Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

欧州の巨石文化の不思議


2014年4月3日公開のブログ「ストーンヘンジの不思議」では、その歴史、青い石の秘密、これから導かれたストーンヘンジの効用(病気やケガを治す!)などを2人の考古学者の意見に従ってご紹介しました。で~どこのストーンヘンジかって?そりゃあ勿論、英国ウィルトシャー州Wiltshireのストーンヘンジです。ロンドンの西120Kmにあります。建設は紀元前2300年頃に始まり、以降、何度かデザイン変更されているようです。
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Wikiによれば、語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているようです。中世の絞首台は二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていたから名付けられたとのこと。

更にはブログ「オークニーの寺院の不思議」(2015年6月22日)で、ブリテン島の北のオークニー諸島に残るストーン・サークルについてもご紹介しました。建設は紀元前2500年頃で、直径は約1百mです。
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数Km離れた場所には同年代のものと思われる円墳も残されています。

イギリスのお隣の国アイルランドのニューグレンジNewgrangeにある石の古墳。
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直径は約70m。建設は紀元前3千年頃。白い石は石英で、1百Km以上はなれた所から運ばれてきました。見つかった時は崩れた瓦礫の山で、修復されて今の形になっています。

フランスに移って・・・ロクマリアクエラ巨石群Locmariaquer megaliths
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紀元前47百年頃には19個の石が直立していました。最大の石は上の写真のもので重量330トン。高さ21mで聳(そび)えていました、信じられません!

直ぐ近くには古墳もあります。
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このロクマリアクエラ巨石群から10Km離れた所にはカルナック列石Carnac stonesがあります。
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最大のメンヒル(menhirヨーロッパ先史時代に立てられた、単一で直立した巨石)は6m位ありそうです。
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Wikiによればカルナック列石の総全長は4km!環状列石もあり、石の総数は3千個ほどです。
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列石は幅1百m、長さ2Kmに配置されています。
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これらのストーンヘンジ、ストーン・サークル、ストーン列柱、古墳群の位置を地図にプロットすると次の通りです。北を左に起きました。
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一番左の黄色ピンはオークニー諸島、一番右がフランスの遺跡カルナックとロクマリアクエラの位置を示しています。

また、フランスのロクマリアクエラ巨石群から4Km離れたガブリニス島Gavrinis、エルラニク島Er Lanicにもストーン・サークルや古墳が残されています。
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ガブリニス島Gavrinisの古墳
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エルラニク島Er Lanicのストーン・サークル
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これら一連の古墳や寺院と思われるストーンヘンジやストーン・サークルなどの巨石構造物が造られたのは紀元前8500年頃から始まった新石器時代の後期です。御参考までに旧石器時代Paleolithic Ageは200万年前に始まり、その後は中石器時代Mesolithic Age、巨石構造物が造られた新石器時代Neolithic Ageと続きます。新石器時代の次は青銅器時代Bronze Ageです。

新石器時代の後期に、ヨーロッパで巨石施設が生まれた原因は?
類似施設がヨーロッパ各地で造られたのは何故か?
沢山の巨石を何十Kmも離れた場所からどのようにして運んだのか?
何のための施設か?
なぜ、巨石が使われたのか?

これらの質問の正解はないようです。裏付けとなる記録、例えば絵文字その他で明記されたものが見つかっていないんですね。しかし、説得力ある見解はあります。例えば、巨石施設に遺骨や埋葬品が見つかれば、お墓でしょう。
今回は、この辺りに関する情報を、思いつくままに!順不同で!一挙に!ご紹介します。

巨石構造物に使われた石の種類や組成を調べると判るのですが、何十、何百Kmも離れた所で採取されています!大した道具や車輪も無かった時代、何十トンもある大石を何十Kmも運んだという事実に我々現代人は驚愕しますが、2百万年もの長期間、石を加工し運搬する経験を積み上げてきた古代人には、日常茶飯事だったかも知れません。
巻末に、搬送方法に関する考察を紹介したネット情報を挙げましたのでご確認下さい。

少し悪乗りして、毛色が変わったストーン・サークルもご紹介しておきましょう。
セネガンビアの環状列石(世界遺産):
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Wiki:西アフリカのセネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群。立ち並ぶ巨石は8世紀頃に、より早い時期の墓の上に墓標として立てられたもので、12世紀頃まで続けられた。10個から24個の石でそれぞれの環が形成され、高さは1メートルから2.5メートル、重いものでは10トンにもなる。これらの石は、一般的にはラテライトである。

で~日本にもあります!
北海道小樽市忍路(おしょろ)の忍路環状列石:
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墓を石で囲んだ区画墓と推定されています。

北海道の駒ヶ岳近くにある鷲ノ木遺跡
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“画像左から竪穴墓域があり、環状列石に続く。現在はシートにて保護されている”と解説にあります。

秋田の大湯(おおゆ)環状列石:
十和田湖の近くの山間に100m隔てて2つあります。
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縄文時代(1万5,000年前~約2,300年前)後期の日時計と考えられています。
西側のストーン・サークルは・・・
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東側のストーン・サークルは・・・
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一体全体、こんな大きな日時計(?)を隣接して2個造ったのはどんな理由からでしょう?片方または両方が墳墓だったなら、王と女王の墓という説明も可能ですが、ここでは遺骨や埋葬品が見つからなかったので、日時計との結論になったんでしょう。しかし、何故、直ぐ近くに大きな日時計を2つも!ヨーロッパの巨石遺跡から理由が推定できます!

ということで、ヨーロッパの巨石遺跡についてYoutube「 Stonehenge rediscoveredストーンヘンジ再発見」を参照しながら、もう少しご紹介いたしましょう。

5千年前の新石器時代後期、世界を変える革命は最高潮だったといいます。
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2百万年前から始まった旧石器時代、人々は、大型動物の群れを追い、移住しながらの狩猟生活を送っていました。
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しかし、中石器時代から新石器時代になると、氷河期も終わり、生活パターンは変化していくのです。

8千年前にはブリテン島が大陸から分離しました。
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凡そ1万年前、多くの大型動物は死滅し、小型動物しか捕獲できなくなりました。
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お蔭で、動物壁画は描かれなくなったといいます。
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そこで、動物の群れを追って移動生活をしていた人々は、集落を作って定住し、地味な畑作業に縛られるようになったのです。すると、暇な時間が生まれ、何か知的で刺激的なことをしたくなり、巨石文化が生まれたと言います。
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アイルランド、イギリス、フランスの巨石遺跡の近くで共通して見つかるものがあります。
まずは鐘状のビーカー(Bell-beaker土器)。
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見つかる場所は広範囲に渡っています。
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石斧。次の斧は磨かれています。
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翡翠の石斧も見つかっています。
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いずれもフランスの円形墳墓で発見されたもので、身分の高い人物が儀式で使ったものではないかと考えられています。
アイルランドの円形墳墓で発見された石斧。
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似た形状の石斧はイギリスのストーンヘンジやオークニー諸島の遺跡からも見つかっています。

更には、墳墓の形と入口の方向ですが・・・
フランスのロクマリアクエラの墳墓も・・・
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フランスのガブリニス島の墳墓も・・・
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アイルランドのニューグレンジの墳墓も・・・
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いずれも円丘墳墓で、巨石で壁や天井が蔽(おお)われた通路は、冬至の朝、太陽光が、玄室まで差し込む向きに造られているのです。

そしてフランスのガブリニス島の円丘墳墓の玄室に到る通路の側面と・・・
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アイルランドのニューグレンジの円丘墳墓の玄室に到る通路の側面には・・・
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渦巻き状の文様が彫られています!
アイルランドのニューグレンジ近くの大小の円丘墳墓群。
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墓の周囲に並べられた石にも同じような抽象的な模様が・・・
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1999年、ある学者が文様の中に月の模様と類似しているものを見つけました!
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渦巻き状の文様は月を表しているのではないのか???
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墳墓の通路は冬至の日の出の方向を指していますが、左右の壁には光は当たりません。その壁に描かれた渦巻き状の文様は・・・月を表しているのではないか?

アイルランドのキャロウキールCarrowkeelの古墳に月の意味が現れています。
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いくつもある墓の入口は、19年に一度(注)月が沈む特別な方向に向いているのです。
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(注:月は天球上の白道と呼ばれる通り道をほぼ4週間の周期で運行する。白道は19年周期で揺らいでいるが、黄道帯とよばれる黄道(太陽の見かけ上の通路)周辺8度の範囲に収まる。)

当時、この墓は80Km離れた場所で採れる石英で覆われていました。
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黄色なら太陽、白なら月でしょう。
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月は古墳だけでなく、ストーンヘンジでも重視されていたという意見があります。
冬至の太陽は中央の下の開口部に沈みます。
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しかし、月に一度、月はその上の開口に沈むのです。
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アイルランドのキャロウキールCarrowkeelの北のキャロウモーアCarrowmore。
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手前には小さなストーン・サークルがありますが、奥に見える丘には・・・
円丘墳墓があります!
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伝説によれば、祀られているのは女性戦士メイQueen Maebhです。
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入口は毎月1回、月が玄室まで差し込む方向に向いています。

ストーンヘンジから30Km北のエーヴベリーAveburyには直径4百mのストーン・サークルがあります。形が異なる大小の石が交互に建てられ、大きい方は柱状pillarで男、小さい方はひし形lozengeで女を表していると言われています。
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ヨーロッパ各地の紀元前1千年頃(青銅器時代)の墓で黄金の帽子Golden Hutが見つかりました。
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祈祷師でもあった“王”が使ったもので、年、月、季節、月のサイクル(日?)、を計算する模様がついていると考えられています。
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2002年12月、ドイツで見つかった太陽と月が描かれた銅製のディスク。ストーンヘンジ末期のものです。
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これらの事実は、ヨーロッパにおいて、古くから広い文化交流があったこと、古代人が太陽だけではなく、月の動きにも関心をもっていたことを示していると言います。

7万年前に始まった最後の氷河期が1万年前に終わり、狩猟から農業に生活様式が変わると、気候のリズムを知ることが重要になりました。日射量の変化には特に関心が強かったはずです。冬至は日照時間が最少で、これを過ぎると太陽の恩恵は増え始めます。このことから、冬至は“太陽が生まれる日”と考えられ、農作業には重要な意味をもつ日になりました。そこで、冬至に太陽が昇る位置や沈む位置を明確にし、豊穣を祈念する祭りをする場所としてストーンヘンジやストーン・サークルを造ったのです。つまり、墳墓ではなくて寺院だったんですね。

この時期、太陽だけでなく、月も重視されるようになったと言います。古代から女性は子孫繁栄や豊穣のシンボルと考えられ、月のサイクルは女性の生理に影響を与えています。
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遺跡で見つかった女性像は右手に角を持っています。角は月を表していると考えられています。

狩猟生活から農耕生活に変化した時期に巨石構造物が生まれることになった理由として、勢力範囲の誇示も挙げられています。
例えば、フランスのロクマリアクエラLocmariaquerの巨石ですが・・・
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紀元前4500年、高さ21mで聳(そび)えていました。
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材料の石灰岩は湾の向うから運ばれてきたものです。斧のマークも彫られています。
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この巨石は遠くからでも見ることが出来る、いわゆるモニュメント(記念碑)でした。そんなことが出来る部族は偉大で、力もあるんだから、よそ者が入り込んでも直ぐに追い払うぞ、という威圧効果があったのです。

獲物を追って移り住んでいた狩猟時代と異なり、農耕時代になると定住し、平野に耕作地を開拓し、そこで穀物を育てることになったのですが、すると、よそ者が畑を荒らしたり、耕作地を奪いに来たり、ということで部族間の紛争が生まれたのです。そこで、自分たちの力を誇示して威嚇(いかく)するために巨石文明が生まれたと言います。日本の十和田湖付近に造られた隣接する2つの日時計も、この土地は俺たちのものだという意思表示が目的で造られたのでしょう、確信はありませんが。

こうして農耕地を中心に集落が生まれ、ストーンヘンジやストーン・サークルが造られるようになると、リーダーが現れてきました。彼らは、死後も人々に畏敬の念を与え、権力を子孫に継承しようとして、集落の近くに大きな墓を造ることにしたのです。従って、耕作地の中心にストーンヘンジやストーン・サークルが、その近くに円丘墳墓が造られることになったと言う訳です。

チベット死者の書、エジプト死者の書でもご紹介しましたが、人間の根底には死後の世界への関心があり、それが宗教発生の原点だという考えがあります。mhも、それで正しいだろうと、何となく思っていましたが、今回のブログの作成を通して、違うのではないかと思うようになりました。

古代人には、死後の世界より、今を生き延びる、つまり食糧の確保の方が重大な関心事だったんですね。そこで、穀物の収穫量に密接な関係を持つ太陽や雨に対する関心、尊敬、畏敬の念から、太陽の神、雨の神が生まれ、これを祀る寺院が造られるようになったことが宗教の起源でしょう。

この考えが正しいか否かは、世界の各地で生まれた宗教の実体や寺院の様子から判断できます。

例えば日本。最初の宗教は卑弥呼か卑弥呼以前のものでしょうが、魏志倭人伝によれば、卑弥呼は“倭女王卑弥呼”とありますから間違いなく女で、Wikiによれば西暦248年頃に亡くなり、後継者は“宗女の壹與”とあります。つまり子孫繁栄・豊穣の象徴である女性が巫女として太陽や月の運行から天候を占い、国を治めていたんですね。農業で生きていくには大勢の作業者が必要なので、子供は多いほどよかったのだと思います。死後の世界を心配するよりも、まずは家族繁栄が優先された結果、女性のリーダ(巫女)が祀り上げられていたのでしょう。

メキシコのマヤ文明も同じで、太陽の神、雨の神が重要でした。神を宥(なだ)めるために生贄の心臓を捧げていたのです。人の命よりも明日の太陽や雨の方が気掛かりだったというわけです。

紀元前1万年に建設が始まったというトルコのギョベクリ・テペでは20もの寺院が造られましたが、そこからは、人骨が見つかっていません。この近辺で小麦の量産が始まった証拠がありますから、豊作を祈念する寺院だったと思います。
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以上で、焦点が掴みどころのないブログ「欧州の巨石文化の不思議」は尻切れトンボのように終わりです。

巻末ですが、補足情報です。
フランスのロクマリアクエラ円丘墳墓の玄室。
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巨石の模様は麦の穂を表しているのでしょうか。
ロクマリアクエラ近くの町の丘に点在する墳墓では黄金の副葬品も見つかりました。
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フランスのカルナック遺跡の北の丘には125mx60mで高さ30mの丘があり、頂きには礼拝堂があります。
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この礼拝堂の近くで、1860年、埋葬の跡がみつかり、バラサイト、ジャスパーなどの貴石で出来たネックレスが出てきました。
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39個の磨かれた石斧も見つかっています。丘は墳墓だったのです。
近くには地下に続く長いトンネルがあって・・・
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その先の玄室で、翡翠の飾りや斧が見つかっています。
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農作業を中心に古代人が集まって暮らすなら平地でしょう。
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そこに巨石でモニュメントを造るには遠く離れた岩山から石を運ばねばなりません。
ナショナル・ジオグラフィック「古代人は巨石をいかにして運んだか」という記事が見つかりました。木材の橇(そり)や筏(いかだ)、川や海のルート、を使ったという考えが主力です。詳細は次のURLでご確認下さい。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8544/?ST=m_news
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Youtube ; Stonehenge rediscovered.
https://www.youtube.com/watch?v=slTrDp08pLc
(完)
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