Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

マヤ暗号を打ち破れ!

6月はメキシコ旅行です。メキシコシティに2泊し、テオティワカンやプエブラなどを見学したら、ユカタン半島のメリダに飛んで、チチェン・イツアなどのマヤ遺跡を訪れます。
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(テオティワカン)
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(チチェン・イツア)
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この一帯は中米Central AmericaとかメソアメリカMesoamericaと呼ばれる、世界6大文明のひとつメソアメリカ文明の発祥地です。
(世界6大文明;エジブト文明・メソポタミア文明・インダス文明・中国文明・アンデス文明・メソアメリカ文明)

メキシコのジャングルで見つかった巨人(コロッサスColossus)の頭・・・
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紀元前1千2百年頃に生まれ、紀元前3百年頃には足跡が途絶えたオルメカOlmeca文明を代表する遺物です。中心都市はサン・ロレンゾSan Lorenzoでした。
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更には紀元前9~前5百年に起源を持ち、西暦900年頃まで栄えた都市国家群が育てたマヤMaya文明、メキシコシティを首都とし1428年頃から1521年まで栄えたアステカ文明Azteca、がメソアメリカの3大文明と言えるでしょう。
ご参考
ブログ「テオティワカンの不思議」2014年10月20日
ブログ「オルメカ文明の不思議」2015年4月27日
ブログ「マヤの不思議」2015年1月5日、
ブログ「アステカ文明の不思議」2015年6月8日

このように、メソアメリカの文明は調べ尽くし、ブログ化し、知り尽くしているはずのmhですが、笊(ざる)のような脳みそから、ちょろちょろと音を立て、記憶が絶え間なく流れ出ていますから、頭の中はブランクというか、ホワイト・アウトの状態で、ブログを見直すまで“はて、どんな文明だったっけ?”と、我ながら情けない状態です。
しかし、ここで気落ちしてブログへの挑戦を打ち切ろうものなら、数か月で廃人になるだろうとの恐怖心に駆られ、今日も気力を奮い起こして、悲壮な覚悟で、この原稿を書き続けているのです。とばっちりを受ける読者の皆様、ご愁傷さまです。

で~、今回は、メキシコ旅行に先立って(今日は3月22日で出発の2ヶ月以上も前なのですが)、これから数日を注入し、Youtube「Cracking the Maya Codeマヤ・コードを砕く」つまり“マヤ暗号の解読”というタイトルのフィルムを中心に・・・
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mhがネットで調べたマヤ暗号情報を加え、「マヤ暗号を打ち破れ!Break the Maya Code!」としてお贈りしようと思います。さて、どんな結末になるのか・・・

みなさんもマヤ暗号/マヤ文字は見たことがあるでしょう。
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「Maya Code、Maya Sign、マヤ暗号、マヤ記号」などと呼ぶと、“限られた人だけに伝えられる、特殊な解読手法が必要な秘密情報”という感じになりますが、「マヤ文字Mayan Glyph/Maya script」となると、かなり丸くなって、“古代文字で書かれた物語”といった雰囲気が生まれてきます。実はWiki「マヤ文字」は後者の英訳が使われています。90%以上の文字が発音も意味も解読されている今日、暗号Code記号Signと呼ぶのは不適当だからでしょう。

マヤ文字は、エジプト文字と同じ、言わば絵文字(hierogryphヒエログリフ)でした。いくつかの絵文字を組み合わせて動詞や名詞の発音を一つにまとめた文字や、物の形を図形化した象形文字、王の名前などでは紋章emblemのような特殊絵文字、が使われています。

次の例は「Wikiマヤ文字」に見つかるもので、戦いの武器である楯Shieldを例に解説したものです。
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左側は象形文字一字で“楯”を、右側の絵文字では3つの異なる音節を表す絵文字を組み合わせて一塊(かたまり)とし、“パカルpacal(a)”つまり、マヤ語で“楯”を表す音を表記しています。
右側の、音節を2~6つ組み合わせた文字形式が主流のようです。

音節や“物”を表わす絵文字や象形文字は、現在、千種ほど解読されています。
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解読の経緯を紹介するフィルムが今回ご紹介するYoutube「Cracking the Maya Code」です。米国人小説家コウ氏Michael Douglas Coeの本「Breaking the Maya Code (1992)」が切っ掛けとなり、米国人マヤ文明研究家リンダ・シーレーLinda Scheleや、マヤ文字と遊んだ天才少年だった米国人ディビッド・スタートDavid Stuartも加わって1997年秋に撮影が始まり、11年を要して、2008年に完成して公開された、壮大とも言える記録フィルムです。

恐らく、フィルムで重要人物になるはずだったリンダは、撮影開始から半年もしない1998年始め、すい臓がんで亡くなりました。享年55歳でした。

次の写真は、ネットで見つけたものですが、フィルムにも登場しています。リンダが亡くなる10年以上前のものだと思いますが、一緒に写っているのは天才少年ディビッドです。
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それではフィルムに戻り、その展開に沿ってマヤ・コードの解明の経緯をご紹介していきましょう。
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中央アメリカのジャングルの中で発見された無人の都市遺跡群はマヤと呼ばれています。ヨーロッパやエジプト、アジアの古代文明から完全に隔離された場所に栄えた見事な文明でした。

近代文明によって発見された時、無人だった遺跡には得体が知れないヒエログリフhierogryphが刻印されたり、陶器に描かれたりして残されていました。樹皮に文字が書かれた本4冊も残っています。これらの文字には、どんな秘密が隠されていたのでしょう?百年を超える努力の結果、今、マヤ文字の秘密は解き明かされることになりました。

16世紀、炎はマヤ文明を焼き殺しました。焚書です。
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マヤ文字で書かれた本を焼き尽くしたのはスパニッシュ・コンキスタドールと共にスペインからやって来た聖職者ディエゴ・デ・ランダDiego de Landaでした。
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聖職者ランダの使命はユカタン半島をカソリックに変革することでした。キリスト教徒のスペイン人には“悪魔の文明”や“迷信”は不要だったのです。この時、何万ものマヤ人が拷問を受け、殺害されることにもなりました。
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スペインによる占領以降、マヤ人はスペイン人と同じ言葉や文字を使うよう強制され、占領から2世紀後の18世紀には、マヤ文字を書くことが出来る人は誰もいなくなっていました。
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フィルムにリンダが登場し解説しているシーンです。“死亡deceased”と付記されています。ご冥福をお祈りいたします。
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マヤの都市群は紀元前200年頃に最盛期を迎え、数十万人が暮らす都市もありましたが、西暦900年頃には多くの都市は放棄され、寺院などのモニュメントがジャングルに飲み込まれてしまいました。おかげで、マヤ文明やマヤ文字については多くの不思議が残されることになったのです。

都市が“突然、放棄された”理由についてはブログ「マヤを殺したのは誰だ!」(2015年6月29日)でご紹介済みですが・・・結局、はっきりしてはいないのです!メキシコシティ近くのテオティワカンも突然、放棄されたようですから、共通する、メソアメリカに固有の理由があるのかも知れません。農業崩壊説が有力だとmhは思うのですが・・・

話をフィルム「Cracking the Maya Code」に戻すと・・・
リンダに見初められた天才少年デイビッドは1965年生まれで、撮影当時は40歳くらいで登場しています。
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若干18歳でマッカーサー奨学資金を与えられ、最年少記録を打ち立てたようです。

マヤ文字の解読が始まった理由の一つは、正確な現地情報が得られるようになったことでしょう。探検家たちが、何だか判らない絵文字を手書きして持ち帰っていただけでしたが、1880年代、アルフォード・マーズリーがカメラを持ち込み、絵文字を写真に収めました。
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その結果、世界中の人が、マヤに行かなくても、あるがままのマヤ文字を見ることが出来るようになったのです。食糧や撮影機材を運ぶ大勢のポーターたちを引き連れてジャングルの中を移動しながらの撮影は、並大抵の苦労ではなかったでしょう。でも~楽しかったかも知れませんね。
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次の写真はマーズリーが撮影したものです。
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上の写真から作成されたヒエログリフ。
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このヒエログリフを見ても、意味は何か、意味のない発音記号なのか、としたらどう発音するのか、など思い付くわけがありませんよね?でも、今なら判っているのです、意味や発音が!さて、どうして判るようになったのか???

マヤ文字の解明は、焚書を免れた4つの本が発見されたことをきっかけに加速していったと言われています。マドリード、パリ、メキシコ、そしてドイツのドレスデンで見つかりました。誰かがマヤから密かに持ち帰っていたのです。
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解読に最も貢献したのはドレスデンの図書館に残っているドレスデン写本Dresden Codexです。樹皮に書かれたもので、ガラスのケースに入れられ展示されています。
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この写本の存在は、学者達に気付かれていなかったのですが、1810年、写本の写本(?)が公開されると研究者コンスタンティン・ラフィネスクの眼に留まりました。
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ある記号を見たラフィネスクは数字だ!と判ったんです。マヤ文字で初めての解読でした。
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ドレスデン写本に描かれていた「棒と点」は次の数字でした。
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零(ゼロ)は貝(a shell)です。20進法が使われていたのです。
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また本題からそれますが~何故、20進法vigesimalだったのかっていうとですね、10進法decimalの原点は手の指の数ですが、20進法は、足の指も加えたんですね。で~マヤで20進法が採用されていたわけですが~その経緯はmhには判りません!どこかに、その経緯を記したマヤ文字の記録でもない限り、誰も判らないでしょう。で~10進法は~と言いますと、アラビアを経由してヨーロッパに伝わったので、アラビア数字を使って表記されていますが、発祥はインドです。

12進法Duodecimalもありますね。時計一周が12時間とか、1年が12月とか、1フィートが12インチとか。12を選んだ理由は星の運行からで、1年間における満月の回数、つまりカレンダーだ、と思ったのですが、手の指から来たという説が結構、有力らしいです!!!片方の手の親指で、その手の他の4本の指の骨(3個/指)を指しながら数える方法で、今もアジアの多くの地域に残っている、とWikiにありました。

閑話休題、数字の解読に引き続き、偶然ドレスデン写本を見たドイツ人が、月の満ち干や星の運行が記録されていること、金星が戦いの神として崇められていること、に気付きました。次の絵で、両手に武器を持って暴れまわっているのが金星の神です。
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何故、金星かっていうと、宵の明星、明けの明星とも呼ばれ、特に明けの明星は一等星の170倍の明るで燦然(さんぜん)と輝いていて目立つからでしょう。

更に、宇宙が創られた年をマヤが算出していたことも判明しました。
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それによれば“4Ahauアファウ8Cumkuクンク”で今判っている知識によれば紀元前3114年8月13日らしいです。

その後、英国人考古学者トンプソン博士Sir John Eric Sidney Thompsonによって1930年代から1960年代までに800以上のマヤ絵の分類が行われました。
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“トンプソン数”、または“T数”と呼ばれマヤ文字研究者たちのバイブルになりました。しかし、この時点では文字の解読には至っていません。よって文字と呼ばれずに“数:number”と名付けられたんですね。

次に現れた解読者は、1930年に大学を卒業したアメリカ人女性タチアナ・プロスクリアコフです。なんとなくマヤ文明に興味を持つようになったという彼女は、マヤを訪れ、遺跡の絵も描き始めました。見事な絵で、崩れかけている遺跡も蘇り、階段の数なども仔細に描かれ、新たな事実が見えてくる絵だと言われたようです。その彼女が、1958年ハーバード大学ピーバディ博物館の地下で、保管されていたマヤの資料の見ていて、あることに気付きます。
寺院の遺跡の前に並ぶ石碑・・・
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その石碑の写真に写されたマヤ文字を見ていて、石碑が5年毎に建てられて並んでいることに気付いたんです。
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更に、一番最初に建てられた石碑に彫られた像は必ず座っていて・・・
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その下には生贄が!
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このパターンは、他の寺院遺跡の前に並んだ石碑でも同じでした!

更に、一列に並ぶ石碑のいくつかには、「歯痛の絵文字」と彼女が名付けた、包帯を巻いた鳥の頭が描かれた絵が年代文字の前に記されていました。
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そして、更に、いくつかの石碑には「歯痛の絵文字」の年より12~31年前の年がイグアナの絵文字とともに記されていたのです。
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これを見て彼女は気付きました。石碑に描かれた人物像は神なのではなく、王または王妃の姿で、イグアナの年は誕生年で、歯痛の鳥の頭の絵の年に王または王妃に就任したのだと!イグアナも鳥も書かれていない石碑は、その年に王が行った戦などの行事に関する絵が彫られていたのです。
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つまり、寺院前に並ぶ石碑は、一族の歴史を表していたのです。

新たな発見もありました。ロシア人言語学者ユーリー・クノーロゾフは、第二次世界大戦時、ドイツの図書館でマヤ文字に関する本に出会い、これをレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)に持ち帰ると研究を始めました。

「20~35の記号でできているなら恐らくアルファベットで、各文字は単純な音を持っている。」
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(アフリカのソマリアのアルファベット)
「80~100なら、恐らく音節syllableに基づいている。」
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(アメリカ・インディアンのチェロキー族の音節)
「文字が数百なら、logographic表語文字、つまり一つの言葉を表す文字だ。」
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(漢字)
「マヤ文字は800種ほどで、アルファベットにしては多すぎるし、一つ一つの文字が異なる言葉だとすれば少なすぎる。」
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「恐らく限定的な表語文字体系だろう」と考えのです。しかし、一方では、どんな言語も一種類の記号だけで書かれることは無く、アルファベット文字体系でも数字や句読点などの記号と共に使われるのが普通だから、マヤ文字は表語記号と表音記号の組合せだろう、ってクノーロゾフは考えました。そしてマドリード写本の中の四方向を示している絵を分析してみたのです。
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西に当たる位置に記されている文字。“T数”を創ったマヤ文字解析の創始者とも言えるトンプソン博士によれば、手が完結を、丸い図形は太陽を表し、この組み合わせで“西”を表していることになっていました。
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しかし、クノーロゾフは音節の組合せだと考えたのです。手はチーchi、丸はキンkinだと。
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実はクノーロゾフはマヤ人が西をチーキンchikin、太陽をkinと呼んでいたことを知っていました。従って、手と丸を組み合わせた絵文字は2つの音節を組み合わせたchikinで、西westを表すと考えたのです。
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この考えが正しいことは今なら証明済みです。この考えに基づいた研究の結果、マヤ文字の解明が進むことになったのです。マヤ文字はマヤ人が使っていた言葉の音を表記したものだったのです。

しかし、東西冷戦の中、クノーロゾフと西側の文明との交流が少なく、また、マヤ文字の権威トンプソン博士に否定されたクノーロゾフの発想は西側の研究者に伝わることはありませんでした。

同じ時期、若きリンダ・シーリーLinda Sheleはマヤで石碑に描かれた文字に魅入られていました。1973年、彼女は再びマヤのパレンケPalenqueを訪れました。
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王朝の歴史を知ろうと思い、石碑の文字に記された年代とその時の出来事に着目して調べていると、それが、ある寺院の壁に彫られたマヤ文字に現れる年代と一致していることに気付きました。その人物とはLoad Shield(シールド:楯)でした。
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寺院の文字の中に、彼の紋章絵文字があったのです。白くライトアップされた四角の絵文字は楯Shildを表しています。
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すると、1948年の発見が意味を持つことになりました。その年、寺院に造られた階段が見つかり、地下の墓室にあった石棺の中には、翡翠のマスクを被った遺体が眠っていたのです。
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彼こそが“Load Shield楯王”に違いありません!初めて絵文字とマヤの王が結びついた瞬間でした。
寺院の壁にびっしりと彫られた絵文字はLoad Shieldと彼の子孫たちの王朝の歴史物語だと判り、これを解析することでマヤ文字の理解が加速することになりました。

しかし、王の名前が“Shiled楯”ではマヤの歴史をないがしろにしてしまいます。そこで後日、マヤ語で楯を表す“パカル”と改められることになりました。

しかし、まだマヤ文字を解読したと言うにはほど遠かったのです。ロシア人言語学者クノーロゾフの考えを完結する作業が残されていました。

これを進めたのがデイビッドです。彼は幼少期、父親に連れられてマヤを訪れていました。
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マヤ文字に興味を持ち始め、文字絵を自分で写し取ったりしていたのです。
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彼が描いたスケッチも残っていてフィルムで紹介されていました。
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アメリカに戻ったデイビッドはリンダの研究室を訪れました。父親が有名なマヤ文字研究者に会うチャンスを作ってくれたのです。その時、リンダはデイビッドが特殊な才能を持つ少年だと気づき、その夏、彼をつれてパレンケを訪れます。
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ディビッドはリンダがこれまで気付いていなかった絵文字の組合せ法則に直ぐ気付いたようで、リンダは「とても驚いた」と言っています。
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マヤから帰ると、若干12歳のデイビッドはマヤ絵文字に関する論文を書き上げました。それはかなり高度なもので、学者の3分の2は理解できなかったのではないかと言われています。
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デイビッドはマヤ文字の解明に没頭し、大学の卒業も遅れてしまうのですが、その時に偉大な発見をしたのです。

それまでトンプソン博士が“プラス、マイナス”を表す記号だと考えていた絵文字
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デイビッドは“イウティi u ti”、“ウティヤ u ti ya”と読んだんです!
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マヤ語でiutは“そして起きたthen it happened”を意味し、ウティイutiyは“それが起きたのでsince it happened”を意味し、この読み方を適用してみたら、文字が羅列されたレリーフや石碑の記述が意味を持ち始めたといいます。
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調べるにつれ、“ウu”の音を表す絵文字はいくつもあることが判ってきました。
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一つの音が沢山の文字で表されていることはマヤ文字の解読を困難にしていた一つの理由でした。
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そしてこれらの音節記号を組み合わせて一つの言葉としていたのです。
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ウトウパ:彼の耳飾り(mh:彼は“王”を指しています。)
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ウバキ、ウバック:彼の骨
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更には、文字と共に彫られたり描かれたりしている人物像・・・
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王と従者たちと思われる絵・・・
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絵に添えられた文字から、左側の蛇の口から祖先が現れる様子を表現したものだと判りました。
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つまり、絵が描かれたヒエログリフはマヤの人々の歴史や神話、王の偉業などを表す絵物語だと判るようになったのです。

今、ユカタン半島に暮らす原住民の間で、マヤ文字を学ぶ運動が起きていると言います。
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マヤ文字で残されていた古代マヤ人の歴史、信仰などが解読されるにつれ、祖先の思いを理解したい、との気運が高まっています。
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昔から密かに続けられていたマヤの宗教儀式も、堂々と行われるようになりました。子供の名前も、これまではスペイン的なものばかりだったのですが、マヤの王や王女の名前が使われるようになったと言います。
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祖先達の歴史を知ることでマヤ人としての誇りが生まれたのです。

PBS Nova S35E14 Cracking the Maya Code Full Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=uoHezZpSRPE

(補足)
ドレスデン写本の6~8ページです。
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8ページ目の上の図をスケッチしたもの。擦り切れている部分も描かれています。
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オルメカ文明遺跡で見つかったヒエログリフ。
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数字の表記はマヤ文字と同じです。絵文字も雰囲気が似ていますが、Wikiによればマヤ文字との直接的な関係は認められていないとのこと。でも~かなり似ていますね、絵柄が!こちらの方は絵柄もシンプルで、“音節”の組合せも単純で、彫りは“沈み彫り”で原始的です。マヤ文字では絵柄が凝(こ)っていて、音節の組合せ数が多く、つまり複雑な言葉が使われていて、彫りは“浮き彫り”で絵柄が浮き出るように彫る、手が込んだ手法です。絵柄の複雑度や彫りの違いはありますが、絵柄は似ていて、文字が残る地域はオーバーラップしていますから、オルメカ文明とマヤ文明は一つの時間軸に乗っている同種のものではないかと思うのですが、何故、そうではないとの見方がなされているのか?お釈迦様が仰る通り、そこには因果応報の真理が働いていると思いますから、心を虚に、先入観を排除して眺めるというか、調べ直さないと真実は見えてこないのでしょう。遺骨のDNA分析とかミトコンドリア分析などから人類学的に調べられたとしたら、2つの文明は繋がるはずだと思うのですが、そう考えること自体も、まだ心を虚にしていない証拠で、どうも、mhはせっかちでいけません。

(完)

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