Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ケルトの不思議Prt-2


皆さんは、きっと「ガリア戦記」という言葉を聞いたことがあるでしょう。私も、いつか、どこかで聞いた気がするのですが、何のことだったのかサッパリ覚えていませんでした!

Wikiで確認すると“ガリア”と呼ばれた土地で行われた戦いの記録なんですね。
誰が書いたのかというと・・・シーザーです!!!
ジュリアス・シーザーとか、ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar英語:Gaius Julius Caesar)とか、カエサルCaesarとも呼ばれています。ガリア戦記を彼自身が書いたことは間違いないようです。

で~“ガリア”って土地があった場所ですが・・・先週の「ケルトの不思議(Part-1)」でご紹介していますが・・・古典ラテン語で“ガリアGallia”、フランス語で“Gauleゴール”と呼ばれていて・・・現在のフランスです。
次の地図の赤い部分が「ローマ帝国におけるガリア諸属州の位置」です。
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本来の“ガリア”は“イタリア北部以北の地”でした。Wikiに次の記述があります。
「地理上の概念としての“ガリア”の起源は、紀元前4世紀にさかのぼる。イタリア半島北部に押し寄せて定住した部族集団(mhケルト人です)を、ローマ人は“ガリア人”(Galli ガッリー)と呼び、ガリア人の居住するイタリア半島北部が“ガリア”(Gallia ガッリア)と呼ばれるようになったのが始まりである。」

今回は、「ガリア戦記」の題材になった戦いの顛末(てんまつ)に焦点を当て、ケルト人の運命を辿(たど)るYoutube「The Celtケルト人」のPart-2をご紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
2千年前、フランスの片田舎のこの小高い丘は、完全に異なる2つの文明の最前線だった。
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秩序ある文明の象徴だったローマ帝国は、古代鉄器時代の部族“ケルト”と対峙(たいじ)していた。
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我々イギリス人にとってケルトの歴史は古いものではない。ケルト人は近代史の中で、隠され、野性的で、もっと本質的な存在だ。

彼らの発祥、信念、最後の運命は謎に包まれたままだと言えるかも知れない。
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しかし、この力強い部族民たちが、大敵ローマ帝国と生き残りをかけて、どのように戦ったのかを鮮やかに浮き出たせてくれる物語が残っている。
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これから、古代イタリアで大暴れした最初のケルトの攻撃部隊からジュリアス・シーザーのゴール(ガリア)遠征、そして女性戦士王ブディカの下でのケルトの最後の抵抗まで、今の我々の世界にも影響を与えている最も偉大な文明の対立のひとつ、ヨーロッパの最も不可解な古代民族についてご紹介しよう。
The Celt;Blood.Iron & Sacrifice
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紀元前4世紀、ケルトは軍事的、文化的な勢力としての最盛期にあった。新たな支配地を求め、本拠地から離れた地域にも進攻していた。
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紀元前387年、彼らは都市ローマを焼き尽くした。この出来事は対立と戦いが社会的地位を得るための手段になるという、ケルトの新しい時代を開いた。戦士が王になる時代だ。
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しかし・・・ケルトだけが軍事勢力のままだった。ローマ崩壊後、都市は再建され、ローマ人は地中海全域に力を及ぼし始めていたのだ。
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ローマ人が創り上げた新しい帝国は、後に続く全ての帝国の先例となった。しかし、ローマ軍はまだケルトの主要地の、アルプスの北のヨーロッパ中央部や西部を征服できてはいなかった。
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ケルトは領土拡大を狙うローマにとって手を付けるには手ごわい相手だった。
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戦いの勝利の報酬はヨーロッパの未来とそれを形作る文明だった。中央集権化された近代ローマなのか、それとも深く先史時代に起源をもつ鉄器時代の文化なのか。
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2つの巨大な軍事勢力は偉大な将軍たちの時代に入っても残忍な対立を続けることになった。
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ケルトの新たな時代は、今もなおスイスのヌーシャテル湖岸の小さな町と関係を持っている。ケルトの歴史の中で、今も最も有名な村、ラ・テーヌLa Teneだ。
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この村の名はケルトに関する全ての書物の中で強調されて記されている。ほとんどの考古学者はケルトの最盛期についての芸術的成果を詳しく知っている。黄金時代、ラ・テーヌ文化は英国からバルカン半島まで、ヨーロッパ全域に広がっていた。
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この黄金時代の、手が込んだケルト的芸術品や手工芸品は、最もケルト的だと考えられている。
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しかし、野蛮な慣習と血なまぐさい残忍さをあわせ持つケルト文化は、ローマの“美”の裏に暗く埋められている。
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1857年、考古学者たちはヌーシャテル湖岸の古代の湖底から、鉄器時代の木造の橋の残骸を発見した。
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その残骸を囲むように残されていた剣、鞘(さや)、槍先などを含む沢山のケルト工芸品も見つけた。3千以上の品物が泥の中で綺麗に保存されていた。
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これらの発見から、木造の残骸は、神に捧げる生贄用の祭壇としてケルトの戦士によって使われていた台座だったのではなかろうかと何人かの古学者たちは考えている。
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血なまぐさい戦いでの犠牲者が、儀式のために晒(さら)されていたのだろう。湖で発見された品々は現在、マーク・アントニーケイザの注意深い監視の下で、ラ・テーヌ博物館で保管されている。
「ここラ・テーヌで何が起きたと考えていますか?なぜ、こんなにも沢山の収集品がここにあったんでしょうか?」
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「ラ・テーヌは当時の重要な通行場所にあったことが理由のひとつだと私は考えています。川の上に橋が架けられていた場所でした。そして多分、重要な戦いの後、人々は戦いの成果を見せつけ、記念するために、武器などの品物を木製の壇の上に置いたのです。つまり品物は神に対する捧げ物offeringで、それが2千年後に見つかったのです。沢山の武器以外に、例えば、この頭蓋骨も見つかりました。額に切り傷が残っています。」
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「興味深いことに、この傷は戦場で受けたものではありません。恐らく生贄にされる時のものでしょう。」

「似たものとして、沢山の馬の頭蓋骨もありました。裏側から中をみると孔が開けられた部分があります。」
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「槍で突かれたんでしょうか?」
「内側からの孔ですからそうではありません。吊釘(つりくぎ)でしょう。馬の頭を壁の吊釘に架けて展示していたと考えています。」
「つまり人間だけではなく、馬も飾られていたってことですね?」
「そうです。」
つまり怪奇的なタブロー(tableau展示物)で、武器などの美的なものだけでなく、血を流し完全に腐敗している死体も展示されていたのだ。

ラ・テーヌは生活以上のものを展示していた。見事な装飾が彫り込まれた武器などの道具は戦士の地位や業績を顕示する手段だった。
「これらの品々を手にしていると、単なる道具とは異なる、何か特別な気分がするのではないかと思うんですが・・・」
「この剣の、特に鍔(つば)の部分には飾り絵があります。全ての剣で異なる絵が彫られているのです。」
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「武器でもあり芸術品でもあったということですね?」
「そうでしょう。闘いが生活の一部だったのですから、戦士たちは剣の美に強い関心を持っていたのです。」
「つまり、地位も表す剣を使う戦士たちは芸術と一緒に生活をしていたとも言えますね。」
「そうかもしれません。」

ラ・テーヌで発見された品物は、貪欲で、戦(いくさ)好きという、極めて特異なケルトの世界を見せると共に、美と創造性が、冷酷さ、凶暴さと絡み合う著しい対照を表わしていた。

この美と凶暴性の両極は、堂々とした、しかし神聖にも見えるグンダストゥリクト(?地名でしょう)の銀の大鍋に現れている。
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表面にはケルトの神や、奇妙な獣、儀式のイメージがハンマーで叩き出されている。
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しかし、この見事な品物も、戦への執着を思い起こさせる。ある人に言わせると、死後、軍隊での地位が上がるよう、描かれている兵士たちは神聖な液体の中に浸けられている。
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戦いの前の饗宴や、兵士たちの飲食など、儀式で使われ、永遠の不滅を獲得するためのものだったと考えられている。
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この銀の大鍋には多くのイメージが描かれているが、実は、ケルトが造ったものではない!恐らく、エストレイシャン(?)と呼ばれる人々が製造し、友情の証(あかし)として隣人のケルト人に与えたものだと信じられている。

大鍋は伝統的なケルトの拠点のヨーロッパ中央部ではなく、数千Km 東のバルカンで造られた。
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従って大鍋は、ラ・テーヌ文化の美と暴力の表現と共に、以前に増して切実に権力と土地を求めている文明を表わしている。
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ケルトの戦士たちとバルカンの攻撃的な集団は以前から交易を通じて接触していた。奴隷や贅沢品を剣や塩と交換していた。そして紀元前3世紀の初頭になると、ケルト人はギリシャのデルフィ近くでも見受けられるようになった。
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ケルト人の戦場での技術や勇敢さは伝説的だった。その結果、彼らは報酬を払ってくれさえすれば、傭兵となり、喜んでその敵を殺した。これが自在に移り暮らすラ・テーヌのケルト人だ。
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我々は、ケルト人が鉄器時代、ヨーロッパ中央部で発生した伝統的なヨーロパ人であることを知っている。新しい理論によれば、鉄器時代以前、ヨーロッパ西部で生まれていた人々かも知れない。
しかし、紀元前3世紀、ケルトはここにもいたことを我々は知っている。今のトルコだ。
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アレキサンダー大王は、かつて、この地を統治していた。
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しかし、紀元前323年に彼が死ぬと、彼の帝国は崩壊を始め、権力の空白が残った。そしてケルトの指導的集団はヨーロッパを横切り、アジアのこの地にやって来た。トルコ中央部で現在のアンカラの南に。

ここはかつてガレイシアGalatiaと呼ばれていた。首都はゴーディオンGordionだ。向うに見える平らな丘の上に古代都市ゴーディオンがあった。
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そこに在った砦にはアレキサンダー大王もやってきた。私がここに来たのはそのためではない。ケルト人もまたゴーディオンに定住を始めたからだ。そのことはローマ人歴史家リヴィーの記録から判っている。
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ガラック・ダーキシャは1998年からゴーディオンで研究を続けている考古学者だ。
「ケルトがゴーディオンにやって来たのはいつ頃でしょうか?」
「いつ来たのか、正確には判っていません。恐らく、紀元前3世紀の中頃、または終わり頃です。」
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「彼らはここで何をしていたんですか?」
「記録によれば、さまざまなヘレニズム時代において傭兵をしていた。勿論、獲得した土地に定住する意図も持っていたはずだ。ケルトが西から持ち込んだ、以前ならこの地で見かけていなかったものを我々は見つけている。例えばこの南の方には人間と動物が一緒に埋葬されている墓があった。首が折られていて、戦いで死んだ兵士たちだと考えられる。これはヨーロッパの初期のケルトの習慣と似ている。」

古代の歴史家はケルトの暴力的な葬儀方法について記している。そしてここゴーディアンでは考古学者たちは、恐らくケルトの習慣だと思われる陰惨な証拠を見つけたと考えている。

ここにあるのはゴーディアンで発掘された人骨だ。女性で30歳から45歳くらいだろう。
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頭蓋骨の後ろに窪みがある。頭を叩かれ、それが原因で死んだと思われる。暴力的に殺されたのだ。彼女の遺体はもっと若い女性の上に置かれていた。90年代に発見された時の写真がある。妙なことに、2つの石が彼女の上に置かれていた。
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ローマ人の記録によればゴーディアンでは人間の生贄や斬首などの恐ろしい儀式がケルト人によって行われていた。これがその証拠と言えるかも知れないが確信はない。

ゴーディアンで見つかった骨のいくつかは、動物の骨と一緒だった。恐らく儀式的な埋葬だったのだ。考古学者たちは類似の出来事を、遠く離れたヨークシャーやフランス北部でも見つけている。
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ケルト人の墓で、関節が外れた豚や馬の骨が、人骨と一緒に見つかっている。時にはチャリオット(馬戦車)一式も!恐らく死者をあの世に運ぶために使った乗り物だ。
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埋葬儀式はケルト文明の中核をなすものだった。しかし、これらの古代人は今、構造的で秩序的で、文明が意味するものが彼らとは全く異なる勢力に対抗しようとしていた。

グレイシアはケルト世界の最も東の地域を代表している。しかし、紀元前2世紀になると、この地のケルト人は勢力を広げて来たローマ帝国の圧力を受け始める。リヴィーは書いている「紀元前189年、ローマ軍がゴーディアンを攻撃すると、グレイシア軍は山岳地帯に逃げてしまった。1世紀後、ゴーディアンはローマの属国の都市になった。」
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紀元前387年、ケルト人によって打ち負かされたローマは再建され、ヨーロッパで先端を走る発達した勢力として知られるようになっていた。
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紀元前1世紀の中ごろには、ローマ帝国はシリアからスペインまで、地中海沿岸一帯を支配していた。更に拡大すべき北と西の方向に立ちはだかっていたのはケルトの中心地ゴール(ガリア)だ。
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ゴール南部は古典的な世界の影響を受けていた。
遡る紀元前600年、フランスの南海岸にマッサラヤという港が生まれていた。現在のマルセイユMarseilleだ。
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マッサラヤはイタリアやギリシャから異国情緒ある贅沢品を入手する船のハブ港だった。ケルト部族は地中海岸の近在地域の人々と物々交換し、上手く付き合っていた。穀物、毛皮、奴隷を提供し、ローマの葡萄酒と交換していた。
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しかし、ケルト人とローマ人という2つの全く異なる世界は、今、衝突しようとしていた。

紀元前58年、ゴールの征服の仕事はいつの時代を通じても最も有名なローマ人の双肩にかかっていた。将軍ガイアス・ジュリアス・シーザーだ。
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シーザーは直感に優れたinspirationalリーダーだった。闘士で、自分の決断に強い自信を持っていたが、同時に、部下からのアドバイスも採用する男だった。しかし、ローマに大勢の敵を持ち、政治的な崩壊の危機に面していた。ここゴールでの輝かしい勝利があれば、戦の英雄としてローマに戻れるはずだ。

ゴールは、いつも争いや内紛を引き起こしているケルト部族で溢れた危険な土地だった。シーザーは彼に敵対する部族を潰すことから始めた。その一方で、ローマの支配を受け入れる部族とは同盟関係を作り上げていった。
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ローマ帝国は、以前からケルトの部族と交易関係を形成していた。特に、ゴールのある部族とは、うまみのある公式の関係を1百年も保っていた。ここはパリの南東320Kmにあるバーゲンディのブラックトだ。かつてこの地区の首都だった。
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ゴールの最も強力な部族の一つエドウィーが暮らしていた。

ブラックトの考古学者の主任ヴァンソン・ギシャーに訊いてみた。
「エドウィーとローマとはどんな関係だったのでしょうか?」
「後に占領されるのですが、その以前には協定が結ばれていたんです。」
「何故、ローマはその段階を採ったんでしょうか?何故、手紙を送って寄こしたりしたのでしょうか?」
「エドウィーの領地は地中海と北海の間にありました。そのうえ、2つの大きな川、サン川とワール川、がある重要な場所だったんです。ローマは、金属鉱石、たとえば錫、などの交易のため、この地を自由に使いたかったんです。その反対の方向、つまりイタリアからゴールには、勿論ですが、イタリア葡萄酒が運ばれました!」
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「それが伝統的なやり方だったんですよね。アルコールは商業を潤滑にし、人々に連帯感を与えますから。」
「そうです。ローマの葡萄酒はとても好い罠(わな)のようなものでした。」
「戦いで敵を支配下におくより、葡萄酒で柔らかく取り込む方が、被害も費用も少なくて済むから、いい方法だと言えるでしょうね。」
「そうです。まさにビジネスというか、取引きだったんです。」
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しかし、ゴールへの侵略で、シーザーはその協定を破り捨てた。彼の目的は、野蛮な儀式を行っている扱い辛い部族をローマの支配下に置くことだった。文明化したローマ帝国に同化させようと考えていたのだ。紀元前53年、彼の遠征が始まって5年目、彼の仕事のほとんどは成し遂げられたと考えていた。
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力んでいた野蛮なケルトは手懐(てなづ)けられてきていた。

しかし、シーザーは全く思い違いをしていたのだ。

紀元前52年の初期、ガリア遠征を終えて帰ろうとしていたシーザーは若いケルト戦士の挑戦を受けた。若者はヴァーシンゲトリックVercingétorixという、ケルト部族長の息子だった。シーザーが自ら書いた記録によれば、ヴァーシンゲトリックは底知れないエネルギーと鉄のような意志を持つ男だった。ヴァーシンゲトリックの伝説的な挑戦は彼をフランスの国家的英雄にまで持ち上げることになる。
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19世紀には彼を讃えてロマンティックな像が建てられた。若干30歳の戦士王は素晴らしい戦闘戦術家だった。
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数か月の間、ヴァーシンゲトリックの反乱軍はゲリラ戦術でシーザーを挑発し、慌てふためさせた。
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ヴァーシンゲトリックは、シーザーが兵士に食事や水を与えるために必要としている供給ラインを断つことに勝利がかかっていると仲間の部族長たちを説得した。そこで、彼らは焦土作戦を採った。
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シーザーが建造していた駐屯地の建物は燃やされ、畑の麦は踏みつぶされた。ヴァーシンゲトリックは、もし自分の意見に従わなければ、戦に負けて奴隷になるか、死ぬかしかないと、人々に思い起こさせた。2人のカリスマ的指導者に導かれた2つの偉大な軍勢は、やがて戦場で角を突き合わせ、ヨーロッパの未来を決めることになる。
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ヴァーシンゲトリックはラ・テーヌのケルト黄金時代の戦士だ。しかし、彼について我々が知っているほぼ全ては、彼の強敵シーザーの戦闘日記から得られている。しかし、フランクフルトの40Km北東に、一つの場所がある。そこには、ケルト人が彼らの指導者をどのように見ていたかを描いているものがある。
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我々はジュリアス・シーザーについては沢山のイメージを持っている。しかし、我々はヴァーシンゲトリックがどのような姿をしていたのかについては知っていない。彼の最も有名なイメージは19世紀に建てられた像だ。それは現実的というよりもロマンティックなものでしかないと言えるだろう。しかし、1996年、ドイツ・ガイバリーのこの草原で、信じられない発見があった。
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ここにそれがある。彼がいる、と言うべきだろう。
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ガイバリーの戦士だ。素晴らしい!彼の前に立ち、対面して見た方が良さそうだ。
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見事な頭飾り(ヘッドギアheadgear)だ。これがヘルメットなのかどうかは分からない。首には、ケルト固有としか言いようのない品物を付けている。
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素晴らしい首輪“トーク”だ。資産と権力のある人だけが付けていた。神もトークを付けていたというから、権力の象徴で、かつ身を守ってくれるものだったのだろう。この像は紀元前400年頃のものだ。従って、ヴァーシンゲトリックより2百50年程前の人物の像だ。しかし、この像はケルトによって造られた、ケルト戦士がどのように見えるかを伝える魅力的な表現だ。この像を彫刻した人物は間違いなく、ケルトの戦士たちを見て、知っていたのだ。
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この像はガイバリーの丘の麓の埋葬地を囲んでいた4つの像の一つだ。
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墓の中には、本物のケルト戦士の遺体が埋葬されていた。
これがその墓に埋められていた人の遺骨だ。この人物については多くのことが判っている。骨や歯の分析から、年齢は恐らく20歳代だ。彼と一緒に埋葬されたものが素晴らしいのだった。彼は間違いなく、地位が高い人物だった。ガイバリーの王家の若者だろう。この美しいブローチには羽根が付いた馬のような姿が、そして小さな人間の頭が馬を見返しているように彫られている。
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古代の人間と動物の関係を象徴しているのだろう。

これは黄金のトーク(首輪)だ。墓に眠っていた男の首に付いていた。繊細な模様も描かれている。
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これは剣だ。戦士の直ぐ脇に置かれていた。鞘(さや)も本当に美しい。
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青銅で造られているが鉄製の飾りや、鞘を巻いていた生地の繊維も残っている。墓の外で見つかっている像との関係もあるはずだ。彼が頭に付けていた被り物(ヘッドギア)の残骸も見つかっている。それは石像の頭の左右に付けられている奇妙な防御用のヘルメットと同じ形をしたものだ。若者と一緒に、見事な宝石や美しく飾られた剣を埋めていた豪華な墓は、彼が極めて上流階級の人物だったことを語っている。そして戦士であることは地位と表裏一体だった。彼はケルト社会が勃興していた時期に、戦士の王という新しいタイプの指導者が出現し始めた変化の中で生き、そして死んだ。
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豪華な埋葬品も見つかったガイバリーの戦士の儀式的な埋葬は、豊かな古代文化の一部を完成させた。数百年後、その遺産を守る仕事はヴァーシンゲトリックに託されることになった。

紀元前52年の春、ケルトの指導者たちはゴールの生き残りをかけた戦術会議に召集された。討議の結果、ローマの軍勢を打ち破るためには、もっと広範囲な防御態勢が必要だと言う事になった。唯一の選択肢は部族間の敵対関係を乗り越え、力を集中することだった。
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みんなは、ヴァーシンゲトリックをゴール連合軍の最高司令官に選んだ。

北東のセーヌ河からゴールの南西まで、対抗していた勢力が結集されることになった。一体化されたゴールのケルト軍は、今や、これまで以上に手ごわい勢力になっていた。

紀元前52年はローマ、ケルト、それにヨーロッパの運命を決める年になる。
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紀元前52年の夏、ヴァーシンゲトリックと彼の兵士8万と1万5千の騎兵は、ゴールの中心地アレシアの丘の上に軍陣を敷いた。
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ローマ軍との血なまぐさい小競り合いの後、ヴァーシンゲトリックはケルト中心地のマンディービー(?)族の地の丘の砦に引きこもった。シーザーは彼を追跡し、その丘の麓の平原に陣を張った。
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ヴァーシンゲトリックは理想的な体制を確保することになったのだ。ヴァーシンゲトリックは自分の決断に自信を持っていた。丘の砦は麓の平地から120mの高さにあった。片側は全くの崖になっていて、アレシアの砦は完全に難攻不落だった。ケルトがこの丘に陣取っていた時、彼らは樹木を綺麗に切り倒していた。従って、丘を囲む麓(ふもと)の平原は手に取るように眺めることができた。
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丘は2つの峡谷に囲まれていた。ヴァーシンゲトリックは、丘の緩やかな斜面に深い堀を造り、1.8mの高さの石の壁を造るよう命令した。

こうして砦の内部は完全に防衛され、難攻不落になったことを見ると、ヴァーシンゲトリックは自分たちが優位に立ったと信じただろう。しかし、シーザーは、それまでに何度もの包囲戦を戦っていた。彼は、若い対抗者などより何年も多い戦争経験を積み、豊富な知識を持っていた。アレシアを囲むことで、シーザーはケルト反乱軍に罠を掛けた。生命線とも言える情報と物資輸送を遮断したのだ。シーザーは期待していた状態にヴァーシンゲトリックを嵌め込んでしまったのだ。

丘の麓(ふもと)一帯の木々は切り倒され包囲壁の材料に使われた。高さ3.5mの木製の壁と見張り塔が建てられた。
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その内側には堀も造られた。シーザーの計画は丘を囲む全長17Kmもの包囲壁だった。

敵の攻撃から軍を守るため、別の恐ろしい防御策も実施された。古代軍事戦略の専門家マイク・ローデスは、長年、戦術について調査している。
「ローマ軍は大地をどのように戦い用に改造したんでしょうか?」
「今、ここで私たちがやろうとしていることです。」
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「いろいろな防御策が採られました。例えば“地雷”を埋めることです。鉄製の返しが付いた銛(もり)の先のようなものを地雷のように地中に埋めて隠しておくのです。敵の馬や兵士たちがこれを踏めばどうなるか、おわかりですよね?」
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(mh以下、専門家が想定した戦術や戦の様子が語られるのですが、省略させて頂きます。)
包囲壁の内側には堀が造られ、これを越えなければローマ軍に攻め込むことはできなかった。アレシアの丘の砦で、ヴァーシンゲトリックはローマ人の防衛策が進んでいるのを見ていた。このままでは駄目だ。もっと軍隊が必要だ!
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彼はシーザーの防衛用包囲壁が完成する前に、闇に紛(まぎ)れて騎馬の小集団を放った。ゴール全土から援軍を集めるのだ。援軍がやってくれば、ローマ軍を後方から攻撃するだろう。
その翌日、ローマ軍が建造していた壁が完成し、包囲戦が始まった。
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シーザーは既にヴァーシンゲトリックの行動を予測していた。彼は、別の壁を造った。最初の壁よりもずっと長い、全長35Kmの防御壁だ!
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たった5週間でこれを造ったのだ。とても人間技とは思えない。シーザーは片方の壁でヴァーシンゲトリックからの攻撃を防ぎ、もう片方の壁で、外部からの援軍の攻撃を防ぐ戦略だったのだ。しかし、シーザーの計画にも孔はあった。
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自分たちの軍勢を前後二つの壁や掘で防衛することによって、自分たちも罠の中に閉じ込められることになった。包囲しているだけではなく、包囲されていることにもなったのだ。

ヴァーシンゲトリックも丘の砦の中で罠に閉じ込められていた。彼は攻撃を仕掛ける前に、救援の軍隊が到着するのを待っていた。問題は砦の中の食糧や水が、その時まで持ちこたえられるかどうかだった。
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包囲開始から数週間たっても援軍が来た兆候はなかった。砦の中ではヴァーシンゲトリックの兵士たちの間に不安が広がっていた。彼に残された選択肢は一つだった。非戦闘要員を砦から出すことだ。女性や子供なら囲いを開けて外に逃がしてくれるだろう。
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しかし、シーザーは慈悲を見せることは無かった。ヴァーシンゲトリックに砦を追い出され、シーザーに無視された人々は壁に囲まれた一帯に閉じ込められてしまうことになった。

逃げ場所もなく困り果て、飢えに苦しんで死んでいく人々を丘の上から見ていたヴァーシンゲトリックの心情はどんなものだったのだろうか?
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彼の覚悟は徐々に高まっていった。彼は丘の砦を守っていただけではなく、もっと大事なものを守っていたのだ。これは中央集権的で近代的なローマと、深く先史時代に起源をもつ古代鉄器時代の文化との戦いだった。勝利の報酬はケルト部族が持ち続けて来た生き方だ。

何世紀もの間、ケルトは発展し繁栄してきた。彼らは技術的に進歩し、尊敬される戦士だった。移住しながら彼らの考えをヨーロッパや、その外部にも広めて来た。
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そして南の地中海世界や北の温暖な地域との交易も確立した。今、その偉大な世界は驚異に晒されていた。

紀元前52年の10月、孤立から一カ月後、膨大なケルト軍が西の丘の上を埋め尽くすように現れた。
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ゴールの全域から25万人の兵士たちが集まったのだ。ローマ人を振り向かせるには十分な数だった。ヴァーシンゲトリックは、シーザーよりも多くの有利な点を持っていた。しかし、彼は心理的な武器をも持ち合わせていた。ローマ軍の兵舎には、負けたら悲惨な運命をたどることになるだろうとの噂が蔓延(はびこ)った。

ローマ人たちが恐れていたものを理解するために、北フランスの、アミオンから数Kmの所に来ている。
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悲惨な争いが在ったところだ。しかし、世界第一次大戦の2千年前、別の大量虐殺がここで行われていた。それはケルト固有の陰惨な行為だった。

1960年代、リモンスアンカ村で発掘をしていた考古学者たちは、2百人のバラバラになった人骨を掘り当てた。
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部族間の争いの結果、ケルト的な儀式が行われたためだろうと考古学者たちは考えている。遺骨の多くに暴力的に殺害された痕跡がある。骨盤には槍で何度も突かれた跡がある。肩の直ぐ下の骨には刃物が当たった痕跡がある。
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しかし、明らかに異常なのは、頭蓋骨が一つも見つかっていないことだ。その理由は骨に残っている。若者の脊髄(せきずい)の椎骨(ついこつ)には、前から後ろ方向に刃物で切った傷跡がある。斬首されたのだ。
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古代の作者が書いた本を参照してみよう。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて生きていたギリシャ人の作家ストローベリィによれば「ケルトの間には戦場から戻る時、馬の首に敵の頭を吊り下げておくという、野蛮で高度に異常な習慣がある。それは高い尊敬を集めたので、種油で防腐処理して家を訪れる客にも見せたりしていた。」
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リモンスアンカ村の斬首が何故おこなわれたのかについては正確には判っていないが、いずれにしてもとても奇妙なことだと言えるだろう。ゴールの地にやって来たローマ人達も、飾られている首を見て、奇妙な、野蛮な風習だと思っていたに違いないのだ。アレシアにいたシーザーは、彼の頭がケルト人の馬に吊るされないためには、戦術と運の組合せが必要な事を知っていた。
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集まってきた25万のケルト兵は丘の上からローマ軍の様子を眺めながら、攻撃のタイミングを伺っていた。女や子供を犠牲にしたのにも関わらず、ヴァーシンゲトリックの軍隊は飢えで苦しんでいた。
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丘の向うに援軍がやって来ていたとは言え、ヴァーシンゲトリックには、まだ問題が残っていた。丘の上で包囲されているヴァーシンゲトリックには遠方にいる救援と直接連絡を取る方法が無かった。彼は駆けつけて来た戦いには馴れていないかもしれない部族長たちに賭けるしかなかった。
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援軍はローマの砦に弱点があることに気付いた。そして紀元前52年、10月2日、攻撃を決断した。昼頃、6万のケルト兵士は攻撃を始めた。目標はシーザー防衛軍の北西の隅にあるローマ軍の駐屯地だ。急な斜面があったのでローマ軍はその部分だけには城壁や堀を造れなかったのだ。その弱点をケルトは知り、そこに攻め入った。
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援軍の攻撃に呼応してヴァーシンゲトリックの軍勢は丘を駆け下り、内側からローマ軍の防御に孔をあけようとした。彼は、そのことでローマ軍を前後から攻撃して壊滅することが出来ると考えていた。ケルトの兵士たちは、ローマ軍に波状攻撃をかけた。
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報酬はこれ以上高いことはなかったはずだ。シーザーにとってはゴールの征服者という名誉ある称号を手に入れるチャンスだった。一方のヴァーシンゲトリックは祖国の地のために闘っていた。

ケルトがどのように戦ったのかについては新しい考えがある。ローマ人の記録によればケルトの軍勢は十分な訓練を受けていない上、統制が採れていなかった。
(mh以降、また例の古代軍事戦略専門家マイク・ローデスによる戦闘技術の解説が続きますが、省略させて頂きます。戦いの武器ですが、ケルトは剣を使い、払うように振って体を切る戦法。ローマ軍は剣もさることながら、槍を上手く使い、突いたり、払ったりしたようで、手軽な武器で大勢の兵士に与えられたこともあって、かなり有効だったようです。)

闘いながらも、ローマ軍の防衛ラインは維持されていた。しかし、後方から攻撃していたケルトの援軍は防衛ラインに風穴をあけた。勝利を確信したヴァーシンゲトリックは前方からローマの防衛軍に襲い掛かった。
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シーザーは敗退の瀬戸際にあった。彼が持っていたのは最後の1枚の切り札だ。カリスマ的な指導力で、彼はそれを頼りにしていた。
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6千の軍勢を引き連れて彼は反撃に出た。シーザーが参戦したことで力を得たローマ軍はケルトに襲い掛かり、戦いの流れは完全に変わった。シーザーは回顧録(memoirメモアー;ガリア戦記でしょう)の中で声高々に言っている「私の軍はケルト軍を追い払った。彼らは蜘蛛の子が散るように草原を逃げ回った。」
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丘の砦から敗戦を見ていたヴァーシンゲトリックは再び包囲されることになった。彼に残された道は2つしかなかった。降伏か死だ。彼はその決定を戦略会議に委ねた。次の日、ヴァーシンゲトリックは礼服を身にまとい、馬に乗り、彼の仲間と共に丘を下った。伝説によればこうだ「馬から下りると武器を地面に置いて言った“ここに私はやって来た。強い男だ。しかし、もっと強い男によって打ち負かされた男だ。”」
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自由の戦士はついに、狡猾な老齢の戦略家に出し抜かれたのだ。
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ケルトの黄金時代は終わってしまった。
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ローマ人は記念碑的な建築物を造って勝利を祝福した。これはフランス南部オランジュの凱旋門だ。
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この凱旋門通りにはゴールでのローマ軍の勝利に関する物語がある。中央最上段では裸のケルト兵がローマの騎兵に踏みつけられている。
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左右の通路の上には戦利品の山が描かれている。
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門は道を跨(また)いでいる。南はローマに、北は死者の土地に続く道だ。ジュリアス・シーザーは3百万人が僻地のゴールに暮らしていたと考えていた。彼は正しい。そのうち1百万人は死に、1百万人は奴隷として売られた。もし、それが現代社会で起きたとしたら、大量虐殺genocideと呼ばれるだろう。

ヴァーシンゲトリックに対してもシーザーは慈悲を見せなかった。彼はローマに連行され、6年の牢獄生活の後に公衆の面前で殺された。
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それから何世紀も経過し、ヴァーシンゲトリックは国家的英雄として再び出現した。彼は自由なゴールを夢見て命を捧げたのだ。
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アレシアの闘いにおけるシーザーの勝利はヨーロッパの歴史を決定づけた瞬間だった。古代のカルト文明が、その中心地で破壊されたのだ。ケルトは地上から消え、ローマ化、属国化が進んでいく。
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この像はヴァシァー戦士として知られている。紀元前20年のものでアレシア戦いから32年後に造られた。一見しただけでは、彼がローマ人の兵士だと思うだろう。
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服や武器がローマ風だ。鎖で出来た短めの鎧(よろい)やベルトや短剣はグラディアの時代のものだ。
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どう見てもローマの軍人に見える。しかし、外見は欺瞞(ぎまん)そのものだ。良く見ると首にはトークを付けている。
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このトークこそ、ケルトの上流兵士の象徴なのだ。彼はケルト人だ。しかしローマによって予備兵として雇われたケルト人だ。ヴァーシンゲトリックは墓の中で苦々しく思っているだろう。悪名高く、ボサボサした長い髪の野蛮人は消え失せてスマートになっている。彼はローマ化した。手懐(てなず)けられてしまったのだ。

かつてトルコからフランスまで広がっていた偉大な文化は終わってしまったかのように見える。しかし、ケルト人は消滅してしまったわけではなかった。
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紀元前51年、アレシアの闘いの直ぐ後、部族は十分にローマ化されていた。ジュリアス・シーザーはこの場所に来て「ゴールの占領はローマ帝国の偉大な歴史のひとつだ」と戦記に記した。彼は、これらの部屋の一つでそれを書いていたのかも知れない。
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その本の中で、遠征と共に、紀元前55年と54年に行った海の向うの謎の国ブリタニアBritanniaへの2回の調査旅行についても書いている。それは我々が持っている、イギリス及び、そこに暮らす人々に関する最初の詳細な記録だ。
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次回では、ローマ人は彼らの関心をずっと北の国、ケルト文化の最後の砦の一つ“ブリテンBritain”に向ける。豊富な資源、強力な部族、進んだ軍事力、もう一人の偉大な指導者、女王ブディカを備え持つ島だ。

The Celts: Blood, Iron And Sacrifice with Alice Roberts And Neil Oliver - Episode 2 of 3
https://www.youtube.com/watch?v=KGI6gud8MUo
Wikiからの補足:
ウェルキンゲトリクスVercingétorix:ヴァーシンゲトリック
紀元前82-同46年。ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるアルウェルニ族の出身で、古代ローマのガリア侵略に対して抵抗した人物である。フランス最初の英雄と称される。ヴェルキンゲトリクス、ヴェルチンジェトリクス、ヴェルサンジェトリクス(フランス語読み仮名転写)とも表記される。
近代に至ってもウェルキンゲトリクスはフランス最初の英雄、ガリア解放の英雄とされ、かつてアレシアの町があった現在のアリーズ・サント・レーヌ(英語版)村にはナポレオン3世の命によって銅像が建てられた。
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また、フランス人彫刻家フレデリク・バルトルディ作のウェルキンゲトリクスの像が、クレルモン=フェランの中央広場に建てられた。
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補足:フランス南部オランジュOrangeの遺跡
シーザーのガリア凱旋門
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中央最上段のレリーフ:ローマ騎兵がガリア人を踏みつぶしている。
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オランジュのローマ劇場
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(Part2/3完)

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