Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

黒いミイラの不思議


ブログ「リビアの不思議」(2016年6月20日)で、サハラの中心とも言えるアカクスAkakus山地で見つかったチャリオット(馬戦車)の岩絵を巡る物語をご紹介しました。
a4301.png “何故、サハラの真ん中にチャリオットが!!!そうか!エジプト帝国から来たんだな、ラムセス二世(紀元前13世紀)も乗っていたし。”と締めくくらせて頂きました。
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しかし・・・
今回ご紹介するYoutube「Black Mummy of the Green Sahara緑のサハラの黒いミイラ」を見て、とんでもない勘違いをしていた!と思っています。

ラムセス二世は3千2百年前の男です。彼より1百年程前、ツタンカーメンの父アケナーテンもチャリオットを乗り回していますが、今から5千1百年前、上ナイルと下ナイルを統合して古代エジプト第一王朝を打ち建てたナーマー(ナルメルNarmer)はチャリオットを使っていないようです。つまり、エジプトでチャリオットが使われ始めたのは、今から4千年程前からではないかと思われます。

片や、サハラの真ん中でチャリオットが使われていたのは・・・チャリオットが岩絵に描かれたのはいつか?岩絵なんだから、恐らく、かなり古いんじゃあないの?いやいや、岩絵だって数百年前に描かれたものもあるはずだ。待てよ、チャリオットがアカクス山地近辺を走り回ってたってことは、辺りには緑が多く残されていたんじゃあないの?サハラは砂漠の意味だから今回取り上げるフィルムの題に“緑のサハラ”ってあるのは、妙なネーミングだけれど、緑のサハラの時代は、恐らくエジプト帝国設立よりかなり前だろうから、サハラのチャリオットの方がエジプトのチャリオットより古いんじゃあないの?ところで、今回のYoutubeのタイトルの“黒いミイラ”って何のことだ?

こうして、取り留めも無く疑念と妄想を膨らませていくと、混沌の中で自分を見失いそうです。それでは読者諸氏に申し訳ありませんので、この辺りで打ち切って、語り足りない所は後置きに譲り(?)、Youtubeフィルムをご紹介いたしましょう。
・・・・・・
リビアの砂漠の中の岩のシェルター(mh:避難場所のような所)で、前例のない発見があった。
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ミイラ処理された小さな子供だ。彼が掘り出されるまで、アフリカではエジプト人がミイラ化処理技術を発明したものだと誰しもが考えていた。このミイラの発見は、古代エジプトに関して我々が知っていると考えていた全てのことに対して挑戦する新しい理論の開拓を、サヴィーノ・ダロニア博士と彼のチームに促すことになった。
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サヴィーノ「ミイラ処理技術はエジプトで生まれたものではなく、他の場所、他の文化、東アフリカとは別の地域のものだった!」
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エジプト学者ジョアン「ミイラ技術を生んだ人々はどこで暮らしていたのか?どこから来たのか?どんな方法で信じられない程に高度なミイラ処理技術をそんなにも古い時代に獲得していたのか?」
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どんな民族か判らない人々がエジプト人よりもずっと昔に仲間の死体をミイラ処理していた???

長い間、失われていたアフリカの文化を解き明かす鍵になりえることを証明したのはこの子供だ。
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「Mystery of the Black Mummy黒いミイラの秘密」
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サハラ。世界最大の砂漠。地上で最も暑く、最も人里から離れた所のひとつでもある。ローマ大学のイタリア人考古学者サヴィーノ・ダロニアは既に2日間、砂漠を車で走り続けている。
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前方に目的地のリビア南西部のアカカス山地が現れて来た。
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リビアは北アフリカの国で、西にはアルジェリア、東にはエジプトがある。
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不愛想な地形は、残っていた僅かな遊牧民族さえ追い出してしまったが、かつては子供をミイラ処理した、ある家族の故郷だったのだ。
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新しい秘密を解き明かすことを期待しながら、サヴィーノは毎年、この雄大な場所に戻ってくる。全ては今から40年前、ミイラ処理された小さな少年“ワン・マフジャジ”の発見から始まった。彼の名前は見つかった“岩のシェルター(岩陰遺跡)”から名付けられた。サヴィーノと同僚たちは、この発見が意味することを完全に解き明かそうと、数十年も取り組んでいる。サヴィーノ「岩のシェルターで見つかったミイラはサハラにおける古代文明の考古学的、歴史的な再構築を始めさせることになった、と私は思っている。」
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我々は今日のリビア人が、かなりの部分で中東の人々と同じだと思っている。しかし、サヴィーノたちは、この地には数千年前に南からやってきた黒人アフリカ人が棲んでいたと信じている。
(mh:サハラの南のサバンナやジャングルで暮らすアフリカ人は黒人、つまりネグロイドNegroidと呼ばれる、肌の色が黒い人種です。しかし、ナイル下流のエジプトや地中海沿岸の北アフリカ、つまりサハラよりも北のアフリカ人は、肌の色が褐色で、黒人とは異なる人種です。)

黒人らしき狩人が描かれている岩絵を別にすれば、考古学者は、この考えを証明する証拠を何も持っていない。しかし、ミイラが全てを変えてしまったのだ。
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サヴィーノ「黒いミイラの意義はとても大きい。我々は、この地域にいたのではないかと考えられていた黒い人々が、実際にいたのだという証拠を初めて掴んだのだ。」
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それは、これまで知られていなかったアフリカの文明を解き明かす驚くべき探求の始まりだった。ワン・マフジャジの岩のシェルターは日中の太陽から十分な日陰を確保できるというだけのもので、格段、特別の場所ではない。
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ミイラを発見した時に立ち会ったダマダニ族の男に会うため、サヴィーノは岩のシェルターに戻ってきた所だ。彼らは一つの狭い場所に着目している。サヴィーノの先輩のモウリー教授が黒いミイラを発見した場所だ。
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サヴィーノ「今でも、その場所を見ることが出来る。というのは、自然に侵食が進んでいる場所だったのだ。ワン・マフジャジの遺体は、丁度この辺りにあった。小さな袋が太陽の光に晒(さら)された時、中に何が入っているのか、誰も想像つかなかった。袋を開けるとミイラがあった。それを見て誰もが驚いた。」
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その子は死んで直ぐ、胎児のような姿勢で鹿の皮でできた袋に入れられ、袋は植物の葉で包まれて埋められていた。こうした注意深い保護のおかげで、以降、5千5百年もの間、遺体は守られていたのだ。
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イタリア人考古学者たちは、重大な発見をしたことに気付いていた。少年の頭蓋骨の形は、彼が黒人であることを暗示していた。それが正しければ、アフリカにおけるミイラ処理の歴史は書き換えられることになる。そのためには彼らは確認しておく必要があった。ミイラの分析のため、脆(もろ)い荷物を携えて最も近い村に向けた10日の紆余曲折の駱駝の旅の後、ローマに戻った。
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ローマ大学のジョージオ・マンジー博士はリビアで発見された人骨に関する世界で最先端の専門家だ。彼の研究室には、リビア人の頭蓋骨のコレクションが見事に整備されている。
オウマンジー博士「1950年代、イタリアの研究チームが子供は黒人、二グロNegro、だと推論した主な理由は頭蓋骨の顔の組立を考慮したからだ。特にこの部分、鼻の根元、の寸法と、上あごが前に突き出ているという特徴だ。」
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ミイラの歯は彼が死んだ年齢を明確にした。
マンジー博士「イタリア・チームがまず調べ直したことは歯だ。とても若い人間の歯だった。X線で調べたのだが、その方法だと顎に埋まっている歯も調べられるので簡単に、正確に年齢が判る。」
その結果、ワン・マフジャジは黒人で2歳半の少年だと確定した。しかし、驚くべきは炭素年代測定の結果だった。ワン・マフジャジは5千6百年前の人間だったのだ。
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過去にアフリカで見つかったミイラの中で彼が最も古いことになる!彼はどこから来たのだろう?
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エジプト人がミイラ処理技術を発明したと思われる時期よりも1千年も前、誰がこの少年をミイラ処理したのだろう?ワン・マフジャジの黒いミイラの源は今もミステリーに包まれたままだ。

この少年についてもう少し調べてみようと、サヴィーノは彼のミイラが眠っているトリポリ博物館に戻ってきた。
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サヴィーノ「ミイラ処理の最も印象的な証拠は頭蓋骨に付着している皮膚だ。皮膚は体の骨にも残っている。更には有機物の残骸もあった。ミイラ処理しなければ起こり得ないことだ。」
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「胸を切開してから内蔵を取り除き、バクテリアの活動を防ぐための有機物を詰めたのだ。特殊で高度な技術といえる。」

ワン・マフジャジを特別なミイラにしているのは彼がアフリカで見つかった最も古い、内臓を除去したミイラだということだ。切開手術が彼の胃と胸部に沿って行われていた。その後、内臓が取り出され、体が腐らないよう有機的な防腐剤が詰められた。この処理方法があったからこそ、黒いミイラは世間に現れることになったのだ。
ミイラ専門家でエジプト考古学者のジョアン・フレチャーは強い関心を示した。
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ジョアン「私はおよそ15年前、黒いミイラに関心を持ち始めたの。主な理由はそれが内臓を除去したミイラだったからよ。内臓は胸部から、それに勿論、下腹部からも取り除かれていて、とても高度な除去処理で、アフリカで見つかった中で最も古くて完璧なミイラ処理なのよ。誰もがエジプトがミイラ処理の本家だと言うけれど、黒いミイラはエジプトでミイラ化が行われていない時代のものなので興味が湧いてくるの。私の疑問は、この黒いミイラは後のエジプトのミイラ化処理に影響を与えたのか、それともこれら2つの伝統は別々に発達したのか、という点にあるわ。」
一般的にはエジプトがアフリカにおける唯一の古代文明だ。エジプトの芸術や宗教は有名で、学術的にはエジプトこそがアフリカにおける変革の発祥地といえるだろう。
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しかし、この確立した学術的発想に黒いミイラが対抗しようとしていると考えている人々がいる。
デイヴィッド・マッティングリー教授はサハラ文明を専門に研究している。
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マッティングリー教授「ミイラが中央サハラで発見された時、それはエジプトと同じ処理が行われているだけだろうと思われて、大して着目されなかった。私も同じで、エジプトがサハラの闇を照らしていた結果だろうと考えていた。」
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しかし、ワン・マフジャジはナイルから2千4百Kmも西に離れた場所で見つかり、しかもエジプト人よりも1千年前に内臓を除去してミイラ処理されていたのだ。
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アフリカに置いては、ミイラ処理技術を発明したのは古代エジプト人ではないと考えることが出来るのではないか?そして、もし彼らがミイラを準備したというのでないなら、誰がしたというのだろう。」

ジョアン「エジプト人以外で、一体誰が、こんなにも優れた方法で遺体を保存することができたのか、というのはとても興味深い疑問だわ。私には、それが誰かなんてとても思いつかないわ。彼らがどこからきたのか、どんな経緯で、信じられない程高度なミイラ処理技術を、そんなにも古い時代に習得していたのか。それは大きな謎だわ。」

ワン・マフジャジの民族と彼らの文化に関してもっと新たな情報を見つけ出そうと、サヴィーノは12年間、調査を続けて来た。彼の探求はワン・マフジャジの岩のシェルターから始まった。
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そこでの注意深い発掘作業が決定的なヒントを与えてくれたのだ。
サヴィーノ「ワン・マフジャジが眠っていた4,5千年前の地層に炭が残っている。そして、動物の糞も見つかった。恐らく牛の糞だ。彼らの生活では牛が重要だったのに違いない。」
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この発見は驚くべきものだと言えるだろう。牛は砂漠では生活しないのだ!しかし、その姿はアカクス山地の広い範囲に残っている岩絵にも繰り返し描かれている!
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サヴィーノ「ワン・マフジャジの時代に書かれた岩絵の50%以上が牛だ。つまり6千年前、牛はとても重要な動物だったんだ。この絵の牛は、この地方に固有な牛だと思われる。なぜそう言えるかというと、体の色が赤と白で、この地方の牛の特徴だったのだ。」
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牛と山羊。ワン・マフジャジの人々は明らかに動物を飼育して暮らしていたのだ。しかし、彼らはどのようにして、こんな砂漠の中で生きていくことが出来たのだろう?
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単純な植物の残骸がワン・マフジャジの家族がかつては全く異なる環境で暮らしていたかも知れないとの示唆を与えてくれた。
サヴィーノ「ワン・マフジャジが生きていた5千5百年前、この一帯には、水辺でなければ育たないティファ―という植物が生えていた証拠がある!」
ティファ―はオアシス周辺にしか見かけない植物だ。今の様子からは、とても想像することはできない。
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この辺り一帯がかつて青々としていたなんてことがあり得るのだろうか?気象学者がその答えを用意してくれるだろう。

NASAの衛星のひとつがケビン・ホワイト博士の注目を引き付けた。彼は今、最近の技術を使って古代の自然環境を研究する、イギリスを代表する大学のチームを指導している。
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ケビン「NASAの科学者たちは火星表面を研究するための参考としてサハラの西側の映像を調べていた。そしてレーダー機器を使って得られた情報から、“砂の敷布sand sheet”と呼ばれる砂に覆われていた河川体系を発見した。」
レーダーは砂漠表面の内部まで浸透し、かつて、いくつもの巨大な湖に水を供給していた古代の河川の全貌をさらけ出すことに成功した。

ケビン「この辺りを見ると、多くの川がいくつも繋がっていたことが判る。左側の外観写真では、全く判らない情報だ。」
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これらの湖は、古代のうちに干上がってしまっていた。科学者たちはペリオレイクpaleolake(古代の湖)と呼んでいる。
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ケビンは似たような河川をリビアの中央サハラで見つけ出すため、この技術を使っている。しかし、ケビンが最も興味を持っているのは古代の湖の沈殿物だ。何故なら、それが昔の物語を語ってくれるからだ。
ケビン「湖の沈殿物は湖周辺の斜面で起きていた事象に関する多くの情報を捉えている可能性がある。周辺の植物体系、水中の生物体系が判るかもしれないし、時には化石が残されていることもある。」
当時の気象状況を再構築するためには、サンプルが必要だ。ケビンの同僚のニック博士は衛星で捕えた地図を使ってリビア旅行を計画した。
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ニック「今私が居るここがペリオレイクだ。」
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ニック「ワン・マフジャジの時代、多くの人々がこの一帯で暮らしていた。我々は当時使われていた土器や石器を見つけた。」
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ニック「私が特に見つけたいと考えているのは、有機堆積物だ。それを使って放射性炭素年代分析ができる。淡水の蛇貝の化石や、象、犀(さい)、鰐(わに)、魚の骨からも年代推定が可能だ。だから是非、見つけ出したい。」
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ニックとサヴィーノは友人だ。彼らは干上がった川底を目指し、ワン・マフジャジの岩のシェルターから数時間、車を進めている。そこで見つかる証拠が、この一帯が、かつて全く異なった自然環境にあったことを証明してくれるだろうか。
マッテンディッシュ(?)はアフリカでは有名な岩絵の一つだ。
サヴィーノ「人間の姿をした人物が斧を持っている!」
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サヴィーノ「ここには沢山の動物が描かれている。象、2,3匹のキリン。何らかの文明があったはずだ。私が気に入っている絵はこれだ。」
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ニック「なかなか不可解な絵もあるね。」
ここの岩絵に書かれている動物はサバンナ(草原)でしか暮らしていないものばかりだ。しかし、次の岩絵にはニックも驚いた。鰐(わに)の絵だ。草原には水もあったという証拠だろう。
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ニック「岩絵の動物から、この辺り一帯の当時の様子を想像することが出来るね。今我々が立っている所は、きっと湖畔か、雨季に川が流れていた川辺だよ。多分、この辺りには浅瀬があって何匹かの河馬(かば)や犀(サイ)がいて、鰐(ワニ)もやって来る危険な場所だったかも知れない。」
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「象も高台から水を求めてやってきただろう。ライオンがガゼルを捕まえていたかも知れない。勿論、人間も動物狩りをしていただろうね。きっと、現代のケニヤみたいなところだったと思うよ。」
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現代のサハラでは、このようなエデンの園はワン・マフジャジの時代の足跡から想像するだけでしかない。しかし、今でも古代の湖がどんな様子をしていたのかを砂漠の真ん中で体験することができる。
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ガバローはサハラに十数か所あるオアシスの一つだ。そこは我々にワン・マフジャジの時代の環境を垣間見せてくれる。湖の湖畔で成長しているのは我々を古代に導いてくれる生きた化石だ。
サヴィーノ「この辺りの植物はワン・マフジャジの岩のシェルター辺りのものと同じだ。5千5百年前の植物と全く同じ植物を見つけたこともある。つまり、ワン・マフジャジの時代も、この湖の周辺のような様子だったと考えていいと思う。」
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ニック「生きた化石の植物が今もあるってことか。過去を語る叙事詩みたいだね。」

ニックはサハラから研究室に戻った。分析の結果、1万年前の古代の気象環境が明確になった。コンピューターの画面に映し出されたモデルは、我々を現代からサハラの気候が急速に変化していたワン・マフジャジの時代にまで連れていってくれた。当時、砂漠は植物で覆われ、谷は湖だった。全てが1万年前に起きていた。地球の軸が変化して熱帯モンスーンがアフリカの北部、サハラ中心まで雨を運んでいた時代、ワン・マフジャジの祖先は南から草原のサハラにやってきたのだ。
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サヴィーノ「1万年前、モンスーン帯に沿って黒人が南からやって来て、今のサハラの中央にも住み付いた。それでアカカス山地一帯でも黒人が見つかっているのだ。」
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サハラにやって来たのは彼らだけではなかった。およそ7千年前、メソポタミアやパレスチナから牛や山羊を引き連れた人々もサハラの中心地までやって来た。
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サヴィーノ「サハラの中心やアカクス山地は世界でも最初の人種のるつぼとなった場所と言える。南からきた黒人と、中東から来た言わば白人が、この地で交わったのだ。」
今日のリビアで、人種のるつぼの遺産を見ることが出来る。
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マッティングリー教授「現代のリビアの町の通りを歩いていると、信じられない程に多様な人種に出会う。彼らは地中海とサハラが混じり合った人種の交流を示しているのだ。しかし、本当に驚くべきことは、白系の地中海型人種とサハラの二グロ系人種の混血が極めて古い時代に行われていたということだ。」
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この人種多様性は、サヴィーノを悩ませていた興味深い岩絵の説明にもなりそうだ。
サヴィーノ「この岩絵の人々の顔はワン・マフジャジのような黒ではなく、どちらかと言えば白い。」
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民族と文化の混合がワン・マフジャジをミイラ処理することになったのだ。しかし、少年はどんな社会の中で暮らしていたのだろう?
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その重要なヒントのひとつは、彼が壊さずに身に付けていたダチョウの卵の殻で出来たネックレスだ。
サヴィーノ「今も、ネックレスに使われていたダチョウの卵の殻のビーズのいくつかが残っている。」
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古代社会の墓の副葬品は、当時、宗教的な儀式が行われていたことを暗示している。更にミイラ処理は全く異なることも暗示している。ワン・マフジャジが、これまでに見つかった中でたった一つの完璧なサハラのミイラだとしても、ワン・マフジャジよりも以前から、一千年とは言わないが数百年前から、人々は死体をミイラ処理していたのだ。
ジョアン「黒いミイラの特徴は、それが内臓除去という高度な技術をつかっているということよ。この技術は本当に複雑な高度な方法なので、ある日突然、生まれたってものじゃあないわ。黒いミイラは極めて複雑な発展過程を踏んだ一連の流れの中の結果だったのよ。」

ワン・マフジャジがミイラ処理されたのは、彼が特別な子供だったからなのだろうか?
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サヴィーノ「ワン・マフジャジの家族が、特別に権力があったとか、豊かだったということはない。彼の時代、彼のような人種の社会では大きな格差というものは、まだ生まれていないはずなのだ。」
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ジョアン「ワン・マフジャジのように小さな少年が注意深くミイラ処理されていたという事実は、必ずしも何をしたのかで人物を判断する社会ではなかったことを暗示しているわ。恐らく、若くして死んでしまった子供が再び、この世に生まれてくることができるよう、ミイラ処理することが重要だったのよ。後悔と愛情からミイラ処理が行われていたとも言えると思うわ。死んだ子をいつも自分のそばに置いておきたかったからかも知れない。」

しかしワン・マフジャジがミイラ処理された時期は最大の疑問だ。アフリカにおけるミイラ処理は、ここ、サハラの中心で始まったのだろうか?
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サヴィーノ「ここで5千5百年前のミイラが見つかった。それはエジプトで見つかったミイラより少なくとも1千年は古い。このことは、ミイラ処理やその知識がエジプトで生まれたものではないということだろう。中央サハラで生まれた知識やその他のものがナイル河畔に伝わったと考えるべきだ。考古学的には、それを裏付ける更なる証拠を見つける必要があるとは思うけど。」
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サヴィーノは黒いミイラの人々の多くの子孫が、ワン・マフジャジの死から5百年後、中央サハラから離れざるを得ない状態に追い込まれていたことを知っていた。環境調査の結果によれば、およそ5千年前、サハラを再び乾燥状態にする急激な気候変動がやって来た事が確認されているのだ。
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サヴィーノ「先史時代、気候変動は人々に大きな影響を与えた。恐らく、アフリカの中心部における変化は、厳しかっただろう。だから6千年前、更には5千年前、サハラの地で乾燥危機が起きた。だから人々は移動しなければならなくなったのだ。」
ワン・マフジャジの人々がミイラ処理技術を携(たずさ)えて豊かなナイル河畔の東に移動したと考えるのは可能だろうか?それとも2つの伝統は、それぞれ全く独自に発展したのだろうか?
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サヴィーノは、更なる証拠を探してリビアのサハラ全域を移動している。サハラの文明とエジプトのナイル河畔における社会を結び付けるものはあるのか?そしてさらに興味があるのは、黒いミイラ以外にも、サハラで生まれた革新的なものが古代エジプトに影響を与えていたということはないのだろうかということだ。

調査は数年を要した。しかし、彼は間違いなく、最初のヒントを見つけた。それは枯草の山から針を見つけたようなものだった。そこでサヴィーノは不思議な遺跡に出くわしたのだ。
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それは、ワン・マフジャジの岩から丁度100Kmの、玉石がばらまかれたメサックと呼ばれる平地の、変哲もない岩の破片が散乱している場所にあった。直径3mほどの、石が円形に並べられたモニュメントだ。
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それは間違いなく、サハラで暮らす人々の生活の中で、牛が重要な意味を持っていたことを示していた。牛の骨がモニュメントの中で見つかった。近くには捧げもの用の土器も残されていた。牛の喉をかき切る血の儀式が行われていたのだ。このモニュメントこそ牛信仰の証拠だ。

サヴィーノ「私がこれを発見した時、直ぐに牛信仰の記念碑だと判った。そこで発掘すると、直ぐに骨や焼かれた牛の跡が出て来たんだ。牛信仰に関係する儀式の考古学的証拠で間違いない。」
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ジョアン「リビアのサハラ文化における神聖な牛の喉を欠き切る儀式の場所の発見は、その後のエジプトで日常的なものとして行われていた、寺院の中での牛の生贄儀式のことを思い起こさせてくれるわ。人間のミイラが墓に埋められている場所で行われる葬儀では、牛の前足を切り取って、まだ恰(あたか)も生きた状態の足を死者の口に捧げて、牛の命を死者に移し、死者があの世に旅立てるようにしていたの。牛を使って神聖な力、神聖な知恵を死者に移そうとしていたわけね。この動物と人間の象徴的な関係は、エジプトの西のサハラの文化ととても似ていると言えると思うわ。」
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牛が人間と神を結びつけるというエジプト人の発想は新しいものではなかった。実際の所、牛信仰は、ナイル湖畔で最盛期を迎える数千年前からサハラ中央で存在していたのだ!
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サヴィーノ「サハラの文明がエジプトの文明に大きな影響を与えていたと考えるとワクワクする。しかし、冷静に考えてみれば、それは極めて当然だともいえる。」
サヴィーノはエジプトの生活におけるミイラ処理と牛信仰は、いずれもサハラの社会の中心にあったことを明確にした。
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しかし、彼は、牛の記念碑から1Kmほどの乾燥した涸れ川(wadiワジ)の中で、もっと決定的なものを見つけた。動物の頭を持つ人間の岩絵だ!
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サヴィーノ「この岩絵の最も興味深い点は、犬の面を被った神が描かれているということだ。」
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「この種の人間はインディアン・ミサキ時代(?)の人々と繋がっている。岩の色がとても黒い(注)ことから、この絵はかなり古いと考えて良い。ナイル河畔で描かれた絵と比べると、こちらの方がかなり昔のものだと断言できる。」
(注:鉄分を含んだ岩は酸化が進むにつれ表面が黒くなります。)
この絵に塗られていた絵具の中の有機物を分析すると5千6百年前のものと判明したが、岩絵は更に数千年古いとサヴィーノは信じている。
ジョアン「そんなにも古い時代、動物の頭をした人間の姿がエジプト以外の場所に存在していたということは、とても興味深いわ。岩絵よりも後世に生まれたエジプトの神話文化の中に、高度な絵画技法で全く同じ対象が描かれているんだもの。」
エジプトの神アヌビスは古代エジプトの最も知られるシンボルの一つだ。
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ジョアン「これがアヌビスよ。埋葬や死者の守り神としての古代エジプトの神なの。特に神聖な儀式の時には、彼に似せたマスクもエジプトでは使われていたの。これと同じマスクを祈祷師が被(かぶ)って、死者があの世で蘇るよう、魔法の儀式をするの。サハラの文化に、犬の、実際にはジャッカルの、マスクをかぶった人間の岩絵が、アヌビスよりも1千年以上も前に現れていたっているというのはとても興味深い事実だわ。エジプトの神話に関する新たな評価を生みだす事実になるはずよ。」

中央サハラの生活の中で牛信仰と動物の頭の人間が発生した時期は、それらがナイル河畔で発生する以前だった。しかし、小さくて曖昧な社会が、そんなに大きな影響を生み出すことなど起きえるのだろうか。ワン・マフジャジの文化がリビアの南西部から拡大したのかどうかについて語るには、考古学者たちは更に知らねばならぬことがあるだろうと思っていた。

800Km南の現在のナイジェリアで、その質問への答えを探す作業は始まっていた。
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1980年代、フランス人考古学者たちは土器、人間の墓、岩絵、を発見していた。これらは全て、リビアでイタリア人によって発見された証拠と同じだった。更には、これに似た手工芸品は北アフリカ全域でも発見された。これらの事実から、この文化は、今まで誰も想像したことがない広い範囲に拡散していたと考えられている。
サヴィーノ「これがトリポリで、カイロで、ナイル。中心がアカクス山地だ。」
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「アルジェリア、リビア、エジプト、スーダン、チャド、ニジェール、マリ。これらが占める面積はヨーロッパよりも広い。つまり、古代において、この広大な土地に、同じ文化の、同じアフリカ人が暮らしていたということを意味する。」
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この文明の広がり面積は驚くべきものだ。マリから東端はエジプトまで、北アフリカのほとんどに広がっていたのだ。
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ジョアン「多くの点で広範囲に広がっていたサハラ文化が、物理的に極めて遠い場所まで伝えられたとは言い切れないと思うわ。ナイル河畔といえどもサハラの一部なんだから。つまりエジプトの西の砂漠からナイル河畔までは、とても短い距離だとも言えるのよ。」

構想の外郭は固まった。しかし、考古学者たちは、今もなお、中央サハラのアフリカ文明がエジプトに影響を与えたという証拠を必要としている。彼らが必要としているのは、もっと直接的なつながりだ。接触があったという証拠だ。イタリア人はアカカス山地のもっとも一般的な手工芸品である土器に目を向けることにした。サハラの限られた場所で生まれた土器とナイル河畔の土器と比べるとどうだろうか?
ワン・マフジャジが発見された岩のシェルターの近くの洞窟で、サヴィーノは古い時代に遡るアフリカの土器の破片を発見していた。
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サヴィーノ「今でもここで、その破片を見ることが出来る。恐らく9千年前のものだ。」
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「何かを押し付けて波模様の装飾が施されている。この土器は世界でも最も古い土器の一つだ。」
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イタリア人チームは土器の破片を集めて、元の形に再現していた。サヴィーノと一緒にローマに戻って、それを見てみよう。
サヴィーノ「これがそうだ。恐らく6千年前のものだ。何かを押し付けた文様の装飾は、アフリカの広い範囲に共通する特徴だった。」
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これはどこにでも見つかる土器のひとつではなく、サハラ固有の形の土器だ。ナイル湖畔で見つかる土器とは全く異なる。
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ナイル湖畔の発掘では、6千年程前、高度に装飾されたサハラ土器の急激な流入が起きていることが確認されていた。
サヴィーノ「我々は特にスーダンのナイル湖畔で、系統立てて発掘を続けている。1万年前、9千年前、8千年前と。」
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「そして6千年前、突然、スーダンで生まれた土器とは技術的に全く異なるサハラ中央の土器が現れてくるんだ。つまり人とか土器の製造の方法とか、そういった交流が今から6千年前に行われたことが判ったんだ。」
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これが謎を解く最後のピースだろうか?考古学者たちはサハラの文化がナイル河畔に影響を与えた証拠を見つけたのだろうか?もしそうだとしたら、サハラ中央で暮らしていた人々に起きたことは何だったのだろう?影響力や洗練された文化にも拘わらず、彼らに関するほとんど全ての痕跡は失われてしまっているのだ!まるで全ての歴史が、文字通り、サハラの砂で覆いかくされてしまったかのようだ。しかし彼らと共に彼らの革新的な文化が死んだというわけではないことを考古学者達は確信している。
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デイヴィッド・マッティングリー教授「過去1万年において、中央サハラと古代エジプトの遺産は信じられない程強く絡み合っている。しかし、もし5千から8千年前まで遡るとしたら、2つの関係が、今の我々が知っている関係と少し異なる時代があった。エジプトが砂漠に向けて輝いていたこととは別に、小さいが多くの光をナイル湖畔に向けて放っていた砂漠の文明について我々は考える必要がある。この文明がエジプト文明の形成に重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。」
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サヴィーノ「私の意見では、エジプトの伝統は、サハラの伝統の影響を受けて始まったと思う。土器の製造や装飾技術、絵画の中にもそれを見ることが出来る。それはサハラのもので、エジプトのものではない。つまり多くの文化的な知識がサハラで生まれ、ナイル河畔を含む北アフリカの広い範囲に広がったんだ。」
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ジョアン「中央サハラの文明が、その後に生まれたエジプトの神話文明と広い範囲で関係があるということは、とても驚くべきことだと思うわ。ミイラ処理はその例よ。間違いなく2つの文化にはつながりがある。どちらが先かだけど、エジプト人の多くはエジプトが先だと考えたがると思うけれど、でも私はこれだけ多くの情報がサハラにあるということから、考え直す必要があると思うわ。」
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サヴィーノ「ワン・マフジャジが2歳半と小さくて、アカカス山地で彼の家族と暮らしていた5千5百年前、彼らは砂漠ではなくサバンナの環境の中で暮らしていた。そうだとしても、彼は3歳になる前に死んだんだ。彼の家族は繊細な技術を施して彼の遺体をミイラ処理し、墓場に運んだ。そうして偶然だろうけれども、遺体を植物で包んで丁重に埋葬したんだ。」
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Black Mummy of the Green Sahara
https://www.youtube.com/watch?v=Jz94ZjGCy2s

<御参考>
Wiki「車輪」に“車輪が最初に現れたのはメソポタミアで紀元前5千年頃(7千年前)”とあります。とすれば・・・チャリオットは、メソポタミアからナイル河畔経由でサハラに伝えられたものかも知れません。6,7千年前ならサハラは草木で覆われていて、メソポタミアあたりから連れてこられた牛にチャリオットのような荷車を牽かせながら、ワン・マフジャジの家族は牧草地を移動して遊牧生活をしていたことも考えられます。

Wiki「サハラ砂漠」には“砂漠化の進行”が紹介されています。
「サハラ一帯は、完新世(1万年前~現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。20,000年前から12,000年前はサハラ砂漠が最も拡大した時期で、現在のサヘル地帯(アラビア語:サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域)のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8,000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。7,500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5,000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。その後徐々に乾燥化が始まり、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。5,000年前と比べると砂漠の南限は1,000kmも南下している。乾燥化は歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も進行中である。」
(完)
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