Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

西アフリカの不思議

今回はイギリスの芸術歴史家Art Historianガス・カセリー・ヘイフォードGus (Augustus) Casely-Hayfordがキャスターの「アフリカの失われた王国Lost Kingdoms in Africa」の第三弾「西アフリカWest Africa」をお送りしましょう。
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GusのLost Kingdoms in Africaシリーズでは「契約の箱とエチオピアの不思議2015年11月23日」、「バーバー王国の不思議2015年12月28日」をお送りしてきました。

今回のブログの舞台となる西アフリカでは、13世紀から17世紀にかけて繁栄したマリ帝国の首都ティンブクトウにスポットを当てた「ティンブクトゥの不思議2015年5月25日(Digging for the Truth)」もお送りしています。ギニア共和国、マリ共和国、ニジェール共和国を通ってナイジェリア連邦共和国で大西洋に注ぐ全長4千2百Kmの大河ニジェール川the Niger Riverの中流にティンブクトウTimbuktuがあります。
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共和国Republicというと君主を持たない国ですが、ナイジェリアは連邦共和国Federal Republicで、どことの連邦かっていうと大英帝国ですね。しかし、現在は選挙で選ばれる大統領が元首で、英国王室の実権は及んではいません。

今回のフィルムにはベニン王国Benin Empireが登場します。ナイジェリアにあり、ニジェール川河口西岸の現ベニン・シティを首都とした小国でした。大河ニジェールの河口ってことは・・・マリのティンブクトウなんかとも関係があるのかな?って言うんですか?さすがですねぇ、少し違っていますが、いいとこ突いてます!

で~地図を見るとナイジェリアの西にベニンBenin共和国があります。この国はベニンという名門の名を国名にしていますが、歴史的にも地理的にもベニン王国との直接の関係はありません。

で~、ナイジェリアにあったというベニン王国の文化は、ニジェール川中流域のティンブクトウではなくて、ティンブクトウから250Kmほど南のドゴンDogon台地辺りを起源としているようだっていうんですね。
(ドゴンDogon台地)
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勿論、お釈迦様が仰ったように、因果応報、原因があっての結果です!ニジェール川が一役も二役もかっているのは当然だと思うのですが、それについては何のコメントもありませんでした!残念です。

ま、それはさて置き、フィルムでは青銅bronzeの楯plaqueや像statueから話が始まるのですが・・・
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青銅って言うくらいですから青い銅ってことでいいんですが・・・
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青銅bronzeの主成分は銅Cuと錫(スズ)Snですね。スズの含有量が少ないと黄色で、10円硬貨。スズが増えると黄金(こがね)色、更に増えれば白銀(しろがね)色になります、青じゃぁありません!で~大気中で銅が酸化し、緑青(ろくしょう)と呼ばれる酸化物が形成されてくると青くなります。
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いずれも見事な芸術作品だと思います。もしナイジェリアに旅行したら是非、レプリカを買ってきたいと思いますが、結構おもそうなので、さて、どうしたものか・・・行く前から悩んでしまいます。

さて、下調べもざっと終わったところで、フィルムのご紹介を始めましょう。
・・・・・・・・・
アフリカ。人類発祥の地。およそ10億人が暮らす、信じられないほど多様な社会と文化の大陸。
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しかし、その歴史は他のどの大陸よりも知られていない。今、それが変わりつつある。
(Niger川の夕焼け)
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最近の数十年間での考古学的調査によって、他の大陸と同じような広範な活動が行われていたことが明らかになっている。その歴史が記録されたものが少ないことから、長年、無視されてきた。しかし、黄金、銅像、文化、芸術、伝説などから、アフリカの過去が明らかになってきたのだ。
(ナイル中流ヌビアNubiaのピラミッド)
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私の名はガスGus。何年もの間、アフリカの歴史や文化を学んでいる。
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芸術歴史家として、昔から伝わる対象物を絵に描いて研究に活用している。私はこれから歴史を発見しようと考えている。アフリカの失われた王国で、一体、何が起きていたのかを探し出すのだ。

アフリカに関する多くの物語は、ここロンドンの大英博物館から始まる。
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ここにはアフリカ大陸で収集され、購入され、搾取された数千の手工芸品が集まっている。西アフリカの品物が最初に発見された時、世界は驚愕した。
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この展示品は5百年前にベニン王国で造られたものだ。
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1897年、英国人が初めてこれらの作品に出会った時、彼等にはアフリカ人が造ったものとは信じられなかった。精緻で、錯雑(?intricacy)で、英国人にも深い感銘を与える卓越した芸術性を備えている!
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これらのアーカイブは銅が多めの真鍮(黄銅brass)や青銅bronzeで、900以上の楯(plaqueプラーク)が造られていたと考えられている。粘土の型に溶融した金属を流し込んで鋳造する、極めて高度な技術と技能が使われていた。
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アフリカ人のような原始的な人種が、いくつもの技術を組み合わせて当時のヨーロッパと同じレベルの手工芸品を造る技術を持っているなど、ヨーロッパ人にはとても信じられないことだった。
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どこで青銅鋳造技術を手に入れたのか?どこで材料を見つけたのか?
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手掛かりはこれらの作品が見つかった場所に残されているはずだ。多くは西アフリカの王国で造られたことが判っている。何故、これらを造ったのか?どんな意味があるのか?造られた時期と場所について何を語っているのか?
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いくつもの青銅の楯に登場している豹・・・
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王宮の屋根に横たわる蛇・・・
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これらの動物が象徴しているものは何か?何故、これが重要だったのか?

きっと、我々には理解できない原点を持っている!ブロンズはベニン王国の何を語っているのか?西アフリカが植民地化する前の何を伝えようとしているのか?

それを探して16世紀に最盛期を迎えていたベニン王国があった国、ナイジェリアを訪れるつもりだ。
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更に昔に遡(さかのぼ)る旅もする。ベニン王国よりも古い町があるマリ共和国で、ベニンの技術や芸術を可能にした源を探すのだ。
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まずベニン・シティを訪れた。かつてのベニン王国の首都だ。ナイジェリアで繁栄している都市の一つで1百万人以上の人々が暮らしている。町の中心の円形広場にはベニンの歴史を表す像や芸術品が飾られている。
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19世紀までの6百年間、一帯を統治していた。
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16世紀、王国は堀と城壁に囲まれていたという。
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今では注意しないとわからないが、考古学者たちの調査結果に寄ればジグザクに折れ曲がる9mの高さの城壁が、信じられないことに6千4百Km(注を参照)に渡り町を囲んでいた!!!西アフリカにおける文化、政治、商業の中心だった。王国は代々、ウーバー家が暮らす広い王宮から統治されていた。
(注:ベニン王国を囲んでいたという堀と城壁ですが、全長1万6千Km(!)で、万里の長城の4倍、人間が造った地上最大の構造物とネットにありました!!!)
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彼等の精神は、子孫だけではなく、動物や楯や芸術の中に残されていると信じられている。
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最盛期の軍事的経済的な勢力は40,000平方マイル(日本国土の1/4)に及んでいた。19世紀、英国はベニン王国を足掛かりにアフリカでの勢力を拡大しようと貿易協定を結んだが、関係は悪化し、英国からの派遣団は王宮に近づかないように警告されたにも拘らず攻め入って、200人を殺した。生き延びたのはたった2人だ。1ヶ月後、1897年、英国軍1千2百人が事後処理のために到着した。都市の城壁は彼等を留めることができず、王国は崩壊することになった。
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英国軍は王宮内で手工芸品を見つけた。アフリカで作られたとは思えないものばかりだった。
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2千にのぼる品は持ち去られ、売られ、西洋の博物館に分配された。ベニン王国にとって文字通り崩壊的な敗戦だった。

しかし、その記録は、中央広場に残る近代のモニュメントからは伺えない。そこではベニン人兵士が死にゆく英国軍兵士の上に立って勝利を祝っている!
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ベニンでは歴史は勝利者によって書かれてはいない。芸術家が書いている!
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しかし、ベニン王国が消滅していた期間は実は短い。1914年、植民地ナイジェリアを支援するため、英国はベニン・シティで王政monarchyの復活を認め、王宮も再建した。
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王国の伝統は残された。世襲の王と世襲の側近たちが毎日開催している集会に私も招待された。それは単なる象徴的会合ではなかった。持ち込まれた問題は、ここで討議され実施に移される。つまり、この王国はナイジェリアの政府と同格なのだ!(mh:ベニン・シティ限定でしょうから、規模は当然小さいのです。)

豹の像を足元に置いた玉座の王を見ていると、青銅の楯に描かれた絵に命が吹き込まれたようだ。
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王の説明によれば、青銅の楯に描かれているのは王宮での様々な行事や出来事で、歴史写真のようなものだったという。
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青銅鋳造のギルド(guild同業組合)は今も残っている。
(ベニン青銅鋳造同業組合;世界遺産サイト)
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(mh:調べると、かつて“ベニン”として世界遺産登録リストに仮登録されたようですが、青銅鋳造場所が登録されたっていうのは、円形広場の勝利の像と同様に“作られた事実”だと思います。)

主な商品は旅行者向けの土産品だ。しかし、製造方法は16世紀の技術と同じで、特に王宮向けの品物を造る技術者集団はギルドの頂点に立っているという。
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まず粘土で芯になる像を造る。その周りをワックスで固め、口とか目なども細工して原型を造る。その原型を泥で覆い、火に入れる。すると泥は固まり、中のワックスは溶け出てしまう。そこに溶かした金属を流し込む。
(mh:ロストワックス鋳造lost-wax castingです。)

16世紀、ポルトガルの貿易商が持ち込んだ銅製のブレスレットを溶かして真鍮brassや青銅bronzeの鋳物を造った。今は、どんな金属でも溶かして利用されているようだ。
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冷えたら泥の外型を金属棒で叩いて割る。こうして、キリスト教用の飾り(mh:手のようです)が数世紀も前の古い技術で造られている。
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(mh:ナイジェリアでは北部でイスラム教(50%)、南部でキリスト教(40%)、その他として土着の宗教(アミニズム:10%)が信仰されています。)

青銅の楯や像は、陶器技術と鋳造技術と芸術センスの塊だ。同じ技術が5百年前も必要だった。それが当時のビクトリア朝の英国人には信じられない技術だったのだ。
しかし、今、店に並ぶ商品は16世紀の品物のレベルに到達していないように思える。
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かつての王宮お抱え技術者が造った高品質の製品は中央広場のベニン博物館に展示されている。
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悲しいことだが、1897年に持ち去られた製品のレプリカが多い。例えそうだとしても、製品の錯雑(?intricacy)には驚きを禁じ得ない。どれも歴史書物を見ているようだ。着物も布地まで細かく描かれている!
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多くの製品は16世紀以降のものだ。王国の拡大を成し遂げた戦いなど、特別な出来事を描いている。この楯の絵は、エガラーの戦いでポルトガルの援助や武器のおかげで勝利したオーバエスジーが、お供の者と凱旋している図に思える。
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多くの楯は彼が王位にいた時代に造られた。その時、青銅の材料の多くはポルトガルが提供した。

しかし、こちらの豹の楯はポルトガルが来る前に造られたものだ。
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どこか別の所から金属材料が持ち込まれていたのだ。表現されているシンボルも楯とは異なる種類だ。どこからやって来たのだろう? 答えは西アフリカのダイナミックな、失われた文明の中にあるのかも知れない。

ベニン王国が生まれる数千年前、西アフリカでは、いくつかの王国が生まれては滅びていた。王国の間に固定の国境はなく、従って王国固有の文明とか文化というものもなかった。
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王国は貿易ルートで繋がっていた。14世紀になると、マリ王国が他を圧倒して繁栄していた。その首都はティンブクトウだ。
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5百年前に栄えたベニン王国の鋳造技能者の技術の源を探して、ティンブクトウを訪れてみることにした。
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1300年代、マリは西アフリカで最も力がある王国だった。皇帝マンサ・ムーサが世界で一番金持ちの男だと考えられていた時期もあった。
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彼は莫大な黄金を所有し、ヨーロッパにも名を轟かせていた。ティンブクトウはサハラの重要な交易ルートが集中するハブ都市で、富と権力の象徴だった。
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アラブ商人は砂漠を越えて絹、繊維、新しい金属類などを持ち込み、商いをしていた。ティンブクトウの裏通りでは今も金属業者が営業している。
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14世紀、駱駝の隊商は北アフリカから純銅を持ち込んでいた。それはさらに南のベニンにも運ばれていたという。
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しかし、銅の入手方法はこれだけだったのだろうか?他からも銅が運び込まれていなかったのだろうか?

アラブ商人が持ち込んだのは商品や銅だけではなかった。イスラム教も持ち込んだ。それは間違いなく、ベニンとは異なるものだ。

この地の歴史家に訊いてみた。
ガス「青銅の楯のイメージは、ティンブクトウと何か関係あるでしょうか?」
歴史家「この一帯で、こういう青銅の楯を見つけることは出来ない。というのは、イスラム教の教えで、我々は人間を描いた絵や像を造ることは禁じられているのだ。」
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「ここで見つかるのは幾何学的なデザインや文字飾りや土器だけだ。イスラムは読み書きを持ち込んだ。どんな理由があろうが、我々が人間の姿や像を取り扱う事はないんだ。」
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ティンブクトウの物語は大学や図書館に残る書物を使って教師や学者だけが語り継いでいるだけだ。手工芸家のギルドなどがあったという話はない。ティンブクトウは銅材料を南に供給する場所だったかも知れない。しかし、青銅の楯が持つイメージや技術はティンブクトウのものではなかった。

しかし・・・もう一つ、西アフリカで重要だった都市がある。ティンブクトウから南に350Kmの町ジェネーDjenneだ。
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そこでベニンの青銅文化や技術に関係する手掛かりを見つけられるかもしれない。
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西暦800年頃、ニジェール川の畔にジェネーは造られた。ティンブクトウより3世紀前、ベニン王国で青銅が鋳造されていた時期より800年も前のことだ。
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ここがジェネーDjenne、西アフリカの大きな市場marketの一つだ。市場が開いている時、人口は3倍に膨らむ。
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ジェネーは13世紀以降ずっと繁栄してきた市場だ。大きなモスクが町を睨(にら)むように威圧している。
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ここは単なる地域の市場ではない。遠い場所とも繋がりを持っている。その証拠は市場で見つけることが出来る。
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これはビーズだ。インドや中国で見つかる石が使われている。2千年以上前にも見つかっている。
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昔、恐らく西アフリカで最大の市場だったはずだ。交易で生み出された富はモスクだけではなく、この地域一帯の生活を支えていた。モスクの前の広場に立つ市は何キロも離れた場所から多くの人々を呼び寄せていた。
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アフリカの重要な地点にある大きな市場ジェネーは、昔から、いろいろな王国に占領される歴史を繰り返してきた。しかし、この町独特の伝統を今も残している。泥で造られている建物は、西アフリカの他の場所のものと異なる。

この綺麗な建物の形や構造には全て意味があるという。
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左右の柱の上を見ると、2人の女房が暮らし、中央の上にある5つの突起から、子供が5人いることが判る。

この象徴法は、北に320Kmのティンブクトウの、偶像を禁止するイスラムの文字表現文化よりも、南に900マイル離れたベニンの技能者たちの芸術的な考え方に似ている!この建築技術者たちの発想がベニンに伝えられたのではないだろうか。全ての家は視覚的な物語を持っているのだ。家族の者が死んだり、新しく子供が生まれたりすると、泥の家の象徴部は修正される。
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ジェネーの泥建築士はベニンの技能者と同じように世襲で伝えられているギルド(同業組合)を持っていた。昔から伝わる、独特の信仰に基づいた建築方法が今も残っている。泥にコメ、コーン、花の種などを混ぜて特別の煉瓦を造り、これに神秘的な魔力を込めるという。
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魔力をもつ煉瓦を5つ造り、建物の四隅と中央の柱に埋め込めば、人が住んでも壊れないという。この考えはベニンで見つかる豹や王宮の屋根の蛇の文様と繋がりがあるのだろうか?

ジェネーは大陸内部のデルタに造られた最初の都市ではなかった。2マイルも離れていない所で、サハラの南では最も古い遺跡の町ジェネー・ジェノーDjenne-Djenoが考古学者に発見されている。ガイド、考古学者と共に訪れてみた。
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何世紀もの間、ジェネー・ジェノーは忘れ去られていた。歴史的意味は全く判っていない。しかし33年前、考古学者チームが、この円形の大地moundの泥の下5mに、ベニンより数千年古い都市の証拠を見つけたのだ。
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紀元前200年から14世紀まで繁栄していた町の跡で、イスラムがやってきたことで終息したと考えられている。イスラムが来た時、ジェネー・ジェノーには宗教が異なる彼らが暮らす場所がなかった。そこでイスラム教徒は今のジェネーに町を造り、大きなモスクも建てた。そこが繁栄し始めると、ジェネー・ジェノーの住民も移り住んだのでジェネー・ジェノーが消滅したのではないかと考えられている。
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しかし、ジェネー・ジェノーの歴史的な価値は今も残されている。古い手工芸品が見つかっているのだ。それらは、この場所が紀元前200年から交易の中心地で、人が住んでいた証拠だと考古学者たちは考えている。証拠は今も地面の上に散らばっている。土器の欠片、それに金属片も!
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つまり鍛冶工blacksmithが居たのだ。この金属技術はサハラ以南で最も古いものだ。

さらに、古代から残されていると考古学者が信じているものがある。ギルド(同業組合)だ、ジェネーの石工masonやベニンの青銅鋳造者と同じように。
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ジェネー・ジェノーには鉄鉱石鉱山は見つかっていない。しかし、110Km離れたドゴンDogon地帯には今も伝わる実例がある。これからそこに行って、何故、どのように、文化と伝統が残ることになったのか、ベニンの青銅技術と関係があるのか、調べてみよう。
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ドゴン族はバンディアガラBandiagara台地の裾に点々と続く小さな村に暮らしている。サバンナから立ち上がる崖は160kmも続く見事な景観を提供してくれる。
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現地ガイドのケニーと一緒に台地の上までやってきた。
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考古学者達は、ジェネー・ジェノーの鉄はこの辺りに今も見つかる鉄鉱石が使われているのではなかろうかと考えている。ここに鉄技術の伝統が長い間残っているのも不思議ではない。
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考古学者たちによれば西アフリカの鉄技術は紀元前5百年頃に始まったという。ドゴンの社会の中で、鍛冶工は、ジェネーの石工やベニンの青銅鋳造者と同じように、特別な地位を築いている。

ガイド「この村で、この家系だけが鍛冶工だ。それが伝統だ。技術は父から子に受け継がれるだけだ。石炭も鉄鉱石も手に入れる。彼等は魔術師のような存在なのだ。」
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鍛冶工は鉄鉱石から鉄器を造るだけではない。木材から像やお面(マスク)を彫り出す仕事もしている。
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13世紀からずっと続く伝統だという。その成果を今夕、葬儀の一部として行われる儀式で見ることが出来るという。

ドゴンに人が住み着いたのは紀元前1万年頃らしい。確かなことを知る人は誰もいない。しかし、これらの儀式は何世紀もかけて発展し、今に至っているはずだ。人々が木製の面をつけて踊っている。
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これが、私が探し求めていた青銅の楯に現れるシンボルに繋がるものだろうか?
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これは死者の霊のお面だ。
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そしてこれが鷺(サギheron)だ。エレガンスを表現している。マスクや衣装で、動物の特徴を真似ている。
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ドゴンの伝統は何世紀も前に600Km離れた地から、この一帯に移ってきたという。イスラムに改宗させられるかもしれないとの恐怖から、隔絶した安全な地で暮らすことにした人々がいたのだ。

これが蛇だ。
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そしてこれらの部族が被っているのはトカゲの面だ。
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何世紀もの間、動物を象徴化して生活に取り入れているドゴン文化は、世の中の変化を受け付けることなく、支配者たちの圧力にも屈せず、独自性を保ち続けて来た。そして、このような見ごたえのある儀式が今も行われている。信じられないことだ。
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翌朝、ドゴン文化を表す別の証拠を見に出かけた。
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部族長で精神的なリーダーでもあるホゴンHogonの倉庫の窓の飾りは、彼の家系図を示すものだという。
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アカシアの樹を彫って作っている。これが祖先だ。
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ベニンの青銅の楯のデザインと比べると単純な技術だが、その目的は全く同じだ!
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文化的な遺産を記録や形にして残す考えは、ドゴンの文明、ベニンの鋳造技術者、ジェネーの石工、西アフリカの鍛冶工のギルド(同業組合)に共通している!
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ドゴンで暮らす人々と動物のシンボルの関係をもう少し調べるため、小さな村の長老たちと会うことにした。
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私が描いた動物のスケッチを彼等に見てもらうのだ。
「豹の伝統のようなものはありますか?」
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「豹はこの男の祖先を表している。もし誰かが豹を傷つけたり殺したりしたら、彼の家系にも重大な問題が起きるんだ。」
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「で、蛇についてはどうですか?」
「蛇は村のリーダーのホゴンの守護神だよ。」
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動物は種族の祖先を意味していたのだ!今から500年前、ドゴンから1300Km離れたベニンでも同じ意味だったのだろう。

この一帯には昔から土着の金属技術もある。
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しかし、ベニンの青銅鋳造では、ドゴンの技術より高度なものが必要だ。少なくとも粘土を使いこなす技術がなければならないのだが・・・

実は、このドゴン台地には、2千年前から泥を使う技術が使われていた証拠が残っていた!
「2千年前、この辺りは森林が広がり今よりずっと緑が多かった。森では多くの動物を狩猟することが出来た。」
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崖の下に抱かれるようにあるのは“アフリカの不思議”の一つだ。
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ケレンという部族が2千年前から暮らしていた跡だ。崖の下に造られていたため、今も良い状態で残されている。
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この構造物は余剰食料を保管する倉庫として使っていたという。生き残るというより繁栄するための倉庫だったのだ。

構造物は形状が美しいだけではなかった。装飾されている!倉庫の外壁に指で模様が描かれている!
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単なる倉庫ではなく、芸術性も付け加えた建物を造っていたのだ、2千年も前に!ある種のルネッサンス、文化の変化だったと言えるだろう。動物を捕獲し食糧を採取するだけの単純な生活に芸術性を付け加えていた。彫り模様がある枕、宝石類、金属製品も見つかった。数世紀以上も前に放棄されたというが、理由は誰も知らない。

しかし・・・宝石や倉庫の飾りなどが2千年前にこの地に出現していたという事実は重大な意味を持っている。ベニンの青銅鋳造よりも何世紀も前に、西アフリカ固有の芸術的な文化の発展があったのだ!
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この近くのジュグと呼ばれる場所で、更に驚くべき発見があった。それはアフリカの歴史を書き換えるものだ。発掘したのは考古学者ではなく、自然だ。川の浸食だった。
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2つの川が出合うこの場所は水位はもっと高かった。水は岸から溢れて方向を変えた。
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そして川が泥の中から彫り出したものが考古学を変えることになった。堆積した土壌の層の中に歴史の断面が現れたのだ!
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2002年、国際的な考古学者チームが前史時代の人間活動の証拠を見つけた。ダーマデン渓谷のこの遺跡は、今は国の考古学的遺産として保護されている。

考古学者達は、堆積層を掘り起こし、ある堆積層で土器の破片を見つけた。異なる年代の堆積層からは別の土器の破片を見つけた。
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土器の破片の炭素年代測定を行った結果は1万1千4百年前のものだった!ここで土器を使っていた人々は英国よりも8千年も前に出現していたのだ。アフリカで発見されたどんな土器より2千年も古い。世界で最も古い土器の出現時期と同じだ。
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この破片は人々の生活を完全に変えることになった土器のものだ。物を運び、保管することに使われていたはずのものだ。
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これこそ革命と言えるだろう。ヨーロッパが氷河期からやっと現われ始めた頃、アフリカは文明の先端を走っていたのだ。

英国人はベニンの青銅芸術の素晴らしさに気付いた。そしてそれを1897年に持ち去った。
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彼等は、アフリカ人には作れないはずだと考えていた。しかし、西アフリカには技術があったのだ。それが明らかになったのは最近のことだ。
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青銅の文様は、ベニン王国だけではなく、もっと古い歴史の内面も語っていた。いくつもの固有の文化や伝統は結びついていたのだ。
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西アフリカの王国はいくつもの側面を共有している。土器、金属製品。そして芸術を通じて語られる歴史。これら全てがアフリカの真実なのだ。
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Lost Kingdoms of Africa 4 of 4 West Africa
https://www.youtube.com/watch?v=QW_kaUuUg8Y
(完)

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