Mysterious Questions In The World

世界のミステリーをご紹介します。

英国を救ったケルトの不思議


前回のブログ「ケルトの不思議prt-3」で、ローマ軍がブリテン島から完全撤退した西暦410年以降、ローマに代わりゲルマン民族(アングロ・サクソン)がブリテン島を乗っ取ったとご紹介しました。

今回の「英国を救ったケルトの不思議」によれば、ケルトの島ブリテンがローマ帝国に征服され、ケルト人はローマ化された後、征服を逃れたヘイドリアン長城以北のケルト人が抵抗を続けていると・・・ある事情でローマが撤退して、ブリテン島の南半分(イングランドですが)はゲルマン民族に乗っ取られてしまうんです!
としたら“ケルトが英国を救った”とはどう意味か?脈絡が掴めません。

しかし、今回のブログを見て頂けたら、そうだったのか!と腑に落ちるでしょう。英国・ブリテンを救ったのは、ケルト人で、その切っ掛けを作ったのは、ブリテン島の隣の、当時のローマ人がハイバールニアHiberniaと呼んでいたアイルランド島を拠点に活動したパトリックという名の、ブリテン島生まれのケルト人です!!!彼が英国を救うことになったって言うんです!

パトリック・・・聖パトリックか???
どうもクリスチャンの響きが・・・
聖パトリックが英国を救った???!!!
しかもアイルランド島から???

それではYoutube「How the Celts Saved Britain - 1of2 (BBC) 」から、ローマ統治時代に導入されたキリスト教に染まった家庭で生まれたブリテン人でケルト人のパトリックが、隣のアイルランド島から故郷のブリテン島を救うことになった経緯をご紹介していきましょう。
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英国人は伝統的にアイルランドを別の場所だと見なしている。野蛮で、手に負えない、文明化していない、近代化や鎮静が必要な土地だと。この英国的な歴史的解釈は、我々が良く言う1500年前の暗黒時代Dark Ages、アイルランド人が全く異質の役割を果たしたことを都合よく忘れている。当時に遡れば、英国に文明をもたらしたのはアイルランド人だと判るのだ。
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文明はどのように失われてしまったのか?どのようにして、原始的で未開発だったアイルランドが、ヨーロッパや英国が体験した中で最も深淵で社会的で文化的な改革を成し遂げたのか?それは、衰退と再生の叙事詩だ。

How the Celts Saved Britain:A New Civilisation
ケルト人はどのように英国を救ったのか:新しい文明
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5世紀始め、ローマ帝国は最盛期にあったようだ。帝国は、軍事力と甚大な富を使い、その文明と学問を、知られている世界の隅々にまで広げていた。紅海から大西洋まで、中東からヨーロッパの北西端まで、数千Kmに及んでいた。
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私(Dan Snowプレゼンテイター)は今、セヴンエストリー(?)の英国側にいる。向うに見えるのはウェールズだ。
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しかし、私の物語が始まる、今から1600年前には、そこに英国やウェールズは無かった。広がっていたのはローマ帝国の属州ブリタニアBritanniaだ。

ローマによる3世紀以上の占領は、鉄器時代の英国を、道路や町や技術のある土地へ変革していた。グロウシェスターシェア(?)に残っているローマ時代の邸宅跡は、セヴンエストリーから数Kmにある。繁栄、文字、法律と共に、ローマが英国に持ち込んだ快適さと贅沢さの極みだ。
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そして高度な新たな宗教も持ち込んで来た。キリスト教だ。
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その上、ローマ軍は敵対的な隣人からブリタニアを守った。北では、戦好きのピクトPictがヘイドリアン長城で押しとどめられ、そして西では海の向うにアイリッシュIrishがいた。
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ローマ帝国に征服された歴史が無い彼らは、典型的な野蛮人barbarianだった。野生的で、非文明的で、本や町や道路がない田舎で暮らしていた。

西暦406年、ローマ帝国は突然、危機に見舞われた。ゲルマン系の侵略者が帝国の中心ローマを攻撃したのだ。
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ブリタニアに駐屯していた軍団は呼び戻され、ブリテンは脆弱で何の防御もないまま放置されることになった。

英国の敵は海を横切って、ブリテンにやって来るようになった。西暦400年頃、恐ろしい事件が起きていた。何千もの男や女や子供が人身売買を専門にしていた海賊pirateによって誘拐されたのだ。当時、そのような誘拐事件は頻繁に起きていた。しかし、ある一つの事件は特別なものだった。
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生き残りの一人がその出来事を書き記していたのだ。その時16歳だったが、ブリテンとアイルランドを永遠に変えるよう運命づけられていた。名をパトリックという。彼は、一緒に捕えられた仲間と共にアイルランドに送られ、奴隷として売り飛ばされた。

アイルランド海を横切る船旅に出た私は、彼の絶望がどんなに大きかったのかを容易に想像できた。ローマ的な心情の彼は、海を横切りながら、文明の光を後方に残し、野蛮な土地に入り込んで行く気分だっただろう。
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西ヨーロッパでローマの手にかかっていない唯一の国だったアイルランドは、鉄器時代のままだった。ペティ(族?)と上王High Kingsたちが多くの王国からなる部族の島を統治していた。邪教徒(pagan)の島で、農業を生業とし、富は家畜の数で決まっていた。ローマ人がハイバールニアHibarnia、つまり冬の土地、と呼んだのも判る気がする。
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アイルランド国立博物館員ケリー「パトリックにとっては、とても住める場所じゃあなかったでしょう。その上、彼は奴隷という最低の地位の人間でした。文明化されていたブリテン島から来た彼は、恐らくアイルランド人を野蛮な人々だと思ったはずです。島の言葉や習慣を知らない彼はとても憤慨していたでしょう。」
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プレゼンテイター;ダン「アイルランドはブリテンとどのように違っていたのでしょうか?」
「全く違っていて、パトリックにとっては知らないものばかりだったと思います。島には町などありませんでしたし、言葉も違っていたし、ローマの世界のように道路網などありませんでしたし、商業や生産部門もありませんでした。優雅な建物が並ぶところもないし、農業も遅れていました。つまりアイルランドの全てのことはブリテンとは全く異なっていたんです。」
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「アイルランドで暮らす普通の人々の生活の様子はどんなものだったのでしょうか?」
「不潔で低俗で希望などは少なく、多くの人は隣人を敬うことはなく、土地争いや、牛などが原因の風土病で多くの人が若くして死んでいたのではないかと思います。生きていくにはとても厳しく悲惨な環境だったことは違いありません。」

若いパトリックは島の北部のスレミッシュSlemish山地で暮らしていたと考えられている。しかし、最近、学者達は、彼がここ、西海岸のメイヨーMayoで、アイルランドでの旅を終えたのではないかと考えている。
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彼は牧夫の仕事を押し付けられていた。それは彼の年代の奴隷の若者にとっては一般的な仕事だった。全く見も知らないアイルランドの自然環境の中で、不断の厳しい生活を強いられていた16歳のパトリックは神に頼らざるを得なかったようだ。
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彼が祈りを捧げたのはキリスト教の神、つまりローマから教えられた神だ。祭司の祖父、助祭の父が敬っていた神だ。パトリックの告白によれば、アイルランドで奴隷のまま終わるだろうと思っていた彼は、キリスト教を真剣には捉(とら)えていなかった。
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彼がしていたことは、失ってしまったブリテン島での生活を思い起こしながら自分を慰めることだった。

6年間の奴隷生活の後、彼の祈りは聞き届けられた。彼はアイルランドから逃げ出し、ブリテン島に向かった。
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しかし、もし彼が野蛮な生活を離れ、文明の世界に戻ろうと考えていたのなら、直ぐ考え直さねばならなかっただろう。ローマ軍が撤退したブリタニカでは、秩序はパニックに道を譲っていたのだ。

ヘイドリアン長城は北の野蛮人ピクトを寄せ付けない目的で造られた。かつてはローマ帝政下の英国の権力と安全保障の象徴として立っていた。
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しかし、今は崩壊を象徴するだけのものだった。ブリテン人は見捨てられていた。長城を守るのは自分たちしかいなかった。英国の最初の歴史家の一人ビードBedeは次に何が起きたかを書き残している。北方の野蛮人ピクトが長い槍のような武器で襲ってきて、長城では防御し切れず、人々は昼も夜も敵襲を恐れていたという。秩序は混沌に取って代わられていたのだ。

長城から数Kmの所にあるヴィンドランダVindolanda砦は、当時、英国が突入することになった黙示録の世界を生々しく残している。
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最も大きな砦の一つで、軍人と市民2千人以上が砦とその周辺に暮らしていた。
「ローマ軍が去った後、ここで何が起こったのでしょう?」
ヴィンドランダ・トラスト;バーレイ「長城の近くに造られていたこのような砦は、直ぐに放棄されました。」
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「どうしてですか?」
「恐らく、安全保障上の問題からでしょう。人々は自分たちの将来に不安を持ち、野蛮人たちが襲ってくるだろうと心配していたはずです。ローマ軍が引き揚げを進めるにつれて、心配は膨れ上がっていきました。砦の中に閉じこもり、自分たちだけで、外敵から守らねばならなくなったのです。」
「住民が長城の上にプラットフォームのような広場を造った目的はなんでしょうか?」
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「長城の南側の防衛のために、投石機を据え付けたり、弓を射たりする場所を確保しようとしたのです。ローマ軍が去ってしまうと状況は悪化し、これまで長城の北にしかいなかった敵が、南にも現れるようになっていました。」
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「状況は絶望的で、長城の補強をするにも石切り場がありませんでした。そこで砦の外に造られていた家の石や墓石を使いました。補強作業は慌ただしく行われました。生き残るために必死だったんです。」
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歴史家ビードBedeの記録によれば、ブリテン人は飢えを凌ぐため、仲間同志で争い、盗みあっていた。ある人物はローマ皇帝に軍事支援を要請する手紙の中でこう言っている“野蛮人が自分たちを海の方向に追い込んでいる。海は自分たちを野蛮人の方向に押し戻している。2つの死に方がある。おぼれ死ぬか、斬り殺されるかだ。”
しかし、ブリテンのこのうめき声は聞き届けられることはなく、ローマから援軍が来ることはなかった。

超大国ローマが躓(つまづ)くと、ブリテンでのかつての活気ある経済は冷え込んだ。昔の贅沢な居住地villaや町の生活や、貿易は崩壊してしまった。
「これは皇帝アルカディアスArcadiusの銀貨で西暦393年頃のものです。」
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「ローマで造られ英国にもやってきた最後の銀貨ですが、貨幣の価値は急速に失われていて、人々は昔のようには信用しなくなっていました。どんな硬貨も鋳造されなくなり、誰もお金を信用しない状態で、どうして買い物などができるでしょう。そこで人々がしたことは、ローマの硬貨を溶かして貴重な銀だけを取り出し、通貨棒Currency barsにして使うことでした。これがローマ軍の基地で見つかった昔の例です。」
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「何か買いたければ、この通貨棒を適当な長さに切って、売り手に渡すんです。売り手がその価値を信用したら、商品を渡してくれたんです。」
「このような通貨棒を使うようになって人々はどう考えていたのでしょうか?」
「信じられない程に神経質になっていて、暴力沙汰になることも多かったとおもいます。取引きも減って、人々は不幸になり、長城の周りで暮らすのが好い事だとは考えられなくなっていきました。」

ローマ文明が信じられない程脆(もろ)いことが証明されてしまった。海外に逃げ出すことが出来る人々は逃げ出した。その中の一人がパトリックだった。とても暮らしていけないと考えた彼がブリテンを離れたとしてもさして驚くべきことではない。驚くべきことは彼が向かった先だ。アイルランドに戻ったのだ。
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パトリックは言っている「私の動機は夢だ。その中で予言天使が信仰を地球の果てまで届けて、野蛮人でかつては自分を捕え、奴隷として使ったアイルランド人を変えるように訴えたのだ。」
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アイルランド北部に上陸した時、パトリックはキリスト教に基づいた新しい文明を広めようとの決意も持ち込んだ。
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彼が内陸に入って行くと、そこには邪教paganismが蔓延(はびこ)っていた。アイルランドはドゥルーイズDruidsに取り仕切られている、神聖な木や、森や、湖の土地だった。祈祷師や賢者や儀式執行人たちによって、動物に対する信仰や人間の生贄が執り行われていた。未来を予言していたのは祭壇の上の血や内臓だった。
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ドゥルーイズの宗教はかつて西ヨーロッパ中に広がっていた。困惑させられたローマは、この宗教を死罪に値するものとしていた。しかし、ローマの権限もアイルランドにまで及ぶことは無かった。そして、ここアイルランドでは、その宗教は信じられ続け、繁栄していた。このように深く異教に染まっている人々をパトリックはどのように説得して、新しい宗教を受け入れさせることが出来たのだろうか?

彼は古い宗教が最も強く残っている場所から手をつけ始めたようだ。
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今日でさえ、うっそうとした谷には邪教徒社会の印(しるし)が残っている。ボロ布が木に結び付けられているのは木が崇められている証拠だ。暗い時代にまで遡る習慣が今も実践されているのだ。
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司教Bishopジョセフ・ダフィー「“悪魔の谷”を意味するアウトオブジョー(?)という古い名前は邪教がまだ残っていることを示しています。しかし、ここの新しい呼び名は“パトリックの場所”とか“パトリックの椅子”で、伝説によればパトリックがここに来て、邪教徒たちに説教をしています。」
「何故パトリックは邪教徒の場所に来て説教をしたのでしょう?アイルランド人をキリスト教徒にするためですか?」
「勿論ですとも。彼は大地に座り込んで、邪教徒たちを気楽な気分にさせながら説教することに最善を尽くしたんです。昔のアイルランド人は、こういう、魂が宿っているような雰囲気の場所にとても魅かれていたんです。だからパトリックもここに来たのです。彼は邪教徒たちが理解しやすいような例えを使いました。邪教徒は太陽Sunや、その周期に重要な関心を払っていましたが、キリストは神の子Sonでしたから“U”を“O”に変えて太陽の神キリストとして説明したんですよ。」
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「つまりパトリックは邪教徒たちの伝統的な信仰の場所や集会でキリスト教を布教したんですね?」
「全くその通りです。このような場所はキリスト教とは全く関係なかったんですが、パトリックも普通の祭司などとは違う考え方を持っていたんです。」
「そのことで、彼はどんな危険に立ち向かっていたのでしょうか?」
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「彼は言っています。“盗賊や盗人から受ける危険ではなく、自分の考えに敵意を持ち、威嚇する人々からの危険だ”と。特にドゥルーイズDruidsはパトリックにとっては敵対的でした。ドゥルーイズは確固たる宗教を信じていましたし、別の場所からやってきた人たちでしたから。」

パトリックが変革を開始した時、彼は邪教そのものを変えようとしていた。ドゥルーイズにとって神聖な水はキリスト教の洗礼のための聖なる水になった。邪教徒の聖域は破壊されず、キリスト教の祭壇に変えられた。
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古代の祭りは放棄されることなく、新しい宗教の祭りに変えられた。

かつては奴隷だったパトリックは、アイルランドの邪教体制を引き継ぎながら、社会的でかつ宗教的でもある改革的なメッセージを説教した。
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彼が草の根運動の中から、どのように支持を得ていったのかは解(わか)るような気がする。しかし、上流階級のアイルランド人には変革で失う物は多すぎる。パトリックはどのようにして彼らを古い仕来りから切り離していったのだろう?
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伝説によれば、パトリックはアイルランドの権力者たちの神聖な場所に着目したという。“アイルランドの初代の上王High Kingの椅子”の“タラの丘The Hill of Tara”だ。
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ベルテナという邪教徒の祭りの夜、パトリックはタラTaraの一角で火を放ったと言われている。伝説によれば、祭りには上王自身が最初に火を点けることを好んでいたのだ。
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パトリックの行動は騒動を引き起こすものだった。しかし、よく考え尽くされていたとも言える。敢(あえ)て火を放つことで、パトリックは王たちの注意をタラに惹きつけたのだ。彼はキリスト教のメッセージを使って王たちに強い感動を与え、彼らの考えを変革したという。
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とても上手く作られた話に聞こえる。事実、そうかも知れない。この話はパトリックによる変革から200年後に書かれたものだ。その時には彼は既に聖人として祀(まつ)り上げられていた。従って、彼に関する多くの記述は所謂(いわゆる)聖人伝で、歴史と神話が混じり合っていた。しかし、仮に神話だとしても、我々に一つの重要な事を語りかけている。パトリックはここタラの地に来たのだ、何故なら、ここは上王の椅子がある場所で、周辺には邪教徒の祈祷師たちがいたからだ。ここに来ることで、彼は政治的な力を得ながら邪教と立ち向かい、それを取り込んでいったのだ、邪教の正に中心地heartlandで。
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「パトリックについて私が驚かされるのは、彼が、ここアイルランドで信じられない程の成功を収めたことです。キリスト教がどうしてアイルランド人にとって魅力的だったんでしょう?」
司教「パトリックは間違いなく、抑制した生活を送っていました。それは人々が満足を得る人生とは異なるものでした。それがあなたの質問に対する最も簡単な答えです。恐らく、彼は、人々がそれまで体験したことが無い方法で、人間の尊厳についての新たな感覚を彼らに与えたのです。例えば、彼は奴隷制度に真っ向から反対していました。それは当時でもとても悲惨な社会慣習の一つでした。奴隷は最低の地位の人々で、なんの権利も与えられず、一生そのままでした。彼は説教の中で、このことを強く批判しました。」
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「新しい信仰が何故、虐げられていた人々の心を動かしたのかは私にもわかる気がします。しかし、上流階級の人、例えば王や役人などについてはどうだったんでしょうか?」
「パトリックは読み書きが出来ました。記録によれば、アイルランドにおける読み書きの発展にパトリックが大きな貢献をしたことが明らかになっています。ラテン語や古典の言葉を使い、書き記す方法をパトリックは教えたのです。世界中どこでもそうですが、どんな人たちでも大きな改革を実現しようとしたら教育が一番重要であることを知っています。人々に食糧やお金を与えるのではなく、人々の知恵を表現できる方法を指導するのです。そうすることで人々は人生を豊かに出来るのです。」
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「つまり彼は近代性の波を持ち込んだということですね?」
「そうです。物を考える上での大きな改革でした。そうすることで彼はキリスト教をブリテンからアイルランドに持ち込んだのです。」
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私に確信があるわけではないが、その目的が信仰だけではなかったのは明確だ。キリスト教はローマ帝国が崩壊後も生き残った遺産の一つだ。しかし、今、それは新しい文明への道を開き始めた。パトリックが説教をした納屋があった場所に再建された最初の教会は、社会的、政治的な変革だけではなく、新しい宗教の到来を記念する場所になった。
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パトリックの改革の力はクロー・パトリック(Croagh Patrickパトリックの積み藁(わら))と呼ばれる山によって象徴化されている。アイルランドで最も神聖な山で、豊穣の神クラムドゥの本拠地だ。
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古代の収穫祭ルナサンで注目されていた場所で、邪教徒の信者たちは山に登って豊穣と再生の儀式を行っていた。今日では毎年、キリスト教徒の巡礼者が、パトリックの登頂を記念して訪れている。

2時間登り続けている。そろそろ頂上だが、山は岩で覆われている。
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今日、この山を登る巡礼者の多くがパトリックを倣(なら)って素足だというのはとても驚くべきことだ。天候が急速に変化する、何人も亡くなった危険な所だ。しかし、パトリックがこの山に登ったのは彼の決意を試すためではない。ここは彼がやってくる数世紀も前から邪教徒にとって神聖な場所だった。パトリックは邪教徒が重視していた聖地にキリスト教を持ちこむためにやってきたのだ。
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イエス・キリストが荒野に踏み入っていたように、パトリックは山頂に40日滞在して嵐や悪魔の攻撃を耐え凌(しの)いだと言われている。山頂で、彼はアイルランドの蛇を追い出したと言われている。科学的な見地によれば、この山に蛇が棲み着いていたことはないはずだ。しかし、“タラの火”のように、これも象徴的な話だといえる。

頂上からは、大西洋が目の前に広がっている。
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パトリックはある種の誇りを感じたに違いない。ヨーロッパで最も西の端に初めてキリスト教がやってきた。彼は事実、地球の果てに彼の信仰を届けたのだ。パトリックにとっても輝かしい瞬間だったに違いない。彼はアイルランドの地に新しい文明の種を播(ま)き終えたのだ。
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しかし、数百Km離れたアイルランド海の向う、ローマ帝国の属州だったブリタニアでは、事態は全く違った道を辿っていた。

完全武装した男たちが乗った3隻の船がブリテンの東海岸に到着した時、不吉な章が新たに始まっていた。ブリテンの歴史の中で初めてという訳ではないのだが、今回の混乱の張本人(troublemakers)は二、三人のデンマーク人を伴ったドイツ人たちだった。彼らはサクソンSaxons、アングロAngles、フリージアンFrisians、ジュートJutesだった。
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アイルランド人やピクト人と同じく邪教徒で戦いの部族で、彼らの土地はローマ帝国に征服されたことはなかった。彼らは傭兵としてブリテンに招かれていたのかも知れない。妙な話のように思うかもしれないが、ローマ軍には傭兵を使って防衛する伝統があったので、アイルランド人やピクト人との戦のために雇われた人々だったのかも知れない。問題は、ローマ帝国は傭兵に支払うだけのお金を持っていたが、5世紀の、経済崩壊していたブリテンにはそれが無かったことだ。暫くは上手くいっていたのだろう。しかし、十分な手当や食料の提供を得られなくなると、ドイツ人傭兵は直ぐに腕力に訴え、これが大惨事に繋がった。

歴史家ビードはこう書いている「彼らは、全ての町で略奪を始めた。暴動を止める手立てもないまま、火の手は、直ぐに、海から海まで広がった。人々は火や剣で殺された。キリスト教の司祭たちすらも惨殺された。」
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かなり短い期間で、彼らは昔はローマ属州だったブリタニアの東部と南部を陥落した。住民には彼らの暴挙を止める手段は何も残されていなかったのだ。ブリテンは自由だけではなく、母国語ブリソニック(?)を失うことになった。サクソンが占領した領地を刷新すると新しい地名が生まれた。Wessex,Sussex,Essex,Mersianなどだ。
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アングロ人は自分たちの新しい国家にも名前をつけた。Engra-land、つまりEnglandだ。新しい言語はEnglishと名付けた。

占領されたブリテン人は奴隷になってしまった。いくらかの人々はブリテンの西に逃げた。更に多くの人々は海峡を渡って大陸に逃げ、“偉大なイクソドスExodus(脱出記)”として知られることになる。彼らと共にローマの制度ともいえるキリスト教や、文字や、技術などの最後の痕跡はブリテンから消え去り、残されたものは戦好きで、邪教で、読み書きの伝統が無いサクソンの社会だった。
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サファカ(?地名)で復元されたアングロ・サクソン村は、暴力的な殺人者だと伝えられている人々とはとても異なるイメージを与えてくれる。地元民に溶け込んで現れた農耕民の定住地と言った方がいいかも知れない。
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学者たちは何年もの間、異なる2つの見方について論争している。しかし、最近の研究によれば、もっと複雑で不吉だったようだ。英国の歴史の中では最も不思議なことの一つだろう。
「アングロ・サクソンは狂騒的とも言える歴史的な大虐殺行為の民族だったのでしょうか?それとも農耕民的な、連続性を好む民族だったのでしょうか?」
マンチェスター大学ライアン博士「それは地域や、身分によって異なっていたと私は思います。エリートたちは略奪や殺戮も辞さない一方、普通の人々はそういう行為は好まず、ゆっくりとした変化を望んでいたのではないかと思います。」
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「言葉も文化も町の住民もいなくなり、英国は進歩から退却してしまったと思うんですが。」
「一部に残っていたのは間違いありませんが、大勢としては仰る通りです。ブリテンの文化や言葉は死んでしまいました。殺戮などの悲惨な思いを受けたのは事実ですが、ブリテンで生まれた人々は、アングロ・サクソンの生活様式や言葉を受け入れていったのです。そして何世代かすると自分たちもアングロ・サクソンであると考えるようになりました。」
「移住してきた人々の生活様式が受け入れられていったというのは少し妙な感じもありますが。」
「そう言うことも出来るでしょう。しかし、逆にブリテン人が変わったとも言えます。アングロ・サクソンの社会で暮らす以上、アングロ・サクソンのやり方や経済に倣(なら)う方が都合がよかったんです。」

元々のブリテン文化は、コーンウォールやウェールズやブリテンの北西部にしがみ付いて残っていた。
(mh:次の地図の赤い部分です。)
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例えば私の祖母の家族の言葉であるウェルシュ(ウェールズ語)は古代ブリテン語の一つのブリソニックの流れを汲む方言だ。

しかし、ブリタニア島はついにサクソンのものになってしまった。キリスト教や文明化の光を浴びたことがあるブリテンは今や、野蛮で邪教の暗黒の中に飛び込んでしまったのだ。
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しかし、アイルランドでは事態は逆だった。キリスト教は、かつての邪教の“冬の土地”アイルランドを変革していた。アイルランド人は新しい宗教を受け入れていた。初期の教会の隠者hermitたちは禁欲的な伝統に身を染めていた。グレンダロック(地名)の隠者ケヴィンは凍るように冷たい湖の中で神に祈りを捧げながら何時間もじっと立ち続けていたと言われている。
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彼は、湖の向うの崖に見えている小さな洞窟で何年も暮し、水の中で心を研ぎ澄ませながら神に祈りをささげ、夏になると鉄のベッドの上で寝たと伝えられている。
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このような過激で犠牲的な行為は、初期のキリスト教信者がよく行っていた。そしてある時、ケヴィンは洞窟での生活を打ち切り、谷を出て、修道院を造った。
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アイルランドの南東に位置するガンデロック修道院は、いくつかの木造の建物と十数人の献身的な賛同者と共に始まった。しかし、急速に拡大して、いくつかの建物が出来始めると、一帯は修道院の町と呼ばれるようになった。
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50年前には町も、道も、石の建物もなかった田舎のグレンダロックが大きな飛躍を遂げたのは驚きとしか言いようがない。グレンダロックのような集団社会は着実に国内に広がった。きっと、アイルランドは当時、世界で最も修道院が密集する国だっただろう。修道院は単に福音gospelを説教するだけではなく、技術や神学のための場所でもあった。近くには近代的な病院もあった。穀物倉庫や図書館もあった。ここにくれば最新の農業技術や、大きくて頑丈な家を造ることが出来る建築用材料のモルタルについても学ぶことが出来た。修道院をもつアイルランドは近代化の島だった。そしてアイルランドは世界を変えていく。
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修道院は、拡散しながら新たな進歩を社会にもたらしていった。アイルランドで最も古い修道院の一つのレンドゥランはストラングフォード・ロフ(Strangford Lough北アイルランドの東岸にある入り江)にある。
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パトリックがアイルランド島に上陸し、彼のミッションを始めた場所だ。最近、入り江Loughで、考古学者達は、修道僧たちがアイルランドの生活を急進的に改革した跡を発見した。
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シェフィールド大学モーランド博士「これが世界で最も古い潮力用の堰(せき)の跡です。西暦619年から621年にかけて造られました。技術そのものは単純ですが、驚くべきものです。」
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「修道僧たちは石や粘土や木材を使って、入り江を区切るダムを造ったんです。幅は6m、長さは110mで、粉ひき用の水車を据え付けました。満ち潮の時にダムの入口を閉め、引き潮になったら貯めていた水で水車を回転させて穀物やコーンなどを製粉し、修道院の食材にしていたんです。」
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「再生可能renewableエネルギーで、潮力を使った水車としては世界最古でしょう。修道院は単なる神聖な場所というだけではありませんでした。修道僧たちは最先端をいく技術を開発する仕事にも携わっていて、その技術を人々に伝える役目も負っていたんです。」
「私はキリスト教がなぜ、こんなにも広がったのか、人々に知られるようになったのかということについて懐疑的だったんですが、やっと今、分かったような気がします。キリスト教が経済的な活動を活性化し、新しい考えや新しい技術を取り入れる役目を果たしていたんですね。」
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「そうです。アイルランドと言えば、野蛮な部族が暮らす、田舎の、どこにでもある島だったと考えられがちですが、当時は、修道院のおかげで、イングランド島より恐らく50年、いや100年先を走っていたでしょう。」

しかし、アイルランドを本当に革新化することになるのは、別の形の技術だった。ローマの文明の神髄とも言えるものだ。
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今日、本や図書館は我々の文化の重要な一部だ。それらが無い時間を考えることは不可能だ。しかし、6世紀はそういう時だった。勿論、ローマ時代には本は沢山あった。数十の図書館が帝国中に散在していた。しかし、ローマが崩壊した後は、“図書館は墓のように、永遠に閉ざされてしまった”と歴史家が書き残している。もしアイルランドの修道院や修道僧たちが図書館を造らなかったら、西ヨーロッパにおける、学んだり書いたりする文化は根絶していただろう。

学ぶという変革を進めた中心は写本manuscriptだった。全ての修道院は、写本室を持つようになった。そこでは、新たに訓練された書家たちが毎日、本のコピーを作り続けていた。旧約聖書から新約聖書まで、あらゆる本をラテン語や古典ギリシャ語で書き写していた。
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古代の作品のほとんどは失われている。しかし、数十人の職業的な写本家scribeは今日も仕事を続けている。
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写本家ポール「これは羊皮紙で子牛calfの皮です。皮からこのようなシートを造るのには半年から1年が必要です。」
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「製造方法は1千年以上前と全く同じしょうか?」
「ほぼ間違いないでしょう。写本では、まず羊皮紙に文字を書くための線を定規や細い金属棒を使ってけがいていきます。」
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「書き写すのにはどのくらいの期間がかかりますか?つまり1日で何語くらい書き写せますか?」
「場合によります。写本をする時の湿度が問題です。湿度によってインクの流れや、羊皮の状態が変わるんです。湿度が高いと羊皮紙が反ってしまい作業が困難になるんです。アインゴール(?)インクを使うと、大気の酸素と化合するので、かなり黒い文字を羊皮紙の上に書くことが出来ます。羊皮紙の上で、段々、黒く変色していきます。鳥の羽のペンquillを使って書くのは金属ペンよりもかなり難しいですよ。あまり力を入れずに書くのがコツです。」
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「なるほど。しかし、体力的な仕事ですね。思っていたより疲れます。」
「仰る通りです。この作業を昔、修道院でやっていたら、手は凍えるし、湿度は高いし、明かりは乏しかっただろうし、羊皮紙は温度や湿度などの気候条件によって変化していただろうし、大変な作業だったはずです。鳥の羽ペンと羊皮紙の組合せは魔法としか言いようがないと思っています。」

この写本は“ストームマス(?)”として知られている。
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西暦700年にアイルランドの修道院で書かれた。1千2百年も前のものだとは信じられない美しさだ。
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私が手にしたなかで、最も古い本だ。ラテン語のマス(ミサ?)用の本で、意図的に小さく作られているのは宣教師たちが遠く離れた場所での集会や洗礼や病人を訪ねる時などに持っていき易いように配慮されたためだ。今でも、とても色彩豊かなのは、この本が数百年の間、アイルランドの城の壁の中に隠されていたからだ。数ページはダメージを受けているが、それでも読む上では何の支障がない程度のものだ。この本はアイルランド語で書かれた、世界でも最も古い写本の一例だ。病気で苦しんでいる人々のために読み上げられていた。

このような書物は記述された文字の力を持っていたに違いない。それは古代の知識を現代や未来に伝えるだけではなく、キリスト教を布教し、実践するのに役立った。そしてアイルランド語を新しい書物言語に育てていったのだ。
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アイルランドの修道院から生まれた社会的、文化的な改革は、爆発的な速さで国際的な広がりを持つことになった。

モーランド博士「アイルランド人が行った偉大な事の一つは、当時のヨーロッパ大陸との関係を良好に保ったことでした。大陸から、大勢の学者が訪れてきて、修道院で祈りや勉強をしました。大陸で修道院が充実してくると、こんどはアイルランド人が大陸を訪れ、指導したりもしました。」
「地球の端(はし)のようなアイルランドが突然、文化の重要拠点になったというのは驚きですね。」
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「その通りです。ローマ時代、世界の果ての、ローマ化されたことがなかったアイルランドは、決して知られることはありませんでした。しかし、キリスト教や、大西洋沿岸や北アフリカなどにおける修道院拡大運動のおかげで、世界の隅のアイルランドは突然、ヨーロッパにおける文化の、キリスト教布教の中心になったんです。」

アイルランドの僧侶や本はヨーロッパに流れ出し、数十のアイルランド系修道院が設立された。
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ラクセイルLuxeuilはフランスで最も重要で繁栄した修道院だ。イタリアのボビーオBobbioには中世において最も偉大な図書館も造られた。スイスのセント・ガレンSt Gallenにはユニークな書類が保存されている。
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ローマ崩壊以降、ヨーロッパで作られ、今も残っている唯一の建築計画図で、アイルランド人によって設立された近代的な修道院の青写真だ。
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アイルランドは新しいヨーロッパ文明の揺り籠になった。古代世界の知識を継承するだけでなく、それを新しい何かに変革した。修道院の文明は、ローマ帝国が成し遂げたように、世界の基礎を形成することになった。しかし、ローマ人が軍事力を使ったのに対し、アイルランド人は信仰や学習や発想力を通して文明を広げたのだ。

ヨーロッパは既に恩恵を感じていた。しかし紛争で荒廃したアイルランドの隣の島、将来のイングランド、スコットランド、は頑固にも邪教paganのままだった。
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やがてアイルランドのキリスト教は、最大の難題に立ち向かうことになる。新しい文明を野蛮なブリテンに持ち帰るのだ。
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How the Celts Saved Britain - 1of2 (BBC)- A New Civilisation (2009)
https://www.youtube.com/watch?v=FxzM_Y0cYJA
(完)
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