Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

Wu Zetianの不思議


Wu Zetianをウー・ズーティエンと読めた方は、Wu(ウー)とは何か?正確には誰か?を知っているかも知れません。しかし、多くの人は、この人物を知っているのに、ウー・ズーティエンと聞いて、“はて、誰のこと?”と思われるでしょう。

Wu Zetianウー・ズーティエンとは武則天の中国読みです。武則天って何者?と思われた方はこのブログで勉強して下さい。武則天って則天武后のこと?って思われた方、正解です。

Wikiによると中国三大悪女の一人です。
<Wiki:中国三大悪女>
中国の歴史上において特に国を陥れたとされる3人の女性のこと。
以下の4人のうちの3人を指す場合が多い。
呂雉(呂后)、武則天(則天武后)、西太后、妲己
これに毛沢東夫人の江青を加えて中国四大悪女と呼ぶ向きもある。

三大悪女の候補4人を簡単に紹介しましょう。
呂 雉(りょ ち紀元前241年生)漢の高祖劉邦の皇后。
武 則天(ぶ そくてん624年生)中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后
西太后(せいたいこう1835年生)清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母
妲己(だっき)殷王朝末期(紀元前11世紀ごろ)の帝辛(紂王)の妃

しかし、三大悪女のWikiは日本版だけで、中国版、英語版その他の外国語版が全くありませんから、かねがねmhが主張しているように、世界三大○○というのは日本人が勝手に創り出したのではないかと思いますが、念のためと思って調べたら、中国(古代)四大美女(.西施(春秋時代).王昭君(漢).貂蝉(後漢).楊貴妃(唐))ってのが日本語版と中国語版のWikiにありますから、日本ばっかりじゃあないようです。世界三大美女はクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネ(トロイ戦争の架空のヒロイン、日本では小野小町)との記事もWikiにありましたが、これは日本語版だけですから、やっぱ日本だけで言われているんじゃあないかと思います。

で、今回はYoutubeフィルム「The Secret History of Chinese Female Emperor中国の女帝の秘話」を使い、Wu武のエピソードを世界自然遺産、世界歴史遺産などの写真と共にご紹介いたしましょう。

その前に、Wiki武則天の抜粋です。
Wiki:武 則天(ぶ そくてんWu Zetian)
中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱(いみな)は照(曌)。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
生年624年2月17日、没年705年12月16日(享年81歳)
帝位在位期間690年10月16日 - 705年2月22日
mh:垂簾聴政(すいれんちょうせい)の時代を加えると50年以上に渡り唐王朝の最高権力者でした。

なお武は武という家系を示し、名前は照(Zhaoジャオ)と言います。則天とは何か、調べたのですが明記したものが見つかりませんでした。“天に則る”ということで、私利私欲を捨て、正義を貫く、というのが日本人には判りやすい理解ですが、武則天の場合、“皇帝に従う”という意味から、皇后という意味の称号ではないかと思われます。武照ウー・ジャオが生きていた時は武則天と呼ばれたことはないようで、戒名として則天を使うよう、武が言い残したようです。それはどんな経緯(いきさつ)があったからなのか?その辺りはブログを見て頂けたら推察ができるのではないかと思います。

フィルムに登場する場所を地図に示しておきましょう。
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西安
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洛陽・竜門石窟・嵩山
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中国の“王家の谷”に高くそびえている石の塔がある。
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それは寂し気な妾(めかけ)からついには中国の皇帝になった女性の墓を示す印だ。彼女は中国の歴史の中で、唯一人、皇帝の称号を得た。しかし、この女帝は物議を醸しだす不穏当な統治者として歴史の中に潜(ひそ)んでしまっている。
「女性がそんなにも巨大な権力を持つなどということは、国の安定を脅かすものだった。」
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「彼女は、邪魔するものは何らかの手段で常に排除していた。」
「武則天に係(かかわ)ると危険が伴っていたようだ。」

China’s Forgotten Emperor中国の忘れられた皇帝
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中国2千年の帝国の歴史にたった一人、女の皇帝がいる。ウー・ズーティエン武則天と呼ばれている女性だ。武皇帝だ。西暦637年、13歳で妾として初めて王宮に入った。
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愛人たちが集まるハーレムの一人として唐王朝の皇帝“太宗”に仕えるためだ。
「太宗には百人を超える妾がいた。しかし、彼女は美しく、魅力的で、面白い女だとの評判を得ていたようだ」
王宮に入ると、彼女は直ぐに皇帝の寵愛を得ることになった。二人の関係が強くなると王宮内での彼女の影響力は高まっていった。彼女は如才なく、抜け目無く立ち回っていた。
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皇帝が老いて死ぬと、武則天は彼の息子“高宗”の第一妾になった。
西暦655年、新皇帝は武を皇后とした。
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しかし高宗は健康な男ではなかった。彼女は徐々に、王座の後ろに潜(ひそ)む真の権力者になっていった。690年、夫が死ぬと武則天は陰から表舞台に現れ、自らを皇帝と名乗った。しかし、中国の古代歴史書は、彼女が権力の座についたことを明記していない。

バーミンガム大学ジョナサン・ダグディル「歴史は武女帝について、暗く索漠(さくばく)としたイメージだけを伝えている。最も残虐な話の一つは、彼女が自分の子供を殺したというものだ。また、彼女の2人のライバルの女性の手足を切り取り、葡萄酒の大樽の中に漬け、ゆっくり流血させながら殺したという話も伝わっている。」
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北フロリダ大学ノーマン教授「こういう言い伝えから、邪(よこしま)で、人を操り、計算高く、利己的で、冷酷な悪女で、権力に固執しているというイメージが出来上がっている。」
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帝位に就いてからも冷酷な統治をしていたと伝えられている。
メルボルン大学トニア・エクトフェル教授「これは武則天の次男の墓よ。」
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「彼は母にとっては地位を脅かす脅威だったの。反逆罪で訴えられ、皇帝となる権利を剥奪され、部屋に閉じ込められ、毒を与えられて自殺させられたの。権力を手放すまいとして母親が自分の息子を殺害したのよ。」

武則天は凡そ50年の間、中国を導いた。言い伝えでは、独裁者で帝国に災害をもたらした人物だという。
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考古学者たちは、このような武の物語を否定するかも知れない新しい証拠を発掘しつつある。
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ジャン・ジエンリン教授は唐代に関する考古学分野の実力者だ。
ジャン教授「我々が発掘した場所で見つかった物は、武則天に関する知識を深めてくれる。それらは、唐代の本当の歴史について新しいヒントを与えてくれる。」

今日の西安は、武の都だった長安を全て包括する巨大な都市だ。
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人口は1千2百万人で、今も急速に拡大している。そこにジャン教授の資料保存場所もある。歴史家ハリー・ロスチャイルドは武が統治していた時代に関して興味深い発見が最近行われたとの話を聞いてやってきた。
ロスチャイルド「私は17年間、武則天の時代について研究している。とうとう、その原点にやって来た気分だ。ここには彼女を感じさせるものばかりが保管されている。」
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土偶は武の首都(長安)の生活を現している。楽士、貿易人、貴族などの土偶は、楽しいあの世のために、遺体と共に埋められていた。
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しかし、期待していなかった土偶があった。武が統治していた中国がどんなものだったかを示す最初のヒントだ。
ジャン教授「これは馬に乗る女の土偶だ。とこかに旅に出かけているところだ。つまり、当時、女が社会の中で活動的だったことを示している。」
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「ここには別の土偶がある。女が男の服を着ている。」
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「当時、女は、男と同じように自由に振る舞うことが出来たのだ。例えば馬に乗り、狩りに出かけ、旅をした。武則天の時代、女の地位は、それ以前よりも高かったのだ。ずっと自由に振る舞い、自分の考えを主張していた。」

7世紀から8世紀の初めにかけて女性の自由がかつてない程、大きくなったのは武則天の影響があったと考えて間違いないだろう。
武則天についてはもっといろいろな事があったようだ。古代の歴史書は彼女の統治を貶(けな)している。しかし、最近、男の服を着た女の墓が沢山発見され出したことから、話は違っていたのではないかと考えられ始めている。
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メルボルン大学のトニア・エクトフェル教授は唐代の墓の専門家だ。彼女は中国の歴史の中でも、最も興味深い考古学的な発見の一つを見に来たところだ。
トニア「興味深いわ。想像以上に素晴らしいわ。」
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これは古代中国の伝説の不死鳥をモチーフに飾り付けられた冠(かんむり)だ。
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長い間失われていた唐代の宝物で、古代の記録にはあったのだが、これまで見つかっていなかった。
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値の付けようもないこの冠は、貴重品倉庫に厳重に保管されていて、特別な許可を得ないと見ることが出来ない。
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トニアは、この冠は武則天が治めていた中国の決定的なヒントではなかろうかと考えている。
トニア「信じられない程多くの努力を注ぎ込んで造られているわ。金属細工はフィルグリーfiligreeと呼ばれるもので、とても繊細な構造が採用されているの。その上、沢山の小さな宝石の粒が、黄金の小さな台座の中に嵌(は)めこまれているのよ。全体は羽ばたいて遊んでいる孔雀(くじゃく)のように見えるわ。」
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「中国ガラスで造られた葡萄の房も付いているわ。」
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「この冠には洗練された国際感覚があり(cosmopolitan)、その上、豊かな、洒落(しゃれ)た、贅沢な雰囲気を持っていると思うわ。」

ジャン教授の調査チームはこの不死鳥の冠を、従来とは異なる墓の中で見つけたのだ。盗掘にあっていなかった。
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墓は唐の王室の子孫の一人でリー・チュエイという名の若い女性のものだった。
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彼女の頭は、宝石が埋め込まれた蜂の巣のようだったのだ!
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18ヶ月をかけて、調査チームは全ての貴石を取り外し、その後、また冠を復元していった。その冠の素晴らしさに誰もが感嘆した。これらの貴石がどこから来たのか、X線分析器を使って調べると、驚きの結果が得られたのだ。

カーネリアンcarnelianは長安から5500Km離れたウズベキスタンのもので、ガーネットgarnetは4800Km南西のインド、アンバーamberは6400km西のイラン、象牙は7200km離れたスリランカのものだった。
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mh:
カーネリアン:網目模様がないものは紅玉髄(べにぎょくずい)、あるものは瑪瑙(めのう)
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ガーネット:石榴石(ざくろいし)
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アンバー:琥珀(こはく)
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トニア「この冠は武則天の社会に関するヒントを与えてくれるわ。物資が豊富で、贅沢に満ち、芸術は最高位にあったのよ。今見ている冠は唐の王室が集めることが出来た世界の、そして宝物の全てを具現化したものよ。」
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リー・チュエイは皇女でなかったのにも拘わらず、値をつけようがない贅(ぜい)を凝(こ)らした冠を身に付けていたのだ。当時の中国が信じられない程に豊かだった明確な証拠だ。
彼女の墓はもう一つの秘密を持っていた。彼女の手の中に翡翠(ひすい)の蚕silkwormが握られていたのだ。
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中国を世界でも最も豊かな国にしようとする武則天の統治と野望を暗示している。

7世紀の中国で、武則天という女性が一人寂し気な妾から女帝に這(は)い登った。
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夫の皇帝が病気だったので、彼女が帝国を実質統治した。古代の歴史書は彼女の統治を“災い”だとして無視した。しかし、今日の専門家たちは、事実は全く異なっていたと考えている。

首都長安の80km北西の墓で、トニア・エクトフェル教授は武則天の影響力を示す証拠の壁画を調べている。
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トニア「この壁画には王宮を訪れた外国の大使たちが描かれているの。遠く世界各地から来ているの。絵画にはモンゴル人、韓国人、多分ローマかシリアから来た剃髪した僧侶も描かれているわ。」
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「新疆(しんきょう)やギリシャや、ペルシャの人もいるわ。これらの絵で興味深い点は、大使たちが卑屈な姿勢をとっていることよ。体の前で手を交差させ、緊張した様子で描かれているの!」
壁画は、当時、武則天が外国の王たちから尊敬されていたことを示していた。
トニア「私は武則天が完成された政治家だったと思うわ。彼女は外交が戦(いくさ)よりも効果的なことを知っていたのよ。それで世界に向けて国を解放し、多くの外国人を受け入れていたのよ。」
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最近の調査によると、武則天が統治していた長安で2万5千人の外国人が暮らしていたという。多くは交易人で彼らが取り扱う主要な中国製品は絹だった。
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紀元前4千年紀から中国は特上の絹を生産していた。武の時代には、中国の絹の価値は黄金と同じになっていた。古代貿易路のシルクロードは長安から東西に延び、中国と外国と繋いでいた。しかし、7世紀中ごろまで、山賊や盗賊が、貿易路に出現しては旅人を恐れさせていたのだ。新たな発見によると、武則天は見事な対応を見せていた。彼女は安全保障のためにシルクロードにそって遠く中央アジアに到るまで軍の前哨地(ぜんしょうち)を造ったのだ。
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ハリー・ロスチャイルドは最も新しい考古学的な証拠を確認すべく、シルクロードの長安の起点となっていた場所を訪れた。
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ハリー「今いるのは、“西の市場”の跡で運河の端だった所だ。この方向には店が並んでいた」
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「鉄商人や肉屋や銀や金の細工師、習字用筆の売り店(たな)などがあって、必要な物ならなんでも手に入った。ここにある岩は橋になっていて、荷車が通った車輪の跡も残っている。西の市場の雰囲気を感じることが出来る場所だ」
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武則天が統治していた当時の長安には東西に市場があり、それがシルクロードの起点だった。西の市場では長安の西方から届いた商品が売られていた。
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シルクロードの交易は武女帝の帝国を豊かにしただけではなく、多くの外国人を中国に呼び寄せていた。長安は当時、世界で最も国際的な都市だったのだ。この多国籍文化の名残は今の都市西安でも感じられる。
ハリー「ここは中国人イスラム教徒の町で昔からある一画だ。通りは人々の喧騒やエネルギーで満ち溢れている」
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「これは砂糖漬けした無花果(いちじく)だと思う。昔はシルクロードを伝わってペルシャから届けられていた」
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「これはタフィーtaffy(飴菓子)だ。南瓜(かぼちゃ)とセサミ(胡麻ゴマ)の種から造られていて、練(ね)ると段々固くなる」
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「セサミはシルクロードに沿ってペルシャや中央アジアから来ていた植物だ。1300年前の武則天時代には、遠くから運ばれてきた一種の果物fruitのようなものだった。多国籍文化という観点で見ると、活気に満ち、喧噪で、エネルギーにみちた様子は武則天の時代と同じだと思う。」

西暦662年になると、夫の皇帝が病気だったこともあり、皇后の武則天が実質的に中国帝国を統治し始めた。
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交易は順調で富と贅(ぜい)を持ち込んで来た。高価な手工芸品などの証拠が見つかっている。
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武則天はそれらを世界に見せつけることを好んでいた。
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そのため、彼女はこれまで見たこともない大規模の王宮を造る計画を建てた。考古学者たちがその痕跡を初めて発掘した時、彼らはその規模に驚かされた。

ハリー「これは大明宮の南に造られていた丹鳳門だ」
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(上の絵には人間が一人写っています、点のように小さく!)
「巨大な門のひとつで発掘された基礎の上に当時のように再建されている。見上げると目がくらむ気分になるくらい高く、帝国の壮大さを思い起こさせてくれる。」
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「門の前に立つと、自分がいかに小さく無意味なものかという気になってしまう。武則天の大明宮は世界で最大だった。たった3年で建設されたこの王宮は、誰もが見たどんなものよりも規模が大きい。」

「この大明宮の大きさを見てくれ。昔のポンペイの2倍の面積がある。」
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「明や清の王朝の宮殿だった紫禁城の5倍で、ペルシャのアクロポリスの22倍もある。その壮大さには驚かされる。ここから見れば規模は凡そ判るが、広場に立つと、また違う感覚の壮大さを思い知らされる。」
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ここには弓道広場、ポロ広場、闘鶏場、軍楽隊の練習場などがあった。それはまだまだ序の口で、その向うには、3つ4つの宮殿があった。外国から訪れた使者たちは、宮殿の壮大さに驚いて口を開けたまま、天国の楽園をこの地上に見ている気分でいただろう。恐らく、大明宮の大きさを使って帝国の威厳を示す意図があったのだと思う。」
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武則天が中国を世界の超大国にしたことが明らかになりつつある。彼女は貿易網の中心にいた。富と政治的な影響力は日本から地中海まで、韓国からインドまで広がっていた。
(mh:なぜ“韓国からインドまで”と言うのか判りません。脚本家は韓国がどこにあるのか正確には知らないまま、極東の、よく耳にする国の名をあげただけかも知れません。)

彼女が統治するまで、中国は男の高級官僚によって統治されていた。この伝統を覆して、男社会で生き残るため、武則天はそれまであった全ての決まりを破壊しなければならなかっただろう。
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7世紀、武則天の首都だった長安は大きな町だった。
ジョナサン「武則天の時代、およそ1百万人が城壁の内側、更に1百万人が外側で暮らしていた。長安は世界中のどの都市よりも大きかったんだ。」
バーミンガム大学からやってきたジョナサン・ダグディルは武則天の記念すべき成功の理由を知っていると考えている。彼女は中国で眠っていた宗教の“仏教”を再活性化して平民の支持を獲得したのだ。
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ジョナサン「武則天は国が仏教を支援すれば人々が喜ぶこと知っていた。さらに効果的な方法は、寺院や仏塔(パゴダ)を建てることだった。彼女が造った主な寺院は私の後ろに聳えている大雁塔Great wild goose pagodaだ。」
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大雁塔は、もともと、西暦652年に建造されたものだ。
ジョナサン「長年、この大雁塔を研究している。とても素晴らしい建造物だ。」
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仏塔は神聖な仏典を保管しておくための重要な寺だったが、建造されて50年後、地震で破壊されたのだ。仏教を信仰する環境で育てられた武は、仏塔を再建することに決めた。
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しかし、彼女が行った再建の規模が大きかったのだ。ジョナサンは、新しく再建された建物は当時の最高記録だったのではないだろうかと考えている。武はそれを建てたことで人々の心に強い印象を残したはずだ。それをジョナサンは証明できると考えている。

ジョナサン「武則天がこの仏塔を再建した時、どのくらいの高さだったのか知りたいと思った。もし、ある理由のために極めて巨大に建て直そうと決めたとしたら興味深いと思ったからだ。1,2,3,4,5・・・」
(mh仏塔内の階段の数を数えながら登っています。)
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そのためには解かねばならない問題があった。武則天のパゴダは第二の地震で部分的に破損し、最上の3層が倒れてしまったのだ。
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そのため、ジョナサンは、失われている3層を想定して高さを算出しなければならなかった。彼は階段の数の傾向を見つけた。
「前の階の段数は43、42,38,37と続いている。次は37、36だ。」
(mhジョナサンが早口で何を言っているのか理解できません。各階の階段数が段々と減っていくのは間違いないのですが・・・現在は7層で最上階まで般若心経の文字数265の数と同じ階段数とありますが、事実かどううかは自信がありません。武則天はオリジナルの塔を修復した上に5層を継ぎ足したのですが、地震で3層が倒れて今の7層になっているということですから、オリジナルは5層で、武則天が拡張した時は10層だったことになります。)

こうして階段の数と高さの傾向を調べると、失われた3層を含めた仏塔の高さは90mに近いことが判った。驚くべき高さだ。
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ジョナサン「つまり、彼女の仏塔はアジアで最も高いだけではなく、当時の世界で最も高い建物の一つだったんだ。これと同じような建物は何処にも無かった。町の景観は今も昔と同じように印象的だ。当時なら、塔から町の全てを望めたはずだ。」
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「武は彼女の人民に娯楽を与えようと意図して、記録破りの塔を造ったのだ。このような見栄えの好い塔をつくることで武は多くの称賛を集めることが出来た。長安の市民の多くは仏教徒だったから、武が自分たちの宗教である仏教を支持していると人々は感じたはずだ。」
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武則天は平民の間の団結を生むため、新しい仏教寺院を彼女の帝国の全ての町で造るように指示した。それだけでは終わらなかった。長安の400Km東の河南省には竜門石窟がある。歴史家ルー・ヤンは、これが武の権力を示す重要なものだと考えている。

ルー「竜門石窟は仏教の聖地で、何世紀もの間、巡礼者が訪れている。しかし、ここには武女帝と巡礼者たちの信仰とを直接的に結び付けているものがある。」
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多くの上流階級人は費用を寄進して、この神聖な岩壁に個人のための小さな石窟を掘らせていた。1400以上の石窟には10万以上の仏像が彫刻されている。
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小さい像は2,3cmで、最大の像は17mの高さがある。この最大の像を収めた寺院こそが武則天が指示して造らせたものだ。言い伝えが残されている。
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ルー「とても印象的で素晴らしい眺めだ。寺院も大きい。この仏像の正式な呼び名はヴァイラルジャナ(廬舎那仏?)で太陽の燦爛(さんらん)を持つ基本的、一般的な仏陀で、仏教のもつ力の象徴と言える。」
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武則天は自らを仏教の中心に、人々の目に見えるように置くことを望んでいた。それを実現するため、彼女の顔に似た仏陀を彫らせるという大胆な手段を採ったと考えられている。
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ルー「伝説によれば、この像は彼女の顔をモデルに造られているという。彼女は自分の力をこの像で示したかったのだ。仏教が重視されていた時代で、大勢の信者がいたから効果があっただろう。この寺院を造ることで、彼女は宗教だけでなく、中国の社会の中で、中央舞台に立つことになったのだ。龍門で実物の仏像を見ると、とても素晴らしい出来栄えだと誰もが思うだろう。彼女は、自分が望んでいたものを得ることが出来たと、私は思っている。」
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龍門石窟と大雁塔は武則天が自分の地位を高め、帝国を平穏にするため、宗教をどのように活用すればよいかを知っている卓越した策士だったことを示している。

巨大な仏像の前を流れる川(mh伊河)の上流では、一連の新たな発見が彼女の成功を裏付けている。
ここハンジアで、ワン(王?)教授と彼のチームがコメを保管するために造られた巨大な穀物倉庫を発掘している。
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ルー「これが最大の食物倉庫ですか?」
ワン「いいえ、これは小さめの倉庫です。」
記録を見ると、それぞれの食糧倉庫がいつ造られたのか、正確な年代が判る。
ワン「年代が刻まれたこの煉瓦を倉庫の底で見つけました。」
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ルー「倉庫の多くは武則天の時代のものですか?」
ワン「そうです。これも武則天時代のものです。倉庫が一番沢山造られたのは彼女が統治していた時代です。」
武則天は中国の東部から運河を使ってコメを運搬し、巨大な穀物倉庫に積んで保管し、時期が来たら取り出して人民や軍に配給していた。
ワン「武女帝の時代、ハンジア倉庫は、国でも最も重要な倉庫でした。長安に運ばれた全ての穀物はこの倉庫から送られていたのです。」
7世紀の初め、中国は度重なる旱魃(かんばつ)に襲われ、飢饉(ききん)を起こしていた。しかし武の統治の下、コメ保管倉庫の構造が改善され、効果を発揮した。
ワン「彼女の時代に湿度対策が劇的に進歩しました。穀物は10年以上保管できたのです。」
ルー「この地域には、このような倉庫がいくつくらいあるんですか?」
ワン「287個までは確認しています。さらに5百から6百の場所でも確認発掘が進んでいます。コメが豊作だった時、帝国の半分のコメがここに保管されていたのです。全部で6千トンも。」
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ルー「巨大な倉庫量は武政権が強力な力を持っていたことを正に証明するものだ。彼女はとても有能な統治者だった。彼女の時代だけでなく、後の世代も安定させるだけの力があったんだ。」
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考古学は、武則天が彼女の国民と兵士たちに、いつでも十分な食料を与える有能な行政官だったことを示している。

しかし、彼女の成功にも拘(かか)わらず、女だったために官僚社会からの支持を得られなかった。彼女は同志を必要としていた。そこで、伝統を破り、共産主義者が行政にも参加できるようにした。女性が事業を始められるようにしたり、離婚することを認めたり、自由に結婚できるようにもした。最も大胆だったのは、シャン・グァン・グナール(?)と言う名の女性を首相に指名したことだ。
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ハリーはジャン教授のチームが女首相の墓で最近発掘した証拠について説明を受けた。彼女の最後は物議を醸しだすものだったようだ。
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ハリー「これがシャン・グァン・グナールの碑文だ。私は碑文が発見された2013年9月から、それを見る機会が来るのを待ち続けていた。今、その時が巡ってきて、恍惚としている感じだ。」
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ジャン教授「彼女が死んだ時、どのくらいの年齢だったのかがこの碑文から判る。“47回の春と秋を持った。”つまり47歳で死んだんだ。」

ジャン教授たちが女首相の墓を発見した時、それが意識的に破壊されていることに気付いた。この破壊は武則天の荒涼としたイメージが何世紀も続いたことを理解する鍵でもある。
ジャン教授「墓はほぼ完全に破壊されていた。発掘していると、墓の煉瓦がどれもこれも剥がされていることに気付いた。目的を持って行われた破壊だったんだ。普通だと墓には石棺を置く台座と壁画があるのだが、それらが全て破壊されていた。我々が見つけたのは、この墓石だけだ。」
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シャン・グァン・グナールの墓は武則天の後継皇帝中宗の命令で破壊されていた。ハリーはこの破壊と武の悪行や無能を記した歴史書の間には直接的な関係があると信じている。
ハリー「シャン・グァンの墓が破壊されていた。これは7世紀後半から8世紀初頭における女性の権力者たちの痕跡を破壊しようとする意図によるものだ。家父長制度による規範的な権力を復活するのが目的だった。」
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西暦690年までに、武則天は中国帝国における最初の女皇帝の地位に登りつめていた。しかしこれに反対する者たちは転覆を企てていた。
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トニア「彼女はとても大勢の敵を殺害していたのよ。しかし、権力を持つ以上、いつだって反抗者がいて、つばぜり合いを続けていたのよ」
歴史家が我々に信じさせたいと思っていた話は沢山あるが、彼女の冷酷さに関する話については単なる宣伝propagandaと言う訳ではないようだ。芸術歴史家art historianジェニー・リューは武の孫娘ヤンタイ皇女の墓で記録文を見つけた。武は血縁者にも無慈悲だったようだ。
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ジェニー「ほかの皇女の碑文も研究したわ。でもこれは見たこともないものよ。」
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「“二人の子供に対する怒りと、秘密の薬”つまり、ヤンタイ皇女に起きたことなの。薬か毒で彼女は流産させられ、死に至ったっていうことが書かれているのよ。やったのは武則天ね。彼女が毒殺を教唆(きょうさ)したのよ。彼女は王宮でも毒を使って暗殺することで知られていたの。同じ血統かどうかとは無関係に、帝位を継ぐ可能性の高い子供を排除しておこうって考えていたのよ。武則天に立ち向かうことはとても危険な事だったのよ。」
中国の皇帝として武則天は権力を維持すべく、全ての対抗者を見事にふるい落としていた。しかし、その戦いは血ぬられたものだったのだ。
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トニア「武則天は信じられない程、残酷になっていたの。彼女は数百人の同族を抹殺したのよ。その残忍さや恐怖の統治は“過剰だった”と言ってもいいと思うわ。しかし、彼女には良心が無かったという訳ではないわ。彼女は自分がしたことに困り切っていたのよ。」
自分の死後の世界を考え、武は自らの罪を許してもらうよう望んでいた。告白文を黄金の板に刻み、神聖な儀式を行う神聖な場所に納めていたのだ。
ジョナサン「ここは嵩山(すうざん)だ。古代中国の5つの聖地のひとつで、武則天の生涯において重要な場所になった。」
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「西暦700年、武則天は自らの罪を刻んだ黄金の板を持ってこの山にやって来た。そして赦免(しゃめん)として、板を山に納めたんだ。」
その板に何が刻まれていたかは正確に知ることが出来る。何故なら、1300年後、一人の農夫が山の斜面でその板を見つけたのだ。記事は短い。しかし意味は深淵だ。
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ジョナサン「“統治者武照(ウー・ジャオ;武則天)は疑いが永遠の魂とともにあることを認め、僕(しもべ)として謹(つつし)んで嵩山の中央の頂きに出向き、符を打ち付ける。”これは彼女に罪の意識があったことを示している。言えることは、彼女がこの符を見えるように掲示し、他の人々に対して、自分は後悔していると宣言しているということだ。儀式的な表現だが見れば誰でもわかる。“私は罪を犯したが、これらの罪から私を免除してほしい”と言っているんだ。許されたかどうかは分からないけど、この符が人々に与えた印象はとても大きかったはずだ。」

武則天の統治の終焉は彼女の宮廷にいた男性の貴族たちの間に生まれた腹黒さと謀反による悲惨なものだった。
トニア「高く登りつめるにつれ、彼女は背の高いケシのようで、大きな攻撃目標になっていた。」

ジョナサンは嵩山(すうざん)の麓(ふもと)の人里離れた場所に来ている。武が最後の年に引きこもったところだ。
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「このパゴダは重要だ。というのは武がここに来てはお祈りをしていたのだ。1500年前の建物だが昔と同じように聳(そび)えている。向うに見えるのは神聖な山の嵩山(すうざん)だ。」
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「中には行ってみると、何故、武則天がここを訪れていたのかよくわかる。静粛(せいしゅく)で神聖な空間だ。」
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「政治的にも困難な時代だったので、それから逃れるために訪れていたのだ。彼女にとって平穏で安全で心やすまる場所だった。」
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人生を通じ、武則天は寂しい妾からただ一人の女性の皇帝に登りつめながら、儒教の伝統を打ち砕いてきた。彼女は中国を女性にとって住み易い国に変えた。彼女の帝国は豊かで平和だった。彼女の帝国の首都は活気にあふれ、世界に開けていた。彼女の人民は食に困ることは無く、信仰も自由だった。しかし、とうとう男の社会制度が入り込んできた。これを押し戻すには彼女は年を取り過ぎていた。
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トニア「武則天が帝位を失った時、彼女は80歳だった。彼女は帝位を強奪されたのではない。放棄したのだ。だから彼女はまだ、統治できる力を残していた。退位後、彼女は数か月の間、生きていたが時が来て静かに死んでいった。」
西暦705年、武則天は死んだ。
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ここは乾陵チェン・リンだ。唐王朝の陵墓だ。彼女の最後の休息の場所だ。
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彼女は、山の深くの秘密の墓室で夫の高宗の近くに埋葬された。
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トニア「この道は“魂の道”と呼ばれているの。武則天の墓の方向に続いているのよ。」
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「とても印象的で威圧的だわ。面積は大明宮と同じくらいで、とても広いの。」

武則天の墓に続く道は、悪霊を追い払うため、王室の警護兵や石像によって守られている。門の入口の両脇には、敬意を払いながら整列している2組の外国の使者像がある。
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トニア「武則天は半世紀以上の間、権力を持っていたわ。しかし、この場所では、彼女の魂や王位や、権力は何世紀もの間生き続けているのよ。」

乾陵にポツンと一つで立っている石碑は、ここが武則天の眠りの場所であることを示している。
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彼女の命令により、碑には文字が何も刻まれていない。歴史家に彼女の施政を記してもらうためだ。何世紀もの間、歴史家たちは彼女の物語を記してきた。しかし、彼女の生涯について更に多くの発見をしている近代の専門家たちは何をこの石碑の上に記すだろう。
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ジョナサン「彼女は自分の望むことを実現してきた。偉大なリーダーで政治的な洞察力を持っていたが、男の社会の中ではいらない女性と見られていたのだ。」
ジェニー「私が書いてみたいと思う一言はmaverick(焼き印のない子牛;mh独立心の強い人物)よ。なぜなら彼女が権力を得るやり方がそうだからだ。」
ハリー「私なら何も書かないだろう。全く特異で前例のない政治活動は決めつけられることを拒否している。1300年に渡って彼女は歴史の評価を正そうとしてきた。何も書かれていない石碑こそ完璧な記念碑だ。」
The Secret History of Chinese Female Emperor
https://www.youtube.com/watch?v=fteAJVZfJ2s

補足(Wikiより)
武則天とは七世紀の唐代に活躍した皇帝である。中国の長い歴史の中で唯一の女性皇帝。低い身分から権謀術数を駆使して李氏唐朝を簒奪するまでに至り、また容赦ない大量粛正を行ったせいで前漢の呂后、清の西太后と共に中国三大悪女の一人に数えられる。一方で唐の興隆を継承した優れた政治家として評価もされており、男尊女卑の儒教の影響もあって時代によって毀誉の分かれる人物である。日本では彼女の皇后としての側面を重視した則天武后という名称が主流である。最近の中国では皇帝としての面を強調した武則天の呼称が主に使われている。
(完)
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