に沿って渓谷があったことがチムー帝国が生まれるきっかけになった。
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首都リマの考古学博物館を訪れ、渓谷がどのようにチムーの人々を支えていたのかを考古学者のジェフに訊いてみた。
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彼によれば、ペルーの海岸沿いの砂漠には、世界文明を育てるために必要な要素は全てそろっていたと言う。

チムーの前にはモチェMoche文化が栄えていた。
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2000年程前から1300年程前まで、モチェ川沿いに繁栄していた文明だ。
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アメリカでも、最も暴力的だが、高度な文化の一つだったと言われている。
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600年以上の間、モチェ川渓谷で勢力を持っていた。
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しかし、西暦700年頃、カタストロフィー(大惨事)とも言える異常気象に襲われて消滅したと考えられている。
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その200年後、チムーが同じモチェ渓谷から生まれて来たという!チムー文化は消滅したモチェ文化が生み出した陶器や灌漑システムなどの生活基盤の中から生まれて来たのだ。
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モチェが消滅して200年後に、同じ場所からチムーが生まれた。チムーの生活様式はモチェとほとんど同じだった。チムーが受け継いだ最大の生活技術は砂漠の変革手段、すなわち運河だ!
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モチェの人々は数百年をかけて運河を造り、維持してきた。しかし、チムーの人々は、この運河をモチェの時代とは比べ物にならない規模に拡大していたのだ。

チャン・チャンの約110Km北のヘケテケ渓谷にきている。
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チムーの人々がどのように環境を変えていったのかを知るためだ。この土地が農業などには全く適さない砂漠だったとは信じられない。
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昔の運河の跡を辿りながら考古学者のルイスに尋ねてみた。
「灌漑によって、チムーの人々は、どのように砂漠を農業が出来る土地に変えていったのでしょうか?」
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「いやぁ、まずこのことは知っておいてほしいんだけれど、ここの砂漠は、言わばサハラのような砂漠だったんだよ。どんな植物もなかったし、動物も暮らせるところじゃあなかった。そこを灌漑して水を引いたとしよう。そうすれば何が出来ると思う?湿った砂漠だよ。水を引くだけじゃあ農業が出来る土地にすることはできない。チムーの人達は土を入れ替えたんだよ。緑が多い土地から土を運んで来たんだ!そうして土地を変革していった。」
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車輪も発明されていない当時、数千トンの土壌を運んだとすると、大勢の人々が長い時間をかけた作業だったに違いない。
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「その後、運河を引き込んだのだが、それは真っ直ぐに流れる運河ではなく、曲がりくねっていたんだ。水はゆっくり流れて、農業に適する環境を産み出していったんだ。」

チムーの人口が増えるにつれ、運河の規模は拡大し、農耕地も拡大していった。この農業方式を他の場所にも展開することでチムー王国がチムー帝国となる素地が生まれた。
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収穫した果物や野菜は、生活を守ってくれるリーダー達に貢物として差し出された。リーダー達は見返りとして、人々の生活を守った。こうして人口が増え、それにつれて国力も増していった。

1300年になると4平方マイル(10平方Km)だったチムーの土地は340平方マイル(870平方Km)に膨れ上がっていた。しかし、海と同様、陸地も気象の影響を受けやすかった。人口が増えるほど、大規模な飢饉も起き易くなっていった。危機に出会うと、人々は神に救いを求めたようだ。
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2011年8月、チムーと、神々と、子供達の関係が人々の目に晒(さら)されることになった。
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その時に見つかったものは、チャン・チャンの博物館に保管されていた。考古学者のガブリエルが紹介してくれた。それはガブリエルばかりではなく、多くのペルーの人々に驚愕や恐怖を引き起こすものだった。
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43の遺骨が見つかった。歯の鑑定の結果、彼らが10歳から14歳の子供ばかりだと判明した!
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大量の生贄殺人ではないのか?およそ半分の頭蓋骨の額には赤いインクが塗られている!儀式のためだろう。
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肋骨(ろっこつ)には刃物で割かれた跡が見つかっている。きっと心臓を取り出すためだったのだ!
しかし、どういう理由で、大人が、大量の子供を殺さなければならなかったのだろう。子供たちにだって両親はいた。親から子供を引き剥がし、生贄として殺してしまったのだろうか?

ガブリエルは言う「チムーの社会を想像するに、子供を差し出すことによって、親は何らかの見返りを受けていたのだろうと思う。」仮にそうだとしても、何故、子供の生贄を必要としたのだろう?チムーでは大雨で作物に打撃がでることが多かったという。雨を止めるための生贄なのだろうか?

当時の人々が恐れていたのは海と月の神だった!この2つの神が自然を司っていると考えていた。
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子供達が殺害された頃、大きな気象異常があったことが気象学者によって判ってきた。突然の気象変動で、「エルニーニョ」と言う名で知られる、周期的に発生する現象だ。
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この乾き切った砂漠にも雨が降り続いて風景を一変させることもあった。
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多くの苦難に会いながらも、チムー王国は、砂漠を灌漑によって耕作地とし、王国を拡大し続けていった。
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チャン・チャンの北約200Kmのラ・レチェLa Lecheは、モチェが衰退した750年以降、ランバヤケ文明が生まれていた所だ。
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これはかつてピラミッドだった。
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この地でランバヤケのエリートは交易を管轄し、貴金属や貝殻などの装飾具を取り扱っていた。
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その富がチムー王国の関心を惹(ひ)くことになる。

ここトゥクメイには多くの建造物の遺跡が残っている。数百年に渡り繁栄し、26のピラミッドも造られていた。14世紀、チムーはトゥクメイを占領した。そしてピラミッドよりも高い地位にチムーのエリートを据えて町を管理したのだ。
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チムーはどんな方法でこの地の勢力を維持していたのだろうか?
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トゥクメイの北50Kmの別の遺跡を訪れてみた。この地にもチムーの影響がじわじわと伝わっていたようだ。
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シェロ・サッポロというこの発掘サイトはチムー帝国の他の場所とは全く異なる。
チャン・チャンから250Km離れているこの地に、一帯を統治する行政者がチャン・チャンから派遣されていた。
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調査を続けている考古学者によれば、ここは町というより政治的、行政的な中心地だったという。
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帝国の国境を警護する砦のような所だったのだろう。

戦の跡は見つかっていないので、チムー帝国の北方拡大は平和裏に行われたようだ。灌漑技術も提供され、その見返りに、交易ルートがチャン・チャンに富みを運んでくれた。

100年に渡る遠征の結果、チムー王国は帝国となっていった。モチェ渓谷から生まれたチムーは1400年にはキーウィ―渓谷群の北から南まで1千Kmに渡る地域を統治するようになっていた。
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交易ルートや渓谷群を耕作地に変えたことから得られた富はチムー帝国の首都チャン・チャンに集中した。
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15世紀の初頭までに、チャン・チャンは王家の中心地になっていた。ペルーで最大の宗教センターで、最強の帝国だった。
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今日、大勢の旅行者が訪れる人気の観光地となっている。
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何世紀もの砂漠の嵐は、昔あったはずのレリーフなどの装飾を風化させてしまった。
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当時の様子を垣間見ることはできる。(チムーの国鳥のペリカンです!)
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しかし、これらは全て張り子だ。グラスファイバーで造られている。
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僅かに残ったレリーフの写真を元にしてレプリカとして造られ、遺跡の復元にも使われている。観光客は、このようなレリーフで飾られた王宮群を見ることが楽しいようだ。
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しかし、考古学者は本物にしか関心がない。王宮と庶民たちの住居がどうなっていたのか確認してみよう。王宮の近くでも王宮を見ることは出来ない。高い城壁で囲まれているのだ。
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若い考古学者ギエルム・ゴンザレスがチムーの階級社会について教えてくれた。
「エリートは城壁の中で、その他の人は外で暮らしていた。この2つには明確な差があったのだ。それがチムーの特徴だ。」
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「エリートの建物は天日煉瓦(てんぴれんが)で造られていた。一般人が住んでいた城壁外の建物は石組みの基礎だけが残っている。その上にあった家は藁ぶきなど、耐久性がない材料で造られていたのだ。」
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「この差から、チムーには明確な階級社会があって、人民はエリートに貢物を差し出し、その見返りにエリートは人民の生活を保証していたと考えている。」
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エリートと庶民は城壁で完全に隔てられていた。
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農民は王宮から離れた農耕地で暮らしていた。

そして城壁の近くには・・・小さく区切られた部屋が並んでいたようだ。職人artisanや職工craft-peopleが住んでいたと考えられている。
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都市に運ばれてきた材料を使って、職人や職工たちは、王宮や城壁の修復をし、エリートたちが使う土器類、装飾具などを造っていたのだろう。
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チャン・チャンの住人の90%がこのような職人だった。それはチャン・チャンにおける権力と芸術の関係の強さを暗示している。
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無彩色で磨かれて光沢のある陶器はチムーのユニークな文化の象徴だ。
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しかし、チムーの文化の本当の象徴は・・・
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これだ!貴金属芸術だ!
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この芸術がチムー文化を有名にした。エリートたちの地位の象徴だった。
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墓からは貴金属でつくられた装飾品が見つかっている。
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チムーは、あらゆることがエリートたちのために行われる、典型的な階級社会だったと言える。
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城壁の内側では、生贄の儀式や饗宴が執り行われていた。
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倉庫には金銀が詰まっていた。しかし、金銀よりも貴重な物があった!それは当時なら簡単には手に入らないものだ。
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今、再び海辺に来ている。その貴重なものを見るためだ。
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スポンディラス・シェルSpondylus-shellだ。チムーでは高貴な人だけが手にすることができた貴重品だ。
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二枚貝で、外側は赤く、内側は白い。殻は装飾用に、中の身は神への捧げ物として使われていた。
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外観はどうということはないが、これを加工することで貴重な装飾具に変えていたのだ。この貝を使った占いも行われていた。

mh:スポンディリダイSpondylidaeは日本ではウミギクガイ(海菊貝)と呼ばれ、房総半島より南に分布しているようです。牡蠣(かき)の一種なのか、志摩半島では食用になっているとのこと。
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海では、今日も沢山のペリカンが群れを成して飛んでいた。
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スポンディラス・シェルSpondylus-shellは土産屋の店先に並んでいる。
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他の文明と同じように、エリートが亡くなると、使っていた装飾品などの貴重品が一緒に埋葬されていた。チムーの女性の遺骨が見つかった場所にいってみよう。発見されたのは2010年だ。

チムーの陶器、銅の胸飾り・・・
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最も大切なものは彼女の右手に握られている。スポンディラス・シェルだ!
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スポンディラス・シェルは黄金と同じように貴重品として大切に使われていた。この貝を獲るためには、10mくらいの深さまで海に潜らなければならなかった。
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エリートたちだけが貝が敷かれた道を歩くことができた、死の旅立ちの時でさえも。
エリートたちは王宮の中で自分が持っている貝の数を数えながら、王国を管理していた。ほかの人達と比べたら、エリートたちは神のような存在だっただろう。
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しかし、統治者が亡くなると、信じられない、驚くべきことが行われていたのだ。

王の死は、次の世界への旅立ちだった。その様子は見事な手工芸品となって残されていた。これはペルーだけでなく、南アメリカでの風習だったようだ。

それは博物館の箱の中に大切に保管されていた。王宮を模(かたど)ったもののようだ。木で造られていて、魚のレリーフが彫刻されている。
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首都チャン・チャンで行われた生と死の行列を表現している。
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行列の人形も木で造られている。
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白い貝と赤い貝が嵌め込まれている。勿論、スポンディラス・シェルだ。
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沢山の人形はひとつひとつ手を加えて造られているようだ。
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息を飲むような見事な出来栄えだ。

発見されたのは1995年だった。祈祷師や楽団など、いろいろな人たちが並んでいる。チムーの年代史といえるかも知れない。
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カラフルなバスケットも運ばれている。ミイラ化された遺体が入っていたはずだ。
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ロイヤルファミリーの行列の中に妙な人形がある。
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裸のまま、後ろ手で引かれているようだ。生贄にされる人だろう。
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最前列にはバスケットを持ち、スポンディラス・シェルで装飾された人形がある。バスケットには何が入っていたのだろう。
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王宮の壁は日干煉瓦で出来た城壁を連想させる。
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チムー文化を代表する芸術作品と言ってよいだろう。

チャン・チャンの遺跡にある墓場につくられたこのプラットフォームで、考古学者は300人の若い女性の遺骨を発見した。
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恐らく、これらの女性も人形の行列で手を縛られて現れていた生贄と同じように、葬儀に参加させられていたのだろう。

これから王の玄室に入っていく。
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そこは小さな暗室だった。
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王が死ぬと新しい王が同じ家系から指名された。しかし、王の遺産は次の王には引き継がれることはなかった。貢物を捧げてくれた人民にその富を返すのだ。新しい王は、自分の富を自ら造っていかねばならなかったのだ。
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つまり、新たな王は、自分の王国を自分で造らねばならぬという、強い野心と行動力を示さねばならなかった。
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新しい王や女王が自分たちで自らの地位を確立しなければならない以上、新たな領地を獲得するための軍事行動が必要だっただろう。このことはチャン・チャンに70もの王宮が異なる時代に造られることになった理由の一つだ。
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チムーの10の王宮は水を砂漠に導くことに成功し、莫大な財宝を獲得した王国の勝利の記録と言える。
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衝撃的ともいえる子供の生贄は神への忠誠を示したものだった。

しかし西暦1460年代、チムーは崩壊を迎えようとしていた。エルニーニョによってではなく、南米の地に生まれた他の勢力によって。
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チムーが北に向けて王国の拡大を続けていた時、別の帝国もアンデスの山中で拡大に向けて進軍していた。インカだ。
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アンデス高地で繁栄を遂げたインカは、ついに海岸線も征服する準備が整っていた。
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1463年頃、インカの精鋭部隊はアンデスを下り、チムーの軍隊と出会うことになった。
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1470年、チムー最後の皇帝はインカの前に敗れ去り、クスコに引き連れられていった。450年の間、階層社会構造で成り立っていたチムー帝国は突然、リーダーを失ってしまったのだ。帝国を管理する者がいなくなると、チムーは消滅するしかなかった。

その後、20世紀になって考古学者が見つけ出すまで、チャン・チャンは忘れ去られていた。
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エルニーニョがチャン・チャンを、文字通り失われた都市に風化してしまっていたのだ。
今、若い考古学者達が中心になって遺跡の発掘と修復作業が続けられている。修復プロジェクトの監督をしている考古学者のマルガリータが決意を語ってくれた。
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「今やらなければ永久に失われてしまうわ。兎に角、根気強く作業を続けていくだけよ。」
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今日、チャン・チャン遺跡では風化から長期保存に向けた動きが続いている。
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1986年、チャン・チャンは世界遺産に指定された。ペルーの偉大な文明の生まれた場所として大勢の人の記憶に植え付けられ、残されていくだろう。
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Wiki:チムー王国(チムーおうこく、Chimú)
「ペルー北部の沿岸部でチムー文化(スペイン語版、英語版)を担った王国で、850年頃から1470年頃まで存在した。後期中間期(プレ・インカ)最大の王国で、1000kmの海岸線とアンデスの人口の2/3を含んだ。現存する最大の遺跡はチャン・チャン。

チムー王国はモチェ文化の遺民によって興された。最初の谷々が喜んで武力を合わせていたようだったが、シカンを征服した。カハマルカ文化とワリ文化の影響を大きく受けていた。伝説によれば、首都チャン・チャンは海からやってきたタカイナモという人物によって創られたという。

チムーはインカ帝国を止めるチャンスがあった最後の王国だった。しかしトゥパック・インカによるインカの侵攻が1470年代に始まり、タカイナモの子孫である国王ミンチャンカマンは敗れ、ワイナ・カパックの即位した1493年には侵略はほぼ終了していた。

チムーの陶器は漆黒だった。また、精巧複雑な金工でも知られ、先コロンブス期で最先端技術の一つだった。」

Lost Kingdoms Of South America - Episode 4
Kingdom Of The Desert - BBC Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=2Sy9IM8vuNg
(完)
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