Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ケルトの不思議Prt-1


今回はケルトについてご紹介しましょう。で、ケルトとは何かですが・・・

キルトkiltではありません、タータン調の模様の布で造られたスコットランドのスカートみたいな衣装ですから。キルトquiltでもありません、綿(わた)を布で挟んだパッチワーク状の衣装とか布ですから。ケトルkettleではありませんよ、薬缶(やかん)ですからね。勿論、カルトcultでもありません、悪しき集団とか異端宗教ですからね。

で~ケルトはというと・・・英語ではceltまたはkeltと綴られ、Wikiで“ケルト”で検索すると一つしか見つかりません。“ケルティックと同じ”です!

ケルティックと言えば・・・“アメイジング・グレースAmazing Grace”をブログでご紹介したことがあります。歌っていたのがケルティック・ウーマンCeltic Womanで、収録場所はアイルランドの首都ダブリン郊外にある、パワーズコートPowerscourtと呼ばれる、13世紀に造られた領主の城です。広い庭の周辺には草原やゴルフ場が広がっています。
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次のURLでAmazing Grace、ひき続いてYou raise me upをお楽しみいただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=HsCp5LG_zNE

ケルティック・ウーマンCeltic Womanはケルト人の婦人という意味で、ケルト人とはイギリスやアイルランドに住んでいた人達で、ひょっとしたらバイキングも同族ではないのかしら、などと思っているとしたら(かつてmhはそう思っていました)とんでもない間違いです。

ブログ「ローマ帝国の不思議」でもご紹介した記憶もあるのですが、ケルト人はローマ帝国にも攻め込んでいるんですね。またブログ「チャチャポヤの不思議Pt-2」では北アフリカの古代都市カルタゴが滅亡した時、一部のカルタゴ人はスペインの港からケルト人と共に南米に逃げたという仮説もご紹介しました。つまりケルト人Celtは、ヨーロッパでは結構、幅を利かせていた民族だったんです。

Wiki:ケルト人(Celt、Kelt)
中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、コーンウォールから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。

現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代から中世において図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。
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(Wiki続き)
紀元前1世紀頃に入ると、大陸の各地のケルト人は他民族の支配下に入るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサルらによって征服される。
ケルト人がいつブリテン諸島(イギリス・アイルランド)に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。

Wikiによれば、「ヨーロッパ全域に暮らしていた人をケルト人とは呼ばず、ケルティックCeltic、つまりケルト系と呼ぶ」とありますが、この意味する処は何かというと・・・ヨーロッパに広く分布して暮らしていたケルト人の定義が不明瞭なところにもってきて、特にローマ人やギリシャ人などから、国家や文化を持たない“ならず者”と見なされていたからかも知れません。“ケルト人はならず者”となると、まともで上品だったかもしれないケルト人を祖先にもつ現代人には少々不都合というか不愉快です。イギリスやアイルランドの“ケルト文化”は大陸のケルトとの交流が感じられず、ケルトとは別の人たちではないかとの見解も出されているようで、全てのケルト人がならず者ってことはないよ、っていう含みを持たせて“ケルティック”を好ましい定義としているんじゃあないんでしょうか、考えすぎかもしれませんけど。

ケルト人とはどんな人たちだったのか?

それを紹介するBBC英国放送協会のフィルムをご紹介しましょう。今回はPart-1/3です。
・・・・・・・・・・・・
2015年の前半、ヨークシャーの何のとりえもない墓で人骨が発見された。20代前半の男の骨だった。遺骨の横には大きな剣と5つの槍先があった。鉄器時代の埋葬場所だったのだ。
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この様な墓はヨーロッパ全域で見つかっている。そして我々は、この男がかつてトルコからポルトガルにかけて広がっていた同一の文化を共有していたことを知っている。そう言えるのは彼がケルト人で、先史時代の我々の祖先の一人だからだ。
英国においては、ケルト人の過去は遠い昔の話ではない。ケルト人は直近の歴史の中でも、闇に隠れ、野生的で、一義的なものに思われる。しかし、彼らの起源、信仰、究極的な運命の多くは謎だ。
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しかし、これらの精力的な種族が生存をかけて彼らの宿敵のローマ帝国とどのように戦ったかに関するある物語は色濃く残されている。古代イタリアまで出かけて暴れまわったケルト人侵略者からジュリアス・シーザーのゴールGaule(注)遠征まで。
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そして最後にはケルトは女王戦士ブディカBoudiccaの下で立ち上がる。
(ゴール:ガリアGalliaとも呼ばれ、フランス一帯を指す古代の地名です。)
我々が今でも気に掛けている偉大な文明の対立の一つが、ヨーロッパの最も不可解な古代人を浮き出している。
The Celts; Blood, Iron & Sacrificeケルト;血と鉄と生贄
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ローマ。かつて、数百年の間、ヨーロッパで最も偉大な帝国の中心だった。
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この都市はシリアから英国までの広大な土地を統治していた。その力は強力な軍によって形成され、法律、経済、建造物はその栄光を物語っていた。しかし、この帝国がヨーロッパ全域に拡大する前、アルプスの北の強力な蛮族軍がローマに対抗していた。戦士種族は数世紀の間、ローマ人を苛立(いらだ)たせた。ケルト人だ。

これはローマ人が考えるケルト人だ。“死にゆくゴール(フランス一帯の土地の名)”と名付けられている。
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全裸で、髪はバサバサにもつれ、口ひげがあり、首の周りにケルトの上級戦士の究極的な象徴であるトークという首飾りを付けている。
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ローマ人の目には、典型的な裸の野蛮人に映(うつ)っていた。そしてもっと重要なことは、この男が裸の野蛮人で、打ち負かされ、征服された人間だということだった。脇の下の致命的な傷から血を流し、苦しみの中で、持っていた剣を地に落し、そのそばに座り込んで、死を迎えようとしている。
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とても美しく、力強く、心を揺り動かす芸術作品だが、宣伝目的のものでもある。これこそがローマ帝国が市民に見て、感じてほしかったローマの敵ケルトだった。たしかに高貴な男に見えるが、本質的には野蛮人なのだ。力強く激しいイメージは、統制がとれ、従属的で、文明化されていた存在だったローマの発想とは反するものだ。

4百年の間、ローマ人とケルト人はヨーロッパの覇権を争った。彼らの運命は最終的に戦いで決着する。ローマ人が歴史的記念物を造って勝利を祝福するのにつれて、ケルト人は、徐々に歴史から退いていくのだ。
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ケルト人とローマ人の大きな違いのひとつは、ケルト人は自分たちの歴史についての文字記録を残さなかったことだ。彼らの伝統は口伝だった。書いたものではない。生活の様子を細かく書類や彫像や建築物として残したローマ人と異なる。
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しかし、ケルト人は我々には全く見ることが出来ない人たちではない。彼らが後世に残した世界は、我々の足の下で、発見されるのを待っている。

ヨーロッパ全域で考古学者たちは古代ケルト人の世界を掘り起こしている。ここは中央フランスのシャンペイン郡だ。ブーッシェーBucheresの郊外で、2013年4月、考古学者たちはとても興味深い物を発見した。
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彼らは、この一帯を調査していた。理由は単にここが広大な倉庫の予定地だったからだ。調査の最中に、彼らは偶然、埋葬地を発見した。結局27の男や女の墓を見つけた。埋葬されたのは紀元前4世紀だった。ここは鉄器時代の墓地だったのだ。埋められていたのはケルト人だった。
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ブーッシェーの発見などから、ケルト人とはどんな人たちだったのかを直接見ることが出来るようになってきた。これはブーッシェーで見つかった骸骨の一つで、最も完璧なもののひとつでもある。
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他のものは不完全なものばかりで、本当に数少ない完全な骸骨だ。遺骨を注意深く調べてみても、病気やケガの跡は見当たらない。しかし、いくつかの痕跡は残っている。例えば前腕に残っているシミは病の痕ではない。銅か銅合金で造られた何かが付けられていたか、この近くに置かれていた跡だ。実際、ブーッシェーの全ての墓で見つかった興味あるものは骸骨だけではない。一緒に埋められていた副葬品だ。
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あの世に旅立つ遺体は装飾品を付けていた。その装飾品は驚くほど高尚な文化があったことを示している。留め具、ブローチ、ブレスレット、小さなピン、ネックレスのセットなどが見つかっている。
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この留め具はとても贅沢に造られている。信じられない程に手が込んだ手工芸品だ。本体には渦巻きのように織り合わされた模様が繰り返して彫られている。奇妙な白い釦のような飾りは珊瑚で造られている。地中海から来た珊瑚だと考えられる。
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これはとても古典的なケルト人のトーク(首飾り)だ。棒の表面には飾りも刻印されている。
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幾つかの墓には武器も見つかった。この剣は鞘(さや)に納められている。
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剣の長さは興味深い。騎兵が持っている、振り下ろして敵を切るための剣程の長さはない。従って、これは歩兵が身に付けるために造られたものだ。ここの鉄の部分には飾りがついている。注意深く見ると、この丸い模様は珊瑚で造れている。2匹の龍の目だ。
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剣は彼らにとっては重要な、自分の象徴のような所有物だったことが判る。ケルト人は独立心が強く、その上、製造技術にも長けていた人たちだったようだ。身の回りの品物や武器などについても気を配っていた。ローマ人が思い描いていた裸の野蛮人とはだいぶ違っていたのだ。
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2千5百年以上昔、ケルト人とローマ人は出会うよう運命づけられていた。ケルトの勢力圏が拡大してアルプスの南、イタリアの北に及ぼうとしていた。そしてあるケルト人たちが間違いなくここにやって来たことを我々は知っている。アルプスの峠ヴァルカモニカだ。
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ここで岩肌に彫られた絵はかなり初期のケルトを表現したものだろうと考古学者たちは考えている。この峠にやって来た時、カルト人はカミュンニと呼ばれている山の民に出会った。
カミュンニが絵を彫ったと考えられている。ケルトがどんな人たちで、どんな様子だったのかが消されずに残されることになった最も古い記録だ。ここには興味深いものが描かれている。4つの車輪の乗り物、チャリオットだ。
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こちらには2人の戦士が槍や楯を持って描かれている。新しい民族がやって来た時、忘れがたいものとして誰かが記録に残したのだ。

明らかだったのは危険を冒して南下するケルト人たちは戦いの準備を終えていたということだ。

この辺りには岩絵が沢山描かれている。木の葉に覆われた岩の道にも。これを見てくれ。素晴らしい。男が靴を履いて、左手には槍を、右手には小さな楯を持っている。いや、楯ではなく、ひょっとすると敵の兵士の頭かも知れない。
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ここでは何人かが槍と楯と剣を持っている。戦っているようでもあるし、勝利を祝って歓呼しているようでもある。
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彼らはとても活き活きした様子に描かれている。誰がこの絵を描いたのかは判らないが、これらの兵士を見て強い印象を受け、兵士たちの到着を書き記しておこうと思ったのだ。
ケルト部族は新しい土地を取り込みながら、南に、イタリアの中央に向けて移動していた。秩序ある、構造社会だったローマを嵐が襲おうとしていた。
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ローマ人がケルト人に初めて出会った時に何が起きたのかを知るためには、これに頼らざるを得ない。リヴィーLivyの“ローマの歴史”だ。
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ティタス・リヴィーはローマ人だ。従って、まず初めに、彼が狂信者partisanだったことを考慮しておく必要がある。それに、彼が記録を書いたのは事件の3百年後だ。彼によれば、ローマ人とケルト人が初めて出会ったのは紀元前387年だ。場所はクルーシアム、現在のタスカニーTuscanyでローマから160Km北の町だ。
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平和な丘の町タスカニーを歩いていると、ここでその後数世紀続くことになる対立と流血を産むことになった事件が起きたと信じるのは難しい。
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リヴィーは書いている「異様な数千の戦士たちは奇妙な武器で武装し、クルーシアムを眼指して進軍していた。占領すべき新しい土地、略奪すべき貴重品を探していたのだ。」
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「彼らを指揮していたケルト族の戦士王はブレナスと呼ばれていた。」
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「ケルト軍がクルーシアムの町に向かって丘を下って進んでいる時、町のリーダーは軍を派遣して町を守ってもらおうと考え、ローマに伝令を送った。しかし、その要求は却下された。代わりにローマは3人の大使を送り込み、平和裏に決着しようとした。それは、ローマが最も強力な敵と初めて直接、出会った瞬間だった。」
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「その時、ヨーロッパの心と魂を求めて何世紀も続くことになる争いが始まったのだ。交渉が始まると、ケルト人は土地を要求した。ローマを圧倒する数の軍勢を後ろ盾に、ケルト人は妥協する様子は全くなかった。熾烈な口論があった。そして冷静さを失った一人のローマ人大使は持っていた槍でケルト人の部族長の心臓を刺して殺してしまった。たった一回の槍による一撃で、中立の誓いという、自他ともに認めていたローマの習慣の一つは打ち砕かれてしまったのだ。ケルト人は、問題を起こして逃げ去ったローマ人に適切な罰を与えるため引き渡すようローマに要求した。要求は無視された。それは大きな間違いだった。

リヴィーは書いている「ケルト人の怒りは制御できない程に燃え上がり、数Kmも延びる軍隊の列は“ローマへ!”と叫びながら驚異的な速さで進軍を始めた。
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西暦387年、ローマ人はケルト人と直接、接触することになった。しかし、近代考古学によれば、ケルト文化はそれよりもずっと以前に遡る。いくつかの古い証拠はオーストリアのソルツバーグSalzburgの南東のハルシュタットHallstattと呼ばれる小さな村に残されている。
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その場所の名はケルト時代の名としても使われ、“初代ケルト文化”と同意語にもなっている。
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ここがハルシュタットだ。オーストリア・アルプスの山間に潜んでいる。落ち着いた町で、人々は静かに暮らしている。しかし考古学においては最も有名な名で、ケルトについて調査するには理想的な出発点だ。何故なら、最も古いケルトの物質的文化を垣間見ることができるのはここだからだ。後世に残るケルト的な特徴“ハルシュタット文化”を生み出すことになった場所なのだ。
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とても重要な文化で、私が考古学を学ぶ学生の時、必ず理解しておかねばならない事項だった。そして、それから30年後の今、私は聴き親しんでいた町にとうとうやって来ることが出来た。考古学者たちは、1846年にハルシュタットの調査を始め、“上谷”と呼ばれる死者の町で恐らく5千はある墓のうち1千以上を発掘した。
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墓の中には遺骨と共に紀元前8百年に遡る2万以上の手工芸品が埋葬されていた。複雑な造りのブローチ、黄金のブレスレット、青銅の板から創られた容器、鉄の短剣や斧・・・
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これらは全て長い間忘れ去られていた先史時代の文明の証拠だ。その文化はケルト的だと我々が考えているものだ。
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考古学者のハンス・レシュレイライターは、この地で25年以上、研究を続けている。
「ここで見つかった墓が特殊な点はなんですか?」
「墓の数だろう。5千以上はある。そして素晴らしい副葬品だ。多くの宝石やその他の贅沢な工芸品が見つかっている。およそ60%以上の墓から、こういった副葬品が見つかるんだ。」
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「ということは、ここで死んで埋葬された人々の多くが、副葬品も一緒にあの世に持って行くだけの富を持っていたということですよね?ここがお金持ちの人々用の埋葬地ではないとどうして判るんですか?お金持ちは別の場所に埋められていたという証拠でもあるんですか?」
「遺骨や筋肉の様子を調査してみると、墓に埋められた人々はどうも一生働いていたようなんだ。かなりの力仕事をしていたようだ。労働者だったんだ。」
「とすると、どんな仕事をしてそんな体になったんでしょうか?」
「女の場合、肩に重い荷物を背負っていたことが判っている。男の場合、足の筋肉はほとんどないが、肩には沢山の筋肉があった。」
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「つまり、男は、何かは判らないけど、上半身が鍛えられるような仕事をしていたってことですね?しかし、歩き回ることは、それほど多くは無かった。」
「その通りです。」

ハルシュタットを特徴付けるものは今もなお、近くの山の深く埋もれていて見ることができる。価値のある品物でこの地に暮らしていた古代の人々を豊かにし、ハルシュタットを有名にした。
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「もう直ぐ目的地だ。滑りやすいから気を付けて!」
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「ここには巨大な先史時代のトンネルの一部が残っている。」
「3千年前に造られたトンネルの発掘をしているんですか!で、輝いている結晶の砂は・・・塩ですか?」
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「そう、塩です。先史時代の鉱夫が探していたものです。塩の層に向かって掘り続けていたんです。」
古代社会において、塩は決定的な食物保存材として高価な品物だった。ハルシュタットのケルト人は莫大な量の塩を掘り出していた。山には長さ200m、高低差20mに渡って採掘が行われていた。
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「鉱夫が遺したものは、今でもみんな、完璧な形で残っている。例えば、これは松明の燃え残りだ。」
「つまり、ここがハルシュタット社会の富の全てで、ここのおかげで文化が造られたってことですね。墓の骸骨にもその影響が残されていたってことですか?」
「そうです。この壁で工具を見つけました。青銅で、塩の層を掘るためのものです。男は座って、天上の岩に向けて工具を振るっていました。女は掘り出された塩を肩に担いで運んだんです。それで墓で見つかったような体型になったんです。」
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つまり、彼らは骨に生涯の労働の痕跡を残していたのだ。ハルシュタットの人々にとっては、ここが生活の場所で環境でもあった。地底人のような人たちだったのだ。

この古代の掘削孔の中には、働いていた人々を直接的に思い起こさせるものも残っていた。
「ということは人々がこの中で暮していた証拠もあると考えていいですか?」
「えぇ。先史時代の糞もあります。」
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「妙な仲間意識のようなものを感じてしまいますね。」
「この糞の中には寄生虫の卵も見つかっています。ほとんどの鉱夫の胃の中に寄生虫がいたという証拠を見つけていますから、3千年前のここでの暮らしが快適なものだったということはないでしょう。」

この山で採れた塩の品質は高かったので、とてもよい実入り製品となり、この辺り全域で取引されていた。
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ハルシュタットの人々は白い“黄金”のおかげで豊かになったのだ。
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同じ時期に、もう一つの製品が先史時代の社会を変え始めようとしていた。鉄だ。製造方法の秘密は小アジアから東地中海を通りヨーロッパの中心部まで広がった。
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人々は長い間、銅や錫から青銅を取り出すことは出来ていた。鉄はこれらの材料よりも豊富だったのだが鋳造し、製品に仕上げることが難しかったのだ。加熱と鍛造を何度か繰り返して金属製品をつくる。固く、頑丈で、従って完璧な武器を造ることが出来る。
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ケルト人は鉄の達人になった。ハルシュタットにおける驚くべき発見はケルト人が豊かで産業的で、技術的に洗練されていたことを示している。それは新しい、固有の文化の誕生でもあった。成長し、影響力を持ち、ヨーロッパを完全に支配するものだっただろう。

ハルシュタットはヨーロッパで繁栄し、拡散した新しい文化の発祥の地として有名になった。紀元前5百年までに、ケルト人はイタリア北部に到達していた。そして紀元前387年までに、クルーシアムにおけるローマ人大使による不適切な対応を受け、ケルトの部族長ブレニスと彼の軍勢は復讐の念に駆られながら、南のローマを目指して進軍していた。
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ケルトの大軍が近づいているとの連絡を受け、彼らと対峙すべく、将軍クインタス・サルピシャスに率いられたローマ軍は北に向けて進軍した。サルピシアスは6軍団、凡そ2万4千の兵士、を指揮下に持っていた。
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ローマから17Km北のアリア川の平原で、彼は敵に出会った。現在、その場所はとても戦いが行われた場所には思えない。直ぐ近くを高速鉄道の線路が走り、空を見上げれば高圧送電線が縦横に走っている。
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しかし、戦いによって数千人がここで死んだはずだ。ここがローマ軍が初めてケルト軍と出会い、凄(すさ)まじい戦いを行うことになったアリア川の戦場だ。ローマ人司令官サルピシアスが彼の敵についてほとんど情報を持っていなかったということについては記憶しておく価値がある。敵の戦術や武器について何も知らなかった。その上、彼は、敵がいつ目前に現れるのかについても気付いていなかった。
マイク・ローデスは古代の戦術の専門家で、およそ2千5百年前に戦場で起きた出来事を細かく調べ上げていた。
「戦場だったとは感じられないような所ですね。」
「まったくです。でも歴史は、我々が今暮らしている、この地で起きていたのです。」
「地勢は司令官にはどう映っていたんでしょうか?」
「当時のローマ軍が、後のローマ帝国の軍隊とは異なっていたことはまず頭に入れておかねばなりません。我々が議論しようとしているのは紀元前387年の戦いですからね。まだ駆け出しのローマ軍隊だったんです。小規模で・・・(mh以下、省略します。)」
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「で~、サルピシアスとローマ軍のどこがまずかったんでしょうか?」
「ブレネスがサルピシアスが予想していた行動をとらなかったというのが一番でしょう。ブレネスは誘いには乗らなかったんです。(以下、省略します。)」
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「ケルト軍は流れる水で、ローマ軍は川の中の岩だったようだと言えるみたいですね。」
丘の上でエリートの騎兵をあしらいながら、ケルト戦士たちは平原のローマ軍の歩兵集団に戦力を集中した。ケルト兵士の数や、怒涛のような雄叫(おたけ)びに気後れしたローマ軍団は、攻撃を恐れて混乱し、逃げ出した。結局、大勢のローマ兵士は切り殺され、重い青銅の鎧(よろい)に身を包んでいた兵士たちはアリア川でおぼれ死んだ。
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ローマの記録によれば、その戦いで2万のローマ兵が死んだという。都市ローマも同じ運命を迎えようとしていた。

ローマ人は敵が予想もしていない所から現れたと考えていたかも知れない。しかしケルト人は何年もの間、地中海世界との接触を持っていた。

丘の上の砦はヨーロッパにおけるケルトの象徴的な特徴といえるだろう。鉄器時代の城は領主たちの住家であり権力の中心だった。
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紀元前6世紀に造られたホイネバーグHeuneburgは、南ドイツで、ハルシュタットから4百Km西にある。
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ここがホイネバーグだ。
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紀元前6百年、この一帯全てが鉄器時代の建物で覆われていた。考古学者たちは、ここが単なる丘の砦ではなく、都市だったと考えている。恐らく、アルプスの北における最初の都市だ。ケルトの都市ホイネバーグには5千人が暮らしていたと考えられている。
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壮大な建物だった。大きな櫓(やぐら)がいくつも設けられた高さ5mの白い城壁が砦の町全体を取り囲んでいた。更に、城壁を取り囲むように深さ6mの掘が造られていた。難攻不落の威圧的な建物となるよう造られていたのだ。
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ダック・カウザーはホイネバーグに住む考古学者だ。
「この城壁は見事ですねぇ。鉄器時代の砦としたら、予想以上に美しいです。」
「まったくその通りです。とても特徴的で、普通の構造ではありませんからね。普通、カルト人は木材や石や土で建物を造るんですが、ここでは石灰岩を基礎に使い、その上に泥の煉瓦を組み上げたんです。」
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「粘土煉瓦を守るために上塗りもしました。アルプスに近いので気候も良くありませんでしたからね。更には、権力の顕示という目的もありました。この城壁は何Kmも離れた場所から見ることが出来、ここを訪れる人は、強力な場所だと感じたのです。」
「城壁の下の部分は白く塗られていますね。」
「はい、使われていたのが泥の煉瓦で、焼き固めずに日干されていただけだったからです。」
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「それで、鉄器時代の建物としてはちょっと変わっているということでしょうか?」
「はい、とても変わっていたと言えるでしょう。泥の煉瓦を使った建物は、アルプスの北でそれ以前も、その後もなかったんですから。」
「この発想はどこから来たものなのでしょう?」
「長い間、そのことは謎のままでした。しかし砦の城壁で採用された泥の煉瓦と櫓の組合せは、フェニキア文化でしか見受けられません。例えばレバンテLevanteやシシリー島やリベリア半島です。ですから、ここの砦を造った建築家はフェニキア文化圏で作り方を学んでからやって来た人でしょう。」
「地中海の影響を受けていた例なんですね。当時、フェニキアの影響力がローマよりも抜きん出ていたということでしょうか?」
「そう考えて良いでしょう。」

ホイネバーグの丘の上に立つと、ここが重要な場所だったことが判る。辺り一帯を見渡すことが出来る。
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下を流れるのはドナウまたはダニューブ呼ばれる川となって黒海まで流れている。川伝いに広大な地域と繋がっている重要な地点に鉄器時代の都市が造られていたのだ。
銀をイベリアから、琥珀(アンバー)をバルティックから、ワインや土器をイタリアやギリシャから。まさに大陸の東西南北との交流があった。広い外界との繋がりはホイネバーグを交易や産業の重要なハブに変え、強力な文明を打ち建てる基礎を創ることになった。
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交易で得られた巨額の富は初期のケルト人の支配者たちを鉄器時代の小さな領主以上の存在に育てていた。
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何人かの支配者は王並に扱われていた。この円墳は紀元前530年頃に死んだ男の悲しみを守り続けている。
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彼はホフトフ王子として知られている。何故なら彼と共にあの世に持っていかれた品々が初期のケルト世界における素晴らしい一品ばかりだったからだ。今はシュトゥットガルトStuttgart博物館に保管されている。
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これはとても素晴らしい。ケージ(Cage長椅子?)だ。ホフロフの王子が彼の同僚たちと休憩をとった家具だ。
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リベットで一体化した青銅板で出来ている。ハンマーで叩いて描かれた模様は戦う兵士を象徴している。ここには4輪のチャリオットが2頭の馬によって引かれている。
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戦士は楯と槍を持っている。アルプスの峠ヴァルカモニカの岩絵と同じだ!
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今は緑に錆びているが、これが墓に納められた時はきっと輝いていただろう。このケージに今付いている足はオリジナルのものではない。オリジナルはこれだ。
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一輪車に乗った人形のような飾りが施され、8本が取り付けられていた。人形には珊瑚も埋め込まれている。
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「これ以外にも、角(つの)の杯(さかずき)、青銅の皿、それに3匹のライオンの飾りが付いた500リットルは入りそうな大釜もあった。」
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大釜はケルトの暮しの中ではとても重要なもので、晩餐会などで使われて、部族長の権力や富を示し、部族の結束を緊密に保つ道具でもあった。この大釜の大きさから、ホフトフの王子はとても重要な人物だったのではないかと思われる。しかし、沢山の贅沢品の中で最も贅沢なものは王子自身が持っていた。
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遺体が布で何層にも包まれていただけではなく、黄金の装飾品で飾られていた。
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黄金のネックレスは抽象的な細かなパターン文様が刻まれている。この2つのブローチは不思議な形に曲げられていて、特殊な埋葬儀式のために造られ、生きている人が使ったものではないかも知れない。
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青銅の短剣は模様が打ち出された黄金で覆われている。
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しかし、もっとも興味深いのは彼の靴だ。靴そのものは腐って残っていない。しかし、黄金のプラーク(plaque飾り)は残っていた。
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贅沢な暮らしをしていた男で、身の回りの品を全て墓に持って行ったようだ。あの世で宴会を開くために必要な道具も全て持って行ったのだ。

アルプスの小さな村ハルシュタットから、ヨーロッパの偉大な古代文化の一つが生まれた。ケルトは古典的なモデルには当て嵌(は)まらないかも知れない。しかし、豊かな複合体complexで整然と組織化された社会を持っていた。ローマ人が“死にゆくゴール”の像で言う裸の戦士、乱暴な野蛮人とは全く異なる。
私が考古学の学生だった頃と比べると、ケルト誕生に関して最近の調査が示している内容はずっと複雑で、しかも興味深い。
もし、ケルトがどこでどのように始まったのかを調べようと思うと、多面的な見方が可能で、多くの証拠も見つかっている。剣や宝石など、ヨーロッパ全域に広められた物質的なものから考えてもよい。更には言語もある。と言うのは鉄器時代のケルト言語は沢山あり、夫々は似ているが部族によって異なるのだ。西ヨーロッパやウェールズ、スコットランド、コーンウォール、ブリタニ―(Brittanyブリターニュ)には今でも生き残っているケルトの言語がある。しかし古代ケルト語を調べるために今向かっている場所は、西ポルトガルのアルガーヴだ。
ジョン・クックは文献学者で文学書を研究している。彼はギリシャ人歴史家ヘロドトスの本からケルトの発祥について新しい理論を造ろうと研究している。
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「ジョンさん。ポルトガルでケルトの調査をしていたなど、とても思いも付きませんでした。ケルトはここに住んでいたんでしょうか?」
「それについては疑いの余地はありません。ヘロドトスが紀元前5世紀に書いていたように、ケルト人はダニューブの源で住んでいただけではなく、ヘラクレスの柱、つまりジブラルタル海峡、の外のこの地にも暮らしていたんです。ヘラクレスがクセイセイと呼んでいた人々なのですが、クネイセイはケルティックと似た響きがあります。ケルト人がいたのでポルトガルにもケルト系の名前や言語が残っているのです。」
「ヘロドトスが言っていることはどのように理解したらよいのでしょう。ケルトはヨーロッパ中央部を発祥地として広がって西ヨーロッパにやって来たということでしょうか?」
「それについては違う方向から良く調べないといけないと思います。そんなに単純な話ではないようです。」
ジョンにとっては、話はそんなに単純ではないという。ポルトガルのケルトとヨーロッパ中央部のケルトを結び付ける考古学的な証拠が欠如しているのだ。しかし、リベリアのケルトとイギリス、アイルランドや大西洋海岸のケルトを結び付ける証拠はある。
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その手掛かりは紀元前7世紀の古代の石碑に彫り込まれている。ハルシュタットのケルトと同じ時代のものだ。
「これは何でしょうか?」
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「これはイベリア半島南西部の鉄器時代初期の集団墓地の跡で見つかったものです。」
「記述を読むことは出来るのですか?」
「ここに“ローゴーボー”とあってスペイン北西部の今の言語の“ルーグーボー”と強い相関が認められます。ケルト人の神“ルーク”を指していると考えられます。」
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「“ヒーラーボー”とありますが、これは恐らくリーダーの名前で、説明書きの最初に2つの名が記されているのです。彫られている言葉は全てケルト人が話していたものだと考えています。」
「つまり、ここに暮らしていた人々がケルト語を話していたということでしょうか?」
「そうです。だから、記録に残されている言葉もケルト語だと考えています。」
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ジョンは石碑に描かれているのはフェニキア人のアルファベットで、ケルト人が使っていた言葉だと考えている。紀元前9百年、地中海のフェニキア人の船はイベリア半島までやって来ていた。それで、この石碑はフェニキア文字で書かれているのだが、書かれている言葉はフェニキア語ではなく、ケルト語だと言うのだ!この初期ケルト語は後の時代にガーリック、ウエリッシュ、コーニッシュなど、イギリスやアイルランドで話されていたケルト語と明確な関連がある。ジョンは青銅器時代の商人や船乗りはポルトガルから北スペイン、そしてブリターニュからアイルランドまで、大西洋岸を南北に移動しながら銀や銅や錫の交易などで、この原始的なケルト語を使っていたと考えている。
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これは新しい発想でとても興味深い。ケルトはヨーロッパ中央から拡散したのではなく、大西洋に沿って移住していたというのだ。(mhフィルムはBBC英国放送協会が作成していますが、英国のケルトはヨーロッパ大陸のアルプスの北側一帯から来たのではなく、海からやってきたという考えには、格別の思い入れがあっても当然かもしれません。)
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この新しい理論は、英国に伝わった我々のケルトの遺産は、これまでの発想とは異なり、鉄器時代のケルトに侵略されたからではなく、鉄器時代以前の青銅器時代に到着していたと言っている!
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とすればイギリスのケルトは単に血統的な交換をしていたというだけではない。そしてそれが正しければ、英国やヨーロッパ西端のケルトはヨーロッパ中央でのケルト文化の拡散に関して、これまで考えていた以上に影響を与えていたと考えることが出来る。そして、この考えを支持する魅力的な証拠があるのだ。これはグングリン(?)の剣で、ケルト初期のものだ。優雅な細長い形状で、先端と柄(つか)は少し幅が広い。典型的なケルトの剣の姿だと言われている。
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今から一世代前においては、この剣はケルト人がヨーロッパ中央から西に拡散していった証拠だと言われていた。従ってこの形の鉄製の剣がドイツ中央部やフランスの全域で見つかっている。しかし、最近、考古学者たちは青銅で造られた沢山のこの形状の剣を英国で発見している。紀元前8世紀の初頭の、ハルシュタットより以前のものだ。このことは、この形状の剣はイギリスで青銅から製造され、西から東に、つまりイギリスから中央ヨーロッパに、伝わったのであって、その逆の方向ではないということを示している。従ってケルト人のブレネスという名の戦士王や彼の軍勢もイギリスで生まれた技術に基づいて製造された武器を持っていたのかも知れないのだ。
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紀元前387年、ケルトとローマの世界は、アリアの戦いで初めてぶつかり合った。ローマ人歴史家レヴィによれば2万の兵士が命を失い、都市ローマは司令官ブレナスが率いるケルト軍の意のままに置かれることになった。
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リヴィーは書いている「ローマは最後の戦いのため、武器を持てそうな夫人や子供も全て集めて砦に引きこもった。」

その砦はこの上、キャピタラインの丘にあった。ローマが造られていた7つの丘の一つだ。
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都市はこれまで打ち負かされたことは無かった。従って、ケルトの進攻は最大の恐怖だったのだ。
リヴィーは書いている「彼らは王を先頭に門から侵入してきた。すると直ぐに、雄叫びや野蛮人の歌が聞こえてきた。」
この叫びや野生の音楽というのはカーニックスCarnyxから聞こえて来たものかもしれない。ケルトのモール(?)トランペットだ!
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ケルトは何百ものこのトランペットを戦いに持って来ていた。しかし、今日では、カーニックス演奏家は世界でたった一人しかいない。音楽家ジョン・ケニーだ。
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ジョン・ケニー「カーニックスが戦いにおいて敵に恐れを起させるために使われたのは間違いない。」
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「音を造る方法は近代の楽器チューバと同じだ。しかし、カーニックスでは音は銅で造られた頭蓋骨の中で共鳴して拡大する。カーニックの頭蓋骨は、人間の頭蓋骨と同じように機能する。“ムー”とか“アー”と声を出してみると頭蓋骨に振動が起き、声が造られていることが判るはずだ。これと同じことがカーニックスの頭蓋骨で起きている。他のどの楽器とも異なる点だ。」
トランペットの音はケルト兵士の雄叫びと共に町中に木霊していた。正にケルトの戦略が敵を恐れさせていたのだ。
ジョン「当時、世の中には大きな音は無く、どちらかと言えば静かだった。しかしカーニックスの音は高く、生活の中では聞いたことが無い音で、人々をイラつかせる効果を持っていた。もし、静かな朝などにこの音を聞かされたら、人々は恐怖を感じただろう。」

ケルトが都市ローマに入った時、全ての市民は既にキャピタラインの丘の砦の中に退却していたか町から逃げ出していた。
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通りには人影は全くなかった。リヴィーは書いている「ケルトがローマの貴族が住んでいた大豪邸(マンション)に来てみると、玄関ドアが開いていた。
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罠(わな)かもしれないと疑いながら注意深く建物に入って行った。しかし、中で彼らを待っていたのは老人のグループだけで、至極反抗的な雰囲気で、じっと椅子に座っていた。
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その光景を見たケルト兵士は気が抜けてしまった。一人の兵士が老人の髭(ひげ)をなでようと手を伸ばした。すると、その老人は持っていた象牙の杖で兵士の頭を殴った。
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ローマの運命を決めた瞬間だ。怒ったケルト兵士は、老人を叩き殺した。」

ケルト軍は略奪を始めた。火を放って町中を焦土と化した。暴れまくるケルトに歯向かう力はなく、砦内の食糧や水も尽きたローマ軍は降伏して、身代金を黄金で支払うしか方法は無かった。アリア川の戦いでローマ軍を率いていた将軍クインタス・サルピシャスはケルトの戦士王ブレナスと交渉して決着を付けることに合意した。彼は500Kgの黄金を支払うことに合意した。都市が既に破壊し尽くされた状態としては巨額な身代金だ。
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ケルトの王ブレナスはローマに侮辱を与えるため、通常よりも重い錘(おもり)を、黄金を計る秤(はかり)に載せた。将軍サルピシャスにとっては2回目の侮辱だった。ローマの司令官がこれに反対すると、戦士王ブレナスは秤を揺らしながら言った「付け加えた分は敗者たちへの賞品だ!」
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ローマ人がケルトに完璧に降伏したという事実は劇的な出来事だった。ローマ人は、ケルト人が取引において野生の野蛮人から遠い民族だということを苦い出来事を通じて学ぶことになった。4世紀の間、ケルト人は同盟や強力な部族との関係を造り上げていた。戦闘文化を持ち、共通の語源をもつ言葉を使い、広範囲の貿易網を持っていた。彼らは中央ヨーロッパ全域に勢力を拡大し、アルプスを越えてイタリアになだれ込み、生まれたばかりのローマ帝国を打ち負かしたのだ。
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この敗戦に続く数年の間に、ローマは新しい難攻不落の城壁“セルウィウス城壁Servian Wall(注)”を造った。
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それはケルトに敗れた市民たちにとって、永遠の記念碑だった。彼らは二度と都市を陥落させることなどしないと決心した。
(セルウィウス城壁:紀元前4世紀初頭に造られ、高さ10mx幅3.5mx全長11Kmでローマの中心を囲んでいました。)

ローマにとって、それは新たな時代の始まりだった。その後の数百年に渡り、ローマ人はケルト人と衝突し、生き残りや領土のためにヨーロッパの心や魂を賭けて戦うことになる。

次回は3百年後のケルトの黄金時代や、ヨーロッパ、更にはその外部への更なる拡大についての発見を紹介する。フランスではローマの偉大な将軍ジュリアス・シーザーが25万の軍を率いる戦士王に戦いを挑まれる。戦いの報奨はケルトの中心の土地ゴールだ。
The Celts Blood Iron And Sacrifice With Alice Roberts And Neil Oliver - Episode 1 of 3
https://www.youtube.com/watch?v=zA-itb5NwDU
(完)
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