Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

ケルトの不思議prt-3

いよいよ「ケルトの不思議」は最終回を迎えることになりました。
Part-1では紀元前387年のケルト戦士王ブレネスによる古代都市ローマの陥落、Part-2では紀元前52年、現在のフランス(当時のゴール)中央部のアレシアで行われたケルト王ヴァーシンゲトリックとジュリアス・シーザーの闘い、がフィルムの中核をなす物語でした。

今回のPart-3は、西暦60年のブリテン島におけるケルト部族とローマ帝国の闘争に焦点を当てます。

後日談ですが・・・この戦いに勝利したローマ帝国は、以降、ブリテン島での領土拡大を続けますが、スコットランド(当時のカレドニア)を拠点としてケルト部族は抵抗を続けます。そうこうしているうちに、西暦410年、お膝元のローマがゲルマン系諸集団の襲撃でゴタゴタし始めたのを機にローマ帝国軍が全面撤退すると、次はゲルマン民族がやってきて、ローマに代わってブリテン島に王国を築くことになります。

西暦約150年(c.150AD)のローマ帝政下のブリタニア地図です。
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北にあるヘイドリアン長城Hadrians Wallについては以前ブログで紹介させて頂きましたが、これがローマ帝国の最北限です。後年、その北にAntonine Wallも造られましたが、防衛効果を発揮するまでには至らなかったようです。
ロンディニアムLondiniumとあるのは現在のロンドンで、ローマ帝国が造った町です。
ここを通り、南東から北西にブリテン島を横断しているオレンジ色の線は“ワトリング街道Watling Street”で、今回のブログの舞台の一つです。Watling Streetの最北西にDevaという町がありますが、その西のSegontiumという町の近くに島があります。アングレシー島Angleseyです。
また、ロンディニアム(ロンドン)の直ぐ北東には、今回の物語の主人公で悲運の女王ブディカが最初に攻撃した町カムロドゥヌムCamulodunum(現在のColchester)が、その北部に、ブディカの小国ノーフォークNorfolk(地図でNorwichの一帯)がありました。

それではCelt Part-3の始まりです。
・・・・・・・・・・・・
2015年の始め、イギリスのグローシェスターシアーで、ローマ帝国によるブリテン占領時代に遡る古代の墓から、およそ250の男女の遺体が見つかった。しかし、みんなの興奮を巻き起こすことになったのは、墓石に彫られていた名前だ。ブディカキアBodicacia!
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これは我々の偉大な英国人ヒロイン“ブディカBoudicca”に関する、初めて発見された考古学上の証拠となりえるのだろうか?あの、アイシーニの女王で、ブリテン(注)人で、ケルト人のブディカの!
(mh:Youtubeに合わせ、このブログでは英国をブリテンと呼ばせて頂きます。)

ブリテンにおいては、我々は決してケルトの過去から遠く離れた存在ではない。ケルトは近代史の中で、ぼんやりした、かなり野性的な、しかし何よりも多くの感心を持たれる存在に思われる。彼らの発生や信仰、最後の運命は謎のままだ。
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しかし、ケルト人集団による古代イタリアへの侵略から、ゴール(ガリア;現フランス)でのジュリアス・シーザーの遠征、ブリテンの戦士女王ブディカの指揮下でのケルトの最後の抗戦まで、ケルトの強力な部族民たちがローマ帝国という巨大な敵と、生き残りをかけてどのように戦ったのかについては、ある物語が鮮明に描き出している。
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最も偉大な文化の対立の一つは、今の我々の世界を決定付け、ヨーロッパの最も不可解な古代の人々を浮かび上らせている。
The Celts : Blood Iron and Sacrificeケルト:血、鉄そして生贄
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何世紀にも渡るヨーロッパでの戦いの後、ケルトは近代的な勢力だったローマ帝国により崩壊した。紀元前52年、シーザーと彼の軍団は、ついにゴールで反乱軍の指導者ヴァーシンゲトリックを打ち破った。
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古代ローマは今や絶頂期にあり、周辺の世界で文明のイメージを形作り上げ、ローマの遺産を打ち建てていた。しかし、ローマが占領していなかった一つの場所がある、ブリテンだ。

西暦43年、ローマは全面的な軍事進攻を開始した。その結果、ブリテン島の東部と南部の大半はローマの属州となった。
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それからたった17年後の西暦60年、ブリテン人は帝国の占領に対抗して立ち上がり、襲い掛かった。これはケルトの最後の挑戦の物語だ。正義の反抗の話だ。しかし、そのほとんどは、手ごわい戦士女王、最初の偉大なブリテンの英雄、ブディカの物語だ。
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紀元前54年、シーザーはブリテン島への短期的な進攻を行った。その時、島の南東部を訪れ、極端に豊かな文化や洗練された技能や技術を眼にしていた。当時の見事な工芸品のいくつかは大英博物館のコレクションの中に見ることが出来る。
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この素晴らしい宝物は1940年代に見つかったスネティシャムSnettishamの沢山の発掘品の一部だ。ノーフォークNorfolkの草原で見つかった。
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ノーフォークは、後年になって女王ブディカによって統治されることになるアイシーニ族の領地の一部だ。
宝物はトークや瀟洒(しょうしゃ)な黄金の首飾りで、エリートだったケルトの指導者や戦士の印の一つだ。ヨーロッパ中で見つかっている芸術的なスタイルで、文化の印(しるし)だ。
「この見事なトークはスネティシャムで見つかった。」
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「本当に素晴らしい。見て分かるように使われている黄金の量も多い。しかし、トークに込められている職人の技の方が驚くべきものだと言えるだろう。圧倒的なmind-blowing技巧が注入されている。首輪は8つの黄金のロープで造られ、それぞれのロープは8本の黄金のワイヤーを捩(ね)じり合わせて造られている。ロープの端の金具がまた素晴らしい。絶妙な工芸品だ。誰がこれを持っていたとしても、また誰がこの製造を命じたとしても、その人物は信じられない程の資産や権力を持っていたはずだ。間違いなく、ケルトの上流階級人が身に付けていたトークだ。」

このような複雑で精緻な製品を製造するのは、今の金細工師にも尋常ではない挑戦のはずだ。博物館の神話学者の一人、ナイジェロ・ミックスはアイシーニの職人の秘密を探ろうと電子顕微鏡で調べている。
「ロープの端の金具の表面の仕上げがとても素晴らしいですね。」
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「どんな方法で仕上げたのでしょう?何かを押し付けたようですが。でも、この部分はそうではないようにも見えます。」
「押し付けたのではありません。とても繊細に造られているんです。拡大して窪みの部分を良くみると、ある種の溝のようなものが見えます。ハンマーで細かく叩いたんですよ!」
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「魔法のような技巧ですね!画面のこの長さが3mmですから、溝の幅は1mmの半分くらいですね!何度もハンマーで叩いて溝を造っていたんですね。」
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「えぇ、正に金細工の魔術のような製品ですよ。」

偉大なトークはケルト人の職人技術が最高潮にあったことを表わしている。しかし、もっと驚くべきことが、壊れたトークの破片から見つかった。金メッキされている!
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「黒い部分は青銅でトークの本体。その表面に何かがあるんですね?それを分析することはできるんですか?」
「できますよ。映像を走査して調べたい場所を決めて・・・」
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「金Auと水銀Hgがあるんですね?」
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金と水銀が一緒に見つかるのは、それらが十分に混ぜ合わされているからだ。水銀金メッキと呼ばれる手法だ。金は液体の水銀に溶けるので、塗料として青銅の表面に塗り広げることが出来る。その後、炎で焼くと水銀が蒸散し、黄金の薄い層が表面に残るのだ。
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しかし、水銀鉱床はブリテンでは見つからない。水銀は遠く離れたスペインから送られてきたものだと考えられている。極めて高度な技工士でもあったアイシーニや彼らのような多くの部族は、ヨーロッパの大西洋海岸線に沿って地中海まで広がっていた古代の交易網を活用して、長い間、富を得ていた。従って西暦43年にローマ人が進攻してきた時、北や西ではブリガンティBriganteやオーヂヴィチOrdiviciやシリューリSiluriなどの部族との戦が行われたが、豊かだった南東のアイシーニIceniやトリノヴァンテTrinovanteなどの部族はほとんど抵抗しなかった。彼らのリーダーは地中海世界の贅沢品を長い間、享受していたのだ。
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ここはエセックスのコルチェスターだ。
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2千年前、ケルトの重要な町でトリノヴァンテ族の首都だった。彼らは、実際のところ、ローマ人の到着を歓迎した。

西暦43年、ローマ人はブリテンに進攻しブリテン南東部を抜けて進軍していた。最初の侵略から数週間後、ローマ皇帝のクラウディウスClaudius自身も馬車に乗って町にやって来たという。そして民話によれば、彼は、現地の種族の降伏を受理する時、象に乗っていたという。以降、ローマ人が支配的になり、町はローマの戦の神カムロスの名からカムロドゥヌムCamulodunumと名付けられた。ローマ人はカムロドゥヌムを帝国の威光の展示場showcaseに変えていった。
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ローマ劇場や浴場が造られた。そして今は城が立っているその上の方に、皇帝クラウディウスに捧げられた大きな寺院がある。もしローマの統治を受け入れたなら、その部族に提供される異国の地中海の生活様式の宣伝の場だった。
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ローマの生活様式に従えば、税や義務、関税などのローマからの要求にある程度応じさえすれば、繁栄でき、ローマ市民としての特権や贅沢を享受することができた。実際問題として、ケルトの指導者たちもローマの顧客になっていった。ケルトの指導者たちは、死んだら、領土の一部をローマに分け与えることに合意しておけば、生存期間中は自分の領土を自分が統治することができた。
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ローマによる、このずる賢い土地の獲得手段こそが、突然の、思いもよらぬ暴動の引き金になったのだ。それはブディカの物語だ。皇帝や王や闘士たちによって支配されていた世界で、強力な影響力を持った女だ。
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ブディカの勝利さえあれば、ブリテンの歴史は完全に変わって、今日の我々が暮らす土地を全く異なるものにしていたはずだった。

“赤毛の、馬戦車チャリオットに乗ったケルトの女王ブディカ”という我々のイメージは、歴史の中で消すことが出来ない部分だ。
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しかし、ブディカの物語は、ローマ人が彼らの歴史書の中で彼女について簡単に記した内容よりも、ずっと長い物語だ。

ブディカとケルトの反乱について我々が知っている全てはローマ人の記述の数ページからくるものばかりだ。これはローマ人歴史家タシタスTacitusの年記annalで、2世紀初頭に書かれた。タシタスがこれを書いた時はケルト人の反乱があった50年後だが、彼は彼の生涯の中で起きたことを書いている。その一節はブリテンとローマの歴史における極めて劇的な対立の詳細に触れている。
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「ブディカは夫でアイシーニ人の王プラスタガスの死に臨んでいた。」
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タシタスの年記によれば、アイシーニの王プラスタガスは長寿で知られた男で、彼の王位を二人の娘と、ローマ皇帝ネロに託した。タシタスによれば、プラスタガスは王位を守ろうとしていた。彼はローマに対する義務については熟知していた。彼の王国の半分は皇帝ネロに差し出さねばならない。しかし、残りの土地は妻で王女のブディカとの間に出来た子供達のものだ。彼はアイシーニの将来を守っていたのだ。しかし、それはローマの見方ではなかった。ローマにとっては、ローマの顧客であったプラスタガスとの間の取引は彼の死と共に終わったのだ。

彼の王国は家族によって継承されることはなかった。しかし、この時、ローマはケルトの女王の影響力や復讐心を考慮に入れていなかった。

ブディカの物語には説得力がある。我々はローマの歴史家から戦いや酒飲みの戦士の話は聞いていたが、ケルト人の女について聞いたことが無かったからだ。それが突然、燃えるような赤毛の、ローマ帝国の権力に敢然と立ち向かう、信じられないような力強い女性の話になる。しかも彼女は、女王であるだけではなく、真のリーダーだったのだ。

考古学上の発見により、権力をもつ女がいつの時代にもケルト人の社会で活躍していたことが明らかになっている。その証拠はアイシーニの土地から1千Km南の、ドイツ・シュツッツガルトで見つかる。
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2005年、考古学者たちは鉄器時代の墓室の発掘を始めた。略奪者から守るため、80トンの墓室全体は土地から剥がされ、特別にあつらえた研究所に運ばれ、そこで安心して調査が続けられることになった。
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泥の中から、2千6百年前に生きていた墓の住民の遺骨が見つかった。
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ニコール・エディンガーネス博士は、そのプロジェクトの主任だ。
「この歯の並びや消耗の状態を見ると若い女性のようですね?」
「そうでしょう。恐らく30歳くらいです。」
「右手を胸の上に置いていますね。保存状態はいいようですね。」
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この女性は“ベットゥルベルの王女”と呼ばれて知られることになった。というのは、ニコールたちのチームは泥の中に人骨以上のものを見つけたのだ。彼女は信じられないようなケルトの宝石のコレクションを一緒に墓に持ち込んでいた。
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「2千6百年前のものとは思えない見事さでしょ?これは左右の肩につけていた飾りよ。」
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「そしてこれが私のお気に入りの物なの。黄金のビーズよ。いくつか見つかっているの。」
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「繊細な模様があるわ。信じられない!きっとかなり身分の高い女性だったんでしょうね。」

ブディカよりも650年前のこの墓はケルト人の戦士のものではなかった。女性の権力者の墓だったのだ。我々はケルトの部族長や王といえば男だと思いがちだが女の権力者もいたのだ。

タシタスによれば、ローマは、王プラスタガスの遺志を却下し、女王への尊敬さえも無視した。兵士が持ってきたローマからの指示書の内容は、アイシーニ王国の全てをローマが統治するというものだった。これをブディカが拒否すると、ローマは直ちに行動に出た。ブディカは公衆の面前でむち打ちされ、彼女の2人の娘は凌辱された。王位継承の論争は非情な屈辱による帝国の権力の見せしめとなった。
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ブディカは固く復讐を決意した。家族、部族、そしてケルト人全体のために。

数年の間、彼女はローマの生き方に従うふりをしていた。しかし、彼女はブリテン人だ。女王だ。そしてケルト人だった。アイシーニの誇りを取り戻すため、祖先から受け継いできた土地を取り戻すため、ケルトの反乱軍は、もっと力を付けねばならない。

我々の歴史は刀の刃の上に乗っているようなものだった。ブリテンは異種のケルト的文化の可能性を持っていたのだ。
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ローマ化された上辺(うわべ)の下で鼓動している英国Englandの心臓はケルトのままだった。そしてブリテン固有の軍事的な技術や技能はローマの偉大な将軍たちさえも羨(うらや)むものだった。紀元前55年にシーザーがこの海岸にやって来た時、それまで大陸で体験したことが無い戦いに出会った。ブリテン人は新しい移動型の戦闘方式を備えていたのだ。
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(mh以下、馬戦車チャリオットの解説が、これまで何度か登場していた古代戦闘技術専門家マイク・ローデスによって行われますが省略します。シーザーによればブリテンは1千もの2輪のチャリオットを持っていました。騎手と、重装備をした戦士の2人が乗っていたようです。その速さは敵をパニックに陥れるのに十分だったといいます。)

シーザーが記したブリタニアBritannia(ブリテンのラテン名で、ローマ人が付けた名前です。)の説明には、チャリオットの特別な使い方も記されていた。
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(mhワックスのシートに尖った棒でラテン文字を書きました。)

しかし、ブリテン人はもう一つの恐ろしい戦闘用の道具でも有名だった。繊細で象徴的な模様がついたケルトの長い剣と鞘(さや)は、上級の戦士たちだけが持つ自慢の所有物だ。専門家の手にかかれば、恐ろしい武器になる。
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(mh以下、長い剣の使い方や、その威力が、木の枝から吊るされた豚肉(羊か?)を使って披露されますが、省略します。ケルトの剣は長くて重く、“突く”のではなく、横に“払って”敵の体を切るための武器だったようです。)

タシタスの記録によれば、西暦60年、アイシーニ人の反撃は急速に実行に移された。数万人の戦士を指揮していたブディカはカムロドゥヌムを目指していた。ブリテンにおけるローマ帝国の首都で、占領の鮮烈な象徴として平和で繁栄している町だった。
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かつてはローマと同盟を結んでいたが、自分たちの、ケルト人の町を取り戻そうと考えたトリノヴァンテス族が加わり、ブディカが率いる反乱軍の数は膨れ上がっていた。ブディカは夜を待って戦いを仕掛けた。ケルト人は、慈悲を見せることなくカムロドゥヌムで暮らしていたローマ人を切り倒し、死体の山を築いていった。
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破壊行為は町中で行われ、カムロドゥヌムは燃え落ちた。

2千年後の今、考古学者たちは、この攻撃がどんなに強烈なものだったを明らかにしている。最近発見された物が保管されている。
「ここにあるのは一体、なんでしょうか?」
「ある場所でまとめて見つかった宝石や硬貨です。これは一対の腕輪armletsで、デザインは完全にローマ的です」
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「それに幸運にも、この一対のイアリングも残っていました。真珠がついています。」
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「金だけではなく銀の装飾品も見つかっています。この大きめの腕輪メダリオンmedallionは銀製です。」
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「ローマ軍のものだったようです。黒豹(pantherくろひょう)が描かれています。ローマ人の軍人とその妻は引退後の豊かな生活を楽しんでいたのでしょう。」

この宝物はおよそ2千年前に我々を引き戻し、あるローマ人の家族の家で起きた驚くべき現実を見せてくれる。宝石などの貴重品類は、台所で慌てて掘られた穴の中に隠されていたのだ。
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焦げた土器の欠片や無花果や棗(なつめ)椰子datesから、台所が炎に包まれていることが判る。我々が目撃しているのは、恐ろしい恐怖の瞬間だ。
「それは余りに生々しいイメージですね。家の住民は貴重品を隠す場所を探していた。その時、恐らく、家には火が付いていた。」
「そうです。後で戻って来て掘り出すつもりだったはずですが、それは叶(かな)わなかったんです。」
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隠されていた宝石や硬貨などの貴重品は、人々が受けたトラウマのような、暴力的な出来事を活き活きと物語っている。ブディカ軍がカムドロゥヌムを攻撃した物理的な法医学的な証拠でもある。そして歴史を活き活きと表すとともに、タシタスの記録にある攻撃に関する説明をも裏付けている。
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カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)でブディカが大きな反撃を受けなかったのは、ローマ軍の本体がブリタニアの遠く、北や西の敵対的な土地での帝国の拡大闘争に忙しかったためだ。タシタスによれば、ブリテンでのガイウス・スエトニウス・パウリヌスGaius Suetonius Paulinus総督は、特別な目的のために遠く離れたモナ島、今のアングレシー島Anglesey、に軍勢を伴って遠征していた。彼はケルト社会における祈祷師や権力者を世に送り出しているドゥルーイズの本拠地を壊滅するために島に侵攻していた。
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ローマ人は、ドゥルーイズをケルト社会における危険な要素だと見ていた。彼らは極めて高い権力を持つ祈祷師や、秘密の知恵や知識や歴史を持つ人々の集団で、他のケルト部族に王を輩出していた。ドゥルーイズは精神的な接着剤のようなもので、信仰を広めることによってケルトの部族を一体化していた。
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恐らく、ドゥルーイズはケルト社会にたった一つだけあった刺激的で不可思議な集団だ。誰もがドゥルーイズについては聞き知っていた。しかし、実態については全く知られていなかった。事実、我我はケルトの宗教や信仰について、ほとんど知っていないと言える。しかし、もし、思わせ振りな部分に着目したなら、例えばケルトが宇宙をどのように理解していたのか、宇宙のどこで暮らしていると考えていたのかを知れば、少しはケルトを理解できるかも知れない。

我々が知っている重要な事がひとつある。毎年、決められた時に行われるケルトの祝祭だ。これは五月日Maydayの習慣の現代版だ。
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火祭りは毎年、エジンバラで開催され、4月の最終日に始まる。ケルト的な火祭りで、アイルランドの記録によれば1千年以上も前から行われている。人々がこのように大勢集まって祝うようになったのは、数千年とは言わないが、数百年も前からだ。
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この踊りは季節の移り変わりを表現するもので、5月の女王は夏を代表し、新たな年を再活性化するための火の力を使って冬を表わす緑の男と対決する。
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ベルティという火祭りは毎年行われている多くの祭りの中の一つだった。多くの祭りを計画する目的で、ケルトは季節や宇宙に関する十分な知識を必要としていた。

フランスで1世紀前に行われた、ある興味深い発見のおかげで、我々はケルトがどのように年月の移り変わりを理解していたのかを知っている。それは石碑の欠片だ。ある専門家たちは、2世紀、ローマによって禁止されていたドゥルーイズの伝統を記録するために、ローマに占領されていたゴールで造られた石碑だと考えている。
見つかった全ての欠片を並べて復元し、写真にしたものがこれだ。実物の幅は1.5mで高さは1mの石碑だった。
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1枚の青銅の板だった。しかし残っていたのは、ここに写っている断片だけだ。これはカレンダーだ。しかし普通のカレンダーではない。大きな文字で書かれているのはラテン文字で書かれたゴールの陰暦の月の名前だ。5年の周期で繰り返すカレンダーが16列で記されている。
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この中に、ケルトが年月をどのように考えて祭りの時期を正確に決めていたのかを見ることが出来る。というのは月の名前の近くに“Ivos”とあるが、これが祀りを意味する言葉なのだ。
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ここにMID SAMミッド・サムとあるが、恐らく11月を示し、直ぐ後にIvosと続いているが、これが夏の終わりの祭りを意味している。ケルトが祝っていたこの祭りはハロウィンだ。ハロウィンは近年、死者の祭りになっているが、先史時代に遡る起源を持っていたのだ。2千年前、ローマ人はケルトの死の儀式について記録していたのだ。ドゥルーイズが行っていた首狩りや人間の生贄とともに。

ローマが占領したことがないケルトの土地、今日のアイルランドのハイバールニアHiberniaに、陰惨な慣習が行われていた証拠となる一つの場所がある。
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このような湿った場所は、かつては神聖な土地と見なされていた。今も、古代の鉄器時代の信仰や人間の生贄の名残りが見つかる。

「彼と顔を合わせることは驚きとしか言いようがない。彼はアイルランドのケルトだ。鉄器時代を知っている人物の顔だ!」
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「彼は顔を鈍い武器のようなもので殴られた。その傷だけでは死ななかったかも知れない。頭の後ろ側に斧で付けられた別の傷がある。」
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湿地で見つかった鉄器時代のこの死体は、儀式的な活動が行われたことを示している。暴力を望んでやったことではない。計算された、象徴的な行為だったのだ。腕に明けられた孔にはハシバミ(樺)の小枝が詰められていた。
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乳首は完全に切り取られている。このようにして生贄になった人物は普通のケルト人ではなかったと思われる証拠がある。彼らは特殊だった。考古学者達がそう考える理由は、例えば彼らの手にある。華奢(きゃしゃ)で滑らかで、がさついていない。
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この人物は生活のために手を使うことは無かった。爪は綺麗に切り整えられている。

考古学者メット・ケリーはこれらのケルト人の儀式と信仰を知ろうとして、12年も湿地で見つかった遺体を研究している。
「これらの死体はキャッシャール人なんですね?」
「そうです。キャッシャールシアの人々です。この遺体はヨーロッパでも最も古い、新鮮な死体だと考えています。」
「何故、殺害が行われた、このような犠牲者を湿原に捨てていたのでしょう?」
「まず、湿原は、古代人にとって神聖な場所だったのです。湿原で儀式が行われていました。そして王を殺害し、湿原に埋めることは、正当で、かつ適切な儀式行為だったんです。これらの死体がそれを反映していると考えています。」
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首を切り取られて投げ捨てられていた遺体もある。殺された後で、もう一度、象徴的に殺されたのだ。ここで見つかった遺体は部族長や王の生贄なのだ。法医学考古学によれば、この古代の殺戮儀式は季節的に行われていたという。

ロビー・リードはアイルランド国立博物館の保存担当主任だ。彼は最近発見された湿原の男たちの分析をしている。
「ロビーさん。今、あなたが死体から注意深く取り出した物は何ですか?」
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「スローsloeという黒くて青みがかった樹の実の種だと考えています。死体のこの部分にあったものです。大腸に沿って、この実がずっと詰まっているんです!数百あるでしょう。X線で調べたら3百個以上が確認できました。」
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「決して美味しくない実ですよねぇ、苦くて酸っぱい、小さなプラムのようで。何が起きていたのでしょう?何故、この人物は何百もスローの実を食べたのでしょう?」
「どんなに飢えていたとしても、3百も食べる人はいないでしょう。間違いなく儀式的な食事だったと思います。スローの実は10月末11月初旬に熟します。サリムという祭りの時期です。現代のハロウィンです。そしてその時期に、この辺りでは王が殺されていたんです、サリムのために!」
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アイルランドの湿原の死体から得られた科学的証拠はローマ人が、まだ手を付けていなかった西の土地を気に掛けていたのが間違いではなかったことを暗示している。ローマ人歴史家は、人間の生贄がドゥルーイズの指揮のもとに行われていたという、身の毛のよだつようなケルトの物語を書き残している。ドゥルーイズは、残忍な文化を実践することで人々に英気と、望ましいケルト的な独立心を鼓舞させられると信じていた。

パウリヌス総督軍がモナ島、現在のアングレシー島、を侵略し、ドゥルーイズを全滅しようと企てたのも不思議ではない。そして彼は冷徹なまでの手際よさで、それを成し遂げた。モナ島の強力な敵ドゥルーイズを破壊することはローマが目的としていた古代文明の殲滅(せんめつ)の一部だった。彼らは、誰が支配者なのか、みんなに分からせたかったのだ。
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ブリテンに侵略して20年もしない内に、ローマの文明化は野蛮なケルトを打ち負かしていた。当時、彼らは帝国の力を宣言するために都市を造っていた。当時の都市は今も残っている。しかし、軍隊を引き連れて北のドゥルーイズを破壊しようとしていたパウリヌス総督は、これらの都市の防衛に手を回している余裕はなかった。

カムロドゥヌムが燃え尽くされ崩壊してしまった後、ブディカの軍隊は侵略を続け、ローマ領の港で商業の中心だったロンディニアムLondinim、現在のロンドン、に攻め入った。
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ブリテンの南と東では反乱が勃発していた。文字通り分断され、都市には火が放たれていた。タシタスによれば、7万人が殺され、死体は放置されていたという。

伝統的な歴史によれば、これらの暴動の全てはローマ人がケルト人であるアイシーニの女王やその娘たちを残忍に扱ったことから生まれたものだ。しかし、ケルト人の反乱には、人々に良く知られている個人的な仕返しの物語とは異なる事情があった。英国の歴史におき、ブディカの反乱とパウリヌス総督によるドゥルーイズの殺戮の2つの出来事が全く同じ時期に起きたのは、単なる偶然というわけではない。

ブディカの反乱軍にはケルトの部族連合が含まれていた。アイシーニの女王の反乱というだけではなく、もっと重要なものだった。ドゥルーイズに対するパウリヌスの襲撃はケルト人が信じていたものの全て、ケルト人が理解していたもの全てに対する攻撃だった。だからブディカはローマ人に対抗して立ち上がり、“ノゥNo”と言ったのだ。他の部族も彼女の側に立った。自分たちの生活様式を守ろうとしたのだ。

ケルト人による暴動が大きくなる前に、ニュースはアングレシー島のパウリヌスの元に届いていた。パウリヌスは、直ちに、素早く行動しなければならないことを理解していた。アングレシー島から南へ。長い道のりが急いで戻らねばならない!
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2つの軍勢は、互いに敵に向かってワトリング街道Watling Streetの両端から進軍を開始した。パウリヌスは2つの軍団を率いていた。高度に訓練された、戦場での戦いで鍛えられていた1万人の軍勢だ。しかし、古代の資料によると、ブディカの軍勢は20対1でローマの軍勢を上回っていた。

我々の島ブリテンの歴史における最も重要な戦いの一つのための舞台は整っていた。勝利の報酬はブリテンの運命と、ローマ帝国のこの地域における統治だ。2つの勢力は、今日、“ワトリング街道の闘い”として知られる最後の対決で出会うことになった。
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ワトリング街道の闘いが行われた正確な場所については判っていない。しかし、可能性のある場所のひとつがここだ。バーミンガムの北東にあるマンセッターの坂だ。
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古代戦闘技術専門家マイク・ローデスはこの戦いにおける戦術について研究している。
(mhここで、また例のマイク氏が登場して古代に行われたであろう戦いの様子を解説しますが、都合により、大幅に割愛させて頂きます。なるほど、と思うポイントだけご紹介しておきましょう。
ローマ軍は両側を山で挟まれた谷間の湿地平原でブディカの大軍を迎え撃ちます。狭い道のような平地だったので多勢に無勢でも戦える環境です。湿っていて馬が駆けるには不適当な場所な上に、ローマ軍は坂の上側から坂の下側のブディカ軍を攻撃しました。勢いよく攻め立てる条件はローマ軍側に備わっていたようです。)

タシタスは言っている「ブリテン人は勝利を確信して戦いの場に進軍してきた。彼らは軍勢の数で圧倒的に勝っていた。そして、これがローマを完全に打ちのめす最後のチャンスであることを知っていた。」
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もし負けたなら、ローマ軍には逃走する機会は残されてはいないだろう。400年に渡るローマとケルトの闘いは決着がつこうとしていた。ケルト軍を打ち破るには、軍の前線を死守しなければならないことをパウリヌスは知っていた。
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(mhここで、また例のマイク氏が登場します。彼によれば、ローマ兵は槍を雨あられの如く、ブディカ軍に投げつけました。ブディカ軍の兵士の武器は長い剣と、軽量な、木枠に毛皮を貼り付けたような楯だったのですが、ローマ軍の槍が楯を打ち抜きました。楯を持っていた兵士は槍で刺されて負傷するか、負傷しないまでも、槍が刺さった楯で戦わねばなりません。
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しかし、長い槍が刺さった楯を持って動き回ることは出来なかったので、結局、楯を放棄するしかなかったのです。楯なしでは闘士の戦力は半減です。一方のローマ兵は楯を持っていました。そこで、楯でケルト兵を押し戻し、楯の脇から剣で突いて敵を刺し殺す戦法をとったのです。また、ブディカ軍のチャリオットは乾いた土地では効果的でしたが、山間の湿地では自在に走り回ることが出来ず、戦力になりえなかったと言います。言っているのはマイク氏で、信憑性については保証できませんが、理にかなった説だと思います。)
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タシタスは、次に何が起きたかを我々に伝えている「生き残ったブリトン(Britons:ブリテン人です)は背を向けて逃げ始めた。」
しかし、逃げ道はローマ兵で塞がれていた。ケルト人たちは死体の山を築いていった。統制がとれていない個人集団のケルト軍に対して、考え抜かれた戦術を駆使し、訓練で鍛えられていたローマ軍は大勝した。ブディカ軍の全てが戦場から消え去ってしまったのだ。
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タシタスによれば、その日に殺されたローマ兵士の数はたった4百人なのに、ケルト兵士の死者数は8万人だった。偉大なケルト人の最後の反乱は終わった。

ブディカは生き残ったが、直ぐ後で毒を飲んで自殺したと言われている。彼女と共に、ブリテンにおけるローマの統治を終わらせようというケルトの希望も消え去ってしまった。ブディカは歴史から消え去り、英国の神話の中に入り込んでしまった。自由なブリテンの思想と共に。
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しかし、ケルト人による反乱は現実に起きたものであり、ブディカに関するどんな考古学的な証拠も見つかっていないとはえ、彼女がその中で重要な役割を果たしたことも事実である。

そして2015年の春、グローシェスターシアーで、ローマ人によるブリテン占領時代の古代の墓が発見された。遺骨とともに墓石があった。その上には “ブディカキアBudicacia”と彫られていた。その墓石の下に骨があった。これこそがブリテンの偉大な闘士女王ブディカの決定的な証拠なのだろうか?
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しかし、その骨は男のものだった。ブディカの神話は今日も続いている。

軍事強国ローマとの何世紀にも渡る対決の後、ヨーロッパの土地のほとんど全ては、膨れ上がった広大な帝国の領土に組み込まれ、鉄の文明を持っていた被征服者たちは破壊されてしまった。しかし、ローマはヨーロッパの全てを征服したのではなかった。ケルトの社会はまだ完全に消し去られてはいなかった。

ここはアイルランドの西海岸にある町スピトゥルでゲルカ(?)の一部だ。
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ブディカから2千年後の今でも第一言語はケルト語のゲーリックGaelicだ。ここを訪れると、あなたも過去の言葉を聞くことが出来る。昔を感じることが出来る。アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブリタニ―、コーロなどヨーロッパの周辺部一帯で、最も重要な遺産とも言えるケルトの言葉が生き続けている。
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我々はトルコからポルトガルまで信じられない文明のルーツを求めて数千Kmを旅してきた。そして3千年を遡り、鉄器時代の部族たちの物語を解きほぐしてきた。ケルトはアルプスの北で初めての偉大な都市を建設し、手の込んだ、見事な手工芸品を創造してきた。しかし、我々はまだケルト人がどんな人たちだったのか、彼らのリーダーが何を成し遂げたかについて正確に理解したわけではない。
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ブレネスはどのようにローマを打ち破ったのか、ヴァーシンゲトリックはどのようにジュリアス・シーザーと戦ったのか、ブディカはどのようにしてケルトの反抗魂を再燃させたのか。
我々はケルトの過去に関する記憶すべき物語を共に発掘してきた。文化は今も我々の生活の中に生き続いている。ケルトの魂は我々の世界の一部として、今も我々の心の中で燃え続けている。
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BBC The Celts Blood Iron And Sacrifice 3of3
https://www.youtube.com/watch?v=rMv_MDiP3Ms

Wiki: ケルト語派
ケルト語派(アイルランド語: Teangacha Ceilteacha、ウェールズ語: Ieithoedd Celtaidd、ブルトン語: Yezhoù keltiek、スコットランド・ゲール語: Cànanan Ceilteach、コーンウォール語: Yethow Keltek、マン島語: Çhengaghyn Celtiagh)はインド・ヨーロッパ語族の語派の一つ。ケントゥム語に属す。元々ヨーロッパに広く栄えていたケルト人によって話されていたが、ローマ人やゲルマン人に追われ、現在はアイルランド、イギリス、フランスの一部地区に残る少数言語となっている。イタリック語派とはいくつかの共通点があり、また語彙(ごい)の点でゲルマン語派との一致も見られる。

ケルト語が最近まで、又は今も使われている地域は次の通りです。
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大陸から押し寄せて来たローマやゲルマンの手が及び難い“僻地”に残ることになったのは、お釈迦様の仰るように因果応報です。

見辛いと思いますが・・・各地域のケルト語と英語の対比表です。
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Englishのbee(蜂)はIrish Celtic 及びScottish Gaelicでbeach、chair(椅子)はcathaoir/ seidhirで、似ている気もしますが、全く異なる場合の方が多く、イギリス英語のネイティブスピーカーでもケルト語の会話は理解できないでしょう。

言葉は文化だと思います。BBCフィルムの翻訳では、stunning, amazing, fantastic, astonishing, remarkable, marvelous, awesome, excellent, splendid ,wonderfulといった言葉は大抵“素晴らしい、見事な”とさせて頂きましたが、もう少し洒落た表現が無いのかしらと思っても、文化とは程遠いmhにはいかんともすることが出来ず、英語そのもので代替させて頂く手法も採らせて頂きました。悪しからず。
(完)

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