Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ベトナムの悲惨な歴史

今日は12月13日、日曜日。横浜はいつ雨が降ってもおかしくない曇天(どんてん)ですが、以前に散歩で拾った透明ビニールの雨傘を片手に、MP3プレーヤーでお気に入りの音楽を聞きながら、いつものコースを胸を張り(猫背の矯正が目的です)手足を大きく振りながら朝の散歩を済ませた所です。

昨日、Ganges-Part3を校了してブログ化も完了したので、このブログ「ベトナムの悲惨な歴史」は今から一カ月半後の2月1日公開予定です。実は、次の「世界の不思議シリーズ」のブログ・テーマを何にするか、散歩中に考えあぐねていたのです。2月に出発で予約したベトナム旅行に関する不思議を、と悩んだ末に「ベトナムの不思議」ではなく「ベトナムの悲惨な歴史」に確定してキーボードを叩き始めました。

1月~3月は神田の会社に関係した仕事がポツポツ発生しそうなので、短めの旅行をと考え、いつか行こうと思っていたハノイ/ハロン湾を全6日の旅程で訪れることにしました。ベトナムのパック旅行というと、ベトナム・ハロン湾⇒カンボジア・アンコールワット⇒ベトナム・ホーチミン(旧サイゴン)という3都巡りが多いのですが、アンコールワットは旅行で、ホー・チ・ミンは神田の会社の仕事で何度か訪れているので、今回はハノイ周辺限定の旅にしました。
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気の早いmhは既に事前調査を済ませ、Youtubeで2月のツアーコースそのものを撮影したとも言えるフィルムも見つけて一通り見終えました。

何度も見て頭に残ってしまうと現地でのサプライズが減る心配がありますから、もうフィルムは観ないことにしたのですが、今回の旅行記をブログ投稿する予定はないので、まだハノイ近辺を訪れたことが無い読者のために、簡単に観光スポットをフィルムに従ってご紹介しておきましょう。

首都ハノイの周辺から通勤している人達のレポートから始まります。
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電車やバイクで橋を渡り、ハノイ中心に向かう人の群れ・・・
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電車を降り、歩いて仕事場に向かう人の群れ・・・
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町ではバイクが主流ですがホー・チ・ミン市(旧サイゴン)ほど多くはないようです。
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パレードのようですね。太鼓は台車に載っています。
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公園のパゴダ(pagoda:仏塔)
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Wikiによれば、ベトナムの宗教は仏教が大半とのことですが、それぞれの公認教団の信徒数は、2008年時点で仏教1,000万人、カトリック550万人、カオダイ教240万人、ホアハオ教160万人、プロテスタント100万人、イスラム教6万5千人となっていて、更には“共産党員はホー・チ・ミン元国家主席のみを信仰する傾向がある。むろんホー・チ・ミン信仰は宗教ではないが、それに匹敵する影響力を有する(ホー・チ・ミン自身は自らが崇拝の対象になることを徹底的に嫌っていた)”とありました。人口は9千万人なのに信徒数は全て足しても2千万人というのは少なすぎます!ってことは・・・共産党員は無宗教で、その上、田舎で暮らす人が多く、彼等の宗教調査はしていない???
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市内の寺院です。道教か?柱には漢字が!!!
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ベトナムの正式な国名は日本語では“ベトナム民主共和国”ですが、ベトナム語で "Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam" (Công hoà xa hoi chu nghia Viêt Nam.oga )。略称 "Việt Nam" (ベトナム語発音: [viət˨ næm)。漢字(チュニョ)で「共和社會主義越南」とWikiにあります。どうも、ベトナムの文化は中国の影響が大きいようですね!中国語で、と言わずに漢字で、って言ってます!その上、「漢字」を中国語で発音すると「ハンツゥ」のはずですがベトナムでは「チュニョ」って言ってます!!!

Wikiベトナムには「北属期」という言葉が見つかりました。北に属していたってことは・・・

Wiki:北属期(ベトナム語: Bắc thuộc)
北ベトナム最初の統一王朝である呉朝が建国されるまでの間、ベトナムが中国の諸王朝に服属していた時期である。一般的に、前漢の武帝が交趾郡、九真郡、日南郡の三郡を北ベトナムに設置した紀元前111年から、呉権(ゴ・クエン)が呉朝を建国した939年までの時期を指す。ベトナム人にとっては屈辱的な時代と捉えられており、ベトナムで編纂された史書においては「外記」「前編」といった、真正の国史が始まる前の前段階として扱われている。

ベトナムは1千年以上も中国の支配下にあったんですね。
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北属期が終わった10世紀からベトナム人による王朝が始まりますが、19世紀中頃、フランスの植民地に組み込まれました。

Wiki:フランス植民地支配
1847年4月15日、フランス軍艦がダナンを砲撃し、フランスの侵略が始まる。1858年9月、フランス・スペイン連合艦隊、ダナンに進行。1862年6月、第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を割譲。1867年6月、フランス領コーチシナ成立。1874年3月、第2次サイゴン条約でフランスに紅河通商権を割譲。1882年4月、フランス、ハノイ占領。

更には、フランスからベトナムを解放するってつもりだったのか、フランスの後釜を狙ったというのが正しいと思いますが、日本が攻め込んでフランスに成り代わってベトナムを苦しめるんですね、太平洋戦争です。終戦で日本が引き揚げると、またフランスが戻って来てベトナムを苦しめるんです!!!

その辺りは後で詳しく解説するとして、まずは観光に戻りましょう。
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ハノイ旧市街
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道路の両脇には屋台が並んでいます。ホー・チ・ミン市(旧サイゴン)でもそうですが、ベトナムの都会で暮らす人は朝夕とも外食が多いようですね。当然ですが、お釈迦様も仰るように原因があってこその結果です。
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外食が多い理由ですが・・・mhの推測ですが・・・3つあります!
まずは共働きが多く、家で料理する時間が取れない。2つ目ですが、貧しくて、自宅には水道がなく、調理することが難しい。で3つ目は、以上の2つの理由をキーボードで叩きながら考えていたのですが・・・恐らく、自宅で料理するよりもバラエティに富んだ食事がリーズナブルな値段で楽しめるってことではないかと思います。これと異なるご意見や情報をお持ちの方はご教示ください。
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次は“典型的なベトナムの家”として観光客に公開されている家のようです。
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しかし、どう見てもお金持ちの家に違いありません!観光客用ですから、仏像や生花、壁には掛け軸もあります。お土産品として販売されているものもあるのでしょう。
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水上人形劇はポピュラーな観光客向けアトラクションです。
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有名なタンロン水上人形劇場は旧市街にあります。
(タンロン(昇龍):ハノイの旧称)
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mhも旅行中に鑑賞させて頂くことになっています。別の劇場かもしれませんが。
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11世紀に生まれた芸能で、日常生活の演目が多いと言われています。

mhが2年半、単身駐在していたインドネシアには、インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などを主な演目にした影絵芸能ワヤン(Wayang)がありました。
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ベトナムの人形劇が日常生活をテーマにしたものが多いってことは・・・昔から仏教が主体で、インドネシア(当時はヒンドゥです)と比べて宗教上の縛りが緩かったからだと思います、全くの推定ですが。

で、次はハノイから約100Km南のニンビン。
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mhも2時間のボートでの川下りを楽しむ予定です。
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石灰岩の山が削られて洞窟になったところもあります。この一帯は世界自然遺産です。
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次はベトナム・ツアーの目玉「ハロン湾クルーズ」です。これも世界遺産。
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クルーザーが港を出ていきます。
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“ハロン湾”は“下龍湾”という漢字のベトナム読みです。伝説によれば、ここに龍が天から下りて来たってことですね。小さな島が多いのですが、人が暮らす大きな島が一つだけあって、そこには広い畑もあります。
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島の波打ち際の家の住人の職業は、っていうと漁業と観光客相手の商いでしょう。
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大型クルーザーが集まるこの辺りには観光の目玉があるんです。
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ティエン・クン鍾乳洞Thien Cung grotto、フランス語で“大理石の洞窟”
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中は結構広いようで、派手な色でライトアップしています。
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ジャンク(戎克、英: Junk;帆船)のクルーザー。
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mhも船で1泊する予定です。期待できますねぇ。天気が好ければデッキでビール・ジョッキ片手に、沈みゆく夕日を見ながら、日本から持参するスルメの足をしゃぶりながら至福の時を過ごすのです。
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で~、ミステリー・ハンターを騙(かた)るmhとしては、この旅行をテーマにどんな不思議を皆さんにご紹介するか、ずっと頭を痛めていたのです。しかし、ネットで「ベトナム・不思議」をキーワードに検索しても、自然、人の生活、ってなものしか見つからないんですね。ブログにし辛いテーマです。

で~、「ベトナム・歴史」でYoutube検索すると・・・戦争のフィルムばかりです!

1961年アメリカ大統領に就任したケネディは、ロシアとの東西冷戦で主導権を取ろうとベトナムへの派兵を決定し、17度線で2分されていた南北ベトナムの内、サイゴンを首都とする南ベトナムを支援して、北ベトナムを支援する中国やロシアと対立することになりました。
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ケネディがダラスで暗殺され、1963年に就任したジョンソン大統領の代の1964年にトンキン湾事件が起きると、アメリカは北爆を始めます!
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以降、1969年に大統領に就任したニクソン、1974年に大統領に就任したフォードもベトナムでの戦争を継続します。
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北ベトナムは、ホー・チ・ミン率いる北ベトナム軍を中心に、南ベトナム解放民族戦線、いわゆるベトコン、と共同戦線をはってアメリカが後ろ盾の南ベトナム軍に対抗します。開戦から10年以上経過した1975年、北ベトナム軍が南ベトナムへの全面攻撃を開始(3月)してサイゴンが陥落。これで南ベトナムが崩壊して同年4月30日にベトナム戦争が終結すると、5月にはサイゴンはホー・チ・ミン市と改名されました。

この戦争で、460万人のベトナム民間人と100万の北ベトナム軍人、30万の南ベトナム軍人が死亡し、200万のベトナム人行方不明者が出ました。第二次世界大戦で死亡した日本人の数は軍人230万人、民間人80万人の計310万人と言われていますから、ベトナム戦争がいかに悲惨な争いだったのかが判ります。

北ベトナムが勝利し、ベトナムの統一と独立を成し得たのは、北ベトナムの初代ベトナム民主共和国主席ホー・チ・ミンあってこそですが、彼はサイゴン陥落より5年以上も前の1969年9月2日に79歳で死んでいるのです!その時mhは大学4年でした。彼の死後も5年以上続いた戦争はTVで見ましたが、電機会社に就職し、自分の将来だけを考えていたmhは、ベトナムへの関心が薄く、日本経済への影響はどうなのかしら、といった能天気な事を漠然と心配していたのです。

ベトナムの不思議は、5百万人以上も亡くなったベトナム戦争から40年経過した今、東南アジアで目覚ましい復興を続けているベトナムという国そのものだと思いますが、それではmhのブログにならないので、いろいろ調べた挙句、今回は「ベトナムの悲惨な歴史」と題し、ホー・チ・ミンという人物を紹介するYoutubeフィルムとWikiなどのネット情報を織り交ぜてご紹介させて頂くことにした次第です。

ホー・チ・ミンはベトナム独立の父でもあり、今も、ベトナム人に一番尊敬されている人物でしょう。79歳で心臓病で亡くなりましたが、今もハノイのホー・チ・ミン廟で眠っていますので2月の旅行でお会いできるかと思います。
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彼の遺書には「遺骸を火葬して北部、中部、南部に分骨して埋葬すること」とあり、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設は望んでいなかったのですが、ベトナム労働党政治局はこの部分を遺書から削除して公開し、遺骸はウラジーミル・レーニンにならって、永久保存(エンバーミング)され、南北統一後、ハノイのバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された、とWikiにありました。
・・・・・・・・・
Wiki:ホー・チ・ミン
ベトナム語: Hồ Chí Minh, 漢字: 胡志明,1890年5月19日 - 1969年9月2日
ベトナムの革命家、政治家。植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した。初代ベトナム民主共和国主席、ベトナム労働党中央委員会主席。
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幼名はグエン・シン・クン(Nguyễn Sinh Cung, 阮 生恭)、成年後はグエン・タト・タイン(Nguyễn Tất Thành, 阮 必成)。第二次世界大戦までに使用していた変名のグエン・アイ・クォック(Nguyễn Ái Quốc, 阮 愛國)でも広く知られる。ベトナム人民からは、親しみを込めて『ホーおじさん(バック・ホー、Bác Hồ, 伯胡)』の愛称で呼ばれている。
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伝記Biographyシリーズ
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以降、なるべく沢山、彼の顔をご紹介するつもりです。ホーという呼び方も使わせて頂きますのでご了承ください。特に欧米人はそう呼ぶのが習慣のようです。
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ホーが北ベトナムのリーダーだった時の軍事パレードの映像です。
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ホー・チ・ミンHo Chi Mihn胡志明・・・
でぇ、ホーの名前ですが・・・幼名はグエン・シン・クン阮 生恭。成年後はグエン・タト・タイン阮 必成。第二次世界大戦(ドイツ軍がポーランドに侵入した1939年~1945年)までに使用していた変名はグエン・アイ・クォック阮 愛國。Youtubeフィルムに寄れば1941年、つまり日本が12月に真珠湾攻撃を始めた年、にホー・チ・ミン胡志明を名乗るようになったようですが・・・

今更ながら気付いたのですが・・・名の漢字表記ですが・・・

幼名は「生恭」、成年後は「必成」、変名は「愛國」、で最後は「志明」です。幼名は父親が付けたのだと思いますが、“恭(きょう)”と言えば“恭(うやうや)しい”ってことで、控えめで他人とうまくやるって含みだと思います。が、成年後は自分が名付けたはずで、まずは“必成:必(かなら)ず成し遂げる”、次は“愛國:国を愛する”、そして1941年、つまり彼が51歳で新たに付けた名前が“志明:志は明らかなり“と続いているんですねぇ。信条と言うか、ベトナムを解放したいという強い意志を感じます!

ホーは小柄で、フィルムでは4ft11inと言ってましたから丁度150cmです!体重は100ポンドで45Kg!

「しかし、歴史上で彼ほど、頑強に銃に歯向かった男はいないだろう。卓越した政治家で、見事な“アクター”だった。揺るぎない意志を持ち、ベトナム解放を成し遂げ、軍事大国を手玉に取って打ち負かした。」
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19世紀の末期、インドシナはフランスの重要な植民地だった。
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フランスは主にゴムとコメを搾取して莫大な富を得た、特にベトナムの地で。
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しかし、当のベトナム人は、その恩恵を受けることはなかった。
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自ら生産したコメはほとんどフランスに持ち出され、わずかなコメだけが残された。将来への希望が持てる状況にはなかった。
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ホー・チ・ミンの家庭は他と比べて若干恵まれていたようだ。父グエン・シン・サック (越:Nguyễn Sinh Sắc)はキム・リエン・オー村の出身だった。
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それはベトナム中部の貧しい村だった。
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1890年5月19日、彼の妻が3人目の子供で2番目の息子を産んだ。
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子供はニュエン・シン・コーNguyen Sinh Cungと名付けられた。後にホー・チ・ミンHo Chi Mihn(HCM)として世界で知られる男になる。
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ホーが11歳の時、悲劇が襲う。母親が3人目の息子を産むと直ぐに死んだのだ。その時、父は仕事で家を離れていた。
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ホーの父親は地方のマンダリン(注)だった。家にいないことが多かった。幸運だったのは親戚の人々がホーたちの面倒をみてくれたことだ。

注:マンダリン (Mandarin)
中国(主に明朝から清朝)やベトナムの官僚を、西洋人が呼んだ語

ホーが教育を受け始めた頃は、文字は伝統的な漢字で、儒教の教えを学ぶ時間が多かった。
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mh:次の写真では“抗日読本”となっています。
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1890年生まれのホーが小・中学生の頃は日清(1894~95)・日露(1904~05)戦争の頃ですから、抗日ってのはどうなんでしょう、少し時期が早すぎると思いますが・・・中国の影響か?このフィルムを造った人たちが中国系だったのか?ベトナムを植民地化していたフランスは嫌われていて、太平洋戦争でこのフランスをベトナムから追い出した日本もベトナムでは嫌われていましたから・・・ま、日本はアジアのどこの国でも嫌われていたと考えてよいでしょうが、好かれていたって考える日本人が安倍首相を筆頭にけっこう多いってのは、どういうもんなんですかねぇ。

ホーは予備校でフランス語を学んでいる。父親はフランス統治下の役人で、ベトナムの独立などは考えもしていなかったようだから、ホーには宗主国フランスに関する仕事をして成功してほしいと望んでいたのだろう。
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父親は死ぬまでベトナム中を転々とし、生活費を稼ぎだすことに汲々としていた。それが理由でホーとの関係は薄くなる一方で、ホーの思想にも大きな影響を与えたはずだ。
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当時のベトナム人は悲惨だった。不平をこぼすと、フランスの役人に捕えられ、鞭で打たれ、時には殺されることもあった。
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1908年、ホーは17歳で国立学校の学生だった。
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ある日、学校の近くで、農民たちが役人の高い賃金と自分たちへの過剰な税金に抗議してデモを行った。
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ホーは農民の要求をフランス語に翻訳した。ホーにとって初めての革命行為だろう。彼の訳文はフランスの秘密警察の目に留まった。
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翌日ホーは国立学校から追放され、以降、彼がベトナムの学校で学ぶことは無かった。
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フランスへの恨みが芽生えただろう。しかし、この時点では、フランスの思想や文化についての関心の方が強く、それを学んでみたいと考えていた。(mh:と言うのはフィルムを作った欧米人の都合が好い解釈で、実はいつか見返してやるために敵を知ろうと考えたのかも知れません、多分そうでしょう!)

21歳の時、商船学校でコック(料理人)の修行を積んだ。
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直ぐにフランス商船の見習いコックに採用されることになり、1911年、21歳でベトナムを離れて世界中を旅することになった。
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以降、数年の間、植民地を訪れるとその状況を自らの眼で確認することになった。感じることは多かっただろう。
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とうとうホーはベトナムの支配者であるフランスに足を下した。
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植民地の悲惨さを嫌と言う程見てきたにも拘わらず、ホーは“フランス植民地学校”に入学願書を提出した。卒業生が海外のフランス植民地で役人として働くことを目指す学校だ。
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しかし、ベトナムでの反フランス活動を理由に願書は却下された。

これを機に、彼の心の中に、フランス植民地に溶け込むのではなく、それを外から見てみようという考えが生まれた可能性がある。とすれば、この時、革命家としての精神が芽生えたと言えるかも知れない。ホーは1,2年、フランスを転々と渡り歩いた。庭師になったり皿洗いをしたりしながら生活費を稼いだ。

1917年まで続いた船のコックの仕事で、ホーはアフリカ、南アメリカ、そしてアメリカ合衆国も訪れている。アメリカではボストンからニューヨークに船と共に移動している。
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ニューヨークで初めて高速道路、地下鉄、摩天楼を見た。特に驚いたのは自由の女神像だったらしい。
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ホーは暫くニューヨークの中華街で皿洗いをして暮らした。
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その間、外国からの移民にもアメリカ人としての全ての権利が与えられることを知って驚いた。
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フランス統治下のベトナムでは、自国にも拘わらずベトナム人に自由が認められていない!
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ホーは合衆国の人権に対する考え方に痛く感動したようだ。

第一次世界大戦が始まる直前、ホーは合衆国を離れてイギリスに向かった。
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ロンドンでは、名門カルトン・ホテルの台所の仕事を見つけて働いた。
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上司は伝説的なフランス人コックのエスコフィエだった。
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エスコフィエはホーがフランス語を話し、腰が低く、よく気が付く男であることに感動したようだ。
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ロンドンにいる間、インド、アフリカ、アイルランドで反植民地主義活動をする人々と知り合い、自分も祖国独立のために尽力したいと考えるようになった。
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1917年、ケーキ菓子シェフを目指すため、パリに向かった。
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そこで革命家の道へ踏み出すことになる。
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第一次世界大戦の終わり頃、ホーはパリに到着した。
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パリには大勢のベトナム人が移り住んでいた。パリに関してもっと重要だったのは、そこでベトナムの全てが決裁されていたことだ。
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彼は祖国に対するフランスの考え方を変えたいと希望していた。その前に、まずしなければならないことがあった。パリについて知ることだ!

ホーは美術館も訪れたが、ミュージカルが好きだったようだ。
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歌手ではウィリッシュ・バリエイが好きで、彼の真似をして麦わら帽子を振りながら歌ったりもした。
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コックや写真の修正作業など、様々な仕事をした。
mh:写真の修正といえば、次のホーの写真は修正されている感じです。
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ボクシングのレポートや、映画のレヴュー記事をフランスの新聞社のために書いたりもした。

しかし、本当に力を入れていたのはベトナムからパリに移住していた人々と共にフランス政府に働きかけて祖国の状況を改善しようとする運動だった。
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当時のホーの知人はこう言っていた。
「彼は、意志が強く、知識に貪欲で、極端な程に理想を追求する若者だ。」
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しかし、最も印象的だったのは、相手の魂を射るような鋭い眼差しだったと言う。
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ホーは彼の立場に同情的な多くのフランス人と知人になった。おかげでベトナム人の仲間と共にフランスの植民地主義に反対を唱える新聞を発刊することが出来た。
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新聞はパリで読まれるだけでなく、ベトナムにも密輸出されていた。
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新聞には植民地におけるフランスの弾圧の様子が記されていた。しかし、ホーの関心は、どうすればこの事態を改善できるかだった。
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この時、ホーはグエン・アイ・クォック(Nguyễn Ái Quốc, 阮 愛國)というペンネームを使っている。
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彼が要求したのは、ベトナム人をもっと人道的に取り扱う事と、平等の権利を与えてほしいということであって、愛国主義が強く打ち出されたものではなかったし、革命を目指すものでもなかった。しかし、ベトナムにいるフランス人たちには、ホーが帰ってきたら逮捕して死刑にするとまで非難された。
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1919年、アメリカ大統領のウィルソンは世界平和14ヶ条を提案した。そのひとつは、全ての国は自国の将来をその国の人々が決める権利を有する、との主張だとホーは理解した。
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つまり、アメリカは、植民地主義は終結されるべきものだと言っている、と考えたのだ。
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ホーはアメリカがフランスに圧力をかけてベトナムでの植民地主義が改善することを期待していた。

ホーはウィルソン大統領に直訴状を送ろうとしたが、結局それは叶わず、ウィルソンもフランスに働きかける兆しを示さなかったことに大いに失望した。

ホーは救いを他に求めるしかなかった。
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当時、ウラジミール・レーニンは植民地での改革は共産主義しかない、と主張していた。
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ロシアが植民地主義を止めるべきだと主張したのは植民地で虐げられている人のことを考えたからではない。植民地主義を推し進めている西側諸国の力を弱体化するためだ。

しかしホーはレーニンの考えに従うことに決めたようだ。マルキシズムを認めたからではなく、植民地の原住民を解放して自由の身にしたいという、それだけの理由だった。

1920年、30歳のホーはフランス共産党の創立メンバーとなった。革命のためにはプロパガンダも必要だということで宣言文の書き方も学びたいと考えた。それを学べる所はロシアしかない!
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1923年、ホーはコモンターンから招待状を受け取った。コモンターンはマルクス・レーニン主義を世界中に広めることを目的とした組織だ。
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ホーはその提案に飛びついてモスクワに移った。何の連絡もなく突然失踪したことはパリの友人ちを驚かせたようだ。モスクワに移った目的は、恐らく祖国への愛国心だ。祖国を解放したかったのだ。

ホーはコモンターンの重要なメンバーになり、モスクワの指示に従って活動していた。
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いよいよ祖国解放を進めるプランが出来るのも近そうだと考えていた。

初めての国際的な仕事としてホーは中国の広東で共産党結成を支援するよう指示された。
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その中国で、以降30年の人生を決める体験を積むことになる。
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彼は、所謂(いわゆる)地下組織のメンバーとして中国で活動した。
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1927年、ホーは中国のリーダー蒋介石に捕えられそうになった。
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蒋介石は共産主義者を一掃しようとしていた。大通りでの処刑も日常茶飯事だった。
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ホーはサイヤムに逃げることにした。現在のタイ王国だ。
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そこにもフランスの秘密警察の手は伸びていた。ホーはタイ語を学び、頭を剃り、仏教修行僧に変身して旅をした。
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タイの東北部にはベトナム人が多く住む地方があった。そこで、身を隠しながら村から村を渡り歩いた。
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変装し、名も変えながら長い年月を隠れて暮らしたリーダーは歴史上で彼しかいないだろう。
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そんなことまでする必要があったのか?それとも、それは彼にとって一つの人生ドラマだったのか?

凡そ10年の間、ホーがどこにいたのか、誰も知らない。彼は死んだというレポートも出回ったほどだ。

1939年に始まった第二次世界大戦の直前、彼は再び歴史の舞台に登場した。ベトナム解放の運動を始めるのには最も適切なタイミングだっただろう。
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ドイツはフランスを攻撃していた。
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ベトナムの独立には都合が好い!
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1941年の始め、ホーは中国との国境のジャングルを抜けてベトナムに入った。1911年にベトナムを離れ、30年経過して初めて帰国したというのは何かの巡り合わせかもしれない。
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彼を守るのは彼の思想だけだった。彼は、祖国を解放し独立国家にしたいという強い意志を持っていた。
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武器も、お金も、支援者もほとんどいなかったホーだが、人々を組織し、ベトナムに居座る列国に対抗することになる。
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1941年、彼は初めてHo Chi Minhと名乗った。ホー・チ・ミン(ベトナム語: Hồ Chí Minh, 漢字: 胡志明)、つまり明確な志だ!

30年もベトナムを離れていた男がベトナムのリーダーになるなんて神話と言えるかも知れない。
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彼は自分の思想を広めるメディアの支援も持っていなかったのだ。当時、凡そ95%のベトナム人は田舎の小さな村で暮らしていたが、ホーについて知る人はなく、その上、ほとんどの人は文字すら読めなかった。
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勿論、ホーがグエン・アイ・クォック(Nguyễn Ái Quốc, 阮 愛國)の名で書いた記事を読んだことがある人もいたが、それはサイゴンやハノイなどの大都市に住む一部の人達だけだった。
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ホーは村々を訪れては人々と話し、信頼を勝ち得ていった。後に彼のことを批判する人は、この時の彼の行動を、成り上がるための計算に基づいたものだと言う。
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しかし、彼の最終目的、つまりベトナムの自主独立、から自然発生したものだと考える人が多い。いずれにしても、彼は農村地帯でリーダーとなる基盤を造った。
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彼は恋愛や家族などには目もくれず、人生のすべてをベトナムの独立に捧げていたという意見もあるが、これは、ひょっとすると神話かもしれない。
mh:で、次の写真の女性は恐らくグエン・チ・ミンカイというベトナム人女性だと思います。後述するようにWikiにそれらしい名前が出ていましたから!
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実際の所、公式に結婚していたかどうかは別にしても、何人かの女性が話題に上っている。
例えば香港で中国人の妻または妾を持っていたという根強い噂がある。
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その女性がその後どうなったのかは詳しくは判っていない。仮にそれが事実だとしても、彼は妻を捨ててベトナムに戻った。なんとしても祖国を開放したいと考えていたのだ。彼に必要なのは妻ではなく、独立に向けて共に戦ってくれる仲間だったのだ。
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mh:ホーの妻、愛人についてフィルムでは多くを語られていないのですが、Wikiで調べたところ、次の情報が見つかりました。

Wiki:ゼン・シュエミンZeng Xueming (曾雪明;1905–1991)
ベトナム語はタン・ツエ・ミンTăng Tuyết Minh。中国・広州の助産婦で、1926年10月、ホーと結婚した。
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Wiki(続き):現代のベトナム政府は、「ホー・チ・ミンはその生涯において誰かと恋愛関係にあったことはなく、結婚もしていない」(mh:つまり全てを革命に捧げたってことです)としているが、革命の同志であるグエン・チ・ミンカイや中国人の曾雪明などとの恋愛・結婚があったとの研究もある。また、これらの研究を報道したメディアが処分を受けるなど、1990年代に入っても本人の意志に反した個人崇拝が政府によって強要されている。

ま、俗物のmhとしては、一人二人の妻や愛人くらい、許されてしかるべきだという考えですから、女には目もくれずに独立国家を目指したって言うベトナム政府の見解はとても受け入れられません。

ベトナムに戻ったホーの最善の決断の一つは、ヴォー・グエン・ザップ(ベトナム語: Võ Nguyên Giáp, 漢字:武元甲)を仲間に入れたことだろう。ザップは生まれながらの軍人のセンスとリーダーの資質を持っていた。その彼がホーと共に南ベトナム連合軍との戦いを指揮することになる。
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次はWikiで見つけた写真です。フィルムにも使われたものでしょう。身長150cmのホーよりもザップは小さいんですね。
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Wiki:ヴォー・グエン・ザップ(ベトナム語: Võ Nguyên Giáp武元甲、1911~ 2013)
ベトナムの軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍 (QDND) 総司令官である。最終階級は大将であった。
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Wiki(続き):優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配の際、ディエンビエンフーの戦いによって、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた。

ホーは他の愛国者グループを自らの旗の下に集めることになる。
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しかし、そのためには共通の目的を明確にする必要があった。
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それは「独立」と「社会正義」だった。よりよい生活と民主化だ。共産主義を広めるなどと言う発想は持ってはいなかった。
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1941年12月7日・・・
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日本は真珠湾のアメリカ艦隊を爆撃した。
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同時に、東南アジアにあったイギリスとオランダの植民地に侵攻を開始した。
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1週間もしないうちに香港、マレーシア、シンガポール、インドネシアが日本帝国軍の手に落ちた。
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日本帝国はドイツと同盟を結び、ドイツの敵フランスの植民地ベトナムへも攻め入った。
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ホーは同じアジアの日本となら上手くいくのではないかと思った。しかし、日本はフランスよりも残虐な国だった。そこでホーは中国を訪れることにした。中国も日本帝国軍と戦っていた。だから支援をもらえると考えたのだ。
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しかし、驚くべきことに、共産主義者だとの理由で、地方の役人に逮捕され、刑務所に投げ込まれてしまう。
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彼は牢獄で「私の心は千里離れた祖国に飛んでいく。罪もないのに、1年も牢獄に居る。涙をインクにして魂の叫びを詩に変えている。」との漢詩を残している。
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ホーは結局14ヶ月を牢獄で過ごした。日本軍と中国軍との戦は激しさを加えていた。中国では囚人の監視もままならぬ状態になっていた。そのうち釈放になるだろうと見越したホーは日本軍の機密情報を集め始めた。

1943年、ホーは釈放され、ベトナムまでの長い道のりを徒歩で戻った。
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ベトナム愛国戦線はホーが死んだものと思っていた。しかし、戻ると再びリーダーになった。その時、彼は53歳だった。
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アメリカが日本に対する攻撃を本格化し始めると、アメリカの支援がベトナム独立に必要だと考えるようになった。
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アメリカの飛行機が北ベトナムで日本軍に攻撃されて落下すると、ホーは落下傘で脱出したパイロットを助け出し、アメリカに送り返すために中国に連れ出した。
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この行動にアメリカの情報局は関心を示した。「ホーはパイロットを助けてくれるだけでなく、日本軍の情報も提供してくれる!」
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アメリカはホーとの同盟を考え始めた。ホーの軍隊を訓練し、無線装置などを提供し、兵士の訓練方法も指導してくれるようになった。
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ある時、ホーの命は再び危険にさらされることになった。恐らく悪い微生物にやられたのだ。しかしアメリカ軍が提供してくれた薬で奇蹟的に回復した。ホーは彼等の支援に深く感謝した。
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ホーは英語の読み書きや会話が出来るだけではなく、アメリカの文化も理解しているように見えた。
その上、とてもアメリカ的な習慣を身に付けた。フィリップ・モーリスPhillip Morrisを喫うのが好きになったのだ。しかし胸のポケットにはいつもベトナム煙草を持っていて、ベトナム人の仲間に分け与えていたようだ。
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1945年8月、2つの原子爆弾は戦争の突然の終結をもたらすことになった。
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日本が無条件降伏すると、ベトナムは無管理状態となった。その時、ホーは迅速に動き、北ベトナムを彼の勢力下に引き入れることに成功する。9月2日、50万人がハノイで行進した。
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ホーは独立宣言を発し、誰もが自由で、平等に幸福を求める権利があると演説した。
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彼はアメリカの独立宣言を引用したのだ。アメリカは彼と共にあると考えていた。彼はマルクス・レーニン主義を求めてはいなかった。ただベトナムの独立を望んでいただけだった。
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共産主義者かと聞かれると「いや、違います。私はインドシナが解放されることを望んでいるだけです」と何時も応えていた。

彼はアメリカの情報局に完璧な英語で手紙を書いている。「戦争が終わり、我々は小さな権利を手にした。十分な権利を得るには更に戦わねばならないだろう。」
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1946年、ホーはパリにいた。ベトナムを植民地としてではなく、フランス連合国の自治州として認めさせるためだった。
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しかし、彼は目的を果たせなかった。
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ベトナムでの状況は第二次世界大戦以前より悪化していった。
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フランス軍がベトナムに戻り、国中で残忍な軍事行動を再開したのだ!飢饉がおき2百万人が餓死することになった。
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その間も、貴重なコメはフランスに向けて輸出されていたのだ!
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ホーは国連に何とかしてほしいと申し入れたが、何の音沙汰も無かった。
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当時、ソ連の台頭による東西冷戦で、アメリカはフランスの支援を必要としていた。
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それで、フランスがアメリカに同調する見返りとして、アメリカはフランスの植民地政策に口を挟まなかったのだ。
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1946年暮れ、ホーはジャングルの中に戻り、フランスに対抗してゲリラ活動を開始した。
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ベトナムがフランスを打ち負かすことなど誰も想像しなかっただろう。
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しかし1954年頃になると、フランスは終わりの無い辛い戦いに決着をつけたいと考え、ホーの軍隊を殲滅(せんめつ)しようと大作戦を実行した。確かに狙い通りに戦争は終結したのだが、結末はフランスが望んでいたものではなかった。
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1954年3月、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍はホー軍を捕えたかに見えた。しかし、実は罠にはまっていたのだ。1万5千人の兵士が死ぬことになった。
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それはインドシナにおけるフランスの敗北を意味した。アメリカの独立戦争以来、初めて欧州が植民地を失う戦いになったのだ。
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ホーの指導力が勝利に大きく貢献したことは言うまでもない。
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フランスとの戦いを通じ、ベトナムと中国共産党との同盟関係は強化されていた。
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ホーはその動きを少し冷やそうとした。このまま突き進んでいくと東西冷戦に巻き込まれてしまう!
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フランスとの戦いには勝利を収めたが、ベトナムの将来は第二次世界大戦の戦勝国が集まったジュネーブ会議に諮(はか)られることになった。
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その結果、ソビエトと中国によって17度線でベトナムを2分する案が承認されてしまう。
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ホーはこの決定で妥協することに考えを決め、同僚の説得に奔走した。1954年以降、ホーと仲間たちは17度線の北側でベトナム民主共和国を設立すべく動き出した。
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17度線の南では共産主義に対抗すべくアメリカが支援するベトナム国が誕生し、ゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国と改めた。ゴはベトナム国民の間ではほとんど知られていない男だった。
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ジュネーブ会議でホーは南北ベトナムで統一選挙を行い、ゆくゆくは国を統一すると宣言していた。
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しかし南のリーダーは統一選挙の実施を認めなかった。
1960年、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム大統領に反対するゲリラ活動が南ベトナムで始まった。
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ベトコンとして知られるこのゲリラ活動を北ベトナムが支援すると、アメリカは南ベトナムの支援を強化し始めた。東西冷戦におけるアメリカの立場を確保するためだ。
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ホーが恐れていた通り、ベトナムは東西冷戦の戦場と化していった。1966年、ベトナム戦争は本格化していた。ホーは76歳で戦争を指揮するのは辛い年齢だった。それでも彼は北ベトナムを指導して戦いに全力を注入した。どんな犠牲を払ってもこの戦いに勝利せねばならない!

1969年9月2日、ホー・チ・ミンは79歳で世を去った。
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ベトナム戦争で北ベトナムが勝利するまで6年も残されていたが、彼こそがベトナムの独立と統一に最も貢献した人物だとベトナム国民は今も信じている。
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今日、ホー・チ・ミンが残した遺産については異論もあり、単純ではない。それは彼という人間の評価についても同じだ。
ホー・チ・ミンは愛国者で、国を独立に導いたリーダーで、儒教の教えに忠実な人物だったという見方がある。
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その一方で、国際的な共産主義の手先だったという見方もある。

しかし、ホーにとっては、終わりがいつも重要なのだ。祖国を解放すること、ただそれだけだったのだ。
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独立と自由を勝ち取るための犠牲があまりに大きすぎたという批判もある。
1945年にホーは言っていた「私はベトナムに独立と、自由と幸福とをもたらすことを目指す」と。確かに独立は実現した。しかしそれは自由と幸福を伴うものではなかった。
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共産主義者たちは政敵を粛清していた。この時、リーダーだったホーがどんな役割を果たしていたかは明確ではない。
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若者だった時、ホーはベトナムを変えることを夢見ていた。しかし、どれほどアメリカを変えることになるかなどは考えもしなかっただろう。
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外国で愛国者たちと戦うことが、いかに大きな犠牲を伴うのか、アメリカはホーによって痛い程思い知らされたのだ。
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(mh:しかし・・・のど元過ぎればなんとやら。ベトナム戦争終結から40年、欧米はこの失敗を忘れ、同じ間違いをしようとしています。)
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1946年以降のベトナム人死者は3百50万人以上だと推定されている。ベトナム人も、ホーすらも考えもしなかった死者数だ!
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ホー・チ・ミンは見事に独立を成し遂げた。それは20世紀における記憶されるべき成功だろう。フランスとアメリカを相手に戦い、打ち負かしたのだ。
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彼がそれを成し得たのは、祖国のためなら自分の全てを捧げても好いという意思を貫いたからだろう。
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以上でフィルムの紹介は終わりです。ご自身で楽しみたい方は次のURLでどうぞ。
Biography - Ho Chi Minh
https://www.youtube.com/watch?v=d6-bM39doUM

これでホー・チ・ミンという人物についての理解は深めて頂けたと思いますが、フィルムでも言っていたように、彼の正体はなんだったのでしょうか?神か、はたまた悪魔か。彼を駆り立てたのはヒューマニズムだったのか、それとも共産主義的な利己主義だったのか。
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子供と遊ぶホーの映像は彼の真実ではなく、単なるプロパガンダだったのか。
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フィルムを見て改めて感じたのですが、欧米や旧ソビエト連邦が行った植民地主義というのは、本当に極悪非道な振る舞いですねぇ。日本も欧米に遅れまいとして中国や朝鮮、東南アジアなどを植民地化しましたが、統治側の鬼畜生のような人々も、統治されて搾取され、自由を奪われた人々も、同じ人間で、状況が変われば統治する側とされる側の立場が入れ替わることだってあるわけですから、人間というものは恐ろしい動物だなぁと改めて感じました。もし、自分は鬼畜生ではないと考えているなら、何を根拠にそれが正しい、いつだって正しい、ってことを証明できますか?尊敬するお釈迦様なら「欲を捨てよ」と仰るでしょう。欲がなければ戦争や植民地主義を推し進めるはずがありませんからね。

欲を持っているかいないかで鬼畜生かそうでないかが決まるとすれば、およそ全ての人は鬼畜生の資質を持っていると言えるはずです。しかし、もう少し、判断基準を下げるとしたら・・・そうですねぇ、「自分がされたくないことは人にはしない」という至極当たり前のことをいつも実践している人なら鬼畜生ではないと言えるかも知れません。

で~、ホーですが、私は純粋な愛国主義者だったと思います。それ以上でもそれ以下でも無かった。ベトナムのためなら自分にも嘘を付ける男だった。何故そう思うかと言うと、フィルムでも紹介されている彼の顔、特に目ですね。一つのことだけを見つめるような目です。彼は東条英機よりも多くの自国民を犠牲にしました。しかし彼がしようとしたことと東条英機がしようとしたことは、全く異なります。ホーは仲間を弾圧者の手から解放しようとし、東条英機は仲間を弾圧者に仕立てあげようとしたのです。繰り返しますが、人は神にもなれるし、悪魔にもなれるってことだと思います。お互い、大変だと思いますが、少しでも神様の側に立ちたいですねぇ。

ハノイ周辺の観光スポットのYoutubeフィルムは次のURLでどうぞ。
Hanoi - Halong Bay -- Voyage to the land of junks and sampans (Documentary, Discovery, History)
https://www.youtube.com/watch?v=gx3-JfGgAQE

(完)
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