Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ヴィㇽカバンバの不思議

ヒッタイト・・・
いつか、どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き・・・
「ヒッタイト」は、いつ、どこで生まれた、何を指す言葉なのか???

これは「ヒッタイトの不思議(part-1)」からの引用で、先週のブログ「ヒッタイトの不思議Part-2」でも使わせて頂きました。

で、今回もご紹介したのは、お釈迦様も仰ったように、訳があるんですね、当然ですが。

「ヴィㇽカバンバ・・・どこかで聞いたような、浪漫に満ちた不思議な響き」

ヴィㇽカバンバVilcabambaはケチュア語で "Willkapampa" と表記され、意味は“エスピリトゥ・パンパEspíritu Pampa”つまり“魂が宿る平原”です。

魂が宿る平原“ヴィㇽカバンバ”はどこにあり、どんな魂が宿るというのか?

まずは場所ですが、勿論、ケチュア人の土地にあります。なじみの薄いケチュア語ですが今もれっきとした公用語で、スペイン語と共に使われています、ペルー共和国で!

そう!ヴィㇽカバンバVikcabambaは旧インカ帝国にある町なのです。

どこにあるのか、正確には“あった”のか、というと、インカ帝国の首都クスコCuzcoから北西に6百Km、ペルー共和国の首都リマLimaから北に2百Kmのアンデス山中なんですね。50年程前に特定されました。
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クスコ近くには空中都市マチュ・ピチュMachu-Picchuが!

ところで・・・
ヴィㇽカバンバは何故、浪漫に満ちた響きを持つと思うかですが・・・勿論、人によるのですが・・・mhの場合、メランコリックなイメージが彷彿と湧いてくるからです。私もクスコやマチュ・ピチュを訪れる幸運に恵まれましたが、何故、こんな高地に首都を造ったのか、人々はどんな生活を送っていたのか、と不思議に思いました。ヴィㇽカバンバもクスコ同様、アンデス山中に造られた町です。しかし忘れ去られていたんですね、ヒッタイトの首都ハトゥシャのように!

浪漫に満ちた都市、メランコリックな都市、失われた都市Lost City“ヴィㇽカバンバ!”
ヴィㇽカバンバを巡る2人の男を紹介するYoutubeフィルムが見つかりましたのでご紹介しましょう。
一人はヴィㇽカバンバを発見したかも知れない男。
もう一人は、それを消滅させた男です。

・・・・・・・・・・・・
ペルー・・・何世紀もの間、高度な文明が繁栄していた国。
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この地を中心に、太陽の王King of the Sunは、南アメリカ大陸の背骨アンデス山脈に沿って3千Kmも広がる広大なインカ帝国を統治していた。
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西暦1532年、大虐殺が行われ、帝国は破壊され、占領された。混乱の最中、帝国の高貴な人々は首都から遠く離れた土地に逃げのび、困難の中からインカの文明を復活させようと歩み出した。その地こそ、インカ最後の都市ヴィㇽカバンバだ。
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これは、帝国最後の人々が隠れ住む都市ヴィㇽカバンバから微(かす)かに漏れ出していた声を追い求めた2人の男の物語だ。一人はそれを発見し、もう一人はそれを永久に破壊し尽くした。
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マチュ・ピチュ・・・何世紀もの間、輝かしいインカの砦は山頂の林の生い茂る樹や湧き上がる霧の中で忘れ去られていた。
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1948年、アメリカの退役上院議員がマチュ・ピチュを訪れた。彼は若かりし頃、マチュ・ピチュを世界に知らしめた男だ。
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彼は、記憶されるべき多くのことを成し遂げていた。しかし、彼、ハイラム・ビンガムHiram Bingham、は、自分が人々に記憶されている理由はたった一つだと知っていた。考古学的に重要なこの遺跡の発見だ。
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ハイラム・ビンガムが考古学者になったのは、偶然のなせる業と言えるだろう。彼は、熟練した発掘専門家からは馬鹿にされていた。しかし、気にしなかった。マスコミの冷たい仕打ちにも馴れていた。

あのもの騒がせな1920年代、彼はワシントンで共和党上院議員に選出された。彼のきらびやかな生きざまは、当時の風潮にぴったりだったのだ。
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贈収賄スキャンダル、国会議員の妻との不倫、離婚、最初の妻の財産を横領したとの訴訟、などは全て彼には勲章のようなものだった。1929年にはワシントンのキャピトル・ヒルCapitol Hillで気球船ツェッペリン号に乗って人々の話題になった。ハイラムは新聞の見出しになることをするのが好きだったのだ。
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彼の冒険的な人生は、恐らく、彼が受けた躾(しつけ)に対する完全な反動と言えるだろう。キリスト教布教の最前線の一つと言えるハワイ諸島に派遣された宣教師の家庭に生まれ、節約を旨(むね)とする厳しい環境の中で育てられた。子供時代は、いかなる贅沢も、行儀の悪さも、ダンスをすることさえも、厳しく禁止されていた。
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ハイラムが家庭から逃れようとしたとしても驚くことではない。
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知性あふれ才能に恵まれたハイラムは、アメリカ本土の学校で学ぶことになると直ぐ、エール大学に入学し、大学生活を満喫した。
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子供の頃の宣教師の家庭での厳しい生活をすっかり忘れ、知的好奇心、冒険、女性などの新しい世界の誘惑に身を任せていた。

「お母さん。どうしたらいいのでしょう。私がダンスをするのをあなたが嫌っていることは判っています。しかし、ここではダンスをしてはいけないという考えは誰も理解してくれないのです。でも、これからの人生にとって良くない事はしないつもりですので、ご心配なさらずにいて下さい。」
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彼は控えめだったが、強い誘惑に身をまかせ、とにかく楽しむことに決めた。人に好かれる魅力を持っていたおかげで、エール大学がもつ身分の良さや特権的な雰囲気の中でも自由気ままに振る舞えた。まもなくしてアルフレィダ・ミッチェルAlfreda Mitchellと知り合った。
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ティファニーの資産を引き継ぐ女性だ。直ぐに上流階級のアルフレィダに虜(とりこ)になり、彼は自分もその一部になる決意をする。初めて出会って2年後の1900年、二人はコネチカット州(mhニューヨークの北東)のニュー・ロンドンにあるミッチェルの大邸宅で結婚式を挙げた。
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ハイラムは水辺を目指す家鴨(あひる)のように(like a duck to water)富を手中にした。しかし、好いことばかりではなかった。経済的には正反対の履歴を持つ夫婦で、妻は夫が自分の考えに従って暮らすことを望んだ。彼女の家系の力が強く、当然、妻の考えが優先されるべきだという立場だったのだ。
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彼は資産と上流社会の生活を気に入ってはいたが、妻の家系からの圧力を全て受け入れる気分にはなれなかった。一人で何も決められない状況にいる自分は、綺麗に仕立てられた籠の中の鳥のようだと感じていた。
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エール大学で講師を務めてみたものの、馴染めず、大学での仕事に息が詰まり始めていた。加えて、上流社会の家庭生活からの圧力もあったことから、ハイラムは現状から逃げ出すことを考え始めた。
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彼は、シモン・ボリバーの探検本に感化され、冒険の旅にでれば現状を打破できると考えて、現地調査をすることを決め、1906年、妻アルフレィダに別れを告げると南アメリカに向けて出発した。

「全く知らない土地を初めて探検した時、血は湧き、踊っていた。私の祖先たちは十世代もの間、こうして新天地に出かけていたんだとの思いを強く感じた。」
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長い間、一人で旅行して家を留守にする夫のおかげで、妻アルフレィダは不幸せだったが、ハイラムは“自分も妻と離れて幸せではない”と書き綴る手紙を続けざまに送っていた。
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「愛するお前に。お前への私の愛は日ごとに深まっている。我々の長い別離について不満を言うのは止め、良い仕事を成し遂げた後の未来を楽しむことにしよう。」

しかし、数千Km離れた土地で気ままな旅を続けていたハイラムは有頂天だった。アルフレィダと離れていることで少しさみしかったが、自分が長年したかったことをとうとう見つけたのだ、冒険だ。
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ビンガムは自分の冒険旅行に関する本を書くことに専念するため、大学での学術研究は放棄することにした。

ペルーに着いた時、ビンガムは初めてインカの世界を目の当たりにした。
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そこには、古代エジプトのような高度な文明の跡が広大な地域に残っていたが、ほとんど知られていない。インカの子孫たちはアンデス山地に残って暮らし続けていた。遺跡は彼に過ぎ去った見事な過去について語りかけてくれていたが、それをどのように解釈したらよいのか、彼は考え付いていなかった。
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彼は何か方法を見つけねばならなかった。
「幸運にも、私は王室地理学協会が発行した、とても便利な小雑誌を持って来ていた。」
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「その本の中の一章で、先史時代の遺跡に出会った時は何をすべきかを見つけた。寸法を測ること、多くの写真を撮ること、石組みの様子を出来るだけ詳しく記述することだ。」

彼は直ぐ、ベルー全土の遺跡を調べることに没頭した。しかし、インカの歴史に関する幾つもの話の中で、たった一つの話が、他のなによりも彼を魅了した。“ヴィㇽカバンバ”だ。インカの王が暮らした最後の町だ。16世紀の歴史書によれば、インカの高貴な人々や祈祷師たちは、コンキスタドールの大虐殺や占領を逃れ、首都クスコの北の、人が踏み入ることができない高地のジャングルの中に移り住んでいた。
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彼らはヴィㇽカバンバと呼ばれるその場所に亡命王朝を打ち建てた。王宮、寺院を造った。かの神聖な黄金伝説もそこに持ち去っていた。
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以降、黄金の夢に誘惑された多くの男達がヴィㇽカバンバを探そうと試みたが、誰も見つけていない。恐らく、黄金はまだジャングルの中に隠されていて、発見されるのを待っているのだ。
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ハイラムはその思いに憑(と)りつかれた。それこそが宝探しをする者の夢だ!

ハイラムの目の前にすばらしい冒険が広がった。“自分こそがインカの古い都市ヴィㇽカバンバを見つけ、隠されている宝物を掘り出す最初の男になるのだ!”
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アメリカに戻ると、ハイラムはヴィㇽカバンバ研究者としての活動資金集めを始めることにした。スペイン人コンキスタドールたちが書き残した地図や年代記を見つけ出しては読みふけった。
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そしてヴィㇽカバンバが在るべき場所を算出した。数か月後、彼は確信を得た。インカ最後の逃亡者たちは “Espíritu Pampa ( エスピリトゥ・パンパ)”と呼ばれる場所に棲んでいたのに違いない!
残るは探検に必要な資金を集めるだけだ。
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彼には妻の家系を後ろ盾に、銀行から資金を借りられる自信があった。ある時、ニューヨークにあるエール大学のクラブに出かけた。
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そこで探検の話をすると、やってきていた大勢の仲間は、ビンガムの旅行写真を見て強い関心を示した。

ハイラム「昨晩、これまでほとんど話をしたこともなかったクラスメイトの一人が私の所にやってきて二人で話した。私が探検の計画を話し、写真家に払う1800ドルが必要だと言うと、彼は笑って“1800ドルだって?なんなら君にあげよう”と言ってくれた。私は嬉しくて大声を上げるところだった。」

1911年6月8日、ハイラム・ビンガムはニューヨーク港の蒸気船の甲板の上にいた。
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彼は妻に二度目の別れを告げた。今回は辛かった。4人目の息子が産まれたばかりだったのだ。(mh;結局7人の子供がいたようです。)
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ハイラム「その時、見送るお前がどのように見えたか、私は決して忘れない。とても勇敢で健気(けなげ)で、小さく見えていたにもかかわらず何かを強く訴えていた。一人で旅立っていくことがとても冷たい仕打ちのように思えた。」
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しかし、ペルーに戻るや否や、彼は自分が最もやりたいと思っていたことを始め出した。1911年7月、北のスピリトゥ・パンパに向けてクスコを出発した。幸せな気分ではちきれる程だった。
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そして大きな幸運に出会うことになった。苦労もなく目的地に向けて旅を始めて3週間もしない時、土地の農夫が、近くの山の上の、古い石で出来たテラスについて話してくれた。
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彼はその場所が何と呼ばれているのかを訊ね、ノートに書き記した。マチュ・ピチュMachu Picchuだ。
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ビンガムは翌日、ちょっと見ておくことにした。原住民の子供が数時間離れた山の上のその場所に案内してくれた。
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「近づくほどに、思っていた以上の遺跡だと判った。石を綺麗に組み上げたテラスが続いていた。100段はあるだろう。信じられない光景だ。ほかの誰なら私が見つけたものを信じてくれるのだろうか。しかし、幸運にも私は、いいカメラを持って来ていた。」
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ビンガムはインカの新しい遺跡を見つけた。二つとない見事な美を備えたものだったが、インカ遺跡に対する十分な経験が無い彼は、どんなにすばらしい発見なのか、その時は気付かなかった。
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4百年前にインカが放棄して以来、全く手が付けられることなく放棄されていた都市遺跡だった。
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ビンガムは自分が見つけたものを理解することなく、探検隊が待つ山の下に戻り、旅の目的地ヴィㇽカバンバを目指して出発した。

彼は北に向けて急いだ。樹木が密生して進むことすら困難なジャングルの中を進み、危険な渓谷を渡った。必ずやインカ帝国の失われた都市を、素晴らしい寺院や王宮の跡を見つけ出すのだ!
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数週間の死にもの狂いの進軍の結果、探検隊はついにヴィㇽカバンバがあるはずの土地に到着した。数日間、ジャングルの中に入り、草を刈り取りながらヴィㇽカバンバの痕跡を探した。しかし、彼らを待っていたのは厳しい仕打ちだった。何も見つけ出すことが出来なかったのだ。ハイラムが当初、算出していたヴィㇽカバンバの在ったはずの場所エスピリトゥ・パンパは、石で出来た、採るに足りない遺跡が僅かに残るばかりの、うっそうとしたジャングルに覆われた荒涼たる台地でしかなかった。
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想像していた素晴らしい都市とは完全にかけ離れていた。ハイラムは失望し、どうしたらよいか判らなかった。これがヴィㇽカバンバなのだろうか?それとも自分の計算は間違っていたのか?
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ハイラムは当惑してしまったが、とにかく探検に戻ることにした。しかし、探検隊のメンバーは疲労し、資材や食料も不足してきていた。探検を打ち切り、文明世界に戻ることに決めた時、彼らの意欲はもう底をついていた。
「私は太陽に晒(さら)されて歩きながら何度も考えた。大学講師の道を捨て、多くの費用を注ぎ込み、私と私の愛する妻の長い時間をこの探検に捧げたというのに。未来がどうなるのか私には判らない。」
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ハイラムがアメリカに、彼の妻のもとに向かって帰途についている間、暗雲とも何とも言えない得体のしれないものが彼の探検人生を覆い始めていた。

しかし、アメリカに戻ると、ハイラムの気力とヴィㇽカバンバの夢は再び息を吹き返した。彼は改めて計算し直してみた。エスピリトゥ・パンパでないとしたら、場所としては不適切だが、マチュ・ピチュこそヴィㇽカバンバではないのか?翌年、彼はペルーに戻ってマチュ・ピチュを徹底的に調べてみることに決めた。
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1912年夏、彼はマチュ・ピチュに到着した。作業者が木々を払いのけると現れた石造りの遺跡は驚きとしか言いようがなかった。
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それは特別な都市のようだった。規模の大きさ、造られた場所の完璧な美しさ、見事なテラス・・・全て王室のための都市であることを示している!
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「このような場所に1つで3トンもありそうな、がっしりした花崗岩を使って門や建物を造るよう命じる者は王以外には誰もいないだろう。その上、造り上げるためには、莫大な、際限のない忍耐を必要としたはずだ。」
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発見の興奮で舞い上がっていたハイラムは、こここそが王の最後の避難の地に間違いないと考えるようになった。
“スペイン人支配者が棲むクスコに近すぎるという問題はあるが、その他は必要な条件を満たしている。高台に造られた、息を飲むほど壮麗なこの王宮で、インカの最後の王は身を隠しながら帝国に指示を発していたに違いない。”
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彼はこの見事なマチュ・ピチュの発見に身を捧げることにした。それは世界で名声を得るパスポートだった。ナショナル・ジオグラフィックは、ある刊を全て、ビンガムと彼のペルーにおける業績で埋め尽くした。
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その時から、誰もが、マチュ・ピチュと、それを発掘した男について知ることになった。
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ナショナル・ジオグラフィックの特別な夕食会で、ハイラムは北極と南極を探検した世界の著名な探検家たちと並ぶ栄誉を与えられた。
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彼はついに、望んでいた名声を得た。しかし探検者としての彼の経歴は長く続くことはなかったのだ。

1915年、彼はペルーに戻った。
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これが論争の嵐を巻き起こしたのだ。多くのペルー人には、ハイラムが見事な黄金を全く発見しなかったということが信じられなかった。実は、彼は黄金を見つけ、ペルーから密かに持ち出していたという噂が飛び交(か)った。
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この噂に反論することに疲れ、逮捕されるかも知れないと恐れたビンガムは、早々と荷物を纏め、飛行機でペルーを離れた。アメリカに帰る途中、彼は、もう探検はしないと決めた。
第一次世界大戦は激しさを増していた。彼は飛行士に志願した。
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ペルーの男性考古学者「世界大戦は彼に手軽な救いを与えた。ベルーで受けた、どうしようもない状況から拾い上げてくれたのだ。彼は愛国者として戦争に参加することで、世界はまだ自分を必要としているという誇りを持つことが出来た。」

戦争が終わりヨーロッパから戻ると、ビンガムは政治面での経歴を歩み始めるための完全な資格を獲得することになった。エール大学の卒業生で、世界でも有名な探検家で、今は戦争の英雄だった。1924年、彼は何の苦労もなくアメリカ上院議員に選ばれた。
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1920年代、彼の議員活動は平穏だった。しかし贈収賄スキャンダルや大恐慌が政治生命を縮めることになった。ハイラムに対する政治環境は悪化し、1932年、議員の席を失った。その後すぐ、彼は妻アルフレィダと離婚し、彼女から多くの資産を手にすることになった。その後、再婚すると、一つの噂を頼りに人生をやり直すことにした。マチュ・ピチュ発見者という評判だ。

彼は死ぬ日でも信じていた、マチュ・ピチュがヴィㇽカバンバだと。

しかし、ヴィㇽカバンバの場所が明らかになると、彼が間違っていたことが明らかになった。新たな発見の結果によれば、ヴィㇽカバンバはマチュ・ピチュではなかった。ハイラムが最初に計算した位置、つまりエスピリトゥ・パンパだったのだ!
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エスピリトゥ・パンパの木々が生い茂るジャングルの中に、ハイラムが探していた場所からたった数mの所に、ヴィㇽカバンバの跡は眠っていたのだ!

マチュ・ピチュがヴィㇽカバンバではないかも知れないとの思いを跳ね除けながら、1956年に亡くなるまで、ハイラムは何年もの年月をヴィㇽカバンバとその終焉(しゅうえん)に関する研究に捧げていた。
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彼の研究は彼を16世紀に連れ戻していた。血糊で汚れ、波乱で一杯の占領時代だ。
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今は名前を忘れられているが、ペルーの歴史を変えた男がいた。フランシスコ・デ・トレイドFrancisco de Toledoだ。
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行政の天才、法律の熱愛者、ヴィㇽカバンバの破壊者、インカ最後の王の殺害者だ。

フランシスコ・デ・トレイドは1515年、スペインの町ロペッサで暮らす貴族の家庭に生まれた。
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当時、スペインは世界でも最も豊かで権力のある国だった。スペインの大軍隊は中東のイスラムと北ヨーロッパのプロテスタントを征服していた。16世紀に、これ以上の特権を得ることは難しいだろう。
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スペインは西洋の最高権力国家だった。驚くべき新大陸の発見は、使いきれない程の富をスペインに供給してくれるはずだった。
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これこそがフランシスコが生まれた当時、スペインに保証されていた、かつ野心的で華麗な世界だったのだ。
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しかし家族の地位にも拘わらず、フランシスコの若い時代の生活は楽ではなかった。母は彼を産むと直ぐ死んでしまい、その後、隔離された厳格なカソリック教の世界で、尼僧によって育てられることになった。若いフランシスコは宗教的な思想を強く受け、キリストの絶対性を固く信じる信徒に成長していった。
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彼の家系はスペイン王室に仕える仕事にずっと携わってきていた。そこで15歳になるとフランシスコも王宮で給仕の仕事に就くことになった。

1532年、王宮の仕事を始めて2年した時、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)の胸が躍るようなペルー占領と、インカ王アタワルパの身代金としてペルーから手に入れた巨額の黄金の話を耳にした。
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これらの話は、当時、スペインから最も離れている世界の端から届いたものだった。遥かに離れた場所に生まれたペルー植民地と莫大な財宝に対する思いが、若いフランシスコの心のなかで膨らんでいったとしても非難することはできないだろう。

フランシスコは世界の果てでスペインの権威を拡大するために編成された宗教的かつ軍事的な組織に加わることにし、必要な誓約をした。
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この時、彼は自分の人生をキリスト教とスペインと法律に捧げることにしたのだ。

組織の中で急速に出世を遂げたフランシスコは、1558年、王室の永世会員になった。国王チャールズ五世が死ぬ時、王のベッドの脇で追悼することが出来た数少ない人間の一人にも選ばれたほどだ。フランシスコは次のスペイン王フィリップ二世の身近で奉仕することになった。新王は、荒廃した、誰もが望まない厳しい現実に見舞われている中で王位に就いた人物だった。
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帝国は崩壊していたのだ。ヨーロッパに手を広げ過ぎていた上、アメリカ大陸の占領と探検では、何十年間も多くの資金を注ぎ込んでいたものの、回収できた額が少なかった。インカやアステカから得た黄金は溶かされて金塊にされていたが、海を渡ってくることは無かった。インカの富の大半は、インカの富を搾取し、原住民に無理を押し付けていたスペイン人の現地支配者の手に落ちていたのだ。
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彼らは無謀な行動を続け、黄金で自分たちの懐を豊かにしたが、スペイン王に税金として納めることは無かった。フィリップ二世は、植民地の無法状態を正し、なにがしかの歳入を王に送り届ける仕事をしてくれる人物をペルーに派遣せねばならぬと強く感じていた。そこで指名したのがフランシスコ・デ・トレイドだった。

1569年、フランシスコはペルーに向けて出帆した。スペイン帝国における、もっとも難しく、しかし重要な仕事を成し遂げるために。
困難な船旅は、凡そ1年を要した。大西洋を横断して新大陸につくと、太平洋側を海岸に沿って南下し、ペルーに向かった。
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1569年11月30日、フランシスコはスペイン植民地ペルーの首都リマに到着した。現地のスペイン人支配者たちは、彼を好意的に歓迎した。しかし、フィリップ王への手紙の中では、彼は現地の状況とスペイン人支配者たちの実情について次のように密かに打ち明けていた。
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「この地のスペイン人は墓や神聖な祈りの場所に隠されている黄金を自らの欲深い手でつかみ盗ろうとしています。スペイン帝国への納税から逃れようという行為は誰もがする当たり前のことになっています。」

これこそが派遣されたフランシスコが正さねばならぬことだった。新総督として、彼は納税義務を持つ植民地ペルーを改善するため身を粉にして奮闘しなければならなかったのだ。赴任して直ぐ、彼は、ペルーが2つの力で分裂されていることに気付いた。一つはスペイン人支配者だ。
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仲間同志で争っていたし、原住民を奴隷として酷使していた。

もう一つは教会だった。
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道徳的な指導をするだけでなく、原住民に勤労奉仕を強いていた。

植民地全体が原住民の苦悩と犠牲の上に成り立っていたのだ。原住民の全てが不満で一杯なのは当然と言えた。
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フランシスコは改革のために何に目を向けねばならぬか、直ぐ気付いた。
「スペイン人に対する劣等感や負い目から、原住民が自由に暮らせていないことに気付いた。私の仕事は、彼らがスペイン人に騙されて仕事をさせられないよう守ることだ。」

彼は、追放されたインカ王室がヴィㇽカバンバを建設し、スペインの統治に対して何年も反抗し続けていることも知ることになった。
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ペルーの男性考古学者「フランシスコ・デ・トレイドがペルーに到着した時、彼はインカに同情的だった。その一方で好ましからざることも起きていた。ヴィㇽカバンバに引き下がったインカが、コロンブス以降に行われた外部からの侵略行為に驚異を与えようとしていたのだ。」

フランシスコは、この混乱を収め、秩序を取り戻さねばならなかった。もっと深く、ペルーの状況を調べなければ、正義を行うことは不可能だと悟った。そこであることに思い当たった。それは絶好のタイミングと言えるだろう。植民地で何が起きているのかを自分の目で見るための旅だ。
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1570年、彼は広大なインカ帝国の、スペインの手が入っていない地域を中心に、調査の旅を始めた。5年を必要とする仕事だっただろう。通訳と書記を引き連れ、植民地内を次々に移動して、現地人や、スペインに好意的な人々から聞き取り調査をした。
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人口、有効土地、資源、地域の歴史に関するデータを集めながら、数年、歩き回り、記録した資料は60万にもなった。

フランシスコは原住民が話すのを聞いて、彼らがどんなに虐待されていたかを理解した。収入の大半を搾取されていたばかりでなく、何万人もが死んでいる!彼らに免疫が全くない、ヨーロッパから持ち込まれた一連の恐ろしい疫病で、人口の半数以上が消し去られていたのだ。占領者フランシスコ・ピサロが来てから、たった30年間で、ほぼ1百万人が湿疹や天然痘で死んでいた。原住民は、絶望の中で、逃亡中のインカ王室によって救われるのだという非現実的な夢に望みを託していた。フランシスコはヴィㇽカバンバに寄せる彼らの思いは消し去っておくべきだと信じるようになっていった。

現在のエクワドルのキトからボリビアに到るまでの旅をしたフランシスコは、あることを学んでいた。
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インカ帝国は多くの異なる民族から出来ていた。インカ民族はスペイン人が到着するおよそ1百年前の近年になってから他の民族を統治し始めた一つの民族に過ぎない。帝国を拡張するため、インカはスペインと同様、残忍なやり方をしていた。
フランシスコ「インカが弱い民族にたいして野蛮だった証拠は十分ある。インカは専制君主的だった。侵略者の姿そのものだった。」
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ペルー人学者「フランシスコはスペインによるペルーの占領を正当化するための証拠を探していたのだと思う。インカは専制君主的で、他の民族を不当に扱ったから、スペインは彼らを罰し、インカに虐(しいた)げられてきた人々を解放してやらねばならないと理屈づけ、自分たちの行為を正当化しようとしたのだ。」
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フランシスコは自らが調査したインカの実情を熟考した結果、スペインによる占領に正当性があることには何の疑いもないと考えるようになった。几帳面な性格だった彼は、後日、大きな論争を巻き起こすことになる計画を思いついた。彼の目的は、ペルーを正義が厳格に実施される偉大な王国にすることだった。
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彼はスペイン人支配者や教会に対して彼の権限を行使して厳しく取り締まることにした。彼らが敵対してくるだろうことは気付いていたが、兎に角、実行に移した。原住民に対しては、彼らの世界を再組織化し、スペイン王室の正義と権威が実現できるように変えていった。原住民は遠く離れた小さな村から、スペインに税金を収めねばならぬ近くの町に移動させられ、その見返りに法律で彼らを守った。スペインに従えば、彼らにも権利が与えられると約束した。
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フランシスコの考えによれば、ペルーの秩序を確固たるものにするため、もう一つ、恐ろしい犠牲が必要だった。“ヴィㇽカバンバが存続していてはならない。2つの王を持つことは出来ない。ヴィㇽカバンバと残党勢力は破滅されねばならない!”
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フランシスコは知らなかったのだが、彼が破壊しようと考えたインカの王はトゥパク・アマルTúpac Amaruという名の、少年のような若者だった。ヴィㇽカバンバでインカの巫女たちによって育てられたトゥパク・アマルは宗教に敬虔で、外の世界については何も知らなかった。
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おだやかで、抜きん出て美しく、魅力的で、しかし頭が良いようには思われていなかった。

ペルーの女性考古学者「トゥパク・アマルが王位に就いた時は、とても若く、“ウティ”と呼ばれていた。精神的な成長が遅れていて、物事への反応が遅く、頭が切れる方ではない、という意味だ。」

ペルーの男性考古学者「トゥパク・アマルが政治的な出来事について知っていたとはとても思えない。彼は、単に象徴的な人物でしかなかった。」

トゥパク・アマルは無邪気な若者だった。しかし、そのことが彼を救うことはなかった。1572年6月16日、スペイン軍はヴィㇽカバンバに大攻勢をかけた。軍が砦の中に攻め入ろうとしていた時、トゥパク・アマルと、最初の子を妊娠していた妻は彼らの手を逃れようとしていたが、結局、それは叶わなかった。逃げ出して直ぐに捕えられた若きトゥパク・アマルはクスコに連行された。
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1272年9月21日、彼は死刑を執行された。トゥパク・アマルがクスコの通りを死刑台のある広場に引き連れられていく時、町全体は声を失っていた。
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原住民だけでなくスペイン人の誰もが、ハンサムで若い王を愛していた。誰もが総督フランシスコの心変わりを期待していた。しかし、この時、フランシスコは執務室に鍵をして閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。

クスコの中央広場で、トゥパク・アマルは死刑台に立った。目撃していた人が記録に残している。「集まった全ての原住民は、悲しみに打ちひしがれ、空に轟くばかりに泣き叫んだ。」
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その次に起きたことについては二通りの話がある。
一つは、トゥパク・アマルは群衆を静まらせ「母なる大地よ、我が敵が我の血をどのように流すかを見届けよ」と高々と言ったというものだ。
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もう一つは、涙を流し、王位の放棄を訴え、許しを請ったというものだ。

誰もがフランシスコ・デ・トレイドが考えを変えるように祈っていたが、彼の閉ざされた執務室からは何の伝言も届くことは無く、刑は執行された。
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フランシスコ・デ・トレイドはスペイン王フィリップ二世に宛てた手紙に記している「偉大なる我が君が命じられたインカに関する仕事は成し遂げられました。」

しかし、フィリップは原住民の問題を解決する方法としてトゥパク・アマルの死を望んではいなかったのだ。この瞬間、潮はフランシスコに厳しい向きに流れ始めてしまう。
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ペルーの女性考古学者「トレイドは与えられた使命を完遂した。従って、スペイン人の誰からも受け入れられるだろうと考え“これで全てが完了した”と高らかに宣言したのだ。」

しかし、終わってはいなかったのだ。二つにされたトゥパク・アマルの死体が槍に刺されてクスコの広場に掲げられると、それを見た人々の胸中にインカ王への思いが湧き上がってきた。彼らにはトゥパク・アマルの顔が生前よりも美しく映っていた。
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数世紀過ぎた今、それは更に美しくなっている。トゥパク・アマルは殉教者のように無実で、キリストのような敬虔な姿をした、スペインの圧政に立ち向かう原住民の抵抗の象徴だ。5百年に渡ってペルーで起きた原住民による反乱は、18世紀のトゥパク・アマル二世の反乱から20世紀の都市でのゲリラ活動に到るまで、全てトゥパク・アマル(一世)の名前を思い起させるものばかりだ。
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ペルーの男性考古学者「それは悲しい神話と言える。何故なら、トゥパク・アマルを思い起こさせる人々の反乱は、全て失敗しているのだ。トゥパク・アマル二世の反乱は失敗し、トゥパク・アマルの名を騙(かた)ったボリビア革命も失敗した。」

歴史はトゥパク・アマルを悲劇の主人公に変え、フランシスコを冷酷なスペイン人像に変えてしまった。総督として成し遂げた、残酷な搾取から原住民を守るための公平と正義は忘られ、たった一つの事実が彼を有名にしてしまった。“罪のない少年王トゥパク・アマルを死罪にした男”として。
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ペルー人考古学者「これらは記録され、残された歴史から判断される内容だが、その記録はスペイン人宣教師が書き残したものだ。彼らはフランシスコ・デ・トレイドを嫌っていた。実際の所、私は、フランシスコが誰に対しても同じ判断基準を適用していたと思っている。行政を行う者として正しい態度と言える。良心的な観点から彼の行為を判断するとしたら、それをできる人物はフランシスコしかいないだろう。」

植民地ペルーを見事に改革し終えたフランシスコは、ペルーにおける何年にも渡る仕事への賛辞を期待しながらスペインに戻った。
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しかし、彼が受けたのは非難だった。ペルーから送られてきていた教会側の主張がフィリップ二世に影響を与えていたのだ。王は、公表すること無く、フランシスコを解雇した。「家に引きこもれ。お前は王に奉仕したのではなく、王の権威を失墜させたのだ。」
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フランシスコにとっては全く酷い仕打ちだった。王宮での仕事を辞して家に引き下がったペルー植民地第五代総督フランシスコ・デ・トレイドは、6ヶ月後、失意の中で死んだ。

ペルーを正義の王国に改革しようという彼の厳格な理想は実現することはなかった。強欲、植民地崩壊、が少しずつ息を吹き返していたのだ。
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フランシスコの施政が色あせるにつれ、新たな行政官たちによって原住民は以前に増して搾取されるようになった。そして、ヴィㇽカバンバは、呪われたペルーの悲劇の神話となっていったのだ。

Lost Cities of the Inca - AMAZING ANCIENT HISTORY DOCUMENTARY
https://www.youtube.com/watch?v=EGC3-9p37as
ネットで見つけたヴィㇽカバンバVilcabamba(エスピリトゥ・パンパEspíritu Pampa)の写真です。
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大きな石は聖なる場所だった雰囲気があります。
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トゥパク・アマル1世:享年27歳(Wiki)。
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16世紀に中南米に乗り込んだスペイン人コンキスタドールは、殺戮、略奪、搾取を続け、アステカ文明、マヤ文明、インカ文明を破壊してしまいました。スペイン人に対する怨みは今も原住民の子孫の心の中に残されているのではなかろうかと推察します。イギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどもアフリカや中近東、アジアで同じような蛮行を働き初め、植民地主義が世界を席巻しだすと、これに遅れまいとして我が大日本帝国も東南アジアや中国、韓国に進出し、現地の人々に多大な苦痛や損害を与えることになりました。今では植民地主義こそ姿を消しましたが、アメリカと、これに組する先進国の連合軍がイラクやアフガニスタンに侵攻し、日本も仲間に加わっています。しかし、部外者による武力介入は、未だに実を結ぶことはありません。アルカイダ、タリバン、ISなどのテロ集団が生まれ、バングラディッシュでは日本人も標的にされ殺害されました。

部外者たちは自分たちの正義を他国に植え付けようと目論んで武力介入するのですが、考えてみれば、その国の住民と部外者で価値観が異なるのですから、不安定な状況が生まれるのは当然の帰結でしょう。他国に武力介入しても好い結果が得られないことは歴史が証明済みであるのにもかかわらず、平和ボケした世代の政治家や一般人は、話し合いで駄目なら武力で解決しようという気運を強めています。南シナ海の領有権に関する中国の主張はオランダ・ハーグの仲裁裁判所で退けられましたが、北京でインタビューされた若い女性が、武力に訴えてでも国益は守る、と声高々に応えるのをTVで見て空恐ろしくなりました。このような好戦的な傾向は、中国だけではなく、世界中で、日本でも、高まっています。流れを変える必要があると思います、平和な方向へ。
(完)

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