Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

Confuciusの不思議

Confucius(コンフューシャス)とは何か、ご存知ですか?孔夫子がラテン語化しヨーロッパで使われることになった言葉ですが・・・

夫子は先生の尊称。Confuciusは孔先生。つまり孔子です。
Wiki:孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐコン・ズー)
紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日。春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏(うじ)は孔、諱(いみな)は丘、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。
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仏陀とほぼ同じ時代を生き抜いた思想家で、仏陀同様に背が高く、仏陀同様に女房殿や子供たちを捨てて自分の考えを貫きました。仏陀同様、自筆の書は残しませんでしたが、仏陀同様、弟子達が纏めた彼の思想は残りました。「論語」です。

論語は512の短文を全20篇に纏めた冊子で、第一篇「学而」第一章は次の通りです。
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「子曰:學而時習之,不亦說乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知而不慍,不亦君子乎?」
(子曰(いわ)く「学びて時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)まず、亦君子ならずや。」)

文庫本の「論語」もあります。次のURLで全文を見ることも出来ます。
http://kanbun.info/keibu/rongo00.html
既に読まれた方は、孔子が遺したいくつかの名言を至宝の教訓とされているのではないでしょうか。

中国・山東省・曲阜(きょくふ)の孔子廟
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大成殿(本殿)
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本殿内部
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萬世師表:いつの世でも師である。(mh訳)
新文在茲:新しい文化が茲(ここ)に在る。(mh訳)

中国が紛争に明け暮れていた春秋時代(紀元前770~同403)、魯(ろ)公国を拠点に活動しました。
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今回はYoutube「Story of Confucius孔子物語」を使い、孔子の生涯をご紹介しましょう。

おぉ!話がそれますが「孔子物語」から「論語物語」を連想してしまいました!「次郎物語」の著者下村湖人が、孔子と弟子の間の出来事のいくつかを纏めた論語物語は、胡人の孔子観が強く現れ過ぎているきらいもありますが、素晴らしい本だと思います。皆さんも、この中の一節を国語の教科書などで読んだことがあるかも知れません。

それではフィルムの内容をご紹介いたしましょう。
なお“孔子自身が話している”言葉は【】で括(くく)りました。
・・・・・・・・・・・・
【神が創った全てのものの中で、悪意を持っているmalicious(?)ものは大地だ。最も偉大なものは人間だ。天の目的は我々人間の中に仕込まれている。】
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彼は中国で最も尊敬される聖人の一人だ。何百万もの人々が彼の聡明さを讃える。しかし、崇高な知恵に到る孔子の道には苦難の涙の跡が続いているのだ。
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多くの血が流されていた時代、彼は結婚していない10代後半の母から生まれ、貧しく、苦労して生き抜いた。人々の苦難を忘れたことは無く、社会に蔓延(はびこ)る抑圧を解消することを誓った。
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Tu「彼はゲームの規則が明確ではなく、受け入れられないと明言した。彼は政治的秩序を変える思想を打ち出し、かつ実践しようとした。」
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彼は妻を捨て、子を捨て、中国の未来のために戦った。(mh:この辺りもお釈迦様と似ています。)
金持ちや権力者の貪欲な手法に立ち向かった。自分勝手で冷酷な敵に向かい、中国各地で勇気を持って平和と正義を支持した。

彼は、自分が失敗したと信じながら死んだ。しかし、今日、アジアの何百万人もの人が彼の教えに従って、輝かしい繁栄に向かって立ち上がっている。
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Roger「2千5百年後の今日においてさえ、孔子という特別の人間を引き合いに出さず、人々は“中国的な事Chineseness”について語ることは出来ない。」
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これは孔子という偉大な人物の物語だ。駆り立てられ、家庭を見捨て、人々を助けた。世の中を良くしようと知恵の限りを捧げ続けた、苦悩の男。
「Confucius; Words of Wisdom孔子;知恵の言葉」
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中国。キリスト誕生の550年前、古代の高度に発達した文明があった。
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中国の天才たちは文字を発明し暦を創り、法を整備していた。複雑な鉄器を鍛造し、素晴らしい青銅器を鋳造していた。
しかし、キリスト誕生の550年前、華やかだった中国は突然、暗黒に飛び込んだ。
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Tu「紀元前6世紀、中国は重要な変革の時期に入った。つまりある種の政治的秩序を維持していた封建社会が分解を始めたのだ。」

Morris「政府は弱体化していて事実上はないも同じだった。数多くの封建社会の統治者たちが中国を支配しようと覇を競った。その結果、絶えず戦いが行われ、社会はいつも混乱していた。」
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この暴力的で混沌とした時期に孔子は生まれた。ある時期に平和について教えた哲学者が、人も恐れる戦士シュー・リャン・ホー(叔梁紇しゅくりょうこつ)、の息子だというのは皮肉だ。
叔梁紇(しゅくりょうこつ)は巨大な男だった。
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飛び抜けて醜くかったが、非常に強かった。彼の暴力的な人生の末期、彼の上官が長年にわたる彼の功績を讃え、報奨として、今の北京から560Kmにある“ちょTsou”という長閑(のどか)な村の統治者の職責を与えた。
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“ちょ”で老齢の戦士は快適な老後を過ごしたが、彼は一人でじっとしてはいなかった。
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かれの人生の願望は満たされていなかった。何年もの間、2人の妻と9人の娘、1人のびっこの息子だった。彼は健康な息子がほしいと望んでいた。彼の執着は少女チェンチャイ(徴在ちょうざい)を妾(めかけ)にする結果となった。
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彼女は16歳で彼は70歳だった。徴在(ちょうざい)は彼の長年の人生の夢を叶えた。健康な男の子だ。伝説は、この驚くべき出産を奇蹟だと伝えている。
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Julia「伝説によれば、孔子の母は野原に出かけ、そこで“黒い皇帝”と呼ばれる人物の姿を夢の中で見た。彼はどんどん大きくなり、彼と彼女は結合し、夢から覚めると彼女は妊娠していた。」
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このような伝説にもかかわらず、新しく生まれた子供は異形で異常だった。巨大で醜く、鼻は曲がっていた。
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Roger「彼は台地とか塚を表すチョウ(丘)と名付けられた。伝説によれば、孔子が生まれた時、彼の頭の頂点は窪んでいて、頭の周辺は出っ張っていて、言わば冠(かんむり)のようだったらしい。」
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赤子の丘は後年、彼が中国で最も有名な師となった時、父や祖先の名の孔を与えられ、“師の孔”を意味する“コン・フー・ザ孔夫子”と呼ばれるようになった。
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彼が死んで21世紀過ぎてから、キリスト教の宣教師たちが彼の名前をラテン語に直し“コン・フー・ザ”は“コンフューシャスConfucius”と呼ばれるようになった。
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この名が世界中に知れ渡り、今では“師の孔Master Kong”と呼ばれることはなくなった。

悲しいことだが孔子は彼の父について知ることは無かった。叔梁紇(しゅくりょうこつ)は孔子が誕生して3年後に死んでしまったのだ。
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悲しむ孔子と母を、新たな悲劇が襲う。叔梁紇(しゅくりょうこつ)の家族は2人を認めなかった。葬儀にも出席させてもらえなかった。
Julia「孔子の父親は大家族をもっていた。しかし彼は金持ちではなかった。既に多くの娘たちに資産を分け与えていて、びっこの息子のためにも何がしかを残さねばならなかったからだと思うが、孔子の父は健康で元気な男の子を持てたことで幸せだったと思う。彼の年老いた妻たちや娘たちは、彼と同じように喜んでいたとは思えない。」
親戚から見放され、孔子と母は食べ物にも困るようになった。彼等は人里離れた小さな村を離れ、16Kmはなれた曲阜チュー・フーに向かった。曲阜で彼等は新しい生活を捜し求めた。しかし、彼等の厳しい試練はその時に始まったのだ。
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父の家庭から拒絶され、孔子は繁栄していた都市曲阜にやって来た。
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曲阜における若い孔子の生活は厳しかった。食事も不十分で、母親は狭い畑で野菜を育てるのに苦労して働いていた。彼らが生き残るには、孔子は母親を助け、自分たちだけでなんとかするしかなかった。
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Tu「彼はあらゆる肉体労働をした。他人の家の床を掃き、家を掃除し、市場に買い出しにも行った。彼は、あらゆる肉体労働をしたので、人々の生活についてその奥まで理解するようになった。しかし、彼には際立った特徴があった。それは学問に対する信じられない程の好奇心だ。」
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知識に対する彼の飽くなき欲求は他の貧しい子供達と彼を離れさせていた。それは彼の母親も認めていて、彼女は彼の学問を支援した。
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Tu「彼女は息子が自由に育つ環境を創るのにとても真摯(しんし)だった。勉強し、学生になって、出来たら政府の役人になって成功することを願っていた。彼女は息子に期待していたのだ。」

醜く、不器用で、照れ屋の孔子には友達はなかった。他の男の子たちが戦争ごっこをしている時、彼は一人の遊びを考え出し、自分で粘土から造った玩具の容器を使って古代の儀式の真似をした。
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若き天才は自分の頭で創り出した穏やかな世界のために、乱暴に走り回る少年時代を放棄したのだ。10代の後期になるまでには、知識に対する彼の欲望は巨大になっていた、孔子は中国文明、悲惨な戦いの歴史、更には詩の雄弁さについて疲れを見せることなく学び続けた。
Kong(孔家の第75代!)「孔子は自分に課した目標を達成しようと駆られていた。彼は人格を向上することに執拗だった。彼は言っている【棺桶の蓋が被されてしまったら、学ぶ時間は無くなてしまうんだから、勉強を止めるように言われて、判りましたって言えますか?】と。」
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(mh:ネット情報によれば、孔子を祖先とする家系図は世界最古のものとしてギネスにも登録されています。2560年以上も続いていることは驚くべきことです。孔子に対する中国人の並々ならぬ敬愛が働いた結果でしょう。現在生きている子孫の総数は200万人!最も代を重ねた家系は83代とのことです。)

しかし、孔子の人生に最大の悲劇が訪れる。彼が愛した母が死んだのだ。孔子が愛した唯一人の人の死は彼を悲しませた。彼は辛い屈辱に立ち向かわねばならなかった。
Tu「彼は母を埋葬するのが自分の責任だと考えていた。古代の仕来りによれば母親は彼の父つまり、母親の夫と共に埋葬される。しかし、母は彼に、父親がどこに埋葬されているのかを語ったことが無かった。近所の人々が彼を気の毒に思い、彼の父が何処に眠っているのかを教えてやった。そこで彼は母を父の近くに埋めることが出来た。」
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この仕事が終わると、孔子はきっと賢くなることを誓い、母の魂に別れを告げた。

彼は若者なら押しつぶされてしまうような苦難を味わったのだ、絶望的な貧困の恐怖や冷淡な排斥による心の痛手を。しかし孔子は塩のように苦(にが)い人生を力強い、二度と忘れることが無い試練の場に変えていたのだ。後年、彼は言っている【高貴な人は悲劇を想定することはあっても悲劇を生み出すことはしない。家族愛は金よりも尊い贈り物だ。】

彼の母が逝って、孔子は世界で一人になってしまった。
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家がない、非合法で貧困な孤児で、将来について頼れる親戚も無かった。彼は、水に写る自分の中に、醜い巨人を見た。
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伝説に寄れば、孔子の背丈は9フィート6インチ(289cm)だった。実際は6フィート(183cm)くらいだっただろう。しかし、古代の中国では、6フィートの孔子は他の男と比べたら塔のようなものだったはずだ。孔子は他の人にはない優れたものを一つ持っていた。彼の卓越した聡明さだ。国土を統治することができるはずの才能だった。

中国はまさに混沌と血なまぐさい争いの中にあった。非情な戦士たちが権力を握り、人々を奴隷のようにこき使っていた。孔子の将来はほとんど破壊され尽くしていた。
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しかし、驚くべきことに、その時、運命の神が彼に微笑んだのだ。

紀元前6世紀、孔子が住んでいた町、曲阜、は、中国にいくつかある互いに争い合っていた公国の一つ、魯(ろ;Luルー)の首都だった。
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公式には魯は代々受け継がれている公爵dukeによって統治されていた。しかし、現実には、公爵は力を失っていて、何年もの間、実質的な統治者は、悪名高い3人の将軍の家族だった。
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その内の一つが巨大な男だった孔子が驚くべき才能を持っていることを知り、彼に穀物倉庫の監督の仕事を命じた。孔子の最初の仕事は見かけよりも重要なものだった。というのは古代中国では、穀物は貨幣としても使われる重要なものだったのだ。
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彼を雇った男がどんな人物であったとしても、長年の貧困の後の定収のある仕事は、次の飛躍を目指す彼にとっては感謝すべきものだったはずだ。

19歳になって孔子は結婚した。女房がどんな女だったか、なんという名前だったのか、知られていない。知られているのは彼等には一人の息子と、その後、何人かの子供がいて、結婚生活には問題があったようだ、ということだけだ。
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Julia「孔子は一人の息子と、少なくとも一人の娘がいたことが判っている。娘は孔子の弟子の一人と結婚したという記録を見つけている。娘はもう一人いたと考えている人もいる。しかし、かれの女房のことについては、一つ言われていることがあって、私は確信を持ってはいないのだが、孔子と女房は離婚したという。はっきりしていることは、孔子と女房とは上手くいっていなかったということだ。」

仮に結婚生活が上手くいっていなかったとしても、孔子は義務として穀物倉庫を管轄して彼の家族を養っていた。
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30歳になるまでには、彼は少年時代の夢を大きく膨らましていた。国家の重要な為政者になって、血なまぐさい争いに終止符を打ち、平和を取り戻すのだ。

Tu「多くの人々は、引きこもるか、隠者になって、自分の精神の中に生きる道を見つけ、社会とは出来るだけ関わらず、この嫌な世から離れようとしていた。しかし孔子は言った【私は鳥や獣たちと戯れて暮らすことはできない。私は人間だから、人間たちの中で暮らす。】そこで彼は世界を変えるという選択をしたのだ。それを自分の誓約とすることが、彼を行動的にした。」

曲阜の図書館に閉じこもり、孔子は歴史書や古典の詩の本を立て続けに読んだ。
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中国の過去をどこまでも調べることで中国の未来を変える鍵となるものを見つけようとしていた。

そして、ついに彼は驚くべき、急進的な考えを公表する。
【人は教育を受ければ、身分差は消滅する。】
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Roger「孔子にとって、教育とは、ある年齢に達するまで続けるものではなく、人生そのものだ。孔子は、人は教育されることによってより良くなると信じていた。孔子は身分には興味を持っていなかった。お金を持っていない人と、とても裕福な人との違いには関心がなかった。」
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【もし皇帝の息子や王女に資質がなければ、彼等は平民を統治する立場から退(しりぞ)くべきだ。もし平民の息子たちが資質を持っているのなら、彼等は統治者の地位まで引き立てられるべきだ。】
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Julia「孔子は高貴な身分でなかろうが、あらゆる身分の人でも弟子として受け入れて学校を始めた。これは当時ならかなり革新的だった。彼以前で、そのようなことをした人はいないのだ。それゆえに、彼は中国というよりも全アジアが生み出した、最も偉大な教師と考えられている。」

孔子の素晴らしい学校では、貧しいが、若く頭脳明晰な農夫や、裕福な家の息子たちが、身分の差を忘れ、対等に接しあって、正義と真実を願う新たな結束を産んだ。燃え上がる決意と、確固たる信念の下で、彼の言うところの卓越した人間、高貴な生まれではなく高貴な思想をもつ官僚、になるよう、弟子達を指導した。
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【誰でも卓越した人間になれる。必要なことは向上しようと決めることだけだ。】
しかし、その決意を貫くのは容易ではない。孔子は彼に従う者全員に、絶対的な誠意、厳格な自己制御、飽くなき徳を要求した。
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【卓越した人は何が正しいのかを考える。小さい人間は何がもうかるのかを考える。卓越した人は自分自身に多くを強いる。小さい人間は他の人に多くを強いる。卓越した人は多くの仕事を当然として受け入れる。小さい人は不満で一杯だ。】
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何年か過ぎると孔子の名声は高まり、遠方から来る弟子も増えて集団は膨れ上がった。彼は自分の使命にまい進する人間になった。家族から離れ、弟子達の成長に力を注ぐことに専念した、将来を夢見ながら。
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一つの仕事が残されていた。中国を真に変革するためには、彼は公国を統治している男の注目を引き、政治的な力を獲得しなければならない。くる年くる年、孔子は魯の統治者から声がかかるのを待ち続けた。
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くる年くる年、彼は名声を積み上げていた。しかし、誰も、彼に政府の職責を提案してこなかった。
失敗に直面した孔子は、自らの力で自らの哲学を実践せざるを得なくなった。卓越した理想的な人物として振る舞いながら、静かに失望の年月を耐え続けた。
紀元前501年。50歳の彼は、切望する権力を手に入れる機会はもう来ないだろうと思っていた。
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しかし、まさにその年、全てが変わった。魯で権力を持っていた3家は、互いに激しく争っていた。権力を喪失していた公爵家系の若い指導者デュ・ディンは、実権を回復する好機だと考え、孔子に学校での指導を止めて、自分の助言者になってほしいと依頼した。
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孔子は抜擢されたのだ。これは、よりよい社会を創る機会ではないのか?若いデュ・ディンを指導して中国の聖人君主に変えることが出来るのではないのか?
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デュ・ディンは孔子を魯の統治責任者にした。とうとう、孔子は自分の考えを実践する力を持つことになったのだ。今日、孔子が行ったいくつかの改革は奇怪に見える。例えば、男と女は互いに道の反対側に離れて歩かねばならないといったものもある。しかし、その他のものは驚くほど、先を見通した施策だ。例えば貧しい若い子どもや老人には支援金を贈るよう命じた。
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自らの主張を推進することで、公僕として彼が何世紀も進んでいたことを証明したのだ。

【他の人でも私と同じように犯罪を裁くことはできる。しかし、私はその犯罪が起きないように状況を改善することが出来る。】
【家族を愛することは、ほかにも輝きを与える。家族に対する親切は、社会に対する親切を生み出す。】

Kong「孔子は彼が生きていた時代ではなかなか受け入れられなかった。彼は人間性、慈悲という考えを推し進めた。彼は言っている【自分がしてほしくないことを人にしてはならない。】 【平民を馬鹿にしたり、好き勝手にこき使ったりする代わりに、教育と知識を与えねばならない。】これらは“社会の基本は人民だ”との考えによるものだ。」
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人々は孔子の高貴な考えに基づいて制定された法律を受け入れ、従った。古代の歴史書によれば、彼が魯を統治していた間、町は安全で、犯罪はほとんど起きなくなり、商人は税金をごまかすことは無かったという。
この特別な期間、孔子の喜びは顔にも現れていたと言われている。中国を救うという彼の夢は現実になりつつあった。
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しかし彼の成功と革新的な思想は彼を危険な敵に仕立て上げていたのだ。彼の影響力を恐れた魯の3家は連携して孔子に対抗することにした。
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彼等にとって危険な改革者の孔子に、これ以上、仕事をさせておいてはならぬ!陰謀家たちは知恵を出し合い、単純で魅惑的な計画を生み出した。彼等は国中から美女を探し出し、彼女たちを贈り物として届けることにしたのだ、孔子にではなく、若い統治者デュ・ディンに。
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陰謀家たちが望んだように、デュ・ディンは昼も夜も敵が送り込んだ贈り物と時を過ごし、孔子と彼の改革は忘れ去られてしまった。

失望と屈辱で、孔子は弟子たちを連れて魯から出ていくことにした。
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伝説によれば、彼は故郷を離れる時、嘆きの詩を読んだという。
【女達の笑い声が私を不要な人間にした。女達の笑顔が私を不要な人間にした。彷徨いながら私は人生を終えるのだろうか。】
夢を打ち砕かれた孔子は、敵対していた人々に追放され、紀元前497年、世の中を平和にしてくれるだろう王子を求めて中国中を巡る旅に出ることになった。54歳で、普通の男なら、あちらこちらをさ迷い歩く生活などは望まない年齢だ。しかし孔子は普通の男ではなかった。以降13年の間、彼の意見を訊いてくれる統治者を求めて中国の東部を歩いた。
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各地を回り、孔子や弟子は税で押しつぶされ、統治者には無視され、侵略軍に虐殺される農民たちの過酷な苦悩を目にすることになった。孔子は訪れる場所のすべてで、厳しい窮状を見た。好く知られる一つの話では、彼はトラに食われて死んだ息子や夫のために泣いている女に出会ったと言う。
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Julia「孔子と弟子が彼女に訊いた“そんなに恐ろしい虎が近くに居るのなら、何故、今も暮らしているのか。何故、よその土地に移らないのか?”すると女は言った“もし別の土地に移ったら、もっと抑圧的な統治者に出会うでしょう。だから、ここに残っているのです。”これを聞いた孔子は弟子達に向いて“まさにその通りだ。抑圧的な政府は人食いトラよりも手に負えない。”」
人々のこと考える孔子だったが、統治者への思いが強かった。
彼は高貴な人々だけが人々の苦難を終わらせる力を持っていることを知っていた。彼だけが彼等を指導できる。
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【まず統治者に“徳”について教えることだ。彼が徳を得たなら、大臣たちに、さらには平民にも、徳が伝わる、あたかも病が伝染するかのように。】

しかし孔子にとって不運だったのは、“徳”は指導者たちが感染したいものではなかったということだ。
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Julia「孔子は理想を求める男だった。しかし、彼の時代の統治者たちは理想を求める人々ではなかった。彼等は自分たちの喜びばかりを求め、領地や権力を更に拡大することだけを求めていた。」
統治者は次々と孔子に面談し彼と話をしたが、彼を雇うことはなかった。彼はひるむことなく、弟子達をつれ、次の土地では中国を救ってくれるだろう統治者に会えるかもしれないと歩き続けた。
しかし、彼は、恨みではなく、敵意を受けた。それは彼の責任だったのだろうか?
中国の歴史書によれば、孔子は現代の人々が考えている九人の聖人と全く異なっている。
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Roger「孔子は徹底して厳格だった。逸話に寄れば、あるとき、道に座り込んで飲んだくれている年とった男に出会った。」
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「孔子は彼の所に歩いていき、杖で彼を叩いた。そして“若い時は何もせず、中年になっても家族を養えず、年をとっても、自分が死ぬべき時を知らない。お前は恥知らずだ。”と言うと、彼はまた男を杖で叩いたという。」

この旅の間に、孔子は別の、有名な哲学者にあった。神秘の男、老子で、道教の始祖だ。
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老子は孔子に自分の本心を話すのは控えた方がいいと警告した。
Roger「老子は孔子にこう言った。“あなたの問題は知恵がありすぎて他の人々を厳格に批判することです。人を非難していると、自分の身に危険が及びますよ。”」

老子の警告は冷淡な予言だった。彼が心配したように、孔子の素っ気ない物の言い様は中国中で敵を作っていた。彼の過激な主張は彼の命を危機に晒した。彼を殺そうとしていた王の土地では、扮装して旅をせざるを得なかったこともある。彼はやっとのことで暗殺を回避した。しかし、彼の危機はその時だけではなかった。

別のケースでは、彼は戦士で王の屋敷に招待された。
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そこへ向かっている時、敵対する王の役人が彼を引き留めた。
Roger「役人は軍隊を派遣すると孔子と側近を取り囲んだ。彼等は水や食料がないまま、暫くの間、留まらざるを得なかった。孔子によれば弟子達は落胆したようだ。しかし後で孔子に聞いたところでは、彼は講義をしたり、冗談を言ったり、とにかく元気だったという。」
孔子たちは結局、友軍に助け出してもらうことになった。大抵の場合、当時の中国の統治者たちは孔子を襲う事は無かった。彼等は、もっとひどい仕打ちをした。彼を無視したのだ。

紀元前484年、孔子が魯を発って既に13年が過ぎ去っていた。彼は依然として中国の聖人を探しながら彷徨っていた。
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67歳の彼は、父と同じように、偉大な目的を果たすことなく人生の最後を迎えようとしていた。しかし、484年、驚くべき連絡が彼の元に送られてきた。以前の弟子の一人が魯の役人となり、統治者を説得して孔子を故郷に呼び戻すことにしたのだ。放浪は終わり、彼は曲阜に戻った。
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それは正義と平和の中国という彼の理想を実現する最後のチャンスだった。

13年に及ぶ放浪の後、孔子は故郷の曲阜に戻った。彼は政府の高い位置に就くことを熱望していた。失意の底にいたはずだったが、彼は未だに、指導し育成すべき王子を見つけ出せるかもしれないと期待していた。
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曲阜に着くと彼は直ぐに統治者たちに呼び出された。その一人が彼に“どうすれば正直な役人を探すことが出来るか”と訊いた。孔子の答えは極めて素っ気なかった。“あなた自身が正直であることです。”
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魯の統治者たちは孔子に政府での地位を与えることはなかった。望みは消え失せ、彼は書室に閉じこもり、詩や歴史書の編纂に打ち込んだ。しかし彼の正直な心は、真実を否定することは出来なかった。中国を救おうという彼の偉大な夢は決して満たされていなかったのだ。
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これまで学んだことから、これまで2世紀もの間、偉大で力のある人達が国を血まみれの戦いに引き込んできたのを彼は見てきた。人々が更なる悲劇に巻き込まれてきたことも見てきた。彼の家族は彼を慰めてはくれなかった。彼は長年、妻と離れて暮し、娘は結婚し、息子は勉強を怠(なま)け、若くして死んだ。孔子は少しばかりの涙を流しながら、息子を適切に葬った。
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老齢の彼には生徒達が本当の家族であり、気も紛(まぎ)れていた。歴史書によれば彼は3千人の弟子を持っていたという。しかし心から従う者は72人だけだった。何年もの間、その内の一人の生徒が彼の特別のお気に入りだった。貧しく、しかし聡明で、名はイエン・フイ顔回という。
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Julia「孔子は彼のことを、気に入っている弟子だと言っていた。だから顔回はいつも幸せだった。彼は、とても貧しく、食べ物にも事欠き、狭い路地にある小さな家で暮らしていたが、心はいつも満たされていた。彼は貧乏に満足し、学ぶことを愛していた。この2点は、顔回と他の弟子達との特徴的な違いといえるだろう。」

恐らく孔子は顔回を愛していたのだろう。
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というのは、この若き天才が、孔子が若かりし頃に体験した貧困と、真実を求める情熱を思い起こさせていたからだ。人生の終わりに近づき、彼は、顔回なら自分の仕事を引き継いでくれるだろうと知って、心が安らいだ。しかし、顔回は突然、病に罹り、そして死んだ。41歳だった。孔子は聖人としての沈着を保とうと試みたが、顔回の死は大きな痛手だったようだ。自己統制を貫いた人生において、中国で最も偉大な哲学者が初めて泣き崩れたのだ。
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Roger「顔回が死んだ時、孔子は言った【天は我を見捨てり。天は我を見捨てり】。顔回は孔子から奪い去られた。顔回は孔子が一生懸命に育てた弟子で、希望の光だったのだが、それが失われてしまったのだ。落胆は大きかった。」
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顔回の死後、孔子は深く塞ぎ込んでしまった。若い時、彼は天からの救いを求めて世間から隠遁した人を軽蔑していた。年を取り、彼は人間の力の限界を知った。
【今、私は“天はその意志を持っている”ことに気付いた。】
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紀元前479年、73歳の中国で最大の思想家は死んだ。彼の最後の言葉は辛辣なものだった。
【私の所にやって来て、私を彼の師匠として連れていく指導者は誰もいないのか?】
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Morris「孔子は自分が失敗者だと信じて死んだ。中国に大した影響を与えられなかったと思っていたはずだ。しかし、事実は全く逆で、彼の思想は支配的になり、長い間、中国や周辺の国の全ての思想に影響を与えることになった。」
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多くの偉大な思想家のように、孔子は彼の哲学をほとんど書き残すことは無かった。しかし、彼の教えは彼と共に死んだわけではない。それらは彼が指導した弟子達の心の中に引き継がれていった。

彼の死から2千5百年後、孔子は彼が夢にも考えたことが無い程多くの人々に影響を与えている。
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繁栄を続けるアジアで、かれの教えは、勤勉に働き、教育を受けることが成功への道であると信じる何百万もの人々に、比類するものがない程の繁栄をもたらしている。今日でも、孔子の精神は中国における血生臭い戦いやテロを終わらせようとする勇気ある改革者を鼓舞し続けている。
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Tu「天安門悲劇の後で、孔子の伝統は、個人の尊厳、反抗の精神、更には西洋社会における人権とか、自由、を考える上で豊かな資源となりえることを、多くの中国人知識者は悟り始めている。」
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Julia「私は彼が遺した遺産は人類にとって重要だと思う。人間は重要なのだ、何故なら、人間とは自分自身を改善することができるものだから。我々は我々自身を、我々の未来を創ることが出来るのだ。」

【私が15歳の時、学ぶことを心に決めた。】
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【40歳の時、私が目指すべきところが何かを知った。60歳で、不変の真実を見抜き、70歳で、心の要求に従っても決して正義に背くことは無い。】

子曰、
吾十有五而志于学、 吾れ十有五にして学に志ざす。
三十而立、 三十にして立つ。
四十而不惑、 四十にして惑(まど)わず。
五十而知天命、 五十にして天命を知る。
六十而耳順、 六十にして耳従う。
七十而従心所欲、不踰矩、 七十にして心の欲(ほっ)する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。
(フィルム完)
・・・・・・
冒頭でも触れたように孔子と釈迦には類似点がとても多いのですが、孔子は聖者の治世者を育て上げて社会をよくしようと考えていたようです。しかし、ブログ「Buddha」でご紹介したように、釈迦は、そういう発想は全く持っていなかったんですね。この点から、私には釈迦のほうが頼りになると思いますが、孔子が偉大な人物であったことは間違いありません。自分が生きていくだけで精一杯だった春秋時代、孔子は、中国を変えたい、良くしたい、という高邁(こうまい)な思想を持ち続けていたのですから、それだけでも偉人と言えるでしょう。

既にご紹介したかも知れませんが、私が大切にしている孔子の言葉をご紹介いたします。

「詩三百、一言以蔽之、曰思無邪」
詩三百、一言を以て之を蔽(おお)う、曰(いわ)く思いに邪(よこしま)無し。
(詩経という本には3百もの教えがあるが、これらの教えの言わんとすることを一言でいうなら「思いに邪(よこしま)無し」だろうね。)

「不以言挙人、不以人廃言」
言(げん)を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず
(言う事が良いだけでは、その人を推挙しない、あんな人が言う事だから、といってその言を(良し悪しも考えずに)廃しない。)

「過則勿憚改」
過てば則ち、改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ
(間違ったら、それを改めることに遠慮していてはならない。)

今(5月20日)、TVでは舛添東京都知事が政治資金や都の費用の使い方について記者会見中です。
「お騒がせしご心配をかけていることにお詫びします。専門家の第三者の目で厳格に見直してもらい、改めて皆さんにご報告させて頂きます。皆さまにご心配をおかけしないよう努力し、今後も都知事の職責を果たしていきたい」とのこと。
自分がしたことに悪い事があったとすれば是正するが、あったかどうかは自分には判断できないから第三者の目で見てもらうが、どうあったとしても知事を辞めるつもりはないとの主張です。家族との旅行や夕食、雑貨や車や絵画の購入、奥方の家を事務所に使って高額家賃を払っているなど、誰が考えたって政治資金規正法を逸脱しているのは明らかなのに、舛添氏はそうは思っていないんですね、判らないって言っているようですから。世間では“せこい男”だとの評判が定着しています。それが彼には判っていないんですねぇ。いや、判っているけど、世間がどう言おうが、どう見ようが、まずは金だ、と考えているのでしょう。浅ましいです。孔子の有り難い教え「過てば則ち、改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」を説いても馬の耳に念仏でしかありません。となれば、法で裁くしかありません。

Story of Confucius
https://www.youtube.com/watch?v=bWHt9FR0b_M

(完)
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